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「リベラリズムについて」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「リベラリズムについて」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月9日 枝の主日―大阪 公教要理
「リベラリズムについて」
親愛なる兄弟の皆さん、

私は今、英国の批評家G・K・チェスタトンのある本を読んでいるところです。彼はその本を約九十年前に書いたのですが、それにもかかわらず、この本は現代の問題を大変適切に扱っていますので、この本の中からいくつかの貴重な部分を皆さんにご紹介したいと思います。彼は、自分の時代のリベラリズム(自由主義)を非難しています。そして、この同じリベラリズムが、私たちの時代にはさらに悪くなっているのです。

リベラリズム(自由主義)は単に人間の自由を擁護しているだけだと考えている人々がいますが、そうではありません。リベラリズムとは、人間の自由を崇拝することなのです。リベラリズムとは、人間の自由を絶対的なものとすることであり、天主に依存せず、真理に依存せず、あらゆる法に依存しないほど人間の自由を絶対的なものとすることなのです。こうしてリベラリズムは、人間の自由を最高の存在、すなわち神とするのですが、それは偽りの天主、偶像です。これが、現代世界の偽りの神なのです。この偶像は新しいものではありません。実際、服従をすべて完全に拒否することは、「私はお仕えしない」(エレミア2章20節)という悪魔の反乱の叫びそのものです。チェスタトンが英国の宗教改革について述べたことは、この「現代の文化」に完全に当てはまります。「それは、人間の短気で横柄な欲求の帰結だったのであり、…とりわけ目に見えないかせによって束縛されることを…嫌ったのである」(The Thing)。

雑誌タイムの最近の号は、黒い背景に赤い文字の「Is Truth dead?[真理(真実)は死んだのか?]」というタイトルでした。それは、同じ雑誌の五十年前の号の、やはり同じ黒い背景に同じ赤い文字で書かれたタイトル「Is God dead?[天主は死んだのか?]」を彷彿とさせるものでした。どちらの号も、同じように、人間に対する偶像崇拝と天主の拒否の象徴なのです。この天主を拒否することの中には、天主から来るあらゆるものを拒否することも含まれています。あらゆる権威は天主から来る(ローマ13章1節参照)のであり、それゆえに現代人はあらゆる権威を拒否しているのです。真理とは、第一原因にして最高の真理である天主から来るのであり、それゆえに現代人は真理を拒否しているのです。現代人は、何であれ自分が信じたいことを信じる、あるいはむしろ全く何も信じない権利を主張します。結婚は天主によって制定されたものですから、それゆえに現代人は、離婚を促進させることによって、そしてあらゆる種類の「自由な結合」と罪深い生活、さらには自然に反する結合さえも促進させることによって、結婚を拒否しています。男と女という自然の区別を持つ私たちの人間の性質そのものは天主から来ていますから、それゆえに現代人はこれを拒否し、一人一人誰でも自分の性別を選ぶことができると言い張っていますが、これは最もばかげた主張です。そして、現代人が拒否していることのリストは延々と続きます。まことの芸術の拒否と、醜さの音楽、絵画、彫刻などへの侵入。家族の拒否と、拡大する子どもたちへの被害。キリストの王権の拒否、キリストの教会の拒否と、悪魔崇拝者のセクトさえも含むあらゆる宗教に権利があるとの主張、といったことです。

そんなことをすることによって、現代人は自分自身を破壊しているのです。このことは、「人間の権利」だという主張がなされている二つの現代の悪において明らかです。それらは妊娠中絶と安楽死であり、それと同時に自殺の増加があります。まことに「罪の払う報酬は死」(ローマ6章23節)なのです。罪は霊魂の死であり、体の死へと至ります。そして、まるで妊娠中絶と安楽死という事実がそれほど悪いものでないかのように、現代人はそのような忌まわしい罪を犯す「権利」、天主に背く権利を主張しているのです! 天主に背く権利などありはしません。天主はすべての善の最高の規範なのですから。

そこまで行くことはなくても、これらの現代の誤謬は、最も重要な人間の能力、すなわち精神の破壊へと至ります。実際、人類が他のすべての動物に優越しているのは、知性と自由意志を持ち、天主を知って天主を愛することのできる霊的な精神を与えられているからです。さて、知性が対象とするもの自体は真理です。もし真理がないならば、知性もないのです! 人間はもはや自分の知性にも理性にも支配されず、情欲に支配されます。人間は、こんにち非常に頻繁に見られるように、盲目的な情欲の奴隷になるのです。

知性の破壊がはっきり分かるのは、多くの人のもっている懐疑主義です。彼らは、人間の知性が―原理的に―天主についても、また人間についても、客観的な真理を見いだすことはできない、と考えています。この懐疑主義は精神の重い病気であり、それは、知性が天主を見いだす希望をあきらめて絶望することです。どの宗教も素晴らしく、誰もが自分の望む自分自身の宗教を選ぶ自由を持つべきであると主張すること、このことは暗黙のうちに、天主についての客観的な真理を知ることのできる能力があることを否定しているのです。そのような宗教の自由は本質的に懐疑主義的で、こんにちでは全く普通にみられることなのです。

現代社会の特徴の一つは、体や便利さ、レジャー、快楽に奉仕する現代の科学技術が発展していることです。さて、これは精神を肉体に奉仕させることです。これは逆さまであり、人間の内にある正しい秩序を完全に逆転させることです。私たちの体は霊魂に奉仕すべきであり、逆になるべきではありません。霊魂が体を支配すべきであって、それには、体が必要とするものを、適度に、理性的な程度に体に与えることが含まれます。しかし、体を霊魂の目的にすることは正しいことではなく、理性的ではありません。

現代のリベラリズムは、道徳の領域で最もはっきり分かります。それは、天主から来るであろう、いかなる道徳的規範も完全に拒否することです。他の人間に対するある種のあいまいな敬意以外には何の制限もなく、人が望むことなら何であれ、それができることを人間の権利だと主張します。私は「あいまいな」と言っていますが、それは彼らが、妊娠中絶のように、自分の足手まといになる人々を殺すことさえもためらわないからです。ですから、もし人が無垢な赤ん坊を殺すことができるとすれば、その人が犯さない罪はありません。

さて、私たちの主イエズス・キリストは私たちを罪から救うために来られました。そして非常に分かりやすい方法で、私たちが主の御受難を観想するこの御受難節において、私たちは主が私たちの霊魂を救うために御自分の体を犠牲としてお捧げになるという、まさにそのことを見るのです! 現代の私たちの悪に対して、主の犠牲以上に鮮烈な治療薬があるでしょうか。私たちの天主への服従の拒否を償うために、主はご自分を完全に捨て、聖パウロが言うように「自分自身を無とされた」(フィリッピ2章7節)のであり、そして聖パウロはこう続けます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。これは現代の罪の対極にあるものであり、これが私たち現代人への治療薬なのです。

しかし、人は言うかもしれません。私たちを救うために主がお苦しみになることは必要だったのだろうか、特に十字架の苦しみまでをも受けることが? ある意味では、苦しむことなく天主にお仕えすることができるというのは本当です。このことはすべての聖なる天使たちに起こったことです。天使たちは決して罪を犯さず、苦しむこともありませんでした。天使たちは自分たちが創造されたまさにそのときから、心を込めて天主に自分自身を捧げました。聖パウロが言うように、天主の御子が人間になることを天主が天使たちに告知なさったとき、天主はすべての天使たちに彼を礼拝するようにお命じになり(ヘブライ1章6節)、すべての良き天使たちは驚くべき信心と速さで、進んで自分自身をキリストへの奉仕に捧げました。そしてその完全な信心に対して、その天使たちにはたちまち報いが与えられ、苦しみを通ることなく天国へ行ったのです。その反対に、悪しき天使たちは、あまりにも完璧な悪と頑固さをもって反逆したため、たちまち永遠の地獄の火という有罪宣告を受けるにふさわしい者となったのです。

しかし、人間は罪を犯してしまいました。人類の始まりから、天主に対する人類の反逆が続いてきたのです。ですから罪があるがゆえに、償いが必要であり、犠牲が必要です。罪を全く犯さない者のみが、自分は苦しむべきではないと主張できたでしょう。しかし、絶対に罪のなかった者は、唯一人、私たちの主イエズス・キリストのみです。そして主は、まさに私たちの罪の償いをするために来られました。主の聖なる御母には無原罪の御宿りという特権が与えられ、天主の恩寵によってその最初の恩寵と完全に一致されたので、聖母にもまた罪はありません。しかし、聖母はまた、ご自分が新しいエバとして、贖いの神秘そのものにおいて、新しいアダムの助け手(創世記2章18節参照)となるべきだということを理解しておられたので、キリストの十字架[の苦しみ]を共に受けられたのです。しかし、私たちは誰も完全に無垢の状態ではありません。それゆえに、私たちは自分の罪の償いをするために、自分の十字架を担わなければならないのです。

さらに、救い主ご自身が十字架を担い、私たちのためにその十字架の上で亡くなられたのですから、私たちは主の犠牲に加わりたくないなどというほど薄情になることができるでしょうか? 私たちは主にこう言うべきです。「私がその十字架を担うべきです。あなたがそれを担われたのは、私の罪のせいだからです。私があなたの代わりにその十字架に釘付けられるべきです。私が罪びとなのですから」。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。これが、聖パウロが言うように、天国へと至る十字架の王道です。「私たちが天主の子である。私たちが子であるのなら世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章17節)。

さて、御受難は私たちの現代の病に対するまことの治療薬です。現代人は自由であることを望みましたが、罪の奴隷になりました。「あなたたちがある人に従うために、奴隷として自分の身をささげるなら、あなたたちは自分が従うその人の奴隷になることを知らないのか。罪に身をささげるのは死のためであり、従順であることは正義のためである」(ローマ6章16節)。その反対に、私たちがまことに自由になり、罪から自由になり、善を行うために自由になり、そして天主から自由になるのではなく悪魔から自由になるのは、天主への従順によって、天主の法に服従することによってなのです。

簡単な例え話をすれば、それを理解する助けになるでしょう。飛行機を見てみましょう。飛行機はパイロットが望むところならどこへでも飛んでいく自由がありますが、その理由は飛行機が空気力学の法則に従うからです。もし飛行機が空気力学の法則に従わなかったとしたら、飛行機はただ破滅にいたるだけです! これは、飛行機にその自由を与える自然に対して天主が定められた法則に従うからです。同様に、コンピュータのプログラマーは、自分が望むものをそのようにプログラムする自由がありますが、それはプログラミングの法則に従っている限りにおいてであって、その法則は究極的には天主の定められた電気の法則なのです。プログラマーがその法則に従わなかったとしたら、バグがあって彼のプログラムは破滅に至ります。天主の法(法則)に従うことによってまことの自由が与えられ、従わないと破滅へと至るのです。

聖アウグスティノは、次のように私たちに教えてくれます。私たちは自分自身をごまかしてはなりません。天主の法から逃れることは不可能です。私たちは法の命じることを行って、天主の法に従って報いを受けることになるか、あるいは、法の命じることを行わず、やはり天主の法に従って罰を受けることになるかのどちらかです。私たちは逃れることができません! 天主は全能の創造主であって、われわれはちっぽけな被造物に過ぎないがゆえに、私たちは天主から逃れることができません。天主が善であって、悪に対して最終決定権をお与えにならないがゆえに、私たちは天主から逃れることができません。

私たちは、私たちが天主に従順であることは善であると確信する必要があります。天主は、ご自分の力をより大きくするために何かをお命じになることはありません。天主はすでに最高のお方であって、天主がいまだお持ちでなく私たちが天主に差し上げることのできるようなものは何もありません。天主は私たちに、私たちにとって善いことをお命じになります。天主の栄光のために生きることは私たちにとって善いことです。私たちが永遠の幸せを見いだせるのは、天主においてのみです。聖アウグスティノは美しく言います。「御身はわれらを御身のために造り給うた。主よ、われらの心は御身において憩うまで、憩うことなし!」。天主は最高の真理であって、その真理を観想することは私たちの知性を完全に喜ばせます。天主は最高の愛であって、その愛の火は私たちの意志を完全に喜ばせます。それについて聖パウロはこう言います。「実に私たちの天主は焼き尽くす火である」(ヘブライ12章29節、第二法4章24節参照)。ですから、天主に従順であることは私たちにとって本当に善なのであり、天主から離れることは私たちにとって悲劇、本当の悪であるのです。私たちは、私たちの主イエズス・キリストによって、私たちの主イエズス・キリストの十字架を通して、天主に立ち戻るのです。

「はじめにみ言葉があった。…かれに生命があり、生命は人の光であった。…私は世の光である。私に従う人は闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ1章1、4節、8章12節)。聖アウグスティノが説明するように、私たちの主イエズス・キリストは物理的な光ではなく、むしろ霊的な光、すなわち私たちの知性を照らす真理です。「あなたの光において、われらは光を見る」(詩篇35章10節)。私たちの精神は天主の光で満たされ、聖ヨハネが言うように、私たちは顔と顔を合わせて天主を見る(ヨハネ第一3章2節)のです。このように、私たちの主イエズス・キリストは、あらゆる懐疑主義に対する治療薬なのです。主は私たちに、確証をもって、天主なる御父についてのまことの知識をお与えになります。「すべてのものは、父から私に任されました。子が何者かを知っているのは父のほかにはなく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。

この世において、私たちの主イエズス・キリストは十字架という燭台に置かれた光です。「ともしびをともして、器で覆ったり寝台の下に置いたりはしない。入ってくる人にその光が見えるように燭台の上に置く」(ルカ8章16節)。十字架において、私たちは、天主の御子に大変な犠牲を負わせた罪という悪を見るのです。十字架において、私たちは、そのような深い償いの必要があった罪というものによって大変侮辱された天主の聖性を見るのです。十字架において、私たちは、奴隷を贖うために御子を渡された天主の御あわれみを見るのです。十字架において、私たちは、私たちの罪による罰を御自分で背負われた私たちの主イエズス・キリストの私たちへの愛を見るのです。十字架において、私たちは、快楽や富、身勝手を愛する気持ちから癒やされるのです。十字架において、私たちは、罪の奴隷の状態から自由になり、天主の子となるのです。

親愛なる兄弟の皆さん、この聖週間に、私たちの主イエズス・キリストがまことに私たちの精神の光、私たちの生活全体の光でいてくださるよう主の恩寵を願いましょう。そうすることで、私たちが聖母と諸聖人と共に、天国へ至る王道である主の道、すなわち十字架の道を歩むことができますように! アーメン。

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