アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
次のようなご報告をいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
5月には、シュテーリン神父様が来日されます。特に、秋田巡礼を一緒にされ、その後大阪と東京でミサをされます。シュテーリン神父様はファチマの聖母について、その重要性について、お話をされます。
どうぞ、この5月のシュテーリン神父様のミサ聖祭には多くの方々に来ていただきたいと願っています。特別の機会です。
シュテーリン神父様から、生の声で、ミサ聖祭でファチマの聖母についてのお話を聞いて下さい。聖伝のミサで、ファチマの聖母を敬って下さい!
多くの皆様が聖伝のミサに与ることが出来るように、どうぞ特別の取り計らいなさいますように、お願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ご復活の主日に聖伝の御ミサに与ることができ光栄です!
神父様のお説教で、あらためてご復活の喜びについて黙想することができました。
聖主のご受難の一つひとつの出来事は、その全てが予め予言者や旧約聖書を通して知らされており、天の神の御計画通りだったこと。
その日がユダヤ人にとって過ぎ越しの日で、キリストは人々の罪の贖いのための子羊として屠られたということ。
このこと全ては、季節の最も明るい日のうちに行われたということでした。
天主の御業を、最大限の明るさでわたしたちに『見よ』と示したように感じました。
逃れた弟子たちは恐れと悲しみと失望の暗闇の中にあり、
復活することを明言していたが誰もそれを信じるものはなかったと。
しかし、聖書の預言は成就され三日目に天主は自らの御力で復活されました。
決して認めたくない、信じたくない人々が策を講じて亡きものとしたことが、逆に認めざるをえないきっかけを作ったのだということでした。
現代はイエズス・キリストを拒否しキリストの無い喜びを作ろうとしている。
マスコミが、社会が、全世界がキリストを否定してもご復活がそうであったようにキリスト・イエズスは必ず勝利するということ。
まるでもうキリストは死んだ、と思われたその次の瞬間、救いが現れるのだとおっしゃいました。
また、どんなことが起こったとしてもすべては全知全能の天主様が許されたことで意味のある事。
この大切なことを改めて心に深く刻もうと思いました。
この世は、事実を事実として認めるか、拒否するかの二つに分かれると神父様はおっしゃいました。
主イエズス・キリストがご自身を与え尽くして建てられた教会は無限の喜びを伝え与えて下さいます。
この喜びは天主キリストの死という極限の暗闇を飲み込むほどのものであるということでした。
これこそが『喜びの動機』なのでしょうか。
十字架上で許され改心と救霊の恵みに与った善き盗賊のように真の救い主を認め、救霊を求めること。
そこには秘訣があると神父様はおっしゃいました。
それこそが死の間際に私どもに天主様が与えてくださった最高の宝、御母聖母マリア様。
天主イエズス・キリスト様に常に習い、わたしたちの苦しみをすべて捧げつくすこと。
それを支えて助けてくださる御方がいることを本当に幸せだと感じました。
デオ・グラチアス!!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
フォルティン神父様が大阪で挙げて下さった御ミサの報告をお送りいたします。
4月24(月)殉教者聖フィデリス、25(火)福音史家聖マルコ、26日(水)教皇殉教者聖クレトと聖マルチェリノ
三日間を通して、22人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!
月曜日と火曜日には、御ミサ後に神父様とご一緒に終課も唱えました。
Te lucis , In manus の御復活節のトーンには喜ばしい雰囲気が溢れていて、最初はたどたどしかった信徒も段々と慣れて、上手に歌えるようになったと思います。日本の聖母の汚れなき御心聖堂で終課が出来ることはとても嬉しいことです。
火曜日には御ミサ前に、フォルティン神父様が紫のカッパをおつけになって祈願祭の諸聖人の連祷をグレゴリオ聖歌で先唱して下さいました。
フォルティン神父様の澄んだ美しい歌声には深い祈りが感じられ、皆大絶賛でした。
ファチマ100周年の今年、神父様と一緒に教会の祈りとして祈願祭の連祷を唱えることが出来た事は大きな意味があるように思います。
ご親切で謙遜なフォルティン神父様を、天主様が報いてくださいますように、
マリア様がお守りくださいますようにお祈りいたします。
至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
マリア様と共に居たからこそ十字架のもとに立ち留まる事ができた聖ヨハネ様に倣って、私たちも、天主様がお許しになられた送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様の聖心の愛の動機、天主を愛する愛、聖父を愛する為に霊魂を救うという聖なる喜び、希望を以て、堪忍、忍耐してお捧げする事ができますように!
かなりご報告が遅くなってしまったのですが、小野田神父様が福音史家聖ヨハネ様の公教要理の時に、「聖ヨハネの福音書には、側近の者でしか知ることのできない、イエズス様の細かい様子や心の動きを書いている部分があるので、是非探してみて下さい」という事を仰って下さったので、探してみました。
◎ラザロの復活
「イエズスは、彼女がすすり泣き、ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し、心を騒がせられ、『彼をどこに納めたのか』と言われた。」(11:33)
「イエズスは涙を流された。」(11:35)
「その中のある人は、『あの盲人の目をあけた人でも、彼が死なぬようにはできなかったのだろうか』と言った。イエズスはまた感動された。」(11:37)
◎最後の晩餐
「過越の祭の前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された。」(13:1)
「イエズスはこう話してから、心中憂いながら、『まことにまことに私は言う。あなたたちの一人が私をわたすだろう』と宣言された。」(13:21)
確かに、ラザロの復活の奇跡の話も、近くで見た者でしか分からないようなイエズス様の様子が記してありますし、最後の晩餐の話も、他の福音史家はイエズス様が仰った事のみを書いていますが、ヨハネ福音書にはイエズス様の細かな心の動きが書いてありました。
《分からなかったところ》
もし、公教要理の時に仰って下さっていて、私が聞き漏らしていただけなら本当に申し訳ないのですが、どうして聖ヨハネ様は「鷹」で例えられたのでしょうか?
今までの傾向から、それぞれの福音史家の第1章がどのような話で始まっているかによって表わされているような感じなのですが、ヨハネ様の第1章を読んでも何故鷹なのかが分かりませんでした、、、(;_;)
お手数ですが、またお時間ありますときに御指導をよろしくお願い致しますm(_ _)m
デオ・グラチアス!アレルヤ!
【お返事】
聖ヨハネは「鷲」(aquila, aigle, eagle, αετός, 독수리, 鹰)に例えられています。(中国語では、鷲も鷹も「鷹」と言うそうです。)何故なら、鷲は鳥の中で一番天高く舞い上がることが出来る一つですが、聖ヨハネの福音はその最初から、天高く舞い上がり天主の観想に入るからです。
「はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。」
「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。しかし、かれをうけいれた人々には、みな、天主の子となれる能力をさずけた。そのみ名を信じるすべての人たち、それは、血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である。」
「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」
「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。天主を見た人は一人もいない。おん父のふところにおいでになるおん独子の天主が、これをお示しになった。」
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
フォルティン神父様が大阪で3日間も御ミサを御捧げ下さるようになってとても嬉しく思います!マリア様は早速5月分の御ミサをお返しして下さいました!天主様に感謝!マリア様の汚れなき御心に感謝!ヨゼフ様に感謝!
ブログの御説教の記事に、宝石の付いた十字架の写真をアップして下さってありがとうございます!あの素晴らしい十字架を見ると、なるほど確かに、栄光の十字架を隠すために、勝利のしるしである十字架を隠すために、御受難節には紫の布を被せるのだという意味がよく分かりました!
残念ながら最近ではあのような宝石で飾られた十字架自体があまり見られませんので、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の十字架は宝石で飾られていてきれいだなぁと思います!(o^^o)
私たちを慰め、私たちに喜びを与えるが為に復活して下さったイエズス様を、もうこれからは決して離れることがないように、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみを、マリア様と共に、これをお捧げする事ができますように!教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事ができますように!
デオ・グラチアス!アレルヤ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
次のようなご報告をいただきましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
5月には、シュテーリン神父様が来日されます。特に、秋田巡礼を一緒にされ、その後大阪と東京でミサをされます。シュテーリン神父様はファチマの聖母について、その重要性について、お話をされます。
どうぞ、この5月のシュテーリン神父様のミサ聖祭には多くの方々に来ていただきたいと願っています。特別の機会です。
シュテーリン神父様から、生の声で、ミサ聖祭でファチマの聖母についてのお話を聞いて下さい。聖伝のミサで、ファチマの聖母を敬って下さい!
多くの皆様が聖伝のミサに与ることが出来るように、どうぞ特別の取り計らいなさいますように、お願いいたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
ご復活の主日に聖伝の御ミサに与ることができ光栄です!
神父様のお説教で、あらためてご復活の喜びについて黙想することができました。
聖主のご受難の一つひとつの出来事は、その全てが予め予言者や旧約聖書を通して知らされており、天の神の御計画通りだったこと。
その日がユダヤ人にとって過ぎ越しの日で、キリストは人々の罪の贖いのための子羊として屠られたということ。
このこと全ては、季節の最も明るい日のうちに行われたということでした。
天主の御業を、最大限の明るさでわたしたちに『見よ』と示したように感じました。
逃れた弟子たちは恐れと悲しみと失望の暗闇の中にあり、
復活することを明言していたが誰もそれを信じるものはなかったと。
しかし、聖書の預言は成就され三日目に天主は自らの御力で復活されました。
決して認めたくない、信じたくない人々が策を講じて亡きものとしたことが、逆に認めざるをえないきっかけを作ったのだということでした。
現代はイエズス・キリストを拒否しキリストの無い喜びを作ろうとしている。
マスコミが、社会が、全世界がキリストを否定してもご復活がそうであったようにキリスト・イエズスは必ず勝利するということ。
まるでもうキリストは死んだ、と思われたその次の瞬間、救いが現れるのだとおっしゃいました。
また、どんなことが起こったとしてもすべては全知全能の天主様が許されたことで意味のある事。
この大切なことを改めて心に深く刻もうと思いました。
この世は、事実を事実として認めるか、拒否するかの二つに分かれると神父様はおっしゃいました。
主イエズス・キリストがご自身を与え尽くして建てられた教会は無限の喜びを伝え与えて下さいます。
この喜びは天主キリストの死という極限の暗闇を飲み込むほどのものであるということでした。
これこそが『喜びの動機』なのでしょうか。
十字架上で許され改心と救霊の恵みに与った善き盗賊のように真の救い主を認め、救霊を求めること。
そこには秘訣があると神父様はおっしゃいました。
それこそが死の間際に私どもに天主様が与えてくださった最高の宝、御母聖母マリア様。
天主イエズス・キリスト様に常に習い、わたしたちの苦しみをすべて捧げつくすこと。
それを支えて助けてくださる御方がいることを本当に幸せだと感じました。
デオ・グラチアス!!
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
フォルティン神父様が大阪で挙げて下さった御ミサの報告をお送りいたします。
4月24(月)殉教者聖フィデリス、25(火)福音史家聖マルコ、26日(水)教皇殉教者聖クレトと聖マルチェリノ
三日間を通して、22人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!
月曜日と火曜日には、御ミサ後に神父様とご一緒に終課も唱えました。
Te lucis , In manus の御復活節のトーンには喜ばしい雰囲気が溢れていて、最初はたどたどしかった信徒も段々と慣れて、上手に歌えるようになったと思います。日本の聖母の汚れなき御心聖堂で終課が出来ることはとても嬉しいことです。
火曜日には御ミサ前に、フォルティン神父様が紫のカッパをおつけになって祈願祭の諸聖人の連祷をグレゴリオ聖歌で先唱して下さいました。
フォルティン神父様の澄んだ美しい歌声には深い祈りが感じられ、皆大絶賛でした。
ファチマ100周年の今年、神父様と一緒に教会の祈りとして祈願祭の連祷を唱えることが出来た事は大きな意味があるように思います。
ご親切で謙遜なフォルティン神父様を、天主様が報いてくださいますように、
マリア様がお守りくださいますようにお祈りいたします。
至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
マリア様と共に居たからこそ十字架のもとに立ち留まる事ができた聖ヨハネ様に倣って、私たちも、天主様がお許しになられた送られた苦しみを、十字架を、イエズス様とマリア様の聖心の愛の動機、天主を愛する愛、聖父を愛する為に霊魂を救うという聖なる喜び、希望を以て、堪忍、忍耐してお捧げする事ができますように!
かなりご報告が遅くなってしまったのですが、小野田神父様が福音史家聖ヨハネ様の公教要理の時に、「聖ヨハネの福音書には、側近の者でしか知ることのできない、イエズス様の細かい様子や心の動きを書いている部分があるので、是非探してみて下さい」という事を仰って下さったので、探してみました。
◎ラザロの復活
「イエズスは、彼女がすすり泣き、ともに来たユダヤ人たちも泣いているのを見て感動し、心を騒がせられ、『彼をどこに納めたのか』と言われた。」(11:33)
「イエズスは涙を流された。」(11:35)
「その中のある人は、『あの盲人の目をあけた人でも、彼が死なぬようにはできなかったのだろうか』と言った。イエズスはまた感動された。」(11:37)
◎最後の晩餐
「過越の祭の前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された。」(13:1)
「イエズスはこう話してから、心中憂いながら、『まことにまことに私は言う。あなたたちの一人が私をわたすだろう』と宣言された。」(13:21)
確かに、ラザロの復活の奇跡の話も、近くで見た者でしか分からないようなイエズス様の様子が記してありますし、最後の晩餐の話も、他の福音史家はイエズス様が仰った事のみを書いていますが、ヨハネ福音書にはイエズス様の細かな心の動きが書いてありました。
《分からなかったところ》
もし、公教要理の時に仰って下さっていて、私が聞き漏らしていただけなら本当に申し訳ないのですが、どうして聖ヨハネ様は「鷹」で例えられたのでしょうか?
今までの傾向から、それぞれの福音史家の第1章がどのような話で始まっているかによって表わされているような感じなのですが、ヨハネ様の第1章を読んでも何故鷹なのかが分かりませんでした、、、(;_;)
お手数ですが、またお時間ありますときに御指導をよろしくお願い致しますm(_ _)m
デオ・グラチアス!アレルヤ!
【お返事】
聖ヨハネは「鷲」(aquila, aigle, eagle, αετός, 독수리, 鹰)に例えられています。(中国語では、鷲も鷹も「鷹」と言うそうです。)何故なら、鷲は鳥の中で一番天高く舞い上がることが出来る一つですが、聖ヨハネの福音はその最初から、天高く舞い上がり天主の観想に入るからです。
「はじめにみことばがあった。みことばは天主とともにあった。みことばは天主であった。かれは、はじめに天主とともにあり、万物はかれによってつくられた。つくられた物のうちに、一つとしてかれによらずにつくられたものはない。かれに生命があり、生命は人の光であった。光はやみに輝いたが、やみはかれを悟らなかった。」
「すべての人をてらすまことの光は、この世に来ようとしていた。かれは世にあり、世はかれによってつくられたが、世はかれを知らなかった。かれは、ご自分の家に来られたが、その人々はうけいれなかった。しかし、かれをうけいれた人々には、みな、天主の子となれる能力をさずけた。そのみ名を信じるすべての人たち、それは、血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ天主によって生まれた人々である。」
「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」
「そうだ、私たちは、そのみちあふれるところから、恩寵に次ぐ恩寵をうけた。なぜなら、律法はモイゼを通じて与えられたが、恩寵と真理とは、イエズス・キリストによって私たちの上に来たからである。天主を見た人は一人もいない。おん父のふところにおいでになるおん独子の天主が、これをお示しになった。」
【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
フォルティン神父様が大阪で3日間も御ミサを御捧げ下さるようになってとても嬉しく思います!マリア様は早速5月分の御ミサをお返しして下さいました!天主様に感謝!マリア様の汚れなき御心に感謝!ヨゼフ様に感謝!
ブログの御説教の記事に、宝石の付いた十字架の写真をアップして下さってありがとうございます!あの素晴らしい十字架を見ると、なるほど確かに、栄光の十字架を隠すために、勝利のしるしである十字架を隠すために、御受難節には紫の布を被せるのだという意味がよく分かりました!
残念ながら最近ではあのような宝石で飾られた十字架自体があまり見られませんので、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の十字架は宝石で飾られていてきれいだなぁと思います!(o^^o)
私たちを慰め、私たちに喜びを与えるが為に復活して下さったイエズス様を、もうこれからは決して離れることがないように、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみを、マリア様と共に、これをお捧げする事ができますように!教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事ができますように!
デオ・グラチアス!アレルヤ!