アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年4月16日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年4月16日(主日) 復活祭のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年4月16日、私たちの主イエズス・キリストの復活の主日、大祝日をお祝いしています。
今日このミサでは、特別の祝日ですので、序誦はより荘厳の序誦を歌いたいと思っています。
今日、御聖体拝領の後の感謝の祈りの後に、いつもの終課のお祈りをします。もしも時間がある方は終課を一緒に歌っていって下さい。
明日は朝の6時30分から復活の月曜日のミサがあります。
来月は秋田の巡礼の直後、初金・初土にここでミサがあります。シュテーリン神父様と一緒に参ります。
「お前たちが探している、十字架に付けられたキリストは復活した。もはやここにはいない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主イエズス様の、イエズス・キリストの御復活の大祝日で、教会は喜びに満たされています。1年の中で復活祭ほど喜びに、荘厳な喜びに満ちた日はありません。
ではこの復活祭に、一体なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何なのかを黙想する事に致しましょう。
この喜びの動機を黙想した後に、では一体私たちはこれからどんな遷善の決心を立てるべきか、これからどうやって、今日の復活祭の後からはどうやって生活していかなければならないか、本当の喜びを生き続ける為にどうしなければならないのかを黙想する事にしましょう。
第1の点は、私たちの喜びの動機です。
教会は既に、お告げの祈りをアレルヤの祈りに変えました、「天の元后喜び給え、アレルヤ。」今まで歌われていなかった、「主に讃美」という“アレルヤ”という言葉も使い出しました。そしてこの喜びに満ちたミサを捧げています。今までは紫の覆いで被されていた栄光の十字架も、聖金曜日に荘厳に取ったばかりでなく、教会は、聖金曜日のあの苦しみから一転して、喜びと栄光に満ちたミサを捧げています。
一体何故なのでしょうか?
何故ならば、イエズス・キリストは、十字架に付けられた私たちが探しているイエズス・キリストは、本当に復活したからです。これは疑いのない歴史的な事実です、真理です。
何故そういう事が言えるのでしょうか?
イエズス・キリスト様はまず鞭打たれました。聖金曜日に大量の血を流して、残酷な拷問を受けました。もしもイエズス様が普通の人だったら、たとえ体力があった男だったとしても、もうそこで、十字架に付けられる前に鞭打たれただけで力尽くし、息絶えだえにしてもう息を引き取っていた事に違いありません。しかしイエズス様は天主の力を以て十字架を、重い十字架を担ぎました。茨の冠を被せられながら、傷だらけの体で、血をボタボタと垂らしながら歩みました。何も食べていませんでした。力はほとんど尽きていました。何度も十字架の重さに耐えずして倒れてしまいました。脳震盪を起こしていたかもしれません。しかしイエズス様は十字架を担い、カルワリオの上に磔にされました、釘付けにされました。3時間に渡る十字架での飢え、渇きと、苦しみと、痛みの中に、イエズス様は遂に息を引き取りました。
普通の人でしたら、その前にとっくに体力を尽くしてしまって死んでいた事でしょう。イエズス様はその最後の最後まで、その苦しみを耐え忍びました。それは聖書が全て成就する為でした。イエズス様の、天主の子羊の骨は1本も折られませんでした。
このように、イエズス様が確かに亡くなったという事は、ローマの兵士が確認しています。心臓が槍で貫かれました。心臓がパカリと開いて、そこから水と血が出ました。もはや死亡したという事です。そして母親が見ている前で、母親がそのイエズス様の亡骸を抱いて、確かに亡くなったという事を確認します。そして墓に葬られました。
これ以後、普通の人でしたらガバリと起き上がって歩き出す事はありません。イエズス様は新しい墓に葬られて、大きな石をその蓋に付けられました。一人ではとても動かす事ができない物でした。
イエズス様だけではありません。ユダヤの最高の当局が、イエズス様の墓を守る為に最高の警備を行っていました。ローマの兵士を付けていました。その当時は、ユダヤの宗教の最高の権威もそれを警戒していました。
過ぎ越しの夜というのは満月の夜で、一年の内に一番夜が明るい日でした。その日に誰も、密かに何かを仕業をするという事は一切できません。しかもイエズス様が十字架に付けられて亡くなったその夕方、ユダヤ人たちは過ぎ越しの子羊を屠り、そしてその安息日に入る為に全ての仕事を終えていました。イエズス様の葬りさえも完壁にする事もできなかったほどでした。全ては早々と進められて、そして安息日、聖土曜日には誰も動かずにひっそりとしていました。
弟子たちはといえば、「もはやこれで師を、指導者を失った。あれほど力がある方だったのに。しかしもうこれで万事休すだ。こんな事があってはもう何もできない。」散り散りばらばらになり、そして使徒たちはイエズス様を捨てて、隠れて、ひっそりとがっくりとして恐れおののいていました。
「イエズス様は必ず復活するだろう」と「必ず復活する」と確信していたのはただ唯一、マリア様だけでした。この女性一人で一体何ができたでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様が復活する事を知り、それを信じていました。
他の人は、全世界は暗闇の中にいました。イエズス・キリストの復活などを思う人も考える人もいませんでした。「全てはこれで終わった。もうイエズス・キリストというのはこれでもう亡き者となった。」ユダヤ当局もローマ当局も、そして民衆も、皆そう信じ込んでいました。
その時に、イエズス・キリスト様は御自分の力で、御一人で、天主の力を以て、墓を砕きよみがえり、そしてまず御母マリア様の元に現われました、「確かに復活した。」
今日復活の主日、1週間の最初のこの朝まだきに、婦人たちがイエズス様にまだし残してしまった葬りの、その香油を没薬を何とかしようと墓に行ったときに、墓は空っぽでした。ローマ兵もいませんでした。
天使を見ました。「イエズス・キリストは、お前たちが今探しているイエズス・キリスト、十字架に付けれたイエズス・キリストは復活した。もうここにはいない。さぁ行け、弟子たちに告げなさい。」
イエズス・キリスト様は真に復活したが為に、そしてそれを見たが為に、弟子たちは信じました。その反対ではありません。イエズス様が復活するだろうと思っていたから、その信仰があったからそういうふうに誤解したのではありません。事実は全くその反対です。
イエズス様が復活したのを見たので、その手に触ったので、イエズス様に、復活したイエズス様に食べ物を与えてそれを食べるの見たので、何度も、復活されてその事実を確認したので、あれほど信じなかった弟子たちも、あれほど無信仰だった逃げていた弟子たちも、力を持って勇気を持って、「確かに、イエズス・キリストこそ真の天主だ」と信じたのでした。
本当ならばユダヤ当局もローマ当局も、「これでイエズス・キリストの話は一切終わりだ」と思ったその瞬間、歴史が全く逆の方に動いたのでした。イエズス・キリストこそが歴史の中心になったのです。
つまりこの世は2つに分かれるという事です。イエズス・キリストが真に復活して、本当の天主であり、この世の創り主であり、真の救世主であるという事実を認めるか、或いはあくまでも拒否するか、この2つに分かれてしまったのです。
拒否しようとしている人たちは、何とかしてそれを無きものにしようとして最大の力を尽くしますが、まさにそのイエズス・キリストを亡き者としようとして、しようとすればするほど、イエズス・キリストが真の天主であったという証拠になってしまったのです。
悪意がそれが大きければ大きいほど、それが却ってイエズス・キリストが真の天主であるという事を証拠立てる、もう疑い得ないしるしとなってしまいました。ローマ兵士にしても、槍で貫かれた事にしても、鞭打ちにしても、全てがそうです。イエズス・キリストを亡き者に、反対した者が却って、イエズス・キリストの利益となったという事です。
遂には全世界は、「イエズス・キリストこそが真の救い主である。」ローマ帝国の回心、或いはヨーロッパの回心が続きました。
イエズス様のこの真の信仰は、私たちの心にも伝わりました。愛する兄弟の皆さん、私たちが求めているイエズス・キリストは、十字架に付けられたイエズス・キリストは、今日、今朝、本当に復活しました。これは歴史の事実です。誰もこれを否定する事ができません。否定しようとすれば否定しようとするほど、ますますそれが本当であると証明されてしまうからです。
ですから私たちの喜びと、私たちの幸せと、私たちの今のこの喜び踊りたいというこの歓喜は、真実に基づいていると言わなければなりません。
この世の中では色々な喜びありますが、多くは薄っぺらい約束や、或いは儚い一時的な喜びに過ぎません。しかし教会が私たちに伝えようとする喜びは、本当の喜びであって、決して消え失うせる事ができない、永遠に続く、無限の終わりのない、限りのない喜びを私たちに伝えようとしています。
十字架の、聖金曜日のあのイエズス様の辱しめ、苦しみ、痛み、死刑は、今や無限の喜びと、歓喜と、幸せに変わりました。永遠の命によって、死の苦しみと、辱しめと、痛み、悲しみは飲み込まれてしまいました。
教会はですから、「この1年の中に、この復活祭こそ最も荘厳に、最も喜びを込めて祝おう」と私たちに招いています。
特に今回皆さんに黙想を提案したいのは、「イエズス様に反対しよう」と悪意を持っていたとしても、全世界がそれを、イエズス・キリストに反対していたとしても、「イエズス様にとって全く何の影響も及ぼさない」という事です。
2017年4月16日の日本に住む私たちにとって全く同じです。私たちの周囲は、イエズス・キリストの無い平和、イエズス・キリストの無い社会、イエズス・キリストの無い喜び、イエズス・キリストを排除した世界を作ろうとしているかもしれません。イエズス・キリストを私たちの中からなるべく取り除こうと、殺させてしまおうと思っているかもしれません。その為にマスメディアはイエズス・キリストの無い話しをたくさんします。映画もそうです。或いは学校でもそうかもしれません。或いは政府もそうかもしれません。或いは国際社会がそうかもしれません。しかしイエズス・キリストは、たとえ全世界がイエズス様の復活を否定したとしても、最後には勝利者となります。イエズス・キリスト様は最後には、どうしても「イエズス・キリストこそが私たちの救い主であって、天主であって、贖い主である」という事を認めざるを得なくなるようにされます。
それはイエズス様にとって簡単な事です。たとえイエズス様が全くこの世から無くなったと見えたとしても、アッというすぐその瞬間に、すぐ翌日に、あっという間に状況が変わる事があります。
それは私たちについても同じです。私たちはもしかしたら、「カトリック信者である、聖伝のカトリック信仰を守っている」と、或いはイエズス・キリストの為にはこれをする事ができない、或いは、という為に、もしかしたら世間体や、或いは「他の人から何を言われるか」と、もしかしたら恐れおののいているかもしれません。
何も心配しないでください。たとえ全世界が、マスメディアが、インターネットが、国際社会が、イエズス様を否定したとしても、私たちは何も恐れる必要はありません。イエズス様は必ず勝利者となるからです。イエズス様の反対したという事で一時的には勝利を収めたと見えたとしても、却ってそれがやっかいものになって、却ってそれが辱しめの元となる事でしょう。「あぁ、あの時、みんなと一緒になってああしなければ良かった」と後悔するに違いありません。「イエズス様と留まっていれば良かった、イエズス様を何で反対してしまったのだろうか」と。
愛する兄弟の皆さん、では私たちは今日どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?それは3つあります。
1つは、「イエズス様が真に天主である」という事を確認する事です。「私たちの本当の救い主であって、この方以外私たちを救う方はいない。イエズス・キリスト以外に救世主、真の天主はいない。イエズス・キリストだけが私たちに、永遠の命と救いを与える事ができる」という事です。天主の御父の永遠の昔からの計画はこれです、「全てを、イエズス・キリストの元に集める。」イエズス・キリストのいない世界は有り得ません。ですからそれを確認するという事です。
第2は、「私たちはイエズス・キリスト様を信じる。信者だ」と言いつつも、残念ながら何度イエズス様を侮辱してきた事でしょうか。イエズス様を罪を犯す事によって否んでしまった事でしょうか。或いは世間体によって、或いは臆病によって、或いは卑怯によって、或いは怠慢によって、或いは私たちの弱さによって、イエズス様を却って、「十字架に付けよ!十字架に付けよ!」と言ってしまったのではないでしょうか。或いはそのような事を言っている人たちに対して、私たちは何もする事なく口を閉ざしていただけかもしれません。私たちはイエズス様を前に、どれほど悲しみを与えてしまった事でしょうか。
しかしそのような私たちに対してでさえも、今日イエズス様は、「同じ栄光を与えよう」と、あの「同じ無限の喜びを与えよう」と、今日復活されました。イエズス様が復活されたのはまさに、この私たちを慰め、私たちに喜びを与える為だけです。その為にのみ復活されました。
見て下さい、たとえ使徒と選ばれたとしても、イエズス様を裏切ったユダと、たとえ泥棒を繰り返して、本当に罪を犯したが為に十字架に付けられたディスマスの運命の違いを。イエズス様を皆の前で認めて、そしてイエズス様に祈り、自分の苦しみを償いとして捧げたこのディスマスには、永遠の喜びが与えられました。「汝、今日我と共に楽園にあらん」と。ですから私たちもイエズス様の元に駆け馳せましょう。イエズス様の喜びに与る御恵みを乞い求めましょう。そして決してイエズス様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。弱い私たちですけれども、その御恵みを乞い求めましょう。
第3には、その為に、私たちがイエズス様の復活の喜びを確実に得る為に、イエズス様を決して離れる事がない為に、秘密があります。マリア様です。マリア様こそ、聖ヨハネをして自分と共に居るように、他の弟子たちには与えられなかったものをマリア様によって与えられました。マリア様が居たがこそ、マリア様のおかげで、聖ヨハネはたとえどのような者であったとしても、十字架の足もとに留まる事ができました。
ですから私たちも、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみをマリア様と共にこれを捧げる事に致しましょう。「もうこれで万事休すだ。もう私たちにはもう何もできない。もう本当に悪い嫌がらせをされて、本当にもうこれ以外どうしようもない」というその時に、イエズス様はアッという間にそれを私たちの喜びの源とする事ができます。イエズス様と共に居るならば、マリア様と共に居るならば。
その喜びを今日、教会は私たちに伝えようとしています、「決して落胆する事がないように。私たちにはあまりにも多くの希望する理由と、喜ぶ理由がある。だから私たちはこのイエズス様の栄光の喜びの中に入ろう」と教会は招いています。私たちはこのミサを続けて、教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事に致しましょう。
「お前たちが探している、十字架に付けられたナザレトのイエズスは復活した。もうここにはいない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年4月16日(主)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年4月16日(主日) 復活祭のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年4月16日、私たちの主イエズス・キリストの復活の主日、大祝日をお祝いしています。
今日このミサでは、特別の祝日ですので、序誦はより荘厳の序誦を歌いたいと思っています。
今日、御聖体拝領の後の感謝の祈りの後に、いつもの終課のお祈りをします。もしも時間がある方は終課を一緒に歌っていって下さい。
明日は朝の6時30分から復活の月曜日のミサがあります。
来月は秋田の巡礼の直後、初金・初土にここでミサがあります。シュテーリン神父様と一緒に参ります。
「お前たちが探している、十字架に付けられたキリストは復活した。もはやここにはいない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主イエズス様の、イエズス・キリストの御復活の大祝日で、教会は喜びに満たされています。1年の中で復活祭ほど喜びに、荘厳な喜びに満ちた日はありません。
ではこの復活祭に、一体なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何なのかを黙想する事に致しましょう。
この喜びの動機を黙想した後に、では一体私たちはこれからどんな遷善の決心を立てるべきか、これからどうやって、今日の復活祭の後からはどうやって生活していかなければならないか、本当の喜びを生き続ける為にどうしなければならないのかを黙想する事にしましょう。
第1の点は、私たちの喜びの動機です。
教会は既に、お告げの祈りをアレルヤの祈りに変えました、「天の元后喜び給え、アレルヤ。」今まで歌われていなかった、「主に讃美」という“アレルヤ”という言葉も使い出しました。そしてこの喜びに満ちたミサを捧げています。今までは紫の覆いで被されていた栄光の十字架も、聖金曜日に荘厳に取ったばかりでなく、教会は、聖金曜日のあの苦しみから一転して、喜びと栄光に満ちたミサを捧げています。
一体何故なのでしょうか?
何故ならば、イエズス・キリストは、十字架に付けられた私たちが探しているイエズス・キリストは、本当に復活したからです。これは疑いのない歴史的な事実です、真理です。
何故そういう事が言えるのでしょうか?
イエズス・キリスト様はまず鞭打たれました。聖金曜日に大量の血を流して、残酷な拷問を受けました。もしもイエズス様が普通の人だったら、たとえ体力があった男だったとしても、もうそこで、十字架に付けられる前に鞭打たれただけで力尽くし、息絶えだえにしてもう息を引き取っていた事に違いありません。しかしイエズス様は天主の力を以て十字架を、重い十字架を担ぎました。茨の冠を被せられながら、傷だらけの体で、血をボタボタと垂らしながら歩みました。何も食べていませんでした。力はほとんど尽きていました。何度も十字架の重さに耐えずして倒れてしまいました。脳震盪を起こしていたかもしれません。しかしイエズス様は十字架を担い、カルワリオの上に磔にされました、釘付けにされました。3時間に渡る十字架での飢え、渇きと、苦しみと、痛みの中に、イエズス様は遂に息を引き取りました。
普通の人でしたら、その前にとっくに体力を尽くしてしまって死んでいた事でしょう。イエズス様はその最後の最後まで、その苦しみを耐え忍びました。それは聖書が全て成就する為でした。イエズス様の、天主の子羊の骨は1本も折られませんでした。
このように、イエズス様が確かに亡くなったという事は、ローマの兵士が確認しています。心臓が槍で貫かれました。心臓がパカリと開いて、そこから水と血が出ました。もはや死亡したという事です。そして母親が見ている前で、母親がそのイエズス様の亡骸を抱いて、確かに亡くなったという事を確認します。そして墓に葬られました。
これ以後、普通の人でしたらガバリと起き上がって歩き出す事はありません。イエズス様は新しい墓に葬られて、大きな石をその蓋に付けられました。一人ではとても動かす事ができない物でした。
イエズス様だけではありません。ユダヤの最高の当局が、イエズス様の墓を守る為に最高の警備を行っていました。ローマの兵士を付けていました。その当時は、ユダヤの宗教の最高の権威もそれを警戒していました。
過ぎ越しの夜というのは満月の夜で、一年の内に一番夜が明るい日でした。その日に誰も、密かに何かを仕業をするという事は一切できません。しかもイエズス様が十字架に付けられて亡くなったその夕方、ユダヤ人たちは過ぎ越しの子羊を屠り、そしてその安息日に入る為に全ての仕事を終えていました。イエズス様の葬りさえも完壁にする事もできなかったほどでした。全ては早々と進められて、そして安息日、聖土曜日には誰も動かずにひっそりとしていました。
弟子たちはといえば、「もはやこれで師を、指導者を失った。あれほど力がある方だったのに。しかしもうこれで万事休すだ。こんな事があってはもう何もできない。」散り散りばらばらになり、そして使徒たちはイエズス様を捨てて、隠れて、ひっそりとがっくりとして恐れおののいていました。
「イエズス様は必ず復活するだろう」と「必ず復活する」と確信していたのはただ唯一、マリア様だけでした。この女性一人で一体何ができたでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様が復活する事を知り、それを信じていました。
他の人は、全世界は暗闇の中にいました。イエズス・キリストの復活などを思う人も考える人もいませんでした。「全てはこれで終わった。もうイエズス・キリストというのはこれでもう亡き者となった。」ユダヤ当局もローマ当局も、そして民衆も、皆そう信じ込んでいました。
その時に、イエズス・キリスト様は御自分の力で、御一人で、天主の力を以て、墓を砕きよみがえり、そしてまず御母マリア様の元に現われました、「確かに復活した。」
今日復活の主日、1週間の最初のこの朝まだきに、婦人たちがイエズス様にまだし残してしまった葬りの、その香油を没薬を何とかしようと墓に行ったときに、墓は空っぽでした。ローマ兵もいませんでした。
天使を見ました。「イエズス・キリストは、お前たちが今探しているイエズス・キリスト、十字架に付けれたイエズス・キリストは復活した。もうここにはいない。さぁ行け、弟子たちに告げなさい。」
イエズス・キリスト様は真に復活したが為に、そしてそれを見たが為に、弟子たちは信じました。その反対ではありません。イエズス様が復活するだろうと思っていたから、その信仰があったからそういうふうに誤解したのではありません。事実は全くその反対です。
イエズス様が復活したのを見たので、その手に触ったので、イエズス様に、復活したイエズス様に食べ物を与えてそれを食べるの見たので、何度も、復活されてその事実を確認したので、あれほど信じなかった弟子たちも、あれほど無信仰だった逃げていた弟子たちも、力を持って勇気を持って、「確かに、イエズス・キリストこそ真の天主だ」と信じたのでした。
本当ならばユダヤ当局もローマ当局も、「これでイエズス・キリストの話は一切終わりだ」と思ったその瞬間、歴史が全く逆の方に動いたのでした。イエズス・キリストこそが歴史の中心になったのです。
つまりこの世は2つに分かれるという事です。イエズス・キリストが真に復活して、本当の天主であり、この世の創り主であり、真の救世主であるという事実を認めるか、或いはあくまでも拒否するか、この2つに分かれてしまったのです。
拒否しようとしている人たちは、何とかしてそれを無きものにしようとして最大の力を尽くしますが、まさにそのイエズス・キリストを亡き者としようとして、しようとすればするほど、イエズス・キリストが真の天主であったという証拠になってしまったのです。
悪意がそれが大きければ大きいほど、それが却ってイエズス・キリストが真の天主であるという事を証拠立てる、もう疑い得ないしるしとなってしまいました。ローマ兵士にしても、槍で貫かれた事にしても、鞭打ちにしても、全てがそうです。イエズス・キリストを亡き者に、反対した者が却って、イエズス・キリストの利益となったという事です。
遂には全世界は、「イエズス・キリストこそが真の救い主である。」ローマ帝国の回心、或いはヨーロッパの回心が続きました。
イエズス様のこの真の信仰は、私たちの心にも伝わりました。愛する兄弟の皆さん、私たちが求めているイエズス・キリストは、十字架に付けられたイエズス・キリストは、今日、今朝、本当に復活しました。これは歴史の事実です。誰もこれを否定する事ができません。否定しようとすれば否定しようとするほど、ますますそれが本当であると証明されてしまうからです。
ですから私たちの喜びと、私たちの幸せと、私たちの今のこの喜び踊りたいというこの歓喜は、真実に基づいていると言わなければなりません。
この世の中では色々な喜びありますが、多くは薄っぺらい約束や、或いは儚い一時的な喜びに過ぎません。しかし教会が私たちに伝えようとする喜びは、本当の喜びであって、決して消え失うせる事ができない、永遠に続く、無限の終わりのない、限りのない喜びを私たちに伝えようとしています。
十字架の、聖金曜日のあのイエズス様の辱しめ、苦しみ、痛み、死刑は、今や無限の喜びと、歓喜と、幸せに変わりました。永遠の命によって、死の苦しみと、辱しめと、痛み、悲しみは飲み込まれてしまいました。
教会はですから、「この1年の中に、この復活祭こそ最も荘厳に、最も喜びを込めて祝おう」と私たちに招いています。
特に今回皆さんに黙想を提案したいのは、「イエズス様に反対しよう」と悪意を持っていたとしても、全世界がそれを、イエズス・キリストに反対していたとしても、「イエズス様にとって全く何の影響も及ぼさない」という事です。
2017年4月16日の日本に住む私たちにとって全く同じです。私たちの周囲は、イエズス・キリストの無い平和、イエズス・キリストの無い社会、イエズス・キリストの無い喜び、イエズス・キリストを排除した世界を作ろうとしているかもしれません。イエズス・キリストを私たちの中からなるべく取り除こうと、殺させてしまおうと思っているかもしれません。その為にマスメディアはイエズス・キリストの無い話しをたくさんします。映画もそうです。或いは学校でもそうかもしれません。或いは政府もそうかもしれません。或いは国際社会がそうかもしれません。しかしイエズス・キリストは、たとえ全世界がイエズス様の復活を否定したとしても、最後には勝利者となります。イエズス・キリスト様は最後には、どうしても「イエズス・キリストこそが私たちの救い主であって、天主であって、贖い主である」という事を認めざるを得なくなるようにされます。
それはイエズス様にとって簡単な事です。たとえイエズス様が全くこの世から無くなったと見えたとしても、アッというすぐその瞬間に、すぐ翌日に、あっという間に状況が変わる事があります。
それは私たちについても同じです。私たちはもしかしたら、「カトリック信者である、聖伝のカトリック信仰を守っている」と、或いはイエズス・キリストの為にはこれをする事ができない、或いは、という為に、もしかしたら世間体や、或いは「他の人から何を言われるか」と、もしかしたら恐れおののいているかもしれません。
何も心配しないでください。たとえ全世界が、マスメディアが、インターネットが、国際社会が、イエズス様を否定したとしても、私たちは何も恐れる必要はありません。イエズス様は必ず勝利者となるからです。イエズス様の反対したという事で一時的には勝利を収めたと見えたとしても、却ってそれがやっかいものになって、却ってそれが辱しめの元となる事でしょう。「あぁ、あの時、みんなと一緒になってああしなければ良かった」と後悔するに違いありません。「イエズス様と留まっていれば良かった、イエズス様を何で反対してしまったのだろうか」と。
愛する兄弟の皆さん、では私たちは今日どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?それは3つあります。
1つは、「イエズス様が真に天主である」という事を確認する事です。「私たちの本当の救い主であって、この方以外私たちを救う方はいない。イエズス・キリスト以外に救世主、真の天主はいない。イエズス・キリストだけが私たちに、永遠の命と救いを与える事ができる」という事です。天主の御父の永遠の昔からの計画はこれです、「全てを、イエズス・キリストの元に集める。」イエズス・キリストのいない世界は有り得ません。ですからそれを確認するという事です。
第2は、「私たちはイエズス・キリスト様を信じる。信者だ」と言いつつも、残念ながら何度イエズス様を侮辱してきた事でしょうか。イエズス様を罪を犯す事によって否んでしまった事でしょうか。或いは世間体によって、或いは臆病によって、或いは卑怯によって、或いは怠慢によって、或いは私たちの弱さによって、イエズス様を却って、「十字架に付けよ!十字架に付けよ!」と言ってしまったのではないでしょうか。或いはそのような事を言っている人たちに対して、私たちは何もする事なく口を閉ざしていただけかもしれません。私たちはイエズス様を前に、どれほど悲しみを与えてしまった事でしょうか。
しかしそのような私たちに対してでさえも、今日イエズス様は、「同じ栄光を与えよう」と、あの「同じ無限の喜びを与えよう」と、今日復活されました。イエズス様が復活されたのはまさに、この私たちを慰め、私たちに喜びを与える為だけです。その為にのみ復活されました。
見て下さい、たとえ使徒と選ばれたとしても、イエズス様を裏切ったユダと、たとえ泥棒を繰り返して、本当に罪を犯したが為に十字架に付けられたディスマスの運命の違いを。イエズス様を皆の前で認めて、そしてイエズス様に祈り、自分の苦しみを償いとして捧げたこのディスマスには、永遠の喜びが与えられました。「汝、今日我と共に楽園にあらん」と。ですから私たちもイエズス様の元に駆け馳せましょう。イエズス様の喜びに与る御恵みを乞い求めましょう。そして決してイエズス様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。弱い私たちですけれども、その御恵みを乞い求めましょう。
第3には、その為に、私たちがイエズス様の復活の喜びを確実に得る為に、イエズス様を決して離れる事がない為に、秘密があります。マリア様です。マリア様こそ、聖ヨハネをして自分と共に居るように、他の弟子たちには与えられなかったものをマリア様によって与えられました。マリア様が居たがこそ、マリア様のおかげで、聖ヨハネはたとえどのような者であったとしても、十字架の足もとに留まる事ができました。
ですから私たちも、私たちの苦しみ、或いは辛い事、或いはどのような他の人たちから受けるような悪意があったとしても、悲しみや苦しみをマリア様と共にこれを捧げる事に致しましょう。「もうこれで万事休すだ。もう私たちにはもう何もできない。もう本当に悪い嫌がらせをされて、本当にもうこれ以外どうしようもない」というその時に、イエズス様はアッという間にそれを私たちの喜びの源とする事ができます。イエズス様と共に居るならば、マリア様と共に居るならば。
その喜びを今日、教会は私たちに伝えようとしています、「決して落胆する事がないように。私たちにはあまりにも多くの希望する理由と、喜ぶ理由がある。だから私たちはこのイエズス様の栄光の喜びの中に入ろう」と教会は招いています。私たちはこのミサを続けて、教会と共に、マリア様と共に、イエズス様の復活の喜びに入る事に致しましょう。
「お前たちが探している、十字架に付けられたナザレトのイエズスは復活した。もうここにはいない。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。