アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年5月14日の説教 大阪
「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」
親愛なる兄弟の皆さん、
ファチマでの聖母のご出現は、マリアの汚れなき御心についてのことを大いに明らかにするものでした。すでに聖ヨハネ・ユードが「マリアのいと潔き御心」に対する信心を持っていましたし、この御心はそれ以前からも他の聖人たちによって敬われていました。しかし、ファチマでのご出現が、この信心の最も注目すべき増加をもたらしたことは否定できません。この信心を構成するいくつかの基本的な要素と、それらがどのようにして私たちの時代の悪を癒やすのかを考察しましょう。
この「心」は、聖パウロが「内なる人」と呼ぶものを表しています。「キリストが、その光栄の富に従って、その霊によって、あなたたちの内なる人を力強く固めてくださることを願う」(エフェゾ3章16節)。この心は、愛の霊が住むところである内なる聖所のことです。あらゆる聖徳の座、特に愛徳という最高の聖徳の座を表しています。さて、現代人は内的な命を無視しており、しばしばそれを完全に無視し、軽蔑さえしています。現代人は表面的なもの、外的な喜び、面白いもの、そして気晴らしに愛着を持っています。汚れなき御心への私たちの信心を呼び求めることで、聖母は私たちに、この内的な命が重要であり、なにものにも勝るものであることを思い出させてくださいます。内的な命は、すでにここ地上において、永遠の命の始まりなのですから。
すでに自然のレベルにおいて、人間を偉大なものにしているのは理性であると認めるのは簡単です。私たちの体と動物の体を比べてみれば、あらゆる面で私たちよりまさっている動物がいるのが分かります。人間に比べて視力が優れた動物、聴力が優れた動物、嗅覚が優れた動物(においによって人が分かる犬のように)、走力が優れた動物、力が優れた動物がおり、人間は飛べませんが飛べる動物がいるといったことです。しかし、私たちは理性によって、どの動物よりも遠くまで見える望遠鏡や、どの動物が把握できるよりも小さなものを見ることができる顕微鏡を造ることができます。私たちは理性によって、動物が捉えることのできない多くの電波を捉えるレーダーを造ることができます。私たちは理性によって、列車や飛行機、月にまで行くロケットさえも造ることができます。このすべてを、私たちは理性によって行うのです。しかし、私たちの理性は目に見えません。私たちの理性は外的なものではありません。それは、私たちの内的な人の一部分なのです。
最高にして最も重要な人間の能力が目に見えないもので、私たちの内的な人の一部分であるならば、この内的な人が人間の最も重要な面であるのは明白です。でも、非常に多くの人々が、お金や名声、権力といった外的なものに幸せを求めているか、そうでないなら、快楽や慰めといった表面的なもの、感覚的なものに幸せを求めています。彼らは皆、基本的に自分の内的な命を無視しているのです。彼らは霊的なものを無視するか軽視しており、とりわけ天主を無視しているのです。これが、私たちの時代における大きな悪なのです。マリアの汚れなき御心に対する信心はなによりも、この内的な命、この天主とともにある命、この私たちのうちにあるキリストの命、マリアの汚れなき御心において非常に美しく輝くこの霊的な命こそが他のなにものにも勝るものであることを私たちに教えているのです。
この信心について明らかな第二の側面は、マリアの御心には罪の汚れがないということです。聖母は決して罪と妥協なさいませんでした。それがごく小さな罪であってもです。さて、これはリベラリズム(自由主義)という私たちの時代において最も重要です。多くの「カトリック自由主義者たち」のしるしは、彼らが常にこの世と妥協する用意があり、この世を喜ばせるために主の要求された条件を捻じ曲げる用意があるということです。対照的に、聖母は悪魔やこの世と絶対に妥協なさいませんでした。こういう訳で、聖母は罪の汚れなきお方なのです。罪は聖母に対して、どんな小さな力さえも持っていませんでした。聖母は罪に対する言い訳を決してなさいませんでした。聖母は絶対的に罪の汚れなきお方なのです。
このことは、貞潔という分野で特に当てはまります。聖母は最も清らかな童貞、完全なる童貞です。私たちの時代においては、この完全な貞潔という模範が最も必要とされています。聖母の方法は正しい方法です。不純と決して妥協しないこと、この美しい聖徳を汚すようなことはすべて避けること、目による好奇心はすべて避けること、特にインターネット上の貞潔に反するものはすべて避けることです。火は大きくなってからではなく小さいうちに消すのがずっと簡単です。貞潔に反する誘惑はまだ小さい最初のうちに抵抗するのがずっと簡単です。誘惑と妥協することは、勝利をさらに困難にして、勝利の見込みをさらに少なくしてしまうだけでしょう。罪の汚れなき聖母は私たちに、罪と決して妥協しないよう、特に不純と妥協しないように教えてくださいます。聖母は、私たちの霊魂を汚すすべてのものから離れているよう私たちを助けてくださいます。聖母の御心は罪の汚れがなく、聖母の愛は清らかで美しいのです。
マリアの御心は、天主に結びついているがゆえに、罪から切り離されています。この天主との絆は、第一にここ地上では信仰によるものです。それについて聖パウロはこう言います。「人は心で信じて義とせられる」(ローマ10章10節)。聖パウロはここで、信仰は感傷的なものであると言っているのではありません。前に説明したように「心」という言葉で、彼は内なる人、内的な能力のことを言っているのです。聖トマス・アクィナスは、信仰は私たちの知性における聖徳であると教えています。聖母が地上におられたとき、聖母は特にその信仰のゆえにたたえられました。「ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は」(ルカ1章45節)。汚れなき御心は、信仰において罪の汚れがありません。聖母の信仰には、誤謬が混じっていたり、誤謬と妥協したりすることなどまったくありませんでした。疑いも、ためらいもありませんでした。聖母は、天主から啓示された真理に完全に忠実であられました。聖母は、至高の真理である天主ご自身に完全に忠実であられました。聖パウロが言うように、天主の御子イエズス・キリストへのまことの信仰によって、私たちは天主に近づくことができるのです(エフェゾ3章12節参照)。
聖母がファチマで子どもたちに対して言われた最初のことは、「私は天国からの者です!」でした。この言葉が、子どもたちにこう尋ねさせました。「私たちは天国に行きますか?」。希望の徳において見いだされるこの天国への大きな望みは、マリアの汚れなき御心への信心の特徴です。地上で聖母ほど天主を熱望した人はいませんでした。「雌鹿が小川の流れを慕うように、あなたを慕う、天主よ。私の魂は天主に、生きる天主にかつえる。『いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか』」(詩篇41章2-3節)。希望の中には、この天国への大きな望みがあるだけでなく、私たちの主イエズス・キリストの恩寵への実際の確信があります。主の恩寵を信頼することで、私たちは天国へ行く確信を持つのであり、これが大いなる深い喜び、「希望の喜びを持つこと」(ローマ12章12節)の理由なのです。
さて、これが、まことの信者と世の人々との大変重要かつ深遠な違いです。まことの信者は永遠の命への希望を持っていますが、世の人々は希望を持っていません! 世の人々は、命は最後には黒い壁に至ると考えており、死後のことは何も見ることができません。彼らには、未来への希望がなく、当面の満足を追求しています。彼らは、外的で表面的な楽しみを追求する一方で、彼らの内なる霊魂、深いところにある自我は、絶望のうちに、深い悲しみのうちにあるのです。聖パウロは「彼らには希望がない!」(テサロニケ前書4章13節)と言っています。この深い悲しみは、現代世界のしるしであり、外的な気晴らし、外的な楽しみ、そして絶え間のない雑音を求めていますが、それは深い内的な悲しみを忘れるためなのです。「彼らには希望がない!」。この外的な気晴らし、雑音、そして娯楽へと殺到することは、内なる悲しみ、霊魂の内なる空虚さから走って逃れることなのです。孤独と沈黙は多くの人にとって拷問です。それは、彼らが内なる友、私たちの霊魂の内にいる天主という賓客を持たないがゆえなのです。
「至聖なる三位一体の聖所」であるマリアの汚れなき御心と比べ、何という違いでしょうか。私たちの主イエズス・キリストは実際、こう言われました。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。そして、マリア以上にイエズスを愛した人がいるでしょうか? ですから、御父は聖母を愛され、御子とともに聖母のもとに来られ、聖母のうちに、聖母の汚れなき御心のうちに、住居をつくられたのです! また聖パウロはこう言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。聖母において、内なる会話を交わしたのは単に自分自身とだけではなく、聖母の霊魂の驚くべき賓客である至聖なる三位一体とだったのです。ですから、聖人たちもそうしたように、私たちもそうしなければならないのです。
この世的な人の心は天主のいない空虚なもので、地上のものごとでいっぱいです。マリアの御心は被造物への過度な愛着とはまったく無縁であり、創造主で満たされています。そしてこれが、マリアの汚れなき御心の第三の大いなる聖徳、すなわち計り知れない愛徳です。聖パウロはこう言います。「実に私たちの天主は焼き尽くす火」(ヘブライ12章29節)、愛徳の焼き尽くす火です。それゆえに、主はこう言われました。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんな望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。主は最初にマリアの御心にその火をつけられ、その御心が天主の愛徳の火で燃え立っているのです。
その愛徳が、霊魂を救い罪びとを回心させようという大きな熱意を聖母に与えるのです。実際、これこそが、天主の御子が天から聖母のいとも清らかなご胎内に降りてこられた目的そのものです。つまり「罪から民を救うため」(マテオ1章21節)です。ですから、聖母は、この主の一生の目標である霊魂を救うということと完全に一致しておられます。私たちはファチマでこのことを見るのです。聖母は子どもたちにこう尋ねられました。「あなたがたは、天主のお怒りを招く罪の償いの行いとして、罪びとの回心を願う行いとして、自分を進んで天主に捧げ、天主がこれからあなたがたに送られるすべての苦しみを進んで耐え忍びますか?」。聖母が子どもたちに地獄をお見せになったのは、まさに、霊魂の救いと罪びとの回心のための犠牲をしようとする子どもたちの熱意を一層強めるためでした。「あなたがたは、あわれな罪びとの霊魂が行く地獄を見ました。彼らを救うため、天主はこの世に、私の汚れなき御心に対する信心を確立させようと望んでおられます…。私は、私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領をお願いするためにやって来るでしょう」。
聖母のこれらの言葉はまた私たち一人一人への呼び掛けでもあります。私たちは、天主のお怒りを招く罪の償いの行いとして、罪びとの回心を願う行いとして、自分を進んで天主に捧げ、天主がこれから私たちに送られるすべての苦しみを進んで耐え忍びますか? 私たちは、天主に対する侮辱を償うことによって熱心に天主を敬っていますか、熱心に罪びとの回心を願っていますか? 人はこの目的のために自分の全自我を、全生活を捧げることができます。特に奉献生活においては。ファチマでの聖母の要求を満たすことで、少なくとも自分の心をすべてこの目的に捧げるべきです。
百年後の今、多くの人が聖母の要求を満たさなかったため、状況はさらに悪くなっています。このことは、聖母の要求をもっとよく実現させよう、聖母をお慰めしさらに多くの人が聖母の要求に耳を傾ける恩寵を聖母から獲得しようという、私たちの熱意を燃え立たせるに違いありません。それによって、聖母の汚れなき御心が統治し、聖母を通して至聖なるイエズスの聖心が統治するようにです。召命のため、良きかつ聖なるカトリックの家族のために祈りましょう。しかしまず第一に、主の呼び掛けにお答えし、私たち自身の生活を正し、聖母を通して私たちの生活をキリストに喜んでいただけるものとしましょう。
聖パウロは「キリストの愛は私たちを締め付ける」(コリント後書5章14節)と言いました。おそらく、カトリックという宗教の特徴、カトリックという宗教の中心は、天主が私たちを気にかけてくださるという確信です。そして、この天主の愛が、イエズスの聖心に、そしてまたマリアの汚れなき御心にまことに力を与えるものなのです。天主は本当に人間のことを気にかけてくださいます。でも、天主のことをまったく気にかけていない人間がいかに多いことでしょうか! 私たちがイエズスとマリアの聖心を統治する同じ愛によって力を与えられているのなら、私たちは、真理から遠く離れ、天主の愛から遠く離れ、罪と絶望という闇の中にいる、これらのあわれな霊魂たちを気にかけるべきです。私たちは、イエズスの聖心に見いだされる天主の宝を彼らに与えるためのあらゆる努力をすべきです。私たちは、彼らを、マリアを通してイエズスに連れていくべきです。聖母は母であり、聖母は気にかけてくださるお方です! 主は私たち全員を聖母にお任せになりました。そして聖母は、信者の聖化を、罪びとの回心を、本当に気に掛けておられます。聖母の御心は人類と同じほど大きいのです。
ですから、ファチマでの聖母ご出現の百周年である[本日]、聖母の汚れなき御心に倣って、内なる命の本当の価値、私たちのうちにあるキリストの命の本当の価値を理解し、そして罪とのいかなる妥協も拒否することによって私たちの心を聖母の御心に一致させ、さらに聖母の聖徳である、信仰、希望、特に愛の聖徳で私たちの霊魂を満たし、また天主を敬う大いなる熱意で私たちの霊魂を満たし、世の罪の償いをし、罪びとの回心のために自分を捧げるという恩寵を願いましょう。そうすることで、私たちと他の多くの人々が天国に行くことができますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」(日本語訳)をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年5月14日の説教 大阪
「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」
親愛なる兄弟の皆さん、
ファチマでの聖母のご出現は、マリアの汚れなき御心についてのことを大いに明らかにするものでした。すでに聖ヨハネ・ユードが「マリアのいと潔き御心」に対する信心を持っていましたし、この御心はそれ以前からも他の聖人たちによって敬われていました。しかし、ファチマでのご出現が、この信心の最も注目すべき増加をもたらしたことは否定できません。この信心を構成するいくつかの基本的な要素と、それらがどのようにして私たちの時代の悪を癒やすのかを考察しましょう。
この「心」は、聖パウロが「内なる人」と呼ぶものを表しています。「キリストが、その光栄の富に従って、その霊によって、あなたたちの内なる人を力強く固めてくださることを願う」(エフェゾ3章16節)。この心は、愛の霊が住むところである内なる聖所のことです。あらゆる聖徳の座、特に愛徳という最高の聖徳の座を表しています。さて、現代人は内的な命を無視しており、しばしばそれを完全に無視し、軽蔑さえしています。現代人は表面的なもの、外的な喜び、面白いもの、そして気晴らしに愛着を持っています。汚れなき御心への私たちの信心を呼び求めることで、聖母は私たちに、この内的な命が重要であり、なにものにも勝るものであることを思い出させてくださいます。内的な命は、すでにここ地上において、永遠の命の始まりなのですから。
すでに自然のレベルにおいて、人間を偉大なものにしているのは理性であると認めるのは簡単です。私たちの体と動物の体を比べてみれば、あらゆる面で私たちよりまさっている動物がいるのが分かります。人間に比べて視力が優れた動物、聴力が優れた動物、嗅覚が優れた動物(においによって人が分かる犬のように)、走力が優れた動物、力が優れた動物がおり、人間は飛べませんが飛べる動物がいるといったことです。しかし、私たちは理性によって、どの動物よりも遠くまで見える望遠鏡や、どの動物が把握できるよりも小さなものを見ることができる顕微鏡を造ることができます。私たちは理性によって、動物が捉えることのできない多くの電波を捉えるレーダーを造ることができます。私たちは理性によって、列車や飛行機、月にまで行くロケットさえも造ることができます。このすべてを、私たちは理性によって行うのです。しかし、私たちの理性は目に見えません。私たちの理性は外的なものではありません。それは、私たちの内的な人の一部分なのです。
最高にして最も重要な人間の能力が目に見えないもので、私たちの内的な人の一部分であるならば、この内的な人が人間の最も重要な面であるのは明白です。でも、非常に多くの人々が、お金や名声、権力といった外的なものに幸せを求めているか、そうでないなら、快楽や慰めといった表面的なもの、感覚的なものに幸せを求めています。彼らは皆、基本的に自分の内的な命を無視しているのです。彼らは霊的なものを無視するか軽視しており、とりわけ天主を無視しているのです。これが、私たちの時代における大きな悪なのです。マリアの汚れなき御心に対する信心はなによりも、この内的な命、この天主とともにある命、この私たちのうちにあるキリストの命、マリアの汚れなき御心において非常に美しく輝くこの霊的な命こそが他のなにものにも勝るものであることを私たちに教えているのです。
この信心について明らかな第二の側面は、マリアの御心には罪の汚れがないということです。聖母は決して罪と妥協なさいませんでした。それがごく小さな罪であってもです。さて、これはリベラリズム(自由主義)という私たちの時代において最も重要です。多くの「カトリック自由主義者たち」のしるしは、彼らが常にこの世と妥協する用意があり、この世を喜ばせるために主の要求された条件を捻じ曲げる用意があるということです。対照的に、聖母は悪魔やこの世と絶対に妥協なさいませんでした。こういう訳で、聖母は罪の汚れなきお方なのです。罪は聖母に対して、どんな小さな力さえも持っていませんでした。聖母は罪に対する言い訳を決してなさいませんでした。聖母は絶対的に罪の汚れなきお方なのです。
このことは、貞潔という分野で特に当てはまります。聖母は最も清らかな童貞、完全なる童貞です。私たちの時代においては、この完全な貞潔という模範が最も必要とされています。聖母の方法は正しい方法です。不純と決して妥協しないこと、この美しい聖徳を汚すようなことはすべて避けること、目による好奇心はすべて避けること、特にインターネット上の貞潔に反するものはすべて避けることです。火は大きくなってからではなく小さいうちに消すのがずっと簡単です。貞潔に反する誘惑はまだ小さい最初のうちに抵抗するのがずっと簡単です。誘惑と妥協することは、勝利をさらに困難にして、勝利の見込みをさらに少なくしてしまうだけでしょう。罪の汚れなき聖母は私たちに、罪と決して妥協しないよう、特に不純と妥協しないように教えてくださいます。聖母は、私たちの霊魂を汚すすべてのものから離れているよう私たちを助けてくださいます。聖母の御心は罪の汚れがなく、聖母の愛は清らかで美しいのです。
マリアの御心は、天主に結びついているがゆえに、罪から切り離されています。この天主との絆は、第一にここ地上では信仰によるものです。それについて聖パウロはこう言います。「人は心で信じて義とせられる」(ローマ10章10節)。聖パウロはここで、信仰は感傷的なものであると言っているのではありません。前に説明したように「心」という言葉で、彼は内なる人、内的な能力のことを言っているのです。聖トマス・アクィナスは、信仰は私たちの知性における聖徳であると教えています。聖母が地上におられたとき、聖母は特にその信仰のゆえにたたえられました。「ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は」(ルカ1章45節)。汚れなき御心は、信仰において罪の汚れがありません。聖母の信仰には、誤謬が混じっていたり、誤謬と妥協したりすることなどまったくありませんでした。疑いも、ためらいもありませんでした。聖母は、天主から啓示された真理に完全に忠実であられました。聖母は、至高の真理である天主ご自身に完全に忠実であられました。聖パウロが言うように、天主の御子イエズス・キリストへのまことの信仰によって、私たちは天主に近づくことができるのです(エフェゾ3章12節参照)。
聖母がファチマで子どもたちに対して言われた最初のことは、「私は天国からの者です!」でした。この言葉が、子どもたちにこう尋ねさせました。「私たちは天国に行きますか?」。希望の徳において見いだされるこの天国への大きな望みは、マリアの汚れなき御心への信心の特徴です。地上で聖母ほど天主を熱望した人はいませんでした。「雌鹿が小川の流れを慕うように、あなたを慕う、天主よ。私の魂は天主に、生きる天主にかつえる。『いつ私は行って、天主のみ顔を仰げようか』」(詩篇41章2-3節)。希望の中には、この天国への大きな望みがあるだけでなく、私たちの主イエズス・キリストの恩寵への実際の確信があります。主の恩寵を信頼することで、私たちは天国へ行く確信を持つのであり、これが大いなる深い喜び、「希望の喜びを持つこと」(ローマ12章12節)の理由なのです。
さて、これが、まことの信者と世の人々との大変重要かつ深遠な違いです。まことの信者は永遠の命への希望を持っていますが、世の人々は希望を持っていません! 世の人々は、命は最後には黒い壁に至ると考えており、死後のことは何も見ることができません。彼らには、未来への希望がなく、当面の満足を追求しています。彼らは、外的で表面的な楽しみを追求する一方で、彼らの内なる霊魂、深いところにある自我は、絶望のうちに、深い悲しみのうちにあるのです。聖パウロは「彼らには希望がない!」(テサロニケ前書4章13節)と言っています。この深い悲しみは、現代世界のしるしであり、外的な気晴らし、外的な楽しみ、そして絶え間のない雑音を求めていますが、それは深い内的な悲しみを忘れるためなのです。「彼らには希望がない!」。この外的な気晴らし、雑音、そして娯楽へと殺到することは、内なる悲しみ、霊魂の内なる空虚さから走って逃れることなのです。孤独と沈黙は多くの人にとって拷問です。それは、彼らが内なる友、私たちの霊魂の内にいる天主という賓客を持たないがゆえなのです。
「至聖なる三位一体の聖所」であるマリアの汚れなき御心と比べ、何という違いでしょうか。私たちの主イエズス・キリストは実際、こう言われました。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところへ行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。そして、マリア以上にイエズスを愛した人がいるでしょうか? ですから、御父は聖母を愛され、御子とともに聖母のもとに来られ、聖母のうちに、聖母の汚れなき御心のうちに、住居をつくられたのです! また聖パウロはこう言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。聖母において、内なる会話を交わしたのは単に自分自身とだけではなく、聖母の霊魂の驚くべき賓客である至聖なる三位一体とだったのです。ですから、聖人たちもそうしたように、私たちもそうしなければならないのです。
この世的な人の心は天主のいない空虚なもので、地上のものごとでいっぱいです。マリアの御心は被造物への過度な愛着とはまったく無縁であり、創造主で満たされています。そしてこれが、マリアの汚れなき御心の第三の大いなる聖徳、すなわち計り知れない愛徳です。聖パウロはこう言います。「実に私たちの天主は焼き尽くす火」(ヘブライ12章29節)、愛徳の焼き尽くす火です。それゆえに、主はこう言われました。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんな望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。主は最初にマリアの御心にその火をつけられ、その御心が天主の愛徳の火で燃え立っているのです。
その愛徳が、霊魂を救い罪びとを回心させようという大きな熱意を聖母に与えるのです。実際、これこそが、天主の御子が天から聖母のいとも清らかなご胎内に降りてこられた目的そのものです。つまり「罪から民を救うため」(マテオ1章21節)です。ですから、聖母は、この主の一生の目標である霊魂を救うということと完全に一致しておられます。私たちはファチマでこのことを見るのです。聖母は子どもたちにこう尋ねられました。「あなたがたは、天主のお怒りを招く罪の償いの行いとして、罪びとの回心を願う行いとして、自分を進んで天主に捧げ、天主がこれからあなたがたに送られるすべての苦しみを進んで耐え忍びますか?」。聖母が子どもたちに地獄をお見せになったのは、まさに、霊魂の救いと罪びとの回心のための犠牲をしようとする子どもたちの熱意を一層強めるためでした。「あなたがたは、あわれな罪びとの霊魂が行く地獄を見ました。彼らを救うため、天主はこの世に、私の汚れなき御心に対する信心を確立させようと望んでおられます…。私は、私の汚れなき御心へのロシアの奉献と、初土曜日の償いの聖体拝領をお願いするためにやって来るでしょう」。
聖母のこれらの言葉はまた私たち一人一人への呼び掛けでもあります。私たちは、天主のお怒りを招く罪の償いの行いとして、罪びとの回心を願う行いとして、自分を進んで天主に捧げ、天主がこれから私たちに送られるすべての苦しみを進んで耐え忍びますか? 私たちは、天主に対する侮辱を償うことによって熱心に天主を敬っていますか、熱心に罪びとの回心を願っていますか? 人はこの目的のために自分の全自我を、全生活を捧げることができます。特に奉献生活においては。ファチマでの聖母の要求を満たすことで、少なくとも自分の心をすべてこの目的に捧げるべきです。
百年後の今、多くの人が聖母の要求を満たさなかったため、状況はさらに悪くなっています。このことは、聖母の要求をもっとよく実現させよう、聖母をお慰めしさらに多くの人が聖母の要求に耳を傾ける恩寵を聖母から獲得しようという、私たちの熱意を燃え立たせるに違いありません。それによって、聖母の汚れなき御心が統治し、聖母を通して至聖なるイエズスの聖心が統治するようにです。召命のため、良きかつ聖なるカトリックの家族のために祈りましょう。しかしまず第一に、主の呼び掛けにお答えし、私たち自身の生活を正し、聖母を通して私たちの生活をキリストに喜んでいただけるものとしましょう。
聖パウロは「キリストの愛は私たちを締め付ける」(コリント後書5章14節)と言いました。おそらく、カトリックという宗教の特徴、カトリックという宗教の中心は、天主が私たちを気にかけてくださるという確信です。そして、この天主の愛が、イエズスの聖心に、そしてまたマリアの汚れなき御心にまことに力を与えるものなのです。天主は本当に人間のことを気にかけてくださいます。でも、天主のことをまったく気にかけていない人間がいかに多いことでしょうか! 私たちがイエズスとマリアの聖心を統治する同じ愛によって力を与えられているのなら、私たちは、真理から遠く離れ、天主の愛から遠く離れ、罪と絶望という闇の中にいる、これらのあわれな霊魂たちを気にかけるべきです。私たちは、イエズスの聖心に見いだされる天主の宝を彼らに与えるためのあらゆる努力をすべきです。私たちは、彼らを、マリアを通してイエズスに連れていくべきです。聖母は母であり、聖母は気にかけてくださるお方です! 主は私たち全員を聖母にお任せになりました。そして聖母は、信者の聖化を、罪びとの回心を、本当に気に掛けておられます。聖母の御心は人類と同じほど大きいのです。
ですから、ファチマでの聖母ご出現の百周年である[本日]、聖母の汚れなき御心に倣って、内なる命の本当の価値、私たちのうちにあるキリストの命の本当の価値を理解し、そして罪とのいかなる妥協も拒否することによって私たちの心を聖母の御心に一致させ、さらに聖母の聖徳である、信仰、希望、特に愛の聖徳で私たちの霊魂を満たし、また天主を敬う大いなる熱意で私たちの霊魂を満たし、世の罪の償いをし、罪びとの回心のために自分を捧げるという恩寵を願いましょう。そうすることで、私たちと他の多くの人々が天国に行くことができますように。アーメン。