2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話2
「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され、知らされる事を望んでいます」
同時通訳:小野田圭志神父
では、お話しを続けましょう。
ではファチマ自体で、ファチマの場所でなされた、マリア様のお言葉と出来事を黙想してみる事にします。
先ほど太陽の奇跡についてお話しましたけれども、太陽の奇跡について詳しいどのような事があったかという事を、写真を持って、或いはそのような本を持って、無関心な人でも、或いはキリスト教を全然を知らないような人にも教えてあげれば、「へぇ~、こんな事もあったのか」ときっとそれに感動すると思います。おそらく日本でもそのような事を知らない人々がたくさんいらっしゃると思います。
教会に敵対していたような人でも、多くの人々が太陽の奇跡で回心しました。その太陽の奇跡の後でも何百、何十万という人々が回心しましたけれども、それはそのような太陽の奇跡があったという事を知らされて、それをそういう事を読んで、或いはそういう事を知って回心しました。
もしもこの日本のような国でも、ファチマで起こっているような事が写真付きで解説付きで、「このような事が起こったのだ」という事を知れば、それを見た人は、「えぇ!そんな事があったのか!信じられない!」という事で、多くの人々がお恵みを受けると思います。
マリア様は皆さん一人一人にこう呼びかけています、「イエズス様はあなたを使って、私の事が知られ、愛されるのを望んでいます。」
もしも皆さんが他の人に、「あぁ、マリア様がファチマで100年前に現われましたよ」と言っても、「ふ~ん、そう」と言うかもしれません。私は東欧の諸国に任命されて、ロシアとか共産主義の下にあった国々に行って、黙想会を開かなければなりませんでした。そこでは無神論の人々がたくさんいました。そこでそのような人々に、ファチマで何が起こったのか、ファチマの奇跡のお話をしたのですが、そうすると今まで何も信じていなかった人が回心して、カトリックを信じるようになりました。
この日本のように物質主義の中にいる国々の中で、ファチマの奇跡というものは非常に重要な意味を持っています。ですからその皆さんこそが、このような出来事があったという事を知らせなくて、一体誰がなさるでしょうか。
もちろん太陽の奇跡というのは、一番重要な内容ではありません。メッセージのもっと重要な内容がありますけれども、その重要なメッセージの内容が本物であるという事を記すハンコが、太陽の奇跡ですから、このハンコも大切なのです。
私はファチマの本を書きました。天使が3回現れて、その次に10月13日までマリア様が現れたお言葉を全てここに書かれています、黙想も書かれています。マリア様が言った言葉それ自体は、 1枚の紙に書き尽くす事ができるほどしかありません、分量としては。イエズス様が仰ったその言葉は、聖書の中ではそんなに分量が多くありませんけれども、1つ1つの言葉について何時間でも黙想する事ができますし、それについて多くの本を書く事もできます、それと同じです。
ファチマのマリア様の一番の重要なテーマが何かという事が分かると、本当にびっくりします。マリア様は、教会が50年間過去無視して、そして時には否定しているような事を強調しているからです。
マリア様がファチマで強調する第1のテーマは、「永遠」に関する事です。
マリア様が強調する私たち一人一人にとって一番大切な事は、「霊魂を救って、一人一人が天国に行く」という事です。「私たちの与えられた短い人生を使って、永遠の命を得る。これこそが最も本質的な事である」とマリア様は言います。
「私たちの人生は非常に短いけれども、永遠を準備する期間である」というこの真実を、現代では皆が忘れ去っていて、誰もその事について話す人はいません。
現代の人々は、「この地上の世界でどれほど楽しむか」だけを考えています。もしもそのような人々がお祈りするとしたらば、この世の地上で「何とか何とかほしい」とか「何とか何とかありますように」という事をお祈りしています。祈るとしても、「この地上で健康で長生きしたい。」「死を迎えるとか、或いは天国に行く、等という事などはそれは一番最後、できるだけ避けて通りたい。」
でもファチマの子供たちは、「私は天国に行けますか?」これです。
「ジャシンタも天国に行けますか?」「はい、天国に行けます。」
「フランシスコはどうですか?」「はい、フランシスコも行きます。でもたくさんのロザリオを唱えなければなりません。」
「では、マリア・ダスネヴェスちゃんは天国にいますか?」「はい、天国にいますよ。」
マリア様は、「私たちにとっての救霊」という非常に大切な問題を、率直にお話しになります。
「アメリアも天国にいますか?」「彼女は、世の終わりまで煉獄にいるでしょう。」
その後にマリア様は、子供たちに地獄の火を見せます。それほど多くの、ものすごい数の霊魂たちが地獄に落ちているという事を見せます。ファチマの最も重要なテーマの1つは、「あぁイエズスよ、地獄の火より守り給え。地獄の火より救い給え。」というこの事です。
マリア様は、「来たる将来、地獄の事を否定する人々が来るだろう。或いは地獄の事を無視して、地獄の事を話さない時が来るだろう。或いは、地獄がたとえあったとしても、『ほぼ空っぽだ』などと言う人が来る時代があるだろう」という事を知っていました。
ファチマのメッセージの内容と第2バチカン公会議の内容を比べるのは、非常に興味があります。
ファチマの最も重要なテーマは、第2バチカン公会議では全く話されていません。地獄の「じ」の字もありません。煉獄の「れ」の字もありません。「天国に行く為に、永遠の命を受ける為に、私たちは戦わなければならない、努力しなければならない」という事は書かれていません。ファチマのマリア様のお言葉はですから、「伝統的な聖伝の公教要理」という事ができます。
第2のファチマの重要なメッセージであって、ファチマのメッセージの核心であり、最も重要なメッセージは、「マリア様の汚れなき御心をこの世に表した」という事です。
歴史の中で最初に、ご自分の汚れなき御心を人類に表した。これが第2回目のご出現です。これこそマリア様の最も深い神秘を、この子供たちを通して世界に知らせた、秘密を明かした事です。マリア様の汚れなき御心という、最も深い神秘と、最も内的な親密な神秘を、世界に啓示したという偉大な日が、この6月13日です。
汚れなき御心を私たちに与えたという事は、マリア様はその存在、マリア様のお持ちになっている全てを私たちに与えた、という事です。終末の時代に天主様が私たちに下さる事ができる最後の手段であり、最後の特効薬です。
1917年6月13日、マリア様はご自分が一体どなたであるか、という事を表わして下さいました。
「おぉ、マリア様よ、あなたは一体どなたですか?」
「はい、私はこれです。汚れなき御心です。」
イエズス様はご自分のお望みの深い秘密を私たちに与え教えてくれました。この事を1語1語、全て暗記していなければなりません。
イエズス様は「私はこれを望んでいる。極めて強い望みを以て、そして願いを以て望んでいる」と言います。
福音によると、イエズス様が最後の晩餐をする時に、「私はこの事を、望みに望んでいた」と言ったその同じ言葉を使って、イエズス様は「私はこの事を望む」と言います。
「私はこの計り知れないほどの大きな望みを以て、マリア様の汚れなき御心の信心が広がる事を望む」と。
なぜイエズス様にとって、そして私たちにとって、汚れなき御心がそれほど重要なのかという理由を、イエズス様は、3つの絵を通して知らせます。
第1、「何故ならば、この汚れなき御心は、霊魂たちを私に引き寄せる磁石だから。」
磁石の効果、効能とは何でしょうか?強力な磁石があると、金属にピタッと引き寄せられてしまいます。一回ピタリとくっ付いてしまうと、磁力が強ければ強いほど、それを離す事はできません。マリア様の汚れなき御心は磁石です。磁石ですから、普通の磁石でしたら引力を自分の方にピタリと付けてしまいます。しかしマリア様の磁石はあまりにも強力なので、この世のもうどうしようもないような罪人でさえも。マリア様の御心へとピタリと引き寄せてしまいます。ところで、この磁石は非常に特殊な磁石で、自分の方に引き寄せるのではなくて、イエズス様に引き寄せる磁石です。
マリア様は自分でもご説明になります、「私の汚れなき御心は、天主へと導く道です。」
この御聖櫃が磁石であると考えてみましょう。この磁石はあまりにも強いので、皆さんがこう御聖堂のドアを空けて入った途端、グワッと引き付けられてしまいます。この御聖櫃は、マリア様の汚れなき御心です。でもマリア様の御心の中にこの御聖櫃の中に、イエズス様がいらっしゃるのです。
イエズス様が使う第2のイメージは、「世界を照らし出す、燃える火の焦点である。」
焦点であるという事は、この光が集中する点であるという事であって、「私は世の光である」と言ったイエズス様の光が全て、マリア様の心に集中して、そしてその集中した光を以てこの世を照らし出しているのです。
イエズス様は、「私の光と、私の愛の焦点である」と言います。光というのは真理の事です。もしも私たちが真理を知ると、「あぁ、」光に照らされて、「あぁ、そうか」と分かります。
マリア様の汚れなき御心のおかげで、私たちは真理、光であるイエズス様を知りました。真理というのは、現実を知る事です。真理だけではありません。天主と私たちを一致させる愛が、私たちを愛するが為に十字架で亡くなったその愛が、マリア様の汚れなき御心を通して、私たちに降り注がれます。
第3のイメージは、「私の憐れみである、生ける水を流し出す泉である。」
この3つのイメージはあまりにも深いので、人間の頭では聖人であっても考え出す事ができなかったと思います。
この3つの事をみると、マリア様の汚れなき御心は、天主様が皆さんと私にどれほど愛を注がれているか、という事を教えてくれます。
天主は憐れな罪人たちを救おうと、極度の、そのできるだけの最高限まで行きます。「私は汚れなき御心に対する崇敬と、そして信心を望んでいる」と言います。
「信心」というのは、個人的なマリア様に対する愛と奉仕の事です。私たちの小さな心とマリア様の偉大な汚れなき御心との一致が、信心です。信心というのは、子供が自分の母親に対して、愛と注意と尊敬を捧げる事です。
しかし「崇敬」というのは、公式な私たちの、私たちが話す天主の最高傑作に対する崇敬の事です。この崇敬というものは、公式の公の儀式によって表されます。
もしもこの2つが地上に確立されているならば、天主様は多くのお恵みを人々に与えます。もしも私たちが少しでもマリア様に信心と崇敬を捧げようと努力するならば、それだけで多くのお恵みを与えます。
しかし第2バチカン公会議においては、この20世紀のこの偉大な出来事については、一言も触れられていませんでした。
1917年6月13日、マリア様はご自分の汚れなき御心の重要さについて説明なさいます。
7月13日には、マリア様はご自分の秘密を明かされます。その秘密というのは、マリア様の汚れなき御心が世の終わりに、終末の時代に一体どのように働いて、どのように事業を達成するのかという事を明かします。汚れなき御心の要求を満たすという事は一体何なのか、後にマリア様は説明します。
マリア様のファチマのテーマは、まず第1には「永遠」についてでした。地獄、煉獄、天国、救霊。
第2は、「汚れなき御心」でした。
第3のテーマは、これは天使のご出現の時から既に表れていますけれども、「罪人の回心の為に力を尽くす」という事です。
ファチマの天使はまず、祈りを以って回心を求めます。この世の人たちは政治・経済などにまずこう集中するかもしれません、「この大臣が何をやったか。」しかし天使は、私たちの注意を別の方に向けます。「我が天主よ、我信じ、」そして天主、真の天主に集中させて、そして私たちと天主との正しい関係を確認させます。
「我、御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」
対神徳といわれている、私たちにとって最も大切な徳をまず確立させます。この世の事、或いは自分の事、或いはこの世に楽園を建設する事だけを考えている人々に、まず天主の事で心を満たすように私たちに呼びかけています。
この地上の政治経済の新聞、或いはニュースだけにあまり捕われずに、天主の知識に満たされて下さい。天主様は私たちの為に、一体どなたであり、一体何をなさって下さっているのかをまず考えてください。しかし、天主については、私たちは信仰によって、信仰を通して学びます。そして天主の事を知れば知るほど、その雰囲気の中にその中に生活し、生きるという事を望むようになります。
天主様の偉大さのみを考えると、天主を礼拝するようになります。このような偉大な天主、そして私の無。私の何でも無いという事を理解すると、私たちは天主を益々愛するようになります。
その後に、「御身を信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、愛さぬ人々の赦しを乞い求め奉る」と赦しを願うようになります。
この世は2つに分かれています。YesとNo。天主を信じるか、信じないか。礼拝するか、しないかです。
この2つの対立の中には対話がありません。対話ではなくて、赦しを乞い求める行為があります。この天主を拒否する事はありえないので、それに対する赦しと回心を求めるのです。
これが今日いう2つの国であって、霊的な戦いです。一方で、天主イエズス様に付き従い、マリア様に従う人々。一方でイエズス様に反対する人々。狭い門を通って、難しい困難な道を通りつつ、天国に行く人々と、多くの亡びの道を簡単な道を歩む人々、2つがあります。
私たちはその2つの道を同時に行く事はできません。2つの主人に同時に仕える事はできません。イエズス様に従わない人々に対して言う事ができるのはこの事だけです、「回心」或いは「赦しを求める」
天主を信ぜぬ人々によって傷付けられ冒されている天主を見ると、私たちはこの彼らの赦しを乞い求めるしかありません。そしてこのそのような人々に対しては回心を乞い求めて、何故かというと、もしも彼らはそのまま、天主に反対したまま生活を終えるならば、永遠に不幸が待っているからです。
第2バチカン公会議の文書の中には、「罪人の回心」とか或いは「罪を償う」という事については一言も言及がなされていません。
マリア様の仰ったのは少ない言葉ですけれども、その内容は非常に重要です。カトリックの真理を認めない人々に対して、1つの態度しかありません。
マリア様がロシアの誤謬について話す時があります。マリア様が「ロシアを汚れなき御心に奉献するように」と求める時があります。2つの効果を約束します。1つは、「ロシアの誤謬が除去される。」つまり共産主義や物質主義が除去される、無くなるという事です。そして「ロシアの離教の人々が、カトリックの真理に立ち戻る」という事です。
これが、マリア様の他の宗教に対する態度です、「告解をしなさい。」或いは「罪の償いの為に御聖体を拝領しなさい。」或いは、「天使が子供たちに、罪の償いの為の聖体拝領させる」という事はプロテスタントでは考えられない事です。プロテスタントにマリア様がどれほど反対されているかという事を示しています。
ファチマはですから、最初から最後までエキュメニズムに反対しています。ですから第2バチカン公会議とファチマは、相入れないものとなっています。
ですからローマが、ファチマの要求されているロシアの汚れなき御心に対する奉献に対して、不誠実なやり方をしている、という事がよく分かります。何故かというと、マリア様の出した条件というのは、非常に単純だからです。マリア様が出された条件の内の半分も満たされずに、奉献がなされています。
私は今ファチマの本の第3巻を書いているのですけれども、そこに詳しくロシアの奉献について皆さんによく知らせたいと思っています。私の今書いている本では、マリア様がロシアの奉献についてこう条件で「こういう風に奉献しなさい」という条件をそのまま書き出して、そしてそれに、それが満たされてないか、かつてなさった教皇様がなさった奉献について吟味してみますが、全て満たした奉献はなされていません。
シスタールチアも自由に話す事ができる間は、そして自分の手紙などで書いた内容を見てみると、「まだなされていない」と言っています。ところがバチカンから突然ニュースを聞いて、「あぁ、もうOKだ。シスタールチアは『もうなされた』という風に言っている」と聞きます。
そこで私の書いた本は、11の理由を挙げて、「それはあり得ない」という事を、「ですからこれは嘘だ」という事を説明しています。
何で私は今こんな事を言わなければならないのでしょうか?
何故かというと、「ファチマ」と「現代の教会の危機」というのは、非常に深い繋がりがあるからです。
「枢機卿様があんな嘘を付くわけありません。」「そうやって嘘を付く事ができるわけありません」などとおっしゃるかもしれません。
でも、「イエズス様は、私たちの宗教と他の宗教たちが1つとなる事を望んでいる」というのはやっぱり嘘じゃないでしょうか?
第2バチカン公会議の、「他の宗教もイエズス様の聖心を喜ばせている」というのは嘘ではないでしょうか?
オッタヴィアーニ枢機卿様の分析によると、「新しいミサはプロテスタントの考えから来て、私たちをプロテスタントの方に引っ張り導くもの」です。それにもかかわらず新しいミサを「偉大なカトリックのミサだ」と提示しているのは、これは嘘ではないでしょうか?
ところで、ファチマのマリア様のメッセージを聞いたり、或いはそれを実行するというような人々を見て、突然「これは冒涜だ!」と言う事ができるでしょうか?いえ、できません。
マリア様のメッセージを聞いて、それを実践する人々は、単純に、伝統的な聖伝の教えに惹かれ、立ち戻る事ができるようになります。
では今から10分の間休憩を取ります。
「イエズス様はあなたを使って、私の事が愛され、知らされる事を望んでいます」
同時通訳:小野田圭志神父
では、お話しを続けましょう。
ではファチマ自体で、ファチマの場所でなされた、マリア様のお言葉と出来事を黙想してみる事にします。
先ほど太陽の奇跡についてお話しましたけれども、太陽の奇跡について詳しいどのような事があったかという事を、写真を持って、或いはそのような本を持って、無関心な人でも、或いはキリスト教を全然を知らないような人にも教えてあげれば、「へぇ~、こんな事もあったのか」ときっとそれに感動すると思います。おそらく日本でもそのような事を知らない人々がたくさんいらっしゃると思います。
教会に敵対していたような人でも、多くの人々が太陽の奇跡で回心しました。その太陽の奇跡の後でも何百、何十万という人々が回心しましたけれども、それはそのような太陽の奇跡があったという事を知らされて、それをそういう事を読んで、或いはそういう事を知って回心しました。
もしもこの日本のような国でも、ファチマで起こっているような事が写真付きで解説付きで、「このような事が起こったのだ」という事を知れば、それを見た人は、「えぇ!そんな事があったのか!信じられない!」という事で、多くの人々がお恵みを受けると思います。
マリア様は皆さん一人一人にこう呼びかけています、「イエズス様はあなたを使って、私の事が知られ、愛されるのを望んでいます。」
もしも皆さんが他の人に、「あぁ、マリア様がファチマで100年前に現われましたよ」と言っても、「ふ~ん、そう」と言うかもしれません。私は東欧の諸国に任命されて、ロシアとか共産主義の下にあった国々に行って、黙想会を開かなければなりませんでした。そこでは無神論の人々がたくさんいました。そこでそのような人々に、ファチマで何が起こったのか、ファチマの奇跡のお話をしたのですが、そうすると今まで何も信じていなかった人が回心して、カトリックを信じるようになりました。
この日本のように物質主義の中にいる国々の中で、ファチマの奇跡というものは非常に重要な意味を持っています。ですからその皆さんこそが、このような出来事があったという事を知らせなくて、一体誰がなさるでしょうか。
もちろん太陽の奇跡というのは、一番重要な内容ではありません。メッセージのもっと重要な内容がありますけれども、その重要なメッセージの内容が本物であるという事を記すハンコが、太陽の奇跡ですから、このハンコも大切なのです。
私はファチマの本を書きました。天使が3回現れて、その次に10月13日までマリア様が現れたお言葉を全てここに書かれています、黙想も書かれています。マリア様が言った言葉それ自体は、 1枚の紙に書き尽くす事ができるほどしかありません、分量としては。イエズス様が仰ったその言葉は、聖書の中ではそんなに分量が多くありませんけれども、1つ1つの言葉について何時間でも黙想する事ができますし、それについて多くの本を書く事もできます、それと同じです。
ファチマのマリア様の一番の重要なテーマが何かという事が分かると、本当にびっくりします。マリア様は、教会が50年間過去無視して、そして時には否定しているような事を強調しているからです。
マリア様がファチマで強調する第1のテーマは、「永遠」に関する事です。
マリア様が強調する私たち一人一人にとって一番大切な事は、「霊魂を救って、一人一人が天国に行く」という事です。「私たちの与えられた短い人生を使って、永遠の命を得る。これこそが最も本質的な事である」とマリア様は言います。
「私たちの人生は非常に短いけれども、永遠を準備する期間である」というこの真実を、現代では皆が忘れ去っていて、誰もその事について話す人はいません。
現代の人々は、「この地上の世界でどれほど楽しむか」だけを考えています。もしもそのような人々がお祈りするとしたらば、この世の地上で「何とか何とかほしい」とか「何とか何とかありますように」という事をお祈りしています。祈るとしても、「この地上で健康で長生きしたい。」「死を迎えるとか、或いは天国に行く、等という事などはそれは一番最後、できるだけ避けて通りたい。」
でもファチマの子供たちは、「私は天国に行けますか?」これです。
「ジャシンタも天国に行けますか?」「はい、天国に行けます。」
「フランシスコはどうですか?」「はい、フランシスコも行きます。でもたくさんのロザリオを唱えなければなりません。」
「では、マリア・ダスネヴェスちゃんは天国にいますか?」「はい、天国にいますよ。」
マリア様は、「私たちにとっての救霊」という非常に大切な問題を、率直にお話しになります。
「アメリアも天国にいますか?」「彼女は、世の終わりまで煉獄にいるでしょう。」
その後にマリア様は、子供たちに地獄の火を見せます。それほど多くの、ものすごい数の霊魂たちが地獄に落ちているという事を見せます。ファチマの最も重要なテーマの1つは、「あぁイエズスよ、地獄の火より守り給え。地獄の火より救い給え。」というこの事です。
マリア様は、「来たる将来、地獄の事を否定する人々が来るだろう。或いは地獄の事を無視して、地獄の事を話さない時が来るだろう。或いは、地獄がたとえあったとしても、『ほぼ空っぽだ』などと言う人が来る時代があるだろう」という事を知っていました。
ファチマのメッセージの内容と第2バチカン公会議の内容を比べるのは、非常に興味があります。
ファチマの最も重要なテーマは、第2バチカン公会議では全く話されていません。地獄の「じ」の字もありません。煉獄の「れ」の字もありません。「天国に行く為に、永遠の命を受ける為に、私たちは戦わなければならない、努力しなければならない」という事は書かれていません。ファチマのマリア様のお言葉はですから、「伝統的な聖伝の公教要理」という事ができます。
第2のファチマの重要なメッセージであって、ファチマのメッセージの核心であり、最も重要なメッセージは、「マリア様の汚れなき御心をこの世に表した」という事です。
歴史の中で最初に、ご自分の汚れなき御心を人類に表した。これが第2回目のご出現です。これこそマリア様の最も深い神秘を、この子供たちを通して世界に知らせた、秘密を明かした事です。マリア様の汚れなき御心という、最も深い神秘と、最も内的な親密な神秘を、世界に啓示したという偉大な日が、この6月13日です。
汚れなき御心を私たちに与えたという事は、マリア様はその存在、マリア様のお持ちになっている全てを私たちに与えた、という事です。終末の時代に天主様が私たちに下さる事ができる最後の手段であり、最後の特効薬です。
1917年6月13日、マリア様はご自分が一体どなたであるか、という事を表わして下さいました。
「おぉ、マリア様よ、あなたは一体どなたですか?」
「はい、私はこれです。汚れなき御心です。」
イエズス様はご自分のお望みの深い秘密を私たちに与え教えてくれました。この事を1語1語、全て暗記していなければなりません。
イエズス様は「私はこれを望んでいる。極めて強い望みを以て、そして願いを以て望んでいる」と言います。
福音によると、イエズス様が最後の晩餐をする時に、「私はこの事を、望みに望んでいた」と言ったその同じ言葉を使って、イエズス様は「私はこの事を望む」と言います。
「私はこの計り知れないほどの大きな望みを以て、マリア様の汚れなき御心の信心が広がる事を望む」と。
なぜイエズス様にとって、そして私たちにとって、汚れなき御心がそれほど重要なのかという理由を、イエズス様は、3つの絵を通して知らせます。
第1、「何故ならば、この汚れなき御心は、霊魂たちを私に引き寄せる磁石だから。」
磁石の効果、効能とは何でしょうか?強力な磁石があると、金属にピタッと引き寄せられてしまいます。一回ピタリとくっ付いてしまうと、磁力が強ければ強いほど、それを離す事はできません。マリア様の汚れなき御心は磁石です。磁石ですから、普通の磁石でしたら引力を自分の方にピタリと付けてしまいます。しかしマリア様の磁石はあまりにも強力なので、この世のもうどうしようもないような罪人でさえも。マリア様の御心へとピタリと引き寄せてしまいます。ところで、この磁石は非常に特殊な磁石で、自分の方に引き寄せるのではなくて、イエズス様に引き寄せる磁石です。
マリア様は自分でもご説明になります、「私の汚れなき御心は、天主へと導く道です。」
この御聖櫃が磁石であると考えてみましょう。この磁石はあまりにも強いので、皆さんがこう御聖堂のドアを空けて入った途端、グワッと引き付けられてしまいます。この御聖櫃は、マリア様の汚れなき御心です。でもマリア様の御心の中にこの御聖櫃の中に、イエズス様がいらっしゃるのです。
イエズス様が使う第2のイメージは、「世界を照らし出す、燃える火の焦点である。」
焦点であるという事は、この光が集中する点であるという事であって、「私は世の光である」と言ったイエズス様の光が全て、マリア様の心に集中して、そしてその集中した光を以てこの世を照らし出しているのです。
イエズス様は、「私の光と、私の愛の焦点である」と言います。光というのは真理の事です。もしも私たちが真理を知ると、「あぁ、」光に照らされて、「あぁ、そうか」と分かります。
マリア様の汚れなき御心のおかげで、私たちは真理、光であるイエズス様を知りました。真理というのは、現実を知る事です。真理だけではありません。天主と私たちを一致させる愛が、私たちを愛するが為に十字架で亡くなったその愛が、マリア様の汚れなき御心を通して、私たちに降り注がれます。
第3のイメージは、「私の憐れみである、生ける水を流し出す泉である。」
この3つのイメージはあまりにも深いので、人間の頭では聖人であっても考え出す事ができなかったと思います。
この3つの事をみると、マリア様の汚れなき御心は、天主様が皆さんと私にどれほど愛を注がれているか、という事を教えてくれます。
天主は憐れな罪人たちを救おうと、極度の、そのできるだけの最高限まで行きます。「私は汚れなき御心に対する崇敬と、そして信心を望んでいる」と言います。
「信心」というのは、個人的なマリア様に対する愛と奉仕の事です。私たちの小さな心とマリア様の偉大な汚れなき御心との一致が、信心です。信心というのは、子供が自分の母親に対して、愛と注意と尊敬を捧げる事です。
しかし「崇敬」というのは、公式な私たちの、私たちが話す天主の最高傑作に対する崇敬の事です。この崇敬というものは、公式の公の儀式によって表されます。
もしもこの2つが地上に確立されているならば、天主様は多くのお恵みを人々に与えます。もしも私たちが少しでもマリア様に信心と崇敬を捧げようと努力するならば、それだけで多くのお恵みを与えます。
しかし第2バチカン公会議においては、この20世紀のこの偉大な出来事については、一言も触れられていませんでした。
1917年6月13日、マリア様はご自分の汚れなき御心の重要さについて説明なさいます。
7月13日には、マリア様はご自分の秘密を明かされます。その秘密というのは、マリア様の汚れなき御心が世の終わりに、終末の時代に一体どのように働いて、どのように事業を達成するのかという事を明かします。汚れなき御心の要求を満たすという事は一体何なのか、後にマリア様は説明します。
マリア様のファチマのテーマは、まず第1には「永遠」についてでした。地獄、煉獄、天国、救霊。
第2は、「汚れなき御心」でした。
第3のテーマは、これは天使のご出現の時から既に表れていますけれども、「罪人の回心の為に力を尽くす」という事です。
ファチマの天使はまず、祈りを以って回心を求めます。この世の人たちは政治・経済などにまずこう集中するかもしれません、「この大臣が何をやったか。」しかし天使は、私たちの注意を別の方に向けます。「我が天主よ、我信じ、」そして天主、真の天主に集中させて、そして私たちと天主との正しい関係を確認させます。
「我、御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」
対神徳といわれている、私たちにとって最も大切な徳をまず確立させます。この世の事、或いは自分の事、或いはこの世に楽園を建設する事だけを考えている人々に、まず天主の事で心を満たすように私たちに呼びかけています。
この地上の政治経済の新聞、或いはニュースだけにあまり捕われずに、天主の知識に満たされて下さい。天主様は私たちの為に、一体どなたであり、一体何をなさって下さっているのかをまず考えてください。しかし、天主については、私たちは信仰によって、信仰を通して学びます。そして天主の事を知れば知るほど、その雰囲気の中にその中に生活し、生きるという事を望むようになります。
天主様の偉大さのみを考えると、天主を礼拝するようになります。このような偉大な天主、そして私の無。私の何でも無いという事を理解すると、私たちは天主を益々愛するようになります。
その後に、「御身を信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、愛さぬ人々の赦しを乞い求め奉る」と赦しを願うようになります。
この世は2つに分かれています。YesとNo。天主を信じるか、信じないか。礼拝するか、しないかです。
この2つの対立の中には対話がありません。対話ではなくて、赦しを乞い求める行為があります。この天主を拒否する事はありえないので、それに対する赦しと回心を求めるのです。
これが今日いう2つの国であって、霊的な戦いです。一方で、天主イエズス様に付き従い、マリア様に従う人々。一方でイエズス様に反対する人々。狭い門を通って、難しい困難な道を通りつつ、天国に行く人々と、多くの亡びの道を簡単な道を歩む人々、2つがあります。
私たちはその2つの道を同時に行く事はできません。2つの主人に同時に仕える事はできません。イエズス様に従わない人々に対して言う事ができるのはこの事だけです、「回心」或いは「赦しを求める」
天主を信ぜぬ人々によって傷付けられ冒されている天主を見ると、私たちはこの彼らの赦しを乞い求めるしかありません。そしてこのそのような人々に対しては回心を乞い求めて、何故かというと、もしも彼らはそのまま、天主に反対したまま生活を終えるならば、永遠に不幸が待っているからです。
第2バチカン公会議の文書の中には、「罪人の回心」とか或いは「罪を償う」という事については一言も言及がなされていません。
マリア様の仰ったのは少ない言葉ですけれども、その内容は非常に重要です。カトリックの真理を認めない人々に対して、1つの態度しかありません。
マリア様がロシアの誤謬について話す時があります。マリア様が「ロシアを汚れなき御心に奉献するように」と求める時があります。2つの効果を約束します。1つは、「ロシアの誤謬が除去される。」つまり共産主義や物質主義が除去される、無くなるという事です。そして「ロシアの離教の人々が、カトリックの真理に立ち戻る」という事です。
これが、マリア様の他の宗教に対する態度です、「告解をしなさい。」或いは「罪の償いの為に御聖体を拝領しなさい。」或いは、「天使が子供たちに、罪の償いの為の聖体拝領させる」という事はプロテスタントでは考えられない事です。プロテスタントにマリア様がどれほど反対されているかという事を示しています。
ファチマはですから、最初から最後までエキュメニズムに反対しています。ですから第2バチカン公会議とファチマは、相入れないものとなっています。
ですからローマが、ファチマの要求されているロシアの汚れなき御心に対する奉献に対して、不誠実なやり方をしている、という事がよく分かります。何故かというと、マリア様の出した条件というのは、非常に単純だからです。マリア様が出された条件の内の半分も満たされずに、奉献がなされています。
私は今ファチマの本の第3巻を書いているのですけれども、そこに詳しくロシアの奉献について皆さんによく知らせたいと思っています。私の今書いている本では、マリア様がロシアの奉献についてこう条件で「こういう風に奉献しなさい」という条件をそのまま書き出して、そしてそれに、それが満たされてないか、かつてなさった教皇様がなさった奉献について吟味してみますが、全て満たした奉献はなされていません。
シスタールチアも自由に話す事ができる間は、そして自分の手紙などで書いた内容を見てみると、「まだなされていない」と言っています。ところがバチカンから突然ニュースを聞いて、「あぁ、もうOKだ。シスタールチアは『もうなされた』という風に言っている」と聞きます。
そこで私の書いた本は、11の理由を挙げて、「それはあり得ない」という事を、「ですからこれは嘘だ」という事を説明しています。
何で私は今こんな事を言わなければならないのでしょうか?
何故かというと、「ファチマ」と「現代の教会の危機」というのは、非常に深い繋がりがあるからです。
「枢機卿様があんな嘘を付くわけありません。」「そうやって嘘を付く事ができるわけありません」などとおっしゃるかもしれません。
でも、「イエズス様は、私たちの宗教と他の宗教たちが1つとなる事を望んでいる」というのはやっぱり嘘じゃないでしょうか?
第2バチカン公会議の、「他の宗教もイエズス様の聖心を喜ばせている」というのは嘘ではないでしょうか?
オッタヴィアーニ枢機卿様の分析によると、「新しいミサはプロテスタントの考えから来て、私たちをプロテスタントの方に引っ張り導くもの」です。それにもかかわらず新しいミサを「偉大なカトリックのミサだ」と提示しているのは、これは嘘ではないでしょうか?
ところで、ファチマのマリア様のメッセージを聞いたり、或いはそれを実行するというような人々を見て、突然「これは冒涜だ!」と言う事ができるでしょうか?いえ、できません。
マリア様のメッセージを聞いて、それを実践する人々は、単純に、伝統的な聖伝の教えに惹かれ、立ち戻る事ができるようになります。
では今から10分の間休憩を取ります。