2017年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話3
「ファチマの聖母:牧童フランシスコの生活:天主を慰める」
同時通訳:小野田圭志神父
ファチマにマリア様が天から来られて、私たちにもう一度カトリックの真理を思い出させている、その重要なテーマを見てみましょう。
ファチマというのは、天主様の偉大な憐れみの、罪人である私たちに対する憐れみについての啓示です。この天主の無限の愛と憐れみが、マリア様の汚れなき御心において現れます。
マリア様の汚れなき御心は、天主がこの世に与えようとした全てのものは何かを示してくれます。この御心から、回心と聖化の全てのお恵みが来ます。この御心を通して、聖霊の息吹きと全ての聖徳が与えられます。
ファチマのテーマのまた別の点は、これは汚れなき御心と関連しているのですけれども、「マリア様が全てのお恵みの仲介者、全ての聖寵の仲介者である」という事です。
この「仲介」というのは、「天主から私たちに」、そして「私たちから天主へ」という二重の行動となっています。
「天主から私たちに」というのは、マリア様の汚れなき御心を通して、全てのお恵みが与えられるという事です。全てのお恵みの根源は、その泉は源は天主様であり、その十字架の御苦難の功徳です。しかしこの泉から、湧き出る泉からそのお恵みが流れ出る運河として、イエズス様は御自分の御母マリア様を選びました。
第2に、「私たちの方から天主に向かう時」には、私たちはマリア様を通してのみ行く事ができます。ファチマについて黙想すればするほど、マリア様は霊妙なる器であって、私たちが天主へと戻る道、唯一の道であるという事が分かります。
第2バチカン公会議の教父たちの望みで最も多くの望みがあったのは、「マリア様が全ての恵みの仲介者である」という事を信仰のドグマとして発表するという事でした。312名の教父たちがそれを要求、お願いしていました。
しかし実際に起こったのはこの反対でした。この要求が願いが完全に無視され拒否されたのみならず、それのみか、マリア様について既に決定されていて発表されたドグマに対しても、一言も言及がなされませんでした。何故かというと、マリア様について話す事は、プロテスタントが喜ばなかったからです。
こうする事によって、第2バチカン公会議はファチマに、マリア様に対して反対する事になりました。
では、マリア様を直接見た人々について見てみましょう。それを見る事によって、その正当な解釈とは何か、内容を知る事ができるからです。マリア様のお言葉自体も大切ですけれども、その言葉を実践した子供たちの生活も更に重要です。マリア様が人間に現れ、この現れを受けた人間はマリア様のメッセージを運ぶ器となります。マリア様はこの器を道具として使って、ご自分のお恵みを全世界に配る道具として使います。
ルルドのメッセージをよく知る為には、マリア様に会って話しを聞いた、聖ベルナデッタの生涯を知らなければなりません。マリア様を直接見た目撃の証人の言葉を吟味する事が非常に大切です。
ところでこの3人の子供たちの全生涯が、このファチマの御出現の後に変わりました。マリア様が望んでいる事を実践したのは、この子供たちが最初でした。ちょうどマリア様の現存を映し出す鏡のようになりました。
マリア様がなさった十字架のしるし、或いは手を合わせる、或いは微笑みを見たベルナデッタは、その通りに十字架を切って、手を合わせて、マリア様の通りに微笑みをした、それを見た人々は回心しました。何故かというと、マリア様を映し出す鏡で、超人間的であったからです。
マリア様を私たちは直接見る事はできないのですけれども、この現れを受けた子供たちの生涯を通して、これを鏡としてマリア様を映し出す事ができます。そこで子供たちの生涯を、マリア様が映し出された鏡として見て、それを真似る事ができます。
マリア様は違ったやり方で3人の子供たちを使います。3人の子供たちは全く性格が違っていました。
まずジャシンタは非常に活動的で活発で、いつも踊っているような子供でした。背は一番小さかったのですけれども、他の2人の子供たちをリードしているエネルギーでいっぱいな子供でした。
そのお兄さんのフランシスコはその反対でした。フランシスコはその体質としてその反対の体質で、プラグマチックな子供、いつも1人でいるのが好きで、考え事をするのが好きな子でした。
ルチアはこの2人のちょうど中間ぐらいでした。しかし、忠実な証人としての性質を持っていました。自分の周囲に何が起こるか、注意深く観察して、それをよく記憶していました。良い記憶力を持っていました。誠実さがありました。
この3人の子供たちのそれぞれの特徴を上手く使いながら、マリア様はご自分のメッセージの核心を本質を伝えます。
フランシスコから始まります。何故かというと、フランシスコが最初に亡くなるからです。フランシスコは御出現があってまだ2年にも経たないような、1919年4月に亡くなるからです。
特にフランシスコは、マリア様を見る事はできたのですけれども、お話しを聞く事はできませんでした。ですから御出現の後にルチアとジャシンタはフランシスコに説明しなければなりません、一体マリア様は何と仰ったのか。
或る人は、「あぁ、フランシスコはそれほど敬虔ではなかったので、マリア様の言葉を聞くほどの資格がなかったのだ」と言います。しかし、それは間違っています。何故かというと、マリア様は理由があって、フランシスコには見せたけれども、聞かせなかったからです。
フランシスコは、孤独であったり、観想したり、物事を深く考えるのが好きな子でした。そこでフランシスコにとって得意なのは、聞くというよりはじっと見つめて、その内容を考えるという事でした。見ながら何か別の事を聞く、というと集中ができないからです。例えば、何かよく話を聞くという時には、よく聞く為に目をつぶって耳を澄ます、という事があります。
ルチアにとっては、マリア様が仰っているという事を聞くという事は非常に大切でした。
でもマリア様は、フランシスコが雑念なしに、見る事だけに専念する事をお望みになりました。そのおかげでフランシスコは、一番深くファチマのビジョンについての理解を得る事ができました。
では、そのような見る事に専念したフランシスコに一番感動を与えた、一番印象を与えたものは何だったのでしょうか?
「僕は、天使を見るのが大好きです。でもマリア様を見るのはもっと好きです。でももっと一番好きなのは、イエズス様を見る事で、マリア様が私たちの心に染み通るような光の内に見せてくれたイエズス様を見るのが好きだ。天主様を本当に愛している。でもこの世の多くの罪の為に、天主様は非常に悲しんでおられる。」
フランシスコは話をすると、いつも天主のこの悲しみについて話します。マリア様の御心における天主のビジョン。しかし罪の為に非常に悲しんでおられる天主。そこでフランシスコの人生は、これからどうやって天主をお慰めするかに尽くすようになりました。
ある時ルチアはフランシスコに言います、「ねぇ、天主様をお慰めするのと、罪人の回心、どっちの方がいい?」
「あぁ、僕は天主様をお慰めする方がいい。その後で罪人を回心するのがいい。何故かというと、罪人が回心したら、天主様をこれ以上悲しませないから。」
これが死に至るまで、フランシスコの生涯の全てでした。フランシスコは身を隠して、天主を祈りと犠牲を以て、天主を慰めよう、慰めようとしていました。
スペイン風邪というインフルエンザで苦しんでいたフランシスコにルチアは聞きます、「あぁ、フランシスコ、苦しい?痛い?苦しいですか?」「はい、とっても苦しい。でもこの苦しみを、主をお慰めする為に捧げています。」
フランシスコが死ぬ前の言葉を聞いてください、「天国に行ったら、天主様をもっと慰めたい。」
このフランシスコが言ったのが、ファチマの霊性の1つです。ファチマの中心は天主です。人間ではありません。
ところでこの世は、天主の御稜威、天主のそれについて全く忘れ去ってしまっています。私たちはともすると、被造物で最も大切だと言われていますが、でも本当は何でもありません。全ての天使と人間を合わせても、天主様と比べれば一滴の水でもありません。
諸聖人は私たちに教えています、「天主様の前で私たちは、全くゴミのような塵のようだ。天主の御前で私たちは全く無に等しい」という事を諸聖人は教えています。フランシスコは、「あぁ、天主様とは本当に素晴らしい方で、言葉にも表せない」と言います。
フランシスコを知っている周りの人々は、「あぁ、ファチマの偉大な御出現を受けたこのフランシスコは、将来一体何になるだろうか?」「ねぇ、フランシスコは大きくなったら何になりたいの?」
「僕は何にもなりたくない。天国に行って、天主様を慰めたい」と言います。
何故かというと、マリア様が既にフランシスコに、「フランシスコは早く天国に連れて行く」と約束していたのを知っていたからです。
「天主が第1である。」そして天主のその御稜威というものを、この小さなフランシスコは私たちに思い出させてくれます。
フランシスコは言います、「この世で存在する唯一の悪がある、それは罪だ。」
ファチマは私たちに、罪とは一体何であるかをよく教えています。ところで最も恐るべき罪というのは、天主の憐れみ、天主の愛を侮辱する事です。被造物が創造主に対して為す、最も恐るべき忘恩であり無関心が、罪です。
もしも私たちに寛大に恵んで下さる恩人がいて、その恩人からもう数知れないほどの恩恵を受けて、恵みを受けたにもかかわらず、その恩人に対して唾を吐きかけて、そしてその殺害さえもしようとするならば、本当に私たちが、罪が一体どのようなものか、という事理解するイメージとなります。
「天主よ、御身は私に全てを、その苦しみ全てを下さいました。しかし私たちはそのような無限の愛に対して、しばしば、非常にしばしば無関心で、しかもその尊い御顔に唾を吐きかけ、そして天主を私たちの霊魂から追い出してしまっています。」
罪とは、この恐ろしさ、このこれほど恐ろしい事であるという事を、フランシスコはよく知っていました、「罪を犯すという事は、本当に恐ろしい事である。」
ところで、天主は罪に対してどのように反応するでしょうか?
もしも皆さんが、皆さんの持っている物を全て誰かに与えようとして、与えたにもかかわらず、その恩を受けた人がそのお礼に、私たちを亡き者にしようと殺害しようとして来るるとしたら、そのような人々に私たちはどのように向かうでしょうか?「怒り」「罰」「追放」などが考えられます。
フランシスコは天主がその反応として、「悲しんでおられる」という事を見ます。「愛する父親は、その子供が、その子供から拒否を受けて非常に悲しんでいる」その悲しみをフランシスコは見ます。
その父親は、私たちを救う為に、御一人子を死にさえも渡してしまうのですけれども、その価値の無いような私たちの為に。その代わりに、私たちから無関心と冒瀆を受けています。その天主の悲しみを黙想すると、天主の悲しみというのは、天主の神秘の内の神秘です。
これはすでに旧約のエレミヤの預言書の中に、天主の悲しみについて、「天主の民が主を拒否する、それに対して悲しんでおられる」という事について語っています。
イエズス様の御生涯は本当に無限の悲しみの生涯でした。御受難の直前にイエズス様はこう言います、「私の霊魂は死なんばかりに悲しむ。」
聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は言います、「聖心は非常に悲しい。何故ならば、愛の代わりに無視と無関心、冒瀆とを受けているから。」
フランシスコは私たちに最善の答えを与えます。それは、「私たちが天主を慰める事ができる」という事です。天主は私たちの心を叩いて、門を叩いてドアをノックするのですけども、人々はそれを開けようともしません。
「おぉイエズス様、あなたは多くの霊魂の門を叩いているのですけれども、誰もあなたに開こうとする人はいません。」
「おぉイエズス様、イエズス様は社会から、或いは家庭から、或いは教会からも追い出されています。」
「御身は創造主であって、師であり、指導者であるにもかかわらず、たった一人ぼっちで、誰も御身の事を気をかけようとしません。」
「国が御身を受ける事を拒否しています。私は自分の心を大きく開いて、御身を受けようと望みます。貧しいながらも、心からの歓迎をしたいと思います。」
「イエズス様、御身は頭を乗せる所さえも、それはないかもしれません。どうぞ私の心に来て下さい。」
「この世の人々がますます御身を拒否するならば、私は御身をますます受け入れたいと思います。」
「御身の事を人々が忘れれば忘れるほど、私は御身の事を考えたいと思います。」
「御身の事を世の人々が『あっちに行け!』と言えば言うほど、私たちは『こっちに来て下さい!』と申します。」
「御身の愛を軽蔑すれば軽蔑するほど、私は御身の愛を敬いたいと思います。」
「この世の人々が御身を悲しみと涙で満たすとすれば、私はますます御身を慰めたいと思います。」
この私たちのような貧しい罪人にとって、このフランシスコの「慰めたい」という望みほど素晴らしい望みはありません。現代において、「天主を愛する」という事が一体何かという事は、非常に重要なレッスンがあります。偉大な神秘家ではなくて、単なる単純な子供たちに、マリア様はその教えを教えてくれます。
フランシスコは偉大な宣教師となって世界中を駆け回るとか、修道生活を送って神秘家となって神秘体験をしたというわけではありません。フランシスコがやったのは、祈りと犠牲を捧げただけでした。ちょうど十字架の道行きで、聖ベロニカがイエズス様に白い布巾を与えたと似ています。たとえその行為自体がそれほど偉大なものでなかったとしても、愛に燃えられたものだったので、非常に大きな意味を持つ事ができます。
マリア様は皆さんに呼びかけています、「じゃあ皆さん、皆さんはこの小さな子供を真似して、主を慰める事はできませんか?」
フランシスコの模範を通して、天主の愛の掟を私たちに教えています。天主を愛する、天主を慰めるという事によって、私たちは天主に対する愛をますますかきたてる事ができます。この世の罪を見ると、或いはこの主を知らない人々が多くいるのを見ると、私たちはますます主を慰めたいと思うようになります。私たちの日常の苦しみや痛みを主に、慰める為に主に捧げようと思うようになります。
このフランシスコの模範は実は、マリア様の持っていた天主に対する偉大な愛を映し出す鏡であったという事が分かります。マリア様が十字架の足もとに立って、麓に立っていた時に、マリア様は何も大きな事を語ったわけではありません。ただイエズス様を慰めようとしていました。
現代、天主の為に使う時間はほとんどありません。ほんの数分お祈りをすると、「あぁ、もうこれはもう退屈だ。あぁ、さぁ何か別の事をしよう」と思うようになります。
しかし、「天主を慰めよう」という思いがあると、私たちの現存、或いは私たちの祈り、或いは私たちの犠牲によって、主に対する愛が沸き起こります。このような態度から来る効果とは、どんな事が引き起こされるでしょうか?
フランシスコは、その「慰めたい」という望みによって聖人になりました。マリア様の助言を聞いて、ファチマのメッセージを実践しようとすると、私たちは非常に短期間の間に、大聖人になる事ができます。
「ファチマの聖母:牧童フランシスコの生活:天主を慰める」
同時通訳:小野田圭志神父
ファチマにマリア様が天から来られて、私たちにもう一度カトリックの真理を思い出させている、その重要なテーマを見てみましょう。
ファチマというのは、天主様の偉大な憐れみの、罪人である私たちに対する憐れみについての啓示です。この天主の無限の愛と憐れみが、マリア様の汚れなき御心において現れます。
マリア様の汚れなき御心は、天主がこの世に与えようとした全てのものは何かを示してくれます。この御心から、回心と聖化の全てのお恵みが来ます。この御心を通して、聖霊の息吹きと全ての聖徳が与えられます。
ファチマのテーマのまた別の点は、これは汚れなき御心と関連しているのですけれども、「マリア様が全てのお恵みの仲介者、全ての聖寵の仲介者である」という事です。
この「仲介」というのは、「天主から私たちに」、そして「私たちから天主へ」という二重の行動となっています。
「天主から私たちに」というのは、マリア様の汚れなき御心を通して、全てのお恵みが与えられるという事です。全てのお恵みの根源は、その泉は源は天主様であり、その十字架の御苦難の功徳です。しかしこの泉から、湧き出る泉からそのお恵みが流れ出る運河として、イエズス様は御自分の御母マリア様を選びました。
第2に、「私たちの方から天主に向かう時」には、私たちはマリア様を通してのみ行く事ができます。ファチマについて黙想すればするほど、マリア様は霊妙なる器であって、私たちが天主へと戻る道、唯一の道であるという事が分かります。
第2バチカン公会議の教父たちの望みで最も多くの望みがあったのは、「マリア様が全ての恵みの仲介者である」という事を信仰のドグマとして発表するという事でした。312名の教父たちがそれを要求、お願いしていました。
しかし実際に起こったのはこの反対でした。この要求が願いが完全に無視され拒否されたのみならず、それのみか、マリア様について既に決定されていて発表されたドグマに対しても、一言も言及がなされませんでした。何故かというと、マリア様について話す事は、プロテスタントが喜ばなかったからです。
こうする事によって、第2バチカン公会議はファチマに、マリア様に対して反対する事になりました。
では、マリア様を直接見た人々について見てみましょう。それを見る事によって、その正当な解釈とは何か、内容を知る事ができるからです。マリア様のお言葉自体も大切ですけれども、その言葉を実践した子供たちの生活も更に重要です。マリア様が人間に現れ、この現れを受けた人間はマリア様のメッセージを運ぶ器となります。マリア様はこの器を道具として使って、ご自分のお恵みを全世界に配る道具として使います。
ルルドのメッセージをよく知る為には、マリア様に会って話しを聞いた、聖ベルナデッタの生涯を知らなければなりません。マリア様を直接見た目撃の証人の言葉を吟味する事が非常に大切です。
ところでこの3人の子供たちの全生涯が、このファチマの御出現の後に変わりました。マリア様が望んでいる事を実践したのは、この子供たちが最初でした。ちょうどマリア様の現存を映し出す鏡のようになりました。
マリア様がなさった十字架のしるし、或いは手を合わせる、或いは微笑みを見たベルナデッタは、その通りに十字架を切って、手を合わせて、マリア様の通りに微笑みをした、それを見た人々は回心しました。何故かというと、マリア様を映し出す鏡で、超人間的であったからです。
マリア様を私たちは直接見る事はできないのですけれども、この現れを受けた子供たちの生涯を通して、これを鏡としてマリア様を映し出す事ができます。そこで子供たちの生涯を、マリア様が映し出された鏡として見て、それを真似る事ができます。
マリア様は違ったやり方で3人の子供たちを使います。3人の子供たちは全く性格が違っていました。
まずジャシンタは非常に活動的で活発で、いつも踊っているような子供でした。背は一番小さかったのですけれども、他の2人の子供たちをリードしているエネルギーでいっぱいな子供でした。
そのお兄さんのフランシスコはその反対でした。フランシスコはその体質としてその反対の体質で、プラグマチックな子供、いつも1人でいるのが好きで、考え事をするのが好きな子でした。
ルチアはこの2人のちょうど中間ぐらいでした。しかし、忠実な証人としての性質を持っていました。自分の周囲に何が起こるか、注意深く観察して、それをよく記憶していました。良い記憶力を持っていました。誠実さがありました。
この3人の子供たちのそれぞれの特徴を上手く使いながら、マリア様はご自分のメッセージの核心を本質を伝えます。
フランシスコから始まります。何故かというと、フランシスコが最初に亡くなるからです。フランシスコは御出現があってまだ2年にも経たないような、1919年4月に亡くなるからです。
特にフランシスコは、マリア様を見る事はできたのですけれども、お話しを聞く事はできませんでした。ですから御出現の後にルチアとジャシンタはフランシスコに説明しなければなりません、一体マリア様は何と仰ったのか。
或る人は、「あぁ、フランシスコはそれほど敬虔ではなかったので、マリア様の言葉を聞くほどの資格がなかったのだ」と言います。しかし、それは間違っています。何故かというと、マリア様は理由があって、フランシスコには見せたけれども、聞かせなかったからです。
フランシスコは、孤独であったり、観想したり、物事を深く考えるのが好きな子でした。そこでフランシスコにとって得意なのは、聞くというよりはじっと見つめて、その内容を考えるという事でした。見ながら何か別の事を聞く、というと集中ができないからです。例えば、何かよく話を聞くという時には、よく聞く為に目をつぶって耳を澄ます、という事があります。
ルチアにとっては、マリア様が仰っているという事を聞くという事は非常に大切でした。
でもマリア様は、フランシスコが雑念なしに、見る事だけに専念する事をお望みになりました。そのおかげでフランシスコは、一番深くファチマのビジョンについての理解を得る事ができました。
では、そのような見る事に専念したフランシスコに一番感動を与えた、一番印象を与えたものは何だったのでしょうか?
「僕は、天使を見るのが大好きです。でもマリア様を見るのはもっと好きです。でももっと一番好きなのは、イエズス様を見る事で、マリア様が私たちの心に染み通るような光の内に見せてくれたイエズス様を見るのが好きだ。天主様を本当に愛している。でもこの世の多くの罪の為に、天主様は非常に悲しんでおられる。」
フランシスコは話をすると、いつも天主のこの悲しみについて話します。マリア様の御心における天主のビジョン。しかし罪の為に非常に悲しんでおられる天主。そこでフランシスコの人生は、これからどうやって天主をお慰めするかに尽くすようになりました。
ある時ルチアはフランシスコに言います、「ねぇ、天主様をお慰めするのと、罪人の回心、どっちの方がいい?」
「あぁ、僕は天主様をお慰めする方がいい。その後で罪人を回心するのがいい。何故かというと、罪人が回心したら、天主様をこれ以上悲しませないから。」
これが死に至るまで、フランシスコの生涯の全てでした。フランシスコは身を隠して、天主を祈りと犠牲を以て、天主を慰めよう、慰めようとしていました。
スペイン風邪というインフルエンザで苦しんでいたフランシスコにルチアは聞きます、「あぁ、フランシスコ、苦しい?痛い?苦しいですか?」「はい、とっても苦しい。でもこの苦しみを、主をお慰めする為に捧げています。」
フランシスコが死ぬ前の言葉を聞いてください、「天国に行ったら、天主様をもっと慰めたい。」
このフランシスコが言ったのが、ファチマの霊性の1つです。ファチマの中心は天主です。人間ではありません。
ところでこの世は、天主の御稜威、天主のそれについて全く忘れ去ってしまっています。私たちはともすると、被造物で最も大切だと言われていますが、でも本当は何でもありません。全ての天使と人間を合わせても、天主様と比べれば一滴の水でもありません。
諸聖人は私たちに教えています、「天主様の前で私たちは、全くゴミのような塵のようだ。天主の御前で私たちは全く無に等しい」という事を諸聖人は教えています。フランシスコは、「あぁ、天主様とは本当に素晴らしい方で、言葉にも表せない」と言います。
フランシスコを知っている周りの人々は、「あぁ、ファチマの偉大な御出現を受けたこのフランシスコは、将来一体何になるだろうか?」「ねぇ、フランシスコは大きくなったら何になりたいの?」
「僕は何にもなりたくない。天国に行って、天主様を慰めたい」と言います。
何故かというと、マリア様が既にフランシスコに、「フランシスコは早く天国に連れて行く」と約束していたのを知っていたからです。
「天主が第1である。」そして天主のその御稜威というものを、この小さなフランシスコは私たちに思い出させてくれます。
フランシスコは言います、「この世で存在する唯一の悪がある、それは罪だ。」
ファチマは私たちに、罪とは一体何であるかをよく教えています。ところで最も恐るべき罪というのは、天主の憐れみ、天主の愛を侮辱する事です。被造物が創造主に対して為す、最も恐るべき忘恩であり無関心が、罪です。
もしも私たちに寛大に恵んで下さる恩人がいて、その恩人からもう数知れないほどの恩恵を受けて、恵みを受けたにもかかわらず、その恩人に対して唾を吐きかけて、そしてその殺害さえもしようとするならば、本当に私たちが、罪が一体どのようなものか、という事理解するイメージとなります。
「天主よ、御身は私に全てを、その苦しみ全てを下さいました。しかし私たちはそのような無限の愛に対して、しばしば、非常にしばしば無関心で、しかもその尊い御顔に唾を吐きかけ、そして天主を私たちの霊魂から追い出してしまっています。」
罪とは、この恐ろしさ、このこれほど恐ろしい事であるという事を、フランシスコはよく知っていました、「罪を犯すという事は、本当に恐ろしい事である。」
ところで、天主は罪に対してどのように反応するでしょうか?
もしも皆さんが、皆さんの持っている物を全て誰かに与えようとして、与えたにもかかわらず、その恩を受けた人がそのお礼に、私たちを亡き者にしようと殺害しようとして来るるとしたら、そのような人々に私たちはどのように向かうでしょうか?「怒り」「罰」「追放」などが考えられます。
フランシスコは天主がその反応として、「悲しんでおられる」という事を見ます。「愛する父親は、その子供が、その子供から拒否を受けて非常に悲しんでいる」その悲しみをフランシスコは見ます。
その父親は、私たちを救う為に、御一人子を死にさえも渡してしまうのですけれども、その価値の無いような私たちの為に。その代わりに、私たちから無関心と冒瀆を受けています。その天主の悲しみを黙想すると、天主の悲しみというのは、天主の神秘の内の神秘です。
これはすでに旧約のエレミヤの預言書の中に、天主の悲しみについて、「天主の民が主を拒否する、それに対して悲しんでおられる」という事について語っています。
イエズス様の御生涯は本当に無限の悲しみの生涯でした。御受難の直前にイエズス様はこう言います、「私の霊魂は死なんばかりに悲しむ。」
聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は言います、「聖心は非常に悲しい。何故ならば、愛の代わりに無視と無関心、冒瀆とを受けているから。」
フランシスコは私たちに最善の答えを与えます。それは、「私たちが天主を慰める事ができる」という事です。天主は私たちの心を叩いて、門を叩いてドアをノックするのですけども、人々はそれを開けようともしません。
「おぉイエズス様、あなたは多くの霊魂の門を叩いているのですけれども、誰もあなたに開こうとする人はいません。」
「おぉイエズス様、イエズス様は社会から、或いは家庭から、或いは教会からも追い出されています。」
「御身は創造主であって、師であり、指導者であるにもかかわらず、たった一人ぼっちで、誰も御身の事を気をかけようとしません。」
「国が御身を受ける事を拒否しています。私は自分の心を大きく開いて、御身を受けようと望みます。貧しいながらも、心からの歓迎をしたいと思います。」
「イエズス様、御身は頭を乗せる所さえも、それはないかもしれません。どうぞ私の心に来て下さい。」
「この世の人々がますます御身を拒否するならば、私は御身をますます受け入れたいと思います。」
「御身の事を人々が忘れれば忘れるほど、私は御身の事を考えたいと思います。」
「御身の事を世の人々が『あっちに行け!』と言えば言うほど、私たちは『こっちに来て下さい!』と申します。」
「御身の愛を軽蔑すれば軽蔑するほど、私は御身の愛を敬いたいと思います。」
「この世の人々が御身を悲しみと涙で満たすとすれば、私はますます御身を慰めたいと思います。」
この私たちのような貧しい罪人にとって、このフランシスコの「慰めたい」という望みほど素晴らしい望みはありません。現代において、「天主を愛する」という事が一体何かという事は、非常に重要なレッスンがあります。偉大な神秘家ではなくて、単なる単純な子供たちに、マリア様はその教えを教えてくれます。
フランシスコは偉大な宣教師となって世界中を駆け回るとか、修道生活を送って神秘家となって神秘体験をしたというわけではありません。フランシスコがやったのは、祈りと犠牲を捧げただけでした。ちょうど十字架の道行きで、聖ベロニカがイエズス様に白い布巾を与えたと似ています。たとえその行為自体がそれほど偉大なものでなかったとしても、愛に燃えられたものだったので、非常に大きな意味を持つ事ができます。
マリア様は皆さんに呼びかけています、「じゃあ皆さん、皆さんはこの小さな子供を真似して、主を慰める事はできませんか?」
フランシスコの模範を通して、天主の愛の掟を私たちに教えています。天主を愛する、天主を慰めるという事によって、私たちは天主に対する愛をますますかきたてる事ができます。この世の罪を見ると、或いはこの主を知らない人々が多くいるのを見ると、私たちはますます主を慰めたいと思うようになります。私たちの日常の苦しみや痛みを主に、慰める為に主に捧げようと思うようになります。
このフランシスコの模範は実は、マリア様の持っていた天主に対する偉大な愛を映し出す鏡であったという事が分かります。マリア様が十字架の足もとに立って、麓に立っていた時に、マリア様は何も大きな事を語ったわけではありません。ただイエズス様を慰めようとしていました。
現代、天主の為に使う時間はほとんどありません。ほんの数分お祈りをすると、「あぁ、もうこれはもう退屈だ。あぁ、さぁ何か別の事をしよう」と思うようになります。
しかし、「天主を慰めよう」という思いがあると、私たちの現存、或いは私たちの祈り、或いは私たちの犠牲によって、主に対する愛が沸き起こります。このような態度から来る効果とは、どんな事が引き起こされるでしょうか?
フランシスコは、その「慰めたい」という望みによって聖人になりました。マリア様の助言を聞いて、ファチマのメッセージを実践しようとすると、私たちは非常に短期間の間に、大聖人になる事ができます。