アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は聖ヨアキムの祝日でした。聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂では歌ミサが行われ、18名の方々がミサに参加されました。天主様に感謝!
ところで、昨日は、聖母の被昇天でしたが、私たちは聖なる教会の導きに従い、聖母の汚れなき御心に対する日本の奉献を更新しました。
ファチマでは、聖母は教皇様が全カトリック司教たちと一致して、ロシアを「聖母の汚れなき御心への奉献」することをお求めになりました。
そこで今回、「聖母への奉献」とはどのようなことかを考察してみます。
まず「奉献」という言葉を考えてみます。ファチマでは Consecration (a consagração da Rússia a Meu Imaculado Coração)と言う言葉が使われました。
普通カトリックの用語では consecration というと、ある特別な聖なる儀式により、天主のためだけの(排他的な)奉仕のために、永久に捧げられること、区別されること、を意味します。例えば、教会という建物・場所・空間が天主の礼拝だけのために特別の儀式によって世俗の建物と区別され天主のものとして「聖別」される、とか、カリスも、特別の儀式を持って世俗の用途に使うことは禁止され、天主の礼拝のためだけに使われるものとして「聖別」される、清貧・貞潔・従順の誓願を立てた修道生活によりある童貞女が天主への祈りと奉仕のために「聖別」される、イエズス・キリストの最高司祭である司教として「聖別」される、などと言われます。
これを見ると、 consecration を受けると、
1)世俗一般のために使われることができなくなる。
2)聖なる天主のためにのみ使われる。天主のために直接的に排他的に使われる。
3)一時的ではなく、永久に、恒常的にそうなる。
4)単に固く決めてそう意志するのでは足りず、その意志を外的に聖なる儀式で表明しなければならない。
そこで、厳格な意味で consecration を見ると、天主に直接に関わることであると分かります。
しかし、私たちをよりよく天主に聖別するために、それを達成させるための最高の手段として、最も容易な手段として、聖母の汚れなき御心に対する consecration が語られています。そこで、私たちは天主に私たちを「聖別」するためのものとしてなされる、聖母に対する consecration を「奉献」と呼びましょう。
聖母は、天主のもとで、天地の元后として憐れみの普遍の権能を持っています。臣下は、女王に属し、女王に対する服従の義務があるからです。また、贖われた全人類の霊的な母親としての権能を持っています。子供は母親に属し、従順の義務があるからです。
聖母に自らを奉献することは、天主の御心に適うことです。何故なら、
1)天主が、ご自分の最高傑作である聖母に与えた権能を認めることだから。
2)天主が私たちにイエズス・キリストを与えるのは聖母を通してだったように、私たちがイエズス・キリストへと到達するのも聖母を通してであるから。(天主の聖子イエズス・キリストは、聖母を選びその子供になることを望んだ。私たちも超自然の命に聖母によって生まれた。)
3)私たちは、イエズス・キリストの真似をしなければならないが、聖母への奉献はイエズス・キリストの模範に真似ることだから。(子供の親に対する孝愛は、通常の場合、自分の人生を全て母親に与えることまでは要求しない。しかし時には、病の親の面倒を見るために、自分を犠牲にする子供もいる。イエズス・キリストは30年間聖母に従って過ごした。)
聖母への奉献には、様々な形態があります。
1)奉献される人の代わりに誰か別の人が奉献する場合
洗礼を受けた子供が親に連れられて聖母像の前に行き、子供を聖母に奉献する。まだ子供が母の胎内にいるときに、母親が自分の子供を聖母に奉献する。これらは子供たちを聖母のものとして捧げ、聖母の保護を願うという意味を持っています。
2)自分で自らを奉献する場合
これにもいろいろな意味があります。
まず、自らを奉献し、その結果自分は何かをする義務を身に負うというよりは、自らを奉献して、聖母が聖母ご自身のものとして保護を受けることを願うという意味の奉献があります。
これは、聖母が私たちに有している女王としての権利と母としての権利を認め、元后のしもべとして天の母の子供としての自分を認識・確認しますが、だからといって聖母のために特別の奉仕を約束したりそのために自分を拘束するというわけではありません。聖母に与えるというよりは、聖母から受けるということをより多く考えています。聖母の保護のもとに自らを置く、聖母の援助のもとに自分を置く、ということであって、聖母のしもべとして自ら一肌脱いで働く、犠牲となる、聖母の御旨を果たす、というわけではありません。
聖母に「わが目、わが耳、わが口、わが五感、わが人格全てをあり余すところなく奉献する」のですが、その結果「従って、私の全ての力を使って、私は御身に従い、御身を讃美し、御身のために働き、御身の御旨を果たす」というのではなく、「私は御身に属するのだから、わが良き母よ、御身のものとして所有物として、私を守り、保護し給え」と祈ります。
次に、自らを全て聖母に奉献し、その結果、自分は聖母の利益のために、聖母の意向のために、働く義務を身に負うという意味の奉献があります。たとえば、聖母を愛するために、身分上の努めを忠実に果たし、良き模範と愛徳と忍耐と祈りと犠牲をもって多くの霊魂をイエズス・キリストへの真の知識と愛とに導こうと努めるという奉献です。聖母をあいするために、聖母を喜ばせるために、罪人を批判・非難することよりは、罪人のために祈り、罪人に代わって償いと犠牲を捧げて、我が身を使うという奉献です。自らの奉献を生きるという能動的な奉献です。私たちの全生活の全ての瞬間において、聖母の模範と意向とに従って、考え・感じ取り・語り・行動するように積極的に身を粉(こ)にするということです。このうち最も完全な奉献・最高度の奉献は、聖グリニョン・ド・モンフォールによる奉献です。
ところで、かつて日本の司教様たちが一致して聖母の汚れなき御心に日本を奉献したその奉献文を見てみましょう。すると、この「聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈」が優れていることが分かります。
聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈
【奉献】
いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民を御身の汚れなき御心に奉献し、そのすべてを御身の保護に委ね奉らんと欲す。
【奉献の結果:聖母の保護のもとに入る・聖母は自分の所有物として守る・受動的態度】
願わくは聖母、慈しみの御まなざしもてわれらの心をみそなわし給え。
ああ、人々真理にうとく、その心くらみ、罪の汚れに染み、諸国はまた互いに分かれて相争い、天主の霊威を傷つけ、御身の御心を悲しませ参らするなり。
【奉献の結果:聖母の助けにより、聖母のものとして、聖母のために、苦しみを捧げる聖母にならう・能動的態度】
されどわれら日本国民は、ひたすらに光をしたい、平和をこいねがうものなれば、願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。
われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。
願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
かくて、われらは同胞、相互にたすけはげまし、諸国は正義と愛のきずなもて結ばれ、もって世界は、とこしなえに平和を楽しむにいたらんことを望む。
願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。
【聖母の汚れなき御心のミサの集祷文】
天主の聖母、われらのために祈り給え。
キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
祈願 全能永遠なる天主、主は童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは、御あわれみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン
聖母の汚れなき御心に日本が司教様たちによって奉献されていることを感謝すると共に、聖母の御助けを持って、この信心を私たちがいつも実践しますように!われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は聖ヨアキムの祝日でした。聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂では歌ミサが行われ、18名の方々がミサに参加されました。天主様に感謝!
ところで、昨日は、聖母の被昇天でしたが、私たちは聖なる教会の導きに従い、聖母の汚れなき御心に対する日本の奉献を更新しました。
ファチマでは、聖母は教皇様が全カトリック司教たちと一致して、ロシアを「聖母の汚れなき御心への奉献」することをお求めになりました。
そこで今回、「聖母への奉献」とはどのようなことかを考察してみます。
まず「奉献」という言葉を考えてみます。ファチマでは Consecration (a consagração da Rússia a Meu Imaculado Coração)と言う言葉が使われました。
普通カトリックの用語では consecration というと、ある特別な聖なる儀式により、天主のためだけの(排他的な)奉仕のために、永久に捧げられること、区別されること、を意味します。例えば、教会という建物・場所・空間が天主の礼拝だけのために特別の儀式によって世俗の建物と区別され天主のものとして「聖別」される、とか、カリスも、特別の儀式を持って世俗の用途に使うことは禁止され、天主の礼拝のためだけに使われるものとして「聖別」される、清貧・貞潔・従順の誓願を立てた修道生活によりある童貞女が天主への祈りと奉仕のために「聖別」される、イエズス・キリストの最高司祭である司教として「聖別」される、などと言われます。
これを見ると、 consecration を受けると、
1)世俗一般のために使われることができなくなる。
2)聖なる天主のためにのみ使われる。天主のために直接的に排他的に使われる。
3)一時的ではなく、永久に、恒常的にそうなる。
4)単に固く決めてそう意志するのでは足りず、その意志を外的に聖なる儀式で表明しなければならない。
そこで、厳格な意味で consecration を見ると、天主に直接に関わることであると分かります。
しかし、私たちをよりよく天主に聖別するために、それを達成させるための最高の手段として、最も容易な手段として、聖母の汚れなき御心に対する consecration が語られています。そこで、私たちは天主に私たちを「聖別」するためのものとしてなされる、聖母に対する consecration を「奉献」と呼びましょう。
聖母は、天主のもとで、天地の元后として憐れみの普遍の権能を持っています。臣下は、女王に属し、女王に対する服従の義務があるからです。また、贖われた全人類の霊的な母親としての権能を持っています。子供は母親に属し、従順の義務があるからです。
聖母に自らを奉献することは、天主の御心に適うことです。何故なら、
1)天主が、ご自分の最高傑作である聖母に与えた権能を認めることだから。
2)天主が私たちにイエズス・キリストを与えるのは聖母を通してだったように、私たちがイエズス・キリストへと到達するのも聖母を通してであるから。(天主の聖子イエズス・キリストは、聖母を選びその子供になることを望んだ。私たちも超自然の命に聖母によって生まれた。)
3)私たちは、イエズス・キリストの真似をしなければならないが、聖母への奉献はイエズス・キリストの模範に真似ることだから。(子供の親に対する孝愛は、通常の場合、自分の人生を全て母親に与えることまでは要求しない。しかし時には、病の親の面倒を見るために、自分を犠牲にする子供もいる。イエズス・キリストは30年間聖母に従って過ごした。)
聖母への奉献には、様々な形態があります。
1)奉献される人の代わりに誰か別の人が奉献する場合
洗礼を受けた子供が親に連れられて聖母像の前に行き、子供を聖母に奉献する。まだ子供が母の胎内にいるときに、母親が自分の子供を聖母に奉献する。これらは子供たちを聖母のものとして捧げ、聖母の保護を願うという意味を持っています。
2)自分で自らを奉献する場合
これにもいろいろな意味があります。
まず、自らを奉献し、その結果自分は何かをする義務を身に負うというよりは、自らを奉献して、聖母が聖母ご自身のものとして保護を受けることを願うという意味の奉献があります。
これは、聖母が私たちに有している女王としての権利と母としての権利を認め、元后のしもべとして天の母の子供としての自分を認識・確認しますが、だからといって聖母のために特別の奉仕を約束したりそのために自分を拘束するというわけではありません。聖母に与えるというよりは、聖母から受けるということをより多く考えています。聖母の保護のもとに自らを置く、聖母の援助のもとに自分を置く、ということであって、聖母のしもべとして自ら一肌脱いで働く、犠牲となる、聖母の御旨を果たす、というわけではありません。
聖母に「わが目、わが耳、わが口、わが五感、わが人格全てをあり余すところなく奉献する」のですが、その結果「従って、私の全ての力を使って、私は御身に従い、御身を讃美し、御身のために働き、御身の御旨を果たす」というのではなく、「私は御身に属するのだから、わが良き母よ、御身のものとして所有物として、私を守り、保護し給え」と祈ります。
次に、自らを全て聖母に奉献し、その結果、自分は聖母の利益のために、聖母の意向のために、働く義務を身に負うという意味の奉献があります。たとえば、聖母を愛するために、身分上の努めを忠実に果たし、良き模範と愛徳と忍耐と祈りと犠牲をもって多くの霊魂をイエズス・キリストへの真の知識と愛とに導こうと努めるという奉献です。聖母をあいするために、聖母を喜ばせるために、罪人を批判・非難することよりは、罪人のために祈り、罪人に代わって償いと犠牲を捧げて、我が身を使うという奉献です。自らの奉献を生きるという能動的な奉献です。私たちの全生活の全ての瞬間において、聖母の模範と意向とに従って、考え・感じ取り・語り・行動するように積極的に身を粉(こ)にするということです。このうち最も完全な奉献・最高度の奉献は、聖グリニョン・ド・モンフォールによる奉献です。
ところで、かつて日本の司教様たちが一致して聖母の汚れなき御心に日本を奉献したその奉献文を見てみましょう。すると、この「聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈」が優れていることが分かります。
聖母の汚れなき御心に日本を捧ぐる祈
【奉献】
いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民を御身の汚れなき御心に奉献し、そのすべてを御身の保護に委ね奉らんと欲す。
【奉献の結果:聖母の保護のもとに入る・聖母は自分の所有物として守る・受動的態度】
願わくは聖母、慈しみの御まなざしもてわれらの心をみそなわし給え。
ああ、人々真理にうとく、その心くらみ、罪の汚れに染み、諸国はまた互いに分かれて相争い、天主の霊威を傷つけ、御身の御心を悲しませ参らするなり。
【奉献の結果:聖母の助けにより、聖母のものとして、聖母のために、苦しみを捧げる聖母にならう・能動的態度】
されどわれら日本国民は、ひたすらに光をしたい、平和をこいねがうものなれば、願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。
われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。
願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
かくて、われらは同胞、相互にたすけはげまし、諸国は正義と愛のきずなもて結ばれ、もって世界は、とこしなえに平和を楽しむにいたらんことを望む。
願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。
【聖母の汚れなき御心のミサの集祷文】
天主の聖母、われらのために祈り給え。
キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
祈願 全能永遠なる天主、主は童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは、御あわれみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン
聖母の汚れなき御心に日本が司教様たちによって奉献されていることを感謝すると共に、聖母の御助けを持って、この信心を私たちがいつも実践しますように!われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)