2017年5月6日(初土)シュテーリン神父様霊的講話 大阪
同時通訳:小野田圭志神父
秋田では、聖母の汚れなき御心の信心に対しての基本的な本質的な点を見ました。
マリア様が子供たちを通して与えようとしたそのメッセージの1つ1つを、子供たちの生活の生き方を見ながら考察しました。フランシスコを通して、「慰める、罪によって犯された天主を慰める」という事を見ました。ジャシンタを通して、「かわいそうな罪人たちを救う」という事を見ました。ルチアの生活を通しては、「毎瞬毎瞬の常なる汚れなき御心との一致」について黙想しました。
それから初土にマリア様が一体何を信心として求めているかも黙想しました。私たちに求められている償いの精神というのは何かを黙想しました。初土において私たちが実践しようとしているのはこれです。
それから重要なもう1つの点は、「聖別・奉献」という事です。
マリア様は「ロシアの聖母の御心への奉献」という特別な奉献を要求されました。1929年6月13日トゥイで、マリア様は汚れなき御心はシスタールチアにこう言いました、「時がやって来ました。教皇様が全ての全世界のカトリックの司教様と一致して、ロシアを私の汚れなき御心への奉献を要求する時が来ました。」
私たちの主やマリア様は、色々な国や色々な団体が汚れなき御心に奉献されるように求めてきました。では、この汚れなき御心への奉献というのは一体何なのでしょうか?
ロシアの奉献によって、マリア様は特別のお恵みを与えようと準備しています。ですからこの奉献というのは非常に大切なのです。もしもこの奉献がなされるならば、ロシアはカトリック信仰に立ち戻ります。これはそれだけで奇跡です。それのみならず、ロシアの誤謬が広がるのをストップさせる。ではロシアの誤謬というのは、ロシアがその誤謬を運搬する道具となって使われている、その手段となっている誤謬がストップされるという事です。つまり無神論や共産主義です。
もしも私たちが信心を持っているならば、まず最初に私自身をマリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。マリア様に奉献する、自分を奉献するといのは、イエズス様がなさった事を私たちが真似る事です。イエズス様は、私たちがイエズス様と同じ事をするように求めているのです、「私はあなたたちに模範を与えた。私がしたようにお前たちがする事ができるように。」
30年間イエズス様がなさった事は、マリア様に全く依存していたという事です。イエズス様はそれから贖いの事業、大事業をマリア様と一緒になさったという事です。もしもイエズス様が私たちにその模範を与えて下さったように、私たちがそれをイエズス様に真似なければならないならば、私たちはイエズス様がマリア様になさったように、私たち全てを委ねなければなりません。それが奉献です。イエズス様はマリア様に全く従順で、全く依存していたので、イエズス様が30年間の私生活の間でなさった事は、マリア様のお望みだけでした。
ですから奉献というのは、私たち自身をマリア様に与える事です。
これは個人的な秘密のものではなくて、公の行為です。「マリア様に全く自分を与えます」という願いや、或いはそういう思いや、そういう頭の中だけの事という事と、公の奉献の行為というものを区別しなければなりません。例えば色んなお祈りや色んな歌にも、「我が身を捧げ奉る」という言葉はあります。しかしそのお祈りや歌というのはまだ個人的な望みであって、その望みが公に奉献という形で実現されたものではありません。本当の奉献というものには、私たちがそれを与えるという事を表明する「意思の表明」がなければなりません。そして一回それを与えたら、それを取り戻さないという事です。
私たちがマリア様にする事ができる最高の贈り物は、自分自身を与え尽くす事です。もしもこのような奉献がなければ、私たちのいくらどのような信心があっても、それは表面的で、真面目なものとはいえません。もしもこの奉献も口先だけであって、この本当にマリア様に日常の生活において従順であり、日常の生活においてマリア様に依存して、「マリア様の意向は何か」という聞きながらの生活でなければ、口先だけに留まってしまいます。ですからマリア様への真の信心というのは必ずこの奉献によって刻印されなければなりません。この強い意思の決定がなければ、私たちが絶対的にマリア様に所属して依存しているとは言い切れません。
グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様への真の信心はこの奉献から始まる」と言います。ですからこの奉献をする事によって、私の意志は今後、金輪際、マリア様の良き子供として生きる、マリア様の良き奴隷として生活するという事を表明します。
先程コルベ神父様のした奉献の祈りを更新しました。この奉献は特別の目的があって、今後私の言葉や考え、或いは行為が全て、マリア様の汚れなき御心の御手の中に委ねられているという表明です。
奉献はまず私たち自身から始まります。しかしもしも本当にマリア様に所属したい、マリア様に属したいというこの事の良さが、素晴らしさが分かれば、自分だけではなく家族が皆マリア様に所属するように、或いは私のほんのちょっとだけではなく、私の全てを、できるだけのものがマリア様のもとにあるようにという事を望みます。
どなたかご結婚なさっている方がマリア様への信心を持つとしたら、当然の事ながら自分だけではなく、この「自分の家族全てがマリア様のもとにあるように」という事で、この家族全部をマリア様に奉献するのは当然の事です。
司祭も同じです。司祭だけが自分で奉献してそれで良いというのではなくて、司祭が世話をしなければならない霊魂たち全てがマリア様のもとに奉献されて、マリア様のもとにある、守られている、このマリア様のものとしてされているという事を望みます。
皆さんの職場も同じです。皆さんの職場でこの働いている方々が、職場での同僚が、或いは全てのこの職場の方々が、マリア様のもとで働く事の素晴らしさが理解できるので、それを望みます。
私たちは知らなければなりません。マリア様がこの奉献によってどれほど信じられないようなお恵みを私たちに、このお返しして下さるかという事をよく知っていなければなりません。奉献というのは寛大な行為の事です。私たちが「私たちの持っているものをマリア様与えたい、差し上げたい、全てあげたい」と言うのですから、マリア様もそれを見て非常に喜ばれて、それを見て「感謝したい、それを以って更にもっと何かお礼をしたい」と思っているからです。
非常に興味がある事は、ファチマでマリア様は私たち個人個人が奉献するという事をお話になるかなぁと思うのですけれどもそうではなくて、ロシアの奉献をお願いするのです。何故なのでしょうか?
他ではなくロシアの奉献を望んだ、お願いしたという理由は、2つ指摘されています。
まず第1は、ロシアの民は13世紀にキリスト教の信仰を受け入れましたが、そのキリスト教を受け入れたその時以来、非常にマリア様に対する信心の厚い民族でした。
残念ながらその後になると東方の離教にのってしまって、カトリックの信仰から離れてしまうのですけれども、しかしそれはロシアの一般民衆のせいではなくて、それの指導者たちのせいでそうなってしまったのです。長い間、自分のせいではなくその指導者の、一部の指導者のおかげで本当の教会でのお恵みを受ける事ができなくなってしまったロシアの一般の民衆たちの、そのマリア様に対する信心のある民衆を、何とかしてマリア様は助けたいと思っておられるからです。
マリア様への信心が最初からこのように厚くあって、そして残念ながら離教に陥ってしまったとしても、それにもかかわらずマリア様に対する信心を非常に熱心に保ち続けている民族というのは、他に歴史上にはありませんでした。
また「聖なるロシア」という言い方があって、シアタ・ルシア(Святая Русь)という言い方があります。また「天主によって選ばれた聖なる民族である」という言い方もあります。
ロシアの家庭ではどこの家でもマリア様のイコンがあります。そしてそのイコンの無いようなロシアの家はありません。しかしそれにもかかわらず、700年の間カトリックの真の一致から離れてしまっているのです。
後にソ連になった政治的な構造とか機構とは、ロシアと区別しなければなりません。或いは現代の政治的なロシアと言われる国とは区別しなければなりません。マリア様によれば、このロシアというのは民族の事を指すのであって、残念ながらカトリックとは離れてしまった離教のロシアの民族の人々の事を指しています。
ロシアというこの領土の中には、例えばシベリアの方に住んでいるキリスト教を知らないような異教徒などもいますが、そのような人々は聖なるロシアという民族の中には数えられていません。またロシアの南部にはイスラム教徒もいますけれども、民族としての聖なるロシアの中には含まれていません。
それで今政治的には国境があってロシアという国の中には属していない別の国々の中でも、聖なるロシアに属するような民族が住んでいます。例えば白ロシアとかウクライナとか。残念ながらかわいそうな事に、自分たちの過失ではなくカトリックの一致から離れてしまっていながらも、しかもマリア様に対する愛と信心を持っている人々民族に、マリア様は特別の眼差しを注いでいるという事です。そのかわいそうなこの人々は民族は、自分から望んだのではないにもかかわらず離教の状態であって、しかも1917年以降は共産主義の道具として使われています。
100年前、十月革命が起こったのとマリア様が現れたのはほぼ似たような時期でした。ですから私たちは、「ファチマとモスクワとの対立」と言う事ができると思います。これがロシアの重要性の第2の点です。
人類の歴史の内に、1つの国家がこれほど悪魔の手に陥ってしまったという事は過去かつて無かったからです。マリア様はこのロシアに住んでいる多くの人民が、それを望んでいないという事をよくご覧になっています。自分の共産主義のリーダーたちの為に一番苦しんだのはロシアの人々です。マリア様はですから、特別のお祈りの十字軍と犠牲の十字軍によって、このような人々が救われるのをお望みになっています。
そこでマリア様は、祈りの十字軍、或いは犠牲の十字軍よりももっとすごい事をお願いしました。それがロシアの奉献です。
まずここに問題があります。一体自分以外の誰かが、どうして私を奉献する事ができるでしょうか?
もしも私が奉献されるのを望まないのに、別の人が私を奉献するとしたら、どうしてそれができるのでしょうか?
もしも「そうなれば良いなぁ」「そうなって欲しい」「そうなって下さい」という敬虔な望みであれば、まぁそういう事もできましょう。「天主様のあわれみが彼らに与えられますように」という望み、願いであれば簡単にできます。例えば家族の中で、家族の一員の誰かが信仰から離れてしまった。なのでこの家族をその方を、「マリア様がどうぞ、また引き戻して下さい」という事を願いつつ奉献をする、いう事は有り得ます。
しかしこのような、「あぁ、ロシアがマリア様の方に元に戻りますように」という単純な願いだけであれば、教皇様が全世界のカトリックの司教様たちと一緒になってロシアを奉献する、などという公の奉献を要求するほどの必要はありません。この背景には教会の非常に重要な教えが含まれています、隠れています。
教会の教えによれば、「誰か他の人々の救いが達成されるか否かというのは、その他の誰かの祈りに効果的に懸かっている」という事です。
「もしも私たちが本当に霊魂の救いの為に祈るならば、そして犠牲を捧げるならば、本当に彼らは救われる恵みを得る。しかし私たちが祈らないならば、彼らは滅びてしまう、という事が現実に行われている」という事です。
ピオ十二世教皇様が『ミスティチ・コルポリス』という回勅の中で、この教えを公に、公式に教えました。マリア様もファチマで同じ事を確認しました、「多くの霊魂たちが地獄に行っています。何故ならば、彼らの為に祈り犠牲をする人がいないからです。」
この教えが、無原罪の聖母の騎士の創立の基礎にある教えです。私たちの手の中にある多くの霊魂を救う事ができるという特別の力です。そのこの教えの結論というのはここまで行きます。つまり、「もしもそのような道具が、この霊魂の救いの為に祈り、犠牲を払うという道具がなければ、マリア様が見つける事ができなければ、マリア様は彼らに何もする事ができない」という事です。
私たちはその祈りと犠牲によってこの人の霊魂、あの人のだけではなく、家族全部の、或いはこの会社の、或いはこのグループの霊魂の救いさえも委ねられています。
もしも私たちが心から日本の方々の霊魂の救いの為に祈り、犠牲を捧げるならば、しかもマリア様の道具としてこれを捧げるならば、マリア様は多くの人々を霊魂を救って下さいます。同じ事も国の全部の回心についても言えます。日本の方々の回心の為に祈る事ができるように、日本全部の回心の為にも祈る事ができます。
マリア様の道具としてそのお祈りを捧げるならば、マリア様がそのご存知のやり方でそれを達成する事ができます。そこでマリア様はロシアの奉献をお願いしたのです。マリア様はお祈りや犠牲をお願いしただけではありません、もっとお願いしました。
マリア様はこの民族を全て、完壁にマリア様のもとに差し上げるという事をお願いしました。もしも私たちがこうしたら何が起こるでしょうか?
この人々は二重の障害を提示します。その障害の1つは、「カトリックにはなりたくない」と。第2の障害は、「反キリスト教的な指導者のもとにいる」という事です。この奉献をする事によってロシアの人々を、反キリスト教的なそのような指導者たちに対する攻撃の武器と矛先を変えるという事ができるという事です。
ここに共産主義の赤軍がいたとします。皆ロシア人です。「共産党の為に戦う!」「神はいない!」もしも、そういう事を言わなければ虐殺されてしまいますから、言わなければなりません。ですから皆「カトリック教会は悪い!」と言っています。
皆さんがそこで武器をその赤軍の方に向けます。私たちの武器というのはつまり、彼らの為にお祈りをして、そして犠牲を捧げて、彼らを聖母の汚れなき御心に奉献するという事です。私たちのこの祈りや奉献は、ちょうど弾丸のように彼らの方に行きます。1つ1つの弾丸は特別のお恵みをもたらします。このようなお恵みは「準備の恵み」と神学では言われます。
そのようなお恵みを受けると、この赤軍の人たちは、「あっ、本当に自分の指導者は正しいんだろうか?」と疑い始めます。また或る者は、この反キリスト教的な指導者のもとに従う事によって面白くも可笑しくも何でもなくなります。或る者はインターネットとか或いはビラとか、何かの手段によってカトリックの信仰に導かれます。もしもマリア様が与えるならば、そのようなお恵みが一国に全部に満たされます。モスクワからウラジオストック、それからイルクーツクからそのロシアの北の果ての所まで全て満たされるので、そのお恵みに抵抗する事ができなくなります。それが遂には全ロシアの回心のお恵みを生み出す事になります。全世界の最悪の天主の敵の手先となる、というものから解放されるようになります。
もしもその事を考えると、皆さんがお祈りをするのではなくて、教皇様が全世界のカトリックの司教様と一緒になって奉献するという事の重要さが分かります。
何故かというと、この奉献には特別の価値があるという事を意味するからです。皆さん誰でも私たち自身を汚れなき御心に奉献しなければなりませんし、他の人々をできる限り奉献するようにしなければなりません。しかしファチマでは、この奉献が最高の権威当局によってなされる事を求めました。
ところで、教皇様が全てのカトリックの司教様たちと一緒になって何かをするという事はいつもある話ではありません、非常に稀に行なわれる事です。過去21回、公会議が開かれた時にのみ行われました。教会に存在する最も重要な諸件を一緒になって対処する為に特別の機会を設けて、特別のやり方で対応する、というのが公会議で、教皇様のもとに全ての司教が集まってなされる事ですから、その事をそれと同じような特別さを要求したのです。ファチマではマリア様はこれと同じレベルの事を重要性を要求したのです、「教皇様が全てのカトリック司教様と一緒になって奉献するように。」
では一体何故、何でそんな事を要求したのでしょうか?
まず何故かに答える前に、この事を知らなければなりません、「現在に至るまで、どの教皇様も、そのような全世界の司教様と一緒になってロシアを奉献するという事は一度もなしていなかった」という事です。私は今、ファチマの本の第3巻目を書いています。さっきも書いていました。何故かというと、この御聖堂とあとマリア様を見てそうすると、特別のインスピレーションが湧いてきて、この空っぽの頭の中に何か良い知恵が湧いてくるからです。
その第3巻の第3章では、現在に至るまでこの奉献がマリア様の要求に従ってなされたか、なされていなかったかについて考察しました。過去教皇様がなされた事を見ると分析すると、マリア様の仰ったようなやり方でやった教皇様はかつていませんでした。
最もそれに近かった価値のあったものは、ピオ十二世教皇様が1943年に、全世界を汚れなき御心に奉献した時の事でした。1943年には全世界を教皇様が奉献しましたけれども、ロシアの事を暗示させるような事がありました。しかしピオ十二世教皇様がお一人でなさって、全ての司教と一緒にやるという事には至りませんでした。
この奉献の為には6つの条件がありました。
第1に、これは「奉献」でなければなりません。
第2に、「教皇様が、全世界のカトリック司教と共に」しなければなりません。つまり教皇様が全世界の司教様たちに、「これをしなさい」と命令しなければなりません。
そして「ロシア」という名前が出てこなければなりません。はっきりと明確に、ロシアという名を提示してなさらなければなりません。
これは、「マリア様の汚れなき御心に」奉献されなければなりません。
次に、「償いの行為」も伴わなければなりません。
第6の点もあるのですけれども、それは今ちょっと失念してしまいました。
過去の教皇様たちがなさった奉献を分析すると、多くヨハネ・パウロ二世が何回かしていますけれども、大体「ロシア」という名前が出てきません。またつい最近ではなされましたけれども「奉献」というのではなくて、「委託」という言葉になっていました。「委託」というのと「奉献」というのは意味が違います。例えば子供がいて、保育園に「ちょっとこれをあの預かってて下さい、委託します」というのは奉献ではありません。
シスタールチアが証言しています、「かつてなされた教皇様のやった奉献は、マリア様の御旨に沿ったやり方で奉献がなされたのではない」という証言がずっとあります。
ところが、2000年の6月に出てきた聖座からのファチマに関する第3の秘密に関する文書によると、突然、「シスタールチアの証言によれば、奉献はなされた」事になってしまいました。「ルチアは喜んでいる」と言われています。その証拠にシスタールチアの手紙を引用します。そして手紙のコピーも付けました。でも残念な事にこれはタイプライターで書かれています。ところでこのグルーナー神父様の研究によれば、「11の理由によって、シスタールチアが『そんな事は、ロシアの奉献がなされたという事は一度も言っていない』と言っているし、『しかもそのようなタイプの手紙は偽物だ』」と言っています。
では、かつてマリア様がお願いした事がなかったような事を、また将来もお願いする事がないようなこの事を、何故マリア様は要求したのでしょうか。
まず第1に、ファチマのメッセージがどれほど重要であるかという事を示す為です。メッセージが重要であればあるほど、それをする事ができるのは最も権威のある人だけがする事ができるからです。もしもマリア様が、これほど重要な最高の権威によって行為がなされなければならない、という事を要求したのならば、このメッセージがどれほど重要であるかという事を意味しています。
第2に、教会の最高の権威がこうやって最高の行為をするという事は、これは教会の不可謬権に関わる事であるからです。最後に不可謬権を行使して教会がドグマを決定したのは、1950年ピオ十二世教皇様がマリア様の被昇天、霊魂と肉体が共に天国に上げられたという事を定義した時でした。
マリア様に関するドグマでもう1つ、教会がドグマとして発表するように全て準備ができていて、これを発表するだけになっている信仰の教義があります。これが、「マリア様が全てのお恵みの仲介者である」というドグマです。本来ならば、第ニバチカン公会議のかなりのきわめて多い教父たちがそのドグマを公式に発表して宣言する事を要求していたので、請願していたので、本来ならば第ニバチカン公会議で、「マリア様が全てのお恵みの仲介者である」という事が教義発表されるべきでありました。残念ながら、第ニバチカン公会議が近代主義の神学者たちによって乗っ取られてしまったので、これがキャンセルになりました。
マリア様の、ファチマのマリア様の中核にあるドグマ的な教義的なメッセージは、汚れなき御心がそのシンボルである、「マリア様が全ての恵みの中継者である、仲介者である」という教義です。
ところで、もしもファチマでマリア様が最高の、反キリスト教的な国がカトリックに立ち戻るという最高のお恵みの行使を実践を行うならば、これこそがマリア様が全てのお恵みの中継者である、仲介者であるという事の証拠になります。
ブラザークラウスと私は何度も何度もロシアに関わってきました。ブラザーはロシアに何度も私よりもっと多く行ってきました。ブラザーもよく知っているのですけれども、ロシアに行って、カトリックに回心するという事は全く不可能というか、もう話にもならない。カトリックの信仰というのは全くロシアには無いのです。正教会の人々はオーソドックスの人々は、カトリックを憎んでいます。例外の、少数の例外はありますけれども、でも全ロシアがそうだという事はもう不可能です。
だからこそマリア様は10月に太陽の奇跡を起こされました。これはやっぱり不可能な事です。ここに10月に集いにやって来た50%60%以上の人々は、笑いに来ました、「そのような事は、奇跡が起こるという事は無い」と思って来ました。でもそれが起こりました。かつて見た事がないような大奇跡を見て帰りました。
教会から離れて何百年も経ち、天主の敵となって公式に戦っているこの国が、カトリック教会に立ち戻るというのは最も目を見張るような奇跡です。
ここには2つの要素があります。
まず第1には、「マリア様が一体どなたであるか」という事が入っています。もしも教皇様がそのマリア様のメッセージを信じない限り、近代主義に染まっている限り何も行われないでしょう。
例えばこの今の教皇様、或いはその次の教皇様がファチマに行かれると、マリア様がいきなり教皇様の前に現れて、「我が子よ、もしもあなたが態度を変えないならば、この今目の前の大地を開いて、あなたが行くべき所を見せますよ、さあ。」「ハッ!お母様、一体私は何をすれば良いのでしょうか?」「私の要求を満たしなさい、私の要求した通りに叶えなさい。ローマにはちゃんと文書が準備ができていて、私の『全ての聖寵の仲介者である聖母』という教義発表の文書も全て、発表されるだけになって待っている。それを発表しなさい。ロシアの奉献をやりなさい。」
そして教皇様がそれを聞いて、「はい、分かりました」と言って全ての司教様たちに手紙を書いて、「私たちはマリア様が全てのお恵みの仲介者であると信じます。そしてこれを私たちが全て信じなければならないように、ドグマとして宣言します。」「そしてマリア様がお望みになった通り、最も悪く取り扱われてきた、指導者によって悪く取り扱われてきたこのかわいそうな民をロシアを、あなたの汚れなき御心にお望みの通り奉献します。」
時間が迫っているので、私はこの第3巻にたくさん色々な事をロシアの奉献について書きました。この第3巻の最後の章です。
たとえ私たち自身が教皇様でなかったとしても、奉献の祈りは天主の心に非常に適うものです。そこで皆さんに提案します。
(小野田神父曰く「もちろん、神父様の提案は私たちにとっては命令ですけれども」(^_^))
聖ピオ十世会の奉献の祈りがありますが、この「聖ピオ十世会と司祭、修道士、」そこに、「そして日本」と是非付けて下さい。そしてそれによって多くの恵みが来るというのを確信して下さい。するとこの日本の回心がもたらされます。そしてこれを毎月初土に、これを唱えて下さい。時々家で個人的に唱えて下さい。
それから皆さん、御聖堂のここにまだ席が空いているので、この空いている席にお友達を招いて下さい。
ご清聴ありがとうございました。祝福を受けて下さい。
同時通訳:小野田圭志神父
秋田では、聖母の汚れなき御心の信心に対しての基本的な本質的な点を見ました。
マリア様が子供たちを通して与えようとしたそのメッセージの1つ1つを、子供たちの生活の生き方を見ながら考察しました。フランシスコを通して、「慰める、罪によって犯された天主を慰める」という事を見ました。ジャシンタを通して、「かわいそうな罪人たちを救う」という事を見ました。ルチアの生活を通しては、「毎瞬毎瞬の常なる汚れなき御心との一致」について黙想しました。
それから初土にマリア様が一体何を信心として求めているかも黙想しました。私たちに求められている償いの精神というのは何かを黙想しました。初土において私たちが実践しようとしているのはこれです。
それから重要なもう1つの点は、「聖別・奉献」という事です。
マリア様は「ロシアの聖母の御心への奉献」という特別な奉献を要求されました。1929年6月13日トゥイで、マリア様は汚れなき御心はシスタールチアにこう言いました、「時がやって来ました。教皇様が全ての全世界のカトリックの司教様と一致して、ロシアを私の汚れなき御心への奉献を要求する時が来ました。」
私たちの主やマリア様は、色々な国や色々な団体が汚れなき御心に奉献されるように求めてきました。では、この汚れなき御心への奉献というのは一体何なのでしょうか?
ロシアの奉献によって、マリア様は特別のお恵みを与えようと準備しています。ですからこの奉献というのは非常に大切なのです。もしもこの奉献がなされるならば、ロシアはカトリック信仰に立ち戻ります。これはそれだけで奇跡です。それのみならず、ロシアの誤謬が広がるのをストップさせる。ではロシアの誤謬というのは、ロシアがその誤謬を運搬する道具となって使われている、その手段となっている誤謬がストップされるという事です。つまり無神論や共産主義です。
もしも私たちが信心を持っているならば、まず最初に私自身をマリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。マリア様に奉献する、自分を奉献するといのは、イエズス様がなさった事を私たちが真似る事です。イエズス様は、私たちがイエズス様と同じ事をするように求めているのです、「私はあなたたちに模範を与えた。私がしたようにお前たちがする事ができるように。」
30年間イエズス様がなさった事は、マリア様に全く依存していたという事です。イエズス様はそれから贖いの事業、大事業をマリア様と一緒になさったという事です。もしもイエズス様が私たちにその模範を与えて下さったように、私たちがそれをイエズス様に真似なければならないならば、私たちはイエズス様がマリア様になさったように、私たち全てを委ねなければなりません。それが奉献です。イエズス様はマリア様に全く従順で、全く依存していたので、イエズス様が30年間の私生活の間でなさった事は、マリア様のお望みだけでした。
ですから奉献というのは、私たち自身をマリア様に与える事です。
これは個人的な秘密のものではなくて、公の行為です。「マリア様に全く自分を与えます」という願いや、或いはそういう思いや、そういう頭の中だけの事という事と、公の奉献の行為というものを区別しなければなりません。例えば色んなお祈りや色んな歌にも、「我が身を捧げ奉る」という言葉はあります。しかしそのお祈りや歌というのはまだ個人的な望みであって、その望みが公に奉献という形で実現されたものではありません。本当の奉献というものには、私たちがそれを与えるという事を表明する「意思の表明」がなければなりません。そして一回それを与えたら、それを取り戻さないという事です。
私たちがマリア様にする事ができる最高の贈り物は、自分自身を与え尽くす事です。もしもこのような奉献がなければ、私たちのいくらどのような信心があっても、それは表面的で、真面目なものとはいえません。もしもこの奉献も口先だけであって、この本当にマリア様に日常の生活において従順であり、日常の生活においてマリア様に依存して、「マリア様の意向は何か」という聞きながらの生活でなければ、口先だけに留まってしまいます。ですからマリア様への真の信心というのは必ずこの奉献によって刻印されなければなりません。この強い意思の決定がなければ、私たちが絶対的にマリア様に所属して依存しているとは言い切れません。
グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様への真の信心はこの奉献から始まる」と言います。ですからこの奉献をする事によって、私の意志は今後、金輪際、マリア様の良き子供として生きる、マリア様の良き奴隷として生活するという事を表明します。
先程コルベ神父様のした奉献の祈りを更新しました。この奉献は特別の目的があって、今後私の言葉や考え、或いは行為が全て、マリア様の汚れなき御心の御手の中に委ねられているという表明です。
奉献はまず私たち自身から始まります。しかしもしも本当にマリア様に所属したい、マリア様に属したいというこの事の良さが、素晴らしさが分かれば、自分だけではなく家族が皆マリア様に所属するように、或いは私のほんのちょっとだけではなく、私の全てを、できるだけのものがマリア様のもとにあるようにという事を望みます。
どなたかご結婚なさっている方がマリア様への信心を持つとしたら、当然の事ながら自分だけではなく、この「自分の家族全てがマリア様のもとにあるように」という事で、この家族全部をマリア様に奉献するのは当然の事です。
司祭も同じです。司祭だけが自分で奉献してそれで良いというのではなくて、司祭が世話をしなければならない霊魂たち全てがマリア様のもとに奉献されて、マリア様のもとにある、守られている、このマリア様のものとしてされているという事を望みます。
皆さんの職場も同じです。皆さんの職場でこの働いている方々が、職場での同僚が、或いは全てのこの職場の方々が、マリア様のもとで働く事の素晴らしさが理解できるので、それを望みます。
私たちは知らなければなりません。マリア様がこの奉献によってどれほど信じられないようなお恵みを私たちに、このお返しして下さるかという事をよく知っていなければなりません。奉献というのは寛大な行為の事です。私たちが「私たちの持っているものをマリア様与えたい、差し上げたい、全てあげたい」と言うのですから、マリア様もそれを見て非常に喜ばれて、それを見て「感謝したい、それを以って更にもっと何かお礼をしたい」と思っているからです。
非常に興味がある事は、ファチマでマリア様は私たち個人個人が奉献するという事をお話になるかなぁと思うのですけれどもそうではなくて、ロシアの奉献をお願いするのです。何故なのでしょうか?
他ではなくロシアの奉献を望んだ、お願いしたという理由は、2つ指摘されています。
まず第1は、ロシアの民は13世紀にキリスト教の信仰を受け入れましたが、そのキリスト教を受け入れたその時以来、非常にマリア様に対する信心の厚い民族でした。
残念ながらその後になると東方の離教にのってしまって、カトリックの信仰から離れてしまうのですけれども、しかしそれはロシアの一般民衆のせいではなくて、それの指導者たちのせいでそうなってしまったのです。長い間、自分のせいではなくその指導者の、一部の指導者のおかげで本当の教会でのお恵みを受ける事ができなくなってしまったロシアの一般の民衆たちの、そのマリア様に対する信心のある民衆を、何とかしてマリア様は助けたいと思っておられるからです。
マリア様への信心が最初からこのように厚くあって、そして残念ながら離教に陥ってしまったとしても、それにもかかわらずマリア様に対する信心を非常に熱心に保ち続けている民族というのは、他に歴史上にはありませんでした。
また「聖なるロシア」という言い方があって、シアタ・ルシア(Святая Русь)という言い方があります。また「天主によって選ばれた聖なる民族である」という言い方もあります。
ロシアの家庭ではどこの家でもマリア様のイコンがあります。そしてそのイコンの無いようなロシアの家はありません。しかしそれにもかかわらず、700年の間カトリックの真の一致から離れてしまっているのです。
後にソ連になった政治的な構造とか機構とは、ロシアと区別しなければなりません。或いは現代の政治的なロシアと言われる国とは区別しなければなりません。マリア様によれば、このロシアというのは民族の事を指すのであって、残念ながらカトリックとは離れてしまった離教のロシアの民族の人々の事を指しています。
ロシアというこの領土の中には、例えばシベリアの方に住んでいるキリスト教を知らないような異教徒などもいますが、そのような人々は聖なるロシアという民族の中には数えられていません。またロシアの南部にはイスラム教徒もいますけれども、民族としての聖なるロシアの中には含まれていません。
それで今政治的には国境があってロシアという国の中には属していない別の国々の中でも、聖なるロシアに属するような民族が住んでいます。例えば白ロシアとかウクライナとか。残念ながらかわいそうな事に、自分たちの過失ではなくカトリックの一致から離れてしまっていながらも、しかもマリア様に対する愛と信心を持っている人々民族に、マリア様は特別の眼差しを注いでいるという事です。そのかわいそうなこの人々は民族は、自分から望んだのではないにもかかわらず離教の状態であって、しかも1917年以降は共産主義の道具として使われています。
100年前、十月革命が起こったのとマリア様が現れたのはほぼ似たような時期でした。ですから私たちは、「ファチマとモスクワとの対立」と言う事ができると思います。これがロシアの重要性の第2の点です。
人類の歴史の内に、1つの国家がこれほど悪魔の手に陥ってしまったという事は過去かつて無かったからです。マリア様はこのロシアに住んでいる多くの人民が、それを望んでいないという事をよくご覧になっています。自分の共産主義のリーダーたちの為に一番苦しんだのはロシアの人々です。マリア様はですから、特別のお祈りの十字軍と犠牲の十字軍によって、このような人々が救われるのをお望みになっています。
そこでマリア様は、祈りの十字軍、或いは犠牲の十字軍よりももっとすごい事をお願いしました。それがロシアの奉献です。
まずここに問題があります。一体自分以外の誰かが、どうして私を奉献する事ができるでしょうか?
もしも私が奉献されるのを望まないのに、別の人が私を奉献するとしたら、どうしてそれができるのでしょうか?
もしも「そうなれば良いなぁ」「そうなって欲しい」「そうなって下さい」という敬虔な望みであれば、まぁそういう事もできましょう。「天主様のあわれみが彼らに与えられますように」という望み、願いであれば簡単にできます。例えば家族の中で、家族の一員の誰かが信仰から離れてしまった。なのでこの家族をその方を、「マリア様がどうぞ、また引き戻して下さい」という事を願いつつ奉献をする、いう事は有り得ます。
しかしこのような、「あぁ、ロシアがマリア様の方に元に戻りますように」という単純な願いだけであれば、教皇様が全世界のカトリックの司教様たちと一緒になってロシアを奉献する、などという公の奉献を要求するほどの必要はありません。この背景には教会の非常に重要な教えが含まれています、隠れています。
教会の教えによれば、「誰か他の人々の救いが達成されるか否かというのは、その他の誰かの祈りに効果的に懸かっている」という事です。
「もしも私たちが本当に霊魂の救いの為に祈るならば、そして犠牲を捧げるならば、本当に彼らは救われる恵みを得る。しかし私たちが祈らないならば、彼らは滅びてしまう、という事が現実に行われている」という事です。
ピオ十二世教皇様が『ミスティチ・コルポリス』という回勅の中で、この教えを公に、公式に教えました。マリア様もファチマで同じ事を確認しました、「多くの霊魂たちが地獄に行っています。何故ならば、彼らの為に祈り犠牲をする人がいないからです。」
この教えが、無原罪の聖母の騎士の創立の基礎にある教えです。私たちの手の中にある多くの霊魂を救う事ができるという特別の力です。そのこの教えの結論というのはここまで行きます。つまり、「もしもそのような道具が、この霊魂の救いの為に祈り、犠牲を払うという道具がなければ、マリア様が見つける事ができなければ、マリア様は彼らに何もする事ができない」という事です。
私たちはその祈りと犠牲によってこの人の霊魂、あの人のだけではなく、家族全部の、或いはこの会社の、或いはこのグループの霊魂の救いさえも委ねられています。
もしも私たちが心から日本の方々の霊魂の救いの為に祈り、犠牲を捧げるならば、しかもマリア様の道具としてこれを捧げるならば、マリア様は多くの人々を霊魂を救って下さいます。同じ事も国の全部の回心についても言えます。日本の方々の回心の為に祈る事ができるように、日本全部の回心の為にも祈る事ができます。
マリア様の道具としてそのお祈りを捧げるならば、マリア様がそのご存知のやり方でそれを達成する事ができます。そこでマリア様はロシアの奉献をお願いしたのです。マリア様はお祈りや犠牲をお願いしただけではありません、もっとお願いしました。
マリア様はこの民族を全て、完壁にマリア様のもとに差し上げるという事をお願いしました。もしも私たちがこうしたら何が起こるでしょうか?
この人々は二重の障害を提示します。その障害の1つは、「カトリックにはなりたくない」と。第2の障害は、「反キリスト教的な指導者のもとにいる」という事です。この奉献をする事によってロシアの人々を、反キリスト教的なそのような指導者たちに対する攻撃の武器と矛先を変えるという事ができるという事です。
ここに共産主義の赤軍がいたとします。皆ロシア人です。「共産党の為に戦う!」「神はいない!」もしも、そういう事を言わなければ虐殺されてしまいますから、言わなければなりません。ですから皆「カトリック教会は悪い!」と言っています。
皆さんがそこで武器をその赤軍の方に向けます。私たちの武器というのはつまり、彼らの為にお祈りをして、そして犠牲を捧げて、彼らを聖母の汚れなき御心に奉献するという事です。私たちのこの祈りや奉献は、ちょうど弾丸のように彼らの方に行きます。1つ1つの弾丸は特別のお恵みをもたらします。このようなお恵みは「準備の恵み」と神学では言われます。
そのようなお恵みを受けると、この赤軍の人たちは、「あっ、本当に自分の指導者は正しいんだろうか?」と疑い始めます。また或る者は、この反キリスト教的な指導者のもとに従う事によって面白くも可笑しくも何でもなくなります。或る者はインターネットとか或いはビラとか、何かの手段によってカトリックの信仰に導かれます。もしもマリア様が与えるならば、そのようなお恵みが一国に全部に満たされます。モスクワからウラジオストック、それからイルクーツクからそのロシアの北の果ての所まで全て満たされるので、そのお恵みに抵抗する事ができなくなります。それが遂には全ロシアの回心のお恵みを生み出す事になります。全世界の最悪の天主の敵の手先となる、というものから解放されるようになります。
もしもその事を考えると、皆さんがお祈りをするのではなくて、教皇様が全世界のカトリックの司教様と一緒になって奉献するという事の重要さが分かります。
何故かというと、この奉献には特別の価値があるという事を意味するからです。皆さん誰でも私たち自身を汚れなき御心に奉献しなければなりませんし、他の人々をできる限り奉献するようにしなければなりません。しかしファチマでは、この奉献が最高の権威当局によってなされる事を求めました。
ところで、教皇様が全てのカトリックの司教様たちと一緒になって何かをするという事はいつもある話ではありません、非常に稀に行なわれる事です。過去21回、公会議が開かれた時にのみ行われました。教会に存在する最も重要な諸件を一緒になって対処する為に特別の機会を設けて、特別のやり方で対応する、というのが公会議で、教皇様のもとに全ての司教が集まってなされる事ですから、その事をそれと同じような特別さを要求したのです。ファチマではマリア様はこれと同じレベルの事を重要性を要求したのです、「教皇様が全てのカトリック司教様と一緒になって奉献するように。」
では一体何故、何でそんな事を要求したのでしょうか?
まず何故かに答える前に、この事を知らなければなりません、「現在に至るまで、どの教皇様も、そのような全世界の司教様と一緒になってロシアを奉献するという事は一度もなしていなかった」という事です。私は今、ファチマの本の第3巻目を書いています。さっきも書いていました。何故かというと、この御聖堂とあとマリア様を見てそうすると、特別のインスピレーションが湧いてきて、この空っぽの頭の中に何か良い知恵が湧いてくるからです。
その第3巻の第3章では、現在に至るまでこの奉献がマリア様の要求に従ってなされたか、なされていなかったかについて考察しました。過去教皇様がなされた事を見ると分析すると、マリア様の仰ったようなやり方でやった教皇様はかつていませんでした。
最もそれに近かった価値のあったものは、ピオ十二世教皇様が1943年に、全世界を汚れなき御心に奉献した時の事でした。1943年には全世界を教皇様が奉献しましたけれども、ロシアの事を暗示させるような事がありました。しかしピオ十二世教皇様がお一人でなさって、全ての司教と一緒にやるという事には至りませんでした。
この奉献の為には6つの条件がありました。
第1に、これは「奉献」でなければなりません。
第2に、「教皇様が、全世界のカトリック司教と共に」しなければなりません。つまり教皇様が全世界の司教様たちに、「これをしなさい」と命令しなければなりません。
そして「ロシア」という名前が出てこなければなりません。はっきりと明確に、ロシアという名を提示してなさらなければなりません。
これは、「マリア様の汚れなき御心に」奉献されなければなりません。
次に、「償いの行為」も伴わなければなりません。
第6の点もあるのですけれども、それは今ちょっと失念してしまいました。
過去の教皇様たちがなさった奉献を分析すると、多くヨハネ・パウロ二世が何回かしていますけれども、大体「ロシア」という名前が出てきません。またつい最近ではなされましたけれども「奉献」というのではなくて、「委託」という言葉になっていました。「委託」というのと「奉献」というのは意味が違います。例えば子供がいて、保育園に「ちょっとこれをあの預かってて下さい、委託します」というのは奉献ではありません。
シスタールチアが証言しています、「かつてなされた教皇様のやった奉献は、マリア様の御旨に沿ったやり方で奉献がなされたのではない」という証言がずっとあります。
ところが、2000年の6月に出てきた聖座からのファチマに関する第3の秘密に関する文書によると、突然、「シスタールチアの証言によれば、奉献はなされた」事になってしまいました。「ルチアは喜んでいる」と言われています。その証拠にシスタールチアの手紙を引用します。そして手紙のコピーも付けました。でも残念な事にこれはタイプライターで書かれています。ところでこのグルーナー神父様の研究によれば、「11の理由によって、シスタールチアが『そんな事は、ロシアの奉献がなされたという事は一度も言っていない』と言っているし、『しかもそのようなタイプの手紙は偽物だ』」と言っています。
では、かつてマリア様がお願いした事がなかったような事を、また将来もお願いする事がないようなこの事を、何故マリア様は要求したのでしょうか。
まず第1に、ファチマのメッセージがどれほど重要であるかという事を示す為です。メッセージが重要であればあるほど、それをする事ができるのは最も権威のある人だけがする事ができるからです。もしもマリア様が、これほど重要な最高の権威によって行為がなされなければならない、という事を要求したのならば、このメッセージがどれほど重要であるかという事を意味しています。
第2に、教会の最高の権威がこうやって最高の行為をするという事は、これは教会の不可謬権に関わる事であるからです。最後に不可謬権を行使して教会がドグマを決定したのは、1950年ピオ十二世教皇様がマリア様の被昇天、霊魂と肉体が共に天国に上げられたという事を定義した時でした。
マリア様に関するドグマでもう1つ、教会がドグマとして発表するように全て準備ができていて、これを発表するだけになっている信仰の教義があります。これが、「マリア様が全てのお恵みの仲介者である」というドグマです。本来ならば、第ニバチカン公会議のかなりのきわめて多い教父たちがそのドグマを公式に発表して宣言する事を要求していたので、請願していたので、本来ならば第ニバチカン公会議で、「マリア様が全てのお恵みの仲介者である」という事が教義発表されるべきでありました。残念ながら、第ニバチカン公会議が近代主義の神学者たちによって乗っ取られてしまったので、これがキャンセルになりました。
マリア様の、ファチマのマリア様の中核にあるドグマ的な教義的なメッセージは、汚れなき御心がそのシンボルである、「マリア様が全ての恵みの中継者である、仲介者である」という教義です。
ところで、もしもファチマでマリア様が最高の、反キリスト教的な国がカトリックに立ち戻るという最高のお恵みの行使を実践を行うならば、これこそがマリア様が全てのお恵みの中継者である、仲介者であるという事の証拠になります。
ブラザークラウスと私は何度も何度もロシアに関わってきました。ブラザーはロシアに何度も私よりもっと多く行ってきました。ブラザーもよく知っているのですけれども、ロシアに行って、カトリックに回心するという事は全く不可能というか、もう話にもならない。カトリックの信仰というのは全くロシアには無いのです。正教会の人々はオーソドックスの人々は、カトリックを憎んでいます。例外の、少数の例外はありますけれども、でも全ロシアがそうだという事はもう不可能です。
だからこそマリア様は10月に太陽の奇跡を起こされました。これはやっぱり不可能な事です。ここに10月に集いにやって来た50%60%以上の人々は、笑いに来ました、「そのような事は、奇跡が起こるという事は無い」と思って来ました。でもそれが起こりました。かつて見た事がないような大奇跡を見て帰りました。
教会から離れて何百年も経ち、天主の敵となって公式に戦っているこの国が、カトリック教会に立ち戻るというのは最も目を見張るような奇跡です。
ここには2つの要素があります。
まず第1には、「マリア様が一体どなたであるか」という事が入っています。もしも教皇様がそのマリア様のメッセージを信じない限り、近代主義に染まっている限り何も行われないでしょう。
例えばこの今の教皇様、或いはその次の教皇様がファチマに行かれると、マリア様がいきなり教皇様の前に現れて、「我が子よ、もしもあなたが態度を変えないならば、この今目の前の大地を開いて、あなたが行くべき所を見せますよ、さあ。」「ハッ!お母様、一体私は何をすれば良いのでしょうか?」「私の要求を満たしなさい、私の要求した通りに叶えなさい。ローマにはちゃんと文書が準備ができていて、私の『全ての聖寵の仲介者である聖母』という教義発表の文書も全て、発表されるだけになって待っている。それを発表しなさい。ロシアの奉献をやりなさい。」
そして教皇様がそれを聞いて、「はい、分かりました」と言って全ての司教様たちに手紙を書いて、「私たちはマリア様が全てのお恵みの仲介者であると信じます。そしてこれを私たちが全て信じなければならないように、ドグマとして宣言します。」「そしてマリア様がお望みになった通り、最も悪く取り扱われてきた、指導者によって悪く取り扱われてきたこのかわいそうな民をロシアを、あなたの汚れなき御心にお望みの通り奉献します。」
時間が迫っているので、私はこの第3巻にたくさん色々な事をロシアの奉献について書きました。この第3巻の最後の章です。
たとえ私たち自身が教皇様でなかったとしても、奉献の祈りは天主の心に非常に適うものです。そこで皆さんに提案します。
(小野田神父曰く「もちろん、神父様の提案は私たちにとっては命令ですけれども」(^_^))
聖ピオ十世会の奉献の祈りがありますが、この「聖ピオ十世会と司祭、修道士、」そこに、「そして日本」と是非付けて下さい。そしてそれによって多くの恵みが来るというのを確信して下さい。するとこの日本の回心がもたらされます。そしてこれを毎月初土に、これを唱えて下さい。時々家で個人的に唱えて下さい。
それから皆さん、御聖堂のここにまだ席が空いているので、この空いている席にお友達を招いて下さい。
ご清聴ありがとうございました。祝福を受けて下さい。