2017年5月7日(主日) シュテーリン神父様霊的講話 東京
同時通訳:小野田圭志神父
午前中のミサでのお説教では、ファチマが護教的な役割を持っている、という事についてお話しました。
ファチマの御出現の後でマリア様がなさった奇跡というのは、太陽の奇跡よりももっと素晴らしいものでした。何故かというと、ファチマの御出現が終わった後には世界中に知られるようになったからです。マリア様の御像が作られて、そしてこの御像を持って巡礼の聖母の習慣ができました。
どういう仕組みになっているかというと、「巡礼のファチマ像がここの教区に来ます」という事を司祭が皆さん信徒の方々に言うと、そのマリア様が来られる時に、「一体ファチマでマリア様が何を仰ったのか」「何をご要求なさったのか」「それで私たちはそれにどう応えたら良いか」という事を司祭が皆さんに説明する機会となります。
ファチマの御出現後15年間は、ポルトガルの人しか知りませんでした。ポルトガルはしかも150年以上、フリーメーソンというキリスト教教会に反対する政府の下にありました。ファチマのマリア様が御出現なさるその時まで、ポルトガルの政治的なそして宗教的な状況は、今まさに教会がこのまま潰れるその直前でした。そこでフリーメーソンのポルトガル政府は、ファチマのマリア様を迫害しようと一生懸命になっていました。ポルトガルの政府はですから、教会に反対する為に「ファチマには行ってはいけない」と禁令を出しました。
それにもかかわらず、毎年ファチマに行く巡礼の人々の数がますます増えていきました。5年後には、太陽の奇跡が起こった5年後にはファチマに集まる人々の数は、その太陽の奇跡の2倍になっていました。
そこでそれに憤った教会に反対する人たちは、ファチマのチャペルをダイナマイトで爆破させました。それを見たポルトガルの人々の反応は、そのようなフリーメーソンの政府のやり方に憤りを感じました。
マリア様の御像を持って、ファチマでマリア様が巡礼をするや否や、ポルトガル全土が変わっていきました。今までのフリーメーソンの政府のもとにあったのとガラリと変わって、ファチマの直後から1960年代まで、ポルトガルはヨーロッパで、もしかしたら世界で一番カトリックの国と変化しました。
政治的な変化、宗教的な変化、経済的な変化というのは見る見るうちに瞬く間に良くなったので、「ファチマの以後のポルトガル、それ自体でこれは奇跡だ」と歴史家が口を揃えて言います。
しかもより大きな奇跡は、ポルトガルが戦争に巻き込まれなかったという事です。スペイン市民戦争というものがありました。これは共産党が起こす市民戦争だったのですけれども、スペインの市民戦争の最初から、「ポルトガルをも巻き込んで、ポルトガルをも侵略して巻き込んで戦争状態にさせよう」というのが計画でした。
ところで市民戦争の直前、ポルトガルの司教様たちが揃って皆一緒になって、ポルトガルをマリア様の汚れなき御心に奉献していたのです。そのポルトガルの司教様たちの奉献のおかげで、スペインの市民戦争からポルトガルは免れ、しかも第二次世界大戦の時には、ポルトガルとスペインがヨーロッパの中でスイスと共に唯一戦争に巻き込まれなかった国となりました。
今先ほどファチマについて2巻の本を書いたと申し上げましたけれども、今第3巻目を書いております。第3巻目の第3章の最初の10ページに、ファチマのポルトガルという国に起こった奇跡について書きました。1930年代からファチマのマリア様の御像がポルトガルを津々浦々巡礼し出して、そして世界中にも巡礼するようになりました。そのマリア様の訪問された先での奇跡の数は数える事ができない事です。マリア様が行った所はどこであっても、いつであっても、多くの人々が回心しました。
アメリカではますます考えがリベラルになっていて、そして信仰からますます離れて行ったその時期に、マリア様の御像がアメリカを訪れて訪問したその1年の間に、10万人以上の方が回心して洗礼を受けました。これはアメリカの歴史でなかった事です。
マリア様の御像の訪問について、個人的な思い出もあります。私は昔ガボンに任命を受けて、そしてガボンで働いていました。ガボンの司教様が突然、私たちのミッションの所に訪問して下さいました。それでその司教様は、昔ルフェーブル大司教様から教わった生徒だったのです。この司教様がなさっている事や考えは近代主義でしたけれども、しかしルフェーブル大司教様に対しては非常な尊敬と感謝の念を持っていたので、「是非ルフェーブル大司教の創った修道会の司祭に会いたい」とやって来たのでした。
お話の間、司教様にこう質問をしました、「司教様、司教様の司祭生活の中で一番目を見張るような体験というのは何でしたか?」この質問をするや否や、5秒も経たずそのすぐに、「それは、私がランバレネで主任司祭だった時の事です…」と、話を始めました。「この時にファチマのマリア様の像が通ったのです。」
ルフェーブル大司教様もランバレネの主任司祭だった事があります。ガボンの中で最もプロテスタントの影響が強い街だったので、ランバレネでのカトリックの人口は20%未満でした。ランバレネでは30%が異教徒で、50%から55%がプロテスタント、10%から15%がカトリックです。その当時、村から村へとファチマの御像が訪問して行って、遂にランバレネの村にもやって来ました。ランバレネには15日間留まりました。その15日間はカトリックのお祭りで、その15日間の間、聖母行列、或いは公教要理、或いは霊的講話、或いは徹夜のお祈り等、たくさんの行事がなされました。
その当時主任司祭だったその司教様は、「自分の目を信ずる事ができなかった」と言います。「夜ローソクを灯してお祈りをして聖母行列をする時に、これほど多くの人が集まった事は一生見た事がなかったほど集まった」と言います。何故かというと、プロテスタントの牧師さんたちが皆怒るほど、プロテスタントの教会は空っぽになって、皆がカトリックのミッションの方に行って、ファチマのマリア様の方に行ってしまったからです。「その年の終わりには、普通の年よりも10倍の新しい洗礼があった。」1年の間に、人口の40%がカトリックになりました。
これはランバレネの例だけではなく、世界中どこでも、マリア様の像が通った所はそうなっていました。
第2巻の最初の方で書いた事ですけれども、ここで是非言いたいと思います。3人のマリア様の現われを受けた牧童たちは、朝のお祈りも夕のお祈りもどうやってしたら良いか知っていませんでした。2年後、この子供たちは罪も犯した事がないし、英雄的な聖徳を実践していました。これは奇跡です。ファチマでこの子供たちに起こった事です。
フランシスコとジャシンタは、普通のどこにでもある同じような田舎の子供たちで、特に特別敬虔だったというわけではありません。ジャシンタは遊ぶのが好きで、踊るのが好きで、村の人気者でした。もしジャシンタちゃんのこの写真を見たら、「あぁ、この女の子は大きくなったらものすごい女性になる事ができる」と思うかもしれません。しかしマリア様の御出現によって、この二人の子供たちは聖人になりました。
この子供たちは他の子供たちと同じように、機嫌が悪かったりとか、悪に対する傾きなどもありましたけれども、それに対して戦っていました。いつも、子供たちが誘惑にかられたり或いは何か情念に駆られたら、すぐにマリア様の方にお祈りをしてマリア様に向かって助けを求めていました。その為に彼らは聖徳へと変わっていきました。その御出現の後には、彼らが昔の彼らであるという事を認める事ができないほどでした。
では、ファチマで一体どこがそんなに特別で偉大なのでしょうか?何がそのメッセージの中心なのでしょうか?
ファチマのメッセージをよく分析すると、ファチマのメッセージで一番大切な内容というものは、第二バチカン公会議で無視されたか、或いは捨てられてしまったその事であると分かります。ファチマではラテン語で「novissimi」と言われている四つの終わりの事について非常に強調します。
ファチマでマリア様がお現われになったその最初から、「私は天から来ました。」「私はあなたが天国にいる事を望みます。」「永遠の喜びを受ける事を望みます」と、天国について語ります。
ルチアがよく知っている友達について質問すると、「あぁ、彼女は世の終わりまで煉獄にいるでしょう」と答えました。
7月13日には、2ヶ月後ですけれども、マリア様は地獄の火の海を見せました。そして子供たちに、「祈りと犠牲を捧げなさい。何故ならば、さもないと多くの人々が地獄に落ちてしまうから」とお願いしました。地獄の火に、多くの霊魂たちが今落ちているというのは、ジャシンタのこれからの一生のテーマでした。ジャシンタの残った数年間の短い生涯で一番の関心事は、「多くの霊魂たちをこの地獄の火から救いたい」という事でした。
ロザリオの1連毎にマリア様が「付け加えなさい」と言ったお祈りの中にはこれがあります、「我らを地獄の火より守り給え」と。
シスタールチアは、ルチアは大きくなってシスターになりましたけれども、「多くの霊魂たちが地獄に落ちている。彼らの為に祈らなければならない」という事を繰り返し言います。
ファチマでは、マリア様が私たちの頭を考えを、永遠の方に向けるようにとしています。この短い人生が終わった後に待っている、永遠の命です。
ファチマから50年後、これはファチマとは全く正反対の事が起こりました。人類は永遠の事を忘れ去ってしまって、この世の事だけに集中するようになってしまいました。
この第1の考えは、第2の考えに導かれます。それは、「私たちの人生は、自分の私たち自身の事よりは、もっと天主の事を、天主の栄光を考えなければならない。もしも天主の栄光が傷付けられているならば、天主に対して罪が犯されているならば、それを償わなければならない。天主を慰めなければならない」という考えです。
これがファチマの秘密の1つです。ファチマの秘密はまず、「罪人が地獄に落ちる」という事を話します。
悪魔の作戦が私たちの目の前に展開されています。悪魔の作戦はまず、私たちが成聖の状態に生きていなくても良い、その必要性を忘れさせる事です。そのようなメンタリティーを作り上げる為に、マリア様の言葉によれば、「ロシアはその誤謬を世界中に広めるでしょう」とあります。つまり、あたかも天主がこの地上に存在していないかのような世界を作り上げる、「大切なのはこの地上の物質の事だけなのだ」というメンタリティーを作り上げる事です。これが無神論であり、唯物論です。
最後に、この宗教に関するメンタリティーをも変えさせてしまいます。それが近代主義です。近代主義によって人々は、宗教生活とか宗教について別の考えを抱きます。どのような考えかというと、近代主義によれば、「もしも私たちが天主様、或いはマリア様にお祈りをするとしたら、それは私たちがこの地上での生活に必要なものを得る為」その為だけであって、「罪に対して戦う」とかという考えはそこから排除されます。つまり宗教というのが、「この地上で幸せな生活をイージーな生活を送る事ができる為の手段であって、それで良い人になる為だ。」
しかし本当の宗教生活は違います。ファチマでの天使の御出現を見て下さい。皆さんがこの祈りをたくさん捧げるので大変嬉しく思います。その中で天使はどうやってお祈りをしたでしょうか?どうぞマリア様が天使を通して皆さんに教えたように祈って下さい。そのお祈りによれば、私の人権とか、この地上での生活を、この地上での幸福を欲しいとはお祈りしません。そうではなくて、天主の名誉について祈ります。
「わが天主、われ、御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」
その直後にあるのは霊的な戦いであって、何故戦いかというと、「信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々の為に、御赦しを乞い求め奉る」と、その回心の為に祈っているからです。
「私たちは2つの主人に同時に仕える事ができない」と言ったイエズス様の教えがここで分かります。聖アウグスティヌスの表現によれば、「天主の御国と悪魔の国の2つの戦いが、その勢力の為に戦っている」その事です。聖イグナチオは霊操の中で、「2つの御旗」の事について書きます。「キリストの御旗とルチフェルの旗」です。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「永遠の知恵、イエズス・キリストの知恵と、この世の世俗の知恵の2つの戦い」について話しています。マキシミリアノ・コルベ神父様によれば、「無原罪の聖母の騎士とフリーメーソンの軍隊との戦い」です。ファチマでは、「マリア様の御要求を受け入れてそれを実践する忠実なマリア様の子たち、聖母の汚れなき御心に対する信心を実践する人々対、共産主義或いはフリーメーソンなどのロシアの誤謬を広める人たちの戦い」です。
50年前から教会の中では、この「2つの戦い」という考えは排除されてしまいました。
ファチマで最も重要なテーマは、更にマリア様の汚れなき御心の事がこの世に啓示された事です。
1917年6月13日に、マリア様はご自分の汚れなき御心を世界で最初にお現しになりました。汚れなき御心に対する信心というのは既に、16・17世紀から始まっていました。しかしその御心を見せたのは、ファチマで初めてです。
マリア様によれば、「汚れなき御心に対する信心こそが、終末の人類に与えられた最後のチャンスである、救いの為の最後の手段である」と言います。6月13日にマリア様のお言葉によれば、「天主は私の汚れなき御心に対する信心を世界に確立する事を、全世界に確立する事を望んでおられる」と言います。
今まで歴史上、マリア様への信心というのは地方に固有の、地方地方のものでした。しかしファチマでは全世界に関わる信心を求めています。この信心を実践する人には、非常に大きな約束も付けられています。生きている間に私たちが受ける数多くのお恵みと、特に死の時のお恵みです。
2つの事を特にマリア様は約束しますが、本当に特別です。
マリア様が「個人的に、皆さんの死の時に傍に付き添う」と言って下さっています。
皆さんが亡くなる時は何が起こるのでしょうか?教会の教えでは、私審判があります。つまり、天主の前に皆さんの霊魂がたった一人で現れて、裁きを受けます。皆さんがなさった事、仰った事、或いは考えた事、全てにおいて裁きを受けます。全く一人でその裁きを受けます。誰も傍に、誰も、誰も付き添ってくれる人はいません。守護の天使、保護の聖人は、単なる沈黙の目撃者でしかありません。
ところがファチマでは、「あなたが救いの為に必要な全てのお恵みを持って、あなたの臨終の時に個人的に付き添う」と仰っています。汚れなき御心を実践する人々には、一般的な法則の例外を作るという事です。つまり、マリア様が私たちに個人的に付き添って下さるという事です。厳しい裁判官である天主の前にたった一人で立つと思えば、その非常に強い、力強い弁護者であるマリア様が、私たちの為に弁護する為に傍に立って下さるというのはどれほど大きな事でしょうか。
第2の約束は、これよりももっと素晴らしいユニークなものが約束されています。
「救われる」というのは全人類同じではありません。皆さん、どのような良いカトリックであっても悪いカトリックであっても、回心のチャンスはあります。煉獄でしばらくの間、何年か時を過ごした後に、天国に行くチャンスがあります。皆さんの霊魂はちょうどコップのようです。もしも天主様の為に何もしなければ、皆さんのコップは小さいまま残ります。でも天主様は救いの時に皆さんの幸せを、その皆さんの霊魂の能力の最高度まで満たします。でも皆さんの受ける能力以上を入れる事はできません。
天国の幸せのたった一滴のほんのちょっとの一滴でさえも、私たちがこの人生全ての間で経験する事ができる幸せとか喜びとかをそれを合わせて、この全人類の全ての始めから終わりまでの喜びを集めたとしても、それでも足りないほどの喜びがあります。しかし私たちが生きている間に、「天主様をますますお喜ばせしたい」「マリア様の為にもっともっとやりたい」となさればなさるほど、この皆さんの能力がどんどん大きくなっていって、天国での喜びをますます大きく受ける事ができるようになります。
天国に行くという事は、その皆さんの能力の最大限まで、極めてものすごい幸せを満たすという事です。幸せを受ける能力がない方は50滴でもういっぱいになってしまいますけれども、この地上で色々天主様に尽くした人は、尽くしただけ能力が大きくなるので、例えば5000滴が入るほどの能力を得ます、100倍になります。そこでこの地上で寛大であれば寛大であるほど、天主の為に生きれば生きるほど、ますます私たちが天国で幸せを多く、より多く受ける事ができる能力を身に付けます。
マリア様は、「もしも私の汚れなき御心に対する信心を実践する人には、これを与えよう」という約束をしました。「その実践する霊魂たちは、天主様にとって非常に大切であって貴重であって、あたかもその玉座を飾る花々のようであるだろう。」
では皆さんの幸せの大きさを決めるものは何でしょうか?皆さんが天主に近付けば近付くほど、その幸せは大きくなります。天主に近付けば近付くほど、ぴったりとすればするほど、最高度の幸せが待っています。マリア様の汚れなき御心に対する信心を実践する人に約束されたのは、この「天主のそのすぐ近くに行く事ができる」という事です。
ではこの信心というのは、どうやったら実践する事ができるでしょうか?全ての信心がそうですけれども、外的な要素と内的な要素があります。
外的な要素というのは、私たちが実践する事です。私たちが実践しなければならない事というのは、具体的な何かをする事です。例えばイエズス様の聖心の信心には、6月の聖心の月とか、或いは初金曜日の信心とか、或いは聖心の連祷などがあります。
汚れなき御心に対する信心の外的な要素のその1つは、初土の信心です。その第2は、汚れなき御心に奉献するという信心、その2つの実践があります。この2つは単なる外的な行いであって全てではありません。ちょうど人間が、体と霊魂で成っているように、体だけでは生きていません、霊魂が必要です。
この外的な実践に、多くの祈りと犠牲を捧げなければなりません。「天主を慰め、多くの霊魂を救う為に、祈り、犠牲を捧げなさい」とマリア様は特別に要求されました。
この祈りというのは、大部分で初土の信心の中に入っています。特にロザリオの祈りです。マリア様は「毎日ロザリオを唱えなさい」と要求されました。またファチマでは射祷の大切さについて教えています。子供たちは病気になってお祈りもしっかりできなかったので、射祷というのは唯一子供たちがする事ができたお祈りであって、非常に大きな役割を果たしました。
この実践には、その実践を生かす精神がなければなりません。肉体と霊魂が合わさって1つになって人間となるように、行為とそれを生かす精神とが2つがあって、初めて信心になります。
残念ながら多くの人々は、しかも聖伝の信者さんであったとしても、残念ながらこの精神について忘れてしまって、精神の事をほとんど気にしていない人がいます。しなければならない事については、マリア様が要求された事以上の事をたくさんするという人はいるのですが、でももしもそのような人たちに、「それは本当の信心ではありません」と言うと、きっと腹を立てるほどの方がいます。「何ですか神父様!何ですって!?私は初土にはマリア様の仰っている通りちゃんとお祈りしています。マリア様の奉献の祈りは毎日唱えています。私はロザリオを6環唱えています。」「でも、確かにそれは素晴らしいのですけれども、それを生かす霊魂を付けなければなりません。」
ところでこの今から申し上げる事は、本当に知られていなくて、ファチマの信心をする方でも知らない方がたくさんいます。何故かというと、誰もそれを説明する人がいないからです。このファチマの精神というのは、子供の生涯によって表わされています。
ファチマの精神の第1は、フランシスコの生涯によって表われています。それは「天主を慰める」という生き方です。フランシスコは言います、「天主はこの世の罪の為にあまりにも悲しんでおられる。その為に被造物である私たちは、そのお返しに天主を慰め、そして何とかその悲しみを和らげてあげなければならない」と言います。
言い換えると、マリア様の御心は茨の冠によって刺し貫かれていて、それなので私たちはその刺されている茨を1本1本、抜いてさしあげなければならないという事です。私たちが犯す罪によって、マリア様は恐るべき醜い茨で貫かれているという事です。
皆さんの愛するお母さんに対して悪者共がやって来て、茨の棘をその皆さんの愛するお母様の胸に刺し貫こうとしていると、皆さんどう思いますか?皆さんはこう仰るに違いありません、「やめて下さい!私の母にそんな事しないで下さい!」しかしこの悪者共は皆さんの事を嘲笑い、やろうとする事を更に続けています。皆さんはそれを止める事もできません。すると皆さんは仕方がなく、お母様の元に行って、その刺された茨をお母様の胸から1つ1つ取り抜こうとするではないですか。そこでお母様が受けたその侮辱、屈辱、その悪い取り扱いを、何とかして償って慰めて、お母様の悲しみを和らげようと努めるのではないでしょうか。
では、どうやって天主様を慰めたら良いでしょうか?
そこに、そのどうやって慰めるかというこの答えが、ファチマの中心的なキーワードになっています。それが「償い」です。私たち或いは他の誰かによって、天主或いはマリア様に対して為された多くの罪や侮辱を、私たちが償うという事です。私たちがたとえ過去天主を悲しませてしまったとしても、しかし私たちは償う事ができるという事です。
皆さんはご結婚なさっている方がいるので、皆さんがどれほど奥さんを愛しておられるのか分かるのですけれども、突然、ある時突然魔が差して正気を失ってしまったように、奥さんをひっぱたいてしまった。奥さんはあっという間に「キャ!」と言って血を流して床に倒れてしまった。奥さんは涙を流し、「何でこんな事するのでしょう」と言って涙を流しています。心はもう砕かれています。そして何か知らないですけれども、怒ってこんな事をやって、怒ってどこかに行ってしまいます。そこでそのしばらく後正気に戻って、「あれ?やばい!妻を殴ってしまった、ひっぱたいてしまった!何てひどい事をしてしまったのだろうか!」「あぁ!」と言って涙を流して、「これは大失敗だ!私の最愛の妻をこんなに悪い取り扱いをしてしまった!」
では皆さんどうしますか、そのような事が起こってしまったら。コロッとそれを忘れて、あたかも何もなかったかのように、「あぁ、こんにちは!」と言うでしょうか。そんな事はできません。奥様の心はもう砕かれています。皆さんは許しを乞わなければなりません。単なる悪い言葉を言ったのみならず、暴力さえもしてしまったので、奥さんの心はもう粉々です。もちろん奥様はとても聖なる方なので、寛大に許して下さるでしょう。でも心の傷は残ります。
そこで先程した悪の、悪い態度に勝るそれよりも1000倍良い愛の態度を見せて、それを償おうとします。それが罪の償いです。
罪を犯す毎に私たちは主に死をもたらして、幼きイエズス様を窓から外に放っぽり出してしまって、その後何もなかったのように、「あぁ、こんにちは!」と言おうとしているのです。
この「償い」というこのキーワードだけが、私たちの宗教の生活をもう一度真面目なものに、意味のあるものにする事ができます。もしもこの償いというキーワードがなければ、ちょうどある悪い夫が、妻をものすごくこう投げつけておいて、「あぁ、元気?」と言っているのと同じです。これは真面目な態度ではありません。
ですから初土の信心、或いは奉献という、或いは祈り、犠牲というこの行為を、私たちの行なっている事を、罪を償う為、或いは天主を慰める為という精神を以てなされる、これが汚れなき御心への信心です。そしてこのその精神の中には、天主を慰め、償うのみならず、更に進んで罪人の回心さえも望まなければなりません。
ファチマの天使、或いはマリア様の仰った事の中で一番よく出てくる単語は、「償い」と、あと「回心」です。
罪を償い、そうする事によって天主を慰めるというのは、天主の御栄え、栄光に関する天主への愛に関わる事です。
ところで回心というのは、隣人愛に関わる事です。ではマリア様はご自分の御心を何の為に私たちに啓示されたのでしょうか?
トゥイでマリア様は最後に御出現になったのですが、その時にやはり汚れなき御心をお見せになりました。しかしトゥイでは、マリア様はご自分の御心を自分の手に持って、私たちに差し出す為に与える為に持っていました。マリア様の汚れなき御心はシンボルです。どんなシンボルかというと、マリア様のパーソナリティーそのお人柄、その全く内密の神秘の全存在、それ自身を表すシンボルです。
もしも夫が愛する妻に、「あぁ、愛する妻よ、私は私の心を全てお前にあげる」と言った時に、夫はですね、お医者さんに行ってこの手術をして胸を開いて、その心臓を取り出してですね、「さぁ」と言って差し出すわけでありません。妻に、「お前の事を愛している。僕はお前に僕の心を全てお前に与える」というのをよく言います。
マリア様がご自分の心を全て私たちに与える、それがファチマです。つまりマリア様は自分の全てを、最も深い神秘を全てを、愛する子供たちにもう残りなく差し出すという、それがファチマです。
マリア様の望みは、この子供たちがマリア様の愛をこの御心を受けてくれる事です、取ってくれる事です、そして回心してくれる事です。回心というのは、今までそっぽを向いていたのが、そっちの方を向いてその振り返る事です。
私たちはちょうど、このように牛か象のように地獄に向かって一直線にのろのろと歩いている動物のようです。ちょうど、さぁ今から地獄に落ちるその一歩、その直前の時に、「我が子よ」という声を聞くのです。「我が子よ、私はお前の事を私の心から、汚れなき御心を尽して愛していますよ。その道を歩き続けないで下さい。永遠の亡びに行ってしまいます。私の方を向きなさい。」そこでマリア様の方に向き変える、これが回心です。
例えば、誰かが初めてマリア様の事を知って発見して、「あぁ、マリア様というこんな方が、」これが回心です。マリア様はそのかわいそうな自分の子供たちの救いを望んでいるので、その回心をも望んでいます。
毎日のロザリオ、汚れなき御心への奉献、或いは祈りと犠牲というのは、罪人の回心という為にも捧げられています。これは天使の祈りの中にもあります。この事をよく理解して下されば、マリア様がファチマで何を私たちに求めているか、教えているか分かるはずです。
この2つをこれを実践するならば、マリア様がなさった約束をみな受ける事になります。
もちろん他にもこの重要なテーマに関連する別の観点もあります。マリア様は私たちの外的なこういうような行為に重要性を置いております。これらの実践というのは、私たちがいつも正しい道を歩み続ける為に、或いは誘惑に打ち勝つ為の非常に強い武器となります。この1つ1つが毎日のロザリオです。ファチマでロザリオについてマリア様が教えて下さる事は信じられないほどです。マリア様は世の最も恐るべき悪い時期に与えられた最後の手段として、ロザリオと汚れなき御心に対する信心の2つを、最後の手段として与えています。
ではロザリオをどうやって教えたのでしょうか?ファチマではマリア様が御出現になるその度毎、「ロザリオを毎日唱えなさい」と言いました。これは全く基本的な基礎にあるものです。ロザリオの中には、最後にこのお祈りを付け加える事になっています、「あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え」というのは、ロザリオで必ず1連毎にファチマの精神を私たちに思い出させて下さっています。
初土の信心では更に、「ロザリオの15玄義の玄義を黙想するように」とさえもお願いしています。マリア様はめでたしを唱える事だけではなく、玄義の黙想を要求して条件に付けています。このロザリオの玄義こそが、私たちを罪を犯す道から守ってくれるその武器なのです。
マリア様はファチマでほんの少しだけしかお話しませんが、それを通して私たちに教えてくれる事はどれほど意味が深いか分かりますか。これについて8つの講話を秋田で申しましたので、その8つの講話の内容を今1時間の間に申し上げる事は今難しいので、そこでその講話の内容がある本の中にあるという宣伝をさせて下さい。
その本の第1巻では、ファチマの御出現それ自体について説明しました。そこで御出現の天使とマリア様の御出現の言葉1つ1つについて黙想して、それについてコメントをしたのが第1巻です。このマリア様が仰った事、天使の言った事を見る事によって、既にファチマがどれほど素晴らしいものであるかという事を理解できます。ファチマでマリア様が仰った事それ自体の量は、ほとんどもう1ページか2ページで書き尽くす事ができるほどで、もうあるかないかのようです。しかしマリア様が仰ったその内容自体を見ると、最も聖伝の伝統的な公教要理の内容、これよりももっと素晴らしい内容がないほどの内容が書かれています。マリア様が仰ったその内容というのは、ちょうど第二バチカン公会議で無視されたか、或いは葬られたか、或いは捨てられたかしたその内容、それが言われています。
第2巻では、私はファチマの霊性、或いはファチマの信心の実践について、その精神について考察しました。3人の子供たちの生涯を考察して、それにコメントを付けました。後にポンテべドラという所でマリア様がお現れて、初土の信心について語った時の事を考察します。次にトゥイにまたお現れになって、ロシアの奉献をもお願いしますが、その奉献について考察しました。
この「初土」そして「奉献」の2つのテーマを見ると、ファチマが反エキュメニズムであるという事が分かります。何故かというと、マリア様はイエズス様に関する間違った教えを異端を、「冒瀆だ」と言うからです。そこで「この異端に対して償いをしなければならない」と言うからです。
たとえばその異端はどのような、冒瀆はどのようなものがあるかというと、「無原罪の御宿りを否定」する事、「マリア様が終生童貞であるという事を否定」する事、「マリア様が霊的な私たちの母であるという事を否定」する事。
これらを否定するのは誰でしょうか?異教徒の人ではありません。イスラム教徒の人でもありません。
プロテスタントがそう考えています。プロテスタントの人々が、これらの信仰に反対しています。私たちがつい最近聞くのは、そのプロテスタントの人たちとの対話、「兄弟的な対話をしよう」というのですけれども、マリア様はそのプロテスタントの人たちについて、「そのようなひどい冒涜に対して償わなければならない」と仰っています。
また初土では、御聖体拝領、また告解という「秘跡」の大切さが強調されます。天使の御出現の中で、子供たちが霊的な神秘的な聖体拝領もしました。また子供たちは霊的に神秘的に御聖体礼拝をします。トゥイでは、三位一体のビジョンの中で御聖体のビジョンが出ます。つまりイエズス様の聖心から御血が流れ出るのですけれども、その下に御聖体とカリスがそれを受けています。初土の信心を見ると、私たちがどうやって御聖体を拝領し、そして告解の秘跡をしなければならないか、という事を教えています。
ここまでのお話で、「あぁ、ファチマというのは本当に何か特別で、ユニークな存在である」という事が分かって下さったでしょうか。太陽の奇跡というものすごい奇跡から始まって、近代主義によって全く忘れ去られてしまったカトリックの真理が、ここで思い出されているという事に気が付かれたでしょうか。
では私が今書いている第3巻の本は何でしょうか?
ファチマがどんなもので有り得るものだったか、そしてしかし実際はどうなってしまったのかという事を、御出現後50年の間の歴史をまず考察しました。世界中であちらこちらに共産主義、フリーメーソンがタケノコのように勢力を伸ばしているのですけれども、ファチマのマリア様の御像が巡礼して回ると、それが奇跡を起こしているという事です。教皇様をはじめ、司教様たちがファチマのこのマリア様の御出現に非常に深い感謝を表明しています。
しかし突然、何か恐るべき事が起こってしまいます。それが第2章で、いきなり突然ファチマが軽蔑され、打ち捨てられた。1940年代頃から新近代主義者たちが教授、或いはバチカンの中に戻って来て、そしてファチマのマリア様に泥を投げます。例えばグレゴリア大学の校長を務めた教授がいます。この人はファチマの中心的な人物でした。この神父様の事はダニス神父(SJ、イエズス会司祭)でした。
近代主義がカトリックの教えについてした事と同じような事を、ファチマについてダニス神父はします。ファチマ1とファチマ2に分けます。それによれば、「ファチマという御出現はあったけれど、実際本当に起こったのか、何が起こったのかは分からない」と言います。
そしてこれがどういう事かというと、「確かにファチマには何かあったけれども、シスタールチアがこう書いた『こんな事があった』と目撃した事を書いた事は、それはただのお話だ。」そのダニス神父によれば、「ファチマのこの信心とか、初土の信心とか、或いはロシアの奉献などというのは、シスタールチアが作った作り話であって、忘れた方が良い。」
このダニス神父には友人がいて、枢機卿の「ベア」と言いました、ベア枢機卿でした。ベア枢機卿はピオ十ニ世教皇様の聴罪司祭でした。1953年になると、ピオ十二世教皇様のファチマに対する態度が突然変わります。ダニス神父の言っている話がバチカンで受け入れられるようになります。
事実は今、現代、ファチマの専門家が研究して分析すればするほど、ダニス神父がその当時言っていた事はみな情報操作であって、そして嘘であって間違った事で、本当のファチマと何の関係もなかったのですけれども、それにもかかわらず、その当時ダニス神父というのはローマで幅を利かせていて、ファチマの権威者でした。
ところでこのダニス神父は、聖ピオ十世会と個人的な接触もあったようです。1976年にルフェーブル大司教様が、「最初の聖ピオ十世会司祭を叙階する」と言った時に、ルフェーブル大司教様は司祭の叙階の前に、司祭となる候補者の為に司祭黙想会を指導していましたが、その時にローマから訪問者がありました。その訪問者はルフェーブル大司教様に、「大司教様、じゃぁたった1回、さぁ今新しいミサを捧げて下さい。そうすればローマとエコンの間の全ての問題が解決します。」このそう言った人が、ダニス神父です。
近代主義者の人がローマで権威を持ってしまった、地位が与えられた時その瞬間、残念ながらファチマでマリア様が仰った事とその正反対の事を、第ニバチカン公会議がするようになってしまいました。
そこでこの第3巻の第2章では、ローマの当局が何とかファチマを中和化して、そして近代主義の中に取り込もうとしているその行動を分析しました。この作戦はほぼ完壁になされましたけれども、例外が2つありました。2つの事は中和化できませんでした。
私が先ほど「中和化」、「同和化」と言いましょうか、というのはどういう事かというと、二次的なあまり副次的な重要でない事に「重要である」という事をして、本当に中核の最も大切なものは脇に置いてしまう、これをまぁ「中和させる」と申しました。
例えば近代主義によれば、「あぁ、ロザリオをたくさんたくさん唱えなさい」と言いながら、そのロザリオのその本質の精神は忘れさせてしまう。或いは、「さぁ、ファチマのマリア様を思って夜中でお祈りして下さい。」しかしその「天主を慰める」とか、「罪の償い」という事は全く無視させるという事です。
そのような事で中和化させる事はできたのですけれども、近代主義と同一化させる事はできたのですけれども、しかし「ロシアの奉献」という事だけは近代主義の中に取り入れる事はできませんでした。では一体どんなドラマがあったのか、このロシアの奉献という事について第3章で考察しました。
以前は、そのファチマの事を何とか忘れさせる為に操作しました。しかし操作だけでは効かなくなったので、これからはその後、嘘さえもつくようになりました。つまり「ロシアの奉献について、シスタールチアは『もうそれがなされた』と言った」という嘘をついたのです。ただこの単純な純粋な嘘をつくようにもなってしまいました。つまり、少なくとも何かしたので、「それがもうすでにロシアの奉献と考えられている」という事で、「もうなされた」とします。
しかし、どうしてもこう中和できない1つの事が残っています。
それが「第3の秘密」で、第3巻の第4章において私は考察しました。2000年に公開されたいわゆる第3の秘密というのは、私たちが今まで言った第3の秘密の全てではなくて、何かが欠けている。そしてこの第3巻の第4章の後半では、実は私たちが言っていた第3の秘密と、バチカンが発表したのは全く関係のないものであった、という事を考察します。
第3巻の第5章では、本当の第3の秘密の内容というものはどんなものだったのだろうか、その本当の秘密は何だったのか、という事を分析しました。私の考えたものではなくて、「シスターがこう言った」とか、或いは「ここでシスターがこう言っている」とか「こういう証言がある」という物を、信頼のできるそういうテキストを考察したものです。
第6章では、ファチマの最後の凱旋とは何なのか。
第7章では、ファチマとコルベ神父様の無原罪の聖母の騎士との関係について。
第8章では、では私たちは何をすべきなのか。それから私の回心の為にもお祈り下さいという話をします。
ご清聴ありがとうございます。
同時通訳:小野田圭志神父
午前中のミサでのお説教では、ファチマが護教的な役割を持っている、という事についてお話しました。
ファチマの御出現の後でマリア様がなさった奇跡というのは、太陽の奇跡よりももっと素晴らしいものでした。何故かというと、ファチマの御出現が終わった後には世界中に知られるようになったからです。マリア様の御像が作られて、そしてこの御像を持って巡礼の聖母の習慣ができました。
どういう仕組みになっているかというと、「巡礼のファチマ像がここの教区に来ます」という事を司祭が皆さん信徒の方々に言うと、そのマリア様が来られる時に、「一体ファチマでマリア様が何を仰ったのか」「何をご要求なさったのか」「それで私たちはそれにどう応えたら良いか」という事を司祭が皆さんに説明する機会となります。
ファチマの御出現後15年間は、ポルトガルの人しか知りませんでした。ポルトガルはしかも150年以上、フリーメーソンというキリスト教教会に反対する政府の下にありました。ファチマのマリア様が御出現なさるその時まで、ポルトガルの政治的なそして宗教的な状況は、今まさに教会がこのまま潰れるその直前でした。そこでフリーメーソンのポルトガル政府は、ファチマのマリア様を迫害しようと一生懸命になっていました。ポルトガルの政府はですから、教会に反対する為に「ファチマには行ってはいけない」と禁令を出しました。
それにもかかわらず、毎年ファチマに行く巡礼の人々の数がますます増えていきました。5年後には、太陽の奇跡が起こった5年後にはファチマに集まる人々の数は、その太陽の奇跡の2倍になっていました。
そこでそれに憤った教会に反対する人たちは、ファチマのチャペルをダイナマイトで爆破させました。それを見たポルトガルの人々の反応は、そのようなフリーメーソンの政府のやり方に憤りを感じました。
マリア様の御像を持って、ファチマでマリア様が巡礼をするや否や、ポルトガル全土が変わっていきました。今までのフリーメーソンの政府のもとにあったのとガラリと変わって、ファチマの直後から1960年代まで、ポルトガルはヨーロッパで、もしかしたら世界で一番カトリックの国と変化しました。
政治的な変化、宗教的な変化、経済的な変化というのは見る見るうちに瞬く間に良くなったので、「ファチマの以後のポルトガル、それ自体でこれは奇跡だ」と歴史家が口を揃えて言います。
しかもより大きな奇跡は、ポルトガルが戦争に巻き込まれなかったという事です。スペイン市民戦争というものがありました。これは共産党が起こす市民戦争だったのですけれども、スペインの市民戦争の最初から、「ポルトガルをも巻き込んで、ポルトガルをも侵略して巻き込んで戦争状態にさせよう」というのが計画でした。
ところで市民戦争の直前、ポルトガルの司教様たちが揃って皆一緒になって、ポルトガルをマリア様の汚れなき御心に奉献していたのです。そのポルトガルの司教様たちの奉献のおかげで、スペインの市民戦争からポルトガルは免れ、しかも第二次世界大戦の時には、ポルトガルとスペインがヨーロッパの中でスイスと共に唯一戦争に巻き込まれなかった国となりました。
今先ほどファチマについて2巻の本を書いたと申し上げましたけれども、今第3巻目を書いております。第3巻目の第3章の最初の10ページに、ファチマのポルトガルという国に起こった奇跡について書きました。1930年代からファチマのマリア様の御像がポルトガルを津々浦々巡礼し出して、そして世界中にも巡礼するようになりました。そのマリア様の訪問された先での奇跡の数は数える事ができない事です。マリア様が行った所はどこであっても、いつであっても、多くの人々が回心しました。
アメリカではますます考えがリベラルになっていて、そして信仰からますます離れて行ったその時期に、マリア様の御像がアメリカを訪れて訪問したその1年の間に、10万人以上の方が回心して洗礼を受けました。これはアメリカの歴史でなかった事です。
マリア様の御像の訪問について、個人的な思い出もあります。私は昔ガボンに任命を受けて、そしてガボンで働いていました。ガボンの司教様が突然、私たちのミッションの所に訪問して下さいました。それでその司教様は、昔ルフェーブル大司教様から教わった生徒だったのです。この司教様がなさっている事や考えは近代主義でしたけれども、しかしルフェーブル大司教様に対しては非常な尊敬と感謝の念を持っていたので、「是非ルフェーブル大司教の創った修道会の司祭に会いたい」とやって来たのでした。
お話の間、司教様にこう質問をしました、「司教様、司教様の司祭生活の中で一番目を見張るような体験というのは何でしたか?」この質問をするや否や、5秒も経たずそのすぐに、「それは、私がランバレネで主任司祭だった時の事です…」と、話を始めました。「この時にファチマのマリア様の像が通ったのです。」
ルフェーブル大司教様もランバレネの主任司祭だった事があります。ガボンの中で最もプロテスタントの影響が強い街だったので、ランバレネでのカトリックの人口は20%未満でした。ランバレネでは30%が異教徒で、50%から55%がプロテスタント、10%から15%がカトリックです。その当時、村から村へとファチマの御像が訪問して行って、遂にランバレネの村にもやって来ました。ランバレネには15日間留まりました。その15日間はカトリックのお祭りで、その15日間の間、聖母行列、或いは公教要理、或いは霊的講話、或いは徹夜のお祈り等、たくさんの行事がなされました。
その当時主任司祭だったその司教様は、「自分の目を信ずる事ができなかった」と言います。「夜ローソクを灯してお祈りをして聖母行列をする時に、これほど多くの人が集まった事は一生見た事がなかったほど集まった」と言います。何故かというと、プロテスタントの牧師さんたちが皆怒るほど、プロテスタントの教会は空っぽになって、皆がカトリックのミッションの方に行って、ファチマのマリア様の方に行ってしまったからです。「その年の終わりには、普通の年よりも10倍の新しい洗礼があった。」1年の間に、人口の40%がカトリックになりました。
これはランバレネの例だけではなく、世界中どこでも、マリア様の像が通った所はそうなっていました。
第2巻の最初の方で書いた事ですけれども、ここで是非言いたいと思います。3人のマリア様の現われを受けた牧童たちは、朝のお祈りも夕のお祈りもどうやってしたら良いか知っていませんでした。2年後、この子供たちは罪も犯した事がないし、英雄的な聖徳を実践していました。これは奇跡です。ファチマでこの子供たちに起こった事です。
フランシスコとジャシンタは、普通のどこにでもある同じような田舎の子供たちで、特に特別敬虔だったというわけではありません。ジャシンタは遊ぶのが好きで、踊るのが好きで、村の人気者でした。もしジャシンタちゃんのこの写真を見たら、「あぁ、この女の子は大きくなったらものすごい女性になる事ができる」と思うかもしれません。しかしマリア様の御出現によって、この二人の子供たちは聖人になりました。
この子供たちは他の子供たちと同じように、機嫌が悪かったりとか、悪に対する傾きなどもありましたけれども、それに対して戦っていました。いつも、子供たちが誘惑にかられたり或いは何か情念に駆られたら、すぐにマリア様の方にお祈りをしてマリア様に向かって助けを求めていました。その為に彼らは聖徳へと変わっていきました。その御出現の後には、彼らが昔の彼らであるという事を認める事ができないほどでした。
では、ファチマで一体どこがそんなに特別で偉大なのでしょうか?何がそのメッセージの中心なのでしょうか?
ファチマのメッセージをよく分析すると、ファチマのメッセージで一番大切な内容というものは、第二バチカン公会議で無視されたか、或いは捨てられてしまったその事であると分かります。ファチマではラテン語で「novissimi」と言われている四つの終わりの事について非常に強調します。
ファチマでマリア様がお現われになったその最初から、「私は天から来ました。」「私はあなたが天国にいる事を望みます。」「永遠の喜びを受ける事を望みます」と、天国について語ります。
ルチアがよく知っている友達について質問すると、「あぁ、彼女は世の終わりまで煉獄にいるでしょう」と答えました。
7月13日には、2ヶ月後ですけれども、マリア様は地獄の火の海を見せました。そして子供たちに、「祈りと犠牲を捧げなさい。何故ならば、さもないと多くの人々が地獄に落ちてしまうから」とお願いしました。地獄の火に、多くの霊魂たちが今落ちているというのは、ジャシンタのこれからの一生のテーマでした。ジャシンタの残った数年間の短い生涯で一番の関心事は、「多くの霊魂たちをこの地獄の火から救いたい」という事でした。
ロザリオの1連毎にマリア様が「付け加えなさい」と言ったお祈りの中にはこれがあります、「我らを地獄の火より守り給え」と。
シスタールチアは、ルチアは大きくなってシスターになりましたけれども、「多くの霊魂たちが地獄に落ちている。彼らの為に祈らなければならない」という事を繰り返し言います。
ファチマでは、マリア様が私たちの頭を考えを、永遠の方に向けるようにとしています。この短い人生が終わった後に待っている、永遠の命です。
ファチマから50年後、これはファチマとは全く正反対の事が起こりました。人類は永遠の事を忘れ去ってしまって、この世の事だけに集中するようになってしまいました。
この第1の考えは、第2の考えに導かれます。それは、「私たちの人生は、自分の私たち自身の事よりは、もっと天主の事を、天主の栄光を考えなければならない。もしも天主の栄光が傷付けられているならば、天主に対して罪が犯されているならば、それを償わなければならない。天主を慰めなければならない」という考えです。
これがファチマの秘密の1つです。ファチマの秘密はまず、「罪人が地獄に落ちる」という事を話します。
悪魔の作戦が私たちの目の前に展開されています。悪魔の作戦はまず、私たちが成聖の状態に生きていなくても良い、その必要性を忘れさせる事です。そのようなメンタリティーを作り上げる為に、マリア様の言葉によれば、「ロシアはその誤謬を世界中に広めるでしょう」とあります。つまり、あたかも天主がこの地上に存在していないかのような世界を作り上げる、「大切なのはこの地上の物質の事だけなのだ」というメンタリティーを作り上げる事です。これが無神論であり、唯物論です。
最後に、この宗教に関するメンタリティーをも変えさせてしまいます。それが近代主義です。近代主義によって人々は、宗教生活とか宗教について別の考えを抱きます。どのような考えかというと、近代主義によれば、「もしも私たちが天主様、或いはマリア様にお祈りをするとしたら、それは私たちがこの地上での生活に必要なものを得る為」その為だけであって、「罪に対して戦う」とかという考えはそこから排除されます。つまり宗教というのが、「この地上で幸せな生活をイージーな生活を送る事ができる為の手段であって、それで良い人になる為だ。」
しかし本当の宗教生活は違います。ファチマでの天使の御出現を見て下さい。皆さんがこの祈りをたくさん捧げるので大変嬉しく思います。その中で天使はどうやってお祈りをしたでしょうか?どうぞマリア様が天使を通して皆さんに教えたように祈って下さい。そのお祈りによれば、私の人権とか、この地上での生活を、この地上での幸福を欲しいとはお祈りしません。そうではなくて、天主の名誉について祈ります。
「わが天主、われ、御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」
その直後にあるのは霊的な戦いであって、何故戦いかというと、「信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々の為に、御赦しを乞い求め奉る」と、その回心の為に祈っているからです。
「私たちは2つの主人に同時に仕える事ができない」と言ったイエズス様の教えがここで分かります。聖アウグスティヌスの表現によれば、「天主の御国と悪魔の国の2つの戦いが、その勢力の為に戦っている」その事です。聖イグナチオは霊操の中で、「2つの御旗」の事について書きます。「キリストの御旗とルチフェルの旗」です。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「永遠の知恵、イエズス・キリストの知恵と、この世の世俗の知恵の2つの戦い」について話しています。マキシミリアノ・コルベ神父様によれば、「無原罪の聖母の騎士とフリーメーソンの軍隊との戦い」です。ファチマでは、「マリア様の御要求を受け入れてそれを実践する忠実なマリア様の子たち、聖母の汚れなき御心に対する信心を実践する人々対、共産主義或いはフリーメーソンなどのロシアの誤謬を広める人たちの戦い」です。
50年前から教会の中では、この「2つの戦い」という考えは排除されてしまいました。
ファチマで最も重要なテーマは、更にマリア様の汚れなき御心の事がこの世に啓示された事です。
1917年6月13日に、マリア様はご自分の汚れなき御心を世界で最初にお現しになりました。汚れなき御心に対する信心というのは既に、16・17世紀から始まっていました。しかしその御心を見せたのは、ファチマで初めてです。
マリア様によれば、「汚れなき御心に対する信心こそが、終末の人類に与えられた最後のチャンスである、救いの為の最後の手段である」と言います。6月13日にマリア様のお言葉によれば、「天主は私の汚れなき御心に対する信心を世界に確立する事を、全世界に確立する事を望んでおられる」と言います。
今まで歴史上、マリア様への信心というのは地方に固有の、地方地方のものでした。しかしファチマでは全世界に関わる信心を求めています。この信心を実践する人には、非常に大きな約束も付けられています。生きている間に私たちが受ける数多くのお恵みと、特に死の時のお恵みです。
2つの事を特にマリア様は約束しますが、本当に特別です。
マリア様が「個人的に、皆さんの死の時に傍に付き添う」と言って下さっています。
皆さんが亡くなる時は何が起こるのでしょうか?教会の教えでは、私審判があります。つまり、天主の前に皆さんの霊魂がたった一人で現れて、裁きを受けます。皆さんがなさった事、仰った事、或いは考えた事、全てにおいて裁きを受けます。全く一人でその裁きを受けます。誰も傍に、誰も、誰も付き添ってくれる人はいません。守護の天使、保護の聖人は、単なる沈黙の目撃者でしかありません。
ところがファチマでは、「あなたが救いの為に必要な全てのお恵みを持って、あなたの臨終の時に個人的に付き添う」と仰っています。汚れなき御心を実践する人々には、一般的な法則の例外を作るという事です。つまり、マリア様が私たちに個人的に付き添って下さるという事です。厳しい裁判官である天主の前にたった一人で立つと思えば、その非常に強い、力強い弁護者であるマリア様が、私たちの為に弁護する為に傍に立って下さるというのはどれほど大きな事でしょうか。
第2の約束は、これよりももっと素晴らしいユニークなものが約束されています。
「救われる」というのは全人類同じではありません。皆さん、どのような良いカトリックであっても悪いカトリックであっても、回心のチャンスはあります。煉獄でしばらくの間、何年か時を過ごした後に、天国に行くチャンスがあります。皆さんの霊魂はちょうどコップのようです。もしも天主様の為に何もしなければ、皆さんのコップは小さいまま残ります。でも天主様は救いの時に皆さんの幸せを、その皆さんの霊魂の能力の最高度まで満たします。でも皆さんの受ける能力以上を入れる事はできません。
天国の幸せのたった一滴のほんのちょっとの一滴でさえも、私たちがこの人生全ての間で経験する事ができる幸せとか喜びとかをそれを合わせて、この全人類の全ての始めから終わりまでの喜びを集めたとしても、それでも足りないほどの喜びがあります。しかし私たちが生きている間に、「天主様をますますお喜ばせしたい」「マリア様の為にもっともっとやりたい」となさればなさるほど、この皆さんの能力がどんどん大きくなっていって、天国での喜びをますます大きく受ける事ができるようになります。
天国に行くという事は、その皆さんの能力の最大限まで、極めてものすごい幸せを満たすという事です。幸せを受ける能力がない方は50滴でもういっぱいになってしまいますけれども、この地上で色々天主様に尽くした人は、尽くしただけ能力が大きくなるので、例えば5000滴が入るほどの能力を得ます、100倍になります。そこでこの地上で寛大であれば寛大であるほど、天主の為に生きれば生きるほど、ますます私たちが天国で幸せを多く、より多く受ける事ができる能力を身に付けます。
マリア様は、「もしも私の汚れなき御心に対する信心を実践する人には、これを与えよう」という約束をしました。「その実践する霊魂たちは、天主様にとって非常に大切であって貴重であって、あたかもその玉座を飾る花々のようであるだろう。」
では皆さんの幸せの大きさを決めるものは何でしょうか?皆さんが天主に近付けば近付くほど、その幸せは大きくなります。天主に近付けば近付くほど、ぴったりとすればするほど、最高度の幸せが待っています。マリア様の汚れなき御心に対する信心を実践する人に約束されたのは、この「天主のそのすぐ近くに行く事ができる」という事です。
ではこの信心というのは、どうやったら実践する事ができるでしょうか?全ての信心がそうですけれども、外的な要素と内的な要素があります。
外的な要素というのは、私たちが実践する事です。私たちが実践しなければならない事というのは、具体的な何かをする事です。例えばイエズス様の聖心の信心には、6月の聖心の月とか、或いは初金曜日の信心とか、或いは聖心の連祷などがあります。
汚れなき御心に対する信心の外的な要素のその1つは、初土の信心です。その第2は、汚れなき御心に奉献するという信心、その2つの実践があります。この2つは単なる外的な行いであって全てではありません。ちょうど人間が、体と霊魂で成っているように、体だけでは生きていません、霊魂が必要です。
この外的な実践に、多くの祈りと犠牲を捧げなければなりません。「天主を慰め、多くの霊魂を救う為に、祈り、犠牲を捧げなさい」とマリア様は特別に要求されました。
この祈りというのは、大部分で初土の信心の中に入っています。特にロザリオの祈りです。マリア様は「毎日ロザリオを唱えなさい」と要求されました。またファチマでは射祷の大切さについて教えています。子供たちは病気になってお祈りもしっかりできなかったので、射祷というのは唯一子供たちがする事ができたお祈りであって、非常に大きな役割を果たしました。
この実践には、その実践を生かす精神がなければなりません。肉体と霊魂が合わさって1つになって人間となるように、行為とそれを生かす精神とが2つがあって、初めて信心になります。
残念ながら多くの人々は、しかも聖伝の信者さんであったとしても、残念ながらこの精神について忘れてしまって、精神の事をほとんど気にしていない人がいます。しなければならない事については、マリア様が要求された事以上の事をたくさんするという人はいるのですが、でももしもそのような人たちに、「それは本当の信心ではありません」と言うと、きっと腹を立てるほどの方がいます。「何ですか神父様!何ですって!?私は初土にはマリア様の仰っている通りちゃんとお祈りしています。マリア様の奉献の祈りは毎日唱えています。私はロザリオを6環唱えています。」「でも、確かにそれは素晴らしいのですけれども、それを生かす霊魂を付けなければなりません。」
ところでこの今から申し上げる事は、本当に知られていなくて、ファチマの信心をする方でも知らない方がたくさんいます。何故かというと、誰もそれを説明する人がいないからです。このファチマの精神というのは、子供の生涯によって表わされています。
ファチマの精神の第1は、フランシスコの生涯によって表われています。それは「天主を慰める」という生き方です。フランシスコは言います、「天主はこの世の罪の為にあまりにも悲しんでおられる。その為に被造物である私たちは、そのお返しに天主を慰め、そして何とかその悲しみを和らげてあげなければならない」と言います。
言い換えると、マリア様の御心は茨の冠によって刺し貫かれていて、それなので私たちはその刺されている茨を1本1本、抜いてさしあげなければならないという事です。私たちが犯す罪によって、マリア様は恐るべき醜い茨で貫かれているという事です。
皆さんの愛するお母さんに対して悪者共がやって来て、茨の棘をその皆さんの愛するお母様の胸に刺し貫こうとしていると、皆さんどう思いますか?皆さんはこう仰るに違いありません、「やめて下さい!私の母にそんな事しないで下さい!」しかしこの悪者共は皆さんの事を嘲笑い、やろうとする事を更に続けています。皆さんはそれを止める事もできません。すると皆さんは仕方がなく、お母様の元に行って、その刺された茨をお母様の胸から1つ1つ取り抜こうとするではないですか。そこでお母様が受けたその侮辱、屈辱、その悪い取り扱いを、何とかして償って慰めて、お母様の悲しみを和らげようと努めるのではないでしょうか。
では、どうやって天主様を慰めたら良いでしょうか?
そこに、そのどうやって慰めるかというこの答えが、ファチマの中心的なキーワードになっています。それが「償い」です。私たち或いは他の誰かによって、天主或いはマリア様に対して為された多くの罪や侮辱を、私たちが償うという事です。私たちがたとえ過去天主を悲しませてしまったとしても、しかし私たちは償う事ができるという事です。
皆さんはご結婚なさっている方がいるので、皆さんがどれほど奥さんを愛しておられるのか分かるのですけれども、突然、ある時突然魔が差して正気を失ってしまったように、奥さんをひっぱたいてしまった。奥さんはあっという間に「キャ!」と言って血を流して床に倒れてしまった。奥さんは涙を流し、「何でこんな事するのでしょう」と言って涙を流しています。心はもう砕かれています。そして何か知らないですけれども、怒ってこんな事をやって、怒ってどこかに行ってしまいます。そこでそのしばらく後正気に戻って、「あれ?やばい!妻を殴ってしまった、ひっぱたいてしまった!何てひどい事をしてしまったのだろうか!」「あぁ!」と言って涙を流して、「これは大失敗だ!私の最愛の妻をこんなに悪い取り扱いをしてしまった!」
では皆さんどうしますか、そのような事が起こってしまったら。コロッとそれを忘れて、あたかも何もなかったかのように、「あぁ、こんにちは!」と言うでしょうか。そんな事はできません。奥様の心はもう砕かれています。皆さんは許しを乞わなければなりません。単なる悪い言葉を言ったのみならず、暴力さえもしてしまったので、奥さんの心はもう粉々です。もちろん奥様はとても聖なる方なので、寛大に許して下さるでしょう。でも心の傷は残ります。
そこで先程した悪の、悪い態度に勝るそれよりも1000倍良い愛の態度を見せて、それを償おうとします。それが罪の償いです。
罪を犯す毎に私たちは主に死をもたらして、幼きイエズス様を窓から外に放っぽり出してしまって、その後何もなかったのように、「あぁ、こんにちは!」と言おうとしているのです。
この「償い」というこのキーワードだけが、私たちの宗教の生活をもう一度真面目なものに、意味のあるものにする事ができます。もしもこの償いというキーワードがなければ、ちょうどある悪い夫が、妻をものすごくこう投げつけておいて、「あぁ、元気?」と言っているのと同じです。これは真面目な態度ではありません。
ですから初土の信心、或いは奉献という、或いは祈り、犠牲というこの行為を、私たちの行なっている事を、罪を償う為、或いは天主を慰める為という精神を以てなされる、これが汚れなき御心への信心です。そしてこのその精神の中には、天主を慰め、償うのみならず、更に進んで罪人の回心さえも望まなければなりません。
ファチマの天使、或いはマリア様の仰った事の中で一番よく出てくる単語は、「償い」と、あと「回心」です。
罪を償い、そうする事によって天主を慰めるというのは、天主の御栄え、栄光に関する天主への愛に関わる事です。
ところで回心というのは、隣人愛に関わる事です。ではマリア様はご自分の御心を何の為に私たちに啓示されたのでしょうか?
トゥイでマリア様は最後に御出現になったのですが、その時にやはり汚れなき御心をお見せになりました。しかしトゥイでは、マリア様はご自分の御心を自分の手に持って、私たちに差し出す為に与える為に持っていました。マリア様の汚れなき御心はシンボルです。どんなシンボルかというと、マリア様のパーソナリティーそのお人柄、その全く内密の神秘の全存在、それ自身を表すシンボルです。
もしも夫が愛する妻に、「あぁ、愛する妻よ、私は私の心を全てお前にあげる」と言った時に、夫はですね、お医者さんに行ってこの手術をして胸を開いて、その心臓を取り出してですね、「さぁ」と言って差し出すわけでありません。妻に、「お前の事を愛している。僕はお前に僕の心を全てお前に与える」というのをよく言います。
マリア様がご自分の心を全て私たちに与える、それがファチマです。つまりマリア様は自分の全てを、最も深い神秘を全てを、愛する子供たちにもう残りなく差し出すという、それがファチマです。
マリア様の望みは、この子供たちがマリア様の愛をこの御心を受けてくれる事です、取ってくれる事です、そして回心してくれる事です。回心というのは、今までそっぽを向いていたのが、そっちの方を向いてその振り返る事です。
私たちはちょうど、このように牛か象のように地獄に向かって一直線にのろのろと歩いている動物のようです。ちょうど、さぁ今から地獄に落ちるその一歩、その直前の時に、「我が子よ」という声を聞くのです。「我が子よ、私はお前の事を私の心から、汚れなき御心を尽して愛していますよ。その道を歩き続けないで下さい。永遠の亡びに行ってしまいます。私の方を向きなさい。」そこでマリア様の方に向き変える、これが回心です。
例えば、誰かが初めてマリア様の事を知って発見して、「あぁ、マリア様というこんな方が、」これが回心です。マリア様はそのかわいそうな自分の子供たちの救いを望んでいるので、その回心をも望んでいます。
毎日のロザリオ、汚れなき御心への奉献、或いは祈りと犠牲というのは、罪人の回心という為にも捧げられています。これは天使の祈りの中にもあります。この事をよく理解して下されば、マリア様がファチマで何を私たちに求めているか、教えているか分かるはずです。
この2つをこれを実践するならば、マリア様がなさった約束をみな受ける事になります。
もちろん他にもこの重要なテーマに関連する別の観点もあります。マリア様は私たちの外的なこういうような行為に重要性を置いております。これらの実践というのは、私たちがいつも正しい道を歩み続ける為に、或いは誘惑に打ち勝つ為の非常に強い武器となります。この1つ1つが毎日のロザリオです。ファチマでロザリオについてマリア様が教えて下さる事は信じられないほどです。マリア様は世の最も恐るべき悪い時期に与えられた最後の手段として、ロザリオと汚れなき御心に対する信心の2つを、最後の手段として与えています。
ではロザリオをどうやって教えたのでしょうか?ファチマではマリア様が御出現になるその度毎、「ロザリオを毎日唱えなさい」と言いました。これは全く基本的な基礎にあるものです。ロザリオの中には、最後にこのお祈りを付け加える事になっています、「あぁイエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。また全ての霊魂、殊に主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え」というのは、ロザリオで必ず1連毎にファチマの精神を私たちに思い出させて下さっています。
初土の信心では更に、「ロザリオの15玄義の玄義を黙想するように」とさえもお願いしています。マリア様はめでたしを唱える事だけではなく、玄義の黙想を要求して条件に付けています。このロザリオの玄義こそが、私たちを罪を犯す道から守ってくれるその武器なのです。
マリア様はファチマでほんの少しだけしかお話しませんが、それを通して私たちに教えてくれる事はどれほど意味が深いか分かりますか。これについて8つの講話を秋田で申しましたので、その8つの講話の内容を今1時間の間に申し上げる事は今難しいので、そこでその講話の内容がある本の中にあるという宣伝をさせて下さい。
その本の第1巻では、ファチマの御出現それ自体について説明しました。そこで御出現の天使とマリア様の御出現の言葉1つ1つについて黙想して、それについてコメントをしたのが第1巻です。このマリア様が仰った事、天使の言った事を見る事によって、既にファチマがどれほど素晴らしいものであるかという事を理解できます。ファチマでマリア様が仰った事それ自体の量は、ほとんどもう1ページか2ページで書き尽くす事ができるほどで、もうあるかないかのようです。しかしマリア様が仰ったその内容自体を見ると、最も聖伝の伝統的な公教要理の内容、これよりももっと素晴らしい内容がないほどの内容が書かれています。マリア様が仰ったその内容というのは、ちょうど第二バチカン公会議で無視されたか、或いは葬られたか、或いは捨てられたかしたその内容、それが言われています。
第2巻では、私はファチマの霊性、或いはファチマの信心の実践について、その精神について考察しました。3人の子供たちの生涯を考察して、それにコメントを付けました。後にポンテべドラという所でマリア様がお現れて、初土の信心について語った時の事を考察します。次にトゥイにまたお現れになって、ロシアの奉献をもお願いしますが、その奉献について考察しました。
この「初土」そして「奉献」の2つのテーマを見ると、ファチマが反エキュメニズムであるという事が分かります。何故かというと、マリア様はイエズス様に関する間違った教えを異端を、「冒瀆だ」と言うからです。そこで「この異端に対して償いをしなければならない」と言うからです。
たとえばその異端はどのような、冒瀆はどのようなものがあるかというと、「無原罪の御宿りを否定」する事、「マリア様が終生童貞であるという事を否定」する事、「マリア様が霊的な私たちの母であるという事を否定」する事。
これらを否定するのは誰でしょうか?異教徒の人ではありません。イスラム教徒の人でもありません。
プロテスタントがそう考えています。プロテスタントの人々が、これらの信仰に反対しています。私たちがつい最近聞くのは、そのプロテスタントの人たちとの対話、「兄弟的な対話をしよう」というのですけれども、マリア様はそのプロテスタントの人たちについて、「そのようなひどい冒涜に対して償わなければならない」と仰っています。
また初土では、御聖体拝領、また告解という「秘跡」の大切さが強調されます。天使の御出現の中で、子供たちが霊的な神秘的な聖体拝領もしました。また子供たちは霊的に神秘的に御聖体礼拝をします。トゥイでは、三位一体のビジョンの中で御聖体のビジョンが出ます。つまりイエズス様の聖心から御血が流れ出るのですけれども、その下に御聖体とカリスがそれを受けています。初土の信心を見ると、私たちがどうやって御聖体を拝領し、そして告解の秘跡をしなければならないか、という事を教えています。
ここまでのお話で、「あぁ、ファチマというのは本当に何か特別で、ユニークな存在である」という事が分かって下さったでしょうか。太陽の奇跡というものすごい奇跡から始まって、近代主義によって全く忘れ去られてしまったカトリックの真理が、ここで思い出されているという事に気が付かれたでしょうか。
では私が今書いている第3巻の本は何でしょうか?
ファチマがどんなもので有り得るものだったか、そしてしかし実際はどうなってしまったのかという事を、御出現後50年の間の歴史をまず考察しました。世界中であちらこちらに共産主義、フリーメーソンがタケノコのように勢力を伸ばしているのですけれども、ファチマのマリア様の御像が巡礼して回ると、それが奇跡を起こしているという事です。教皇様をはじめ、司教様たちがファチマのこのマリア様の御出現に非常に深い感謝を表明しています。
しかし突然、何か恐るべき事が起こってしまいます。それが第2章で、いきなり突然ファチマが軽蔑され、打ち捨てられた。1940年代頃から新近代主義者たちが教授、或いはバチカンの中に戻って来て、そしてファチマのマリア様に泥を投げます。例えばグレゴリア大学の校長を務めた教授がいます。この人はファチマの中心的な人物でした。この神父様の事はダニス神父(SJ、イエズス会司祭)でした。
近代主義がカトリックの教えについてした事と同じような事を、ファチマについてダニス神父はします。ファチマ1とファチマ2に分けます。それによれば、「ファチマという御出現はあったけれど、実際本当に起こったのか、何が起こったのかは分からない」と言います。
そしてこれがどういう事かというと、「確かにファチマには何かあったけれども、シスタールチアがこう書いた『こんな事があった』と目撃した事を書いた事は、それはただのお話だ。」そのダニス神父によれば、「ファチマのこの信心とか、初土の信心とか、或いはロシアの奉献などというのは、シスタールチアが作った作り話であって、忘れた方が良い。」
このダニス神父には友人がいて、枢機卿の「ベア」と言いました、ベア枢機卿でした。ベア枢機卿はピオ十ニ世教皇様の聴罪司祭でした。1953年になると、ピオ十二世教皇様のファチマに対する態度が突然変わります。ダニス神父の言っている話がバチカンで受け入れられるようになります。
事実は今、現代、ファチマの専門家が研究して分析すればするほど、ダニス神父がその当時言っていた事はみな情報操作であって、そして嘘であって間違った事で、本当のファチマと何の関係もなかったのですけれども、それにもかかわらず、その当時ダニス神父というのはローマで幅を利かせていて、ファチマの権威者でした。
ところでこのダニス神父は、聖ピオ十世会と個人的な接触もあったようです。1976年にルフェーブル大司教様が、「最初の聖ピオ十世会司祭を叙階する」と言った時に、ルフェーブル大司教様は司祭の叙階の前に、司祭となる候補者の為に司祭黙想会を指導していましたが、その時にローマから訪問者がありました。その訪問者はルフェーブル大司教様に、「大司教様、じゃぁたった1回、さぁ今新しいミサを捧げて下さい。そうすればローマとエコンの間の全ての問題が解決します。」このそう言った人が、ダニス神父です。
近代主義者の人がローマで権威を持ってしまった、地位が与えられた時その瞬間、残念ながらファチマでマリア様が仰った事とその正反対の事を、第ニバチカン公会議がするようになってしまいました。
そこでこの第3巻の第2章では、ローマの当局が何とかファチマを中和化して、そして近代主義の中に取り込もうとしているその行動を分析しました。この作戦はほぼ完壁になされましたけれども、例外が2つありました。2つの事は中和化できませんでした。
私が先ほど「中和化」、「同和化」と言いましょうか、というのはどういう事かというと、二次的なあまり副次的な重要でない事に「重要である」という事をして、本当に中核の最も大切なものは脇に置いてしまう、これをまぁ「中和させる」と申しました。
例えば近代主義によれば、「あぁ、ロザリオをたくさんたくさん唱えなさい」と言いながら、そのロザリオのその本質の精神は忘れさせてしまう。或いは、「さぁ、ファチマのマリア様を思って夜中でお祈りして下さい。」しかしその「天主を慰める」とか、「罪の償い」という事は全く無視させるという事です。
そのような事で中和化させる事はできたのですけれども、近代主義と同一化させる事はできたのですけれども、しかし「ロシアの奉献」という事だけは近代主義の中に取り入れる事はできませんでした。では一体どんなドラマがあったのか、このロシアの奉献という事について第3章で考察しました。
以前は、そのファチマの事を何とか忘れさせる為に操作しました。しかし操作だけでは効かなくなったので、これからはその後、嘘さえもつくようになりました。つまり「ロシアの奉献について、シスタールチアは『もうそれがなされた』と言った」という嘘をついたのです。ただこの単純な純粋な嘘をつくようにもなってしまいました。つまり、少なくとも何かしたので、「それがもうすでにロシアの奉献と考えられている」という事で、「もうなされた」とします。
しかし、どうしてもこう中和できない1つの事が残っています。
それが「第3の秘密」で、第3巻の第4章において私は考察しました。2000年に公開されたいわゆる第3の秘密というのは、私たちが今まで言った第3の秘密の全てではなくて、何かが欠けている。そしてこの第3巻の第4章の後半では、実は私たちが言っていた第3の秘密と、バチカンが発表したのは全く関係のないものであった、という事を考察します。
第3巻の第5章では、本当の第3の秘密の内容というものはどんなものだったのだろうか、その本当の秘密は何だったのか、という事を分析しました。私の考えたものではなくて、「シスターがこう言った」とか、或いは「ここでシスターがこう言っている」とか「こういう証言がある」という物を、信頼のできるそういうテキストを考察したものです。
第6章では、ファチマの最後の凱旋とは何なのか。
第7章では、ファチマとコルベ神父様の無原罪の聖母の騎士との関係について。
第8章では、では私たちは何をすべきなのか。それから私の回心の為にもお祈り下さいという話をします。
ご清聴ありがとうございます。