アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今から70年前の1947年、ファチマの聖母像は世界中を「巡礼」して回りました。その時に起こった平和の奇跡の数々をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【スペイン】
第二次世界大戦直後のファチマ御出現30周年、ファチマの聖母の世界訪問が始まりました。最初はスペインを通ります。多くの告解、聖体拝領、聖母行列、ロザリオ、償いの聖時間、聖母の汚れなき御心への奉献、などがなされました。1948年5月、最後に首都のマドリッドに到着すると市民から凱旋的な大歓迎を受けました。マドリッドの司教は、感謝の手紙の中で、ファチマの聖母がマドリッド司教区に入ると150万人の信者も未信者も皆聖母の前に集まり、泣き、祈り、聖歌を歌った、かつてこのようなことをマドリッドで見たことがない!と書いています。
1953年、聖座とスペインとは政教条約を結び、スペイン国家の唯一の宗教はカトリックの宗教であることを認めました。1954年フランコ将軍はスペイン国家の名前に置いてスペインを聖母の汚れなき御心に奉献しました。
【フランス】
1943年、フランスの司教たちは自分の司教区を聖母の汚れなき御心に奉献しました。
ファチマの聖母像がフランスを訪問する間、テアス司教(Bishop Theas)によると、「フランスの全くの回心」がありました。
【カナダ】
1947年6月18日から22日、カナダのオタワに着いたファチマの聖母像は盛大な歓迎を受け、6月22日に司教たちは50万人以上の信徒たちの前でカナダを聖母の汚れなき御心に奉献しました。
【アメリカ】
1947年12月8日、アメリカのバッファローの司教座聖堂で20万人以上の巡礼者たちから歓迎を受けたファチマの聖母は、アメリカ全土を訪問して回りました。アメリカでは、その後数万人が毎年カトリックの洗礼を受けるようになりました。例えば1949年だけで12万人の成人がカトリックに改宗しています。
【イギリス】
英語圏では、特に頻繁に活動していた共産主義者たちがカトリックに回心しました。例えば英国人のダグラス・ハイド(Douglas Hyde, 1911 - 1996)やハミッシュ・フレイザー(Hamish Fraser)などがいます。(このダグラス・ハイドはアイルランドの初代大統領とは別人です。)
「私たちカトリックが私たちの責任を完全に受け入れ始めるとき、共産主義は、アリウス派の異端が今では影響力がないように、同じく影響力がなくなるだろう。私の意見によると、ファチマは20世紀において最も重要な、もしかしたら500年前の宗教改革以来最も重要な出来事である。」("When we Catholics begin fully accepting our responsibilities, Communism will become as ineffectual as the Arian heresy … In my humble opinion, Fatima is the most significant event of this century, perhaps the most significant one since the Reformation," Hamish Fraser, 1952).
【韓国】
朝鮮戦争中の1953年、ストラムスキ神父(Father Matthew Strumski)해병대 소속 군종신부は、海兵隊の従軍司祭は重い軍靴を履きながら、ファチマの聖母像を持って韓半島を動いていました。このファチマの聖母像の前で、どれほど多くの徹夜の祈りの回が開かれ、祈祷集会の儀式が行われたことでしょうか。
ストラムスキ神父はポーランド系の米国移民で幼い頃小児麻痺を患い、命はもうないと思われていました。母親は息子のために聖母に熱心に祈り、奇跡的な治癒を得ました。
ミシガン州の神学校で学び、1948年にカッシディ司教により司祭に叙階されました。司祭叙階3年後、米軍の従軍司祭として志願し、太平洋で2年間、次に韓国でに2年働きました。
朝鮮戦争が長引く中、また神父は休暇中に、韓国の9つの司教区をファチマの聖母像をもって訪問し回りました。各司教区で司教様たちに会い、戦争が終わるように聖母に祈りました。「祈りは戦争を止めさせることができると私は信じていました。」
1953年3月26日、韓国の司教評議会に招かれたストラムスキ神父は、ファチマの聖母への祈りが大切なことを訴え、その日、司教たちは韓国を聖母の汚れなき御心に奉献します。
1953年4月5日、パウロ盧基南(ソウル大司教)は、板門店の近くでファチマの聖母像の祝別式があった折に、ブルー・アーミーの最初の会員になりました。
4月19日以降、ストラムスキ神父は韓国の難民の多くいた主要都市にファチマの聖母をもって、皆と多くのロザリオを祈りました。
4月30日付けで、ストラムスキ神父はアメリカに帰国命令を受けます。
しかし、この4ヶ月後、1953年7月27日朝鮮戦争は停戦となりました。
【次のビデオの29分08秒ごろ から 31分14秒ごろまでにその話が出てきます。】
ストラムスキ神父の後継者として10年後、すでに1958年に韓国に来ていたドイツ人司祭のアントニオ・トラウナー神父(Fr. Anton Trauner)が司教の許可を得て、1964年から韓国にブルー軍団(Blue Army)を設立するために働きました。
【オーストリア】
オーストリアは、第二次世界大戦後、ソビエトの占領下に置かれました。しかしオーストリアの国民たちは毎日ロザリオを唱えることを聖母に約束し、100万名が約束の署名をしました。
ペトルス・パフリチェク神父は捕虜だった時にファチマの聖母について知り、1947年2月2日、マリアツェルへの巡礼の途中、聖母からの声を聞きました。「もしも私がいうことを行うなら多くの霊魂は救われ、平和が来るでしょう」と。そこで1949年からロザリオの十字軍をオーストリアで起動させました。
突然1955年5月13日、モスクワはオーストリアを独立させると突然宣言しました。当時オーストリア首相だったユリウス・ラアブ(Julius Raab)は、これをファチマの聖母のおかげだと断言しています。
【聖ピオ十世会】
私たちは、2017年7月17日東京で、8月15日大阪で、9月24日ソウルで、ファチマの聖母と共に平和のためにロザリオを祈りました。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今から70年前の1947年、ファチマの聖母像は世界中を「巡礼」して回りました。その時に起こった平和の奇跡の数々をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
【スペイン】
第二次世界大戦直後のファチマ御出現30周年、ファチマの聖母の世界訪問が始まりました。最初はスペインを通ります。多くの告解、聖体拝領、聖母行列、ロザリオ、償いの聖時間、聖母の汚れなき御心への奉献、などがなされました。1948年5月、最後に首都のマドリッドに到着すると市民から凱旋的な大歓迎を受けました。マドリッドの司教は、感謝の手紙の中で、ファチマの聖母がマドリッド司教区に入ると150万人の信者も未信者も皆聖母の前に集まり、泣き、祈り、聖歌を歌った、かつてこのようなことをマドリッドで見たことがない!と書いています。
1953年、聖座とスペインとは政教条約を結び、スペイン国家の唯一の宗教はカトリックの宗教であることを認めました。1954年フランコ将軍はスペイン国家の名前に置いてスペインを聖母の汚れなき御心に奉献しました。
【フランス】
1943年、フランスの司教たちは自分の司教区を聖母の汚れなき御心に奉献しました。
ファチマの聖母像がフランスを訪問する間、テアス司教(Bishop Theas)によると、「フランスの全くの回心」がありました。
【カナダ】
1947年6月18日から22日、カナダのオタワに着いたファチマの聖母像は盛大な歓迎を受け、6月22日に司教たちは50万人以上の信徒たちの前でカナダを聖母の汚れなき御心に奉献しました。
【アメリカ】
1947年12月8日、アメリカのバッファローの司教座聖堂で20万人以上の巡礼者たちから歓迎を受けたファチマの聖母は、アメリカ全土を訪問して回りました。アメリカでは、その後数万人が毎年カトリックの洗礼を受けるようになりました。例えば1949年だけで12万人の成人がカトリックに改宗しています。
【イギリス】
英語圏では、特に頻繁に活動していた共産主義者たちがカトリックに回心しました。例えば英国人のダグラス・ハイド(Douglas Hyde, 1911 - 1996)やハミッシュ・フレイザー(Hamish Fraser)などがいます。(このダグラス・ハイドはアイルランドの初代大統領とは別人です。)
「私たちカトリックが私たちの責任を完全に受け入れ始めるとき、共産主義は、アリウス派の異端が今では影響力がないように、同じく影響力がなくなるだろう。私の意見によると、ファチマは20世紀において最も重要な、もしかしたら500年前の宗教改革以来最も重要な出来事である。」("When we Catholics begin fully accepting our responsibilities, Communism will become as ineffectual as the Arian heresy … In my humble opinion, Fatima is the most significant event of this century, perhaps the most significant one since the Reformation," Hamish Fraser, 1952).
【韓国】
朝鮮戦争中の1953年、ストラムスキ神父(Father Matthew Strumski)해병대 소속 군종신부は、海兵隊の従軍司祭は重い軍靴を履きながら、ファチマの聖母像を持って韓半島を動いていました。このファチマの聖母像の前で、どれほど多くの徹夜の祈りの回が開かれ、祈祷集会の儀式が行われたことでしょうか。
ストラムスキ神父はポーランド系の米国移民で幼い頃小児麻痺を患い、命はもうないと思われていました。母親は息子のために聖母に熱心に祈り、奇跡的な治癒を得ました。
ミシガン州の神学校で学び、1948年にカッシディ司教により司祭に叙階されました。司祭叙階3年後、米軍の従軍司祭として志願し、太平洋で2年間、次に韓国でに2年働きました。
朝鮮戦争が長引く中、また神父は休暇中に、韓国の9つの司教区をファチマの聖母像をもって訪問し回りました。各司教区で司教様たちに会い、戦争が終わるように聖母に祈りました。「祈りは戦争を止めさせることができると私は信じていました。」
1953年3月26日、韓国の司教評議会に招かれたストラムスキ神父は、ファチマの聖母への祈りが大切なことを訴え、その日、司教たちは韓国を聖母の汚れなき御心に奉献します。
1953年4月5日、パウロ盧基南(ソウル大司教)は、板門店の近くでファチマの聖母像の祝別式があった折に、ブルー・アーミーの最初の会員になりました。
4月19日以降、ストラムスキ神父は韓国の難民の多くいた主要都市にファチマの聖母をもって、皆と多くのロザリオを祈りました。
4月30日付けで、ストラムスキ神父はアメリカに帰国命令を受けます。
しかし、この4ヶ月後、1953年7月27日朝鮮戦争は停戦となりました。
【次のビデオの29分08秒ごろ から 31分14秒ごろまでにその話が出てきます。】
ストラムスキ神父の後継者として10年後、すでに1958年に韓国に来ていたドイツ人司祭のアントニオ・トラウナー神父(Fr. Anton Trauner)が司教の許可を得て、1964年から韓国にブルー軍団(Blue Army)を設立するために働きました。
【オーストリア】
オーストリアは、第二次世界大戦後、ソビエトの占領下に置かれました。しかしオーストリアの国民たちは毎日ロザリオを唱えることを聖母に約束し、100万名が約束の署名をしました。
ペトルス・パフリチェク神父は捕虜だった時にファチマの聖母について知り、1947年2月2日、マリアツェルへの巡礼の途中、聖母からの声を聞きました。「もしも私がいうことを行うなら多くの霊魂は救われ、平和が来るでしょう」と。そこで1949年からロザリオの十字軍をオーストリアで起動させました。
突然1955年5月13日、モスクワはオーストリアを独立させると突然宣言しました。当時オーストリア首相だったユリウス・ラアブ(Julius Raab)は、これをファチマの聖母のおかげだと断言しています。
【聖ピオ十世会】
私たちは、2017年7月17日東京で、8月15日大阪で、9月24日ソウルで、ファチマの聖母と共に平和のためにロザリオを祈りました。