アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年7月1日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年7月1日(初土)我が主イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日 婚姻ミサ
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
ご家族の皆さん、そして兄弟姉妹の皆様、今日はマルティンさんとヨハンナさんの御結婚式で喜びでいっぱいです。
そこで是非、このカトリック教会が「結婚」という事をどう考えてるのか?
一体、結婚というのは何なのか?
今日何でこの赤い服を着て、何でこうイエズス・キリスト様の御血の祝日というのを祝っているのか?
結婚と一体どういう関係があるのか?という事を黙想したいと思います。
この結婚式、婚姻の秘蹟という事を考えると、まず私たちはどうしても、「一体何で私たちはこの世に生きているのか?」という事を考えなければなりません。
一体何で私たちはこの今、ここにいるのでしょうか?この世界に、ここにいるのでしょうか?
これは「人生の目的」という事と「結婚の目的」という事とは緊密に結び付いています。
なぜ私たちが今ここに生きているかという事は、これは私たちがただこの地上で面白おかしく生活する為だけではありません。もっと深い意味があります。それは、私たちはこの世の短い生活を終えた後に、天国の永遠の楽しみを得る為です。実は私たちは偶然この世に、たまたま存在しているのではなくて、目的を持って創られました。
それは、「私たちが天国の永遠の命を、無限の喜びを楽しむ」という目的です。そしてこの目的というのはどのような事かというと、それは私たちを創った創造主、この事をこの創造主の事を「天主」とカトリック教会は呼んでいますが、この創造主と私たちの霊魂が一つとなって、その天主の永遠の命の中に入って、そして決して離れる事なく永遠に喜びを分かち合う、愛のまどいの中に入るという事です。
そしてこの永遠の目的を達成するという事を、人類の創造の最初から私たちに教えてくれました。
人類が最初に創造された時に、天主は一人の男と女を創って、人類が始まりました。最初の男の名前は「アダム」といいます。アダムは塵から創られました。そしてアダムが一人でいるのを見た時に、「一人でいるのは良くない」とアダムを眠りにつかせて、聖書によると、アダムの脇からあばら骨を取って、真白いきれいな骨を取って、そこから女性を創りました。これは全ての命の母親となるという意味で、「エヴァ」と名付けられました。そしてこの創造主は、このアダムとエヴァを、創造のこの最初の瞬間から創ったのです。
そしてこの「宗教」という事と「婚姻」という事は、非常に深く結び付いたものとなりました。
何故でしょうか?
何故かというと、実は婚姻というのは象りであるからです、イメージであるからです、将来起こる事のビジョンであるからです。どんなビジョンかというと、一人の男と一人の女性が一体となって、決して別れる事のない離れる事のない一つの体となるという事です。これは実は唯一の創造主である天主が、私たちの霊魂と一つとなって、決して離れる事のない、永遠の命を楽しむ為に創られた、という創造の目的、天国での救いについてのイメージであるからです。その象りを婚姻で表そうとされたからです。
ですから婚姻というのは、人類の最初から非常に聖なるものであって、尊いものであって、最も大切なものの一つです。そして社会の、人類の生存の最も基本の基礎となるものであって、これをたとえ国家といえども、どのようなものといえども、これを尊重して、これを守らなければならない義務があります。人間の相続はまさに、この家庭に存しているからです。
この世を創った創造主は、婚姻をそのような聖なるものとして創ったのですけれども、実はそれだけではありませんでした。この実は人類は、その創造の後に罪を犯しました。私たちはこれを「原罪」と呼んでいますけれども、それをその為に天国への門は閉ざされてしまいました。究極の創造の、私たちが創られた目的を果たす事ができなくなってしまいました。
考えてもみて下さい。もしも誰か友人が恩人がやって来て、「さぁ、君の為にここに10億円あげよう。ここに家もある。このロールスロイスもある。さぁこのプールもついている。飛行機もついている。さぁ、これはみんな君のものだ。自由に使って欲しい」と言ったたところ、「ただ1つだけ、この事だけを守ってもらいたい。ここにある小さなボタンがあるから、このボタンだけは押さないでほしい」と言ったら、二人でそのボタンを押してしまって、「たったそれだけの事も守れなかったのか!」
もしもそのような友人がいたら、もうこれで全ては終わった。せっかくそうしたのに、そのボタンを押したが為に、火災報知機が鳴って、家の中は水だらけになって、家の中はめちゃくちゃになってしまった。それで、もしもそのような事があったら、「せっかくあれほど言ったのに、一体何て事をしてしまったんだ!」と私たちは怒るかもしれません。
もしも私たちが友人に善を施したにもかかわらず、それをその恩を仇で返すような事をしてしまったら、もう金輪際、何もそれ以後、何の善も受ける事ができなくなってしまうかもしれません。
しかし、天主様はそうではありませんでした。私たちを救おうとして、救世主を送って下さいました。天主御自身が人となって、私たちのもとに来ようとしてくれました。
その来る準備の為に、実は旧約時代というものがありました。この旧約時代には、来たるべき救世主が私たちの為に、私たちを浄める為にどうするか、という事を教えてくれました。イメージで教えてくれました。
旧約時代には、エジプトの奴隷状態の中からユダヤ人たちが解放される為に、「子羊を屠って、その血を鴨居に塗りなさい。そうしたらエジプトの奴隷から解放される事ができる。そうしたら天使がエジプトに行って、全ての、ファラオのエジプトの王様から奴隷の家畜までの全ての、最初の男の子を抹殺する」という、「しかし、もしも子羊の血が鴨居にあったならば、ドアの入り口に塗られているならば、その家だけは守る」という事がありました。
実際そうなりました。これは来たるべき救い主の血の、私たちの罪の償いの為に流される血の象りでした。
旧約時代には、預言者のイザヤという人がビジョンを見ました。赤い服を着た人がブドウの樽の中でブドウを踏んで、ブドウ酒を作っている。一人でブドウ酒を作っている。そしてイザヤは聞くのです、「何故あなたの服はそんなに赤いのですか?」「私は一人でこのブドウを踏んでいる。そしてそれは、この世の救いの為だ」というビジョンを見ます。
そのような事が、旧約のそのような事が、新約でイエズス・キリストにおいて成就するのです。
旧約時代には、エルサレムの神殿という特別な建物がありました。そこにはいつも生贄が捧げられていて、そして宗教行事が行われていたのですけれども、ただ一度、一年に一回だけ、ユダヤの司祭の中の特別の、一番偉いトップの大司祭という人が、一年に一度、牛を屠ってその血を持って、至聖所という所の中に入ります。この至聖所というのは誰も入る事ができない所でしたけれども、一年に一回だけ、大司祭がそこに入る事を許されていました。血を持って入って、そして「契約の櫃」という所にその血を降り注いで、人類の罪の赦しの為に、特別の儀式をしました。
これも、イエズス・キリストが新約の大司祭として十字架の上で血を流して、そして天の至聖所の中に入り、唯一1回だけ、聖金曜日に、今から2000年前に、そして血を流して、罪の赦しの為にそれを捧げられた、という事のシンボルでした。そのような旧約時代の色々な象りは、新約時代にイエズス・キリストに於いて、人となった天主のなさった事に於いて、本当に実現しました。
救い主イエズス様は私たちの為に自分の血を全て流されました。十字架の上で亡くなった後に、死の眠りに就いた時に、ローマの兵士がやって来ました。「確かに死んで、死んでしまった」という事を確認する為に、槍でイエズス・キリストの脇を貫きました。すると脇腹が開いて、心臓が貫かれて、そこから水と血が出てきました。
これはちょうど聖パウロによれば、また聖アウグスティヌスによると、「イエズス・キリスト様は第2のアダムとして、死の眠りについている時に、その脇腹が開かれて、そこから水と血が出た。水というのは洗礼のしるしであって、教会の入り口である。血というのは御聖体のしるしであって、教会の中心である。この脇腹から実は、第2のエヴァである教会が生まれてきた。そしてイエズス・キリストはそのかしらであって、教会のかしらであって、教会はキリストの神秘体、その体の一部である。そしてその二人は、教会とキリストは、二人で一体となるのだ」という事を教えています。
イエズス・キリスト様はそれと同時に、婚姻というものを単なる二人の間の契約、約束事だけでなく、自分と教会との一致を象る秘跡にまでしました。そしてその秘跡として、特別なお恵みと祝福を与える事を約束しました。
そこでキリスト教信者の婚姻というのは、普通の婚姻とは違って、特別な尊厳にまで高められた、イエズス・キリストと教会の一致の象りにまで上げられたのです。一体何故なのでしょうか?
これは、「キリスト様が人類の為に、全ての血を流されて、そして教会を浄めて、罪のない、汚れのない美しいものにした」というその愛を示しています。それと同時に、「教会がこのキリストの御血を受けて、浄められて、キリストに愛と奉仕を尽くす」というこの神秘を表しています。
ですからマルティンさん、そしてヨハンナさん、二人は今からそれに倣って、愛と奉仕と犠牲をお互いに捧げ合って下さい。それは一体結局何の為かというと、それは天国での一致の為です。私たちが天国での永遠の至福を得る為です。
今日は初土曜日でもあります。
初土曜日というのは月の最初の土曜日で、今から100年前に、マリア様がポルトガルのファチマという所に現れて、特別にこう仰いました、「初土曜日には特別に信心をして下さい。」そして私たちに、ご自分の心を心臓を見せて、御心を見せて、この「私は、あなたたちを決して見捨てません。どんな辛い事があっても独りぼっちにはさせません。そしてこの御心は、あなたたちにとって避難所となります。辛い事や困難な事があったら、その中に入れば守られます。そして天国に導く道となります」と教えてくれました。
今日特に、この御血の祝日に結婚式をした二人が、また初土曜日に結婚式をした二人は、このマリア様の御心にいつも避難所として入るようになさって下さい。いつもこのお二人は、十字架の下に佇むようになさって下さい。全ての祝福とお恵みと聖寵は、イエズス様の御血からその脇腹から流れ出ます。それをどうぞマリア様と一緒に受け止めて下さい。
今日は、私たちの心からの祝福とお祈りを申し上げます。どうぞこの7月1日、初土曜日のこの日を生涯忘れずに、このこれからのご結婚生活を、イエズス様の御血と合わせてお捧げ下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年7月1日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年7月1日(初土)我が主イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日 婚姻ミサ
小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
ご家族の皆さん、そして兄弟姉妹の皆様、今日はマルティンさんとヨハンナさんの御結婚式で喜びでいっぱいです。
そこで是非、このカトリック教会が「結婚」という事をどう考えてるのか?
一体、結婚というのは何なのか?
今日何でこの赤い服を着て、何でこうイエズス・キリスト様の御血の祝日というのを祝っているのか?
結婚と一体どういう関係があるのか?という事を黙想したいと思います。
この結婚式、婚姻の秘蹟という事を考えると、まず私たちはどうしても、「一体何で私たちはこの世に生きているのか?」という事を考えなければなりません。
一体何で私たちはこの今、ここにいるのでしょうか?この世界に、ここにいるのでしょうか?
これは「人生の目的」という事と「結婚の目的」という事とは緊密に結び付いています。
なぜ私たちが今ここに生きているかという事は、これは私たちがただこの地上で面白おかしく生活する為だけではありません。もっと深い意味があります。それは、私たちはこの世の短い生活を終えた後に、天国の永遠の楽しみを得る為です。実は私たちは偶然この世に、たまたま存在しているのではなくて、目的を持って創られました。
それは、「私たちが天国の永遠の命を、無限の喜びを楽しむ」という目的です。そしてこの目的というのはどのような事かというと、それは私たちを創った創造主、この事をこの創造主の事を「天主」とカトリック教会は呼んでいますが、この創造主と私たちの霊魂が一つとなって、その天主の永遠の命の中に入って、そして決して離れる事なく永遠に喜びを分かち合う、愛のまどいの中に入るという事です。
そしてこの永遠の目的を達成するという事を、人類の創造の最初から私たちに教えてくれました。
人類が最初に創造された時に、天主は一人の男と女を創って、人類が始まりました。最初の男の名前は「アダム」といいます。アダムは塵から創られました。そしてアダムが一人でいるのを見た時に、「一人でいるのは良くない」とアダムを眠りにつかせて、聖書によると、アダムの脇からあばら骨を取って、真白いきれいな骨を取って、そこから女性を創りました。これは全ての命の母親となるという意味で、「エヴァ」と名付けられました。そしてこの創造主は、このアダムとエヴァを、創造のこの最初の瞬間から創ったのです。
そしてこの「宗教」という事と「婚姻」という事は、非常に深く結び付いたものとなりました。
何故でしょうか?
何故かというと、実は婚姻というのは象りであるからです、イメージであるからです、将来起こる事のビジョンであるからです。どんなビジョンかというと、一人の男と一人の女性が一体となって、決して別れる事のない離れる事のない一つの体となるという事です。これは実は唯一の創造主である天主が、私たちの霊魂と一つとなって、決して離れる事のない、永遠の命を楽しむ為に創られた、という創造の目的、天国での救いについてのイメージであるからです。その象りを婚姻で表そうとされたからです。
ですから婚姻というのは、人類の最初から非常に聖なるものであって、尊いものであって、最も大切なものの一つです。そして社会の、人類の生存の最も基本の基礎となるものであって、これをたとえ国家といえども、どのようなものといえども、これを尊重して、これを守らなければならない義務があります。人間の相続はまさに、この家庭に存しているからです。
この世を創った創造主は、婚姻をそのような聖なるものとして創ったのですけれども、実はそれだけではありませんでした。この実は人類は、その創造の後に罪を犯しました。私たちはこれを「原罪」と呼んでいますけれども、それをその為に天国への門は閉ざされてしまいました。究極の創造の、私たちが創られた目的を果たす事ができなくなってしまいました。
考えてもみて下さい。もしも誰か友人が恩人がやって来て、「さぁ、君の為にここに10億円あげよう。ここに家もある。このロールスロイスもある。さぁこのプールもついている。飛行機もついている。さぁ、これはみんな君のものだ。自由に使って欲しい」と言ったたところ、「ただ1つだけ、この事だけを守ってもらいたい。ここにある小さなボタンがあるから、このボタンだけは押さないでほしい」と言ったら、二人でそのボタンを押してしまって、「たったそれだけの事も守れなかったのか!」
もしもそのような友人がいたら、もうこれで全ては終わった。せっかくそうしたのに、そのボタンを押したが為に、火災報知機が鳴って、家の中は水だらけになって、家の中はめちゃくちゃになってしまった。それで、もしもそのような事があったら、「せっかくあれほど言ったのに、一体何て事をしてしまったんだ!」と私たちは怒るかもしれません。
もしも私たちが友人に善を施したにもかかわらず、それをその恩を仇で返すような事をしてしまったら、もう金輪際、何もそれ以後、何の善も受ける事ができなくなってしまうかもしれません。
しかし、天主様はそうではありませんでした。私たちを救おうとして、救世主を送って下さいました。天主御自身が人となって、私たちのもとに来ようとしてくれました。
その来る準備の為に、実は旧約時代というものがありました。この旧約時代には、来たるべき救世主が私たちの為に、私たちを浄める為にどうするか、という事を教えてくれました。イメージで教えてくれました。
旧約時代には、エジプトの奴隷状態の中からユダヤ人たちが解放される為に、「子羊を屠って、その血を鴨居に塗りなさい。そうしたらエジプトの奴隷から解放される事ができる。そうしたら天使がエジプトに行って、全ての、ファラオのエジプトの王様から奴隷の家畜までの全ての、最初の男の子を抹殺する」という、「しかし、もしも子羊の血が鴨居にあったならば、ドアの入り口に塗られているならば、その家だけは守る」という事がありました。
実際そうなりました。これは来たるべき救い主の血の、私たちの罪の償いの為に流される血の象りでした。
旧約時代には、預言者のイザヤという人がビジョンを見ました。赤い服を着た人がブドウの樽の中でブドウを踏んで、ブドウ酒を作っている。一人でブドウ酒を作っている。そしてイザヤは聞くのです、「何故あなたの服はそんなに赤いのですか?」「私は一人でこのブドウを踏んでいる。そしてそれは、この世の救いの為だ」というビジョンを見ます。
そのような事が、旧約のそのような事が、新約でイエズス・キリストにおいて成就するのです。
旧約時代には、エルサレムの神殿という特別な建物がありました。そこにはいつも生贄が捧げられていて、そして宗教行事が行われていたのですけれども、ただ一度、一年に一回だけ、ユダヤの司祭の中の特別の、一番偉いトップの大司祭という人が、一年に一度、牛を屠ってその血を持って、至聖所という所の中に入ります。この至聖所というのは誰も入る事ができない所でしたけれども、一年に一回だけ、大司祭がそこに入る事を許されていました。血を持って入って、そして「契約の櫃」という所にその血を降り注いで、人類の罪の赦しの為に、特別の儀式をしました。
これも、イエズス・キリストが新約の大司祭として十字架の上で血を流して、そして天の至聖所の中に入り、唯一1回だけ、聖金曜日に、今から2000年前に、そして血を流して、罪の赦しの為にそれを捧げられた、という事のシンボルでした。そのような旧約時代の色々な象りは、新約時代にイエズス・キリストに於いて、人となった天主のなさった事に於いて、本当に実現しました。
救い主イエズス様は私たちの為に自分の血を全て流されました。十字架の上で亡くなった後に、死の眠りに就いた時に、ローマの兵士がやって来ました。「確かに死んで、死んでしまった」という事を確認する為に、槍でイエズス・キリストの脇を貫きました。すると脇腹が開いて、心臓が貫かれて、そこから水と血が出てきました。
これはちょうど聖パウロによれば、また聖アウグスティヌスによると、「イエズス・キリスト様は第2のアダムとして、死の眠りについている時に、その脇腹が開かれて、そこから水と血が出た。水というのは洗礼のしるしであって、教会の入り口である。血というのは御聖体のしるしであって、教会の中心である。この脇腹から実は、第2のエヴァである教会が生まれてきた。そしてイエズス・キリストはそのかしらであって、教会のかしらであって、教会はキリストの神秘体、その体の一部である。そしてその二人は、教会とキリストは、二人で一体となるのだ」という事を教えています。
イエズス・キリスト様はそれと同時に、婚姻というものを単なる二人の間の契約、約束事だけでなく、自分と教会との一致を象る秘跡にまでしました。そしてその秘跡として、特別なお恵みと祝福を与える事を約束しました。
そこでキリスト教信者の婚姻というのは、普通の婚姻とは違って、特別な尊厳にまで高められた、イエズス・キリストと教会の一致の象りにまで上げられたのです。一体何故なのでしょうか?
これは、「キリスト様が人類の為に、全ての血を流されて、そして教会を浄めて、罪のない、汚れのない美しいものにした」というその愛を示しています。それと同時に、「教会がこのキリストの御血を受けて、浄められて、キリストに愛と奉仕を尽くす」というこの神秘を表しています。
ですからマルティンさん、そしてヨハンナさん、二人は今からそれに倣って、愛と奉仕と犠牲をお互いに捧げ合って下さい。それは一体結局何の為かというと、それは天国での一致の為です。私たちが天国での永遠の至福を得る為です。
今日は初土曜日でもあります。
初土曜日というのは月の最初の土曜日で、今から100年前に、マリア様がポルトガルのファチマという所に現れて、特別にこう仰いました、「初土曜日には特別に信心をして下さい。」そして私たちに、ご自分の心を心臓を見せて、御心を見せて、この「私は、あなたたちを決して見捨てません。どんな辛い事があっても独りぼっちにはさせません。そしてこの御心は、あなたたちにとって避難所となります。辛い事や困難な事があったら、その中に入れば守られます。そして天国に導く道となります」と教えてくれました。
今日特に、この御血の祝日に結婚式をした二人が、また初土曜日に結婚式をした二人は、このマリア様の御心にいつも避難所として入るようになさって下さい。いつもこのお二人は、十字架の下に佇むようになさって下さい。全ての祝福とお恵みと聖寵は、イエズス様の御血からその脇腹から流れ出ます。それをどうぞマリア様と一緒に受け止めて下さい。
今日は、私たちの心からの祝福とお祈りを申し上げます。どうぞこの7月1日、初土曜日のこの日を生涯忘れずに、このこれからのご結婚生活を、イエズス様の御血と合わせてお捧げ下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。