アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年6月30日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年6月30日(金)使徒聖パウロの記念のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年6月30日、使徒聖パウロの記念をお祝いしています。
今日はとても嬉しいお知らせがあります。今日は私たちの姉妹であるヨハンナさんが、このミサの直前に洗礼を受けました。天国の市民となり、そして天主の娘、愛する娘となり、イエズス様の良い妹となり、聖霊の神殿、そして今日はこの御ミサで初聖体をされようとされます。この洗礼式の為に、お友達のマルティンさんがはるばるイギリスから来てくれました。本当に嬉しく思います。この新しく洗礼を受けられたヨハンナさんが、洗礼の清い状態をいつも守って、天国に行く日まで、その心と霊魂の潔白さを守り通す事ができますように、皆さんのお祈りを心からお願いします。
今日はそこで、聖パウロの生涯を黙想するとともに、私たちも洗礼のお恵みを思い出して、この聖パウロの生涯、聖パウロのお恵みと私たちの受けたお恵みについて黙想する事に致しましょう。そして今日このミサの決心を立てる事に致しましょう。
今日もいつものように、このミサの後に終課の祈りを皆さんと一緒に歌う事を提案したいと思います。
その前に、マルティンさんとヨハンナの為に15分から20分ほど、明日の為の準備が必要ですので、皆さんもしもお時間をお待ち下さる事ができれば非常に嬉しく思います。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄妹の皆さん、今日聖パウロの記念を行うのは何故かというと、聖ペトロと聖パウロは決して離す事ができない、言ってみれば双子の聖人であるからです。
なぜ双子と言うかというと、もちろん生まれも育ちも全く違いました。しかし同じく西暦67年に、ネロ皇帝の元で、ペトロはローマで、やはりそしてパウロもローマで殉教したからです。ペトロはユダヤ人でしたので、逆さ吊りに十字架に付けられて、バチカンの丘で殉教しました。しかしパウロはローマ市民でありましたので、十字架に付けるという極刑は禁止されていました。そこで首を切られて頭を落とされて、ローマの市の外で殉教しました。
その時パウロの頭が3回転がって跳ねて、その転がった所からは泉が湧き出ました。そして今でもそれが残っています。パウロが殉教したその土地に、今では大きな大聖堂が建てられています。門外の聖パウロ大聖堂であります。今日は霊的にその門外の聖パウロ大聖堂に行って、パウロのお墓に霊的に行って、パウロに、私たちもパウロの受けたお恵みを黙想するお恵みを乞い求めましょう。
聖パウロの生涯はまさにこれでした、今日ちょうどアレルヤ誦の中で歌った言葉です、「主のお恵みは、私において決して無駄とはならなかった。」パウロはある時こう言います、「私が今こうあるのは、主のお恵みによってこうある。」ある時にはこう言います、「私にとって生きるというのはキリストである。もはや生きているのは私ではない、キリストが私において生きているから。」一体パウロの受けたお恵みというのは何だったのでしょうか?
パウロは非常に裕福なユダヤ人の両親の元で、タルソという所に生まれました。タルソというのは、エルサレムとかユダヤの北の方にあるチリチアという所の首都です。その両親は非常に裕福だったというのは何故かというと、パウロは生まれつきローマ市民を持っていたからです。ローマ市民になるというのは、特別にローマに何か大きな善を施したか、或いはものすごい大富豪であったか、或いはローマにとってとても多くの恩人であったに違いありません。それでなければ、生まれつきのローマ市民という事はありませんでした。
聖パウロはサウロという名前で生まれて、若い時にエルサレムに留学しました。エルサレムに留学できるというのは、もちろん並大抵の事ではありません。エルサレムの最高の律法学士であったガマリエルという、エルサレム随一の人の下に、秀才としてパウロはそこの門下一の弟子として教育を受けました。
その後に、パウロは自分の両親の元タルソに帰るのですが、イエズス様が公生活を始めてエルサレムに出入りしていた時に、ちょうどパウロはタルソにいたので、イエズス様と直接生前にお会いする事はできませんでした。しかしある時エルサレムに戻ってみると、エルサレムの中には、キリストを信じる人がたくさんいました。そしてキリスト、イエズス様の御名を宣教していました。旧約の律法の事しか知らなかった、イエズス・キリストの事については知らなかったパウロは、イエズス様の教えを旧約の教えに反するものとみなして、彼らを取り締まろうとして、彼らを牢獄に入れようと、これを死に追いやろうとしました。
例えば、最初に殉教したのは聖ステファノと言います。聖ステファノの殉教に最初に協力したのは手を貸したのは、このサウロでした。「キリスト教徒らを逮捕して牢獄に連れ込もう」と司祭の許可を求めようとダマスコに行こうとしたその時に、パウロは突然、イエズス・キリスト様の御出現を受けます。突然イエズス様が現れて、「サウロ、サウロ、お前にとって棘の生えた石を蹴るのは辛い事だ。なぜお前は私を迫害するのか?」「主よ、あなたは私に何をお望みですか?」
パウロはそこで、「『真っ直ぐ』という“レクト”という所に行って、そこにいるある男と出会い、そしてその彼から洗礼を受けるように」と命令を受けました。そしてその通り洗礼を受けた後には、パウロは今までの「迫害者」から、「キリストを宣教する者」とガラリと変わりました。
その後にパウロは、ユダヤ人から憎しみを受けて、却って迫害を受ける身になりました。
最初に洗礼を受けてからアラビアに行って、祈りをして、荒野で砂漠で祈りをした後に、また今度はエルサレムに帰って、そして初めてペトロと会った、或いはまたタルソに帰って、或いは今度はアンティオキアに行った、或いはまたエルサレムに行った、或いは宣教旅行に行った、などという旅行を繰り返して、イエズス・キリスト様の御名を皆に伝えようとしました。
ちょうど今日イエズス様の福音で予言された通り、パウロはイエズス・キリストの御名の為に、多くの苦しみを受けなければなりませんでした。そして鞭で打たれたり、或いは投獄されたり、そして訴えられたりしました。しかしパウロにとってそのような苦しみは、むしろ栄光でした、喜びでした。
ある時こう言います、「私は或る人の事を知っている」と、自分の事を言うのです。「彼は天国の第3の天まで、」当時、天国の階級が7つあると考えられて、そのうちの第3の、「最も高い所の1つまで上げられた。そしてもう人間の言葉で話す事ができないような、天主の極めて深い神秘を見た。その事を私は今言う事ができない。」
「おそらく、」聖トマス・アクィナスによると、「生きている間に天主をそのまま見た人が、人間の中で例外的に二人いるだろう。一人はモーゼだった。もう一人はパウロだった。」
そしてそのパウロは、天主の深い神秘を見たのだけれども、「しかしそんな事は大した事はない。それよりももっとすごい事を受けた。それは、自分がイエズス・キリストの為に苦しむ事ができるお恵みだ。」そしてこれこそ、パウロにとっての「喜びである」と言うのです。
そしてパウロはある時はこう言います、「私がキリストに倣うように、お前たちも私に倣え。」イエズス・キリスト様が私たちの為に苦しまれたので、自分も苦しみたい、イエズス・キリストの為に苦しみたい、そして最後には自分の血を流して、イエズス・キリスト様の為に捧げて、この地上での生涯を終えたのでした。
パウロのこの生涯を見ると、イエズス様から召し出しを受けて、命の教えを受けて、天国への道の教えを受けると、それに拒む事なく、それを喜んで受け入れて、今までの生活と全く反対だったにもかかわらずそれを受け入れて、「確かにこれこそ本当だ。確かにそうだ」と、自分の最高の知恵と知識を使って、その教えを、そのイエズス・キリストを受け入れたという事です。そしてそれに忠実に、最後まで忠実に生きたという事です。そしてその為に多くの困難や犠牲を払わなければならなかったにもかかわらず、それに協力したという事です。
今日この聖パウロの祝日に、私たちの姉妹の一人が、イエズス様の声に耳を傾けて、「あぁ、私もイエズス様に倣い、この教えを受け入れる。悪魔と、全ての罪と、全ての悪の業を捨てる。これからは天主の子供として、天の市民として、イエズス様の兄弟として、善の道に歩みたい。」「その為にはもしかしたら、世間からはもしかしたら笑われるかもしれない。或いは他の人たちが悪い事をやっているけれども、私はできないから笑われるかもしれない。あぁ他の人たちがミニスカートを履いているのだけれども、私だけはそのミニスカートは慎みを欠くから、ミニスカートは履く事ができない。他の人はポルノを見るけれども、私はポルノを見ない。他の人は平気で嘘をつくけれども、私は嘘をつかない等と言うので、もしかしたらいじめられたり。悪口を言われたりするかもしれない。」しかし今日洗礼を受けたヨハンナさんは、悪魔と、その業と、全ての栄華を捨てて、イエズス様の道を歩む事を宣言されて、そしてその清い心を終わりまで保とうと約束されました。ちょうどパウロのその生涯のようです。
願わくは聖パウロが、新しく洗礼を受けた方に多くのお恵みを下さいますように。そして私たちも、かつて洗礼を受けたというそのお恵みを思い出して、聖パウロに今日は特別に私たちも、主からの受けた召し出しの、命と真理の道を終わりまで守って、それを歩む事ができるように、その為に苦しみを覚悟する事ができるように、お祈り致しましょう。
今日は新しく洗礼を受けた方に倣って、新しい心で、聖パウロに祈りつつ、イエズス様をお愛し申し上げる為に、イエズス様だけに従う事ができるように、御聖体拝領をする事に致しましょう。ちょうどこの聖体拝領誦が、「主の為に全てを捨ててきたので、その100倍を受けなさい」と言われたその言葉が、私たちに於いて実現する事ができますように、お祈り致しましょう。
聖母の汚れなき御心にお祈り致しましょう。聖パウロは「マリア様」という言葉を使わなかったにもかかわらず、実は言わずにしてマリア様の事を宣教していました。マリア様の汚れなき御心の中で生活していました。ですから私たちも聖パウロに倣って、マリア様の汚れなき御心の中に生活する事に致しましょう。
使徒聖パウロ、真理の教師、異邦人の教師、我らの為に祈り給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年6月30日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年6月30日(金)使徒聖パウロの記念のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年6月30日、使徒聖パウロの記念をお祝いしています。
今日はとても嬉しいお知らせがあります。今日は私たちの姉妹であるヨハンナさんが、このミサの直前に洗礼を受けました。天国の市民となり、そして天主の娘、愛する娘となり、イエズス様の良い妹となり、聖霊の神殿、そして今日はこの御ミサで初聖体をされようとされます。この洗礼式の為に、お友達のマルティンさんがはるばるイギリスから来てくれました。本当に嬉しく思います。この新しく洗礼を受けられたヨハンナさんが、洗礼の清い状態をいつも守って、天国に行く日まで、その心と霊魂の潔白さを守り通す事ができますように、皆さんのお祈りを心からお願いします。
今日はそこで、聖パウロの生涯を黙想するとともに、私たちも洗礼のお恵みを思い出して、この聖パウロの生涯、聖パウロのお恵みと私たちの受けたお恵みについて黙想する事に致しましょう。そして今日このミサの決心を立てる事に致しましょう。
今日もいつものように、このミサの後に終課の祈りを皆さんと一緒に歌う事を提案したいと思います。
その前に、マルティンさんとヨハンナの為に15分から20分ほど、明日の為の準備が必要ですので、皆さんもしもお時間をお待ち下さる事ができれば非常に嬉しく思います。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄妹の皆さん、今日聖パウロの記念を行うのは何故かというと、聖ペトロと聖パウロは決して離す事ができない、言ってみれば双子の聖人であるからです。
なぜ双子と言うかというと、もちろん生まれも育ちも全く違いました。しかし同じく西暦67年に、ネロ皇帝の元で、ペトロはローマで、やはりそしてパウロもローマで殉教したからです。ペトロはユダヤ人でしたので、逆さ吊りに十字架に付けられて、バチカンの丘で殉教しました。しかしパウロはローマ市民でありましたので、十字架に付けるという極刑は禁止されていました。そこで首を切られて頭を落とされて、ローマの市の外で殉教しました。
その時パウロの頭が3回転がって跳ねて、その転がった所からは泉が湧き出ました。そして今でもそれが残っています。パウロが殉教したその土地に、今では大きな大聖堂が建てられています。門外の聖パウロ大聖堂であります。今日は霊的にその門外の聖パウロ大聖堂に行って、パウロのお墓に霊的に行って、パウロに、私たちもパウロの受けたお恵みを黙想するお恵みを乞い求めましょう。
聖パウロの生涯はまさにこれでした、今日ちょうどアレルヤ誦の中で歌った言葉です、「主のお恵みは、私において決して無駄とはならなかった。」パウロはある時こう言います、「私が今こうあるのは、主のお恵みによってこうある。」ある時にはこう言います、「私にとって生きるというのはキリストである。もはや生きているのは私ではない、キリストが私において生きているから。」一体パウロの受けたお恵みというのは何だったのでしょうか?
パウロは非常に裕福なユダヤ人の両親の元で、タルソという所に生まれました。タルソというのは、エルサレムとかユダヤの北の方にあるチリチアという所の首都です。その両親は非常に裕福だったというのは何故かというと、パウロは生まれつきローマ市民を持っていたからです。ローマ市民になるというのは、特別にローマに何か大きな善を施したか、或いはものすごい大富豪であったか、或いはローマにとってとても多くの恩人であったに違いありません。それでなければ、生まれつきのローマ市民という事はありませんでした。
聖パウロはサウロという名前で生まれて、若い時にエルサレムに留学しました。エルサレムに留学できるというのは、もちろん並大抵の事ではありません。エルサレムの最高の律法学士であったガマリエルという、エルサレム随一の人の下に、秀才としてパウロはそこの門下一の弟子として教育を受けました。
その後に、パウロは自分の両親の元タルソに帰るのですが、イエズス様が公生活を始めてエルサレムに出入りしていた時に、ちょうどパウロはタルソにいたので、イエズス様と直接生前にお会いする事はできませんでした。しかしある時エルサレムに戻ってみると、エルサレムの中には、キリストを信じる人がたくさんいました。そしてキリスト、イエズス様の御名を宣教していました。旧約の律法の事しか知らなかった、イエズス・キリストの事については知らなかったパウロは、イエズス様の教えを旧約の教えに反するものとみなして、彼らを取り締まろうとして、彼らを牢獄に入れようと、これを死に追いやろうとしました。
例えば、最初に殉教したのは聖ステファノと言います。聖ステファノの殉教に最初に協力したのは手を貸したのは、このサウロでした。「キリスト教徒らを逮捕して牢獄に連れ込もう」と司祭の許可を求めようとダマスコに行こうとしたその時に、パウロは突然、イエズス・キリスト様の御出現を受けます。突然イエズス様が現れて、「サウロ、サウロ、お前にとって棘の生えた石を蹴るのは辛い事だ。なぜお前は私を迫害するのか?」「主よ、あなたは私に何をお望みですか?」
パウロはそこで、「『真っ直ぐ』という“レクト”という所に行って、そこにいるある男と出会い、そしてその彼から洗礼を受けるように」と命令を受けました。そしてその通り洗礼を受けた後には、パウロは今までの「迫害者」から、「キリストを宣教する者」とガラリと変わりました。
その後にパウロは、ユダヤ人から憎しみを受けて、却って迫害を受ける身になりました。
最初に洗礼を受けてからアラビアに行って、祈りをして、荒野で砂漠で祈りをした後に、また今度はエルサレムに帰って、そして初めてペトロと会った、或いはまたタルソに帰って、或いは今度はアンティオキアに行った、或いはまたエルサレムに行った、或いは宣教旅行に行った、などという旅行を繰り返して、イエズス・キリスト様の御名を皆に伝えようとしました。
ちょうど今日イエズス様の福音で予言された通り、パウロはイエズス・キリストの御名の為に、多くの苦しみを受けなければなりませんでした。そして鞭で打たれたり、或いは投獄されたり、そして訴えられたりしました。しかしパウロにとってそのような苦しみは、むしろ栄光でした、喜びでした。
ある時こう言います、「私は或る人の事を知っている」と、自分の事を言うのです。「彼は天国の第3の天まで、」当時、天国の階級が7つあると考えられて、そのうちの第3の、「最も高い所の1つまで上げられた。そしてもう人間の言葉で話す事ができないような、天主の極めて深い神秘を見た。その事を私は今言う事ができない。」
「おそらく、」聖トマス・アクィナスによると、「生きている間に天主をそのまま見た人が、人間の中で例外的に二人いるだろう。一人はモーゼだった。もう一人はパウロだった。」
そしてそのパウロは、天主の深い神秘を見たのだけれども、「しかしそんな事は大した事はない。それよりももっとすごい事を受けた。それは、自分がイエズス・キリストの為に苦しむ事ができるお恵みだ。」そしてこれこそ、パウロにとっての「喜びである」と言うのです。
そしてパウロはある時はこう言います、「私がキリストに倣うように、お前たちも私に倣え。」イエズス・キリスト様が私たちの為に苦しまれたので、自分も苦しみたい、イエズス・キリストの為に苦しみたい、そして最後には自分の血を流して、イエズス・キリスト様の為に捧げて、この地上での生涯を終えたのでした。
パウロのこの生涯を見ると、イエズス様から召し出しを受けて、命の教えを受けて、天国への道の教えを受けると、それに拒む事なく、それを喜んで受け入れて、今までの生活と全く反対だったにもかかわらずそれを受け入れて、「確かにこれこそ本当だ。確かにそうだ」と、自分の最高の知恵と知識を使って、その教えを、そのイエズス・キリストを受け入れたという事です。そしてそれに忠実に、最後まで忠実に生きたという事です。そしてその為に多くの困難や犠牲を払わなければならなかったにもかかわらず、それに協力したという事です。
今日この聖パウロの祝日に、私たちの姉妹の一人が、イエズス様の声に耳を傾けて、「あぁ、私もイエズス様に倣い、この教えを受け入れる。悪魔と、全ての罪と、全ての悪の業を捨てる。これからは天主の子供として、天の市民として、イエズス様の兄弟として、善の道に歩みたい。」「その為にはもしかしたら、世間からはもしかしたら笑われるかもしれない。或いは他の人たちが悪い事をやっているけれども、私はできないから笑われるかもしれない。あぁ他の人たちがミニスカートを履いているのだけれども、私だけはそのミニスカートは慎みを欠くから、ミニスカートは履く事ができない。他の人はポルノを見るけれども、私はポルノを見ない。他の人は平気で嘘をつくけれども、私は嘘をつかない等と言うので、もしかしたらいじめられたり。悪口を言われたりするかもしれない。」しかし今日洗礼を受けたヨハンナさんは、悪魔と、その業と、全ての栄華を捨てて、イエズス様の道を歩む事を宣言されて、そしてその清い心を終わりまで保とうと約束されました。ちょうどパウロのその生涯のようです。
願わくは聖パウロが、新しく洗礼を受けた方に多くのお恵みを下さいますように。そして私たちも、かつて洗礼を受けたというそのお恵みを思い出して、聖パウロに今日は特別に私たちも、主からの受けた召し出しの、命と真理の道を終わりまで守って、それを歩む事ができるように、その為に苦しみを覚悟する事ができるように、お祈り致しましょう。
今日は新しく洗礼を受けた方に倣って、新しい心で、聖パウロに祈りつつ、イエズス様をお愛し申し上げる為に、イエズス様だけに従う事ができるように、御聖体拝領をする事に致しましょう。ちょうどこの聖体拝領誦が、「主の為に全てを捨ててきたので、その100倍を受けなさい」と言われたその言葉が、私たちに於いて実現する事ができますように、お祈り致しましょう。
聖母の汚れなき御心にお祈り致しましょう。聖パウロは「マリア様」という言葉を使わなかったにもかかわらず、実は言わずにしてマリア様の事を宣教していました。マリア様の汚れなき御心の中で生活していました。ですから私たちも聖パウロに倣って、マリア様の汚れなき御心の中に生活する事に致しましょう。
使徒聖パウロ、真理の教師、異邦人の教師、我らの為に祈り給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。