アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年7月14日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年7月14日(金)教会博士証聖者司教聖ボナヴェントゥーラのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年7月14日、聖ボナヴェントゥーラ司教教会博士証聖者の祝日です。
今日この御ミサの後には、ミサの後の感謝の祈りの後に、いつものように終課を唱える事に致しましょう。
12月ですが、12月は第2主日からミサがいつものように、レネー神父様がミサにいらして下さいます。初金・初土もいつものようにあります。予定通り第2主日にもミサがあります。レネー神父様が来て下さいます。
その後には毎日、レネー神父様が、平日には夕方の18時から、それから土曜・日曜には10時30分から、クリスマスまでミサを捧げて下さる事になりました。どうぞ皆さんいらして下さい。
「私が律法を廃止する為に来たと思うな。廃止する為ではなく、完成する為に来た。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ボナヴェントゥーラの祝日です。そこで聖ボナヴェントゥーラという方が一体どういう方だったのか?いつ生きていて、一体どんな生涯を送ったのか?という事を概観する事にします。
第2に、ボナヴェントゥーラの時代に一番の問題点は何だったのか?そこで、そのボナヴェントゥーラはどのようにそれを解決したのか?聖ボナヴェントゥーラの教えというのは一体何だったのか?という事を次に黙想して、
最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖ボナヴェントゥーラは、イタリアのバニョレアという町に生まれました。詳しい生まれた年代はよく正確には分からないのですけれども、学者の研究によれば、今からちょうど800年前の1217年の事でした。そして1274年の7月14日に、今日、リヨンで亡くなりました。
お父さんはお医者さんでした。非常に有名な、頭が良い、技術の高いお父さんで、ジョヴァンニ・デ・フィデンツァという名前で生まれました。ところが子供の頃、これは聖ボナヴェントゥーラ自身が語るのですけれども、子供の頃、もうとても重大な病にかかり、その当時の名医であったお父さんでさえも、その子供をどうしても治療する事ができず、全てを尽くしてみても、もうこの子の死を待つしかありませんでした。医者も匙を投げた、お父さんでさえも匙を投げたのですが、お母さんは違いました。
そのつい最近、そのちょうどしばらくちょっと前に列聖されたアシジの聖フランシスコの、その名声高い聖人にお母さんはお願いしました、「もしも子供のジョバンニを治してくれたら、私はこの子をあなたの為に捧げます、天主に捧げます、あなたの修道会に捧げます。」お母さんのお祈りの後に、その子は奇跡的に治りました。
その後にジョヴァンニ・デ・フィデンツァは、非常に優秀で頭の良い子だったので、特にその時有名だったパリで勉強します。パリの大学に行って勉強をし、そして非常に優秀な成績を収めて、その特ににパリでも一番学識のあったアレクサンダー・デ・ハレスという先生の元に付いて、聖書や神学、哲学の知識をますます深めていきました。そしてパリの大学で教える資格も取り、学生たちから非常に高い人気をもって、多くの人気を保っていました。
しかしこのボナヴェントゥーラのその素晴らしさは、単に学識が深かったのみならず、その生活が清らかであり、罪のない生活、謙遜、甘美であって、この地上のものを非常に軽んじて、天国の事を深く思っていました。
ジョバンニもパリで勉強している内に、ちょうどパリについ最近来た、フランシスコ会の修道者たちの生活に興味を持ち、そして自分もアシジの聖フランシコの取り次ぎによって奇跡的に治ったという事もあり、ついにフランシスコ会の門を叩いて、自分の一生を聖フランシスコの兄弟会、最も小さき会の兄弟会に入会して、そして修道院に入る事を決定します。
既にその当時パリにいた時代からその親友であった聖トマス・アクィナスからは、「聖人だ」と言われていました。完徳のモデルであり、模範であって、天の事を深く思っていました。いつも主に対する愛に燃えていたので、特にボナヴェントゥーラは、イエズス様の御受難を黙想したり、或いはマリア様に身を全く捧げて、マリア様の事をいつも考えていました。それのみならず、このイエズス様への御受難とマリア様への愛を他の人にも伝えようと、言葉や書き物や、或いは模範で、その信心を伝えようとしていました。
こうやって36歳になると、全会員の一致をもって、フランシスコ会の偉い人たちの投票で、フランシスコ会の総長として選ばれます。その当時、フランシスコ会には世界中に3万名の会員がいました。もちろんヨーロッパにはいましたけれども、中東や北アフリカや北京にも、その当時フランシスコ会がいました。その世界に広がるフランシスコ会をうまく統治するというのは、非常に知恵と、聖徳と、愛が必要でした。聖ボナヴェントゥーラは17年の間、総長として非常に立派に統治しました。
聖グレゴリオ十世によって第二リヨン公会議というものが開かれて、特に「ギリシャ離教の人たちをカトリックに帰一するように」という事でその公会議が開かれたのですけれども、その時の公会議の教父として、聖ボナヴェントゥーラが選ばれました。そこでアルバノという所の司教、そして同時に枢機卿として任命されて、「公会議に参加するように。準備して参加するように」命じられました。
公会議では非常に立派な仕事をして、多くの成果を収めました。しかし残念ながら天主様によって、公会議のその最中だったのですが、57歳にして、1274年にリヨンで霊魂を天主にお返しになりました。その時にちょうど、やはり同じく教皇様によって「公会議に参加するように」とリヨンへと旅立った聖トマス・アクィナスも、やはり同じ年に同じ所で亡くなっています。
今この二人の、この二人はたとえ修道会が違ったとしても、一人はフランシスコ会、一人はドミニコ会ですけれども、カトリック教会を代表する教会博士として、この13世紀を照らす、また現代を照らす光として輝いています。
特に聖ボナヴェントゥーラは、アシジの聖フランシスコの生涯について非常に関心を持ち、その伝記を書きました。聖トマス・アクィナスがその事を知ると、「聖人が、他の聖人の伝記を書くのを書くままにさせるのが一番良い。聖人の伝記は、聖人が書くのが一番良い」と言っていました。
公会議で、公会議の最中だったのですけれども聖ボナヴェントゥーラが亡くなると、その公会議の記録をしていた記録係の人が、「偉大な、天主と人から愛された偉大な聖人が亡くなった」と私たちに記録を残しています。
或いは聖ボナヴェントゥーラを知っている人たちは、「聖ボナヴェントゥーラよりももっと美しく、より学識が深く、より聖なる人はいなかった」と書いているほどです。
では聖ボナヴェントゥーラは一体何を、どんな事を、おもに私たちにその教えとして伝えようとしたのでしょうか?
聖ボナヴェントゥーラは特に、アシジの聖フランシスコを通して、その「聖フランシスコが第2のキリストである、キリストを真似る者である。だから私たちもアシジの聖フランシスコのように、キリストに真似なければならない。キリストの生涯を私たちの生涯としなければならない。これこそが私たちの理想である。キリストの弟子たちの理想である」という事を教えました。
聖ボナヴェントゥーラの書いたアシジの聖フランシスコ伝というのは、最も重要な文献になっていますけれども、読むべき伝記の文献となりましたけれども、聖ボナヴェントゥーラは特に、キリストを真似るアシジの聖フランシスコを見ていました。実はこれは総長として、フランシスコ会をまとめる為に、あるべきフランシスコ会会員の姿を描く為に、非常に重要なものでした。一体その当時どのような問題が起こっていたのでしょうか?
はい。フランシスコ会が世界中に3万人の人々を数えるというのは、それだけでもものすごいのですけれども、聖ピオ十世会は世界中で活動していますが、司祭は600数名です。3万人の会員を数えるその修道会にとって、ある分裂の危機がありました。一体どんな分裂の危機があったかというと、ちょうどシトー会の修道士であった、そして1202年に亡くなった、ヨアキム・デ・フィオーレという修道者が、異端的な事を主張をしたのです。
これは何を言ったかというと、「キリストの統治の後に1000年が終わったので、新しい時代が来る。」ちょうど時は1100年、「新しい時が来る。」それはどういう時かというと、「旧約の時代は、聖父の時代であった。そしてイエズス・キリスト様が到来したのは、これは新約の時代の1000年である。しかしこのそれが終わったら、新しい聖霊の時代が来る。聖霊の時代が来ると、その聖霊が全てを刷新するので、今までのような教会の制度は必要なくなるし、もっと自由に活動する修道会ができるだろう」というような予言を、「それが黙示録に言われる『永遠の福音』だ」という事を言っていたのです。
それでそのような考えに影響された一部のフランシスコ会たちは、「自分たちこそが霊的なフランシスコ会であって、今までの教会の制度や、教会の秩序や、位階秩序とは全く関係なく、自由に活動するものである。これこそがこのヨアキム・デ・フィオーレが予言した、新しい聖霊の時代の修道会である」という、そこで「今までの教会とは全く断絶された、別の新しい時代が始まった。それを私たちが今からするのだ」という主張をし出したのでした。
そこをボナヴェントゥーラは、「そうではない。」ボナヴェントゥーラはこのように、「そうではなくて、聖父と聖子と聖霊は、唯一の、同じ天主である。」
そしてちょうど主の御受難をアシジの聖フランシスコが黙想している間に、セラフィム、熾天使が現れて、その6つの羽で顔を覆いながら、その聖フランシスコに光を出して、そしてイエズス・キリストと全く同じになる聖痕でさえも、十字架の傷さえも、全くイエズス・キリストと似通った者となるように、聖痕さえも奇跡的に与えた事があります。
「そのセラフィムの6つの羽は、この世の創造の6日間を表していて、そして7日は安息日であるけれども、しかし6つは切り離されてはいない、発展はあるのだけれども、断絶があるのではない。そして聖父から聖子、聖霊を通して、私たちにますますその神秘が深められるのだ」と教えました。
「聖霊というのも、聖父と聖子と全く別のものではなく、聖父と聖子から発せられるものである。キリスト教に於いては、キリスト教というのが無くなってしまったり、交代する事があるのではなくて、発展する事のみがあるのだ」と教えました。
こうして聖ボナヴェントゥーラは、「聖フランシスコ会というのも、今までのカトリック教会の伝統とその秩序の中に則った、その福音を生きる、より良く生きる為の団体であって、断絶ではなくて、その発展である」と教えたのでした。
では私たちには一体どのような事を、聖ボナヴェントゥーラは教えているでしょうか?
まず聖ボナヴェントゥーラは私たちに、あるべき聖徳の理想を示しています。それは彼もそうだったように、そして彼の属したその敬愛する方がそうだったように、つまりアシジの聖フランシスコがそうだったように、「イエズス・キリストに倣うという事が、私たちの理想である」という事です。
「この世の後には、もう主から教えられた事の真理から離れて、作り話に耳を傾けるような日が来るだろう」と聖パウロが言いましたけれども、そしてイエズス様は、「私は律法を廃止するのでなくて、完成する為に来た。一点一角も廃れる事はない」と言われますが、つまり、「イエズス様の教えにいつも忠実に留まる事が必要だ。そのイエズス様が過去の教えを廃止されたり、或いは将来イエズス様とは別の福音が将来来るという事は全くない。私たちの理想は、イエズス・キリストに倣う事だ。」これをまず教えています。
ですから聖ボナヴェントゥーラは、イエズス様の特にその御受難と、聖母への信心を伝えようとしました。
聖ボナヴェントゥーラが第2に教えるのは、「キリスト教のこの教えに於いては、これからは新しい時代が始まって、過去の時代の教えとは全く別の時代が来るという事は決してない」という事です。ですから私たちも、もしかしたらよく聞くように、「あぁ、第二バチカン公会議の前はこうだったけれども、公会議後はこうだ。」「公会議の後は全く別の事があるのだ。ミサも変わるし、秘跡も変わるし、教えも変わるし、道徳も変わるし」という事はありえない、という事を教えています。「そうではなくて、私たちは過去の教会の教えを『更に深める事』だけがあるのだ」という事です。
では第3に、どのような事が深められるでしょうか?イエズス・キリスト様を、どのようにしたらますます真似る事ができるでしょうか?聖霊の働きによって私たちは一体、もっとイエズス様の神秘の深みに入るには私たちがどうしたら良いと教えるでしょうか?
聖ボナヴェントゥーラは、マリア様の信心を私たちに伝えようとしますが、教会は聖霊はこの今、2017年、イエズス様にますます倣う為には、私たちが簡単にイエズス様の似姿になるには、「マリア様に、聖母の汚れなき御心に行くのが一番良い」と教えています。
ですから今日、聖ボナヴェントゥーラは私たちに、「マリア様の信心をするように」と、「これこそが教会の最高の信心の発展である、この神学の発展である」という事を教えていると思われます。
今日は聖ボナヴェントゥーラにお祈り致しましょう。聖ボナヴェントゥーラはシクスト四世によって1482年に列聖されました、1482年。残念ながらカルバン派によって、リヨンにあった聖ボナヴェントゥーラの遺体は、腐敗されずに残っていたはずの遺体は、1562年に頭を残して、これは守られたのですけれども、焼かれてしまいました。
しかしシクスト五世によって1588年に、セラフィム的な熾天使的な博士として教会博士として、私たちに教会博士として与えられました。聖ボナヴェントゥーラの御取り次ぎによって、私たちもその理想に、キリストに倣う理想にますます近付くようにお祈り致しましょう。
「私は律法を廃止する為ではなく、完成する為に来た。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年7月14日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年7月14日(金)教会博士証聖者司教聖ボナヴェントゥーラのミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年7月14日、聖ボナヴェントゥーラ司教教会博士証聖者の祝日です。
今日この御ミサの後には、ミサの後の感謝の祈りの後に、いつものように終課を唱える事に致しましょう。
12月ですが、12月は第2主日からミサがいつものように、レネー神父様がミサにいらして下さいます。初金・初土もいつものようにあります。予定通り第2主日にもミサがあります。レネー神父様が来て下さいます。
その後には毎日、レネー神父様が、平日には夕方の18時から、それから土曜・日曜には10時30分から、クリスマスまでミサを捧げて下さる事になりました。どうぞ皆さんいらして下さい。
「私が律法を廃止する為に来たと思うな。廃止する為ではなく、完成する為に来た。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖ボナヴェントゥーラの祝日です。そこで聖ボナヴェントゥーラという方が一体どういう方だったのか?いつ生きていて、一体どんな生涯を送ったのか?という事を概観する事にします。
第2に、ボナヴェントゥーラの時代に一番の問題点は何だったのか?そこで、そのボナヴェントゥーラはどのようにそれを解決したのか?聖ボナヴェントゥーラの教えというのは一体何だったのか?という事を次に黙想して、
最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖ボナヴェントゥーラは、イタリアのバニョレアという町に生まれました。詳しい生まれた年代はよく正確には分からないのですけれども、学者の研究によれば、今からちょうど800年前の1217年の事でした。そして1274年の7月14日に、今日、リヨンで亡くなりました。
お父さんはお医者さんでした。非常に有名な、頭が良い、技術の高いお父さんで、ジョヴァンニ・デ・フィデンツァという名前で生まれました。ところが子供の頃、これは聖ボナヴェントゥーラ自身が語るのですけれども、子供の頃、もうとても重大な病にかかり、その当時の名医であったお父さんでさえも、その子供をどうしても治療する事ができず、全てを尽くしてみても、もうこの子の死を待つしかありませんでした。医者も匙を投げた、お父さんでさえも匙を投げたのですが、お母さんは違いました。
そのつい最近、そのちょうどしばらくちょっと前に列聖されたアシジの聖フランシスコの、その名声高い聖人にお母さんはお願いしました、「もしも子供のジョバンニを治してくれたら、私はこの子をあなたの為に捧げます、天主に捧げます、あなたの修道会に捧げます。」お母さんのお祈りの後に、その子は奇跡的に治りました。
その後にジョヴァンニ・デ・フィデンツァは、非常に優秀で頭の良い子だったので、特にその時有名だったパリで勉強します。パリの大学に行って勉強をし、そして非常に優秀な成績を収めて、その特ににパリでも一番学識のあったアレクサンダー・デ・ハレスという先生の元に付いて、聖書や神学、哲学の知識をますます深めていきました。そしてパリの大学で教える資格も取り、学生たちから非常に高い人気をもって、多くの人気を保っていました。
しかしこのボナヴェントゥーラのその素晴らしさは、単に学識が深かったのみならず、その生活が清らかであり、罪のない生活、謙遜、甘美であって、この地上のものを非常に軽んじて、天国の事を深く思っていました。
ジョバンニもパリで勉強している内に、ちょうどパリについ最近来た、フランシスコ会の修道者たちの生活に興味を持ち、そして自分もアシジの聖フランシコの取り次ぎによって奇跡的に治ったという事もあり、ついにフランシスコ会の門を叩いて、自分の一生を聖フランシスコの兄弟会、最も小さき会の兄弟会に入会して、そして修道院に入る事を決定します。
既にその当時パリにいた時代からその親友であった聖トマス・アクィナスからは、「聖人だ」と言われていました。完徳のモデルであり、模範であって、天の事を深く思っていました。いつも主に対する愛に燃えていたので、特にボナヴェントゥーラは、イエズス様の御受難を黙想したり、或いはマリア様に身を全く捧げて、マリア様の事をいつも考えていました。それのみならず、このイエズス様への御受難とマリア様への愛を他の人にも伝えようと、言葉や書き物や、或いは模範で、その信心を伝えようとしていました。
こうやって36歳になると、全会員の一致をもって、フランシスコ会の偉い人たちの投票で、フランシスコ会の総長として選ばれます。その当時、フランシスコ会には世界中に3万名の会員がいました。もちろんヨーロッパにはいましたけれども、中東や北アフリカや北京にも、その当時フランシスコ会がいました。その世界に広がるフランシスコ会をうまく統治するというのは、非常に知恵と、聖徳と、愛が必要でした。聖ボナヴェントゥーラは17年の間、総長として非常に立派に統治しました。
聖グレゴリオ十世によって第二リヨン公会議というものが開かれて、特に「ギリシャ離教の人たちをカトリックに帰一するように」という事でその公会議が開かれたのですけれども、その時の公会議の教父として、聖ボナヴェントゥーラが選ばれました。そこでアルバノという所の司教、そして同時に枢機卿として任命されて、「公会議に参加するように。準備して参加するように」命じられました。
公会議では非常に立派な仕事をして、多くの成果を収めました。しかし残念ながら天主様によって、公会議のその最中だったのですが、57歳にして、1274年にリヨンで霊魂を天主にお返しになりました。その時にちょうど、やはり同じく教皇様によって「公会議に参加するように」とリヨンへと旅立った聖トマス・アクィナスも、やはり同じ年に同じ所で亡くなっています。
今この二人の、この二人はたとえ修道会が違ったとしても、一人はフランシスコ会、一人はドミニコ会ですけれども、カトリック教会を代表する教会博士として、この13世紀を照らす、また現代を照らす光として輝いています。
特に聖ボナヴェントゥーラは、アシジの聖フランシスコの生涯について非常に関心を持ち、その伝記を書きました。聖トマス・アクィナスがその事を知ると、「聖人が、他の聖人の伝記を書くのを書くままにさせるのが一番良い。聖人の伝記は、聖人が書くのが一番良い」と言っていました。
公会議で、公会議の最中だったのですけれども聖ボナヴェントゥーラが亡くなると、その公会議の記録をしていた記録係の人が、「偉大な、天主と人から愛された偉大な聖人が亡くなった」と私たちに記録を残しています。
或いは聖ボナヴェントゥーラを知っている人たちは、「聖ボナヴェントゥーラよりももっと美しく、より学識が深く、より聖なる人はいなかった」と書いているほどです。
では聖ボナヴェントゥーラは一体何を、どんな事を、おもに私たちにその教えとして伝えようとしたのでしょうか?
聖ボナヴェントゥーラは特に、アシジの聖フランシスコを通して、その「聖フランシスコが第2のキリストである、キリストを真似る者である。だから私たちもアシジの聖フランシスコのように、キリストに真似なければならない。キリストの生涯を私たちの生涯としなければならない。これこそが私たちの理想である。キリストの弟子たちの理想である」という事を教えました。
聖ボナヴェントゥーラの書いたアシジの聖フランシスコ伝というのは、最も重要な文献になっていますけれども、読むべき伝記の文献となりましたけれども、聖ボナヴェントゥーラは特に、キリストを真似るアシジの聖フランシスコを見ていました。実はこれは総長として、フランシスコ会をまとめる為に、あるべきフランシスコ会会員の姿を描く為に、非常に重要なものでした。一体その当時どのような問題が起こっていたのでしょうか?
はい。フランシスコ会が世界中に3万人の人々を数えるというのは、それだけでもものすごいのですけれども、聖ピオ十世会は世界中で活動していますが、司祭は600数名です。3万人の会員を数えるその修道会にとって、ある分裂の危機がありました。一体どんな分裂の危機があったかというと、ちょうどシトー会の修道士であった、そして1202年に亡くなった、ヨアキム・デ・フィオーレという修道者が、異端的な事を主張をしたのです。
これは何を言ったかというと、「キリストの統治の後に1000年が終わったので、新しい時代が来る。」ちょうど時は1100年、「新しい時が来る。」それはどういう時かというと、「旧約の時代は、聖父の時代であった。そしてイエズス・キリスト様が到来したのは、これは新約の時代の1000年である。しかしこのそれが終わったら、新しい聖霊の時代が来る。聖霊の時代が来ると、その聖霊が全てを刷新するので、今までのような教会の制度は必要なくなるし、もっと自由に活動する修道会ができるだろう」というような予言を、「それが黙示録に言われる『永遠の福音』だ」という事を言っていたのです。
それでそのような考えに影響された一部のフランシスコ会たちは、「自分たちこそが霊的なフランシスコ会であって、今までの教会の制度や、教会の秩序や、位階秩序とは全く関係なく、自由に活動するものである。これこそがこのヨアキム・デ・フィオーレが予言した、新しい聖霊の時代の修道会である」という、そこで「今までの教会とは全く断絶された、別の新しい時代が始まった。それを私たちが今からするのだ」という主張をし出したのでした。
そこをボナヴェントゥーラは、「そうではない。」ボナヴェントゥーラはこのように、「そうではなくて、聖父と聖子と聖霊は、唯一の、同じ天主である。」
そしてちょうど主の御受難をアシジの聖フランシスコが黙想している間に、セラフィム、熾天使が現れて、その6つの羽で顔を覆いながら、その聖フランシスコに光を出して、そしてイエズス・キリストと全く同じになる聖痕でさえも、十字架の傷さえも、全くイエズス・キリストと似通った者となるように、聖痕さえも奇跡的に与えた事があります。
「そのセラフィムの6つの羽は、この世の創造の6日間を表していて、そして7日は安息日であるけれども、しかし6つは切り離されてはいない、発展はあるのだけれども、断絶があるのではない。そして聖父から聖子、聖霊を通して、私たちにますますその神秘が深められるのだ」と教えました。
「聖霊というのも、聖父と聖子と全く別のものではなく、聖父と聖子から発せられるものである。キリスト教に於いては、キリスト教というのが無くなってしまったり、交代する事があるのではなくて、発展する事のみがあるのだ」と教えました。
こうして聖ボナヴェントゥーラは、「聖フランシスコ会というのも、今までのカトリック教会の伝統とその秩序の中に則った、その福音を生きる、より良く生きる為の団体であって、断絶ではなくて、その発展である」と教えたのでした。
では私たちには一体どのような事を、聖ボナヴェントゥーラは教えているでしょうか?
まず聖ボナヴェントゥーラは私たちに、あるべき聖徳の理想を示しています。それは彼もそうだったように、そして彼の属したその敬愛する方がそうだったように、つまりアシジの聖フランシスコがそうだったように、「イエズス・キリストに倣うという事が、私たちの理想である」という事です。
「この世の後には、もう主から教えられた事の真理から離れて、作り話に耳を傾けるような日が来るだろう」と聖パウロが言いましたけれども、そしてイエズス様は、「私は律法を廃止するのでなくて、完成する為に来た。一点一角も廃れる事はない」と言われますが、つまり、「イエズス様の教えにいつも忠実に留まる事が必要だ。そのイエズス様が過去の教えを廃止されたり、或いは将来イエズス様とは別の福音が将来来るという事は全くない。私たちの理想は、イエズス・キリストに倣う事だ。」これをまず教えています。
ですから聖ボナヴェントゥーラは、イエズス様の特にその御受難と、聖母への信心を伝えようとしました。
聖ボナヴェントゥーラが第2に教えるのは、「キリスト教のこの教えに於いては、これからは新しい時代が始まって、過去の時代の教えとは全く別の時代が来るという事は決してない」という事です。ですから私たちも、もしかしたらよく聞くように、「あぁ、第二バチカン公会議の前はこうだったけれども、公会議後はこうだ。」「公会議の後は全く別の事があるのだ。ミサも変わるし、秘跡も変わるし、教えも変わるし、道徳も変わるし」という事はありえない、という事を教えています。「そうではなくて、私たちは過去の教会の教えを『更に深める事』だけがあるのだ」という事です。
では第3に、どのような事が深められるでしょうか?イエズス・キリスト様を、どのようにしたらますます真似る事ができるでしょうか?聖霊の働きによって私たちは一体、もっとイエズス様の神秘の深みに入るには私たちがどうしたら良いと教えるでしょうか?
聖ボナヴェントゥーラは、マリア様の信心を私たちに伝えようとしますが、教会は聖霊はこの今、2017年、イエズス様にますます倣う為には、私たちが簡単にイエズス様の似姿になるには、「マリア様に、聖母の汚れなき御心に行くのが一番良い」と教えています。
ですから今日、聖ボナヴェントゥーラは私たちに、「マリア様の信心をするように」と、「これこそが教会の最高の信心の発展である、この神学の発展である」という事を教えていると思われます。
今日は聖ボナヴェントゥーラにお祈り致しましょう。聖ボナヴェントゥーラはシクスト四世によって1482年に列聖されました、1482年。残念ながらカルバン派によって、リヨンにあった聖ボナヴェントゥーラの遺体は、腐敗されずに残っていたはずの遺体は、1562年に頭を残して、これは守られたのですけれども、焼かれてしまいました。
しかしシクスト五世によって1588年に、セラフィム的な熾天使的な博士として教会博士として、私たちに教会博士として与えられました。聖ボナヴェントゥーラの御取り次ぎによって、私たちもその理想に、キリストに倣う理想にますます近付くようにお祈り致しましょう。
「私は律法を廃止する為ではなく、完成する為に来た。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。