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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2017年6月18日(主) 御聖体の荘厳祭の説教 「三位一体の天主の無限の愛による大発明」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年6月18日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。

2017年6月18日(主日)聖霊降臨後第2主日のミサ 御聖体の荘厳祭
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年6月18日、聖霊降臨後第2主日、御聖体の荘厳祭をしております。

今日のこの御ミサの直後には、御聖体降福式があります。本来ならばもしも事情が許すならば、イエズス様、王の王であるイエズス様を、教会の典礼に従って公道を練り歩いて、そしてイエズス様に花びらを撒いて、そしていくつかの仮祭壇において、この街々の角々を祝福して頂くように、イエズス様に道を歩いて頂きたいと、東京の道を歩いて頂きたいと思うのですけれども、まだその事情が許さないでおります。

そこで今回は御聖体降福式のみを致します。どうぞこのミサの直後に続きますので、司祭の退場までお帰りにならずに、どうぞそれも与って下さい。

今日の14時30分頃から公教要理の続きがあります。それは聖書の地理的な、或いはそして歴史的な背景についてお話をしたいと思っています。16時からは主日の晩課があります。晩課は聖霊降臨後第2主日の晩課です。明日は7時から、朝の7時からミサがあります。

7月は、7月2日の主日と18日の主日、そして海の日にもミサがあります。海の日には特別に午前中の10時30分、主日の同じ時間帯でミサをしたいと思っております。特にその日には随意ミサを、聖母の汚れなき御心に捧げられた随意ミサを行いたいと思っています。
そしてその後で午後には、公教要理の代わりに講演会を、命の大切さについての講演会を開いて、そして16時から17時、或いは17時半位まで聖母行列を行いたいと思っております。それはマーチ・フォー・ライフのマーチにマリア様をお連れして、マリア様にぜひ日本の主要の一番大切な東京駅の所から、皇居の前から国会議事堂の方へとマリア様に歩いて頂いて、そして日本の国を祝福して下さって、日本の平和の為に是非、マリア様にお願いをしたいと思っています。そこでできれば多くの方々が参加して下さると、マリア様もきっと喜ぶと思います。どうぞお時間を作って下さって、参加をお願い致します。



「私の体は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は日本の典礼に従って、習慣に従って、御聖体の祝日の荘厳祭を祝っています。

本来ならば、世界中でもどこでもこの主日に荘厳祭を祝う事ができるのですけれども、その条件が1つあります。1つは、「必ず聖体行列をするならば、この御ミサをする事ができる」となります。しかし「日本の場合は特別に、たとえ聖体行列をしなくても、この荘厳祭を祝う事ができる」となっています。そこで私たちはこれを利用して、これに感謝して、この特に御聖体への讃美の為に、今日この主日を使いたいと思っています。そこで皆さんに、この御聖体の神秘の黙想の中に入るように招きたいと思います。

一体何で今日、今頃、聖霊降臨が終わって、その後で三位一体の主日があって、それからその直後の木曜日に御聖体の祝日があって、今度のすぐ来たる金曜日は聖心の祝日だ。何で三位一体・御聖体・聖心などと立て続けにそんなに一級大祝日だとかがあるのだろうか?一体御聖体というのはどんな位置付けがあるのだろうか?という事を黙想して、そのそこから、教会はイエズス様の御聖体に対してどのような思いを持っているか、という事を黙想しましょう。

そしてその後、当然私たちが持つべき、教会と同じ心を持つべき態度を取らなければならないと感じますけれども、では一体私たちがそのような態度を取っているかどうか、というのを見る事にします。

最後には、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。3つのポイントを黙想する事に致しましょう。

では一体何で、今頃、御聖体の祝日を祝うのか?そもそも御聖体というのは聖木曜日に制定されたのだから、聖木曜日に祝うので良いんじゃないか?

はい。もっともな意見であって、聖木曜日に教会は最後の晩餐のミサを行ないます。しかし教会はその翌日に控えている聖金曜日、イエズス様の御受難にあまりにも心を捉えられているので、喜びを表す事が十分にできませんでした。そこで特にウルバノ4世教皇様が聖トマス・アクィナスに命じて、1264年、「新しく聖体の祝日を制定するので、新しい聖務日課と典礼とミサを作るように」と命じました。そして今日、その以後祝われて、同じミサをしています。

何故かというと、イエズス様の御来臨を待ち望む4千年を記念する「待降節」、イエズス様が私たちの為にお生まれになった御降誕を記念する「クリスマス」、また3人の博士が東の国から真の王、真の救い主、真の天主として礼拝した「御公現」、或いはイエズス様の御受難を記念して私たちも一緒に苦行を捧げる「四旬節」、それから「聖週間」、イエズス様の復活と勝利を祝う「復活節」、或いは「御昇天」、そして「聖霊降臨」というのは私たちの贖いの、イエズス様の贖いの歴史の一環として記念してきたものでした。

しかしその背後にあったのは、そこの贖いの業を完成したのが、その主導権を持ってそれを為したのが三位一体の天主、この世を創造した、創り、私たちに命を与えて、超自然の命へと招き、遂にはそこに辿り着かなければならない「三位一体の天主」という事を最終的に、贖いの業を飾る王冠として教会は祝いました。

そして更に、その贖いの元となった三位一体、そして究極点である三位一体が、私たちの地上に残した最高の宝物、御恵み、プレゼント、贈り物、世の終わりまで続くこの贈り物「御聖体」について、特別の喜びを以って、感謝を以って、讃美を以って祝うように、と教会を招きました。
そして御聖体という、私たちの目にはパンの形しか見えないその背後には、イエズス様の愛があった、という事を私たちに思い出させる為に、目に見える形としてのイエズス様の「聖心」、心臓の神性の宿るイエズス様の御心臓を聖心を私たちが讃美するように、愛の愛熱の炎である、竈であるこの聖心を讃美するように、という三位一体・御聖体・イエズス様の聖心という3つを、教会が立て続けに祝う事を望んでいるのです。

イエズス様はまさに、この御聖体の秘跡によって、私たちに究極の贈り物をプレゼントされました。

イエズス様がまず御生まれになる事によって、私たちと共に「生涯の伴侶」としてあろうとされました。

イエズス様が弟子たちと一緒に食事をされる事によって、伴侶のみならず、「食料」として「糧」として留まろうと思われました。何故かというと、それはイエズス様が十字架の上で亡くなったというその記念が永遠に残る為です。

何故かというと、御聖体と御血が分離して聖別されるという事はつまり、イエズス様の犠牲が屠りが完成されているという状態を秘跡的に示すからです。「贖いの値」として私たちに与えられました。

それのみならず、究極の三位一体の天主の永遠の命を、無限の幸せを、終わりのない命を私たちに与えるという「保証」として、「もしも私の体を食べるなら、永遠に生きる」という嘘のない約束をして、御自分の体を渡されました。

ですから私たちは「生涯の伴侶」と、「霊的な食糧」と、「贖いの代償」と、また「永遠の報償」とを同時に、御聖体の内に持っている事になります。この事を見ると、イエズス様は私たちにただ単に、私たちの善をのみ、私たちに与える事のみを、私たちを愛する事のみを望んでいる、という事が分かります。

この御聖体の秘跡は、こうやってただ、「あ、」と思い付いた事ではありませんでした。永遠の昔から三位一体が考えて、考え続けた愛の大傑作でした。

旧約の聖書の中にこの前表が残っています、たくさんあります。過越の子羊とか、天から降ってイスラエルの人々を養ったマンナとか、或いはエリゼオの為に灰の中で焼かれたパンとか、或いはメルキセデクが捧げたパンとブドウ酒、或いはモーゼが打った岩から出てきた水と蜜などです。

まさに私たちの天主は、永遠の昔から、私たちをどのようにして養おうかと考えました。ちょうど一生懸命働いて、日常の糧を稼いでくる家父のようです。額に汗し、労働して、食料を子供たちに与えるお父さんのようです。しかしイエズス様は、どこかの食糧を買って来てではなく、自分の体を糧として、子供たちに私たちに与えようと思いました。

それを見ると、ちょうど白い乳で子供を養う母親のようです。赤子を養う母親のようです。「イエズス様は、」これは幼きイエズスの聖テレジアの表現ですけれども、「私たち幼子を養う母のようだ。白い御聖体は乳のようだ。イエズス様の御血は本当に私たちを養う乳のようだ」と。母よりも更に母親らしいイエズス様の愛。それによって私たちは、「イエズス様の血を御体を受けて、イエズス様と一つになろう」と招かれています。

ユダヤ人たちは血筋にこだわっていました、「ユダヤの血筋はアブラハムの子孫だ。」イエズス様は血筋にはよるのではなく、天主の御旨によって、御自分の御血を私たちの中に流そうとされました。これこそ天主の血統の家族です。何と高貴な身分に招かれている事でしょうか。何という計り知れない贈り物でしょうか。何と寛大な天主様からの御配慮でしょうか。どれほど高い高貴な位に私たちは上げられた事でしょうか。

天主にそんなにも近く、そんなにも親しく親密に一つとなる事ができるほど招かれたとは、他のどこの宗教を探しても、このような宗教はありません。真の宗教であるからこそ、これほど大胆な事を考え付く事ができました。天主はこの事を思い付きました。これによって私たちの為に、どれほど愛されているかという事を示そうとされました。何故かというと、私たちが天主の愛に、愛で応える事ができるようにする為です。

もしも天主様がイエズス様が、私たちの人性を人間の本性を取って人間となったならば、それは私たちに天主の本性を与える為でした。私たちが天主のように永遠に幸せに、永遠に生きる為でした。もしもイエズス様が人間になったのならば、私たちがいわば天主のように生きる為でした。もしもイエズス様が人間の体を取ったならば、私たちにそれを与える為でした、いけにえとして十字架の上に私たちの名前によって屠られて、そして私たちに食される為でした。もしも私たちと同じ血を、御自分の中に流そうとお望みになったならば、それは私たちの罪の贖いの血としてそれを流し、遂には私たちの体の中に、天主の御血を入れる為でした。

何という神秘的な交換をイエズス様は考えて下さった事でしょうか。この特別のプレゼントを前に、天主が私たちの為に食べ物となるというその驚異の前に、単に人間本性を聖化したのみならず、大自然さえも聖化して下さった、このパンとブドウ酒さえも聖化して下さったというこの驚異の前に、その大きな愛を前に、私たちはただ単に、讃美と、感謝と、その天主の愛に対する礼拝をしても、し尽くされません。教会が、「聖木曜日では足りない。特別の祝日をどうしても作らなければならない」と思った理由が、痛いほどよく分かります。

イエズス様は御聖体の外見の内に、その見かけの内に私たちと共に永遠に留まります。教会はこれを「全実体変化」と言います。これは特別に作られた、御聖体の為に特別に作られた用語です。「実体」というのは、「これは何か」という事を表す為の哲学用語なのです。偶有とか、或いは付帯性とか、或いはアクシデントというのは、「たまたまそうだ」という事です。日本人であるとか、或いはピアノが上手いとか、或いは背が高いとか、或いは体重はどうだ等というのは、たまたまある事です。しかし「それが何か」である事は一つです。「人間だ」という事です。

全実体変化というのは、「これは何か」と言った時に、「もうこれはパンではない。パンではなくて、イエズス・キリストの御体だ」とどうしても言わなければならない、「実体が変わる」という事です。ただ見かけとか、外見とか、色とか、重さとか、というアクシデントがそのまま残るけれども、実体が変わっている。「実体変化」において、私たちの元に御聖体は留まります。

どうぞこの聖トマス・アクィナスが作った素晴らしい続誦の歌詞を一つ一つ黙想なさって下さい。イエズス様を、「真のイエズス・キリストの御体」という信仰から滲み出るこの詞の美しさ、その内容の深さには、本当に感嘆するばかりです。イエズス・キリストの御聖体の神秘を素晴らしく、美しく、完璧に表現してあります。

「イエズス・キリストを受けるのは、私たちが成聖の状態でなければならない。」
「一人で受けるのも、千人で受けるのも、同じ効果である。」
「たとえこのホスチアが二つに分かれたとしても、この部分には、完壁なイエズス様が残っている。イエズス様が割かれるのではない」等々。

このような神秘を前に、教会はただただ讃美と感謝で胸がいっぱいで、私たちをそれに招いています。

ではそのような教会の心を以って私たちは、「イエズス様の御聖体を、日々讃美しなければならない」と招かれているのですけれども、実際はどうなのでしょうか?

残念ながら、イエズス様の御聖体は愛されていません。信じられていません。無関心と、冷淡と、冷たい態度で扱われています。もっと言ってしまうと、足蹴にもされています。

「イエズス様の御聖体を御聖体として、真の天主の御体として跪いて礼拝して、御聖体拝領したい」という人々は却って、実はいじめられています。「イエズス様の御聖体を大切にしたい」という事はますます蔑ろにされています。

立って、手で、聖体拝領をしたり、あたかも普通のパンであるかのように、司祭ではない人々が御聖体を配ったり、或いは御聖体を単なる普通のパンに過ぎないかのように、今取り扱われております。

もしもプロテスタントの人々が、「聖体を信じない」などと言っているのならば、私たちは悲しみますけれども、しかし同じカトリックの人々の中でもそのような事があるとしたら、私たちの心はもっと傷付きます。

私たちはでは、どのような態度を取ったら良いのでしょうか?遷善の決心を立てる事に致しましょう。

私はぜひ皆さんに今日、御聖体を、讃美と感謝と罪の償いの為に聖体拝領なさるように、このミサで御聖体拝領して下さるように乞い求めたいと思います。この前も申し上げましたけれども、ファチマの天使が送られました、「人々の罪によって恐ろしくも“horribly”、恐ろしくも冒瀆されているイエズス・キリストの御体を受けなさい」と言って、子供たちは神秘的な聖体拝領をしました。同じ意向をもってどうぞ聖体拝領をなさって下さい。そして聖体拝領をした後で、イエズス様を愛し、礼拝し、希望し、お愛し申し上げて下さい。そしてイエズス様を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の為に、罪の赦しを乞い求めて下さい。

ファチマの天使の祈りを唱えて下さい。三位一体を深く礼拝して、世界中の御聖櫃の内に在し給うイエズス様を捧げて下さい。それからイエズス様の至聖なる聖心の功徳によって、無限の功徳によって、あわれな罪人の回心を乞い求めて下さい。これがファチマの精神です。

この3つの祈りを見ると、「あれ?どこかでで聞いた事がある。教会の典礼と同じだ。三位一体の祝日・聖体の祝日・イエズス様の聖心。」まさにその通りです。

二人の子供たち、聖ジャシンタと聖フランシスコは見なかったのですけれども、今から88年前に、6月にルチアは見ました。三位一体の荘厳なビジョンが、トゥイという所で現れました。ルチアは修道女になって、特に御聖体に対する愛を示そうと、聖時間を毎週木曜日の夜中の23時から夜中の0時まで、金曜日まで1時間、許可をもらって聖堂の中で一人で御聖櫃の前で礼拝していました。

6月13日、1929年6月13日、いきなり、真っ暗で聖体ランプしか灯していなかった教会が皓然と輝いて、光に輝く十字架が見えたのです。その十字架の上には一人の人の影が腰から上まで見えました、聖父の姿でした。その聖父の胸の辺りにハトのような形が見えて、聖霊が現われました。十字架の上には聖子が掛かっていました。三位一体が現れたのです。

その直後に、イエズス様の聖心から御血が流れて、その宙に浮いた御聖体にその御血がかかっていったのです。その御血がかかった御聖体から御血がタラタラと滴り落ちて、その下にあったカリスに落ちていました。御聖体の神秘でした。

その次に、イエズス様の聖心の代わりにマリア様の御心がありました。マリア様が、この額縁のマリア様のように、ファチマのマリア様が出てきて、ご自分の御心を取って、そしてその全てのお恵みを自分の御心から、ルチアに光で与えていたのです。

このビジョンを以って、「イエズス様の聖心とマリア様の御心が一つである」という事を知らせようとしました。どうぞ今日このビジョンを思いながら、イエズス様の御聖体を礼拝なさって下さい。

そして最後に提案したいのは、イエズス様から与えられた特別の賜物があります。御聖体の秘跡、そしてマリア様の汚れなき御心、また私たちの人間の命。特に目では見えないような人間である、お母さんのお腹の中にある赤ちゃん。この命のお恵みが人工妊娠中絶、つまり堕胎によって今、酷く嘆かわしい方法で扱われています。ですからその罪の償いをしたいと思って下さい。その罪の償いをする為に、どうぞ私たちの日常の生活の苦しみや、祈りを捧げて下さい。

昨日計算してみました。2015年だけの統計を見ると、3分に一人の日本の赤ちゃんが亡くなっているという事は知っていましたけれども、1948年の7月13日から2015年までの統計を計算すると、どうも1分間に一人の赤ちゃんが亡くなっていたと計算されます。夜も、昼も、絶え間なく。その罪の償いを私たちが祈りと犠牲を以ってお捧げしなければならないのではないか。今日のこの御聖体をもその意向でお捧げ下さい。

「私の体は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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