アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年7月16日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年7月16日(主日)聖霊降臨後第6主日のミサ
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年7月16日、聖霊降臨後第6主日の御ミサをしております。このミサの直後に、司祭の退場の前に、ファチマのマリア様の意向に従って、この巡回教会一同、皆さん一同、この教会と信徒の方々と司祭、全てのお友達と隣人の方々と、その住んでおられる所の方を全て、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。そしてその後で、そこの額の後ろにずっと保存して、マリア様の汚れなき御心にいつも守って下さるようにと思っています。
その後に退場をして、いつものように感謝のお祈りがあります。14時からは公教要理があって、聖書の続きがあります。ヘロデ大王やその後継者、或いはポンシオ・ピラトという男はどういう男だったのか、などという事を垣間見る事にします。16時からはいつものように晩課があります。
明日は海の日ですが祝日で、朝のミサの時間が10時30分となっています。10時30分から歌ミサがあって、聖母の汚れなき御心の随意ミサを捧げようと思っています。それから夕方の16時からは、築地教会から国会議事堂の方に向かう、日比谷公園まで3キロほどのマーチ・フォー・ライフというのがあり、それに参加しようと思っています。このマリア様と一緒に、私たちの祖国日本の為に、そして多く亡くなってしまっている多くの子供たちの為に、それがもう無くなりますように、また罪の償いの為に、罪人の回心の為に、イエズス様を愛する為に、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、 ファチマの精神で聖母行列を、私にとっては聖母行列ですけれども、聖母行列をしようと思っています。もしもできる方はいらして下さい。
8月は、8月6日第1主日に10時30分からミサがあります。
“Et nos in novitate vitae ambulemus.”
「私たちも、新しい命に於いて歩もう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日聖パウロの書簡で、非常に深い、「私たちのキリスト教生活が一体何であるか、一体その核心とは、その最も本質的なものは何であるか」という事が述べられます。
次に福音ではイエズス様は、一体その新しい福音の、パウロが言った生き方というのはどのようであるか、という事を実践しようとされます。
そこで私たちも、このミサの順序に従って、聖パウロの言っている神学、私たちのキリスト教生活とは一体何か、という事を見て、
次に、イエズス様のではなさった事を、どのような事をなさったのかを見て、
最後に、私たちも、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖パウロは言います、「私たちは洗礼を受ける事によって、キリストの神秘体の中に入った、その一員となった。そのキリストという木に接木された。でもそれはちょうど、私たちがキリストの死に於いて洗礼を受けたのだ。ちょうど洗礼で水の中に浸るように、私たちもキリストと共に墓に葬られたのだ。洗礼を受けるというのは、キリストと共に罪に死んで、キリスト共に墓に葬られた事だ。しかし、」話を続けます、「キリストの死に倣ったように、同じく復活にも倣う者となった。私たちの古い人は十字架に付けられたけれども、罪の体は十字架に付けられて死んだけれども、しかし私たちはキリストと共に生きている。新しい人を生きている。キリストを着て生きている。罪に死んで、天主の為に生きている。“Vivit Deo,mortuos et peccato.”天主の為に生き、私たちは生き、罪に死んだ者である。」
そこで聖パウロは言うのです、「キリストが、聖父の栄光を通して死から復活したように、私たちも新しい命を歩もう」と。
私たちの歩む命というのは、「天主の為に生きる」という事であり、「罪に死ぬ」という事です。
では福音ではイエズス様は、どのような形で「天主に生きる」という事を表わされたでしょうか?
そのイエズス様の言葉を、もしも今日の福音の中から一言取るというと、それは「“Miserereor super turbam.”この群衆を、私は憐れむ。」
イエズス様の「憐れみ」という事こそ、イエズス様の御生涯でした。イエズス様は私たちを憐れむが為に、罪から救おうとするが為に人となられ、そして御自分の命を私たちに与えられようとされました。イエズス様は確かに、私たちの超自然の命の為に人となられ、苦しみを受けられました。私たちにとって最も大切なのは永遠の命であって、その為にこそ天主は人となりました。
ところがイエズス様の御生涯を見ると、その私たちに対する御関心と憐れみというのは、更に超自然の命を超えて、更にある事が分かります。
それはとどのつまりは、超自然の命の為のものだったのですけれども、イエズス様が公生活を始める時に、最初に水をワインに変えられました。何故かというと、宴会でワインが足りなかったからです。天主の御一人子が人となって、ものすごい大奇跡、人となる事までして最初の奇跡が、宴会に足りなかったワインを増やす、水をワインにする事でした。
今日の奇跡は、「イエズス様の御言葉を聞きたい」として、遠くからはるばる3日間、御言葉を聞こうと集まって来た4000人以上の人々を、7つのパンで養った、7つのパンと少しの魚でその人々を、食べ物でパンで満たした、パンの増加の奇跡をしたという事です。超自然の命のみならず、自然の善さえも心を砕いて下さるという事が分かります。
イエズス様は更にこうも言います、例えで、「最後の審判の日にはこうなるだろう」と。「義人にはこう言われるだろう、『私が飢えていた時には食べさせ、お前は私が渇いていた時に飲ませ、旅に出た時には宿を与え、裸でいた時には服をくれ、病気でいた時は看病してくれ、牢にいた時には見舞ってくれた。』」「え!?一体、私が一体、いつあなたがそんな時にそうしたでしょうか?」と言うと、「最も小さな者にした事は、私にした事だ」とイエズス様は仰いました。「だからお前たちは、永遠の祝福に入れ」と、「永遠の昔から聖父によって準備された、その喜びの中に入れ」と言われます。
「最も小さな者にした事は、たとえそれが服であれ、それが看病であれ、訪問であれ、水を与える事であれ、それは私にした事だ」と言われるのです。
イエズス様は更にこうも言いました、「お前たちがして欲しいと思う事を、お前も隣人になせ。」
私たちは一体どのような事をしてもらいたいと思うでしょうか?もちろん、私たちは大切に思われ、私たちが尊重され、私たちが安全で、平穏に、喜びの内に生きるという事を、平和の内に生きるという事を、他人からしてもらいたいと思いますが、やはり私たちも「そのようにせよ」と言います。
イエズス様は最後に、今までの与えた自然の奇跡、病人を治したり、或いは死人をよみがえらせたりなどしたその後に、究極的な超自然の奇跡を与えます。それはパンを御自分の御体に変える事であり、ワインを御自分の御血に変える事であり、そして御自分自身が復活をして、信仰の恵みを与える事でした。罪の赦しを与える事でした。聖霊降臨のお恵みを与える事でした。
そしてイエズス様は最後に、亡くなられる前に、こう私たちに新しい掟を命じられました、「私はお前たちに模範を示した。私のしたようにお前たちもせよ。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え。」
イエズス様が私たちを愛されたように、私たちも隣人を愛さなければならない。それのご要求はどれほど大きなものでしょうか。
イエズス様がいつも私たちを憐れみ給うて、超自然の、そして自然の善を施そうとして下さったものに、私たちも倣わなければならない。これが罪に死に、天主に生きるという新しい道の歩み方です。新しい命の歩み方です
罪は、「私たちの快楽や、私たちの都合や、自分の利益の為に、天主も掟も無い」という生き方をしますけれども、しかしイエズス様は私たちに、救霊の為に、隣人の為に、友人の為に、自分の命を与えるという、苦しみを受けるという、御受難を選びました。
罪は、「たとえ罪のない人であっても弱い者をいじめて、自分が得をすれば良い」と言いますけれども、しかしイエズス様は、罪人を救う為に、御自分がその苦しみを、償いを、御自分の身に負われました。
罪は、「邪魔者は殺せ。」ちょうどヘロデのように、「邪魔者は消せ」と言うかもしれませんが、しかしイエズス様は、「 友人の為に命を与えるほど大きな愛はない。互いに愛し合え」と言われます。
イエズス様はそれだけではありませんでした。私たちが裸でいるのを見て、何とかその永遠の地獄の火から守ろうと、マリア様を送って下さいました。例えば今日、実はカルメル山のマリア様のスカプラリオの記念日です。ファチマでは子供たちを通して、全人類を訪問して、そして私たちが永遠の地獄の火に落ちないように警告して下さいました、「多くの人々が地獄に落ちている。何故ならば、祈り、犠牲を捧げる人がいないからだ。」
ではイエズス様のその憐れみの生き方を見て、私たちはどのような決心を取らなければならないでしょうか?
私たちも聖パウロの言葉に従って、イエズス様の教えた新しい命を歩む事に致しましょう。それは「霊魂の救い」という道です。永遠の命の為の道のりです。
その私たちがその道を上手く歩む為にも、マリア様が送られました。7月13日、マリア様はこう言われました、「何度もこの祈りを唱えなさい。特に犠牲を捧げる時にはこう言いなさい、『これはイエズス様を愛する為、罪人の回心の為、またマリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です。』」と。
ですから私たちも、この新しいイエズス様の道に従って、この道を歩む事に致しましょう。マリア様の声に従って、私たちの人生はこの3つの意向で生きる事に致しましょう。
「イエズス・キリストを愛する為」
「罪人たちの回心の為」
また、「聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為」
そう私たちの人生が全てその意向の為に捧げられる時、多くの霊魂が救われます、永遠の命に救われます。そして私たちは、最も小さな者に罪人たちの回心の為に、多くの善を為す事になります。その時に私たちは、イエズス様と同じ事を言う事ができます、「彼らを憐れむ。」「イエズス様、どうぞ多くの霊魂を救って下さい。彼らに御身の永遠の命を、そして永遠の命のパンを与えて下さい。」
今日、聖霊降臨後第6主日の内にこの決心を立てて、ミサを捧げ続けていく事に致しましょう。
“Et nos in novitate vitae ambulemus.”
「私たちも、新しい命に於いて歩もう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年7月16日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。そのときの説教をご紹介いたします。
2017年7月16日(主日)聖霊降臨後第6主日のミサ
小野田神父 説教
日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年7月16日、聖霊降臨後第6主日の御ミサをしております。このミサの直後に、司祭の退場の前に、ファチマのマリア様の意向に従って、この巡回教会一同、皆さん一同、この教会と信徒の方々と司祭、全てのお友達と隣人の方々と、その住んでおられる所の方を全て、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。そしてその後で、そこの額の後ろにずっと保存して、マリア様の汚れなき御心にいつも守って下さるようにと思っています。
その後に退場をして、いつものように感謝のお祈りがあります。14時からは公教要理があって、聖書の続きがあります。ヘロデ大王やその後継者、或いはポンシオ・ピラトという男はどういう男だったのか、などという事を垣間見る事にします。16時からはいつものように晩課があります。
明日は海の日ですが祝日で、朝のミサの時間が10時30分となっています。10時30分から歌ミサがあって、聖母の汚れなき御心の随意ミサを捧げようと思っています。それから夕方の16時からは、築地教会から国会議事堂の方に向かう、日比谷公園まで3キロほどのマーチ・フォー・ライフというのがあり、それに参加しようと思っています。このマリア様と一緒に、私たちの祖国日本の為に、そして多く亡くなってしまっている多くの子供たちの為に、それがもう無くなりますように、また罪の償いの為に、罪人の回心の為に、イエズス様を愛する為に、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為に、 ファチマの精神で聖母行列を、私にとっては聖母行列ですけれども、聖母行列をしようと思っています。もしもできる方はいらして下さい。
8月は、8月6日第1主日に10時30分からミサがあります。
“Et nos in novitate vitae ambulemus.”
「私たちも、新しい命に於いて歩もう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日聖パウロの書簡で、非常に深い、「私たちのキリスト教生活が一体何であるか、一体その核心とは、その最も本質的なものは何であるか」という事が述べられます。
次に福音ではイエズス様は、一体その新しい福音の、パウロが言った生き方というのはどのようであるか、という事を実践しようとされます。
そこで私たちも、このミサの順序に従って、聖パウロの言っている神学、私たちのキリスト教生活とは一体何か、という事を見て、
次に、イエズス様のではなさった事を、どのような事をなさったのかを見て、
最後に、私たちも、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
聖パウロは言います、「私たちは洗礼を受ける事によって、キリストの神秘体の中に入った、その一員となった。そのキリストという木に接木された。でもそれはちょうど、私たちがキリストの死に於いて洗礼を受けたのだ。ちょうど洗礼で水の中に浸るように、私たちもキリストと共に墓に葬られたのだ。洗礼を受けるというのは、キリストと共に罪に死んで、キリスト共に墓に葬られた事だ。しかし、」話を続けます、「キリストの死に倣ったように、同じく復活にも倣う者となった。私たちの古い人は十字架に付けられたけれども、罪の体は十字架に付けられて死んだけれども、しかし私たちはキリストと共に生きている。新しい人を生きている。キリストを着て生きている。罪に死んで、天主の為に生きている。“Vivit Deo,mortuos et peccato.”天主の為に生き、私たちは生き、罪に死んだ者である。」
そこで聖パウロは言うのです、「キリストが、聖父の栄光を通して死から復活したように、私たちも新しい命を歩もう」と。
私たちの歩む命というのは、「天主の為に生きる」という事であり、「罪に死ぬ」という事です。
では福音ではイエズス様は、どのような形で「天主に生きる」という事を表わされたでしょうか?
そのイエズス様の言葉を、もしも今日の福音の中から一言取るというと、それは「“Miserereor super turbam.”この群衆を、私は憐れむ。」
イエズス様の「憐れみ」という事こそ、イエズス様の御生涯でした。イエズス様は私たちを憐れむが為に、罪から救おうとするが為に人となられ、そして御自分の命を私たちに与えられようとされました。イエズス様は確かに、私たちの超自然の命の為に人となられ、苦しみを受けられました。私たちにとって最も大切なのは永遠の命であって、その為にこそ天主は人となりました。
ところがイエズス様の御生涯を見ると、その私たちに対する御関心と憐れみというのは、更に超自然の命を超えて、更にある事が分かります。
それはとどのつまりは、超自然の命の為のものだったのですけれども、イエズス様が公生活を始める時に、最初に水をワインに変えられました。何故かというと、宴会でワインが足りなかったからです。天主の御一人子が人となって、ものすごい大奇跡、人となる事までして最初の奇跡が、宴会に足りなかったワインを増やす、水をワインにする事でした。
今日の奇跡は、「イエズス様の御言葉を聞きたい」として、遠くからはるばる3日間、御言葉を聞こうと集まって来た4000人以上の人々を、7つのパンで養った、7つのパンと少しの魚でその人々を、食べ物でパンで満たした、パンの増加の奇跡をしたという事です。超自然の命のみならず、自然の善さえも心を砕いて下さるという事が分かります。
イエズス様は更にこうも言います、例えで、「最後の審判の日にはこうなるだろう」と。「義人にはこう言われるだろう、『私が飢えていた時には食べさせ、お前は私が渇いていた時に飲ませ、旅に出た時には宿を与え、裸でいた時には服をくれ、病気でいた時は看病してくれ、牢にいた時には見舞ってくれた。』」「え!?一体、私が一体、いつあなたがそんな時にそうしたでしょうか?」と言うと、「最も小さな者にした事は、私にした事だ」とイエズス様は仰いました。「だからお前たちは、永遠の祝福に入れ」と、「永遠の昔から聖父によって準備された、その喜びの中に入れ」と言われます。
「最も小さな者にした事は、たとえそれが服であれ、それが看病であれ、訪問であれ、水を与える事であれ、それは私にした事だ」と言われるのです。
イエズス様は更にこうも言いました、「お前たちがして欲しいと思う事を、お前も隣人になせ。」
私たちは一体どのような事をしてもらいたいと思うでしょうか?もちろん、私たちは大切に思われ、私たちが尊重され、私たちが安全で、平穏に、喜びの内に生きるという事を、平和の内に生きるという事を、他人からしてもらいたいと思いますが、やはり私たちも「そのようにせよ」と言います。
イエズス様は最後に、今までの与えた自然の奇跡、病人を治したり、或いは死人をよみがえらせたりなどしたその後に、究極的な超自然の奇跡を与えます。それはパンを御自分の御体に変える事であり、ワインを御自分の御血に変える事であり、そして御自分自身が復活をして、信仰の恵みを与える事でした。罪の赦しを与える事でした。聖霊降臨のお恵みを与える事でした。
そしてイエズス様は最後に、亡くなられる前に、こう私たちに新しい掟を命じられました、「私はお前たちに模範を示した。私のしたようにお前たちもせよ。私がお前たちを愛したように、お前たちも互いに愛し合え。」
イエズス様が私たちを愛されたように、私たちも隣人を愛さなければならない。それのご要求はどれほど大きなものでしょうか。
イエズス様がいつも私たちを憐れみ給うて、超自然の、そして自然の善を施そうとして下さったものに、私たちも倣わなければならない。これが罪に死に、天主に生きるという新しい道の歩み方です。新しい命の歩み方です
罪は、「私たちの快楽や、私たちの都合や、自分の利益の為に、天主も掟も無い」という生き方をしますけれども、しかしイエズス様は私たちに、救霊の為に、隣人の為に、友人の為に、自分の命を与えるという、苦しみを受けるという、御受難を選びました。
罪は、「たとえ罪のない人であっても弱い者をいじめて、自分が得をすれば良い」と言いますけれども、しかしイエズス様は、罪人を救う為に、御自分がその苦しみを、償いを、御自分の身に負われました。
罪は、「邪魔者は殺せ。」ちょうどヘロデのように、「邪魔者は消せ」と言うかもしれませんが、しかしイエズス様は、「 友人の為に命を与えるほど大きな愛はない。互いに愛し合え」と言われます。
イエズス様はそれだけではありませんでした。私たちが裸でいるのを見て、何とかその永遠の地獄の火から守ろうと、マリア様を送って下さいました。例えば今日、実はカルメル山のマリア様のスカプラリオの記念日です。ファチマでは子供たちを通して、全人類を訪問して、そして私たちが永遠の地獄の火に落ちないように警告して下さいました、「多くの人々が地獄に落ちている。何故ならば、祈り、犠牲を捧げる人がいないからだ。」
ではイエズス様のその憐れみの生き方を見て、私たちはどのような決心を取らなければならないでしょうか?
私たちも聖パウロの言葉に従って、イエズス様の教えた新しい命を歩む事に致しましょう。それは「霊魂の救い」という道です。永遠の命の為の道のりです。
その私たちがその道を上手く歩む為にも、マリア様が送られました。7月13日、マリア様はこう言われました、「何度もこの祈りを唱えなさい。特に犠牲を捧げる時にはこう言いなさい、『これはイエズス様を愛する為、罪人の回心の為、またマリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為です。』」と。
ですから私たちも、この新しいイエズス様の道に従って、この道を歩む事に致しましょう。マリア様の声に従って、私たちの人生はこの3つの意向で生きる事に致しましょう。
「イエズス・キリストを愛する為」
「罪人たちの回心の為」
また、「聖母の汚れなき御心に対して犯される罪を償う為」
そう私たちの人生が全てその意向の為に捧げられる時、多くの霊魂が救われます、永遠の命に救われます。そして私たちは、最も小さな者に罪人たちの回心の為に、多くの善を為す事になります。その時に私たちは、イエズス様と同じ事を言う事ができます、「彼らを憐れむ。」「イエズス様、どうぞ多くの霊魂を救って下さい。彼らに御身の永遠の命を、そして永遠の命のパンを与えて下さい。」
今日、聖霊降臨後第6主日の内にこの決心を立てて、ミサを捧げ続けていく事に致しましょう。
“Et nos in novitate vitae ambulemus.”
「私たちも、新しい命に於いて歩もう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。