アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「いろいろな「教会」?」という記事を日本語に訳してくださった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この記事自体は二〇一二年に書かれたものです。ご紹介が遅れてしまいました。この文章は、ウィリアムソン司教のエレイソン・コメンツ281回への反論文です。エレイソン・コメンツは、キリストの教会を呼ぶいろいろな名前について語り、つまり「カトリック」教会、「公会議の教会」、「目に見える教会」、「公式の教会」、「主流の教会」などについて述べ、「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。」(That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot.)また、「 "公式の教会" は、四つの印に従えば、大部分が "公会議の教会" であってカトリックではない。」(Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks.)などと述べていますが、その誤りを指摘したものです。どうぞ良き四旬節をお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
いろいろな「教会」?
フランソワ・レネー神父
原文はこちら[訳注: 英語テキストより翻訳]
【※訳者より──この文章は、ウィリアムソン司教のエレイソン・コメンツ281回への反論文である。[ ]内は訳者による補足。】
実に、「カトリック教会」ということについて、多くの混乱が行き渡り、聖伝に愛着するカトリック信者たちの間にすら、危険をはらんだ概念が知れ渡っています。
このような文章があります。「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。」
すぐに次のような疑問が湧き起こります。カトリック教会とは「眼に見える教会の中の一部分」にすぎないのか、と? そして、これはさらに次のような基本的な別の疑問へと導かれます。つまり、キリストの教会たるカトリック教会と、(それとは別の)眼に見える教会という区別をつけることは正当なことだろうか? と。
いえ、それどころか、カトリック信仰により、私たちは、キリストの教会たるカトリック教会と眼に見える教会との同一性を信仰宣言する義務があるのではないでしょうか? その通り! キリストの教会とはカトリック教会であり、この教会は眼に見えるものなのです!
ルフェーブル大司教様はこの信仰のドグマにしっかりとしがみついていたので、ルフェーブル大司教様は教皇聖座空位論者の立場を常に拒絶し続けたのです。何故なら、聖座空位論は、位階制度の絆を全て失い、位階制度をもはや持たなくなるのですから、実質的に眼に見えない(invisible)教会へと、論理的に導くからです。
確かに、前述した引用文を書いた者は、カトリック教会は四つのしるしによって識別できると断言しています。しかし、これら四つのしるしが「眼に見える教会の一部」のみに属していると、著者は読者を理解させようとしています。ですから「キリストの教会=カトリック教会」という最初の等号を疑っているのではなく、二番目の「カトリック教会=目に見える教会」の等号を疑っていることになります。
このような断言が大変危険であるのは、カトリック教会の境界線が、実質的に眼に見えないものになってしまうからです。
この著者は、カトリック教会が眼に見えるものだとは以下のように書いて断言すれば充分だと考えています。「ですが、"カトリック教会は眼に見えるものである、従って、眼に見える教会はカトリック教会である" ということは、"すべてのライオンは動物なのであるから、すべての動物はライオンである" と言うのと同じくらい馬鹿げています」と。この文章が間違っているのは「カトリック教会は眼に見えるものである」という断言のまことの意味を把握できていないことです。カトリック教会がこの真理──例えばピオ十二世のミスティチ・コルポリスにおける──を教えるとき、「属(genus)」の内部にある「種(species)」──これは動物とライオンとの間の関係──としてカトリック教会をみなしているのではありません。まるで、誰もが英国国教会、正教会、監督派教会などの信者を見ることができるようにカトリック信者を見ることができるとでもいうように、まるで眼に見える教会は一つの属であり、これはカトリック教会であるかも知れない一つの種の内部にあるとでもいうように、著者はこれ以上の意味はないと言っているかのようです。
いいえ! 「カトリック教会とは眼に見えるものである」という断言は次のような意味です。「キリストの教会は眼に見えるものであり、そしてカトリック教会とはこの教会のことである。」ピオ十二世も、他のすべてのカトリック権威者たちも、カトリック教会とは「眼に見える教会の一部分的なもの」に過ぎないなどとは決して教えてきませんでした。いいえ! キリストの完全な教会とは眼に見えるものであり、この完全体とはカトリック教会のことです。そして、人々はカトリック教会の "内部" には、善い魚と悪い魚(マテオ十三章四十八節)、善い麦と毒麦(マテオ十三章二十五節)、麦ともみがら(マテオ三章十二節)の入り交じった状態を見いだします。カトリック教会は、十一人の善き使徒たちのみで成り立っていて、ユダは腐敗して不忠実な部外者であった、などとは決して教えてきませんでした。そうです、ユダは腐っていました。しかしカトリック教会、唯一のキリストの教会の内部においてなのです。
では、公会議の教会(Conciliar Church)とは何でしょうか? この表現は、ベネリ枢機卿による造語です。すなわち、この表現は第二バチカン公会議によって導入された新奇な改革をはっきりと公言していました。ですが、これは、独自の組織、カトリック教会から分離した独自の信者たちを含む、分離した教会を指していたのでしょうか? そうではありません。この表現は、新しい精神、新しい原則を示していましたが、新しい組織も、分離した位階制度と信者たちをも示したのではありませんでした。この新しい精神は、教会内の成員たちを教会内部でそれに汚染させ、それに染まれば染まるだけそれと同じ程度に腐敗させています。これはキリストの神秘体の中のウィルスに似ています。すなわち、完全に腐敗した細胞もあれば、一部分だけが汚染された細胞もあり、少しはましなものもあれば、相当にだめになったものもある。そしてほんのわずかの細胞が腐敗を免れています。この新しい精神はカトリックではないと述べるのは真実です。これは決裂の精神、革命的な精神、教会内における一七八九年[フランス革命]です。
しかし、この新しい精神は分離した教会を作り上げているのではありません。多かれ少なかれ、カトリック教会の成員たちに影響を及ぼしています。健全な成員たちと[新しい精神に]感染した成員たちとの間の分離は、目に見えるものではありません。それは、ある成員たちが部分的に感染しているというまさにこの事実によります。これは教会内部の善と悪の区別に似ています。つまり、限界(境界線)[近代主義の感染がどの程度まで行き渡っているのかという]は、各成員たち個人の中にあります。この地上においては誰も完全ではないからです! この選別が達成されるのは、世の終わりになったときだけであり、人間の裁きによるのではなく、最高審判者、まことの天主にしてまことの人なるキリストご自身の裁きによってです。これは、感染は眼には見えないものだということではありません。邪悪な成員たちが教会内では眼に見えるように(スキャンダルは第二バチカン公会議後においては事欠きません)、この公会議の汚染もまた眼に見えるものです。特に完全に染まってしまった人々、すなわち、オーストリアの近代主義神学者たち、近代主義司祭たちの嘆願書の中に……。これらの間違った原則が、現実にエキメニュカル会議(アシジの集会、ミサの共同司式、シナゴーグへの訪問、コーランへの接吻……)で進行中なのを人々は見ています。
こういった間違った原則が分離した教会を構成しているのではなく、眼に見える教会である完全体から区別される一部分ですらないのです。
「公会議の教会はカトリック教会ではない」と述べることは、公会議の原則、公会議の精神はカトリックの諸原則、カトリックの精神ではないということを意味するなら、これは真実です。ルフェーブル大司教様のいくつかの言葉が意味するものです。ですが、りんごの食べられる部分と腐った部分との間のような分離をほのめかすなら、現実に一致していません。これは間違いです。ルフェーブル大司教様の教えに真っ向から反対しています。
目に見える教会内部において、腐敗した、「カトリック教会ではない」公会議の部分と、「一なる、聖なる、普遍の、使徒継承であるもの」のみで成り立っているカトリック的部分を区別することは、カトリック教会からその組織を取り去ることであり(実際、この上述の著者は "公式の教会は大部分、公会議の教会であり、カトリックではない" と書くのをためらいません)、カトリックのまま留まっている部分は、主イエズス・キリストがご自分の教会にお与えになった組織を奪われることになるのです! もしもそうなら、もはやキリストの教会であると認識できなくなってしまいます。従って、このような断言は信仰にとって大変危険なものです。
公会議後の危機が原因で、教会の四つのしるしは何らかの影を帯びており、教会全体の中で、四つの印は眼に見なくなっていることは真実です──例えば、いとも聖なる誓願を投げ捨てた大勢の司祭たち、修道者たちは、聖性というしるしについて、眼に見える汚点を残しました──ですからルフェーブル大司教様は、これら四つのしるしは、聖伝に愛着する平信者と司祭たちの間に、より多く見られると言うのをためらいませんでした。ですが、カトリック教会は「目に見える正常な一部分」のみであるとは、決しておっしゃいませんでした! 反対に、大司教様はカトリック教会に、教会の全体に、ご受難の間のキリストの真実をあてはめました。つまり、キリストはご受難の時には救世主であるとはまったく認識されませんでした。イザヤが預言したようにです。「彼は、人から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみになれた人。その前では顔を覆いたくなる、そんな人のように、見下され、無視された人」(イザヤ五十三章三節)近代主義の危機のゆえに、教会はみずからの受難をくぐり抜けており、カトリック教会であると見分けがつきません。ですから、ルフェーブル大司様にとって、カトリック教会とは単なる一部分ではなく全体であることは非常に明白なのです。
公会議の教会とカトリック教会との区別を間違って理解をすることにおいて、教義についての誤りを見いだします。そしてこの誤りは、一部の人々の中において、今年、二〇一二年のフェレー司教様への反対の根底にあります。事実、この著者はこのように結論づけています。「公式の教会は、広範囲に渡って公会議の教会であり、カトリックではありません」と。この結論は必然的にいかなる合法化をも拒絶するという方向へと導き出すのです。
そこで、教会内の役職にある人々が、私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会に与えた権威をもはや受け取っていない、従って善いものを受け取っていない、と思う人々もいます。──事実、主イエズス・キリストが打ち立てられたものは、間違いなく素晴らしいものです。この権威を悪用することは、権威それ自体の有益性、位階制度の秩序が持つ価値を取り除くことではありません。従って、教皇様がこの秩序の内部に聖ピオ十世会の居場所を正常化させたいなら、教皇様は善いことを望んでいるのです(秩序は善です)。──ですから、教皇様が、いかなる悪い条件もなく、そしてこの秩序が堅固であるように充分な保証とともに、それを与える限りにおいて、この善に反対して抵抗する権利を人は持っていません。
この教義の誤りの根底には、ドナトゥス派に反対した聖アウグスティノの偉大な原則に関する無知があります。すなわち、善い人々は悪人たちの邪悪に同意しない限り、教会内において邪悪な人々と交っても害を被らない、という原則です。(Breviculus collationis cum Donatistas 1: 10: "malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse") このような間違いは、教会を「カタリ派的な」概念、浄い人々の教会、公会議の腐敗によって汚染されてない教会、へ導きます。このような概念は決してカトリックではありません。
キリエ・エレイソン、主よ、あわれみ給え! このような概念に引きずられているかも知れない人々をあわれんでくださいますように。彼らに自らを正すための恩寵を与えてくださいますように。彼らがカトリック教会についての聖伝の概念へと立ち戻るための恩寵をお与えくださいますように。教会みずからが、とりわけノヴァティアノ派に反対した聖チプリアノ、ドナトゥス派に反対した聖アウグスティノ、教会の唯一性についての書物の著者であるこの二人の聖人が、初代教会の頃から教えてきたような、聖伝の概念へと立ち戻りますように!
ルフェーブル大司教様のテキストの一部が、この教えをよく説明してくれるでしょう。
「というわけで、私たちは、試練の数々にも関わらず、教会の生命にとって不可欠である司祭職養成を続けるため、皆さんの祈りと寛大さを当てにしています。私たちを攻撃するのは教会でもペトロの後継者でもありません。進歩主義の誤謬に染まった聖職者たち、教会内の要職を占め、自分たちの権力を利用する聖職者たちなのです。権力を乱用して、教会の過去を忘れさせ、カトリックとは無関係の新しい教会を打ち立てようとしています。」(一九七五年九月九日、友人と恩人への手紙九号の末尾)。
言い換えると、ルフェーブル大司教様を攻撃している人々は、間違いなく「教会の聖職者たち」「教会内の要職を占める人々」でした。彼らは「ペトロの後継者」としてではなく、むしろ「進歩主義の誤謬に染まった者」として、聖ピオ十世会に反対して行動していたのでした。
「教会はエキュメニカルなものではなく、ましてやリベラルでエキュメニカルなものでもありません。教会は宣教的です。これは、私がセペール枢機卿への手紙で、繰り返し繰り返し述べたことです。枢機卿は、私たちの従順、私たちの教皇様への服従といった事柄について、事細かい事項を求めてきたからです。私はもっと高いところから事を検討する必要があると思います。なぜなら、私たちが教皇様とローマ聖省に完全に"従順"できない深くかつ高尚な理由があるからです。これらはきわめて重要な理由です。それは、教会のまったく新しい方向性、もはやカトリックではない方針、カトリック教会の方針ではない方針のためです。宣教的である教会とエキュメニカルな教会との間には非常に重大な違いがあります。宣教的である教会は、真理を伝える教会で、自分自身のうちに真理を所有していることを知り、他者を改心させるために真理をもたらす教会です。この教会の目的は改心です。その一方で、エキュメニズムの目的は誤謬の中に真理を見つけること、実質的には、誤謬のレベルに自分を合わせ、完全な真理を誤謬のレベルに合わせ、従って誤謬に迎合することです。これは絶対的に考えることができないことです。これはカトリック教会の真理の破壊です。私たちはこんなことに同意できません。今、彼らは神学校の廃止処分や聖ピオ十世会の廃止によって、私たちに課した罰則によって、すべての改革を、改革者たちが私たちに受け入れるよう望んでいることを押しつけようとしています。彼らの目的、その意向は、相変わらず、公会議が成し遂げたこと、公会議後に成されたすべてのことを私たちに受け入れさせることです。エキュメニズムのゆえに、この新しい公会議の教会はカトリック教会ではありません。エキュメニズムは、誤謬を真理に対するのと同じ尊敬をもって見るのです。つまり、誤謬のうちにいるあなたは、真理のうちにいる人々と同じほど価値がある、ということなのです(一九七八年三月十三日、エコンでの霊的講話)。」
ルフェーブル大司教様は、「この新しい公会議の教会」と言う言葉で理解していたことは、まさしく「教会のまったく新しい方向性」を指し、分離した組織ではないと、ここで二つのアンダーラインを引いた文章がわかりやすく示しています。
「聖主イエズス・キリストの御生命は、公会議後の教会の至る所で消えつつあります。彼らはカトリックの道ではない道に従っています。つまり彼らは単に棄教に進んでいるのです。...それでは、彼らにとってこの真理とは一体何なのでしょうか? それは、第二バチカン公会議の真理、公会議後の教会の真理以外の何ものでもありません。従って、バチカンにとって今日存在している唯一の真理とは、公会議の真理、公会議の精神、アシジの精神である事は明らかです。これが今日の真理なのです。しかしこのようなことは、私たちとは何の関係もありません!だからこそ、聖伝を無に帰し、第二バチカン公会議の精神とアシジの精神とに世界を引き込もうとする現在のローマ当局の強い意志を考えた上で、私たちは身を退かせ、このまま続行することは出来ない、という事を選んだのです。続けることは不可能です。私たちは間違いなく当局者たち…公会議の精神とアシジの精神と引き吊り込もうと望んでいる人々の手に自らを委ねていたでした。これは単純に不可能でした。…ですから私は教皇様に手紙を書き、このようにはっきりと告げたのです。私たちは聖下と完全な一致のうちにあらねばならないという熱意にも関わらず、断じてこの精神と申し出を受諾できません。現在ローマを支配している精神、聖下が私たちに伝達するのを願っているこの新しい精神を見ると、私たちは聖伝のうちに継続すること、聖伝がローマでその地位を回復するのを待ちながら、聖伝がローマ当局者たちの中で、彼らの心の中でふたたびその地位を取り戻すのを待ちながら、聖伝を保持することを選びます」(一九八八年六月三十日、司教聖別式の説教)
ルフェーブル大司教がこの公会議の教会に反対した最も荘厳な瞬間において、"ローマを支配している公会議の精神"、"アシジの精神"…という表現によって言わんとした意図がはっきりとわかります。ローマにおいて、とは、ローマ当局者たちの心において、すなわち、カトリック教会であるローマ教会の位階制度の聖職者たちの心の中で、ということです。
ルフェーブル大司教様は常に、カトリックではないこの新しい精神に絶対的に反対しておられました。ですが、教会を腐った部分とカトリックの部分との二つに分け、カトリック教会を「眼に見える教会の一部分」のみに縮小して考えておられたことは決してありません。
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レネー神父様の「いろいろな「教会」?」という記事を日本語に訳してくださった方がおられますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この記事自体は二〇一二年に書かれたものです。ご紹介が遅れてしまいました。この文章は、ウィリアムソン司教のエレイソン・コメンツ281回への反論文です。エレイソン・コメンツは、キリストの教会を呼ぶいろいろな名前について語り、つまり「カトリック」教会、「公会議の教会」、「目に見える教会」、「公式の教会」、「主流の教会」などについて述べ、「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。」(That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot.)また、「 "公式の教会" は、四つの印に従えば、大部分が "公会議の教会" であってカトリックではない。」(Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks.)などと述べていますが、その誤りを指摘したものです。どうぞ良き四旬節をお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
いろいろな「教会」?
フランソワ・レネー神父
原文はこちら[訳注: 英語テキストより翻訳]
【※訳者より──この文章は、ウィリアムソン司教のエレイソン・コメンツ281回への反論文である。[ ]内は訳者による補足。】
実に、「カトリック教会」ということについて、多くの混乱が行き渡り、聖伝に愛着するカトリック信者たちの間にすら、危険をはらんだ概念が知れ渡っています。
このような文章があります。「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです。」
すぐに次のような疑問が湧き起こります。カトリック教会とは「眼に見える教会の中の一部分」にすぎないのか、と? そして、これはさらに次のような基本的な別の疑問へと導かれます。つまり、キリストの教会たるカトリック教会と、(それとは別の)眼に見える教会という区別をつけることは正当なことだろうか? と。
いえ、それどころか、カトリック信仰により、私たちは、キリストの教会たるカトリック教会と眼に見える教会との同一性を信仰宣言する義務があるのではないでしょうか? その通り! キリストの教会とはカトリック教会であり、この教会は眼に見えるものなのです!
ルフェーブル大司教様はこの信仰のドグマにしっかりとしがみついていたので、ルフェーブル大司教様は教皇聖座空位論者の立場を常に拒絶し続けたのです。何故なら、聖座空位論は、位階制度の絆を全て失い、位階制度をもはや持たなくなるのですから、実質的に眼に見えない(invisible)教会へと、論理的に導くからです。
確かに、前述した引用文を書いた者は、カトリック教会は四つのしるしによって識別できると断言しています。しかし、これら四つのしるしが「眼に見える教会の一部」のみに属していると、著者は読者を理解させようとしています。ですから「キリストの教会=カトリック教会」という最初の等号を疑っているのではなく、二番目の「カトリック教会=目に見える教会」の等号を疑っていることになります。
このような断言が大変危険であるのは、カトリック教会の境界線が、実質的に眼に見えないものになってしまうからです。
この著者は、カトリック教会が眼に見えるものだとは以下のように書いて断言すれば充分だと考えています。「ですが、"カトリック教会は眼に見えるものである、従って、眼に見える教会はカトリック教会である" ということは、"すべてのライオンは動物なのであるから、すべての動物はライオンである" と言うのと同じくらい馬鹿げています」と。この文章が間違っているのは「カトリック教会は眼に見えるものである」という断言のまことの意味を把握できていないことです。カトリック教会がこの真理──例えばピオ十二世のミスティチ・コルポリスにおける──を教えるとき、「属(genus)」の内部にある「種(species)」──これは動物とライオンとの間の関係──としてカトリック教会をみなしているのではありません。まるで、誰もが英国国教会、正教会、監督派教会などの信者を見ることができるようにカトリック信者を見ることができるとでもいうように、まるで眼に見える教会は一つの属であり、これはカトリック教会であるかも知れない一つの種の内部にあるとでもいうように、著者はこれ以上の意味はないと言っているかのようです。
いいえ! 「カトリック教会とは眼に見えるものである」という断言は次のような意味です。「キリストの教会は眼に見えるものであり、そしてカトリック教会とはこの教会のことである。」ピオ十二世も、他のすべてのカトリック権威者たちも、カトリック教会とは「眼に見える教会の一部分的なもの」に過ぎないなどとは決して教えてきませんでした。いいえ! キリストの完全な教会とは眼に見えるものであり、この完全体とはカトリック教会のことです。そして、人々はカトリック教会の "内部" には、善い魚と悪い魚(マテオ十三章四十八節)、善い麦と毒麦(マテオ十三章二十五節)、麦ともみがら(マテオ三章十二節)の入り交じった状態を見いだします。カトリック教会は、十一人の善き使徒たちのみで成り立っていて、ユダは腐敗して不忠実な部外者であった、などとは決して教えてきませんでした。そうです、ユダは腐っていました。しかしカトリック教会、唯一のキリストの教会の内部においてなのです。
では、公会議の教会(Conciliar Church)とは何でしょうか? この表現は、ベネリ枢機卿による造語です。すなわち、この表現は第二バチカン公会議によって導入された新奇な改革をはっきりと公言していました。ですが、これは、独自の組織、カトリック教会から分離した独自の信者たちを含む、分離した教会を指していたのでしょうか? そうではありません。この表現は、新しい精神、新しい原則を示していましたが、新しい組織も、分離した位階制度と信者たちをも示したのではありませんでした。この新しい精神は、教会内の成員たちを教会内部でそれに汚染させ、それに染まれば染まるだけそれと同じ程度に腐敗させています。これはキリストの神秘体の中のウィルスに似ています。すなわち、完全に腐敗した細胞もあれば、一部分だけが汚染された細胞もあり、少しはましなものもあれば、相当にだめになったものもある。そしてほんのわずかの細胞が腐敗を免れています。この新しい精神はカトリックではないと述べるのは真実です。これは決裂の精神、革命的な精神、教会内における一七八九年[フランス革命]です。
しかし、この新しい精神は分離した教会を作り上げているのではありません。多かれ少なかれ、カトリック教会の成員たちに影響を及ぼしています。健全な成員たちと[新しい精神に]感染した成員たちとの間の分離は、目に見えるものではありません。それは、ある成員たちが部分的に感染しているというまさにこの事実によります。これは教会内部の善と悪の区別に似ています。つまり、限界(境界線)[近代主義の感染がどの程度まで行き渡っているのかという]は、各成員たち個人の中にあります。この地上においては誰も完全ではないからです! この選別が達成されるのは、世の終わりになったときだけであり、人間の裁きによるのではなく、最高審判者、まことの天主にしてまことの人なるキリストご自身の裁きによってです。これは、感染は眼には見えないものだということではありません。邪悪な成員たちが教会内では眼に見えるように(スキャンダルは第二バチカン公会議後においては事欠きません)、この公会議の汚染もまた眼に見えるものです。特に完全に染まってしまった人々、すなわち、オーストリアの近代主義神学者たち、近代主義司祭たちの嘆願書の中に……。これらの間違った原則が、現実にエキメニュカル会議(アシジの集会、ミサの共同司式、シナゴーグへの訪問、コーランへの接吻……)で進行中なのを人々は見ています。
こういった間違った原則が分離した教会を構成しているのではなく、眼に見える教会である完全体から区別される一部分ですらないのです。
「公会議の教会はカトリック教会ではない」と述べることは、公会議の原則、公会議の精神はカトリックの諸原則、カトリックの精神ではないということを意味するなら、これは真実です。ルフェーブル大司教様のいくつかの言葉が意味するものです。ですが、りんごの食べられる部分と腐った部分との間のような分離をほのめかすなら、現実に一致していません。これは間違いです。ルフェーブル大司教様の教えに真っ向から反対しています。
目に見える教会内部において、腐敗した、「カトリック教会ではない」公会議の部分と、「一なる、聖なる、普遍の、使徒継承であるもの」のみで成り立っているカトリック的部分を区別することは、カトリック教会からその組織を取り去ることであり(実際、この上述の著者は "公式の教会は大部分、公会議の教会であり、カトリックではない" と書くのをためらいません)、カトリックのまま留まっている部分は、主イエズス・キリストがご自分の教会にお与えになった組織を奪われることになるのです! もしもそうなら、もはやキリストの教会であると認識できなくなってしまいます。従って、このような断言は信仰にとって大変危険なものです。
公会議後の危機が原因で、教会の四つのしるしは何らかの影を帯びており、教会全体の中で、四つの印は眼に見なくなっていることは真実です──例えば、いとも聖なる誓願を投げ捨てた大勢の司祭たち、修道者たちは、聖性というしるしについて、眼に見える汚点を残しました──ですからルフェーブル大司教様は、これら四つのしるしは、聖伝に愛着する平信者と司祭たちの間に、より多く見られると言うのをためらいませんでした。ですが、カトリック教会は「目に見える正常な一部分」のみであるとは、決しておっしゃいませんでした! 反対に、大司教様はカトリック教会に、教会の全体に、ご受難の間のキリストの真実をあてはめました。つまり、キリストはご受難の時には救世主であるとはまったく認識されませんでした。イザヤが預言したようにです。「彼は、人から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみになれた人。その前では顔を覆いたくなる、そんな人のように、見下され、無視された人」(イザヤ五十三章三節)近代主義の危機のゆえに、教会はみずからの受難をくぐり抜けており、カトリック教会であると見分けがつきません。ですから、ルフェーブル大司様にとって、カトリック教会とは単なる一部分ではなく全体であることは非常に明白なのです。
公会議の教会とカトリック教会との区別を間違って理解をすることにおいて、教義についての誤りを見いだします。そしてこの誤りは、一部の人々の中において、今年、二〇一二年のフェレー司教様への反対の根底にあります。事実、この著者はこのように結論づけています。「公式の教会は、広範囲に渡って公会議の教会であり、カトリックではありません」と。この結論は必然的にいかなる合法化をも拒絶するという方向へと導き出すのです。
そこで、教会内の役職にある人々が、私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会に与えた権威をもはや受け取っていない、従って善いものを受け取っていない、と思う人々もいます。──事実、主イエズス・キリストが打ち立てられたものは、間違いなく素晴らしいものです。この権威を悪用することは、権威それ自体の有益性、位階制度の秩序が持つ価値を取り除くことではありません。従って、教皇様がこの秩序の内部に聖ピオ十世会の居場所を正常化させたいなら、教皇様は善いことを望んでいるのです(秩序は善です)。──ですから、教皇様が、いかなる悪い条件もなく、そしてこの秩序が堅固であるように充分な保証とともに、それを与える限りにおいて、この善に反対して抵抗する権利を人は持っていません。
この教義の誤りの根底には、ドナトゥス派に反対した聖アウグスティノの偉大な原則に関する無知があります。すなわち、善い人々は悪人たちの邪悪に同意しない限り、教会内において邪悪な人々と交っても害を被らない、という原則です。(Breviculus collationis cum Donatistas 1: 10: "malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse") このような間違いは、教会を「カタリ派的な」概念、浄い人々の教会、公会議の腐敗によって汚染されてない教会、へ導きます。このような概念は決してカトリックではありません。
キリエ・エレイソン、主よ、あわれみ給え! このような概念に引きずられているかも知れない人々をあわれんでくださいますように。彼らに自らを正すための恩寵を与えてくださいますように。彼らがカトリック教会についての聖伝の概念へと立ち戻るための恩寵をお与えくださいますように。教会みずからが、とりわけノヴァティアノ派に反対した聖チプリアノ、ドナトゥス派に反対した聖アウグスティノ、教会の唯一性についての書物の著者であるこの二人の聖人が、初代教会の頃から教えてきたような、聖伝の概念へと立ち戻りますように!
ルフェーブル大司教様のテキストの一部が、この教えをよく説明してくれるでしょう。
「というわけで、私たちは、試練の数々にも関わらず、教会の生命にとって不可欠である司祭職養成を続けるため、皆さんの祈りと寛大さを当てにしています。私たちを攻撃するのは教会でもペトロの後継者でもありません。進歩主義の誤謬に染まった聖職者たち、教会内の要職を占め、自分たちの権力を利用する聖職者たちなのです。権力を乱用して、教会の過去を忘れさせ、カトリックとは無関係の新しい教会を打ち立てようとしています。」(一九七五年九月九日、友人と恩人への手紙九号の末尾)。
言い換えると、ルフェーブル大司教様を攻撃している人々は、間違いなく「教会の聖職者たち」「教会内の要職を占める人々」でした。彼らは「ペトロの後継者」としてではなく、むしろ「進歩主義の誤謬に染まった者」として、聖ピオ十世会に反対して行動していたのでした。
「教会はエキュメニカルなものではなく、ましてやリベラルでエキュメニカルなものでもありません。教会は宣教的です。これは、私がセペール枢機卿への手紙で、繰り返し繰り返し述べたことです。枢機卿は、私たちの従順、私たちの教皇様への服従といった事柄について、事細かい事項を求めてきたからです。私はもっと高いところから事を検討する必要があると思います。なぜなら、私たちが教皇様とローマ聖省に完全に"従順"できない深くかつ高尚な理由があるからです。これらはきわめて重要な理由です。それは、教会のまったく新しい方向性、もはやカトリックではない方針、カトリック教会の方針ではない方針のためです。宣教的である教会とエキュメニカルな教会との間には非常に重大な違いがあります。宣教的である教会は、真理を伝える教会で、自分自身のうちに真理を所有していることを知り、他者を改心させるために真理をもたらす教会です。この教会の目的は改心です。その一方で、エキュメニズムの目的は誤謬の中に真理を見つけること、実質的には、誤謬のレベルに自分を合わせ、完全な真理を誤謬のレベルに合わせ、従って誤謬に迎合することです。これは絶対的に考えることができないことです。これはカトリック教会の真理の破壊です。私たちはこんなことに同意できません。今、彼らは神学校の廃止処分や聖ピオ十世会の廃止によって、私たちに課した罰則によって、すべての改革を、改革者たちが私たちに受け入れるよう望んでいることを押しつけようとしています。彼らの目的、その意向は、相変わらず、公会議が成し遂げたこと、公会議後に成されたすべてのことを私たちに受け入れさせることです。エキュメニズムのゆえに、この新しい公会議の教会はカトリック教会ではありません。エキュメニズムは、誤謬を真理に対するのと同じ尊敬をもって見るのです。つまり、誤謬のうちにいるあなたは、真理のうちにいる人々と同じほど価値がある、ということなのです(一九七八年三月十三日、エコンでの霊的講話)。」
ルフェーブル大司教様は、「この新しい公会議の教会」と言う言葉で理解していたことは、まさしく「教会のまったく新しい方向性」を指し、分離した組織ではないと、ここで二つのアンダーラインを引いた文章がわかりやすく示しています。
「聖主イエズス・キリストの御生命は、公会議後の教会の至る所で消えつつあります。彼らはカトリックの道ではない道に従っています。つまり彼らは単に棄教に進んでいるのです。...それでは、彼らにとってこの真理とは一体何なのでしょうか? それは、第二バチカン公会議の真理、公会議後の教会の真理以外の何ものでもありません。従って、バチカンにとって今日存在している唯一の真理とは、公会議の真理、公会議の精神、アシジの精神である事は明らかです。これが今日の真理なのです。しかしこのようなことは、私たちとは何の関係もありません!だからこそ、聖伝を無に帰し、第二バチカン公会議の精神とアシジの精神とに世界を引き込もうとする現在のローマ当局の強い意志を考えた上で、私たちは身を退かせ、このまま続行することは出来ない、という事を選んだのです。続けることは不可能です。私たちは間違いなく当局者たち…公会議の精神とアシジの精神と引き吊り込もうと望んでいる人々の手に自らを委ねていたでした。これは単純に不可能でした。…ですから私は教皇様に手紙を書き、このようにはっきりと告げたのです。私たちは聖下と完全な一致のうちにあらねばならないという熱意にも関わらず、断じてこの精神と申し出を受諾できません。現在ローマを支配している精神、聖下が私たちに伝達するのを願っているこの新しい精神を見ると、私たちは聖伝のうちに継続すること、聖伝がローマでその地位を回復するのを待ちながら、聖伝がローマ当局者たちの中で、彼らの心の中でふたたびその地位を取り戻すのを待ちながら、聖伝を保持することを選びます」(一九八八年六月三十日、司教聖別式の説教)
ルフェーブル大司教がこの公会議の教会に反対した最も荘厳な瞬間において、"ローマを支配している公会議の精神"、"アシジの精神"…という表現によって言わんとした意図がはっきりとわかります。ローマにおいて、とは、ローマ当局者たちの心において、すなわち、カトリック教会であるローマ教会の位階制度の聖職者たちの心の中で、ということです。
ルフェーブル大司教様は常に、カトリックではないこの新しい精神に絶対的に反対しておられました。ですが、教会を腐った部分とカトリックの部分との二つに分け、カトリック教会を「眼に見える教会の一部分」のみに縮小して考えておられたことは決してありません。
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