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「ルターの誤謬について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「ルターの誤謬について」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年11月12日 大阪の説教
ルターの誤謬について
親愛なる兄弟の皆さん、

11月は、煉獄の霊魂のために祈るよう、特に捧げられています。実際、煉獄が存在するということは、信仰の教義です。煉獄には、成聖の恩寵の状態で死んでも、まだ意識した小罪がある霊魂、あるいは過去の罪のせいでまだ残っている有限の罰を受けるべき霊魂が行くのです。そのような霊魂は直接天国に行かず、煉獄で清められなければなりません。

さて、この教義、そしてほかの多くの教義を、それらが聖書および最も古くからの聖伝が教えているにもかかわらず、ルターとプロテスタントの人々は否定します。このルターの反逆の500周年を記念すること、特にこの[カトリック教会とルーテル教会との]「共同記念」は、霊魂に多くの害を与えます。

私は最近、聖ヨハネ・クリゾストモスの美しい説教を読んでいました。その中で彼は、御父と御子が等しいことを信じない異端者たちを論駁しています。彼は、大きな愛情をもって言います。彼がその誤謬を非難し、彼らに反駁するのは、異端によって欺かれているそれらの霊魂たちに対する愛からであると。実際、私たちがまことに隣人を愛し、隣人の霊魂が誤謬によって闇に覆われ、罪によって傷つけられ、地獄へ至る道にいるのを見て、いかにして無関心でいられるでしょうか? 非常に多くの霊魂たちが、そんな誤謬によって欺かれ、私たちの主イエズス・キリストの光から全く遠ざかっているのを見て、私たちの心は痛みます。私たちは罪びとを愛しますが、罪が罪びとを大変傷つけるがゆえに、罪を憎みます。私たちは天主によって創られた人間を愛しますが、人間によってなされる罪を憎みます。私たちは永遠の幸せを求めているがゆえに、彼らがカトリック信仰という真理を見いだし、それによって私たちの主イエズス・キリストのいのちに、永遠のいのちにまであずかれるよう助けたいと思っています。

プロテスタントは、カトリックとプロテスタントの間にある主要な問題は福音書である、と主張しています。彼らは福音書が最初にあったとしており、「教会は福音書の創造物である」と主張していますが、カトリック教会は、教会が最初にあって「福音書は教会のふところの中で出来上がった」と教えています。さて、福音書自体が、私たちの主イエズス・キリストが彼の教会を創立され、また主がそれを地上に生きておられた間になさったという事実を証言しています。しかし、福音書は、聖マテオ福音書ではやっとその15年後、聖ヨハネ福音書ではそのやっと60年後に書かれました。このように、教会が福音書に先立っていたことと、それゆえに教会は福音書の創造物ではあり得なかったことは明らかです。

さらに、福音という言葉を、書かれた言葉としてではなく、福音を説教することという意味で理解したとしても、聖パウロによれば、教会が最初になければなりません。実際、聖パウロはこう言います。「まだ聞かなかった者をどうして信じられよう。宣教する者がなければどうして聞けよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『平和の便り[福音]を宣教する者、よきことの知らせをもたらす者の足はいかに美しいことか』と書き記されている」(ローマ10章14-15節)。さて、私たちの主イエズス・キリストが使徒たちを遣わされ、今度は使徒たちがその後継者たちと彼らの助け手である司祭たちを遣わしました。ですから、宣教者たち自身が使徒たちの後継者たち、すなわちこうして福音の宣教より前から存在したカトリック教会の権威者によって遣わされなかったならば、福音が宣教されることはあり得なかったということは明らかです。福音のまことの役務者はカトリック教会によって遣わされるのであり、自らを任命したプロテスタントの牧師、あるいは使徒たちの後継者たちによってではなく人々によって選ばれた牧師では決してないのです。

ここも、他の多くの場合のように、聖書自体が、プロテスタント主義の基本的原則そのものが偽りであるという事実を証言しています! 彼らは、福音書が教会の権威より上にあると教えていますが、これは偽りです。福音書は教会の教えの一部であって、教会は福音書以前から存在し、教会の中における聖霊の働きによって、教会が福音書を生み出したのです。ここで気を付けたいのは、他の多くの真理と同じように、教会と童貞聖マリアの間には似ているところがあることです。

福音書を教会から取り去ってしまうことは、福音書をまさにその母親から取り上げてしまうことです。それは、文字を得て霊を失うことです。もう一度、聖パウロを引用すると、彼は、「文字は殺し、霊は生かす」(コリント後書3章6節)と教えています。その後、ルターと彼に続くすべてのプロテスタントによって提示された解釈が聖書のまことの意味から離れ去ってしまったこと、また多くの箇所において聖書の文字それ自体にはっきりと明確に反していることは、驚きではありません。

最もはっきりとした実例を一つだけ挙げましょう。ルターは信仰のみによる義化を主張します。そしてすべてのプロテスタントが、これはまた彼らにとっても基本的原則であることに同意することでしょう。さて、聖書は信仰による義化を教えていますが、信仰のみによるのではありません。聖書は、実に平易にはっきりとこう言っています。「たとい私が預言の賜物を持ち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前書13章2節)。愛のない信仰のみの価値、それは無なのです!

また主御自らこう言われました。「その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章22-23節)。ですから、彼らは「山を動かすほどの信仰」を持っていましたが、悪の行いのせいで彼らは拒否されました。善き行いのない信仰のみでは、彼らは救われることができなかったのです。

ルターの誤謬、それはむしろ異端ですが、その根本には、人間が行うことは何であれ腐敗しており、それゆえに人間は自分の救いに協力してできるであろうことは何もない、という思想があります。ルターはさらに進んで、義化のあとでさえ人間は腐敗したままであり、それゆえに「善き行い」をすることはできず、そのため善き行いをする必要はない、とまで言います。人間はただイエズス・キリストの功徳に信頼しなければならないのであり、自分の功徳を持つことは決してできない、と主張するのです。そのような悲観的な考え方は、聖書に反しており、また不合理です。それは、罪が害をもたらしたものを天主が癒やし、かつ回復させることができないと言い張るのと同じです! 恩寵のみの力を高めるということを口実にして、ルターは実際には恩寵を破壊します。ルターによれば、恩寵は人間の本性を罪から癒やすことはできません。聖パウロが次のように書いていることとはいかに対照的でしょうか。「あなたたちの中にもそんな人[大いなる罪びと]があったが、主イエズス・キリストの御名により、私たちの天主の霊によって自分を洗い、そして聖とされ、そして義とされた」(コリント前書6章11節)。全く明らかです。あなたたちは大いなる罪びとでしたが、もはや違います。今やあなたたちは「キリスト・イエズスにおいて天主のために生き」(ローマ6章11節)ているのです。また、聖ペトロも非常にはっきりと言います。キリストは「そのお体に私たちの罪を背負って木につけられた。それは私たちを罪に死なせ、正義に生きさせるためである。あなたたちはその打ち傷によって癒やされた」(ペトロ前書2章24節)。まことに癒やされ、もう腐敗してはいません。

うわべの外面的でしかない義化と隠されるだけで消されることのない罪、このルターの考えは、聖パウロの教理に完全に反しています。聖パウロにとって、罪は葬られ、終わり、もはや存在していないのです! ルターは、洗礼が私たちを天主の法から自由にし、その結果、人はもはや天主の法に従う義務はないと言い張っています。それは全く不合理です! 洗礼は、罪から、悪魔の支配から自由にしますが、天主から、天主の法から自由にするのではありません。洗礼が行うことは、私たちを天主の友に、天主を愛しそれゆえに天主の法を愛する友にすることです。ですから、この天主の法は、もはや重荷ではなく友であり、光であるのです。「lex lux―法は光である」(箴言6章23節)。これは、私たちが重荷の下にいるように「法の下に」いるのではなく、法の友として「法とともに」いる、また法に従うがゆえに「法の中に」さえいる、という意味で言っています(コリント前書9章21節参照)。天主の法それ自体から自由になりたいと思う者は、そのことによって、自分が天主と同意せず、天主が愛するものを愛さず、それゆえに天主の友ではないということを証明しています。

さらにまた、ルターを擁護しようとして、あらゆる種類の奇妙な議論をしてくるプロテスタントの牧師がいます。例えばマレーシアで、彼らのうちの一人はこう言いました。「天主と人間の結合および霊的交流の間に立つものはなにもありえない。例えば法に従った自由意志など」。彼はいったいどこで、「法に従った自由意志」がまるで障害物であるかのように「天主と人間の結合および霊的交流の間に立つ」という考えを得たのでしょうか? 天主の法に従った自由意志とは、天主への愛以外の何物でもありません。聖パウロはこう言います。「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。天主への愛が、まるでその結合の障害物であるかのように「間に立つ」とは、何と奇妙な考えでしょうか!!! 本当に不合理な考えであり、愛のことを「完徳のかなめ」(コロサイ3章14節)と呼ぶ聖書に反しています。ですから、天主と人間の結合の間に立つ障害物などでは全くなく、愛は私たちを天主と結合させるまさにかなめなのです! それゆえに、聖パウロはこう結論付けます。「なぜなら、キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)。これがカトリックの教理、カトリックの信仰であり、救いのために必要不可欠です。

さらにもう一点言うべきことがあります。教会の宝はミサの聖なる犠牲です。これは、私たちの主イエズス・キリストが主の神秘的浄配である教会に与えてくださった本当に最も貴重な賜物であり、主は、秘蹟の外観のもとで本当に現存し捧げられる自分自身以上の素晴らしい賜物を与えることはおできになりませんでした。これこそが、諸聖人が愛し大切にしたものです。これこそが、すべての恩寵の源です。でもルターはそれを失い、それを拒否し、聖なるミサに対して恐るべき冒涜の言葉を投げかけることさえしました。さて、もし私たちがルターによって欺かれたこれらのあわれな人々を愛しているならば、私たちは、この貴重な宝を彼らと分かち合いたいと思うのです。私たちがこの宝を与えれば与えるほど、私たちはそれをもっと得るのです。この宝は無尽蔵なのです!

ですから、親愛なる兄弟の皆さん、プロテスタントの人々の回心のために祈りましょう。彼らが唯一のまことの信仰、使徒たちと教父たちの信仰、聖人たちの信仰を喜んで受け入れ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってその信仰を実践することによって、聖なるミサというこの最も貴重な宝にあずかり、天の国にまで到達し、聖母と諸聖人とともに永遠に生きることができますように。アーメン。

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