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「聖マルティノと祈りの諸段階」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「聖マルティノと祈りの諸段階」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年11月12日 大阪の霊的講話
聖マルティノと祈りの諸段階
親愛なる兄弟の皆さん、

11月11日は、四世紀のフランスのトゥールの司教だった聖マルティノの祝日です。彼は、若いころローマの兵士でした。まだ求道者で18歳ぐらいだったとき、アミアン(パリの北西にある市)で着るもののない貧しい人に出会いました。そこで、彼は自分の着ていた兵士用の大きなマントを二つに切り分け、半分をその貧しい人に与えました。その夜、私たちの主イエズス・キリストが、マルティノが与えたマントの半分を着て彼に現れ、こう言われました。「マルティノは、まだ求道者であるにもかかわらず、自分のマントで私を覆ってくれた」。マルティノは、自分がまだ求道者でしかないことを主が悲しんでおられるのをすぐに悟り、それ以上遅れることなくすぐに洗礼を受けました。

その後、彼は聖性への大きな望みを抱いて、有名な教会博士である聖ヒラリウスからさらに多くのことを学ぶためにポワティエへ行き、侍祭となりました。そしてポワティエからそう遠くないところに修道院を創立し、そこで彼は高い段階の聖性に到達したのです。のちに彼はポワティエから少し北にあるトゥールの司教となり、近くに別の修道院を建て、多くの人が異教のままだったこの地方を福音化しました。こうして彼はこの地方から異教を根こそぎにし、多くの人の啓発に大きな影響を与えたのです。

何が彼を聖人にしたのでしょうか? それは、非常に深い祈りの生活です! すべての聖人は祈りの人でした。すべての聖人は好んで祈りに長時間を費やしました。彼らは天主に渇き、その渇きを祈りで表現し、満たされたのです! 私たちはみな、私たちも彼らが祈ったように祈れるようになりたいと考えているに違いないと思いますが、しかし、私たちの祈りはすぐに干上がってしまいます。「主よ、私たちに祈りを教えてください」(ルカ11章1節)。

聖マルティノの生涯に見られるように、祈るためには、私たちが教会の教理を知り、カテキズムを知る必要があります。聖マルティノは、聖ヒラリウスから学ぶためにポワティエに行きました。同様に、聖ベネディクトは、その後何世紀にもわたって彼に続いた非常に多くの聖なる修道士たちの偉大なる師でしたが、祈りの第一段階を「lectio divina―聖なる読書」としています。私たちが福音書や聖書、聖人の著作、聖人伝や他の認可された信心深い著者による本のような聖なる書物を読むこと、これが黙想する読書です。しかし、私たちは、そのような書物を小説を読むように速く読んだり、新聞を読むように拾い読みしたり、科学的な書物を読むように勉強するために読んだりするのでさえもありません。私たちは、聖書の中や聖人や聖なる著者を通して、カトリック教会によって教えられた天主の真理で私たちの精神を養うために、黙想しながら読むのです。「人はパンだけで生きるのではない。天主の口から出るすべての言葉によって生きる」(マテオ4章4節)。

皆さんが聖人たちの著作を読むとき、ここを少しだけ読んで、またあそこを別に少しだけ読むといったことをすべきではありません。むしろ、聖人たちの本を最初から最後まで通して読むべきです。それは、皆さんが聖人たちの精神に入り込むために、そして皆さんが、彼らの考えたように考え、彼らの愛したように愛するのが自然になるほど、聖人たちの考え方に習熟するためです。友となるということは、同じ考えを共有し、また同じ真理を支持するだけでなく、同じ真理に対する同じ取り組み方さえして、同じ方法で同じ真理を愛するということです。この読書の目標は、皆さんを聖人たちの友とし、そうすることで、聖人たちの精神が皆さんの中に住むようになり、最後にはイエズスの霊が聖人たちの中に住んでいたように皆さんの中に住む段階に達するためです。「天主の霊によって導かれている人はすべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

時にはプロテスタントの牧師たちが、皆さんに聖アウグスティノや他の教父の引用句を、それがまるでカトリック教会に反対するものであるかのように示すことがあるでしょう。しかし、そんなカトリック教会に反対する見解は、それらの教父たちの精神からあまりにも遠く隔たっているため、そのような牧師が教父たちの引用句を悪用しているのを知れば彼らは顔色を失うことでしょう。これらの聖人たちは常に喜んで自分の考えを正し、カトリック教会の信仰に従順でした。しかし、先に説明した方法によって私たちが真に聖人たちの考え方に入っていくならば、引用句が良く使われているか、それとも文脈から離れて取られているのかは、すぐに分かります。

このように、黙想する読書は祈りの第一段階に過ぎません。これは、一つあるいは二つの真理を取り上げてその真理をある系統的な方法で黙想するという、いわゆる黙想へと導くものです。聖イグナチオは何種類かの黙想の方法を説明しています。黙想の対象に対して自分の記憶、知性、意志を使う方法。あるいは、福音書の一場面を黙想するために五感を使う方法。あるいは、信仰、希望、愛という三つの徳を使う方法などです。このように多くの方法があり、また開始の際の準備や終了の際の対話のような追加点もあります。このすべてが、良き黙想のために役立ちます。

黙想は、牛が食べ物を噛み砕くことに例えられます。最初に、牛は草を噛み、その草は第一の胃(ミノ)に入ります。その後、牛は横になって草を口に戻し、再び噛み砕いたのちに第二の胃(ハチノス)に送り出します。その結果、牛は食べた食べ物の価値を最大限に活用するのです。馬のような反芻しない他の動物は、食べた物の栄養価値の一部しか使っていません。同様に、黙想は私たちに、私たちがカテキズムで学んだ真理の価値を最大限に活用させるのです。毎日の黙想のためには、一定の決まった時間を確保しておくことが勧められ、それは早朝が好ましいのです。

黙想の実は、天主への愛および霊的なものへの愛が大きく増すことです。実際、聖グレゴリオは、物質的なものは通常、それを持たない人々を引き付ける傾向があるが、物質的なものを所有することはしばしば、退屈や嫌気をもたらす、と指摘しています。こういう訳で、貪欲な人々がいつももっとお金を欲しがるのです。彼らは自分が持っているものでは決して満足しません。それと反対に、霊的なものは簡単に無視され、それを持たない人々を引き付けない傾向があります。しかし、霊的なものを味わったことのある人々に対しては、退屈がないどころか、むしろ大きな愛にとともにもっともっと霊的なものを求める渇望を伴う大きな喜びをもたらすものなのです。

ですから、黙想ができるようになると、それは、天主への愛、私たちの主イエズス・キリストへの愛、聖母と聖人たちへの愛をもっともっと実践することになります。この愛の対話が黙想のより大きな部分を占めるようになります。これは良きもので、徳の実践に本当の改善をもたらすはずです。生活は精神に適合しなければなりません。朝の主への祈りで、心を尽くしすべてに超えて主を愛します、と唱えながら、そのあと一日中主を全く無視し、さらには主に対して罪を犯すことなどできません! もしそんなことが起こるなら、朝の祈りそのものにうそを入れることになってしまい、そのうそはすべてを台無しにしてしまいます。

このレベルになると、さらに高い段階を熱心に望むべきです。なぜなら、天主は純粋に霊的でありかつ単純ですが、黙想におけるイメージや感覚的諸側面の物質性、黙想の多様さと複雑さは天主よりはるかに低く、天主より無限に低いのですから。それゆえに、このような低級な手段を捨てて、信仰の諸真理によって私たちの主イエズス・キリストのみわざに心を開くべきです。私たちの精神を、より高い段階の祈りに本当に揚げる信仰は、真に素朴なものです。天主が話され、私たちは天主が言われたことを信じる、ということです。これは素朴ですが、霊魂を信仰の岩の上に据えるのです。

このレベルになると、祈りは観想になります。天主を求める大きな渇きを持ち、天主のみわざに対して自分の精神を完全に明け渡し、信仰の諸真理に素朴な愛する眼差しを注ぐことです。すると、私たちの主イエズス・キリストが引き受けてくださいます。それについて、聖パウロが言います。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。

ですから、祈りは信仰、希望、愛の徳、私たちを聖三位一体と一つにするこの三つの対神徳を実践することです。天主は至高の真理であられるがゆえに、私たちの祈りは、まことの信仰、カトリック信仰に根差しているのが最も欠かせない本質的なことです。それゆえに、黙想と観想においてさえも、霊的な読書を続けることが重要です。この読書は、私たちの霊魂をこれらの信仰の真理で養い、私たちに聖人たちの模範を示してくれるからです。

すべての祈りの中で最大にして最高のものは、ミサの聖なる犠牲であり、そこでは私たちの主イエズス・キリストご自身が十字架上で御父に御自らの祈りを捧げられます。実際、カルワリオの犠牲は人類の歴史全体の頂点です。旧約においては、すべてはそれを準備し、それを待ち望んでいます。それは、旧約の礼拝において、多くの方法で表されていました。旧約の聖人たちは、天主の小羊であるメシアの到来を熱心に待ち望んでいました。「主よ、地のかしらに小羊を送り給え、荒れ地の道を通って、シオンの娘の山に送り給え」(イザヤ16章1節)。この山がカルワリオの山なのです!

私たちの主イエズス・キリストは十字架上で、礼拝、感謝、罪の償い、懇願という最高の祈りを捧げられました。それは、聖三位一体を礼拝し、人類を罪から贖い、私たちを地獄から救い、そして私たちが天主の子となるという天主の最も美しい賜物を私たちに与えてくださる、という最高のみわざでした。ですから、聖ペトロはこう書いています。「それによって私たちに尊い偉大な約束を与えられた。それは、欲情が世の中に生んだ腐敗からあなたたちを救い上げ、天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。

「私は地上から上げられて、すべての人を私のもとに引き寄せる(主がこう言われたのは、ご自分がどんな死に方をするかを示されるためであった)」(ヨハネ12章32-33節)。ミサにおいて、主は十字架上のご自分に私たちを引き寄せられますが、それは、十字架につけられた主と一つになることによって、私たちが光栄を受けられた主と一つになるためです。実際、聖パウロはこう言います。「霊御自ら私たちの霊とともに、私たちが天主の子であることを証明してくださる。私たちが子であるのなら世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。

これこそが、変容による一致、天国への究極の準備である最高の祈りです。「彼が現れるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章2-3節)。十字架の下にたたずみ給うた童貞聖マリアが、私たちにどう祈るべきか、特にミサでどう祈るべきかを教えてくださり、その結果、私たちが天国へ行くことができますように。アーメン!

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