聖母小黙想会【その4】 2017年8月12日(土)童貞聖クララのミサ
小野田神父 説教
聖母の小黙想会にようこそ。今日は2017年8月12日、童貞聖クララのミサを捧げています。小黙想会の第2日をお捧げ致しましょう。
「夜中に叫び声がした、『花婿が来た。』さぁ、主キリストを迎えに出よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、ではファチマの巡礼の準備の為に、特にファチマのマリア様の御出現、私たちに対するメッセージを一緒に黙想致しましょう。昨日は準備段階として天使の、3回の天使の出現について黙想しました。今日はマリア様のお言葉を黙想致しましょう。
最初の最初から、5月13日、1917年5月13日、マリア様は私たちに、私たちの究極の目的を示しています。私たちが一体どこに向かっているのか、何の為に生きているのか、という事を教えて下さっています。
マリア様はルチアの幼い、しかし非常に聖霊のインスピレーションした質問に対して、はっきりと答えます。
「あなた様は一体、どこからいらっしゃったのですか?」
「私は天からの者です。」
今日このマリア様のお言葉を、5月13日のお言葉を黙想して、そして私たちがこの究極には、天国に行かなければならないという事を再確認致しましょう。そして今日聖女クララは私たちにその模範を示しています。今この世は、一体私たちに何を教えているかをそれから黙想します。そして天からの者であるマリア様、ファチマのマリア様が私たちに何を求めているか、何を私たちは、ファチマのマリア様に何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
「あなた様は一体どこからいらしましたか?」とルチアが聞くと、マリア様は「どこそこから来た」とは言わずに、「私は天国からの者です」「天国の者です」「天国にある者です」「天国に属する者です」と仰いました。マリア様の非常に美しい、光に輝いたお姿を見たルチアは、その「天国からの者」というマリア様の仰る意味がよく分かったに違いありません。
マリア様が「私は天国からの者です」と言った時にちょうど、「天に在す我らの父よ」と、私たちが「祈る時に、こうお祈りなさい」と教えて下さったイエズス様の言葉を思い出します。天には私たちの御父が在すけれども、天国には私たちの母が在す。そしてその天国からの母が、私たちに直接いらして下さったという事です。
昨日私たちが黙想したところによると、天使は私たちに、被造物として天主様に対してどのような態度を取らなければならないかを教えてくれました。それは祈りの態度であって、礼拝の態度でした。私たちをはるかに超える高貴な存在である天使でさえ、跪いて額ずいて、「『天主を信じ、礼拝し、希望し、愛する』という事をしなさい」と私たちに教えてくれました。
天主の絶対的な優位性、私たちが天主に全く服従しなければならない事、礼拝しなければならない事、私たちが主の下にあるという事を認めなければならない事を教えてくれました。主の栄光と、讃美と、その御稜威に対して、私たちが自分自身を従わさなければならない事を教えてくれました。
それと同時に、天主に自らを従わせない人々がいるという事、天主に反乱を起こしている人々がいる、天主を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、天主を愛さない人々、そして彼らの為に私たちは赦しを求めなければならない、償いを果たさなければならない、という事を教えてくれました。
そして天使と人類の元后である、天地の元后である聖母マリア様が、天使よりはるかに神々しく、はるかに美しく、はるかに威厳をもって、はるかに聖なるものとして、子供たちにお現れになりました、「私は天からの者です。」
ルチアはそのあまりにも美しい姿を見て、こう単純に尋ねます、「私は天国に行く事ができますか?私は行きますか?」「はい、行きます。」
私たちも、ファチマのマリア様の御出現を黙想する限り、ファチマのマリア様にこう申し上げなければなりません、「私は天国に行きますか?」
私は天国に行かなければなりません。天主を得る事こそ、天国に行く事こそ、私たちが生まれてきたその目的です。天主を知り、天主を信じ、天主を礼拝し、天主に希望し、天主を愛し、そうする事によって天国に霊魂を救う、救霊の恵みを得る、これこそ、この為にこそ、私たちはこの地上に生まれてきました。
イエズス様は言います、「人は二人の主人に仕える事ができない。一人を軽蔑して一人を愛するか、どちらか一つだ。」
聖パウロは言います、「この地上のものを愛している人々、彼らは自分の腹を神々としている。」
私たちは究極の目的を選ばなければなりません。
では天国に行く、天主様を得るというのはどういう事なのでしょうか?
天国に行く、究極の、私たちの人生の最高の究極の目的を果たすという事は、私たちがもうこれ以上、もう望む事ができないほど望みが満たされて、全て何もかも満たされて、もうこれ以上何も、これ以上望む事はないというほど完全に満たされて、完成させられて、そしてもうこれで本当に満足で、幸せだ、自分はこれでもう完壁に完全に善を得たという事です。そのような状態です。
人間は全ての人は、自分に足りないところを得ようとして、それを欲求します。そしてそれが得れば、私たちは満足して幸せになりますけれども、究極にもうこれ以上、もうこれを得た後にはもうこれ以上得るものはない、これでもう最高度に完成させられた、というそれが私たちの究極の目的であり、至福です。
一体何が私たちをして、それほど完全に満足させてくれるでしょうか?この地上のものでしょうか?食べ物とか地上の自然の財産とか富でしょうか?何か人間に役立つものでしょうか?確かにそれは人間の役立つものはありますけれども、人間はこの地上のものを得ても得ても、更にもっと欲しい、もっと望むようになります。あるいは望んだものを得たとしたら、もうそれで嫌だ、嫌になってしまう時もあります。この地上のものが人間を最高度に、もうこれ以上、もういらない、というほど満足させる事はあり得ません。
お金についても、貨幣についても同じです。これは更に程度の低いもので、人間に必要なものを得る交換の手段でしかないからです。交換の便宜にしかすぎないからです。ですから富とか、地上の物質的なものが人間を最高度に幸せにする事はあり得ません。
名誉はどうでしょうか?名誉も人間を幸せにする事はできません。何か人間が素晴らしいものを持っているが故に、そのしるしとして名誉が与えられますけれども、その何かすばらしい幸福の元となるものこそが、私たちを幸せにするのですから、そのしるしが幸せにするのではありません。私たちを完成させるのではありません。
私たちが何か権力を持っていたらどうだろう?この地上の権力を持っていたらどうだろう?権力というのは、何かを使って、何かをする事ができるという事ですが、何かの始まりにしかすぎません。しかし私たちが幸せであるというのは、完成させられて、終わりに、到達された目的ですから、権力があるからといって、だから幸福であるのではありません。また権力というのは、善にも悪にも使う事ができますが、私たちの幸せというのは、単なる純粋に最高の善でしかないからです。悪はあり得ないからです。
では色々調べてみると、この地上のものは、物体的なものも、名誉的なものも、力も、或いは私たちの体の健康も、あるいは体の快楽や楽しみも、あるいは霊魂の何らかの善に至っても、究極的には私たちを完全に完壁に、もうこれ以上望む事がないほど満足させるものはありません。被造のものは私たちを満足し尽くす事はできないからです。時においても、限度においても、あまりにも限りがあるからです。私たちはしかも、永遠の無限の幸せを、果てる事のない幸せを、完成を願っているからです。
カトリックの教えは、そしてファチマのマリア様は、私たちにこの事を教えています、「マリア様は天国から来た。そして私たちもマリア様のいらっしゃる天国に行かなければならない。それこそが究極の目的であって、天主を永遠に得る、それこそが私たちの生きている目的である。」
聖クララを見て下さい。アシジの豪富の、非常に高貴な公爵の長女として生まれたお嬢様でした。幼い時から可愛がられて、愛情をかけて育てられて、いつもおいしい物を、デリケートな物を、最高の物を食べさせてもらって、服も非常に美しい、高価な生地で出来たきれいなドレスを着て、そして何でも自分の望む事もできる、そのようなお嬢様でした。教育を受け、召使いもあり、婢女たちもたくさん付いて、お付きの者も付いて、何でも思い通りに自由にする事ができるお嬢様でした。
この少女が、知恵と、力と、霊魂の高い望みに従って、アシジの聖フランシスコを見た時に、「この自分の霊魂を本当に幸せにする事ができるのは、この地上のものではない」という事をすぐに悟りました。「私もフランシスコに倣って、清貧と貞潔と従順の道を歩みたい。この地上のものをイエズス様の為に全て捧げたい。」そして聖フランシスコの元に行って、自分の髪を切ってもらいました。
家族は一生懸命、この自分の長女を、愛する娘を、何とかこの世俗の元に引き寄せようと、「さぁ、地上の宝はこんなに面白おかしいよ。おいしい食べ物はこんなにあるよ。さぁ結婚相手はこんなに高貴な人だよ、こんなに優しい人だよ。」
聖クララは全く見向きもしませんでした。それよりもイエズス・キリストのもとで、天国の為に、霊魂の救霊の為に、イエズス・キリストを愛するが為に、十字架に付けられたイエズス・キリストを花婿として受ける為に、粗末な服を着て、寝るのも床に寝て、食べる物もパンと水で、しかも1年には2回四旬節をやって、清貧に、謙遜に、生活する事を望んだのでした。
そしてそのような高い理想を求める女性たちの修道院長と選ばれたのですけれども、聖フランシスコが「お願いだから」と懇願して、ようやくその責任を取ったにすぎませんでした。
長い間、病にも苦しめられました。一人で起きる事ができないほど体は傷んでいました。それでも介護をされながら起きて、それでも手仕事をして、奉仕をしていました。祈り、償いの苦行をし、共同生活をして、あの高貴な豪富の家庭に生まれたお嬢様とは思えられないほど、単純な清貧の生活を送りました。
聖クララはあまりにも聖徳に、イエズス・キリストの御旨に適った生活をしていたので、奇跡もたくさん行われました。ある精神を患った人を、狂気を正気に戻したりとか、あるいはある時イスラム教徒がアシジを包囲して、「これからイスラム国を作る。キリスト教の男女は全て奴隷にして、(私たちが今口で言う事ができないほどの)事をする!コーランを信じるか、あるいは剣を受けるか殺されるか、あるいは奴隷となるか!」今でもなされていると同じような事を、昔からやってきました。
そのイスラム教徒たちが、アシジの城壁を登って攻め入れようとして来たその時に、姉妹に助けられて聖クララは御聖体の入っている入れ物チボリウムを持って、自分で持って、そして窓の方に行き、イスラム教徒たちのいる所に向かってイエズス様にお祈りします、「主よ、私たちが野獣に食べられないように、どうぞ早く助けに来て下さい。私たちがこのまま滅びるのを見捨てないで下さい。」
すると、ある一部は突然逃げ出し、壁に登っていた人たちは突然目をくらまされて落ちて、そのまま登る事ができなくなる等、アシジの街を奇跡的に守ったりしました。
聖クララの人生は私たちに、「この地上で最も大切なのは、永遠の命を受ける事だ。天主の元に帰る事だ。天国に行く事だ」と教えています。
この地上では今、何を教えているでしょうか?ところが今21世紀の現代、私たちの周りにあるものは、私たちの目で見、聞く事は、そうではなくて、天上の事を全く忘れさせようとする事です。この地上の事しか、「地上の事を面白おかしくする事だけが大切だ」と。主の事を考えるのは、あたかもしてはいけないかのように、私たちの周りは教えています。
しかしファチマのマリア様はそれとその正反対です、「私は天国から来ました、天国からの者です。」
「それでは、私は天国に行く事ができますか?」
「はい、あなたは行きます。」
では、ファチマのマリア様の最初の御出現を黙想して、私たちもマリア様のお望みの通りに、「天国に行く」という大きな望みを抱きましょう。マリア様は最初に何と仰ったかというと、「恐れないで下さい。私はあなたたちに何の悪い事もしません。何の害も及ぼしません。天国からの者です。」
たとえこの地上のものが私たちを恐れさせたとしても、地上のものが私たちに害を与えたとしても、マリア様は害を与えません。このマリア様が私たちに教える事は、私たちの害ではなくて、天国への道です。恐れる事はありません。マリア様がなさる事は、私たちにとっての善と益になる事だけです。
それを今日マリア様が教えて下さっている、という事を確認致しましょう。私たちがマリア様のおられる天国へ、天国だけをいつも願う事ができますように、お祈り致しましょう。
「夜中に声があった、『花婿が来た。』主キリストを迎えに出よう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の小黙想会にようこそ。今日は2017年8月12日、童貞聖クララのミサを捧げています。小黙想会の第2日をお捧げ致しましょう。
「夜中に叫び声がした、『花婿が来た。』さぁ、主キリストを迎えに出よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、ではファチマの巡礼の準備の為に、特にファチマのマリア様の御出現、私たちに対するメッセージを一緒に黙想致しましょう。昨日は準備段階として天使の、3回の天使の出現について黙想しました。今日はマリア様のお言葉を黙想致しましょう。
最初の最初から、5月13日、1917年5月13日、マリア様は私たちに、私たちの究極の目的を示しています。私たちが一体どこに向かっているのか、何の為に生きているのか、という事を教えて下さっています。
マリア様はルチアの幼い、しかし非常に聖霊のインスピレーションした質問に対して、はっきりと答えます。
「あなた様は一体、どこからいらっしゃったのですか?」
「私は天からの者です。」
今日このマリア様のお言葉を、5月13日のお言葉を黙想して、そして私たちがこの究極には、天国に行かなければならないという事を再確認致しましょう。そして今日聖女クララは私たちにその模範を示しています。今この世は、一体私たちに何を教えているかをそれから黙想します。そして天からの者であるマリア様、ファチマのマリア様が私たちに何を求めているか、何を私たちは、ファチマのマリア様に何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
「あなた様は一体どこからいらしましたか?」とルチアが聞くと、マリア様は「どこそこから来た」とは言わずに、「私は天国からの者です」「天国の者です」「天国にある者です」「天国に属する者です」と仰いました。マリア様の非常に美しい、光に輝いたお姿を見たルチアは、その「天国からの者」というマリア様の仰る意味がよく分かったに違いありません。
マリア様が「私は天国からの者です」と言った時にちょうど、「天に在す我らの父よ」と、私たちが「祈る時に、こうお祈りなさい」と教えて下さったイエズス様の言葉を思い出します。天には私たちの御父が在すけれども、天国には私たちの母が在す。そしてその天国からの母が、私たちに直接いらして下さったという事です。
昨日私たちが黙想したところによると、天使は私たちに、被造物として天主様に対してどのような態度を取らなければならないかを教えてくれました。それは祈りの態度であって、礼拝の態度でした。私たちをはるかに超える高貴な存在である天使でさえ、跪いて額ずいて、「『天主を信じ、礼拝し、希望し、愛する』という事をしなさい」と私たちに教えてくれました。
天主の絶対的な優位性、私たちが天主に全く服従しなければならない事、礼拝しなければならない事、私たちが主の下にあるという事を認めなければならない事を教えてくれました。主の栄光と、讃美と、その御稜威に対して、私たちが自分自身を従わさなければならない事を教えてくれました。
それと同時に、天主に自らを従わせない人々がいるという事、天主に反乱を起こしている人々がいる、天主を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、天主を愛さない人々、そして彼らの為に私たちは赦しを求めなければならない、償いを果たさなければならない、という事を教えてくれました。
そして天使と人類の元后である、天地の元后である聖母マリア様が、天使よりはるかに神々しく、はるかに美しく、はるかに威厳をもって、はるかに聖なるものとして、子供たちにお現れになりました、「私は天からの者です。」
ルチアはそのあまりにも美しい姿を見て、こう単純に尋ねます、「私は天国に行く事ができますか?私は行きますか?」「はい、行きます。」
私たちも、ファチマのマリア様の御出現を黙想する限り、ファチマのマリア様にこう申し上げなければなりません、「私は天国に行きますか?」
私は天国に行かなければなりません。天主を得る事こそ、天国に行く事こそ、私たちが生まれてきたその目的です。天主を知り、天主を信じ、天主を礼拝し、天主に希望し、天主を愛し、そうする事によって天国に霊魂を救う、救霊の恵みを得る、これこそ、この為にこそ、私たちはこの地上に生まれてきました。
イエズス様は言います、「人は二人の主人に仕える事ができない。一人を軽蔑して一人を愛するか、どちらか一つだ。」
聖パウロは言います、「この地上のものを愛している人々、彼らは自分の腹を神々としている。」
私たちは究極の目的を選ばなければなりません。
では天国に行く、天主様を得るというのはどういう事なのでしょうか?
天国に行く、究極の、私たちの人生の最高の究極の目的を果たすという事は、私たちがもうこれ以上、もう望む事ができないほど望みが満たされて、全て何もかも満たされて、もうこれ以上何も、これ以上望む事はないというほど完全に満たされて、完成させられて、そしてもうこれで本当に満足で、幸せだ、自分はこれでもう完壁に完全に善を得たという事です。そのような状態です。
人間は全ての人は、自分に足りないところを得ようとして、それを欲求します。そしてそれが得れば、私たちは満足して幸せになりますけれども、究極にもうこれ以上、もうこれを得た後にはもうこれ以上得るものはない、これでもう最高度に完成させられた、というそれが私たちの究極の目的であり、至福です。
一体何が私たちをして、それほど完全に満足させてくれるでしょうか?この地上のものでしょうか?食べ物とか地上の自然の財産とか富でしょうか?何か人間に役立つものでしょうか?確かにそれは人間の役立つものはありますけれども、人間はこの地上のものを得ても得ても、更にもっと欲しい、もっと望むようになります。あるいは望んだものを得たとしたら、もうそれで嫌だ、嫌になってしまう時もあります。この地上のものが人間を最高度に、もうこれ以上、もういらない、というほど満足させる事はあり得ません。
お金についても、貨幣についても同じです。これは更に程度の低いもので、人間に必要なものを得る交換の手段でしかないからです。交換の便宜にしかすぎないからです。ですから富とか、地上の物質的なものが人間を最高度に幸せにする事はあり得ません。
名誉はどうでしょうか?名誉も人間を幸せにする事はできません。何か人間が素晴らしいものを持っているが故に、そのしるしとして名誉が与えられますけれども、その何かすばらしい幸福の元となるものこそが、私たちを幸せにするのですから、そのしるしが幸せにするのではありません。私たちを完成させるのではありません。
私たちが何か権力を持っていたらどうだろう?この地上の権力を持っていたらどうだろう?権力というのは、何かを使って、何かをする事ができるという事ですが、何かの始まりにしかすぎません。しかし私たちが幸せであるというのは、完成させられて、終わりに、到達された目的ですから、権力があるからといって、だから幸福であるのではありません。また権力というのは、善にも悪にも使う事ができますが、私たちの幸せというのは、単なる純粋に最高の善でしかないからです。悪はあり得ないからです。
では色々調べてみると、この地上のものは、物体的なものも、名誉的なものも、力も、或いは私たちの体の健康も、あるいは体の快楽や楽しみも、あるいは霊魂の何らかの善に至っても、究極的には私たちを完全に完壁に、もうこれ以上望む事がないほど満足させるものはありません。被造のものは私たちを満足し尽くす事はできないからです。時においても、限度においても、あまりにも限りがあるからです。私たちはしかも、永遠の無限の幸せを、果てる事のない幸せを、完成を願っているからです。
カトリックの教えは、そしてファチマのマリア様は、私たちにこの事を教えています、「マリア様は天国から来た。そして私たちもマリア様のいらっしゃる天国に行かなければならない。それこそが究極の目的であって、天主を永遠に得る、それこそが私たちの生きている目的である。」
聖クララを見て下さい。アシジの豪富の、非常に高貴な公爵の長女として生まれたお嬢様でした。幼い時から可愛がられて、愛情をかけて育てられて、いつもおいしい物を、デリケートな物を、最高の物を食べさせてもらって、服も非常に美しい、高価な生地で出来たきれいなドレスを着て、そして何でも自分の望む事もできる、そのようなお嬢様でした。教育を受け、召使いもあり、婢女たちもたくさん付いて、お付きの者も付いて、何でも思い通りに自由にする事ができるお嬢様でした。
この少女が、知恵と、力と、霊魂の高い望みに従って、アシジの聖フランシスコを見た時に、「この自分の霊魂を本当に幸せにする事ができるのは、この地上のものではない」という事をすぐに悟りました。「私もフランシスコに倣って、清貧と貞潔と従順の道を歩みたい。この地上のものをイエズス様の為に全て捧げたい。」そして聖フランシスコの元に行って、自分の髪を切ってもらいました。
家族は一生懸命、この自分の長女を、愛する娘を、何とかこの世俗の元に引き寄せようと、「さぁ、地上の宝はこんなに面白おかしいよ。おいしい食べ物はこんなにあるよ。さぁ結婚相手はこんなに高貴な人だよ、こんなに優しい人だよ。」
聖クララは全く見向きもしませんでした。それよりもイエズス・キリストのもとで、天国の為に、霊魂の救霊の為に、イエズス・キリストを愛するが為に、十字架に付けられたイエズス・キリストを花婿として受ける為に、粗末な服を着て、寝るのも床に寝て、食べる物もパンと水で、しかも1年には2回四旬節をやって、清貧に、謙遜に、生活する事を望んだのでした。
そしてそのような高い理想を求める女性たちの修道院長と選ばれたのですけれども、聖フランシスコが「お願いだから」と懇願して、ようやくその責任を取ったにすぎませんでした。
長い間、病にも苦しめられました。一人で起きる事ができないほど体は傷んでいました。それでも介護をされながら起きて、それでも手仕事をして、奉仕をしていました。祈り、償いの苦行をし、共同生活をして、あの高貴な豪富の家庭に生まれたお嬢様とは思えられないほど、単純な清貧の生活を送りました。
聖クララはあまりにも聖徳に、イエズス・キリストの御旨に適った生活をしていたので、奇跡もたくさん行われました。ある精神を患った人を、狂気を正気に戻したりとか、あるいはある時イスラム教徒がアシジを包囲して、「これからイスラム国を作る。キリスト教の男女は全て奴隷にして、(私たちが今口で言う事ができないほどの)事をする!コーランを信じるか、あるいは剣を受けるか殺されるか、あるいは奴隷となるか!」今でもなされていると同じような事を、昔からやってきました。
そのイスラム教徒たちが、アシジの城壁を登って攻め入れようとして来たその時に、姉妹に助けられて聖クララは御聖体の入っている入れ物チボリウムを持って、自分で持って、そして窓の方に行き、イスラム教徒たちのいる所に向かってイエズス様にお祈りします、「主よ、私たちが野獣に食べられないように、どうぞ早く助けに来て下さい。私たちがこのまま滅びるのを見捨てないで下さい。」
すると、ある一部は突然逃げ出し、壁に登っていた人たちは突然目をくらまされて落ちて、そのまま登る事ができなくなる等、アシジの街を奇跡的に守ったりしました。
聖クララの人生は私たちに、「この地上で最も大切なのは、永遠の命を受ける事だ。天主の元に帰る事だ。天国に行く事だ」と教えています。
この地上では今、何を教えているでしょうか?ところが今21世紀の現代、私たちの周りにあるものは、私たちの目で見、聞く事は、そうではなくて、天上の事を全く忘れさせようとする事です。この地上の事しか、「地上の事を面白おかしくする事だけが大切だ」と。主の事を考えるのは、あたかもしてはいけないかのように、私たちの周りは教えています。
しかしファチマのマリア様はそれとその正反対です、「私は天国から来ました、天国からの者です。」
「それでは、私は天国に行く事ができますか?」
「はい、あなたは行きます。」
では、ファチマのマリア様の最初の御出現を黙想して、私たちもマリア様のお望みの通りに、「天国に行く」という大きな望みを抱きましょう。マリア様は最初に何と仰ったかというと、「恐れないで下さい。私はあなたたちに何の悪い事もしません。何の害も及ぼしません。天国からの者です。」
たとえこの地上のものが私たちを恐れさせたとしても、地上のものが私たちに害を与えたとしても、マリア様は害を与えません。このマリア様が私たちに教える事は、私たちの害ではなくて、天国への道です。恐れる事はありません。マリア様がなさる事は、私たちにとっての善と益になる事だけです。
それを今日マリア様が教えて下さっている、という事を確認致しましょう。私たちがマリア様のおられる天国へ、天国だけをいつも願う事ができますように、お祈り致しましょう。
「夜中に声があった、『花婿が来た。』主キリストを迎えに出よう。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。