聖母小黙想会【その8】 2017年8月13日(主)聖霊降臨後第10主日のミサ
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年8月13日、聖霊降後第10主日のミサをしています。今日は特別に聖母小黙想会がありますので、午後には特別のプログラムがあります。午後に講話黙想、それから聖時間があります。時間のある方はぜひ黙想会にも参加して下さい。
8月15日には聖母の被昇天の大祝日です。やはり朝10時30分からミサがあり、聖母行列もあります。どうぞいらして下さい。
“Deus,propitius esto mihi peccatori.”
「罪人の私を憐れみ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の小黙想会の間に挟まった主日で、ちょうどこの主日のミサでは、イエズス様が今日の黙想会の為にわざわざ選んで来て下さったかのように、私たちが取るべき態度を教えようと、特別の例え話をされます。
皆さんも覚えていらっしゃる通り、ファチマの出来事は、祈りと礼拝によって始まりました。そしてこのファチマのこの出来事の中に深く入るには、まず天使が、祈りと礼拝のやり方を教えてくれました。マリア様も、祈りと礼拝をするように私たちにお願いされました。
では一体、「どういう態度で私たちが祈りと礼拝をするのが、最も天主様の聖心に適うのか」というその祈りのやり方、その基本にある「謙遜」という態度について私たちに教えようと、イエズス様はあたかも今日の主日を選んで下さったかのようです。
そこで今日、イエズス様の例えに出るファリザイ人、この人のこの祈り方を分析して、黙想する事にします。
次に、罪人として名高い税吏、税取りの祈りの仕方を黙想します。そしてこの税取りのこの態度の、この謙遜という中に、マリア様のなさった祈りをみます。
最後に私たちは、マリア様のお祈りの、マリア様の態度を見て、一体どのような態度でファチマの祈りと礼拝の中に入って行かなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。
ファリザイ人は、イエズス様によると、「祈ろうとして神殿に上った」とあります。そしてイエズス様の話によると、「自分はすでに、自分の力によって、自分の功徳によって、もう自分だけで義である。そして他人は軽蔑に値する。他人は罪人であって、悪人であって、貪欲であって、不正であって、姦通者であって、邪淫であって、嘘つきで、盗みはするし、酒は飲むし、ギャンブルはするし、もう他人の欠点が目について、そしてそれらでない事を、そうでない事を感謝します。」「あぁ、私は何と良い人間だろうか。週に2回も断食するし、神殿には献金するし、善行をなしているし」と自分の功徳に鼻をかけています。「俺は何でも知っているし、私のやり方が一番良いのだ。他人のやり方はもう目も当てられない。しかし私はこのように素晴らしい事をしている」と。これがこの男の、ファイザイ人の祈りでした。
これを見ると、実は「祈りをする」と言いながらも、「自分を褒めたたえている」という事に気が付きます。おそらくこのファリザイ人は、自分の欠点が話題にのぼると、きっと非常にそれに対して敏感で、腹を立てたり、「俺はこんな事を言われた。傷付いた、もうそんな事をするならもう嫌だ」等と言うかもしれません。しかし他の人に対しては、「この税吏のようでなくて、本当に良かった」と、他人に対しては怒り、責めて、非難して、咎めているのです。「あぁ、本当にこいつは嫌な奴だ。この人は俺に反対ばかりしている。自分に害を与える。生意気だ。俺に逆らっている。」「あぁ、他人の欠点はどうしてこんなに大きく見えるのか。この他人には本当に徳など何もない。他人はこうやっているけれども、きっと悪を考えているに違いない。」全て悪く悪く解釈します。「どうもこういう他人は好きになれない。」
このファリザイ人の態度を見て、ある典礼学者はこう指摘しています、「実はこの男には、最も大切なところが欠けていた。確かに善業をしたかもしれない。確かに清貧を守っていたかもしれない。確かに奉献生活をしていたかもしれない。確かに苦行をしていたかもしれない。もしかしたらこの男はファリザイ人は、天主ヤーウェの名前によって奇跡さえも行っていたかもしれない。貞潔を守っていたかもしれない。しかし一番なかったのは、謙遜と愛がなかった。謙遜がなかったらば、何の実も結ぶ事ができない。なぜかというと、ルチフェルも、非常にすばらしく、非常に清く、非常に賢かった。しかしルチフェルになかったのが、謙遜だった。」
謙遜というのは、聖霊の恵みを、愛徳を、私たちが受ける事ができるように準備する、その徳です。謙遜は、天主の憐れみというものをますます信頼させるからです。
ところが、「天主は傲り高ぶる者には逆らい、へりくだる者を恵まれる」と聖ヤコボは言っています。傲慢が、天主の憐れみの業を妨げてしまうのです。
天主の力はどこに現れるかというと、今日の集祷文にもありますように、「憐れみと赦しを与える」というところに現われるのですけれども、その天主の力をストップかけてしまうのが1つあります。それが「謙遜の欠如」であります。
なぜかというと、私たちを義とする、私たちを聖とするのは、自分ではないからです。自分の行為それ自体ではないからです。そうではなくて、聖霊が私たちに注がれるその恩寵であり、その愛徳こそが、私たちを聖化するからです。このファリザイ人の態度を見ると、自分の力を信じて、自分の力に希望して、自分の優れた事を愛して、自分の優れた事を褒めたたえている事が分かります。何か「天主の礼拝」というよりは、「人間の崇敬」という事をしているかのようです。
しかしよく考えると、ファチマの天使も教えてくれたように、私たちのすべき祈りというのは、「我が天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」という事です。天使の態度を見て下さい。私たちもよりもはるかに優れた、霊的な超越的な存在である天使が、跪いて額ずいて、自分は全く無であるかのように、全ては天主から頂いたものであるという事を認めて、自分が被造物であるという事を認めて、天主こそが在りて在す者であり、私たちは全くそれに、天主に依存している無に等しい者である事を認めながら、天主をこそ信じ、天主をこそ礼拝し、天主にこそ希望し、天主をこそ愛する、という超自然の対神徳を教えてくれました。
つまり私たちは、聖霊によって生かされて、聖霊のお恵みをもって初めて、このような対神徳をする事ができるという事です。それが今日聖パウロが言う、「聖霊が私たちに与えて下さらなければ、『イエズスは主である」とさえも言う事ができない。本当にちょっとした価値のある、超自然の価値の行為でさえも、信仰の行為ではあっても、私たちは何もできない。もしもイエズス・キリストに繋がっていないならば、聖霊からの受益を受けていないならば、恵みを受けていないならば、何の実も結ぶ事ができない。ちょっとした実さえを結ぶ事ができない、葉っぱさえも出す事ができない」と教えています。
そうではなくてファリザイ人ではなくて、この税吏は、税取りはどのような態度を取ったかというと、確かに彼は惨めな罪人だったのですけれども、単純に胸を打ちながら、「罪人である私を憐れみ給え。主よ、憐れみ給え」とだけ、苦しんでいました。
ルチフェルが、「私は従わない!私は、私の尊厳にかけて、天主には従わない!」と反乱したのに対して、あるいはアダムが、「お前たちは、天主に背いたら神々のようになるだろう」というのを、それにコロリと誘惑に負けてしまったのを見ると、却って私たちに、「私たちは全く無に等しい罪人であって、何でもない。」
“Kyrie e leison”“confiteor”“Cum clamarem ad Dominum”と、このミサの全ての言葉が、私たちを謙遜に、謙遜に、と招いているように思われます。「主よ、私たちを憐れんで下さい。私たちは罪人です。私たちは無に等しい者です。私たちは弱く、何も持っていない者です。」
天主イエズス・キリストさえも、第2のアダムイエズス・キリストでさえも、十字架の死に至るまで、謙遜に従う者となりました。主は、傲り高ぶる者を散らし、謙遜な者を高め給う方であるからです。
この税吏の態度を褒められたイエズス様は、このようにも言います、「お前たちは幼子のようにならなければ、決して天の国に入る事ができない。」幼きイエズスの聖テレジアは私たちにこう教えています、人生の夕べに人生の終わりに、「私たちは、愛について裁かれるであろう。」
私たちが愛を受ける為には、謙遜でなければなりません。もしもファリザイ人に謙遜と愛があったならば、おそらく他人を非難するというよりは、他人の欠点を見ると、それを何とかしてそれを庇おうとしたり、何とか覆い隠そうとしたり、あるいは「他人は、隣人は、天主様の御業であるから、作品であるから、天主を愛するが為に、天主の為に、何とかこの人の善を求める」と思った事でしょう。
そしてマリア様がまさにそうでした。マリア様の霊魂は、その最初の瞬間から、天主様との緊密な愛との一致の神殿であり、至聖所であり、愛熱の燃ゆる竃でありました。いつも天主様の御業を深く礼拝していました。自分を全く天主に与え尽くそうとしていました。自分ではなく天主の事を、天主を讃美する事を、天主を礼拝する事をのみ考えていました。ですからイエズス様に一致させて、イエズス様の祈りとイエズス様の讃美に自分を一致させて、そしてそれを主に、天主に、三位一体に捧げていました。
マリア様は、イエズス様と30年間、緊密に生活していました。マリア様が求めるのは、自分がこれほど偉大だ、という事ではなくて、全てをイエズス様へと、イエズス様の栄光へと導く事でした。全てをイエズス様を愛させる事にのみ、関心がありました。マリア様はイエズス・キリストにおいて全て、自分の事など全く無に等しいお方でした。
ですからマリア様が仰った事はこの事です、天使から、「めでたし、何と素晴らしい御方か、聖寵に充ち満ちてる御方」
「一体何の挨拶だろう?」
「恐れるな、御身は聖霊の力を受けて、天主の御母となる、救い主の母となる、偉大な母となる。全ての女性から選ばれた者である。」
そのような言葉を、「私は主の婢女です、主の最も下の奴隷、女奴隷、何でも私の身になりますように。苦しい事でも悲しい事でも、十字架でも、贖いの業に参加致します。私に関心のある事は主の御旨を果たす事。主の名誉と栄光の為、主のみ重要であって、主のみ聖なる方。」
もしも天主が、天主の御子が、自分の子供として赤子として、自分の胎内に来るというほど小さくなられるとしたら、マリア様は一体どれほど小さくならなければならないか、という事だけを考えておられました。
聖エリザベトからは、「あぁ、あなたは全ての女のうちで特別に祝せられた方です」と言われると、マリア様はそれに答えて、「我が魂は主を崇め奉る。なぜなら、主は私の卑しさをご覧になられたからです」と。
マリア様の持たれていたのが、まさにこの謙遜でした。この謙遜であったがこそ、天主の御母となる事ができました。このご謙遜であるからこそ、聖霊のものすごいお恵みの激流が、マリア様の御心に流れ入りました。
では私たちは一体今日、どのような態度で、ファチマのマリア様のお言葉を聞いたら良いでしょうか?
マリア様と共に、ファリザイ人のようではなく、マリア様のような謙遜を私たちも乞い願いましょう。
「罪人である私を憐れんで下さい。またそして罪を犯す隣人に対して、断罪や非難ではなく、どうぞ彼らを救って下さい。彼らの罪の償いの為に、どうぞ私の貧しい犠牲、祈りを受け入れて下さい。マリア様、どうぞ私を使って下さい。マリア様、どうぞ彼らから受ける屈辱、冒瀆を私がお慰めしとうございます。どうぞそれを受け入れて下さい。罪人である私を憐れんで下さい。」
このような愛と謙遜に満ちた祈りは、マリア様の心を通して、イエズス様の聖心にどれほど快い事でしょうか。まさにこれこそ、聖母の汚れなき御心の信心をする事です。私たちも汚れなき御心に倣って、祈りと償いをする事だからです。今日はこのお恵みを求めて、ミサを捧げていきましょう。
“Deus,propitius esto mihi peccatori.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年8月13日、聖霊降後第10主日のミサをしています。今日は特別に聖母小黙想会がありますので、午後には特別のプログラムがあります。午後に講話黙想、それから聖時間があります。時間のある方はぜひ黙想会にも参加して下さい。
8月15日には聖母の被昇天の大祝日です。やはり朝10時30分からミサがあり、聖母行列もあります。どうぞいらして下さい。
“Deus,propitius esto mihi peccatori.”
「罪人の私を憐れみ給え。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の小黙想会の間に挟まった主日で、ちょうどこの主日のミサでは、イエズス様が今日の黙想会の為にわざわざ選んで来て下さったかのように、私たちが取るべき態度を教えようと、特別の例え話をされます。
皆さんも覚えていらっしゃる通り、ファチマの出来事は、祈りと礼拝によって始まりました。そしてこのファチマのこの出来事の中に深く入るには、まず天使が、祈りと礼拝のやり方を教えてくれました。マリア様も、祈りと礼拝をするように私たちにお願いされました。
では一体、「どういう態度で私たちが祈りと礼拝をするのが、最も天主様の聖心に適うのか」というその祈りのやり方、その基本にある「謙遜」という態度について私たちに教えようと、イエズス様はあたかも今日の主日を選んで下さったかのようです。
そこで今日、イエズス様の例えに出るファリザイ人、この人のこの祈り方を分析して、黙想する事にします。
次に、罪人として名高い税吏、税取りの祈りの仕方を黙想します。そしてこの税取りのこの態度の、この謙遜という中に、マリア様のなさった祈りをみます。
最後に私たちは、マリア様のお祈りの、マリア様の態度を見て、一体どのような態度でファチマの祈りと礼拝の中に入って行かなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。
ファリザイ人は、イエズス様によると、「祈ろうとして神殿に上った」とあります。そしてイエズス様の話によると、「自分はすでに、自分の力によって、自分の功徳によって、もう自分だけで義である。そして他人は軽蔑に値する。他人は罪人であって、悪人であって、貪欲であって、不正であって、姦通者であって、邪淫であって、嘘つきで、盗みはするし、酒は飲むし、ギャンブルはするし、もう他人の欠点が目について、そしてそれらでない事を、そうでない事を感謝します。」「あぁ、私は何と良い人間だろうか。週に2回も断食するし、神殿には献金するし、善行をなしているし」と自分の功徳に鼻をかけています。「俺は何でも知っているし、私のやり方が一番良いのだ。他人のやり方はもう目も当てられない。しかし私はこのように素晴らしい事をしている」と。これがこの男の、ファイザイ人の祈りでした。
これを見ると、実は「祈りをする」と言いながらも、「自分を褒めたたえている」という事に気が付きます。おそらくこのファリザイ人は、自分の欠点が話題にのぼると、きっと非常にそれに対して敏感で、腹を立てたり、「俺はこんな事を言われた。傷付いた、もうそんな事をするならもう嫌だ」等と言うかもしれません。しかし他の人に対しては、「この税吏のようでなくて、本当に良かった」と、他人に対しては怒り、責めて、非難して、咎めているのです。「あぁ、本当にこいつは嫌な奴だ。この人は俺に反対ばかりしている。自分に害を与える。生意気だ。俺に逆らっている。」「あぁ、他人の欠点はどうしてこんなに大きく見えるのか。この他人には本当に徳など何もない。他人はこうやっているけれども、きっと悪を考えているに違いない。」全て悪く悪く解釈します。「どうもこういう他人は好きになれない。」
このファリザイ人の態度を見て、ある典礼学者はこう指摘しています、「実はこの男には、最も大切なところが欠けていた。確かに善業をしたかもしれない。確かに清貧を守っていたかもしれない。確かに奉献生活をしていたかもしれない。確かに苦行をしていたかもしれない。もしかしたらこの男はファリザイ人は、天主ヤーウェの名前によって奇跡さえも行っていたかもしれない。貞潔を守っていたかもしれない。しかし一番なかったのは、謙遜と愛がなかった。謙遜がなかったらば、何の実も結ぶ事ができない。なぜかというと、ルチフェルも、非常にすばらしく、非常に清く、非常に賢かった。しかしルチフェルになかったのが、謙遜だった。」
謙遜というのは、聖霊の恵みを、愛徳を、私たちが受ける事ができるように準備する、その徳です。謙遜は、天主の憐れみというものをますます信頼させるからです。
ところが、「天主は傲り高ぶる者には逆らい、へりくだる者を恵まれる」と聖ヤコボは言っています。傲慢が、天主の憐れみの業を妨げてしまうのです。
天主の力はどこに現れるかというと、今日の集祷文にもありますように、「憐れみと赦しを与える」というところに現われるのですけれども、その天主の力をストップかけてしまうのが1つあります。それが「謙遜の欠如」であります。
なぜかというと、私たちを義とする、私たちを聖とするのは、自分ではないからです。自分の行為それ自体ではないからです。そうではなくて、聖霊が私たちに注がれるその恩寵であり、その愛徳こそが、私たちを聖化するからです。このファリザイ人の態度を見ると、自分の力を信じて、自分の力に希望して、自分の優れた事を愛して、自分の優れた事を褒めたたえている事が分かります。何か「天主の礼拝」というよりは、「人間の崇敬」という事をしているかのようです。
しかしよく考えると、ファチマの天使も教えてくれたように、私たちのすべき祈りというのは、「我が天主よ、われ信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る」という事です。天使の態度を見て下さい。私たちもよりもはるかに優れた、霊的な超越的な存在である天使が、跪いて額ずいて、自分は全く無であるかのように、全ては天主から頂いたものであるという事を認めて、自分が被造物であるという事を認めて、天主こそが在りて在す者であり、私たちは全くそれに、天主に依存している無に等しい者である事を認めながら、天主をこそ信じ、天主をこそ礼拝し、天主にこそ希望し、天主をこそ愛する、という超自然の対神徳を教えてくれました。
つまり私たちは、聖霊によって生かされて、聖霊のお恵みをもって初めて、このような対神徳をする事ができるという事です。それが今日聖パウロが言う、「聖霊が私たちに与えて下さらなければ、『イエズスは主である」とさえも言う事ができない。本当にちょっとした価値のある、超自然の価値の行為でさえも、信仰の行為ではあっても、私たちは何もできない。もしもイエズス・キリストに繋がっていないならば、聖霊からの受益を受けていないならば、恵みを受けていないならば、何の実も結ぶ事ができない。ちょっとした実さえを結ぶ事ができない、葉っぱさえも出す事ができない」と教えています。
そうではなくてファリザイ人ではなくて、この税吏は、税取りはどのような態度を取ったかというと、確かに彼は惨めな罪人だったのですけれども、単純に胸を打ちながら、「罪人である私を憐れみ給え。主よ、憐れみ給え」とだけ、苦しんでいました。
ルチフェルが、「私は従わない!私は、私の尊厳にかけて、天主には従わない!」と反乱したのに対して、あるいはアダムが、「お前たちは、天主に背いたら神々のようになるだろう」というのを、それにコロリと誘惑に負けてしまったのを見ると、却って私たちに、「私たちは全く無に等しい罪人であって、何でもない。」
“Kyrie e leison”“confiteor”“Cum clamarem ad Dominum”と、このミサの全ての言葉が、私たちを謙遜に、謙遜に、と招いているように思われます。「主よ、私たちを憐れんで下さい。私たちは罪人です。私たちは無に等しい者です。私たちは弱く、何も持っていない者です。」
天主イエズス・キリストさえも、第2のアダムイエズス・キリストでさえも、十字架の死に至るまで、謙遜に従う者となりました。主は、傲り高ぶる者を散らし、謙遜な者を高め給う方であるからです。
この税吏の態度を褒められたイエズス様は、このようにも言います、「お前たちは幼子のようにならなければ、決して天の国に入る事ができない。」幼きイエズスの聖テレジアは私たちにこう教えています、人生の夕べに人生の終わりに、「私たちは、愛について裁かれるであろう。」
私たちが愛を受ける為には、謙遜でなければなりません。もしもファリザイ人に謙遜と愛があったならば、おそらく他人を非難するというよりは、他人の欠点を見ると、それを何とかしてそれを庇おうとしたり、何とか覆い隠そうとしたり、あるいは「他人は、隣人は、天主様の御業であるから、作品であるから、天主を愛するが為に、天主の為に、何とかこの人の善を求める」と思った事でしょう。
そしてマリア様がまさにそうでした。マリア様の霊魂は、その最初の瞬間から、天主様との緊密な愛との一致の神殿であり、至聖所であり、愛熱の燃ゆる竃でありました。いつも天主様の御業を深く礼拝していました。自分を全く天主に与え尽くそうとしていました。自分ではなく天主の事を、天主を讃美する事を、天主を礼拝する事をのみ考えていました。ですからイエズス様に一致させて、イエズス様の祈りとイエズス様の讃美に自分を一致させて、そしてそれを主に、天主に、三位一体に捧げていました。
マリア様は、イエズス様と30年間、緊密に生活していました。マリア様が求めるのは、自分がこれほど偉大だ、という事ではなくて、全てをイエズス様へと、イエズス様の栄光へと導く事でした。全てをイエズス様を愛させる事にのみ、関心がありました。マリア様はイエズス・キリストにおいて全て、自分の事など全く無に等しいお方でした。
ですからマリア様が仰った事はこの事です、天使から、「めでたし、何と素晴らしい御方か、聖寵に充ち満ちてる御方」
「一体何の挨拶だろう?」
「恐れるな、御身は聖霊の力を受けて、天主の御母となる、救い主の母となる、偉大な母となる。全ての女性から選ばれた者である。」
そのような言葉を、「私は主の婢女です、主の最も下の奴隷、女奴隷、何でも私の身になりますように。苦しい事でも悲しい事でも、十字架でも、贖いの業に参加致します。私に関心のある事は主の御旨を果たす事。主の名誉と栄光の為、主のみ重要であって、主のみ聖なる方。」
もしも天主が、天主の御子が、自分の子供として赤子として、自分の胎内に来るというほど小さくなられるとしたら、マリア様は一体どれほど小さくならなければならないか、という事だけを考えておられました。
聖エリザベトからは、「あぁ、あなたは全ての女のうちで特別に祝せられた方です」と言われると、マリア様はそれに答えて、「我が魂は主を崇め奉る。なぜなら、主は私の卑しさをご覧になられたからです」と。
マリア様の持たれていたのが、まさにこの謙遜でした。この謙遜であったがこそ、天主の御母となる事ができました。このご謙遜であるからこそ、聖霊のものすごいお恵みの激流が、マリア様の御心に流れ入りました。
では私たちは一体今日、どのような態度で、ファチマのマリア様のお言葉を聞いたら良いでしょうか?
マリア様と共に、ファリザイ人のようではなく、マリア様のような謙遜を私たちも乞い願いましょう。
「罪人である私を憐れんで下さい。またそして罪を犯す隣人に対して、断罪や非難ではなく、どうぞ彼らを救って下さい。彼らの罪の償いの為に、どうぞ私の貧しい犠牲、祈りを受け入れて下さい。マリア様、どうぞ私を使って下さい。マリア様、どうぞ彼らから受ける屈辱、冒瀆を私がお慰めしとうございます。どうぞそれを受け入れて下さい。罪人である私を憐れんで下さい。」
このような愛と謙遜に満ちた祈りは、マリア様の心を通して、イエズス様の聖心にどれほど快い事でしょうか。まさにこれこそ、聖母の汚れなき御心の信心をする事です。私たちも汚れなき御心に倣って、祈りと償いをする事だからです。今日はこのお恵みを求めて、ミサを捧げていきましょう。
“Deus,propitius esto mihi peccatori.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。