聖母小黙想会【その10】 2017年8月14日(月)童貞聖マリアの被昇天の前日のミサ
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年8月14日、聖母の被昇天の前日のミサを捧げています。今日は聖母小黙想会の途中ですので、このミサの後、簡単なプログラムが5時頃まであります。ファチマの聖母に関するお話と聖時間がありますので、どうぞ時間のある方は参加なさって下さい。
明日は聖母の被昇天です。日本では残念ながらそうではないのですが、全カトリック教会では守るべき祝日となっています。
朝10時30分からミサがあって、その後13時から聖母行列があります。日本の平和の為に、世界の平和の為に、マリア様にこの聖母行列を捧げたいと思います。どうぞいらして下さい。
“Transite ad me omnes qui concupiscitis me.”
「私を望む者は全て、私に来なさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
今日、この聖母の被昇天の前の典礼はまさに、ファチマの黙想会をしている私たちの為にあたかも作られているかのようです。
そこで今日この御ミサの黙想のテーマに、聖母の被昇天のこのミサについて、ミサの構造、ミサは一体何を私たちに言っているのか?
第2に、このミサの書かれている内容と私たちのファチマのマリア様の仰っている言葉というのはどんな結び付きがあるのか?特に9月13日の御出現と非常に深い結び付きがあると思います。では一体どんなところが結び付いているのか?
この2つを黙想して、最後に今日は遷善の決心を立てる事に致しましょう。
マリア様の被昇天の大祝日というのは、非常に太古からありました。そこでカトリック教会は、特にローマでは、「このマリア様の大祝日をそのまま迎えるのでは足りない。もうその前日から何か準備をして、そしてふさわしく8月15日を迎えなければならない」という大きな望みがありました。民衆がそれを望み、そして司祭がそれを望み、司教様がそれを望み、そしてついにローマの教皇様も、「確かにこの教会が、全教会でこれを壮大に前日から祝わなければならない」と考えました。そこですでに7世紀から、教皇セルジウスが、「この8月14日の前日から、夜中に聖母の行列をして、連祷を唱えて、ろうそくを持って、マリア様の被昇天を祝うべし」と制定しました。
後に教皇レオ三世は、「それだけでは足りない。ミサを作らなければならない。」すでに「そのミサをしなければならない」という事で、847年に、「マリア様の被昇天の前日のミサと、マリア様の被昇天の後の8日間オクターブを毎日祝うように、そして8日目には荘厳に祝うように」と定めました。
マリア様の祝日に対する熱意はあまりにも多く、その他色々な祝日にも、「前日を祝うように」というミサができました。しかしピオ十二世教皇様やヨハネ二十三世教皇様の典礼改革によって、多くのマリア様の前日の祝日は廃止されました。そして8日間も廃止されました。しかしそれでも唯一、「この前日だけは廃止する事ができない。あまりにも歴史が古くて、あまりにも重要だ」として唯一残ったのが、この今日の8月14日の被昇天の前日のミサです。そして8日目の最後の、被昇天を壮大に祝うべきものとして、マリア様の汚れなき御心の祝日として祝われるようになりました。
このミサの入祭誦は、3月25日の御告げの入祭誦と全く同じです。それによれば、「町の最も有力な金持ちたちが、王の妃となるべき花嫁の、このあなたの顔の美しさを感嘆して眺めている。あなたの御顔の美しさは、もう言葉にも出せない“Vultum tuum”、あなたの御顔はとてもすばらしい」というものと同じです。3月25日の御告げの祝日と同じものを教会は取りました。
この「マリア様の美しさ」というのは、その他の続誦にも書簡にも言われています。今日の書簡は汚れなき御心の書簡と同じであり、カルメル山の聖母の書簡と同じです、「私は美しい愛の母である。主への畏れの愛で主を知る母であり、また聖なる希望の母である。私を望む者は皆、私に来なさい。美しい愛の母である。」
そしてそのマリア様の美しさは、その偉大さは、ある夫人の感嘆によって言われます、「あなたを生んだ胎は何と幸せな事か!」するとイエズス様は言われます、「むしろ幸せなのは、天主の御言葉を聞き、それを実行する人だ。信仰があり、その聖徳を実践する人だ」と。
これをよく誤解なく理解しなければなりません。イエズス様は、だからマリア様が聖徳がなくて、天主の言葉を実行しなかったと言っているのではありません。「マリア様が素晴らしいのは、確かに母は素晴らしい。しかしそれは自分と血縁関係にあるというよりは、もっと更に、マリア様が天主の御言葉を信じ、そしてそれを実践したからだ」と仰っているのです。
確かにユダヤ人たちはイエズス様の血縁関係であり、イエズス様の故郷の人であり、祖国の同朋の人たちでした。しかしイエズス・キリストを信じようともせず、礼拝しようともせず、希望しようともせず、愛そうともせずに、彼らは捨てられた民族となってしまいました。
私たちにとってイエズス・キリストにとって一番大切なのは何かというと、「天主の聖寵であって、信仰であって、真の天主イエズス・キリストを礼拝する事であって、その御言葉を実践する事であって、主を愛する事であって、主に希望をかける事である。超自然の恵みであって、この地上の血肉の事ではない。この地上の事ではない」と教えています。
すると、この今日の典礼で私たちに教えてくれる事を見ると、確かにファチマのマリア様の仰っている事とピタリだと分かります。なぜかというと、ファチマのマリア様は最初に天使を送って、そしてご自分自身でも私たちに、「まず、祈りと礼拝に入るように」と教えて下さったからです。信仰について、三位一体に対する信仰について、三位一体と私たちはどのような関係を結ばなければならないか、という事をまず天使の模範をもって、そしてマリア様の祈りをもって、言葉をもって、私たちに教えて下さいました。
私たちは主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。そればかりでなく、そうしない人々の代わりに、罪の赦しを乞い求めなければなりません。これこそが私たちの取るべき態度です。超自然のお恵みです。もしもその超自然のお恵みがなければ、私たちはいくらこの地上で偉大な事に見えたような事をしても、全く価値がないという事を教えています。
そればかりではありません。今日の典礼は、マリア様のそのお持ちになっている信仰の偉大さと同時に、マリア様の美しさを見るように招いています。
そこで、100年前の9月13日の話をするのを許して下さい。なぜかというと、今日の典礼はちょうど、明日、太陽を着た夫人、被昇天の婦人、マリア様の大祝日を祝うその前の日ですけれども、ちょうど10月13日、太陽の大奇跡をマリア様が行うその前に、9月13日にその準備として、特別の御出現が現れたからです。今日の典礼と9月13日は非常に似通っているという事が分かります。
8月13日には、9月13日の1ヶ月前には子供たちは来ませんでした。しかし子供たちが来なかった代わりに、マリア様は大群衆に、2万名の群衆に目に見える形で、ほとんどの人々に「マリア様がいらした」という事を見せました。光り輝く雲のようなものが、球体が、非常に美しいものが東の方から滑るように動いて来て、そしてトキワガシの上に留まり、太陽の光はあんなに輝いていたのが弱くなり、辺りは黄金の金色のような雰囲気に留まりました。雷鳴が起こり、ゴロゴロ!という音が響き、そして雷が鳴ったように思われました。
そのマリア様の奇跡をその見た群衆をはるかに超える、今度は3万人の大群衆が、朝から夜明けから、ファチマのコヴァ・ダ・イリアに集まって来ていました。3人の子供たちも今度は行くのがとても、そのトキワガシの方に行くのはとても難しい事でした。しかしこのルチアは後に言っています、「この群衆の信仰とその単純さ、その素直さに本当に驚いた、感銘を受けた。」この大群衆は朝からずっとロザリオを唱え、聖歌を歌い、マリア様にお祈りをしていました。ある者はこのお祈りをこの願いを、ある者は病の癒しを、ある者は回心を、ある者は何か特別のお恵みを、と祈っていました。
ルチアたちが到着すると皆に、「ロザリオを唱えよう」と言いました。10歳の女の子に言われて、皆が跪き、そしてロザリオを唱えます。3万人の群衆がロザリオを唱えているこの光景を考えて下さい。地が震めくように、『めでたし、聖寵充ち満てるマリア。主、御身と共に在す』と、老人も若い人々も、女も男も、金持ちも貧しい者も、皆ロザリオを唱えています。
実はその後にレイリア教区の総代理となるクアレスマ神父(João Quaresma)も友人の二人の司祭と同時にそこにいました。クアレスマ神父はやはり、マリア様のことを見たい、「一体、ファチマでは何が起こっているかという事をこの目で見てやろう」と思って来たのでした。
すると後にこう手記に書いています、「私は確かに、はっきりと、もう間違う事なく見た。東の方から非常に心地の良い、見て美しい、光る球体のような雲がゆっくりと、東から西の方に滑って荘厳にやって来るのを見た。光るこの球体はゆっくり、ゆっくり、非常に荘厳なやり方でトキワガシの上にやって来た。そして突然消えた。でも近くに居た、ちょうどルチアと同じような年端の女の子がいたのだけれども、その子は『まだ見える、見える』と言っていた。自分の同僚の二人の司祭にも聞くと、彼らも『見た』と言う。」
その当時居た3万人は全員、この光る雲のようなものを見ました。太陽はあんなにも輝いていたにもかかわらず、カンカン照りであったにもかかわらず、それが弱まりました。辺りは黄金の金色で照らされたようになりました。ある人は「星さえも見えた」と言います。「はっきり見えた」と言います。近くにいた司祭に言います、クアレスマ神父は聞きます、「この光は何だ?」「マリア様だ。」
そしてルチアは、マリア様と話をします。あまりにも美しいお姿で光り輝くマリア様を、ルチアと3人の子供たちは見ます。他の人たちは雲しか見えませんでした。
「あなた様は一体、私に何をお望みですか?」
「私は、あなたが毎日、世界の平和の為にロザリオを唱える事を望みます。10月には私たちの主が来るでしょう。そして悲しみの聖母とカルメルの聖母が来るでしょう。聖ヨゼフも幼子イエズスを連れて現れるでしょう、この世界を祝福されるでしょう。天主様はあなたたちのやっている犠牲に非常に快く思っています。ただ、縄を夜中にも付けて寝るのはもうおよしなさい。縄を付けるのは昼間だけにしなさい。」非常に賢明な母らしいお願いを、お褒めの言葉と、お願いをします。
ルチアはそこで、「ここに集まったお金をどうしたら良いか」という事を聞くと、
「そのお金は、ロザリオの聖母の祝日の為に使いなさい。半分はそうしなさい。半分は御聖堂を建てる為に、これを使いなさい。」
「病の人がいますけれども、治して下さい。」
「はい。でもある人は治すけれども、ある人は主が彼らの事をあまり信頼していません。本当に回心するかどうか、罪を捨てるかちょっと心配です。」
ルチアは後でまた聞きます、ある人がマリア様に捧げると言って香水を与えた、「香水はどうしますか?」
「天国ではそれは必要ありません。」
そして、「10月には、多くの人が信じるように、奇跡を行います」と言って、またマリア様は東の方にその雲に乗って帰って行かれました、姿を消されます。その雲が動くのを全ての人がそれを見ます。クレシア神父もそれを見ます。
この9月の非常に美しい奇跡的な現れは、雲だけではありませんでした。その時に皆が見たのは、「ちょうど空から何か雨が降るかのように、花びらのような、あるいは雪のような、丸い白いきれいなものがパラパラとシャワーのようにたくさん落ちてきた。」また「マリア様のいる所に、ちょうどアーチのように雲のようなものが立ち上がって、5、6mくらい上がっていって、そして上になるとそれがちょうど、煙がちょうどミサの時に香を焚いたように、その煙が消えるように上がっていた。ちょうど何か目に見えない香炉係がマリア様に香を焚いていたようだ」と言っています。
この御出現は、9月の御出現と10月の御出現はまさに、私たちがファチマの御出現がどれほど重大で、どれほど真実であって、どれほどの本物であるかという事を皆に分からせる為に見せたものです。マリア様の御出現の中で、8月には2万人、9月には3万人、10月にはおそらく10万人が全て見たというこれほどの奇跡は、マリア様の御出現の歴史の中で他にありません。20世紀のこの中でそれほどのものはありません。これを見ると、どれほどこの御出現が大切かという事が分かります。
ちょうど今でも、マリア様の前日を祝う被昇天がどれほど重大な祝日であるか、という事を私たちの教えているかのようです。
そればかりではありません。マリア様の美しさ、マリア様の荘厳さ、その威厳というのが、太陽を躍らせて、そして雲の上に乗ってやって来る、美しい雲の上でやって来て、太陽の光さえも消してしまうようなその力、天上から雪のような、バラの花びらのようなものをたくさん降らす事ができる、そして地上に落ちると同時に無くなってしまう、お恵みの象徴であるようなものを降らされた、そのマリア様は、この9月の御出現をもって、どれほど力があり、威厳があり、私たちの為に近寄って、私たちに恵みをもたらそうとしているか、望んでいるか、という事を目に見える形で教えてくれました。この御出現を見て、その場に居合わせた人々は司祭たちも全て分かりました、「マリア様だ。マリア様しかあり得ない。」
これは、私たちが確実にマリア様の御出現ファチマを信じ、そしてそのメッセージの真実さを信じ、そしてそれを実行する事ができる為です。「あぁ、」私たちも言わなければなりません、「あぁ、マリア様の言葉を聞いて、それを実行する事は何と幸いな事か!」と、それがする事ができるように、マリア様は9月の御出現をなさってくれました。10月の準備をなさってくれました。
ところでこの雪のような、花びらのようなものが天からたくさんバラバラバラ、チラチラチラと降りて来たというのは、9月だけではありませんでした。9月13日だけではなく、8月13日もありました。後には歴史の記録によると、1918年の5月13日にも、1年後の5月13日にもありました。また7年後の1924年の5月13日、レイリアの司教様がその時にも居合わせて、それを目撃して確認しているのですけれども、その時にもバラの花びらのようなものが天からたくさん降って来た、というのを見ています。
マリア様は私たちにお恵みの雨を降らしたいと思っています。「さぁ、私の御心の中に入りなさい。私の御心の中に入れば、たくさんそのお恵みを受ける事でしょう」と招いています。
この世は汚い事でたくさんです。不潔な事や、嫌な事や、もうゴミ同然のつまらない事があたかも大切であるかのように言われています。そして多くの人は、その汚ならしい事をあたかも何か大切であるかのように考えています。残酷で、意地悪で、醜くて、非道な事が、あたかも大切であるかのように考えられています。
しかしマリア様は、もっと高貴で、もっと美しく、もっと神聖で、もっと威厳があり、もうこの地上のものとは思えないような美しさを私たちに見せて下さいます。
「あぁ、あなたの御顔はどれほど美しい事か。“Vultum tuum deprecabuntur omnes divites plebis.”」
そしてマリア様がその美しさを見せて、その力があるのを見せて、そのお恵みの雨を降らしながら、私たちに招いています、「さぁ、私を望む者よ、私の御心の中に入りなさい。私の方にやって来なさい。“Transite ad me omnes qui concupiscitis me.” 私の御心の中に入りなさい。私はあなたを決して見捨てたりはしません。私の御心はあなたたちの避難所です。あなたたちを守る、誰も害を与える事ができない所です。天主へと導く道となります。さぁ、私の御心の中に入ってきなさい。」
今日、マリア様は御心を大きく開いて、私たちを招いています。
どんな決心をしたら良いでしょうか?
もう迷わず、マリア様の御心に行きましょう。マリア様の御心をお愛しし、その御心をお慰め致しましょう。マリア様の言葉を聞いて、それを実践しましょう。
そのような人々は、何と幸いな者でしょうか。
「私を望む者は、私に来なさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年8月14日、聖母の被昇天の前日のミサを捧げています。今日は聖母小黙想会の途中ですので、このミサの後、簡単なプログラムが5時頃まであります。ファチマの聖母に関するお話と聖時間がありますので、どうぞ時間のある方は参加なさって下さい。
明日は聖母の被昇天です。日本では残念ながらそうではないのですが、全カトリック教会では守るべき祝日となっています。
朝10時30分からミサがあって、その後13時から聖母行列があります。日本の平和の為に、世界の平和の為に、マリア様にこの聖母行列を捧げたいと思います。どうぞいらして下さい。
“Transite ad me omnes qui concupiscitis me.”
「私を望む者は全て、私に来なさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
今日、この聖母の被昇天の前の典礼はまさに、ファチマの黙想会をしている私たちの為にあたかも作られているかのようです。
そこで今日この御ミサの黙想のテーマに、聖母の被昇天のこのミサについて、ミサの構造、ミサは一体何を私たちに言っているのか?
第2に、このミサの書かれている内容と私たちのファチマのマリア様の仰っている言葉というのはどんな結び付きがあるのか?特に9月13日の御出現と非常に深い結び付きがあると思います。では一体どんなところが結び付いているのか?
この2つを黙想して、最後に今日は遷善の決心を立てる事に致しましょう。
マリア様の被昇天の大祝日というのは、非常に太古からありました。そこでカトリック教会は、特にローマでは、「このマリア様の大祝日をそのまま迎えるのでは足りない。もうその前日から何か準備をして、そしてふさわしく8月15日を迎えなければならない」という大きな望みがありました。民衆がそれを望み、そして司祭がそれを望み、司教様がそれを望み、そしてついにローマの教皇様も、「確かにこの教会が、全教会でこれを壮大に前日から祝わなければならない」と考えました。そこですでに7世紀から、教皇セルジウスが、「この8月14日の前日から、夜中に聖母の行列をして、連祷を唱えて、ろうそくを持って、マリア様の被昇天を祝うべし」と制定しました。
後に教皇レオ三世は、「それだけでは足りない。ミサを作らなければならない。」すでに「そのミサをしなければならない」という事で、847年に、「マリア様の被昇天の前日のミサと、マリア様の被昇天の後の8日間オクターブを毎日祝うように、そして8日目には荘厳に祝うように」と定めました。
マリア様の祝日に対する熱意はあまりにも多く、その他色々な祝日にも、「前日を祝うように」というミサができました。しかしピオ十二世教皇様やヨハネ二十三世教皇様の典礼改革によって、多くのマリア様の前日の祝日は廃止されました。そして8日間も廃止されました。しかしそれでも唯一、「この前日だけは廃止する事ができない。あまりにも歴史が古くて、あまりにも重要だ」として唯一残ったのが、この今日の8月14日の被昇天の前日のミサです。そして8日目の最後の、被昇天を壮大に祝うべきものとして、マリア様の汚れなき御心の祝日として祝われるようになりました。
このミサの入祭誦は、3月25日の御告げの入祭誦と全く同じです。それによれば、「町の最も有力な金持ちたちが、王の妃となるべき花嫁の、このあなたの顔の美しさを感嘆して眺めている。あなたの御顔の美しさは、もう言葉にも出せない“Vultum tuum”、あなたの御顔はとてもすばらしい」というものと同じです。3月25日の御告げの祝日と同じものを教会は取りました。
この「マリア様の美しさ」というのは、その他の続誦にも書簡にも言われています。今日の書簡は汚れなき御心の書簡と同じであり、カルメル山の聖母の書簡と同じです、「私は美しい愛の母である。主への畏れの愛で主を知る母であり、また聖なる希望の母である。私を望む者は皆、私に来なさい。美しい愛の母である。」
そしてそのマリア様の美しさは、その偉大さは、ある夫人の感嘆によって言われます、「あなたを生んだ胎は何と幸せな事か!」するとイエズス様は言われます、「むしろ幸せなのは、天主の御言葉を聞き、それを実行する人だ。信仰があり、その聖徳を実践する人だ」と。
これをよく誤解なく理解しなければなりません。イエズス様は、だからマリア様が聖徳がなくて、天主の言葉を実行しなかったと言っているのではありません。「マリア様が素晴らしいのは、確かに母は素晴らしい。しかしそれは自分と血縁関係にあるというよりは、もっと更に、マリア様が天主の御言葉を信じ、そしてそれを実践したからだ」と仰っているのです。
確かにユダヤ人たちはイエズス様の血縁関係であり、イエズス様の故郷の人であり、祖国の同朋の人たちでした。しかしイエズス・キリストを信じようともせず、礼拝しようともせず、希望しようともせず、愛そうともせずに、彼らは捨てられた民族となってしまいました。
私たちにとってイエズス・キリストにとって一番大切なのは何かというと、「天主の聖寵であって、信仰であって、真の天主イエズス・キリストを礼拝する事であって、その御言葉を実践する事であって、主を愛する事であって、主に希望をかける事である。超自然の恵みであって、この地上の血肉の事ではない。この地上の事ではない」と教えています。
すると、この今日の典礼で私たちに教えてくれる事を見ると、確かにファチマのマリア様の仰っている事とピタリだと分かります。なぜかというと、ファチマのマリア様は最初に天使を送って、そしてご自分自身でも私たちに、「まず、祈りと礼拝に入るように」と教えて下さったからです。信仰について、三位一体に対する信仰について、三位一体と私たちはどのような関係を結ばなければならないか、という事をまず天使の模範をもって、そしてマリア様の祈りをもって、言葉をもって、私たちに教えて下さいました。
私たちは主を信じ、礼拝し、希望し、愛さなければなりません。そればかりでなく、そうしない人々の代わりに、罪の赦しを乞い求めなければなりません。これこそが私たちの取るべき態度です。超自然のお恵みです。もしもその超自然のお恵みがなければ、私たちはいくらこの地上で偉大な事に見えたような事をしても、全く価値がないという事を教えています。
そればかりではありません。今日の典礼は、マリア様のそのお持ちになっている信仰の偉大さと同時に、マリア様の美しさを見るように招いています。
そこで、100年前の9月13日の話をするのを許して下さい。なぜかというと、今日の典礼はちょうど、明日、太陽を着た夫人、被昇天の婦人、マリア様の大祝日を祝うその前の日ですけれども、ちょうど10月13日、太陽の大奇跡をマリア様が行うその前に、9月13日にその準備として、特別の御出現が現れたからです。今日の典礼と9月13日は非常に似通っているという事が分かります。
8月13日には、9月13日の1ヶ月前には子供たちは来ませんでした。しかし子供たちが来なかった代わりに、マリア様は大群衆に、2万名の群衆に目に見える形で、ほとんどの人々に「マリア様がいらした」という事を見せました。光り輝く雲のようなものが、球体が、非常に美しいものが東の方から滑るように動いて来て、そしてトキワガシの上に留まり、太陽の光はあんなに輝いていたのが弱くなり、辺りは黄金の金色のような雰囲気に留まりました。雷鳴が起こり、ゴロゴロ!という音が響き、そして雷が鳴ったように思われました。
そのマリア様の奇跡をその見た群衆をはるかに超える、今度は3万人の大群衆が、朝から夜明けから、ファチマのコヴァ・ダ・イリアに集まって来ていました。3人の子供たちも今度は行くのがとても、そのトキワガシの方に行くのはとても難しい事でした。しかしこのルチアは後に言っています、「この群衆の信仰とその単純さ、その素直さに本当に驚いた、感銘を受けた。」この大群衆は朝からずっとロザリオを唱え、聖歌を歌い、マリア様にお祈りをしていました。ある者はこのお祈りをこの願いを、ある者は病の癒しを、ある者は回心を、ある者は何か特別のお恵みを、と祈っていました。
ルチアたちが到着すると皆に、「ロザリオを唱えよう」と言いました。10歳の女の子に言われて、皆が跪き、そしてロザリオを唱えます。3万人の群衆がロザリオを唱えているこの光景を考えて下さい。地が震めくように、『めでたし、聖寵充ち満てるマリア。主、御身と共に在す』と、老人も若い人々も、女も男も、金持ちも貧しい者も、皆ロザリオを唱えています。
実はその後にレイリア教区の総代理となるクアレスマ神父(João Quaresma)も友人の二人の司祭と同時にそこにいました。クアレスマ神父はやはり、マリア様のことを見たい、「一体、ファチマでは何が起こっているかという事をこの目で見てやろう」と思って来たのでした。
すると後にこう手記に書いています、「私は確かに、はっきりと、もう間違う事なく見た。東の方から非常に心地の良い、見て美しい、光る球体のような雲がゆっくりと、東から西の方に滑って荘厳にやって来るのを見た。光るこの球体はゆっくり、ゆっくり、非常に荘厳なやり方でトキワガシの上にやって来た。そして突然消えた。でも近くに居た、ちょうどルチアと同じような年端の女の子がいたのだけれども、その子は『まだ見える、見える』と言っていた。自分の同僚の二人の司祭にも聞くと、彼らも『見た』と言う。」
その当時居た3万人は全員、この光る雲のようなものを見ました。太陽はあんなにも輝いていたにもかかわらず、カンカン照りであったにもかかわらず、それが弱まりました。辺りは黄金の金色で照らされたようになりました。ある人は「星さえも見えた」と言います。「はっきり見えた」と言います。近くにいた司祭に言います、クアレスマ神父は聞きます、「この光は何だ?」「マリア様だ。」
そしてルチアは、マリア様と話をします。あまりにも美しいお姿で光り輝くマリア様を、ルチアと3人の子供たちは見ます。他の人たちは雲しか見えませんでした。
「あなた様は一体、私に何をお望みですか?」
「私は、あなたが毎日、世界の平和の為にロザリオを唱える事を望みます。10月には私たちの主が来るでしょう。そして悲しみの聖母とカルメルの聖母が来るでしょう。聖ヨゼフも幼子イエズスを連れて現れるでしょう、この世界を祝福されるでしょう。天主様はあなたたちのやっている犠牲に非常に快く思っています。ただ、縄を夜中にも付けて寝るのはもうおよしなさい。縄を付けるのは昼間だけにしなさい。」非常に賢明な母らしいお願いを、お褒めの言葉と、お願いをします。
ルチアはそこで、「ここに集まったお金をどうしたら良いか」という事を聞くと、
「そのお金は、ロザリオの聖母の祝日の為に使いなさい。半分はそうしなさい。半分は御聖堂を建てる為に、これを使いなさい。」
「病の人がいますけれども、治して下さい。」
「はい。でもある人は治すけれども、ある人は主が彼らの事をあまり信頼していません。本当に回心するかどうか、罪を捨てるかちょっと心配です。」
ルチアは後でまた聞きます、ある人がマリア様に捧げると言って香水を与えた、「香水はどうしますか?」
「天国ではそれは必要ありません。」
そして、「10月には、多くの人が信じるように、奇跡を行います」と言って、またマリア様は東の方にその雲に乗って帰って行かれました、姿を消されます。その雲が動くのを全ての人がそれを見ます。クレシア神父もそれを見ます。
この9月の非常に美しい奇跡的な現れは、雲だけではありませんでした。その時に皆が見たのは、「ちょうど空から何か雨が降るかのように、花びらのような、あるいは雪のような、丸い白いきれいなものがパラパラとシャワーのようにたくさん落ちてきた。」また「マリア様のいる所に、ちょうどアーチのように雲のようなものが立ち上がって、5、6mくらい上がっていって、そして上になるとそれがちょうど、煙がちょうどミサの時に香を焚いたように、その煙が消えるように上がっていた。ちょうど何か目に見えない香炉係がマリア様に香を焚いていたようだ」と言っています。
この御出現は、9月の御出現と10月の御出現はまさに、私たちがファチマの御出現がどれほど重大で、どれほど真実であって、どれほどの本物であるかという事を皆に分からせる為に見せたものです。マリア様の御出現の中で、8月には2万人、9月には3万人、10月にはおそらく10万人が全て見たというこれほどの奇跡は、マリア様の御出現の歴史の中で他にありません。20世紀のこの中でそれほどのものはありません。これを見ると、どれほどこの御出現が大切かという事が分かります。
ちょうど今でも、マリア様の前日を祝う被昇天がどれほど重大な祝日であるか、という事を私たちの教えているかのようです。
そればかりではありません。マリア様の美しさ、マリア様の荘厳さ、その威厳というのが、太陽を躍らせて、そして雲の上に乗ってやって来る、美しい雲の上でやって来て、太陽の光さえも消してしまうようなその力、天上から雪のような、バラの花びらのようなものをたくさん降らす事ができる、そして地上に落ちると同時に無くなってしまう、お恵みの象徴であるようなものを降らされた、そのマリア様は、この9月の御出現をもって、どれほど力があり、威厳があり、私たちの為に近寄って、私たちに恵みをもたらそうとしているか、望んでいるか、という事を目に見える形で教えてくれました。この御出現を見て、その場に居合わせた人々は司祭たちも全て分かりました、「マリア様だ。マリア様しかあり得ない。」
これは、私たちが確実にマリア様の御出現ファチマを信じ、そしてそのメッセージの真実さを信じ、そしてそれを実行する事ができる為です。「あぁ、」私たちも言わなければなりません、「あぁ、マリア様の言葉を聞いて、それを実行する事は何と幸いな事か!」と、それがする事ができるように、マリア様は9月の御出現をなさってくれました。10月の準備をなさってくれました。
ところでこの雪のような、花びらのようなものが天からたくさんバラバラバラ、チラチラチラと降りて来たというのは、9月だけではありませんでした。9月13日だけではなく、8月13日もありました。後には歴史の記録によると、1918年の5月13日にも、1年後の5月13日にもありました。また7年後の1924年の5月13日、レイリアの司教様がその時にも居合わせて、それを目撃して確認しているのですけれども、その時にもバラの花びらのようなものが天からたくさん降って来た、というのを見ています。
マリア様は私たちにお恵みの雨を降らしたいと思っています。「さぁ、私の御心の中に入りなさい。私の御心の中に入れば、たくさんそのお恵みを受ける事でしょう」と招いています。
この世は汚い事でたくさんです。不潔な事や、嫌な事や、もうゴミ同然のつまらない事があたかも大切であるかのように言われています。そして多くの人は、その汚ならしい事をあたかも何か大切であるかのように考えています。残酷で、意地悪で、醜くて、非道な事が、あたかも大切であるかのように考えられています。
しかしマリア様は、もっと高貴で、もっと美しく、もっと神聖で、もっと威厳があり、もうこの地上のものとは思えないような美しさを私たちに見せて下さいます。
「あぁ、あなたの御顔はどれほど美しい事か。“Vultum tuum deprecabuntur omnes divites plebis.”」
そしてマリア様がその美しさを見せて、その力があるのを見せて、そのお恵みの雨を降らしながら、私たちに招いています、「さぁ、私を望む者よ、私の御心の中に入りなさい。私の方にやって来なさい。“Transite ad me omnes qui concupiscitis me.” 私の御心の中に入りなさい。私はあなたを決して見捨てたりはしません。私の御心はあなたたちの避難所です。あなたたちを守る、誰も害を与える事ができない所です。天主へと導く道となります。さぁ、私の御心の中に入ってきなさい。」
今日、マリア様は御心を大きく開いて、私たちを招いています。
どんな決心をしたら良いでしょうか?
もう迷わず、マリア様の御心に行きましょう。マリア様の御心をお愛しし、その御心をお慰め致しましょう。マリア様の言葉を聞いて、それを実践しましょう。
そのような人々は、何と幸いな者でしょうか。
「私を望む者は、私に来なさい。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。