アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
待降節第一主日のミサの入祭唱 Ad te levavi を黙想しましょう。
典礼暦の最初の歌は詩篇24から取られています。信頼の詩篇です。天主と私たちの霊魂との関係を歌う詩です。
Introit : Ad te levavi
Ad te levavi animam meam! Deus meus, in te confido; non erubescam. Neque irrideant me inimici mei : etenim universi, qui te expectant, non confundentur.
Vias tuas, Domine, demonstra mihi, et semitas tuas edoce me.
御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、我が天主よ、御身に信頼し奉る、私は顔を赤らめることなからん。また我が敵どもは我を侮辱せぬことを、何故ならば御身に期待する者たちはすべて困惑することなからんがためなり。
主よ、我をして御身の道を知らしめ給え、御身の小道を我に教え給え。(詩篇24:1-4)
詩篇とは、聖霊によって息吹かれて書かれた祈りの本です。天主の御前において人間の持つべき態度と感情とを教えるものです。人間の言葉で書かれていますが、天主によるものです。イエズス・キリストのご降誕の約1000年前に、ダヴィド王の時代にかかれたものです。イエズス・キリストも詩篇で祈りました。
私たちの最大の悪とは、天主に対して罪を犯すこと、天主を忘れること、創造主である天主と無関係であろうとすることです。
そこで、教会は典礼暦年の初めに、ちょうどファチマの天使が教えてくれたように「我が天主よ!」と祈るように教えます。
御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、
我が天主よ、御身に信頼し奉る!
入祭唱のメロディーのクライマックスは、この「我が天主よ」Deus Meus です。メロディーは、「御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、我が天主よ」と上に上がっていきます。
歌の中で、non さらに neque という否定の言葉が力強く歌われます。キリストの敵が存在し、敵は強く私たちに反対します。そこで戦いがあることがメロディーによって表されます。
Non erubescam. Neque irrideant ... non confundentur. 私は顔を赤らめることなからん。また我が敵どもは我を侮辱せぬことを。... 御身に期待する者たちはすべて困惑することなからん。
主に期待する霊魂たちのことを表す内容はほぼ同じようなメロディーで歌われます。それは次の部分です。
Non erubescam. 私は顔を赤らめることなからん。
Non confundentur. 困惑することなからん。
しかしもっとも美しいメロディーは、動詞 exspéctant (彼らは期待する)です。あたかも完璧な信頼をこめて待ち望んでいるかのような感じがします。ここがこの歌の頂点です。
更におもしろい点は、入祭唱の最初の部分は一人称単数(levávi, confído) ですが、後半部になると複数になります。典礼暦の最初において、個人的にも、団体的にも、私たちに祈らせています。典礼で歌われる歌は、霊魂の歌であり、キリストの歌であり、教会の歌であり、私たちの歌です。私たちは祈るとき、一人であっても教会と共に祈り、特に全世界の戦闘の教会の全ての霊魂たちとともに祈っているのです。
待降節は、待望の時期であり、希望の季節です。「御身に期待する者たちはすべて困惑することなからん」と。私たちの待望は、騙されることがありません。期待が外れることがありません。約束の通り、私たちを救うメシアが来られます。もうすぐ生まれる幼子イエズスにおいて全ての約束が含まれているからです。何故なら、この幼子は真の天主であるからです。
待降節は、待ち望む時であり、喜びのときです。何故なら、すでに聖母の御胎内に救い主はおられるからです。この幼子は成長すると、私たちに道を示してくださるでしょう。天国へと導く道、ご自身へと導く道を、真理、命を。主よ、御身こそ、道、真理、命であります。ですから、御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、我が天主よ、御身に信頼し奉る、私は顔を赤らめることなからん!
【参考】修道院では、典礼暦の最初の歌なので、入祭唱を歌う前に、「聖グレゴリオのトロープス」と呼ばれている、Sanctissimus namque Gregoriusを歌ってから、入祭唱を歌います。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
待降節第一主日のミサの入祭唱 Ad te levavi を黙想しましょう。
典礼暦の最初の歌は詩篇24から取られています。信頼の詩篇です。天主と私たちの霊魂との関係を歌う詩です。
Introit : Ad te levavi
Ad te levavi animam meam! Deus meus, in te confido; non erubescam. Neque irrideant me inimici mei : etenim universi, qui te expectant, non confundentur.
Vias tuas, Domine, demonstra mihi, et semitas tuas edoce me.
御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、我が天主よ、御身に信頼し奉る、私は顔を赤らめることなからん。また我が敵どもは我を侮辱せぬことを、何故ならば御身に期待する者たちはすべて困惑することなからんがためなり。
主よ、我をして御身の道を知らしめ給え、御身の小道を我に教え給え。(詩篇24:1-4)
詩篇とは、聖霊によって息吹かれて書かれた祈りの本です。天主の御前において人間の持つべき態度と感情とを教えるものです。人間の言葉で書かれていますが、天主によるものです。イエズス・キリストのご降誕の約1000年前に、ダヴィド王の時代にかかれたものです。イエズス・キリストも詩篇で祈りました。
私たちの最大の悪とは、天主に対して罪を犯すこと、天主を忘れること、創造主である天主と無関係であろうとすることです。
そこで、教会は典礼暦年の初めに、ちょうどファチマの天使が教えてくれたように「我が天主よ!」と祈るように教えます。
御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、
我が天主よ、御身に信頼し奉る!
入祭唱のメロディーのクライマックスは、この「我が天主よ」Deus Meus です。メロディーは、「御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、我が天主よ」と上に上がっていきます。
歌の中で、non さらに neque という否定の言葉が力強く歌われます。キリストの敵が存在し、敵は強く私たちに反対します。そこで戦いがあることがメロディーによって表されます。
Non erubescam. Neque irrideant ... non confundentur. 私は顔を赤らめることなからん。また我が敵どもは我を侮辱せぬことを。... 御身に期待する者たちはすべて困惑することなからん。
主に期待する霊魂たちのことを表す内容はほぼ同じようなメロディーで歌われます。それは次の部分です。
Non erubescam. 私は顔を赤らめることなからん。
Non confundentur. 困惑することなからん。
しかしもっとも美しいメロディーは、動詞 exspéctant (彼らは期待する)です。あたかも完璧な信頼をこめて待ち望んでいるかのような感じがします。ここがこの歌の頂点です。
更におもしろい点は、入祭唱の最初の部分は一人称単数(levávi, confído) ですが、後半部になると複数になります。典礼暦の最初において、個人的にも、団体的にも、私たちに祈らせています。典礼で歌われる歌は、霊魂の歌であり、キリストの歌であり、教会の歌であり、私たちの歌です。私たちは祈るとき、一人であっても教会と共に祈り、特に全世界の戦闘の教会の全ての霊魂たちとともに祈っているのです。
待降節は、待望の時期であり、希望の季節です。「御身に期待する者たちはすべて困惑することなからん」と。私たちの待望は、騙されることがありません。期待が外れることがありません。約束の通り、私たちを救うメシアが来られます。もうすぐ生まれる幼子イエズスにおいて全ての約束が含まれているからです。何故なら、この幼子は真の天主であるからです。
待降節は、待ち望む時であり、喜びのときです。何故なら、すでに聖母の御胎内に救い主はおられるからです。この幼子は成長すると、私たちに道を示してくださるでしょう。天国へと導く道、ご自身へと導く道を、真理、命を。主よ、御身こそ、道、真理、命であります。ですから、御身に向かってわれは我が霊魂を上げ奉る、我が天主よ、御身に信頼し奉る、私は顔を赤らめることなからん!
【参考】修道院では、典礼暦の最初の歌なので、入祭唱を歌う前に、「聖グレゴリオのトロープス」と呼ばれている、Sanctissimus namque Gregoriusを歌ってから、入祭唱を歌います。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)