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2017年聖母小黙想会【12】 8月14日「聖母と日本との深い愛の結びつき」を黙想する

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聖母小黙想会【その11】 2017年8月14日(月)
小野田神父 霊的講話 [8]
「聖母と日本との深い愛の結びつき」

聖母の黙想会はまだ明日も続きます。黙想会は明日の聖母行列をもって終了します。

でも特別の講話と黙想はこれで終わりなので、ぜひマリア様が日本をどれだけ愛しておられるか、マリア様と日本との繋がりがどれだけ緊密であるか、特にファチマのマリア様と日本との関係が深いという事をみましょう。

それから明日、聖母行列の最後にする「奉献」について、奉献とは一体どうあるべきか、という事を黙想します。話が行ったり来たり、あっちにこっちに行ったりするかもしれませんが、どうぞ堪忍下さい。

まず、「日本に最初に福音を伝えたのは、ポルトガルという国だ」という事をよく知って下さい。天主様の御摂理によって、ポルトガルが選ばれました。

ポルトガルというのは、イベリア半島の先っちょに付いている海岸の国で、その一番の首都は港町のリスボンです。ポルトガルはスペインから最初に教皇様を領主として独立しました。

ポルトガルはその当時から、「マリア様の土地」と言われていて、特別の特権を持っていました。特に使徒職に宣教についてポルトガルは、パトロナードと言われる特権を持っていました。これは教皇様がポルトガルという国に、特にポルトガルの王に、宣教の為の他の国々には無い特権を与えて、そして王がその王の使命として、宣教地での教会を建てたり、司教団にするとかという事について、全く王に委任していました、任せていました。

それでポルトガルというのは、国が元々海岸沿いの小さな国だったというので、宣教する時にも、どこかの土地を全部占拠してしまう、あるいは占領してしまうというのは全く頭にありませんでした。ポルトガルがよく普通やろうと思ったのは、海岸沿いの拠点を、ちょっとした所を自分の安全な港の拠点として置いて、そこをセンターとして宣教するというやり方でした。

それにひきかえスペインは、ポルトガルを除いてイベリア半島を全部持っている国なので、ですからスペインはそこに行くと、征服者として、コンキスタドールとしてよく行動しました。例えば、そこを自分の王の下に置く、「スペイン王の配下のもとに置いて、自分のものとする」としていました。ですからメキシコとか、あるいはラテンアメリカはスペインの支配下に置かれます。

ところが、実はブラジルもポルトガルの領土になるのですけれども、しかしブラジルは例外的でした。

ポルトガルは例えば、インドのゴアとか、あるいはインドシナのマラッカとか、あるいはマカオとか、そういう港町を転々と拠点にして、あとは海岸端をキリスト教的にさせようと思っていました。海岸に沿って宣教を始めていきました。

ところがスペインは、例えばフィリピンもそうでしたけれども、フィリピンはスペインのものとなりました。

フィリピンはスペインが宣教しましたけれども、日本はポルトガルが宣教しました。その宣教したその国の違いによって、違いがあります。

ですから昔から日本とは、ポルトガルの繋がりが非常に強かったのです。

一体ポルトガルの、イベリア半島の小さな所から西の果てから、日の出ずる日本まで、正義の太陽イエズス様の光を届けようとしたのは、聖フランシスコ・ザヴェリオでした。聖フランシスコ・ザヴェリオは、ポルトガルの王の命令によって、教皇様の公使として、パウロ三世の代理として教皇の代理として、まずインドのゴアに、そして遂には日本の鹿児島に上陸しました。

上陸したその時は、最初に福音をもたらそうとしたその日が、聖母の被昇天の日でした。1549年8月15日です。

ですからこの8月15日というのは、日本にとっては非常に意味が深く、マリア様の大祝日に来た、ポルトガルから来たという事で、しかもイエズス会の聖フランシスコ・ザヴェリオが教皇の大使として来たという事は、非常に意味があります。

日本人もすぐに後に、大名の御曹子たちが日本の特使として大使として、ポルトガルのリスボンを通して教皇様に会いに行きます、イエズス会の指導の元で。私たちも今度ファチマに行く時には、まずリスボンの空港に着いて、リスボンの港を見る事ができるといいですけれども、そのリスボンの港から、多くの宣教師たちが日本にやって来ました。

8月15日はそれだけではありません。聖フランシスコ・ザヴェリオが聖フランシスコ・ザヴェリオになったのも、8月15日があったからです。これはパリのモンマルトルという所で、イエズス会が結成された時にやはり、8月15日の被昇天の大祝日に、イエズス会ができました。

聖イグナチオ・ロヨラと聖フランシスコ・ザヴェリオ、そしてその他の同志が結成したのです。その内の1つに、清貧・従順・貞潔などの誓願の他に、「聖地に行く」という、「できれば聖地に行きたい。」なぜかというと、聖イグナチオ・ロヨラが聖地に行きたくて行きたくてたまらなかったのです。

「できれば聖地に行きたい。」「行きたい」という事で請願を立てます。でも聖フランシスコ・ザヴェリオは聖地にエルサレムに行く代わりに、日本に来ました。インドと日本に来ました。8月15日。

この日から、私たちの日本には、多くの光とお恵みが雪のように降って、大人も子供も、大名も貧しい人も、洗礼の恵みを受けてきました。日本の数多の人々の体の中には、イエズス様の御体を肉として、御血を血として、多くの日本人が司祭になり、教会が建てられて、聖母被昇天の教会、マリア様のロザリオの教会などたくさん建てられて、そして聖母行列、御聖体行列、クリスマスなどはものすごい人が集まってミサをしていました。

何十万人もの人々が洗礼を受けました。それだけではありませんでした。日本人はイエズス様の御血に養われたのみならず、自分の血をイエズス様の御血に合わせて捧げてきました。26聖人。205福者。更に118名の福者。

大名の子供たちが、「ローマに行った!リスボンに行った!教皇様と会った!」と言ったとすれば、殉教者たちは、「俺たちは天国に直行する!イエズス様に王の王に会う!マリア様に会う!」と、特別の愛をもって殉教していきました。その殉教者の中には、特にマリア様について熱心に祈っていました。

キリシタンは、「貧しい人がいる」というとそれを助け、「病気の人がいる」というと看病し、病院を建て、「孤独の人がいる」というと慰めて、孤児を引き取り、寡婦を養い、隣人に奉仕して、それで、その為に、愛徳と憐れみの事業を行ったがために、「そのような事を教える邪宗門を信じた」と、拷問を受けて殺されていきました!

ロザリオの会というのは、ドミニコ会の指導者によって創られました。最初は江戸で創られました。江戸であまりにも何万人と会員になるので、長崎でも創られました。1ヶ月に2万人会員ができました。皆ロザリオを首にかけて、腕に巻いて、ロザリオの話をしない人はいなかったそうです、最新のファッションでした。信者でない人もロザリオをかけていました。

豊臣秀吉なども非常に喜んで、南蛮からのロザリオを首にかけて見せびらかしていました。信者はもちろんロザリオを唱えて、「ロザリオのマリア様の御影がある」と言うと、もうそれを競って「欲しい!」と言いました。

聖母の連祷を皆暗記していました。殉教に穴に吊られながら唱えていたのも、聖母の連祷でした。一番最初に穴吊りにあったのが、福者ニコラオ福永です。イエズス会の会員でした。聖イグナチオの祝日に亡くなります、息絶えます。その時に、最初、水が欲しい、「喉が渇いた」と、すごい苦しんでいました。

役人が「もしも、お前、棄教したら水をやるぞ」と言ったら、ニコラオ福永は、「もういらない」と。なぜなら、「ある美しい女性の方がやって来て、私に水をくれたので、もういらない。」

そして聖母の連祷を唱えながら亡くなっていきました。マリア様は殉教者をこうやって、記録に残されていなかったとしても、慰めてやって来ました。

島原では今行くと、この打たれた弾がロザリオに代わって出てくるのです。島原にいた人たちを、それをはるかに超えるものすごい武士たちがそれを包囲して攻撃するのです。けれども、なかなか降伏しません。城は落とせません。たまたま一人の寝返った者がでて、彼をお金で買って、彼が城の中の内情とか地図を告白したが為に、それでそこから弱点が知られてしまったのです。それにもかかわらず、皆ロザリオを唱えていました。

雲仙の殉教者たちは、特に御聖体に対する信心が強くて、殉教する時は、「いとも尊き御聖体は讃美せられさせ給え!」御聖体の旗を自分の旗としていましたけれども、島原でもやはり、御聖体の旗を軍旗としていました。

いろいろな信心会がありました。信心会はラテン語でコンフラテルニタスと言われています。その中で一番人気があったのは、ミゼリコルディアの奉仕の組、ロザリオの組、御聖体の組でした。

「御聖体」と「マリア様」、これはキリシタンにとって決して分かつ事ができないものでした。

後に、聖ドン・ボスコが夢を見ます。教会が嵐の中に、もう沈没するかもしれないような時に、色んな船がチンピラの海賊の船が、教会の船を周りを囲んで攻撃するのです。その攻撃の弾と見えたのは、悪い本とか不信の本とかだったのです。そして教皇様の乗っている船はもう沈没するか、弾によって倒れたり、多くの人が倒れたり、「もうこのままダメだ!」という時に、いきなり2つの柱が現れて、1つは「御聖体」もう1つは「マリア様」です。

そこで教皇様がその2つの柱に船を留めると、ピタリと攻撃が止まって、教会はまた栄え始めた。日本の教会も全く同じでした。御聖体とマリア様、この2つにがっしりと繋がっていました。

長崎に巡礼した時に、「キリシタンが、七代ずっと続いてはっきりと教理を覚えていて、そして誰がどれが本物のパードレで、そうでないか偽者か、という事を七代までちゃんと伝えられた事ができた地域には、必ずマリア様の御像があった、マリア様の信心があった。そうでないところは、伝えがあまりうまく伝えられなかった」という事を知りました。マリア様の御像はどんな時であっても隠されて、ロザリオを唱えながら、喜びと苦しみと栄えの玄義を黙想しながら、信仰を保ってきました。

考えてもみて下さい。もしも、皆さんの七代末の子孫は、まだ聖ピオ十聖会の司祭を待っている、ということを。その様なことが起こったとしたら奇跡です。大奇跡です。

毎年色々な尋問や迫害があったのです。それにもかかわらず信仰を保つ事ができたのは、マリア様のおかけでした。マリア様に関する遺物が、大学の博物館や資料として残っています。日本の色んな所のキリシタンの遺物の中に、マリア様のものがたくさんあります。日本のキリシタンがどれほどマリア様の事を愛していたかという事は、その遺物を見ると分かります。これを宝として持っていました。

そこで悪魔は、非常に恐ろしい事を考えました。この自分はその方の踵によって踏まれたので、「マリア様を踏んでやろう」と。そこでピエタとか、マリア様の御像、あるいは御メダイを、毎年信者に踏ませようとしました。二百年間、二百何十年間。こうやって迫害を受けたキリシタンと一緒にマリア様も迫害を受けて、苦しまれました。

そういう最も厳しい迫害の時に、イタリア人のジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチという神父様は日本のことを知り、「こういう日本に行きたい」と思っていました。

それで日本に何かどうしたら良い、何を持って行ったら良いか、その中でもちろん持って行くミサの道具とか、色々な物に制限がありました。その中でも、「特別にこれを持って行く!」といって特別に選んだのが、「御悲しみの聖母」です。

今でもこれは東京の国立博物館にあります。涙が一滴、頬に垂れていて、親指を出している悲しみの聖母です。当時日本は、慰めもない、深い悲しみの中にいた、十字架の迫害と、弾圧と、殉教の血で染まった時代でした。その時にマリア様も、涙を流して日本にやって来ました。今でもシドッチ神父様の持って来たマリア様のお姿が東京にあります、残っています。

シドッチ神父様はそのまま数年日本にいたまま、日本の為に捕えられて、地下牢で殉教しました。新井白石と尋問して、「立派な教えだ。」日本の最高の頭脳が、「立派な教えだ。この神父様を返したい」と「何とかしたい」と思ったのですが、結局「ここに残る」という返事を受け、新井白石は何もできませんでした。

マリア様によって守られた日本の隠れキリシタンたちの信仰は、フォルカード神父様が那覇にやって来て、沖縄にやって来て、そこで日本を、「日本の宣教の為に一番必要なのは何か」というと、「マリア様の汚れなき御心に奉献する事だ」と信じて、日本をまず汚れなき御心に奉献しました。1844年の5月1日です。その「汚れなき御心に奉献する」という事の素晴らしいこのアイデアは、一体どこから来たのでしょうか?

おそらく、パリの勝利の聖母、当時その主任司祭のデジュネット神父様、モンマルトルのすぐ下の、実は良くない風紀の乱れた地区にある教会で、主日にもあまりミサに来る人がいませんでした、数人しかいません。はい、数人です。何百人の間違いではありません。ほんの数人でした!

「あぁ、本当に今日はダメだ、本当に残念だ。」特にフランス革命の直後でしたので、もう信仰はほとんど忘れられているような所でした。それでも聖フランシスコ・ザヴェリオのその祝日に、聖フランシスコのミサをする時に声を聞くのです、「この教会を、私の汚れなき御心に奉献しなさい。」

「ん?気のせい?」と思っていると、「この教会を私の汚れなき御心に奉献をしなさい。」

「ちょっとへんだな?でも気のせいだ。」

しかし3回も、ミサの途中に聞きます。

神父様は「これは本物だ」と思って、その次の主日の時に、本当にその通りにします。すると教会は、今まで数名だったものが、信者さんでごった返るようになります。そのそれが汚れなき御心に対する信心のセンターとなるのですけれども、リジューの幼きイエズスの聖テレジアもそこに巡礼に行きます。

フォルカード神父様も、おそらくその話を聞いたに違いありません、ちょうど同じ時代です。日本をすぐに聖母の汚れなき御心に奉献します。このフォルカード神父様は、実は日本で宣教したかったのですけれども、日本にいる事はできませんでした。後にフランスのルルドで、聖ベルナデッタのいた修道院のヌヴェールの司教として、ベルナデッタがマリア様に自分を奉献する、その時の立会い人になっています。もちろんマリア様はルルドで、日本の建国記念日に現われました。もちろんマリア様は色んな日を選ぶ事ができました。2月11日を選ばれました。「私は、無原罪の御孕りです。」

ではキリシタンたちにとって、本物のパードレ、本物の伴天連、天国に私たちを連れて行って、一緒に伴って連れて行ってくれる人、伴天連、パードレ、そしてそれを区別して、そして私たちの信仰を守って下さる一番重要な方は誰か。2つの単語でした。「サンタ・マリア」です。はい、「サンタ・マリア」。

そこで、フランス寺が建てられた、遂に外国のお寺が建てられたのです。

隠れキリシタンたちは、政府の目を、まだ幕府の厳しい目を、監視の目を伺いながら、信仰告白をすべきかしないか、本物かどうか、ここで言ってしまっては、生きるか死ぬか、殺されるか殺されないかの時でした。非常に慎重に、フランス寺にやって来た一団の人々がいます。

1865年3月17日の事でした。まず聞いたのは何か。

「サンタ・マリアの御像はどこ?」

そしてプチジャン神父様が、マリア様を見せます。

すると人々は「あぁ、サンタ・マリア様!」、「あぁサンタ・マリアだ」「サンタ・マリアさまだ」「あぁサンタ・マリア様!」「マリア様!ジェズス様を連れてらっしゃる!」「あぁ!これだこれだ!」「これこれ!」

そして「あなた様の心と私の心は同じ。」「え!?」

そしてこうやって、キリシタンの七代の後の子孫が、マリア様を通して発見されました。

実はその人たちは、その前にプロテスタントの所にも行ったようです。そしたらプロテスタントの牧師さんが、「あぁ、妻を紹介します。」「あぁ、そうですか、ノーサンキュー」と言って帰って行ったそうです。

なぜかというと、もちろんこのキリシタンが求めていたのはプロテスタントの奥さんではなかったからです。イエズス様のお母様でした、サンタ・マリアでした。

このキリシタンたちは、実はその後に流刑の処罰を受けます。でもそうやって流刑された子供たちをマリア様は、その流刑の地まで行って慰めて、励ましていました。有名なのは、ジョアン・バプチスタ安太郎が津和野にいた時に、「青い服を着た美しい女性の方が、真夜中になると私に話しかけて下さる」と言って殉教しています。

こうやって、1917年のポルトガルのファチマで、人類の為にマリア様は私たちに、ご自分の汚れなき御心を教えて下さいました。そして、「この御心に奉献するのを望む、御心に対する信心を確立する事を天主は望んでいます」と言われました。日本は既にそれよりもずっと前から奉献されていたのですけれども、ポルトガルでようやくその事を仰いました。

しかもその同じ年に、同じ100年前、ローマではコルベ神父様が特別のインスピレーションを受けて、「マリア様の為に何かをしたい。マリア様の為に自分を全て奉献する。汚れなき聖母の、インマクラータの騎士会を創る」という特別の信心会を創りました。そしてこのコルベ神父様を、まず祖国ポーランドで働かせるのですけれども、このコルベ神父様を送った行った別の国があります。日本でした。

他に色々な国もあったかもしれません。コルベ神父様を受け入れるにふさわしいような国々もあったかもしれません。もっとマリア様を愛するような国があったかもしれません。マリア様は、この100年前に選ばれた特別のこの男を、「日本に行け」と「長崎に行け」と送りました。

マリア様の道具として、コルベ神父様は世界の色々な所があったにもかかわらず、カナダのケベックもあっただろうし、ブラジルのサンパウロもあっただろうし、チリのサンチアゴもあったでしょうし、中国の上海もあったかもしれません。フィリピンのマニラもあったかもしれません。でもコルベ神父様は、日本に来ました。日本で無原罪の園を創立しました。

日本のカトリック信者の私たちの先祖が、全く何もできない、その意思決定に全く力がなかったにもかかわらず、日本は戦争に突入していきます。キリスト教は迫害を受けています。「キリシタン、外国の宗教だ」という事で、監視や意地悪を受けます。しかし日本の信者たちはそれでも、日本にいつも忠実で、日本の平和の為に、世界の平和の為に祈っていました。

日本の平和を、終戦を決定的にしたのは、長崎の大部分の信徒が原爆で亡くなって、犠牲として捧げられた時でした。そのちょうど8月9日、東京では御前会議があって、そして「戦争をこのまま続けるか、続けないか」、その会議が始まったその時に、原爆が長崎で炸裂しました。そして犠牲者となったのは、聖母の被昇天の為に準備をしていた、長崎の信徒でした。12000名の内の8500名が原爆で亡くなったそうです。大部分。するとその原爆の被害を受けた信徒たちは、「みははマリア、身も心も、とこしなえに捧げまつる」と言って、歌を何度も何度も歌って、息絶え絶えに歌って、亡くなっていきました。

長崎の、マリア様に捧げられた無原罪の御孕りに捧げられた大聖堂が、東洋一大きいと言われた大聖堂が、灰となって、夜中に崩れ落ちてしまうのですけれども、ちょうどその崩れ落ちたその瞬間、結局天皇陛下が、「戦争はもう終わりだ!」という決断をしました。

昭和天皇は民主主義を信じていたので、議会制度を信じていたので、議会が議員が決める大臣が決めるままに、「そうかそうか」と判子を打ってただけだったのですけれども、それを無視して、自分が「自分の意志はこうだ!」と決めた時が一生涯で2回ありました。1回は2.26事件という時で、もう1回はこの終戦の時でした。戦争を始めるのも本当は嫌で嫌で仕方がなかったのです。でもそれを言っちゃうと困るので最初には言うことがありませんした。しかし戦争を終える時には、天皇陛下は自分の意思をはっきり言いました。でも「それができたのも、長崎の信徒の犠牲があったからだ、それに違いない」と永井博士は言います。

横浜の教区長だった、戸田帯刀神父様という方がいて、この方は山梨の甲府の貧しい所で生まれた子供でした。頭が良くて、ローマに行って勉強して、そして日本に帰って来て、戦争が終わる為に夜中に起きて、毎日毎晩2時間、御聖体の前でファチマのマリア様にお祈りしていました。祈りと犠牲を捧げていました。50日間ずっとやっていたそうです。

戦争が終わった時、パウロ永井隆博士は、11月の慰霊祭の時に弔辞にこう言いました、「日本は、聖母に捧げられた国であり、我が浦上の天主堂も、特に聖母に捧げられたものである事を思い出します。信仰の自由の無い我が国において、豊臣、徳川の迫害にも滅ぼされず(マリア様のおかげで)、明治以来、軍・官民の圧政にも負けず(マリア様のおかげで)、幾多殉教の血を流しつつ400年(マリア様のおかげで)、正しき信仰を守り通した我が浦上教会こそ、まこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に捧げられたる清き子羊の群れではないでしょうか。浦上が浦上教会が世界中から選ばれて、燔祭に捧げられた事を天主様に感謝します」と、感謝しました。

こうやって、この戦争が終わった、マリア様からの終わったというその実はその日は、8月15日、マリア様の被昇天の日でした。

すると日本の司教は、「これはマリア様の御取り次ぎでなければあり得ない。」なぜならば、日本の国はもう国民一丸となって、竹槍を持って、「もう全滅しても自分たちは戦うのだ!」と言っていた、小学生も竹槍を持って準備していたのですから、「これで降参だ」なんて言う事は考えられませんでした、実は、本当は。

しかしそれが聖母の被昇天の日に、「戦争は終わりだ」という事が分かり、そのお恵みを受けたので、日本の司教団はすぐに、「マリア様に、日本を聖母の汚れなき御心に奉献しよう」と決意しました。

ファチマのマリア様は、聖母の汚れなき御心についての信心も話しました。それと「そのファチマのメッセージの続きだ」と言われるものを、今度はマリア様は日本の秋田で、わざわざ日本に来られてお話になりました。するとポルトガルのファチマで仰った続きを、マリア様は仰っています。

「教皇、司教、司祭の為にたくさん祈って下さい。あなたは洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭の為に祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさんたくさん唱えて下さい。今日の事をあなたの長上に話して、長上の仰るままに従って下さい。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」と。

「私の娘よ、私の修練女よ。全てを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐して下さい。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いの為に祈って下さい。ここの一人一人が、私のかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さぁ、一緒に唱えましょう。償いの為に祈って下さい。教皇、司教、司祭の為に祈って下さい。」

「私の娘よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、私の話を聞きなさい。これは大事な事です。そして、あなたの長上に告げなさい。多くの人々は、主を悲しませております。私は、主を慰める者を望んでおります。天の御父の御怒りを和らげる為に、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。御父がこの世に対して怒り給うておられる事を知らせる為に、御父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしております。御子と共に、何度もそのお怒りを和らげるように努めました。御子の十字架の苦しみ、御血を示して、御父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりを捧げて、お引止めしてきました。祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、御父のお怒りを和らげる事ができます。あなたの会にも、私はそれを望んでいます。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いの為に、回心して祈って下さい。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して贖罪の為に捧げて下さい。各自の能力、持ち場を大切にして、その全てをもって捧げるように。在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められています。形にこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするように祈って下さい。」

「あなたが心の中で思っている事は、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしている私の修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となる為に、3つの釘で十字架に付けられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の3つの釘です。その中でも基礎は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、良き理解者となって、導いてくれるでしょう。」

第3のメッセージです。
「愛する私の娘よ、これから私の話す事をよく聞きなさい。あなたの長上に告げなさい。前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないならば、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしております。その時、御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。良い人も悪い人も共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。生き残った人には、死んだ人々をうらやむほどの苦難があるでしょう。その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。毎日ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって司教、司祭の為に祈って下さい。悪魔の働きが教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。私を敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒されて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、御父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われる事が私の悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の赦しは無くなるでしょう。勇気をもって、あなたの長上に告げて下さい。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まなければならない事を、ひとりひとりに伝えて、熱心に祈る事を命じるでしょうから。」

「まだ何か聞きたいですか?あなたに声を通して伝えるのは今日が最後です。これからは、あなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えて下さい。迫っている災難から助ける事ができるのは、私だけです。私に寄りすがる者は、助けられるでしょう。」

と、ファチマの続きを、日本に来られて仰って下さいました。ファチマのロザリオの各玄義の各連の祈りは、ファチマではマリア様が仰って下さいましたけれども、秋田では天使がシスター笹川に教えました。世界、色んな言葉と色んな国と色んな民族がありますけれども、このファチマのロザリオの祈りを教えてくれたのは、ポルトガル語と日本語だけでした。

そうして、悲しみのマリア様は、1975年の初土曜日から1月の初土曜日から、1981年の9月15日の悲しみの聖母の日まで、101回の涙を流します。日本の救霊の為に苦しむ涙です。それで同時に、日本をこんなにも愛しているにもかかわらず、無視されて、冷淡で、無関心で、マリア様の愛は足蹴にされている事を嘆いている涙でした。

天使はある時言います、「日本はマリア様に捧げられたという事を喜んでいるけれども、この信心は全く無視されている。非常に悲しんでおられる」と。

そこで、日本のカトリックの歴史の最初から深く根付いている、マリア様に対する信心と愛と、この汚れなき御心に対する奉献のこの精神は、今でもなければなりません。

マリア様をこのまま泣かせて、「それで平気だ」と言うわけにはいきません。私たちは聖母の小黙想会をこうやって、そしてその最後の冠として、最後の終わりの締め括りとして、マリア様に日本を奉献する、汚れなき御心に日本を奉献しなければなりません。

もしも日本がこのまま存続するか、滅びてしまうかは、マリア様の汚れなき御心を日本が尊重するか、しないかにかかっています。残念ながら、その事を理解その緊急性を分かる人は、残念ながらあまりいません。これがマリア様の御涙の理由の一つでもあります。

本当ならば、日本の司教様たちが皆に呼びかけて、「おい、日本の司祭たちよ、日本の全ての信者の皆さん、日本はマリア様からこれほど愛されている国ですから、何とか私たちはその愛に報わなければなりません。ですから、8月15日は仕事があっても休んで下さい。マリア様の特別な日として、この日はミサに来て下さい。マリア様をお慰めする為に、聖体拝領をして下さい、告解をして準備して下さい。聖母行列をして、マリア様を崇めましょう。キリシタンの時代からやっているこのマリア様の祝日を祝いましょう。そして日本の昔からの伝統に従って、日本の司教たちがやっていたように、最初のフォルカード神父様がやって下さったように、それを脈々と続いて、今年このファチマの100周年で、日本をマリア様の汚れなき御心に奉献しなければなりません。その奉献を更新しなければなりません。さあ、日本の為にも、世界の平和の為にも、日本の信者さん、教会に来て下さい!教会が小さかったら、甲子園に集まって下さい!甲子園でも足りなかったら、東京ドームに来て下さい!」と、本当ならばお話して下さって、リーダーシップをとって日本の人々に、是非このマリア様への愛を奉献をするようにして下さらなければなりません。

が、私の残念ながら知る限り、そのそうして下さるというニュースはありません。

もしもできれば、本当に日本中の司教様たちに会いに行って、「司教様、お願いです!跪いてお願いします!どうぞお願いですから、マリア様に日本を奉献して下さい。日本の子孫が、日本の平和の為に、日本の子孫代々の為に、どうぞなさって下さい!」とできるならばお願いしたいくらいです。

持っている力をかけて、できるだけの事をして、「本当に、司教様、」もしもそうして下さるならば、喜んでお願いしたいところです。

しかし、もしも司教様がなさって下さらない、お願いしてもなさって下さらない、神父様にお願いしてもやって下さらない、という事であれば、これは緊急手段を取るしかありません。もしも誰かが今、「命がもうこれで危ない」という時に、「助けて欲しい!」と言う人がいる時に、司祭は通って、お医者さんも通る時、看病する人がいなかったら、たとえ医者の免許を持っていなくても、行って何か応急手当をしなければならない義務があるじゃないでしょうか。もしもそれをそのまま放っておいたら、これは殺人を援助した、殺人幇助の罪に問われてしまいます。

そこで、カトリック教会から真に正式に公認されている、1970年11月1日に創られた修道会の、聖ピオ十世会の修道会の一員として、そしてその正当な長上であるフェレー司教様から、「日本で働け。」そのアジア管区の管区長から、「日本で働け」と言われた、その「日本の霊魂の為に応急手当てをせよ!」と言って命じられた、その命令とその義務と緊急状態を見て、できる限りの、私に与えられたできる限りの力で、権能で、力で、この伝統を明日続けようと思っています。

ですから、もちろん日本の司教様がして下されば良いのですけれども、それを補うつもりで、その地位にはないのですけれども、しかしできる限り応急手当てをして、日本を、まず私たちの全ての信者さんと、そして日本の国民と日本にいる全ての人々を、マリア様の汚れなき御心に奉献します。憐みのマリア様の御憐れみにひたすら乞い願って、この奉献を顧みて下さるようにお祈り致しましょう。

「奉献」には色んな意味があります。

マリア様はロシアを、聖母の汚れなき御心に対する信心の1つとして、聖母の汚れなき御心に対する「奉献」という事を話します。このこれをポルトガル語では、“consagração”英語では“consecration”「聖なるものとする」という言葉を単語を使うのです。

よくこの「聖なるもの」この“consecration”という事には、「聖別する」という単語を使います。なぜかというと、言葉の厳密な意味では、「天主様の為だけに、もう世俗のものには使わない為に、天主様に直接使う為に、これはしかも一時的ではなく、もう金輪際ずっとそうであるように、ある特別の儀式をもって、天主様に捧げる」という事を“consecration”と言うのです。

それで、4つの要素があります。

「天主様の直接的の奉仕する、その為にだけに使う」という事。

もう1つは、「その他天主以外のものには絶対使わない」という事。で、しかも「これは金輪際ずっとそうだ」という事。

そしてもう1つは、「特別な儀式をもって」という事。
例えばカリスを聖別する時に、「普通のもうその時には、ミサの時だけに使う」と、そして「もう他の、普通の一般の料理や何かの時には使わない」それから、「もう金輪際ずっとそうだ」という事で、私たちがいつも使っているこのカリスをですね、ティシエ・ド・マルレ司教様が特別の儀式でこう聖別してくれました、“consecration”してくれました。
あるいはカルメル会の童貞様が終生誓願を立てる時に、“consecration”「聖別」させられて、「もう祈りと奉仕の為に、天主様の為に生きる」という風になります。
司教様が司教様になる時も、「叙階」とだけ言うのじゃなくて、聖伝の言い方によると「聖別される」と言います。司教様はここに指輪をはめますけれども、これはもう、「教会と結婚する」という意味です。

ところで、マリア様にはそのそれよりも少しだけ大きな意味で、広義の意味で、“consecration”というのができます。なぜかというと、マリア様は天主三位一体とあまりにも密接に結び付いているので、救いの事に関して切り離す事ができないからです。

天主聖父の愛する娘、聖子の母、聖霊の浄配として、あたかも三位一体と一心同体であるかのようであるからです。そして三位一体は、イエズス様をマリア様に全く委ねて、イエズス様は自分をマリア様に全く奉献して、委ねて、マリア様のものとなって、金輪際マリア様だけのものになりました。それで聖霊も、マリア様と一心同体となり、聖霊の花嫁とも言う事ができるほど、聖霊が生きているかのように、マリア様と聖霊は1つになっています。これほどマリア様は三位一体の最高の傑作なので、天主と分かち難く結び付いているので、マリア様についても「聖別」“consecration”と言う事ができます、マリア様に自らを奉献する事。

なぜかというと、第2の理由は、「マリア様に奉献する」というのは、「マリア様を通して天主に奉献する」という事だからです。なぜかというと、マリア様は自分の事を自分に取っておかずに、全て三位一体に奉献するからです。

第3に、イエズス様がマリア様に全て自分を余す事なく与えて、30年間一緒にマリア様の為に生きたので、私たちはイエズス様の真似をしなければならない、キリスト信者というのはキリストに真似る者ですけれども、キリストに真似るという事は、つまりマリア様に全く身を委ねるという事です。

ただ日本語で訳す場合には、天主への特別の「聖別」というのと区別する為に、ここでマリア様に対する「奉献」という言葉を使いたいと思っています。

でもつまり、私たちは全くマリア様を通して三位一体のものとなって、イエズス様に倣って、という事で、天主に自分を聖別するという事と等しいのですけれども、その最も良い手段が、「マリア様に自分を奉献する」という事です。

このマリア様に対する奉献は、それでも色んな程度があります。

この洗礼を受けたばかりの赤ちゃんを、お母さんが、あるいは司祭が、「マリア様の元にこれを奉献します」と言う、でも赤ちゃんは、もちろんお母さんや司祭の事に同意しますけれども、でも赤ちゃんが自分の自らの力でその奉献という事をやったわけではありません。

「自分の意志をもって奉献する」といっても、2つの度合いがあります。

1つは、「自分の意思でマリア様に奉献する」と言いながら、マリア様の為に働くというよりは、「マリア様が、だから私たちの為に働かなければならない」という事をお願いする。「私はマリア様に奉献するので、マリア様はだから、ご自分のものとして私を守って下さい」という意味の奉献があります。「マリア様、私の眼を、耳も、鼻も、口も、手も全部マリア様に奉献します。だから、マリア様のものとして私を守って下さい」という奉献もあるのですけれども。

更に良い奉献は、もっと高度な奉献は、「マリア様のものとして奉献します。だから私は、マリア様の為に全てを使って生きます。マリア様の御心に従って生活します。マリア様の道具として使って下さい。私はマリア様の道具として生きます。マリア様のしもべとして生きます。マリア様の婢女として生きます。」マリア様も御告げの時に言いました、「主の婢女なり。仰せの如く、我になれかし。」それと同じ事を、私たちもマリア様に、「マリア様のしもべとして、どうぞ道具として使って下さい」という意味です。

そこで終戦後、日本の司教団がした奉献文を少し分析してみると、こういう言葉があります。

「願わくは聖母、御憐れみの御心を開きて、我らの願いを聞き入れ給え。我ら今、この世の全ての苦しみ、悩みを雄々しく耐え忍び、そを世の罪の償いとして天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心に倣いて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心する。」

そこで日本の司教団は終戦直後に「日本を奉献する」と言って、その奉献、「だから守って下さい」と言うのみならず、「私たちの全ての苦しみを耐え忍んで、それを償いとして捧げます。償いとして捧げて、御怒りをなだめるようにします。特に御心に従って、身を清く持して、聖なる一生を送ります」と約束します。

それから、マリア様の汚れなき御心の集祷文を引用して「全能永遠なる天主、主は童貞マリアの御心の内に、聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは御憐れみをたれ、かの汚れなき御心に日本を捧げ奉りたる我らをして、聖心に沿いて生くるを得しめ給え。」と祈ります。

つまり「私たちが主の聖心に沿いて生きます、主の道具として働きます」と言っています。

とても良い奉献文だと思います。私たちはこれを明日更新しようと思っています。

では、最後にめでたしを唱えて、祝福を受けて、解散とします。
この黙想は、ご自宅で後に個々でなさって下さい。

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