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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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2017年9月1日(初金)  「至聖なるイエズスの聖心への信心―集祷文が提案する2つのこと」

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2017年9月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2017年9月1日、9月の初金曜日です。今日の御ミサの後にいつものように聖時間を過ごす事に致しましょう。

“Deus, qui nobis in Corde Filii tui, nostris vulnerato peccatis,infinitos dilectionis the sauros misericorditer largiri dignaris.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

9月の初金曜日を迎えました。今日この御ミサと、この御聖体拝領と、聖時間を、イエズス様の聖心に対して、特に愛と、崇敬と、罪の償いを行う為にお捧げしましょう。

そこで、このイエズス様の聖心が私たちに何を要求されているのか?一体なぜ要求されているのか?という事を一緒に黙想して、この今日の御聖体拝領と聖時間をより良く過ごす為の黙想のきっかけとする事を提案します。

「イエズス様の聖心に対する信心」というのは、天主への愛の信心です。

この地上の私たちの全ての目に見えるもの、目に見えないものは、天主の愛の結果です。私たちが今こうやって息を吸って、心臓が動いて、食べるご飯があって、この平和な日本で生活する事ができるのも、天主の愛のお恵みです。私たちに家族や友人があって、私たちにこの今、ここでこうやっている事ができるのも全て、天主のお恵みです、愛の結果です。

この地上を全て美しくきれいに、太陽と月と星々と花々と森と動物たちを私たちの為に創った、私たちをすばらしくお創りになったのみならず、天主の愛は私たちにもっと与えようと思いました。それは、私たちが動植物のようなこの自然界だけの命だけではなく、真理を知り、永遠を知り、無限の幸せの天主の命の中に入る事ができるように、その為に私たちを創って下さいました。

私たちがその天主の計画を破壊した後にも、傲慢によってそれを打ち捨ててしまった、無に帰してしまった後にも、無限の憐れみによって、私たちを更に天主への愛に、天主の命へと引き上げて下さる為に、イエズス・キリストが天主の御一人子が私たちの元にへり下って人となられたのでした。

私たちを引き上げる為にへり下られた天主の御子、ここに天主の満ちる愛があります。イエズス様の御託身と贖いの業はまさしく、天主の憐れみの御業です。

特にこの憐れみの業が、天主の愛が燦然と輝いているのは、イエズス・キリスト様が作った秘跡の中にあります。特に「御聖体の秘跡」においてです。なぜかというと、御聖体の秘蹟において日々、毎日、世の終わりまで、あたかもイエズス様がマリア様の御胎内に人となって御宿りになったように、イエズス様は日々私たちの目の前で、パンの姿で、パンの見かけ外見のもとに、私たちの元に下られて、そして私たちの体内に、私たちと一つになろうと、私たちの糧となろうと、祭壇の上に留まり給うからです。私たち一人一人と緊密に一致する事ができるように、天主の御子が、無限の王である王の王が、パンとなって、私たちに与えられるからです。

この御聖体の中に天主の御子の、人となった天主の御子の御体と、御血と、御霊魂と、御神性が、充満の内に詰まっております。このちょうどイエズス様の心臓は、イエズス様の御体の中に御血が詰まっており、そしてイエズス様の御霊魂、御神性の充満があるのと同じです。

聖パウロは、「キリストの心を心とせよ」と私たちに命令しましたけれども、イエズス様の心を心とする事ができるように、私たちは御聖体が与えられて、イエズス様と一つとなる事ができるようになっています。

イエズス様は聖マルガリタ・マリア・アラコックに言いました、御自分の心臓を見せて、御自分の聖心を見せながら、愛徳の炎で燃える心臓を見せながら、「見よ、人類をこれほどまで愛した私の聖心を見よ。」これほど被造物を愛する天主の愛は、私たちの想像を超えるほどです。

そこで教会は、集祷文の中で非常に美しい言葉をもって私たちに祈らせます、「私たちの罪によって傷付けられた御子の聖心、御子の心臓において、そこにおいて私たちに憐れみをもって豊かに与えようとされる天主」

私たちがイエズス様の聖心を罪によって傷付けてしまったにもかかわらず、まさにその聖心をもって、私たちに更に憐れみをもって与えようとされるこの聖心を、私たちはその聖心の愛を考えるように、この聖心の愛の、無限の愛を、無限の宝に思いをやるように、と初金毎に招かれています。

イエズス様の聖心は、私たちに善を与える事しか考えていません。私たちを死から奪い取り、私たちに永遠の命を与え、自然の命を与え、永遠の命を与え、私たちを飢えから救い、養い、洗い浄め、自分の御血をもって洗い浄めて、平和を与える、安息を与える、この謙遜で柔和なその広大な愛、果てしない大海原のような愛を、愛徳を、私たちが考えるように、と招かれています。

イエズス様の愛は、「これを与えたからこうする」という計算をはるかに超えた、惜しみのない、「与えれば与えるほど嬉しい」という愛です。イエズス様の聖心がなぜ傷付けられたかというと、それは愛によって傷付けられているからです。目に見えないイエズス様の聖心、イエズス様の愛が、目に見える形で私たちに示されたからです。

永遠の昔から私たちの事を愛して、想い、考えて、そして私たちに祝福と幸せを与える事だけを望んでいるその愛。私たちを救う為に、私たちが永遠に幸せである為に、自分の事はすっかり忘れて、辱しめを受ける事さえも何とも思わずに、そして人となって、人間となって、貧しい生活を送られ、十字架の上で自分の命を与える事さえも喜んで望んだイエズス様の愛。私たちの為に十字架の死をも喜んで受けるほどさえ愛されたこの愛を私たちが黙想する、それが初金曜日です。

私たちを喜ばせて、幸せにして、豊かにして、祝福して、私たちに与え尽くして、自分の全てを与え尽くして、更にそれでも与え尽くしたいというイエズス様の無限の宝が詰まっている聖心、愛の聖心、愛熱の燃ゆる竃、それがイエズス様の聖心です。

いにしえの第1のアダムは、罪と傲慢によって、「天主の如くなろう」と思って全てを失ってしまいました。しかし第2のアダムは、謙遜と、愛徳と、従順によって私たちに全てを返し、更にそれよりも失ったものを取り返してもまだ余りがあるほどの、更に豊かなものを与えようとする愛でした。

今なお私たちを愛し続けるその天主の愛、私たちがどれほどイエズス様に対して悲しい思いをさせて、苦しみを与えたにもかかわらず、イエズス様は私たちを憐れみ続けるその愛、これがイエズス様の聖心です。

私たちを愛するが為に盲目となってしまった、あばたもえくぼとなってしまった、愛に傷付かれた心を持つイエズス様の聖心、死ぬほどまで私たちを愛してもやまないイエズス様の聖心、それがこの初金の聖心の信心の核心です。

この黙想は私たちに一体どのような事を促すでしょうか?

それは集祷文の次に書かれています。愛には愛をもってでなければ報いる事ができません。イエズス様が私たちから求めている事は、この愛を愛で返す事です。これほどまでも私たちを愛された御方を、どうして愛さないでいられるでしょうか。王の王が、自分の栄光の王国を離れて、私たちの元にやって来て、惨めな姿をとられた、身を卑しくして私たちの元に来られて、私たちを救う為私たちを探して、悪人であるかのように縄目を受けて鞭打たれて、そして死を受けられた。自ら進んで、御自分の命を私たちの為に与えたその王の王、永遠の天主、この世の最高の存在者、創造主、全知全能永遠の天主、この王の愛に、私たちはいつまで応えずに、冷たく冷淡でいる事ができるでしょうか。なぜ私たちはその本当の愛に応えようとしないのでしょうか。冷たく無関心でいるのでしょうか。

私たちにそのイエズス様の愛が理解できればできるほど、「イエズス様をますます愛したい。イエズス様を何とかしてお喜ばせしたい」と思わずにはいられなくなります。それがイエズス様の聖心の信心です。

そこで集祷文が提案するのは2つです。

私たちが信心の務めを果たす、イエズス様に対する崇敬の念を果たすという事です。つまりそれは何かというと、「イエズス様の考えを自分の考えとしたい。イエズス様の聖心を私の心としたい。イエズス様の望みやお好みを私の好みとしたい。イエズス様が御望みの事を私もしたい。イエズス様が嫌だと思う事を私も嫌だと思う」という事です。

もう、もはや自分の好みや自分勝手ではなくて、イエズス様のお望みのように、イエズス様を愛するが為に、イエズス様をお喜ばせする為に、イエズス様の為に何かしたい。私たちの為にこんなにも尽くして下さる、命さえもかけて下さった方の為に、私の命も使いたい、人生を使いたい。その為に、愛する方の為に愛をもって生きる。これがイエズス様の聖心に対する信心です。自分の望みではなくて、イエズス・キリストの望みを生きる。これが私たちのイエズス様の聖心に対する崇敬の表れです。自分を残らず捧げたい、与えたい。

愛する方に自分を与える、これこそが愛でなくて何でしょうか。キリストの為に生きるというのが、まさにこれです。この事は奉献、「イエズスの聖心に対する奉献」と言われています。

もう1つ、それのみならず、私たちがイエズス様のお望みの通りに生きるというのみならず、イエズス様のお望みの通りに生きない人、他の人々に代わって、それらの償いをしたい。これらから受ける悲しみや、侮辱や、冷淡や、無関心を、私たちが何とかして償って慰めたい。忘恩、冷淡、無関心、侮辱を償いたい。

この「償い」という事も集祷文で言われています、「償いの務めをする事が、ふさわしい償いを果たす事ができますように」と。

イエズス様からこれほどの愛を受けた私たちは、イエズス様の為に、イエズス様のお望みのように生きて、イエズス様のお望みのように生きない人たちの償いをする、まさにこれこそがカトリックの生き方であって、福音の精神であります。イエズス様の聖心を果たす、信心をするという事はまさに、福音の精神を生きるという事です。

イエズス様の聖心はそのような霊魂たちを、更に祝福と幸せで満たして、そのような霊魂と、そのような家族や、そのような家庭、そのような社会をますます祝福されます。

イエズス様の特に愛されたフランスの話を最後にさせて下さい。

イエズス様は特にフランスを、聖会の長女として、カトリック教会の長女としてお愛しになりました。ですからヨーロッパではフランス語は共通の言葉であって、世界のどこに行ってもフランス語が外交上の言葉というのは、教養のある人が必ず話す言葉というのは、なぜならば聖会の長女の言葉であったからです。

そればかりではありません。イエズス様は、フランスがイエズス・キリストを愛し、そのイエズス・キリストを慰めるという、イエズス・キリストの聖心の御旨を果たしたい、という事をすればするほど、フランスを多くの祝福で満たしてきました。そしてフランスの王の最高潮だった時代があります。それはルイ14世、太陽王と言われ“Roi Soleil”と言われて、ベルサイユ宮殿を造り、フランスの王権の最高点を、そのフランスの繁栄と王の絶大の権利を持っていた時代でした。ヨーロッパの最高の、他の王たちがその繁栄を嫉妬して羨むようなものでした。ルイ14世。

そのルイ14世は、実はとても信心深いお父さんルイ13世の長男でした。実はルイ13世は子供がなかったのですけれども、イエズス様の幼年期に対する特別の信心によって、特別の奇跡的な身ごもりによって授かったお恵みの子供でした。信心深く育てられてカトリックの教育を受けた、玉のような男の子でした。

ところで、イエズス様の聖心は、このルイ14世にちょっとしたお願いがありました。どんなお願いかというと、今までイエズス様の聖心は、フランス王国をお恵みに次ぐお恵み、祝福に次ぐ祝福、勝利に次ぐ勝利、繁栄に次ぐ繁栄を与えてきましたが、このヨーロッパでキリスト教の最高の王、聖会の長女の王、このルイ14世にしたお願いというのは、イエズス様が御受難を受けた時に、この地上の王たちから非常に屈辱を受け、軽蔑され、辱しめを受けたので、この地上のカトリックの王であるルイ14世が、ヨーロッパのカトリックの最高の王として、イエズス様の聖心を崇敬するように、そしてイエズス様が、真の王の王であるイエズス様が、御受難の時に受けた全く無とされた屈辱、その苦々しい体験や、この地上の王から唾せられ、辱しめを受けられたものを償う為に、ちょっとだけイエズス様の聖心に対する崇敬を表してほしい、という願いでした。

別にルイ14世が鞭打たれ、辱しめを受けられるというのではなくて、ただルイ14世がカトリックの王として、フランスの王として、イエズスの聖心に対する崇敬を表せばそれでよかったのです。

どのようにすれば良いかというと、自分とその自分の宮廷をイエズス様の聖心に奉献する、「イエズス様の聖心のままに生きます」と宣言するという、非常に簡単な事です。またイエズス様の聖心の御影を自分の宮殿に飾る事、「自分はイエズス様を崇敬しているのだ」という事を見せる、他の自分の肖像画大きな肖像画があるのならば、なぜイエズス様の小さな肖像画が描く事ができないでしょうか。

またこの王の旗に、イエズス様の聖心も付ける事。もしもそうしたらこの軍隊はフランス軍は、どのような敵にも打ち勝つ事ができるだろう。

さらに、もしも特別な聖堂を造って、イエズス様の聖心が飾られて、そしてフランスの王国がイエズス様の聖心に奉献されるなら、イエズス様はフランスを更に祝福して、更に敵たるどもを粉々に打ち砕いて、「私はこのフランス王の忠実な友となる、フランスを祝福で満たす、フランスを栄誉で満たす。その王国は決して滅びない。私はフランスの保護者となり、擁護者となり、王が必要なものはどのような事であれ、事業を開始する時はそれを祝福で満たす、成功させる。そしてその王に対する反対する、目に見えるあるいは目に見えない全ての敵を打ち砕く」と、ものすごい約束をされます。

「そして永遠の救いを約束するし、決して裏切らない忠実な友となる」と約束をするのです。

それをその言葉を聖マリア・マルガリタ・アラコックに委ねました。その日は1689年6月17日でした、イエズス様の聖心の大祝日。ぜひこの言葉を、このお願いを、そんなに難しいお願いではありませんでした、当時のフランスにとって。「ちょっとしたフランス王に対するお願いを伝えてほしい」と。特にその時に聖女マルガリタ・マリア・アラコックの指導司祭としてイエズス会のド・ラ・シェーズ(de la Chaise)神父様が特に選ばれて、イエズス会は特にイエズス様の聖心に対する信心を伝える修道会として教皇様から任命されていたので、このフランスの王にこれを伝える事ができるようにと任命されました、「この自分の望みを、フランス王に伝えるように。」

その当時イエズス会は、どこのヨーロッパの王国でも、王様の王室にも指導司祭として、あるいは聴罪司祭として、王子の教育の為に関わっていました、とても力のある修道会でした。何万人と会員を全世界で持ち、これほど力のある豊かな、そして知的で、指導力のある修道会はありませんでした。

ところで見て下さい。ド・ラ・シェーズ神父様は、このイエズス様の聖心の願いをどうも果たしませんでした。なぜ果たさなかったのかよく分かりません、少なくともその王にはっきりとそれを確認する事をしませんでした。

すると、イエズス会に何があったかというと、まずポルトガルでイエズス会は廃止されました、1759年。フランスでもイエズス会は禁止されました、1764年。スペインでも、創立の場スペインでもイエズス会は禁止されました、1767年。イエズス会はヨーロッパの王国から各地から追放されて、そしてついには1773年には、教皇様によってイエズス会は廃止され、もう会が終わってしまったのです。後に復活するのですけれども。イエズス様の聖心のその簡単な望みを果たさなかったが為に、イエズス会は大きな辱しめを、大きな不幸を招きました。

フランスも同じでした。ほんのちょっとの事だったのにもかかわらず、それをやるにも簡単な事だったにもかかわらず、フランス王ルイ14世はしませんでした。後にイエズス会以外の所からその望みを、イエズス様の望みを教えられるのですけれども、しませんでした。

すると、カルヴィン派のオランダ、あるいはフリーメーソンのイギリス、オレンジ公のウィリアム、あるいはプロテスタントのプロシアがどんどん力を伸ばして、フランスはますます力を弱めてしまわなければなりませんでした。

ちょうど、イエズス様の聖心がその望みを伝えた時からちょうど100年、1789年6月17日には、フランスの第3階という第3身分が反動を起こして、そしてフランスの正当な王権に対して、それをNO!と言うようになりました。フランス革命の始まりでした。その1ヶ月後にはバスティーユでフランスの革命が起こり、そして王は牢に閉じ込められました。遂にルイ14世の孫の第2代目、ルイ16世はギロチンで、フランス王朝はフランス王国は本当に終わらなければなりませんでした、ギロチンを受けなければなりませんでした。

イエズス様の聖心に従って生きる、イエズス様の聖心に対して受けた屈辱を償うという事を怠ったが為に、何という不幸をイエズス会もフランス王も受けた事でしょうか。

私たちはそのような事がないように、ぜひこのイエズス様の聖心に沿って生きるように、そしてイエズス様の聖心に対して罪の償いをするように、その特別のお恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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