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「聖骸布についての講話」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「聖骸布について」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖骸布についての講話 – 2017年12月24日東京において

親愛なる兄弟のみなさん

この講話について申し訳なく思っていることがあります。まず、私がみなさんの言葉ができないこと、第二は、私が、[これまで働いてきた]アジアから新しい赴任先であるオーストラリアに引っ越す途中のため、私の持っている聖骸布に関する書類の多くが荷物の中に入ってしまっていて、この講話の内容を記憶に頼って準備せざるをえなかったことです。ですから、欠けていることも、不正確なところもあるでしょうが、お許しください。私にできる範囲で一番良い情報をお伝えするようにいたします。


1/ この聖骸布の複製について

聖骸布は長さ4.4メートル、幅1.1メートルの一枚の長い布で、現在は[イタリアの]トリノに保管されています。

教会はこの布を崇敬し、私たちの主イエズスキリストの埋葬に使われた布であることを認めてきました。これは教会によって定義された教義ではありませんが、教会がこの布を何世紀にもわたって信者の崇敬のために公開してきていますから、その大きな重要性を実質的に認めていることになります。懐疑的な人たちはこの事実を疑ってきましたが、その人たちの立場を支持するようなしっかりとした根拠はこれまでにありません。むしろ反対に、これが本物であるという立場を支持するしっかりとした根拠が沢山存在します。

皆さんのうちで、何人の方が実物をご覧になったことがあるでしょうか?

このような布は世界でも類を見ないもので、かけがえのないものです。ですから、トリノで注意深く保管されており、日本や韓国に来るということは実質上あり得ないでしょう。ですから、もしこの聖骸布が展示されていた時に(それも滅多にないことなのですが)、お恵みによってトリノに行くことができたのでなければ、ここにあるのがそれに次ぐ最善のものなのです。これは聖骸布の実寸の複製で、そこには聖骸布の実寸のネガティブ(白黒反転画像)が示されているのです。

この複製は、2002年に布から継ぎ当てを外し(このことについては後ほどお話しします)、その後保護のために不活性ガスの中に密封する前に、大変正確な電子スキャンにかけられたものを元に作られています。このような複製はコンピューターのデータファイルから作られており、解像度も非常に優れています。ネガティブの画像も、同じコンピューターのデータファイルから、電子的画像処理によって作られています。画像はプラスチックのフィルムに印刷され、このような複製の布の上に貼られています。この講話の後、もっと近くによってご覧になれば、この画像の正確なことが見て頂けると思います。画像は大変素晴らしいものです。


2/ 視覚的分析

実物を見る人が最初に驚くのは・・・この像を見るのは相当難しいということです。このような複製の方が実物よりも見やすいのですが、それは像のコントラストがコンピューター処理によっていくらか、よりはっきりしているからです。

これを見てまず最初に気付くことは、これらのいくつかの三角の形です。これらは実際実物にある穴ですが、それは1532年12月4日、[現在のフランスの]シャンベリーというところで起こった火災によるものです。善いシスター達がこの布に継ぎ当てで補修をして、その継ぎ当ては2002年まで残っていました。 昔の聖骸布の絵の多くにはこの継ぎ当てが描かれています。この複製は、これらの継ぎ当てを外したあとに作成されたものです。聖骸布は48折に折られていたので、どれが火に当たった折り面だったか、そして内側の折り面より上の折り面の方がもっと損傷したことがわかります。溶けた銀の一部が角に落ち、穴が開きました。またこれらの大きな三角の形も見えますが、これは火を消そうとしてかけた水の跡です。これら以外にも穴が開いていますが、それらの穴はこの火事より古いものです。(これらの穴はこの火事の時の48折には合致しませんし、また12世紀のプレイ写本にも見ることができます。)

これらすべての歴史的な出来事を忘れても、この布には死んだ男のしるしがついていることがわかります。この布は石の上に置かれ、亡くなった人の背面がその上に置かれ、布は頭から上に折られ、体全体を覆いました。

顔、胸、腕、両手、両足のしるしが両側についているのがわかります。

そしてこの男は重傷を負っていました。特に両肩に、また両腕や両足にまでも鞭打ちの跡があるのがわかります。手首と両足には釘の跡があり、それらの箇所から血が流れ、脇腹には刺した槍の跡と多量の血、おでこと後頭部には茨の跡があるのもわかります。

よく観察してみると、肩に重量物(十字架です)の跡があるのもわかります。鼻の近くの頬に殴られたあとがあります。(聖ヨハネがこれについて書いています。大祭司の部下が私たちの主イエズスキリストの顔を強く打った、と。)

さて、十字架刑はローマ人がよく行なったものですが、これらすべての傷が一緒にあるというのは大変稀なことになります。それには多くの理由があります。第一に、通常奴隷が死刑になったときは、その前に鞭打ちは行なわれませんでした。行なわれたのは鞭打ち刑か十字架刑のどちらかであって、両方行なわれたのは稀でした。キリストの場合、ピラトが鞭打ちを行なわせたのは、十字架刑を免れさせるためでした。ピラトはファリザイ人達の憎しみを満足させようとして、そのためには鞭打ちで十分だろうと思ったのです。しかしそれでもファリザイ人達はイエズスの死を求めたのでした。

更に、茨の冠は例外的なものです。私はローマ時代においてこれ以外の例を知りません。そして更に、十字架刑になった人は通常両足を折られました。(十字架刑を受けて両足を折られた人の骨が何例か発見されています。)しかし、この人の両足は折られず、代わりに脇腹に槍が刺されています。

またそれに加えて、悪い奴隷の罰として、普通遺体は十字架刑の後、穴に投げ入れられたのであって、高価な布に包まれて丁寧に埋葬されたのでありません!

これらのことすべてを考え合わせると、これら全部の傷に該当する例は、私たちの主イエズス・キリストを除いて、他に歴史上に知られた例がないのです。これが、聖骸布が本物であることを支持する第一の重要な根拠です。


3/ 更なる視覚的分析:復活の証拠

重要なのは、私たちが見ることができるものだけではなく、私たちが見ることのできないものでもあります。実際、まず絵筆や塗料の跡を探すのですが、それは見つかりません。まったく見つけることができないのです。ですから、聖骸布は「人の手に依らぬイコン(像)」と呼ばれたイコンに非常によく合致します。このイコンは[現在のトルコにあった]エデッサに存在し、聖骸布の歴史のパズルの一部なのです。

第二に、聖骸布には腐敗の跡が見えません。さて、通常死者の骨があれば、その周りの肉や布は完全に腐敗している筈です。ここには骨がなく、布には腐敗がなく、布に置かれた体にも腐敗の跡がありません。これもまた驚くべきことです。

まだ、多くのエジプトのミイラには布が巻かれていましたが、体にしっかりと巻かれていたため布を剥がすことはほとんど不可能です。私たちが見ているのは、体なしの布であり、その布は体から完全に外されたものです。

第三に、血の跡の箇所は全て正確に残っており、血の塊にも、布にも、肉にも、全く剥がれた跡がないということです。この事実から、医師たちや看護師たちは、このことは復活によってのみ説明が付くとしました。体にこれほど多くの深い傷があり、そして釘の跡や胸にあいた穴のような相当大きな血の跡がこれほど多くあるのですから、このような傷に包帯を巻いたとしたら、三日後にその包帯を取るとしても何も剥がさずに取ることはできません。全く不可能なことです。

さて、体はこの布の中に三日間以上はありませんでした。そうでなければ、腐敗の跡があった筈です。更に、首を見てみると、後ろ側が伸びた状態になっており、前側ではほとんど見えません。十字架に付けられた人は息を引き取った時に首を前に倒し、そのあと体が仰向けに置かれたにも拘わらず、死後硬直によってその首は上がったままであった筈です。しかし三日経つと、腐敗が始まって死後硬直がなくなり、首は石の上に倒れかかった筈ですが、聖骸布ではそうなっていません。ですから、体はこの布の中に三日間以上はなかったということになります。そして、埋葬の三日後に、この体から何も剥がさずに布を取り去ることはできません。これを説明できるのは復活しかありません。これが、聖骸布が本物であることを支持する第二の重要な根拠です。


4/ 歴史

聖骸布の歴史はパズルのようで、いくつかのピースは欠けていますが、全体はとてもよく見渡すことができます。私たちの主イエズスキリストに対する偏見から、最も合理的な説明を拒否する人たちもいます。これ以外のことについてであればなんであれ、同様の説明が受け入れられるにも拘わらずです。実際、その歴史についてピースが欠けている有名な事物は他にも数多くあります。

a) 聖福音自体が私たちの主イエズスキリストの埋葬の布について語っています。マテオ、マルコ、ルカは「sindon(シンドン=覆い布)」という言葉を使っています。聖ヒエロニモはこの言葉をラテン語で書いていますが、それはギリシャ語(“σινδών”、シノドーン)、更にはヘブライ語(“‎סְדִינִ֔ים”、サディーニーム)を語源としており、サンスクリットにも共通の語源があります。この言葉は通常高価な素材から作られたきめ細かな布を指しています。例えば旧約聖書では、サムソンが結婚のために要求した布地(判事の書(士師記)14章12-13節)や、格言の書(箴言)で「彼女は、麻の織物を織って出し、カナアン人に帯を売る(格言の書(箴言)31章24節)」というところで、「すぐれた婦人」によって織られる織物を指すのに使われています。

さて、聖マテオの福音に非常に意味深い言葉があります。普通聖マテオは福音の出来事を要約して、いくつかの本質的な点だけを語ります。ところが、聖マテオがシンドン(覆い布)のことを語る時、こう言うのです。「屍をうけとったヨゼフは、それを清い覆布でつつみ(マテオ27章59節)」と。聖マルコはもっと詳細を語ります。「ヨゼフは亜麻布を買い、イエズスを十字架からおろし、亜麻布でつつみ、岩にほった墓におさめた。(マルコ15章46節)」と。さて、ここで、特にこの場にいらっしゃる善き女性の皆さんに言いたいことがあります。外に出かけて布を買う時に、汚れた布をお買いになりますか?そんなことはありません。もちろんです。ですから、聖マテオは「清い布」という言葉を使って意味のないことを言っているように思えます・・・ただし、それが復活の後、その布が清いものではなくなった、という意味で使っているのでなければ、です。この聖マテオの福音書にあるほんの一言が、復活後にその布についている印は全て、その布の中にあったキリストの埋葬された体による印であった、ということを間接的に示しているのです。

b) エデッサ:歴史上、次に聖骸布のことが言及されるのはエデッサの町です。歴史によると、エデッサには「人の手に依らぬイコン(像)」というものがありました。この表現は、いまトリノにあって私たちの知っている聖骸布と非常によく一致します。それはキリストのイメージ(像)であって、絵として描かれたしるしが人間の目で見つけられないばかりか、顕微鏡を使っても見つけられないからです!恐らく当時、聖骸布は折り畳まれ、美しい額に入れられて、一番上の折り面にある顔だけが見えていたのです。

また歴史によると、この「人の手に依らぬイコン(像)」は他の沢山のイコン(像)を描く際の見本とされたので、イコノグラフィー(図像学)の研究によれば、そのイコンの影響を見て取ることができるのです。この時代より前にはキリストを、髭のない、髪の短い、若いローマ人の男として描いた絵がいくつもありましたが、この後は、私たちの主を、聖骸布にあるように、より長い髪と髭を持った男として描いたものがまとめて存在するのです。またその「人の手に依らぬイコン(像)」から写したこれらのイコン(像)には、とても大きな目のような、奇妙な特徴があります。このことは、イコン(像)を描いた画家たちが、写真のネガティブの効果、つまり聖骸布の光と暗さの反転を理解できなかったということから簡単に説明が付きます。

さて、現在の聖骸布に、歴史上のこの時代と関連しているであろう部分を見ることができます。一番下を見て頂くと、下の隅二箇所に長方形が二つ欠けているように見えるところがあります。しかし、実際、こちら側全体にわたって長い継ぎ目も見ることができます。もう一つ布があって、聖骸布に縫い付けられているのです!聖骸布の折り目はこの継ぎ布を加えた新しい幅に合わせてあるので、この継ぎ布は後の時代のどの折り目よりも前から存在したことがわかります。この部分がいつ、何故付け加えられたかについての書かれた記録はありません。しかし、一番可能性の高い説明は・・・その布なしでは、顔が中心にならない、ということです。この布が加えられることによって、顔がちょうど聖骸布の左右の中央になり、エデッサで展示された美しい額にちょうど適したものになる、ということです。

ですからこのように、このイコン(像)が聖骸布であったということを認める三つの有力な根拠があります。1/ 「人の手に依らぬイコン(像)」という名前それ自体、2/ 図像学に対する影響、3/ 像を中心にするために聖骸布の片側に付け足された布、4/ また、後になって聖骸布から発見された、エデッサ地域からの花粉の存在(これについてはあとで述べます)も、これらに加えるべきでしょう。

エデッサにおいて、このような名前の下で聖骸布が存在したことを否定する人たちには、これをもっとはっきり記録した書面が存在しない、という以外の根拠はありません。さて、最初の議論が絶対的な証明であるとは言いませんが、まったくの沈黙よりはずっと強い根拠であることは確かなことです!

継ぎ布が足されたということ、それはおそらく顔の像を聖骸布の左右の中心にするためのものですが、それは聖骸布が本物であることの根拠の一つなのです。実際、大きなキャンバスの上に像を左右不対称に描いておいて、その像を再び左右対称にするためにキャンバスの一部を追加するような絵描きがいるでしょうか?更に、これは左右だけではなく、上下についても言えるのです。後ろ側の踵を見て下さい。布は足の端から数センチ先まで伸びています。ところが、前側のつま先を見て下さい。爪の印はどこにあるでしょうか・・・明らかに、爪は布でカバーされていなかったのです!このように長い像を両側で丁寧に描いて・・・足の先を入れないような絵描きがいるでしょうか?もし絵描きであれば、脚の長さを短くして体全体の像を示し、絵からつま先を外すようなことはしないでしょう!ですから、このように中心から少し外れている、ということは、聖骸布が偽物ではないことを証明する根拠なのです。

c) コンスタンチノープル その後、歴史的な証拠によると、キリストの埋葬の布は10世紀頃から12世紀の終わりごろまで、コンスタンチノープルにありました。944年にこの布はエデッサからコンスタンチノープルに移されました。ハギア・ソフィア大聖堂の大助祭グレゴリオが行なった説教には、布の上の全身像のことがはっきりと述べられています。皇后の宝物の一覧にもこの布が載っています。敬虔な騎士の証言によれば、1204年にコンスタンチノープルが陥落するまでは、毎金曜日に、とある教会でこれが公開されており、そこに好んで崇敬に訪れたとのことです。この騎士はまた、コンスタンチノープルの陥落の後には聖骸布はもう見られなくなったと書いています。

そしてまた、「プレイ写本」と呼ばれるものがあり、そこには、その写本の画家が私たちの知っている聖骸布を見たと言う事実を示す、いくつかの驚くべき要素があります。特にこの画家は、私たちの主イエズスキリストを、その視角からすれば親指が見えてよい筈であるにも拘わらず、両手共4本の指しかないように描きました。聖骸布では親指が他の指に隠れているので、見えないのです。聖骸布では親指が見えないので、この画家はキリストには親指がなかったと考えたかのようです!また聖骸布は、コンスタンチノープル陥落の後、皇帝が教皇に返還を要求した遺物の一覧に入っています。これで五つの歴史的な証明があり、歴史上の確認には十分すぎる程です。

騎士の証言と皇帝の証言によって、有名なコンスタンチノープル陥落の時に聖骸布が他の多数の遺物と共にコンスタンチノープルから盗み出されたと言う事実が確定します。ここで起こったことは、騎士達が皇帝からの十字軍への援助のなさに立腹したということです。これら全ての騎士達が、近隣国のイスラム教徒達がコンスタンチノープルを脅かしているのに対して、明らかに皇帝を支持していたにも拘わらず、皇帝は騎士達に全く援助を与えなかったのです。騎士達は間違った対応をして、コンスタンチノープルを陥落させてしまいました。皇帝は教皇に抗議しました。教皇はコンスタンチノープル陥落を厳しく非難して、盗み出した遺物を正しく返還するように命じました。しかし、多くの遺物は返還されませんでした。聖骸布もその一つです。

d) リレイ(フランス・シャンパーニュ地方) 1350年頃フランスで、聖骸布はある騎士の末裔の家族の下にその姿を見せました。その騎士の末裔達は聖骸布に巡礼をすることの許可を求めました。その許可は与えられ、取り消され、また再び与えられました。このように、約150年間の沈黙の期間があります。しかし、聖骸布が盗み出されたという事実に鑑みれば、これは非常に簡単に理解できることです。盗んだ者は聖骸布を返還することを望まず、彼の相続人達がもうその返還を要求されることを恐れなくなったとき、聖骸布を一般に公開し始めたのです。

今言ったように、この許可は一部の人々の反対により、一時的に禁じられました。そして、聖骸布を描いた画家を見つけた、とする司教の文書が、聖骸布は中世の偽物であるという証明としてしばしば提示されます。しかしこの文書自体、聖骸布には絵の具は全く存在しないことを疑いなく確認した現代の科学によって、その誤りが明らかにされました。ですから、聖骸布が本物であることを攻撃する文書それ自体が明らかに嘘なのですから、聖骸布の敵達はこのような嘘をどうして証明として提示することができるでしょうか?

e) シャンベリー 後に、サヴォワ公が聖骸布を手に入れたため、聖骸布はシャンベリーに運ばれました。ここで、1532年12月4日、保管されていた聖堂の火事にあったのです。その後、サヴォワ公はトリノに居を構え、聖骸布を自分の下に移すことを望みましたが、シャンベリーの司教座参事会員達がそのように貴重な遺物をシャンベリーから持ち出すことを許さなかったのです。しかしサヴォワ公が望んでいた機会が遂に起こることになります。

f) 1578年のトリノへの移動 当時、聖カルロ・ボロメオがミラノの司教でした。ミラノには大きな疫病が発生し、聖ボロメオは懸命に働き、自分自身瀕死の信者に御聖体を授け、ミラノを救うよう主に願いました。聖ボロメオは、もし天主がミラノを救われるならば聖骸布への巡礼を行なう誓いを立てましたが、その願いが聞き入れられました。そこで聖ボロメオはその巡礼に出発しました。さて、トリノはアルプス山脈の一方にあり、シャンベリーはアルプス山脈の反対側にあります・・・そしてその当時は「モン・ブランの下を通るトンネル」などなかったのです!これらの山々は4000メートル以上の高さで、それを超えるのは簡単なことではありません!山道もしばしば2000メートルをはるかに越える高さにあり、聖ボロメオ司教の健康も優れませんでした。そこで、トリノのサヴォワ公はシャンベリーの司教座参事会員達に対して、聖骸布をアルプス山脈の反対側まで持ってくるように依頼したのです。聖カルロ・ボロメオは聖骸布をトリノで崇敬しました・・・そしてサヴォワ公は聖骸布をトリノに止め置いたのです!

シャンパーニュにおいても、シャンベリーにおいても、トリノにおいても、聖骸布はしばしば信者の崇敬の対象となりました。この類を見ない遺物を祝うための祝日が制定されました。ある公開の場では、聖骸布は四人の司教と一人の枢機卿によって掲げられましたが、この司教のうちの一人は聖フランシスコ・サレジオでした(それとも聖カルロ・ボロメオだったかもしれません)。この聖人はキリストの受難を黙想して沢山の涙を流していました。そして涙の一部は聖骸布の上に落ちていました。そこで枢機卿は彼にこう言いました。「司教、我慢しなさい!」しかしこの聖人は答えてこう言いました。「私の主であり主人であるお方が、私のためにこの聖骸布の上に御血を流すのを躊躇されなかったのなら、私が主のために涙を流すのは間違っていますか?」と。

フランス革命の間、ナポレオンの軍隊が北イタリアに侵入しました。盗難を防ぐため、聖骸布は隠されました。しかしその時以来、[イタリアの]ピエモンテで広範に流布していた革命的思想のため、18世紀末と19世紀には聖骸布が一般に公開されることはほとんどなく、数回しか公開されませんでした。

g) 1898年:初めての写真 19世紀の終わり、ピエモンテにおける信仰を再興するため、司教達は大規模な聖骸布の公開を行なうことにしました。この際に、腕のいいアマチュアの写真家であったセコンド・ピアが聖骸布の写真を撮る許可を求めました。彼がその写真のネガを現像した時、御出現があったと思ったのです!彼は急いで司教の下に行き、「見て下さい!」と言ったのです。2000年近く経って初めてキリストの顔が再び「見える」ようになりました。ネガの現像という手法がこの隠された像を明らかにしたのです。この隠された像は1850年間以上そこにあったのですが、人々が目に見られないものを信じることを拒否するようなこの「科学万能主義」や懐疑主義の時代のために、天主によって取り置かれていたのです。天主は、では見てごらん!とおっしゃったのです。科学自体がキリストの顔を再び私たちに見せたのです。

これが、聖骸布が本物であることの一番簡単で、一番大きな証明です。このように美しい像を、解剖学的な間違いなく、写真が発明される500年以上も前に、写真によってのみ見られる像をいかに偽造することができたでしょうか?今の私たちには、今から500年後に科学が発見することが何であるかは全くわかりません!今から500年後の科学によってのみ明らかにされるようなものを作り出すことは全く不可能です。

さらに、聖骸布が本物であることを信じることを拒否する現代の科学者の中には、「偽の聖骸布」を作ろうとした人たちがいます。そして失敗しました。作ってみた像のどれ一つも聖骸布の特徴(塗料・顔料のないこと、完全な写真の特徴、更には3次元的特徴)を有してはいません。もしこれらの科学者たちが現代の科学の知識をもってしても聖骸布の完全性に少しも近づくことができないのであれば、500年前にどうやって偽造することができたでしょうか?明らかに不可能です。ですから、聖骸布は偽造ではありません。


5/ 科学

最初の写真像は科学界に衝撃を与えました。 懐疑主義者の集まりであったフランスの科学アカデミーの会員イヴ・デュラージュ医師はトリノに行きました。デュラージュ医師は不可知論者で、聖画や聖像を見てはいつも解剖学的な間違いを見つけて(作家達は医師ではないのですが…)笑い飛ばしていました。彼は聖骸布を分析しましたが、間違いは見つかりませんでした。デュラージュ医師は聖骸布に関する論文をパリの科学アカデミーに提出し、その中で聖骸布が医学的、科学的に説得力のあるものであること、そして聖骸布は本当にキリストの体を覆ったものであるというのが彼自身の意見であることを述べました。彼の論文は科学アカデミーによって拒絶されました。デュラージュ医師は科学アカデミーに失望して、自ら退会を申し出ました。

聖骸布は科学コミュニティーに挑戦を始めました—その挑戦は今も続いています!

a) 医学:聖骸布はまずイヴ・デュラージュ医師のような医師達によって分析されました。彼の弟子の一人で善きカトリック教徒であったポール・ヴィニョンは聖骸布に大きな興味を抱き、「シンドノロジー(聖骸布の研究 )」の本当の創始者となりました。聖骸布には前と後ろの二つの像がありますから、寸法が一致しなくてはならないのは明らかです。両方の寸法は実際、一致します。これを絵描きや偽造者が実現するのは非常に困難なことです。

聖骸布を研究したもう一人の有名な医師は、「フランス語の書名では『外科医によるイエズス・キリストの受難』(英語訳の書名は『カルワリオの医者』)」という題名の本の著者であるバルベ医師です。

他の医師達も聖骸布を徹底的に研究した結果、大変肯定的な結論に至っています。例えばロバート・バックリン医師、フレデリック・ズギべ医師、その他多数です。

b) STURP:1978年、聖骸布がトリノに移動した400周年に際して、公開展示を行なうことが決定されました。巡礼者の数が非常に多く、300万人以上であったため、公開の期間を延長しなくてはなりませんでした。エコンの神学校全員(私もその一員でした)がそこに行きました。私が初めて聖骸布を見たのはこの時です。私は一目で聖骸布が好きになりました!その頃、アメリカの科学者達が STURP (“Shroud of Turin Research Project”—トリノ聖骸布研究プロジェクト)という名の下に集まりました。このグループは聖骸布を分析する許可を求めました。教会はグループに対して、聖骸布に触れることは許さない、としました。教会はこの取り替えの聞かない遺物を破壊するような研究は望まなかったからです。しかしこの科学者たちは、「それは私たちにとっては問題ではない。星のようなもので、見ることができるが触れることはできない。それでも私たちは星を研究する方法を持っているし、特に分光法がある。」と言いました。分光法とは、対象が反射する光を分析する方法です。そこで教会はこのグループに5日の時間を与えました。科学者達は3トンもの科学装置を持ち込みました。

最初、科学者達は聖骸布が偽物であることを証明するのは簡単だと考えていました。しかし最初の分析の結果、塗料が存在しないことが明らかになった時、非常に強い興味を感じ、許された時間全てを使うことにしたのです。3グループのシフト制にして、割り当てられた120時間の間ずっと活動していました。その結論は数年にわたって科学雑誌に発表されました。このグループの結論はこうでした:「聖骸布の像が、鞭打ちを受け十字架に付けられた男の本当の人間の形の像であると、今の段階では結論する。これは画家の作品ではない。血のしみはヘモグロビンからなっており、血清アルブミンテストも陽性である。この像は引き続き謎であって、さらなる化学的研究が将来当グループか、あるいは他のグループによってなされるまでは、問題は未解決である。」

c)STURPのメンバーであった物理学者のジョン・P・ジャクソンは火星の山のレリーフに用いて成功した三次元技術を使いましたが、聖骸布についても結果は良好でした。地上の他のどの像も、描かれたものであっても写真で撮られたものでさえ、影のため、このように良好な結果がでることはありません。これらの結果はさらに、聖骸布のより高解像度の三次元モデルを入手したイタリア人のジョヴァンニ・タンブレッリ教授によって確認されました。

d) 繊維の専門家:繊維の専門家であるハンブルグのメフティルド・フルリー—レンベルグによると、聖骸布の縫い目は死海の近くのマサダ城塞で発見され1世紀のものとされる織物に合致するとのことです。ベルギーのゲント繊維技術研究所のギルバート・ラアスの鑑定によると、ツイル(三つ綾)と呼ばれる織り方は、1世紀のシリアのデザインと合致しています。フルリー—レンベルグは次のように述べています:「トリノの聖骸布の亜麻布については、それが1世紀の織物師による高級な製品からなるということに矛盾するような、いかなる織りの技術も縫いの技術も示すものではない。」

e) 花や花粉の専門家は、先に述べた聖骸布の所在地の歴史を確認するようなあらゆる種類の花粉を聖骸布から発見しています。ただ、花粉は一般に信じられているほど正確なものではありません。それは、ある種の花々は広い地域に分布しているからです。ですから、これは厳密な証明ではありませんが、他の科学データを補強するものです。


6/ 放射性炭素年代測定?

聖骸布の年代を測定するために放射性炭素年代測定を用いるという提案が最初になされた時は、当時(1960年代)、そのためにこのかけがえのない遺物の大きな部分を破壊することが必要だったために、拒否されました。しかし後年、技術が進んで小さなサンプルのみでもできるようになった時、このアイディアが再び取り上げられました。こうして1986年9月29日、この実験のための手順書が合意されました。この手順書は、この実験の結果の信頼性を確保するため、関与する全ての人が実験の実施において従うべきルールをまとめたものです。この1986年の手順書には6つのポイントがありました:

1/ 新方法と旧方法の2種類の放射性炭素年代測定法を用いること。

2/ 7つの研究所が参加すること。

3/ 他に起源(と年代)の知られた2つの布を「コントロールサンプル」として用いること。

4/ 「盲検法」を用いること、すなわち聖骸布と他の2つのサンプルをあわせた3つの布を番号の振られた容器に入れ、研究所がどの布がどの容器に入れられたかを知らずに測定すること。

5/ 研究所が測定を行なう時に、他の研究所での結果を知らずに行なうよう、測定は複数の研究所が同時に行うこと。

6/ 大英博物館、トリノ大司教、ローマ教皇庁科学アカデミーの三者が共同で実験を監督すること。

しかし、これらの全てのルールが破られたのです。ただ一つの方法しか用いられませんでしたし、実験は3つの研究所のみでしか行なわれませんでした。コントロールサンプルの3つ目は疑わしいものでしたし、盲検法は用いられず、ひとつの研究所は、他の2つの研究所の実験が終了した一ヶ月後に、それらの結果を入手してから実験を行ないました。そしてローマ教皇庁科学アカデミーは実験の監督から除外されました。これらのルールの一つや二つだけではなく、全てのルールが破られた、という事実は、それだけで既に結果の信頼性に厳しい疑いを向けさせるものです。このことを声を大にして述べる科学者もいましたが、後になって、結果が自分たちの望んでいるものであったため、自分の良心を押さえ込んで、結果を受け入れてしまいました。

あらかじめ合意された日、1988年4月21日に、聖骸布から3つの部分が切り取られ、 大英博物館のタイト博士の持ってきた他の二つのコントロールサンプル、そしてフランスのG.ヴィアル氏のもってきた第3のコントロールサンプルと共に計量されました。これらの切断や計量の状況は適切に写真に撮られ、ビデオに記録されました。その後、タイト博士とトリノの大司教が教会横の香部屋に行き、これらを番号の振られた鉄製の容器に入れました。四つ目のサンプルは単なる封筒に入れられましたが、これは追加のもので、どうやら予期していなかったからのようです!この横の香部屋での状況は写真に撮られておらず、ビデオにも記録されていません。その後、皆で容器を研究所の代表者達に手渡しました・・・が、彼らに各々どの容器にどの布が入っているかを教えてしまい、手順書に定められた盲検法を守りませんでした。

大きな疑問があります:もし研究所に対してどの容器にどの布が入っているのかを教えるつもりなのであれば、どうしてこれらの布を容器に入れるためにわざわざ横の香部屋に行くのでしょうか?これはもう全く意味をなしていません・・・

そして、アリゾナのトゥーソン研究所とスイスのチューリッヒ研究所が実験を行ないました。そしてそれらの結果は14世紀後半のものであるというものでした。これは少し遅すぎる時期です。というのは、聖骸布が既に14世紀半ばにリレイに存在したという歴史的証拠があるからです。しかし、1ヶ月後にオックスフォード研究所が実験を行ない、他の2つの研究所より約100年早いという結果を出しました。これらの結果をただ合わることによって、紀元 1260年から1390年という広いレンジの結果としました。そうすると中間が1325年頃となり、記録のある公開の年より少し前ということになったのです。

さて、この実験の報告書自体に不正があります。この報告書は、遂に1989年2月16日の「ネイチャー」誌、337号、6208番、611-615ページに発表されました。インターネットでは、http://www.shroud.com/nature.htmにあります。

この不正というのは数字の繰り上げにあります。このために、一般に認められている科学的標準からすると否定されるような結果を人々に無理矢理飲み込ませたのです。この論文の表2:データの要旨では、聖骸布のカイ二乗の値は6.4で、自由度は2、そして有意水準は切り上げて5%としています。さて、ご自身で計算して頂ければわかりますが、有意水準は5%ではなく4.07%です。このような数字の切り上げは不正です。それが5%と言う数字が、それ未満であれば科学的実験が結論づけられないとされる閾値であるからです!素人の言葉でいえばこういうことです:実験のやり直しをしなくてはいけないようなことが実験中に起こりました。従ってその結果は信頼できません!有意水準を正しく計算するならば、そこから出てくる結論は、この放射性炭素年代測定の実験は信頼できないということです!科学的に受け入れられないような結果を人々に無理矢理飲み込ませるために、有意水準の数字を繰り上げるというのは不正です。

誰でも科学計算機があれば確認できるような不正が存在したという事実からすると、この同じ実験に他の不正があったという可能性を否定するべきではありません。この実験の結果を説明するにあたって、この実験に不正があったという可能性は、非常に多くの人があらかじめ排除します。しかし、これから見るように、それが一番可能性の高い説明なのです!

これらの結果を説明するために様々な人達が提案した解決案を挙げてみましょう。

1/ 聖骸布は中世の偽造であり、本当に紀元1260年から1390年の間にできたものである。しかし、「もし21世紀に入手できる最も先進的な技術をもってしても聖骸布の像の複製が作成できないのであれば、中世の偽造者はいったいどのようにしてそれができたのか?」(物理学者パオロ・ディ・ラッザーロ)

2/ 聖骸布は本物であるが、放射性炭素年代測定は信頼できない。しかしこの測定法が信頼できず、特にその結果がこれほど大きく間違っている可能性は非常に低く、もしそうでなければ、この測定法が科学界でこれほど頻繁に使われている筈がありません。

3/ 結果を変えてしまうような菌類が付着していた。しかし、聖骸布の計算された年代をこれほど大きく変えるためには、そのような菌類が大量に付着していなければいけませんが、それがSTURPによる顕微鏡観察の際に観察されなかった可能性は非常に低いでしょう。

4/ 中世のある時期に、「完全に目に見えない縫い目の補修」があったということを提唱する人たちもいます。しかし、もしそのような「完全な補修」が目には見えないとしても、顕微鏡にも見えないという可能性は非常に低いものです!

5/ 火事が炭素成分を変えたとする説。しかし、切り取られた部分は火事によってほとんど影響を受けていない部分であって、年代を大きく変える可能性は低いでしょう。

6/ 最後のオプションはこうです:三つの研究所によって測定された布は、聖骸布からの布ではなく、中世に起源する他の布とすり替えられていた(横の部屋で、ビデオに録画されず、人々の目の届かないところで)。さて、その罪を犯した人が自分の行為を告白していないのですから、このような不正は確認することができません。しかし、実際に再現するのが一番簡単であることは確かです。更に、これが正しいとすると、あの第4のサンプルの存在の説明がつきます。実際、第4のサンプルはトゥールーズの司教であった聖ルイ(ルドヴィコ)のマントから取ったもので、これはタイト博士がG.ヴィアル氏に依頼していたものでした。この布はちょうど「希望されていた年代」のものでした。「そのスタイルの詳細と歴史的証拠から、このマントは紀元1290年から1310年(フィリップ4世の治世)のものである。」さて、G.ヴィアル氏は、フランスの郵便のストライキのために、これを郵送することが非常に信頼できないものとなったため、これをタイト博士に郵送することができず、自分自身でこれを持参することにして、当日これをサンプルとして使うべきだと主張したのです。しかしタイト博士はもう一つのサンプルを持参していました。これが何を証明するのでしょうか?タイト博士は14世紀前半の中世の布を探していた、ということです。

さてもしタイト博士が14世紀後半の中世の布を持参し、それを「紀元2世紀初頭のテーベのクレオパトラ(ユリウス・カエサルの友人ではなく、別のエジプトの貴族)のミイラ」の布として、横の部屋で聖骸布とすり替えたとするならば、全て簡単に辻褄が通ります。更に、これで第3のサンプルの結果の説明がつきます。その中心年は紀元37年から44年であり、キリストに非常に近い年代ですが、クレオパトラは70年後に亡くなっています。貴族を埋葬するのに70年前の布は使いません!

タイト博士が実験の報告書それ自体の中で一つの不正を行ったということから考えると、博士は実験それ自体の中でもう一つの不正をしなかったでしょうか?一つの不正という事実は、もう一つの不正の可能性を証明しているのです!また他の解決案が全て可能性の低いものであることを考えると、一番可能性の高い解決案を採用すべきでしょう。それは、聖骸布の放射性炭素年代測定の実験自体が不正だったのであって、聖骸布が不正だったのではない、ということです。

特筆すべきはその一年後、聖骸布の放射性炭素年代測定の結果のお蔭で、100万イギリスポンドがオックスフォード研究所のホール教授に与えられた、ということです。その100万ポンドはオックスフォード大学に新たに設けられる考古学教授に宛てられ、タイト博士がその教授職に就いたのです。ユダの受け取った30枚の銀貨は100万ポンドに膨れ上がったのです!


7/ 放射性炭素年代測定の後、研究は続いた

ある繊維の専門家の指摘するところでは、聖骸布の漂白は古代の方法であり、8世紀以前のものである、とのことです。それ以降の方法では多量の液を使い、織った後に布全体を漂白します。これに対して、それ以前の古い方法では、より少量の液を使い、織る前に糸を漂白しました。各々の漂白液が他と同じ強さであるとは限らないので、古い方法では糸は均一に漂白されず、糸によって他の糸より色が濃くなります。これに対して新しい方法では、布全体が一度に漂白されるので、均一に漂白されます。さて裸眼で観察しても、この複製でさえ、漂白が不均一であることがわかり、より古い方法が使われているのが簡単にわかります。ですからこの布は8世紀より以前のものです。(そこで聖骸布のいわゆる放射性炭素年代測定が正しい年代を出さなかったということになります。)

放射性炭素年代測定の結果に満足せず、公式の結果にそぐわない年代を主張することを恐れず、その後も研究や分析を続けている多くの専門家がいます。

私はこれらの最近の研究を全て詳しく見ている訳ではありません。一般的に言えば、行なわれた研究のいくつかについては、一定の慎重さを保つべきだと考えています。そうしないと、(聖骸布が本物であることを十分な理由なしに否定して)簡単に一方向に引かれてしまったり、また(聖骸布が本物であるというなんらかの理論を十分な理由なしに主張して)簡単に逆の方向に引かれてしまったりする可能性があります。

特定の主張については、一定の距離を取るのが重要です。例えば、両目に硬貨、それもティベリウス皇帝時代の硬貨があると主張する人たちがいます。これはあり得ることですし、実際いくらか似ているところがありますが、これを絶対的に確実なものとして主張するべきではないと思います。似ている点だけでは、そのような主張をするのに十分ではありません。両目に硬貨があったかもしれない、と言うべきでしょう。これは正当な意見ですが、絶対的に確実なものではありません。花、碑文等、他の沢山の類似点についても同じです。それらの説は本当かもしれませんが、明白と言うには程遠いものです。

これらの問題は、聖骸布が、私たちの主イエズスキリストにあった、と福音書に記されている全ての傷を持った体を包み込んだ、という事実とは全く違うものです。この事実はそれが本当であることを支持する根拠が余りに多く、確実なものと考えてよいでしょう。もしこれを確実なものと考えることを否定するのであれば、これほど沢山の証拠を有していないような他の多くのいわゆる「科学的事実」も疑わなくてはいけないことになってしまうことでしょう。

8/ 信仰の光における聖骸布

科学は有用なものです。科学は霊魂を信仰の扉に導きますが、それ自体では信仰に入るのに十分ではありません。聖骸布の現代科学による分析の驚くべき点のひとつは、聖骸布の像が光と関連した特質を備えているということです。それは、写真のネガティブの特質、三次元的特質、広島での放射能によって生じた像に似た、繊維の表面酸化などです。まるでこの像が、とても強力で短い光の照射によって、それも暗い墓のなかで、生じたかのようです!このことはすぐに復活のことを思い起こさせます。残念ながら、科学では復活の実験をすることはできません。それを自由に再現することができないからです。しかし、科学はそれを指し示しています。洗者聖ヨハネが私たちの主イエズス・キリストを指し示して「天主の子羊を見よ!」と言ったように。

この言葉を聞いて、聖アンドレアと聖ヨハネはイエズスに従いましたが、イエズスは振りむいて「何をのぞむのか?」と彼らにお尋ねになりました。彼らは答えて 「ラビ、あなたはどこにとまっておられますか?」と言いました。イエズスは彼らに「来てみよ」とおおせられました。(ヨハネ1章38-39節)「来てみよ」、私たちも聖骸布の前で同じことを言うことができます。全ての人が自分で来てみよ!私たちの主イエズス・キリストは聖骸布を通して沈黙のうちに語っておられます。主の両目は閉じています。聖骸布では主の口は閉じています。しかし、来て主を見ようとする霊魂達に、主はなんと雄弁に語りかけられることでしょうか!

預言者ザカリアは400年前に宣言していました。「私は、ダヴィドの家と、イエルザレムに住む人たちの上に、あわれみと祈りの霊をそそぐ。かれらは、自分が刺したものをふりあおいで、ひとり子のためにするような嘆きで、かれのために嘆き、初子のために泣くように、かれのために泣く。」(ザカリア12章10節)

「あなたについて、私の心はこういった。『主のみ顔をさがせ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。み顔をそむけられるな。」(詩編26章8-9節)

「主とそのおん力とを探し求め、つねにみ顔をたずねよ。」(詩編104章4節)

「主が、みいだされたいとおぼしめすあいだに、主を、さがし求めよ。」(イザヤ55章6節)

古い時代の多くの偉大な人の中には、その人の生存中に作られた銅像があることがあります。しかし、その人の実際の写真を持っているような人は一人もいません!私たちの主イエズスキリストについては、私たちは、ある意味で、彼の写真そのものを持っているのです!150年以上前の偉大な人の中で、絶対的に唯一のことです。

「闇から光が輝き出せとおおせられた天主は、キリストの顔にある天主の光栄の知識を照らすために、私たちの心にかがやかれた。」(コリント後書4章6節)

私たちは、聖骸布の中に次の言葉の真実を見ます。「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おん独子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1章14節)私たちは自らの子を送られる天主の愛を見ます。「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章16節)そして私たちと共に生きるためだけでなく、またとりわけ、私たちの救いのために死ぬためなのです。「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、かれとともに他のすべてを賜らないはずがあろうか。」(ローマ8章32節)私たちはこれら全てのことを聖骸布のうちに見るのです。

「私の手と私の足を見よ、私自身だ。さわって確かめよ。あなたたちが見ている私のこんな肉と骨とは、霊にはない。」(ルカ24章39節)「こういって、そのおん手とおん脇とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20章20節)

「またトマに向かって、『あなたの指をここに出し、私の手を見なさい。あなたの手を出して、私の脇におきなさい。信じない者でなく、信じる者になるように!』」(ヨハネ20章27節)私たちは聖骸布に同じことをすることができます。

聖イグナチオと一緒に、私たちの主イエズスキリストの御傷のひとつひとつを見ながら、こう言うことができます。「主が苦しまれたのは、私のためです」と。聖パウロが言ったように、「私を愛して、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰によって、生きている。」(ガラツィア2章20節)

「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために、香しいかおりのいけにえとして天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちにあゆめ。」(エフェゾ5章1-2節)主に倣うためには、主を見なくてはなりません。主を見るにあたって、この「人の手に依らぬ」最も聖なる像について黙想する以上に善い方法はありません。

「そこで私たちはみなおおいを顔に垂れず、鏡にうつすように、主の光栄をうつし、霊なる主によって、ますます光栄を増すその同じすがたに変わる。」(コリント後書3章18節)もし私たちが永遠にわたって栄光の主に似たものであろうと望むなら、ここ地上において私たちは苦しみを受けられる主と似た者でなければなりません。それは聖パウロがこう言うようにです。「私たちは天主の子である。私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、天主の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。」(ローマ8章16-18節)

私たちはまた、私たちが聖骸布に見る全てのことは、童貞マリア(と聖ヨハネと聖なる婦人達)が十字架の下で、それが起こった時にごらんになったということを覚えておかなくてはいけません。そして聖母マリアは御体を清められ、主を布の内に置かれましたが、それは私たちには決して語り尽くせない悲しみと愛をもってなさったのです。イエズスの御受難を聖母マリアの目を通して見る、これが最善の方法です。

最後に、私たちは聖骸布に主の像を見ますが、主の御体の実体はそこにはない、ということも考えておきましょう。しかし御聖体においては、私たちには主の像は見えませんが、主の御体、御血、御霊魂と御神性の実体がそこにあり、完全に、本質的に、生きておられることを私たちは知っています!ですから御聖体は聖骸布よりも限りなく勝れているのです。そしてミサ聖祭では、それは主の御受難の単なる像ではなく、主が十字架の上でお捧げになり、祭壇の上で現実に捧げられているキリストのいけにえそのものなのです。

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