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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「2017年のクリスマスの説教」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「2017年のクリスマスの説教」の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年のクリスマスの説教 東京・大阪

親愛なる兄弟の皆さん、

「来れ、主をおがみ奉らん!」。きょう、「天主は、その御独り子を与え給うほどこの世を愛され」、「きょう、ダヴィドの町で、私たちのために救い主が生まれ給うた、すなわち主キリスト」です。私たちは、「布に包まれてまぐさおけに寝ているみどり児を見る」でしょう、なぜなら、彼の「肉はまことの食べ物であり、彼の血はまことの飲み物」であるからです。

聖ベルナルドは正しくこう言います。天主はまず、童貞聖マリアに御子を与えられ、そのあと聖母を通して私たちに御子を与えられた、と。私たちがイエズスを見いだしたいと望むなら、まず祝されし童貞を見いだし、聖母を通してイエズスを見いだすのです。これは、羊飼いたちが行ったことです。「彼らはマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。福音書にある順番に気を付けてください。彼らはまずマリア様を見いだし、そのあと幼子イエズスを見いだしたのです。

ああマリアよ! ああ聖なる天主の御母よ、私たちが熱心に探し求めている御身のイエズスをお与えください! 私たちにはイエズスが必要なのです! 罪にまみれた私たちのこの世は、救い主が必要なのです。彼だけが「罪から民を救う」(マテオ1章21章)のですから。彼だけがそれを行うことができます。なぜなら、彼だけが聖であり、彼だけが主であり、彼だけがいと高き御者、キリストなるイエズスだからです! でも、彼の近くに行けるのは誰でしょうか? 「履物を脱げ、おまえが立っているところは聖なる地だからである」(脱出[出エジプト]3章5節)。

しかし、ああマリアよ、御身は完全に清らかであり、「童貞中の童貞」、汚れなき童貞、受胎のときから汚れなき御者です! 御身は「野の花であり、谷間の百合」(雅歌2章1節)です。ですから、御身のいとも清らかなご胎内に、聖霊が天主の御子を、「イスラエルの聖なる御者」(イザヤ12章6節)を宿し給い、きょう、御身は主を私たちにお与えになるのです、ああキリストの御母よ! 主は「われらのいのち」(コロサイ3章4節)であり、それは私たちにイエズスをお与えになることによって、御身が私たちにいのちを与え、また私たちの母、教会の御母となられるためでした!

マリアを通して私たちにイエズスをお与えになることによって、やはりマリアを通して「天主は御子とともに他のすべてを私たちに下さらないはずがあろうか」。「私たちはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた」のです。そして、聖母は天主の聖寵の御母となられたのです。ああいと潔き御母よ、私たちに清さの恩寵をお与えください! ああいと操正しき御母よ、私たちに操正しき恩寵をお与えください! 私たちが、「ご胎内の祝されし実」であるイエズスを、聖体拝領においてふさわしい方法で受けることができますように。

しかし、御身の清さは他の誰をもはるかに超えています。御身だけが童貞かつ母であり、「終生童貞なる御母、きずなき御母」であり、主のご誕生前も、ご誕生中も、ご誕生後も、永遠に童貞なのです! すべての母が御身の清さを称賛し、すべての童貞が御身の生む力を称賛し、すべての母および童貞が、まことに偉大で唯一の賜物の真っただ中にまします御身の謙遜を称賛します、愛すべき御母よ、感ずべき御母よ!

ああ祝されしヨゼフよ、天主は御身に二つの最も偉大なる宝、御独り子とその御母をお委ねになりました! ヨゼフは黙想の人でした。聖福音はヨゼフの言葉を一言も引用していません。彼はイエズスを沈黙のうちに崇めておられます。彼はマリアを沈黙のうちに崇めておられます。彼はイエズスを沈黙のうちに「心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして」愛しておられます。聖福音は、まぐさおけにおけるお言葉についてはまったく語りません。そこには、沈黙のうちに、天主の知恵への感謝に包まれた心をもった、愛を込めた礼拝と感謝があるのみです。罪深い人類の心を引き寄せるために、天主の御子は御自ら小さな赤ん坊になられ、そうすることで私たちの愛を引き寄せようとなさったのです。言葉なしに、聖母は指を口に付けて、この沈黙というルールを私たちにお示しになります。幼子は眠ったままにして差し上げましょう! ああ善き勧めを賜う御母よ、私たちにどう祈るべきかを教えてください。

祈りは信仰のわざによって始まります。私たちは、この幼子が「いと高き御者の御子」、「万物を創った」み言葉であることを信じています。ああマリアよ、御身は「創造主の御母」です! しかし、さらに素晴らしいことには、創造主は「救世主」であり、「救いは主以外の者によっては得られません。この世において、われわれの救われる名はそのほかにはないからです」。それゆえに、御身は「救世主の御母」なのです! われらのために主に祈り給え! 主がいなければ、私たちの救いはありません。

なぜなら、私たちは愚かで、罪の道に従っていたからです。「なぜなら、私たちは天主として崇めず感謝せず、虚しく思いにふけり、私たちの愚かな心はくらんだ。私たちは自ら知者と称して愚かな者となった」からです。私たちには救世主が必要です。傲慢が私たちを迷わせているのです。主の謙遜が私たちを救うのです。ああいとも賢明なる童貞よ、御身はこれを、そして謙遜がすべての聖徳の基礎であることをご理解なさいました。御身は天主の御母として選ばれましたが、御身はご自分を「主のつかいめ」としてお捧げになりました。そして主はこれを非常にお喜びになりました。「主が御召し使いのいやしきを顧み給いなればなり。見よ、今よりよろず世に至るまで、ひとわれを幸いなる者ととなえん」。敬うべき童貞よ、誉むべき童貞よ! まことに「自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」のですから。

クリスマスはまことに、謙遜な者のための、小さき者のための、貧しい者、捨てられた者のための祝日です。天主は彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らのうちの一人になり給うたのですから! この貧しく小さな赤ん坊は、天使たちの主であり、全能の天主です! 自ら謙遜である人々を救うあらゆる力をお持ちです。「彼を受け入れた人々にはみな天主の子となれる力を授けた。その御名を信じる人々である」。彼らは罪に対して強く「いいえ」と言い、サタンとそのすべてのわざ、そのすべての栄華を捨てる必要があります。これによって、「力ある童貞」なるマリアの子どもとして、ヘビの頭を踏み砕くのです。罪を犯すのをサタンが簡単なことにさせている現代世界においては特に、罪と悪魔の欺きに対して、強く意識した「いいえ」が必要です。

しかし、過去の罪に対する赦し、あわれみも必要です。なぜなら、「すべての人は罪を犯して、天主の光栄を奪い去られた」からです。ああマリアよ、御身だけが、非常に特別な特権によって、すべての罪から免れておられました。御身について、天主である花婿が雅歌を歌います。「ああ愛する者よ、あなたはすべてが美しく、何の汚れもない」(雅歌4章7節)。でも、御身は罪を犯されませんでしたが、罪びとを軽蔑なさらず、むしろあわれみの御母、寛仁なる童貞でいらっしゃいます。罪びとを罪を犯すままにさせるという偽りのあわれみではなく、罪びとを罪から助け、悔悛と忠実というまことの生活を始めさせるという、まことのあわれみです、信実なる童貞よ! 御身は、その天主に対する忠実の最上の模範です。御身は最も小さな罪をも犯さず、小罪の一つさえも決して犯しませんでした。私たちが忠実でおられるようにお助けください!

私たちは御身が律法に従っておられるのを見ます。特に、クリスマスののちの数日の間の幼子の割礼と神殿への奉献によって、そしてお潔めによって。幼子イエズスは無垢であったがゆえに割礼を受ける必要はなく、御身もお潔めが必要ではありませんでした。モーゼは、母親の不浄というこの律法から御身を免除する特別な条項を定めました。彼はこう言いました。「女が種を受けて男の子を生めば、不浄になる」。これは明らかに、聖霊の働きによって受胎した御身には当てはまりませんでした。でも、御身の周りの多くの人々は、御身に対する聖霊の驚くべきみわざを知らなかったのですから、従順の模範を示すために、御身はこのお潔めという律法に従われたのです、正義の鑑みよ。私たちが常に御身の模範に従うことができますように!

御身において、玉座の上のように、私たちは天主の上智である幼子イエズスを見いだします。多くの美しいご像が、御身をこの「上智の座」としています。私たちに、御身の膝の上に座っておられる天主の上智であるイエズスを見いださせ給え! 三人の賢者が御身を見いだして、「その家に入って、子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝し、宝箱を開いて、黄金と乳香と没薬の贈り物を献上した」。彼らは星を見て喜びました。御身は、「正義の太陽」の到来を告知する私たちの暁の星であり、御身を見て、私たちは賢者たちとともに喜ぶのです、われらが喜びの源よ!

異端者たちは御身を愛しません。なぜなら、彼らは外的な不思議を探し求めているのであり、御身の地上での謙遜な生活においては、見るべきものはほとんどなかったからです。童貞の受胎という不思議は世の人々の目から隠されていたのであり、彼らの多くは御身の終生童貞さえも拒否しているのです。彼らは、奉献された童貞の美しさを理解しません。御身がそのあとに続くすべての人々のための、 奉献された童貞の最初の模範にして手本なのです。なぜなら、この美しさは内的なものだからです。「童貞は、体と心を聖とするために主のことを気遣う」。でも、聖霊はこう告知なさいました。「王の娘の栄光はすべてその内にある」。これは霊的な美しさです、霊妙なる器よ。ああマリアよ、教会は御身に対してこう歌います。「ああ祝されしマリア、天主の御母、永遠の童貞、主の神殿、聖霊の聖所よ!」。私たちに、この内的な生活を、この霊的な生活を愛することを教え給え、崇むべき器よ。まことの聖徳はすべて、この内的な信心に、私たちのうちにおられるキリストの内的ないのちに基づいています。もし聖パウロが「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」と言うことができるとすれば、御身の場合はいったいどれほどもっとそれがあてはまるでしょうか、信心のすぐれたる器よ!

シャルトル大聖堂の正門にあるご降誕の場面は、幼子イエズスを祭壇の上に寝させた状態で示しています。主は実際、「天主の小羊」であり、「キリストは世に入るときに、『御身は犠牲も供え物も望まれず、ただ私のために体を準備された』と言われ」、御体と御血の奉献が旧約の犠牲に取って代わるようにされたのです。「こうして後のものを立て、先のものを除かれた」。ですから、クリスマスは犠牲のいけにえの準備なのです。また、ご復活の準備でもあります。ですから、聖パウロはこう言うことができました。「私たちはあなたたちに告げます。祖先にされた約束を、天主は彼らの子孫である私たちのために果たされ、イエズスを復活させられました。詩篇第二篇にも『あなたは私の子である。私はきょうあなたを生んだ』と書かれている通りです」。これは、喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義の密接な結びつきのことであり、白いバラ、赤いバラ、金のバラで象徴されています、くすしきバラの花よ! 「小川の流れに植えたバラのように芽吹けよ」。

クリスマスは、旧約の非常に多くの預言がついに成就したということです。ついに、諸国の民が服従するお方が来られたのです。太祖ヨゼフが預言したように、「ユダから杖は奪われず、彼の足の間から、指揮の杖は取られることがない。杖のもとの持ち主であるお方が来られるまで、諸国の民はみな、そのお方に服従する」。また、預言者ハガイがこう言います。「『私は異国の民を揺り動かし、すべての異国の民の宝を寄せ集め、この家を光栄で覆う』と、万軍の主は仰せられる」。そして主は、ああマリアよ、御身を通して来られたのです。それゆえに、雅歌は御身に対してこう歌います。「御身の首は、象牙の塔、…御身の首は、砦としてつくられたダヴィドの塔のようだ。そこには、千個の円盾(まるたて)、勇士たちの盾が掛け連ねてある」。勇士たちの盾は、神秘的な花嫁の首飾りにある宝石に例えられます。なぜなら、花嫁は勇士たちが信じたお方、勇士たちが待ち望んだお方を生むからです。勇士たちの力は、来るべき救世主へのその信仰から来るのです。

九か月の間、御身はまことの契約の櫃でした。御身において新しいマンナを保ち、ご托身のみ言葉の聖所、ただ御身のみキリストの御体を納めるにふさわしい黄金の堂であられたのです。主は、エゼキエルによって預言された天の門を通してのように、御身を通して私たちのところに来られました。「この門は閉じていなければならぬ。開くことはない。誰も、ここを通ってはならぬ。ここはイスラエルの天主、主が入られたところだからである。だから閉じていなければならぬ」。これらの言葉によって、エゼキエルは御身の終生童貞を預言したのです。

御身は御手に、私たちのすべての病気のための天主の治療薬をお持ちです。それは御身の聖なる幼子、私たちの主イエズス・キリストです! それゆえに、私たちは弱さを感じるとき、御身のところに行きます、病人の快復よ、特に、過去の罪とそのすべての結果という霊魂の弱さのあるときに。御身は罪びとの拠り所です。私は、御身が主の聖心を私たちに対して開いてくださるのではなく、むしろ私たちの心を主に対して開いてくださると言います。主の聖心は常に私たちに対して開かれていますが、私たちの心は非常に頻繁に閉じており、私たちの耳は閉じており、私たちの悪しき意志は素直ではありません。私たちの霊魂の扉はベトレヘムの宿屋のようです。しかし、私たちは御身のところに行き、主は御身に、私たちの心を和らげる驚くべき方法をお与えになり、私たちの心を主の恩寵に対して謙遜かつ従順にしてくださるのです。無垢で清らかで私たちの罪のために冬の寒さで苦しんでいる御身にお会いするとき、私たちは、もはや悔悛するのを拒否しません。

この寒い夜にやって来た貧しい羊飼いたちのように、彼らにイエズスを与えることによって、御身は彼らを慰められました。「御身は御民に対しては天使の食べ物を与えられ、労苦しないでもパンを降ろされた。それはあらゆる楽しみのもととなり、あらゆる味覚を満たすものだった」。ああ憂き人の慰めよ! 新しいエバ、新しいアダムの助け手として、御身は禁じられた実を食べるよう私たちにお与えになることはなく、いのちの木の実、すなわち十字架の実であるイエズスをお与えになります。これが、私たちが待ち望んでいる実であり、私たちは御身の嘆願を聞きます。「私のところに来なさい、私に願うあなたたち、私の実によって飽かされたいあなたたちよ」。

「御身を頼みとする者は幸せ。彼らは涙の谷を通り、一歩ずつ登る気持ちを固めていく」。ですから、この涙の谷において、私たちは御身に依り頼むのです。なぜなら、御身は、キリスト信者の助け、絶えざる御助けの御母であって、常に私たちが御子を見いだすように助けてくださるよう、私たちのために絶え間のない祈りをすることによって、準備なさっているのですから。

御身はこの小さなまぐさおけにおいて非常に謙遜でいらっしゃいますが、天使ガブリエルから、聖寵充ち満てる、と非常に敬意を込めたあいさつをお受けになりました。天使の元后よ、天使たちは御身の子どもである私たちを見まもっているように、御身を見まもっていたのです。すでに旧約において、すべての太祖と預言者は、御子の来臨を待ち望み、この世に救世主を与えるこの祝せられし夜を待ち望んでいました。太祖の元后、預言者の元后よ!

のちに、使徒たちは御身の周りに集まって祈り、御身は彼らにクリスマスについてお教えになるのです。そうでなければ、聖マテオと聖ルカは、最初の二つの章を、どのようにして書くことができたでしょうか? 私たちを、彼らの教えに忠実にさせ給え、ああ使徒の元后よ!

シメオンが「Nunc dimittis(主よ、今こそ…)」を歌い、御身の霊魂が槍で刺し貫かれることを告知したあと、ああ殉教者の元后よ、女預言者アンナは「時が来て、主に告白し、エルザレムの贖いを待ち望んでいる人々に、その子のことを話した」。私たちの生活全般において、すべての人に主のことを話し、主なる御子に対する私たちの信仰を告白する勇気を得られるよう、その同じ恩寵を私たちのためにも取り成し給え、ああ証聖者の元后よ! そして、御身の清さという美しい模範が、多くの人々を御身に倣わせ、かつ主に童貞を奉献する霊感を与えますように、ああ童貞者の元后よ!

この祝されし日がやって来るとき、諸聖人は御子イエズスの御前に集まって永遠に感謝の賛歌を歌います。その感謝は、私たちを贖うためのご来臨という主のあわれみへの感謝ですが、また主が私たちのところへ御身を通して来られたという御身への感謝でもあります、ああ諸聖人の元后よ! 無原罪の御宿りから被昇天まで、御身は完全に主にお仕えになりました、ああ主のつかいめよ。天国と永遠の平安への道において、聖なるロザリオの忠実な黙想を通して、私たちをこれに倣わせるよう取り成し給え、ああ平和の元后よ!

私たちが御母の腕の中の幼子イエズスを黙想し、彼らを愛し、彼らに忠実に仕えることができるよう、聖ヨゼフがその目と心を私たちに与えてくださり、そうすることで、彼らとともに天国で永遠に喜ぶことができますように。アーメン!

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