アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。
今年で8回目になる巡礼ですが、その意向の抜粋に手を加えて、愛する兄弟姉妹の皆様に紹介しつつ、巡礼にお招きします。
ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*****
2014年は、私たちにとって特別の年であります。何故なら、ちょうどロザリオが聖母マリア様によって聖ドミニコに与えられて、800周年でもあるからです。さらに今年は日本が聖母の汚れなき御心に公式に奉献されて170周年だからです。
御摂理により、今年は1月1日から聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の呼びかけにより、第5次ロザリオの十字軍が起動しました(6月8日まで)。聖ピオ十世会アジア管区では、管区長の指導の下、2014年(1月1日から12月31日まで)を、ロザリオの聖なる年として過ごすこととなっています。
また今回の巡礼は、アジア管区長クチュール神父様やポーランドからコヴァルスキ神父様、またカトリック・ファミリー・ニュースのジョン・ヴェナリさんも参加され、世界各国からの巡礼者の皆さんと共により有意義な時を過ごそうと思っています。
そこでこの秋田巡礼をよりよく行うために、二つのことを提案したいと思います。一つは、この巡礼をロザリオの巡礼とすることです。
「その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」(秋田の聖母)
「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」(秋田の聖母)
ロザリオ800周年を記念して、この巡礼の間、巡礼者たちが唱えるロザリオの数が、皆で合わせて800環になることを望んでいます。
もう一つの提案は、日本が聖母の汚れなき御心に捧げられたことを重んじて感謝する巡礼とすることです。故安田神父様は次のように書いています。
【引用開始】
殉教の血にいろどられた二九五年を経て、ようやくフランスの外国宣教会の一員フォカード師が、日本の再布教を志して渡来した。一八四四年五月一日、琉球の那覇港に到着した彼は、軍艦内の病室でミサを捧げ、感謝の祈りにつづいて“聖母の汚れなきみ心”にこの新布教地を奉献して祈った。この祈りを、少し長いが、浦川和三郎師著の「切支丹の復活」(前篇)から左に引用紹介しておきたい。
「ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至って麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公にまた公式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて「強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前1,28)」幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。」
その後日本の政治の流れも変わり、鎖国の長い眠りも破られ、切支丹迫害の血なまぐさい歴史も一応幕をおろした。しかし、迫害が止んだからといって、日本のキリスト教化がたちまち進展するものでもなかった。むしろ遅々として、布教の効果は一向にあがらないのが実情であった。
やがて、日本民族にとって有史以来最大の惨事ともいうべき大東亜戦争が起こり、ついに広島・長崎の大いなる犠牲をもって終局を迎えたが、一九四五年のその記念すべき日が、八月十五日という聖母被昇天の祭日であった。このことは、終戦当時九万そこそこのカトリック信者に、神の摂理による暗合を思わせ、聖母とのゆかりをあらためて想起させるものであった。
このとき、日本の司教団は一致して、先に述べたフォカード師の範にならい、「聖母の汚れなき聖心に日本を捧げる」ことを決議し、信者たちにもその信心がすすめられたのであった。
ところで、一九七五年一月四日、聖母像から三回も涙が流された日に、天使から姉妹笹川に告げられた言葉の中に「聖母の汚れなきみ心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです」との指摘がある。
昔から、神のおん母、人類に賜った母、聖マリアを愛し尊ぶ聖母信心は、教会の伝統から言っても聖書に照らしてみても、もっとも正統な、いつの時代にも重んずべきものであった。先の切支丹たちも聖母への信心によって、苛酷な迫害に堪え、殉教をとげる力を与えられていたのであった。そのように、聖母はいつも日本を愛し、日本民族を心にかけてこられた。その聖母が、なぜ今涙を流されるのであろうか。
「聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈」は、今でも“公教会祈祷文”の二四一ページに、そのまま記載されている。しかし、もし誰かが、天使のような眼力をもって、現在の日本のカトリック教会をくまなく見わたしたとしたら、どこかでこの祈りが唱えられているのを発見できるであろうか。口に出して唱えぬまでも、この心を忠実に保って聖母信心にはげんでいる教会を、いくつか見いだせるであろうか。
【引用終わり】
フォルカード神父が日本を聖母の汚れなき御心に奉献すると、状況が急速に変わり、踏み絵は中止され、カトリック教会の活動に門戸が開かれ、30年後にはキリスト教禁止の高札は撤去されるようになっています。次をご覧ください。
1549年8月15日、聖フランシスコ・ザベリオ来日。
1597年2月5日、日本二十六聖人、日本人の初穂として殉教。
1615年2月5日、ユスト高山右近、マニラにて帰天。
1622年9月10日、元和の大殉教
1633年10月21日、ジュリアン中浦神父殉教(長崎・西坂)
1644年、小西マンショ神父が最後の司祭として殉教。(キリシタン潜伏の時代の開始)
1830年11月27日、フランスのパリのバック通り(Rue de Bac)にある愛徳姉妹会の聖カタリナ・ラブレ修道女(1806 - 1876)に童貞聖マリアが現れ、不思議のメダイを与える。
1836年12月3日、やはり同じフランスのパリにある「勝利の聖母」の教会の主任司祭シャルル・デジュネット神父(1778 – 1860)は、ミサ聖祭を捧げている時「あなたの小教区を私の汚れなき御心に奉献しなさい」とのインスピレーションを受け、12月11日に小教区教会を聖母の汚れなき御心に奉献。その直後、奇跡的な恵みを受け、聖母の汚れなき御心への信心の中心地となる。
1844年5月1日、フォルカード神父(当時28歳)は那覇港で日本を聖母の汚れなき御心に奉献(小西マンショの殉教200年後)。その後フォルカード神父は琉球に2年とどまる。その後1846年7月29日長崎に来港、しかし上陸不可。
1846年に、フォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、フォルカード師は司教に聖別される。
1847年10月22日、フランスのディーニヤ村のレオン・ロバン(Robin)神父は、フォルカード司教の書簡(祈って、祈って、祈って下さい)に感銘して日本改宗のための祈り会を創設し、ド・シャモン司教(Bishop Antoine-Jacques de Chamon)により公式認可を受る【メモ1】。会則は、宣教師が日本に入ることができるように、そして日本人がいつの日にかキリスト教を信じるように、毎日祈ること。村民550人のうち最初450人が会員に登録し、3年後に会員は1800人。1862年の横浜天主堂創立の頃には会員が3000人を超える。
1856年2月11日から、フランスのルルドで無原罪の聖母が聖ベルナデッタに出現(全18回)。聖母マリアは、自分の名前を聞かれて「私は無原罪の御孕りです」と答える。(2月11日という日付は、『日本書紀』によると、日本を統一した神倭伊波古命(カムヤマト イワレビコノミコト)が初代天皇の神武天皇として即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔 現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)で、大和の橿原の宮で即位したとされ、日本の建国記念の日。)
1857年 ジラール師(Girard)は、日本使徒座代理区長代理に任命される。
1858年2月 長崎奉行荒尾石見の守、絵踏みの中止
1858年10月9日 日仏修好通商条約が結ばれ、日本入国が可能になった。メルメ・カション(Mermet-Cachon)は函館に赴き、ジラール師は、仏総領事によって政府通訳官兼領事館付司祭として、江戸を経て横浜に。
1862年1月12日に横浜開港後の日本で初めてキリスト教会が建設され、イエズス・キリストの聖心に奉献さる。当時はまだ禁教だが、横浜の外国人居留地内では教会建設は許された。横浜に天主堂が出来たこの日を日本におけるキリスト教再建の日とし、その100年後の1962年に天主堂跡地(天主堂は1906年に、現在の山手カトリック教会がある場所に移転)に記念碑が建てられる。
1862年6月8日、ローマで日本二十六聖人列聖式が行われ、フォルカード司教はフランスのヌヴェールの司教(1861 - 73)として、フランス政府の反対を押し切って列聖式に列席。
1865年3月17日、イサベリナ杉本ゆりら長崎浦上村の潜伏キリシタンたちの発見。
1866年、プティジャンは再宣教後初の日本司教となる。
1867年 フォルカード司教は、ヌヴェールの司教として、ベルナデッタの修練者としての誓願に立ち会う。
1873年(明治7年)キリスト教禁令高札が撤去される。
【メモ1:1864年から、レオン・ロバン神父は、聖フランシスコ・ザベリオが日本に携えて来たと伝えられる聖母の画像にちなんで六体のブロンズの聖母像をローマで鋳造。
1865年、教皇ピオ九世から祝別を受け、「都の聖母」と命名。
1866年、一体をパリから日本にもって来て、横浜にいたジラール神父のもとに届ける。
1873年、ヴィグルー神父によって「都の聖母」像は市内を見おろす東山将軍塚の六本の松の木のそばにひそかに埋められる。
1879フランス語教授として最初に京都に赴任したヴィリオン神父(A. Villion)は、将軍塚に登り、聖母像を掘り出し、御像を持ち帰り、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置。
1890年5月1日、河原町教会の献堂式の日、中日本代牧区長のミドン司教は、「都の聖母」京都で最初に献堂された河原町教会に安置。】
さて、ファティマの聖母マリア様も聖母の汚れなき御心への奉献がどれほど力強いものであるかを、ポルトガルなどをモデルに示してくれています。
1931年5月13日、ポルトガルの司教様たちは、ファティマに集まった三十万人の信徒たちを前に、ポルトガルを聖母の汚れなき御心に奉献しました。この結果、ポルトガルは三重の奇跡を体験します。
第一には霊的善です。奉献の直後から司祭の召命が突然増加し、十年後には修道者らの数が四倍に増えます。カトリック信仰の広大な刷新が生じました。1942年にポルトガルの司教様たちが共同の司牧書簡を発布しますがそこには「25年前に目をつぶって、現在目を開いてみたとすると、誰であってもポルトガルであるとは思わないだろう。それほど大きな変化が、ファティマの聖母マリアの御出現の慎ましい目に見えない要素によって生じている。本当に、聖母は、ポルトガルを救うことを望んでおられる。」
第二には、カトリックの社会原理に従った政治的・社会的改革です。サラザール大統領が安定した政権を保ちました。
最後に、ポルトガルは、スペインの市民戦争から免れ、また第二次世界大戦にも巻き込まれませんでした。ポルトガルは、1938年5月13日に、スペインの市民戦争に巻き込まれずにすんだことを、聖母マリアにその保護を感謝し、聖母の汚れなき御心への奉献を更新しました。
1939年3月19日付けでシスター・ルチアはイエズス会のアパリシオ神父(Fr Aparicio S.J.)に次のように書いています。
「世界平和か世界戦争かは、聖母の汚れなき御心への信心の実行とこの聖心への奉献とに掛かっています。これが理由で、私がこれをそれほどまでに大きく広げたいと願っています、また、特にこれが天主様と私たちの愛する天の母の御旨だからです。」
スペインのトゥイにいたシスター・ルチアは、1940年12月2日付けで、ピオ十二世にこう書き送りました。
「教皇聖下、(...)私たちの主は、ポルトガルの高位聖職者たちによってこの国が聖母の汚れなき御心に奉献されたために、この戦争中に私たちの国に特別の保護を約束してくださいました。これはもしも他の国々も聖母の汚れなき御心に奉献されたのならその他の国々にも与えられていただろうお恵みの証拠としてです。」
従って、日本は、聖母の汚れなき御心に奉献されていたために、特別の恵みを頂いてきたのです。終戦後、日本の司教様たちは、聖母の汚れなき御心への奉献を更新し、日本はさらに、司祭と修道召命、改心、受洗という霊的恵みと、平和と政治的安定と経済的祝福などのお恵みを頂いています。私たちは今まで受けたお恵みを感謝しなければなりません。
私たちが聖母の汚れなき御心への信心を忘れることなく続けるために、聖母の汚れなき御心に奉献されていることを記憶し続け、感謝しつづけるために、この巡礼で特別にその恵みを感謝しましょう。
【参考資料】
1844年5月1日に、フォルカード神父が那覇港でフランスの船艦の上でした奉献の祈りのラテン語原文
« O cor Mariae sanctissimum, cor omnium cordium ornatissimum, puris-simum, nobilissimum ; cor bonitatis, mansuetudinis, miscricordiae, et am-oris fons perennis ; cor omnium virtutum mirandum sanctuarium et suavissimum exemplar ; soli divino cordi Jesu cor inferius ; insulas illas Lieu-Kieu, (Riu-Kiu), primum evangelisandas mihi licet indignissimo commissas. tunc temporis, quantum in me est, et ad me pertinet, sub spe-ciali patrocinio tuo offero, pono, dico, consecro; insuper vovens me, ubi ali-quot tantummodo et earum incolis ab inani idolorum cultu ad christianam fidem transierint ubi sacellum etiam minimum aedificatum fuerit, vere in-coeptâ stabilitâque missione, omnia sine ullâ mora acturum esse, ut a Sancta Sede Apostolica, sub eodem speciali patrocinio totum regnum istud aperte et, authentice ponatur.
« O cor piissimum, apud divinum cor Jesu cor potentissimum, cor quod nullus inanibus precibus unquam exoravit, humillimas deprecationes meas ne aspernare, miserrimum cor meum ad melius converte, mentis istius tôt tenebris circumfusae caliginem discute, spiritum humilitatis, prudentiae, sapientiae et fortitudinis inter tantas difficultates tantaque pericula mihi obtinere dignare : Teque mediante, omnipotens et misericors Deus, Pater Filius, et Spiritus Sanctus, vili isto instrumenta uti non dedignetur, ut confundat fortia, ut ea quae sunt destruat; populumque istum a tôt saeculis in tenebris et umbra mortis sedentem ad sancti Evangelii lumen aeter-namque vitam demum convertat, dirigat, perducat. Amen.
Haec in portù Napa, in navi Alcmene post missam celebratam, die 1a maii 1844 vota precataque fuêre.
【参考資料二】
ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献。
1993年、聖ピオ十世会日本と聖ピオ十世会韓国とは、正式に聖母の汚れなき御心に奉献されている。
【参考資料三】秋田の聖母のメッセージ
第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」
第二のメッセージ 1973年8月3日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。
おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」
(ちょっと間をおいて)
「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」
第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」
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愛する兄弟姉妹の皆様、
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今年で8回目になる巡礼ですが、その意向の抜粋に手を加えて、愛する兄弟姉妹の皆様に紹介しつつ、巡礼にお招きします。
ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
*****
2014年は、私たちにとって特別の年であります。何故なら、ちょうどロザリオが聖母マリア様によって聖ドミニコに与えられて、800周年でもあるからです。さらに今年は日本が聖母の汚れなき御心に公式に奉献されて170周年だからです。
御摂理により、今年は1月1日から聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の呼びかけにより、第5次ロザリオの十字軍が起動しました(6月8日まで)。聖ピオ十世会アジア管区では、管区長の指導の下、2014年(1月1日から12月31日まで)を、ロザリオの聖なる年として過ごすこととなっています。
また今回の巡礼は、アジア管区長クチュール神父様やポーランドからコヴァルスキ神父様、またカトリック・ファミリー・ニュースのジョン・ヴェナリさんも参加され、世界各国からの巡礼者の皆さんと共により有意義な時を過ごそうと思っています。
そこでこの秋田巡礼をよりよく行うために、二つのことを提案したいと思います。一つは、この巡礼をロザリオの巡礼とすることです。
「その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。」(秋田の聖母)
「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう。」(秋田の聖母)
ロザリオ800周年を記念して、この巡礼の間、巡礼者たちが唱えるロザリオの数が、皆で合わせて800環になることを望んでいます。
もう一つの提案は、日本が聖母の汚れなき御心に捧げられたことを重んじて感謝する巡礼とすることです。故安田神父様は次のように書いています。
【引用開始】
殉教の血にいろどられた二九五年を経て、ようやくフランスの外国宣教会の一員フォカード師が、日本の再布教を志して渡来した。一八四四年五月一日、琉球の那覇港に到着した彼は、軍艦内の病室でミサを捧げ、感謝の祈りにつづいて“聖母の汚れなきみ心”にこの新布教地を奉献して祈った。この祈りを、少し長いが、浦川和三郎師著の「切支丹の復活」(前篇)から左に引用紹介しておきたい。
「ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至って麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公にまた公式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。
ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて「強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前1,28)」幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。」
その後日本の政治の流れも変わり、鎖国の長い眠りも破られ、切支丹迫害の血なまぐさい歴史も一応幕をおろした。しかし、迫害が止んだからといって、日本のキリスト教化がたちまち進展するものでもなかった。むしろ遅々として、布教の効果は一向にあがらないのが実情であった。
やがて、日本民族にとって有史以来最大の惨事ともいうべき大東亜戦争が起こり、ついに広島・長崎の大いなる犠牲をもって終局を迎えたが、一九四五年のその記念すべき日が、八月十五日という聖母被昇天の祭日であった。このことは、終戦当時九万そこそこのカトリック信者に、神の摂理による暗合を思わせ、聖母とのゆかりをあらためて想起させるものであった。
このとき、日本の司教団は一致して、先に述べたフォカード師の範にならい、「聖母の汚れなき聖心に日本を捧げる」ことを決議し、信者たちにもその信心がすすめられたのであった。
ところで、一九七五年一月四日、聖母像から三回も涙が流された日に、天使から姉妹笹川に告げられた言葉の中に「聖母の汚れなきみ心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです」との指摘がある。
昔から、神のおん母、人類に賜った母、聖マリアを愛し尊ぶ聖母信心は、教会の伝統から言っても聖書に照らしてみても、もっとも正統な、いつの時代にも重んずべきものであった。先の切支丹たちも聖母への信心によって、苛酷な迫害に堪え、殉教をとげる力を与えられていたのであった。そのように、聖母はいつも日本を愛し、日本民族を心にかけてこられた。その聖母が、なぜ今涙を流されるのであろうか。
「聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈」は、今でも“公教会祈祷文”の二四一ページに、そのまま記載されている。しかし、もし誰かが、天使のような眼力をもって、現在の日本のカトリック教会をくまなく見わたしたとしたら、どこかでこの祈りが唱えられているのを発見できるであろうか。口に出して唱えぬまでも、この心を忠実に保って聖母信心にはげんでいる教会を、いくつか見いだせるであろうか。
【引用終わり】
フォルカード神父が日本を聖母の汚れなき御心に奉献すると、状況が急速に変わり、踏み絵は中止され、カトリック教会の活動に門戸が開かれ、30年後にはキリスト教禁止の高札は撤去されるようになっています。次をご覧ください。
1549年8月15日、聖フランシスコ・ザベリオ来日。
1597年2月5日、日本二十六聖人、日本人の初穂として殉教。
1615年2月5日、ユスト高山右近、マニラにて帰天。
1622年9月10日、元和の大殉教
1633年10月21日、ジュリアン中浦神父殉教(長崎・西坂)
1644年、小西マンショ神父が最後の司祭として殉教。(キリシタン潜伏の時代の開始)
1830年11月27日、フランスのパリのバック通り(Rue de Bac)にある愛徳姉妹会の聖カタリナ・ラブレ修道女(1806 - 1876)に童貞聖マリアが現れ、不思議のメダイを与える。
1836年12月3日、やはり同じフランスのパリにある「勝利の聖母」の教会の主任司祭シャルル・デジュネット神父(1778 – 1860)は、ミサ聖祭を捧げている時「あなたの小教区を私の汚れなき御心に奉献しなさい」とのインスピレーションを受け、12月11日に小教区教会を聖母の汚れなき御心に奉献。その直後、奇跡的な恵みを受け、聖母の汚れなき御心への信心の中心地となる。
1844年5月1日、フォルカード神父(当時28歳)は那覇港で日本を聖母の汚れなき御心に奉献(小西マンショの殉教200年後)。その後フォルカード神父は琉球に2年とどまる。その後1846年7月29日長崎に来港、しかし上陸不可。
1846年に、フォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、フォルカード師は司教に聖別される。
1847年10月22日、フランスのディーニヤ村のレオン・ロバン(Robin)神父は、フォルカード司教の書簡(祈って、祈って、祈って下さい)に感銘して日本改宗のための祈り会を創設し、ド・シャモン司教(Bishop Antoine-Jacques de Chamon)により公式認可を受る【メモ1】。会則は、宣教師が日本に入ることができるように、そして日本人がいつの日にかキリスト教を信じるように、毎日祈ること。村民550人のうち最初450人が会員に登録し、3年後に会員は1800人。1862年の横浜天主堂創立の頃には会員が3000人を超える。
1856年2月11日から、フランスのルルドで無原罪の聖母が聖ベルナデッタに出現(全18回)。聖母マリアは、自分の名前を聞かれて「私は無原罪の御孕りです」と答える。(2月11日という日付は、『日本書紀』によると、日本を統一した神倭伊波古命(カムヤマト イワレビコノミコト)が初代天皇の神武天皇として即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔 現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)で、大和の橿原の宮で即位したとされ、日本の建国記念の日。)
1857年 ジラール師(Girard)は、日本使徒座代理区長代理に任命される。
1858年2月 長崎奉行荒尾石見の守、絵踏みの中止
1858年10月9日 日仏修好通商条約が結ばれ、日本入国が可能になった。メルメ・カション(Mermet-Cachon)は函館に赴き、ジラール師は、仏総領事によって政府通訳官兼領事館付司祭として、江戸を経て横浜に。
1862年1月12日に横浜開港後の日本で初めてキリスト教会が建設され、イエズス・キリストの聖心に奉献さる。当時はまだ禁教だが、横浜の外国人居留地内では教会建設は許された。横浜に天主堂が出来たこの日を日本におけるキリスト教再建の日とし、その100年後の1962年に天主堂跡地(天主堂は1906年に、現在の山手カトリック教会がある場所に移転)に記念碑が建てられる。
1862年6月8日、ローマで日本二十六聖人列聖式が行われ、フォルカード司教はフランスのヌヴェールの司教(1861 - 73)として、フランス政府の反対を押し切って列聖式に列席。
1865年3月17日、イサベリナ杉本ゆりら長崎浦上村の潜伏キリシタンたちの発見。
1866年、プティジャンは再宣教後初の日本司教となる。
1867年 フォルカード司教は、ヌヴェールの司教として、ベルナデッタの修練者としての誓願に立ち会う。
1873年(明治7年)キリスト教禁令高札が撤去される。
【メモ1:1864年から、レオン・ロバン神父は、聖フランシスコ・ザベリオが日本に携えて来たと伝えられる聖母の画像にちなんで六体のブロンズの聖母像をローマで鋳造。
1865年、教皇ピオ九世から祝別を受け、「都の聖母」と命名。
1866年、一体をパリから日本にもって来て、横浜にいたジラール神父のもとに届ける。
1873年、ヴィグルー神父によって「都の聖母」像は市内を見おろす東山将軍塚の六本の松の木のそばにひそかに埋められる。
1879フランス語教授として最初に京都に赴任したヴィリオン神父(A. Villion)は、将軍塚に登り、聖母像を掘り出し、御像を持ち帰り、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置。
1890年5月1日、河原町教会の献堂式の日、中日本代牧区長のミドン司教は、「都の聖母」京都で最初に献堂された河原町教会に安置。】
さて、ファティマの聖母マリア様も聖母の汚れなき御心への奉献がどれほど力強いものであるかを、ポルトガルなどをモデルに示してくれています。
1931年5月13日、ポルトガルの司教様たちは、ファティマに集まった三十万人の信徒たちを前に、ポルトガルを聖母の汚れなき御心に奉献しました。この結果、ポルトガルは三重の奇跡を体験します。
第一には霊的善です。奉献の直後から司祭の召命が突然増加し、十年後には修道者らの数が四倍に増えます。カトリック信仰の広大な刷新が生じました。1942年にポルトガルの司教様たちが共同の司牧書簡を発布しますがそこには「25年前に目をつぶって、現在目を開いてみたとすると、誰であってもポルトガルであるとは思わないだろう。それほど大きな変化が、ファティマの聖母マリアの御出現の慎ましい目に見えない要素によって生じている。本当に、聖母は、ポルトガルを救うことを望んでおられる。」
第二には、カトリックの社会原理に従った政治的・社会的改革です。サラザール大統領が安定した政権を保ちました。
最後に、ポルトガルは、スペインの市民戦争から免れ、また第二次世界大戦にも巻き込まれませんでした。ポルトガルは、1938年5月13日に、スペインの市民戦争に巻き込まれずにすんだことを、聖母マリアにその保護を感謝し、聖母の汚れなき御心への奉献を更新しました。
1939年3月19日付けでシスター・ルチアはイエズス会のアパリシオ神父(Fr Aparicio S.J.)に次のように書いています。
「世界平和か世界戦争かは、聖母の汚れなき御心への信心の実行とこの聖心への奉献とに掛かっています。これが理由で、私がこれをそれほどまでに大きく広げたいと願っています、また、特にこれが天主様と私たちの愛する天の母の御旨だからです。」
スペインのトゥイにいたシスター・ルチアは、1940年12月2日付けで、ピオ十二世にこう書き送りました。
「教皇聖下、(...)私たちの主は、ポルトガルの高位聖職者たちによってこの国が聖母の汚れなき御心に奉献されたために、この戦争中に私たちの国に特別の保護を約束してくださいました。これはもしも他の国々も聖母の汚れなき御心に奉献されたのならその他の国々にも与えられていただろうお恵みの証拠としてです。」
従って、日本は、聖母の汚れなき御心に奉献されていたために、特別の恵みを頂いてきたのです。終戦後、日本の司教様たちは、聖母の汚れなき御心への奉献を更新し、日本はさらに、司祭と修道召命、改心、受洗という霊的恵みと、平和と政治的安定と経済的祝福などのお恵みを頂いています。私たちは今まで受けたお恵みを感謝しなければなりません。
私たちが聖母の汚れなき御心への信心を忘れることなく続けるために、聖母の汚れなき御心に奉献されていることを記憶し続け、感謝しつづけるために、この巡礼で特別にその恵みを感謝しましょう。
【参考資料】
1844年5月1日に、フォルカード神父が那覇港でフランスの船艦の上でした奉献の祈りのラテン語原文
« O cor Mariae sanctissimum, cor omnium cordium ornatissimum, puris-simum, nobilissimum ; cor bonitatis, mansuetudinis, miscricordiae, et am-oris fons perennis ; cor omnium virtutum mirandum sanctuarium et suavissimum exemplar ; soli divino cordi Jesu cor inferius ; insulas illas Lieu-Kieu, (Riu-Kiu), primum evangelisandas mihi licet indignissimo commissas. tunc temporis, quantum in me est, et ad me pertinet, sub spe-ciali patrocinio tuo offero, pono, dico, consecro; insuper vovens me, ubi ali-quot tantummodo et earum incolis ab inani idolorum cultu ad christianam fidem transierint ubi sacellum etiam minimum aedificatum fuerit, vere in-coeptâ stabilitâque missione, omnia sine ullâ mora acturum esse, ut a Sancta Sede Apostolica, sub eodem speciali patrocinio totum regnum istud aperte et, authentice ponatur.
« O cor piissimum, apud divinum cor Jesu cor potentissimum, cor quod nullus inanibus precibus unquam exoravit, humillimas deprecationes meas ne aspernare, miserrimum cor meum ad melius converte, mentis istius tôt tenebris circumfusae caliginem discute, spiritum humilitatis, prudentiae, sapientiae et fortitudinis inter tantas difficultates tantaque pericula mihi obtinere dignare : Teque mediante, omnipotens et misericors Deus, Pater Filius, et Spiritus Sanctus, vili isto instrumenta uti non dedignetur, ut confundat fortia, ut ea quae sunt destruat; populumque istum a tôt saeculis in tenebris et umbra mortis sedentem ad sancti Evangelii lumen aeter-namque vitam demum convertat, dirigat, perducat. Amen.
Haec in portù Napa, in navi Alcmene post missam celebratam, die 1a maii 1844 vota precataque fuêre.
【参考資料二】
ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に奉献。
1993年、聖ピオ十世会日本と聖ピオ十世会韓国とは、正式に聖母の汚れなき御心に奉献されている。
【参考資料三】秋田の聖母のメッセージ
第一のメッセージ 1973年7月6日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」
第二のメッセージ 1973年8月3日(初金曜日)
「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。
これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。
おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。
祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」
(ちょっと間をおいて)
「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」
第3のメッセージ 1973年10月13日(土曜日)
「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」
(少し間をおいて)
「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。
悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」
「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」
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