アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。
その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ダニエル・フュレップ「キコの共同体、ネオカテクメナート(新求道共同体)の道について司教様のご意見は何ですか?」
シュナイダー司教「これは極めて複雑で悲しい現象です。オープンにはっきり言ってしまうと、これはカトリック教会におけるトロイの木馬です。私は彼らのことをよく知っています。何故なら私はカザフスタンにおいて、カラガンダにおいて、数年間彼らのための司教代表だったからです。私は彼らのミサや会合にも何度も出席しましたし、彼らの創立者であるキコの書いたものを読みました。ですから私は彼らのことをよく知っています。
私が外交なしにオープンに話すなら、私はこう言わなければなりません。ネオカテクメナートは、教会の内部における、カトリックの飾りだけを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体[23]です。
最も危険な側面は、御聖体に関するものです。何故なら御聖体は教会の中心部(心臓)だからです。この中心部(心臓)がおかしくなっているとき、体全体もおかしくなります。ネオカテクメナートにとって、御聖体とは第一に兄弟的な宴会です。これはプロテスタントです。典型的にルター的な態度[24]です。彼らは御聖体が真の犠牲であるという概念と教えを拒絶します。彼らは御聖体を犠牲であるする聖伝の教え、そして聖伝の信仰は、キリスト教的ではなく異教的である[25]という見解さえ持っています。
これはまったく馬鹿げてきます。これは典型的にルター的でありプロテスタント的です。彼らの御聖体の典礼の間、御聖体をまったく軽々しく取り扱います。時として恐るべきこととなります[26]。
御聖体拝領の時に彼らは座り、小さな破片には神経を払わないのでそのまま捨てられます。御聖体拝領の後、沈黙のうちにイエズスに祈り、礼拝する代わりに、彼らはダンスを踊ります。これは本当にこの世的であり、異教的で、非超自然的です。
第二の危険は、彼らのイデオロギーです。ネオカテクメナートの主要な考えは、彼らの創立者であるキコ・アルグェジョ(Kiko Argüello)によれば次の通りです。すなわち、教会は理想的な生活をしていたが、しかしこれは四世紀のコンスタンティノ皇帝の時までで、その時までだけが効果的に現実の教会であった。ところがコンスタンティノ皇帝とともに教会は不健康となり始めた。教義的にも、典礼的にも、道徳的にも廃退していった。[27] そこで教会は、この教義と典礼の廃退のこれ以上落ちることができない岩盤の底に到達したが、それがトリエント公会議の教令である、と。
しかしながら、キコの意見とは反対に全く正反対が真実です。つまり、トリエント公会議は教会歴史の最高点の一つでした。それはトリエント公会議の教義と規律の明快さによります。
キコによると、教会の暗黒時代は四世紀から第二バチカン公会議まで続いたことになっています。第二バチカン公会議によって初めて教会に光がやって来た、と。
これは異端です。何故ならこれはつまり聖霊が教会を捨て去っていたと言うことだからです。これは本当にセクト的(新興宗教的)でマルチン・ルターと同じ線にあります。ルターは、自分が来るまで教会は暗闇の中にいた、自分を通してのみ教会に光がある、と言いました。キコの立場は、ルターと根本的に同じです。ただ違うのはキコは教会の暗黒時代をコンスタンティノ皇帝から第二バチカン公会議までとしたことだけです。従って、彼らは第二バチカン公会議を間違って解釈しています。彼らは自分たちこそが第二バチカン公会議の使徒であると言います。そう言うことによって、自分たちがやっている全ての異端的な実践や教えを第二バチカン公会議を使って正当化するのです。これは重大な乱用です。
ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」
(続く)
注
[23] この共同体は、教会の典礼をプロテスタントとユダヤ教の要素を混ぜ合わせている。
[24] この共同体は、典礼聖省が彼らの典礼乱用を承認することを長い間待っていた。典礼聖省に照会をして、信徒のための教皇庁評議会が新求道共同体の求道方針(Catechetical Directory)とそこにある典礼外の実践を承認した。従ってがこの許可は典礼以外の実践のみ適応する。2012年1月20日の教令は、新求道共同体の「典礼革新」と何の関係もない。この「典礼革新」は、直ぐさま終わらせなければならない。何故ならそれは教会の普遍的な法規と実践に反しているからだ。
[25] トリエント公会議(1545–63)は、プロテスタントの見解に反対して、次のことをドグマとして宣言した。すなわち、ミサ聖祭の犠牲は罪の償いの要素を含める(DH 1743, 1753)。犠牲はキリストご自身によって命じられた。これは単なる記念でも栄光化でも感謝でもなく、生ける人と死せる人のために捧げられる罪の償いの現実の犠牲である。しかし、ミサが現実の犠牲であるという事実は、キリストの犠牲が繰り返されなければならない、ということではない。教会はキリストの犠牲を異教の人身御供に変えるのではない。ミサ聖祭は十字架の犠牲の繰り返しではない。ミサ聖祭は秘蹟の印のもとでキリストの唯一の犠牲が現前することである。この意味において、ミサ聖祭は「記念」である。ここにおいて、秘蹟の経綸の現実が現前する(DH 1740)。キリストは、ミサ聖祭においても十字架の上に置いても同じ最高司祭である(DH 1743)。
[26] 新求道共同体の典礼は、ローマミサ典書の総則にも従わず、その他の典例法規にも従わず、自分自身の「典礼革新」にのみ従う。新求道共同体の典礼のやり方は乱用で一杯である。実際、バチカンは平信徒が彼らのミサで説教をしたり、典礼の最中に信徒が踊ったり、感謝の祭儀の祈りの時に跪かずに立ったままでいたり、座ったまま聖体拝領したり、キリストの御血が入った大きなカリスを手渡したりすることについて注意した。教会音楽についての規定も全く無視されている。別の問題は、新求道共同体は信徒たちを小教区と教会から分離させる。主日のミサ聖祭は乱用だらけで、常に共同体の「プライベートなミサ」として土曜日の夕方に捧げられる。普通は教会の中ではなく、世俗の場所、たとえば共同体の部屋で。
[27] 313年6月13日、コンスタンティノ皇帝はミラノの勅令を発し、キリスト教の迫害を終わらせ、キリスト教をローマ帝国の有効な宗教として認めた。315年、同じ皇帝は死刑の方法としての十字架を廃止し、異教の諸宗教が有していた特権をカトリック教会にも与えた。321年コンスタンティノ皇帝は主日を休日とした。ローマ帝国の絶対的な支配者として、324年からローマ帝国中における教会の制度的基礎を確立することを助けた。プロテスタントらは、カトリック教会の制度的構造と社会政治的強さの確立、及び王座と祭壇の結びつきは、異教主義の勝利であると考えている。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。
その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
ダニエル・フュレップ「キコの共同体、ネオカテクメナート(新求道共同体)の道について司教様のご意見は何ですか?」
シュナイダー司教「これは極めて複雑で悲しい現象です。オープンにはっきり言ってしまうと、これはカトリック教会におけるトロイの木馬です。私は彼らのことをよく知っています。何故なら私はカザフスタンにおいて、カラガンダにおいて、数年間彼らのための司教代表だったからです。私は彼らのミサや会合にも何度も出席しましたし、彼らの創立者であるキコの書いたものを読みました。ですから私は彼らのことをよく知っています。
私が外交なしにオープンに話すなら、私はこう言わなければなりません。ネオカテクメナートは、教会の内部における、カトリックの飾りだけを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体[23]です。
最も危険な側面は、御聖体に関するものです。何故なら御聖体は教会の中心部(心臓)だからです。この中心部(心臓)がおかしくなっているとき、体全体もおかしくなります。ネオカテクメナートにとって、御聖体とは第一に兄弟的な宴会です。これはプロテスタントです。典型的にルター的な態度[24]です。彼らは御聖体が真の犠牲であるという概念と教えを拒絶します。彼らは御聖体を犠牲であるする聖伝の教え、そして聖伝の信仰は、キリスト教的ではなく異教的である[25]という見解さえ持っています。
これはまったく馬鹿げてきます。これは典型的にルター的でありプロテスタント的です。彼らの御聖体の典礼の間、御聖体をまったく軽々しく取り扱います。時として恐るべきこととなります[26]。
御聖体拝領の時に彼らは座り、小さな破片には神経を払わないのでそのまま捨てられます。御聖体拝領の後、沈黙のうちにイエズスに祈り、礼拝する代わりに、彼らはダンスを踊ります。これは本当にこの世的であり、異教的で、非超自然的です。
第二の危険は、彼らのイデオロギーです。ネオカテクメナートの主要な考えは、彼らの創立者であるキコ・アルグェジョ(Kiko Argüello)によれば次の通りです。すなわち、教会は理想的な生活をしていたが、しかしこれは四世紀のコンスタンティノ皇帝の時までで、その時までだけが効果的に現実の教会であった。ところがコンスタンティノ皇帝とともに教会は不健康となり始めた。教義的にも、典礼的にも、道徳的にも廃退していった。[27] そこで教会は、この教義と典礼の廃退のこれ以上落ちることができない岩盤の底に到達したが、それがトリエント公会議の教令である、と。
しかしながら、キコの意見とは反対に全く正反対が真実です。つまり、トリエント公会議は教会歴史の最高点の一つでした。それはトリエント公会議の教義と規律の明快さによります。
キコによると、教会の暗黒時代は四世紀から第二バチカン公会議まで続いたことになっています。第二バチカン公会議によって初めて教会に光がやって来た、と。
これは異端です。何故ならこれはつまり聖霊が教会を捨て去っていたと言うことだからです。これは本当にセクト的(新興宗教的)でマルチン・ルターと同じ線にあります。ルターは、自分が来るまで教会は暗闇の中にいた、自分を通してのみ教会に光がある、と言いました。キコの立場は、ルターと根本的に同じです。ただ違うのはキコは教会の暗黒時代をコンスタンティノ皇帝から第二バチカン公会議までとしたことだけです。従って、彼らは第二バチカン公会議を間違って解釈しています。彼らは自分たちこそが第二バチカン公会議の使徒であると言います。そう言うことによって、自分たちがやっている全ての異端的な実践や教えを第二バチカン公会議を使って正当化するのです。これは重大な乱用です。
ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」
(続く)
注
[23] この共同体は、教会の典礼をプロテスタントとユダヤ教の要素を混ぜ合わせている。
[24] この共同体は、典礼聖省が彼らの典礼乱用を承認することを長い間待っていた。典礼聖省に照会をして、信徒のための教皇庁評議会が新求道共同体の求道方針(Catechetical Directory)とそこにある典礼外の実践を承認した。従ってがこの許可は典礼以外の実践のみ適応する。2012年1月20日の教令は、新求道共同体の「典礼革新」と何の関係もない。この「典礼革新」は、直ぐさま終わらせなければならない。何故ならそれは教会の普遍的な法規と実践に反しているからだ。
[25] トリエント公会議(1545–63)は、プロテスタントの見解に反対して、次のことをドグマとして宣言した。すなわち、ミサ聖祭の犠牲は罪の償いの要素を含める(DH 1743, 1753)。犠牲はキリストご自身によって命じられた。これは単なる記念でも栄光化でも感謝でもなく、生ける人と死せる人のために捧げられる罪の償いの現実の犠牲である。しかし、ミサが現実の犠牲であるという事実は、キリストの犠牲が繰り返されなければならない、ということではない。教会はキリストの犠牲を異教の人身御供に変えるのではない。ミサ聖祭は十字架の犠牲の繰り返しではない。ミサ聖祭は秘蹟の印のもとでキリストの唯一の犠牲が現前することである。この意味において、ミサ聖祭は「記念」である。ここにおいて、秘蹟の経綸の現実が現前する(DH 1740)。キリストは、ミサ聖祭においても十字架の上に置いても同じ最高司祭である(DH 1743)。
[26] 新求道共同体の典礼は、ローマミサ典書の総則にも従わず、その他の典例法規にも従わず、自分自身の「典礼革新」にのみ従う。新求道共同体の典礼のやり方は乱用で一杯である。実際、バチカンは平信徒が彼らのミサで説教をしたり、典礼の最中に信徒が踊ったり、感謝の祭儀の祈りの時に跪かずに立ったままでいたり、座ったまま聖体拝領したり、キリストの御血が入った大きなカリスを手渡したりすることについて注意した。教会音楽についての規定も全く無視されている。別の問題は、新求道共同体は信徒たちを小教区と教会から分離させる。主日のミサ聖祭は乱用だらけで、常に共同体の「プライベートなミサ」として土曜日の夕方に捧げられる。普通は教会の中ではなく、世俗の場所、たとえば共同体の部屋で。
[27] 313年6月13日、コンスタンティノ皇帝はミラノの勅令を発し、キリスト教の迫害を終わらせ、キリスト教をローマ帝国の有効な宗教として認めた。315年、同じ皇帝は死刑の方法としての十字架を廃止し、異教の諸宗教が有していた特権をカトリック教会にも与えた。321年コンスタンティノ皇帝は主日を休日とした。ローマ帝国の絶対的な支配者として、324年からローマ帝国中における教会の制度的基礎を確立することを助けた。プロテスタントらは、カトリック教会の制度的構造と社会政治的強さの確立、及び王座と祭壇の結びつきは、異教主義の勝利であると考えている。