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「使徒職の秘訣」第一部 その一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を天主はお望みになる

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を、天主はお望みになるを
兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


第一部 天主は、外的活動も、内的活動も、お望みになる

一、使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる

 このうえなくおおらかであること、絶対に物惜しみをしないこと―これこそは、天主性の特長である。
 天主は、無限に、善良であられる。さて、善良なる者の心のあえぎは、ただひとつ―それは、自分がもっている善や幸福を、他の者にもわかちあたえたい、ということである。
 わが主イエズス・キリストの地上生涯をみれば、そのことがよくわかる。それは、天主のこの汲めども尽きないおおらかさの、たえまない表れだった。福音書をちょっと見てもわかるとおり、イエズスの聖心は、世の人びとを、天主の真理に、永遠の生命に引きよせようと、かわくほど望んでおられる。そして、そのたどられた道々に、慈悲と哀憐と博愛のたからを、おしげもなくまきちらしていく。
 この使徒職の炎を、イエズス・キリストは、ご自分の花よめなる教会にも、おわかちになった。それは、かれの愛のプレゼントである。かれの生命のあふれである。かれの真理の解明であり、かれの聖性のかがやきである。この天主的炎にあふられ、活気づけられたればこそ、カトリック教会は、世紀の流れを通じて、天主なる花むこのお手本にならって、使徒的事業を継続していくのではないか。
 「人間は、おなじ他の人間によって、救霊の道を、示されねばならぬ」(レオ十三世のお言葉)
 ああ、天主の摂理がうちたてた、感嘆すべくも世界的なこの計画よ、この法則よ!なるほど、ただイエズス・キリストだけが、世のあがないの代価である。尊い御血を流された。キリストは、ちょうど聖体の秘跡においてそうなされるように、単独で直接、人びとの霊魂に、御血の功徳をほどこし、そこでお働きになることができたにちがいない。しかし、かれは、その恩寵の分配の仕事において、協力者を、助手を、お求めになる。なぜだろうか。
 むろん、天主としてのかれの威厳が、それを要求するにちがいなかろうが、それにもまして、人びとにたいするかれの永遠の愛が、かれにそうさせるのである。その臣僕をして、霊魂の統治にあたらせるのは、天地の王なる天主にとって、ふさわしいことではあろう。だが、この貧しい、いやしい被造物なる人間を、ご自分の事業の労苦と栄光に参加させてくださるのは、天主のがわからいって、どれほどのおおらかさであることだろう!
 十字架の上でうぶごえをあげ、救世主のつらぬかれた脇腹から生まれでた教会は、おのれの使徒職にたずさわる人びとを使って、天主の人イエズス・キリストの慈悲と贖罪の事業を、世の終わりまで続けていく。イエズス・キリストのご意志によって生まれたこの使徒職は、教会が、万国民の霊魂に、天主的生命をそそぎ入れるための、実質的機関であり、人びとの霊魂を征服してゆくための、最も通常の武器なのである。
 使徒職にたずさわる人びとの中で、第一番にくるのが“聖職者”であって、その聖なる階級は、キリストの軍団の幹部を形成している。かくも多数、かくも聖にして奮発と熱誠にもえる司教・司祭たちから成る聖職者階級は、それだけでもすでに、栄光と称賛にあたいする存在だが、特にアルスの聖司祭の列聖によって、ひときわ異彩を放った。
 聖職者についで、教会の初期から、いわば“志願兵”の軍団が存在してきた。それはまことに、精鋭の軍団で、その持続的な、花々しい生長発展の姿は、まさしく教会が、活気に富む霊体であることを示す、最もあきらかな証拠の一つとして、指摘されるべきである。
 これに属する者では、まず初代の世紀における、観想的修道会の人びとがあった。かれらは、そのたえまない祈りと、はげしい苦業によって、異教世界の回心に貢献するところが甚大であった。
 中世紀に起こったのは、説教修道会、托鉢(たくはつ)修道会、騎士修道会、および異教徒から信徒の俘虜をあがないもどす英雄的使命を目的とした、種々の修道会である。
 最後に、現代においては、あたかも雨後の竹の子のように、諸種の修道会が群起している。その中には、教育を目的とするもの、職業を教えるもの、外国宣教を主要目的とするもの、その他、多種多様の修道会がある。そして、かれらの使命は、種々の形式のもとに、物心両面の恩恵を世の人びとにほどこすことにある。
 そのほか、教会は、あらゆる時代を通じて、信徒のあいだに、一騎当千の協力者を見いだしてきた。それは、たとえば、熱心なカトリック信者であった。現代では、何々団、何々会、と名のついているもの、いわゆる“事業の人”と名づけられるもの、伝道熱にもえる人たちがそれである。かれらはいずれも、自分たちの力をたがいに結集して、共通の母なる教会への奉仕に、一切をささげつくしている。一切を ― 時間も、才能も、財産も、そしてしばしば自由さえも。また、時としては、おのれの血、おのれ自身のいのちさえも。
 使徒職に献身するこれらの人びとの雄々しい姿は、だれも感激なくして眺めることができない。それはまた。大きな励ましとなる。
 このように、天主はおぼし召しの時に、時代の要請と情勢にみごとに即応した、いくたの事業を、摂理のみ手をもって、さかんに起こしてくださるのである。教会の歴史は、このことを雄弁に物語っている。 ― 教会に、なにか新しい必要が起こって、これを満たしてやらねばならない時、教会がなにか新しい危険におびやかされて、これからおのれを安全にまもらねばならない時、そういう時には、きまって、当代の必要が要請する新しい修道会の創立をみるのである。
 そんなわけで、今日でも、とりわけ現代社会のひどい罪悪の激流に抵抗するために、昨日まではほとんど知られていなかった、諸種の新しい使徒職が起こりつつある。すなわち、初聖体をよく準備させるためのカトリック要理の教授、初聖体拝領後の少年、少女、および信者、未信者へのカトリック要理の教授、各種の信心会、祈祷の使徒会、レジオ・マリエ、慈善の使徒職なる聖ビンセンシオ・ア・パウロ会、黙想会、学生連盟、カトリック学士会、カトリック医師会、カトリック文芸協会、カトリック経営の諸学校、カトリック出版物・・・などなど。
 これらの使徒職は、いずれもみな、「わたしは、あなたたちの霊魂のために、大いに喜んで、すべてを費やし、わたし自身さえも費やすつもりである」(コリント後12:15 )といった、聖パウロの魂を燃えたたせていた、火のような伝道精神に霊感されて、起こったものである。じっさい聖パウロは、イエズス・キリストの御血の功徳を、すべての人の心にそそぎ入れようと、かわくほど望んでいたのである。
 キリストの王国の伸張発展をめざして、布教戦線の第一線に立つこれらの人びとに、わたしはこのつたないページをささげる。かれらは、おのれの尊い使命を達成するために、熱誠と奮発に燃え、情熱をかたむけつくして、働いてはいるだろう。だが、同時に、ある種の危険にもさらされてはいないだろうか。
 外面的活動が激しいので、身も心も消耗しつくした結果は、「何よりもまず、内的生活の人」でありえない状態に在るのではなかろうか。また、いつの日か、どうにも説明のできない不成功により、さらにおのれの霊魂にこうむった甚大な損害によって、内生不足の当然の罰を受けることでもあるなら、そんなとき、すっかり意気消沈して、全く戦意をうしない、まるで敗残兵のように、布教戦線を脱落するようなことはないだろうか。
 本書に盛られている思想は、実は筆者自身のためにも、少なからず利益となったことを、ここに告白する。いろんな雑務に追いまくられている関係上、ややともすれば、外面の世界におし流されようとする危険にむかって、たたかうために。
 どうか本書が、筆者と同じ危険にさらされている人びとを、世俗化の不幸から、救ってくれますように。また、かれらに、天主の事業のために、“事業の天主”を棄ててはならぬ、という真理をなっとくさせて、かれらの勇気を鼓舞し、かれらの活動を、正しい軌道にのせてくれますように。
 さらにまた、聖パウロが、「ああ、もしわたしが、福音を述べ伝えないならば、わざわいなことよ」(コリント前9:16)といった言葉は、けっしてわれわれに、「人は、たとえ全世界をもうけても、もしその霊魂をうしなうならば、なんの利益があるだろう」(マテオ16:25)とのキリストのお言葉を、忘れさせる口実を与えるものではない、ということを、ふかくさとらせてくださいますように。
 ここに、家庭の父母がある。
 かれらは、『信心生活の入門』を、愛読している。
 ここにまた、キリスト信者の夫婦がある。かれらは、たがいに使徒職にたずさわるのは、自分の義務である、また、子どもたちを、キリストへの愛と模倣にむかって教育していくのも、自分らの義務である、と信じている。こういう人たちは、本書のあたえる教訓を、たやすく、自分に適応することができるであろう。
 かれらの使徒的奮発心を、いっそう効果的にするためには、ただ信心深くあるということだけでは足りないのだ。どうしても内的生活がなければならぬ。さらにまた、かれらの家庭を、イエズス・キリストの精神をもって、かおらせるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。最後に、かれらの家庭を、永久にかわらない平和―いろんな試練があっても微動だにしない、そしていつまでも、真にキリスト教的家庭の家宝として存続するこの平和をもって、きよく美しくかざるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。この内的生活の必要を、もしかれらが本書によって、いっそう痛切に感ずるようになるなら、まことにさいわいである。

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