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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一部 三 内的生活とは何か?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」(ドン・ショタール著 山下房三郎 訳)の
第一部の 第三、内的生活とは何か? をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


三、内的生活とは何か? 

 本書によくでてくる“念祷の生活”とか、“観想”とか、“観想的生活”とかいう言葉は、実はカトリック教会の教父や、スコラ神学者が好んで用いた術語であるが、ここではきまって、“どんな人にもできる、通常の内的生活”の意味であって、けっして神秘神学の研究対象である、並はずれた念祷の状態でもなければ、まして恍惚とか、示現とか、脱魂とか、そういう異常の状態を意味するものでないことを、お断りしておく。
 このへんで、神秘神学の研究に道ぐさを食っていたんでは、本書のかんじんな主題から、脱線してしまうおそれがある。で筆者はここでは、「おのれの霊魂を、内的に調整してゆくために、各自が受けいれねばならぬ諸真理のうち、絶対的確実性を持つもの」だけを、いくつか簡単に記述するにとどめたいと思う。

第一の真理 超自然的生命とは、信・望・愛によって、私の霊魂の内部においていとなまれる、イエズス・キリストご自身の生命である。

 なぜなら、イエズスこそは、成聖の恩寵がわれわれの霊魂にほどこされるための、功徳による原因(Causa meritoria)、われわれの聖性の模型となる原因(Causa exemplaris)、目的となる原因(Causa finalis)であり、そのうえ、聖言として、御父と聖霊とともに、恩寵を生じる原因(Causa efficiens)でもあられるからである。
 この超自然的生命によって、キリストは、われわれの霊魂のなかにお住まいになるのであるが、その臨在の仕方はけっして、聖体拝領の時のように、肉身をそなえた臨在ではない。それはあたかも、頭や心臓が、四肢五体におよぼす活動のように、“生命の活動”による臨在である。そして、この活動は、霊魂の秘奥においていとなまれ、そのありさまは、心には実感されない。私の信仰の功徳を増すために、天主がわざとそうされるのである。
 ゆえに、それはふだんに、知・情・意などの私の自然能力には感知されない。ただ、信仰だけが、この活動の実際にいとなまれていることを、私に確信させる。
 だが、それはひとつの高貴な天主的活動であって、私の自由意志の行使に、なんらのコントロールもおかず、いっさいの第二次的原因―日常茶飯の出来ごとも、有情の人間も、心なき事物も―みんなこれを縦横に駆使して、私に天主のみ旨を知らせてくれる。私に、天主的生命への参与を獲得し、もしくは深化させる機会を与えてくれる。
 超自然的生命は、洗礼のとき、霊魂に“恩寵の状態”がかたち造られた瞬間に始まる。この生命はまた、堅振の秘跡によって完成され、罪によって失われたときは、告解の秘跡によって回復され、聖体の秘跡によって維持され、ゆたかにされていく。
 この生命こそは、私の霊魂の“生命”―キリスト教的生命そのものなのである。

第二の真理 この生命が、霊魂に芽ばえると、イエズス・キリストは私に、ご自分の霊なる聖霊をお与えになる。聖霊は、私さえそのお働きにじゃまをしなければ、私にとって、高貴な霊的活動の源泉となる。すなわち、聖霊のインスピレーションによって、私はキリストとともに、キリストにおいて、キリストによって、またキリストのごとくに、考え、判断し、愛し、望み、苦しみ、かつ働くように仕向けられる。私の外面的活動は、私の霊魂にお住まいになるキリストご自身の生命の、外的表示でしかなくなる。「もはや私が生きるのではなく、キリストこそ、私のうちにお生きになるのである」(ガラツィヤ2:20)
 このようにして、私は、聖パウロによって方式化された“内的生活”の大理想を、すこしずつ実現していく。
 キリスト教的生活、信心生活、内的生活、聖なる生活――これらはいずれも、それぞれ本質的に異なる別種の生活をさしていっているのではない。たったひとつの愛の太陽から放射される、光度と熱度の差異を称して、そういっているまでにすぎない。同じ太陽の光線でも、宇宙を照らす度合いに応じて、薄明、あけぼの、真昼の明るさ、さん然たるかがやき、などと呼ばれるではないか。
 本書に使われている“内的生活”という言葉は、誰もが常時に、潜在的に、霊魂の内部にもっている、静止的な内的生活をさしているのではない。それは、いわば“天主的生活の資本”とでも呼ばれるべきものであって、成聖の恩寵さえもっていれば、誰もがこの種類の内的生活はいとなんでいる、といえるのである。筆者がここに使っている“内的生活”の真意は、霊魂が自身の活動と、また助力の恩寵への忠実な協力とによって、この天主的生命の資本を活用して、超自然的な仕事をする、いわば行動的な、実用的な内的生活のことである。それは次のように、定義することができよう。

内的生活とは――
 「霊魂が、おのれの自然的傾向を善導するため、これに向かって戦いをいどみ、かつ万事において、福音の光りと主イエズス・キリストのお手本にしたがって、ものごとを判断し、おのれの動きを正しい方向に調整してくれる良い習性を獲得しようと努力する、その活動の状態」
をいうのである。

 それゆえ、内的生活には、必ず二つの運動がある。
 第一の運動によって、霊魂は、超自然的生命にとって障害となることのできる、すべての被造物から離脱する。(Aversio a creaturis)
 第二の運動によって、霊魂は、天主にあこがれ、天主と一致する。(Conversio ad Deum)

 このようにして、霊魂は、キリストが生命の各瞬間に、自分にお与えになる恩寵に、忠実でありたいと望む。一言でいうなら、霊魂は、イエズスと一致して生活する。そして、イエズスの仰せられた、「もし人が私につながっており、また私がその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)とのお言葉を、わが身に実現するのである。

 第三の真理 私の霊魂の内部に、イエズスが臨在して、ちからづよく活動しておいでになる、というこの事実を、私は確実に、徹底的に、信ずるように努力しなければならぬ。とりわけ、イエズスのご臨在が、私にとって、私の霊魂の全能力をくまなく浸透する、一つの生き生きとした、最高に生き生きとした現実となるように、その獲得にむかって、修業しなければならぬ。もしそうでなかったら、私はこの内的生活を獲得するための、最も有力な手段の一つを、欠くことになろう。このご臨在によってこそ、イエズスは私の光り、私の理想、私の忠告者、私の支柱、私の助け、私の避難所、私の力、私の医師、私のなぐさめ、私のよろこび、私の愛 ―― 一言でいえば、私の“生命”となってくださるのである。このようにして私は、すべての善徳を獲得することができよう。そのとき初めて私は、ミサ聖祭のあとで、感謝のために、母なる教会が私のくちびるにのせてくれる、聖ボナヴェントゥラの ≪Transfige, dulcissime Domine Jesu……》(いとも甘美なる主イエズスよ……)という、あの感動にみちた祈りを、ほんとうにまごころこめて、となえることができよう。

 第四の真理 天主に対する愛が、ますます深くなっていくにつれ、私の超自然的生命も、いのちの各瞬間ごとに、成長発展することができる。私の霊魂の内部におけるイエズスの、ちからづよい活動をともなうご臨在は、いのちの各瞬間ごとに、いちいち新しい恩寵を、私の霊魂にそそぎ入れてくれるからである。

 この恩寵は、次のような機会に、霊魂にそそぎ入れられる。
(一)――功徳になる行為を、なすたびごとに。すなわち、善業、働き、種々の苦しみ、被造物からの自発的離脱、心の痛み、身体のわずらい、謙遜、自己放棄、祈り、ミサ聖祭、聖母マリアにたいする信心行為、などなど。
(二)――すべての秘跡、とりわけ、聖体の秘跡によって。

 これは、ほんとうに、確実な真理であり、事実である。そしてこの真理は、その高さと深さによって、私を驚倒させるが、同時に、とりわけ私の心をよろこばせ、はげましてくれる。

 ああ、イエズスよ、あなたはほんとうに、一つ一つの出来ごと、ひとりひとりの人物、一つ一つの事物によって、客観的に、そして生命の各瞬間ごとに、あなた自身を、私にお与えになります。あなたは、ご自分の知恵と愛を、これらの出来ごと、人物、事物などの外観のもとにおかくしになり、私の内にあるあなたのご生命に、私がますます成長していくようにと、私の協力をうながしてやみません。

 ああ、私の霊魂よ、イエズスはまことに、“現在の恩寵”というありがたいおめぐみによって、いのちの各瞬間に、ご自身を、おまえに与えてくださる。祈りをするとき、ミサ聖祭をささげるとき、またはこれにあずかるとき、信心読書をするとき、苦業をするとき、熱誠、克己、心戦、信頼、愛のわざをするとき、ああ私の霊魂よ、おまえはこのイエズスのご注視から、のがれることができるだろうか。

第五の真理 原罪によって生じ、一つ一つの自罪によって勢力を増していく三つの邪欲が、私の内に、“死の元素”をかたち造り、これがイエズスのご生命にむかって、たえまなく戦っている。さて、この死の元素が、私の内に、成長し発展すればするほど、逆に天主的生命のいとなみは弱くなる。最後には、死滅してしまうことすらある。
 しかしながら、この超自然的生命に反抗する私自身の、自然のわるい傾向も感情も、またはどんなに烈しい、どんなに長びく悪魔の誘惑さえも、私の意志が、それに強く抵抗しているかぎり、この天主的生命を害することはできないのだ。これは、なぐさめにみちた真理だが、それらは他のあらゆる心戦の要素のように、この天主的生命を、私の霊魂の内に発展させ、ふやしてくれさえもする。ただし、それは、私の奮発心の度合いに応じて……。

第六の真理 ある手段を、忠実に実行しないなら、知恵は暗くなり、意志は弱り果てて、私の内にある天主的生命を持続し、発展させるために、イエズスに協力することができなくなるだろう。したがって、天主的生命は、だんだん弱くなっていき、ついには、“意志の冷淡”に落ちこむ。このようにして私は、心の散漫、怠け、錯覚、迷いなどによって、小罪と手をにぎるようになる。その結果、私の救霊は、不安定となる。たやすく大罪をおかす心がまえが、できあがっているからである。

 もし私が、不幸にも、このような冷淡におちいっているのなら、(いわんや、冷淡よりももっとひどい処まで行っているのなら)、あらゆる手段をつくして、これから脱け出るように、精をださねばならぬ。そのためには――

 (一)――天主の畏敬の念を、あらたに心によび起こす。そのためには、四終――すなわち、死、審判、天国、地獄、永遠、罪などを、生き生きとした、印象深い姿のもとに、眼前に思いうかべる。
 (二)――痛悔心を、あらたに起こす。
 ああ、いつくしみ深い救い主よ、あなたの御傷の語る愛の知識によって、私は精神的にカルワリオへ行き、あなたの尊いみ足のもとにひれ伏します。どうか、あなたの生ける尊い御血が、私の頭に、心に、雨のようにふりそそいで、心のやみをはらいのけ、魂の氷をとかし、意志のねむりを、ゆりさましてくださいますように。

(この章 続く)

【注】聖ボナヴェントゥーラの祈りは次の通り。
TRANSFIGE, dulcissime Domine Iesu, medullas et viscera animae meae suavissimo ac saluberrimo amoris tui vulnere, vera serenaque et apostolica sanctissima caritate, ut langueat et liquefiat anima mea solo semper amore et desiderio tui, te concupiscat et deficiat in atria tua, cupiat dissolvi et esse tecum.
Da ut anima mea te esuriat, panem Angelorum, refectionem animarum sanctarum; panem nostrum cotidianum, supersubstantialem, habentem omnem dulcedinem et saporem, et omne delectamentum suavitatis. Te, in quem desiderant Angeli prospicere, semper esuriat et comedat cor meum, et dulcedine saporis tui repleantur viscera animae meae; te semper sitiat fontem vitae, fontem sapientiae et scientiae, fontem aeterni luminis, torrentem voluptatis, ubertatem domus Dei.
Te semper ambiat, te quaerat, te inveniat, ad te tendat, ad te perveniat, te meditetur, te loquatur, et omnia operetur in laudem et gloriam nominis tui, cum humilitate et discretione, cum dilectione, et delectatione, cum facilitate et affectu, cum perseverantia usque in finem; ut tu sis solus semper spes mea, tota fiducia mea, divitiae meae, delectatio mea, iucunditas mea, gaudium meum, quies et tranquillitas mea, pax mea, suavitas mea, odor meus, dulcedo mea, cibus meus, refectio mea, refugium meum, auxilium meum, sapientia mea, portio mea, possessio mea, thesaurus meus, in quo fixa et firma et immobiliter semper sit radicata mens mea et cor meum. Amen.

【参考資料】
L'Ame de Tout Apostolat par Dom Jean-Baptiste Chautard



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