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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:貧窮

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷


 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  九  日
貧窮

(一)世には貧しくして苦しまねばならぬ人が多数にある。熱烈な信仰をもち、あらゆる艱難(かんなん)を日々に負(お)うべき貴重(きちょう)な十字架とみなし、これを天主への愛の献(ささ)げ物とする人ならば、貧窮(ひんきゅう)の内にも大いなる意義と価値(ねうち)とを見出(みいだ)し、深い慰めをうけることもできよう。
 しかし多くは真(まこと)の信仰を知らず、また知れども活(い)かさず、ただ不平をもらし、世を呪(のろ)い,労働をも厭(いと)うに至るのはいかにも残念の極(きわ)みである。
 信仰の立場から財産というものを見れば、それはどれほどの意味をもっているものだろうか?このことについては、イエズス・キリストの御一生涯と、その御行為(おんおこない),御言葉(みことば)を考えてみれば、すぐ明らかに分(わ)かることである。
 富(とみ)は決して救(たす)霊(かり)に必要欠(か)くべからざるものではない。のみならず時には救(たす)霊(かり)の妨(さまた)げとなることさえあるのである。
 イエズス・キリストは全世界を創(つく)り給うた天主であった。すべてを自由になし得(え)給う最上の主人であった。
お望みならば、金殿玉楼(きんでんぎょくろう)の中に富貴(ふうき)に生(お)い立ち給うこともできたに相違ない。しかるにわざわざお生まれになった所は小さい厩(うまや)の馬槽(うまぶね)の中であった。養父はその日暮らしの大工で、御母も貧しい処女(おとめ)に過ぎない。そして長じては御自(おんみずか)ら父の業(わざ)に従って労働された。
公生活に入られてからのキリストは益々窮乏(きゅうぼう)されるばかりであった。「狐(きつね)には穴あり、空の鳥には巣あり。されど人の子には枕する所もなし」主はかって御弟子等にこう仰せられたことさえある。
とにかく主の御一生は貧窮(ひんきゅう)の御生涯であった。そして其の最も多く愛し且つ、救いの道を教えられた階級は貧民(ひんみん)達であった、これをもっても富(とみ)が救(たす)霊(かり)に必要なものでないことはよく分(わ)かるであろう。そればかりではない。
 イエズスは或る時こう云われたことがある。「富める者の天国に入るは駱駝(らくだ)が針の穴を通るより難し」と。何と峻烈(しゅんれつ)な御言葉(みことば)ではないか。
 一体天主が万物を創造(そうぞう)し、これを人に与えられたのは、人がこれによって天主のご恩を知り天主を愛し天主を讃美(さんび)し、天主に一致する手段(しゅだん)として用いるためであった。云い換えれば天国への梯子(はしご)として用いるためである。
しかるに人は原罪(げんざい)によって目がくらんだ。本末を顛倒(てんとう)して、天主を忘れ物を尊(とうと)ぶようになった。そして集めた富を何に使うかと云えば多くは罪の快楽(かいらく)を求めるためである。
先にイエズスが云われた御言葉(みことば)は、つまりかかる不心得を誡(いまし)められたものである。
故に貧しい人は天主を怨(うら)むどころではない、救(たす)霊(かり)の妨(さまた)げとなりやすい富なきことは、却(かえ)ってキリストにあやかり天主から特別に愛されている印(しるし)と思い感謝せねばならぬ。
また富める者は注意してこの世の宝をよく用い、以て永遠の宝を購(あがな)うよう心がけねばならぬ。

(二)聖人は皆そうであるが、殊に聖母マリアは貧窮(ひんきゅう)を好(この)み,世の物を少しも心にかけられなかった。恰(あたか)もすて去るべき塵芥(ちりあくた)の如く考えていられたのである。    
そして日々些(いささ)かの貧しき物あれば、それで満足されたのであった。
聖母のお望みは物質的な宝に富(と)むことではなくして、ひたすら霊的の宝、すなはち聖寵(せいちょう)や善徳(ぜんとく)に富むことであった。さればもし手許(てもと)に余裕があれば、これを貧者(ひんじゃ)に施(ほどこ)し給うた。
聖(せい)主(しゅ)御誕生の後、三人の博士等がその拝礼に来た時、黄金,乳(にゆう)香(こう)、没(もつ)薬(やく)等の礼物(れいもつ)を献(ささ)げたが、聖ベルナルドに従えば「聖母は直ちにこれを貧者(ひんじゃ)に施(ほどこ)し給うた」のである。
 それゆえ、われらは家(いえ)貧(まず)しくとも、日用品に不足を感ぜぬならば、天主に感謝して満足しよう。そしてわれらより貧しき者も多いのであるから機会ある毎に少しでも慈善(じぜん)を行うように心がけよう。

○ 聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて貧窮(ひんきゅう)の徳(とく)を与えられん為「めでたし」
三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

貧しき者を愛し、賤(いや)しき者を高め給う天主よ、主、御自(おんみずか)らも貧窮(ひんきゅう)の御生活を選び給いたれば、我にも消え失(う)するこの世の宝を貪(むさぼ)らず、却(かえ)って錆(さ)びもしみも破らず、盗人(ぬすびと)穿(うが)たず盗まざる」宝を天に蓄(たくわ)え得るよう御聖寵(おんめぐみ)を与え給わんことを、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりて願い奉る。 アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:被造物よりの離脱

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 二 日
被 造 物 よ り の 離 脱

(一)聖(み)主(あるじ)イエズス・キリストは、始終(しじゅう)我等に向かって「我が子よ、汝の心を我に献(ささ)げよ」と招き給う。
即ちイエズス・キリストは我等の心を全く求めていられるのである。それであるからこの世のはかない物に溺(おぼ)れる事は、天主と一致するため、叉、完全なる人となるために、大いなる妨(さまた)げである。
 そこで主イエズス・キリストは「我よりも、父もしくわ母を愛する人は我にふさわしからず」と申していられる。聖書にも記録(しる)してあるが、イエズス・キリストはある時、一人の富(と)める青年に向かって「汝もし完全ならんと欲すれば、行きて持てる物を売り、之を貧者にほどこせ。しかして来たりて、我に従(したが)え」と申された。
その時、青年は悲しんでそこを去った。なぜならば青年の心はこの世の総(すべ)ての物に溺(おぼ)れていたからである。そして彼はついに約束された如く完全な人となる事が出来なかった之に反し聖マリアは、既に子供の時、この世と総(すべ)てのものから離れ、三歳の時、父母にはなれ、エルザレムの聖(せい)殿(でん)に於(お)いて己(おのれ)を全く天主に献(ささ)げられた。我等も聖母マリアにならい、この世の総(すべ)ての物から心を離さなければならぬ。
 それのみならず総(すべ)ての物をただ天に上がるための階段として利用しよう。
人がある物に溺(おぼ)れている程度は、それを失ったときの悲しみの深さによって知られる。
 それ故(ゆえ)、好(この)む物を失ってあまり甚だしくいつまでも嘆(なげ)き悲(かな)しむ人は、万事を天主の御摂(ごせつ)理(り)に任(まか)せているのでもなく、また万事に超(こ)えて、天主を愛しているのでもないのである。

(二)すべての物から離れるとは、決してその物を嫌(きら)う事ではない。この世の総(すべ)ての物は天主の御栄(みさかえ)を現(あらわ)す物としていかにもよく造(つく)られている。
われらはそれによって天主のわれらに対する愛の深さを知らなければならない。ただそれらの物は如何様(いかよう)にも用(もち)いる事が出来る。われらは注意して、天主に仕(つか)えるためのみに被造物(ひぞうぶつ)を用(もち)いなければならぬ。
 聖パウロは「この世の宝、楽しみ、叉、総(すべ)ての物を利用する人は、それを利用せざるが如くになるべき外(ほか)なし」と、申された。即ちこれは、天主に仕(つか)える為と、自分の霊魂(れいこん)の救(たす)霊(かり)のために、世の物を用(もち)いる方法である。

○ 聖マリアによりて、この世のはかなき物に離るる御恵(おんめぐ)みを得(え)ん為に
「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト、主は我等を愛し我等に与えんとて、総ての物を創造(つく)り給えり。
願わくはわれらをしてすべての被造物(ひぞうぶつ)をば、ただ主の御旨(みむね)のままに、且(か)つ主に至る階段として用い、もってあやまりなく主に仕(つか)うるを得(え)せしめ、救(きゅう)霊(れい)の障害(しょうがい)となるべき物は、甘(あま)んじて退(しりぞ)け、主に対する愛の犠牲として、これを献(ささ)ぐるの聖寵(せいちょう)を与え給え。 アメン。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:潔白

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷


 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二  十  日
潔白

(一)潔白(けっぱく)については二通りあって、一つは肉体上、他の一つは霊魂上の潔白である。
この二つの潔白については、聖マリアが最も立派な手本を我等に示された。
肉身上の潔白は、みだらな行為は勿論(もちろん)、すべてのみだらな言葉や考えをさえも退(しりぞ)けることである。
 マリアは幼き時より、清き心をもって、愛する天主に自分の潔白を捧げられた。
イエズスの母は高き位(くらい)よりも童貞(どうてい)を重く見られた。白き百合(ゆり)の如く匂(かぐ)はしきその御心はいつも潔白であったので、童(どう)貞女(ていじょ)の元后(げんこう)と申し上げるようになったのである。
 聖マリアは始終祈りを以て五官をつつしんでいられたから、極(ご)く軽いみだらな考えも、その心に浮かぶ事がなかった。常に清い心を望んでいる我々は是非,聖マリアを我等の代願者と撰ばなければならぬ。
聖人達は如何にこの潔白の徳を、ほめたたえられたであろうか。聖アタナジオ曰(いわ)く「ああ宝石の如くうるはしき潔白よ、如何に汝を尊ぶ者の少なくして汝をすつる者の多きや!汝は予言者のよろこび、使徒(しと)の名誉、諸天使の生命にして、諸聖人の冠(かんむり)なり」と。

〔二〕霊魂上の潔白(けっぱく)は,すべての考えと行為(おこない)とを、唯(ただ)、天主のみ愛し之に仕(つか)えるために自身の霊肉(れいにく)をささげる事である。
 この第二の潔白についても聖マリアは我々の立派な御手本である。
天主に仕(つか)える為、マリアは幼き時にエルザレムの聖(せい)殿(でん)に入りて己を全(まった)く天主に捧げられた。
天主に仕える為に、聖殿に入りて御子キリストを聖(おん)父(ちち)天主に捧げ、叉、天主に仕える為、十字架の下(もと)に立って御子の御苦しみと、御自分の御苦しみとを捧げられたのである。
すべての行為(おこない)と言葉、考えにも、それによって始終(しじゅう)、天主に仕えようと考えていられた。
唯(ただ)、天主の誉(ほま)れのみ思われて万事(ばんじ)に霊魂(れいこん)上の潔白を守られた。我々も天主に仕(つか)える為に始終(しじゅう)、悪を避(さ)け善(ぜん)を行い,決して己(おのれ)が名誉や快楽(かいらく)を探し求めてはならぬ。

○ 聖マリアによりて、この二通りの潔白(けっぱく)の徳を我等に与えられんために
「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主、イエズス・キリスト、主は「幸福なる哉(かな)、心の潔(ぎよ)き人、彼等は天主を見(み)奉(たてまつ)るべければなり」と曰(のたま)えり。
願わくは我等が最も潔(ぎよ)き童貞マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて、すべての不浄(ふじょう)より免(のが)れ、完全に潔白(けっぱく)を保(たも)ち、遂に天主を見(み)奉(たてまつ)るよう、聖寵(せいちょう)をゆたかにあたえ給え。   
アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:節制

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 一 日
節     制

(一)聖人方がいづれも口を揃えて云うていられる如く、天主と一致するためには、祈りの外にいつも五官をつつしみ、その慾を抑(おさ)えることが極めて必要である。慾(よく)を抑(おさ)えることは、天主と全く一致する完(かん)徳(とく)の土台となるものである。
 マリアはこのことをよく御存知であった。それ故(ゆえ)、謙遜(けんそん)をも愛されたのである。彼女は常に最も末(すえ)の席につくことを望(のぞ)まれて、いつも人の目に立たず、軽んぜられることを喜び給うた。従って貧窮(ひんきゅう)をも愛された。
 聖母は天主の外(ほか)、何をも持つことを望まれなかった。すべての地上の物から心を離して、三人の博士達のもたらした宝をも自分の富(とみ)とし給わなかった。
かかる方であるから、叉、賞讃(しょうさん)や名誉をうけるような所えは、決しておいでにならなかった。そして恥辱(ちじょく)や軽蔑(けいべつ)をうけるような所へはきっとおいでになった。御子がエルザレムへ入って人々の歓迎をうけ給うた時には、聖母の御姿は見えなかったが、十字架につけられ辱(はずかし)められ給うた時には、その下(もと)に佇(たたず)んでいられたでわないか。故(ゆえ)にわれらも御母に倣(なら)い、愛着の心や、慾(よく)念(ねん)を抑(おさ)える節制(せっせい)の業(わざ)を始めよう。
キリストはわれらに「人もしわが跡(あと)につきて来たらんと欲(ほっ)せば、己を捨て己(おのれ)が十字架(じゅうじか)をとりてわれに従(したが)うべし」と仰(おお)せられた。この御言葉(みことば)を守ろうとする者は必ず五官(ごかん)の慾(よく)を制(せい)し、己(おのれ)を愛する心を抑(おさ)えねばならない。

〔二〕かようの犠牲は我等の死ぬ迄つづく。なぜならば生きている限り慾はたえず起(お)こり,我等はそれを抑(おさ)える事こそ出来るが、消す事は絶対に出来ないからである。
 聖マリアは一生涯の間、かくの如き犠牲を捧げられた。即ち常に目、耳、口、等を謹(つつし)み叉,身も心も天主に捧(ささ)げ、唯(ただ)、天主に仕(つか)える事より外(ほか)は何も望(のぞ)まれなかった。
 我等も犠牲を払わなければならぬ。今日、押さえる事が出来なかった慾は明日も引き続き押さえんと努(つと)めなければならぬ。
かくして天主のお助けを願いたゆまず励むならば、ついには多くの慾と戦っても、常に勝利を得るようになるであろう。
 聖マリアに依(よ)って常に慾(よく)を制(せい)する恵(めぐみ)を与えられん為に「めでたし」三度唱(とな)えん。


祈 願 せ ん

 主イエズス・キリストよ、主は四十日の間、荒野(あれの)に止まり断食に依(よ)りて我等に肉(にく)身(しん)の慾に打ち勝つべき模範(もはん)を示し給えり、願わくはわれは聖母の御伝達(おとりつぎ)により肉(にく)身(しん)の邪(じゃ)慾(よく)、食(しょく)慾(よく)を制(おさ)え精神を益々堅固(けんご)にし、遂には光栄ある勝利に達するよう聖寵(せいちょう)を与え給わん事を。 アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:望徳

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 三 日
望     徳

(一)望(ぼう)徳(とく)は二つの要素(ようそ)から成りたっている。その第一は人間自身の不完全さで、第二は天主の御慈悲(おんじひ)である。
 我等自身の不完全さについては今更(いまさら)、云う必要がないであろう。我等は自分の力(ちから)のみを以てしては、超自然界(ちょうしぜんかい)に何等(なんら)価値ある善業(ぜんぎょう)も出来ない。
イエズス・キリストは葡萄(ぶどう)のたとえを以て之を教え給うた。「我は葡萄(ぶどう)の樹(き)にして汝(なんじ)等(ら)は枝なり。枝が葡萄(ぶどう)の樹(き)に止(とど)まるにあらずば、自(みずか)ら実(み)を結(むす)ぶ事能(あた)わざる如く、汝(なんじ)等(ら)が我に止(とど)まるにあらずば能(あた)わず。我に止(とど)まり、叉,我がこれに止(とど)まる人は、これ多くの実(み)を結(むす)ぶ者なり」(ヨハネ 十五、四、五)ゆえに我等が天主の報(むく)いを得(え)べき善業(ぜんぎょう)を行う為には天主から御聖寵(おめぐみ)を頂かねばならぬのである。
 次に天主の御慈悲(おんじひ)について考えれば、天主は我等を愛し給うゆえに、我等を天国に入れ御自分の御側(おそば)において、その光栄と幸福とを与えんと思(おぼ)し召し、其の目的を達する為に、充分(じゅうぶん)の聖寵(せいちょう)を我等に与え給うのである。
 望(ぼう)徳(とく)の根本(こんぽん)は、キリストの御苦難(ごくなん)の功徳(くどく)である。キリストは「汝等,我が名によりて、何を求むるも父が汝(なんじ)等(ら)に之を賜(たま)わん為なり」と仰せられたがその聖名(みな)によりて願うとは、即ち主の御苦難を天主に献げその御功徳を厚く信頼するという意味に他ならない。
 「願えよ、さらば与えられん」との御約束を以て天主は我等の心の中に信頼を起(お)こし給うた。愛に充(み)ち溢(あふ)れ給う天主は、謙遜(けんそん)をもって近づかんとする者は、決して捨て給わない。
叉、その願いをも、こばみ給わず喜んで迎え給うのである。

〔二〕我等の望(ぼう)徳(とく)は天主の大いなる喜びとなるのである。即ち信頼を以て近づき、天主がわれらの愛する父なる事を確信するは、天主の御栄(みさかえ)を増(ま)すことだからである。
 聖母マリアがいかに平生(へいぜい)天主に厚い信頼の念を抱(いだ)いておられたかは、その聖女エリザベトを訪問せられた時うたわれた、あの有名なる讃美歌(さんびか)の「我が精神は我が救(すく)い主なる天主によりて、よろこびにたえず。そは御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきをかえりみ給いたればなり」という
 御言葉(みことば)を見ても解(わか)るであろう。かくの如く我等も天主を深く信頼すれば、聖母の如く常に、よろこびを以て、この世を渡る事が出来るのである。
 我等は臨終(りんじゅう)の時に,悪魔(あくま)の誘(いざな)いがいかにはげしくとも、決して絶望(ぜつぼう)せずに、十字架(じゅうじか)を手に持ち、われらの為に磔(はりつ)けられたまえるキリストの御苦難の功徳(くどく)によりて、必ず地獄(じごく)を免(まぬが)れ、天国に行くことができると確信しなければならない。

○ 聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてわれらの望(ぼう)徳(とく)の増(ま)さんために「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト我等、主を離れては何事をもなす能(あた)わざる者なれば、己(おの)が功(いさおし)を恃(たの)むことなく、主の御苦難(ごくなん)の御功徳(ごくどく)によりてのみ救わるることを確信し、主の御慈悲(おんじひ)により、この世に於(お)いては聖寵(せいちょう)を与えられ、來(のちの)世(よ)に於(お)いては、永遠の福(ふく)楽(らく)を授(さず)けらるるよう、聖母の御伝達(おんとりつぎ)によりてひたすら請(こい)願(ねが)い奉(たてまつ)る。
アメン。



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聖ヨハネの有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 6月24日は洗者聖ヨハネの祝日でした。そこで、聖ヨハネの祝日に聖務日課で歌う有名な Ut queant laxis resonare fibris という賛歌の日本語の訳をご紹介します。

 第一節は特に有名で、ドレミの名前の元になっています。最初のUT は、後にDO となりました。

UT queant laxis
REsonare fibris 
MIra gestorum
FAmuli tuorum, 
SOLve polluti
LAbii reatum, 
Sancte Iohannes. 

 これについては、次のウェブ・サイトに大変参考になる訳が出ていたので合わせてご紹介します。「詩の朗唱について」

 Catholic Encyclopedia には次のような説明がありました。13世紀のドゥランドゥス(Durandus)によると、8世紀のモンテカシーノのベネディクト会修道士であったパウルス・ディアコヌス(助祭パウロ Paulus Diaconus)は、ランゴバルドの歴史を書いて有名な人ですが、復活の徹夜祭で、助祭として復活の賛美歌 Exsultet を歌うことになっていました。しかし、聖土曜日になるといきなり、のどがかすれて声が出なくなっってしまったそうです。そこで、かつてザカリア(聖ヨハネの父親)に声がもどったように、声をもどることを祈って、この最初の一節を作ったとのことです。

 この詩は、サッポー詩節(Sapphicum)という韻律で書かれています。古代ローマのホラティウスという叙情詩人がつかった韻律の一つです。この韻律は、レスボス島の女流詩人の名サッポーに因んでいます。教会における賛歌も、多くがこのサッポー詩節で書かれています。

 サッポー詩節とは次のようなものです。(― は長い、Uは短い、xはどちらでも可を意味します。)
  ― U ― ― ― || UU ― U ― x
  ― U ― ― ― || UU ― U ― x
  ― U ― ― ― || UU ― U ― x
    ― UU ― x

 この聖ヨハネ賛歌のメロディーについては、Silvia Walliによる Melodien aus mittelalterlichen Horaz-Handschriften. Edition und Interpretation der Quellen. 及びJan M. Ziolkowskiによる、 Nota Bene: Reading Classics and Writing Melodies in the Early Middle Ages (Turnhout: Brepols, 2007)によれば、11世紀の写本(Montpellier, Ecole de Médecine 425H)に、ホラーティウスの『歌集』4巻11歌1-20 Est mihi nonum superantis annum というピュッリスへの叙情詩にこれと同じメロディーが付けられて歌われていたそうです。これは自分の友人マエケーナースの誕生日に、ピュッリスという女性を呼んで、彼女に詩を贈るという内容です。

Est mihi nonum superantis annum
plenus Albani cadus, est in horto,
Phylli, nectendis apium coronis,
 est hederae vis

 日本語の訳は、メレアグロスさんのものがあります。

 では、日本語をご紹介します。聖務日課では、晩課、朝課、讃課の三回に分けて歌います。

Ut queant laxis resonare fibris しもべらがゆるやかな声帯で
mira gestorum famuli tuorum, 御身の驚くべき行為を奏でることが出来るよう
solve polluti labii reatum, けがれた唇の罪を赦したまえ
Sancte Iohannes. 聖ヨハネよ。

nuntius celso veniens Olympo 高き天より御使いが来たりて
te patri magnum fore nasciturum, 偉大なる御身が生まれることを
nomen et vitae seriem gerendae 御身の名とその一連の生涯を
ordine promit. 正しく御身の父に預言する。

【Olympus は、オリュンポスの山、転じて、神々のすむところ、そこより転じて天国】

ille promissi dubius superni 父は天からの預言を疑い
perdidit promptae modulos loquelae, 意のままに話す力を失った
sed reformasti genitus peremptae しかし御身は生まれると
organa vocis. 失われた声の喉を直した。

ventris obstruso positus cubili 御身は閉ざされし母胎にあるとき
senseras regem thalamo manentem; 寝室にいる王を察知した
hinc parens nati meritis uterque ここから両の親は子供の功徳により
abdita pandit. 秘密のことを明らかにする。

【regem thalamo manentem 寝室に留まりつつある王とは、聖母マリア様の胎内にいたイエズス・キリストのこと。聖母マリア様が洗者聖ヨハネの母親である聖エリザベトを訪問した時のことを指す。「両の親」とは、ザカリアとエリザベトではなく、文脈から聖エリザベトと聖母マリアとの二人である。これは、二人の会話(聖エリザベトの発言と聖母マリア様のマニフィカット)に言及していると考えられるから。】

antra deserti teneris sub annis 御身は少年のとき民の喧騒を避けて
civium turmas fugiens petisti, 荒野の洞穴におもむいた
ne levi saltem maculare vitam 軽薄な会話でその生きざまを
famine posses. せめて汚すことがないように。

praebuit hirtum tegimen camelus 駱駝が剛毛の衣服を、羊が腰紐を
artubus sacris, strophium bidentes, 聖なる体に与えた
cui latex haustum, sociata pastum 飲物は水であり食物は
mella locustis. 蜂蜜といなごであった

ceteri tantum cecinere vatum 他の予言者達が予感の心で告げたのは
corde praesago iubar adfuturum, ただの光の到来にすぎなかった
tu quidem mundi scelus auferentem ところが御身は世の罪を取り除くお方を
indice prodis. 指を指して明らかにした。

non fuit vasti spatium per orbis 広き世界の中でもヨハネに以上に
sanctior quisquam genitus Iohanne, 聖なる人が生まれたことはない
qui nefas saecli meruit lavantem 彼は世の罪を洗い清めるお方を
tingere lymphis. 水で濡らすを許された。

o nimis felix meritique celsi, ああ余りにも幸福で高き功徳の人
nesciens labem nivei pudoris, 白い純潔の汚れ知らず
praepotens martyr eremique cultor, いとも力ある殉教者にして隠遁の信奉者
maxime vatum! 最大の予言者!

serta ter denis alios coronant 三十の果実をつけた冠が、他の人達を飾り
aucta crementis, duplicata quosdam, 別の人達をその倍の果実の冠が飾る
trina centeno cumulata fructu ところが聖者よ御身を飾るのは
te, sacer, ornant. 三百の果実を盛った冠なのだ

【ここは、マテオの聖福音の13章8節のあるものは100倍の実を結び、あるものは60倍、あるものは30倍の実を付ける」を暗示していると考えられる。しかし、洗者聖ヨハネは、単に100倍ではなく、300倍となっている。これは、おそらく、洗者聖ヨハネの「先駆者」「預言者」「殉教者」、あるいは、「預言者」「童貞者」「殉教者」の三つの冠を指すのだろう。聖トマス・アクイナスによると、天国の栄光の特別の冠は、「博士」「童貞」「殉教」の三つの冠。】

nunc potens nostri meritis opimis 最善の功徳もて力ある御身は今こそ
pectoris duros lapides repelle, われらの胸の堅き石を除きたまえ
asperum planans iter et reflexos 起伏多き道をならし
dirige calles, 曲がれる小道を伸ばしたまえ

ut pius mundi sator et redemptor 世の優しき救い主かつ贖い主が
mentibus pulsa livione puris 邪念の去った清い人々の心に
rite dignetur veniens sacratos 正しく聖なる足取りを置いて
ponere gressus. かたじけなくも来給わんことを。

laudibus cives celebrant superni 天の住民は御身を称賛し奉る
te, Deus simplex pariterque trine, 一にして三位なる天主よ、
supplices ac nos veniam precamur, われらもまた伏して許しを願い奉る
parce redemptis.  贖われた者たちを容赦し給え。

sit decus Patri genitaeque Proli 聖父および生まれし聖子に
et tibi, compar utriusque virtus, 聖父と聖子との等しく両者の力なる聖霊よ御身にも、
Spiritus semper, Deus unus, omni 唯一の天主よ、常に栄光あれ
temporis aevo. いつの世にも

Amen.アーメン


洗者聖ヨハネよ、我らのために祈り給え!
洗者聖ヨハネよ、日本のために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

司教聖別の25周年の宣言(英語版)

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 エコンでは、今日、ルフェーブル大司教様が1988年にした司教聖別の25周年の感謝の記念のミサがありました。その際になされた3名の司教様たちの宣言を英語でご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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Declaration on the occasion of the 25th anniversary of the episcopal consecrations (30th June 1988 – 27th June 2013)

1- On the occasion of the 25th June 1988. Most especially they would like to express their filial gratitude towards their venerable founder who, after so many years spent serving the Church and the Sovereign Pontiff, so as to safeguard the Faith and the Catholic priesthood, did not hesitate to suffer the unjust accusation of disobedience.

2- In his letter addressed to us before the consecrations, he wrote, “I beseech you to remain attached to the See of Peter, to the Roman Church, Mother and Mistress of all churches, in the integral Catholic Faith, as expressed in the Professions of Faith, in the catechism of the Council of Trent, in conformity with that which you have been taught in the seminary. Remain faithful to the transmission of this Faith so that the reign of Our Lord may come.” It is indeed this phrase which expresses the profound reason for the act which he was going to undertake “so that the reign of Our Lord might come,” adveniat regnum tuum!

3- Following Archbishop Lefebvre, we affirm that the cause of the grave errors which are in the process of demolishing the Church does not reside in a bad interpretation of the conciliar texts – a “hermeneutic of rupture” which would be opposed to a “hermeneutic of reform in continuity” – but truly in the texts themselves, by virtue of the unheard of choice made by Vatican II. This choice is manifest in its documents and in its spirit; faced with “secular and profane humanism,” faced with the “religion (as indeed it is) of man who makes himself God,” the Church as unique custodian of Revelation “of God who became man” has wanted to make known its “new humanism” by saying to the modern world, “we too, we more than any other, have the cult of man.” (Paul VI, closing speech, 7th December 1965). But this coexistence of the cult of God and the cult of man is radically opposed to the Catholic Faith which teaches us to render the supreme cult and to give the primacy exclusively to the one true God and to only His Son, Jesus Christ, in whom “dwelleth all the fullness of the Divinity corporeally” (Col. 2:9).

4- We are truly obliged to observe that this Council without comparison, which wanted to be merely pastoral and not dogmatic, inaugurated a new type of magisterium, hitherto unheard of in the Church, without roots in Tradition; a magisterium resolved to reconcile Catholic doctrine with liberal ideas; a magisterium imbued with the modernist ideas of subjectivism, of immanentism and of perpetual evolution according to the false concept of a living tradition, vitiating the nature, the content, the role and the exercise of ecclesiastical magisterium.

5- Henceforth the reign of Christ is no longer the preoccupation of the ecclesiastical authorities, despite the fact that Christ’s words, “all power is given to me on earth and in heaven,” (Mt 28:18) remain an absolute truth and an absolute reality. To deny them in action is tantamount to no longer recognising in practice the divinity of Our Lord. Hence because of the Council, the sovereignty of Christ over human societies is simply ignored, and even combatted, and the Church is imbued with this liberal spirit which manifests itself especially in religious liberty, ecumenism, collegiality and the New Mass.

6- Religious Liberty, as exposed by Dignitatis humanae and its practical application these last fifty years, logically leads to demanding God-made-Man to renounce His reign over man-who-makes-himself-God, which is equivalent to dissolving Christ. In the place of a conduct which is inspired by a solid faith in the real power of Our Lord Jesus Christ, we see the Church being shamefully guided by human prudence and with such self-doubt that she asks nothing other from the State than that which the Masonic Lodges wish to concede to her: the common law in the midst of, and on the same level as, other religions which she no longer dares call false.

7- In the name of a ubiquitous ecumenism (Unitatis redintegratio) and of a vain inter-religious dialogue (Nostra Aetate), the truth about the one true Church is silenced; also, as a large part of the clergy and the faithful no longer see in Our Lord and the Catholic Church the unique way of salvation, they have renounced to convert the adepts of false religions, leaving them rather in ignorance of the unique Truth. This ecumenism has thus literally killed the missionary spirit through seeking a false unity, too often reducing the mission of the Church to that of delivering a message of a purely terrestrial peace and of a humanitarian role of lessening want in the world, placing it thereby in the wake of international organisations.

8- The weakening of faith in Our Lord’s divinity favours a dissolution of the unity of authority in the Church, by introducing a collegial, egalitarian and democratic spirit, (see Lumen Gentium). Christ is no longer the head from which everything flows, in particular the exercise of authority. The Sovereign Pontiff who no longer exercises effectively the fullness of his authority, and the bishops who – contrary to the teaching of Vatican I – esteem that they can collegially and habitually share the fullness of the supreme power, commit themselves thereby, with the priests, to listen to and to follow ‘the people of God,’ the new sovereign. This represents the destruction of authority and in consequence the ruin of Christian institutions: families, seminaries, religious institutes.

9- The New Mass, promulgated in 1969, diminishes the affirmation of the reign of Christ by the Cross (“regnavit a ligno Deus”). Indeed, the rite itself curtails and obscures the sacrificial and propitiatory nature of the Eucharistic Sacrifice. Underpinning this new rite is the new and false theology of the paschal mystery. Both one and the other destroy Catholic spirituality as founded upon the sacrifice of Our Lord on Calvary. This Mass is penetrated with an ecumenical and Protestant spirit, democratic and humanist, which empties out the sacrifice of the Cross. It illustrates the new concept of ‘the common priesthood of the baptised’ which undermines the sacramental priesthood of the priest.

10- Fifty years on, the causes persist and still engender the same effects. Hence today the consecrations retain their full justification. It was love of the Church which guided Archbishop Lefebvre and which guides his sons. It is the same desire to “pass on the Catholic priesthood in all its doctrinal purity and its missionary charity” (Archbishop Lefebvre, Spiritual Journey) which animates the Society of Saint Pius X at the service of the Church, when it asks with insistence for the Roman authorities to regain the treasure of doctrinal, moral and liturgical Tradition.

11- This love of the Church explains the rule that Archbishop Lefebvre always observed: to follow Providence in all circumstances, without ever allowing oneself to anticipate it. We mean to do the same: either when Rome returns to Tradition and to the Faith of all time – which would re-establish order in the Church; or when she explicitly acknowledges our right to profess integrally the Faith and to reject the errors which oppose it, with the right and the duty for us to oppose publicly the errors and the proponents of these errors, whoever they may be – which would allow the beginning of a re-establishing of order. Meanwhile, faced with this crisis which continues its ravages in the Church, we persevere in the defence of Catholic Tradition and our hope remains entire, as we know by the certitude of Faith that “the gates of hell will not prevail against her.” (Mt 16:18)

12- We mean to follow well the injunction of our dear and venerable Father in the episcopacy: “Dear friends, be my consolation in Christ, remain strong in the Faith, faithful to the true sacrifice of the Mass, to the true and holy Priesthood of Our Lord, for the triumph and the glory of Jesus in heaven and on earth” (Letter to the bishops). May the Holy Trinity, by the intercession of the Immaculate Heart of Mary, grant us the grace of fidelity to the episcopacy which we have received and which we want to exercise for the honour of God, the triumph of the Church and the salvation of souls.

Ecône, 27th June 2013, on the feast of Our Lady of Perpetual Succour

Bishop Bernard Fellay
Bishop Bernard Tissier de Mallerais
Bishop Alfonso de Galaretta


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:祈祷

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 四 日
祈     祷

(一)聖アルホンゾ・デ・リゴリも云われた如く、地上に於いて聖マリアほど主イエズス・キリストの「人(ひと)常(つね)に祈りて倦(う)まざるべし」という、御(おん)すすめに、,完全に従われた者はなかった。
 マリアは三才の時すでにエルザレムの聖殿に行かれて、熱心な祈りを捧げられた。
叉聖母は常に心を天主に献げ、御子キリストの御死去、御昇天の後に、始終その御誕生の地、或は御苦難、御死去の跡を訪問されて、その御歓喜(おんよろこび)や御(おん)苦しみの深い玄(げん)義(ぎ)について考えられたのである。我等も聖マリアの御手本にならい、少なくとも毎日唱(とな)えなければならぬ祈りは怠らず、叉、聖堂に於(お)いても聖マリアの熱心にならう所がなければならぬ。祈りは総(すべ)ての恵(めぐみ)の鍵(かぎ)である。
また黙想(もくそう)の祈りによって我等の心は段々(だんだん)この世のはかないものから離れ、遂(つい)に上の事、即ち天国の事を考えるようになるのである。

(二)聖アルホンゾの云われた如く、聖母マリアは非常に祈りを好んでいられたから、できるだけ人からはなれているようにつとめられ、ことに無駄(むだ)な世間話を避(さ)けられた。部屋の中で熱心に祈りを捧げていられた時、大天使聖ガブリエルが現れて、救い主の御母に選ばれた事をマリアに告(つ)げられたのも、聖母が部屋の中で熱心に祈りを献げていられた時であった。
 我等もこの点に於(お)いて聖マリアにならい、能(あた)う限り無益(むえき)な話をせず貴(とうと)き時間を浪費(ろうひ)する事のないよう、心掛けなければならぬ。毎日のつとめをつくすに当たっても、少なくとも時々は心を天主に献げて短い祈祷(いのり)をするようにしよう。

○ 聖マリアによりて熱心な祈りの恵(めぐみ)を与えられんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主イエズス・キリスト、主は御言葉(みことば)と御行為(おんおこない)とを以て、我等に祈りを教え給えり。
願わくは聖母マリアの御伝達(おとりつぎ)によりて、我等に祈りを好む精神を与え、その趣味(しゅみ)を感ぜしめ、御命令(ごめいれい)に従いて、常に祈り、遂には確乎(かっこ)不動(ふどう)の信仰に達せしめ給わん事を。アメン。


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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日6月29日は、使徒聖ペトロとパウロの祝日です。今年、新しい「ペトロの後継者」を選ぶ選挙が行われましたが、それは、誰も思いもしていなかったベネディクト十六世の辞任があったからです。今年は驚くべき事がたくさんありましたが、新しく選ばれた教皇様も私たちのほとんどにとって全くの意外の方でした。私たちは、教皇様のために祈り続けましょう。

 私たちは、天主様の御恵みによって、カトリック、すなわち、まことのキリスト者となりました。カトリック教会にとって、真のキリストの教会に属する私たちにとって、ペトロの後継者はとても大切です。何故なら、イエズス・キリストは使徒聖ペトロの上に御自分の唯一の教会を建てたからです。

 初代から「ペトロを中心とする使徒団は、全教団に対して宣教と統率の実権を握ってい」(岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫 838ページ)ました。使徒行録によると、聖都イエルサレムにおける最初のキリスト信者たちの集まりは、「神秘的な信仰の感激に燃えた一分派ではなく、その中には最初から永続的の組織のあったことが看取され」「可視的の聖職制度であり、信仰の規定があり、特有の秘蹟を備えていた」(上掲書 838ページ)からです。

 パウロも、誰がキリストの神秘体に属し誰が属していなかったかよく知っていました。パウロは信徒に向かっては天主の権威をもって臨みます。教会内の秩序と正当信仰を守るためには、破門すらも躊躇しません。しかしそのパウロも、教会「外にある者は裁かない」と言います。「初代教会は主観的な体験論者の集団ではなかった」(上掲書 901ページ)のです。

 岩下壮一神父の言うように、「カトリック信者の信仰意識においては、神、キリスト、教会は三位一体であって、そこに何らの背反も矛盾も有り得ない。教権か聖霊かというがごとき背反は、どこにも存在し得ない。彼にとっては、教会はキリストであり、その能力たる教権は、すなわち聖霊の働きそのものである。しかし彼のこの信仰はリヴァイヴァル式の感情昂奮の裡に感得したものではなく、冷静なる思慮の後の沈着なる決断の結果であるから、事後の自ら顧みて、その信仰内容を抽象的に分析することも可能である。彼は教会において、人間的な、従って不完全な要素のあることを知る。これあるがゆえに彼は信者であって、直感者ではないのである。彼が信者となったのは、教会がまとえる不完全な人間的な衣装の裏に、キリストを認めたからである。教権がその認めたるキリストを意志を代表する限りにおいて(代表しなくなった瞬間それは教権ではなくなる)、その命令が聖者によって彼にまで伝達さるると、小人によって下さるるとは、あえて問うところではないのである。彼の信仰は、むしろ後の場合においてその貧しき働きを為すのである。彼は目に見ゆるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(上掲書 698ページ)

「そもそも宗教生活の神髄は、神の無限の権威の前に謙遜に跪くにある」(上掲書 637ページ)からです。

 聖書でさえ、教会の権威の前に跪くが故に成立するものです。「彼にとって教会はまた真理である。そのドグマは教会が教うるがゆえに信仰され、聖書は教会が保証するがゆえに神の言として受け容れられる」(上掲書 700ページ)

「彼の信仰は、教皇において全体の頭たるキリストを見る。・・・さればカトリック信者は、聖公会の人などが法王に名誉的優位(Primacy of honour)を譲ってもいいなどという妥協案を提出するときに、その浅見を笑わざるを得ないのである。もしも教皇がキリストの目に見える代理者ではないのなら、彼は何者でもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していたも、彼は一介の平信徒と撰ぶところがないのである。しかるにPrimacy of honourなどとは、それこそ偶像崇拝で、異教復興である。カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信じるキリストの権威に服するのである。」(上掲書 702 - 703ページ ただし一部「法王」は「教皇」に訂正した。)

 それ故にこそ私たちは、日ごとに、「主は御摂理によりて主のしもべなるフランシスコを教会の牧者として、これを司らしめ給えり。願わくは教皇の上に御慈悲を垂れ、その教訓と模範とによりて、すべての信者をますます善徳に進ましめ、委ねられたる群れと共に、永遠の生命に至るを得しめ給え」と祈るのです。日本のミッションでは、この20年間、常に欠かさず聖伝のミサの後で教皇様のために祈りを一緒に捧げていまし、これからもそうし続けます。

 【以上のことは、岩下壮一神父の『カトリックの信仰』を引用しつつ、18年前にナイスについて文章を書いたことがありました、また8年前には「弱い人間性をおびた教導権」を述べて引用したことがありますが、その繰り返しです。』

 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様も、正に、この態度を取っていました。ローマの神学校で勉強し、特にル・フロック神父様から歴代の教皇たちの回勅を学び、ピオ十二世教皇の教皇使節として長年働き、ローマを愛し続けてきた大司教だったからです。ルフェーブル大司教様のローマへの信仰と愛とは、例えば有名な1974年の宣言にも現れています。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。」

 パウロ六世から受けた否定的な態度にも関わらず、ルフェーブル大司教様は、1977年に司教聖別30周年に際してエコンで「天主からの三つの偉大な贈り物」というテーマの説教をしています。すなわち、教皇様、聖母マリア様、御聖体の三つです。ルフェーブル大司教様は、このお説教の中で、私たちは教会の危機に囲まれつつも、ただ目を閉じて、私たちのカトリックとしての義務を忠実に果たすことを説きました。使徒信経を信じ、天主の十戒を守り、山上の垂訓を黙想し、光を待ち望むこと。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けること。

 何故なら、ルフェーブル大司教様は私たちにローマ・カトリックであることを教えてくれているからです。そして、カトリックの古典的教えを繰り返しつつ、教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することを教えてくれたからです。この教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することについては、以前既に述べたことがありした。私たちはそれを今日も繰り返して言います。

 私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切です。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだからです。

 私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている、これが故に、ルフェーブル大司教様も、私たちカトリック信者も、苦しんでいるのです。

 しかし、カトリック教会は、私たちの主イエズス・キリストの真の教会です。私たちの母親です。これ以外に私たちには別の教会はありませんし、この世には別の母親はありません。教皇様は私たちの父親です。私たちの力の及ぶ限り、私たちの家族であるこのカトリック教会のために祈り、苦しみを捧げます。家族は父親を抜きにして救うことが出来ません。私たちは公会議でもなければ、天主の御摂理でもありません。しかし、天主様は私たちの祈りを、教皇様を助けたいという祈りを聞き入れて下さると信じています。

 聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の遺志を受け継いで、教皇様のために祈り闘っています。だからこそ昨年の総会では、カトリック教会が、私たちの主イエズス・キリストご自身がそう望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つこと、また、私たちの主イエズス・キリストが自然的及び超自然的秩序双方の創造主であり、全人類と社会全体とが服従すべきイエズス・キリストは普遍的王権をもっていることに対する信仰を宣言しました。第二バチカン公会議の司教団体制に反対するのは、それが聖伝に反し、唯一教皇だけが持つ最高の権力を、それが否定するからです。

 私たちは、私たちのカトリック生活において、私たちの御旗にこの言葉を書き込みます。「教皇様への愛、教皇職の防御、カトリック教会のための犠牲、教皇職を守るための祈りと犠牲」と。カトリック教会の本当の刷新は、聖伝へのたち戻りは、頭からでなければ起こりえません。私たち聖伝は、不当にも、公式に正当な地位を与えられていませんが、私たちは教皇様のためにカトリック教会のために祈り、犠牲を捧げることによって霊的に戦い続けます。私たちの日々の義務をよく果たすことによって、祈りと償いによって、カトリック教会のために多くの貢献が出来ると知っています。教皇様のために祈りましょう!

 ローマで状況が悪化すればするほど、私たちはいっそう熱心に祈ります。私たちは何度もロザリオの十字軍を起こして祈りを呼びかけました。個人個人でも、家族でも、共同体でも、私たちの教会ではローマのために、教皇様のために祈り続けています。ルフェーブル大司教に倣って、天主様が私たちに教皇様を与えてくださっていることを感謝します。教皇職というのは、この地上のどのような権威よりも上にあるのですから。教皇職というのは、超自然のレベルの権威なのですから、私たちは多く祈らなければなりません。

 たとえ、見かけ上は、教皇様に反対するかのように見えても(例えば現今のエキュメニズムや司教団体主義などを私たちが実践することができないので、あるいはその近代主義に賛同することが出来ないので)、私たちは常に教皇様のその役職に対する愛と尊敬を持ち続けています。私たちの、見かけ上の反対は、できるだけ教皇様を善意に解釈しようとする、苦しみと悲しみと涙に満ちたものです。教皇様は私たちの父親であるからです。

 大変デリケートな立場に私たちはいますが、聖母の汚れなき御心が私たちを助けてくれると信じています。ファティマの聖母マリアさまは幼いヤチンタに教皇様のヴィジョンを見せて諭してくれました。ヤチンタはフランチスコとルチアとにこう言います。「かわいそうな教皇様、私たちは教皇様のためにたくさん祈らなければなりません!」 願わくは、教皇様が一刻も早く聖伝に立ち戻りますように! カトリック教会を、その聖伝に立ち戻らせますように! 永遠のローマがその光を取り戻しますように! 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え! 聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを捧げます。教皇様を守り給え!

 東欧管区のシュテーリン神父様が聖アンブロジオが聖モニカに言った言葉を私たちの状況に置き換えていみじくもこう言っていますが、正にその通りだと思います。「そのためにこれほど多くの涙を流した父は、使徒継承のカトリック聖伝に立ち戻らないことはあり得ない」と。

 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:愛徳

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:天主に対する愛を増す方法

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 六 日
天 主 に 対 す る 愛 を 増 す 方 法

(一)天主に対する愛は洗礼の時に聖霊(せいれい)が我等の心に注(そそ)ぎ給うもので、一つのお恵(めぐ)みである。しかしこの愛の火を益々(ますます)燃(も)えたたしめ、最も高い程度(ていど)にこれを完成する為には、特別よい方法が二つある。それは祈祷(いのり)と度々(たびたび)の聖体拝領(はいりょう)とである。
 我等は愛を与えられんことをいつも願い、愛に満(み)ちたイエズスの聖心(みこころ)に、たえずその愛を分(わ)け与えて下さるよう求め、またマリアに天主を愛する為の御助けを常に請(こ)わねばならぬ。同時に聖マリア及び諸聖人の御手本(みてほん)に倣(なら)い主の御苦難(ごくなん)の黙想(もくそう)につとめなければならない。
マリアは何人(なにびと)にも優(まさ)って、毎日毎時愛する御子イエズスの御苦難(ごくなん)を黙想(もくそう)された。それゆえ天主に対する愛に充(み)ち溢(あふ)れておられたのである。
イエズスの御苦難を、聖アルホンゾは愛の矢と申された。なぜなら主が御苦難(ごくなん)によってわれらに示し給うた無限の愛を考えるほどわれらの冷たいかたくなな心を燃(も)えたたすものはないからである。
 故(ゆえ)に屡々(しばしば)われらは主の御苦難を黙想するがよい。それはイエズスを如何に愛し奉(たてまつ)るべきか、その方法を学(まな)ぶ書物である。それを多く読めば読むほど、われらのイエズスに対する愛は増(ま)し加(くわ)わるであろう。

〔二〕しかし全善(ぜんぜん)なる天主に対する愛を、いよいよ増(ま)すべき最良の方法は聖体を屡々(しばしば)拝領することである。
 「我は地上に火を放(はな)たんとて来(き)たれり。その燃(も)ゆる外(ほか)には何をか望(のぞ)まん」とキリストは仰せられたがこの火はイエズス御自身(ごじしん)である。
火は多くの物を火にかえる如く、イエズスも聖体(せいたい)拝領(はいりょう)する者と一致(いっち)して、彼を御自分に似(に)た者とされるのである。
「我が肉を食し我が血を飲む者は、我に止(とど)まり我もまた彼に止(とど)まる」と主(しゅ)御自(おんみずか)らも嘗(かつ)て宣(のたも)うた。
 それゆえ聖体拝領を屡々(しばしば)すればするほど、われらは益々キリストに清められ、主の愛に熱せられ、ついには主と全(まった)く一致(いっち)して、聖パウロと共に「我は生(い)くと雖(いえど)も最早(もはや),我に非(あら)ず、キリストこそ我に於いて生(い)き給うなれ」と叫ぶことができるようになる。聖マリアが、いかに謙遜(けんそん)に、いかに愛にもゆる心を以てイエズスをお受けになったかを思え。
また聖母がその天主なる御子といかにして全く一致し給うたかを思え。
われらは謙遜と聖(とうと)い愛とを以て、もっと度々(たびたび)聖体の食卓(しょくたく)に近づくようにしよう。   そしてもっと度々(たびたび)主の甘味(かんみ)なる愛を味(あじ)わうようにしよう。

○ 聖マリアによりて、天主に対する愛を益々厚くする聖寵(せいちょう)を与えられんために「めでたし」三度唱(とな)えん。

     祈 願 せ ん

 主イエズス・キリスト主はわれらを主の愛に止(とど)まらしめんとて、聖体の秘蹟(ひせき)を定め、以てかたじけなくもわれらが霊魂(れいこん)の糧(かて)となし給えり。
さればわれらこの世に於いては、適当なる覚悟(かくご)のもとに屡々(しばしば)聖体を受け、天主に対する愛を増(ま)し、殊(こと)に臨終(りんじゅう)に於(お)いてはこの天使のパンによりて強められ、安全にこの世を去り、愛の秘蹟(ひせき)にいます主の、寛大(かんだい)なる審判(さばき)に与(あずか)らんことを、聖マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて願い奉(たてまつ)る。   アメン。



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:隣人愛

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聖母月中の祈祷

我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 七 日
隣  人  愛

(一)キリストが、あらゆる徳に越えて其の実行を奨励(しょうれい)し給うたものに、隣人(りんじん)愛(あい)がある。われら全世界の人間はいづれも同一の天主に作られ,皆、同一の御父の子供なのであるから、機会ある毎に隣人に対して愛の心を現さなければならない。
 主イエズスは最後の晩餐(ばんさん)の時に遺言(ゆいごん)として、「汝等,相愛(あいあい)せよ」と命ぜられ、また公(こう)審判(しんぱん)の有様を予言し給うた際にも人が天国に入るか否(いな)かの判決はこの世にありし時、隣人を愛したか否かによって定められるものであると仰せられた。 
そしてその終りに、「汝らがわがこの最も小さき兄弟の一人になしたる所は事毎(ことごと)にわれになせしなり」とのたまうたのは、隣人を見ること恰(あたか)も主を見る如くにして、主を愛する心を以て隣人を愛すべきことを諭(さと)し給うたのである。
 信仰は勿論(もちろん)、救(たす)霊(かり)の土台である。しかし死んだ信仰では何の役にもたたない。活(い)かして始めて価値(ねうち)が出るのである。信仰を活(い)かすものはすなわち天主に対する愛である。そうして天主に対する愛を現す方法は,隣人を愛することなのである。
 故(ゆえ)に天主を愛することと隣人を愛することとは離すことができない。我等がもしイエズスを喜ばせ奉るつもりならば、是非(ぜひ)、隣人(りんじん)をも愛さねばならぬのである。

(二)しかし隣人愛や博愛(はくあい)といっても、ただ感情や気分の上で他人を愛するのでは足(た)りない。実際に他人(ひと)を愛する業(わざ)、即ち肉(にく)身上(しんじょう)の精神上の慈善業(じぜんぎょう)を行わなければ本当の愛とはいえぬのである。
 聖母マリアの御手本を仰(あお)ぎみよ。彼女は天使ガブリエルより、天主の御母(おんはは)となるべき御告(つ)げを受けさせ給うと間もなく、その歓喜(よろこび)を聖女エリザベトに分(わか)たんとしてはるばる危険多き旅をせられ、この親戚(しんせき)を訪れ給うたそしてその時、恰(あたか)も懐胎(かいたい)していたエリザベトを助けるために、さまざまな働きをして三月ほどもその許(もと)に止(とど)まり給うたのである。
 これいづれも、他人を己(おのれ)の如く愛し給うマリアのやさしい御心(みこころ)のあらわれに外(ほか)ならない。
けれども聖母が最(もっと)もすぐれた隣人愛の鑑(かがみ)を示し給うたのは、御子の十字架の下(もと)にただずんでいられた時であった。その時、傷(いた)ましい御子の有様に彼女の胸も苦痛(くるしみ)のため、張(は)り裂(さ)けんばかり悩(なや)まれたが、マリアは全世界の人々の救(きゅう)霊(れい)を思ってはその隣人愛のために、よく耐(た)え忍(しの)んで、最愛の御子を天主に献げ以て  救世(あがない)の大事業を完成せしめ給うたのである。
 翻(ひるがえ)って、われらの隣人愛を見るならばどうであろうか?われらは果たして親子、兄弟,親戚などを十分に愛しているだろうか?己の利益にならぬとて、彼等の老(お)い或は病(や)みたる時、之を粗末にし或は看護(かんご)せぬようなことがないか?
もしあればこれこそ最も隣人愛に背(そむ)くことである。
隣人(りんじん)愛(あい)にはすべて犠牲(ぎせい)が伴(ともな)う。博愛(はくあい)を口にしつつ、利己(りこ)主義(しゅぎ)から脱(のが)れえぬのは大きい矛(む)盾(じゅん)といわなければならない。われらはこのことをよく心にとめて、人を愛するために何事をか忍(しの)ぶよき習慣(しゅうかん)を養(やしな)うようにしよう。

○ 聖母の御伝達(おとりつぎ)によりて我等の心に隣人(りんじん)愛(あい)を増(ま)さんため「めでたし」
三度誦(とな)へん。

     祈 願 せ ん

 イエズス・キリスト主は原罪(げんざい)によりて悪魔(あくま)の奴隷(どれい)となりし我等を、新(あら)たに天主の子とならしめんため、人と生まれ,かたじけなくもわれらの兄弟となり給えり。
 されば願わくはわれらにも、あらゆる人を兄弟として、言葉よりも行為(おこない)に
より、真実(しんじつ)の心を以て互いに愛し互いに祈り、互いに親切を尽くし相(あい)共に天国に至りて主の御前(みまえ)に一家の如く和合(わごう)する御恵(おんめぐみ)を与(あた)え給え。聖母マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて。 アメン。


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フェレー司教へのインタビュー 司教聖別二十五年を振り返って

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 聖ピオ十世会の総長フェレー司教様のインタビューの日本語訳ができあがりました。
 愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****

原文はこちら「聖ピオ十世会アメリカ管区」
あるいは
「DICI」


フェレー司教へのインタビュー──司教聖別二十五年を振り返って

※[ ]は訳者による補足

二〇一三年六月七日

以下はアンジェルス・プレスによる聖ピオ十世会総長、フェレー司教へのインタビューの内容である。

司教聖別について

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様があなたを司教聖別のための司祭の一人にお選びになったことを知った時、真っ先に思ったことは何ですか?

フェレー司教:最初に考えたのは、私よりもふさわしい人がいるはずだ、という思いでした。つまり、できることなら「この杯を取り除き給え!」です。次に思ったことは、私の同僚たち、司祭職における私の兄弟たちのために──“pro fratribus”──[お受けしよう]でした。なぜならこれは大きな十字架であることは明らかだからです。これは他者のために自らを捧げるという問題だからです。

アンジェルス誌:一九八八年六月三十日、ルフェーブル大司教様の手より司教聖別を受けた後のあなたの感情と心情を思い出せますか?

フェレー司教:自分がどう思い、感じていたか、あまり思い出せません。覚えているのは、聖別式に集った人々全員がどれほど感動していたかということです。あのときは空気に電流が流れていたとしか思えませんでした。私の生涯で経験したことがないものです。私がはっきりと覚えているのはこのことです。式典の間もその後も、非常な喜び、それ以外何もありませんでした。この喜びは圧倒的なものでした。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は著書「霊魂の旅路」(Spiritual Journey)の中で、ダカールの大聖堂で見たヴィジョンを描写しておられます。一九八八年の司教聖別はこのヴィジョンの実現であるかも知れないと、どのように説明できるでしょうか?


フェレー司教:驚かれると思いますが、その二つのことの間につながりがあると言うつもりはありません。事実、私は何か関連があるとは思いません。数名の司教たちを得るという手段は、[司祭職の復興という]事業そのものに直接関係しているとは思いません。この司教聖別は聖伝を生き残らせるための手段に過ぎません。これは[司祭職復興]事業の本質ではありません。司祭職復興の本質とは、イエズスの聖心に従って司祭たちを養成し、打ち立てるということです。肝心なのはこのことです。

司教なくして司祭は存在し得ない、というのは真実ですが、これは間違いなく、この司祭職復興の本質的要素ではありませんでした。司教聖別は聖伝を生き残らせるためには本質敵ですが、司祭職の本性そのもののためではありません。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は、司教聖別をするというご自分の決定の特別な性質を明確にしようと努められました。また、司教の裁治権を伝えようとしたのではなく、ただ[秘蹟による]司祭叙階の権能のみを伝えようとしていることを強調することで、この司教聖別を離教的行為と区別しました。ところで、これらの司教の一人を総長として選ぶことは、司教としての裁治権の要求を暗示していると異議を唱え、司教の一人が総長なることに賛成できないと述べた人も過去二十五年間の中にはいました。このような異議がいかに不正確であるかを説明し、総長の役割を果たすことは司教としての裁治権を要求するものではないと、詳しく述べていただけますか?

フェレー司教:まず初めに、ルフェーブル大司教様はなぜ司教聖別の時に、司教が総長であることを望まなかったのでしょうか? 明らかに、ローマとのやりとりをやりやすくするためです。総長が司教となったなら、総長である彼はローマの「罰」のもとにあることになったでしょう。例えば、当時はシュミットバーガー神父様が総長でしたが、総長が司教になったとしたら、ローマとの議論はより困難になっていたことでしょう。これは明らかにそのときの状況に限定されたことで、原則ではありませんでした。慎重さの問題でした。将来、司教が総長となることを直接に除外するということではありませんでした。

ですが、私たちは二種類の裁治権の区別をつけなければなりません。総長がその配下の会員たちの上に及ぼす普通の、通常の裁治権と、さらに別に、教区司教の裁治権とがあります。司教としての私たちには現時点において教区司教の裁治権はありませんが、総長としては私には別の裁治権があります。この二つは同じではありません。


ルフェーブル大司教の精神

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様について、あなたが分かち合いたいと望む、特に貴重な思い出がおありですか?

フェレー司教: まず、大司教様の飾り気のなさと常識です。他方では、物事に対する非常な先見の明があったということです。常に超自然的でした。大司教様はいつも天主を仰ぎ見ておられました。大司教様が祈り、信仰、そして天主との一致によって導かれていたというのははっきりとした事実でした。大司教様にとって、普段の行いにおいて主と常に一致していなければならないというのは、普通のことであり当たり前のことでした。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様の、司祭的敬虔さ、教義に関する健全性、そして革命に反対する行為という比類ない精神を、神学生たちと司祭たちにどのように教え込んでおられますか?

フェレー司教:まず初めに、ルフェーブル大司教様ご自身の話、教え、著作その他にできるだけ触れてもらうようにしています。私たちは神学生たちのために大司教様の講話のテープがあります。フランス人たちはここでは得をしています! ですが、全神学生たちがそれらに触れることができるよう翻訳作業をしています。英語ではすでに本の形で数冊がまとめられています。「彼らは聖主の王冠を奪った They Have Uncrowned Him」「司祭職の聖性 Priestly Holiness」そして「永遠のミサ The Mass of All Time」などです。

次に、大司教様ご自身が神学校において私たちにくださった手段を実現し、適用させようとしています。例えば、大司教様ご自身が準備なさった組織、授業計画、訓戒です。大司教様は神学校の成り立ちと、構成を決定しました。例を挙げますと、私たちの神学校での哲学と神学は、教会が勧めてきたように聖トマス・アクィナスの教えに基礎を置いています。教導権[に関する授業]はルフェーブル大司教様が特に熱望した授業であり、教会と社会へ啓蒙主義の原則を導入することに反対して戦った、ピオ十二世に至るまでの十九世紀の教皇たちの回勅を教えています。私たちは素晴らしい実りをもたらすこの教えに今なお従っています。


一九八八年から続く発展

アンジェルス誌:一九八八年の司教聖別式以来、聖ピオ十世会にとって良くも悪くも最も意義深い変化は何でしょうか?

フェレー司教:非常に多くの変化があるのかどうか、私にはわかりません。私たちは徐々に年をとってきています。私たちの修道会はいまだ若い修道会ですが、でも今や、一九八八年にはいなかった年配の司祭たちがいます。これは外見上の変化だと言えるかも知れません。当時、私たちには四人の司教がいましたが、今は三人です。多くの国々にはさらに多くの修道院ができました。が、これは事業の通常の発展なのであって、大きな変化ではありません。

私たちはルフェーブル大司教がくださった教えに忠実に留まっています。ここ数年間を振り返れば、ルフェーブル大司教様が一九八八年に「ローマは司教聖別後の五、六年のうちに私たちに歩み寄って来るだろう」と言われたことが事実となっています。[ルフェーブル大司教様の予感が実現するのに]ほぼ二十四、五年かかりました。しかし、機はまだ熟していないことは明らかです。つまり、ルフェーブル大司教様が教会内に起こることを期待した変化、聖伝への立ち戻りはまだありません。ですが明らかなことは、ローマ当局がその道を歩み続けるなら破壊は続くでしょうし、そしていつの日か、当局は立ち戻らなければならないのです。そのとき、彼らは私たちのもとへと再びやって来るでしょう。

その一方で、近年に起きたことを見て下さい。すなわち、古いミサは廃止されなかったという告白、一九八八年の破門の撤回、そして私たちが以前にはもっていなかった教会内での影響です! これは、言うまでもなく、公会議への批判が、聖ピオ十世会の外においても、しかもローマにおいてすら高まっており、これは比較的新しい現象です。


発展のために必要なこと

アンジェルス誌:司教聖別なくしては不可能であったはずの、過去二十五年間に起きた数々の事業と奉仕を説明していただけますか?

フェレー司教:簡単です。司教聖別からずっと、聖ピオ十世会の司教たちは一九八八年の聖別式までに叙階された司祭よりもさらに多くの司祭たちを叙階し続けています。ですから、聖ピオ十世会の事業の発展のために司教たちが必要だったことは明白です。事業の継続のため不可欠な存在です。司教なしでは聖ピオ十世会は消滅していたことでしょう。また、天主とその王国のために戦うキリストの兵士たちを作るという堅振の秘蹟の授与もあります。最後に、聖伝がその権利を取り戻すことができるよう、教会全体に及ぼしているこの影響を否定できません。

アンジェルス誌:聖ピオ十世会を批判する一部の人々は、カンポスの場合を除いて、"エクレジア・デイ" 委員会傘下の修道会は自らの司教たちを持っていないということを指摘しています。ですから彼らは、司教聖別は必要なかった、エクレジア・デイ傘下のこれらの修道会は自らの司教たちを持たなくても存在しているのだから、と異議を唱えています。過去二十五年以上に渡る聖ピオ十世会の歴史とエクレジア・デイ傘下の修道会との違いを比べることで、一九八八年のルフェーブル大司教様の的確な判断、すなわち、聖ピオ十世会の、聖ピオ十世会出身の一人の司教が必要である、単に会が生き残るためというだけでなく、会の完全な使命を保持するためにという判断を、今日、当時よりもさらに明確に論証していただけますか? 

フェレー司教:最初に言えることは、"エクレジア・デイ" 傘下の全会員の方々は、私たちが司教たちを持っていなかったら自分たちは存在していなかっただろうとよく理解している、ということです。直接、あるいは間接的に、彼らは聖ピオ十世会の命脈に依存しています。これはもう明白です。現在、エクレジア・デイの使徒職の実りは教区司教たちの善意に完全に依存しています。教区司教たちは聖伝のカトリック的生活を打ち立てるという、そういった方向への使徒職の可能性を限定することで、そのような強い真面目な望みを大幅に制限しています。エクレジア・デイの方々は第二バチカン公会議の新規なこと、世俗、そして新しいミサを[聖伝に]混ぜ込まなければなりません。これこそ、聖ピオ十世会と "エクレジア・デイ" 傘下のグループとの大変大きな違いです。一部のグループは、徐々に私たちに近づいてきていると見ています。言うまでもなく、すべてのグループではないのですが。

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様は、唯一の聖伝の司教として(カストロ・マイヤー司教様を除きます。しかし彼は自分の活動領域をご自分の教区にほぼ限定されました)、司教聖別に先立って世界中を旅することでご自身を酷使されました。その結果、ただ一人にとどまらず、四名の司教たちを聖別する道を選ばれました。過去二十五年間に数えきれないほど多くの聖伝信者たちが増え続けていますが、悲しむべきことに聖ピオ十世会の司教たちの数は今や三名に減ってしまいました。聖伝の事業を続けるために三名の司教様たちで充分でしょうか? さらなる司教様たちを聖別なさる必要があるのではないでしょうか?

フェレー司教:実際のところ、二〇〇九年からずっと、私たちは三人で働き続けている結果となっています。言うまでもなく、うまくいっています。従って三名のままで[物事が]順調にいっているのは明らかです。ですからもう一名司教を聖別する緊急性も特別の必要性もありません。

もちろん、たとえ今すぐに[司教を聖別する]必要性がないにしても、将来に関しては自らにしっかりと問わなければなりません。

私の答えは簡単です。すなわち、大司教様があのような決断するよう導かれた状況がふたたび出現したなら、そのとき、私たちは同じ手段を取ることでしょう。


正常化の最初の一歩

アンジェルス誌:ルフェーブル大司教様はローマ当局と穏便な関係に達することを常に望み続けていましたが、司教聖別はローマ当局が聖ピオ十世会を敵意をもって取り扱うという側面と、迫害するという事態をもたらしました。司教様たちは、少なくとも過去十年に渡って、この敵意と迫害の解決方法を、聖ピオ十世会の使命の原則を妥協するというやり方でなく、見つけ出そうとしてきました。少なくとも今までのところ、あなた方の努力は解決に至っていません。あなた方の善意にも関わらず、努力が成功からほど遠いのはなぜだと思われますか?

フェレー司教:初めに、私たちの教会法的正常化の第一歩は、私たちではなくローマから来たのだ、ということを指摘したいと思います。私が最初に動いたのでありませんでした。私たちがあるがままでありつつ、この正常化を進めることができるような状況なのかどうか理解しようとしました。今は明らかにそうではありません。

なぜでしょうか? ローマ当局は、第二バチカン公会議のときに教会に導入された、危険で有毒な原則に依然として固執しているからです。これこそ、私たちが一緒に行くことができない理由です。

どのくらいの時間を必要とし、どれほどの苦難を耐え忍ばなければならないのか、時が来るまで私にはわかりません。十年かも知れません。もっと、あるいはそれ以下かも知れません。答えは天主のみ手の内にあります。

アンジェルス誌:あなたはローマからの、とりわけ新しい教皇様からのコンタクトを喜んで受け入れようというままでおられますか?

フェレー司教:もちろんです。喜んで受け入れますとも! カトリック教会は天主の教会です。聖霊は依然として、第二バチカン公会議後、教会内に置かれた障害物を飛び越えて働いています。聖主が物事をまっすぐに進めたいとお望みなら、そうなさいます。いつそうなるのか、天主だけがご存知です。でも私たちは怠りなく準備しておかねばなりません。完全かつ真実の解決策は、ローマ当局がふたたびその方向に動くときにのみ、もたらされるはずです。

アンジェルス誌:ローマ当局の間に聖伝への回心が起きたのか、あるいは始まっているか、決定を下すために、私たちはどんなしるしを観察できるでしょうか? 

フェレー司教:それがいつ始まるのかを口にするのは難しいですね。第一に、典礼、それからそれ以外の典礼よりもっと弱い別の分野における努力という、すぐれたしるしを、[破門撤回やスンモールム・ポンティフィクムを発布した]ベネディクト十六世において私たちは見ていました。これらのことは教皇様に対する猛反発に直面して起こりました。言うまでもなく、これは私たちが今考えていること[聖伝へのたち戻りということ]の糸口にはなりませんでした。ですが、確実に[聖伝への回心は]教会のトップから来なければなりません。

聖伝へと戻りたがっているノブス・オルドの司教たち、司祭たち、そして信者たちといった、[ヒエラルキーの]下方から来るものもいくつかはあるでしょう。小規模ながら、この動きはすでに始まっていると思います。まだ主流ではありませんが、確実な一つのしるしです。しかし深い大規模な変化は上から、教皇様から来なければなりません。さまざまな側面から由来するかも知れませんが、確実に言えることは、[聖伝への回心は]天主と聖主イエズス・キリストを教会の正当な場所、つまり中心に据えるということになるはずです。

アンジェルス誌:聖伝への回心はトップから、ローマから来るとするなら、教会全体を復興するという事業はどのようにして進展できるのでしょうか?

フェレー司教:回答するには大変難しい問いです。現時点では、物事が変化しないなら、内部の迫害と内部における大規模な戦いが起きるといえるかも知れません。何らかの変化、例えば、迫害が起こったとすると、その後教皇様が聖伝へと戻って来るなら、状況はがらりと変化するはずです。教会を正しい道に連れ戻すため、天主が付けてくださる青写真がどんなものかは、天主だけがご存知です。

アンジェルス誌:こういった聖伝への立ち戻りを早めるため、何ができるでしょうか?

フェレー司教:祈りと犠牲です! すべての人は身分上の義務に従うべきであり、マリアのけがれなき御心への信心に励み、ロザリオを祈るべきです。ロザリオについては、私は新たな十字軍を開始することを考えています。

アンジェルス誌:あなたが公会議に関して、また公会議後の教会と妥協することを計画した(あるいは計画中である)と主張する人々になんと言われますか?

フェレー司教:それは聖ピオ十世会を分裂させたがっていた人々のプロバガンダにすぎません。彼らがなぜそのような考えを持っているのかわかりません。総長が決して妥協せず、妥協するつもりもなかったことについて、総長を非難するために彼らが昨年の非常に難しい状況を利用したのは一目瞭然です。私は聖ピオ十世会を妥協させしようと意図したことは一度もありませんでした。

それにしても、自らに問いかけてみて下さい。敵でないならば、聖ピオ十世会が分裂するのを見ることは、誰にとっての益になるのでしょうか? 自分たちの弁証法で聖ピオ十世会を分断する人々は、自分たちがやっていることの理由をじっくりと考えてみるべきです。つまり、ウィリアムソン司教様とその追随者たちのことを言っています。

アンジェルス誌:過ぎ去った十年間を振り返ってみて、他のやり方で成し遂げたらよかったことがあるでしょうか?

フェレー司教:ええ、もちろんですとも。私たちは戦いの後は、いつも前よりも賢くなります。私がいつも言い続けてきたことを、さらに強調しましょう。そうする必要はないと思ったのですが。つまり、[将来の]合意協定がどんなものであれ、私たちが妥協するつもりのない「必須条件(a condition sine qua non)」が常に存在する、ということです。これ以外にありません。私たちは、今あるがままに留まります。これこそ、私たちをカトリックたらしめ、私たちがカトリックのままでありたいと望んでいる理由です。

私は確実に、連絡手段を改善するでしょうし、そして実際にすでに改善しました。情報漏洩によって身動きが取れなくなっていましたが、今は別なやり方を取っています。

アンジェルス誌:ローマとの関係を越えて、次なる二十五年間に向けて、あなたは聖ピオ十世会とカトリック教会のためにどんな望みを抱いておられますか?

フェレー司教:今後二十五年間のうちに、教会が新しく花咲き乱れるものとなるのを見ることができるよう、聖伝へ立ち戻るのを眼にするだろうということです。

アンジェルス誌:司教聖別二十五周年を讃え、記念するためのふさわしい手段として、聖職者と平信者の両方に何をお勧めになりますか?

フェレー司教:私どもの敬愛する大司教様を讃えるため、大司教様のさまざまな徳、すばらしい謙遜、清貧、慎み、信仰に倣おうと努めて下さい。さらに、私どもを導く原則を理解するために、ルフェーブル大司教様の教えを学んで下さい。つまり、聖主への、教会への、ローマへの、ミサへの、そしてマリアのけがれなき御心への愛を、です。

(出典:アンジェルス・プレス)


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三日 
救主に就いての第一の約束

   我、汝と婦人(おんな)との間に怨(うら)みを置かん。(創世記三.一五)

 狡猾(こうかつ)な悪魔が蛇の姿を借りて人(じん)祖(そ)エワを誘(いざな)い、遂に彼女及びその夫を罪に陥(おとしい)れた時、天主は彼等を罰すると同時に、予(あらかじ)めその救拯(すくい)を約して、蛇に向かい「此の救いは一人の婦人より出(い)づべし。我、汝と婦人(おんな)との間、叉、汝の裔(すえ)と婦人の裔(すえ)との間に怨(うら)みを置かん。彼は汝の頭(こうべ)を踏(ぶ)み砕(くだ)かん」と仰せられた。この蛇、即ち悪魔の仇(あだ)と立てられた婦人は、云う迄もなく聖母マリアである。
 さて、この救いの御約束は、楽園を失って後の人(じん)祖(そ)及びその子孫にとって四千年の間、大いなる慰めであり希望であった。のみならずこの御言葉(みことば)は其の婦人の特殊(とくしゅ)な地位と使命、殊(こと)に母としてのそれを明らかに示している。
 実に聖母の地位と使命の重大なる事は、天地の間に較(くら)べる物もない位(くらい)である。彼女は罪ある人類の子孫でありながら、唯一人その汚れを免れ清浄(しょうじょう)無垢(むく)、玲瓏(れいろう)として罪の影すら止(とど)めぬ特別の御方であった。そればかりでなく、更に大切なのは聖母が第二のエワである事である。
 即ち第一のエワがアダムと共に人類の自然的生命の祖先となったように、聖母はイエズス・キリストと共に、人類の超自然的生命の祖先になられたのである。かように重大な御母の地位と使命に就いては、御子自らも公生活の始め、カナの婚姻(こんいん)の席上で明らかにお示しになった。
即ち聖母が貧しき新郎新婦を憐(あわ)れんで「彼等に酒なし」と仰せられた時、イエズスは「婦人よ、そは我と汝とに何かある。我、時未(いま)だ来たらず」と答え給うた。 換言(かんげん)すればこれは、私は今後貴方(あなた)の肉身の子としてではなく、天主の独子(ひとりこ)として奇跡(きせき)を行う。従って貴方も唯、人の母ではなく、世の始めから約束された婦人、天主の母と認められるであろうと云う意味で、聖母の類ない地位を明らかにした御言葉である。
 次にイエズスは十字架に磔(かか)り給うた時も、御足許(おんあしもと)に佇(たたず)み給う聖母を御覧になって、母という懐(なつ)かしい言葉を用いず、わざと婦人(おんな)と呼び給うた。
これはかの天主の「我、蛇と婦人との間に怨(うら)みを置かん」という御約束にある婦人こそは実に聖マリアを指(さ)すのであって、御自分が唯(ただ)の人間でないように聖母も唯の母ではなく、救いの母であり人類の永遠の新生命の母であると、御母の大使命を宣言されたのであった。しかして救いの御約束はここに成就(じょうじゅ)されたのである。
 なお、聖母の特別の御使命に就いて一言(いちごん)すれば、聖マリアは御子イエズスが我等、一切(いっさい)人類の為に得て下さった恵(めぐみ)を我等各自に分(わ)かち与えてくださるのである。これは恰(あたか)も一家の父が、働いて得た報酬(ほうしゅう)を悉(ことごと)く母に委(ゆだ)ね、一切の家計、子供達の必要に宛(あ)てしめるのと似ている。しかも幸福な事には、此の御母は極めて慈悲(じひ)深く寛大(かんだい)で、その代願(だいがん)により我等に御恵(おめぐみ)をいくらでも与えたいと望(のぞ)み給い、叉、その恵(めぐみ)の宝も全く無尽蔵(むじんぞう)である。
但しこの宝を頂く為には我々は先ず一家の敵なる悪魔を憎(にく)んで交(ま)じりを絶(た)ち、その誘惑(いざない)に乗らず、母なる聖母と悪魔を怨(うら)む心を共にして聖母に対する尊敬(そんけい)の実(じつ)を現(あらわ)さねばならぬ。

   祈   願

 ああ聖母よ、御身を慕(した)い奉る我等を悪(あく)慾(よく)の危険より助け、悪魔の誘(いざな)いより守り、益々(ますます)罪、殊に大罪を憎悪(にく)ましめ給え。
而(しこう)して我等が各々(おのおの)如何なる功(いさおし)を立てて、主の御心を喜ばせ奉るべきかを、
常に示し給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返し願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:イエツセの株よりの一の枝

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四日 イエツセの株よりの一の枝

イエツセの株(かぶ)より一の芽(め)出(い)で、其の芽より一つの枝生(は)えて実(み)を結(むす)ばん。
(イザヤ書一一。一)

これはイザヤが聖母に就いて予言した言葉であるが、ここに云う枝とは即ち童貞女、聖マリアを意味し、実(み)とはその御子イエズス・キリストを指(さ)すのである。
 天主は御独子(おんひとりご)を世に送り給う時、その肉身の母として、新たに罪の汚(よご)れに染(そ)まぬ婦人を創(つく)り給わず、却ってアダムの子孫の中から一人の少女を選び給うた。
 その訳は始め天主が人間を創造し給うには、何物をも待たず、全くその全能の力にのみより給うたのであるが、我等、人間を救い給う為にはその御事業に人間の与(あずか)る事を望(のぞ)み給うたからである。
 それ故(ゆえ)にまた救いの御事業を実現し給う時機も、世の人々の心の状態によって定め給うた。もしも世の始めの子孫が憐(あわ)れみ深い天主の聖(み)旨(むね)を悟(さと)り、早速それに従い身を慎(つつし)み徳に励み奉ったならば、人類は何も四千年の永い間、救いを待つ必要はなかったであろう。
 何となれば天主の御心には、最早、救い主の御母が選ばれて居り、その現世(このよ)に現れ給う時期は、唯、祖先の心がけと準備によって定まる筈であったからである。しかるにアダムとエワの子孫は、人(じん)祖(そ)と違ってかの楽園の幸福を忘れ、却って堕落(だらく)せる本性(ほんしょう)に従い、益々悪に奔(はし)り、憎むべき罪に溺(おぼ)れてしまう有様であったから、天主は救いを与え給うどころか、かの恐ろしい大洪水を以て義人ノエの一族を除く外(ほか)は、尽(ことごと)く滅(ほろ)ぼし給うの余儀なきに至ったのである。
 けれども救われたノエの子孫も、正しい道を踏み外(はず)したので、天主は更に其の中から義人アブラハムとその子孫とを選び、これに優(ゆう)渥(あく)な祝福を賜(たま)うた。この祝福こそイザヤ予言者に云われたイエツセの株(かぶ)である。
 罪に依って蛇の毒が人間の心に深く食い入っている間は、到底その血統から潔(きよ)き救い主の御母を起こす事は出来ない。それで天主はその祖先が先ず犠牲と罪の償(つぐな)いを献(ささ)げて、次第に心の病毒を減(へ)らし、その肉身を潔(きよ)くし、以て清浄(しょうじょう)無垢(むく)の少女(おとめ)の祖先(おや)として相応(ふさわ)しい者になるまでお待ちになる必要があった。
 その準備の整(ととの)うにつれ、人の心には救い主に対する憧憬(あこがれ)がいよいよ強くなり、アブラハムに与えられた祝福は漸次(ぜんじ)その効果を現(あらわ)し、神の聖寵(せいちょう)は恰(あたか)も最初一滴に過ぎぬ水が、やがて泉となり小川となるように、次第にその量を増し、聖母の御両親ヨアキム・アンナの時代には大河の如く漲(みなぎ)り、その御子聖マリアに至って遂に溢(あふ)れるばかりになったのである。
 故に大天使ガブリエルが彼女に現れて「めでたし聖寵(せいちょう)充満(みちみ)てるマリア!」と 挨拶されたのも決して褒(ほ)め過ぎの言葉ではない。ここに於いてイエツセの株(かぶ)より一つの芽(め)出(い)で、その芽より一つの枝が生(は)えた。この枝が約束せられた実(み)を結(むす)ぶのである。
 以上は人間の歴史に於ける救いの準備であるが、我々各自の救いも同様に犠牲に対する熱心な努力を必要とする。わが心に主イエズス・キリストを宿(やど)し参らせるには、どうしても悪(あく)慾(よく)を抑(おさ)え五官を慎(つつし)むなどの犠牲を献(ささ)げねばならぬ。
 洗礼の際、我等の心に植えられた成(せい)聖(せい)の聖寵(せいちょう)という枝は、今なお、青々と茂っているであろうか?或は見る影もなく枯れ果(は)ててしまったろうか?もし枯れ果(は)てたとすれば、我等に犠牲の精神が欠(か)けていた為ではないか。
 我等は今後、聖母を尊敬する為にも、もっと此の精神を盛んにしよう。何となれば聖母は祖先の犠牲の功徳(くどく)に依(よ)って世に現れ、御自分も犠牲の生涯を送って聖子(おんこ)の救世(きゅうせい)の事業を助けられたからである。

   祈   願

 ああ聖母よ、願わくは洗礼の時に我等の受けたる聖寵(せいちょう)の枝をいよいよ伸(の)び且つ栄(さか)えしめ、御身の実(み)なる主イエズス・キリストを我等の枝にも生(しょう)ぜしめ給え。
 亦、不幸にして既(すで)に枝の枯れたるものには、何卒(なにとぞ)その心の悪(あく)慾(よく)、汚(けが)れ等を去り、誘惑(ゆうわく)を絶(た)ち、之を助けて速(すみ)やかに蘇(よみがえ)らしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)
三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの閉じたる花園

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五日 聖マリアの閉じたる花園

我が妹、我が花嫁よ、汝は閉じたる園(その)なり。 (雅歌四、一 一)

 世の始め天主は人(じん)祖(そ)を最も完全にして聖なる者に創(つく)り、これをエデンという楽園に置き給うたが、この園は永久(とこしえ)に春の如く,百花(ひゃっか)爛漫(らんまん)と咲き乱れ、馥郁(ふくいく)の香り天地に満(み)ち、小鳥の歌、楽しげに聞こえ、果物累々(るいるい)と実(みの)り、すべて快(こころよ)き上に不自由というものを知らず、死も病(やまい)もなく、凡(およ)そ人の世の幸福は悉(ことごと)く此処(ここ)に集まって、人(じん)祖(そ)のうけ楽しむに委(まか)せたのである。
 しかし天主は園(その)の中央にある唯(ただ)一本の樹(き)の実(み)だけは食する事を禁じ給うた。それは人(じん)祖(そ)を始め、その子孫等の肉身の命と霊魂(れいこん)の命とを永遠に保(たも)つべき智慧(ちえ)の樹(き)の実(み)であった。
 ところが人(じん)祖(そ)は或る日悪魔の誘惑(いざない)に乗って禁断(きんだん)の果(このみ)を犯(おか)し、遂に楽園から追放され、後に其の門は固く閉ざされて再び入るによしなく、子孫の代まで病(や)み且つ死する者となる悲運を招いたのであった。
 けれども慈悲深い天主は、エデンの自然的、物質的楽園を失った人類に、妙(たえ)なる超自然的、霊的楽園を恵(めぐ)み給うた。それは聖マリアの麗(うるわ)しい霊魂(れいこん)である。
 この楽園(らくえん)にも美しい花、見事な果実(くだもの)がえも云われぬ芳香(ほうこう)をはなっている。
例(たと)えば聖霊による歓喜(よろこび)や平安,無上の謙遜(けんそん)、比類なき忠実、完全な貞潔(ていけつ)などがそれである。そしてその中央には天主に対する熱愛が焔々(えんえん)と燃(も)えつつ不思議な智慧の樹(き)の如くに立ち、その梢(こずえ)に人に対する愛と救(すく)霊(い)の果(このみ)をつけている。
 けれども最も感ずべきはこの園(その)が堅(かた)く閉じられている事である。それは勿論(もちろん)天主の深い思(おぼ)し召(め)しにもよるが、叉、聖マリア御自身それに忠実に従われなかったならば、こうまで堅(かた)く完全に閉(と)じられる事も出来なかったであろう!
 全く聖マリアの聖心(みこころ)の園の扉は堅かった。汚(けがら)わしい世間に置かれても大敵なる悪魔はもとより、さまざまの誘惑(いざない)も罪も、唯(ただ)の一歩も中に入る事が出来なかった。叉、悪(あく)慾(よく)や肉の欲求、無益(むえき)な思いや感じなども、踏(ふ)み込む隙(すき)すらなかったのである。
それに較(くら)べると我等の心の園(その)は何という相違であろう!それはいつでも開(あ)け放(はな)しの状態で、世間の悪い快楽(かいらく)、悪い感化の踏(ふ)み入るに委(まか)せている。
 されば悪魔は我が物(もの)顔に横行(おうこう)して悪の種子(たね)をまき、悪(あく)慾(よく)の雑草(ざっそう)ははびこり放題(ほうだい)、無益(むえき)な思考(しこう)や希望は野良犬の如く出入りし、周囲の垣(かき)は倒(たお)され、花は踏(ふ)みにじられ、泉(いずみ)は涸(か)れ、木陰(こかげ)涼しい大木は朽(く)ちて、園(その)というよりは荒野(あれの)になり果(は)てているではないか。もっと我等が注意して、心の扉を閉めておいたならば、天主の聖寵(せいちょう)によって、もう少し美しい花園(はなぞの)になっていた事であろう。
 ああ、聖マリアよ、我等の心を御身の愛で給うに足(た)る、閉(と)じられたる花園(はなぞの)となし給え!
それでは心の園(その)を閉じる為にはどうしたらよいか。犠牲の垣根を結(ゆ)い廻(めぐ)らし、克己(こっき)の扉を堅く閉(し)めるのである。即ち五官,殊に目、耳を守り、耐(た)えず襲(おそ)い来る想像を抑(おさ)え、傲慢(ごうまん)、憤怒(ふんど)、復讐(ふくしゅう)等の悪慾をすべて退(しりぞ)け、堅い決心で自我に打ち克(か)つのである。なお善(ぜん)徳の花を培(つちか)う為に、痛悔(つうかい)や様々の償(つぐな)いの水を与え、祈祷(いのり)その他の信心の務(つと)めを以て天主の御祝福の光と御恵(おんめぐみ)の雨を願わなければならぬ。そうすれば我等の心の園(その)にも美しい徳の花が開き、やがては天国の倉(くら)に納(おさ)めらるべき見事な果実(くだもの)が実(みの)るに相違(そうい)ない。

   祈   願

 ああ、閉じられたる花園(はなぞの)なる聖マリアよ、我等の心も亦、閉じられたる花園とならん事を切に求め奉る。
 しこうして我等が危険なる誘惑(いざない)に逢(あ)い、罪悪の淵(ふち)に沈まんとする時、常に御身の閉じられたる花園に隠(かく)れ憩(いこ)い、以て安全に救わるるをえせしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくじ)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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7月15日(月)のミサ開始時間は午前7時です。その他は予定通りです。

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

7月15日(月)は、国民の祝日ですが、今回の開始時間は、司祭の都合でいつもの通りの午前7時に変更になりました。ご了承ください

7月15日(月)証聖者聖ヘンリコ皇帝(3級祝日)白
          午前7時   ミサ聖祭

 その他は、予定通りです。ご理解を感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:契約の方舟

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六日 契 約 の 方 舟

   汝と汝の家、皆箱舟に入るべし。 (創世記七。一)

 ノエの時代人々は堕落(だらく)してあらゆる罪悪(ざいあく)に溺(おぼ)れ、ノエが改心(かいしん)をすすめても一向(いっこう)に聴き入れぬのみならず、却(かえ)ってこれに冷罵(れいば)嘲笑(ちょうしょう)を浴(あ)びせかけるばかりなので、天主は大洪水を起こして悪人を滅ぼそうと思(おぼ)し召(め)し、正しいノエ一家だけを救う為、彼に箱舟を作れと命じ給うた。
ノエが早速仰せをかしこみ幾十年の歳月を費(つい)やして大きい箱舟を作ると、天主は「汝と汝の家、皆箱舟に入るべし」と仰せになってこれを避難せしめ、やがて恐るべき災禍(わざわい)の天罰(てんばつ)を下し給うた。即ち四十日間昼と云わず夜と云わず、暗澹(あんたん)たる空から小(こ)止(や)みもなく降り注ぐ大雨は、さながら滝津(たきつ)瀬(ぜ)の如く、見る見る内に水量は増し、山も丘も忽ちに沈み、世界は唯、濁水(だくすい)の湧き返る大海原と化したのである。
その時の悪人共の恐怖(おそれ)と惨状(みじめさ)はどれ程であったろう!唯、箱舟に入ったノエとその一家のみは天主の御加護に依って無事なるを得(え)たのである。
 此の大洪水の有様は、叉、我等がこの世に於ける生活の象徴(かたどり)ではあるまいか我等も日々恐ろしい誘惑(いざない)の暴風(あらし)に吹きまくられ、罪悪の大波に呑まれようとしている。尋常では中々滅亡を免れる事が出来ない。
然し天主は我等にも「汝と汝の家、皆、箱舟に入るべし」と命じ給うのである。その箱舟とは何か?我等の避難所なる聖マリアである。この箱舟に入るべしとは彼女を尊敬し、彼女に縋(すが)り、その御保護や御助力を求めよとの意味である。
そうすればかのノエの一族が救われた如く、我等も激しい誘惑(ゆうわく)の暴風(あらし)や罪悪の大濤(おおなみ)にも安全なるを得(え)るに相違ない。
 それに反して聖母崇敬(すうけい)を軽んずる者は、様々な危険に出(で)逢(あ)っても助け船がない。恰度(ちょうど)ノエが箱舟を作っているのを嘲笑(あざけ)った、愚(おろ)かな人々のように滅びてしまう外(ほか)はないのである。
 なおノエは箱舟を作る為に幾十年を要した。同様に我等の聖母に対する尊敬も、一朝(いっちょう)一夕(せき)のものであってはならぬ。矢張り数年ないし数十年の久しきに亘って変わらざる赤(ま)誠(こと)を尽くさねばならぬ。そうでなければ、危険に際して俄(にわか)に助け舟を求めても、舟が未だ出来上がっていないのと等(ひと)しく、空(むな)しく罪の大濤(おおなみ)に巻き込まれる外(ほか)はあるまい。
 洪水(こうずい)が引いた時、天主はノエに向かって「我、雲を地の上に起こす時、虹を雲の上に現すべし。しかして我は再び総(すべ)ての生(い)ける物を打ち滅ぼさじ」と新たに約束し、且つその契約の印(しるし)として空に美しい虹を現し給うた。
 キリストも我等の為に救(すく)霊(い)の契約(けいやく)をお立てになり、我等は洗礼によって各自それに加わる事が出来る。しかし大空に度々(たびたび)黒雲の漲(みなぎ)る如く、我等の生涯にも屡々(しばしば)危険や心配の雲が沸(わ)き起こる。
けれどもその上に高くかかる美しい虹を仰ぐ人は決して滅びに陥(おちい)る事はあるまい。その虹も聖母の象徴(かたどり)である。虹の七色は聖母の七つの御徳を現す。
それは信(しん)望(ぼう)愛(あい)の三つの対(たい)神(じん)徳(とく)と、賢(けん)義勇(ぎゆう)節(せつ)の四つの枢要(すうよう)徳に他(ほか)ならぬ。その麗(うるわ)しい虹は暗澹(あんたん)たる生涯の大空に、どれほど我等の慰めとなり、力となる事であろう。
 更に虹は太陽の反映(はんえい)であり、虹の見える時、必ず太陽も出ているように虹なる聖母マリアを仰ぎ尊(とうと)ぶ人は、太陽なるキリストにも決して見離(みはな)される事がない。「聖母を熱心に尊敬した者で、地獄に堕(おと)された者は一人もない」と云われた聖アルフオンゾの言葉は真実である。故に我等は今月中、否、生涯を通じて「汝と汝の家、皆箱舟に入るべし」と云う御言葉を深く心に銘(めい)じ、聖母に対する愛と尊敬と信頼とを増して、且(か)つは御恩(ごおん)を報(むく)い、且つは御助力(おたすけ)を戴くように努(つと)めよう。

   祈   願

 ああ救(たす)霊(かり)の箱舟なる聖母マリアよ、我等が誘惑の嵐(あらし)に悩(なや)み罪悪(ざいあく)の波に溺(おぼ)れんとする時には、常に慈悲(いつくしみ)に充(みち)満(み)てる御懐(おんふところ)を思い出さしめ給え。
 叉、不幸にして大罪に傷(きず)つきたる時には、我等を庇(かば)い、主の御怒(おいか)りをなだめ、契約の虹の証(あかし)となり給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:燃える霊

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七日 燃 え る 霊

我、行きて大いなる観物(みもの)を見ん。 (出埃及記三。 三)

 天主の民と選ばれたアブラハムの子孫は、エジプトに至って大いに人口を増加したが、後には残酷(ざんこく)なエジプト王の為に奴隷(どれい)のように虐待(ぎゃくたい)され、苦痛に耐(た)えず天主の御扶助(おんたすけ)を願った。すると天主はモイゼという偉人を彼等の首領(かしら)と選び、これにその同胞を救い出す使命をお授けになったが、その時天主はホレブ山の麓(ふもと)なる燃えている茨(いばら)の草むらの中に姿を現し給うた。
 モイゼは時ならぬ炎(ほのお)と、しかも草むらの焼失せる様子もないのに驚いて「我行きてこの大いなる観物(みもの)を見ん」と叫び、急いで駆(か)けつけると、天主は「汝(なんじ)靴(くつ)を脱(ぬ)ぐべし、そは汝の立てる所は聖なる所なればなり」と宣(のたま)い、それから「我が選民(せんみん)をエジプトより救うべし」と命じ給うたのである。
 この燃える草むらは聖マリアの象徴(かたどり)であり、その罪の汚(けが)れなき前表(まえしらせ)である。聖母の天主に対する愛は実際燃(も)えさかる火のようであった。その熱は御一生を通じて身も心も溶(と)かさんばかり、もとより不純(ふじゅん)な穢(けが)れを入るべき余地などある筈がない。しかも其の愛の火の最も激しく燃え立ったのは、カルワリオ山に御子の十字架を仰ぎ見給うた時であろう。その時茨(いばら)は愛熱の焔々(えんえん)と燃え上がる聖母の聖心(みこころ)を深く刺(さ)し貫(つらぬ)いたのである。
 聖マリアの人類に対する愛、救(すく)霊(い)に対する熱心も矢張(やは)り火の如く燃えている。そして火は燃えても草むらは焼けなかったように、その愛、その熱心も尽(つ)きる時がない。故(ゆえ)にモイゼに倣(なら)って我等も行きてこの大いなる観物(みもの)を見よう。それには天主がモイゼに命じ給うた如く靴を脱がねばならぬ。
 何となれば我等の立てる所は聖なる所であるからである。これを説明すれば、汚(けが)れなき童貞(どうてい)聖マリアに近づいて尊敬するには、まづ世間的の慾(のぞ)望(み)や悪(あく)慾(よく)の古き殻(から)を脱(ぬ)ぎ捨て、身も心も聖母の愛の聖火に燃やされねばならぬとの意味に他ならない。
 経験によれば我等の生涯は茨(いばら)の道である。即ち悲しみ、苦しみ、或は病気、災難など、恐ろしい試練(こころみ)の刺(とげ)の連続である。我が主イエズス・キリストは、此の世の富も宝も快楽も、皆、善を塞(ふさ)ぎ止(とど)める茨(いばら)である、という意味の言葉を仰せられた。然し是(これ)等(ら)の茨(いばら)も聖マリアを尊敬する人には、自我(じが)の心を突き破り、謙遜(けんそん)と神えの愛と信頼とを深める便(たよ)りになるのである。
 最後にモイゼは指導者としてエジプトの奴隷(どれい)であった同胞(どうほう)を乳と密の流れるカナアンの地へ導く使命を受けた。聖母もキリスト信者の扶助(たすけ)、罪人のよりどころ、憂(う)き人の慰めと呼ばれ給い、我等の指導者としてその立派な模範(もはん)により、罪悪(ざいあく)や肉慾(にくよく)の奴隷(どれい)である我等を、平安と霊的(れいてき)歓喜(かんき)に充(みち)満(み)ちているキリスト信者の正しき生活に導き、遂には永遠のカナアンの地なる天国に導き給うのである。  
されば我等も聖母に倣(なら)い、各自に未信者を聖会に導き、他人の救(すく)霊(い)の為にも熱心に努(つと)めなければならぬ。
   
祈   願

愛の焔(ほのお)に燃(も)え立ち給う天主の御母童貞(どうてい)聖マリアよ、我等は今より全(まった)く古き殻(から)を脱(ぬ)ぎ捨て、ひたすら聖(み)旨(むね)を仰ぎみ、それぞれの境遇(きょうぐう)において、己と他人の救(たす)霊(かり)の為、力の限りを尽さんと決心し奉(たてまつ)る。
何卒(なにとぞ)この志を憐(あわ)れみて、御身の焔(ほのお)を我等の心に移し、弱き我等をして御身に肖(あやか)らしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:契約の櫃と聖母の聖心

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八 日 契 約 の 櫃 と 聖 母 の 聖 心

 箱を造り、純金を以て内外共に掩(おお)い、わが汝に与うる掟(おきて)を其の箱に納(おさ)むべし。
(出埃及記二。五)

 これは天主がモイゼに仰せられた御言葉であるが、ここに箱というのはエルザレムの神殿で最も聖(とうと)しとされていた契約(けいやく)の櫃(ひつ)に他(ほか)ならぬ。この契約の櫃(ひつ)には二つのものが納めてあった。
その第一は、天主がモイゼに手づから授け給うた、十(じゅう)誡(かい)を刻(きざ)んだ二枚の石板(せきばん)。その第二は、昔イスラエルの民がエジプトを遁(のが)れてアラビアの曠野(あれの)を彷徨(さまよ)うていた頃、天から降って彼等を養った、マンナという不思議な食物を入れた黄金の器(うつわ)。この二つである。
そして天主はモイゼに聖(み)旨(むね)を伝え、或はイスラエル人に多くの恵(めぐみ)を与え給う時、いつもこの契約の櫃(ひつ)を通じてせられるのが常であった。
 我等は連祷(れんとう)に於いて聖マリアを契約の櫃(ひつ)と呼び奉るが、誠にこの聖(せい)櫃(ひつ)は聖母の象徴(かたどり)である。聖マリアの完全無訣(むけつ)な聖心(みこころ)は、如何にも純金で内外を飾られた聖(せい)櫃(ひつ)に喩(たと)えるに相応(ふさわ)しい。のみならずその聖心(みこころ)には、始めから天主の誡(いまし)めが、かの石板(せきばん)の面(おもて)よりも深く刻(きざ)み込まれてあった。
 されば天主の聖(み)旨(むね)に従順(じゅうじゅん)で、その聖式(せいしき)に与(あずか)る事などは、よくその御性質に適(かな)い、むしろ已(や)みがたい聖心(みこころ)の御要求であった。故に聖マリアは御幼少の時から熱心に聖教(みおしえ)を学(まな)び、十二分に天主の十(じゅう)誡(かい)に通暁(つうぎょう)されたけれど、本来から云えばユデア人や我等の如く、己(おのれ)を律(りっ)する外部的な掟(おきて)などは必要でなかったのである。
 然し我等に於いては大いに異(こと)なる。我等の心は天主の聖(み)旨(むね)よりも、原罪(げんざい)に歪(ゆが)められた本性に従い易(やす)く、その為、善に赴くには絶えず努力や勧告を要する。けれどもそれにも拘(かか)わらず我等の心も洗礼の時から聖(せい)櫃(ひつ)になった。
そして天主の聖(み)旨(むね)はその時から十(じゅう)誡(かい)を以て明らかに示された。故に聖母を
熱心に崇敬(すうけい)する者は、その麗(うるわ)しき御鑑(おかがみ)に倣(なら)い、行(おこな)いを改(あらた)めてその尊敬(そんけい)の心を
表(おもて)に現(あらわ)さねばならぬ。
 次に契約の櫃(ひつ)には不思議な天の食物なるマンナが納めてあった。此の点から云ってもこの櫃(ひつ)は聖母の象徴(かたどり)である。
何となればイエズスは或る時ユデア人に向かい「我は生けるパンなり。汝等の先祖は砂漠にてマンナを食して死せしが、人、若(も)しこの我パンを食せば永遠に生くべし」と仰せられたが、このパンは御托(ごたく)身(しん)によって聖母の内にやどり給うた。
 されば聖母が天のパンを納める契約の櫃(ひつ)と呼ばれ給うのは誠に適切で、我等に降(くだ)り給う聖体と如何に深い関係を有し給うかも悟(さと)られよう。
 聖体は世の終りまで信者を養う霊魂の糧(かて)で、逐謫(ちくたく)の身に此の上ない力(ちから)であり慰安(なぐさめ)であるが、聖マリアも主の御昇天後は始終(しじゅう)聖体を拝領されて、懐(なつ)かしい御子(みこ)と一致されそれを力(ちから)にナザレトのつつましい御生活を続けられた。
故に我々も聖体拝領のたび毎(ごと)に聖母を思い出して、その芳(かんば)しき御徳を鑑(かがみ)とし、聖会の勧告(すすめ)に従い、心を改め行いを正し、御跡(みあと)を慕(した)い奉ろう。かように努(つと)めるならば、此の世から天国にいますイエズス・キリストと親しく交(まじ)わる事が出来るのである。

   祈   願

 ああ、聖(きよ)き御母マリアよ、我等は誠(まこと)に拙(つたな)き者なれども、洗礼によりて主の聖(せい)櫃(ひつ)とせられし事を深く感謝し奉る。
我等は御身の麗(うるわ)しき範(のり)にならい、主のよみし給う性質となり、犠牲と善徳の花を手向(たむ)けて、主の聖心(みこころ)を休ませ奉る者とならん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度
繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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