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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの祝福の象徴

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九 日 聖 マ リ ア の 祝 福 の 象(かた) 徴(どり)

山に行きて海の方を眺めよ。小さき雲海より立ち昇るべし。  
(列王記上一八。四三)

 天主はユデア国王の不信仰と人民の堕落(だらく)を懲(こ)らし給う為に、予言者のエリアを遣(つか)わして王に天罰(てんばつ)を告(つ)げしめ給うたが、それから三年六ケ月という永い間、一滴の雨露(あめつゆ)も地を潤(うる)をさなかった。為に至る所の川は乾上(ひあが)がり、草木は枯れ、人間を始め総(すべ)ての生物は非常に苦しみ,饑(う)え渇(かわ)きの為に死んだ者も多かった。それで人々はどれほど大雨を待ち望(のぞ)んだか解(わか)らない。遂にエリアは雨乞(あまご)いをする為に地に平伏して祈ったが、僕(しもべ)を呼んで冒頭(はじめ)に記(しる)したように「山に昇りて海の方を眺めよ、小さき雲海より立ち昇るべし」と命じたのである。
 僕(しもべ)は其の言葉に従い屡々(しばしば)山に昇って見たが、中々青空に雲の湧(わ)く様子も見えない。然し遂に七度(ななたび)目に海から小さい雲の立ち昇るのを見た。その雲(くも)足(あし)は頗(すこぶ)る速く、見る見る空一面に拡(ひろ)がったかと思うと、忽(たちま)ちドッと篠(しの)つくような大雨が降り出し、乾(かわ)いた土地は始めて充分な潤(うるお)いをえて、草木も青々と蘇(よみがえ)り、人々も漸(ようや)く生き返ったような心地がしたという話しである。
 旱魃(かんばつ)の太地に最も必要なものが水分であるように、色々の困難と戦い様々の悩みに喘(あえ)ぐ我等には、天主の御祈福ほど有り難い力(ちから)になるものはない。されば旧約聖書にも天主が天地万物を創造(そうぞう)された時、七日目を祝して以て、全世界を幸福にする特別の恵(めぐみ)を賜(たまわ)る日とされたよしが記(しる)してある。
しかるに人は愚(おろ)かにも、また不幸にも、罪を犯(おか)して全くこの御祝福の泉を
閉ざしてしまったのであった。
 所がこの泉を再び開き、前にもまして豊かな御祝福を得る事の出来るようにして下さったのが救い主イエズス・キリストである。それは勿論その御苦難御死去の御功徳(おんくどく)による。
 然し主は十字架上から聖マリアを我等の母として与え給うた時、また聖母を一切の恵(めぐみ)のわかちてと定め給うた。
 即ちイエズスを限りなき恵の大海とすれば、聖母はそれから水分を得て、地上の万物に雨露(あめつゆ)を降らす雲に相当する。
 実に聖母の祝福の雲がイエズスの無限の愛の大海から立ち昇って以来、その雲(くも)足(あし)は迅速(じんそく)に全世界を蔽(おお)い、恵の大雨を降らし、誘惑(いざない)に逢(あ)う者には力(ちから)を、苦悩(くるしみ)に泣く者には慰(なぐさめ)を、病気、災禍(わざわい)に罹(かか)れる者には忍耐を、臨終(りんじゅう)の者には大いなる安心と歓喜(よろこび)とを、与えた事がどれほどあるか知れない。
 けれども聖母の御憐(おんあわ)れみを蒙(こうむ)るには、かのエリアの僕(しもべ)が七度(ななたび)山に昇って漸(ようや)く雲を認めたように、矢張(やは)り忍耐して常に御扶助(おんたすけ)を祈り求めねばならぬ。肉身
の母、地上の母の好意さえ喜ばしい限りであるからには、霊魂の御母、天上
御母の御祝福は此の上もなく有り難いものであるに相違ない。
故に我等は聖マリアの子たる幸福を喜び、益々其の御祝福を頂くに相応(ふさわ)しい者となるよう、努めて心を改め行いを正(ただ)す事が大切である。叉、己の幸福を思うにつけても、宗教を信ぜず、聖マリアの子となるを肯(がえ)んじない人々の淋(さび)しさ、不幸さを思いやり、彼等の為に祈る事を忘れてはならぬ。他人の事ばかりでない、自分も心に御祝福を感ぜず、憂(うれ)いに沈み、悩みに悶(もだ)えるような時は天にまします「憂(うれ)い人の慰(なぐさ)め」に向かって祈るがよい。そうすれば何時かは哀(あわ)れみの雲の立ち昇るのを見るであろう。
 かように喜びに悲しみに、御母を忘れず敬愛し、叉,つつましき信心の業(わざ)を以て聖母崇(すう)敬(けい)の精神を他の人々にも移し植え、殊に親として子にそれを残し伝えるのは、我等聖母を慕(した)う者の、正(まさ)に為(な)すべき責務である。

   祈   祷

 ああ聖寵(せいちょう)の雨雲なる聖マリアよ、常に祝福の大雨を以て我等の心をうるおし、御身を知らざる者、或は御身を拒(こば)む者までも悉(ことごと)く御許(みもと)に導くを得(え)せしめ給え。しかして遂にはわが日本帝国を津々浦々(つつうらうら)に至るまで恵(めぐ)みの雨露(あめつゆ)にて潤(うるお)し給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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司教聖別二十五周年に際しての宣言(二〇一三年六月二十七日) 日本語訳

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 司教聖別二十五周年に際しての宣言の日本語訳ができあがりました。翻訳の原稿はすでに7月4日に完成していました。遅れてしまいましたが、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。この日本語訳を作って下さった方には感謝を申し上げます!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


司教聖別二十五周年に際しての宣言
(一九八八年六月三十日〜二〇一三年六月二十七日)

二〇一三年六月二十七日


1- 司教聖別二十五周年に際し、聖ピオ十世会司教三名は、ルフェーブル大司教とアントニオ・デ・カストロ・マイヤー司教に対して、一九八八年六月三十日、両名が恐れることなく執り行った英雄的行為に対して、荘厳に自らの感謝の念を表明することを切望する。三司教は特に、教会と教皇に長年に渡って仕え続けたのち、信仰とカトリック司祭職の擁護のため、不従順という不当な非難を耐え忍ぶことを躊躇しなかった尊敬すべき創立者に対して、子としての感謝の念を表明したいと思う。

2- 司教聖別の前、大司教は私たちにあてた書簡の中でこのように述べている。「私は、あなた方に懇願します。信仰告白の中で、トリエント公会議による公教要理の中で、表明されているとおりの完璧なカトリック信仰において、神学校であなた方が教えられたことに合致して、ペトロの座、全ての[地方]教会の母であり教師であるローマ教会に愛着し続けることを、あなた方に懇願します。聖主の統治の来たらんがため、この信仰を伝え続けることに忠実にとどまりなさい。」この一節こそが、実に、大司教がなした行為の深い理由を表明している。「御国の来たらんことを adveniat regnum tuum!」

3- 教会を破壊しつつある憂慮すべき重大な誤謬の原因は、公会議諸文書の悪質な解釈──つまり「継続における改革の解釈学」と対立するものとされる「断絶の解釈学」──にではなく、むしろ、第二バチカン公会議によってなされた前例のない選択により、真実に、諸文書そのもののにあると私たちは断言する。この選択はその諸文書とその精神の中に明らかにある。それは「世俗の天主なき人間主義」(l'humanisme laique et profane)に直面し、つまり「自らを天主となす人間の宗教───なぜならそれも一つの宗教ですから───」に直面し、「人となった天主」の啓示を唯一守護する教会は、自分の「新しい人間中心主義」を「私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼讚する(le culte de l'homme)」(一九六五年十二月七日、パウロ六世による閉幕の挨拶)と述べることで、現代世界に知らしめることを望んだ。だが、天主の崇敬と人間の崇敬との共存は、根本的にカトリック信仰に反している。カトリック信仰は私たちに、唯一のまことの天主と、そのおんひとり子なるイエズス・キリスト、「神性のみちみちたものが、すべて、体の形をとってやどっている」(コロサイ二章九節)お方のみに対し排他的に最高の崇敬と至上の地位とを与えることを教えている。

4- 私たちは、他の公会議と比較し得ないこの公会議、単に司牧的なものにとどまり、教義的であることを欲しなかったこの公会議は、教会内にこれまでに前例のない新種の、聖伝に由来しない教導職を始動せしめたのだと、真実に意見を述べざるを得ない。すなわち、カトリック教義を自由主義思想と和解させようと決意し、偽りの生ける聖伝という概念にしたがった、主観主義と、(生命的)内在論と、恒久的進化論という近代主義的観念に染まり、教会の教導職の本性と中身と役割と行使とを損なっている。

5- これ以降、「私には、天と地との一切の権威が与えられている」(マテオ二十八章十八節)というキリストのみことばが依然として絶対的真実であり絶対的現実であるという事実にも関わらず、キリストの統治は、もはや教会当局の最大関心事ではない。行動においてこれらを否むことは、実践上、聖主の天主性をもはや認めないことである。従って、第二バチカン公会議のために、人間社会の上に及ぶキリストの主権はまったく無視されかつ反対されてすらおり、教会は、特に信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義(*)、また新しいミサにおいて明らかである、この自由主義精神に染まっている。

6- 『信教の自由に関する宣言』によって示され、過去五十年にわたってその実際上の適用されたままの信教の自由は、必然的に、「人となられた天主」が「自らを天主とする人間」の上にその統治を及ぼすことを放棄するように要求し、このことはキリストを解体することと等しい。私たちの主イエズス・キリストが持つ現実の権能への堅固な信仰によって息吹を受けた行動の代わりに、私たちは以下のことを見ている、すなわち、教会が恥ずべきことに人間的な賢明さによって導かれ、しかもフリーメーソンのロッジが教会に譲歩することを望むこと以外は何も要求しないという自己疑念を持っていることを。すなわち、教会がもはやあえて偽りであると言わなくなった他の諸宗教の中で、それと同じレベルにおいて、教会は[真理のみが有することのできる特権ではなく]どの宗教にも適応される共通法以外を何も要求していない。

7- 至るところに存在するエキュメニズム(『エキュメニズムに関する教令』)とむなしい諸宗教の対話(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』)との名のもとに、唯一のまことの教会についての真理は沈黙させられている。また、聖職者と信者の大部分は、もはや、私たちの主イエズス・キリストとカトリック教会において、救霊の唯一無二の道であるとは見ておらず、偽りの諸宗教の信奉者たちを唯一の真理についてむしろ無知なままにしておきつつ、彼らを回心させることを放棄してしまっている。このエキュメニズムは、こうして文字通り教会の宣教精神を殺したのである。偽りの一致を模索しつつ、教会の使命を非常にしばしば、純粋に地上的平和のメッセージ、及び世界における貧困の緩和という人道主義の役割のメッセージを伝達するのみという使命に縮小させ、その結果、教会を諸々の国際組織に倣って位置づけている。

8- 聖主が天主であることに対する信仰を弱めることは、団体主義と、平等主義と、民主主義との精神の導入により(『教会憲章』)、教会において権威の一致を解体させることを促進させている。キリストはもはや、そこからすべてが流れ出る頭ではなく、とりわけ権威の行使がそこから流れ出る頭ではない。教皇は自分の権威の十全をもはや効果的に行使しせず、そして司教たちは──第一バチカン公会議の教えに反して──団体的にかつ恒常的に最高権力の充満を分かちあっていると考えており、教皇と司教らとは、結果として、司祭らともに、新しい主権である「天主の民」に聞き従うことを自らに課している。これは、権威の破壊を、従ってキリスト教的制度である家庭、神学校、修道会の荒廃を意味している。

9- 一九六九年に公布された新ミサは、キリストが十字架より統治し給う("regnavit a ligno Deus")という肯定を貶めている。実に、この典礼様式そのものが、聖体の犠牲が生贄であり宥めの本性を持っていることを弱め、覆い隠している。この新しい典礼の下に隠れているものは、過ぎ越しの神秘という新しい偽りの神学である。新しい典礼と新しい神学の双方は、聖主がカルワリオでの犠牲の上に打ち立てたカトリックの霊性を破壊している。このミサには、エキュメニカルかつプロテスタントの精神、民主的かつ人間中心主義の精神が浸透しており、十字架の生贄を空洞化している。この新しいミサは、司祭の秘跡的司祭職を弱体化させる「洗礼を受けた者らの共通司祭職」という新たな概念を描き出している。

10- 五十年後の現在、[教会を破壊している]この原因の数々は根強く存続し、なおも同じ影響を生み出している。それ故に、今日でもなおかつ司教聖別はその完全な正当性を保っている。ルフェーブル大司教を導いたのは、そしてその後継者らを導いているのは、教会への愛であった。「カトリック司祭職をそのすべての教義の純粋性と宣教者の愛徳のうちにおいて伝える」(ルフェーブル大司教著『霊魂の旅路』)という同じ渇望であり、この渇望は、聖ピオ十世会が、ローマ当局に対し、教義と道徳と典礼とに関する聖伝の宝をふたたび取り戻すことを断固として要求する時、教会への奉仕において聖ピオ十世会を動かしているものである。

11- この教会への愛は、ルフェーブル大司教が常に遵守していた法則を説き明かしている。すなわち、あらゆる状況において、み摂理に先駆けることを許さず、み摂理に付き従うこと、である。私たちも同じことを行うつもりである。すなわち、ローマがまもなく聖伝と永遠の信仰に戻る時──これは教会内に秩序を再建するだろう──あるいは、私たちが信仰を完全に告白し、これに反する誤謬を拒絶する権利、さらに誤謬と誤謬の支持者らが何者であれ、これらに公に反対する私たちの権利と義務とをローマが明確に認める時に──これは秩序の再建のはじめとなるだろう──。それを待ちながら、教会内で破壊を続けているこの危機に直面して、私たちはカトリック聖伝の擁護を忍耐強く続け、「地獄の門はこれに勝たざるべし」(マテオ十六章十八節)と信仰の確実さによって私たちが知っているが故に、私たちの希望はそのまま完全に残る。

12- 私たちは、司教職において敬愛する霊父の戒めに従うつもりである。曰く「愛する友人たちよ、天と地におけるイエズス・キリストの凱旋と栄光とのため、キリストにおける私の慰めとなり、信仰において堅固なままでおり、ミサの真の犠牲と、聖主のまことの聖なる司祭職とに忠実であるように」(司教たちへの手紙)。願わくは聖三位一体の天主が、マリアのけがれなき御心のおん取り次ぎにより、私たちが拝命した司教職、天主の名誉のため、教会の凱旋と霊魂の救いとのために行使せんと望む司教職に忠実なる恩寵を私たちに賜らんことを。


二〇一三年六月二十七日、絶えざるおん助けの聖母の祝日に。エコンにて。

ベルナール・フェレー司教
ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教
アルフォンソ・デ・ガラレタ司教

フランス語原文

英語訳


訳者注(*) 司教団体主義という訳語について

 司教団体主義とは、collegialitas の訳である。何故「司教団体主義」という訳をつけたかというと、第二バチカン公会議の collegialitas, collegiality, collegialité は、教会憲章 第3章 教会の聖職位階制度、特に司教職について(§§18 - 29) の中にある表現に由来しているからである。

 教会憲章によると、イエズス・キリストは12使徒たちを「使徒団」という団体(collegium)として制定し、それと同じように「司教団」がこれを継承するという。そこで一般には、世界中の司教たちは「使徒団」の継承として「司教らの団体」を構成し、「司教団(Collegium Episcoporum)は、かしらとともに普遍教会に対する最高かつ十全な権限の主体として存在し、そのかしらなしには決して存在し得ない」(新教会法典336条)とされるようになった。教会憲章による主張は、司教聖別を受けることによって自動的に司教団の中に組み込まれ、司教は、司教聖別と同時に教皇が望もうが望むまいが、司教団の一員として裁治権上の権能を受け取ることと理解されるようになった。

 これに反して、聖伝によれば、教皇のみが普遍教会に対する最高かつ十全な権限・権能の唯一の主体であり、最高権力は、教皇によって、教皇の望みのままに(ad nutum)、伝えられる場合のみ、団体的なものとなる(たとえば公会議の時)。聖伝によれば、天主から与えられた制度としてキリストの教会は君主制であり、「司教団体制」をとっていない。また、教会を統治する裁治権は教皇が司教に伝えるのであって、司教聖別を受けることによって司教が裁治権を自動的に受けるものではない。そこで、第二バチカン公会議の文章でも使われている「司教聖別」という言い方は司教を作ることであるが、「叙階」ではなく「司教聖別」というこの表現は、叙階による聖職の位階秩序とは区別されたものとしての裁治権の位階秩序は教皇によって与えられることを暗に示していた。

 教会憲章§19にはこうある。「主イエズスは聖父に祈った後、自分が望んだ人たちを自分のもとに招き、自分の伴侶とするため、また天主の国の宣教に送るために、12人を任命した(cfr. Marc 3, 13-19; Matth. 10, 1-42)。主はこの使徒たちを(cfr. Luc 6, 13)、団体、すなわち永続的な集団の形に(ad modum collegii seu coetus stabilis)制定し、彼らの中からペトロを選んでその頭とした (cfr. Io. 21, 15-17)。[…] 」

(§22)「主の制定によって 、聖ペトロと他の使徒たちとが一つの使徒団体(unum Collegium apostolicum)を構成しているのと同じように 、ペトロの後継者であるローマ教皇と使徒たちの後継者である司教たちとは、互いに結ばれている。[…]秘跡的聖別の力によって、また司教団体の頭ならびに構成員との(cum Collegii Capite atque membris)位階的交わりによって、人は司教団の一員となる 。 しかし、司教団体すなわち司教団は(Collegium autem seu corpus Episcoporum)、ペトロの後継者であるローマ教皇をその頭として一致したもの 、また牧者も信者も含めた全ての人に対する教皇の首位権は完全に 存続するもの、と考えるのでなければ、権威を持つことはない。[…] 」

 (ラテン語は次にある。LUMEN GENTIUM

 第二バチカン公会議の collegialitas の日本語訳語としては、その要素と語源である collegium「団体」の元の意味を保持することが大切である。そこで司教団体主義、あるいは単に団体主義と訳す。私はかつて、誤った司教団制度 (collegialité) と訳したこともある。

 さて、普通であれば「-tas」は「 -性」と訳される。collegialitas を「司教団体性」と訳すこともできるが、意味の上から、司教たちが団体として教会の最高の権力を持っているという主張であって、そのような本性上の性格ではないが故に、「 -性」という訳は採用しなかった。第二バチカン公会議後、教皇がその最高の十全の権能を、司教団としての司教たちに自由に与えているように思われるので、制度として「司教団制」と言うことができるだろう。しかし、そのときでも、カトリック教会の君主制の本性はそのまま残る。何故なら、天主の作った制度なので人間が変えることができないからだ。そこでその意味を含めて「司教団体主義」と訳した。

 そのほかにも、『提題解説』に対する日本の教会の公式回答(1997年7月23日 日本カトリック司教協議会)には、「中央集権」 (centralization)への対比として「協働性」(collegiality)と訳されていた。気持ちはわかるが、「協働」という言葉は、collaboration の訳語に普通使われているので、混乱をもたらすだけだと思う。

 あるいは、「同僚性」とするものも見つかった。「同僚性」とは、collegium(団体、集団、組合)というラテン語やそれから由来する英語 college ではなく、colleague (同僚)との連想からの訳語であるように思われる。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:勝利者ユディット

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十 日 勝 利 者 ユ ジ ツ ト

汝はエルザレムの栄誉、イスラエルの歓喜(かんき)、我が人民の誇りなり。
(ユジツト書一五。一○)

バビロンの国王ナブゴドノゾルがホロフエルネスを大軍の将として、ベツリアという町を囲(かこ)ませた事がある。その時町の人々は、敵の為に川の水を堰(せき)留(と)められ、水攻めの憂(う)き目に逢(あ)い、勇気沮喪(そそう)していよいよ愛する町を敵の手に明け渡そうという事に衆議(しゅうぎ)一決(いっけつ)した。所がこれを聞いてその不甲斐(ふがい)なさに蹶起(けっき)したのはユジツトという寡婦(やもめ)である。
 彼女は町の長老達に降参(こうさん)の早計(そうけい)なるを戒(いまし)め、天主に対する厚い信頼の下に唯(ただ)一人の下婢(めしつかい)を伴(とも)に連れ、勇敢(ゆうかん)にも敵陣に乗り込み、謀略(はかりごと)を以て大将ホロフエルネスの首を討(う)ち取り、急ぎ帰って此の事を告(つ)げたので、町の人々は大いに喜び、勇躍(ゆうやく)敵陣に攻め入り、遂(つい)に大勝利を得るに至った。
その後、間もなく首府エルザレムの大司祭は多くの司祭達と共にベツリヤ町に来(き)たり、口を揃えて勇敢(ゆうかん)なユジツトを賞讃(しょうさん)し、「汝はエルザレムの栄誉(えいよ)、イスラエルの歓喜(かんき)、我が人民の誇(ほこ)りなり」と叫んだ。
 この勇婦(ゆうふ)ユジツトは実は聖マリアの象徴(かたどり)である。聖母も彼女の如く燦然(さんぜん)たる大勝利を得られた。さればこそ聖会はベトレヘムの司祭達のユジツトに対するように、聖母を、祈祷(いのり)に歌に、讃美(さんび)し奉るのである。それでは聖母が征服(せいふく)し給うた敵は一体(いったい)何者であろうか?その敵は数多(あまた)ある。
しかし此処(ここ)では特別に聖会の最も恐るべき敵である異端(いたん)について考えて見たい。歴史によれば、如何に恐ろしい迫害(はくがい)が起こった時でも、聖会は決して滅(ほろ)びなかった。却(かえ)って殉教者(じゅんきょうしゃ)の聖(きよ)い血汐(ちしお)によって益々教勢(きょうぜい)が盛んになるばかりであった。然し十五世紀から十七世紀にかけて起こった様々の異端(いたん)は、多数(たすう)の人々を我が聖会より引き離した。此の点、異端(いたん)は迫害(はくがい)より恐ろしい大敵(たいてき)と云う事が出来よう。
 この敵は今も聖会を攻撃して居る。聖会は恐らく世の終りまでこの敵と戦わねばなるまい。所がこの大敵に対する勇敢(ゆうかん)な新約(しんやく)のユジツトこそ天主の御母(おんはは)聖マリアである。その証拠には、異端(いたん)が人々の心を惑(まど)わすのはいつでも聖マリアに対する愛と尊敬の薄らいだ時に限っている。これは一見(いっけん)不思議のようでも、よく考えて見れば道理に適(かな)っている。
たとえ如何にキリストのみを信じ、尊敬し奉っても、其の最(さい)愛し給う御母を軽(かろ)んずるならば、どうして主の御心(みこころ)を喜ばせ奉る事が出来よう。従(したが)って与えられる恵も次第に減(げん)じ、遂に真理(しんり)の道を離れる不幸さえ招くに至るのである。
 それに反して、主と共に御母をも尊敬し、その御扶助(おんたすけ)を願うならば、主の御覚(おんおぼ)えも一入(ひとしお)めでたく、御恵(おんめぐみ)は増すばかりで、必ず異端(いたん)に打ち勝つ事が出来る。故(ゆえ)に聖会は聖母を讃美(さんび)して「聖マリアよ歓(よろ)喜(こ)び給え。そは全世界の異端(いたん)に打ち勝ち給いたればなり」と祈るのである。
 この聖母の御保護に依って、聖会は初めから異端(いたん)を防(ふせ)ぎ、キリストの聖教(みおしえ)を純粋(じゅんすい)に保(たも)って来た。真理は誤謬(ごびゅう)と相容(あいい)れない。天主御子(おんこ)の御教(みおし)えに背(そむ)き公教会の基(もと)となる磐(いわお)を離れて異説をたてる者は、真理(しんり)の泉に毒を投(とう)ずる者と云わねばならぬ。我等は斯様(かよう)な邪説(じゃせつ)に迷わされぬよう、屡々(しばしば)己の信仰を聖マリアの御熱心御善徳に引き較(くら)べて反省する必要がある。というのは、余程(よほど)警戒して心に堅固(けんご)な要塞(ようさい)を築(きず)いているつもりでも、悪(あく)慾(よく)や世間の快楽(かいらく)の為に心の門を開放し、いつか異端(いたん)の思想(かんがえ)の侵入を許している事が度々(たびたび)あるからである。されば我等もユジツトに倣(なら)い、天主や聖母を厚く信頼して、この大敵と勇敢(ゆうかん)に戦わねばならぬ。

   祈   願

 エルザレムの栄誉(えいよ)、イスラエルの歓喜(かんき)、我が人民の誇りなる聖マリアよ、我等が常に御身を離れず、御扶助(おんたすけ)によりてむらがる敵を防(ふせ)ぎ、尊(とうと)き信仰の宝を保(たも)ち、之を子孫にも伝え得るよう護り給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の代願の象徴なるエステル

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十 一 日 聖母の代願の象徴なるエステル

エステル王の御前(みまえ)に進みし時・・王は怒(いか)れる顔を上げしが・・天主は
忽ち彼の心を和(やわ)らげ給えり。    (エステル書十五。九の一 一)

ペルシャ国王アスエロは、ユデア人を憎むアアマン宰相(さいしょう)の奸(わる)計(だくみ)に乗せられ、遂に国中(くにじゅう)のユデア人を一日の内に皆殺しにせよとの厳命(げんめい)を発した。
 所がその皇后のエステルは、矢張りユデア人の中から迎えられた婦人であったから、同胞の不幸を黙視(もくし)するに忍(しの)びず、彼等を救う為に、招きを受けずに王の居間に入る者は何人と雖(いえど)も殺されるという、厳(きび)しい掟(おきて)があるにも拘(かか)わらず、敢然(かんぜん)進んで王の前に立ち、憐(あわ)れみを乞おうとした。その時王は憤(いかり)の形相(ぎょうそう)物凄(ものすご)く顔を上げたが、天主は其の瞬間急に其の心を和(やわ)らげ給うた、というのが冒頭(はじめ)に記(しる)した言葉である。
 このエステルは云うまでもなく聖マリアの象徴(かたどり)であった。彼女が国王に同胞(どうほう)の命乞(いのちご)いをした如く、聖母も我等不幸な人類を憐(あわ)れみ、いつも主の玉座(ぎょくざ)の御前(みまえ)に代願(だいがん)し給うのである。
 こう云うと我等の為天主御父(おんちち)に取りなして下さる方は救い主イエズス・キリストではないかと疑(うたが)う人もあろう。成る程天主御父は人類を救う為に御独子(おんひとりご)を世に遣(つか)わし給うた。そして之を信ずる者は聖書にもある如く、確(たし)かに永遠の生命を受ける。けれども浅ましい我等は救い主の御慈悲(おんいつくしみ)を軽蔑(けいべつ)したり、その御旨(みむね)に反抗(はんこう)したりして罪を犯(おか)し、自分に与えられる主の御苦難御死去の功徳(くどく)を踏(ふ)みにじり、永遠の生命を失う危険に瀕(ひん)することが度々(たびたび)ある。
 イエズスは天主であって無限の慈悲(いつくしみ)と共に無限の正義も有し給い,公(こう)審判(しんぱん)の折には審判者となられるお方(かた)である。それで我等がかような不心得(ふこころえ)を働いた時には、その正義から咎(とが)め給わぬ訳には行かぬ。かような場合、主の御怒りを宥(なだ)め参らせて、我等の為に憐(あわ)れみを乞(こ)うて下さるのは何方(どなた)であるか。それは聖母
マリアの外(ほか)にはない。
 聖マリアはエステル皇后のように、主の御招きを待ち給う必要がない。天の元后(げんこう)として常に三位(さんみ)一体(いったい)の御側(おそば)においでになる。そしてかのカルワリオ山の上、十字架のもとに立ち給うた時から、地上に於いて天主を父として認め、キリストを兄弟として信ずる者を悉(ことごと)く御自分の愛子(あいし)として、その為に祈り給うのである。故(ゆえ)にその代願(だいがん)には元后(げんこう)としての権利(けんり)と慈母(じぼ)としての限りなき愛が含まれている。その権利の為に聖母の代願は此の上もなく効果があり、その愛の為に聖母は如何(いか)なる罪人もお見捨てにならぬ。寧(むし)ろ重い罪人ほど余計に同情を寄せ給う事は、恰(あたか)も母親が不幸な子ほど不愍(ふびん)に思うようなものである。
そして縋(すが)り奉る者は、善人なるか悪人なるかを問わず、必ず助けてくださるのである。
 されば天主に対して「我を憐(あわ)れみ給え」と祈る事が出来ぬ場合には、臆(おく)せず速(すみ)やかに聖母の御許(みもと)に馳(は)せ寄り「慈悲(いつくしみ)深き御母、我を助け給え!」と願うがよい。そうすれば大いなる慰(なぐさ)めを得(え)、再び希望と信頼とを恵(めぐ)まれるであろう。
 なお、我等も聖母に倣(なら)い、友の為にも敵の為にも、我等によき人にも悪(あ)しき人にも、隔(へだ)たりを置かず、彼等の報(むく)いを求めず、祈祷(いのり)の効果如何に頓着(とんちゃく)せず、唯(ただ)ひたすら真心(まごころ)を尽くして祈ろう。
 かように励(はげ)むならば、生涯、殊に臨終(りんじゅう)の時、天の元后(げんこう)に特別な御扶助(おたすけ)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いない。

   祈   願

 ああ我等の代願者なる聖マリアよ、望(のぞ)むらくは我等をして明らかに己が欠点を知り、心より罪を悔(く)やみ、友を助け敵を愛し、罪を償(つぐな)い、もって善(よ)き終わりを遂(つ)ぐるの恵を得(え)させ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)


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天主様に感謝!聖母マリア様に感謝!

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝!今月はアジア管区長のクチュール神父様が来日してくださいました。多くの方々が聖伝のミサにあずかるお恵みを受けたことを天主様に感謝します。主日は東京で31名の方々が、月曜日は10名の方々がミサにあずかることができました。

 次のような報告をいただきましたのでご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@ソウルにて

*****

クチュール神父は今日の説教で、聖書を読む時にはその意味を良く理解して読むことが重要であることを今日の聖福音の例を使って説明してくださいました。具体的には、
(1)天主は正義をもって裁かれる方であること、
(2)天主は私たちに多くの贈り物をしてくださる分、私たちがそれをどう使ったかについて天主に対して報告をしなくてはならず、その報告に対する裁きが私たちが死んだすぐ後、私審判として行なわれること、
(3)私たちは、今日思ったこと、行ったこと、行なわなかったことを含む全てのことについて裁かれること、
(4)そのため、私たちは今日の聖福音の使用人に習い、今、賢明に行動する必要がある、
とのことでした。また、煉獄の霊魂の為にミサを捧げていただくことの重要性についても話されました。

昼食の後午後2時半からのクチュール神父の霊的講話では、最近英語版が出版されたロベルト・デ・マッテイ教授の第二バチカン公会議に関する本("TheSecond Vatican Council - An Unwritten Story")の中から一章を取り上げて、とりわけ伝統と啓示という言葉の内容について、カトリック教会の伝統的な教えとプロテスタントの説、そして第二バチカン公会議で主張された新しい考えを対比して、聖ピオ十世会とバチカンとの理解の違いはどこにあるのかを詳しく説明してくださいました。

晩課のあと、クチュール神父と一緒に皆で近くの東洋文庫ミュージアムで行なわれている「マリー・アントワネットと東洋の貴婦人−キリスト教文化をつうじた東西の出会い」の展示を見学し、夕食を共にしてお別れしました。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 17人(内、子供2人)
計: 31人(内、子供2人)

霊的講話の参列者数
男: 6人
女: 7人
計: 13人

晩課と東洋文庫ミュージアム展示会の参加者数
男: 5人
女: 3人
計: 8人


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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その4

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という文章を掲載しましたが、いくつかご質問をいただきました。それらにお答えしたいと思います。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【質問】
『第一バチカン公会議によれば、信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければなりません。これは特別教導権の行使です。』とありますが、第一バチカン公会議によれば何なのかを分かりやすく説明して下さい。これでは『第一バチカン公会議によれば、. . . を命じなければならない』と読めてしまい、意味が良く分かりません。

【お返事】
大変失礼しました。これは「第一バチカン公会議によれば、"信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければ、私たちの信仰箇条とはなりません。" これは特別教導権の行使です。」と「私たちの信仰箇条とは」を挿入してお読みください。


【質問】
第一バチカン公会議のどの宣言/教令によると、その主張通りになるのか、その典拠をはっきり提示して下さい。それはどこでしょうか?

【お返事】
教皇の特別教導権の行使については、第1バチカン公会議 第4総会(1870年7月18日)キリストの教会に関する第1教義憲章「Pastor aeternus」第4章 教皇の不可謬教導職について DS 3070 以下をご覧ください。これについては、「マニラの eそよ風」236号にも引用したことがあります。ご覧くだされば幸いです。


【質問】
教皇のペルソナとその役職とを区別したカトリック神学は、どこで読む事が出来ますか?

【お返事】
私の理解が正しければ、たとえばカイェタヌスがそれを主張しています。
Persona papæ potest renuere subesse officio papæ. ... Et si hoc in animo pertinaciter gereret, esset schismaticus per separatio- nem sui ab unitate capitis. Ligatur siquidem, persona sua, legibus officii sui quoad Deum. (in 2a 2ae, q39, al, n6)

カイェタヌスをジュルネ枢機卿が "L'Eglise du verbe incarné: Sa structure interne et son unité catholique" の中で引用しています。

これについては、以前「離教にあらず、破門にあらず」で言及したことがあります。ご覧くだされば幸いです。


【質問】
教皇はいつ不可謬なのですか?

【お返事】
教皇は、教皇座から(ex cathedra)発言するときに不可謬です。つまり、諸民族の最高の教師として、教皇がある真理を全ての信者らが必ず信じなければならないドグマとして宣言するときです。この場合、教皇が誤ることがないように、聖霊の補佐が教皇に約束されています。神学者たちは共通意見として、この他の幾つかの場合にも教皇に不可謬の特権を帰属しています。例えば、列聖の時(少なくとも1983年以前の列聖について)、或いは、教会の普遍的律法において、或いは、教皇が自分の全ての前任者たちの教えを繰り返すとき、などです。
(この質問と答とは五年前に「【質問】教会において誰が権威を持って教える権能を持つのか?教会の教導権は不可謬か?」というタイトルで書かれたものです。ご覧くだされば幸いです。)


【質問】
何故1983年以後の列聖については、不可謬とは限らないのですか?

【お返事】
何故なら、ヨハネ・パウロ二世以降の教皇たちが、歴代の教皇たちと同じ意味において「列聖」するという意図があるのか大きな疑問があるからです。何故なら、ヨハネ・パウロ二世以降の教皇たちが、今も昔もそして未来も変わらない真理という概念を持っているのか疑問があるからです。たとえば「教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できない」という点です。
さらに、列聖をするときに不可謬権を行使すると考えられているのは、カトリック教会のドグマではなく神学者たちの共通意見だからです。


【質問】
 教皇はどうやってこの強制の意志を表明するのですか?

【お返事】
 教皇は、全教会において、ある一つの教義を義務として強制しようとする意志を、これを拒否する人間はカトリック信仰をもはや持ってはいない、従って、拒否する人は教会の外にある(排斥される)と明確に宣言して、明らかに表明しなければなりません。


【質問】
教皇がどの位の教導権を行使しているかを客観的に判断する権限は聖ピオ十世会にあるのでしょうか?それともカトリック信徒一人一人にあるのでしょうか?

【お返事】
教導権をどれほど行使しているかを客観的に判断するのは、一般的な規則によれば、教皇や公会議の公文書に書かれている表現それ自体にあり、これによって「不可謬権を行使して信じることを強制している」ということが誰が見てもわかるように、客観的に判断されます。
ただし、教皇や公会議の文章が明確に強制してるように思えても、そうでないと判断する場合には、私の考えでは、その最終の判断の権限はカトリック教会の最高の教導権にあります。


【質問】
教導権をどれほど行使しているかを客観的に判断するのは、一般的な規則によれば、教皇や公会議の公文書に書かれている表現にあるとはどういう意味ですか?

【お返事】
明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきものとして定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義することになる、ということです。
取り扱われている題材と表現方法から、教導権をどれほど行使しているか、神学的解釈の法則に従って知ることができる、ということです。たとえば、公会議についていえば、公会議の公文書の全ての内容が不可謬性を帯びているのではなく、そのうちの canon と呼ばれる排斥文のみが不可謬です。たとえば「もしも誰かが××と言ったら、彼は排斥される」という表現の文章です。これのみが不可謬です。
教皇の回勅などについて言えば、回勅・勅令で、特別教導権を行使してドグマの決定をしたとき、その決定の回勅に書かれていること全てが不可謬ではなく、そのうちの一部「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、○○がドグマであると宣言し定義し決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを否定するなら、彼は排斥される」などが、不可謬です。


【質問】
教皇や公会議の文章が明確に強制してるように思えても、そうでないと判断する場合には、その最終の判断の権限はカトリック教会の最高の教導権にあるとはどういうことですか?

【お返事】
教皇や公会議の文章が明確に不可謬権を行使していると考えられた文章があっても、それが不可謬ではないと発表がなされることがある、ということです。
たとえば、ヨハネ・パウロ二世の回勅 Ordinatio Sacerdotalis で女性が司祭になることができないという発言がありました。回勅が出た直後は、その表現からこれは不可謬であると考えられていました。何故なら次のような表現があったからです。
"Wherefore, in order that all doubt may be removed regarding a matter of great importance, a matter which pertains to the Church's divine constitution itself, in virtue of my ministry of confirming the brethren (cf. Lk 22:32) I declare that the Church has no authority whatsoever to confer priestly ordination on women and that this judgment is to be definitively held by all the Church's faithful."
これが不可謬であると主張したものには、たとえばORDINATIO SACERDOTALIS: AN EXERCISE OF INFALLIBILITYがあります。
 しかし、後日、教義聖省長官のラッツィンガー枢機卿によってこれ(Ordinatio Sacerdotalisのこの部分)は不可謬権の行使ではないと発表があったからです。


【質問】
教導権の行使の程度の違いについて言及する権威ある文書を教えて頂けますか?

【お返事】
 『教導権の行使・投入の程度/度合い』という表現・言い方は、日本語の読者に理解しやすいように自分の言葉で説明したもので、必ずしも過去の神学者たちの使ったラテン語からの翻訳ではありません。しかし、言い方はそうではないかもしれませんが、内容は古典的な教えです。
 教導権の行使の程度の結果は、「教義の神学的資格」(Theological Notes / Qualifications)として現れます。

 たとえば、聖ピオ五世のクォー・プリームムのように、聖伝のミサを「自由に合法的に使用する事が可能であり、適法であるように、使徒継承の権威を以って、しかも永久のこの〔文面〕を以って、承認し、認可する。」「故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」などという表現を見るとき、パウロ六世のつかった新しいミサ発布の時の表現との違いに、従って教導権の行使の程度の違いがあることがわかります。
(聖ピオ五世のクォー・プリームムの教導権の行使の程度については「クォー・プリームムの法的適応範囲は一体どこまでなのか」において考察したことがあります。ご覧くだされば幸いです。)



【質問】
 1950年11月1日、ピオ十二世教皇は、どのようにして、天主の御母聖マリアの被昇天のドグマの定義決定の時、強制の意図を表明したのですか。

【答え】
 ピオ十二世は、使徒憲章『ムニフィチェンティッシムス・デウス』(MUNIFICENTISSIMUS DEUS)において次のように宣言して、このドグマを強制しました。

「私たちの主イエズス・キリストの権威と使徒聖ペトロとパウロの権威、また私の固有の権威により、私は、天主の汚れなき御母終生童貞聖マリアがその地上での生涯を終えたのし、肉体と霊魂とにおいて天上の栄光に上げられたということが、天主から啓示されたドグマであると宣言し定義決定する。従って、もしも誰かが、敢えて私の定義したことを故意に疑うとしたら、願わくは天主がそれを赦し給わぬことを!彼は天主よりのカトリック信仰を完全に棄てた者であるということを知るように。」


【質問】
[Indefectiblity]の意味は『不滅』だけでしょうか?

【お返事】
Indefectibilityの意味は、聖ピオ十世の公教要理にある通りです。キリストの教会が破壊され得ないということは、もちろん信仰や道徳が純粋に保たれるということもありますが、信仰という目に見えないものを超えて、ペトロの上に立てられた目に見える社会的制度として、使徒継承の位階制度が世の終わりまで保たれるということも含みます。

CATHOLIC ENCYCLOPEDIA の the Church の項には Indefectibility of the Church について言及があります。ご覧くだされば幸いです。少し引用します。

By this term [of indefectibility] is signified, not merely that the Church will persist to the end of time, but further, that it will preserve unimpaired its essential characteristics. The Church can never undergo any constitutional change which will make it, as a social organism, something different from what it was originally. It can never become corrupt in faith or in morals; nor can it ever lose the Apostolic hierarchy, or the sacraments through which Christ communicates grace to men. The gift of indefectibility is expressly promised to the Church by Christ, in the words in which He declares that the gates of hell shall not prevail against it. [...]


(続く)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの霊魂の美しさ

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十 二 日 聖マリアの霊魂の美しさ

   汝は悉(ことごと)く麗(うるわ)しくして、少しの汚(けが)れもなし。  (雅歌四。七)

 聖マリアは原罪(げんざい)も自罪(じざい)も、凡(およ)そ罪の汚(けが)れというものを少しも知らぬ清浄(しょうじょう)潔白(けっぱく)な御方であった。右の言葉は実にその御霊魂(ごれいこん)の、清き美しさを讃美(さんび)したもので、その中(うち)、始め「汝は悉(ことごと)く麗(うるわ)しくして」とは、聖母が原罪(げんざい)の汚(けが)れなくやどり給うた事を指(さ)し、後の「少しの汚(けが)れもなし」とは聖母がその御生涯(ごしょうがい)に一つの自罪(じざい)も犯(おか)し給わなかった事を示している。
 無原罪(むげんざい)は総(すべ)ての人類のうち唯(ただ)聖母にのみ与えられた特別のお恵みであるがその自罪に汚されぬ清い御生涯は、聖母が天主の御聖寵(ごせいちょう)を、些(いささ)かも無(む)にせずしてよく用(もち)いられた結果である。
 ああ、原罪なき聖母の御霊魂の美しさはどうであろう! 玲瓏(れいろう)として少しの曇りもないこの宝玉(たま)は、天主の御光(おんひかり)、成(せい)聖(せい)の聖寵(せいちょう)に照り映(は)えて、日光を反射するダイヤモンドよりも燦然(さんぜん)と、五彩(ごさい)の文(あや)に照り輝いているのである。それを目のあたりに見えたならば、誰しも「汝は悉(ことごと)く麗(うるわ)し!」と感嘆(かんたん)の叫びを上げずにはいられぬであろう。
 エワの霊魂も創(つく)られた時は悉(ことごと)く麗(うるわ)しかった。けれども原罪を犯(おか)してその貴重(きちょう)な玉に大いなる瑕(きず)をつけ、我等の汚(けが)れの母となった。
 これに反して聖母はその麗(うるわ)しさを全(まつと)うして、我等の救いの母、清めの母、人類の超自然的生命の母になり給うたのである。
 聖マリアは何(なに)故(ゆえ)に原罪を免(まぬ)れ給うたのであろうか? それはその御胎(ごたい)より生まれ給うた救い主イエズス・キリストの御功徳(おんくどく)によるのであった。我等も原罪(げんざい)の汚(けが)れこそ受けて生まれるものゝ、洗礼に依(よ)って総(すべ)ての罪を赦(ゆる)され、天主の愛子(あいし)となり、三位(さんみ)一体(いったい)の特別な映像(えいぞう)を霊魂に宿(やど)し、信望(しんぼう)愛によって聖霊の神殿(しんでん)となる幸福を得(え)たが、これまた偏(ひとえ)に救い主の御功徳の御陰(おかげ)で、我等の功(いさをし)によるのではない。されば我等はその御恵を感謝すると共に、与えられた聖寵(せいちょう)を守り、徳の芽を伸ばし、花を咲かせ、善(よ)き実(み)を結(むす)ぶ義務があるのである。
 この点に於(お)いて聖マリアほど優(すぐ)れた模範(もはん)は他(ほか)にあるまい。聖母は悉(ことごと)く麗(うるわ)しくましました為に、聖寵(せいちょう)にもたぐいなく富(と)ませ給うたけれど、しかしそれを些(いささ)かも無(む)にせず、一心(いっしん)に励(はげ)み給わなかったならば、謙遜(けんそん)、従順(じゅうじゅん)、忍耐(にんたい)など、あらゆる徳の花を、あれほど美しく、咲かせ給う事は出来なかったであろう。
 実にその御生涯(ごしょうがい)は、御告(おつ)げを受けられた時から、十字架上の主の御死去、御自分の御死去に至るまで、何人(なにびと)にも見られぬ程の苦痛の連続であったが、聖母はそれを悉(ことごと)く天主の聖(み)旨(むね)の儘(まま)に耐(た)え忍(しの)び、豊(ゆた)かな功(いさおし)を積まれた。されば 
その此の世を去られるのと、天国に入り給うのと同時であったのはもとより当然な事である。
 けれども我等は聖母と大いに異(こと)なっている。例え洗礼に罪を赦(ゆる)されても悪(あく)慾(よく)その他の欠点がなお残っている為に、過失(あやまち)に陥(おちい)りやすい者である。
 自分が熱心に行った筈の善行(ぜんこう)中(ちゅう)にさえ、幾多(いくた)不純(ふじゅん)な気持ちを発見するではないか。故(ゆえ)に大抵(たいてい)はその過失(あやまち)の償(つぐな)いを果(は)たし、欠点を鍛(きた)え直し、不純(ふじゅん)な点を清められる為に、煉獄(れんごく)は免(まぬが)れ難(がた)い所であろうが、聖母の示し給うた模範(もはん)に倣(なら)い、日々(ひび)心を励(はげ)まして、天主及び他人に対する愛(あい)徳(とく)を守り、己(おのれ)を全(まった)く主の御手(みて)に委(ゆだ)ねるならば、永遠の幸福を恵まれる日も、必ず早められるに相違ないのである。

   祈   願

 ああ、原罪(げんざい)の汚(けが)れなき至(し)聖(せい)なる御母(おんはは)聖マリアよ、我等は御身の天主より恵まれ給いし豊かなる御聖寵(ごせいちょう)を喜び、主を讃美(さんび)し奉る。
何卒(なにとぞ)、我等をも総(すべ)ての汚(けが)れより潔(きよ)め、以(もっ)て御子(おんこ)に相応(ふさわ)しき住(す)み家(か)となし給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの御幼年時代

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十 三 日 聖マリアの御幼年時代

女の中にて我が友あるは、茨(いばら)の中に白百合の有るが如し。 (雅歌二。二)

 これは幼き聖マリアを褒(ほ)め称(たた)えた言葉である。聖マリアは天主に永遠の昔より選ばれ、その御独子(おんひとりご)を宿(やど)し奉る大任(たいにん)を授けられた御方(おかた)である。
 楽園にて人(ひと)祖(そ)に救いを約束せられて以来、四千年の永い間、待ち望(のぞ)まれた救い主の御母である。されば夙(つと)に御幼少の頃から、その麗(うるわ)しい数々の御性質を以て、御父聖ヨアキム、御母聖アンナの歓喜(よろこび)のもと、幸福の種であった事は想像するに難(かた)くない。
 然しこの歓喜(よろこび)、この幸福はまだその御一家の内に限られていたのであって、他の人々は昔からの御約束が、今ここに成就(じょうじゅ)され、やがてその幼児(おさなご)によって全世界に驚くべき変化の起こる事などは少しも知らなかったのである。
 唯(ただ)、天使達だけはそれを知っていたので、後に元后(げんこう)と立てられるべきこの姫君の御誕生を喜び、天主にそのお恵みを深く感謝した。中にも大天使ガブリエルの如きは、喜び勇んで既にお告(つ)げの言葉までも考え廻(めぐ)らされた事であろう。
 叉、天主も、罪悪に溺(おぼ)れている人類の中に、この清き御一家をみそなわしては、どれほどの御喜悦(おんよろこび)を以て(もって)御祝福を下し給うたか知れぬのである。我等も聖母の御誕生を、その御両親や天使達と共に、喜び讃(たた)え,主に感謝し奉ろう。
 然し聖ヨアキムと聖アンナは、愛らしい御子をこの上なく愛しみまれたがその後日の痛々しい御悲(おかな)しみなど、夢にも御存知なかった。けれども我々はそれを知っている。叉その御悲しみがなかったならば、我等の救われなかった事も知っている。故(ゆえ)に我等は唯(ただ)その御誕生を喜ぶばかりでなく、この機会に聖母の御恩を深く肝(きも)に銘(めい)ぜねばならぬ。
 さて聖マリアは、まだ御口もまわらぬ頃からその愛らしい御挙動に依って、無言の教訓を垂(た)れ給うた。この聖(とうと)き幼児(おさなご)を見れば、我等の霊魂(れいこん)も天に向かい、天主に対し幼児(おさなご)の如き信頼の心を抱(いだ)かずにはいられない。
 なお、この姫君はまだ世間には知られない者であったが、天に於いては既に認められておいでになった。聖パウロの言(げん)に「我等の国籍は天にあり」とあるが、我等も聖マリアの如く、世間に認められるよりは天に認められるように心がけ、肉身は地上にあっても霊魂は常に天を仰がねばならぬ。即ち、超自然的(ちょうしぜんてき)生活をせねばならぬのである。
 超自然的生活にも快楽(たのしみ)がある。嘗(かつ)てフランシスコ会の或る修道士が「天主は人間が罪を犯(おか)したにより、之を楽園から追い出し給うたが、なお自然の慰安(なぐさめ)と して、美しい星、麗(うるわ)しい花、愛らしい幼児(おさなご)のまなざし、この三つのものを残し給うた」と云った事があるが、幼き聖マリアはこの三つのものを御自分に備えておいでになった。何となれば、天性の無邪気(むじゃき)さを示す愛らしい御まなざしは云うまでもないが、その清らかな聖心(みこころ)は、楽園からこの茨(いばら)の世に移し植えられた白百合(しらゆり)の如く、またその御愛(おんあい)と御恵みは、暗き世を照らす「海の星」の名に背(そむ)かぬからである。
 先に修道士が語った三つのものは、唯(ただ)、自然の快楽(たのしみ)を与えるに過ぎぬが、聖マリアに至っては実に超自然の快楽(たのしみ)のもとである。聖母の御跡(みあと)に従(したが)って生活する者は、天主の愛を深く身に感じ、その子とせられた事を歓(よろこ)ぶ信仰の楽しみ、救い主イエズスが我等に再び恢復(くわいふく)し給うた天国の幸福を期待する希望(のぞみ)の楽しみ、叉、聖霊(せいれい)より賜(たまわ)る聖寵(せいちょう)を用(もち)いて天主の御旨(みむね)を行う愛の楽しみを味わう事が出来る。これらの超自然的快楽(たのしみ)は、自然的快楽(たのしみ)のように強く感じられぬかも知れぬが、最も高尚(こうしょう)にして確(たし)かな快楽(たのしみ)である。

   祈   願

 海の星なる聖マリアよ、我等は真心より御身を愛せんと欲(ほっ)し,叉、他人にも勧(すす)めて御身を切(せつ)に愛せしめんと努(つと)め奉る。
何卒(なにとぞ)、我等をして益々(ますます)天主を慕(した)い奉り、清き楽しみを求めて日々主の聖(み)旨(むね)を行(おこな)わしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:エルサレムの神殿に於ける聖マリア

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十 四 日 エルサレムの神殿に於ける聖マリア

天主の家にて天主に仕(つか)えしなり。  (集会書二四。一四)

これは聖マリアの御年十五歳の頃までの御生活を云いあらわした言葉である此処(ここ)に天主の家と云うのは、勿論(もちろん)エルザレムの聖(せい)殿(でん)であるが、そこに数多(あまた)の少女達が預(あず)けられ育てられて、天主に奉仕するのは、古来(こらい)イスラエルの習慣(しゅうかん)であった。
 聖マリアも三歳の時、此の神殿に於(お)いて天主に献(ささ)げられ給うた。これは誠(まこと)に意味深い事であったが、当時それと悟(さと)る者は恐らく一人(ひとり)もなかったであろう。
 聖マリアは他の少女達と同じく育てられて、祈り働き且(か)つ学(まな)び給うた。然し普通の人と異(こと)なり、救い主に関する予言が、間もなく成就(じょうじゅ)すると聞かれた時には深い喜びを覚えられ、目に救い主を仰ぎ、耳にそのお言葉を聞き、その御傍(おそば)近く仕(つか)え奉る事が出来れば無上の幸福とまで思われたという。
 もとより其の頃は、御自身が救い主の御母と選ばれ給うた事など少しも御存知なく、日毎、聖寵(せいちょう)と共に働き、その聖心(みこころ)を益々麗(うるわ)しき天主の御住居(おすまい)とせられつゝ、只、一心に救い主の御降誕(おこうたん)を待(ま)ち望(のぞ)んでおいでになったのである。
 かように聖マリアは知らず知らず立派な心の準備をされたのであるから、後に大天使ガブリエルが「めでたし、聖寵(せいちょう)充満(みちみ)てるマリア」と申し上げたのも尤(もっと)もな次第である。
 我等も洗礼を受けて成(せい)聖(せい)の聖寵(せいちょう)を蒙(こうむ)って以来、その霊魂(れいこん)は畏(かしこ)くも天主の御住居(おすまい)となった。それは聖パウロが「汝等はその身が神の聖(せい)殿(でん)なる事、叉、神の霊、汝(なんじ)等(ら)の中に住み給う事を知らざるか」と云われた通りである。
 然し我々は果たして洗礼や初(はつ)聖体を受けた当時の純潔(じゅんけつ)を、その儘(まま)、保(たも)っているであろうか?と云うのは、人は長(ちょう)ずるに従い悪(あく)慾(よく)が芽生(めば)え、それにつけ込んで悪魔(あくま)が心に忍び入り、遂に聖霊(せいれい)を追い出して己の住所(すみか)とする事が屡々(しばしば)あるからである。故(ゆえ)に我々は常に神の聖(せい)殿(でん)たる自覚(じかく)を失わず、反省の箒(ほうき)で心の塵(ちり)を掃(は)き清め、敬(けい)虔(けん)を以て主に仕え奉らねばならぬ。それと同時に、親たる人々の心がくべきは、愛するわが子の純潔(じゅんけつ)な魂の聖殿に、悪魔の忍び込まぬよう、よく注意警戒する事である。信者の子供は天主の為に、天国の為に育てる筈(はず)である。  
されば唯(ただ)、体育、知育(ちいく)を果たすを以て足(た)れりとせず、霊魂(れいこん)の教育を重(おも)んずるのが親たる者の第一の義務ではないか。
 その為には子供の愛に溺れず、その欠点を矯(た)め、その犠牲的精神を涵(やし)養(な)い、その意志を強固(きょうこ)に育(そだ)て上(あ)げねばならぬ。子供の教育に就いて何より安全な道は聖会の方針に従う事である。そうすれば聖会は自然の子を洗礼に依(よ)って天主の子とし、親と共に天国に導くであろう。
 但し親は子に対して善(よ)き模範(もはん)を示す為に、宗教の務(つと)めを率先(そっせん)してよく果たし、また天主の事を教え、祈りを習(なら)わせ、常に聖堂に伴(ともな)って行く事が必要である。もしこの実行を妨(さまた)げる様々の誘惑(いざない)が起こるようならば、篤(とく)と熟考(じゅっこう)して見なければならぬ。真実(しんじつ)に子を愛し、その真(まこと)の幸福を請(こ)い願う人なら、どんな支障(ししょう)にも打ち勝てる筈(はず)である。まして子を敬虔(けいけん)な人物に仕立てるのに、自分の時間を惜しむような私情(しじょう)に打ち負かされる事はあるまい。
 我等は少女時代の聖マリアに倣(なら)い、まづ己(おのれ)を天主の聖(せい)殿(でん)とする為に努(つと)めよう。そして自(みずか)ら範(はん)を示して子供をも善(ぜん)に導き、一家を挙(あ)げて天主の聖(せい)殿(でん)としよう。そうすれば聖マリアは喜んで我等と共に住み、豊かな御祝福(ごしゅくふく)を下し給うに相違(そうい)ないのである。

   祈   願

 あゝ聖マリアよ、御身が聖(せい)殿(でん)にて捧げ給いし熱心と愛とを、我等の心にも移し給え。我等は弱き者なれども、自(みずか)ら先(せん)達(だつ)となり、子供等を御身の許(もと)に導き、共に天主の聖(せい)殿(でん)たるに恥(はじ)ざる者となるよう力(ちから)を尽(つく)さんと決心し、その為、御身の御扶助(おんたすけ)を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

(天使祝詞 三度)




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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:童貞聖マリア

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十 五 日 童貞聖マリア

   我が姉妹、我が花嫁よ、汝は封じたる泉の如し。  (雅歌四。一二)

 この詩(うた)はもとより聖マリアを讃美(さんび)した言葉であるが、それにしても「封(ふう)じたる泉」とは、そもそも何を意味するのであろう。我等はこれから少しくそれに就いて黙想(もくそう)しよう。
 まず「封じたる泉(いずみ)」とは聖マリアの永遠の童貞(どうてい)を指(さ)すのである。封じたる泉は浮き世の塵(ちり)に汚(けが)される事がない。いつも水晶を溶(と)かしたように清冽(せいれつ)な水を湛(たた)えている。
その通り聖マリアの童貞も、御一生の間少しの汚れをも混(まじ)へぬ清浄(しょうじょう)なものであった。それは勿論(もちろん)聖母に与えられた聖寵(せいちょう)の豊(ゆた)かさにも依(よ)ろうが、叉、御自分が常に注意して外なる汚れた世間の事物に対し五官も心も封じられ、唯,内なる超自然界にのみ眼を向けられた結果であった。我等も貞潔(ていけつ)の徳を守ろうと思えば、この聖マリアに倣(なら)って己を「封じたる泉」とするより外(ほか)に道がない。
 次に「封じたる泉」とは聖マリアによる天主の御祝福、御恵を意味する。水は始め地下に溜(た)まり、次第に溢(あふ)れて地上に現れ泉となり、これより河川を発して到る所の田や畑を潤(うるお)すが、天主の約束し給うた御祝福も、聖マリアの御先祖方の犠牲や償(つぐな)いによって、漸次(ぜんじ)、豊かになったとは云え、それは恰(あたか)も地下水のように隠(かく)れたものであった。
ところが聖マリアの御徳によっては益々聖寵(せいちょう)充(み)ち溢(あふ)れ、ついに天主の御奇特(おきとく)によりその御独子(おんひとりご)の御母となられるに及んで、封じられた祝福の泉は始めて外に迸(ほとばし)り出(い)で、以来キリストの建て給うた教会を通じて絶えず四方に流れ、人々の霊魂をうるおす事になったのである。故に我等は日毎に主の御恵をかたじけなうしているにつけ、その源(みなもと)であった「封じたる泉」の聖母の御恩に感謝する所がなければならぬ。最後に「封じたる泉」とは聖マリアの御謙遜に名付けられた言葉とも解釈(かいしゃく)せられる。
謙遜(けんそん)の徳は自我(じが)の心を封じて己の栄を求めず、他に従順(じゅうじゅん)であるのが特色である。聖マリアは夙(つと)に童貞の願(がん)を立(たて)ておいでになった、されば突如(とつじょ)大天使ガブリエルが現れて、天主聖子(おんこ)の母となり給う由(よし)を告(つ)げた時には、一方ならず驚かれて「我が夫を知らざるに、如何にして此の事あるべき」と、問い返されたのも道理な次第であろう。
然しその懐胎(かいたい)が天主の全能によるもので、すこしも童貞を損(そこ)なう恐れのない事をお聞きになると一切の不安や私情を封(ふう)じて、天主の御光栄、人類の救霊の為、潔(いさぎよ)く御自分を聖(み)旨(むね)に委(まか)せ「我は主の婢(はしため)なり。仰せの如く我に成(な)れかし」 
とお答えになった。これは聖母の如く謙遜にして我意(がい)を封(ふう)ずる方でなくては到底出来ぬ事である。
 しかも聖マリアの謙遜(けんそん)は唯(ただ)それだけに止(とど)まらなかった。普通の人なら救い主の母になると知れば、その栄誉(ほまれ)を得々(とくとく)と吹聴(ふいちょう)せずには居られない。
 更に「汝の魂も剱(つるぎ)にて刺(さ)し貫(つらぬ)かるべし」という恐ろしいシメオンの予言を聞き、また実際にその通りの苦痛を味わったら、悲愁(かなしみ)のあまり他人に嘆(なげ)かずには居られまい。けれども聖母は栄誉(ほまれ)も悲愁(うれい)も一切(いっさい)を我が胸に封(ふう)じて、何人にも、浄配(じょうはい)の聖ヨゼフにも語(かた)らず、唯、従順(じゅうじゅん)に天主の御摂理(おせつり)に任(まか)せ給うた。これが真(まこと)の謙遜(けんそん)でなくて何であろう。
天主聖子(おんこ)が聖マリアの御胎(ごたい)に肉(ひと)となり給うという、驚天(きょうてん)動地(どうち)の出来事が成就(じょうじゅ)され、従って救(きゅう)霊(れい)の大事業も完成されるに至ったのは、全(まった)く聖母のかような御謙遜(ごけんそん)によるのである。
 我等もキリストを我が胸に宿(やど)そうと望(のぞ)むならば、聖母の如く謙遜に、己(おのれ)を抑(おさ)えて「封じたる泉」とならねばならぬ。そして我意(がい)を封(ふう)ずれば封ずるほど、内なるイエズスの御意志(みこころ)は明らかになり、聖寵(せいちょう)は滾々(こんこん)と泉のように湧(わ)くのである。
真(しん)の謙遜(けんそん)、即ち我を封ずる事と、聖寵(せいちょう)によって聖(み)旨(むね)に従う事、これより完(かん)徳(とく)に達する道はない。聖人方はいづれもこの事をよく心得て実行された。
されば我等も「封(ふう)じたる泉(いずみ)」の聖マリアに謙遜(けんそん)を学(まな)び、己(おのれ)の為を計(はか)らず、唯(ただ)、天主の御光栄(みさかえ)のみを目的として善(ぜん)を行うように努(つと)めよう。

   祈   願

 あゝ、謙遜(けんそん)の鑑(かがみ)なる聖マリアよ、我等は御身(おんみ)の御跡(おんあと)を慕(した)い奉らんと深く望(のぞ)み、今日新(あら)たに我が身も我が霊(たま)も御身に捧げ、清き聖心(みこころ)の中に隠(かく)れて、ひたすら御子イエズスの御光栄(みさかえ)の為にのみすべてを行(おこな)わんと決心し、それに要する御聖寵(ごせいちょう)を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの天主に対する信頼

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十 六 日 聖マリアの天主に対する信頼

  ビドの裔(こ)ヨゼフよ、汝の妻マリアを納(い)るゝ事を  (マテオ 一。二○)

 聖ヨゼフは許嫁(いいなずけ)の妻、聖マリアが、まだ同居前に懐胎(かいたい)された事を知って非常に心を痛められた。それに対し聖マリアは、事情を充分に打ち明けられたら、その疑惑(うたがい)をお解(と)きになる事も容易(たやす)かったであろうが、例の御謙遜(ごけんそん)から一切(いっさい)を天主の御摂理(ごせつり)に委(まか)せて、何事も仰せられなかったのである。
 然しこれ程、厚い聖母の御信頼を、天主が無にし給う筈(はず)はない。間もなく天使を遣(つか)わして聖ヨゼフに救い主の御(おん)やどりを明(あ)かし「汝、其の名をイエズスと名づくべし。そは自(みずか)ら己(おのれ)が民を其の罪より救うべければなり」と告(つ)げしめ給うた此処(ここ)に注意すべきは、聖マリアには大天使ガブリエルを以て、イエズスの神性やその永遠の権威(けんい)までも示されたのに、聖ヨゼフには唯(ただ)その救い主にまします事のみを告(つ)げ、天主の御独子(おんひとりご)なる事は語られなかった点である。
 これは何(なに)故(ゆえ)かと云えば、聖ヨゼフはイエズスの御幼年時代より三十歳頃まで、即ち所謂(いわゆる)私生活時代の主を養い、護り、助ける為に選ばれた方であるから、その天主聖子(おんこ)なる事を知れば,恐懼(きょうく)のあまりなすべき所に迷う恐れがあったからである。
 なお、この機会に一言すれば、天主が聖マリアを聖ヨゼフの許嫁(いいなずけ)と定めてから御子をやどらせ給うたのは、聖母の名誉を保(たも)ち、その御身を聖ヨゼフに護(まも)らしめ給わうとの大御心(おおみこころ)から出たものであった。
 それはとにかく主の使いの御告(おんつ)げを聞いては聖ヨゼフも疑惑(うたがい)を解(と)かない訳にゆかぬ。間もなく聖(み)旨(むね)に従って聖マリアと結婚し、その後は熱心にまかせられた聖母(おんはは)聖子(おんこ)を保護する大任を全(まっと)うせられたのである。
 天主がかように種々(しゅじゅ)聖母の為に摂理(はから)はれたのは、一つには聖マリアの天主御父に対する厚い御信頼をみそなはした為である。それに反してユデア人達はもと天主の選民(せんみん)として、或はエジプト国王の虐待(ぎゃくたい)より救われ、或はシナイ山に於いて十(じゅう)誡(かい)を授(さず)けられ、或はアラビアの砂漠で四十年間マンナを与えられるなど、一方(ひとかた)ならぬ特別の御恵を蒙(こうむ)りながら、信頼の心が薄く,却(かえ)って救い主の御降臨(ごこうりん)を妨(さまた)げるような仕業(しわざ)のみ多かった為、天主は彼等を捨てて救いの外に置き、彼等の考えに相違して、その御独子(おんひとりご)を権力(けんりょく)も富(とみ)も名誉もない貧しき嬰(みどり)児(こ)として此の世に送り、その御成長も御生活も全(まった)く普通の人の通りに計(はか)らい給うた。
 この天主の御摂理(ごせつり)は、実に聖パウロが「ああ天主の判決の悟(さと)り難(かた)さよ、其の道の極(きわ)め難(かた)さよ」と叫んでいる如く、玄妙(げんみょう)にして只々(ただただ)感嘆(かんたん)の外(ほか)はない。されば我等は聖母の信頼とユデア人の不信仰、及びその結果に鑑(かんが)みて、天主に対する信頼を増し、一切(いっさい)をその御手(みて)に委(ゆだ)ね奉るよう努めねばならぬ。それは単に自分に得心(とくしん)の行く場合ばかりではない。
 例えば現世(このよ)で悪人が栄えて善人が衰(おとろ)えるなど、我等の心に深い御摂理の悟(さと)り得ぬ場合にも、なお主の御教(みおし)えの永遠の賞罰(しょうばつ)を堅(かた)く信じ幼子(おさなご)のような心でお委(まか)せするのである。
 この信頼は天国への道、救(たす)霊(かり)の道として最も容易(たやす)いものと云えよう。そして聖母は即ちその道を進み給うた大先(だいせん)達(だつ)であった。
 我等も心してその御跡(みあと)を慕(した)い奉るならば、必ず聖マリアの在(いま)し給う御国(みくに)に到る事は疑いないのである。

   祈   願

 あゝ、我等に天国への近道を示し給いし聖マリアよ、主が我等の意(こころ)に反する境遇(きょうぐう)、病気、災難、霊(れい)の悶(もだ)え等を与え給う時、更に強き信頼と愛とを以て、己を全く天主の御手(みて)に委(ゆだ)ね奉る力(ちから)を得(え)せしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。

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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの御訪問

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十 七 日 聖マリアの御訪問

  我(われ)何によりて我が主の母の来臨(らいりん)を忝(かたじけな)うしたるぞ。  (ルカ一。 四三)

 聖マリアが大天使の御告(おつ)げを受けさせられた頃、その親戚(しんせき)の聖エリザベトという婦人は老年ながら懐胎(かいたい)して、早(はや)六月目であった。聖母はその由(よし)をお聞きになって、祝い旁々(かたがた)見舞の為、山地のヘブロンという町にあるその家まで、嶮(けわ)しい坂道も厭(いと)わず遙々(はるばる)訪ねておいでになった。そしてエリザベトに逢(あ)い挨拶をお述べになると、その子は喜んで胎内(たいない)に躍(おど)り、エリザベトもまた聖霊(せいれい)に満(み)たされ聖マリアが救い主の母となるべき事を悟(さと)って思わず「我(われ)何によりて我が主の母の来臨(らいりん)を忝(かたじけな)のうしたるぞ!」と歓喜(かんき)の叫びを挙(あ)げたのである。
 これは実に聖母のたぐいなき聖(とうと)い位(くらい)を証明する言葉であった。その中の主とは云うまでもなく、まだ誕生し給わぬ天主聖子(おんこ)、我等の主イエズス・キリストを指(さ)して申し上げたものである。故にエリザベトは聖マリアを天主の御母と呼び(よび)奉(たてま)ったに等(ひと)しい。
 しかして我が公教会に於いても早くから同様に認め、聖母に対し此の名称(なまえ)を用(もち)いたのである。ところが五世紀の頃聖マリアは決して天主の御母ではない。唯(ただ)、人たるキリストの母に過ぎぬと異説(いせつ)を唱(とな)える者が出た。然しこれは大いなる謬(あやま)りである。何となれば我等は霊魂(れいこん)と肉(にく)身(しん)とを合わせたもので、霊魂は直接(ちょくせつ)天主より与えられ、唯(ただ)、肉身だけ母より受けるにも拘(かか)わらず、それを我等の母と呼ぶではないか。そうすれば天主聖(おん)父(ちち)より遣(つか)わされて人性(じんせい)と合わせられた天主聖子(おんこ)に、人たる御肉身だけをお与えになった聖マリアを、天主の御母と呼び奉るに何の不思議もない筈(はず)である。
 あゝ、天主の聖母(おんはは)!何という聖(とうと)い御名(みな)であろう。凡(およ)そ被(ひ)造物(ぞうぶつ)としてこれほど高い地位はない。如何なる天使も大天使も、その能力に於いては聖マリアより遙(はる)かに優れているかも知れぬが、その位から測(はか)れば到底(とうてい)比較にならぬのである。そして聖母のこの地位は、かの大天使のお告(つ)げに「仰せの如く我になれかし」とお答えになった時に、永遠に定(さだ)まったのであった。
 さて孝行(こうこう)な子は己(おのれ)の事よりも母の事を重んじ、その名誉や恥辱(ちじょく)を我が身のそれにもまして、深く喜んだり悲(かな)しんだりするものである。衆人(しゅうじん)の模範(もはん)として世に降(くだ)り給うたイエズスは、もとより孝行の徳に於いても遙(はる)かに他に優(すぐ)れ給うた。しかるにその人一倍(ひといちばい)母(はは)思(おも)いの主に対して、私は主を尊敬するが、聖母は尊敬せぬと云う者があったとしたらどうであろう。其の人を嘉(よみ)し給うどころか、御自分に対する尊敬も真(まこと)の尊敬でないとして必ず御立腹(ごりっぷく)になるに相違(そうい)ない。されば我々はイエズスを愛する為にも、赤(まご)誠(ころ)を尽くして聖母を尊敬(そんけい)讃美(さんび)しよう。  
いかに尊敬讃美しても ― 諸天使諸聖人と心を合わせ、全世界の信者が一致(いっち)して崇(あが)め奉ったとしても、天主の御母たる聖マリアの高き御位に対しては、決してその崇敬(すうけい)が充分(じゅうぶん)と云う事はない。
 次に聖マリアの御訪問は聖エリザベトの家庭にとって大いなる祝福をもたらした。というのは、その時エリザベトの胎内(たいない)にいた幼子(おさなご)は後に主の御布教の準備工作をした洗者(せんじゃ)聖ヨハネであるが、聖母の御挨拶があったばかりで、その瞬間(しゅんかん)から原罪(げんざい)を免(ゆる)される御恵を受けたからである。
 そして聖母が,切に御訪問を待ち望(のぞ)む者を訪(おとず)れて、豊(ゆた)かな御祝福を下し給う事は、今もその時と更に変わりがないのである。
 また当時ナザレトからヘブロンまでは、遠く嶮(けわ)しい山道であったが、聖マリアは少しもお厭(いと)いなくエリザベトの見舞に行かれた。その聖母は今、我等を見舞われるにも、罪の石(いし)塊(ころ)、怠(おこた)りの雑草(ざっそう)、さては冷淡の茨(いばら)などに塞(ふさ)がれた、生来(うまれつき)悪に傾いている嶮(けわ)しい坂道をお通りにならねばならぬ。然しやはりその難儀(なんぎ)にも拘(かか)わらず、大いなる祝福を土産(みやげ)として、快(こころよ)く訪(おとず)れ給うのである。
 聖マリアが我等を御訪問になるのは、我等が御母に奉った僅(わず)かな祈祷(いのり)や尊敬(そんけい)などの功徳(くどく)によるのではない。聖母は唯、御子キリストの為に罪人(つみびと)なる我等を助け救(すく)おうとの思(おぼ)し召しからおいで下さるのである。故に我等は聖エリザベトの如く、深い謙遜(けんそん)を以て「我(われ)何によりて我が主の御母の来臨(らいりん)を忝(かたじけ)のうしたるぞ」と屡々(しばしば)心に感謝し、その御恩に報(むく)いる為に、機会(おり)があれば貧(まず)しき人々、病(や)める人々、不幸なる人々などを見舞い、彼等を慰めよう。そうすればかような訪問は常に我等に大いなる歓喜(かんき)と祝福とをもたらすに相違ない。

   祈   願

 あゝ、慈悲(いつくしみ)深き聖母よ、我等は今まで屡々(しばしば)この拙(つたな)き心に御訪問を忝(かたじけ)のうしたる事を深く感謝し奉る。
 今より後、御身より受けし恵により、御身の望み給う如く人々を助け導き、以て御身の愛に報(むく)いんと決心し、その実行を助け給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る

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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖マリアの信仰の幸福

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十 八 日 聖マリアの信仰の幸福

   福(さいわい)なるかな信ぜし者。     ( ルカ 一。四五 )

 これは聖母御訪問のみぎり,聖エリザベトがその童貞女の、天主の御母にならせ給うた事をお祝い申し上げた言葉であるが、実に真理(しんり)の言(げん)と云わざるをえない。ただに聖母のみならず、我等信者にとっても篤(あつ)い信仰の外(ほか)に、真(まこと)の幸福を与えるものはないのである。
 聖母の信仰は如何に深かったであろうか?大天使ガブリエルが、その救い主の御母になり給う由(よし)を告(つ)げた時、童貞なる聖マリアには、自然の道によらぬ其の御摂理(ごせつり)が、もとより会得(えとく)出来かねた。さればこそ「如何にして此の事あるべきや」と一応のお尋ねがあったのである。そして大天使の答えを聞かれた後も、聖(とうと)き天主の妙(みょう)理(り)はなお尽(ことごと)くは悟(さと)られなかった。けれども聖マリアは確(かた)く信じて少しも疑(うたが)わず、為に天主の御母たる高き聖(み)位(くらい)と、それに伴(ともな)う限りなき幸福(さいわい)を受け給うたのである。
 今天国に於いて明(あき)らかな天主の御光(みひかり)に照らされ給う聖母は、嘗(かつ)て地上で悟(さと)り得(え)ず、唯(ただ)、信ずるの外(ほか)なかったお告(つ)げの一切が、如何にその信仰の通り真実であったかをみそなわして、御自分の為、叉、人類の為、深い感謝と歓喜(かんき)の念に充(み)たされておいでになる事であろう。故(ゆえ)に我等も聖エリザベトと共に聖マリアに「福(さいわい)なる哉(かな)、信じ給いし御者(おんもの)、主より云われし事は悉(ことごと)く成就(じょうじゅ)したればなり」とお喜びを申し上げよう。それにつけても我等の信仰はどうであろう?我等も受洗(じゅせん)の時には小児のように素直(すなお)な信仰を以て、天主からの真理(しんり)と御恵(おんめぐ)みの宝を受けた。そして当時は輝かしい幸福が心に溢(あふ)れていたものである。けれどもその信仰は歳(とし)と共に確(かた)くなり、その幸福感は月と共に増したであろうか。否(いな)、却(かえ)って悪(あく)慾(よく)が起こり、種々の疑惑(うたがい)を生(しょう)じ、誘惑(いざない)に逢(あ)って動揺(どうよう)を来(き)たし、さもなければ、習慣的な冷淡(れいたん)に流れ、信仰の喜びを少しも感ぜぬ事さへ多いのである。
 かくの如く弛(ゆ)緩(る)んだ信仰生活を刷新(さっしん)し、再び活(い)き活(い)きした幸福を取り戻す為にはどうすればよいか。それには先ず自分の信仰を行為(おこない)に移し、善徳(ぜんとく)に励(はげ)む事を要する。何となれば、徳を実際に行うほど、信仰の幸福を味わはせてくれるものは他になく、世間の快楽(たのしみ)に溺(おぼ)れ、罪悪の裡(うち)にしずみながら、信仰の歓喜(よろこび)を味わうなどは、木によって魚(うお)を求めるより難(むずか)しいからである。これを喩(たと)えて見れば、高い山の頂から見晴らす景色の美しさは、登らぬ人でも信じているに相違ないが、本当にその景色の美しさを味わう事は実際にその絶頂(ぜっちょう)を究(きわ)めた人でなければ出来ない。しかもそれは初めに種々の困難を忍び、労を厭(いと)わず嶮(けわ)しい道を辿(たど)って後、初めて許される事である。同様に我等も先(ま)ず其の信仰に従い、浮世の苦しみを忍び、努力して徳を積もう。そうすれば人性の絶頂なる臨終(りんじゅう)に当たって、信仰の幸福を感じ、天国の麗(うるわ)しい眺めを楽しむ事が出来て、自分に対しても「幸いなる哉(かな)信ぜし者、主より云われし事は悉(ことごと)く成就(じょうじゅ)したればなり」と叫び得(え)るに相違ないのである。

   祈   願

 あゝ聖母よ、御身は常に信仰に活(い)き、総(すべ)て主の御旨(みむね)に叶(かな)わんと努(つと)め給えり。我等も御身の御亀鑑(みかがみ)に倣(なら)い、洗礼の時賜(たまわ)りし超(ちょう)自然の生命を益々健(すこ)やかに保(たも)ち、信仰生活をもって多くの功(いさおし)を積(つ)まんと決心し奉る。
何卒(なにとぞ)、我等の為に必要なる聖寵(せいちょう)を、聖子(おんこ)に求め給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母の御謙遜

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十 九 日 聖母の御謙遜

主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり。   (ルカ 一。四八)

 天主は救い主の御母たる高き御位(みくらい)に、身分高き貴婦人(きふじん)を選び給わず、却(かえ)って一(いち)労働者の許嫁(いいなずけ)なる至って身分低き聖マリアをお選びになった。これに就(つ)いての予言は、勿論(もちろん)早くからすべての律法(りっぽう)学士やフアリザイ人達の知る所であったが、実際に待望(たいぼう)の救い主がかように平凡な家庭から出(い)で給はうとは、彼等の夢にも思いがけなかった事であろう。
 然し天主は常に人の意表(いひょう)に出て、世間の富ある、名誉ある、権力(けんりょく)ある、傲慢(ごうまん)なる人々を用(もち)いずに、却(かえ)って、貧(まず)しき,賤(いや)しき、弱き、謙遜(けんそん)なる人々を使ってその思(おぼ)し召(め)しを実現し給うのである。従って、かようにして行われた大事業は、その人々の力(ちから)によるものでなく、天主の御力(おちから)によるものである事が容易(ようい)にさとられる。即ち人々は天主の道具に過ぎず、御(み)光(さ)栄(かえ)は当然天主に帰(き)すべきものである事がわかるのである。
 聖マリアはこの事を深く悟(さと)っておいでになった。されば聖エリザベトに讃美(さんび)された時、直(す)ぐにその讃美(さんび)を天主に帰(き)し「我が魂主を崇(あが)め奉り、我が精神救い主にてまします神によりて喜悦(よろこび)に堪(た)えず」と仰せられた。言い換(か)えれば御自分が救い主の母と選ばれ給うた事よりも、御自分を用いられて天主が救(すく)霊(い)の事業を起こし給う事を喜びとし、感謝せられたのである。之は己(おのれ)を空(むな)しうするもので、誠に謙遜(けんそん)の極地(きょくち)といってもよいではないか。
 更に聖マリアは御自分が他の婦人より天主の御母に選ばれ給うたのは御自分が他の総(すべ)ての婦人より賤(いや)しき為であると信じて居られた。故(ゆえ)に大天使に向かっても「我は主の婢(つかひめ)なり」と答え、聖エリザベトに対しても「主は御召使(おんめしつか)いの賤(いや)しきを顧(かえり)み給いたればなり」と仰せになったのである。
 そして「蓋(けだ)し見よ、今より萬代(よろずよ)までも人、我を幸いなる者と称(たた)えん」と予言された際にも、御自分に就いては少しも誇る色なく、ひたすらかくはかられ給いし天主の御善徳(ごぜんとく)を讃美(さんび)し給うたのであった。その御謙遜(ごけんそん)は実に何と称(たた)えたらよいであろう!
 かゝる聖母を尊敬(そんけい)し、その大いなる幸(さいわい)を祝(ことほ)ぎ奉(まつ)る為には、我等も先ずその深い御謙遜(ごけんそん)に倣(なら)わねばならぬ。謙遜(けんそん)の心なき者がいかに聖マリアを尊敬(そんけい)すると云っても、天主はそれを嘉(よみ)し給わぬに相違ない。
 されば聖人方は皆謙遜(けんそん)の徳を何よりも好(この)み、一切(いっさい)の働きも功(いさおし)も、その徳その奇蹟(きせき)も悉(ことごと)く天主の御光栄(みさかえ)として献(ささ)げ尽(つ)くし、自(みずか)らは少しも誇(ほこ)る事がなかった。「我が神、我が総(すべ)て」という聖フランシスコの言葉は、そういう聖人方の心境(しんきょう)を 言いあらわしたものである。
それに反して罪多く善業(ぜんぎょう)少ない人々にとっては、謙遜(けんそん)は最(もっと)も難事(なんじ)である。かような人々は生来(せいらい)我意(がい)が強く、天主の御光栄(みさかえ)よりも己の栄誉を求めている。従(したが)って他人から軽蔑(けいべつ)や恥(ち)辱(じょく)を受ける事を非常に恐れ、忍耐や心の平安など少しもなく、些細(ささい)な事にも激(げき)し易(やす)い。叉己の功(いさおし)や犠牲は得々(とくとく)と数(かぞ)え立てるが、己の欠点や弱(じゃく)熱(ねつ)には更に留意(りゅうい)せぬ為、益々罪に陥(おちい)り易(やす)い危険がある。斯(か)かる誤りは勿論(もちろん)、謙遜(けんそん)の徳の不足に帰因(きいん)するもので、そういう人はどれほど天主を愛し奉る心があっても、自(おの)ずと自愛心に制(せい)せられて十字架を好(この)まず、いかに聖母を尊敬(そんけい)しても、その御跡(みあと)に倣(なら)って謙遜(けんそん)の徳を求めようとはせぬ。我々はよくよく己を反省して、もっと謙遜(けんそん)を修(おさ)めるように心がけよう。
 何となれば謙(へり)遜(くだ)る人は現世(このよ)では既(すで)に天主の御祝福を受けて、心の平安と楽しさを味(あじ)わい、來(のちの)世(よ)では天国の福(ふく)楽(らく)を蒙(こうむ)る事は疑(うたが)いないからである。

   祈   願

 あゝ謙遜(けんそん)の模範(もはん)なる御母(おんはは)聖マリアよ、子たる我等にも御身の御謙遜(ごけんそん)を伝え給え。謙遜(けんそん)は御身にあやかる最(もっと)も近き道なれば、天主が御身の謙遜(けんそん)をみそなはして御独子(おんひとりご)の御(み)母(はは)たる高き御位(みくらい)を与え給いし如く、我等の賤(いや)しきを顧(かえり)み給いて、それに相応(ふさわ)しき徳を恵み給うよう、御伝達(おんとりつぎ)の程を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その5

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、「キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という文章を掲載しましたが、いくつかご質問をいただきました。それらに対するお答えの続きです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【質問】
司教は、異端者になることが出来るのでしょうか?


【お返事】
 司教は、異端者になることが出来るか否かについて答える前に、質問の意味を明確にしておきます。「異端者」には、二種類があります。一つは、本当の(formal)異端者で、異端説であると知りつつも故意に意図的に教会の教導権の教えを拒む者です。もう一つは、内容はそうであるが形だけの(material)異端者で、そのつもりがなくあるいは善意で教会の教えがそうであると誤解していたがために異端説に陥っている異端者です。

 カトリック教会の歴史をひもとくと、残念ながら、内容それ自体は異端であるが、善意で教会の教えがそうであると誤解していたがために、形だけの(material)異端説に陥ってしまったのみか、何回かカトリック教会当局から公式の警告を受けても、それを改めようとせず、当の(formal)異端者であると見なされたケースがいくつかあります。

 たとえば、ネストリウスです。ネストリウスはコンスタンチノープルの総大司教でしたが、428年の4月に司教に聖別されましたが、同年のクリスマスの説教で、聖母マリアは天主の聖母ではないと宣言し、天主が肉体を持つなどあり得ない、人間イエズスが神性にふさわしい者となった、と言い、聖チェレスティノ教皇はすぐにこの教えを排斥しました。

 そこで、司教は、本当の意味の(formal)異端者となることができると答えなければなりません。

【質問】
異端者は有効に公教会を統治出来るのでしょうか?

【お返事】
 すでの指摘したとおり、「異端者」には、二種類があります。一つは、本当の(formal)異端者で、異端説であると知りつつも故意に意図的に教会の教導権の教えを拒む者です。もう一つは、形だけの(material)異端者で、善意で誤解していたがために異端説に陥っている異端者です。

 たとえば司教の場合、この司教よりも上位にある教会当局が公式に複数の警告を出し、その後でも異端説に固執する場合、本当の(formal)異端者となります。そして、教会当局からの正式な裁治権の剥奪が発表されなければなりません。それまでは、異端者となった司教は、教会を統治する権限を持っていると考えられています。司教の場合にはっきりと確認できることは、教会は公式の宣言を持って初めて司教の統治の力(裁治権)を剥奪するということです。


【質問】
教皇は、異端者になることが出来るのでしょうか?


【お返事】
 これは難しい問題です。何故なら、私たちの主イエズス・キリストが聖ペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたたちを、麦のようにふるいにかけることができたが、私は、あなたのために、信仰がなくならないようにと祈った」(ルカ22章)と言われたからです。イエズス・キリストの祈りは必ず聞き入れられるはずだからです。

 しかし歴史を見ると、二種類の「異端者」のうち、善意の、あるいは脅されたなどのために不本意で、異端説に荷担することが少数の例において認められます。何故なら、教皇リベリウスは個人的にアリウス説の異端におち、教皇ホノリウスはキリスト単一意志説(モノテリズム)の誤謬におちたと思われているからです。

 ここで、繰り返し注意を喚起すれば、教皇が教皇として異端者となったのではないということです。つまり、教皇が教皇としての教導権を行使しして、全教会にある異端説を信じることを強要したのではないということです。

 教皇リベリウス(351〜366年)は、コンスタンティノ大帝によって流罪にされました(355年)が、自由の身となるために、皇帝の要請した半アリウス派の信条に強要されて署名したからです。ただし、教皇は全教会の教導者として署名したのではありません。教皇にはこれを全教会に押しつける意向はありませんでした。

 教皇ホノリウス(625年〜638年)は、二通の手紙の中で、「キリストにはひとつの意志あるのみ」と宣言し、これ以上論争を継続することを禁止したことがあります。しかしコンスタンチノープル公会議(680年〜681年)は、教皇ホノリウスに異端宣言をしました。ただし、ホノリウスは手紙の中でこの問題の決定をする意図はないと述べ、信仰教義の決定をしたのではありませんでした。また、コンスタンチノーブル公会議の決議は、「教会の頭としての教皇」の教えが誤謬だといったのではありませんでした。教皇レオ二世がこの決議を裁可したのは、教皇ホノリウスが《異端説胎動のきざしがあったのに、これを抹殺するつとめ》をおろそかにしたからであるといっています。(これについては、シーアン司教『護教』(Apologetics and Catholic Doctrine by the Most Rev. M. Sheehan, 1942をご覧ください。)


【質問】
教皇は、公に(publicly)本当の(formal)異端者になることが出来るのでしょうか?

【お返事】
教皇が、公に(publicly)本当の(formal)異端者になる(従って信仰を失う)可能性については、純粋な仮説として考察した神学者たちがいます。特に、聖ロベルト・ベラルミンの仮説が有名ですが、しかし、聖ロベルト・ベラルミン自身「異端的教皇」という可能性については具体的に実現可能であるとは考えていたとは思われません。聖ベラルミンは、具体的に或る教皇が公に異端説に陥ることが出来、教会がどのように又、何時それに気がつくことができるかなどについては全く考察せずに、単に抽象的な神学上の意見としてその可能性を取り上げたに過ぎなかったからです。同じ聖ロベルト・ベラルミンはこの意見を取り上げると同時に、教皇は本当の異端に陥ることが決してできないという意見のほうがより蓋然性があるとしています。

 私たちの主イエズス・キリストの「私は、あなたのために、信仰がなくならないようにと祈った」(ルカ22章)と言われた約束は、教皇の教皇としての公の信仰がなくなることがないという最も根本的な原理です。教皇が、もしも間違うことがあったとしたら、それは個人としての資格でのみのことです。

 それが教皇であれ、誰であれ、本当に(formally)明らかに(notoriously)全教会の前で異端者となるためには、彼は異端であると正当な当局から宣言され、その警告にもかかわらず異端説に固執しなければなりません。しかし、教皇に対してそれをすることは実際上不可能です。何故なら、教皇が教会法に縛られないこと、また、教皇に誰によっても裁かれないこと(Prima Sedes a nemnine iudicetur.)、これらは教会法の根本的原理であるからです。

 従って、教皇は個人としては異端に陥ることがあり得ても、事実上、教皇としての教皇が本当の(formal)異端者となることは不可能であると思われます。


【質問】
異端者の教皇は有効に公教会を統治出来るのでしょうか?

【お返事】
 フランスの聖伝のドミニコ会発行のSel de la terre誌に掲載された研究によると、スアレス(Suarez)は神学者の共通意見によると異端者の教皇であっても教皇職を続けて行使することができると言っています。ビルアルト(Billuart)は、より共通の意見は異端者の教皇でも教皇職を続けて行使することができると主張しています。ビルアルトによると、教会によってはっきりと異端者であると宣言されるまで、明らかな異端者であったとしても教皇職を遂行する権限をキリストによって与えられている、と言います。(Billuart, De Fide, Diss. V, A. III, No 3, ofj. 2)また、ガリグ・ラグランジュ(Garrigou-Lagrange)は、ビルアルトの論に従い、異端者であり、教会の一員でなくなったとしても、教会のかしらであり得ると言います。(De Verbo Incarnato p. 232)これも、個人としての教皇と役職としての教皇とを区別することを基礎としています。

 筆者の個人的な意見としては、ビルアルトやガリグ・ラグランジュは正しいと思います。ユダヤ教は天主によって来たるべきメシアを告げ知らせるために立てられましたが、ユダヤ教の大司祭カイファは、私たちの主イエズス・キリストを信じようとせずかえって主を十字架に渡しました。それにも関わらずカイファは大司祭の地位を失わなかったからです。

「その中の一人で、その年大司祭だったカヤファが、「あなたたちには、何一つわかっていない。一人の人が人民のために死ぬことによって、全国民が亡びないほうが、あなたたちにとってためになることだとは考えないのか」といった。かれは、自分からこういったのではない。この年の大司祭だった彼は、イエズスがこの国民のために、また、ただこの国民のためだけではなく、散っている天主の子らを一つに集めるために死ぬはずだったことを預言したのである。イエズスを殺そうと決めたのは、この日からであった。」(ヨハネ11章)

 イエズス・キリストに対する信仰を持っていなかったにもかかわらず、私たちの主は、カヤファの大司祭としての権威を疑問に付したことがありませんでした。天主の許可によって、邪悪の神秘(mysterium inituitatis)は、正式な天主の大司祭、ユダヤ教の最高権威者としてのカヤファはイエズス・キリストを死刑と定め、イエズス・キリストに従う全ての人々を迫害したのです。聖パウロは、カヤファの後継者である大司祭アナニアに対して言った言葉をとがめられた時、パウロは彼が大司祭だとは知らなかったと言い、脱出の書 (22: 28) を引用して自分の過失を認めています。私がここで言いたいことは、天主は信仰の無い大司祭が、ご自分の民の宗教を有効に統治することを許していた、という事実です。


【質問】
教皇と教会が聖伝の教えに反する事を公布、あるいは宣言する事が可能だと神父様はお考えなのですか?

【お返事】
 まず、はっきり区別しておきますが、教皇が個人的に異端に陥る可能性があることと、教皇が教皇として異端を全教会に信じることを強制することとは別のことです。

 教皇は、個人的な立場で、聖伝の教えに反する事を発表することはできますが(過去にそのような例が少数ありました)、しかし、教皇として、最高の教導権を行使して、全カトリック教会に聖伝の教えに反する事を信じることを強制することは、天主の御摂理によって、できません。


【質問】
ヨハネ二十三世や、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世などは、聖伝の教えに反する事を公布、あるいは宣言したのではないでしょうか?

【お返事】
 ヨハネ二十三世や、パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世が行った行為を良く分析してみると、彼らは一度も不可謬権を行使して新しい教えや、聖伝の教えに反する教えを、全教会に信じるように法的に強制する表現を使ったことは一度もありませんでした(もしも、ヨハネ・パウロ二世の回勅 Ordinatio Sacerdotalis で女性が司祭になることができないということが不可謬権の行使でないとするなら)。

 第二バチカン公会議の革新を実践するという悪い模範や乱用はありましたが、それをしなければ救われない、カトリックではない、カトリック信仰ではない、という明らかな定義として発布したこともなければ強制したこともありませんでした。

 第二バチカン公会議の問題は、正に、教会の権威を行使することを避けたことにあります。
第二バチカン公会議の事務総長であるフェリチ枢機卿は、1964年11月16日第123回総会においてこう言っています。
「公会議の文章は公知の一般的な規則によって解釈されなければならない。」すなわち、
「公会議の慣習と本公会議の司牧的目的を鑑みて、この聖なる会議自身が明らかに信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきもの(tenenda)として定義するとみずから明らかに宣言するときにのみ、そう定義する。」
 そして、第二バチカン公会議は、「排斥文」をつけることを避け、信仰と道徳に関する事柄を教会によって保持されるべきものとして定義するとみずから明らかに宣言することをせずに、強制することを避けたのでした。
(これについては、【質問】第二バチカン公会議はどこが特別なのかをご覧ください。)

 同様のことは、新しいミサについても言えます。パウロ六世が1969年に発布した使徒憲章『ミサーレ・ロマーヌム』の最初に印刷されたラテン語原文には、新しいミサを許可することしか言及されていません。

(つづく)


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:養育者としての聖マリア

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二 十 日 養育者としての聖マリア

     イエズスは智慧(ちえ)も齢(よわい)も、神と人とに於(お)ける寵愛(ちょうあい)も、
    次第に弥増(いやま)し居(い)給(たま)えり。        (ルカ 二。 五二)

 これは少年イエズスの御成長の有様を述べた言葉である。一体天主は限りなきお方であるから、聖ヤコボが「神には変更なく回転の影なきなり」と云われた如く、その一切の御性質は常に完全無欠で、増す事も減(へ)る事も、進歩する事も退歩(たいほ)する事もない。唯、永遠より永遠に至るまで些(いささ)かの変化もなく、始終(しじゅう)同一に在(ましま)すが、その他の被造物(ひぞうぶつ)は悉(ことごと)く限りあるもの故、絶えず増減(ぞうげん)進退などの変化を行っているのである。さればイエズスも、天主第二位としては、もとより「回転の影」もないが、人としては矢張(やは)り生まれ、成長し、死する等の変化を受け、幼年期、少年期、青年期、壮年期等を経(へ)て、各時期の人々にそれぞれ模範(もはん)を残し給うたのである。
 聖マリアは幼きイエズスを、決して御自分の為、或は世間の為にはお育てにならなかった。常にひたすら天主の御光栄(みさかえ)と、世の救いと、十字架を目的とし、天主の母たる御自分の貴(とうと)さよりも、むしろ「我は主の婢(つかひめ)なり」との謙遜(けんそん)な御自覚と、犠牲的な母性愛とを以て聖子(おんこ)を養育されたのである。
 今、聖母が聖子(おんこ)に就いて如何なる事をなされたか、少しく黙想して見よう。先ずキリスト御降誕の際には、遠い他郷(たきょう)の、しかも貧しい洞穴(どうけつ)の中で、身を以て聖子(おんこ)を夜風の寒さからお護りになった。次に四十日目には一般ユデアの習慣(しゅうかん)に従って型の如く聖子(おんこ)を聖(せい)殿(でん)に献げ給い、再び御子に受取られたけれど、それは後日(ごじつ)世の救いの為に、最も残酷(ざんこく)な犠牲に献げる為であって、その折りその場に来あわせた老シメオンの「汝の霊魂も剱(つるぎ)にて刺(さ)し貫(つらぬ)かるべし」との預言は、聖子(おんこ)の御死去に至るまで絶(た)えず聖母の御心(みこころ)に響いていたのである。
 そして此の予言にある、霊魂の剱(つるぎ)で刺(さ)し貫(つらぬ)かれるような苦痛の最初は、聖子(おんこ)を悪虐(あくぎゃく)ヘロデの毒手(どくしゅ)から救わん為エジプトにお遁(のが)れになった時であった。途中の御困難は申すに及ばず、エジプトに於いて数年間慕(した)わしい天主の家を離れ、数多(あまた)の偶像(ぐうぞう)教(きょう)信者の中に、聖ヨゼフの御保護と御扶養(ごふよう)を受けつゝ過ごされたのは、どれほど心細(こころぼそ)い事であったか知れない。かように見来(みき)たれば聖母は聖子(おんこ)の為に常に犠牲を献(ささ)げ、尊(とうと)い母性愛と天主への謙遜(けんそん)な信頼を以て多くの艱難(かんなん)をお忍(しの)びになった事がわかる。
 然しかような聖マリアにも喜びが全(まった)くなかった訳ではない。外部的には貧窮(ひんきゅう)その他の苦しみに悩まされ給うたが、内部的には超自然の平和と喜びとを恵まれ給うたのである。そして幼子(おさなご)イエズスを抱(だ)き上げ、そのあどけなき御顔を眺め、誠心(まごころ)から愛し給う時、その聖(み)心(こころ)は全く天上の幸福に満(み)たされ、清い歓喜(よろこび)が渾々(こんこん)と湧(わ)くのであった それはとにかく、右に述べた聖母の御心(おんこころ)がけは、一般子女を養育する者の此の上もない模範(もはん)でなければならぬ。即ち我等は聖マリアに倣(なら)い、子供をわが為、又は世間の為にせず、天主の御光栄(みさかえ)の為に育てる事が大切である。余りに世間の目的の為に育てる時は、往々(おうおう)子供を滅亡(ほろび)に導く恐れがある。
そしてその養育に当たるには、矢張り聖母の如く天主に対する謙遜(けんそん)な信頼と、超自然的犠牲(ぎせい)愛(あい)とを以てする事が必要で、いやしくも子供の愛に溺(おぼ)れてその前途を誤る如き事があってはならぬ。故に我等は常によき御母たる聖マリアに祈って、正しき道を示して戴く為に、その御導きを願うべきである。そうすれば、我等の子女は善良に生(お)い立ち、我等の心にも天主よりの平安と歓喜(よろこび)とが溢(あふ)れることであろう。

   祈   願

 あゝ聖母よ、主の思(おぼ)し召しによりて我等に托(たく)せられたる子供を、日毎御心(みこころ)に叶(かな)う者とならしめ、熱心に主に仕え奉らしむるよう、御慈悲(おんいつくしみ)をもって養育者なる我の弱さを助け給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:聖母のイエズスに対する愛

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二 十 一 日 聖母のイエズスに対する愛

   子よ、何故(なぜ)我等にかゝる事を為(な)しゝぞ。     (ルカ 二。 四八)

 イエズスが十二歳になられた時の事である。聖ヨゼフ、聖マリアは過ぎ越(こ)しの祝日に聖(おん)子(こ)をつれてエルザレムの神殿に参拝されたが、帰途彼を見失い、非常に心痛(しんつう)して諸所(しょしょ)方々(ほうぼう)を探(さが)された所、三日目に至ってイエズスが神殿の中で学者の中に坐(ざ)し、彼等と問答しておいでになるのを見つけられた。冒頭(はじめ)に掲(かか)げた「子よ、何故(なぜ)我等にかゝる事を為(な)しゝぞ」とは、聖母がその時仰(おお)せられた言葉である。しかるにそれに対する聖子(おんこ)の御答えはどうであったろうか。それは「我はわが父の家に居るを知らざりしか」というのであった。
この言葉に依(よ)ってイエズスは聖母に、「御父天主の御命令に従うのが最も大切な事である」と教え給うたのであるが、勿論(もちろん)その時神殿(しんでん)にいた律法(りっぽう)学士その他の群衆にはその御意味が解(わか)らなかった。何(な)故(ぜ)かと云えば、彼等はイエズスを単に聖ヨゼフの子と考えていたからである。けれども聖母は、大天使ガブリエルに「彼は偉大にして最(いと)高(たか)き者の子と唱(とな)えられん」と告(つ)げられた時から、常にイエズスを神の御独(おんひとり)子(こ)、御自分の創造(そうぞう)主(しゅ)と認めて、崇(あが)め且つ愛して居られた。尤も聖子(おんこ)の私生活時代には母性愛が著しく現れて居たであろうが、その御福活後、並びに御昇天後には、いよいよイエズスの神性に対する信仰が強くなり、それと共に聖子(おんこ)に注(そそ)がれる愛も、天主に対する熱愛となって、一刻(いっこく)も早く天国に在(ましま)すキリストと一致(いっち)したいと、深く深く望(のぞ)まれたのである。
 あゝ、聖母に於(お)いては、聖子(おんこ)に対する母の愛と、天主に対する被造物(ひぞうぶつ)の愛とが、如何に微(いみ)妙(じ)き調和を示している事であろう!我等もその御亀鑑(おかがみ)に倣(なら)い、天主を愛する為にイエズスを愛し奉らねばならぬ。我等が天主の思(おぼ)し召しに従(したが)いよくその御掟(みおきて)を守るのは、即ち天主に対する愛であって、それだけで既に充分天主に愛せられ、天国の栄福を蒙(こうむ)る事が出来る。然し天主に対する愛の絶頂(ぜっちょう)と云えば、更に一歩を進めて焔々(えんえん)と燃(も)える熱情的の愛でなければならぬが、これは天主が無形のお方であるだけに、一般の人々にとって甚だ難(むずか)しい事である。
所が救い主イエズス・キリストは真(まこと)の天主でありながら、叉、真(まこと)の人として目に見える肉身を具(そな)え、我等と共に住み、或る時は馬槽(うまぶね)の中に愛らしき嬰児(みどりご)となり、或る時は十字架の上に我等を罪より解放し給う有り難き救い主となり、叉、或る時は祭壇(さいだん)の聖(せい)櫃(ひつ)の中に我等の聖(とうと)き糧(かて)とまで謙遜(へりくだ)って我等を待ち侘(わ)び給う。かような主は、無形の天主と異(こと)なって、近寄り易(やす)く愛し易(やす)い。故(ゆえ)にキリストを通(とお)して天主を愛し奉る事は、総(すべ)ての聖人のとられた道であった。
 我等も聖母の大いなる愛に合わせ、諸聖人に倣(なら)って、キリストを通して無限(むげん)の天主を熱烈に愛するよう励(はげ)まねばならぬ。

   祈   願

 あゝ、愛の化身(けしん)にて在(ましま)す聖マリアよ、我等は今日新(あら)たに全霊(ぜんれい)、全身を御身に捧げ奉る。何卒(なにとぞ)、我等の心を聖心(みこころ)に同化(どうか)せしめ給え。さらばこの弱く冷たき我等の心も、聖体の秘蹟(ひせき)に籠(こ)もり給う主イエズス・キリストを通して無限なる天主を一心に慕(した)い奉る熱烈なる愛の炎(ほのお)とならん。
慈愛(いつくしみ)深き御母よ、卑(いや)しき我等の心を奪いて貴(とうと)き御身の聖心(みこころ)を与え給わん事を恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)




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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:公生活に於ける聖母の立場

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二 十 二 日 公生活に於ける聖母の立場

   誰か我が母なるぞ。        (マテオ 一二。四八)

 或る日イエズスが例の如く群衆に聖(とうと)き御教(みおし)えを説き聞かせておいでになると、そこへ何か御用事があったと見えて、聖母や兄弟(親戚の意味)の方々が主を訪ねておいでになった。それと見たある人が「主の母上と御兄弟の方々がお見えになりました」とお取り次ぎすると、イエズスはその人に「誰か我が母、我が兄弟なるぞ」と仰せになり、それから御手を弟子達の方に伸ばして「これぞ我が母、我が兄弟なる。そは誰にもあれ、天に在(ましま)す我が父の聖(み)旨(むね)を行(おこな)う人、即ちこれ我が兄弟、姉妹、母なればなり」と、のたまうたという話しがある。
 「誰か我が母なるぞ」とは一寸(ちょっと)聞くといかにも冷淡(れいたん)な言葉のように聞こえるが、イエズスの真意はもとより他にあった。それは「私の母はどういう方か」と云って、実は聖母が常に天主の思(おぼ)し召しを実行し、限りなくその聖(み)旨(むね)に適(かな)い給う御方である事、その為に救い主の御母と選ばれ給うた事などを暗示(あんじ)されたのであった。
 イエズスはそれから弟子達の方へ御手(みて)を伸ばして「これぞ我が母、我が兄弟なる」と仰せになった。故に、我等も御弟子の中に加わり、聖会の一員となれば、勿体(もったい)なくも主の兄弟となる事が出来る。但しそれには条件がある。
 イエズスの次の聖言に「天に在(ましま)す我が父の聖(み)旨(むね)を行う人、これ我が兄弟、姉妹、母なり」とあるのが即ちそれで、天の御父の聖(み)旨(むね)を行(おこな)わず、罪悪に溺(おぼ)れている者は、名前は信者でも主の兄弟になる事が出来ぬ。全(まった)くイエズスの精神を己(おのれ)に活(い)かす人でなければならぬ。
 それ故,聖会の信者として恥ずかしくない生活をする者は真(しん)に主の兄弟たるの実がある。そしてかかる人々には主の御母が、心から親しい母になって下さるのである。
 さてイエズスが三年の間諸所(しょしょ)の町や邑(むら)を巡(めぐ)って、多くの奇蹟(きせき)を行いながら、悪を誡(いまし)め善を勧(すす)め、福音(ふくいん)をのべ伝え給う間、聖母マリアは心こそいつも御子(おんこ)の御傍(みそば)にあって、熱心な祈りや犠牲を献げ、その布教事業を助けられたが、身は常に遠く主の御許(みもと)を離れておいでになった。それにも拘(かか)わらず人々は屡々(しばしば)主と聖母とを共に考え「福(さいわい)なる哉(かな)、汝(なんじ)をやどしし胎(たい)よ」と聖マリアを讃美(さんび)し参らせたのであるその時主は「寧(むし)ろ福(さいわい)なる哉(かな)、神の御言(おんことば)を聞きて之を守る人よ」と答え給うた。それは、聖マリアが尊(とうと)いのは御自分を生まれたからではない。万事に於いて天主の聖(み)旨(むね)を第一とし、之に従われたから尊(とうと)いのであるという事をお示しになったのである。
我等は幸いにもこの尊(とうと)い御(おん)母(はは)聖マリアをわが母と頼み、その聖なる御子(おんこ)天主なるイエズスをわが兄弟と仰(あお)ぐ事の出来る聖会という大家族の仲間である。故(ゆえ)に御二人を心より愛し奉り、イエズスの御功徳(おんくどく)に頼り聖母の御伝達を願い,天の御父の聖(み)旨(むね)を行って、苟(いやしく)もこの聖なる大家族の家名を恥しめぬように努力せねばならぬ。
そうすればその努力はまた我等の為に立派な功(いさ)勲(おし)となり、死しての後天国に於いて、御父、御母、及び兄君なるキリストを目のあたり仰ぎ見る幸福をもたらすのである。

   祈   願

 ああ、聖マリアよ、御身は最もよく天主の聖旨を行い給いしによりて天主の御母たる高き御位に挙げられ給えり。
 我等も御身の御功徳によりて、常に聖旨に従い掟を守るの恵を与えらるるよう、主の御前に取り次ぎ給わん事を、恭しく天使祝詞三度繰り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)



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聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:十字架の下に立ち給う我等の御母

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二 十 三 日 十字架の下に立ち給う我等の御母

  婦人(おんな)よ、是(これ)汝(なんじ)の子なり・・・子よ、是(これ)汝の母なり、 (ヨハネ一九。二六)

 救い主イエズス・キリストは十字架上の激しい御苦悶(おくるしみ)の中から、御足下(おんあしもと)に立ち給う聖母と最愛の御弟子聖ヨハネとを御覧になって、先ず聖マリアに向かい「婦人(おんな)よ,是(これ)汝の子なり」と宣(のたま)い、次に聖ヨハネに向かい「是(これ)汝(なんじ)の母なり」と仰せになって、御母を御弟子に托(たく)し給うたが、それは叉、同時に、聖ヨハネの如く主キリストを信じ、愛し、且つ之に従い奉る者、即ち聖会の総(すべ)ての信者に対して、聖マリアを霊的の御母として与え給うた御遺言(ごゆいごん)であった。
 前に御父の聖(み)旨(むね)に対し,謙遜(けんそん)に「我は主の婢(つかひめ)なり、仰せの如く我になれかし」と答えて、天主聖子(おんこ)の肉身の御母になられた聖マリアは、今また聖子(おんこ)の御遺言(ごゆいごん)に対しても、従順(じゅうじゅん)に同じ言葉を繰り返して、我等人類の霊魂の母になる事を承諾(しょうだく)されたのである。
 尤(もっと)も、聖母がその二つの使命を受け給うた時の有様は全(まった)く異(こと)なっていた何となれば大天使ガブリエルの口から、天主御子の肉身の御母となる尊(とうと)き御告(おつ)げを受けられた時には、聖心は言い尽くせぬ歓喜(よろこび)に充(み)ち溢(あふ)れていたのに、イエズスの御口から我等人類の霊魂の母となる御遺言(ごゆいごん)を受けられた時には、眼に御子の喩(たと)え難(かた)き御苦悶(おくるしみ)を見、耳に無慈悲(むじひ)な群衆の冷(れい)笑(しょう)嘲罵(ちょうば)を聞き、聖心(みこころ)はかのシメオンに預言せられた如く、悲哀(かなしみ)の鋭(するど)き刃(やいば)で刺(さ)し貫(つらぬ)かれたからである。
 それは兎(と)に角(かく)、聖母は聖子(おんこ)の聖(み)言(ことば)に従い,我等の霊魂の母になり給うた。主の公生活の三年間というもの、聖母は家にあって日々徳の道に精進(しょうじん)されたが、それは期せずして全世界信者の母となり給う準備になった即ち御母は今その優(すぐ)れた御徳の模範(もはん)によって我等に正しき道を示し給い叉、燃えるような慈母(じぼ)の愛を以て日夜不束(ふつつか)なる我等の上を御心配になり、天主の御前(おんまえ)に代願(だいがん)して、悲しめる者には慰めを、悩(なや)める者には勇気を、弱き者には力(ちから)を与え、多くの誘惑(ゆうわく)と罪悪(ざいあく)の淵(ふち)から我等を救い、無事天国なる御父の御許(みもと)に導いて下さるのである。
 その深い御恩を思う時、我等は心から深い感激を覚えずにはいられない。天主は第四誡(かい)を以て、肉身の親への報恩(ほうおん)の為に尊敬(そんけい)を尽(つ)くす事を我等の義務(つとめ)とせられたが、それにもまして有り難いこの霊魂の御母の御恩(ごおん)に報(むく)いる為には、どれほどの尊敬を尽(つ)くすべきであろう。
 叉、聖マリアが聖子(おんこ)の十字架の下(もと)に立って、深い悲哀(かなしみ)に沈(しず)まれている時に、我等の母となられた事を思えば、恰(あたか)も苦労して我等を養育してくれた肉身の親に対する如く、我が霊魂の御母に向かっても熱烈な感謝の情(じょう)を禁じ得ないのである。
 されば我等は聖マリアの孝子(こうし)としてこの聖(とうと)き御母に尊敬と感謝を献(ささ)げる為に、その麗(うるわ)しい御徳に見倣(みなら)って勇ましく世間、肉慾(にくよく)、悪魔と戦い、御助けを仰いで誘惑(ゆうわく)と艱難(かんなん)に打(う)ち克(か)ち、少しでも己(おのれ)の欠点を改(あらた)めて善に進むように努(つと)めよう。もとよりそれは決して容易(ようい)な事ではない。然(しか)し十字架(じゅうじか)の下(もと)にただずみ給う聖母が、天主への愛から最愛の御子(おんこ)を犠牲に供(そな)える苦痛にさえ耐えられた事を思えば、我等も亦、天主と御母とに対する愛を燃(も)やし犠牲を喜ぶ精神を以て勇往(ゆうおう)邁進(まいしん)したならば、必ず如何(いか)なる障害(しょうがい)をも乗り越(こ)し得るに相違ない。
愛と犠牲! 実にこれにもましてとうとい尊敬と感謝の途(みち)は外(ほか)にないのである。

   祈   願

 ああ?(かん)仁(じん)なる聖母よ、主は限りなき御哀憐(おんあわれみ)をもって御身を我等の母として与え給へり。
我等は御身の聖(とうと)き御亀鑑(みかがみ)に倣(なら)い,善(よ)き子として孝を尽(つく)さんと決心し、之に必要なる篤(あつ)き愛を与え給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)


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二 十 四 日 良き訓(すす)めの御母

   彼等皆イエズスの母マリアと共に、心を同じうして
耐え忍びつつ祈祷(いのり)に従事し居たり。       (使徒行録 一 。一四)

 これは主の御昇天後に於ける弟子達の有様を記した言葉である。長い間聖(とうと)い師と仰いで来た天主御子イエズスが、最後の別れを告げられて、カンラン山の上から天にお昇りになり、その懐かしい御姿が雲に遮(さえぎ)られて見えなくなった時弟子達の悲しみはどれほどであったろう! 然しあの思い出深い最後の晩餐(ばんさん)の広間に帰って、主の御母聖マリアと共に一心に祈っている間に、彼等の悲しみは不思議にも和(やわら)いで来た。その時彼等は、聖母が主に代わって新たに彼等の中心、彼等の助け、彼等の慰めになられた事を明らかに悟(さと)った。
 そしてこの聖母に対する信頼は、彼等が聖霊の賜物(たまもの)を受けて、イエズスの御命令通り、万国に別れ行き、万民に布教(ふきょう)するようになっても、少しも変わる事がなかったのである。
 実に聖マリアは、御子の在(いま)さぬ後の弟子達の根拠(こんきょ)として、此の世に残され給うたのであった。故に主の御昇天後、聖母の御立場は今までの隠(かく)れたそれとは全く打って変わり、天主の御母として弟子達は勿論(もちろん)、諸所(しょしょ)の初代教会の信者等にも、公然の尊敬と信頼とを受け給うようになったのである。しかもその尊敬と信頼とはイエズスの聖教(みおしえ)が拡(ひろ)まり行くにつれ、益々深く、厚くなるばかりであった。
 いかに聖霊の降臨(こうりん)を受け、その七つの賜物(たまもの)に強められた篤信(とくしん)の使徒達であっても、やはり人間である以上、時には悩(なや)み、迷い、勇気を落とす事もあったろう。そういう時、彼等が依(よ)り縋(すが)って慰め、勧告(すすめ)、激励(はげまし)の中(うち)でとなえる「良き訓(すす)めの御母」という言葉は、極めて古い頃から伝わったものであると云われている。そして聖母が「良き訓(すす)め」を以て人々をお助けになった事実も、昔から数(かず)限(かぎ)りもなく言い伝えられているのである。
 例えば使徒聖ヤコボはスペイン地方に赴(おもむ)き、イエズスの福音(ふくいん)をのべ伝えつつ、サラゴッサという町に至った時、大いなる艱難(かんなん)と恥辱(はずかしめ)に逢(あ)い、殆(ほとん)ど意気沮喪(そそう)せんとして、遠いユデアに在(いま)し給う聖マリアを心に念じ、御助けを求めた。すると忽ち聖母が目の前に現れ給うて彼を励まし、良き勧告(すすめ)を以て力(ちから)をつけられたと云う話しがある。今も其の町にはその御助けを記念する為に建てられた聖母の御堂が残っているという。
その他、聖マリアが熱烈な不断(ふだん)の御祈祷(おいのり)によって、初代教会に与えられた御慰(おんなぐさ)めや御助けはどれほどあったか知れぬのである。
 この同じ聖母は今日我等の為にも祈り給い、悩みの時には慰めを、迷いの時にはよき勧告を、落胆(らくたん)の時には激励(はげまし)をお与えになる。
否(いな)、今日のみではない、聖マリアは聖子(おんこ)イエズスと共に、総(すべ)ての罪人(つみびと)を救い天国に導く事を念願(ねんがん)として、その御生涯を祈りと苦難と犠牲の内に過ごし給うたお方である故に、永遠の世界に入られてからもなお継続して、世の終りまで御助けを与え給うのである。
故に我等は常々聖ヤコボを始め初代教会の信者の如く厚い信頼を以て聖マリアに祈り、困難の時にその「良き御訓(おんすす)め」を戴くように勉(つと)めよう。
   
   祈   願

 ああ、良き訓(すす)めの御母よ、我等は御身の御跡(みあと)を慕(した)いて完(かん)徳(とく)への道を進まんと志す者なれども、智慧、暗き身の不束(ふつつか)さよりして、時に邪道(じゃどう)に踏(ぶ)み迷い、滅亡(ほろび)の淵(ふち)に陥(おちい)る危険あるを如何(いかん)にせん。
されば御憐(おんあわ)れみを以て常に我等の為に祈り給え。しかして危うき時には御身の「良き訓(すす)め」の光を以て我等の智慧(ちえ)を照らし、苟(いやしく)も正しき道を踏み外す如き憂(うれ)いをなからしめ給わん事を、恭(うやうや)しく天使祝詞(しゅくし)三度繰(く)り返して願い奉る。


(天使祝詞 三度)





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