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2013年5月3日 聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサのお説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2013年5月に行われた、第7回聖ピオ十世会日本 SSPX JAPAN 秋田巡礼での動画のなかから、5月3日 初金曜日 聖ピオ十世会のクチュール神父様司式による、至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ(歌ミ­サ)でのお説教をご紹介します。

 次の聖伝のミサは、東京では2月1日(主日)と2日です。2月2日は聖母の御浄めの祝日です。聖伝の典礼に従って、ローソクの祝別がミサ聖祭の前(午前7時)にあります。愛する兄弟姉妹の皆様の参加をお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






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日本語の良い公教要理のウェブ・サイトのリンクをご紹介します。


公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】



聖ピオ十世会司祭による聖伝のミサ(ラテン語ミサ トリエント・ミサ) 2015年1月、2月の報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!今回、日本での聖伝のミサにおいて多くの兄弟姉妹の皆様とお目に掛かれて幸福でした。

 東京での主日のミサでは、七旬節の主日で「主のブドウ畑で働く」ということはどのようなことかを黙想しました。
 午後の恒例の公教要理では、聖ピオ十世の公教要理に従って、祈りについて復讐しました。祈りとは心を天主に上げて天主を崇め、感謝し、懇願することであること、祈りを、潜心、謙遜、信頼、忍耐、忍従(le recueillement, l’humilité, la confiance la persévérance et la résignation)をもって祈ること、などを見ました。
 4時からは主日の晩課をグレゴリオ聖歌で歌って終わりました。

 2月2日の御浄めの祝日には、10名ほど参加され(遠方から5時に起きてこられた方もいらっしゃいました!)、ローソクの祝別と簡単な行列をしてから、ミサ聖祭を捧げました。天主様に感謝!

 ミサのご報告を次のように戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 2月は15日の主日に午後6時半から大阪でレネー神父様によるミサがあります。

 3月は、6日(初金)と7日(初土)には大阪で、8日(主日)には東京で聖伝のミサがあります。愛する兄弟姉妹の皆様をご招待します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
大阪での御ミサの報告をさせて頂きます。
1月30日(金) 殉教者聖マルティナ のミサには13人が、
  31日(土) 聖ドン・ボスコの歌ミサには23人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!

金曜日のお説教:
私達は救霊の為、もしその霊魂を失ってしまうなら二度とやり直すことのできない、しかも一度きりの大事業の為にこの世で生きている。
多くの聖人方が手本を見せたように「この世の仕えるのではなく、永遠の命のために仕える」事を選ばなくてはいけないという事を身を引き締める思いで拝聴致しました。
アヴィラの聖テレジアの「霊魂はひとつ。永遠もひとつ。」という言葉が心に残りました。

御ミサの後、毎年恒例の「踏絵への接吻」をして、200年続いた日本の絵踏みに対する償いの式を致しました。今日は23人だけでしたが、いつの日か日本中で全国民がこの償いの行為が出来ることを祈ります。

土曜日は、昨日のお説教に続いて、救霊の事業を行うに当たって天主様から与えられる御助け、「主の平和」についての黙想でした。
つい ついこの世の楽しみや幸福にとらわれがちな自分を反省し、この世に死んで、本当の平和を得る方を選ぼうと決心しました。

その後、「聖イグナチオの霊操による黙想会」について少しお話し頂きました。
「霊操」とは、『霊魂の体操』という意味だとお聞きし、うまいネーミングだなあと感心致しました。
1、霊魂の健康のため  2、重大な事を決める前に天主のみ旨を知るため  に、霊操はとても良いものだと知りましたので、是非とも参加したいと思います。

公教要理は「天主の永遠・偏在」についてでした。
雪がちらつき、とても寒い日でしたが御ミサに与り、御聖体を頂いた御恵みでこころが熱く幸せでした。これが「本当の平和」の一部なのか、と思いつつ次の御ミサへの思いが馳せます・・・。

聖母マリア様に、
天主様に感謝いたします。

【東京】

Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供1人)
女: 15人(内、子供0人)
計: 33人(内、子供1人)







この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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聖ピオ十世会 SSPX エコン神学校 ドキュメンタリー「明日の司祭たち」 動画

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 もうご存じの方々もいらっしゃると思いますが、聖ピオ十世会を紹介する動画として、「明日の司祭たち」(Priests for tomorrow ---- Ecône - Des prêtres pour demain)の動画をご紹介します。

 ルフェーブル大司教さまのお姿や、エコンにある神学校の様子をご覧下さい。天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





【参考資料】
フランス語版はこちらです。





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【質問】聖ピオ十世会とは何ですか? [FAQ] What is Society of St Pius X?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会とは何ですか?というご質問にお答えする動画(英語)をご紹介します。

 このビデオでは、聖ピオ十世会が、1970年にカトリック教会法典に従ってスイスのフリブール教区で正式に認可されたカトリック教会の修道会であることから始まり、その精神は何か? 聖ピオ十世会の特色は何か? 聖ピオ十世会の創立目的を達成させるための手段は何か? など、基本的な情報を提供しています。

 どうぞ、ご覧下さい。ナレーターの語っている内容は次の通りです。(英語のままですみません。(- -;) )

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





In this video, we’re going to answer the question, “What is the Society of Saint Pius X?” The Society of St. Pius X is an international priestly society, whose purpose is to train and support priests so that they may effectively spread the Catholic faith throughout the world.

The Society of Saint Pius X was founded in 1970 by Archbishop Marcel Lefebvre in the diocese of Fribourg, Switzerland, adhering to all canonical norms, receiving the blessing and encouragement of the local bishop.

The spirit of the Society of Saint Pius X is essentially apostolic; it was designed by its founder to operate much like a missionary order, spreading the faith far and wide. This apostolate is today especially necessary considering the spread of atheism, agnosticism, and religious indifference.

The Society of Saint Pius X, to this end, seeks to draw souls closer to Christ primarily through the Holy Sacrifice of the Mass, as well as through its preaching, its schools, its seminaries, and its spiritual retreat houses.

All this can be summed up in Archbishop Marcel Lefebvre’s motto: “We have believed in charity,” that is, in the love of Christ.

The Society of Saint Pius X was born in the Church at the start of a dramatic Crisis following the new orientation given by the Second Vatican Council. In front of an increasing confusion the Society of Saint Pius X offers to simply remain faithful to what the Church has always done in the past, the Latin Traditional Mass and Sacraments, the Traditional Catechism, the morality of the Ten Commandments, the attachment to the Roman Pontiff as successor of Peter.

As Archbishop Lefebvre appealed to Catholics: “It is necessary that we undertake a crusade, a crusade which is based precisely upon these notions of immutability, of sacrifice, in order to recreate Christianity, to re-establish a Christendom such as the Church desires, such as She has always done, with the same principles, the same Sacrifice of the Mass, the same sacraments, the same catechism, the same Holy Scripture. We must recreate this Christendom!”

The future of the Church is in its Tradition.

Recommended Resources:
The DVD: Forty Years of Fidelity, A History of The Society of St. Pius X
Book: “Most Asked Questions Of SSPX”
Book: “The Best of Questions and Answers"
To learn more, go to sspx.org and subscribe to our email list.

For more information, please visit http://sspx.org/faqvideos



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聖ピオ十世の公教要理 祈りについて Catéchisme de saint Pie X

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月1日には、東京でのミサ聖祭の後に、いつものように公教要理がありました。今回は、次の通り、祈りについて復習しました。

第一章・祈り一般

254 第二部では何をとりあげていますか。

第二部では、祈り一般について、また特に主の祈りをとりあげて説明しています。

255 祈りとは何ですか。

祈りとは、心を天主に上げて、天主を崇め、感謝をささげ、必要なものを願い求めることです。

256 祈りにはどのような種類がありますか。

祈りには、心の内でささげる祈りと、心を集中し、信仰の精天主をもって声を出して唱える祈りとがあります。

257 祈りにはその他にどんな種類がありますか。

このほかにも、信者の私的な祈りと、教会の公的な祈りとがあります。

258 私的な祈りとは何ですか。

私的を祈りとは、自分または他人のために個人的にする祈りのことです。

259 公的な祈りとは何ですか。

公的を祈りとは、教会の名において聖職者が信者の救いのためにする祈りです。また宗教上の行列や巡礼あるいは教会内で信者が一緒に唱える祈りも公的な祈りと呼ぶことができます。

260 祈れば天主が必要な恩悪と助力をくださるという希望は何に基づいていますか。

祈れば天主が必要な聖寵と助力をくださるという希望は、全能で慈悲深く忠実な天主の御約束とイエズス・キリストの御功徳に基づいています。

261 だれの名によって聖寵を乞い求めますか。

私たちは、イエズス・キリストの名において必要な聖寵を乞い求めなければなりません。つまり、イエズス・キリストがお教えになり、教会がその通り実行しているようにすべての祈りを「主イエズス・キリストによって」ということばで終えるのです。

262 何故キリストの名において天主に聖寵を乞わねばなりませんか。

キリストの名において天主に聖寵を乞わねばならないのはイエズス・キリストこそ仲介者であり、キリストを通してのみ天主の座に近づくことができるからです。

263 祈りにはそんな力があるのに、何故聞き入れられないことがよくあるのですか。

何度も祈りの聞き入れられないことがあるのは、永遠の救いの妨げになることを求めたり、正しい態度で乞い求めなかったりすることが多いからです。

264 天主には特に何を願わねばなりませんか。

天主に特に願わねばならないのは、天主の栄光と私たちの救い、そして救いを得る手段です。

265 この世の善を願うのは正しいことですか。

天主の御旨にかない、永遠の救いのさまたげとならないことであれば、この世の善を願うのは正しいことです。

266 天主は私たちの必要とすることを御存知なのに、何故改めて祈り求める必要があるのですか。

天主は私たちの必要とすることを全て御存知ですが、私たちが天主を全ての善の与え主として認め、謙虚な心で従うことを示し、天主の聖寵にあずかることができるように祈り求めることを天主がお望みだからです。

267 効果的な祈りをするため一番大切な心構えは何ですか。

効果的な祈りをするために一番大切な心構えは、聖寵の状態にあること、あるいは少なくとも聖寵の状態にありたいと望むことです。

268 良い祈りをするためには他にどんな心の準備をしなければなりませんか。

良い祈りをするために、特に潜心、謙遜、信頼、忍耐、忍従の心をもたなければなりません。

269 潜心して祈るとはどういうことですか。

天主とおはなししているという自覚のもとに、尊敬と信仰の心をもって祈り、気を散らさないように努力すること、つまり祈りと関係のないことを考えないように努めることです。

270 気を散らせると祈りの功徳は減りますか。

わぎと気を散らせたり、注意が散慢しないように努力しないとき祈りの功徳は減ります。しかし天主と静かに語り合えるようできる限り努力をするなら、祈りの功徳は減るどころか増加することになります。

271 潜心して祈るためにはどうすべきですか。

祈りを始める前に、気を散らせる原因となるものを全て遠ざけること、そして祈りの間、私たちをみつめ私たちの申し上げることに耳を傾けて下さる天主の御前にいることを考えなければなりません。

272 謙遜に祈るとはどうすることですか。

私たちは価値なく、無力で哀れな状態にいるということを正直に認めると共に、正しい姿勢で祈ることです。

273 信頼して祈るとはどうすることですか。

祈りが天主の栄光と私たちの真の善を求めるものなら必ず天主が聞き入れて下さるという確固とした希望をもって祈るということです。

274 忍耐強く祈るとはどうすることですか。

天主が直ちにお聞き入れにならない時も、あきらめずに、さらに熱心に祈り続けることです。

275 忍従して祈るとはどうすることですか。

これは天主の御旨は受け入れなければならないということです。天主は私たちの救いに必要なことは全て御存知ですから、たとえ祈りが聞き入れられない時にも、天主の御旨として受け入れることです。

276 よい祈りなら天主はいつもお聞き入れになりますか。

よい祈りなら天主はいつも聞き入れて下さいます。ただし永遠の救いに役立つ仕方でということであって、かならずしも私たちの望み通りということではありません。

277 祈りの効果は何ですか。

祈りによって私たちは、何物にもまさって主なる天主に依存していることを悟り、天上の事柄に思いをはせ、徳に進歩し、天主の御慈悲を得、誘惑にうち勝つ力を与えられ、苦難のときには慰めを受け、困窮に際して助けの手に支えられ、最後まで耐え忍ぶ聖寵を得ることができるのです。

278 特にいつ祈らなければなりませんか。

危険や誘惑や死に直面したとき特に祈らなければなりません。そのほか、朝夕そして一日の生活のうち大切なことを始めるときなどにひんばんに祈らなければなりません。

279 だれのために祈らなければなりませんか。

全ての人のために祈らなければなりません。つまり、自分と両親のため、目上の人、善行者、友人のため、また敵のためにも、さらに罪人や教会から離れてしまった人たちの改心のため、また練獄の霊魂のために祈らなければなりません。

 以上の部分は、フランス語では次のようになっています。ご参考までにどうぞ!

2e partie : La prière.
 
  Chapitre 1
La prière en général.

De quoi est-il question dans la seconde partie de la Doctrine Chrétienne ?

Dans la seconde partie de la Doctrine chrétienne il est question de la prière en général et, en particulier, du Pater noster.

Qu’est-ce que la prière ?

La prière est une élévation de l’esprit vers Dieu pour l’adorer, pour le remercier et pour lui demander ce dont nous avons besoin.

Comment divise-t-on la prière ?

On divise la prière en prière mentale et en prière vocale. La prière ou oraison mentale est celle qui ne se fait qu’avec l’esprit ; la prière vocale est celle qui se fait avec des paroles accompagnées de l’attention de l’esprit et de la dévotion du cœur.

Y a-t-il une autre façon de diviser la prière ?

On peut encore, à un autre point de vue, diviser la prière en prière privée et en prière publique.

Qu’est-ce que la prière privée ?

La prière privée est celle que chacun fait en particulier pour soi-même ou pour les autres.

Qu’est-ce que la prière publique ?

La Prière publique est celle qui est faite par les ministres sacrés, au nom de l’Eglise et pour le salut du peuple fidèle. On peut aussi appeler publique la prière faite en commun et publiquement par les fidèles, comme dans les processions dans les pèlerinages et dans l’église.

Avons-nous un espoir fondé d’obtenir par la prière les secours et les grâces dont nous avons besoin ?

L’espoir d’obtenir de Dieu les grâces dont nous avons besoin est fondé sur les promesses de Dieu, tout-puissant, très miséricordieux et très fidèle, et sur les mérites de Jésus-Christ.

Au nom de qui devons-nous demander à Dieu les grâces qui nous sont nécessaires ?

Nous devons demander à Dieu les grâces qui nous sont nécessaires au nom de Jésus-Christ, comme lui-même nous l’a enseigné et selon la pratique de l’Eglise qui termine toujours ses prières par ces mots : per Dominum nostrum Jesum Christum, c’est-à-dire : par Notre Seigneur Jésus-Christ.

Pourquoi devons-nous demander à Dieu les grâces au nom de Jésus-Christ ?

Nous devons demander les grâces au nom de Jésus-Christ, parce qu’il est notre médiateur et que c’est seulement par lui que nous pouvons avoir accès au trône de Dieu.

Si la prière a tant de vertu comment se fait-il que si souvent nos prières ne sont pas exaucées ?

Bien souvent nos prières ne sont pas exaucées, soit parce que nous demandons des choses qui ne conviennent pas à notre salut éternel, soit parce que nous ne prions pas comme il faut.

Quelles sont les choses que nous devons principalement demander à Dieu ?

Nous devons principalement demander à Dieu sa gloire, notre salut éternel et les moyens pour y arriver.

N’est il pas permis de demander aussi les biens temporels ?

Si, il est permis de demander aussi à Dieu les biens temporels, mais toujours à la condition qu’ils soient conformes à sa très sainte volonté et qu’ils ne soient pas un empêchement pour notre salut éternel.

Si Dieu sait tout ce qui nous est nécessaire pourquoi doit-on prier ?

Bien que Dieu sache tout ce qui nous est nécessaire, il veut cependant que nous le priions pour reconnaître que c’est lui qui donne tous les biens, pour lui témoigner notre humble soumission et pour mériter ses faveurs.

Quelle est la première et la meilleure disposition pour rendre nos prières efficaces ?

La première et la meilleure disposition pour rendre efficaces nos prières est d’être en état de grâce ou, si nous n’y sommes pas, de désirer au moins nous remettre dans cet état.

Quelles autres dispositions faut-il avoir pour bien prier ?

Pour bien prier, les dispositions spécialement requises sont le recueillement, l’humilité, la confiance la persévérance et la résignation.

Qu’est-ce que prier avec recueillement ?

C’est penser que nous parlons à Dieu, et, en conséquence, nous devons prier avec tout le respect et la dévotion possible, évitant de notre mieux les distractions, c’est-à-dire toute pensée étrangère à la prière.

Les distractions diminuent-elles le mérite de la prière ?

Oui, quand c’est nous-mêmes qui les provoquons ou que nous ne les repoussons pas avec empressement. Mais si nous faisons tout notre possible pour être recueillis en Dieu, alors les distractions ne diminuent pas le mérite de notre prière, elles peuvent même l’accroître.

Que devons-nous faire pour prier avec recueillement ?

Nous devons, avant la prière, éloigner toutes les occasions de distractions, et pendant la prière, nous devons penser que nous sommes en la présence de Dieu qui nous voit et nous écoute.

Que veut dire prier avec humilité ?

Cela veut dire reconnaître sincèrement notre indignité, notre impuissance et notre misère, accompagnant la prière de l’attitude modeste de notre corps.

Que veut dire prier avec confiance ?

Cela veut dire que nous devons avoir la ferme espérance d’être exaucés, s’il doit en résulter la gloire de Dieu et notre vrai bien.

Que veut dire prier avec persévérance ?

Cela veut dire que nous ne devons pas nous lasser de prier si Dieu ne nous exauce pas tout de suite, mais que nous devons continuer à prier avec encore plus de ferveur.

Que veut dire prier avec résignation ?

Cela veut dire que nous devons nous conformer à la volonté de Dieu, qui connaît mieux que nous ce qui est nécessaire à notre salut éternel, même dans le cas où nos prières ne seraient pas exaucées.

Dieu exauce-t-il toujours les prières bien faites ?

Oui, Dieu exauce toujours les prières bien faites, mais de la manière qu’il sait être la plus utile à notre salut éternel, et pas toujours selon notre volonté.

Quels effets produit en nous la prière ?

La prière nous fait reconnaître notre dépendance en toutes choses à l’égard de Dieu, le suprême Seigneur, nous fait penser aux choses célestes, nous fait avancer dans la vertu, nous obtient de Dieu miséricorde, nous fortifie dans les tentations, nous réconforte dans les tribulations, nous aide dans nos besoins et nous obtient la grâce de la persévérance finale.

Quand est-ce que nous devons spécialement prier ?

Nous devons prier spécialement dans les périls, dans les tentations et au moment de la mort ; de plus, nous devons prier fréquemment, et il est bon de le faire matin et soir et au commencement des actions importantes de la journée.

Pour qui devons-nous prier ?

Nous devons prier pour tous ; c’est-à-dire pour nous-mêmes, pour nos parents, supérieurs, bienfaiteurs, amis et ennemis ; pour la conversion des pauvres pécheurs, de ceux qui sont hors de la véritable Eglise, et pour les âmes saintes du purgatoire.

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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 有名な「トリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)」の最後にある、第4部 「祈り」についての部分の日本語訳(本邦初)をご紹介します。

 私たちは東京でのミサの後に「祈り」について学んだのですが、良い祈りとなるための説明が、トリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)では、より詳しくあります。とてもためになります。是非、お読み下さい。今回は、祈りについて、また、祈りの必要性についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第4部 祈り

第1章 祈りについての一般論

1.司牧上のもっとも聖にして、かつ人々の救霊に最も必要不可欠な職務の一つが、キリスト信者の唱えるべき祈りの教授に存することは、疑いの余地がありません。経験で熱意に満ちた司牧者が、この点について教え導くよう配慮を尽くさなければ、多くの信徒は祈りの本質および重要さについて知らないままでいるでしょう。それゆえ、司祭の名に値する者は、全力を傾注して聴衆に、何を天主に願い求めるべきかを、またどのように願い求めるべきかをよく理解させるよう務めねばなりません。

2.完全な祈りが有すべき全ての特質が、我らの主イエズス・キリストが、使徒たちならびにその後継者をとおして、キリスト教を受け容れる全ての人にお教えになることを望まれたこの神的な祈りの文句に集約されています。この祈りが含む言葉と思想を、私たちの知性と心情に深く刻みつけ、たゆまずこれに思いをはせなければなりません。そしてこの祈りについて信徒に為すべき教導の労を軽減するために、この点に関連すると思われた主立ったことがらを、当公教要理の最後の部分にまとめることとしました。このために、当の主題における最も学識に秀で、かつ最も高名な著者に大いに依拠しました。もし必要であれば、司牧者自身、同じ文献から要理に役立つことがらを、さらにほり下げて、くみ取ることができます。

§1 祈りの必要性

3.この主題に関して、まず第1に教えるべきことは、祈りの必要性です。なぜなら、祈ることについては、単なる勧めではなく、厳格かつ明確な戒律が私たちに与えられているからです。主イエズス・キリストは、はっきりと仰せになりました。「たえず祈りなさい1」と。

4.かかる祈りの必要性は、教会が[ミサ聖祭において]主祷文の前に唱えさせる短い序唱からも明らかです。「この上なく有益なる戒律にしたがい、また天主の教え給うたところにのっとって、我らはあえてかくの如く唱えん。」したがって、天主の御子が使徒らに定まった祈りの文句をお授けになったのは、祈りが必要なものであるため、また他方、使徒ら自身が「主よ、どのように祈るべきかをお教えください。2」と主に願ったためです。
そして主は使徒たちに祈りの言葉と共に、彼らが願うところのものをかち得る希望をお与えになりました。それだけでなく、主は、ご自分の「たえず祈れ」という戒律を自らの模範によって、すなわち、飽くことなく祈りをささげるのみならず、しばしば夜を徹して祈ることをとおして裏付けられました。

使徒たちは、イエズス・キリストが残されたこの掟を、キリスト教の信仰を受け容れる人々に伝えることを怠りませんでした。事実、聖ペトロ3と聖ヨハネ4は、祈る義務について入念に信徒を教え諭しています。また使徒パウロは前者の模範に倣い、祈りを命じるこの上なく有益な掟をしかるべく果たすよう信徒を激励しています。
これに加えて、私たちは霊魂と身体のために数多くの事物と助けとを必要とするため、これらを得るために祈ることが絶体不可欠となります。実際、何にもまして、祈りをとおして私たちは自らの困窮を天主にあるがままに示すことができるのであり、また私たちの欠くものをかち得ることができるのです。
天主は誰にも借りがないということを忘れてはなりません。したがって、もし私たちに必要なものを天主がお与えになることを望むならば、私たちは必然的に、祈りをとおして、これを天主に願い求めなければなりません。
祈りは、いわば天主が私たちに与えてくださった道具であり、これを用いることによって私たちは望むところのものを得ることができるのです。
反対に、祈りなしには―――これは全く確実なことですが――― 決して得ることができないものがあります。例えば、祈りの持つ最も並外れた効果の一つは、これが悪魔を追い払うのに抜きん出た力を有しているという事実です。なぜなら、聖マタイによる福音書において主が仰せになっているとおり、「断食と祈りによってしか追い払うことのできない類の悪魔がいる5」からです。
したがって、敬虔に注意をこめて祈るという信心の業ないしは習慣をなおざりにすることは、数多くの恵みを失うことにつながります。実際、求めるものを得るためには、ただ祈り求めるものが適当なものであることだけでは不充分で、当の祈りを忍耐強く為すことが必要となります。聖ヒェロニモがいみじくも述べているように、「『誰でも求める者には与えられる。6』と書かれています。したがって、もしあなたたちに[あなたたちが望むところのものが]与えられないならば、つまるところ、それはあなたたちが求めないからに他なりません。したがって、『求めなさい。そうすれば与えられます』。7」

脚注
1 ルカによる福音書 18章1節
2 ルカによる福音書 11章1節
3 ペトロの第1の手紙 5章7節
4 ヨハネの第1の手紙 3章21-22節
5 マテオによる福音書 17章21節
6 マテオによる福音書 7章8節
7 聖ヒェロニモ マテオによる福音書注解 第7章






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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 「トリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)」 第4部 「祈り」についての部分の日本語訳(聖ピオ十世会訳)をご紹介します。

 今回は、「祈りの実りと有用性」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


§ 2 祈りの実りと有用性

5.祈りは必要なものであると同時に、きわめて有益なものでもあります。実際、祈りはたいへん快く、また甚だ豊かな実りをもたらします。司牧者は、もしこれを信徒に説明する必要がある場合、聖書ならびに教父の著作の中にこれらの実りについての詳しい記述を見出すことができます。
本編では、当代の必要に最も適った実りをいくつかとり上げるに留めます。

祈りから得ることのできる第1の実りは、私たちの祈りが天主を敬うということに存します。
なぜなら、祈りは、聖書が香物にたとえる敬神の徳の業だからです。「願わくは我が祈りが香の煙の如く御身へと立ち上らんことを!8」 祈ることをとおして私たちは自らが天主に依存する者であることを認め、天主があらゆる善(きもの)の源、かつ造り主であることを告白かつ公言し、ただ天主にのみ望みをかけ、私たちの生存および救いのための唯一の逃れ場、唯一の支えとして見なすのです。
祈りが生むこの実りは、次の章句において明らかに示されています。「艱難の日に私を呼び求めよ。[かくして]我は汝を救い、汝は我を尊ぶ。9」

祈りの生む第2の実り―――天主が祈りを聞き入れられるときに得られるこの実りは、かぎりなく有益で慰めに満ちたものですが――― は、祈りが天国を開くカギであるということです。すなわち、聖アウグスチヌスがいみじくも述べているように、「祈りはのぼり、憐れみがくだる。たとえ地がどれほど低くとも、また天がどれほど高くとも、天主は、それでも人の言葉をお聞きになる10」からです。

6.祈りの持つ力と有用性がいかに大きなものであるかは、これによって諸々の天的な賜が得られることで分かります。実際、天主が私たちに聖霊を導き手かつ助け手としてお与えになるのは、私たちの為す祈りによることに他なりません。
また、祈りによって私たちは信仰の潔白さを保ち、諸々の危険と苦難を避け、誘惑において天主の保護を受け、悪魔に対する勝利を得ます。一言で言えば、祈りは、この上なく清い喜びの源です。このため、主は「求めよ、そうすれば与えられる。それはあなたたちの喜びが完全なものとなるためである11」と仰られたのです。

7.その上、かぎりなく仁慈である天主が、祈りの呼びかけに答えず、またこれに応じないと考えることは到底許されません。聖書中きわめて多くの箇所がこの事実を示しています。これらの章句は、皆がたやすく引くことができるものなので、ここでは、イザヤの次の言葉を引用するにとどめます。
「そこで、あなたが呼べば、主がこたえ、あなたが請い願えば、主は、『ここにいる』と言われる。12」
そして、「彼らが請い願うより先に私はこたえ、彼らがまだ話している中に私は聞き入れる。13」

祈り求めたものを天主から得た者たちの例については、それがあまりにも数多く、またよく知られているので、ここではあえて言及しません。

8.しかしながら、時として天主に願うものが得られないということがあります。これは事実ですが、この場合、天主は私たちにとって最も利益となることをお計らいになるのです。すなわち、天主が私たちの願うものをお与えにならないのは、あるいは天主が、私たちが祈り求めるものよりも大きく、また、より価値のある恵みをお与えになるから、あるいはまた、私たちの祈りの対象となるものが必要でも有益でもなく、もし天主がこれを私たちにお与えになったならば、おそらく有害で不幸な結果を招くものとなっただろうからです。なぜなら、聖アウグスチヌスが述べているように、「天主がその仁慈において拒まれるところのものがあり、またその憤怒の中にお与えになるものがある14」からです。また他の場合には、私たちの祈りは、あまりに生ぬるく、かつぞんざいで、自分の唱えていることを、およそ考えても見ないということがあります。

9.しかるに祈りは、私たちの霊魂を天主へと上げることに他なりません。ですから、もし祈りながら天主のみに思いをはせるべき精神が、ありとあらゆる対象に流れていってしまい、また注意も信心もなく、およそ無頓着に、ただ祈りの文句を唱えるならば、このむなしい物音をどうして祈りと呼ぶことができるでしょうか。
だとすれば、天主が私たちの望みに耳を貸されないとしても、どうして驚くべきでしょう。まさに私たちの投げやりで無頓着な態度自体によって、私たちが自らの祈り求めるところのものに少しも心をかけていないこと、あるいは私たちの願うものは、私たちにとって害となることを証明しているからです。

10.反対に、熟慮を伴って熱心に祈る人は、願うことよりもはるかに優ったものを得ることができます。聖パウロはこのことをエフェゾ人への手紙15において私たちに示していますが、放蕩息子のたとえ16の中にもその証しを見出すことができます。このあわれな若者は、もし父親が自分を雇い人の一人に加えてさえくれれば充分だと感じたに違いありません。
時として天主は、ご自分の賜を豊かに、というだけでなく即座に、又私たちの願いのみならず、私たちが心に抱く単なる望みにさえ応えてお与えになることにより、ご寵遇のきわみを示されます。
これは聖書中の、例えば「天主は貧しい者の願いを聞き入れられた。17」といった章句において見受けられることです。
実に私たちの天主は、助力を必要とする者たちの心中に秘められた望みに、彼らが自らの窮状を口に出して訴える前から、すでに応じられるのです。

祈りのもたらす第3の実りは、それが全ての徳、とりわけ信徳の実践かつ増進につながるという事実に存します。もし信仰がなければ、祈り方、よくすなわち祈るにはどうしたらよいかを取りざたして何の益になるでしょうか。これこそ使徒パウロが次の言葉で述べていることに他なりません。「信じないところの者を、どうして彼ら[異教徒]は呼び求めることができるだろうか。18」
したがって、信徒がより熱心に祈れば祈るほど、天主の愛深きご配慮とみ摂理に対する大きな揺るぎない信仰を有しているということができます。
実際、このように仁慈に富んだみ摂理によって全てをお計らいになる天主が、何よりも私たちにお求めになるのは、私たちが自らに必要なもの全てについて天主に依り頼み、これら一切を願い求めることに他なりません。

11.無論、天主は私たちが祈ることも、望むこともなしに、私たちに全てをお与えになることができます。事実、天主は理性を欠く動物に対してこのようにおふるまいになるのであり、その生存に必要なもの全てをこれにお与えになります。
しかるに、この上なく善き父である天主は、その子らから祈り求められることをお望みになります。すなわち天主は、私たちが毎日その御名をふさわしく呼び求めることによって、日々私たちの祈りがより強い信頼をもってご自分へと立ち上ることを欲されます。すなわち天主は、祈り願うものを得ることをとおして、私たちがご自分の私たちに対するかぎりない仁慈を日々ますます認め、かつこれを高らかに公言することを望まれるのです。

祈りはまた、愛徳をも増進します。
実際、天主を私たちがこの地上で享受することのできるすべての事物とすべての利益の源と認めるとき、私たちは、私たちの心が抱き得る限りの愛を尽くして天主に寄りすがるのです。人の間の愛情は会話、訪問、頻繁なつき合いをとおして深まり、熱のこもったものとなるのが常ですが、天主に対する愛においてもこれと同様です。敬虔な人が、その慈しみを乞うべく天主と語り、天主に祈る頻度を増すごとに、自らの中に、深くしみ通る喜びが募るのを覚え、同時に、心を尽くして天主を愛し、仕えるよう促されます。
したがって、天主が私たちに祈ることを義務付けられるのは、私たちが主に、より大きな熱心をもって私たちの望むものを願うために他なりません。また、これは聖アウグスチヌスが述べているように、「私たちが自らの願望の強さと、不撓不屈とによって、以前には、私たちの乾ききって、狭量ばった心が受けるに値しなかった著しい恵みを得るに値する者となることができるため19」でもあります。

天主はまた、私たちが、もし天からの恩寵の助力がなければ、自らの力によってでは全く、何一つできないという、このきわめて重要な真理を理解し、いわば体得することをお望みになります。このことを深く悟ってこそ、初めて人は心を尽くして祈りに励むようになるからです。

祈りはまた、私たちの自然本性の最も危険な敵に対するきわめて強力な武器でもあります。「悪魔とその攻撃に対して、祈りによって戦おう20」と、聖ヒラリオは述べています。

祈りが私たちに得させてくれるもう一つの貴い実りは、人祖の罪に由来する[霊的・道徳的]堕落と、そこから生ずる種々の無秩序な欲情にも関わらず、天主は、私たちが思いをご自分に上げることをおゆるしになる、ということです。
しかるに、天主がこれをおゆるしになるのは、私たちが祈り、かつ祈りの実りに値する者となるよう励むことをとおして、自らの意志から諸々の罪悪を切り捨て、これを一切の汚れから浄めることができるために他なりません。

最後に、祈りは、聖ヒェロニモの教えるように、天主の怒りを抑え、せき止めます。
天主がご自分の民を罰そうとされたとき、モーゼの祈りによって止められましたが、この際天主は、「私の思うようにさせよ21」と仰せられました。実際、御陵みいつを害された天主の怒りを静め、過ちを犯した者を罰そうとなさるときにその御手をさし止め、憤りをお表しになるのを思い止めさせるのに、敬虔な者の祈りほど効果のあるものはありません。

脚注
8 詩編140 2節
9 詩編
10 聖アウグスチヌス 説教226 典礼節について(de Tempore)
11 ヨハネによる福音書16章24節
12 イザヤ書 58章9節
13 イザヤ 65章24節
14 聖アウグスチヌス 説教33 「天主の御言葉について」
15 エフェゾ人への手紙 3章20節
16 ルカによる福音 15章
17 詩編9 17節
18 ローマ人への手紙 10章14節
19 聖アウグスチヌス 書簡121 8章
20 聖ヒラリオ 詩編63の注解
21 出エジプト記 32章10節

(c) 聖ピオ十世会日本






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ユスト高山右近 マニラにおける帰天400周年(通説2015年2月5日) 本当は、2015年2月3日

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、日本二十六聖人の殉教の日であると同時に、その祝日であり、またユスト高山右近の帰天400周年です。

 実は、正確に言うと、高山右近は2月3日にマニラで帰天したとのことです。

 『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)の「山右近」の項の記述によると、「2月5日」となっているのですが、


 右近の臨終に立ち会った目撃者である、イエズス会のペドロ・モレホン神父(Pedro Morejón, 1562-1639)が書いた『日本におけるキリスト教に対する迫害』Relacion de la persecvcion qve vvo en la yglesia de Iaponで、数字の「3」を「5」と読み間違ってしまったとのことです。(後に、モレホン神父自身も気付き、17世紀にマニラであった山右近の公式列福調査においては、公式証言記録、文字で「tres」と記されています。)

 しかし、上智大学のイエズス会士ヨハネス・ラウレス神父(Laurentz Laures, 1891-1959)は、モレホン師の例の『日本殉教録』をもとに、『山右近の生涯』を書いて、「2月5日」を主張しました。

 「2月5日」というのは、「3」と「5」の読み間違いから始まったとのことです。

 「2月5日」というのは、日本二十六聖人の殉教の日でもあるので、それと同じ日にあたったのだという思い込みもあったのかもしれませんね。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの異なった部分および段階  (聖ピオ十世会訳)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は初金曜日です。イエズスの至聖なる聖心に熱烈な祈りをお捧げしましょう。

 ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。

 今回は、「祈りの異なった部分および段階」についてです。祈りには、天主に対する崇拝と、懇願と、感謝などの部分があります。

 ここでは、特に、懇願と、感謝とについて取り上げられています。

 また、祈りの段階について語られます。これは、どれが功徳が多いか、というよりは、どのような祈りが究極の祈りの形か、ということです。

 祈りには、その完全さに応じた異なる段階がある、ということです。ここでは、その3つの段階について説明されます。

追伸:2月15日には、大阪の丸ビルで、聖伝のミサが捧げられます。(午後6時半からです。)

(翌日の16日(月)の朝ミサですが、司式司祭の都合により、月曜日のミサだけ丸ビルで捧げることが出来なくなりました。ご了承ください。)


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


§3 祈りの異なった部分および段階

12.信徒らに、キリスト者の祈りの必要と有用性について語った後、祈りを構成する異なった部分を説明しなければなりません。使徒パウロの記すところにしたがえば、祈る義務を完全に果たす上で、この点についての知識はきわめて重要です。
ティモテへの手紙において、使徒は次のように述べて弟子ティモテに聖く、敬虔に祈るべきことをさとし、この信心の業の異なった部分を入念に区別しています。
「第一に、すべての人のためにねがい、祈り、請願し、感謝せよと勧める。22」
しかるに、使徒がここで用いている4つの言葉の違いを定めるのは容易ではないため、司牧者がもしこれを聴衆に説明するのが適当であると判断する場合、とりわけ聖ヒラリオおよび聖アウグスチヌスの著作を参照すべきです。

13.祈りの2つの主な部分は、懇願(願い)と感謝であり、その他の部分は、この2つに基づき、これに端を発しています。このため、当論でも、両者について特に述べることが適当であると思われます。
実際、私たちが天主に近づき、これに礼拝と尊崇とを捧げるのは、あるいは主から何か新たな恵みを願うため、あるいはまた、私たちにたえず豊かにあふれるほどの良きものをお与えになる主に、感謝を示すために他なりません。
全ての祈りは必然的にこの2つの性格を帯びます。天主ご自身、ダビドの口をとおして、このことを述べておられます。「艱難の日に我を呼び求めよ。かくして我、汝を救い、汝は我を尊ばん23。」

14.さて私たち人間の甚だしい貧しさ、惨めさを少しでも考えてみるなら、私たちがいかに天主の寛大な仁慈とあわれみとを必要とするかは、誰の目にも明らかです。

15.実際、視覚と知性とを備えているかぎり、誰でも、天主の御心が人類に対してきわめて慈しみに富んだ心持ちを抱いておられ、また豊かな恵みを喜んでお与えになることに容易く気づくはずです。どこに眼差し、あるいは思いを向けても、天主の仁慈と寛大さの驚くべき証しを見出すことができます。

16.私たちの持つものの中で、天主のけっして物惜しみしない寛大さから受けなかったものが何かあるでしょうか。そしてもし私たちの有する一切が、天主の甚だ気前のよい御心の賜であるならば、皆こぞって能うるかぎり、はかりなくいつくしみ深く仁慈である天主に賛美と、たゆまぬ感謝の祈りとを捧げるのが当然ではないでしょうか。

17.しかるに、恵みを願う場合であれ、あるいは感謝を捧げる場合であれ、祈りには、その完全さに応じた異なる段階があります。
信徒が、ただ祈るだけでなく、祈りというこの貴い務めをよく果たすことができるよう、司牧者は最良かつ最も完全な祈りの方法を教え、これを実践に移すよう全力を注がねばなりません。

18.それでは一体、祈りの最良の方法とは何でしょうか。また、祈祷の最も高い段階とはどこに存するのでしょうか。
言うまでもなく、それは敬虔な義人の霊魂が、真の信仰のゆるがない基盤に根ざして、良心の清さと願望の熱心さとによって、徐々に、天主の限りない権能とはかりなき仁慈、至高の叡知とを観想する高みに上りつめた段階に他なりません。
ここにおいて(かかる義人の)霊魂は、今現在自分が祈り求めること全て、また天主が、敬虔で真摯な心で助けを願う者にお約束になった、かぎりなく豊かな恵みが与えられる、という確固とした希望を得るに至ります。

19.こうしていわば2つの翼で天空高く舞い上がった霊魂は、熱烈な熱心によって(ardenti studio)天主にまで至り、これに賛美と、自らが受けた数多の比類なき恩恵に対する感謝を捧げます。
しかる後、熱い敬虔と深い崇敬の中に、霊魂は独り子が誰よりも敬愛する父親に対するように、自分に必要なものを躊躇ちゅうちょなく示し、願うのです。

20.この祈り方は聖書中、「(心情の)吐露」ないしは「披瀝」と呼ばれるものです。
例えば、預言者ダビドは詩編61において次のように述べています。
「私は主のみ前で我が祈りを吐露し、主のみ前に自らの苦悩を告げる。24」
実にこの表現は、 天主のみ前に出て祈る者は、何一つ隠すことも等閑に付すこともなく、かえって自らの心中のすべてを天主のみ心に吐露し、どんな父親よりもはるかに愛情深い父である方の懐に身を投じるべきであることを示すものです。
天のみ教えは、「主のみ前に汝らの心を打ち明けよ25」、また「主に汝の憂慮を打ち委ねよ26」、という言葉をもって、私たちがこのように祈ることを勧め励ましています。

また、この祈りの段階は、『エンキリディオン』(Enchiridion)と題した書において聖アウグスチヌスが、「信仰が信じるところのものを、希望と愛徳とが祈り求める。27」という言葉で言い表している境地に他なりません。


21.祈りのもう一つの段階は、大罪の重みに打ちひしがれながらも、「死んだ」ものと言われるところの信仰によって起き上がり、天主の御許にまで上ろうと務める者たちに該当します。
しかるに、およそ無力と化した霊魂の諸能力と、きわめて弱い信仰のために地面から起きあがることができません。とは言え、当の者たちは自らの罪を認め、良心の呵責にさいなまされつつも、深い淵の底から謙虚に哀願する者にふさわしい声で、胸を打ちながら天主に犯した罪の赦しと心の平安とを願い求めるため、その祈りは天主の御前に決して失われるものではありません。

22.事実、いとも慈悲深く広量な天主は、彼らの祈りをお聞きになるだけでなく、このような人たちを次の言葉をもってお招きになります。「労苦する者、重荷を負う者は私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。28」
目を天に向けることもはばかった、かの収税人は、実にこの部類に属する人でしたが、聖書にしたがえば、彼はファリサイ人よりも義とされて神殿を出たのです。


23.祈りの第3の段階は、信仰をまだ持たない者たちの中に見出されるものです。彼らの内に残る自然本性のわずかな光を再び点される天主の慈愛によって、これらの人々はすこぶる熱心に真理を学び、これを愛するよう促されるのを心に感じ、熱い祈りをもって、当の真理について教えを受けることを願います。
もし彼らがこの良い心情に踏み止まるならば、天主の御あわれみは、その切なる願いを拒まれることは決してありません。このことの証は、百人隊長コルネリウスの例に見出すことができます。一体、心の底からこのような祈りをした後、天主の御あわれみの扉が未だ閉ざされたままであるのを目にした者がどこにいるでしょうか。

24.祈りの最後の段階は、自らの悪業と、恥ずべき生きざまををいささかも悔やまぬどころか、罪に罪を重ね、止める気のさらさらない者、それでいて当の罪の赦しを天主に願う、厚顔きわまりない者らに当てはまります。実際のところ、このような心持ちを有する者は、天主と言わず、他の人間ひとにさえ許しを請う資格もないはずです。

25.悪王アンティオキュスについての次の章句が示すように、このような者たちの祈りは聞き入れられることがありません。
「この悪人は主に祈ったが、そのあわれみを得ることはなかった。[この悪人は、もうそのあわれみを得ることのできない主に対して祈った。29」したがって、かくのごとき深淵に沈む者らが、罪を犯す意志を絶ち、心から天主に立ち返るよう、強く諭さねばなりません。

【脚注】
22 ティモテへの第1の手紙 2章1節
23 詩編49 15節
24 詩編141 3節
25 詩編61 9節
26 詩編54 23節
27 聖アウグスチヌス エンキリディオン7章
28 マテオによる福音書 11章28節
29 マカベ後の書 9章13節

(c) 聖ピオ十世会日本












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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「祈りにおいて願うべきこと」 (聖ピオ十世会訳)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は初土曜日です! さて、ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。

 今回は、「祈りにおいて願うべきこと」についてです。

 公教要理は、私たちの最高・最大・真実の善を祈り願うことを教えています。つまり、天主のことです。天主こそが、私たちの祈り求めるべき願望の第1の対象として、究極の善として求め、すべてはそれに秩序づけられ、それに向かっていなければなりません。

 では、公教要理をお読み下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


§4 祈りにおいて願うべきこと

主祷文の各部分について、願うべきことと願うべきでないこととをこの後で説明するので、ここでは信徒に、正しく徳に適うことのみを天主に願うべきであると、一般的なかたちで思い起こさせることでよしとしましょう。

実際、もし適当でないことを祈り願うならば、かかる祈りは、「あなたたちは自分が何を願っているかを知らない30」という返答とともに退けられてしまうのが必定ですから。

しかるに、正当な望みの対象となるものは、すべて願い求めることが許されます。主の「あなたたちの望むものをすべて願え。すべては与えられるであろう。31」というみ言葉がこのことを示しています。こう仰って主は、すべてをお与えになることを約束しておられるからです。

したがって、私たちは自らの願いと望みとを、私たちにとっての最大の善である天主が、私たちの愛と願望の第1の対象となるように方向付けなければなりません。

その次に私たちは、自らを最も密接に天主に結びつけるところのものを望み求めるべきです。私たちを天主から離す、もしくは天主との相互の一致を弱めるものは、私たちの願望と愛情からことごとく切り捨てねばなりません。

この最高かつ完全な善を規範として、他の諸々の善をどの程度望み、かつ父なる天主に願うべきかを推し量ることができます。身体にとっての善ならびに「外的な善」と呼ばれるところのもの、すなわち健康、体力、美貌、富、名声、栄誉といった善については、これらがしばしば罪を犯す道具ないしは材料となるため(それゆえ、往々にして、人がこれらの善を願い求めるのは、敬虔心からでも救霊を得るためでもありません)、こういった生活上の利善は、専ら必要に即してのみ願わなければなりません。こうして初めて祈りは天主[に対する愛]へと向けられることになります。

28.実際、私たちはヤコブとサロモンが願ったところのものを願い求めることができます。すなわち前者は「もし天主が食べ物と着物とをくださったなら、主を私の天主とします。32」と、また後者は「ただ生活に必要なものをお与えください。33」と言っていたのです。

したがって、仁慈なる天主が私たちに食物およびその他生活に必要なものを与えてくださったならば、使徒パウロおよび詩編作家の勧めを思い起こすことが適当です。「買う者は、あたかも所有していないかのように、この世のものを利用する者は、全く利用していないかのようにせよ。34」「富が増えても、それに心を奪われるな35。」なぜなら、天主ご自身、富の実りと使用権のみが私たちに属すること36(ただし他の人々をこれに与らせることを条件として)をお教えになったからです。

したがって、もし私たちが健康に恵まれ、身体に属するものをはじめその他諸々の外的善を豊かに有するならば、これの善が与えられたのは、天主によりよく仕え、かつ隣人にこの種のものを分かち与えるためであることを思い起こすべきです。

学芸をはじめとした精神・知性にとっての善ないし、これに光彩を与えるところのものは、祈り求めて差し支えありませんが、ただしこれらが天主の栄光と私たちの救霊に有益であるということが条件です。

純然に、何の制限も条件もなしに望み、探求し、祈り求めることができるのは、先に述べたように天主の栄光、ついで私たちをこの至上善に結びつけるもの、すなわち信仰、主に対する畏れと愛、および諸々の美徳ですが、これについては後に主祷文に含まれる7つの願いについて述べる際、ふれることとします。

何を祈り求めるべきかを会得した信徒は、さらに誰のために祈るべきかを知らなければなりません。しかるに祈りは願いと感謝を含むものであるため、まず始めに、誰のために利善を祈り求めるべきかを見ることとしましょう。

【脚注】
30 マテオによる福音書 20章22節
31 ヨハネによる福音書 15章7節
32 創世記 28章20節
33 格言の書 30章8節
34 コリント人への第1の手紙 7章30節
35 詩編61 11節
36 私たちが有する財産、所有物は、あくまで私たちの管理に託された「預かり物」であり、本来天主に属するものです。

(c) 聖ピオ十世会日本


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ルター派から改宗した ステン・サンドマルク神父様(聖ピオ十世会司祭)とのインタビュー

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 今から9年前に、パリのサン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会でルター派牧師がカトリック教会に帰正しました。

 皆様も覚えておられるかもしれません。

 【記事】パリのサン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会でルター派牧師がカトリック教会に帰正する

 【記事】2006年7月30日に、カトリックへの帰正式を行ったシュティン・サンマーク師の紹介

 ステン・サンドマルク師ですが、その後、2010年にドイツのツァイツコーフェンの神学校で叙階されカトリック司祭となりました。

 そして次のようなインタビューをなさっていますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

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動画「ユスト高山右近を讃う」歌【河合まり子 作詞・鈴木和之作曲】 みはたかき しろにありとも

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ユスト高山右近の、マニラでの帰天400周年を記念して、「ユスト高山右近を讃う」歌【河合まり子 作詞・鈴木和之作曲】をご紹介します。

 以下のYouTubeの動画では、聖ピオ十世会日本の巡礼団がそれを歌っています

 ユスト高山右近、我らのために祈り給え!





 歌詞は以下の通りです。

みはたかき しろにありとも
みちのこは みくにもとめて
ひたすらに たとう主のみ名
いときよき そのいさおし  
いざ 讃えん ユスト高山右近

もののふの みちけわしくも
パライゾを いのりもとめて
はらからに つどうみおしえ
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近

てにつるぎ むねにはクルス
マルチリの こころさだめて
あだびとに むこうおおしさ
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近

あだしよは ゆめにしあれば
とわのさち あおぎのぞみて
とつくにに うたうほぎうた
いと 聖き そのいさおし
いざ 讃えん ユスト高山右近



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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰のために祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。

 今回は、「誰のために祈るべきか」についてです。公教要理は、敵味方、国籍、宗教の別を問わず、全ての人のために祈らなければならないことを教えています。どうぞごゆっくりお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



§5 誰のために祈るべきか

敵味方、国籍、宗教の別を問わず、全ての人のために祈らなければなりません。

なぜなら、敵であれ、外国人であれ、異教徒であれ、隣人であることに変わりないからです。天主が私たちに隣人を愛することをお命じになったのですから、私たちが当の隣人のために祈るべきことは当然しごくです。

祈りは愛の重要な務めだからです。実際、これこそ使徒パウロが「すべての人のために祈るよう勧める37」、という言葉で促していることに他なりません。

祈りにおいてまず第一に、救霊に関することを願い求めねばなりません。身体に関することはその後のことになります。

私たちはまず、霊魂の牧者たちのために祈らなければなりません。使徒パウロはコロサイの信徒に「天主が私の宣教に活路を開いてくださるよう祈るように38」願って、私たちにこのことを示しています。使徒は、テサロニケの信徒にも同様の願いをなしています39。

さらに、使徒行録において、「ペトロのために、教会はたえず天主に祈りつづけていた40」ことが記されています。聖バジリオもまた、『道徳論』における次の章句をとおして、私たちにこの義務を思い起こさせています。「真理の言葉の宣布に携わる者のために祈らなければならない。41」

第二に私たちは、同じ使徒パウロの教えに即して為政者のために祈らなければなりません。敬虔で正義に対する熱意に満ちた為政者を持つことが、どれほど公の善益となるかは、皆に周知のことです。したがって、他者の上に立つ者が、その役職にふさわしい者たるよう天主に願うことが必要です42。

聖人らの模範は、善人、義人のためにも祈るべきことを私たちに教えています。なぜなら彼らもまた、他の者の祈りを必要とするからです。天主がこのように思し召しになったのは、自分より劣った者たちの祈りが必要であるのを認めて、当の義人が傲慢に陥らないようにするために他なりません。
また主は、私たちを迫害し、中傷する者たちのためにも祈ることをお命じになっています43。

聖アウグスチヌスの有名な言葉によって知られているように44、教会は使徒たちから、教会の外にいる者らのために切なる祈りをささげる習慣を受け継いでいます。これは、かかる祈りをとおして、不信仰者に信仰が与えられ、偶像崇拝者が不敬な誤謬から解き放たれるため、また、ユダヤ教徒が自らの知性を覆う闇を打ち払って真理の光を受け入れ、異端者が正気に立ち戻ってカトリック教会の教えに聞き従いるために他なりません。それはまた、いとも聖にして母なる教会の一致から離れた離教者が、真の愛徳の絆によって再びこれに立ち帰るためでもあります。

これらの者たちのために、真心からなされる祈りの効力がいかに強いものであるかは、天主が毎日、闇の勢力から解き放って愛する御独り子の御国に導き入れ、怒りの器から憐れみの器に変えられる、あらゆる身分・境遇の人々の群が如実に示しています。思慮分別のある者の中、誰も、敬虔な信徒の祈りが、当の人々の回心に及ぼす影響を疑いはしないでしょう。

死者の霊魂を煉獄の火から解放するために祈りを捧げることは、使徒たちの教えに基づいていますが、これについてはすでに、ミサ聖祭についての章で十分に述べました45。

「死に至る」罪と呼ばれるところの罪46を犯す者たちにあたっては、[彼らのためになされる]祈り、祈願が当の人々に為す益は甚だ少ないと言わなければなりませんが、しかしながらキリスト教的愛徳は、彼らに対する天主の憤りをなだめるべく、涙を流すほど切なる祈りを彼らのためにささげることを求めます。

33.多くの聖なる著者が不敬な者らに対して為すところの呪いの言葉は、教父らの教えにしたがえば、当の者たちにふりかかるであろう禍の予言、あるいは罪の力が滅び、[罪]人が救われることを目した、罪に対する死の願いの文句に他なりません47。

34.祈りのもう一方の部分においては、天主が今日までたゆまず人類にお与えになり、また日々お与え続けられる諸々の神的かつ不朽の恵み48について、厚い感謝をささげます。しかるに私たちは、とりわけ全ての聖人について天主に感謝し、主がその慈愛あふれる御心から、当の聖人らが内外の敵全てに対して勝利を収めることをおゆるしになったことに関して、天主を誉め讃えなければなりません。

35.これは天使祝詞の最初の部分に該当します。すなわち、「めでたし」、「聖寵満ちみてる」、「マリア」、「主御身と共に在す」という言葉をとおして、私たちは、至聖なる童貞マリア[の霊魂]を満たされた全ての天的賜について天主に賛美と感謝をささげ、同時に聖母ご自身に特別の祝辞を述べるのです。

36.この感謝[の祈り]に、聖にして知恵深き公教会は、至聖なる天主の御母に対する祈りないしは祈願を加えましたが、これは、私たちがその御許に敬虔かつ切なる願いの心をもって馳せ寄より、罪人である私たちを、その執り成しによって天主と和解し、また地上および永遠の生命に必要な恵みをかち得てくださるよう願うために他なりません。したがってエヴァの子として、この涙の谷に流刑の身で留まる私たちは、あわれみの御母かつ信徒の代願者にたゆまぬ祈りを捧げ、聖母が私たち罪人らのために祈り、執り成してくださるよう願うべきです。かかる祈りをとおして私たちは、誰にも天主の御前におけるその抜きん出た功徳と、人類を救うご意志とを疑うことは許されない方の助力と救済とを乞い願うのです49。

【脚注】
37 ティモテへの第1の手紙 2章1節
38 コロサイ人への手紙 4章3節
39 テサロニケ人への第1の手紙 5章25節
40 使徒行録 12章5節
41 聖バジリオ <Liber Moralium Reg.>, 56. c.5
42 テルトゥリアヌス <Apologia> c.30 および <Epistola ad Scap.> c.2 参照
43 マテオによる福音書 5章44節
44 聖アウグスチヌス <Epist. 10 ad Vital.> / 聖チプリアヌス <De Orat. Domin.>(『主祷文注釈』および教皇チェレスツィアノ書簡1 参照
45 ディオニジオ・アレオパギテス <De Eccl. Hierarch.> III. lib. c.6-7 / 教皇聖クレメンス 書簡1/ テルトゥリアヌス <De corona milit. et in exhortationem ad castitatem et in lib. Mon.> および聖チプリアヌス書簡1 参照
46 訳者注:すなわち大罪のこと
47 聖アウグスチヌス <Euch. > cap.100 / <De Civitate Dei> (『神国論』)lib. 20 c.24 ; lib.21 および <Contra Faust.> cap.21参照
48 訳者注 ここで言う「恵み」とは、広い意味でのそれであり、超自然的な「恩寵」と必ずしも同義ではありません。
49 S. Augstinus Sermo 18 de sanctis / S. Ambros. in 1 cap. Lucae / S. Bern. hom.3 in Missus est 参照

トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰に対して祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。

 今回は、「誰に対して祈るべきか」についてです。公教要理は、天主に、聖人達に、祈ること、そしてその意味の違いについてを教えています。どうぞごゆっくりお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

§6 誰に対して祈るべきか

37.天主に祈り、その聖なる御名を呼び求めるべきことは、聖書のみならず、人の自然な心情の中に刻み込まれています。前者における一例を挙げれば、詩編において天主は、「苦悩の日に私を呼べ。50」と命じておられます。しかるに、天主という名称の下に、3つの神的ペルソナを理解しなければいけません。

38.第2に、私たちは天上の聖人たちに祈ります。聖人に祈るべきことは、天主の教会においてかくも明確に定められているので、敬虔な信徒の誰一人として、これを疑うことは許されません。しかるに、この点については先に述べたので、司牧者と信徒は当該箇所を参照してください。

39.しかし、いかなる誤謬も信徒の無知につけ込まないように、信徒に、聖人に対する祈りが、どのような意味で天主に対する祈りと異なるものであるかを示すことが適当です。実際、私たちが天主と聖人らに祈るのは、同じ仕方ではありません。天主に対して私たちが求めるのは、天主ご自身が私たちに諸々の善きものをくださり、かつ私たちを害悪から救ってくださることに他なりませんが、聖人たちに祈るのは、彼らが天主の寵愛に浴しているがゆえに、私たちをその保護の下に置き、天主から私たちに必要なものを得てくださるようにであります。

40.ここから祈りの言葉上の違いが生じます。天主に対しては、言葉の固有の意味で「我らを憐れみ給え」、ないしは「我らの祈りを聞き給え」と祈りますが、聖人に対しては、「我らのために祈り給え」と申します。
無論、聖人たちがきわめて憐れみ深いかぎりにおいて、私たちに憐れみをかけてくださるよう願うことは許されますが、これはあくまでも[言葉の固有の意味ではない]別の意味においてに他なりません。したがって、聖人らに私たちの境遇上の惨苦を鑑みて、天主の御許における彼らの地位と、祈りとによって私たちの助力となってくださるよう願うことができます。

41.しかるに、天主にのみ固有に属することを、他の者に帰属することを注意して避けなければいけません。主祷文を聖人の像の前で唱える際、この聖人に願うのは、自らと共に祈り、主祷文に含まれることがらを天主に懇願してくださること、また天主の御許において自らの執り成し手および代願者となってくださることである旨、よく留意しなければいけません。聖人らが、かかる職務を果たすことを、聖ヨハネは黙示録において教示しています51。

【脚注】

50 詩編49 15節
51 黙示録 8章3節

トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「よく祈るために必要な心の状態」 (聖ピオ十世会訳)

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。

 今回は、「よく祈るために必要な心の状態」についてです。どうぞごゆっくりお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

§7 よく祈るために必要な心の状態


聖書中で「願を立てる前に準備を怠るな。主を試みる人に倣うな。52」と言われていますが、実際よく祈りながら悪い行いを為すこと、また天主に語りながら心を祈りからそらすことは、天主を試みることに他なりません。

42.したがって、いかなる心持ちにおいて天主に祈るかは、きわめて重要なことであるので、主任司祭は信徒に、ふさわしく祈るための規範を教え示さなければなりません。

よく祈るために必要な心持ちの第一は、真に謙遜で深くへりくだった心、ならびに自らの犯した罪を認める態度です。
当の罪は、天主に近づく者に、自分が何かを受けるに足りないばかりでなく、祈るためにそのみ前に出ることさえ値しない者であることを認知させるべきものです。聖書は、この心持ちにきわめて頻繁に言及しており、例として詩編中の、「主は、謙遜な者の祈りを聞き、その祈りを軽んじられない53」、さらに、「へりくだる者の祈りは雲を貫く54」という言葉を挙げることができます。ふさわしい学識を積んだ司牧者は、同様の言葉を数限りなく聖書から引くことができるでしょう。したがって、ここでは、余分な引用は控えることとします。
しかしながら、先に他の章で挙げた2つの例にかぎっては、これが今取り扱っている主題にきわめて適しているため、再び引用しなければいけません。
第1の、皆に周知の例は、遠く離れて立ち、天に目を上げることさえはばかった収税人の例です。
第2の例は、[自らの犯した罪に対する]悲しみにつき動かされて、主イエズス・キリストの御足を涙で潤した罪の女の例です。両者共、キリスト教的謙遜が、祈りにいかに大きな重みを加えるかを如実に示しています。

よく祈るために必要な第2の心情は、私たちの犯した罪を思い起こして抱く、ある種の悲嘆ないしは苦悩、あるいは少なくとも自分が十分自らの罪について悔恨を感じていないことに対する心の痛みです。
この2つの心情の両方、あるいは少なくともいずれか1つがなければ、罪の許しを得ることはできません。
しかるに、天主が私たちの祈りを聞き入れられることを殊更妨げる類の罪があり、その顕著な例として殺人および暴力が挙げられます。したがって、私たちは自らの手を、この種の凶暴かつ残虐な行為から遠ざけなければなりません。
天主は、イザヤの口をとおして次のように述べておられます。「あなたたちが[私に向けて]手を伸べるとき、私は目を背ける。どんなに祈りに祈っても、私は聞かない。あなたたちの手からは、血がしたたっているからである。55」

加えて、怒りおよび不和をも退けなければなりません。これらもまた、天主が私たちの祈りに耳を傾けることを大いに妨げるからです。
これについて使徒パウロの次の言葉が当てはまります。「男は怒らず、いさかわず、清い手をあげて、どんなところでも祈るようにと私は望む。56」

さらに、不正、ないしは侮辱を被った際に、それが誰であれ、これを為した者に赦しを拒む態度を示すことを避けなければなりません。実際、もし私たちがこのような心持ちでいるならば、祈りによって、私たち[の罪]を赦してくださるよう天主の心を動かすことは望み得ないからです。主ご自身、「あなたたちが立って祈るとき、誰かに恨みがあるなら、まずそれを赦せ57」と、また、「もしあなたたちが人の罪を赦さなければ、あなたたちの父も、あなたたちの罪をお赦しにならない58」、と仰せになっているからです。

また、貧苦にあえぐ者に対して、無情で冷酷たることのないよう、注意しなければなりません。このような態度をとる者に対して、次のように言われているからです。「貧しい人の声に耳をふさぐ人は、自分が叫ぶとき、聞いてもらえない。59」

傲慢については、何を言うべきでしょうか。これがいかに天主の不興を買うものであるかは、次の章句から明らかです。「天主は傲る者にさからい、へりくだる者に恵みをくだされる。60」

また、天主のみ言葉を軽んじる態度については、何と言うべきでしょうか。かかる心情に対しては、サロモン王の次の言葉を引くことができます。「教えを聞きたくなくて耳をふさぐ人なら、その祈りさえ、不快なものだ。61」
とは言え、この聖句は人殺しの祈り、怒る者の祈り、貧者に対して冷酷な者の祈り、傲慢な者の祈り、天主のみ言葉を軽んじる者の祈り、もしくは他の一切の罪を犯す者の祈りを、かかる過ちの赦しを願うかぎりにおいて、排除するわけではありません62。

よく祈るために必要な心の準備において、信仰もまた、欠かすことのできない要素です。これなしには、祈る者の信頼がそこから生ずるべき、いと高き御父の全能および慈悲についての知識を有し得ないからです。したがって主ご自身も、「あなたたちが信仰に満ちた祈りをもって乞い求めるなら、何でも与えられる63」と仰せになっています。聖アウグスチヌスも主のこの言葉にふれて、「もし信仰が欠けるならば、祈りも消え去ってしまう64」と述べています。したがって、よく祈るためにまず第一に必要なことは、堅く揺るがない信仰をもって祈ることです。これは、使徒パウロが逆説を用いて、「まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう65」と述べているとおりです。

したがって、祈ることができるために、また、天主に聞き入れられるに値する仕方で祈るために必要な信仰が欠けることのないように、信じることが必要なのです。 なぜなら、信仰こそ祈りの土台だからです。しかるに、祈りもまた、あらゆる疑いが取り去られ、信仰が堅く動じないものとなるために必要です。この意味で、アンティオキアの聖イグナチオは、天主のみ前に出て祈る者に次の勧告をなしています。「疑う心をもって祈ってはならない。疑わぬ者は幸いである。66」
したがって、天主から私たちの望むものを得るためには、信仰、および願うものを得る確かな希望とが、きわめて重要となります。これこそ聖ヤコボが「まようことなく、信仰をもって求めよ。67」と述べて私たちに教えていることです。

43.私たちが信頼をもって祈るよう励ます理由は、枚挙にいとまがありません。
まず第一に、私たちがご自分の子であることを悟らせるために、「私たちの父」と呼ぶようお命じになることをとおしてお示しになる、天主の私たちに対する非の打ちどころのないご意志、完全な仁慈が挙げられます。
また、およそ無数の、祈りを聞き入れられた者のことを忘れてはなりません。
また、いつも私たちの許にいてくださる我らの主キリストこそが、至高の執り成し手であることを思い起こしましょう。これについて聖ヨハネは、次のように述べています。「もし罪を犯す人があるなら、私たちは御父のみ前に一人の弁護者をもっている。それは義人のイエズス・キリストである。彼は、私たちの罪のための執り成しのいけにえである。68」また、聖パウロはローマ人への手紙で、「死んでよみがえり、天主の右に座し、私たちのために執り成してくださるイエズス・キリスト69」について語り、ティモテへの手紙で「天主と人間との間の仲立ちは、人間であるキリスト・イエズス一人である70」ことを述べ、最後にヘブライ人への手紙で、「天主の御許であわれみ深い忠実な大司祭となり、人々の罪をつぐなうために、すべてにおいて兄弟に似たものとならなければならなかった71」ことを告げています。
したがって、私たち自身としては、願うものを受けるのに値しないとしても、私たちのこの上ない執り成し手かつ仲介者である主イエズス・キリストの尊厳のゆえに、彼をとおしてふさわしく祈り求めるところのものを、天主がお与えになることを望み、それについて深い信頼を抱かなければなりません。

最後に、私たちの祈りの発起者は聖霊であり、聖霊の導きにしたがってなされる私たちの祈りは、必ず聞き入れられるという事実が挙げられます。「私たちは養子としての霊を受け、この霊によって私たちは、『アッバ、父よ』と叫ぶ72」のです。しかるに聖霊は、この祈りの義務において私たちの弱さと無知とをお助けになるばかりでなく、聖書中述べられているように、ご自身自ら「筆舌に尽くしがたい嘆きをもって、私たちのためにとりついでくださる73」のです。

しかし、もし、時として自らがためらいを生じ、堅い信仰を抱いていないのを感じる人がいるとすれば、当の人は、使徒たちと共に「主よ、私たちの信仰を増してください74」と、また福音書の盲人と共に「私の不信仰なのを助けてください75」と祈るべきです。
しかるに、信仰と希望76に満たされているならば、私たちは天主から、自らの望むもの一切を得ることができるでしょう。ただし、それは私たちの意志、思い、行いと祈りとが、すべて天主の法と御旨とに従っていることが条件です。実際、主は「もしあなたたちが私にとどまり、私の言葉があなたたちにとどまっているなら、あなたたちは、望みのままにすべてを願え、そうすればかなえられるだろう77」と仰っておられます。しかしながら、主から願う全てのものを得るためには、先に述べたとおり、受けた侮辱を赦すこと、また隣人に対して善を思い、為す心構えが、これに加えて必要不可欠です。


52 集会の書 18章23節
53 詩編 101 18節
54 詩編7 37節
55 イザヤ書 1章15節
56 ティモテへの第1の手紙 2章8節
57 マルコによる福音書 11章25節
58 マテオによる福音書 6章5節
59 格言の書 21章13節
60 ヤコボの手紙 4章6節およびペトロの第1の手紙 5章5節
61 格言の書 28章9節
62 訳者注 無論、真心から当の悪徳から立ち上がり、これを避ける決意を抱いていることが必要です。
63 マテオによる福音書 21章22節
64 聖アウグスチヌス 書簡10/説教36
65 ローマ人への手紙 10章14節
66 S. Ignat. Epist. 10 ad Heron.
67 聖ヤコボの手紙 1章6節
68 ヨハネの第1の手紙 2章1-2節
69 ローマ 8章34節
70 ティモテへの第1の手紙 2章5節
71 ヘブライ人への手紙 2章17節
72 ローマ人への手紙 8章15節
73 ローマ人への手紙 8章26節
74 ルカによる福音書 17章5節
75 マルコによる福音書 9章24節
76 訳者注 ここで言う「信仰」、「希望」とは、それぞれ対神徳しての「信徳」と「望徳」のことである。
77 ヨハネによる福音書 15章7節

(c) 聖ピオ十世会日本

トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性

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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰のために祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。

《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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 ローマ公教要理(トリエント公会議による公教要理)の「祈り」についての部分を更にご紹介します。

 今回は、「いかに祈るべきか」についてです。祈りは善いもので、有益なものですが、もしも正しく祈らないならば、何の役にも立たないからです。

私たちはしばしば、ふさわしくない仕方で祈っています。です。ですから、私たちは、ふさわしい祈り方を知ることにしましょう。どうぞごゆっくりお読み下さい。

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§ 8 いかに祈るべきか

44.しかるに、どのように祈りをなすべきかを知ることがきわめて重要です。なぜなら、祈りは善く、有益なものであるとは言え、もし正しくこれをなさないならば、およそ何の役にも立たないからです。
事実、往々にして私たちが祈り求めるものを得ないのは、「ふさわしくない仕方でこれを願うから78」です。したがって、教区司祭は信徒に、天主に願い求め、かつ私的に、あるいはまた公に共同で祈りをなす最善の方法を、他ならぬ私たちの主イエズス・キリストの教えにしたがって教えさとさなければなりません。

45.霊と真理とをもって祈らなければ79なりません。なぜなら、天の父は霊と真理とをもって祈る者をお求めにるからです80。

46.さて、霊と真理とをもって祈るとは、心の内奥から、熱い精神の注意を傾けて祈ることに他なりませんが、無論、口祷を当の霊的な祈りから除外すべきではありません。とは言え、内心からほとばしり出る祈り、人の隠れた思いを熟知される天主が(祈る者の)口に上ることなしに、お聞きになる祈りにこそ第一の座が与えられるべきです。
実際、主はサムエルの母アンナの、内的な祈りをお聞き入れになりました。
彼女が涙を流しながら、ただ[声を出さず]唇だけを動かして祈ったことが聖書中に述べられています81。
また、ダビドもこのような内的な仕方で祈りました。「あなたに私の心はこう言った。『主のみ顔を探せ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。82」聖書中いたるところに、この種の祈りについて述べた箇所を見出すことができます。

47.しかるに、口祷も、それに固有の有用性ならびに必要性を有しています。なぜなら、口祷は霊魂の熱情をかき立て、敬虔心を燃え立たせるからです。これこそ、聖アウグスチヌスがプロパに宛てた書簡中で述べていることです。すなわち、往々にして言葉およびその他の印は、私たちの心をより強く駆り立て、聖なる望みを増大します。また時として、この種の望みおよび敬虔心の力強さのために、私たちは自らの思い、感ずるところを言葉にして表すのを余儀なくされます。心が喜びに打ちふるえるとき、唇もまた打ちふるえることは、しごく当然のことです。さらに、これは私たちの霊魂と身体とが天主に対して負うところの二重の犠牲を、この上なくふさわしいかたちで捧げる手段でもあります。実際、使徒たちがこのようにして祈るのが常であったことを、使徒行録と聖パウロの書簡中に見受けることができます。

48.しかるに、祈りには、私的な祈りと公的な祈りという2種類の祈りがあり、前者で言葉を用いるのは、内心の感情と敬虔心とを助けるために他なりませんが、信徒の信心を鼓舞するために定められた祈りである後者においては、一定の定められた時に、言葉を用いずに祈ることは、およそ不可能です。

49.[言葉を用いずになされる]内的な祈りは、キリスト教信者に固有の祈りであり、異教徒はこれをいささかもなさないことを、主の次のみ言葉が示しています。「祈りの時に、異邦人のように無駄言を言ってはならない。異邦人は、言葉さえ多ければ、聞き入れてもらえる、と考えている。彼らのまねをしてはならない。あなたたちの父は、あなたたちが必要なものを、願わぬ先に知っておられる83。」

50.しかしながら、このように祈りにおける多弁を戒めておられる主が、強い持続的な心情から生じ来る長い祈りを禁じておられるのでは到底ないことは、他ならぬ主ご自身の例から明らかです。事実主は、しばしば夜を徹して祈られた84ばかりでなく、三度同じ言葉をもって祈られました85。したがって、結論として言えることは、[心の伴わない]むなしい言葉の音声のみでは、天主の御心を動かし得ないということにすぎません。

51.偽善者もまた、心からの祈りをなさないのであり、主は、彼らの悪習に倣うことのないよう次の言葉をもって諭しておられます。「また祈るときにも、偽善者のように振る舞ってはならない。彼らは、人に見せようとして、好んで、会堂や町角に立って祈っている。まことに私は言う。その人たちはすでに報いを得たのである。86」

52.「あなたが祈るときには、自分の部屋に入り、戸を閉め、かくれておいでになるあなたの父に祈れ。そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いてくださるだろう。87」ここで言われている「部屋」とは、人の心のことであると正しく解することができ、しかるに、祈る際には、この心に入るだけでは足りず、外部から祈りの純然さを害するものが忍び入らないよう、堅く閉じることが必要となります。このようにして初めて、各人の心と思いとを熟知される御父は、祈る者の願いをお聞き入れになるのです。

53.祈りがまた、忍耐強いものでなければないことを、天主の御子は、不正な裁判官の例をもってお示しになっておられます88。この、天主も人も恐れぬ裁判官は、やもめの我慢強くたゆまぬ願いに屈して、その求めることを聞き届けたのでした。したがって、辛抱強く天主に祈らなければならず、一度や二度祈った後、願うことを得られないのに落胆して祈るのをやめてしまう者たちに倣ってはなりません。主キリスト、および使徒らの権威が私たちに教える祈りの務めを果たすにあたって、飽き疲れるということがあってはなりません。そしてもし、時として私たちの意志が弱まるのを感じるならば、天主に、倦むことなく祈る力を祈り求めましょう。

54.天主の御子はまた、私たちの祈りがご自分の御名によって御父に達することをお望みになります。実際、この執り成し手の功徳と信用とによって、祈りは天の御父に聞き入れられるに値するものとなるのです。これは主が、ヨハネの福音書において述べておられることです。「まことに、まことに私は言う。あなたたちが父に求めることは、何でも、私の名によって与えてくださる。今まであなたたちは、何一つ私の名によって求めたことがないが、求めよ、そうすれば与えられる。そしてあなたたちの喜びは満たされる。89」また、「あなたたちが私の名によって何かを願うなら、私はこれを為す。90」

55.聖人らが祈りに注いだ、この上ない熱意をまねることにしましょう。また使徒たちの例に倣って、感謝を懇願の祈りに合わせましょう。かくのごとになすのが使徒らのならいであったことは、使徒パウロの書簡からうかがうことができます91。

56.さらに、断食と施しとを祈りに交えましょう。断食は祈りときわめてよく対を成すものです。なぜなら、飲食物で腹を十全に満たした者の精神は、天主を観想することも、祈りにおいて願うべき事物に思いをなすこともできぬほど鈍ってしまうからです。

57.施しもまた、祈りとたいへんよく調和するものです。実際、施しに頼る者を助ける財力を有しながら、当の隣人かつ兄弟に救いの手を差し伸べない者が、どうして愛徳を有していると言い得るでしょうか。また、愛徳を持たない者が、いかにして天主の助力を願い得るでしょうか。かかる者の祈りが聞き入れられるには、まず自らの罪の赦しを願い、同時に天主に愛徳の賜をへりくだって祈り求めることが必要です。

58.天主の御摂理は、人の救いがこの3つの手段によってとりはからわれることをお望みになりました。なぜなら、罪を犯すことをとおして、私たちは、あるいは天主に侮辱を加え、あるいは隣人に不正をなし、あるいはまた自分自身に危害を加えるのですが、聖なる祈りによって私たちは、天主の御心をなだめ、施しによって他人に加えた害の償いをなし、断食によって自らの生活の汚れを浄め落とすからです。この3つの救済手段が、全ての種類の罪に対して同様に有効であるとは言え、その各々は、先に述べたように、それに特別に当てはめ、意図された種類の罪に対応しています。

【脚注】
78 ヤコボの手紙 4章3節
79 ヨハネによる福音書 4章23節
80 霊と真理とをもって祈る、ということについてのより詳しい説明は、S.Cyril. Alexandr. per 17. libros integros ; S. Thom. <Summa theol.> 2. 1. quaest. 83 art.12を参照のこと。
81 サムエル記上 1章13節
82 詩編26 8節
83 マテオによる福音書 6章7節
84 ルカによる福音書 6章12節
85 マテオによる福音書 26章44節
86 マテオによる福音書 6章5節
87 マテオによる福音書 6章5節
88 ルカによる福音書 18章2節
89 ヨハネによる福音書 16章23節
90 ヨハネによる福音書 14章14節
91 例えばエフェゾ人への手紙 1章16節

トリエント公会議による公教要理 祈りについて (聖ピオ十世会訳)

トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの必要性
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの異なった部分および段階  (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「祈りにおいて願うべきこと」 (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「誰のために祈るべきか」 (聖ピオ十世会訳)
トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「よく祈るために必要な心の状態」 (聖ピオ十世会訳)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。

《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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そこにはユダヤ人のきよめのために準備されている石がめが六つあった 【ヨハネ2章】 四旬節への準備

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年2月18日は灰の水曜日、四旬節に入ります。イエズス・キリストは、構成勝に入る直前に40日の断食を荒野で行います。

 これについて「荒れ野での誘惑と無原罪の御宿り」で少し黙想しました。

 40日の断食の後、イエズスは、ヨハネ、アンドレア、ペトロ、フィリッポ、ナタナエルと会います。「それから三日目にガリラヤのカナに婚礼があった。」(ヨハネ2:1)

 この「三日目」は、使徒信経の「三日目に死者のうちよりよみがえり。Tertia die resurrexit a mortuis.」につながり、ヨナが怪物の腹の中に過ごした三日につながります。つまり第三日目は、復活のシンボルです。

 カナの婚宴での奇跡は、復活の奇跡の前兆でもあります。そこで、四旬節においてカナの婚宴の黙想を提案します。

 イエズス・キリストは、無からブドー酒を創ることもできました。下男の助けなど必要とせずに、大きな奇跡をあっという間に起こすことも出来ました。もちろんです! イエズス・キリストは、全能の天主であり、私たちが思いもつかない深い知恵を持ち、すべてをお望みのままに行うことが出来ます。

 しかし聖母マリア様は、イエズス・キリストが私たちの協力をお求めになることをご存じでした。私たちの従順をお望みになることをご存じでした。そこで下男たちに命じます。「なんでも、あの人のいうとおりにしなさい」と。聖母マリア様は、決して、天主の力を過小評価していたわけではありません。その反対です。天主の全能は、私たちの無力をさえ使うことが出来るほど偉大であることを知っていたのです。天主は、奇跡を行う前に、私たちの善意のしるし、あるいは、私たちの努力をお求めになることを、聖母マリアは知っておられました。

 イエズス・キリストは下男に「その石がめに水をいっぱいにしなさい」とおおせられます。

 「石がめ(複数)」(lapideae hydriae)がそこに6つありました。油を入れるかめでもなければ、ワインを入れるかめでもなく、水を入れるためのかめでした。しかも単なる石がめではなく、「そこにはユダヤ人のきよめのために準備されている三、四斗入りの石がめが六つあった」(Erant autem ibi lapideae hydriae sex positae secundum purificationem Judaeorum, capientes singulae metretas binas vel ternas)のです。つまり水以外のものは入れないかめでした。

 しかもそれは石で出来た重い瓶です。土器の軽い動かしやすいものではなく、何らかの理由で空となっていた石の容器です。この石がめに水を満たすことは、つまり、手を洗ったり、口をすすいだりする水を準備しなさいということだったのです。

 下男は「招待客は、手を洗うことではなく、もっと飲むことを望んでいます」とも反論を言うことも出来たかもしれません。しかし、黙って従います。下男たちは素直に石がめを口まで水でいっぱいにします。

 私たちが天主に至ることを妨害するものは、私たちの罪です。私たちはこの罪の汚れを浄めなければなりません。「さらに私を私の邪悪から洗い給え、そして私の罪から私を浄め給え。」Amplius lava me ab iniquitate mea, et a peccato meo munda me.(詩編50:4)このために、石がめが、ユダヤ人のきよめのために家の入り口に準備されていました。

 聖アウグスティヌスによると、これらの6つの石がめは、人類の浄めの6つの
歴史の段階だとのことです。聖アウグスティヌスの考えでは「預言は大昔からあったが、キリストを知ることを与えない預言は水である。キリストを認めるとき初めて預言はブドウ酒となる。キリストについて預言の意味は隠されたままだったので、預言は今に至るまで水であった。預言が満たされ石がめが一杯になったのは、水がブドウ酒に変わる時に、キリストが全ての預言の中で知られるためである。預言は全世界のあらゆる国民の救いに関わるものとして与えられた。
 第一の時代は、アダムからノエまで。太祖、アダムとエワは全人類の祖であった。「『これがために男は父と母とを離れ、妻と合って、二人は一体となる』。この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである。」(エフェゾ五章)
「聖父を離れた」というのは、聖父と等しい形においてではなく人間たちに自らを現したこと。「母を離れた」とは、キリストは肉によればユダヤ人から生まれたが、その会堂を捨ててご自身を教会に結びつけたから。
 第一の石がめはキリストについての預言を持っていた。しかし「この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである。」ということが明らかにされないうちはまだ水であった。ブドウ酒に変わっていなかった。アダムが眠っていた時、エワが生まれた。第2のアダムであるキリストが死の眠りについた時、第2のエワである教会が生まれた。エワは眠っているアダムの脇腹から生まれた。死の眠りについたキリストの脇腹は槍で刺され、多くの神秘がそこから流れ出て、教会が形づくられた。
 第二の時代は、ノエからアブラハムまで。
 キリストはノエの中にも予表される。方舟のなかにあらゆる動物が土井込めれられたのは、全世界のあらゆる民族を意味するためであった。木の方舟によって全地の命は木によって結ばれなければならなかった。
 第三の時代は、アブラハムからダヴィドまで。
 アブラハムの一人子イサアクは木を背負って自分を犠牲として差しだそうとした。主は十字架の木を背負われた。
 第四の時代は、ダヴィドからバビロンに移されるまで。
 ダヴィドは、その詩篇のほとんど全てでキリストについて預言している。
 第五の時代は、バビロンに移されてから洗者聖ヨハネまで。
 ダニエルは幻に、人手によらないで山から切り出された石が全ての王国を砕いたのを見た。そしてその石が成長して大きな山となり全地の表面を覆うのを見た。人手によらないで生まれた石とは、童貞から生まれたキリストではないか。キリストの王国は全世界に及ぶ。
 第六の時代は、洗者ヨハネから世の終わりまで。
 洗者ヨハネは、天主は石ころからもアブラハムの子孫を創ることができると言われた。ここで全ての国民、民族は石ころといわれている。つまり信仰を模倣することによって、天主は全ての民をアブラハムのことすることが出来る。従って、この石がめの預言も全ての民族と国民に属していた。

 ところで、ドン・モンレオン(Don Monleon)著の「カナの婚宴」(Noce de Cana) によると、聖ベルナルド、大聖アルベルト、聖ボナベントゥーラらは6つの石がめが6つの神秘的な浄めを意味すると言っています。

第1の石がめは、施し
第2の石がめは、心の痛悔
第3の石がめは、告白の秘蹟
第4の石がめは、祈り
第5の石がめは、赦すこと
第6の石がめは、苦行

 第1の施しとは、すべての愛徳の業を意味します。レベッカの水瓶の例があります。アブラハムはイサアクの結婚相手を探すためにエリエゼルを使者として送ります。エリエゼルはまず天主に祈り、天主がふさわしい相手を示して下さるように願います。その祈りの直後、レベッカは水瓶(Hydria)を肩に載せてやってくるのです。レベッカは水を汲んできたばかりで家に帰るところでした。エリエゼルはレベッカにすこし水を恵んでくれるように頼むと、レベッカは、さあどうぞ、と肩から水瓶を下ろして水を与えます。エリエゼルのお供にも水を与えます。しかも10匹のらくだにも水を与えます! これが最初の水瓶です。愛徳と施しの石がめです。
 イエズスは、水で手を洗う外見的な浄めよりも、施しの大切さを説いています。聖ルカによる福音の11章にはこうあります。「イエズスが話しておられたとき、あるファリザイ人が、自分の家で食事をしてくださいといったので、イエズスははいって席にお着きになった。すると、イエズスが、食事前にまず手をお洗いにならないのを見て、ファリザイ人があやしんだので、主はその人におおせられた。"あなたたちファリザイ人は、杯と皿との外を清めるが、内は強奪と罪悪とにみちている。おろか者どもよ。外をつくったお方は、また内をもおつくりになったのだ。むしろ、あなたたちのもつものを施せ。そうすれば、あなたたちにとって、すべてが清くなるだろう。"」
 聖マテオによる福音では、天主の裁きは愛徳と施しについてまずなされるだろうことが言われます。
「あなたたちは、私が飢えていた時に食べさせてくれ、かわいている時に飲ませてくれ、旅にいた時に宿らせてくれ、裸だった時に服をくれ、病気だった時に見舞ってくれ、牢にいた時に訪れてくれた」と。さらに「あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり私にしてくれたことである。これらのもっとも小さな人々の一人にしてくれなかったことは、つまり私にしてくれなかったことだ」(マテオ25)と。

第2の石がめは、心の痛悔です。
旧約のサムエルの書下の第11章にはダヴィド王とベトサベとの事件が描かれています。ベトサベという極めて美しい女性は、ある日の午後遅く、自分の家の屋上のテラスで体を洗っていました。ダヴィドは王宮の屋上からそれを目に入れると、すべてを忘れるほどベトサベに心を奪われます。ダヴィドは正気を失ってしまいます。自分の情欲を押さえきれず、ダヴィドはベトサベと罪を犯します。
聖アンブロジオによると、この霊的な意味は次の通りです。王宮の屋上から町を眺めるダヴィド王は、天の高みからこの地上を見下ろしご自分を愛する霊魂を探しているキリストを意味し、ベトサベは痛悔し、精神の最も高いところで身を罪から清めている霊魂を意味する、こうすることによって罪を痛悔する霊魂は王であるキリストの心にふれ、その霊魂を愛する、と。その時、すぐに、この霊魂は不浄から浄められる、と。

第3の石がめは、告白の秘蹟です。使徒信経にあるように「我は罪の赦しを信じ奉る」。痛悔女聖マグダレナのように、涙を流すだけでなく、世間体を顧みずに、イエズスの足下に行き、涙と悲しみとその態度で自分が罪人であることを認めます。そこで、最高の司祭であるイエズスから罪の赦しを得るのです。彼女は泣きながら、イエズスのうしろ、そのおん足の近くに立ち、涙でおん足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、おん足にくちづけして、香油をぬります。
「だから私はいう。この人の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したのだから。少しゆるされる人は、またすこししか愛さない」とおおせられ、女に向かって、「あなたの罪はゆるされた」と断言します。

第4の石がめは、祈りです。
私たちの主イエズス・キリストは、霊と真理とをもって祈る礼拝者を求めています。「まことの礼拝者が、霊と真理とをもっておん父を拝む時がくる。いやもう来ている。おん父は、そういう礼拝者をのぞんでおられる。天主は霊であるから、礼拝者も、霊と貞理とをもって礼拝しなければならない」(ヨハネ5章)と。
トリエント公会議による公教要理によれば、霊と真理とをもって祈るとは、心の内奥から、熱い精神の注意を傾けて祈ることに他なりません。内心からほとばしり出る祈り、人の隠れた思いを熟知される天主が(祈る者の)口に上ることなしに、お聞きになる祈りです。実際、主はサムエルの母アンナの、内的な祈りをお聞き入れになりました。彼女が涙を流しながら、ただ[声を出さず]唇だけを動かして祈ったことが聖書中に述べられています。また、ダビドもこのような内的な仕方で祈りました。「あなたに私の心はこう言った。『主のみ顔を探せ』と。主よ、私はみ顔を探し求める。」聖書中いたるところに、この種の祈りについて述べた箇所を見出すことができます。
「あなたが祈るときには、自分の部屋に入り、戸を閉め、かくれておいでになるあなたの父に祈れ。そうすれば、隠れたことをご覧になるあなたの父が、報いてくださるだろう。」ここで言われている「部屋」とは、人の心のことであると正しく解することができ、しかるに、祈る際には、この心に入るだけでは足りず、外部から祈りの純然さを害するものが忍び入らないよう、堅く閉じることが必要となります。このようにして初めて、各人の心と思いとを熟知される御父は、祈る者の願いをお聞き入れになるのです。

第5の石がめは、赦すことです。イエズスは私たちに「我らが人に赦す如く、我らの罪を許し給え」と祈ることを教えられました。「あなたたちは、おん父が慈悲深くあらせられるように、慈悲深いものであれ。ひとを裁くな、そうすればあなたたちも裁かれない。ひとを罪にさだめるな。そうすればあなたたちも罪に定められない。ゆるせ、そうすればあなたたちもゆるされる。与えよ、そうすればあなたたちも与えられる。押しいれ、ゆりいれ、あふれるほどの、充分なはかりのものが、あなたたちの服のひだに入れてもらえる。あなたたちは、自分の量るはかりで量られるのである」(ルカ6章)と。
最初の殉教者聖ステファノは、これを実践しました。かれらが石を投げつけているとき、ステファノは、「主イエズスよ、私の霊をお受けください!」と天主にこいねがい、それからひざを折って倒れ、「主よ、この罪をかれらに負わせないでください!」と大声で叫び、そうして眠りについたのです。

第6の石がめは、苦行です。ニニヴェの町は、40日の間、償いの苦行をして助かりました。私たちにとっても40日の四旬節は、浄めの意味があります。第6の石がめです。この四旬節の水がめが満たされるとき、つまり、復活祭には、水は最高のブドウ酒と変わり、私たちの霊的変化の奇跡が起こるでしょう。

聖母マリアは私たちに「なんでも、あの人のいうとおりにしなさい」と言われます。イエズスは私たちに「その石がめに水をいっぱいにしなさい」と言われるでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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【報告】2015年2月15日五旬節の主日 聖ピオ十世会 大阪での聖伝のミサ レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日の2月15日にはレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。次のようなご報告を戴いたのでご紹介いたします。
レネー神父様には深く感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2月は御ミサのご報告です。
15日 五旬節の主日には、20人の方が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ グラチアス!

お説教は、
現代社会は、天主を拒絶し、天主の権利を拒絶しているが、私達はマリアの子になること、サタンとその国を拒絶し、キリストの愛の国を選んだのであるから、天主の敵との大いなる戦いに参加しなければならず、この戦いには主イエズス・キリストの恩寵が必要で、これを得る為には第一に祈りと黙想、第二に遷善の決心、第三に苦行である。
これらをマリア様のマントの中で祈りと信頼を持っておこなえば、謙遜に、主イエズス・キリストに忠実であることが出来る。という内容でした。

御ミサの後には、たくさんの御影や聖アルフォンソの『聖母の鎖』、新しく買い替えた車の祝別をお願い致しました。
食事の時に、神父様への信徒の方からのお土産のお菓子を『四旬節前に、四旬節前に、』といいながら皆に配って下さいました。
四旬節に向けて、良い決心を立て、天主様の御助けによってそれを実行し、良い御復活の準備をしたいと思います。

《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

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ラ・サレットの聖母「私はあなた方に、六日間の労働の日を与え、七日目は私に取って置いた」 四旬節の黙想

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日の2月18日は、灰の水曜日でした。「人間よ、おまえは塵であって塵に戻ることを覚えよ。」
 天主は、私たちに真理を教えてくれます。私たちを幻想から目覚めさせてくれます。
 私たちはどれほど多く「この地上に永遠にいる」という幻想を抱いてこの地上のことだけに専念し、「この地上に楽園を作ろう、永遠のすみかを作ろう」とうつろな望みを抱いていることでしょうか!
「人間よ、おまえは塵であって塵に戻ることを覚えよ。」

 私たちは、ついには塵に戻らなければならない塵に過ぎないことを、どれほどすっかりと忘れていることでしょうか!
 永遠の天国に行くためにこの世につかの間の生を受けていること、私たちに必要なことはただ一つ、つまり私たちの救霊であること、真の天主に嘉する唯一の宗教であるカトリックの教えのことを、私たちははっきりと覚えなければなりません。

 ラ・サレットの聖母マリア様はこう言われます。
「もし、私の民が従おうとしないなら、私は御子の手がなさるがままにせざるを得なくなります。その手はもう私が支えることができないほど、ずっしりと重いのです。」
 「私はあなた方のためにずっと苦しんでいます!御子があなた方をお見捨てにならないようにと私が望む限り、私は絶えずそう祈らなくてはなりません。ところがあなた方と言えば、そんな事におかまいなしです。あなた方がこれから祈っても、行動しても、私があなた方のために負った苦しみを決して償えないでしょう。」
 「私はあなた方に、六日間の労働の日を与え、七日目は私に取って置いたのに、誰も私にそれを承知したがりません。それが御子の腕をこんなにも重くしているのです。・・・」

 カナの婚宴では、マリア様のお言葉を通して、イエズス・キリストは6つの石がめに水を入れることを命じました。

 マリア様は、ラ・サレットで「私はあなた方に、六日間の労働の日を与えた」そして、最後の「七日目」はご自分のためにとっておいた、と言われるとき、もちろん主日を聖化することをお望みであると同時に、私たちの6つの自分の聖化のための努力をお望みであること、そして本当に私たちが自己聖化するのは、最後のマリア様の思いのままに取っておかれていると言われているようにも聞こえます。

 では、この40日間の四旬節を聖なる時期として過ごすことが出来るように聖母の汚れなき御心に取り次ぎを願いましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





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公教要理図解(ワグネル訳)
カトリック中央協議会編集の公教要理(1958年)
聖ピオ十世 公教要理詳解
ローマ公教要理 【使徒信経の部】



トリエント公会議による公教要理 主祷文 天に在す我らの父よ の意味について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ラ・サレットの聖母は、すべてが失われた、万事休すだ、と思われるほど事態が悪化したとき義人の祈りと犠牲とによってすべては天主の憐れみによって奇跡的な聖なる変化が起こる、と。こう言います。
「(...)人々はすべてが失われたと思うでしょう。どこを見ても人殺し、どこででも戦争の騒ぎと冒漬が聞かれるでしょう。義人は大いに苦しむでしょう。彼らの祈り、彼らの悔俊、彼らの涙は天にまで届き、すべての天主の民は赦しとあわれみを乞い、私の助けと取りなしを願うでしょう。その時、イエズス・キリストは、御正義の業によって、義人たちへの大いなるあわれみの業によって、天使たちに命じて、御自分のすべての敵を死にいたらせるでしょう。突然、イエズス・キリストの教会を迫害する者と罪に溺れた人々全員は滅び、地上は砂漠のようになるでしょう。その時平和になり、天主と人々との間に和解が成るでしょう。イエズス・キリストは仕えられ、崇められ、光栄をお受けになり、いたる所で愛徳の花が咲きみだれるでしょう。新しい王たちは聖なる教会の右腕となり、教会は強く、謙遜に、敬虔に、貧しく、熱心になり、イエズス・キリストの御徳に倣うものとなるでしょう。福音はどこでも宣べ伝えられ、人々は信仰において大いなる進歩を遂げるでしょう。それは、イエズス・キリストの働き手の間に一致ができ、人々は天主への畏敬の内に生きるようになるからです。」

「私はこの地上に緊急の呼びかけを送っています。私は天で生きかつしろしめし給う天主の真の弟子たちに呼びかけます。私は、人となり給いしキリスト、人類の唯一かつ真の救い主に真に倣う人々に呼びかけます。私の子供たち、私への真の信心を持つ人々、私が御子へと彼らを導けるように自らを私に委ねた人々、私がいわば両腕に抱いて運んでいる人々、私の精神において生きた人々に呼びかけます。そして最後に、最後の時代の使徒たちに、世をさげすみ、自分自身をさげすみ、清貧に謙遜に、軽蔑と沈黙の内に、祈りと苦業の内に、愛徳と天主との一致の内に、苦しみの内に、世に知られずに生きてきた、『イエズス・キリストの忠実な弟子たち』に呼びかけます。(...)」

 四旬節です。謙遜に自分をさげすみ、そして天主への信頼を込めて、祈りましょう。

 そこでトリエント公会議による公教要理の主祷文についての説明を聞きましょう。「天にまします」の祈りの深い意味を味わいながら、四旬節にこれを祈りましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





第12章 主祷文 天に在す我らの父よ

1.主イエズス・キリストが私たちにお残しになったこのキリスト教的祈祷文は、その構成上、私たちの祈りと願いとを言い表す前に、ある種の序文とも言うべき文句を述べるようになっています。しかるに、この「序文」に含まれる一つ一つの言葉は、敬虔な心をもって天主に近づく者に、よりいっそうの信頼をもってそのみ前に出るよう促すものです。司牧者の義務は、信徒がすすんで祈りに励み、また、当の祈りにおいて彼らが父なる天主に語りかけるものであることを悟るよう、これらの言葉を別々に、わかりやすく説明することです。
さて、当の序文は、言葉上はたいへん短いですが、しかしその言い表す内容を考えると、きわめて重要かつ神秘に満ちたものです。

§ I. 我らの父よ

2.さて、天主の命じ定められたところに従い、この祈祷文で私たちが最初に唱える言葉は「父」です。
なぜなら私たちの救い主は、この神的な祈りを「創造主」あるいは「主」といった、より荘厳な言葉で始めることがおできになりましたが、私たちの心に恐れの念を生じ得るこれらの語を用いるのをよしとされませんでした。
しかるに、祈る者、天主に何かを願う者に、愛と信頼の念を芽生えさせる、この「父」という言葉をお選びになりました。事実、仁慈と寛容の意味合いに富んだ、この「父」という言葉よりも快く甘美なものがあるでしょうか。

3.この名称が、天主にきわめてよく当てはまるものであることを信徒に示すための理由は、天主による万物の創造、統治、贖いから容易にくみ取ることができます。
天主が人間をご自分の似像にすがたに似せてお造りになり、また地上に生きる他のいかなる被造物にも、この特権をお与えにならなかったという、人類に与えられたこの特別の恵みのゆえに、聖書は天主を信徒、異教徒を問わず、全ての人の父と呼んでいます。
天主による天地万物の統治からも、天主がいかに父と呼ばれるにふさわしい方であるかを推し量ることができます。実際天主は、人々の利便を始終はからい、特別な配慮と御摂理をとおして、真に父らしい慈愛を私たちにお示しになります。

4.しかるに、人々に対する父なる天主のご配慮をよりよく示すために、人々の守護にあたる天使らについて、ここで一言述べることが適当であると思われます。

5.人類全体を保護し、またその一人々々を助け、種々の危害から守るというこの責務が天使たちに与えられたのは、他ならぬ天主の御摂理によるものです。
敵が潜む危険な道を子に旅させる親は、危難に遭う際の助け手となるべき守護者をつけるものです。同様に、天の祖国に至るべく私たちの歩むこの道程において、天の御父は私たち一人々々に天使をおつけになりました。それは、これら天使の助力と不断なる保護の下で、私たちが敵の隠した罠を避け、私たちに降りかかる恐るべき攻撃を打ち払うため、またその導きの下に正道を歩み、敵が道中に備えた惑わしに惹かれて天に至る道からそれることのないためにです。

6.さて、天主の人間に対する配慮かつ特別な御摂理は、本性上、両者の中間に在る天使らに、その具体的適用が使命として課されているのですが、これがいかに人々にとって有益なものであるかは、聖書中に見出されるおびただしい数の例が如実に示しています。かかる章句において、天使らが人々の目前で驚くべき業を成し遂げたことが記されていますが、これをとおして、守護の天使が目に見えない仕方で、数知れぬ同様の所業を、私たちの利善と救いのために為すものであることが分かります。

7.かくして、天主がトビアに旅の道連れかつ導き手としてお与えになった大天使ラファエルは、彼を首尾よく目的地へと至らせ、しかる後、無事に郷里へと帰還させたのでした。道中トビアが大魚に食べられそうになった際、この窮地から救い、魚の肝と胆汁、心臓とが含む薬効を教えたのは、他ならぬこのラファエルです。
また同じラファエルは、悪魔を追い払い、その力を封じ込めてトビアに害を為すのを妨げました。さらには、婚姻の、天主の法に適った真の則のりを青年トビアに教え、盲目になっていた父を癒したのもラファエルでした。

8.使徒らの長、聖ペトロを監獄から救い出した、かの天使も、天使の守護ならびに配慮がもたらす驚嘆すべき実りを信徒に示すための豊かな題材となります。司牧者は、当の天使が牢獄を照らし1、ペトロのわき腹にふれて起こし、鎖を解き、足かせを砕き、立ち上がってサンダルを履き、衣をまとって自らの後に従うよう命じたこと、またこの天使が警護の兵士らの間を何の妨げもなく通り過ぎ、牢獄の扉を開き、安全な場所に至らせたことを信徒に思い起こさせるべきです。

9.先に述べたとおり、この種の例は聖書中に散在しており、天主が天使らの仲介と執り成しによって人々にもたらされる善益が、いかに大きな効力を有するものであるかを浮き彫りにしています。事実、天主が私たちに天使らをお遣わしになるのは、個別の限られた物事に関してのみならず、私たちの生まれたその時から、たえず私たちを守るためにおつけになるのであり、また全ての人は、その救霊のために尽力する守護の天使の保護を各々受けるのです。

10.当の教えを入念に説くことによって、聴衆の心は奮い立ち、父なる天主が自分たちの上に注がれるご配慮とみ摂理とを認め、敬うよう促されるでしょう2。

11.ここで司牧者は、人類に対する天主の仁慈の、あふれるほど豊かな宝蔵を、ことさら強調して教え諭すべきです。なんとなれば、人類ならびに罪の元親であるアダムに始まって今日に至るまで、無数の罪悪と醜行とに耐えてこられた天主は、これにも関わらず、私たち人間に対する愛の御心をお失われにならず、格別の配慮をお注ぎになり続けられるからです。

12.天主が人々のことをお忘れになると考えるのは、愚昧ぐまいの極みであり、天主に対するこの上ない侮辱を為すこととなります。
事実、天主は、天の助力から見放されたと思いなしたイスラエルの民に対し、ご自分をぼうとくするものであるとして、御憤りをお示しになりました。これは出エジプト記中、「彼らは、『はたして天主は私たちのうちにおられるのか?』と言って主を試みた3」、またエゼキエルの書において、「当の民が『主は私たちを見ておられない。主は私たちを見放され、国を捨ておかれた』、と言ったので、天主はお憤りになった4」とあるとおりです。
したがって、聖書中のこれらの章句の権威によって、天主が人々のことをお忘れになり得るという、甚だ厭いとうべき見解を信徒がよもや抱くことのないよう図らねばなりません。

イザヤ書でも、イスラエルの民が天主に対する不平をもらしたこと、また天主が彼らの愚かな不平を、譬たとえをもってお退けになったことが述べられています。すなわち、「シオンは言った、『主は私を見捨て、私を忘れられた』と。女が、その乳飲み子を、母がその懐の子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、私はおまえを忘れない。見よ、私はおまえを手の平に刻みつけた。5」とあるとおりです。

13.上記の引用箇所は、この点を明示してあまりありますが、天主が片時も人間のことをお忘れにならず、たゆまず慈父の愛をお示しになることを信徒に深く了解させるために、主任司祭は、皆に周知の人祖の例を引くべきです。
人祖が天主の掟を軽んじて、これを破ったとき、たしかに天主は彼をきわめて厳しくとがめ、次の言葉をもって断罪されました。「地はおまえのゆえに呪われよ!おまえは苦労して地から糧を得るだろう、命のつづく限り。地はおまえのために茨とあざみを生やし、おまえは地の草を食べねばならない。6」
しかる後、両人を楽園から追放し、そこに戻る望みを絶やすべく、火のケルビムを楽園の扉の前に置き、天使は「炎を放つ剣をたゆまずかざして」これを守りました。それのみならず、天主は、彼らがご自分に対して為した侮辱の報復として、人祖に諸々の内的および外的罰をお課しになりました。これら全てのことを見ると、人間の命運はもはや尽きたと思われないでしょうか。また、人類は天に見放されたのみならず、ありとあらゆる苦難にさらされたものと、私たちの目に映らないでしょうか。しかるに、かくも多くの天主の憤りと報復の印の中に、最初の人間に対する天主の慈愛の光明が現れました。「主なる天主は、アダムとその妻とのために、皮衣をつくり、彼らにお着せになった7」のです。このエピソードは、天主が人々をお見捨てになることは、決してないことを何よりも明らかに示しています。

14.天主の人間に対する愛が、これの犯す罪業のために尽きてしまうことは、およそあり得ないという事実を、ダビドは次の言葉で表しています。「天主は、よもや怒ってみ心を閉ざされ、あわれみをお忘れになるだろうか。8」
また、預言者ハバククは、天主にこう語りかけて同じ考えを示しています。「お怒りになるときも、御あわれみを思い起こしてください。9」
同じくミカヤは、「あなたのように咎とがを除き、あなたの世継ぎである民の、残りの者の罪をお見過ごしになる、そんな天主がふたりとあるでしょうか。天主は怒りをもちつづけず、あわれむことを喜びとされる。10」

15.実際、私たちが天主のご保護を失い、万事休したと思うまさにそのときこそ、天主はかぎりない仁慈の御心をもって、私たちを探し求め、ご配慮をお尽くしになるのです。なぜなら、天主はそのお怒りの中にも、正義の剣を差し控え、御あわれみの尽きせぬ宝を注ぐのをお止めにならないからです。

16.このように、万物の創造と統治とは、天主が人類を特筆すべき仕方で愛され、お守りになることを如実に示すものです。しかるに、人間の贖いの御業は、両者11の間にあって、かくも際立った輝きを放つのであり、きわみなく慈愛深き父なる天主が私たちに施されるご厚意の、まさに最たるものです。

17.それゆえ主任司祭は、自らの霊的な子らである信徒に、天主の私たちに対するこの比類なき愛を倦むことなく説き、自分たちが贖われ、驚嘆すべき仕方で天主の子となったことを教え諭すべきです。実に聖ヨハネが述べるとおり、天主は彼らにご自分の子となる権能を授け、かくして彼らは天主から生まれたからです。12
贖いの第一の保証かつ記念である洗礼が、「再生の秘蹟」と呼ばれるのも、まさにこのために他なりません。洗礼によってこそ、私たちは天主の子として生まれるからです。主ご自身、「霊から生まれたものは霊であり」、また「新たに生まれなければならない13」と述べておられるとおりです。同様に、使徒聖ペトロも「あなたたち[信徒]が新たに生まれたのは、朽ちる種によるのではなく、永遠に生きる天主のみことばの朽ちない種による14」ものであることを教えています。

18.当の贖いのおかげで私たちは聖霊を受け、また天主の恩寵を受けるに値する者となったのです。この賜によって私たちは天主の養子となるのですが、これは使徒パウロがローマ人への手紙で述べていることに他なりません。すなわち、「あなたたちは、再び恐れにおちいるために奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた」のであり、「これによって私たちは『アッバ、父よ』と叫ぶ15」のです。天主の養子とされる、というこの驚くべき奥義の含む力と効果とを使徒ヨハネは、「御父がどれほどの私たちにお注ぎになったかを考えよ。私たちは天主のこと呼ばれ、また実にそのとおりだからである16」と述べて、示しています。

19.以上のことを説明した後、司牧者は、かくも慈愛に満ちた父なる天主に対して当然示すべき態度を信徒に教え諭さなければなりません。すなわち、自らの創造者、支配者、かつ贖い主である方に、どれほど強い愛、敬虔、従順ならびに崇敬の念を示し、またどれほど大きな希望と信頼とをもってその御名を呼び、これに祈るべきかを了解するよう尽力しなければなりません。

20.しかるに、順境ないしは思うように生活上のことがらが首尾よく進むことのみをもって、天主が私たちに対する愛をお保ちになることの証とし、反対に逆境や苦難が降りかかる際には、それを天主が私たちに対して敵対心を抱き、さらにはその御心を私たちからことごとく遠ざけられた印と見なす者がいるならば、かかる無知および誤謬を氷解するために、天主の御手が私たちを打つとき、主は敵意をもってこれをなさるのではおよそなく、かえって癒すためにこそ私たちの身を打たれること、また天主からもたらされた傷は薬に他ならないことを教示すべきです。

21.実際、天主が罪人を懲らしめられるのは、かかる懲罰によってこれをより善い者とし、現世における訓戒をもって永遠の滅びから救うために他なりません。たしかに「主は私たちの罪に、鞭をもって、また私たちの悪に、杖をもって訪れになる」としても、「私たちからその御あわれみを取り去られることはない」17からです。

22.したがって、信徒がこの種の懲罰の中に父なる天主の仁愛を認め、かつ忍耐心の比類なき模範であるヨブの言葉を心にとどめ、口で唱えるよう励まさねばなりません。すなわち「主は懲らしめた後に助け起こされ、むち打ったその同じ手で癒される18」のですが、これは預言者エレミアが、イスラエルの民の名において次のように述べていることと相通ずるものです。「あなたは私を、あたかも馴らされていない子牛のように懲らしめられ、しつけられました。私を立ち戻らせてください。そうすれば私は立ち戻ります。あなたは私の天主および主なのですから。19」

23.信徒の側においては、たとえどのような難儀をこうむったとしても、また、いかなる災厄に見舞われようとも、よもや天主がこれをご承知にならないと思いなすことのないよう、くれぐれも注意しなければなりません。
主ご自身が、「あなたたちの髪の毛一本さえ失われることはない20」、と確証しておられるからです。かえって、黙示録中の、「私は愛する者を責めて罰する21」という天主のみ言葉をもって自らを慰め、また使徒パウロがヘブライ人への手紙で、当地の信徒を激励すべく記した次の章句を乙のが身に当てはめて、心を落ち着けるべきです。「我が子よ,主の矯正を軽んじることなく、また主に咎とがめられてくじけてはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れる子をすべてむち打たれるからである。あなたたちが試練を受けるのは、懲らしめのためであって、天主はあなたたちをこのように扱われる。もし懲らしめを受けなければ、あなたたちは私生児であって、真の子ではない。また、あなたたちを懲らしめる肉体の父親を敬っていたのなら、霊の父には、命を受けるために、なおさら服従しなければならない。22」
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