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聖ピオ十世会 SSPX 大阪での復活の主日のミサ 【聖伝のミサ Latin Traditional Mass】 報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪での復活の主日のミサ聖祭のご報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 改めて、レネー神父様に感謝いたします。

 来る、金、土曜日と大阪で聖伝のミサがあります。また、主日には東京でいつもの通り聖伝のミサがあります。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

Alleluia !

主のご復活のお慶びを申し上げます。

2015年4月5日 主のご復活の主日には、17人、
翌日6日 ご復活の月曜には9人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。 デオグラチアス!!

キリストの神秘体は、現在美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されてはいるけれども、それでも唯一まことの神秘体であるのだから、
受難の間も危機の時も最後まで聖母とともに忠実であり続け、主イエズス・キリストの権威のうちに私達も復活させて頂くよう願わなければならないと本日のお説教にありましたように、
私たちの今の状況は仮の聖堂、少人数で、まわりからはミサに列席する事を反対されたり文句を言 われたり、まったく惨めな神秘体のようでありますが、最後まで十字架の元にいらしたマリア様と一緒に信仰をたもち、十字架の友としてイエズス様に忠実でいられるようにとの決心を新たにいたしました。お説教を聞いていたのに、聖土曜日の「洗礼の約束の更新」をしたような気持ちになりました。

御ミサが終わってから神父様をかこんでささやかなご復活のお祝いパーティーをいたしました。ミサ会場と同じ場所でそのまま和やかな時間を過ごせて、コロナホテルでご復活の御ミサが出来て、良かったと思います。

お説教にもありましたように16世紀後半から世界中で色々な宣教会が活躍されましたが、まさに現代では、聖ピオ十世会の神父様方が多くの聖人、宣教師の意を継がれて働いて下さっているのだと思います。 

お説教は以下のとおりです。

2015年4月5日 御復活の主日の大阪での説教

親愛なる兄弟の皆さん、

アレルヤ! 私の司祭叙階の日である1982年6月29日、ルフェーブル大司教は、教会を十字架につけられたキリストの御体にたとえました。キリストの実在した御体はむちで引き裂かれ、茨やくぎで突き刺され、兵士たちによってつばをかけられ、たたかれ、(外見では)誰だかよく分からないようになりました。イザヤは言いました。「彼には、私たちの目を引くほどの美しさも輝きもなく、楽しめるほどの姿形もない。彼は人々から軽蔑され、捨てられた、苦しみの人、苦しみに慣れた人。見下され、無視された人」(イザヤ53章2-3節)。それでもキリストの御体であり、ほかの何物でもありませんでした。聖母、使徒のうちただ一人聖ヨハネ、そして数人の聖なる女性たちは忠実でした。この御体こそが復活の主日の朝、よみがえられたのです。同じように、現代主義者の醜聞(スキャンダル)と誤謬によって、キリストの神秘体は美しさや輝きを失い、惨めで軽蔑されるようになっています。それでもキリストの神秘体であり、ほかの何物でもありません。私たちは聖母と共に、唯一のまことの教会に忠実であり続けなければなりません。キリストの神秘体はほかにないのですから。この体こそが将来、私たちの主イエズス・キリストによって、美しさと活力を回復させていただくのですから。

教会の始まりのころ、天主の御子が苦しんだという十字架の醜聞(スキャンダル)に直面して、二つの異端が発生しました。最初の異端者たちは、キリストの天主の本性を否定しました。彼らは主の人間性を認めましたが、天主の本性を認めるのを拒絶しました。このように、この異端者たちにとっては天主の御子が苦しみを受けたこと(を認めるの)に困難はありませんでした。それは、彼らが、キリストが天主の御子だともはや信じなくなったからです。彼らはアリウス派でした。もう一つの異端者たちはキリストの御体が肉体として実在したことを否定し、キリストは苦しみを受けたように見えただけだと言いました。そして、キリストは霊にすぎないのであって苦しみは受けることができなかったと結論づ けてしまったのでした。彼らはキリストの人間性を否定したのです。彼らはグノーシス派でした。しかし教会は、天主の本性と人間性のどちらも真理と認めます。キリストがまことに天主の御子であって御父と等しく、まことにマリアの子であって本当の人間性を持っていたことを認めています。天主と人間の二つの本性が一つのペルソナ、天主の御子のペルソナで一つに結ばれているのです。

そののち、ルフェーブル大司教は、その話を私たちの時代に当てはめていきました。キリストの神秘体である教会の受難に直面して、教会の信仰が変えることのできないものであることを否定する人々がいます。彼らは、教会は世とともに変わるべきであると主張しています。彼らは現代主義者です。彼らは、キリストの神秘体である教会の超自然的な面を、実践において否定しています。他方で、そのような醜聞(スキャンダル)がキリストの教会に起こりうるはずがなく、教会は霊的であって実際にはもう目に見えないのだと結論づけ、その理由はもう教皇も司教もいないからだ、などと言う人々がいます。彼らは教皇聖座空位論者であり、「腐ったものはすべて」カトリックではありえないという口実のもと 、苦しむ教会を離れ、苦しむ教会と関係を持とうとしない人々なのです。

しかし、キリストは永遠ですし、教会には「地獄の門もこれに勝つことはできない」という約束がありますから、受難は決して永遠には続きません。受難ののちには復活がやって来ます。左や右に落ちてしまった人々は戻って来る必要があります。私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。私たちは聖母と共に確実に知っています。忠実であることが報いを受けることと、私たちがもう一度、教会が現在の危機から脱出するのを見るだろうということを。例えば、日々のミサ典書にある聖人たちの生涯の生没年(生きた時代)を見れば、トレント公会議後の偉大な聖人たちの数の多さに感動するでしょう。十六世紀の後半には、実際にカトリック生活の素晴らしい刷新があったのです。 南アメリカへの福音宣教の開始、インドそして遠くは日本への新しい福音宣教。フランス革命ののち、フランスには多くの聖人たちが現れ、フランスは十九世紀の宣教において目立つ存在でした。それはアフリカ(聖霊修道会、白衣司祭会、リヨン宣教会)、アジア(朝鮮と中国でのパリ外国宣教会)、オセアニア(太平洋の島々とオーストラリア・ニュージーランドでのマリスト会による福音宣教)においてでした。

重要なことは、受難の間、危機の時代にも忠実であることです。右や左に落ちることなく、キリストの天主の本性や人間性を否定せず、教会を変えようとしたり教会との関係を拒絶して離れたりしないことです。天主は変わることがありません。信仰は変わりえず、天主の約束は真実で信頼できます。「私がこう言うのは、私によってあなたたちに平和を与えるためである。あなたたちはこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ。私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ16章33節)。教会の歴史の中では危機があったのち、教会の中に祝福と聖人たちが見られました。高慢な反逆者たちは教会の外に落ちていきました。悪い枝は切り取られ、腐っていきました。良い木は生き残ってさらに生き生きとなりました。私たちは何としてでも木に残っていなければなりません。今、木に悪い枝があるからという口実のもとで、自分で自分を木から切り取ってしまうのは愚かなことです。

教会を愛さず、自分を教会から引きはがし、教会との一致を拒絶する人たちは、カトリックの教理に忠実ではありません。私たちの主イエズス・キリストは「教会を愛し、そのために命を与えられた。キリストが命を捨てられたのは、水を注ぐことと、それに伴う言葉とによって教会を清め聖とするためであり、またしみもしわもすべてそのようなもののない、輝かしく清くけがれのない教会をご自分に差し出させるためであった」(エフェゾ5章25-27節)。主は、教会のためにそのいと尊き御血を流されたのです。主はいかに教会を愛されたのでしょうか。

私たちの主イエズス・キリストの御復活は、私たちに希望を与えます。徳に対しては報いがあるのです。私たちの主イエズス・キリストは、十字架の死に至るまで御父に忠実でした。ですから、御体への報いをお受けになりました。栄光の御復活です。私たちも、キリストの神秘体のメンバーすべてに対する報いを信じています。キリストと共に死に至るまで忠実であるならば、キリストと共に栄光を受け、最後の日に栄光のうちによみがえり、キリストと共に天国で限りない幸せを得るのです。私たちの主イエズス・キリストは「万物を支配下に置くことによって、私たちの卑しい体を光栄の体のかたどりに変えられるであろう」(フィリッピ3章21節)。

これは信仰箇条です。「われは…肉身のよみがえりを信じ奉る」。ただ、私たちの主イエズス・キリストが言われたこと、復活には二種類あるということを知っておく必要があります。義人の復活は栄光の体と共に栄光に入ります。義人は「永遠の命」を得るのですから、主はそれを「命のよみがえり」と呼ばれます。しかし、復活にはもう一つあります。悪人の「罰のためのよみがえり」です。悪人の体は霊魂と再び結ばれますが、それは霊魂が罰を受け、地獄の宣告を受けるためです。これが完全な正義です。実際、その体は罪と共にあったため、罰と共にあるのが正義なのです。私たちの主イエズス・キリストのお言葉はこうです。「善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる 」(ヨハネ5章29節)。

世のあらゆる不潔なことから自分の体を守ることは、栄光の復活に参加するために価値のあることなのです。世の誤った楽しみで自分の体を堕落させ、その報いを永遠に支払わねばならないのであれば、そんなことをする意味があるでしょうか。このように、童貞を捧げることは、天使の徳と呼ばれます。それは、もうすでに復活の命を実践しているからです。「復活の時の人間は、めとりもせず、嫁ぎもせず、天にいる天使と同じようなものになる」(マテオ22章30節)。

復活の時には、人は栄光の体を持ちますが、それだけでなく、天使たちや聖人たちとの交わることもできます。それは天国であってこの世ではありませんから、もはや善と悪が交じり合っているのではなく、善い者たち、聖人たちとのみ交わります。まことに驚くべきことです。この世での友との交わりが良いものであるならば、天国での聖人たちや天使たちとの交わりは実に素晴らしいものでしょう。

復活の時には、天主を見ることができます。これは聖人たちと交わるという喜びを無限に超えた喜びです。聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(一ヨハネ3章1-3節)。さらに聖パウロは言います。「今私たちは鏡を見るようにぼんやりと見ている。だがそのときには顔と顔を合わせて見るであろう」(一コリント13章12節)。

私たちの主イエズス・キリストは私たちに、ご聖体により、この体を復活させてくださる美しい保証を与えてくださいました。復活された主の御体を実際に頂くことによって、私たちは主と共に復活するというしるしと保証を得るのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)。もちろん、ご聖体を頂くのにふさわしくなければなりません。なぜなら、ご聖体について乱用があるならば、正反対になってしまうからです。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばきを飲食することである」(一コリント11章29節)。

主は、いとも聖なる御母の御体を復活させることによって、私たちの体も復活させてくださるという二番目の保証をお与えになりました。聖母の被昇天において、主は、世の終わりに教会の残りの人々に対してなさるであろうことを、すでに聖母に対してなさいました。御体とご霊魂において、聖母はすでに地上でもっとも美しい女性でしたが、今やさらに美しい方となられました。聖母は地上において私たちの主イエズス・キリストを完全にまねておられたため、天において主と共に栄光を受けるべき方だったのです。

童貞聖マリアに祈りましょう。私たちの主イエズス・キリストの権威に信頼して、私たちが希望の徳を増し、聖母の復活と似た栄光の復活を私たちが望むよう、聖母が取り次いでくださいますように。この権威によって主はご自分の御体を復活なさいました。主はおっしゃいました。「私には私の命を与える権威があり、また取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。この権威によって主は聖母の御体を復活させられました。この同じ権威によって、主は私たちの体を復活させてくださるのです。聖母に祈りましょう。聖母が十字架の下から最後に至るまで主に忠実でおられたように、私たちもこの背教と裏切りの時代において私たちの主イエズス・キリストに忠実であり、全時代の信仰に忠実であり、聖人たちの道徳に忠実であり、聖人たちの典礼に忠実であるようお助けくださいますように。

アーメン。





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖ピオ十世会 SSPX Japan 2015年4月 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 マニラでは、聖週間は、多くの行事がありました。
 聖木曜日から三日間は事実上、休日です。私たちはグレゴリオ聖歌によるテネブレ(Tenebrae)の聖務(聖なる三日間の朝課と賛歌)を三日間、歌いました。
聖木曜日には、教会訪問(Visita Iglesia)といって多くの信徒の方々がマニラの聖ピオ十世会の教会(勝利の聖母の教会 Our Lady of Victories Church)を訪問し、警備員がしたカウントによると1443名の方々が訪問されました。天主様に感謝!
また復活の徹夜際とそのミサ、復活の主日の日中のミサなど3回のミサで、1052名の信徒の皆様が参加されました。天主様に更に感謝!この復活のミサに与った方々が、毎週聖伝のミサに与るお恵みを得ますように!

 さて、先日は日本の大阪と東京とで聖伝のミサを捧げる喜びがありました。

 東京では、4月12日の主日に成人の求道者女性が受洗の恵みを受けました。天主様に感謝! また、妊娠をされている二人のお母さんたちが安産の祈りと祝福を受けました。天主様のお恵みによって十人以上の子供たちが授かることができれば、教会の宝であり、日本の財産ですね、と申し上げると、お父さんもお母さんも本当にそうだ、というような顔をして微笑んでおられました。特にこどもが日本から消えつつあるので、天主様のお恵みを乞い求めます。

 また、東京では13日の月曜日には、私たちの信徒の二名が婚姻の秘蹟の恵みに与り、婚姻のミサをお捧げしました。いつもの曙町会館ではなかったのですが、聖なるお恵みで、ステンドグラスの美しいカトリック教会のような立派な結婚式場で執り行いました。天主様に感謝します! 今回、天主様の御前で結ばれた二人が、この聖なる婚姻を、天主様の聖なるお恵みに支えられて、清く聖なるものとして守り築き上げていきますように!

 では、以下に頂いた報告をご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
大阪での御ミサの報告を致します。
10日、御復活後の金曜日の御ミサには10名が、
11日、白衣の土曜日の歌ミサには14名の方々が御ミサに預かるお恵みを頂きました。デオグラチアス
御復活の喜びを小野田神父様と分かち合う事が出来て大変幸福でした。
公教要理では三位一体について勉強致しました。
永遠に御父から生まれていらっしゃる御子と、御父と御子の愛の息吹きである聖霊に、代々永遠に栄え在らんことを
私達のような惨めで取るに足らない者に、それを信じる御恵みを下さる事に感謝致します。デオグラチアス

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 23人(内、子供0人)
計: 39人(内、子供1人)






《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

幼きイエズスの聖テレジアの最後の言葉「祈りと犠牲とを持ってだけ、私たちは教会のためになることが出来ます。...カルメルでは、私たちは霊魂を買い取るために偽のコインを偽造してはなりません。綺麗な言葉を書いたり受け取ったりすることは、しばしば偽造貨幣を交換するだけでしかありません。」

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼にご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

聖ピオ十世会ボホル巡礼 SSPX BOHOL PILGRIMAGE

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

如何お過ごしでしょうか?

こちらフィリピンでは、先週、例年のボホル巡礼がありました。

三日間かけて、タグビラランからカルメンまで歩きます。今回は、820名が登録して(登録料は1000ペソです)、参加しました。

たくさんのロザリオを唱え、歩き、聖歌を歌いました。

司祭は11名、また全てのブラザーたちとシスターたちとが参加しました。

このお恵みを天主さまに感謝します。

巡礼により、ブログの更新が遅れてしまいましたことを、ご了承ください。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

聖ピオ十世会 SSPX 2015年4月 最近の韓国でのミッション報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ご無沙汰しております。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 先週は、韓国にミッションに行っておりました。聖週間の直前、キンジェというところにすんでいるベルナデッタさんという方がお病気になり、ご飯も摂れず、もはや水さえも飲むことが出来なくなりました。枝の主日の前でしたが、何とか韓国に来て、終油の秘蹟を受けることが出来ないかと相談を受けました。しかし、その当時、どうしてもマニラを離れることが出来ず、あと数日でレネー神父様が韓国に行くので、何とか持ちこたえるようにお祈りしよう、ということになりました。

 お医者さんも、何も手を付けることが出来ず、もう最期だから家に帰りなさいとさじを投げました。ソウルの信徒の方々も、心配してルルドのお水をベルナデッタさんのところに送ると、ルルドの水だけは、のどにしめらすことが出来たそうです。

 レネー神父様は、聖月曜日に東京から駆けつけソウルでミサを捧げ、翌日の聖火曜日、キンジェに行って終油の秘蹟を授けました。すると、その後、体力が回復してご飯も食べられるようになったそうです。

 今回、私も予定の通り、ソウルとキンジェに聖伝のミサを捧げに行ってきました。キンジェのベルナデッタさんは状態が悪化してまた食事も出来なくなっていたのですが、「お待ちしていました」と笑顔を見せて、病者の祝福を受け、告解もしました。御聖体も拝領することが出来、最初のミサ聖祭でのこった御聖体を御聖櫃にのこしていたので、御聖体の近くにやって来て夜通しでお祈りしていたそうです。

 2回目のミサ聖祭では、後ろの方で体を休めながらミサに与り、御聖体拝領もしました。とても幸福だ、幸せだと言っていました。家族の方々も、こんなに体力を回復したベルナデッタさんにびっくりでした。キンジェでの信徒の方々を祝福した後、また、私はソウルに戻しました。

 愛する兄弟姉妹の皆様も、どうぞ、ベルナデッタさんのためにお祈り下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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ただいま、聖ピオ十世会公式秋田巡礼開催中です!
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【訃報】 グルーナー神父様(Fr. Nicolas Gruner) の永遠の安息をお祈りいたします

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、


 ファティマの聖母の偉大なる使徒であったグルーナー神父様(Fr. Nicolas Gruner May 4, 1942 ― April 29, 2015)が、4月29日に亡くなられました(72歳)。
 グルーナー神父様の霊魂の永遠の安息のため、また、永遠の報いのために、愛する兄弟姉妹の皆様の熱烈なお祈りをお願いいたします。
 聖ピオ十世会アジア管区の全ての司祭は、グルーナー神父様のために聖伝のミサをお捧げいたします。私も、ただいま、秋田巡礼で秋田におりますが、午後4時15分から、グルーナー神父様のためにミサを捧げます。

 聖ピオ十世会アジア管区では、現在、ファティマ100周年をふさわしく祝うことが出来るように準備しております。ファティマの聖母マリア様のメッセージは、私たちにとって大変重要です。ファティマについて全世界に知らせるように全力を尽くしていたグルーナー神父様に、私たちはそのお仕事を感謝します。

 そして、聖ピオ十世会アジア管区は、グルーナー神父様のお仕事、すなわち、ファティマの聖母のメッセージを広め、聖母のお望みのことをするということをやり続けます。無原罪の聖母(インマクラータ)ご自身の保護のもと、ファティマの聖母の訴えておられた祈りと償いの必要性を私たちも訴えます。

 グルーナー神父様の葬儀は、5月9日(土曜日)午前9時に、カナダのオンタリオで行われ、司式は聖ピオ十世会総長であるフェレー司教様が執り行います。

 主よ、彼に永遠の安息を与え給え。
 永久の光が彼を照らさんことを。
 彼の霊魂が永遠に憩わんことを。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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聖ピオ十世会日本(SSPX Japan)主催による秋田の聖母への巡礼(5月2日ー6日)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 5月2日の初土曜日から、聖ピオ十世会日本主催による秋田の聖母への巡礼が始まりました。

 今年の秋田巡礼は、日本の各地(北海道、山形、岩手、福島、埼玉、千葉、東京、静岡、大阪、兵庫、岡山、石川、その他)からの巡礼者と、フィリピンから(5名)、オーストラリア(2名)、アメリカ(2名)、マレーシア(1名)、シンガポール(1名)、韓国(1名)からの巡礼者で、57名の参加です。そのうち2名の方々は、求道者です。【今年は総計57名でした。】

 国籍別によると、日本(42名)、フィリピン(8名)、アメリカ(2名)、マレーシア(2名)、シンガポール(1名)、ドイツ(1名)、ポーランド(1名)です。

 毎日、シュテーリン神父様が聖母に関する霊的講話をして下さり、特に聖母マリア様が、私たちの母親であり、私たちの元后である、という内容はとても深く、有意義でした。

 5月4日は、特に聖母の涙の意味について、深く黙想できました。私たちに、多くの霊魂の救霊のために助けてほしいと、私たちが聖母の道具となることを望んでおられる聖母の涙についての内容は、特に感動的でした。この日は、午後から雨が降り、お恵みが天から私たちのところに降り注がれているかのようでした。

 5月5日には、アンナという霊名で成人の洗礼式があります。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。

 ところで、韓国のベルナデッタさんについては、聖伝のミサに与る前は、朝から晩まで教会で御聖体訪問やお祈りをしたり、教会でのお仕事を奉仕していた方で、今では、御聖体とお水だけで生きているようです。レネー神父様がもうじき韓国に行かれるので、また安心です。

 4月13日にご結婚なさった私たちの愛する兄弟姉妹は、秋田の巡礼にも来られました。ここ秋田の次は、ローマ、パリに行って、お祈りをするそうです。ハネムーンと同時に、巡礼として行くのだそうです。

 4月12日に安産の祝福を受けた二人のお母さんのうち一人は、無事に子供が生まれたそうです。来週の主日に赤ちゃんが洗礼を受ける予定です。天主様に感謝!

 このブログをお読みになって下さる愛する兄弟姉妹の皆様のために、秋田の聖母に祈りを捧げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会 SSPX Japan 復活祭後第五主日 聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝!秋田巡礼では、アンナさんが受洗のお恵みを受けました。更に、37名が聖マキシミリアノ・コルベ神父様の創立したままの、聖伝の「無原罪の聖母の騎士会」に入会しました。何故、聖伝のなのかというと、第二バチカン公会議後1974年に聖マキシミリアノ・コルベの作った会憲が、変えられ、その本質が骨抜きになってしまったからです。そこで、ポーランドで管区長として20年以上働いていたシュテーリン神父様は、フェレー司教様の許可のもとに、昔のままの無原罪の聖母の騎士を復興させ、今では世界中で、1万人がその会員となっています。このお恵みに感謝します。

秋田巡礼に引き続き、日本での聖伝のミサが大阪と東京とでありました。大阪では、5月9日(土)に、24名が御ミサに与りました。天主様に感謝!あと1名がいらっしゃる予定でしたが、電車に乗り遅れてこられなくなってしまったそうです。フィリピンからの巡礼者も大阪でミサに与り、大阪を発つときは名残惜しく、涙を流して別れがつらそうでした。

 今日の東京でのミサにはミサの前に、生後10日の生まれたばかりの赤ちゃんが洗礼を受けました。マリアちゃんです。また、今日歌ミサで一人の男の子が侍者としてデビューしました。敬虔に侍者をしてくれていました。東京では、45名がミサに与り、久しぶりに会えた懐かしい方々もいらっしゃいました。天主様に感謝します。
 東京では、2名の本格的な求道者の方々と、その他に2名のカトリックに改宗を考えている方々がおられますので、これらの愛する兄弟姉妹のためにお祈りをお願いいたします。

 今日は、午後にいつものように公教要理を学び、そして晩課をグレゴリオ聖歌で歌い(晩課の参加者12名)、最後にはレジナ・チェリを歌って、主日を聖化しました。天主様に感謝!


さて、今日は、以下のようなご報告を頂きましたのでご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

秋田巡礼に続いて大阪でのミッションありがとうございました。m(__)m
5月の大阪での御ミサの報告です。

5月8日(金) 大天使聖ミカエルのご出現の記念 の御ミサでは15人が
5月9日(土) 司教証聖者教会博士ナジアンズの聖グレゴリオの歌ミサでは24人の方々がミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

金曜日のお説教では聖フランシスコ・ザビエルによって日本の守護者として立てられた大天使聖ミカエルはどのようにしてご出現されたのか、大天使聖ミカエルの役割とは何なのか、また、現代における役割は何かについてをお話いただき、最後に遷善の決心を立てました。

土曜日のお説教では、今日のミサの書簡に、『主がお望みならば義人は智慧の精神で満たされる』とあるように、聖グレゴリオとマリア様の御取次ぎによって聖霊が私たちの智慧を照らしてくださり、マリア様の神秘を深く知ることができるよう願い、マリア様が新しいエワとして造られ、聖霊の清き浄配であることを黙想いたしました。

御ミサ後の勉強会では、マリア様がファティマで、『ロシアは誤りを世界に広げるでしょう』と仰った事、つまりロシアからどのようにして誤謬・共産主義が世界に広まったかをスライドを使って説明していただきました。
共産主義を受け入れた国々のカトリック教会は迫害され、壊され、多くの殉教者を出し、あっという間にカトリックは衰退してしまいました。90%以上がカトリック教徒であった国でさえ、見事に反カトリック化してしまったのには驚きました。
日本やフィリピンは共産主義国家ではありませんが、そうならないために、また自由主義が勝利しないために沢山祈らなければならないと再確認いたしました。

願わくは、マリア様の汚れなき御心に奉献された日本が、どうか共産主義から守られ、イエズス様を君主としますように!!
聖母の汚れなき御心よ我らの為に祈りたまえ
大天使聖ミカエル・日本の守護者、我らのために祈りたまえ

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供1人)
計: 45人(内、子供2人)

聖ピオ十世会 SSPX Japan 2015年秋田巡礼 巡礼者からの感想・コメントを紹介します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の秋田の聖母巡礼ではアンケートを実施しました。アンケートの最後にコメント欄を設けて、ご感想を自由に書いてくださることをお願いしたところ、次のような回答を頂きました。

 アンケートのコメント欄をタイプして書き起こして、愛する兄弟姉妹の皆様に、一部をご紹介いたします。

 一部、英語の綴りで、一部どうしても読めないところがありました。それはこちらの理解したように記載しました。英文のコメントの日本語訳を一応いれてみました。

 この秋田巡礼のために準備を手伝って下さった方々、聖歌隊の方々、侍者の方々、プラザ・クリプトンで働いておられる方々、素晴らしい巡礼になるために協力して下さった多くの方々、また、秋田で出会った方々に、心から感謝いたします。Deo Gratias!

【質問】
今回の巡礼で一番心に残ったこと、一番良かったこと、一番印象深かったことは何ですか?

●M.I.に入会できたこと(入会式)
●一番心に残ったことは、シュテーリン神父様の講話の中の、イエズス様を愛されたのと全く同じ愛で、マリア様は私達を愛して下さっているという部分です。一番良かったことは、101枚のロザリオの花をマリア様にお捧げ出来たことです。
●シュテーリン神父の霊的講話。M.I に入会できたこと。
●マリア様が崇敬されることが否定の方向に向かっているが、シュテーリン神父の講話はパワフルでよりつよめられました。若い方が熱心に活動していらっしゃる姿が心強く感じられました。外国の方たちと心をひとつに祈れたことが印象に残りました。
●シュテーリン神父様のマリア様についての講話が大変すばらしく印象深かったです。M.I.に入会できたことも最も喜ばしいことでした。
●海外の方達が遠い所来ていただいて秋田のマリア様の良さが解って頂けたらいいなと思っています。御ミサに素晴らしい聖歌隊の歌がとても良かったです!!
●ベルナデッタさんのこと、アンナ様の洗礼、無原罪聖母の騎士会に入会したこと。
●おめぐみがたくさんあったこと
●全て良かったですのて!♪
●シュテーリン神父様の講話、マリア様を訪問したこと、巡礼者のみなの愛徳を感じました。
●無原罪の聖母様の騎士会につてのお説教。入会できて大変うれしかったです。
●聖母の騎士会につて知ったこと、入会したこと。シュテーリン神父に初めてお会いしたこと。
●マリア様の役割と、マリア様が私達に求めていることへの理解を深めることができたことが一番良かった。一番心に残ったのは、Fr.シュテーリンの0(ゼロ)でもいい、ほうきでもいいという言葉。
●ご聖体礼拝がすごく良かったと思います。
●第一回から途切れずに参加できた事にDeo Gratias!
●シュテーリン神父様の講話
●ベネディクションの時に深く祈りをささげることができた。聖体奉仕会に有る十字架の道行きの彫り物は本当に良く選ばれていて品位のあるpresentationがされている。
●ミサとマリア様。本当に心に残りました。
●国際色豊かで、世界的な十世会を思わせました。
●正しいものが迫害されていることを再確認した。
●隣人の為に愛すること
●信者の方々と交流出来たこと。お互いの理解をふかめられたこと。シュテーリン神父様のマリア様講話は非常に深いものでした。
●とても忙しいスケジュールの中、一日だけでも参加出来た事に Deo Gratias!
●無原罪の聖母マリア様の子、奴隷、騎士になるというお説教。食事や休憩中の皆さんとの懇談など。聖体奉仕会へ行き聖母像を見、祈ることが出来たこと。信者の皆さんのミサや聖務におけるラテン語の祈りや聖歌。
●無原罪の聖母の騎士(道具)になったこと。マリア様についての神秘を深めることが出来たこと。霊魂の救いのためにもっと働けると思った事。
●あこがれている方は、マリア様でマリア様のような女性になりたくてマリア様が大好きでしたが、シュテーリン神父様の霊的講話を聞いて、私の愛し方は中途半端でまだまだ未熟だったことを知りました。全身全霊をかけてマリア様によりすがらなければ、助けをこい願わなければいけないと教わることができ、そして理解でき、とても良かったと感謝しています。
● This is my first trip to Japan. The cherry blossoms are very beautiful.The Food are all excellent +
The camaraderie is very deep. Everyone is polite + helpful.
【日本へやってきたのは初めてです。桜の花が大変美しかった。食事もすばらしく、参加者の友情はとても深いものでした。皆さん、礼儀正しく親切でした。】
● Piety of the Japanese faithful. Fr.Onoda translating to English +Japanese. Interesting presentation of Fr. Stehlin’s conferences .
日本の信徒の方々の敬虔さ。小野田神父様の通訳。シュテーリン神父様の講話が興味深かった。
●1. Praying the Holy Rosary in the presence of Our Lady of Akita Statue.
2. Consecration to the Militia Immaculata.
3. Conference on the Blessed Virgin Mary and St. Maximilian Kolbe.
【1. 秋田の聖母の御像の前でロザリオの祈りをしたこと。2.汚れなき聖母の騎士として奉献されたこと。3.聖母マリア様と聖マキシリアノ・コルベの講話】
●My most memorable event was the visit to the shrine of Our Lady of Akita. The best activity was serving Mass. The most impressive conference was the one regarding Fr.Stehlin’s explanation and dramatization of the BVM as our mother.
【最も記憶に残った出来事は秋田の聖母を訪問したことで,活動としてはミサ応えをしたことです。一番印象に残った講話は、シュテーリン神父様の聖母マリア様が私達のお母様であるとうことに関する劇的な説明でした。】
●Fr.Onoda’s example of living the faith. Fr.Stehlin’s sermons.
【小野田神父様の信仰生活の見本。 シュテーリン神父様のお説教。】
●The cherry blossoms are very beautiful and very profitable for my soul
The food are very excellent to eat, healthy and unique. All the people are polite and courteous. This is my 1st trip to Japan and It’s very memorable.
●Being able to enroll in the Militia Immaculatae on the 9 months' anniversary of my arrival in Japan, a new spiritual birth of sorts under the patronage of the Immaculate Mother.
【日本に来て9か月目の記念日に無原罪の聖母の騎士に入会したこと。 無原罪の聖母の御保護のもと、道具として霊的に生まれ変わったこと。】
●This is my First pilgrimage and it was the most memorable moments of my life.
●Daily Mass and Benediction 毎日の御ミサと、聖体降福式


【質問】
今回の巡礼について何かコメントがありましたらお書きください

●私はこれまで、本当の高いレベルの信仰とは“十字架を、甘んじて耐え忍ぶだけではなく、かけよって熱愛する(十字架共)”と聞いても「そんなの絶対無理だ」と思っていました。しかし、今回の巡礼で、そのことが少し理解できかけたような気がします。大きい十字架をささげることによって、多くの人々の霊魂の救霊になること、必ずそれ以上の多くの実りが与えられることも、良く理解出来ました。来年もし聖母が呼んでくださるなら、わたしも聖母に大きなプレゼントを差し上げられるように努力しようと思いました。デオ・グラチアス。少し気負っていたようです。かかえていた問題に悩んてもいたので、バスの中でフィリピンの女性が「マリア様のこころ」を歌われるのをきいてわたしもマリア様のようなおおきな広いこころにならないといけないって、気づきました。ありがとうございました。
●準備をして下さった方々のご苦労に頭が下がります。本当に本当にありがとうございました。御ミサにパウロさんが居ないと淋しいです。
●聖ヨゼフ様のミサの後、マリア様の騎士になれて幸せです!!
●いろいろお世話してくださったことに感謝いたします。この四日間の充実した日々を忘れず、また来年参加できるよう願っています。ありがとうございました。
●この巡礼の為に多くの準備、労を執って下さった神父様方、信徒の方々に心から感謝と祈りを申し上げます。
●小野田神父様、神様の愛を信者たちにたくさん与えてくださったありがとうございます。沢山苦労して下さって、心から感謝しています。
●英語対応部分を増やすべきとの感じを受けた。
●クリプトンの森の中を歩くプログラムがあれば良いと思います。
●修道院で自由に祈れる時間が多くなって嬉しかった。今後もそうしてほしい。来年、巡礼のしおりの表紙に名前を記入する欄を作ってはどうでしょうか。素晴らしい巡礼の準備をして下さった神父様、スタッフの方に心から感謝しております。どうもありがとうございました。
●お世話になりました。ありがとうございました。
●スタッフの方々に感謝!!
●Thank you very much ! Thank you for this wonderful pilgrimage.
●無原罪の聖母マリア様の‼♪♪良い道具になりたい!と強く決心しました!
●大変ハードなスケジュールの中、今年も秋田巡礼を行って頂き、ほんとうにありがとうございました。通訳をして下さった小野田神父様はきっと大変お疲れになられたことと思います。ありがとうございました。神父様、お疲れが出ませんように…
●全日程での参加ができなかったことだけが残念です。
●幹事様いつもありがとうございます。天主様のお恵みが特別に与えられますように!大阪パワーには感服いたしました。
●お疲れ様でした。
●このトリエント典礼が各教会で日常行われるよう巡礼参加を人々に伝えたい。
●人跡未踏の頭では会話が一国の方々だけになり恥ずかしい限りでした。
●スタッフの方々のご苦労に感謝いたします。そして小野田神父様、ありがとうございました。
●Everything was well done, and the conferences were edifying. 【全てが良かったです。講話はとても為になりました。】
●Our Lady of Akita Awesome !! 【秋田の聖母マリア様すばらしい!!】
●インマクラータの騎士になれたこと、ほんとうに感謝しています!!マリア様のメダイをかけて下さった時から目がパッ‼ と覚めて、今までとは何か違う自分になれたような気がしました。この気持ちを忘れず、もっともっと霊的に強い人間になりたいです。シュテーリン神父様のダイナミックで迫力満点の講話、小野田神父様の素晴らしい訳とお説教、とても身にしみて感動しました。Deo gratias!
●This has been an edifying and wonderful pilgrimage. Akita pilgrimage is better than the Holy Land Pilgrimage on the Regina Pilgrimage, in regards to spirituality and the ability to pray well and meditate well, and to rest well ! Than you very much Rev. Fr. Onoda and Rev. Fr. Stehlin !
【この巡礼は素晴らしく、とても有益なものでした。秋田巡礼は聖地巡礼よりも霊的な面で、より良かったと思います。また、祈れ、よく黙想でき、よく休みこともできました!尊敬する小野田神父様、シュテーリン神父様本当にありがとうございました。】
●I wish I had more interaction of the other pilgrimage (Japanese) Thank you Deo gratias Arigato.


秋田のマリア様の最初の涙の40周年

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田の巡礼では今年、秋田のマリア様の最初の涙の40周年にちなんで、40環のロザリオをお捧げする企画をもちました。



 そして40環のロザリオを捧げる(約束をする)と、一輪のさくらの花をマリア様の御影に貼り付けます。

 今年は、巡礼者の方々から合計106枚の桜の花を戴きました。つまり、40環×106=40240環のロザリオです。

 御涙を101回流されたことを記念して、101枚の桜の花を期待していましたが、それより5枚も多く集まりました。デオグラチアス!!

 聖母マリアさまをお慰めすることが出来、大変うれしく思います。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


追伸:この記事の直後に、「秋田の聖母巡礼では、あまりにも早く帰ることになり、残念でした。帰る前にマリア様へのロザリオのシールをお届けせずに申し訳ありませんでした。私からは3枚のシール(ロザリオ120環)をお届けします。」というメッセージを頂きました。

 そこで聖母の涙の40周年に、40環×109=40360環のロザリオが捧げられました。天主様に感謝!

無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン神父 SSPX MI

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は主の昇天の前日です。また今日は5月13日ですから、ファティマの聖母の御出現の記念日でもあります。98年前のこの日、聖母マリア様はこう言いました。
「世界の平和、そして戦争の終わりを得るために、毎日ロザリオを祈りなさい。」 (ファチマの聖母 1917年5月13日)

 記念日と言えば、今年はいろいろな記念がありました。秋田の聖母の涙の40周年。高山右近の帰天400周年、など。

 ところで、2015年5月8日は、豊臣秀頼の自害により大阪夏の陣の終結から400周年でした。(フィリピンからの秋田巡礼者5名と一緒に、大阪城天守閣にその日に登閣しました。)

 聖フランシスコ・ザベリオは、日本を大天使聖ミカエルに奉献しました。聖ミカエルが、謙遜に「誰が天主に如くものあるぞ」と雄叫びを上げてサタンと闘ったように、日本も聖ミカエルに倣い、天主に従うことができるように、との祈りが込められていました。聖伝の典礼暦によると、地方教会の祝日として、5月8日は、大天使聖ミカエルがガルガノ山に御出現した祝日です。

 キリシタンを迫害した豊臣秀吉の子孫である、豊臣氏が大天使聖ミカエルの祝日に滅んだことは、御摂理を感じます。秀吉が作った大阪城は、31年しか存続せず、徳川によって灰燼に帰します。キリシタンを迫害した徳川は別の大坂城を建設しますが、天守は36年後に落雷によって焼失します。御摂理を思います。


 ところで、聖マキシミリアノ・コルベの精神に完全に忠実に従った、聖なる創立者の作ったままの会則(これは1974年に公式のMIによって捨てられてしまった)によって「無原罪の聖母の騎士会」(MI)が2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において再び始められ、その15年後の2015年5月6日、日本の秋田で15周年を祝うかのように入会式がありました。

 そこで今日は、「無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士たちへの手紙 第6号 カール・シュテーリン(聖ピオ十世会アジア管区長)


親愛なる無原罪の聖母(インマクラータ)の騎士の皆さん!

聖マキシミリアノ・コルベにとって、「マリア月」(5月)はいつも大変特別な重要性がありました。聖コルベは、騎士たち全員に聖母への信心(の行い)を二倍にし、聖母へさらに近づくよう求めました。そうすれば、聖母は騎士たちを導き、さらに多くの聖寵で満たしてくださるからです。実際、聖コルベの生涯における統計を見ると、マリア月の間には、騎士たちの数が非常に増え、この会が成長したのです。多くの例の中でいくつかの事実を示します。1922年5月に、聖コルベは最初の会報「無原罪の聖母の騎士(Rycerz Niepokalanej)」を5000部発行しました。この会報は15年後には約100万部になりました。1930年5月には、日本で「無原罪の聖母の園」を発足させました。

聖なる創立者の精神に完全に忠実に、聖伝の会則によって「無原罪の聖母の騎士会」(MI)を再発足させるのに、御摂理はまたマリア月を選んだのです。2000年5月6日に、ワルシャワの聖ピオ十世会修道院において、最初の騎士たちが聖マキシミリアノ・コルベご自身によって定められた入会の儀式に基づいて入会しました。この儀式は1974年に公式のMIによって捨て去られたものでした。

これはまことに慎ましく小さな始まりで、MIは最初の数年間はあまり拡大しませんでした。しかし2002年5月、フランスのモルゴンにある聖伝のカプチン会の修道士たちが、フランスにおける最初の騎士たちを入会させ始めました。2年後、マクドナルド、スタフキ両神父が米国のMIをスタートさせ、スイスが2005年に後を追います。2014年には聖伝のMIはドイツ、オーストリア、アジアで公式に設立されました。2014年8月、MIの国際事務局はポーランドからスイスの聖ピオ十世会本部へ移されました。そのとき、騎士の数は約7000人でした。2015年5月の今日では、私たちの軍隊はすでに約1万人を数えます。

このようにこの数カ月の間 MI が非常に急速に拡大したことがおわかりいただけるでしょう。これは、まぎれもなく無原罪の聖母ご自身から来る特別な聖寵です。無原罪の聖母は、自分たちの霊魂を救いたいと強く望んでいるカトリック信者、あらゆる方向から攻撃を受けていると自覚しているカトリック信者に対して大変慈悲深くしてくださるのです。無原罪の聖母は次のことを私たちにはっきりと示してくださいます。すなわち、私たちがこの世で最も危険なこの時代に、妥協せずに信仰を保ちたい、聖人になりたいと望んでいるのなら、私たちは無原罪の聖母の忠実な子どもに、奴隷に、騎士になり、無原罪の聖母の英雄的徳、最も深い謙遜、汚れなき純粋さ、完全な従順をまねなければならない、ということです。

親愛なる騎士の皆さん、このマリア月の間に、祈りや犠牲によって、聖母ご自身によって今皆さんに与えられた長上への子としての従順によって、沢山の霊魂の改心の恩寵が得られるよう、特別な努力を行うようにしてください。

私は、皆さんを聖母の汚れなき御心に深く投げ入れ、皆さんの心が聖母において燃えるように望みます。

カール・シュテーリン神父


大変重要

無原罪の聖母の旗の下にあって成長しつつある私たちの小さな軍隊、私たちの霊的家族に関するニュースを皆さんに送ることをお許しください。

1.入会(2015年5月10日現在、アジア管区の騎士870名)
4月最初の週に、インドで100人以上の騎士が入会しました(パラヤムコッタイ、トゥティコリン、ボンベイ)。フィリピン全土からの聖伝の巡礼の終わりには、無原罪の聖母の騎士会がこの国に設立され、483人の最初の騎士が入会しました。
5月6日、秋田(日本)の聖伝の巡礼の終わりに、37人が自らを「無原罪の聖母の御手の道具」(騎士会の奉献の言葉より)として奉献しました。これでアジア管区には870人の騎士がいることになります。このあと数週間のうちにも、インド(ボンベイ、ゴア、ヤーコード黙想センター、チェンナイ)とフィリピン(ジェネラルサントス、ダバオ、マニラ、カガヤンデオロ、ブトゥアン、イリガン市、セブなど)で、さらに入会があるでしょう。5月中に私たちは、聖母の切実なお求めにお答えすることを望んでいる多くの寛大な霊魂を天の元后の足元に投げ入れたいと思います。聖母からのお求めはこれです。「地獄の永遠の火から多くの霊魂を救い、唯一の真理と命への道を開き、彼らを私の天主なる子へと連れて行き、ついには彼らが天国で永遠に幸せになるよう、私を助けてください。」

2.MIフィリピン
無原罪の聖母の騎士会に参加したいと望んでいる信者が大変多いため、私はダバオの聖ヨゼフ修道院長のティモシー・ファイファー神父様をフィリピン全土のMIのモデレーターに指名しました。神父様はMIフィリピンの全国登録名簿を管理し、資料(ちらし、小冊子、カテキズム、証明書、入会用紙、儀式説明書など)を提供します。またニュースレターやそのほかの資料のフィリピン主要言語への翻訳の責任者です。フィリピンにはMIの三つの主要な事務所が設けられました。マニラ、イロイロ、ダバオです。さらに主要なセンターには、登録所が設けられることになっており、そこでは将来の騎士たちが入会登録をすることができます。

3.巡礼
すでに述べたように、多くの騎士たちがボホール(4月16-19日)や秋田(5月2-6日)の巡礼で入会しました。巡礼のテーマは、私たちの生活における聖母の重要性、特にこの終末の時代における重要性です。多くの巡礼者たちが理解したのは、自分の生活の中で達成すべき重要な任務を持っていること、そしてこの地上では愛すること以上に偉大なことは何もないこと、つまり友や親戚、隣人たちに善をなし、支援し、「最も良きこと」を効果的に願うことだということです。しかし、「最も良きこと」というのは、ここ地上には存在しません。地上ではすべてに限界があり、終わりがやって来るからです。人間の心は愛することを望んでおり、愛し愛されることを止めたり、少なくしたり、終わらせたりしません。しかし、これは天国においてのみ、天主からの賜物として存在するのです。多くの人々をこの幸せに導き、同時にそれらの人々が永遠の不幸や絶望へ向かうのを防ぐこと。これこそがマリア様が私たちに求めておられることです。聖母の御手の道具となることで、聖母は私たちを使って多くの人々の心に触れられるのです。聖母がファチマでこう言われたように。「祈り、犠牲を捧げなさい。多くの人々が地獄に行くのは、彼らのために祈り、犠牲を捧げる人がいないからなのです」。
私たちはよく、巡礼者たちから次のような意見を聞きます。「神父様、私が地上でそんなに多くのことができるなんて知りませんでした。私の生活がそんなに重要で、そんなに多くの人々の無限の命と幸せが私にかかっているなんて知りませんでした。はい、分かりました。聖母の騎士になりたく思います」。
無原罪の聖母がこれらの信者たちに与えてくださった熱心さに、私たちは感謝します。今、無原罪の聖母の騎士になった彼らの多くが、惜しみない力で多くの人々を無原罪の聖母のところに連れていくことを私たちは確信しています。

4.ファチマ2017
前回のニュースレターで、私はファチマの聖母のご出現100周年を特別に準備したいという私たちの望みを皆さんにお知らせしました。私たちの主の敵が彼らの周年記念(プロテスタント500周年、フリーメーソン300周年、共産主義100周年)を祝うであろうとき、私たちは聖母の足元に少なくとも10万人の騎士を集めて小さな霊的軍団をつくりたいと望んでおり、聖母がそれをお使いになって「サタンのかしらを砕き」「世界中の異端を滅ぼし」てくださればと思います。しかし、そのためには、祈りと犠牲とによって霊魂の救いのためだけに働くにもかかわらず、ファチマの聖母の素晴らしいメッセージを人々に知らせ、人々の気分を高揚させ、彼らをこの小さな軍隊に加わらせることを望む使徒たち、力を惜しまない騎士たちが必要です。

ですから、今後のニュースレターではファチマについてもっと多くの情報を皆さんにお伝えします。皆さんは自分自身の聖化のためにそれを使うだけでなく、それをよく研究することによって、ほかの人々にそれを伝えられるようになってください。そのようにして、皆さんは「ファチマの使徒」になるのです。聖母がお約束になられたように、皆さんの報いは大きなものになると確信できるでしょう。

まず第一に、私は皆さんにファチマの天使の祈りを繰り返し祈るよう求めます。

天使の祈りは以下の通りです(この祈りは、聖母が3人の子どもたちにご出現になる前に、天使によって子どもたちに与えられました)。

わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!
御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。
至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。
私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。
イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。


2015年5月2日 秋田巡礼 SSPX Japan Akita Pilgrimage シュテーリン神父様の説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、ファティマの聖母マリア様の御出現の記念日でした。ファチマでは聖母の汚れなき御心を確立することをお望みになっていることを聖母マリアさまは訴えました。

 秋田巡礼では、シュテーリン神父様が「聖母の汚れなき御心」の随意ミサをして下さり、そこで次のようなお説教をして下さったので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月2日 秋田巡礼 
聖母の汚れ無き御心の随意ミサ 
シュテーリン神父様御説教

同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 親愛なる巡礼者の皆さん、秋田の巡礼に初めて参加する事は、私にとっての大きな名誉であります。この巡礼によって、天主様の御摂理が、私たちが聖母の聖なる月、5月を上手く準備する事を助けてくれます。聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様は、「5月、聖母の聖なる月は、特別の御恵みがある月である。」と、いつも言っていました。コルベ神父様は、特にインマクラータの無原罪の騎士に対して、この5月には特別に私たちを奉献して、そしてマリア様に信頼して、そしてマリア様の為によく働くように、と励ましていました。

 この5月にこの巡礼に来て、そしてマリア様にお祈りするほど、より良い準備があるでしょうか。このような重大な出来事をしていく私たちは、この巡礼とは一体何なのか、それの目的とは何なのか、それの最も大切な本質とは中核とは何かを知らなければなりません。私は、秋田で起こった出来事の状況が、私たちにこの答えをくれると知っています。

 まず、マリア様がどこでお現われになったか、という状況を見ると、「秋田」という場所、また「日本」と言う国を見ると、ほとんどカトリック信者がいない様な所にお現れになった、という事に気が付きます。この事によって、マリア様は特別に日本を愛しておられる、と気が付きます。マリア様は確かに、この日本の回心を、日本がイエズス様に対する信仰を持つことを目がけておられます。マリア様が私たちをここに呼んでいるという事は、マリア様は私たちを、日本の回心の道具として使うという事を望まれている、という事です。

 私たちは、マリア様の足下に、今日本に住んでいる全ての人を連れて来なければなりません。言うなれば、私たちはこの全ての人々の代表として行かなければなりません。マリア様は、私たちがこの巡礼の間にする全ての事に対して、特別の愛の眼差しをもってご覧になって下さっています。そしてマリア様はそれを使って、日本の回心の為に使おうと思っています。ですから、私たちは深く確信をしなければなりません、私たちが巡礼の間にする、ほんのちょっとしたお祈り、或いは射祷、その祈りは、日本の回心の為に大きな貢献をする、という事です。ですから私たちは、この巡礼の間の全ての時間、全ての瞬間を、最高度にその際限まで使わなければなりません。私たちは、いかなる瞬間も、下らない事や、雑念などや妄想に追われてしまう事なく、全てをマリア様の為に使わなければなりません。

 私たちが時間を失わない、という事はどういう事かというと、私たちが今している事を、最高の熱心をもって、愛をもって、今している事をする、という事です。もしも私たちが祈っているならば、最高の熱烈な熱心をもって祈る、という事です。私たちが講話を聞いている時には、耳を大きく開いて、そしてこのマリア様のメッセージをよく聞く、という事です。もしも私たちが一緒に食事をする、或いは一緒に巡礼で歩く、という時には、隣人愛を実践して愛を込めて、隣人と接する、という事です。私たちはですから、他人の悪口やゴシップをするのは避けて、人の批判をするのを避けましょう。

 私たちがこの巡礼で日本の回心の為に時間を全て使う、という事だけではありません。これは私たちにとって、テストであり、学校でもあります。どういう事かというと、私たちはマリア様の足下にいて、この巡礼の時のみならず、私たちの生涯全てを、マリア様の良き道具として使って下さい、とお願いする事です。

 私たちがこの地を発って家に帰る時には、私たちの心の中には、全ての私たちのもてる力と、全ての愛と、全ての全生涯を、霊魂の救いの為に使いたい。そして、霊魂を救いたいというマリア様を助けたい、という熱烈な熱情に満ちていなければなりません。

 これの、その目に見える聖化という、目に見えるサインというのは、しるしというのは、皆さんがこの巡礼の間に、マリア様の騎士として、自分をマリア様の道具として捧げる、という事です。そしてこの巡礼の実りとして、私たちはかつてなかったほど、今後はマリア様の良き道具として、霊魂を救う道具として、マリア様のものとなっている、という事です。

 第二の状況は、どこにお現われになったか、という事の他に、どのようにしてお現われになったか、というそのやり方です。

 マリア様は、涙を流されていました。このマリア様の涙は、私たちをして多くのマリア様の他の巡礼地をも思い起こさせます。例えば、ラサレットのマリア様。これは、子供たちが失われている、というのを見る、悲しみの御母の涙です。これは、マリア様、母なるマリア様、天地の元后であるマリア様の悲しみです。なぜ悲しみかというと、それは、愛する御子イエズス・キリストが、この世の人々から捨てられ、そして受け入れられず、信じられていない、という事の悲しみです。私たちは、そんなマリア様を慰めに来ました。「もしも、マリア様、もしもこの世が御子を捨てるなら、願わくは私たちをして、御身を慰める事をお許し下さい。」

 秋田はファチマの続きです。マリア様の涙を見て、私たちは心の深くから感動しなければなりません。なぜかというと、マリア様が涙を流されているのは、まず私の為に泣いておられるからです。ですから、マリア様の涙をご覧になって、私たちは心からの罪の改悛、罪の痛悔を感じなければなりません。そして第二には、私たちの痛悔と、そして償いの精神です。なぜかというと、マリア様は、多くの罪によって傷付けられ、犯され、そして悲しみを覚えているからです。

 もしも私たちが、聖人となり霊魂を救いたいと思うのならば、主の教えて下さった偉大な掟を守らなければなりません。つまり、『天主を全ての力を尽くして愛し、私たちの隣人を、自分の如く愛する。』と、いう事です。正に、マリア様の涙が私たちに教えようとしている事はこれです。

 第三の観点は、マリア様がどこでお現われになったか、どうやってお現われになったか、という他に、何を仰ったかということです。

 マリア様は、第二バチカン公会議の後にお現われになり、メッセージを下さって、そして教会における危機を話されました。これは私の想像に過ぎないのかもしれませんが、しかし、このマリア様の仰った内容の事を考えると、なぜマリア様が日本に来てお話になったか、という事が分かります。この日本に住んでいるほぼ大部分の人々が、本当の真理を、唯一の真理を信じていません。この日本に於いては、ほんの少数の方だけが、マリア様に愛と信頼をもっています。そして第二バチカン公会議の後には、それと同じような事が全世界で起こりました。第二バチカン公会議では更にひどい事が起こりました。ただ知らない、という無知ではなくて、この真理を、知っていた真理を拒否して、それを捨て去る、という事だからです。そしてほんの少数の人々だけが、私たちの主イエズス・キリストと、そしてその聖伝に忠実になっていたのみです。

 私たちが先程申しましたように、私たちはマリア様をお慰めする為に、私たちはここに来た、と言いましたが、ちょうどマリア様は、この少数の私たちを慰める為に、マリア様は秋田でこう仰っているかのようです、「あなたたちは教会の危機について知っているかもしれませんが、私は、あなたたちよりももっとよく知っています。」マリア様は言います、「私は、今が最後の時であって、最後の戦いの時である事をよく知っています。だから私は、あなたたちの所にやって来て、あなたたちを強めに来たのです。なぜなら、私こそが運河、恵みの流れる運河、全ての恵みの仲介者であるからです。私は、あなたの近くに、私の汚れ無き御心が、あなたの近くにある事を望みます。」マリア様はドアを付けて、「私は、私の汚れ無き御心にある燃えるような愛の炎を、あなたの心の中にも置きたいのです。」

 巡礼が終わって、この秋田の地を離れる時に、もしも皆さんが巡礼の時を良く過ごすならば、心の信仰と心は強められて、家に帰る事ができるでしょう。そして、この哀れな、この世界を見ながら、天国に行く為に私たちは確かに、正しい道を歩いている、という事を確信する事でしょう。そして、かつてなかったほど私たちは確信するでしょう、最後には、マリア様の汚れ無き御心が勝利を収める、と。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 SSPX Japan 聖伝のミサ (トリエント・ミサ) 2015年4月13日 婚姻のミサ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日です。
私たちの心がいつも、私たちの主のましまし給う天に向けられますように!

 さて、一ヶ月前に、聖伝のミサに与る兄弟姉妹が婚姻の秘蹟で結ばれました。その時のお説教をご紹介いたします。

 多くの兄弟姉妹の皆様が、聖伝のミサに与りたい、と思う切っ掛けとなれば幸いです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


(ミサ聖祭の場所は、いつも利用しているところではなく、
東京にある結婚式場のチャペルです。)


2015年4月13日 結婚式ミサ 小野田神父説教

「夫よ、キリストが教会を愛したように、妻を愛せ。
夫は、妻を自分の身の如く愛さねばならない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛するパウロさん、姉妹のカタリナ・ラブレさん、今日は本当におめでとうございます。

どうぞご家族の方、ご友人の方、この二人を祝福にいらした全ての皆さん、私にこの喜びの言葉を述べることを許してください。皆さん、私たちは、まず、本当にキリスト教的な婚姻とは何か、私たちは何を求めて、どんなものを理想として追及しているのか、という事を黙想しましょう。次に、この私たちの理想からもしも離れてしまったら、一体どうなるのか、という不幸な結末を少し黙想し、最後に、この結婚の、今から始まった新しい生活をどのようにしたら、この理想通りに追求していけるか、という決心を立てる事に致しましょう。

そして、その決心が守られ、祝福されますように、皆さんのお祈りをお願したいと思います。

私たちは、この地上の全てを見ると、全てのものが何かに依って創られた、という事が分かります。カメラにしても、テレビにしても、電車にしても、全てそうです。この地上で最も精巧な動物である、最も素晴らしい生物である人間は、これはこのデザインも、このプログラムも、全て天主によって創造されました。私たちが知性をもち、愛をもち、想像力をもち、真理と正義と美を感ずる事ができる、これは天主から与えられた特別のものです。この創造主は、御自分の似姿に似せて、人間を創りました。そして、その同じ天地の創造主は、御自分の御子キリストと、その花嫁である教会に於いて、人類の婚姻を制定しようと望まれました。

今日、私たちが今証人となった、この二人の結ばれたご結婚、ご婚姻の秘跡は、これは天主によって作られて、人となった天主、イエズス・キリストが、婚姻の秘跡まで高めた、全く本当に崇高で、神聖なものだ、という事を、是非心に深く刻んで、この一生忘れる事のないようになさって下さい。
私たちの追及している正に理想とは、この聖なる、神聖な婚姻の契りを、決して汚すことなく、聖なるものとして、最後まで忠実に守り通す。これこそが、私たちの抱いている理想です。

天主は、私たちが本当に幸せであるように、本当の意味に於いて、この地上に於いて、更に来世に於いて幸福であるように、設計図を、デザインをしました。人類のこの本当の幸せの為に、最高のデザインを作りました。そのデザインの一つに、婚姻の秘跡があります。

天主様は聖なるものとして、確かに、司祭という制度を作りました。司祭は特別に選ばれて、人類の為に、天主様に祈りと生贄を、犠牲を捧げる、聖なる人間です。ところで、同じ天主は、やはり全く神聖な制度として、婚姻の制度を定めました。この司祭とは、もちろん性格が違うのですけれども、しかし、神聖なものである、という事については全く同じです。天主が作った制度である、という事は全く同じです。その最も大切なものは、天主の御旨に従って、犠牲を、祈りを捧げる、という所です。そこに於いて、二人の婚姻の最もあるべき、一番美しい崇高な形があります。

特に、イエズス・キリスト様が、婚姻を秘跡として高めた、という事は、これはイエズス・キリストと、その神秘体である教会という共同体との一致と、神秘的に全く同じである、という事です。つまり、天主が一つとなったものは、それは誰も分離する事ができない、神聖なものである、という事です。

イエズス・キリストが教会を愛し、教会の為に命を捧げたように、夫もそれに倣って、妻の為に家族の為に、命を捧げるように招かれている、という事です。教会がキリストを愛し、それに仕えるように、妻も夫を愛し、夫に仕えるように招かれている、という事です。

教会が洗礼を通して、多くのキリスト教信者を生み出すように、もしも天主様の御旨であれば、天主様の御摂理と御計らいによって、天主様は命の宝物を、二人にお与えになります。それを全て預りものとして、その創造の御業に参与する為に、どうぞそれを大きく受け入れて、その賜物を大切に育て上げて下さい。天主様の創造の御業に参加する、という、天使たちでもできない崇高な業を、天主様はこの二人にご依頼になりました。その崇高な目的を達成する為にも、二人は互いに助け手として、互いに補い合い、聖なる一生を、聖化の為に、益々神聖なものとなるように、過ごして下さい。

ですから、私たちはこの婚姻の秘跡の事を、深く理解すれば理解するほど、益々その高貴な、崇高な理想像が、私たちに分かってきます。この高貴さの源、崇高さの源、神聖さの源というのは、これは天主から来て、全てを天主に懸ける、という事にあります。天主様こそ、最高の権威をもっています。これを通して、この婚姻の生活を通して、益々天主様に近付くように、聖なるものとなるように、互いに励み合って下さい。益々霊的に完成を目指す、という意志をもつようになさって下さい。

もしもそうでないとしたら、残念ながら私たちは低俗な雑誌や、或いはもしかしたら週刊誌や、或いは新聞や、或いはテレビや映画などで、私たちは別の事を宣伝させられているかもしれません。「あぁ、結婚というのは、人間が自由にやればいいんだ。人間がおもしろおかしく、自分の好きなままに、秩序も無ければ、規定も無ければ、もう自分が勝手にすれば良いのだ。」と、言っているかもしれません。「おもしろおかしく過ごせれば、何でも良いんだ。他のものはみんな邪魔だ。」と、考えてしまうと、どんなに二人が気の合った、性格の良い、どんなに二人がお金を持っていても、どんなに善意をもっていても、もしもこの地上の人間の快楽、人間の欲望に追求だけにしか見えていないとしたら、もしもそれが何らかの理由で、それがなくなったとしたら、その瞬間にその人々は、もはや婚姻の生活の大切さを理解できないかもしれません。

そうではありません。二人は、天主様によって結ばれた聖なる契りを、今もっています。天主様によって永遠に、永久に祝福された契りをもっています。これを破壊する事ができる者は誰もありません。死のみが、それを解消する事ができますが、人間の手には一切触れる事ができません。どうぞ、これを聖なるものとして守り続けて下さい。

その為には、どのようにすれば良いのでしょうか。私は今日、この聖なる御恵みの、立派な式場で来て、「あぁ、正にパウロくんとカタリナさんにぴったりの教会だなあ。」と、思いました。何故かというと、その私たちの目の前に、聖家族の絵が付いているからです。マリア様もヨゼフ様も司祭の前で、婚姻の秘跡を結び、生まれた子供はすぐに天主様にお捧げし、聖家族は、イエズス様、ヨゼフ様、マリア様はいつも、天主様のもとで、謙遜に清貧に従順に働き、神殿に毎年のようにお祈りに行き、遂には、イエズス様とマリア様に看取られて、聖なる死を迎えました。

正に、これこそが私たちに、本当の意味での幸せと、本当の意味での満足と、本当の意味でのこの地上での幸福に満ちた生活を保障するものであって、永遠の命を保障するものであるからです。

今日この式を始める前に、ある方から、「あぁ、今日はしんぷ様が二人いますね。」と、言われました。その確かに言葉も「しんぷ」で、司祭の「神父」と、あと新しい花嫁の「新婦」で、言葉の音も同じですけれでも、しかし、婚姻の中で結婚生活の中で、一番大切なのは、お祈りと犠牲を捧げる事です。二人がいつも十字架の前でお祈りをして、二人が共に忍耐し合い、許し合い、日々の日常の生活を、犠牲と権威と愛をもって捧げる、これは何か、ミサではないのですけれども、犠牲を捧げるという意味で、正に司祭的な生活ではないでしょうか。ですからその意味では、新婦様も、新しい花嫁様も、司祭に似た、新郎新婦の方は、司祭に似た新しい生活を始めるのだ、という事を胸に深く刻んで下さい。

そして、もしも将来、辛い事や苦しい事があったとしても、どうぞこの今の瞬間、幸せな瞬間を思い出して、この目の前の聖家族のステンドグラスを思い出して下さい。私たちは、聖家族にならなければならない、聖家族のようにこの一生を送るのだ、私たちは、神父のように、生贄、祈りと犠牲を捧げる新しい生活を始めたのだ、だから今のこの辛い事も、イエズス様とマリア様にお捧げしよう、と、どうぞ、今のこの瞬間を思い出して下さい。日々、毎日の祈りの生活をどうぞお捧げ下さい。

ここにご臨席の皆さん、ご家族の皆様に、この二人がいつも末永く、本当の意味での幸せな婚姻の生活を全うされますように、私たちもお祈りを、拙いながら心から一生懸命捧げて、このミサを今から続ける事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話1 「マリア様、一体あなたはどなたですか」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼で、シュテーリン神父様がなさった最初の霊的講話をご紹介いたします。

 聖マキシミリアノ・コルベの熱烈なファンであり、コルベ神父様の研究家であるシュテーリン神父様のお話は、いつ聞いてもとても興味深いものです。

 秋田巡礼に参加することが出来なかった方々に、是非お読みになっていただきたいと思います。天主イエズス・キリストは、聖母マリアについてどのように考えているか、どのように取り扱っているか、どのような模範をのこしたかについて、説明されます。

 秋田巡礼に全部参加することが出来ず、これを聞くことが出来なかった方々も、これをお読みになると、筋が通ってきます。

 秋田巡礼に行かれた方々も、これをもう一度読み返すと、さらに聖母マリアさまについて黙想が深まることでしょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月2日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話1
「マリア様、一体あなたはどなたですか。一体あなたは誰ですか。」
同時通訳:小野田圭志神父

 この秋田の巡礼の為に、素晴らしく印刷されたしおりの中に、緒言の中に、巡礼の挨拶の、巡礼へのお招きの言葉があります。それをもう少し詳しく説明したいと思います。

 それをまとめると、マリア様は私たちに何を求めているか、私たちがどのようにある事を求めているか、という事です。つまり、子供である事、奴隷である事、騎士である事を求めています。

 もしも、子供という事は何か、という事を理解しようとするならば、母とは何かを理解しなければなりません。私たちはよく、天主の御母、とか、私たちの御母、と、口にはします。しかし、一体それが何を意味しているか、という事を深く考えた事があるでしょうか。

 私たちは自分の事を、マリア様のしもべ、とか、マリア様の奴隷とさえも言います。つまりこの事は、マリア様は、私たちの女王様、つまり元后である、という事です。

 マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が仰ったように、私たちがマリア様のしもべである、マリア様の兵士である、騎士である、という事は何を意味するかというと、マリア様は、私たちというキリスト教の軍隊の最高司令官であり、指揮者である、という事です。これらの言葉は私たちに非常に重要な言葉で、私たちの全生涯を変えてしまう程の力があります。もしも私たちが、マリア様へのお祈りの中で、私たちがマリア様を呼ぶその言葉の意味を理解できていなければ、全ての意味が失われてしまいます。

 では、マリア様の役割とは、私たちの救霊におけるマリア様の仕事とは、マリア様が天主様から受けた職務とは一体何かを、知らなければなりません。ですからこの最初のお話は、「マリア様、一体あなたはどなたですか。一体あなたは誰ですか。」と、いう事について黙想しましょう。

 まず、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールによれば、「マリア様は、天主様と比べたら、全く無に等しい。なぜならば、天主様の目の前では、全ての被造物は、全く無であるからです。しかし、その天主様が、この何も無であるかのような被造物を、マリア様を選んで、そのマリア様を高める事を望まれたならば、この無に等しい被造物のマリア様が、偉大な方となるのです。」

 旧約聖書では既に、この天主の御計画について書かれています。天主様は、ちょうど建設家がその設計図をもって、プランがあって、それに基づいて何かを造るように、天主様も何かのプランに基づいて、全宇宙を創造しました。天主様は、全宇宙を創るその前から、最も、被造物の中でも最も美しい被造物の事を、既に描いていました。皆さんが何か素晴らしい偉大な業をしようとする時には、完璧な概念というのでしょうか、何かすごいアイディアというものがあるじゃないですか、このラテン語では、この何か素晴らしいコンセプトが生まれた、何か素晴らしいアイディアがある、という時には、「conceptio」と言いますが、そのマリア様という偉大なconceptioが、つまり、無原罪の御孕り、というのもつまり、「Immaculata Conceptio」と、言いますが、その考えが、その事があったのです。

 天主様が、この世を贖い、救おうとされたその時には、マリア様には更にもっと素晴らしい役割が与えられていました。もちろん天主様は、たった一つの言葉で、たった一つの考えだけで、全世界を創造しました。ですから、ただ天主様がほんの一言、ハッと言えば、全ての人々を罪から救い、霊魂を救う事もできました。ところが、天主様がこの世を救おうとしたそのやり方はそうではなくて、そのどのようにやろうとした、という事は考えれば考えるほど、全く素晴らしいものです。全ての聖人たちと共に私たちも、口を大きく開けて、目を大きく開けて、「ええ!?天主様はそんな事を考えられたのか!信じられない!」と、言わなければなりません。

 考えてもみて下さい。天主様は、御自身が私たちを救う為に、天からこの地に降りてこられた、という事です。天主様は全く全てで、私たちは何でもありません。無限の天主が、この世に来る為に、無限に小さくならなければなりません。これが、天主イエズス・キリスト様の玄義・神秘です。天主が人となった、という事です。

 天主様が人となった。では、その天主が人となった、という事はつまり、王の王、主の主が、すごい御稜威の中で、皆が天主様の前で平伏して、「あぁ!畏れ多い」と言っているのでしょうか。たとえば、水戸黄門の印籠を見せられて、皆が「あぁ!」と平伏しているように、天主は「控え控え!畏れよ!さぁ!」と、言っているのでしょうか。そうではありません。

 天主様が人となった、という事でも、誰も知りませんでした。天主は本当に小さな国の、その小さな寒村の、その小さな所で、お生まれになりました。
天主様は人となって、御自分を、若い女性のご胎内に、自らを隠されました。ちょうど牢獄に閉じ込められたかのように、イエズス様は、天主様は、人となって、マリア様のご胎内に9ヶ月の間、ずっと閉じ込められていました。

 この天主様がお生まれになったその時には、ベトレヘムでお生まれになった時には、本当に可愛い赤ちゃんとしてお生まれになって、どんなにどの人でも、一握り一潰してしまうほど、かよわい赤ちゃんとして生まれて来ました。天主様は、貧しい者の最も貧しい者として、生まれる事を望まれました。考えてもみて下さい、天主様は、全てのものを所有している、最も豊かな、最も力ある方ですけれども、お生まれになった時には、全く何も持たずに、後には、枕する所さえもない、と言われるほど貧しくなられました。

 この地上に33年間貧しく生活されましたが、何をされたのでしょうか。もちろん、この世を救う為に来ました。ですから、イエズス様は全生涯をかけて、この全ての国に行って、福音を宣教する事ができたはずです。真理について語り、道を示し、霊魂を救うのです。その33年間、自分でどのように生活するか、自分で決定する事もできるはずです。一体どこに行って、どうやって、何をしているか、自分が判断する事もできるのです。

 ところが、これもまた驚くべき、私たちの想像を超える事が起こっています。主の主、全ての物事の所有者、王の王が、小さな子供となって、自分の被造物に完璧に依存して、自分自身の意志さえも放棄してしまったのです。この天主は、人となった天主は、御自分の人生の90%の間、つまり30年間、自分の思う事をやらずに、ヨゼフ様の命令のまま、マリア様の考えのままに、全てを行いました。イエズス・キリストは、本当の意味で、マリア様とヨゼフ様の奴隷のようになりました。

 では、奴隷というのは一体何でしょうか。奴隷というのは、自分の主人の、つまり自分に命令を下す人に全てを委ねて、それに従う、依存するものです。イエズス様は、ヨゼフ様とマリア様に全て依存して、それの命令に従った奴隷でした。

 イエズス様が、この地上に来たというその目的は、私たちを罪から解放して、天国を開いて、私たち全てを天国へ連れて行く為に来ました。そして、その福音を伝える為には3年間しか使いませんでした。ですから私たちも、「その3年間だけは自分の思い通りにしただろう。」と、言うかもしれません。しかし、この3年間さえも、自分の思い通りにやったのではなくて、天にまします御父の意志のみを、そして、地上における自分の母親の意志を遂行したのでした。

 例えば、イエズス様の最初に行った奇跡を見て下さい。イエズス様は、そんな奇跡を行おう、という気持ちもありませんでした、それをする考えもありませんでした。イエズス様は言います、「私の時はまだ来ていない。」しかし、マリア様が懇願する事が分かったので、最初の奇跡をしました。

 後に、イエズス様が十字架の上で御自身を御父に捧げて、御血を流されて、私たちを罪の鎖から解き放ち、罪という癩病をきれいに治す、という時に、一人でやろうとは思いませんでした。十字架の足下には、マリア様がいました。イエズス様は、マリア様も自分の苦しみと同じ苦しみを受ける事を望まれました。聖アウグスティヌスによれば、「イエズス様は、御自分の肉体で受けたその苦しみと同じ苦しみを、マリア様の汚れ無き御心に感じる事を、苦しむ事を、望まれた。」と、言います。

 ですからここに、天主様が人間の救いを遂行する為に定めた、天主様の掟、天主様の法律、法というのが見えてきます。イエズス様は、マリア様なしには決しておられない、という事です。マリア様なしには何もしない、という事です。マリア様のおかげで、マリア様を通して、天主は人となりました。もしも万が一、マリア様が、天使から受けたお告げを拒んだならば、私たちは天国へ行く道が全て閉ざされていました。

 天主様の御旨はこれでした、『全世界の救いが、マリア様に全て依存している。』という事です。

 もちろん、イエズス様だけが、私たちを救います。私たちを地獄から解放して、天国へと導いて下さる方で、私たちの罪を赦して下さる方です。しかし、この唯一の救い主であるイエズス様が、私たちの救いの為に、マリア様が必ず必要な手段として有る事を望まれたのです。マリア様の役割というのは、私たちは決して誇張する事はできません。

 「神父様、あんまりマリア様の事を大袈裟に言うと、プロテスタントの人達が何か言いますよ。」と、言うかもしれません。「神父様さっき言ったじゃないですか、天主様は天主で、マリア様は何にもない、無だ、と。神父様はもうほとんど、マリア様を女神かのように、何かオーバーに言っていませんか?」

 いいえ、違います。私は、私がやっているのではなくて、天主様がそう決めた事を、私は皆さんに言っているだけです。天主様が、この私たちと同じ被造物である人間を、その最も高い崇高な地位に上げられた、という事を、私たちが見て喜ばなければなりません。でも、天主がそれを決定したのならば、それを望んだのならば、私たちは、その事を心に深く刻み込まなければなりません。

 イエズス様はお一人で、誰からの協力も受けずに、この全世界を、私たちを救う事ができました。しかし、それを御望みになりませんでした。そして、イエズス様が望んだのは、自分の救いの業を、いつも、どこでも、御自分の御母と共にする、という事なのです。それを決定しました。マリア様は、イエズス様がこの地上に来る事を可能にしました。ですから私たちは、マリア様を通して、イエズス様はこの地上に来られた、とはっきり言う事ができます。

 でも、この事だけで、マリア様の特権を全て語り尽くす事は、全く不十分です。イエズス様は全生涯において、全てマリア様に依存する事を望まれた、と私は申しました。では一体なぜ、90%の、もうほとんどの全生涯を、そうやってマリア様に依存して生活する事を望んだのでしょうか。イエズス様は、その他に何の特別な事もしませんでした。30年間、ヨゼフ様の仕事の、そのちょっとした工場でちょっとしたお手伝いをして、マリア様の言うままにした、それだけです。30年。

 イエズス様は言います、「私は、あなた達に模範を与えた。それは、あなた達が私の真似をする事ができるように」と。
私たちが真似る事ができる、どのような模範を、イエズス様は示したでしょうか。

 それは、イエズス様が全くマリア様に依存していた、という事です。この事を、私たちはマリア様に奉献、と言います。そして、もう一度言いますと、イエズス様は、自分の意志を、自分のやりたい事を一切しませんでした。イエズス様のした事は、マリア様の望みのままでした。そして、イエズス様は私たちに命令しています、「私は、お前たちに模範を与えた。私のしたことをしろ。」イエズス様が、マリア様に従順であったように、お前たちも従順であれ。と、言っています。

 私は、何人かのプロテスタントの牧師さん達に、マリア様の話をした事があります。「神父様、ちょっとやっぱりオーバーですよ。いつもマリア様、マリア様、マリア様、マリア様、ちょっとだけイエズス様。それじゃないですか。」そしてですから、そのプロテスタントの牧師さん達に、今皆さんにお話したと同じ事を言いました。それで、聖書のちょっとした引用を一緒に合わせて見せて差し出しました。

 「私がしたようにお前たちがするように、私は模範を示した。」
そして、30年間のイエズス様の御生涯をまとめた一節、「erat subditus eis. 彼《イエズス》は、彼ら《ヨゼフとマリア》に、従順であった。」

 すると、この2つを見せると、プロテスタントの2人は目を大きく開けて、口を大きく開けて、ぽかりとしていました。そして、この牧師さん達同士で顔を合わせて、(顔を見合わせる仕草)。そして、その講話の後でプロテスタントの牧師さん達は、一緒にロザリオを大きな声で唱え始めたそうです。そして、プロテスタントの牧師さん達が言うには、「あぁ、私たちは本当に馬鹿だった!この私たちから、本当のお母さん、マリア様を奪い取ったルターの後を、そのまま継いだのは全く愚かだった!」と言っています。

 マリア様は、イエズス様の付き添い人として、助け手として、いつもイエズス様の傍にいて、十字架の足下に佇み、イエズス様から特別な使命を受けました。
イエズス様はマリア様に言います、「汝の子を見よ。」

 この時に、イエズス様はマリア様をして荘厳に、マリア様は単なるイエズス様の御母だけではなく、全ての私たちの母である、という事を任命したのです。

 皆さんは言うかもしれません、「あぁ、もちろんマリア様は、イエズス様のお母様ですけれども、また私たちのお母さんかもしれませんけれども、でも同じではありません。」

 でも、教会の教えを知っていますか?私たちは、こうマリア様に聞きます、「おお、インマクラータよ。あなたは一体どなたですか?」

「あなたは天主の御母です。ですからあなたは天地の元后です。御身は全ての被造物の最も高貴な方で、天使たちよりも更に高貴な方です。御身は、イエズス様、新しい第二のアダムであるイエズス様と共に、第二のエヴァとなった方です。」

 聖パウロはイエズス様の事を、「新しいアダム」と、言います。ちょうど、全人類が古いアダムから毒的に生まれたように、新しく贖われた、救われるべき人類は、新しいアダム、イエズス・キリストから来なければなりません。ちょうど、古いアダムが全人類の父となる為には、一人ではなく、必ずエヴァがいたように、エヴァと共に全人類の父であったように、新しいアダムであるイエズス・キリスト様は、マリア様と共に初めて、新しい人類の、贖われた人類の父となるのです。

 でも、新しいエヴァ、新しい人類の母となるエヴァ、とはどのような意味か分かりますか?新しいエヴァというのは、古いエヴァとは全く正反対です。エヴァというのは、全て生きる者の母です。ところがエヴァは、サタンの声を聞いてそれを信じたが為に、全ての命を失いました。エヴァはその後、霊的死の、霊的な死滅の母となりました。ところが、マリア様が十字架の下に佇んだ、そして、その信じられないほどの巨大な苦しみを捧げ、信じられないほど巨大な御子の苦しみと共に、捧げたのです。私たちの最悪の敵、最悪の悪から私たちを、イエズス・キリストとマリア様は、共に、救って下さったのです。

 イエズス様はサタンに打ち勝ち、マリア様はサタンの頭を踏み砕く。イエズス様は全宇宙の王となり、マリア様は全ての存在の元后となります。イエズス様は、私たちを罪の鎖から解き放つ、贖った贖い主となり、マリア様は、共に贖う共贖者となりました。イエズス様は、天主と人間との中間者としての橋渡しとして、司祭となります。イエズス様は、天の門をもう一度開き、天と地をもう一度、一つに一致させます。イエズス様は、私たちと御父との仲介者となります。マリア様は、イエズスと私たちとの間の仲介者となります。そして、私たちが全宇宙で全世界の存在で見出す事のできる、全ての霊的な特権と権能と能力を、マリア様が一つに、マリア様の御手の元に集められている事になります。

 皆さん、全ての、何億何兆という天使たちを全て集めて下さい。この天使というのも、数限りなくと思われるほど居て、そのほんの一部の最初の一部が、守護の天使たちです。この守護の天使たちの数というのは、この世から生まれてくる、生まれた、アダムとエヴァから始まって、この最後の人類の全てにも分配しても、まだ有り余るほどの数がある、守護の天使が一部います。その天使たちには、9の階級があります。その全ての何兆何京のものすごい数の天使たちを、全て集めて、もう諸聖人の数限りない全ての聖人たちを集めて下さい。そして、この全ての天使たちを集めて、全ての諸聖人たちを、殉教者、童貞女、全て集めると、こうした山ができます。

 ところが、それと比べると、マリア様は、その頂上を見る事ができない、極めて高い、ものすごい山脈を造っています。

 ここに、黙示録の12章に書いてあります。その黙示録12章には、全てのこの悪の勢力が一致してあります。竜とか二頭の獣とか。それらが全世界を支配しています。この悪の勢力の下に、全民族、全ての言語、全ての人々がそれに従っていた、と。そして、信じられない程ものすごい巨大な、この悪の勢力があります。
そして、このものすごい勢力の前に立ちはだかっているのが、一人の女性です。それは、太陽をまとった女性です。その足元には月があり、頭には12の星の冠があります。マリア様です。私たちの母であり元后であるマリア様。

 そして、この偉大なる天主の御母は、皆さんのお母様です。そのお母様ですけれど、どこか遠い国の何か偉い宮殿に住んでいる、どこかもう分からない様などこかのお母さんではなくて、イエズス様が十字架の上で、「汝の子を見よ。」と、仰り、イエズス様はこのヨハネを指した時に、ヨハネの間に皆さんの顔を全て思い出して、「お前の子を見よ。」と、言いました。
皆さん、十字架の足下に立って、この事を感じて下さい。イエズス様は、皆さんの顔をまじまじと見て、目を見つめて、「汝の母を見よ。」と、言っているのです。

 皆さん、マリア様がそれを受けた時には、ただリップサービスで、ただ半分だけ受けた、という事はありません。全てをそのまま文字通りに受けます。そマリア様はこの使命を受けた時に、その使命を最後まで遂行します。イエズス様はこれを望んでいます。私たち一人一人が、本当にマリア様の子供になる事を望んでいます。

 イエズス様はマリア様にこう命じたのです、このマリア様が、私たち一人一人を、ちょうどマリア様がイエズス様を愛したとそれと同じように、私たちを子供として愛する事を。

 それが、マリア様にどれほどの事を、どれほどの犠牲を要求するか、ちょっと考えた事がありますか?自分の愛する御子イエズス・キリストを、死に追いやった子を、自分の子供として受けるという事が、どういう事を意味するか分かりますか?

 マリア様は全生涯を、イエズス様の為だけに生きていました。全てをイエズス様の為に、全てをイエズス様だけにしました。マリア様にとって、第2などというものはありません、全てをもう、イエズス様。そして、イエズス様の事をマリア様がどれほど愛しておられたか、という事を私たちは決して理解する事ができません。そのイエズス様はマリア様に、それと同じ愛を以って、皆さんと私を愛するように、マリア様に命じた、という事です。

 これは、マリア様はイエズス様を取られた代わりに、私たちが与えられるとは、何という恐るべき犠牲だったでしょうか。マリア様が、そのイエズス様の御望みを拒否すると思いますか?マリア様が、イエズス様の御望みを半分だけ受けて、残りは拒否したと思いますか?私たちはもしかしたら、何か嫌な事があったら、あぁ、まあ、まあやってみましょう、と言うかもしれません。しかし、マリア様は全てそれを文字通りに受けて、文字通りにしています。ですから、私たちにどれほどの素晴らしい母がいるか、と考えて下さい。

 そして、グリニョン・ド・モンフォールは言っています、「世界に存在する、全ての最高の母親を、全て集めて下さい。そして、この全ての最高の愛に満ちた母親を、全て全て全て全て集めて、その母親がただ一人の、全ての愛を込めて、一人の子供だけを愛した、と考えて下さい。」聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「私は、こう宣言する。その全ての母親の最高の愛を、全て集めて、一人の子供を愛したよりも、マリア様は私たちの事を、もっと愛する。」

 皆さん、驚かなければなりません。どうしてこんな事ができるのか、やりすぎだ、もうありえない、もう信じるにはとても信じきる事ができない。でも信じなければなりません、信じなければなりません。今までよく振り返ってみると、マリア様に対して、あるべき態度をとってきていなかった、という事が分かります。「マリア様、マリア様が私の御母だという事は信じていましたが、でもそこまで、お母様だったのですか。」

 マリア様は、天地の元后です。天の母だからといって、極めて幸せで無限の幸せをもって、罪人である私たちを眺める必要など一つもありません。ところが、天からマリア様のものすごい愛を込めて、各瞬間、瞬間、私たちを愛の眼で眺めて、愛の眼でご覧になって、私たちの世話をして下さっています。そして、いつも、どの瞬間も、絶えず私たちの良き母としていらっしゃる事をお望みになるのです。

 明日、母親とは何か、母親の仕事とは何か、という事について話をします。皆さんお母さんがここに沢山いるので、母親の仕事は何かよく知っているはずです。でも、マリア様が私たちのその母、そこまでの母とは、私たちは今まで考えた事もありませんでした。私は、絶えざる御助けの聖母の、マリア様のノベナを毎日のようにする事ができます。でも、私たちが今毎日唱えているお祈りの意味する、その何を意味しているかを、今まで分かりませんでした。

 ちょっと考えて下さい、マリア様が、絶えざる御助けの聖母、絶えざる、絶える事のない、聖母だという事を。私たちは、「あの、何か助けましょうか?あの、必要な事がありますか?」もちろん、時々必要な事があるかもしれません。マリア様は、「私たちを助けたくて助けたくてたまらない。」と言って、そして、ただ助けたいと思っているだけではなくて、助ける全ての手段を、もうありとあらゆる手段をもっていて、「さあ、さあ、さあ。」と待っています。それも、86400秒、24時間、全て、いつも。

 これこそが、私たちが学ばなければならない事です。マリア様がなさる事は全て、皆さん一人一人の個人的なものの為に全て、なさって下さっています。

 この事によって確信しなければなりません。目を覚まして下さい。いいですか、明日皆さんマリア様の御像の前に行って跪きます。マリア様が流した涙の一滴一滴は皆さん、一粒一粒が、皆さんと私の為です。マリア様がおしゃべりになったルルドとか、ファチマとか、秋田とかの、一つ一つの言葉が、皆さんと私の為の言葉です。

 ですから、今日のこの最初の講話の結論として、マリア様に私たちは、「私たちがいつも唱えているこの祈り、この私たちがいつもマリア様に言っているこの言葉の深い意味を、私はまだ理解できていません。」と、言わなければなりません。「イエズス様、私の眼を開かして下さい。私は眼は開いていますけれども、何も見えない。眼の見えない人と同じです。私は眼は開いているのですけれども、実は何も見ていないかの様です。」「私は信じているとは言いますけれども、でも本当に深くは信じていません。」「私は、マリア様、私の母、御母、我が元后よ、とお祈りはしますが、でも、その意味する所は分かっていません。」「マリア様、私を理解させて下さい、それは何を意味するか。御身が、私の本当の母である意味を理解させて下さい。御身は、いつも、どこでも、私がどのような境遇にあっても、何があっても、御身は私の母である、という事を理解させて下さい。」

 明日、マリア様が私たちの母である、私の母である、という事が一体何を意味するか、詳しくすすめます。そして、マリア様が母である、という事が分かった後に、じゃあ、マリア様の子供とは一体何なのか、分からなければなりません。

 時間が来ました、ここでお祈りをします。ご清聴ありがとうございます。

 

2015年5月3日 秋田巡礼のミサの説教 (御復活後第4主日) SSPX Japan Akita Pilgrimage

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こちらマニラでは、今週男性のための霊操による黙想会があり、17名が参加しました。

 さて、秋田巡礼の際の早朝ミサのお説教をご紹介いたします。ここでのポイントは、
(1)私たちは天国への巡礼者である、この地上が目的では無く天国に向かう旅人である、
(2)そのためには、道先案内者、霊的ガイドに従わなければならない、
(3)この秋田巡礼の講話をよく聞く、

と言うことを再確認することです。



2015年5月3日 御復活後第4主日 小野田神父説教

 「誰も私に、あなたはどこに行くのですか。と、尋ねる者はいない」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する巡礼者の皆さん、今日は巡礼の第2日目です。この主日でイエズス様が、「誰も私に、あなたはどこに行くのですか。と、尋ねない。私は聖父の元に行く。皆これを知っているからだ。」と、仰います。

 私たちは巡礼者です。私たちは天国に行く者であります。私たちの地上の巡礼を行っている者ですが、私たちの究極の巡礼の目的は、天の国、永遠の命にあります。

 ところで、イエズス様と同じよう事を、私たちは言う事ができるでしょうか。誰も、私たちに対して、「あぁ、あなたは今、どこに向かっているのですか。何の為に生きているのですか。あなたの究極の目的は一体どこですか。」と、敢えて尋ねない、誰も尋ねない、と言う事ができる人がいるでしょうか。

 もしかしたら、「あなたの生活を見ていると、本当に天国に真っ直ぐ行く方のようです。本当にあなたは、聖なる日常を送っていますね。」と、言うかもしれませんが、もしかしたら、「あぁ、あなたの生活を見ていると、どうも地獄に行くかのようです。本当にそれで大丈夫ですか、本当にそれで天国に到達するのですか。そんな事をやって大丈夫ですか。」と、私たちに尋ねる人がいるかもしれません。

 そこで、今日は巡礼の真っ最中ですから、私たちが究極の目的地に、人生という巡礼の最後に、目的地に辿りつく事ができる為には、どうしたら良いか、一緒に黙想する事に致しましょう。

  私たちが天国に辿りつく、天国の究極の目的というのは、つまり、私たちがイエズス・キリストと一致する、という事です。天国というのはつまり、新しいアダムであるイエズス・キリストの一体となって、イエズス・キリストの新しいアダムから生まれる、新しい人類になる、という事です。つまり、私たちは、イエズス・キリストのようにならなければなりません。新しいアダムのように、新しい服を、新しい人を着なければなりません。私たちは、キリスト化しなければなりません。キリストに倣わなければなりません。キリストに倣う、という事は、イエズス様のなさった、と、同じ事をしなければなりません。

 イエズス様のなさった、という事はすなわち、マリア様に全てを委ねた、という事です。究極の目的に達する、まず第一の手段は、マリア様にピッタリと依存する事。マリア様に全てを奉献する、という事です。

 そればかりではありません。私たちは巡礼を行って、聖体奉仕会に行こうとします。その時に私たちはバスに乗って行きます。バスをチャーターしてきました。ですから、私たちはそのバスに乗る事によって、ただそれに委ねれば良いのです。ただそのバスに、乗りさえすれば良いのです。マリア様に奉献するという事も、まさにそれと同じです。

 実は、昨日私は、シュテーリン神父様を空港に迎えに行きました。ここにはタクシーも呼ばなければならないし、タクシー代も節約する為に、空港まで歩いて行きました。一時間もかかりましたが、おかげで足にマメができました。でも、空港までちゃんと行く事ができる為に、地図を見て、どのようにいったら良いかをちゃんと確かめて行きました。めくらめっぽうに行ったわけではありません。ですから、ちゃんと神父様に会って迎える事ができました。

 一昨日、一足先に私は、フィリピン5名の方を連れて、マニラからやって来ました。皆初めて日本に来られたのですけれども、とっても安心だと言って、とても喜んで下さいました。何故かというと、神父様が一緒にいるのでもう迷う事はないし、全く安心しきって、もうただこうして下さい、この飛行機に乗って下さい、こうして下さい、と言う事をするだけで良いので、本当に安心して、全てが順調に来られた。

 ところでまさに、第二の方法は、バスに乗るばかりではありません。バスに乗る、という事を私たちに教えて下さる方がいます。そのバスに乗るまでに辿りつく道を教えて下さる方を、イエズス様が私たちに送って下さいました。カトリック教会を私たちに送って下さいました。それが、今日巡礼を指導して下さっている、シュテーリン神父様です。管区長様であります。

 聖ピオ十世会は、ただ司祭が、或いは好きな友好会や同好会が、集まって創られた団体ではありません。これは、私たちの創立者であるルフェーブル大司教様が、その創立しようとしていた土地の司教様、フリブールのシャリエール司教様に、公式の認可をもって、創られた修道院です。ちょうど秋田の聖体奉仕会が、新潟の伊藤司教様の下で創立されて、公式に認められた修道会であるのと全く同じです。

 聖ピオ十世会については、悪口を言われたり、誤解をされてもいますが、この公式に成立された教会法は、教会法に則って成立された聖ピオ十世会は、今でも教会の中に燦然と存在し、創立の時から今に至るまで、ローマの枢機卿様たちが来て、それを訪問し、それに絶大な賛美の言葉を頂き、ローマからは、例えば今でもつい最近でも、多くの司教様、枢機卿様たちが、聖ピオ十世会を訪問し、神学について語り合い、という事を公式に続けており、いつでもカトリック教会の一修道院の、教会の命の一つとして、生ける枝の一つとして、花咲く枝として、実を結ぶ枝として、咲き誇っています。

 その公式の公教会の選んだ、公式の総長によって、アジアに新しく派遣されたシュテーリン神父様は、まさに、天主が私たちに送ってくださった、真の、正当なる、正しい牧者であります。その牧者であるシュテーリン神父様が、アジア管区長様が、このマリア様の 生活を、日本の私たちの巡礼者と一緒に、聖化しよう、と足を運んで、私たちと共にいて下さり、時を過ごして下さり、私たちに、「さあ、天国に行く為にどうしたら良いか、バスに乗るにはどうしたら良いのか、これからどうやったら天国に必ず行く事ができるのか、巡礼者とはどうなのか。」と、いう道を教えて下さっています。

 ですから、皆さんも目をカッと開けて、耳をカッと開いて、神父様のお話をよく聞いて下さい。神父様の、「こうしなさい。」と、言う事には、「はい。」と、素直に従順になって下さい。

 旧約聖書によると、「不従順である。正当な牧者の正しい命令に従わないのは、不従順であるのは、それは魔術や、あるいは偶像崇拝と等しい。」と、言います。

 私たちの聖徳の完成とは一体何でしょうか。聖徳の完成とはすなわち、イエズス・キリストの聖なる御旨を果たす、という事です。その聖なる御旨を果たす、という事を、イエズス様は代理者を通して、私たちに語られます。私たちに送られた代理者は、すなわちシュテーリン神父様で、その昨日からの言葉が、そのイエズス様が、私たちに教えようとされている言葉の一つ一つです。アヴィラの聖テレジアも、十字架の聖ヨハネも、同じ事を言っています、「私たちが、私たちに送られた正当な指導者、牧者の声を聞く事によって、私たちは、正しい、最も安全な救霊の道を進む事ができる。」

 もちろん、明らかに罪を命令する事があれば、私たちは拒否しなければなりませんが、しかし、愛する兄弟の皆さん、巡礼者の皆さん、私たちのシュテーリン管区長神父様が、私たちに悪を命令する事はありえません。マリア様に対する愛と、マリア様に対する信仰と、その神秘の深みを、私たちに教えてくれるはずです。

 どうぞ、耳を大きく開いて、全身全霊を傾けて、シュテーリン神父様の言葉を、今日はじっくりと聞いて、黙想なさって下さい。

 最後に、私たちは聖霊にお祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。ちょうど、聖パウロが今日言うように、「聞くに早く、語るに遅く。」

 マリア様の御取次ぎによって、聖霊の御憐れみによって、私たちが、真理の言葉を、聞くに早く、私たちの無駄話や、その他の雑音は、語るに遅くありますように。この巡礼が、良い、実り豊かなものであるように、マリア様にお祈りする事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

2015年秋田巡礼のミサの説教 マリア様が母であることの意味 (シュテーリン神父) SSPX Japan

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 秋田巡礼でのシュテーリン神父様のミサの説教をご紹介いたします。

シュテーリン神父様は、聖母マリア様が私たちの母であると言うことの意味を深めてくれます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月3日 御復活後第4主日 シュテーリン神父様御説教



同時通訳:小野田圭志神父

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
 
 昨日お話を聞かれたように、マリア様は私たちの母となりました。私たちは、マリア様が母であるという事が、一体何を意味するかを、深く理解する事に致しましょう。

 母親としてマリア様が、私たちに教えて下さる最初の教えは、天主様についてです。私たちの全生涯が、天主の神秘を正しく理解する事にかかっている事を知らなければなりません。問題は、私たちが天主様を、この目で直接間近で見る事ができない、という事です。私たちはしばしば、天主様についてふさわしい考えをもたなかったり、或いは、間違った事を思い込んでしまったりして、天主様の本当の御稜威、天主様の本当の神秘について誤解してしまう事です。

 ですから、天主様は私達に母を送って、私たちがこの地上で最も知らなければならない、最も重要な事柄、つまり天主について教えるように、としたのです。この地上でマリア様ほど、天主様に最も近しい、最も親しい、緊密な関係を持つ方はいませんでした。

 マリア様が、最初に聖アンナ様の胎内に受胎された、その無原罪の御孕りのその瞬間から、このご幼年を通して、全く罪の汚れを知りませんでした。天主しか知りませんでした。マリア様は、天主様の偉大な事を、深く理解されていました。つまり、天主様は全てであって、被造物は全く無に等しい。自分を、天主様の御前における、無に等しい婢女である、という事を深く自覚していました。

 マリア様は、この全宇宙を創った天主が無限の御方であって、大海原のように偉大な方であって、始めも無く終わりも無く常に在って在る方であり、まさに天主のその自ら在りて在す事を深く理解していました。マリア様は、全ての被造物、天使たちの代理人、人間達、大宇宙コスモス、全てが、天主様の前では影すらなく、全く無に等しいという事もよく理解していました。

 これが、マリア様が私たちに教えて下さる、最初の教えです。天主が全てであり、私たちは全く無に等しい、という事です。

 私たちは、心を開いて、この教えを大きく受けなければなりません。私たちはこれに従わなければなりません。何故かというと、私たちは非常にしばしば、全く反対を考えているからです。私たちにとってはこの世が全てで、この世には、この世の力に全くもう魅惑されてしまって、天主様は全く無に等しいかのように、誤解しています。

 考えてもみて下さい、私たちの日常生活のうち95%、99%が、この世の事、この世の事、この世の事、この世の事だけを考えて、もしかしたら5%、1%もないかもしれませんが、天主様の事を考えるか考えないかです。ですから、マリア様は私たちの心を変えて、回心させなければなりません。

 私たちはよくこう考えるかもしれません、「始めにこの世があり、この世は全てである。また、この世は永遠に続く。」と。これは、嘘です。ちょうど、今日の書簡書が言っている通りです、「全ての善いものは、天の光の聖父から来る。天主からのみ来る。」天主のみが、在りて在る方であり、御自分自身の力で存在される方であるからです、「ens a se.」これはラテン語で、「御自身自身で存在する。」と、いう意味です。私たちは、天主によって在らしめられている存在です、「ens ab alio.」これはラテン語での表現です。

 マリア様は、御自分の子供達私たちに、この本当の真理を生きる事を望んでいます。もしもそうでなかったら、私たちは幻覚と嘘と偽りの中に生きている事になってしまいます。真理とは、私は、全て、いつも、いつまでも、天主に依存している、という事です。

 私たちが朝起きたら、何をするか、どんな事を考えるか、ちょっと見て下さい。私たちの1日が始まって、動き出した時に、あたかも、「さあ、この全てが、私たちのもので、所有物で、私の思い通りにする事ができる」かのように、錯覚していませんか。これは間違っています、嘘です。

 マリア様はその反対に、朝起きて、その最初の瞬間から、「あぁ、今日この1日を御身から全て受けました。その御身の為に、これを使います。天主よ、御身を礼拝します。御身に感謝致します。」これがマリア様です。どのような事がマリア様の身に起ころうとも、どのような事があろうとも、マリア様は、「あぁ、これは天主様から私の為に送られたものだ。」

 これこそが、マリア様が私たちに、母として教えたい事です。もしも私たちが、本当のお母様であるマリア様のもとに行かなければ、馳せ寄らなければ、この真理を知る事は一切ありません。マリア様は、私たちが、私たちの人生の全ての瞬間、全ての出来事が、天主様からの贈り物であり、天主様から差し出された最高の宝物である、天主様の手にもたれたものである事を知るように、望んでいます。マリア様が朝起きて、他の隣人の方々をご覧になる時、「あぁ、この方々は、天主様、あなたが私におくって下さった方々です。天主様感謝致します。」と、祈っていました。夫が朝起きて、最初に妻を見た時に、夫は妻を、「あぁ、天主よ、天主様、あなたはこの方を私に下さいました。感謝します。」と、言います。もしも、皆さんご結婚なさっているのであれば、朝起きた時に、どれほどそれと同じような事を思うでしょうか。

 ご結婚された方は、今子供さんがたくさんいらっしゃるかもしれません。この子供を見た時に、「あぁ、息子がまたいたずらをした、女の子がまた言う事をきかなくて、頭が痛い。」と、言う代わりに、「あぁ、この子供達は、天主様から頂いた宝物、感謝します。」と、私たちは言うでしょうか。

 私たちは少しずつこうやってマリア様から、この私たちの生命の起源、命の始まりを、つまり、天主様が全てであって、天主様から全てが始まる、天主様がその原理であって、α(アルファ)である、始めである、という事を習っていくのです。天主様は始めであると同時に、Ω(オメガ)である、つまり終わりである、究極の目的である、全ては天主様へと向かっていかなければなりません。私たちは毎日、一体何の為に生きているのか、を知らなければなりません。

 これが、私たちの最も良い母の、マリア様の第二の教えです。

 つまり、全ては天主様から来る、というのみならず、全ては天主様へと導かれなければならない、天主様へといかなければならない、という事を教えてくださいます。

 マリア様の御生涯を見て下さい。マリア様は全て、天主様の栄光の為に、天主様のその光栄の為に捧げて、生涯を使っていました。マリア様は全て、天主に仕える為に、天主を愛するが為に、天主がおくられたこの隣人を愛する為に、助ける為に、使っていました。

 では皆さんにお尋ねします、私たちは一日中、何のために時を使っているでしょうか?私たちは非常にしばしば、自分の為に時間を使っています。私たちは、天主様の為に、天主様を愛し、天主様に仕え、隣人の救霊の為、と考えてみた事もありません。これが、私たちの人生の第二の間違いです。何故かというと、私たちは天主に栄光を与える代わりに、却って自分を高めて、自分の栄光を欲しようとしているからです。褒められたい、と思ったり、野心を果たしたい、と思ったり、お金持ちになって面白おかしく過ごしたい、と思ったりする事です。このような生活は、私たちにとって全く時間の無駄であって、非常にしばしば、罪の生活です。

 ですから、最も良き母の内の、最も良い母であるマリア様から、私たちの方向がどっちに向かっていなければならないかを、学ばなければなりません。もしも皆さんが、御自分をマリア様に奉献するならば、マリア様は必ずこの事を教えて下さいます。マリア様が、私たちの霊魂に働きかけた最初の大きな変化とは何でしょうか。私たちがもしも、全ては私から来て、全ては私に向かっている、という事は、それが多くの場合現実ですが、そのような場合には、結果的には私たちは不幸であり、遂には、絶望へと導くものです。なぜ不幸になり、なぜ絶望するかというと、これは真理ではないからです、それは幻覚であるからです。私たちは、面白おかしく、楽しんでいるかのように錯覚していますが、実は、奈落の底へ、滅亡へと、私たちは道を歩んでいるだけなのです。これは、私たちは誤った道を歩んでいるのみならず、非常に深く、天主を冒涜し、傷付けるものです。

 マリア様のもとに、今日私たちは行きますけれども、皆さん是非、マリア様にお祈りしてお願してください。私たちに本当の意味を、母となり、なって下さい。私を教育して下さい。私に本当の事を教えて下さい、とお願いして下さい。私が、天主の前にどのような態度を取らなければならないか、という事を教えて下さい。私は天主に全く依存して、それに寄り添って生きていきたいのです。それこそ、私が望んでいるのです。天主のみが全ての支配者であって、全ての王であります。

 私たちの人生は非常に短い、という事を忘れないで下さい。私たちの人生というのはただ一回、私たちの永遠を準備する為だけに与えられています。もしも、もしも私たちの人生が、天主様の為に捧げられていないなら、その為に使われていないなら、全く無駄に過ごされた、という事です。この世の人々に全く忘れてしまって、全く無知のままに残されている真理に立ち戻れる、唯一の真の天主が在して、私たちを創られ、私たちを待っている、という事に立ち戻るよう、大きな、大きな望みをもつ事に致しましょう。

 この説教の終わった直後に、私たちは使徒信教を歌います。ですから、今日の皆さん歌うクレドは、今まで歌ったクレドとは違います。天主様の、非常に偉大な御稜威の御光栄を思い浮かべて下さい。この天主御父が、私たちの持っている全ての善いものを、この全てを私たちに下さった、という事を、よく目の前に浮かべて下さい。この燦然と輝く太陽が私たちに与えらて、それは、その太陽の創り主である天主に戻っていく為だ、と。

 私たちの本当の人生の目的は、この世ではありません、天国です。私たちの面白おかしい快楽ではなく、天主です。この世の束の間の嘘の楽しみではなく、永久永遠の、終わる事のない、本当の幸せ、幸福の為に生きています。

 私たちは聖霊に祈りましょう。聖霊が私たちを、その燃える愛の炎で焼き尽くして下さいますように。私たちが、もう私ではなく、天主を見出して、天主の為に生きるように。この世の為ではなくて、天主の為に、天主から来て天主へと向かうように。そうした時に私たちは、本当の人生のヴィジョン、意味を分かる事になります。天主から来て、天主に於いて歩み、天主へと向かって行く、という事です。これが、現実であって、聖パウロの教えです。天主は、全てに於いて全てである、と。

 これこそが、最高の母であるマリア様の、子供である私たちに教える、第三の教えです。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話2 「マリア様が私たちにとって母である」とは

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話 その2をご紹介します。

 聖母マリア様が私たちにとって母であるとは、何を意味しているのでしょうか?
 イエズス様が十字架の上でマリア様に命じて、マリア様がイエズス様を愛したのと同じ愛を以って、私たち一人一人を愛する事を要求しましたが、それは何を意味しているのでしょうか?
 マリア様の私たちに対する愛は、どれほど偉大なものでしょうか?
 マリア様の母親としての質、特徴、役割、とは、何でしょうか?
 マリア様が私たちに、超自然の命を伝えたということはどう言うことでしょうか?
 私たちにとって、聖母マリア様が私たちの超自然の命を与えた母であるとは、具体的に何の意味があるでしょうか?
 ちょうど赤ちゃんが、自分の栄養分を全てお母さんの乳から頂くように、私たちが超自然の恵みを全てマリア様から受けているとは、どう言うことでしょうか?
 マリア様はどうやって御自分の母としての役割を果たしているのでしょうか?
 マリア様が母である、という事は、もしも、マリア様が私たちの全ての必要、全ての大切な全てを解決する事ができる、という事であると知っていたでしょうか?
 マリア様が、御自分の子供を霊的な敵から守ることが出来ると知っていたでしょうか?
 聖母マリアは、良き母として、私たち子供を教育されると知っていたでしょうか?

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話2
同時通訳:小野田圭志神父

 昨日、私たちは、マリア様の母である事の玄義を、神秘を、黙想し始めました。このような素晴らしい母を私たちが受ける、という事が天主様の御旨であります。小さな子供でも、今はカトリック信者であれば、マリア様は私たちのお母様である、という事を知っています。

 しかし、マリア様が私たちにとって、本当の意味で母である、という事がどのような事を意味しているのか、という事を深く理解している人は、非常に稀にしかいません。十字架の上でイエズス様は、私たちの一人一人に於いて、マリア様が母親である、という事を任命されました。イエズス様はマリア様に、マリア様がイエズス様を愛したのと同じ愛を以って、私たち一人一人を愛する事を命じられました。マリア様が、私たちの事をこれ程までも愛しておられるという事は、信じる事が非常に難しいほどです。イエズス様の代わりに私たちの様な、罪深い、ろくでもない、ヤクザの様な、とんでもないゴロツキが与えられた、という事は、マリア様にとってどれほどの多くの苦しみだったのか、という事を深く理解しなければなりません。

 聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールはこう言っています、「マリア様は、私たちの事を深く、優しく、愛しています。それは、全てのこの世の中のお母様たちを集めたよりも遥かに、優しく私たちを愛しています。では、この世にいる全ての母親の、自分の子供に対する愛を集めて、総計を見て下さい。この全てのその総計の愛を集めて、一つのお母さんの心に入れて、その一人のお母さんが、全ての母親の愛情を総合を全て込めて、一人の子供を愛したとします。それでも、マリア様の私たちに対する愛に比べれば、何でもありません。」

 この巡礼の目的は、私たちが、マリア様が一体どのような方なのか、つまり、私たちにとって、マリア様が母親であり、元后であり、女王であり、指揮者であり、総指揮官である事を深く理解する事です。そうする事によって、私たちの取るべき態度、すなわち、私たちがマリア様の子供であり、マリア様のしもべであり、マリア様の騎士であり、兵士である事を知る事ができるからです。

 では、マリア様の母親としての質、その特徴、マリア様の母としての役割、というものを深くみてみる事にします。

 まず、私たちの内にお母さんとなる方がいます。それはなぜ母親になったかというと、子供が生まれたからです。お母さんは子供に命を与えました。母親の役割とは、命を伝える事です。命は、子供の命は、胎内から与えられています。

 マリア様が母であるという事の役割の第一は、命を伝える事です。皆さん、私たちには二つの命がある、という事をご存知のはずです。つまり自然の命と超自然の命です。自然の命というのは、私たちがお母さんの胎内に宿って、それから死の迎える時までの事です。この自然の命は、肉体的なお父さんと肉体的なお母さんから来ます。超自然の命とは、天主様御自身の命の事です。この命は永遠の命で、決して終わる事がありません。自然の命と超自然の命を比べると、一滴のほんのちょっとした水滴と、大洋の大海原の水と比較できるかもしれません。

 この私たちが生きている間に、この超自然を受けた者だけが、永遠の命、永遠に生きる事ができます。この超自然の命は、洗礼を受ける事によって、初めて受ける事ができます。イエズス様の仰った通り、「もしも、私たちが永遠の命に至りたいのならば、洗礼を受けなければなりません。」

 マリア様がこの母である、というのは、この超自然の命に於ける意味での母であって、このマリア様が超自然の命の母親である、というのは、この地上の全ての母親よりももっと深い意味で、母です。

 天主様の命がどうやって、どんな方法で、私たちの所に来るのでしょうか?超自然の命は、天主様だけが、私たちに与える事ができるので、被造物が私たちに与える事は絶対にできません。イエズス・キリスト様が、この地上に人となって来られて、十字架の上で贖いの業を成し遂げて、この命を与える事ができます。ですから、イエズス・キリストの聖心こそが、そこから私たちへと出る超自然の源だ、と言う事ができます。ちょうど、イエズスの聖心から血と水が出て、超自然の命を私たちに伝えるのです。言いかえると、天主様の命と言うのは、十字架の木の果実であり、その実りなのです。それによって、私たちを聖とするのです。

 ところで、イエズスの聖心から御血が湧き出て、天主様の命が噴き出た時に、それを受けた方が十字架の足下にいます。この超自然の命のことを、成聖の恩寵、とも言います。恩寵とか寵愛という漢字の意味は、タダで、偉い方が与えて下さる、という無料のお恵みの事です。

 皆さん、毎日何千回、何百回とお祈りする、この天使のマリア様への挨拶、「めでたし、聖寵満ちみてるマリア、」この聖寵の満ちみてる、という事は、マリア様は、十字架の下でやはり、イエズス様の聖心から湧き出る全ての命を、それを受けた、ということです。無原罪の御孕りでは、既に、確かに、聖寵の充満を、満ちみてる聖寵を受けましたけれども、それは御自身の為だけでした。ところが、十字架の上ではイエズス様は、私たちの為に、その聖寵の充満をマリア様に与えたのです。

 では、皆さんにとって私たちにとって、これは一体具体的に何の意味があるでしょうか?

 皆さんの超自然の命は、二人の方に由来している、という事です。

 私たちがその方から依って受けた、超自然の生命の、その第一の恩人は、イエズス・キリストです。

 母親としての、副次的な、しかし決して欠く事の出来ない恩人は、マリア様です。

 私たちがしばらくしたら、修道院にマリア様の御像を訪問しに行きますけれども、秋田の市内を通って行きます。その市内に住んでいる人のほぼ全ては、洗礼を受けておらず、超自然の命を受けていない方々です。そのような超自然の命を受けていない様な人々が、私たちの周りにたくさんいるのを見て、そのような人々が、ものすごい大金持ちであったとしても、百万長者であったとしても、超自然の命がない事を見て、私たちはどれほど感謝しなければならないでしょうか。このような一般の人々は、たった一滴の水しか受けていないのに、私たちは大洋の大海原を受けたのです。そのような恵みを受ける、どこに功徳があったというのでしょうか。それは何故かというと、誰かが、皆さんの為にお祈りしていたからです。マリア様は2000年の間、私たちの為に、皆さんが超自然の命を受ける事ができるように、祈って下さっていたのです。

 マリア様が私たちの母となる、という特別のお恵みを、私たちは受けた、という、信じられないほどの恵みを受けた、という事を記憶して下さい。私たちは昔、たった水の一滴でしかありませんでした。確かに、この一滴の水さえも、天主様からの特別の贈り物でした。例え、その一滴の水だったとしても、原罪に依って犯されている為に、毒が付いている為に、永遠の命を受ける事ができませんでした。ところが、皆さんはイエズス様と出会い、その超自然のお恵みを受けましたが、どうやってイエズス様とお会いしたのでしょうか?何故かというと、イエズス様と私たちが出会う事ができたのは、その出会うもっと前から、イエズス様が私たちに、御自分のお母さんをおくって下さったからです。マリア様は、多くの色んな境遇や色んな出来事を使って、皆さんの心に働きかけて、触って、動かしてきているのです。

 ここに、洗礼を受ける求道者の方がいます。この求道者の方は、もしかしたら本を読んで、或いはインターネットから、或いは友達を通じて、イエズス様や、マリア様や、私たちの事を知ったのかもしれません。或いは、もしかしたらまた別の方は、良いカトリック信者の男性と出会って、その男性の信仰に非常に感銘を受けて、洗礼を受けて結婚に至った、その良い方と出会った為に、洗礼を受けた、という方もいるかもしれません。

 ところで、このようなインターネット、或いは良い本、或いは良い友達、などというのは手段に過ぎません。その手段を通して、それを動かして、それを使っていた、その作者がいます。その作者は、マリア様です。マリア様は、ただ単に、私たちが洗礼を受ける、その最初の瞬間だけお母様であって、後は知らないよ、というものではありません。マリア様は、いつも、いつまでも、ずっと私たちの世話をする母親です。

 皆さんが、今日、今この瞬間、秋田に居て、こうやってマリア様の元に行く、という事も、イエズス様から特別の恵みをたくさん今頂く事ができる、というのも、実は、マリア様が皆さんをここに呼んだのです。この世では、マリア様を通して、母であるマリア様を通して、イエズス様から私たちが頂かないような恵みは一つもありません。全てのお恵みはマリア様を通して、私たちに与えられるのです。皆さんは子供です。ちょうど赤ちゃんが、自分の栄養分を全てお母さんから頂くように、お母さんの乳から頂くように、皆さんは全て、マリア様から全ての恵みを受けています。

 ですから、マリア様を置いて、マリア様なしにミサに与ってはいけません。もしも、皆さんがマリア様と一緒に、マリア様を招いて、マリア様と共にミサに与るのならば、もっと熱烈にミサに与る事が出来て、もっとマリア様を通して、母としてのマリア様を通して、たくさんのお恵みを頂く事ができます。天主様が、私たち二人をその特別な司祭として、恵みを与えて下さいました。でもこの、その司祭の恵みは、マリア様から頂いたのです。マリア様なくては、私たちは今こうあるようにできていません。私たちが受ける全ての秘跡は皆そうです、マリア様から来ます。ですから私たちは、この事をよく自覚しなければなりません。私たちが毎瞬、毎時間、全ての出来事を、事件を通してお恵みを受けているのは、マリア様を通してのみ、という事です。

 もしも皆さんがマリア様を本当の母として、確かにお母さんだ、と思えば思うほど、マリア様はもっと皆さんに多くの恵みを与えます。もしも皆さんが、もっと良い子供でありたい、良い子供として立ち振る舞う、という事であればあるほど、マリア様はもっともっとお恵みを与えて下さいます。私たちはミサを捧げる前に、「おおマリア様、私たちの我が母よ、この私の口をどうぞ導いて下さい。私の手を導いて下さい、私の心を導いて下さい。ミサを良く捧げる事ができるように助けて下さい。」と、祈ると、私たちのミサは、もっと実りの多くなると感じています。何故かというと、マリア様には、もう与えても与えても、もう与え尽くす事のできない程のものすごい巨大なお恵みを持っていて、私たちも、受けても受けても受けても受けても、もっとマリア様は、それを十分与える事ができる御方であるからです。

 皆さん、例えばカルメル山の茶色のスカプラリオとか、或いは不思議のメダイとか、色々なこのマリア様の信心、これは一体何を意味するのでしょうか?このようなスカプラリオや、或いはメダイを身に付ける、という事は、いつもマリア様が私たちの母である、という事を思い出して、これをしるしとして、この私たちが子供として生きている、という事なのです。フィリピンのレイテ島のタクロバンという所では、今年の2月にメディカルミッションがありました。4000名の病気の方々を、無料の治療を施して、不思議のメダイも配りました。その方々に、スカプラリオやメダイを与えながら、「これをいつも身につけて覚えて下さい。マリア様は、あなたのお母さんですよ。」もしかしたら、ほとんどの人々は、洗礼を受けたけれども、信仰について深い知識を持っていないかもしれません。しかし、マリア様に属している、マリア様の子供だ、という事を思い出させるメダイとスカプラリオが与えられました。

 でも、このメディカルミッションを受けた人々に比べて、皆さんは特別のお恵みで、マリア様のついての深い知識を与えられました。ですから、皆さん朝起きて最初にスカプラリオに接吻する時に、「あぁマリア様、私のお母さん、あなたは本当に私のお母さんで、私に超自然の服を下さいました。」

 一日どんな時でも、或いは誘惑の時、或いは暗闇の時、或いは恐れの時、その時にスカプラリオを手に取って、ぜひ接吻して下さい。「マリア様、私はあなたの子供です。」

 もしも、そうなさったら、そのスカプラリオを通してマリア様は、もっともっともっとたくさんのお恵みを下さいます。

 皆さんは、毎日毎日もっともっと良くなろうと思っています。もっと良くなるとはどういう事でしょうか?もっと良くなるという事は、ますます天主様に満たされて生きる、という事です。私たちの命を、超自然の命を壊す罪から解放されて、罪のない生活をますます送る、という事です。マリア様は実は、この事を与えようとして待っているのです。マリア様の元に私たちが行って、「マリア様、お母さん、この超自然の命をもっと増やして下さい、この超自然の生命を守って下さい、これを失う事がないようにして下さい。」と、お祈りするのを、ただ待っているのです。

 では、第二のポイントとして、マリア様はどうやって御自分の母としての役割を果たしているのでしょうか?

 お母さん、子供がいるお母さんを見て下さい、いつもお母さんは子供の事をよく見て、子供が、あっ、と、これが必要だな、と思う時には、それを与えます。子供はそういう事にも関わらず、何か遊んで、こうやって転んで、お尻をついて、「お母さ~ん!」と、泣きます。もしも、皆さん想像して下さい、皆さんの中に可愛い赤ちゃん、子供が転んで「お母さ~ん、お母さ~ん!」と、言った時に、「また転んだの!?一人で立ちなさい!!さあ!!」と、言う人はいるでしょうか。皆さん、皆さんでさえもなさらないようであれば、マリア様はどうしてする事ができるでしょうか。私たちは小さな子供のように、超自然の命では、何度も罪を犯したり、倒れてしまう事があります。その時に私たちは、「お母さん!マリア様!」と、呼ばなければなりません。

 私は、子供の頃の事はよく覚えていないのですけれども、一つだけ忘れないで覚えている事があります。私の家は農家で、牛や豚をたくさん飼っていました。牛や馬が食べた後にその出す何かをお父さんと私が、父の手伝いをして、それを集めるのを手伝いました、子供の頃。英語とか日本語で何という名前がつくか知らないのですけれども、そういう肥溜めというのでしょうか、そういうものをたくさん近く山のように積んでいました。やっぱりその肥溜めでそういう汚い汚物がたくさん入っているこの池のような所にその父の手伝いをして入れるんです。ある日、父の手伝いをしていて「あっ」と転んで、その中にボチャッと入ってしまいました。これはちょうど底なしの沼のようにズズズッと、もうそのままズブズブズブッと入って、もう深いのです。そこでもうズブズブッと入って、もうこれで出られないようなすぐ落ちてしまったら、「お母さーん!!助けてー!!」と、叫びました。お母さんはその時に台所で料理をしていたのですけれども、その私の声を聞いてものすごい形相で走って来てその肥溜めにドボーン!と入って、私をそこから出してくれました。そのあまりにも臭かったので、三日間学校を休みました。しかし他の事は全部忘れたのですけれども、お母さんが、こうシューッと走って来て、もう一瞬たりとも遅れまいと走って来てその肥溜めにドボン!と入って、私をかき出してくれたのは覚えています。もしも、この地上の母でさえもこれをするならば、天の母親はもっとしない事があるでしょうか。

 「お元気ですか?」と私が尋ねると、こんな答えが来るかもしれません。

「色んな問題があり過ぎて、もう、ダメです。」「夫はもう飲んだくれで、子供は不良で、隣の人は極悪で、職場の人はこんなに悪く…」「この世間は本当に恥知らずで、こんな悪い人がいて、もう、もうダメです。」「問題だらけで大問題でもう解決もありません。」

 私は言います。「じゃあ何でマリア様の所に行かないんですか?マリア様には全て解決があります。」

 もしも、マリア様が私たちの全ての必要、全ての大切な全てを解決する事ができる、という事を信じて信頼しないなら、皆さんはマリア様が母である、という事を分かっていません。

「おお神父様、いつも同じ罪を犯してばかりいます。」「もうやってもやってもダメです。もうダメです。もう忘れた方が良いです。」

 何故かというと、マリア様にお願いしないからです。この小さな子供を見て下さい、転んで倒れてしまったら、お母さんを呼ぶじゃないですか。マリア様は、マリア様は私の母よりももっと早く、この恐るべき臭いのする罪から私たちを救ってくれます。

 皆さん、マリア様が本当の母である、という意味を知らなければなりません。罪を犯した後だけではありません、罪の前に誘惑を受けるかもしれません。ちょっと考えてもみて下さい、子供がお母さんのいる台所に居て、「あ!おもしろいおもちゃがある!」と言って近づくかも知れません。この面白そうなおもちゃだ、と思った物は、お母さんの使っている危ない包丁です。包丁を持ってこうやって、「きれいだなあ~。」皆さんが、そんなような子供の、包丁をおもちゃにしているような子供のお母さんだと考えて下さい。皆さん、「おお、我が子や、包丁で遊びなさい、さあさあさあ、傷を付けなさい。さあ、どんどん。」と、言うでしょうか、現代の教育はこうです。良い母は、「おお、子供よ、これは危ないのよ。危ない危ない! 危ない危ない。」

 皆さん、子供がそこらへんで遊んでいるとします。その3メートル先はものすごい崖っぷちで、もうそこには何百メートルもの、それはそれはすごい谷底があり、ヒューッと落ちてしまいそうです。お母さんはその子供が危ない崖っぷちの方にチョロチョロと行っているのを見るのです。霊的な生活においても私たちはしばしば、もしかしたら罪の危険、或いは誘惑の危険について、全く気が付いていないかもしれん。でももしも、私たちがマリア様をいつもこう見て、「お母さん、お母さん、アドバイスを下さい。お母さん、お母さん、ここは大丈夫ですか?」とすると、マリア様は、「あぁ、子よ。ここは崖っぷちですから危ないですよ、ここは誘惑の危険がありますよ、ここは近寄ってはいきませんよ。」と、必ずアドバイスをくれるに違いありません。

 皆さん、もしかしら動物園でライオンとかご覧になった事がありますね。ものすごい凶暴で、「ウオオー!」と、啼きます。ライオンのメスライオンが、そのまだ子供の頃を見た事がありますか?例えばサファリとか野生の王国に行って、ライオンの子供が、像によって踏みつけられるとか、パンサーがやって来てライオンの子供の命を狙おう、食べてしまおう、という時に、メス・ライオンがどうやって、どういう態度を取るか知っていますか?このメス・ライオンは、この自分が殺されたとしても、自分の命をかけて子供を、子供のライオンを守ります。これは野生の動物に過ぎません、単なる動物です。マリア様が、どうやって悪魔から私たちを守るかのモデルです。

 もしもマリア様が、御自分の子供が、霊的な敵から、もう死の危険を迫られて、攻撃を受けている。この子供が、「お母さん!」と、救援を求めている。マリア様は、そのメスライオンの千倍の力を凶暴さをもって戦います。もしも私たちの前に何千何万という悪魔がこう命を狙って、攻撃したとします。単なる誘惑を受けるだけではなくて手はもう喉元まで来てもう息ができずに死の直前だ、という所まで迫ってきたとしても、もう弱って弱って力尽きて、もうこれ以上もう何もできない、と思ったとしても、誰も助けに来ない時でも、全く一人で孤立したとしても、その時にマリア様を、「お母さん!」と、呼んで下さい、「サタンの頭を踏み砕いて下さい!助けに来て下さい!」マリア様はすぐにやって来て、その何千何万という悪魔を踏み砕いて、何も残りません。

 マリア様は、全ての被造物の最高に強い、最強の母です。マリア様は、その御自分から悪魔たちを、全て恐れさせて逃げおおせさせる全ての権力と力をもっています。これこそ、マリア様の母としての役割、子供を守り、擁護する。特にこの現代、マリア様の役割は、最も重要な役割の一つとなっています。何故かというと現代は、私たちの霊魂の、超自然の命の敵が私たちを取り囲んで、天主様を私たちから奪い、地獄に直行させるように働きかけているからです。もしも私たちがろくでもない、もしもまさに私たちがマリア様を忘れてしまって、マリア様にお祈りしない事があったとしたら、私たちはもう、失われたも同然です。マリア様こそが、最後の究極の救いです。

 また良き母は、子供を教育します。ちょうど、このミサの時の御説教で申し上げましたように、マリア様は、天主様と私たちの正しい関係、正しい、私たちが天主様に取るべき対する態度について教えてくれます。皆さん、マリア様はそれだけではありません、全ての事を教えようと思っています。何故かというと皆さん皆、馬鹿だからです、愚かだからです、何も知らないからです。動物さえ知っている様な私たちの日々の義務、恩務というのを、私たちは分かっていません。

 つまり、マリア様は私たちが、その教育を受けるように、学校に行くように望んでいるのです。その学校というのは、実はすごい学習期間が短いのです、1日15分です。先生の前に跪いて、先生は、皆さんの前に15分間、信仰の神秘を教えてくれます。その15分間で私たちが為すべき義務、職務という事が何であるかを教えてくれます。この学校というものは、黙想の事です。15分間毎日、マリア様の足下に跪いて黙想します。マリア様は、私たちに何をするか知っていますか?マリア様は私たちを連れて行って、「子よ、私と一緒に来なさい。私はあなたに素晴らしい事を教えてあげる。」マリア様は私たちに、今までそんな事が存在していた、という事すら思いもよらなかった素晴らしい事を、私たちに教えてくれます。もしかした皆さんは、公教要理を通して、ちょっとはそれをかじった事があるかもしれませんが、その深い意味をまだ分かっていないかもしれません。でもマリア様が、この私たちの人生の一番大切なものの深みの意味を、深い意味を教えてくれます。

 マリア様のまた別の、最も非常に重要な役割は、私たちを導いて下さる、という事です。私たちは何をして良いか分かりません。ちょうど人生の分かれ道で、「右に行くのかなあ?左に行くのかなあ?」と、思う時があります。「私にとって一番良いのはどっちなんだろう?」でもマリア様は、私たちにとって一番良いのは何かを知っているので、導いて下さいます。

 私たちは非常にしばしば、決心しなければ、選択しなければなりません。選択をして、こう決定を下さなければならないのですけれども、決定を下した後に、「あぁ、いやいやいやいや、こんなまた変な事を決めてしまった。変なものを選んでしまった。」と、後悔する事がよくあります。何故かというと、皆さんは一人で決めたからです。だから間違ったのです。皆さんは、自分の欲望とか野心とか、自分の都合とか感情に流されてそれを選んでしまったからです。選択をする前に、マリア様に尋ねて下さい。『善き勧めを給う御母』。マリア様の称号です。善き勧めを、マリア様はいつも給うのです。マリア様は善い勧めを下さりつつ、天国まで導いて下さいます。マリア様は私たちの母ですから、特に私たちを、御子イエズス様まで導いて下さいます。イエズス様と共にマリア様は、御父まで導いて下さいます。

 マリア様が皆さんを天主様の前にお見せする、紹介する時に何をするか知っていますか?皆さん、天主様の前に、何か自慢する様な何か持っていますか?新しいミサの様に、「主よ、私はあなたに、この人間の労働の実りと大地の恵みを捧げます。」と、言うのですか?皆さんの人間の尊厳と、それを、その何かあたかも何か凄い物のように差し出すのですか?私たちは、天主様に差し出せるものが何かあるのでしょうか?皆さん、皆さんが天主様の御前に、非常に心強い、純粋な愛を、熱烈な祈りを、一つでも捧げた事がありますか?私はありません。

 ちょうど私たちは比較してみると、例えてみると、御稜威の高い天皇陛下の前に、或いは王様の前に、どこかの国王様に、「捧げ物をしたい。」と、言って一生懸命差し上げたのが、腐ったリンゴだった、と。

 でも、マリア様が私たちを王様に提示する時には、マリア様には、ものすごい綺麗な素晴らしい果物がたくさんあります。何故かというと、マリア様はインマクラータで、汚れの無き、無原罪の御孕りであるからです。マリア様は自由に天主に王に会う事ができます。マリア様は天主の御母です。マリア様は天主御父から最も愛された愛娘です。マリア様は聖霊の淨配です。マリア様は天地の、全ての天使たちの、人類の元后です。

 この元后は、私のお母さんです。この母であるマリア様は、全能の天主の前にいて、私について話をします、「天主、全能永遠の御父よ、私は子供がいます。この地上の下の方にいます。この小さな子は、問題がたくさんあります。助けて下さい。」

 もしもマリア様が、ちょっとでもお願いすれば、天主は必ずその願いを聞き入れます。

 12時になりましたので、ご飯に行きます。

2015年5月17日 聖伝のミサ説教 レネー神父様 SSPX Osaka Latin Traditional Mass Fr Laisney's sermon 

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日2015年5月17日の主日にレネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。天主様に感謝!

 レネー神父様のお説教をご紹介します。

 イエズス・キリストが天主聖父から生まれたとはどのようなことでしょうか?
 聖父が聖子を「生む」とはどのようなことでしょうか。
 イエズス・キリストの昇天の意味は何でしょうか? 私たちにとってどれほど有益なものだったのでしょうか?
 イエズス・キリストが「聖父のもとに帰る」とは、天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとして、キリストの神秘体のメンバーと共に聖父のもとにお戻りになるのです。

 初穂であるキリストと共にいる天の聖人たちは、キリストと共に「御父に渡され、捧げられ」、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために、生きています。天主のために生き、天主において喜ぶのです。

 御昇天においては、キリストは、お一人だけではなく、戦利品である聖人たちと共に聖父の元に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。

 どうぞ、この素晴らしいお説教をお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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主の御昇天後の主日の説教―大阪

 「私は父から出て世に来たが、
今や世を去って父のもとに行く」
(ヨハネ16章28節)


 最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。

 表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。

 聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。

 私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたということであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。

 実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。

 御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。

 天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。

 このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。

 この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。

 しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。

 聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。

 第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。

 第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。

 第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。

 最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。

 このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか?

 聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。

 しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。しかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。

 この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。

 ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。

 御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。

 親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。

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 Sermon at Seoul on the Ascension – and Osaka on Sunday.

“I came forth from the Father,
and am come into the world:
again I leave the world,
and I go to the Father”
(Jn. 16:28).

During the last supper, our Lord Jesus Christ said these words. Thereby he prophesised His Ascension. It seems simple and easy to understand, yet it is a great mystery, beautiful to contemplate.

A superficial understanding would give the idea of someone leaving his home-city and visiting a friend, and then returning home. But this would be a very material understanding. Indeed, God is spiritual and is everywhere! So what does that mean “I came forth from the Father”? And what does that mean: “I go to the Father”? since the Father is everywhere!

Perhaps another phrase of our Lord Jesus Christ, at the very beginning of St John’s gospel in his talk with Nicodemus, helps to understand this one. Jesus said: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13). He also said later to the Pharisees: “You are from beneath, I am from above” (Jn. 8:23).

We have all been created by God, but our Lord Jesus Christ comes from the Father in a very different way. We are “made by God out of nothing”; our Lord Jesus Christ is the Son of God, “born [of Father], nor made” as we say in the Creed: his very substance comes from the substance of the Father, it is not a created substance. Now God’s nature is spiritual, it cannot be “cut in parts”: the Father could not give a “part” of his Divine Substance to His Son: the Father gave to His Son His whole Divine Substance; hence to be “begotten from the Father” means to receive the whole divine substance from the Father, and hence to be equal to the Father. This is thus what our Lord means when He says: “I came forth from the Father”: I am the only-begotten beloved Son of the Father, born of the Father from all eternity.

Indeed in God there is no time: in the one moment of eternity, stable moment which is always present and never passes, in that one moment the Father says His Word, begets His Son, and the Son is perfectly begotten, possessing the full Divine Nature, equal with the Father. As St Paul says, for Christ it was not robbery to be “equal with God” (Phil. 2:6). The Pharisees had understood it well, who wanted to stone Him “because He made Himself equal with God”. They refused to believe, but they had understood well what He meant; and our Lord did not tell them that they misunderstood Him, on the contrary.

The Father does not beget the Son in a material way: God is a pure spirit. The Son is the “Word of God”. Indeed the very first activity of a spirit is to think; even ourselves, God gave us an intelligence, and when we think we speak to ourselves in our mind: we say that we have “concepts”, ideas. We call them “concepts” because we conceive them. But for us, our ideas are so little, tiny, that they are more comparable to small foetuses, “concepts”. And we need many ideas to understand a little more the world around us. But God is perfects; He understands all things at once, and expressed His whole infinite knowledge in one perfect word, that fully says all what He knows, all what He is: His Word. This Word of God is so perfect that it is not a small “concept”, but rather a full-grown Son, equal with the Father. Indeed nothing less than God can adequately express what God is! He is the Eternal Word of Wisdom, Almighty Word by which all things were made, all-encompassing Word. This is what Jesus meant, saying: “I came forth from the Father”! The prophet exclaims: “who shall declare his generation?” (Is. 53:8).

God is Charity; hence the Word of God is a “Word breathing love”, as St Thomas Aquinas says . The Father and the Son love one another so perfectly that from this burning fire there proceeds a third Person, as a Flame of Love, of Divine Charity: the Holy Ghost! He is the Spirit of Holiness, and indeed holiness consists in loving God above all things. And that love too is eternal, almighty, all-encompassing.

So the Son of God came forth from the Father. And He is come into the world. This means the Incarnation: He took flesh in the most pure womb of the Blessed Virgin Mary by the operation of the Holy Ghost: “And the Word was made flesh, and dwelt among us, (and we saw his glory, the glory as it were of the only begotten of the Father,) full of grace and truth” (Jn. 1:14). The one who says that was blessed to be first-hand witness, who had seen, heard and even touched our Lord Jesus Christ, as he wrote in his epistle: “That which was from the beginning, which we have heard, which we have seen with our eyes, which we have looked upon, and our hands have handled, of the word of life: For the life was manifested; and we have seen and do bear witness, and declare unto you the life eternal, which was with the Father, and hath appeared to us: That which we have seen and have heard, we declare unto you, that you also may have fellowship with us, and our fellowship may be with the Father, and with his Son Jesus Christ. And these things we write to you, that you may rejoice, and your joy may be full” (1 Jn. 1:1-4). This is the Incarnation! And its goal is beautifully said: to restore the friendship with God, “fellowship with the Father and the Son.”

To fulfil this goal is the very work of Redemption: Jesus came to save: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). He saved us by His Cross. And this is also what is meant by the next member of phrase: “again I leave the world.” Indeed we speak of “departed souls”: death is a certain way to leave the world. This is so much more true for our Lord Jesus Christ who was in control of His death, as He said: “I lay down my life, that I may take it again. No man taketh it away from me: but I lay it down of myself, and I have power to lay it down: and I have power to take it up again. This commandment have I received of my Father” (Jn. 10:17-18).

But since He rose shortly after His death, on the third day, we may apply these words to His Ascension: “again I leave the world.” Indeed the day of the Ascension was the very last day that the Apostles saw Him with the eyes of the body: He went up, blessing them, and was caught up in the clouds and they did not see Him anymore. So He left then this world.

St Thomas Aquinas teaches us that the Ascension was useful for us in many ways. First it draws our heart to the heavenly things: “For where thy treasure is, there is thy heart also” (Mt. 6:21). Our treasure is our Lord Jesus Christ, who now is in Heaven, therefore our heart ought to be in heaven, as St Paul says: “Therefore, if you be risen with Christ, seek the things that are above; where Christ is sitting at the right hand of God: Mind the things that are above, not the things that are upon the earth. For you are dead [to sin/to the world]; and your life is hid with Christ in God” (Col. 3:1-3).

Secondly, it gives us a greater merit for faith: if we could go somewhere on earth and see Christ risen and still living, our faith would have much less merit; but now “blessed are they that have not seen, and have believed” (Jn. 20:29).

Thirdly, it increases our reverence for Christ, since He is now “sitting at the right hand of God the Father almighty!” And therefore it increases our love for Him also.

Fourthly because He is preparing a place for us, as He said: “I go to prepare a place for you. And if I shall go, and prepare a place for you, I will come again, and will take you to myself; that where I am, you also may be” (Jn. 14:2-3).

And last but not least, at the right hand of the Father He is “always living to make intercession for us” as St Paul says to the Hebrews (Heb. 7:25).

Thus “I leave the world, and I go to the Father” (Jn. 16:28) signifies the Ascension. But there are two aspect to the Ascension: the departure from the world, which was visible and is easy to understand; and the arrival: and that is not easy to understand. Indeed, since God is everywhere, what does that mean “I go to the Father”?

As St Thomas explained above, it certainly means that our Lord Jesus Christ, not only in His Divine nature, but even in his human nature transcends all creatures, even the highest angels. This is what is meant by “sitting at the right hand of God the Father almighty”. His glorification is the reward of His sacrifice, the reward of the work of Redemption, as St Paul wrote: “He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross. For which cause God also hath exalted him, and hath given him a name which is above all names: That in the name of Jesus every knee should bow, of those that are in heaven, on earth, and under the earth: And that every tongue should confess that the Lord Jesus Christ is in the glory of God the Father” (Phil. 2:8-11).

But I think there is more to this “return to the Father”. St Paul says to the Corinthians: “as in Adam all die, so also in Christ all shall be made alive. But every one in his own order: the first-fruits Christ, then they that are of Christ, who have believed in his coming. Afterwards the end, when he shall have delivered up the kingdom to God and the Father, when he shall have brought to nought all principality, and power, and virtue. For he must reign, until he hath put all his enemies under his feet. And the enemy death shall be destroyed last: For he hath put all things under his feet… And when all things shall be subdued unto him, then the Son also himself shall be subject unto him that put all things under him, that God may be all in all” (1 Cor. 15:22-28).

The very word “first-fruits” shows that we are in a sacrificial context: the first fruits of all trees and animals had to be offered to God in the Old Testament. Now here St Paul says that Christ (in His human nature) rose first, as the “first-fruit” of mankind offered to God; then the members of Christ, and then everyone else. Then Christ shall “deliver the kingdom to God the Father”: this again is an offering, Christ came back from this world to the Father, not alone but with the members of His Mystical Body as an offering to the glory of God. Indeed Jesus said to Nicodemus: “no man hath ascended into heaven, but he that descended from heaven, the Son of man who is in heaven” (Jn. 3:13) Does that mean that nobody would go to Heaven? St Augustine says: He descended alone, He returns to Heaven with the members of His Mystical Body, the Church – the good members, after He would have cleansed His kingdom from all the scandals in the Great Judgement at the end of the world.

So the Saints in Heaven are “delivered to, offered to the Father”: they live for ever not for themselves, but for the glory of the Most Holy Trinity – and in this consists their beatitude, their unending happiness, to delight themselves in the Supreme Good: not living for themselves but living for Him and rejoicing in Him.

I think this aspect of the Ascension is very important: Christ has fulfilled His mission, He returns to the Father, but not alone: He returns with the Saints – his trophies! – and offers them to the Father. He beatifies them by making them see the Father face to face, hear the Word, and burn with the Love of the Holy Spirit for all eternity. In this way, the Ascension will be fully complete when the whole Mystical Body of Christ will be there with its Head, as our Lord prayed in his marvellous prayer: “Father, I will that where I am, they also whom thou hast given me may be with me; that they may see my glory which thou hast given me, because thou hast loved me before the creation of the world” (Jn. 17:24).

My dear brethren, let us understand this divine plan of Redemption in Christ, and fully enter into this plan, by leaving behind all earthly things and pursuing with our whole heart this heavenly goal, to be with Christ and see His glory for ever! And for this, let us ask the Blessed Virgin Mary, who is already there, as the Queen on the side of the King (see Ps. 44), to help us to live faithfully to our Lord Jesus Christ, to His law, keeping the faith and practicing it to our best, so that we may reach this ultimate goal in Heaven. Amen!

2015年5月17日 聖霊についての公教要理 レネー神父様 SSPX Osaka Fr Laisney's catechism instruction

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日2015年5月17日の大阪で、レネー神父様がなさって下さった公教要理のお話をご紹介します。

 特に、今回は、聖霊について、聖霊とは何か、聖霊が天主の愛であるとどう言うことか、についてお話があります。


 聖性の霊、「真理の霊」である聖霊の、私たちの心に及ぼす影響、霊的生活の段階、愛の段階についてお話し下さいます。

 また、聖霊とミサの聖なるいけにえとの特別な関係、聖霊と童貞聖マリアの間の深い一致についてもお話しされます。

 どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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御昇天後の主日の公教要理(大阪)

 親愛なる信者の皆さん、

 御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。

 私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。

 教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされています。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。

 この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」(ヘブライ9章14節)。

 聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。

 聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理への愛を私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。

 聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。

 聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。

 あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。

 聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。

 愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕えることはできぬ」(マテオ6章24節)。

 私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。

 このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。

 愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。

 愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。

 聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。

 最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。

 「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。

 アーメン。

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 Sermon on 17th May 2015, Sunday after the Ascension

My dear brethren,

After the Ascension, the Church is expecting the coming of the Holy Ghost. He is the Third Person of the Most Holy Trinity; He is true God: indeed one may build a temple only to God, now St Paul says: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you?” (1 Cor. 3:16). And a little later he is even clearer: “Or know you not, that your members are the temple of the Holy Ghost, who is in you, whom you have from God; and you are not your own? For you are bought with a great price. Glorify and bear God in your body” (1 Cor. 6:19-20).

Our Lord Jesus Christ had said: “no one knoweth the Son, but the Father: neither doth any one know the Father, but the Son, and he to whom it shall please the Son to reveal him” (Mt. 11:27). Yet St Paul tells us: “the Spirit searcheth all things, yea, the deep things of God” (1 Cor. 2:10). The Holy Ghost has that thorough knowledge of God only be because He is true God, equal with the Father and the Son.

The unanimous teaching of the Church is that He proceeds from the Father and the Son by way of love, as a flame of love. The Holy Ghost is the Spirit of the Father and of the Son . He is sent by the Father and by the Son . Our Lord Jesus Christ tells us about that ineffable procession of the Holy Ghost in these words: “All things whatsoever the Father hath, are mine. Therefore I said, that He [the Holy Ghost] shall receive of mine, and shew it to you” (Jn. 16:15). He is the One Love binding them in an effable way.

This Divine love is the principle of all His works (God created us because He is good, out of love), and the ultimate goal of all His works, especially the greatest of all works, the Incarnation and Redemption. Thus it is by the Holy Ghost that the Blessed Virgin Mary conceived our Lord Jesus Christ, at the beginning of the life of Jesus on earth; and at its end, our Lord offered Himself on the Cross also by the Holy Ghost, as St Paul says: “How much more shall the blood of Christ, who by the Holy Ghost offered himself unspotted unto God, cleanse our conscience from dead works, to serve the living God?” (Heb. 9:14).

The Holy Ghost is the Spirit of Holiness; He inflames our heart with the desire for holiness, and holiness essentially consists in charity: “Thou shalt love the Lord thy God with thy whole heart, and with thy whole soul, and with all thy strength, and with all thy mind: and thy neighbour as thyself” (Lk. 10:27).

The Holy Ghost is the “Spirit of Truth” (Jn. 14:17, 15:26, 1Jn 4:6), that is, He gives us the LOVE of the Truth (and hence the detestation of error, since error destroys truth); He does NOT teach NOVELTIES, but rather “the Paraclete, the Holy Ghost, whom the Father will send in my name, he will teach you all things, and bring all things to your mind, whatsoever I shall have said to you” (Jn. 14:26). He does not reveal novelties, but rather helps us to remember and keep that which our Lord Jesus Christ has already revealed, that which has been handed down from our Lord Jesus Christ by the Apostles and their successors: Tradition! When Pope Pius IX defined the infallibility of the Pope, he said that “the Holy Ghost was promised to Peter and his successors, not so that by his revelation new truth may be revealed, but that by His help they might guard sacredly the revelation transmitted through the apostles and the deposit of faith, and might faithfully set it forth” (Dz 1836).

With the grace of the Holy Ghost, there is no bitterness in truth, one does not use truth to crush one’s neighbour, but rather to gently help our neighbour to come to the light of the truth. Indeed St Paul says that God “will have all men to be saved, and to come to the knowledge of the truth” (1 Tim. 2:4), not that all men actually come, some “always resist the Holy Ghost” (Acts 7:51). But God wants them all to come to the truth, and He does help and through His grace many do come. There is need of missionaries, to kindle everywhere the flames of the Holy Ghost: Archbishop Lefebvre was a member of the “Holy Ghost Fathers”, the largest missionary order before the Council. Let us pray for missionary vocations in the Church.

The great work of the Holy Ghost for us is to pour divine Charity in our souls: “the charity of God is poured forth in our hearts, by the Holy Ghost, who is given to us” (Rom. 5:5). This charity is the life of the soul; indeed “The just man liveth by faith” (Rom. 1:17), but not any faith, rather “faith that worketh by charity” (Gal. 5:6); indeed “faith without works is dead?” (Jac. 2:20); therefore the Holy Ghost is the “Life-giver”, giving us charity by which we are spiritually living and fulfil the law, indeed “Love therefore is the fulfilling of the law” (Rom. 13:10).

Too many people think that charity is just a certain nice feeling of love, or certain alms-giving and nothing more. This is a great error! If St John could say: “God is charity” (1 Jn. 4:8), it is evident that charity is much more than such feeling. Charity in our heart is a transforming energy that comes from the Holy Ghost like the great wind of Pentecost, and inflames the soul to the point of taking over our whole life, and makes us ready even to suffer martyrdom and give our life for Christ!

The Holy Ghost accompanies us through our whole spiritual life: it all starts with the new birth “from the water and the Holy Ghost” (Jn. 3:5), in which He, the Life-giver, gives us this participation in the life of Christ.

The first effect of Charity in our heart is to give to God the first place in our heart, and direct everything activity to that ultimate goal. The first degree of that charity is in the “ascetic life”, to clean up our soul from anything that would displease our Lord Jesus Christ: the fight against sin and its evil inclinations is a requirement of charity. One does not really love God if he does not hate sin, if he is not faithful to avoid the occasions of sin. Indeed “No man can serve two masters. For either he will hate the one, and love the other: or he will sustain the one, and despise the other. You cannot serve God and mammon” (Mt. 6:24).

We must respond with generosity to the promptings of the Holy Ghost. How to recognise these promptings? If they detach us from sin (any prompting that does not detach us from sin is surely NOT of the Holy Ghost), if they make us follow the path of our Lord Jesus Christ, especially His virtues that the world does not love, such as humility, chastity, poverty, patience…

The one who has really understood this does not hesitate to give up everything for Christ’s sake, as He said: “Jesus looking on him, loved him, and said to him: One thing is wanting unto thee: go, sell whatsoever thou hast, and give to the poor, and thou shalt have treasure in heaven; and come, follow me” (Mk. 10:21). Hence the Church teaches that religious life is the perfection of the Christian life.

The second degree of charity is in the “illuminative life”, when one has already cut off the habits of sin, and lives habitually in the state of grace, and focuses on knowing and loving better our Lord Jesus Christ, and imitating Him in the practice of virtue: doing what He wants, as He wants, and because He wants it. At that level, we develop “the fruit of the Spirit: charity, joy, peace, patience, benignity, goodness, longanimity, Mildness, faith, modesty, continency, chastity” (Gal. 5:22-23).

The third degree of charity is in the unitive life, when one focuses on loving more perfectly our Lord Jesus Christ, intensifying charity through all, especially in contemplation. Great contemplatives such as St Theresa of Avila were living at that level. St Paul says of such contemplation: “we all beholding the glory of the Lord with open face, are transformed into the same image from glory to glory, as by the Spirit of the Lord” (2 Cor. 3:18). The Holy Ghost wants for us heights of holiness much more than we want it: let us be docile to Him!

There is a special relation between the Holy Ghost and the Holy Sacrifice of the Mass. Charity indeed has two aspects: to give and to unite. To give oneself to God totally to the point of sacrifice of self, and to unite also totally with God for eternity! We find these two aspects in the Holy Sacrifice of the Mass, with the consecration where the Sacrifice is offered – and we offer ourselves to God with our Lord Jesus Christ – and the Communion in which we enter into the most intimate union of our soul with God, a transforming union that will be consummated in eternity!

Last but not least, there is a very intimate union of the Holy Ghost and the Blessed Virgin Mary: “The Holy Ghost shall come upon thee, and the power of the most High shall overshadow thee” (Lk. 1:35). And indeed, the Holy Ghost accompanies her: she arrives at Elisabeth’s house and salutes her, and behold “behold as soon as the voice of thy salutation sounded in my ears, the infant in my womb leaped for joy - And Elizabeth was filled with the Holy Ghost:” (Lk. 1:44,41). When she goes to the Temple for the presentation, the Holy Ghost led St Simeon to meet her (Lk. 2:27). Thus in order to prepare themselves properly for the coming of the Holy Ghost, the Apostles and first disciples were gathered around our Lady for these nine days between the Ascension and Pentecost.

May the Blessed Virgin Mary, “Spiritual Vessel” – or rather “Vase of the Holy Ghost”, help us to know better the Holy Ghost, and obtain for us an abundance of His gifts, to be filled with His charity, so that we may go to Heaven!

Amen.



2015年5月17日 聖ピオ十世会 大阪での聖伝のミサ (ラテン語ミサ) SSPX Traditional Latin Mass in Osaka

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪での聖伝のミサについて、次のような報告を頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介することをお許し下さい。レネー神父様のお説教についてはお知らせしましたが、もう一度掲載いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での5月の主日の御ミサの報告です。

  5月17日 御昇天後の主日の歌ミサには18名が、 5月18日 月曜日 殉教者聖ヴェナンチオのミサには12名が御ミサに与る御恵みをいただきました。 デオグラチアス!   主日の御ミサの後、聖霊降臨を迎える準備として聖霊の役割について公教要理をして頂きました。 月曜日は朝6時半からの早朝の御ミサでしたが、12名が与ることが出来て片づけも大変スムーズに終わりました。(12名は全てM.I の騎士たちでした!)   過酷なスケジュールのなか日本へ宣教 に来て下さる神父様がたに感謝いたします。 この度ふと思ったのですが、こんな少数の羊たちの為に大きな犠牲を払ってくださる神父様方のお姿を通して、イエズス様とマリア様は私達一人一人の霊魂の事を本当に愛して救おうとして下さっているのだなと感じました。ですから私達も頂いたおおきな御恵みを精一杯受けて、マリア様を通して全てをお返ししなければと思いました。   レネー神父様の主日のお説教と公教要理は以下のとおりです。   主の御昇天後の主日の説教―大阪   「私は父から出て世に来たが、 今や世を去って父のもとに行く」 (ヨハネ16章28節)   最後の晩餐の間に、私たちの主イエズス・キリストはこの言葉を言われました。これによって、主は御昇天を予言なさったのです。単純で理解しやすいように思えますが、これは偉大な神秘であり、黙想するのにふさわしい美しさがあります。   表面的に理解するのなら、故郷の町を離れて友を訪ね、そして故郷に帰る人のようだと考えられるでしょう。しかし、これはまさに世俗的な理解に過ぎません。実際、天主は霊的でどこにでもおられます。では、「私は父から出て」とはどういう意味でしょうか。また御父はどこにでもおられるのですから、「父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか。   聖ヨハネ福音書(3章)の最初のニコデモとの会話の中にある、私たちの主イエズス・キリストのもう一つの言葉が、おそらくこの初めの「私は父から出て」という言葉を理解するのを助けてくれるでしょう。イエズスは言われました。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。主はまた、後にファリザイ人に言われました。「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である」(ヨハネ8章23節)。   私たちは皆、天主によって造られましたが、私たちの主イエズス・キリストは、まったく違った方法で御父から来られました。私たちは「天主によって無から造られ」ました。私たちの主イエズス・キリストは、私たちが信経で言うように、「造られずして[御父から]生まれ」た天主の御子です。主の本性そのものは御父の本性から来ているのであり、その本性は造られたのではありません。さて、天主は本質的に霊的であり、「切り分け」られませんから、御父が天主の本性の「一部」を御子にお与えになることはできませんでした。つまり御父は御子に天主の本性全体をお与えになったのです。ですから、「御父から生まれ」たというのは、御父の天主の本性全体を受けたとい うことであり、ですから御父と等しいということです。これが、主が「私は父から出た」という言葉でおっしゃっていることなのです。私は父の愛する独り子、永遠において父から生まれたのである、ということです。   実際、天主にとっては時間というものはありません。永遠の中のある瞬間、常に現在であって過ぎ去ることは決してない安定したある瞬間、その瞬間において御父はみ言葉を発し給い、御子をお生みになり、御子は天主の本性をすべて所有し、御父と等しい者として、完璧にお生まれになったのです。聖パウロが言うように、キリストは、「天主と等しい」(フィリッピ2章6節)ことを固持しようとされませんでした。ファリザイ人たちはこのことをよく理解していましたから、「自分を天主と等しい者としたという理由で」主を石殺しにしようとしました。彼らは信じることを拒絶しましたが、主が言われたことをよく理解していたのです。ですから反対に、主は彼らに、ご自分のことを誤解しているとは言われませんでした。   御父は御子を物質的な方法ではお生みになりません。天主は純粋な霊です。御子は「天主のみ言葉」です。実際、霊の最初の活動は考えることであり、私たちでさえそうです。天主は私たちに知性をお与えになりました。私たちが考えるとき、心の中で自分に話しかけます。それを、「概念、英語ではコンセプト(concept)」、つまり考えを持つ、と言います。そのような考えを「コンセプト(concept)」と呼ぶのは、私たちがそれを孕む(英語ではconceiveという)からです。しかし私たちにとっては、私たちの考えが非常に小さいため、むしろ、英語で同じように「コンセプト(concept)」と呼ばれる小さな胎児のようなものです。ですから私たちは、私たちの周りの世界をもう少し理解するためにもたくさんの考えを必要とします。しかし天主は完全です。天主はすべてのものを一度に理解しておられ、天主が知っておられることのすべて、天主が天主であることのすべてを十分に言い表す一つの完全な言葉によって、天主の無限の知識全体を表現されたのです。これこそが天主のみ言葉です。この天主のみ言葉はまことに完全ですから、小さな「コンセプト」ではなく、完全に大人に成長した御子であって御父と等しい御者です。実際、天主が何者であるかを的確に表現しうるのは、天主をおいてありません。御子は永遠の知恵のみ言葉、それによってすべてのものが造られた 全能のみ言葉、すべてを包み込むみ言葉です。これが、イエズスが「私は父から出た」と言われた意味なのです。預言者は叫びます。「誰がその行く末のために悲しむだろう?」(イザヤ53章8節)。   天主は愛です。このことから、聖トマス・アクィナスが言うように、天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」です。御父と御子はお互いを完全に愛するがゆえに、この燃え上がる火から第三のペルソナが、愛の炎、天主の愛の炎として発出するのです。これが聖霊です。聖霊は聖性の霊であり、実際、聖性はすべてを超えて天主を愛することにあるのです。ですから、その愛も永遠で全能であり、すべてを包み込むのです。   このように、天主の御子は御父のもとから来られました。この世に入って来られたのです。これがご托身です。御子は、童貞聖マリアのいとも清らかなご胎内で、聖霊の御働きによって肉体をお取りになりました。「み言葉は人となって、私たちのうちに住まわれた。(私たちはその栄光を見た。それは、御独り子として御父から受けられた栄光であって、)恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)。これを書いた人は祝されて直接の証人になり、私たちの主イエズス・キリストを見て、声を聞いて、お体に触れることさえしました。彼は書簡で言います。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、眺めて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について―そうだ、この命は現れた、私たちはそれを証明する。御父のみもとにあっていま私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる―、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一1章1-4節)。これがご托身です。ご托身の目的は次のように美しく述べられます。天主との友好関係、つまり「御父と御子のものである一致」を回復させるためである、と。   この目的を達成することが、まさに贖いのわざなのです。イエズスは救うために来られました。「彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。イエズスは十字架によって私たちをお救いになりました。またこれは、「今や世を去って」という一節が意味するところでもあります。実際、私たちは「世を去った霊魂」と言います。死はこの世を去る確実な方法です。このことは、ご自分の死を支配しておられた私たちの主イエズス・キリストにずっとよく当てはまります。ですから主は言われました。「私が命を再び取り戻せるよう自分の命を与えるからである。その命は私から奪い取るものではなく、私がそれを与える。私にはそれを与える権威があり、また取り戻す権威もある。それは私が父から受けた命令である」(ヨハネ10章17-18節)。   しかし、主はその死のすぐあとの三日目に復活されましたから、「いまや世を去って」という言葉を御昇天にも適用できるのではないでしょうか。実際、御昇天の日は、使徒たちが肉体の目で主を見た最後の日でした。主は使徒たちを祝福しながら天に昇られ、雲に包まれ、使徒たちはもう主を見なくなりました。ですから、主はこの世を去られたのです。   聖トマス・アクィナスは、御昇天は多くの点で私たちに有益であったと教えています。第一に、御昇天は私たちの心を天のものに引きつけてくれます。「あなたの宝のあるところには、あなたの心もある」(マテオ6章21節)。私たちの宝は私たちの主イエズス・キリストであり、今や主は天におられます。ですから、私たちの心は天にあるべきです。聖パウロは言います。「あなたたちがキリストと共によみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座し給う。地上のことではなく上のことを慕え。あなたたちは[罪に/この世界に]死んだ者であって、その命はキリストと共に天主の国の中に隠されているからである」(コロサイ3章1-3節)。   第二に、御昇天は信仰に対するより大きな功徳を与えてくれます。もし、私たちが地上のどこかへ行って、復活してまだ生きておられるキリストを見ることができるとすれば、私たちの信仰が受ける功徳は今よりずっと小さくなることでしょう。しかし、今は「私を見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ20章29節)。   第三に、御昇天は私たちのキリストに対する崇敬を増加させます。それは、主が今「全能の御父である天主の右に座し」ておられるからです。そのため、主に対する愛をも増加させるのです。   第四に、主が「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちを共に連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)と言われたように、主は私たちのための場所を準備なさっているからです。   最後に大切なことですが、御父の右で、主は聖パウロが言うように「私たちのために取り次ごうとして常に生き」(ヘブライ7章25節)ておられるからです。   このように、「今やこの世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16章28節)というのは、御昇天を表しています。しかし、御昇天には二つの側面があります。一つはこの世からの出発であり、これは目に見え、理解しやすいものです。もう一つは到着です。これは理解するのは簡単ではありません。実際、天主はどこにでもおられるのですから、「私は父のもとに行く」とはどういう意味でしょうか?   聖トマス・アクィナスがすでに説明したように、私たちの主イエズス・キリストは天主の本性ばかりでなく、人間の本性においてもすべての被造物、最も高位の天使たちをも超えておられるということを意味しているのは確実です。これが「全能の父なる天主の右に座し給う」ことの意味していることです。主の栄光は、主の犠牲に対する報いであり、贖いのわざへの報いです。聖パウロはいいます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで天主はキリストを称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それはイエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものも皆ひざをかがめ、すべての舌が父なる天主の光栄をあがめ、『イエズ ス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。   しかし私は、この「父のもとに帰る」にはさらに意味があると思います。聖パウロはコリント人へ言います。「すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る。そかしそこに順序があり、まず初穂であるキリスト、次に、来臨の時キリストの者である人々が続く。そして終わりが来る。そのときキリストはすべての権勢、能力、権力を倒し、父なる天主に国を渡される。キリストはすべての敵をその足の下に置くまで支配せねばならぬ。最後の敵として倒されるのは死である。『天主は、すべてをその足の下に置き給うた』からである。…すべてのものがその下に置かれるとき、子自らもすべてをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは天 主がすべてにおいてすべてとなるためである」(コリント第一15章22-28節)。   この「初穂」という言葉そのものが、いけにえの意味を背景にしていることを示しています。すべての木や動物の初穂は、旧約においては天主に捧げられねばなりませんでした。今ここで聖パウロが言うのは、キリストは(その人間の本性において)天主に捧げられた人類の「初穂」として最初に復活し、その後、キリストの神秘体のメンバー、そしてほかのすべての人々が復活するということです。その後、キリストは「父なる天主に国を渡される」のです。これも捧げものをすることであり、キリストがこの世から御父のもとへお戻りになるのは、お一人だけでなく、天主の栄光への捧げものとしてキリストの神秘体のメンバーと共にお戻りになるのです。実際、イエズスはニコデモに言われました 。「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」(ヨハネ3章13節)。これは、誰も天に昇る者はいないという意味でしょうか? 聖アウグスティヌスは言います。「主はお一人で天から下って来られたが、天に戻られるのはキリストの神秘体、すなわち教会のメンバー、その良きメンバーと共にである。その前に主は、世の終わりの大審判において、ご自分の国から恥ずべきことをすべて洗い流される」。   ですから、天の聖人たちは「御父に渡され、捧げられ」ています。聖人たちは永遠に生きますが、自分たちのためではなく、いとも聖なる三位一体の栄光のために生きるのです。ここにこそ、聖人たちの至福、終わりなき幸いがあるのであり、至高なる善(である天主)における喜びがあるのです。自分たちのために生きるのではなく、天主のために生き、天主において喜ぶのです。   御昇天においては、この側面が大変重要だと私は思います。キリストはその任務を果たされ、御父のもとに戻られます。しかし、お一人だけではありません。その戦利品である聖人たちと共に戻られます。そして、彼らを御父にお捧げになるのです。主は彼らを祝福し、御父と顔と顔を合わせて見るように、み言葉を聞くように、聖霊の愛と共に永遠に燃えるようにさせてくださるのです。このように、御昇天が完成するのは、キリストの神秘体全体がそのかしらと共にいるようになるときです。主が、次の驚くべき祈りをなさったように。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私と共にいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あな たは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。   親愛なる兄弟の皆さん、キリストにおける贖いという天主のご計画を理解しましょう。そして、地上のものごとすべてを忘れ去ることよって、また心のすべてでこの天の目的を追求することによって、キリストと共にあり、永遠にその栄光を見るというこのご計画に完全に入っていきましょう。そのために、王の右にいる王妃(詩篇44章参照)として、すでにそこにおられる童貞聖マリアに乞い求めましょう。私たちが主イエズス・キリストとその掟に忠実に生き、信仰を守り実践するために全力を尽くし、その結果、天国でのこの究極の目的に到達することができますように。アーメン。
御昇天後の主日の 5月17日 大阪 公教要理   親愛なる信者の皆さん、   御昇天の後、教会は聖霊降臨を待ち望んでいます。聖霊はいとも聖なる三位一体の第三のペルソナです。聖霊はまことの天主であります。実際、人は天主に捧げる神殿しか建てることが許されていません。ところで、聖パウロは言います。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか」(コリント第一3章16節)。その少しあとで、聖パウロはこれをさらにはっきりとさせます。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント第一6章19-20節)。   私たちの主イエズス・キリストは言われました。「子が何者かを知っているのは父のほかになく、父が何者かを知っているのは、子と子が示しを与えた人のほかにはありません」(マテオ11章27節)。しかし聖パウロは言います。「霊は天主の深みまですべてを見通す」(コリント第一2章10節)と。聖霊はまことの天主であって、御父と御子に等しい者であるがゆえに、天主としてのすべての知識を持っておられるのです。   教会の完全に一致した教えによれば、聖霊は愛によって、愛の炎として御父と御子から発出するとされてます。聖霊は御父と御子の霊です。聖霊は御父によって、そして御子によって送られます。私たちの主イエズス・キリストは、言葉にしがたい聖霊の発出について次のように教えてくださいます。「父のものはすべて私のものである。だから私は、彼[すなわち聖霊」が私のものを受けて、それをあなたたちに知らせると言ったのである」(ヨハネ16章15節)。聖霊は言葉にしがたい方法で御父と御子をつなぐ唯一の愛なのです。   この天主の愛が、天主のみわざすべての原理です(天主が私たちをお造りになったのは、天主が善であり、愛のゆえなのです)。またこの天主の愛が、天主のみわざすべて、特にその最も偉大なみわざであるご托身と贖いの究極の目的です。ですから、童貞聖マリアが私たちの主イエズス・キリストを受胎なさったのは聖霊によってであり、これがイエズスの地上での生涯の始まりでした。その生涯の終わりには、また聖霊によって、主はご自分を十字架上でお捧げになりました。聖パウロは言います。「ましてや永遠の[聖]霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死のわざから清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか」( ヘブライ9章14節)。   聖霊は聖性の霊です。聖霊は私たちの心を聖性への望みで燃え上がらせてくださいます。聖性は本質的に愛です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ。また隣人を自分と同じように愛せよ」(ルカ10章27節)。   聖霊は「真理の霊」(ヨハネ14章17節、15章26節、ヨハネ第一4章6節)です。すなわち、聖霊は真理への愛を私たちにお与えになります(従って、誤謬は真理を台無しにするがゆえに、聖霊は誤謬への嫌悪をも、私たちにお与えになります)。聖霊は新しいことを教えることはなく、むしろ「弁護者すなわち父が私の名によって送り給うた聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思い出させてくださるだろう」(ヨハネ14章26節)。聖霊は新しいことを明らかにされるのではなく、むしろ、私たちの主イエズス・キリストがすでに明らかになさり、使徒たちとその後継者たちが私たちの主イエズス・キリストから継承してきたこと、つまり聖伝を、私たちが思い出し、保持するのを助けてくださるのです。教皇ピオ九世が教皇の不可謬権を定義したとき、「聖霊がペトロとその後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって新しい真理を明らかにするためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝承してきた啓示と信仰の遺産を彼らが聖なるものとして保護し、忠実に説明するためである」(デンツィンガー1836)と述べました。   聖霊の恩寵があるため、真理に苦さはなく、隣人を攻撃するために真理を使うことはありません。むしろ、隣人が真理の光に向かうようやさしく助けるのです。実際、聖パウロは言います。天主は「すべての人が救われて真理を知ることを望まれる」(ティモテオ第一2章4節)のですが、すべての人が真理を知るわけではなく、一部の人は「たえず聖霊に逆らっています」(使徒行録7章51節)。しかし、天主は彼ら全てが真理を知ることを望んでおられ、そのため多くの人々をお助けになるので、天主の恩寵によって多くの人が真理を知るに至るのです。ですから宣教師が必要です。聖霊の炎を至る所で燃え立たせる宣教師です。ルフェーブル大司教は、公会議前には最大の宣教会だった「聖霊修道会」の一員でした。教会の宣教師の召命のために祈りましょう。   聖霊が私たちになされる素晴らしいみわざは、私たちの霊魂に天主の愛を注いでくださることです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)のです。この愛は霊魂の命です。実際、「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)のですが、どんな信仰でもいいのではなく、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)によってです。実際、「善業のない信仰はむなしいもの」(ヤコボ2章20節)なのです。ですから、聖霊は「命の与え主」であり、私たちに愛を与えてくださるので、その愛によって私たちは霊的に生きており、律法を守っているのです。実に、「したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。   あまりにも多くの人々が、愛とはただ愛するというような良い感情だとか、慈善の行いにすぎない、と思っています。これは大変な誤りです。聖ヨハネが「天主は愛である」(ヨハネ第一4章8節)と言うことができたのなら、明らかに愛はそんな感情をずっと超えたものです。私たちの心にある愛は、人を根本から変えてしまうエネルギーであって、聖霊降臨のときのはげしい風のように聖霊から来るのであり、全生涯をかけるところまで霊魂を燃え上がらせ、キリストのために殉教し、命を捧げるほどの用意を私たちにさせるのです。   聖霊は霊的な全生涯にわたって私たちと共にいてくださいます。それは「水と聖霊によって」(ヨハネ3章5節)新たに生まれたときに始まり、そのとき、命の与え主である聖霊はキリストの命にこうして参加させてくださるのです。   愛が私たちの心に及ぼす最初の効果は、私たちが天主に対して自分の心の中で第一の場所をお与えし、すべての活動をこの究極の目的に向けることです。この愛の最初の段階は、「禁欲[、あるいは『浄化』]の生活」にあります。これは、私たちの主イエズス・キリストをおよろこばせしないあらゆるものから、霊魂を浄化するためです。罪とその悪への傾きに対する戦いは愛するための必要条件の一つです。もし人が罪を憎んでいないなら、もし罪の機会を避けることに忠実でないなら、本当に天主を愛してはいません。実際、「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんずるかである。天主とマンモンとにともに仕 えることはできぬ」(マテオ6章24節)。   私たちは、聖霊の促しに進んでお応えしなければなりません。この聖霊の促しは、どのようにしたら分かるのでしょうか?その促しが私たちを罪から離すのなら(私たちを罪から離そうとしない促しは、聖霊からのものではないのは確実です)、その促しが私たちを私たちの主イエズス・キリストの道に従わせようとするなら、特に謙遜、貞潔、清貧、忍耐など、この世が愛さない主の徳に従わせようとするなら(、それは聖霊の促しです)。   このことを本当に理解した人なら、キリストのためにすべてを捧げるのをためらいません。主は言われました。「イエズスは彼をじっと見つめ、慈しんでこういわれた。『あなたには一つだけ足りない。帰って自分の持ち物をみな売り、貧しい人々に与えよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい』」(マルコ10章21節)。このため教会は、修道生活はキリスト的生活の完成であると教えています。   愛の第二段階は、「照らし(照明)の生活」にあります。照明の生活においては、習慣となった罪を断ち切って、いつも成聖の状態で生き、私たちの主イエズス・キリストをさらに知りさらに愛することに集中します。また徳の実践において主をまねるのです。つまり、主が望まれることを、主が望まれるように、主が望まれるから、行うのです。この水準になると、私たちは「霊の実である愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」(ガラツィア5章22-23節)を持つようになります。   愛の第三段階は、「一致の生活」です。一致の生活においては、私たちの主イエズス・キリストをもっと完全に愛することに集中し、すべてを通して、特に黙想によって愛を強めるのです。アヴィラの聖テレジアのような偉大な黙想家たちは、この水準で生きていました。聖パウロは、そのような黙想について述べています。「そこで私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように、主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント第二3章18節)。聖霊は、私たちが望むよりずっと高い聖性を私たちが持つよう望んでおられます。聖霊に従いましょう。   聖霊とミサの聖なるいけにえの間には特別な関係があります。実際、愛には二つの側面があります。与えることと一致することです。自分自身を天主へのいけにえとするところまで完全に与えることと、また永遠に天主と完全に一致することです!私たちは、この二つの側面をミサの聖なるいけにえの中に見いだします。いけにえが捧げられる聖変化のとき、私たちは主イエズス・キリストと共に自分自身を捧げます。また聖体拝領のとき、私たちの霊魂は最も深く天主と一致するのです。この一致は人を根本的に変えてしまうもので、永遠において完成することになるのです。   最後に大事なことですが、聖霊と童貞聖マリアの間には大変深い一致があります。「聖霊があなたに下り、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」(ルカ1章35節)。そして実際、聖霊は聖母と共におられます。聖母がエリザベトの家に到着して挨拶されると、「なんとしたことでしょう。あなたの挨拶のみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。―エリザベトは聖霊に満たされた」(ルカ1章44、41節)。聖母が奉献のため神殿に行かれたとき、聖霊の導きで聖シメオンは聖母に会いました(ルカ2章27節)。ですから、聖霊が来られるのにふさわしく準備するために、使徒たちや最初の弟子たちは、御昇天から聖霊降臨の間の九日間、聖母の周りに集まっていたのです。   「霊妙なる器」いや、むしろ「聖霊の器」である童貞聖マリアのお助けによって、私たちが聖霊のことをもっとよく知り、豊かな聖霊の賜物を得、聖霊の愛に満たされ、ついには天国へ行くことができますように。   アーメン。  

 

[1] Mt. 10:20, Jn. 14:26, 15:26, Act. 2:33, Rom. 8:11. [2] Mk. 2:8, Act. 16:7, Rom. 8:9, Gal. 4:6, Phil. 1:19, 2 Thess. 2:8, 1 Pet. 1:11. [3] Jn. 14:16, 14:26

[4] Jn. 15:26, 16:7

聖ピオ十世会 (SSPX) についての動画(ドイツ語)を紹介します。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!



愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!

 聖ピオ十世会を紹介する動画(ドイツ語)です。内容は、エコンの神学校について、シャルトル->パリの巡礼の様子、アフリカでの宣教の様子、などです。





天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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