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聖ピオ十世会 (SSPX) ドイツのツァイツコーフェンの神学校についての動画

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会 ドイツのツァイツコーフェンの神学校についての動画をご紹介します。





天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

自然の美しさ、創造の御業、感謝、ルイ・シュヴァーツベルク Louie Schwartzberg

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 この動画を紹介されたとき、これを見て自然の美しさに改めて感動しました。
 このような美しい自然も、全ては天国の永遠の生命への手段、道具、これをよく使って、天主を愛するよすがとするように私たちに与えられました。天主様に感謝!
Louie Schwartzberg: Nature. Beauty. Gratitude.




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アレグリ(Gregorio Allegri)の「ミゼレーレ」 Miserese

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私の知人にYouTubeにはまっている方がいます。聖伝のミサに与るようになって下さるといいと願っていますが、まだ知り合いになって間もない友人です。

 彼は毎日、宗教音楽を聞いてから寝るのだそうです。寝る前にテレビのスクリーンにYouTubeを映して、聖歌を聞くのだそうです。彼は、今まで聴いた音楽の中で最高はこれだ!というのを私に教えてくれました。

 彼は、将来「YouTubeの最高の宗教音楽 選曲50」という本を書いて出版したいそうです。

 そうして教えてくれたもののうち最高だ!と彼が思ったのが、アレグリ(Gregorio Allegri)の「ミゼレーレ」です。彼によると、このバージョンがいろいろ聞いたうちで一番よい、とのことです。




 よく知られた話によると、実は、この曲はシスティーナ礼拝堂だけでのみ歌うことが許され、門外不出とされていました。もしもこの掟を破るものがあれば、破門の刑さえ課されていたそうです。

 ところで、当時十四歳であったモーツァルトは、ローマの旅行中バチカンのシスティーナ礼拝堂でこの曲を初めて聞いたそうです。彼は、この曲を一度聴いて覚えてしまい、記憶を頼りにこれを書き取り、数日後もう一度礼拝堂へ行ったとき、細かい間違いに気づいてそれを修正したそうです。

 その後、イギリス人のチャールズ・バーニーは、モーツァルトからこの楽譜を受けて1771年に出版します。ローマ教皇クレメンテ十四世は少年のモーツァルトをローマに呼びつけます。しかし、天童を見ると、破門する代わりに天才的才能を褒めた、とのことです。

 別の聖歌隊(ザ・シックスティーン)が歌っているものもあります。



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話3 「聖母マリアが、私たちの母、元后(女王)であること」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月3日の秋田巡礼で行われた、シュテーリン神父様霊的講話その3をご紹介いたします。

 シュテーリン神父様のご自分が幼少だった頃の体験談を交えて、大変、おもしろくわかりやすく聖母マリアさまが、私たちの母であり、女王であると言うことの意味を教えてくれます。

 神父様のお話を聞くと、私たちが聖母の子供として、聖母のしもべ、奴隷となることがどれほどイエズス・キリストのお望みであるかが理解できます。

 どうぞお読み下さい。

 シュテーリン神父様の講話を書き起こして下さった姉妹には心から感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月3日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話3
「聖母マリアが、私たちの母であること、元后(女王)であることの意味」

同時通訳:小野田圭志神父様


 私たちは、マリア様が御母であるという、お母様であるという事の神秘を一緒に黙想する事をすすめました。マリア様が私たちのお母様である、という事を以前よりも深く理解できた、という事を期待します。

 もしも、マリア様の忠実な、従順な、愛する子供であろうとする為には、ではどうしたら良いでしょうか?そのような子供はいつも、常にマリア様に依存します。そのような子供は、決して絶望する事はありません。そのような子供は、敵の罠にはまって滅びてしまうような事は決してありません。いつも保護され、いつも導かれているからです。イエズス様、真の天主様は、私たちが全く弱々しい、という事をよくご存知です。ですから、マリア様を私たちに下さいました。

 天に上る道というのは、皆さん見て下さい、高い連峰の、山脈の、高い山を登る道なのです。考えてもみて下さい、この高い高い高い、山の山の山の上の山の上の所に、黄金の大宮殿がある、という事を。「あぁ、そこに綺麗な建物のお城が私たちを待っている。あぁ、そこに行きたい!」

 天主様は私たちに、終わりのない、喜びの大海原の様な、限りの無い喜びを私たちに与える為に、私たちを創りました。そのために私たちを創造しました。人類が、罪を犯して天主様に逆らった、天主様に遠ざかったとしても、天主様は、私たちを決して見捨てる事はありませんでした。御父は、天主御父は、御子ご自身をこの世に遣わし給うて、私たちが天国に行く事ができるようにして下さいました。

 でも、私たちの地上の生活は、非常に険しいものになりました。イエズス様は私たちを罪から解放して、悪魔の罠から解き放って下さいます。でも、私たちは原罪の結果、傷を負っているので、非常に弱い者となってしまいました。私たちは内部的な弱さ、或いは怠惰、怠け心などがあるのです。

 悪魔は既に、第一の戦いで勝利を収め、アダムとエヴァを突き落としましたので、今悪魔たちは、悪は、ものすごい勢力をこの地上にもっています。私たちを霊的に殺そうと大きな力を持っています。悪魔は、自分がものすごい力を持っているだけではなくで、その友を、多くの悪い友を持っていて、それが軍隊のように、イエズス・キリストの敵だ、という事を宣言して、私たちを全て、イエズス・キリストの手から奪い取り、地獄の底に投げ落とそうと戦いを挑んでいます。

 では、私たちの今置かれている状況はどんなものでしょうか?私たちは、小さい、かよわい、病気の、弱々しい子供に過ぎません。高い山の美しい大宮殿を私たちは見ています。イエズス様はそこから私たちに、大きな微笑みと笑顔で、「さあ、子よ。いらっしゃい。さあ来るんだ。」と、私たちを招いています。「主よ、私のこの邪悪さとこの弱さにも関わらず、私を招いて下さるのですか?」「そうだ、さあ、来なさい。早く来なさい。」するとその招きに応じて、喜びに満ちて、大きな微笑みをたたえて、そのイエズス様のいらっしゃる大宮殿の山の内に向かって、こう走ります。

 ところで、6歳の子供は、山を、どれほどの時間、長さ、走る事ができるでしょうか?もう、すぐ疲れてしまいます。すぐお腹が減ってしまいます。「あんなに遠くまでどうやって行ったら良いんだろう…。」と。この子供が疲れて、ハア、ハア、ハア、とちょっとスピードを緩めると、盗賊の様なものがやって来て、「ここは通る事ができない。」と、言ってきます。このよく見ると、盗賊の様な悪者たちがいるのみならず、道は石ころだらけで険しく、道も途中で途切れていたり、崖っぷちであったりして、子供がとても通る事ができないような道である事が分かります。

 「イエズス様、私はイエズス様のいらっしゃる宮殿にまで行きたいのですけれども、私には力がありません。もう弱くて、道は険しくて、とってもダメです。」

 すると、イエズス様は私たちに、母を送って下さいます。何と素晴らしいお母さんでしょうか。マリア様がやって来て、「子よ、いらっしゃい。」手を取って、子供を連れて行きます。子供が、皆さんが、「お腹が減った。」と言えば、食べ物を与えます。マリア様は、皆さんが、「疲れた。」と言えば、おんぶして背負って、こう、もうお母さんの背中で寝ても、私たちは進む事ができます。

 突然道が途絶えていて、ものすごい崖っぷちがあって、もう行き止まりです。でもお母さんは、ヒュッとこうそれを登って、そのまま道を続けます。すると、もう獣の怪物のような一味たちがたくさんやって来て、襲ってきます。余りにもものすごい形相をしていて、恐ろしい姿で、見るも醜い、もう恐ろしくて恐ろしくて、化け物屋敷だ!と思っていると、「子よ、何も心配をしなくていい。何も恐れる事はありません。」マリア様は、「出て行きなさい。」その獣や怪物たちが、あっという間に姿を消して、それで彼らの仕事は終わりです。

 皆さんが若い子供であろうが、年寄りの老人であろうが、皆さんは男であろうが、女性であろうが、皆さんが賢かろうが、あのちょっと頭の抜けた方であろうが、黒人であろうが、白人であろうが、どんな方でも、天国に行こうと思うのならば、一つしかチャンスはありません。それは、マリア様に手を出して、マリア様の手をギュッと握って、その手を絶対離さない事です。

 私たち司祭にとって、私たちが死ぬまで司祭であり続ける、司祭職を全うする為には、マリア様を除いてはありえません。マリア様を失っては、司祭職を続けて死ぬ事はできません。続けて続ける事はできません。

 もしも皆さんが、家庭生活を続けて、ご結婚生活をしているならば、今現代では、家庭を破壊させようとするものすごい勢力がたくさん攻撃しているので、良い家庭のカトリックの生活、カトリックの家族であっても、壊れてしまったり、バラバラになってしまったりする危険があります。

 私は今までの司祭生活で、多くの壊れた家庭を見てきました。しかも良いカトリック信者であったにも関わらず、壊れてしまった家庭を見ました。しかし、マリア様に対する信心があった家庭で、それがそのまま粉々になって、別れ別れになってしまった、という家庭は一つもありません。

 私たちの巡礼のこのメインのテーマは、『私たちはマリア様の子供である、奴隷であって、騎士である』と、いう事です。今までの話で、マリア様が私たちの本当のお母さんであって、私たちがこの良き子供となる、という事を話をしました。では、マリア様が私たちの女王様、元后である、という事について、一体どんな意味なのかを、ちょっと考えてみます。

 マリア様が、もちろんこの私たちの人生に於いて、マリア様は私たちの本当のお母さん、霊的母となる事は、非常に重大な事です。しかし、それだけではありません。この公教会祈祷文をよくお祈りされていると思いますが、そのお祈り文の中で非常にしばしば、私たちはマリア様の事を、「御母よ」と言うのみならず、「我が元后よ」と言います。

 ところで、今日はポーランドの元后のマリア様の祝日ですけれども、マリア様が私たちの女王である、という事は、とても重要なものです。13年前に私は初めて日本にやって来て、長崎に巡礼に行って、そこに日本の元后の聖母、「日本の元后の聖母」という浦上天主堂のマリア様の像がありますけれども、そこの写真を頂いて、いつも私はマリア様の像を、いつも持っています。

 では一体マリア様はいつ、私たちの女王、元后となったのでしょうか?イエズス様は私たちに、マリア様を母として与えて、それを十字架の上で、そう宣言しました。では、イエズス様は本当に、マリア様が私たちの元后となる事を御望みになったのでしょうか?もちろん。では、いつ?では一体どういう理由で、イエズス様は、マリア様が私たちの元后となる事を望んだ、という事を今から説明します。皆さん、私たちがお祈りの中で、「おおマリアよ、我が元后よ。」と言った、その意味を深く知って下さい。

 イエズス様は私たちの王です。ところでマリア様は、贖いの業に於ける、イエズス様の助け手であります。ですからマリア様は、イエズス様が王なので、女王とならなければなりません。

 マリア様は私たちに、全面的な天主への依存を教えてくれる、と朝の説教で申し上げました。もちろん、天主様は最高の権威でありますから、私たちは完璧に天主様の下に従属しています、服従しています。私たちは、全て天主から頂いた、というこの事実から、天主様は私たちの全てに於いて最高の権威を持っている、という事実が導き出されます。私たちは、自分の意志ではなく天主の御旨を果たす、という事だけに、真理があります。

 もしも皆さんが、自分の思いの通り、自分の考えだけに従う、というのであれば、皆さんは自分自身が王となり、自分自身が教皇となります。これこそが、アダムとエヴァに伝えられた悪魔からの誘惑です。「さあ、この食べてはいけない、と言われた木の実を取って食べなさい。そうすれば目が開けて、完全に独立して自立して、天主の言う事を聞かなくても良いし、天主のようになるだろう。」

 天主様が権威の根源である、という事は、全ての権威を持っている、という事はどういう事かというと、今朝申し上げましたように、天主様から私たちが来て、全てのものは天主様を源として、天主を究極の目的とする。全ては、天主に依存して、天主に行かなければならない、という天主に対する完璧な依存を意味しています。天主様は、皆さんが今ここに生きてこうして存在しているのも、天主様が皆様を、全ての瞬間において在らしめて下さっているからです。もしも天主様が、ちょっとふっと忘れて、「あっ」と、私たちの事を存在させることを思わなかったら、私たちは無に帰してしまいます。

 イエズス様は、創造主であり天主でありますから、全ての存在するもの、天使であろうが、人間であろうが、あらゆる全ての被造物に対する、絶対の主権を持っています。イエズス様の王権のその権威という事は、私たち全ての被造物が、そのイエズス様の権威を認めて、全て私たちは創られたものであって、全てはイエズス様から来て、全てはイエズス様に依存している事を認める事にあります。

 イエズス様は、単なる純粋な天主のみならず、完全完璧な人間でもあります。人間としてもイエズス様は、人間として最高の王権を獲得されました。どうやって?何故ならばイエズス様は、この地上この世の征服者である悪魔と戦って、私たちを勝ち取ったからです。十字架の上に死ぬ事によって、悪魔の権威を権力を打ち砕いたからです。悪魔の手から私たちを買い戻し、贖ったからです。贖った、という事はつまり、私たちを悪、元の主人であった悪魔から、私たちを買い戻したという事です。

 私たちは、この地上に生きている間に、必ずどちらかの主人に付かなければなりません。イエズス様がこの地上に来られる前には、この地上の主人は悪魔でした。イエズス様が来られた後は、イエズス様はご自分の王国を造られました。それは天主の御国であり、それは悪魔の国に対立するものです。これは聖アウグスティヌスが言うように、「天主の国と悪魔の国は、二つに分かれた。」私たち全ては、この二つの国のどちらかに属さなければなりません。悪魔の暴君の下にいる者たちは、皆地獄に行きます。この地上における天主の御国である、イエズス・キリストの王国にいる者だけが、天国に導かれます。

 もしも私たちが、イエズス・キリストの王国に属する、市民であるならば国民であるならば、その王であるイエズス・キリストに従わなければなりません。皆さん、明日朝、御聖体を拝領する時に、イエズス様、その御聖体に在すイエズス様に仰って下さい、「イエズス様、主よ、御身は二重の意味で王であります。何故ならば御身は天主であり、創造主であるからです。創造主として、私は被造物として、創造主であるあなたに全く属しています。もう一つの意味では、御身は天から下って人となり、私の救霊の為に、命の救いの為に、十字架に於いて血を流され、命を捧げ、私の霊魂を贖って下さいました。御身は、私の人間として王となられました。」

 もしも、皆さんが天国に行きたいと思うならば、天国の主人を選ばなければなりません、イエズス・キリストを選択しなければなりません、イエズス様を、「御身こそが私の主です。」と、言わなければなりません。

 もしも、この地上でどなたかが、イエズス・キリストの王国に属していない、或いは属するのを望まない、とするならば、彼は誤りのうちにいますし、嘘のうちにいますし、幻想のうちに生きています。

 全ての宗教が全く同じだ、などというのは、イエズス様に対する恐るべき冒涜です。イエズス様の不変の王権を認めない、という事は、イエズス様に対する恐るべき涜聖です。誰でも自分の好きな宗教を勝手に選んで、それを適当に信じれば良い、つまり信教の自由、というのは全くの嘘です。私たちカトリックは、この国に於いて、イエズス・キリストのみが、最高の真理の権威を持っている、という事が認められるのを望まなければなりません。

 では、この地上に於いて、ある人がある別の人間に、全く依存して生きている、と言う事を上手く表す単語は何があるでしょうか?それが「奴隷」です。奴隷というのは、しもべではありません。奴隷というのは、もはや自分のものは全く失ってしまっています。実は主人は、奴隷の命、生きるか死ぬかの権威さえも持っています。主人は、奴隷をどのように取り扱っても良い権力を持っています。もしも人間同士の事であれば、このような奴隷制度は悪です。何故かというと、いかなる被造物も人間も、他の人間の生命に対する権威を持っていないからです。ですから教会は常に、人間同士に於ける奴隷制度を排斥してきました。しかし、天主と人間との関係に於いて、「奴隷」という事が、最高の関係を表す事ができています。実は、カトリック教会はこの関係を、天主と人間との関係が奴隷関係である、という事をはっきりと、トリエント公会議の公教要理で言っています。

 では、マリア様はご自分の事を何と表現したか知っていますか?大天使聖ガブリエルがマリア様にお告げをした時に、自分の事を何と仰ったでしょうか?英語では、"Handmaid" 主の婢女である事を言います。ところでラテン語では、「ancilla」という言葉を使って、"我は、主の「アンチラです」"、これは「奴隷」という言葉と翻訳する事ができます。でもギリシャ語では、マリア様が答えた言葉のギリシャ語も、奴隷という意味があります。カトリックの大聖人たちは皆、このマリア様に倣って、教会の教えに従って、「はい、私は主に属するもの、所有物であって、全く御身の御旨のままに使う事ができる道具です、」という事を、奴隷という言葉で表現してきました。

 考えてもみて下さい。イエズス王たるキリスト、その王たるキリストが、全世界を、その天主の救いの為に栄光の為に、霊魂の救いの為に、全世界に行って霊魂を、救霊の為に勝ち取る、その為に私たちは王たるキリストに従う、というものすごい魅力のあるテーマではないでしょうか。私たちは大きな声で、「キリストは勝利された!キリストはしろしめし給う!」と、「王たるキリスト!」と、歌うのではないのですか。男性にとっては、王たるキリストに従う、といのは、何という力ある魅力的なアイディア、理想であるという事でしょうか。その王たるキリストの御影とか、或いは御像とか、その王たるキリストを賛美する様なマーチの様なその歌とか、とても魅力的です。でも私たちの中で、本当にイエズス様が王である、という事を認め、それを受け入れる人は誰がいるでしょうか?

 皆さん、一日の生活の中で、イエズス様に王として、何か意見を、何かアドバイスを求める事がありますか?イエズス様が本当に私たちの王である、という事を確信していたならば、私たちはイエズス様がないような生活を送る事はできません。もしかしたら皆さんは、イエズス様が存在していないかのように、イエズス様は王ではないかのように、自分自身が実は王様であるかのように、自分のやりたい通りの事をやりたい、と言って一日を送っているのではないでしょうか?もしも皆さん、休暇をどのように過ごすかとか、一日をどのように過ごすかという時に、王であるキリストに何か、その思し召しを伺った事がありますか?

 もしも、皆さんがこの人生に於いて、ある決断をしなければならない、この決定をしなければならない、というような時に、私たちはイエズス様に、王として何かお伺いをたてますか?それとも、自分の思い通りにしますか?でも、イエズス様が私たちの主ではないのですか?王ではないのですか?イエズス様にアドバイスを受ける、という口実で、「あぁイエズス様、私は休暇であそこに行って遊びたいのですけれども、その為にはお金が必要で、その為にはいくらいくらのお金で、もちろんイエズス様はお金を下さいますよね?さあ、すぐに。」と。私たちは本当に、「主の御旨は一体どこにあるのですか?主の御旨のままになりますように。」と、本当にお祈りしているのでしょうか。もしも、そうやってお祈りしていないのならば、私たちはイエズス様を、私たちの王として認めていない事になります。イエズス様が王だ、というのはその祈祷書の中に、この紙きれの中に、或いはこのきれいな歌のみにあって、実際生活には全然それがのってきっていないのではないでしょうか。でも、もしも皆さんがイエズス様を、本当の王として、私たちがそのように行動しないならば、それは私たちが間違っている事になります。イエズス様の御旨を果たしていない事に、つまり天国の道を歩いていない事になります。

 私たちが、イエズス様の王という権限を、イエズス様の王であるというこの権威を、私たちが上手く簡単に受ける事ができるように、イエズス様は私たちにマリア様を送ってくださり、「マリア様は私たちの女王だ。」イエズス様は、私たちに女王である元后であるマリア様を送って下さるというのは、何と素晴らしい女王であるのでしょうか。何故かというと、王たるキリストの王権と言うのは、戦いの、悪との戦いの王国です。でもマリア様は、愛と、謙遜と、親切の女王です。ですから聖人たちはマリア様の事を、「私たちの心の女王、心の元后」と、言います。

 では、マリア様の女王権の一番大切な部分はどこでしょうか?皆さん恐れないで下さい。イエズス様の王国と、マリア様の王権というのは、互いにこういがみ合って、互いにこう領土を取り合う、という事はありません。イエズス様は王であり、私たちの最後の審判官であるので、イエズス様について恐れを抱く事も有りうるかもしれません。もちろんイエズス様は私たちを愛して、私たちに対する憐れみの深い、憐れみに満ちた方であると知っています。でも私たちはもちろん、イエズス様に全て服従して、イエズス様のお望み通りにしたい、という望みはあるのですけれども、私たちは非常にしばしば、弱く、それができない事があります。

 私(シュテーリン神父様)は毎日、毎晩、実は告白します。毎晩、御聖櫃の前で跪いて、「イエズス様、私は御身の司祭です。御説教の時に他の皆に言っている様な事を、私自身がしませんでした。あぁ、本当にあの時もあの時も、あたかも自分が王であるかのように、自分の思いをやってしまって、御身のアドバイスを聞きませんでした。毎日、毎日、同じ事の繰り返しです。」と、告白しています。

「私は御身の、あなたの司祭であって、あなたの望みの通りにしようとして、いつもやっているつもりですけれども、コロッとできなかったり、アッと忘れてしまったり、弱くてできません。できないという事がよくあります。」

 そんな時にイエズス様は、大きな微笑みを浮かべて、王であるイエズス様は、「女王であるマリア様をご覧。」と、指し示して下さいます。
「このマリア様を知っていますか?」「はい、イエズス様もちろん知っています。マリア様は私のお母様です。」

 もちろん、お母さんがどういう事か分かりますね?もうたくさん話しました。もちろんイエズス様は、私たちがイエズス様に対して、王であるイエズス様に対して、私たちがどのような態度を取らなければならないか、という事を教える為に、モーゼを遣わして、或いは大預言者を遣わして、「さあ!お前ら人間たちよ!王であるイエズス様にはこうしなさい!さあ愚か者!こうだ!さあさあ!」と、教える事もできます。ところが、その代わりにイエズス様は私たちに、どうやったら良いかを教える為に、マリア様を女王として下さいました。そうすると、マリア様を通すと、イエズス様の御旨に、イエズス様の下に全てを従わせる事が、どれほど簡単になる事でしょうか。何故かというと、マリア様は絶対私の事を怒りませんし、叱りません。

 もしも、もしも私がマリア様を愛しているならば、それよりももっと酷い事が起こりますね。何故かというと、愛するマリア様を、私たちは泣かせてしまうからです。私の父は、本当に忍耐強い男でした。私はこの父の全生涯の中で、子供の頃からずっと見ていましたけれども、その中で怒った事をほとんど見た事がありません、三回だけ、あります。私がその父を怒らせたのですけれども、その父がその父が怒った時に、真っ白になって私を怒りました。私を蹴飛ばしました。今でもその怒られた事を覚えています。私は、子供の頃は非常に悪ガキでした。ある日、私は覚えています、ある日ちょっと悪い事をして、母をちょっと心配をかけた時に、そしたら母は涙を流しました。母が料理をする時にスープをかき混ぜるしゃもじを持って私の後ろをパーン!と叩いてくれた方がまだ良かったのですけれども、その代わりに母は涙を流したのです。これには耐えられませんでした。ですから私は、「お母さん、泣かないで下さい、泣かないで下さい。何をしたら良いですか、教えて下さい、泣かないで下さい。」と、お願いしました。もしも皆さんも、マリア様を愛しているならば、マリア様が泣いているのを見て、そのもう見てもいられなくなります。

 明日、マリア様の元に一緒に行きます。明日マリア様の御像の前に行って、私たちが跪いてお祈りすると、突然、マリア様の目から涙が出たと思って下さい。マリア様に、「あなたの為に泣いていますよ。何故なら、あなたは私の言う事をきかないからです。泣いています。私の心に気に入ろう、と考えた事も無いのです。」この時皆さん、皆さんその涙を見ると、「あぁ、マリア様!この事を、こんな生活をいつまでも続ける事はできません。マリア様を泣かせる様な事はできません。」と、二度三度、考えます。皆さんはきっと、ポケットからハンカチを持って、「お母さん、マリア様、どうぞ泣かないで下さい。もうマリア様の思し召しのままにします。私の女王様となって下さい、私の元后となって下さい。もうマリア様の御望みの事をします。」と、言うに違いありません。

 このマリア様を元后として、私たちがその奴隷となるという事こそ、聖グリニョン・ド・モンフォールは、「まことの信心」と、呼んでいます。「聖母に対するまことの信心」は、私たちがマリア様の子供として、その奴隷として、どうしてあるべきか、という事を教えています。この聖母のまことの信心を、この一生涯をかけて学ばなければなりません。私たち自身を奴隷として、マリア様が女王となる事ができるように、全く全生涯、命を全てマリア様に委ね、奉献する事です。何故なら、この事をイエズス様が望んでいるからです。だから私たちも望みます。

 イエズス様御自身もこの地上にいる時に、全く同じ事をしました。イエズス様はこの地上にいる間、30年間、あたかも奴隷がその女王様に従っていたかのように、従っていました。イエズス様が従ったその程度というのは、この地上に於ける最高の奴隷が従ったよりも、更によく従っていました。イエズス様は、亡くなられる前にこう言います、「私は、お前たちに模範を示した。私がしたように、お前たちもせよ。」

 だから私たちも、マリア様の奴隷にならなければなりません。マリア様が女王であるという事、マリア様が母であるという事はつまり、保護であり、教育であり、愛です。マリア様が女王であるという事は、私たちに命令を下す、という事です。私たちの上に権威をもっている、という事です。女王様は国を守り、その為に戦います。ですから聖書の中にも、「整列を整えた恐るべき軍隊」と、描写されています。

 マリア様は全能だ、と教会は表現していますが、全能のお願いをする力を持っているからだ、と言います、「omnipotentia supplex」

 「もしも、私に全て属したいと思うのならば、」イエズス様は言います、「もしも、私に属したいのならば、マリア様の奴隷として、マリア様を女王として仕え、全てを捧げろ。」

 私は将来日本で、マリア様の黙想会を開きたいと思っています。その時には皆さん是非来て下さい。マリア様について24の話をします。フィリピンのダバオでは、5月の終わりに、このマリア様の黙想会をします。24の話の詰まった黙想会をしますが、出席者の予約でもう空席がありません。このマリア様の黙想会では、聖グリニョン・ド・モンフォールの「まことの信心」に従って、奴隷とは一体何なのか、という事を詳しく黙想します。

 このお話を終る前に、皆さんには確信を持ってもらいたいと思っています。「やはり、今日のお話を聞いてよく分かった。マリア様、御身は私の母であります。私の女王であります。私は御身の子供となりたい、奴隷となりたい、その事によってイエズス様に全く、イエズス様の王国の一員となりたい。」と、いう事に確信を持ってもらいたいと思っています。

 時間が来ました。

Veni Creator Spiritus 日本語訳 "創造主なる聖霊よ、来たり給え"

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る主日は聖霊降臨の主日です。VENI CREATOR SPIRITUS の日本語訳をご紹介します。

 4月には、グレゴリオ聖歌復興委員会(旧称「グレゴリオ聖歌に親しむ会」)の練習会に参加した方々とこれを練習しました。ラテン語、日本語訳、フランス語訳、スペイン語訳を付けました。(フランス語とスペイン語はWikipediaから引用しましたので、必ずしも正確であるとは限りません。) 日本語も文章の構造のために、意味はそうですが、行が対応していない部分もあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Veni Creator Spiritus

Veni Creator Spiritus,

創造主なる聖霊よ、来たり給え、

Viens, Esprit Créateur,

Ven Espíritu Creador;

Mentes tuorum visita,

御身の[信者らの]心を訪れ給え、

Visite la pensée de tes fidèles,

visita las almas de tus fieles.

Imple superna gratia,

上からの聖寵で満たし給え

Emplis de la grâce d'En-Haut

Llena de la divina gracia los corazones

Quae tu creasti, pectora.

御身が創造し給うた[彼らの]心を。

Les cœurs que tu as créés.

que Tú mismo has creado.

Qui diceris Paraclitus,

御身は慰め主、

Toi qu'on nomme le Consolateur,

Tú eres nuestro consuelo,

Altissimi donum Dei,

いと高き天主のたまもの、

Le don du Dieu très-Haut,

don de Dios altísimo,

Fons vivus, ignis, caritas,

活ける泉、火、愛、

La source vivante, le Feu, la Charité,

fuente viva, fuego, caridad

Et spiritalis unctio.

霊的注油、と言われてまします。

L'Onction spirituelle.

y espiritual unción.

Tu septiformis munere,

御身は、七つのたまものにより、

Tu es l'Esprit à la septuple forme,

Tú derramas sobre nosotros los siete dones;

Digitus Paternae dexterae,

聖父の右手の指、

Le doigt de la droite du Père,

Tú el dedo de la mano de Dios,

Tu rite promissum Patris,

聖父の由緒正しき御約束、

Tu es sa solennelle promesse,

Tú el prometido del Padre,

Sermone ditans guttura.

[御身の]言葉によって[私たちの]喉を豊かにする[お方]。

Enrichissant notre gorge par la parole.

pones en nuestros labios los tesoros de tu palabra.

Accende lumen sensibus,

五官に光をつけ給え、

Fais jaillir la lumière dans notre intelligence,

Enciende con tu luz nuestros sentidos,

Infunde amorem cordibus,

心に愛を注ぎ給え

Répands l'amour dans notre coeur,

infunde tu amor en nuestros corazones

Infirma nostri corporis

我らの体の弱さを

Soutiens la faiblesse de notre corps

y con tu perpetuo auxilio,

Virtute firmans perpeti.

とこしえの力で強め給いつつ。

Par ton éternelle vigueur !

fortalece nuestra frágil carne.

Hostem repellas longius,

敵を遠くに押しやり、且つ

Repousse au loin l'Ennemi,

Aleja de nosotros al enemigo,

Pacemque dones protinus;

素早く平和を与え給え。

Donne-nous la paix sans délai ;

danos pronto tu paz,

Ductore sic te praevio,

御身を前途の導き手として、

Que sous ta conduite qui nous ouvre la voie,

siendo Tú mismo nuestro guía

Vitemus omne noxium.

我らは全ての害悪を避けよう。

nous évitions toute nuisance.

evitaremos todo lo que es nocivo.

Per te sciamus da Patrem

御身によりて我らは聖父を知り、

Fais que par toi nous connaissions le Père

Por Ti conozcamos al Padre

Noscamus atque Filium;

且つ聖子を知り、

Et découvrions le Fils,

y también al Hijo y que en Ti,

Teque utrius que Spiritum

そして聖父と聖子からの御身を

Et qu'en toi, leur commun Esprit,

que eres el Espíritu de ambos,

Credamus omni tempore.

常に信じる[恵み]を与え給え。

Nous croyions en tout temps.

creamos en todo tiempo.

Deo Patri sit gloria,

聖父に栄光あれかし

Gloire soit à Dieu le Père,

Gloria a Dios Padre

Et Filio, qui a mortuis

死によみがえられ給いし聖子に

Au Fils ressuscité des morts,

y al Hijo que resucitó de entre los muertos,

Surrexit, ac Paraclito

そして慰め主なる聖霊に栄光が、

À l'Esprit Saint Consolateur,

y al Espíritu Consolador,

In saeculorum saecula.

代々とこしえにあれよかし。

Dans les siècles des siècles.

por los siglos de los siglos.

Amen.

アメン

Amen.

Amén.

 

【訃報】キンジェのベルナデッタさんの霊魂が天主様に召されました。お祈りをお願いいたします。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 たった今、連絡を受けたのですが、韓国のキンジェというところに住むベルナデッタさんが、お亡くなりになりました。彼女の霊魂の安息のためにお祈り下さい。R.I.P.

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

近況報告聖ピオ十世会マニラ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

聖ピオ十世会マニラの教会では、先週17名の男性が聖イグナチオの霊操による黙想会に参加しました。今週は16名の女性が霊操に参加しています(明日まで)。

黙想会の指導の途中ですが、同僚のヘラ神父様に黙想会を委ねて、葬式のために、韓国に来ています。全州に向けて移動中です。

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝致します。

トマス小野田圭志神父

近況報告聖ピオ十世会韓国

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

亡くなった姉妹ベルナデッタ文貞子さん(享年57歳)は、幼児洗礼を受け、まだ20代のころクララ会の修道会に入会したそうです。残念ながら新しいミサの新しい修道生活で、聖伝の修道生活ではなかったので、うまくいかなかったようです。

ベルナデッタは、必ず口で聖体拝領をしていました。

その後は、母と義理の姉との3人で教会(水流聖堂)で交代で、24時間の聖体礼拝をして20年過ごしたそうです。その後に、聖ピオ十世会の捧げている聖伝のミサに出会ったそうです。

聖ピオ十世会に出会う前は、手による聖体拝領を強制されて、何年も聖体拝領が出来なかったそうです。

聖ピオ十世会に出会い、聖伝のミサを愛していました。聖伝のミサを待ち焦がれ、御聖体拝領が楽しみでした。

亡くなる1週間前の金曜日にはレネー神父様のミサに与かり敬虔に御聖体拝領をしました。

その夜は、徹夜で聖体礼拝したそうです。

翌朝のレネー神父様の土曜のミサは、預かりましたが御聖体拝領は嘔吐の危険を感じ、できませんでした。そして、直後に、体の不調に苦しんでいました。病院には行かない、痛くない、大丈夫だと言っていたそうです。そして、木曜日の朝10時に息を引き取ったそうです。最後に口にしたのは、御聖体とルルドの聖水でした。

医者によると、死因となる病名は無いそうです。医者は、特に病気は無い、と家族に報告しました。

ベルナデッタ姉妹の一生は、祈りの一生だったと家族の方々が言っています。

亡くなる前に、全て苦しみを聖伝のために捧げると言っていたそうです。自分を愛のいけにえとしてイエズス様に捧げ、聖伝に多くの方々が来るように祈る、と言っていたとのことです。 自分の苦しみを聖伝の発展のために捧げる、自分が苦しみ、多くの兄弟姉妹が聖伝に来るように捧げる、と祈っていました。

ベルナデッタ姉妹は、聖伝のインマクラータの騎士でした。無原罪の聖母の騎士した。

今朝、予定通り、9時からミサがありました。

遺体が運ばれると、遺体を迎え入れる儀式をしました。それが終わると、ベルナデッタ姉妹のお祖父さんの兄弟の息子がカトリック司祭の、文キュウヒョン神父様(韓国では有名な司祭だそうです)も来られていました。お会いして自己紹介しました。聖ピオ十世会司祭である、これから聖伝のミサをすると申し上げると、そうして下さいと言われました。

最後に墓地を祝福し、埋葬式を行いました。全てを天主に感謝します。

明日はソウルで朝10時からミサを行います。

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りを感謝します。天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父@携帯メールから投稿

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話4「無原罪のマリア様の、私たちの救霊に於ける役割」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼でシュテーリン神父様がなさった霊的講話その4をご紹介いたします。ここで、シュテーリン神父様は、原点に戻って「インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」に戻って、天主の第二のペルソナであるイエズス・キリストは、ご自分の贖いの事業をいつもマリア様と共に行うことを望んでいること、また、聖霊は、マリア様を通して、霊魂を動かそうとしていることを説明します。私たちは、聖霊の息吹を全て受けなければならないこと、そのために、私たちはマリア様を通して聖霊に心を開かなければならないことを教えてくれます。

どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
同時通訳:小野田圭志神父様

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 聖霊来たり給え、信者の心に充ち給え、▲主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。
主よ、聖霊を遣わし給え、しかしてよろずの物は造られん。▲地の表は新たにならん。
祈願、聖霊の光をもって信者の心を照らし給いし天主、同じく聖霊を以ってわれらに正しき事を悟らしめ、その御慰めによりて常に喜ぶを得しめ給え。われらの主キリストによりて、願い奉る。▲アーメン。
めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、御体内の御子イエズスも祝せられたもう。▲天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。アーメン。
至聖なるイエズスの聖心▲われらを憐れみ給え。
聖マリアの汚れ無き御心▲われらのために祈り給え。
聖ヨゼフ▲われらのために祈り給え。
聖モニカ▲われらのために祈り給え。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 私たちの考察、つまり私たちの母であり、そして元后であり、女王であり、そして私たちの総指揮官であるマリア様について、もっとその考察を深める為には、最初の原点に戻らなければなりません。つまり、「おお、インマクラータよ、無原罪の御方よ、あなたは一体どなたですか」という問いです。

 インマクラータの、つまり無原罪のマリア様の、私たちの救霊に於ける役割をよく理解する為には、天主の第二のペルソナが、つまりイエズス・キリストが、いつもマリア様と共にその救霊の事業を行い、マリア様と共に在し、そして全てをマリア様と共に行う、という事を為し、それが御自分の意志であったという事を理解しなければなりません。

 イエズス様は、イエズス・キリストは、御自分の御母としてマリア様を選びました。そしてこの世に、マリア様を通して来る事を、御望みになりました。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「マリア様を通して、私たちを統治し、そしてマリア様を通して、私たちを指導して導きたい。と、願っている。」と、言います。単にイエズス・キリストの母、天主の御母、また私たちの母のみならず、それだけではなく、イエズス・キリストの助け手として、新しいエヴァとして、新しいアダムのすぐ隣にいる助け手としてのエヴァとして、新しいエヴァとして二人が共に、新しい贖われた人類を、つまり教会を、私たちを、産み出す事になるのです。

 天主御父は、この世を救う為に、贖う為に、御子を送りました。それは、贖いの業を達成する為です。この事を私たちは、御子の派遣、と言います。御子がこの世に送られた事です。これが天主様のジェスタ、天主様の行いで、天主様のなされた事です。つまり、無に等しい私たちを、「天主の子」という、ものすごい高みまで高める、御子を派遣する事により高める、というそのジェスタです、その行いです。この天主様の大事業、ジェスタは、聖マキシミリアノ・コルベによると、「インマクラータ、無原罪のマリア様を通してなされた。この事業が達成させられた。」と、言います。「Gesta Dei per Immaculatam.“天主の大事業は、無原罪のマリア様を通してなされた。”」

 でも、これで天主様のなさった事が終わったわけではありません、もっとあります。天主様は御子をこの世に送り、贖いの事業をしたのみならず、天主御父と御子と共に、聖霊をこの世に送り、第二の派遣が、第二の発出がありました。つまり、この事をよく理解出来ると、三位一体、聖父・聖子・聖霊その三つのペルソナが全て、この無に等しい、全く塵芥のような私たちの救霊の為に、全力をかけて私たちを救って下さろう、贖って下さろうとしている事が分かります。

 ですから、この事を知ると私たちは本当に、驚愕しなければ、ビックリして仰天驚いて、全くもう言葉を失うほどショックを受けるほどにならなければなりません。無限の全能の天主が、愛の大海原である、ものすごい無限の天主様が、全くの塵にすぎない、塵よりももっと汚い、小さな存在である私たちを、その高みまで上げて下さろう、敵であった、天主を侮辱して敵であった私たちを、天主の子供として下さるという事を、今一生懸命されている、という事を見て、これで驚かないでいる事ができるでしょうか。

 よく理解して下さい。天主御父が、愛する御一人子、第二のペルソナを、人としてこの世に送り、そして天主御子は人となって、私たちの贖いの為に生まれ、そして人として30年間、謙遜の生活をして、3年間、御足で聖地を歩き、福音を告げ、そして奇跡を行い、そして遂には十字架に於いて、血を流して命を全て捧げて、そして復活して、私たちの贖いをされた、それで十分ではないでしょうか?

 この答えは、イエズス様御自身が、昨日の聖福音の中で言っています、「私が父の元に行く事は良い事である。何故なら、私が行けば、父と私とはお前たちに、慰め主、パラクリトゥスとして、聖霊を送る事ができるからだ。」

 では、私たちの救いに於いて、聖霊の役割とは何でしょうか?私たちが、「聖霊来たり給え」と、「Veni Creator」と、お祈りをする時に、その中で、「Altissimi donum Dei」という一節が出ます。これは、「天主のいと高き、極めて高い、贈り物」と、いう意味です。聖パウロによれば、「天主の愛が、聖霊を通して、私たちに与えられた。その聖霊は、私たちに与えられている。」と、言います。

 私たちは、この聖パウロの言う、「天主の愛」と、いう事について、実はほんの少しも分かっていません。天主御父は御子を愛し、御子は天主御父を愛し、そしてその愛の交流が聖霊である。つまり聖三位一体のこの存在というのは、つまり愛の存在であって、天主は愛であって、その愛の他には何も存在していない、という事です。

 では今から、イエズス・キリスト様の役割と聖霊の役割が、どのように私たちの救いに関わってあるかを説明します。非常に大切です。そして皆さんまず第一に、この自分たちが、聖霊についての専門家であり、聖霊についてよく知っている、聖霊の事をカリスマを受けた、というカリスマ運動をやっている人達の主張している事が、どれほど邪悪であって、間違っていて、もう破滅的であるかという事を理解して下さい。

 そしてこのイエズス様と聖霊との役割、本当の役割を理解すると、プロテスタントが主張しているような何かカトリックに対する反論が、全く無効である事がよく分かります。

 イエズス様はこの地上に来られて、「私は、道であり、真理であり、命である。」と、宣言されました。イエズス様は、私たちに真理を教えて下さる方であって、そのイエズス様の教える真理とは、福音の真理であります。聖なる福音の、良い訪れの福音です。イエズス様が私たちに教える福音とは、イエズス様が私たちの為に苦しまれ、そして十字架の上で血を流され、そして贖い、そして復活され、罪から私たちを解放された、という事です。

 イエズス様は言います、「私は道である。」この道であるという事は、ここを通して行くものであり、イエズス様が私たちの指導者で導き手であり、そしてその先頭に立って行く王であり、私たちはその後を従う者である、そしてイエズス様は悪に対して戦い、そしてその目的地まで私たちを連れて行く、その道です。これがイエズス様の仕事です。イエズス様は、これを33年間この地上で行い、そして更には、教会を通してこの仕事を続けています。

 このイエズス様の命が、この世の終わりまで続く事ができるように、イエズス様はミサの聖なる生贄を制定され、そしてミサが行われる度に、イエズス様の生贄が再現させられます、又この私たちの前で現存します。そしてイエズス様は、御自分の聖心を常に開いておられ、そしてその聖心からは天主様の聖寵が流れて、これは、イエズス様の私たちに対する贈り物であって、これは七つの運河となり、七つの秘跡となって、私たちにお恵みを与えます。

 そして、イエズス様は、「私は命である。」と、言いますが、天主の命を私たちに上げそして与え、私たちを聖化する力を与えます。「munus sanctificationis.“聖化の権能”」これは、カトリック教会だけを通して、カトリック教会だけに与えられた権能です。

 イエズス様は全ての真理を教え、そしてそれを教会に委ねました。これを「信仰の遺産」と言います。そしてこの信仰の遺産を受けた教会は、“教える権能”を持っています。そして教会は更に、人々を天国に導く為に、人々を統治する、“統治の権能”も受けました。これが、イエズス様が使徒を通して、教会に与えた権威です。

 昔の教皇様の写真等をご覧になると、教皇様が三重の冠を冠っておられて、三つの冠が重なっているティアラというのですか、これは、教会の持つ三つの、三重の権能を表しています。

 そして皆さんが教会の中で、カトリック教会で、カトリック司祭に出会い、カトリック司祭を通してのみ、ミサを捧げる、という事はつまり、天地の仲介者であるイエズス・キリストと出会う、という事です。ですから、ミサに与る時に、「あ、神父様の髪の毛がちょっとおかしいなあ。」とか、「耳が何か大きい。」とかそういう、「他の神父様は鼻が大きい。」などと、そういう所に関心を持ってはいけません。この道具を通してイエズス・キリストを見なければなりません。

 またイエズス様は司祭に、非常に重大な、重い職務を与えたので、その事も考えなければなりません。もしも司祭が、イエズス様から与えられた職務を果たさなかったら、何かしない事があったら、それはイエズス様に対する裏切りであって、それなりの覚悟をしなければなりません。これがイエズス様の救いの業です。

 そして、イエズス様は、33年間なさって成し遂げられたこの御業を、ミサの33分の間に皆さんに与えようとしています。でもこれでは十分ではないのです。何故十分ではないかというと、見て下さい、全世界から全世界へカトリック司祭は派遣されて、そしてイエズス・キリストの御業を続けようと今、一生懸命働いています、ミサをしています。そして、イエズス・キリストの仕事が全世界に亘るように、日本にまで宣教として司祭が来ていますが、しかし、世の人々は何もそれに応えていません。ですから、この司祭のミッションを遂行する為に、そしてそれが成功する為には、もう一つ別のミッションが、もう一つ別の派遣が必要なのです。これが、聖霊のミッションの役割です。

 聖霊は世界に行って、人々の心の中に染み通り、そして罪に、罪の生活をしている人々の心に触れるのです。皆さんと私は、ある日突然目が覚めて、「あぁ、今こんな生活をして良いのだろうか。こんな、このような事をして一日を終わらせて良いのだろうか。これで本当に良いのだろうか。真理とは何なのか、イエズス・キリストとは何か、と思って、信仰を持ったのではないでしょうか。」これが、聖霊の働きです。

 では、例をとります。今から2000年前、ちょうど聖金曜日で、私たちは今皆カルワリオの丘に居て、私たちの周りは皆ユダヤ人で、そして過ぎこし祭を祝おうとしています。そして、ある時突然、この皆群衆が、私たちの周りにいた大群衆が、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、叫び出すではないですか。ですから私たちは、「あれ?何だろうこれは?」と言って、周りをキョロキョロと見ます。そしてこう周りを見ると、皆がこう騒いで、「十字架に付けろ!」と、言っているのは、向こうにいる一人の人を指して、「十字架に付けろ!!十字架に付けろ!!」と、言っているではないですか。それで、「あれ?誰だろうなあ?」と見ると、それはもう全身傷だらけで、顔だか、傷だか、どこが目だかよく分からないような、血だらけの、傷だらけの人が立っているではないですか。「あれ?何でだろう?」そこで、隣にいる人に、「あれ誰?誰?誰?」と、聞きます。すると、「バカお前知らないのか。あれはねえ、この世で一番悪い奴だよ!ほら、十字架に付けろ!と、言え、言え!さあさあ!さあ、一万円やるから、さあ騒げ!さあ叫べ!」すると、お金をもらって、「あ、あ、そう、じゃあ十字架に付けろー。十字架に付けろー。」と、叫び出します。

 その数時間後、私はその十字架につけろと叫んだその人が、十字架に本当につけられて亡くなるのを見ます。すると見て下さい。今まで本当に明るかった空は、真っ暗になるじゃないですか。人々は皆、恐れおののいています。すると皆恐れおののいて、家にこう帰って行きます。皆さんは、「えぇ、これは一体ちょっと…。」と言って、そこに留まっています。そして皆さんは、他の人が皆帰ってもまだそこに残って、十字架の方に、「ちょっと見てみよう。」と思って、見て行くと、その十字架の下には、そのお母さんが立っていて、そして弟子も立っています。そして、その十字架につけられたその隣には、二人の盗賊が、やっぱり十字架に付けられて、その内の一人が、「あなたが、天の王国に行った時、私を思い出して下さい。」という言葉を言うのを聞きます。そして皆さんは、その心の底から、その光景を見て、感動を受けて、「あぁ、そうだ、これだ。」そしてその心が揺れ動かされるのを思います。そして他の人々は皆家に帰っちゃうのですけれども、皆さんだけは、その感動を受けて、それを見て、「あぁ。」光を見ます、光を受けます。この光を与えたのは、感動させたのは、心に触れたのは、聖霊なのです。

 イエズス様の贖いの事業というのは、客観的なものです。事実です。起こったという事です。もう出来事なのです。それを皆が信じようが信じまいが、受け入れようが受け入れまいが、起こってしまった事なのです。つまり、イエズス様は真理を教えて、イエズス様は私たちの為に十字架に付けられて亡くなって、そして、そのまま厳然としてその事実が残っています。

 ところが、聖霊の役割というのは、私たちの心を動かす事です。この内面を動かす事です。主観的な役割があります。つまりどういう事かというと、私たちの心を開いて、開かせて、そして目を開かせて、イエズス・キリストのなさったその客観的な事実を受け入れさせて、そして心で、それに関心を持ってその方に向かって、それを理解して、それを受け入れる。そしてそのイエズス様の流された御血を、私の方に受ける、それを浴びる。それを私たちに内面的に動かしてくれるのが、聖霊の役割です。

 そして、イエズス様の贖いの客観的な事実の出来事を、2000年の後も世の終わりまで続けるのが、カトリックの司祭です。司祭が、その司祭の職務を果たしながら、イエズス様のなさった事業を客観的に続けていきます。

 ところが、心の内面から動かすミッションを続ける方がいます。聖霊の働きを2000年間、そして世の終わりまでずっと続ける道具があります。それが、聖霊の花嫁である、聖霊の淨配であるマリア様で、汚れ無きインマクラータです。

 ですから聖霊は、マリア様を存在のその最初の瞬間から選び、選択したのです。聖霊は、マリア様が天主の御母となり、そしてイエズス様の贖いの事業を、主観的に内面から続ける道具として使われる事である、という事をよく知っていたので、聖霊はマリア様を、罪の汚れの無いものとして、自分の花嫁として、汚れ無きインマクラータとして受胎させて、「無原罪の御孕り」を達成させたのです。大天使聖ガブリエルがマリア様に挨拶された時に、何と言ったか知っていますか?「聖寵に充ち満てる御方よ挨拶します、Ave! gratia plena」と言いました。

 聖寵に充ち満てる、gratia plenaというのはどういう事かというと、その聖寵の充満を、聖寵の全てを、完璧な全てを持って生まれて来たという事です。

 先程この話の最初に、天主の最高の賜物、と言います、天主から私たちに与えられた最高の贈り物、プレゼントであると言いましたが、つまり聖霊は私たちに、天主の愛の充満と、その命の充満を、贈り物として賜物として送って下さったのです。聖霊を送って下さったのです。そして聖霊はこの賜物、愛の充満の恵みの充満を、私たちの心に浸透させ、全てを与えようとしています。聖霊は私たちに、自分の全て持てるものを、全て充満を与えよう与えよう、とするのですけれども、実は全ての人が全てを受けるわけではなくて、ただその全てを受けた人が、ほんの一人しかいません。何故かというとその方は、聖霊からの贈り物を拒む事が一つも無く、心を全て開いて、聖霊の与えるものを、全て完全に受け入れた方であるからです。そして、そのような広い純粋な愛の心は、この世に一つしかありませんでした。この霊魂は、この巨大な無限の愛の全部を、全くためらう事なく拒否する事なく全てを受けよう、と望んだ方が一人、一瞬たりとも拒む事も無く受けた事が一人おります。

 あの私たちの場合には、聖霊が、(コンコンとノックをして)「あの、入ってもいいですか?」と言うと、(ドアから少し顔を出して断る仕草)。何故かというと、私たちは自分の事でいっぱいなので、聖霊に入ってもらうと困る、と思っているからです。私たちの心には天主様の場所がありません。自分の罪でいっぱいです。私たちは、天主の真理から現実から目をそらして、「シッシッ。」と、言います。ですから聖霊は、その中に入る為に一生懸命、「入れてくれないか、入れてくれないか」と、一生懸命です。私たちはちょっと開けても、あんまり入ってこないようにこう(ドアを開めようと)やっているんですけれども、聖霊は、入ろう、入ろう入ろう、としています。

 でもこの御方は、聖霊がノックすると、ドアをパァーッと開いて、「さあ、さあ来て下さい。全てを下さい。」と、開いて言った方がいます。この方が無原罪のマリア様です。ですから聖霊は、マリア様に全く一致してしまっているのです。ですから、教父は既にマリア様の事を、「聖霊の神殿」と、呼んでいます。また、「聖霊の淨配」とも呼んでいます。マリア様は聖霊と全く一致して、あたかも一であるか、一つであるかのようにもうなっているので、もうこの聖霊の神殿とか淨配とかいう言葉でも、それでも足りません。マリア様のお考えの一つも、言葉の一つも、行為の一つも、聖霊からの一致によって為されていないものは一つもありませんでした。ですから、マリア様の事は、聖霊が目に見えてこの世に現存している、その目に見える現存、と。もちろん、マリア様は天主様ではありません。もちろん、聖霊はマリア様とは別の御方です。しかし、マリア様と聖霊は余りにも一致してしまって、聖霊はマリア様の中に余りにも完璧に浸透してしまって、マリア様は御自分のものは全く一つもなかったので、あたかも聖霊がいるかのようでした。

 また別の、それと反対の極もあります。それは、悪魔に取り憑かれた人です。それはこの人は悪魔に憑依されていると、口を通して悪魔の言葉を話し、行為をして悪魔のやる事を行います。そして、悪魔はそのような人の中に浸透して、その人を占領してしまいます。そして、悪魔がそのような事をやるのとは、もっと別の、もっと良い素晴らしいやり方で、そしてマリア様はそれと全く同意して、聖霊はマリア様の中に完璧に染み透るのです。

 聖霊の役割というのが何か、というのは先程申しましたけれども、それは私たちの心に染み透って、そして心に影響を与えて、心に触ってそれに触れて、そしてそれを動かして、イエズス様のなさった客観的な贖いの業へと、それを連れて行く事です。ところで聖霊は、この霊魂に触れて、霊魂をイエズス様へと連れて行く、という事を、常に、いつも、必ず、マリア様を通してなさいます。それを通してなさらない事は、決してありません。

 三つの例を挙げます。1492年、アメリカ大陸は発見されました。そして、その直後すぐに、宣教師たちがアメリカ大陸に派遣されて、そこに住むインディオたちを回心させようと一生懸命働きました。1516年、エルナン・コルテスはメキシコを征服します。もちろん、エルナン・コルテスはたくさんの宣教師を連れて来て、そのメキシコに住む多くのインディアンたちを改宗させようと、一生懸命頑張りました。もちろん宣教師たちは心から働いて、一生懸命昼なく夜なく働きました。綺麗な教会を建てました。ナワトル語も勉強して、非常に難しい言葉で、勉強して、そしてミサを捧げ、生贄を捧げ、そして真理を語り、福音を宣教し、もうメキシコ全土に行って、一生懸命インディアンの為に働きました。しかし、その間16年の間、誰も、ほとんど回心する人はいませんでした。無に等しかったです。もちろん、たくさんの理由もあったかもしれません。私はその歴史家として、たくさんの理由を挙げる事ができます。でもその宣教師たちは、一生懸命働いているにも関わらず誰も回心しない、という事で、絶望の淵にいました。

 1531年12月9日、ホワンディエゴという、回心したほんの少数のうちの一人が、ある朝、教会に行こうとして歩いていました。その時にグァダルーペのマリア様が、朝ホワンディエゴにお現われになりました。そして第三回目の御出現の時には、ホワンディエゴの着ていたマントの上に、ご自分の姿を写しました。一年の間に、何百万というメキシコ人たちが回心しました。そしてその後、全メキシコが回心しました。そして20年後には、全アメリカ大陸が回心しました。

 聖霊はマリア様を通して働いて、そのマリア様を通して、メキシコ人たちの心に触れて、そしてメキシコ人たちがそれに全く動かされて、そしてカトリックになりたい、と思って洗礼を受けました。

 第二の例です。ラビの子供であり、フランス人の国籍のあるユダヤ人、アルフォンソ・ラティスボンというユダヤ人がいます。その兄弟はカトリックに回心して、司祭になりました。その兄弟であったアルフォンソ・ラティスボンは、それに驚きます。兄弟がカトリックになった、そしてカトリックに対して憎しみを持ちます。そしてアルフォンソはヨーロッパに旅行し、ローマに行って、綺麗な祭壇、教会や、綺麗な建築物を見ますけれども、何も興味を示しません。そして最後に、小さな教会に、薄暗い教会に行きます。するとその教会には、不思議のメダイのマリア様が描かれた絵がある教会に行って、光が射されました。そのマリア様を見て、アルフォンソは回心します。そして遂には司祭になって、そして罪人の回心の為の修道会を創ります。

 第三の例です。日本です。16世紀に、カトリックの信仰が日本に伝えられます。それから大きな迫害があって、何万もの殉教者が出ます。250年の間、司祭も無ければ、教会も無ければ、何も残りませんでした。教皇様は、日本にはもうカトリックが残っていないと思っていました。そして19世紀に、宣教師が長崎に教会を建てます。すると突然人々がやって来て、250年の間、人々は信仰を守り続けました。それは、ロザリオのおかげです。聖霊はマリア様を通して、250年の間信仰を保存し、守らせる事に成功しています。このような事は全く例外的で、他にはない話です。

 私はこのような例を、まだ一年間ずっとこの12月31日までずっと、毎日のようにずっと話し続ける事ができます。そしてそれを見ると、聖霊はマリア様を通して、そして必ずマリア様を通して私たちの心に触れて、イエズス様との親しい関係を作るように導いて下さる、と言う事がはっきりします。

 ですから皆さん、この皆さん、このハリウッドの映画とかね、ボリウッドの映画とかヤリウッドの映画とかを見ているよりは、聖霊が歴史を通して、事実的に歴史的な史実として、救霊の為に何をしたか、という事を知る事は非常に重要な事です。

 では10分休憩をしますので、どうぞ休んで下さい。また10分後にお話をします。


聖ピオ十世会 ボホル島での巡礼 SSPX Philippines Bohol Pilgrimage 2015

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会フィリピンでは、ボホル島で毎年巡礼を行っております。今年の巡礼の様子の動画が出来ましたので、ご紹介します。





天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話5 「ファチマでの最後のヴィジョン」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その5をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5

同時通訳:小野田圭志神父

 今、皆さんの手元にお配りしたのは、ファチマでの最後のヴィジョンの有名な絵です。





 今から皆さんにご説明しようと思っている事は、とても重要なことです。この絵を見ると、マリア様の果たす役割、私たちの救霊における役割というのが、どのように重要な事であるかが分かるからです。この絵をよくご覧になって下さい。


 1917年、マリア様はファチマで、3人の子供たちにお現われになりました。そして7月13日にはマリア様は、「この地上に、私の【汚れ無き御心に対する信心】を確立させる為にもう一度やって来る。そして、ロシアを私の汚れ無き御心に奉献する事を頼みに、もう一度やって来る。」と、言われました。1925年、そして1926年に、お言葉の通りマリア様は、もう一度シスタールチアに、その時シスタールチアは修練女でしたが、やって来ました。そしてその時に、【聖母の汚れ無き御心に対する信心】とは何か、そして、初土の信心について説明されました。

 そして1929年6月13日、夜の11時から12時の間に、トゥイという所で、マリア様はお現われになります。ここでマリア様は、ロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献する事をお願いします。ところで、このトゥイでの御出現で最もビックリする事は、ロシアの奉献についてとは関係ないように見える、三位一体のヴィジョンを見たからです。

 シスタールチアはこのように語っています。シスターは一人で、お御堂で夜中にお祈りしていましたが、突然、教会は明るくなりました。そしてこれは、超自然の光によって明るくなり、祭壇の上には光輝く十字架が、天井にまで届くような十字架が現れました。これが、このような感じで十字架が現れました。そして、その十字架の上には、更に光輝く人間が現れました。そしてこの人の胸のあたりには、光に輝くハトが見えました。そして十字架には、また別の人が、十字架に釘付けさせられていました。そして腰のあたりにはカリスが現れ、そしてカリスの上にはホスチアが宙に浮かび、そして胸からは御血が、そのカリスに流れ出ていました。そして、この胸からの御血はまずホスチアに流れ、そのホスチアからカリスに流れていました。そして、右側の手の下には、マリア様が、ご自分の手に汚れ無き御心をお持ちになりながら立っていました。

 シスタールチアが正確に言うには、「これはファチマのマリア様であって、手には汚れ無き御心を持っていた。その左の手で、御心を持っておられた。その御心には、剣もバラの花も無く、その代わりに茨の冠によって冠せられている御心が見えます。そしてこの御心には、愛の炎が燃えていたのですけれども、その左側には大きな文字で、クリスタルのようにきれいにハッキリと、水のような文字で、このような言葉が書かれていました。“恩寵、聖寵と憐れみ。お恵みと憐れみ”私はすぐに、至聖三位一体の玄義が、私に示されたのだと理解しました。」そしてその後に、マリア様が、ロシアを奉献する、という事をシスターは思い出します。

 天主様は、このファチマの秘密の最終の事を、このヴィジョンによって私たちに示そうとしている、という事を理解する事はとても大切です。ここに描かれている事は、このヴィジョンは、この巡礼の最初から私が説明しようとした事を、的確に表現しています。この絵について、何度も何度も頻繁に黙想して下さい。もしも黙想できない、という時には、ただ眺めているだけで結構です。

 上からまず御父を見て下さい。私は今から絵を説明します。全ては御父から来ます。ですから天主様御父は、始めであり、一番上にいます。手は両手を大きく広げています。父は、御父は手を広げて全てのものを与え、そして全てのものは父から来ます。父は、御父は御子をこの世に送ります。父はこの世をそれほども愛したので、御子を最後容赦せず、そして御子をこの世に送ったほど、この世を愛された。御父は私たちの命と、超自然の命の起源です。

 天主御父が御子をこの世に送りますが、その目的は贖いの業の達成です。これを見るとよく分かるように、十字架は全ての場所を占めています。この祭壇の所から天井まで、全て十字架です。何故かというと、十字架こそが、天主が私たちをどれほど愛しているか、という事を教える啓示であるからです。十字架のイエズス・キリストを通して、私たちに聖寵と、そして憐れみが与えられています。そして聖心から流れる全ての御血と全ての聖寵は、全て御聖体とカリスに収め、集められています。これが、御聖体の神秘です。

 皆さんが与る聖伝のミサでは、この玄義が、これが全て、本当に目の前に実現します。イエズス様の受けた御傷を、十字架に付けられたイエズス様を、黙想して黙想して、し尽くす事ができません。イエズス様の開かれた聖心。イエズス様は今どこをご覧になっているのでしょうか?イエズス様は、マリア様の方をご覧になっています。またカリスもご覧になっています。

 聖グリニョン・ド・モンフォールによれば、「イエズス様の救霊の、贖いの業の継続と言うのは、一つは十字架の像、十字架像、もう一つはロザリオ、この二つにある。」と、言います。




 聖ヨハネ・ボスコのビジョンによれば、「教会は将来、大きな困難を二つの柱によって救われるだろう。一つは大きな柱であって、その上には御聖体が、もう一つは小さな柱で、その上にはマリア様が。」




 御父と御子の間には、ハトの姿が見えますが、これは光のハトで、これは聖霊を表しています。これが聖霊の第二のミッション、第二の派遣の事です。そしてこの聖霊、この絵では上手く描かれてませんけれども、聖霊は光をこう照らして、この御子の十字架の贖いの業を照らし出しています。聖霊の働き、ミッションというのは、この御子の贖いの業を照らし出して、そして全ての人がそれを見る事ができ、理解する事ができ、受け入れる事ができるように助ける事です。そしてこれが、この聖霊のミッションによって、天主が光であり、恵みであり、力である、という事をこのように照らし出します。ここに天主様の事業、大事業“gesta Dei”が表われています。

 「天主よ、御身は私の為に、何を、どのような、どれほどの事をされたのでしょうか。」「私は、お前に全て、私の持てるものを全て与えた。私はお前に、我が御子を上げた。そして聖霊も与えた。」そして、イエズス様は言葉を続けます、「私は、私自身、私がそれである全てを与え、私の持てるもの全て与えた。私の全生涯と、私の全ての血を、お前に与えた。血をほんの少しではなく、私の体を流れる全血潮を、お前の救いの為に捧げ尽くした。そして私はお前の為に、お前と世の終わりまで留まる事ができるように、一緒に居る事ができるような、聖体の秘跡、という秘跡をも作り出した。そしてそれによって私はお前と共に、直接に、本当に、現実に、肉体的に、お前と共にいる。」

 では、この贖いの業の全ては、私たちの所にどのように到達するのでしょうか?私たちの代表はシスタールチアで、このちょっと真っ黒で見えないのですが、下の、台の下の方に跪いているのが、私たちです。私たちと三位一体との間には何があるのでしょうか?マリア様です。ルチアとそして三位一体の間には、マリア様がいます。つまり天主の大事業“gesta Dei”は、マリア様を通して“per Immaculatam”、という事です。

 天主様の御自分を与えるこの大事業は、全て一つの所に集められています。それが『マリア様の汚れ無き御心』です。ですから、今からこの汚れ無き御心について見てみましょう。

 このマリア様の御心の光を見ると、それは聖霊の光と全く同じであります。聖霊はマリア様の汚れ無き御心を染み透り、そしてそのマリア様の汚れ無き御心を照らし出しています。マリア様の汚れ無き御心には、天主様の愛が全体が、私たちに対する天主様の愛の全体が、留まっています、充満しています。この御心、心臓というのは何でしょうか?御心とか心臓というのは、目に見えるマリア様の内的な全存在の象徴です。このマリア様の御心は、聖霊に満たされたマリア様の霊魂の表現です。このマリア様の御心は、天主の知恵に満たされた、マリア様の知性の表現です。また第三にマリア様の御心は、愛に満たされた、マリア様の意志の、目に見える表現です。ちょうど第二のエヴァとして、第二のアダムの足下に、一人で立っておられた、その事がこの絵には非常に上手く表れています。新しいアダムと新しいエヴァは、本当に近く親しく、近しく二人隣り合っています。そしてこの二人は、二人で、新しい贖われた人類を産み出すのです。

 伝統的によれば、マリア様の御心は、バラの花とか、或いは剣で貫かれていて、というような形で描かれるのですけれども、このファチマのマリア様では、別の描かれ方をしています。伝統的にはマリア様の御心は、その祭服にあるように、バラの花とか剣が描かれています。でもここでは、イエズス様と同じ様な、茨の冠を冠せられています。このような御心は、普通はイエズス様の御心を表す為に使われています。

 では、これは一体何を意味しているのでしょうか?これは何を意味するかというと、イエズス様の受けた全ての苦しみ、受難、ご苦難、そのイエズス様の御心の受けた全て、その御苦しみは、全くマリア様の受けた苦しみと同じである、という事です。これは、マリア様が『共贖者』である、という事を表しています。イエズス様は、物理的に目に見える、肉体的な茨の冠を冠せられましたが、マリア様は心に於いて、その冠を冠せられました。イエズス様が御身体によって受けた全ての苦しみと全く同じものを、マリア様は御心で感じ取っていました。

 また、特別的な例外的なポイントは、マリア様はご自分の御心を自分の手で持っております。何故かというと、マリア様はこの心を、私たちに与えようと思っているからです。何故かというとマリア様は、私たちに子供として、ご自分は母として、私たちに持てる全てを与えよう、と手に持っているからです。

 よく見て下さい。この御心は子供に対する愛に燃え盛っています。そしてこのカルワリオに於いては、マリア様はその何千何万という陣痛の苦しみを通して、私たちを超自然の命に産み出したからです。そしてマリア様は、今までなかったほど、更に私たちにご自分の御心を与えよう、と思っています。この御心には、マリア様の汚れ無き御心には、天主様がマリア様に与えた全てが詰まっています。例え皆さんが何も持てるものがなかったとしても、この御心があれば全てがあります。例え、この世の事業で全てを持っていたとしても、このマリア様の汚れ無き御心を持ってなければ、何も持ってません。そしてこのマリア様は、この汚れ無き御心を持ちつつ、私たちに与えようとして、この私たちの世界に触れています。

 マリア様を通して、天主様がマリア様に与えた全てのものを、私たちは得る事ができます。マリア様を通して、天主の巨大な愛を受ける事ができます。マリア様を通して、道、真理、命、すなわちイエズス・キリストを受ける事ができます。マリア様を通して、回心と聖化のお恵みを受ける事ができます。マリア様の御心こそが、全ての、全く全てのお恵みの中継者であり仲介者である、という事のシンボルです。このやり方によってマリア様は完璧に、私たちの母であり、元后であり、女王である、という事が分かります。そしてマリア様は更に、全てのあまねく聖寵の仲介者であります。これをよく見ると、方向性があって、三位一体からマリア様を通してルチアに、そしてルチアつまり私たちにへと、伝えられています。

 ではルチアから、三位一体への方向性はどうでしょうか?最初は天主様が行為します。そうしなければ誰も救われる事はできません。もしも、天主様からの働きかけがこうあるならば、私たちからの応えがなければなりません。コルベ神父様によれば、「天主様からの何か働きがあれば、それに対する反応がなければなりません。」天主は与え、私たちはそれにお礼をします、与え、そのお返しがあります。天主は、天からこの地に、私に御恵みを下さったので、そのお恵みと共に、私はそれを天にまた返します。天主様が私たちに与えたその手段を通して、私たちも天主へと返して行かなければなりません。マリア様を通して私たちの方にやって来ました。贖いの大事業は、マリア様を通して与えられました。聖霊が私たちの心に導かれたのは、マリア様を通してです。ですから、天主の元に行くのは、マリア様を通してです。“Per Mariam ad Deum.”マリア様を通して、イエズスに行かなければなりません。

 6月13日マリア様は何と仰ったでしょうか?マリア様はこう仰いました、「私の汚れ無き御心は、あなたの避難所となるでしょう。そして、天にあなたを導く道となるでしょう。」

 このような天主の巨大な愛の表われを、私たちが目前とした時に、何をするべきでしょうか?マリア様は、この世を私たちの方を見ています。一つの左の手では、私たちにご自分の御心を与えようと持っていますが、右の手では、私たちにロザリオを与えようと持っています。そして手を、私たちの方に右手を差し伸べています。ですからこれは、私たちがそのマリア様の手を、差し伸べられた手を掴んで、そしてマリア様に自分を与えるしかありません。私たちは、ですから応えなければなりません。この応えとは、つまり一つです、「はい、マリア様。私は、あなたの子供でありたい。私は、あなたの奴隷でありたい。」と、応える事です。

 これは、「マリア様に対する奉献」と、名前が付けられています。奉献というのは実は、その一番大切な要素というのは、この皆さんの本に書かれて印刷されているお祈りの、その文字の羅列ではありません。この奉献の祈りは、奉献とは何か、奉献の心構えはどういう事か、という事を上手く表現されていて、この上手い言い方で私たちの心を確かに表しています。しかし、奉献の最も大切な要素としてその中核をなすものは、私たちの意志です、意志の行為です。言ってみるならそれは、私が結ぶ契約の、私がサインに印鑑を押したその契約の行為です。ちょうど、マキシミリアノ・コルベによれば、「小切手を切った時に、この金額を書かずにサインをして、さあ、あなたが金額を書いて下さい。」

 そしてこの契約というのは、金輪際、全ての瞬間、全くあなたのものであって、あなたに依存して、あなたの所有物としてであり、そしてもうあなたの子供ではないような瞬間、奴隷ではないような瞬間はない、という事を宣言するのです。ですからファチマでは、マリア様の汚れ無き御心に対する奉献がどれほど重要であるか、という事を仰るのです。ロシアの奉献、或いは世界の奉献、或いは私たち個人個人がマリア様に対してする奉献についてです。

 第一の応えは、私たちがマリア様に手を挙げて奉献する事ですが、第二の応えとしては、回心です。子供を見て下さい、お母さんは手を持って、もう迷子にならないように、ずっと持っています。そしてその所では、子供はお母さんの手を持ったまま、こうキョロキョロしていると、お友達が周りにいるじゃないですか。友達が、「おい、何とかちゃん!遊ぼ遊ぼ!あっちに行こ!おもしろいゲームがあるよ!行こ行こ!」

 マリア様の手を持っていない、お母さんの手を持っていない時にはそのまま、「おお!行こう!」と言って、行っちゃったんですけれども、そしてそのお友達と遊んでいる間に、転んで傷を付けて、倒れて、怪我だらけになりました。しかし今では、お母さんの手を持っていますから、奉献されていますから、ですからマリア様は私の手を持っています。友達がいます。「お母さん、友達、お母さん」(子供は友達の方に行こうとするけれども、お母さんが手を持っているので動けない)ですから、ここで回心があります。この回心というのは、ちょうどベルトコンベアのように、このコンベルテというのがあって、日本語でもこの回は回転の回を使いますけれども、この被造物から天主様へと、変化が、向きの変化があります。子供は、「お~い、こっちで遊ぼうぜ~!おもしろいよ~おかしいよ~!お~い!来~い!」と、言いますけれども、マリア様はこの子供の手をグッと持って、回心があります。これをマリア様が私たちにしてくれます。

 マリア様は、こっちを見てなさい、という時には、子供をこっちこっちこっちと向けるので、子供は「(泣きながら)うぅ~、お母さんお母さんお母さん。」と、正しい方向に向けて下さいます。聖母は最高のお母さんですので、私たちがやるような方法ではなく、優しく、優しく、私たちの向きを変えて下さいます。

 私は、実はアフリカで宣教師として長年働いていました。そして、復活祭の時にはたくさんの洗礼式があって、私はその時の復活祭の時には56名洗礼を授けました。56名の成人の大人の洗礼式です。長い長いセレモニーがあります。1時間30分1人につきかかります。それについてのおもしろい話が実はあるのですけれども、あまりにも長いので言う事ができないのです。そしてアフリカでは、「ちゃんと行儀正しくしなければならない。」と、教えられなければなりません。もう56名洗礼式をしなければならないので、25名くらい洗礼式をすると、もう疲れてきてしまって、「ちゃんとやって下さい。」と、言うのもめんどくさくなります。その時に来たのが、30歳くらいになる非常にこの繊細な女性の方が、洗礼式にやって来ました。そしてその洗礼式、洗礼を受ける、という事に非常に感動してその彼女は、洗礼の洗礼台がこうやってやって来ました。こうやって感動してやって来ました。

 彼女はオロオロして、どうやっていいか分かりませんでした。私はもう何十名も洗礼式をしてとても疲れていました。だから「ちょっとこうやって下さい。ちょっと倒して下さい。」と、それで、私は何も考えずに、「こうやって下さい。」と言って、こう女性の頭をグイッと掴んで、その顔をグッと向けて、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて…」と、水を注ぎました。すると、ちょうど私の修道院長がやって来て、私がやっている事を見ました、「お前、戦争でもやってるのか。司祭として、司祭のように行動して下さい。ドイツ兵のようにやってはいけません。」

 洗礼が終わって、この受洗者を見ると、涙を流して泣いていました。マリア様が私たちの顔を掴んで、回心させる時には、もっと優しくして下さいますので、心配しないで下さい。

 この「回心」というのは、ファチマのメッセージで非常に大切な言葉のキーワードです。

 第三の役割は、私たちをして償いを果たさせる事です。私たちがマリア様の手を持って、そして回心すればするほど、私たちはますますマリア様の中に入っていきます。そして、マリア様の中に入れば入るほど、天主様の愛に満たされます。そして、その愛に満たされた私たちは、「あぁ、このイエズス様をお慰めしたい。」と、いう愛の行為に促されます。そして、「私たちの為に、それほどの涙を流されたマリア様を慰めたい。」と、思います。ここで、私たちは秋田に居ます。

 時間が来ましたので、また10分休憩を取ります。また戻って来て下さい、戻らない人もいます。笑

2015年聖ピオ十世会の秋田巡礼 SSPX Japan Akita Pilgrimage のアンケートの集計の結果

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年聖ピオ十世会の秋田巡礼のアンケートの集計の結果が出来ました。





 来年の巡礼がよりよく行われるために参考にいたします。アンケートにお答えになって下さった巡礼者の方々に心から感謝します。

 この集計の仕事をなさって下さった方にも深い感謝を申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話6「無原罪のマリア様と、隣人愛の本当の意味」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

  2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その6をご紹介します。シュテーリン神父様は、この日の午前中に3回に分けて聖母マリア様が私たちの救いに対するやくわりを語って下さいました。

  疲れたような顔をしている私たちをご覧になってか(?)、ご自分の講話(lecture)のことを拷問(torture)だと言って私たちを笑わせてから、お始めになりました。

  今回は本当の隣人愛とはということについてお話し下さいます。ごゆっくりお読み下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 
2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6

 同時通訳:小野田圭志神父

 それでは、3回目の拷問(講話)を始めます(^^
私が黙想会をすれば、普通は5回か6回の拷問があります。今回は3回だけで済んでいます(^^

  今まで説明した事を、また別の言葉で言い換えてみます。イエズス様は私たちに、新しい、良き、偉大な掟を与えて下さいました。その偉大な掟とは、『天主を、お前たちの心を尽くして、力を尽くして、精神を尽くして愛せ。そして隣人を我が身の如く愛せ。』これです。イエズス・キリストの私に対する、ものすごい巨大な愛に対する応えとして、イエズス様が私たちからの期待している応えとはこれです。『力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くして主なる天主を愛し、隣人を我が身の如く愛せよ。』これです。

  今までかつて、この地上で最も賢い賢者と言われる人であっても、天主の私たち人類に対するそれほどの巨大な愛を、想像さえする事ができませんでした。しかし天主は、その巨大なものすごい愛は、はかり知れないほどの愛は、私たちに御子を自ら与え、そしてその御子は私たちの為に、その最後の一滴まで血潮を流し、そして命を与えた。これでした。そして、「御父、御子よ、あなたは私に、天主の愛そのものである聖霊を、私に、私の為に与えて下さいました。そしてこの三位一体は私たちに、最も愛する母親であり、更に愛する母親であるマリア様を私に下さいました。」

 そのような現実、そのような事実を前にして、皆さんの応えは何でしょうか?皆さんの応えは、「はい、私は御身を愛します。愛に愛を以って返します。」これでなければなりません。「私は御身を賛美したい。そしてもうこれ以上罪を犯して、御身を汚す事、犯す事がないように望みます。私は、そのようなはかり知れない愛に対して、無関心や、或いは冷淡で応えようなどと思ってもいません。そのような贈り物を頂きながら、私が今までやったように、御身を犯したり、御身に対して反抗したりするような事はしたいと思いません。」
もしも皆さんがそう思うならば、私たちにはマリア様が必要です。もしもマリア様がなかったとしたら、マリア様が助けて下さらなかったとしたら、今まであったと同じ様に、全く悲惨な応えとなった事でしょう。

 マリア様が私たちを助けて下さるからこそ、私たちを導いて教えて下さいます。母として私の手を取って、天主へと導いて下さいます。マリア様は私たちを天主へと導く為に、罪と悪から解放して下さいます。ですから、その事ができる為にも、どうしてもマリア様に私たち自身を、子供として、奴隷として、奉献しなければなりません。何故かというと、マリア様だけが一人で、蛇の頭を踏み砕いたからです。もしもマリア様がいなければ、霊的に悪魔は私たちを、簡単に殺してしまう事ができます。

 私たちは皆、誘惑とは一体何かよく知っています、罪とは何かよく知っています。マリア様は私たちを決して一人ぼっちにさせません。例え私たちが倒れたとしても、マリア様に付いてマリア様に助けを求めれば、すぐにマリア様は助けに来て下さるからです。そしてすぐに引き起こして、私たちを保護して下さるからです。

 しかし私たちにはそれだけでは足りません、私たちには更に必要です。何故かというと、私たちの人生というのは、ただ単にこの天主に対して向かっていれば、天主に対するだけ、ではないからです。何故かというと天主様は、私たちに第二の掟も与えて下さいました。天主様に私たち自身が、私が立ち戻る回心する以外の、別の任務を受けています。私たちが、私が、天主様に戻るという事だけを祈るのでは不十分だと言います。私たちが、マリア様とイエズス様に信心を持つだけでは足りないと言います。私が全ての信心をしている、というだけでは足りません。私がミサを通して、主の全てのお恵みと、憐れみを受けるだけを望んでいるのではありません。更に何を望んでおられるのでしょうか?「主よ、主よ、と、口先だけで私を呼ぶ者ではなく、天主御父の御旨を果たす者が、本当に私を愛するのだ。」と、言います。では、御父の御旨とは一体何でしょうか?

 隣人を愛する、という事です。我が身の如く、隣人を愛する事です。これは何を意味するのでしょうか?皆さんには人生に於いて、果たさなければならない使命とか、任務があります。私たちのまず果たさなければならない任務は、天主との関係です。それからその次に、天主は私たちが、その周囲の隣人に対して注意を払う事を望んでいます。

 皆さんは家族の中にお生まれになりました。お父さんとお母さんがいらっしゃいます。そして、その他の方と一緒に生活していらっしゃいます。天主様はそれを望んでいるのです。天主様が私たちに与えた仕事とは、隣人に善を為すという事です。ですからこそ、皆さんはこのような国に、皆さんのそのような状況で、今のこの時代に、生まれて来たのです。

 その隣人を愛する為に、皆さんは特別の、何がしかの特別なタレントを、特別なその能力を持って生まれて来ました。皆さんが持っている特別な能力というのは、天主様から受けた贈り物です。中には、外国語とか、他の国の言葉を勉強する事ができない人もいます。でもみなさんの中には20の言葉を話す人もいるじゃないですか。でも何の為に?

 天主様の為に、そのような能力を受けています。皆さんが受けた、天主様から頂いたすごい素晴らしい能力は、天主様の為にあります。ところで、20の言葉を、天主様を賛美し、そして感謝する為に別の言語で言う必要はありません。ロザリオを唱えるのに、コンピューターの天才である必要はありません。そして天主様を賛美して、「ハレルヤ!」と歌う為に、その星座の一つ一つの名前を覚えて、その構造とかその神秘を知っている必要はありません。でも皆さんは、そのような知識とかそのような能力とか、そのような特別な天才的なものを持っていますが、一体何の為に与えられたのでしょうか?

 天主様の御摂理によれば、たまたまとか偶然とかそういうものはありません。もちろん皆さんは、それを以って天主様を賛美する為に、与えられたのですけれども、その他にも、隣人を愛する、という掟を達成させる為にも、そのような特別の才能が与えられています。

 私は、皆さんの人生に於いて、天主が何を求めているかを言います。まず、この天主が望んでいる全ての事を成し遂げて下さい。そして突然、マリア様が皆さんの前に立って、マリア様こそ全て私たちの恩人として、全ての恩を受けたその恩人である、母であるマリア様が立っています。マリア様はお話をします、「我が子よ、お願いがあります。私を助けて下さい。」「え!?」「我が子よ、私を助けてくれる事ができますか?」「マリア様、私こそがあなたの助けを必要とするのであって、あなたは私にどんな助けがありますか?私は本当にもう役立たずで、どんな事をする事ができるでしょうか?御身一人でサタンの頭を踏み砕く方はないですか。もしも私が、何かあなたの近くにいたら、邪魔をするだけです。私はいつもあなたの子供です、と言いながらも、その手を引っ張って、他の方に行こうとしています。私は本当にもう迷惑ばっかりかけたもういたずらっ子で、何ができるでしょうか?それでもあなたは私に、何か助けて下さいと言うのですか?」

 でも天主様は、皆さんがマリア様を助ける事を望んでいます。これこそが、天主が皆さんに望む仕事です。マリア様を助ける、という事です。

 皆さんは、天主様の定めた、永遠の決して変わる事のない法則というものを知らなければなりません。天主様の定めた法則とは、天主がこの被造の世界で働く時に、決して御一人では働かずに、必ず道具を使うという規則があります。

 天主様というのは、全く天才的な画家、絵を描く方のようです。そして、素晴らしい芸術作品を描き出します。もしも皆さんが、「おお天主様、素晴らしい芸術作品をここで描き出して下さい。」と言うとします。

 すると天主様は、「じゃあ、筆と絵の具を下さい。」皆さんは、「それじゃあ、あなたは天才ですから、素手で描いて下さい。」と、言う事ができるかもしれません。でも、レンブランドとか、レオナルド・ダヴィンチとか、世界中の歴史的な芸術家であれば、「あなたはきっとちょっと頭がおかしいんじゃない?」道具が必要です。ペンが、筆が必要です。それがなければいくら才能のある天才的な画家でも何も描けません。

 確かに天主は、アダムとエヴァを直接創りました。誰にも助けられずに創りました。しかしその以後は、天主のお望みは、道具を通して、子供が生まれるという事です。もちろん天主様は、皆さんと私を創造されました、造り出されましたけれども、両親を通して、私たちを産み出しました。イエズス・キリスト様は、十字架の上で御自分を捧げて、私たちを救って下さいました。しかし、この世の終わりまで、イエズス様はその自分のお恵みと功徳を、司祭を通してのみ与えようとしています。ですから司祭が大切なのです。何故かというと、道具が無ければ絵を描く事もできないからです。司祭が無ければ、ミサも無ければ、お恵みも無いからです。「主よ、われらに聖なる多くの司祭を与え給え。」

 それと同じ事が隣人愛にも言う事ができます。皆さんは、天主の御手に於ける道具とならなければなりません。善をなす道具とならなければなりません。それは隣人が幸せである事ができるように、私の何かの奉献をしなければなりません。ではどうしたら幸せにしてあげる事ができるでしょうか?この地上ではそれができません。ですから、「幸せでありますように。」と、言いますけれども、ポーランドでは非常に有名な、「幸せでありますように。」という表現があります。

 ところで、この「幸せでありますように。」とは一体どういう意味でしょうか?幸せという事は、お金を貰う事かなあ?お金を稼ぐことかなあ?富と健康とこの世の快楽、これは本当の幸せではありません。本当の幸せというのは、ずっといつまでも続くものです。健康はこの世で終わってしまいますし、お金もすぐなくなってしまいます。家も貯金通帳もそうです。ですから本当の幸せとは、永遠の価値でなければなりません。これこそが、皆さんを永遠に永久に幸せにするものです。本当の幸せとは、永遠の幸せであって、天国の幸せです。

 これが第二の、つまり、隣人の霊魂を救う、という事が命じられています。つまり私たちの隣人が、最も素晴らしい贈り物を得て、つまり、最高の本当の幸せを得て、永遠に幸せであって、永遠に天主の命を生きる、救霊を全うする、という事の為に、働かなければなりません。

 皆さんの知っているように、二つしか道がありません。天国か地獄です。ですから第二の掟は、人々を天国に連れて行きなさい、という事です。これが隣人愛です。ところでイエズス様はこの第二の掟に、もっと正確に掟を設定します、『お前たちは互いに愛し合いなさい。“私がお前たちを愛したように、愛し合いなさい。” 』

 イエズス様は、私たち一人一人の為に、御自身の命さえも与えてしまいました。イエズス様は私たちの霊魂を救う為に、全て命を、御血を流して捧げました。もしも私たちが、イエズス様が愛したと同じように隣人を愛するのならば、隣人の救霊の為に、愛に燃えなければなりません。第一に隣人の救霊を求めて、求めて求め尽くさなければなりません

 この今日の午後、またマリア様の元に行って膝をかがめます。この霊的に心の中で、マリア様が涙を流されるのを考えます。そしてマリア様は私たちの心の中に、こう語りかける事でしょう、「私が今泣いているのは、涙を流しているのは、私の子らが皆、地獄に突き進んでいるからです。私が今涙を流しているのは、彼らが今滅亡の道を辿っているからです。」

 しおりの7ページと8ページを見て下さい、マリア様のメッセージが書かれています。マリア様は恐れおののいています。人々が天主を全く忘れて打ち捨てて、そして地獄へと突き進んで走って、滅亡へとなだれ込んでいるからです。マリア様は、このような人々を彼らを愛しています。何故ならば、彼らの母でもあるからです。マリア様が十字架の下に佇んだ時に、この悪人、罪人、そしてフリーメイソン、そして全ての人々の母となりました。そして、イエズス様が愛すると同じ様に、マリア様も彼らを愛しています。

 しかも、マリア様はただ御像で涙を流すのみならず、その彼らを回心させる事のできる全てのお恵みを手に持って、そして待っているのです。そして、「よく聞いて下さい。お願いだから助けてください。私には道具が必要です。私は画家です、絵を描く事ができます。私は多くの霊魂を回心させる事を望んでいます。彼らの為に、ものすごい御恵みが私の汚れ無き御心の中に蓄えられています。誰かがそれを使って、それを届けなければなりません。誰か、この私の御心から彼らの心まで届ける、導管とならなければなりません。そのような導く導管となるあなたが必要です。もちろん、あなたがもうどうしようもない罪人であるという事は知っています。あなたよりも私の方が、あなたがどれほど下らない罪人か知っています。でも、私があなたを必要としている、と言った時に、自分の意味している事が何か知っています。もしも私の元にやって来て、私を助けてくれるならば、隣人愛の掟を果たす事ができます。私の汚れ無き御心の道具となればなるほど、良き道具となればなるほど、隣人愛をより良く果たす事ができます。そうすれば私はあなたを、天国に行く為により良く助ける事ができます。」

 そしてマリア様はこの事を、この神秘を、マキシミリアノ・コルベ神父様に教えてくれました。コルベ神父様は、汚れ無き聖母の騎士となる事はつまり、マリア様の道具なって、このマリア様を助ける、という事であるという事を深く理解しました。このコルベ神父様が理解した、このマリア様の道具となる、という事については、今日、そして明日話します。そしてそれは水曜日の朝、マリア様の良き道具となって、隣人愛を果たす事ができるように準備する為です。ですから今、二つの事だけ考察してみます。

 天主様はこの事を定めました、これは天主様の御旨で、それを望んでいます。私たちの隣人が救われるか救われないかは、私たちがそれに同意するかしないかに懸っている、という事です。私たちの隣人が救われる為に、天主様は私たちに才能を与えます。この隣人が救われる為に、私たちは昔ではなく、未来ではなく、今この時、この状況で、この国に、こうやって生まれています。そしてこの隣人たちを救う為に、敢えて御摂理によって、皆さんをそこの家族で、そこの場所で、そこの状況で生活する事を定めました。

 そして天主様は言います、「あなたは自分の霊魂の救いを望みますか?私を愛しなさい。私の御旨を果たしなさい。そして彼らを愛しなさい。彼らの救霊の為に何かをしなさい。彼らの永遠の事を考えなさい。もしも、かれらの救霊の事を考えないならば、彼らを愛してはいないことになります。」

 では、今から良心の糾明をなさって下さい。彼らの、私の隣人の救霊の為に、私たちは今まで何をしてきたかという事を。イエズス・キリスト様が愛したそれと同じ様に、私たちは今まで隣人を愛してきたでしょうか?この私たちの周りにいる人々を見て下さい、この周囲にいる人々を見て下さい、隣人を見て下さい。彼らの救霊の事を考えてきたでしょうか?

 多くの人々が今います。ところで、この多くの人々の救霊というよりは、何人いるかとか、救霊以外のことにしか、私たちには興味が無かったかもしれません。もしかしたら、何百万人という人々が、東京の大都会に住んでいるのですけれども、地獄に行こうが天国に行こうが、全く私は自分の仕事でいっぱいだ!と、思っているかもしれません。私にとっては無関係で、関心も無かったかもしれません。つまり、隣人愛がなかったという事です。もしかしたら、私が会った事がある、知っている人はそう思ったかもしれません、救霊の事を思ったかもしれません。もちろん、私の知っている人々の救霊を考えたかもしれませんけれども、非常にしばしば、彼らは私の邪魔であって、私に迷惑ばっかりかけていて、本当にこういう人がいなかったら良いなあ、と思ってそれしか思っていなかったかもしれません。私の愛すべき人々、私の同情とか好感を与えるべき人については、別の事は、この地上の事は何か思ったかもしれませんけれども、最も大切な、唯一の救霊の事については、考えも及ばなかったかもしれません。私の子供や、兄弟たちに対しては、「あぁ、お金が儲かりますように。」とか、「健康でありますように。」とか、「仕事が成功しますように。試験が合格するように。」と、思ったかもしれませんけれども、霊魂の救いについては考えた事が無かったかもしれません。

 ポーランドで、すごい熱心な信者さん達が、「あぁ神父様!神父様が健康である事をお祈りします。健康がやっぱり第一!やっぱり体の健康が、健康が、健康が…。」ですから、私はそういう話をたくさん聞くと、「ありがとうございます。はい、健康が大切だとは知っていますけれども、それが一番ではありません。」と、答えています。

 私たちの隣人にとって、一番大切なものは何だと考えているでしょうか?健康ですか?それとも救霊でしょうか。もしも私たちが、隣人の救霊の事を考えずにいたのだとしたら、私たちはつまり、隣人愛の掟を守っていない事になります。つまり、天主の私たちに与えた任務を果たしていない事に、天主の御旨を果たしていない事になります。今までは時間を無駄に使ってきた事になります。私に与えられたこの時間、更には、才能は、この隣人の救霊の為です、無駄に使ってはいけません。天主様は御摂理により、私たちはこの人と知り合いになり、この人と近付きになった。そしてこの世の人々をよく見て下さい。天主様から頂いた時とか時間とか才能をどうやって使っているでしょうか?自分の利己主義とか、自分の傲慢の為とか、自分の名誉とか野心の為にやって、それは私と同じです。

 イエズス様は言います、「私は、お前たちが行って実を結ぶ事を望む。そして実を見て木がどのようなものであるかを判断する。永遠の実りをもたらせ。」

 幼きイエズスの聖テレジアは、「この世の終わりには、愛によって裁きを受けるでしょう。」

 人生の終わりに、皆さんの肉体が虫とか蛆の餌となります。私の人生で一体何が残るでしょうか?その時に私たちに残っているものは、天主に対してなされた愛と隣人愛、それしかありません。ですから、真剣に一生懸命真面目に考えなければなりません。今まで、隣人の救霊の為に、霊魂の救いの為に、今まで何をしてきただろうか?それの為にもマリア様の助けが必要です。天主を愛する、という為にはマリア様が必要だったように、隣人を愛する、という掟の為にマリア様が必要です。

 「我が母にして元后なるマリア様、私の目を覚まさして下さい!ちょうどこの野良犬がこう駆け回っているかのように、何も思わず、何の考えもなく、この世をグルグルグルグルと回ってきたかのようです。私の友人、私の隣人たちに対する、あなたの愛を、私の心にも分けて下さい。もしも、私が一人でいるのであれば、私の手を取って、私が御身の良き道具としてあるように導いて下さい。そして、私をあなたの騎士として使って下さい。道具として使って下さい。」

 では、今日今から、明日の私の話の時まで、この本を是非読んで下さい。英語版も持ってきました。

 では、お祈りします。

 天の元后喜び給え。アレルヤ。▲御身に宿り給いし者は。アレルヤ。
のたまえる如くよみがえり給えり。アレルヤ。▲われらの為に天主に祈り給え。アレルヤ。
童貞マリア喜び給え。アレルヤ。▲主まことによみがえり給いたればなり、アレルヤ。
祈願、御子イエズス・キリストの御復活を以って世界を喜ばしめ給いし天主、願わくは、その御母童貞聖マリアによりて、終わりなき命の喜びをわれらに得しめ給え。この我らの主、イエズス・キリストによりて願いたてまつる。▲アーメン。


2015年5月4日 秋田巡礼 SSPX Japan 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ 小野田神父説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 2015年5月4日、秋田巡礼で、聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサでした小野田神父の説教をご紹介します。

 聖ピオ十世会日本でなされた説教については、他にもたくさんここにあります。ご覧下さい。これらの説教を書き起こして下さった方々には心から感謝申し上げます。
http://fsspxjapan.fc2web.com/homilia/index.html

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月4日 秋田巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ

小野田神父説教

 
  Ovos omnes, qui transitis perviam ,attendite,
et videte,si est dolor sicut dolor meus.
「道を通り過ぎる人々よ、見よ、私ほどの苦しみがあるのかを。」


 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 シュテーリン神父様、愛する巡礼者の皆さん、今日は、マリア様の七つの御悲しみの随意ミサを立てています。そこで、マリア様の御悲しみと、マリア様が流された涙の神秘を、一緒に黙想する事を提案します。

 1975年の1月4日の初土曜日に、初めてマリア様は涙を流されました。その日には、三回の涙を一日に流されました。ヒビの入って、乾燥しきっている木造の御像から、人間の、あたかも人間が泣いているかのように、ポタリポタリと、この目から鼻を通って、頬を伝って、涙が流されました。それを見ていた方が皆、「本当に人間が涙を流して、悲しみの涙を流している様な、ただ水が湧き出ていたのではなくて、涙を流している。」と、証言しています。最後の涙は、1981年の9月15日、マリア様の七つの御悲しみの祝日に、最後の涙となりました。101回目でした。この最後の9月の15日には、私たちが今日行っている随意ミサを行う祝日でもあります。

 では一体、マリア様の涙の意味とは何なのでしょうか?安田神父様によると、「これは、2000年前のカルワリオの涙の再現である」と、仰います。それをもう少し詳しくみてみましょう。

 マリア様は、私たちの御母であり、私たちの元后であります、女王であります。これは、十字架の下で、それを完成させられました。天主様は私たちにイエズス様を送られる時に、マリア様を通して、イエズス様を送らせられる事を望みました。マリア様をなしに、マリア様を通さずに、私たちにイエズス様を下さろうとは、決して思われませんでした。

 天主は、救霊の、私たちが天国に行く為に必要な事業を始めるのに、マリア様を通して始めましたけれども、それを完成させる為にも、マリア様を通して完成させようと思われました。十字架の下で、マリア様が佇む事を御望みになりました。

 マリア様は、イエズス様の贖いの事業に同意して、イエズス様をすすんで、天主御父にお捧げしました。自分の胎内の実りを、十字架の木にあえて付けて、最初のアダムとエヴァの犯した罪を、贖おうとしました。そこで、マリア様は、イエズス様と全く同じ受難を感じておられたのでした。この事を日本語では、「同感受難」とか、「共同受難」とか、と言います。

 マリア様は、イエズス様と共に、贖いの業を通して、共同の贖いの業を通して、新しいエヴァとなりました。ですからこそ、イエズス様は十字架の上で、「お母さん」とは言いませんでした。「婦人よ、女よ、」と、言ったのです。何故かというと、イエズス様はその時、新しいアダムとして、新しいエヴァに向かって、贖いを共に行った、新しい第二のエヴァに向かって言ったのでした、「婦人よ、私たちの共同の贖いの業は終わった。最初のアダムと最初のエヴァが共に犯した罪の償いの業を、私たちは共に果たした。」「婦人よ、第二のエヴァよ、見よ、これがお前の子である。」聖ヨハネを通して、全人類を、私たちを指し示したのでした。その時マリア様は、贖いを終えて、ちょうどお母さんが、産みの苦しみを終えて、涙を流して苦しみを終えて、新しい、超自然の命に、私たちを産み出したのでした。新しい命の、超自然の命の母となったのでした。

 イエズス様をお産みになった時には、マリア様は苦しみを一つも感じられませんでした。イエズス様はあたかも、復活した時と同じように、マリア様のご胎内をスルリと抜けて、マリア様を傷付けることなく、お生まれになりました。神秘体の頭をお産みになる時には、全く苦痛がありませんでした。

 しかし、私たち人類を、新しい超自然の命に産み出す時には、十字架の苦しみをイエズス・キリストと共に感じ、それを苦しまれました。これは、マリア様が御母である、私たちの御母であるという、私たちの贖いと共贖者である、イエズス様と共に私たちを贖った、贖いの主である。つまり、私たちを贖って、天の新しい王国の中に入れて下さった、という事は私たちのつまり、元后であり、女王である、という事の涙です。

 みて下さい。この私たちの母であり、私たちの贖い主であり、共贖者であり、女王であり、元后であり、高貴な、最もいと高き御方が、私たちの為に、私たちの救霊の為に、このようにして苦しみの涙を流された、苦しまれた、という事を思って下さい。

 そればかりではありません。この苦しみは、今でも、実は続いているのです。何故かというと、マリア様のその贖いは、ただその2000年前、それで終わった、その事業は終わったのではないのです。私たちを超自然の命に、絶えず産み続けていかなければなりません。私たちを、天の国までへと導いて行かなければなりません。産み出された超自然の命を、私たちがいつも保存して、それを天国まで大切に持って行かなければなりません。その贖いの業は、十字架の苦しみはあたかも、続いているかのようです。

 こうやって、せっかく苦しみと苦痛を以って、私たちを超自然の命に産んで下さったお母さん、元后マリア様ですが、しかし、そのようなマリア様の苦しみに、耳を貸す者も、注意する者もいません。

 ちょうど今日ミサで、その聖書の一節が使われたと同じ様です、「道行く人よ、そんなに無関心で通り過ぎないで下さい。あなたの為にこのように苦しみ、全てを失い、全ての苦しみを耐えた者がここにいます。道行く者よ、この世界の時、この歴史の中で過ぎ去っていく多くの人々よ、私はあなたの救霊の為にこれほど苦しんだのです。私ほどの苦しみが、一体あるでしょうか。」

 しかし、多くの人々は、マリア様の涙に関心を持とうとも、慰めようとも、何とかしてこのマリア様の涙を止めようとも、思いません。イエズス・キリストを全く無視し、マリア様を無視して、せっかく勝ち取られた永遠の命をも無視して、地獄へ、或いは罪の道を、そのまま歩み続けているのではないでしょうか。

 我が子が、それほど苦しみを以って産み出した、我が娘、我が息子が、自分を全く無視して、破滅の道へ行くのを見て、どれほど母の心は痛められているでしょうか。

 今日ちょうど、聖モニカの祝日ですが、聖モニカは、自分の子供アウグスティヌスが、マニ教に走り、ある女性と同棲して、姿をくらました、家出をした、それを追って、ミラノまでやって来ました。祈りと、断食と、涙との日々に、15年明け暮れました。それを、そのような母モニカを見て、聖アンブロジウスは、「そのような母親を持つ子供は、決して失われない、決して滅亡しない。」と、言わしめしたほどでした。まさに、そのモニカの涙と祈りは、アウグスティヌスを大回心させて、聖なる司教とさえもなりました。

 もしもモニカの涙がそうであるならば、マリア様の涙は、どれほどでしょうか。マリア様の涙こそ私たちに、もっと私たちを回心させ、聖化させる力があります。私たちの母であり、女王の涙であります。天主の御母の涙であります。私たちを、イエズス様と共に贖って下さった御母の、共贖者の涙です。

 ですから、今日はこの御ミサを捧げて、このマリア様の涙を黙想する事にいたしましょう。マリア様を、私たちの母、女王であるマリア様を、お慰めする決心を立てましょう。私たちの祈りと犠牲を以って、マリア様をお慰め致しましょう。罪の生活から遠ざかる事によって、罪を忌み憎む事によって、マリア様の御望みを果たす事によって、マリア様をお慰め致しましょう。マリア様を悲しめた多くの罪の生活をしている、イエズス・キリストを知らない、マリア様を知らない、無関心でいる多くの人々が、世界中の人々が、イエズス・キリストを贖い主として、マリア様を共贖者として認める日が来ますように、マリア様にお祈り致しましょう。

 「道を通り過ぎる人々よ、見て下さい、私ほどの苦しみがあるのか。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

CONSOLATOR OPTIME 最善の慰め主よ CONSOLATRIX AFFLICTORUM 憂き人の慰めよ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨の主日のミサの続誦(Sequentia)は「聖霊来たり給え」(VENI, Sancte Spiritus)と始まります。

VENI, Sancte Spiritus,
et emitte caelitus
lucis tuae radium.

Veni, pater pauperum,
veni, dator munerum
veni, lumen cordium.

Consolator optime,
dulcis hospes animae,
dulce refrigerium.

ここで聖霊は "Consolator optime" 最善の慰め主よ!と呼びかけられています。ところで、聖母マリアさまは、聖母の連祷の中で、CONSOLATRIX afflictorum (憂(う)き人の慰め)と呼ばれています。
聖母マリア様は、苦しみが何かをよくご存じです。私たちの最高の母である聖母マリアは、私たちが慰めをどれほど必要とするかよくご存じです。聖母マリアは、私たちに超自然の天主様からの慰めを与えてくれます。
聖霊と聖母マリアとの「慰め」の役割は、正に一つです。




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アイルランドの国民投票と同性愛とアイルランドの事実上の背教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アイルランドでは5月22日に国民投票があり、同性結合(homosexual union)の"合法"化が問われました。それによると、賛成が62・07%、反対が37・93%。となりました。国全体の投票率は60%を超えたそうです。

 アイルランドの国民がそう投票しようとも、しかし、天に復讐を叫ぶ罪は4つあります。それは、故意の殺人、同性愛(sodomy)、貧しいものの圧迫、労働者に正当な賃金を支払わないこと、です。これらは、自然に反し、天主の怒りを特別に呼び起こすものです。
故意の殺人は、天主のみが命の主であることに反します。
同性愛は、人類の永続のために与えられた自然本能に反します。
貧しいものの圧迫は、人間の心に与えられた憐れみに反します。
労働者に正当な賃金を支払わないことは、私的財産の保存の社会的本能に反します。

 アイルランドは、悲しいことに、同性の結合(厳密な意味で「結婚」と呼ぶことが出来ないので「結合」と呼びます)が、底辺から法律化された最初の国となりました。マスメディアは、LGBT 推進のキャンペーンをしていました(LGBTとは、レズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)の頭字語から取った略語)。

 首都ダブリンのマルティン大司教(Archbishop Diamund Martin)は、投票の後、青年の90%がカトリック学校で勉強していながら、青年達が賛成していたことを指摘し、もっと深い現象【背教】があると指摘しています。
 問題は、福音とカトリック聖伝とカトリック信仰を宣教する代わりに、教会の敵との共通点と妥協点を探し出そうとしていたことです。

 ベネディクト十六世が2010年3月18日付けで書いた、アイルランドのカトリック信徒たちへの手紙にあるように、カトリック教会は「聖徳と愛徳と超越的な智恵との理想に立ち戻ら」なければなりません。カトリック教会は、自らの聖伝に戻らなければなりません。カトリックの教えと価値との伝統的な支持 "traditional adherence to Catholic teaching and values" に戻らなければなりません。

 アイルランドのように、もはやカトリックは名前だけになってしまったかのようです。

 来るローマでのシノドスは、まさに「同性愛」は「離婚」を取り上げ、革新的な高位聖職者たちはすでにローマに集ってシノドスの作戦会議をしているとのことです。シノドスが「第二バチカン公会議」その2にならないように、祈ります。

 主よ、我らを憐れみ給え!
 聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話7「隣人の救霊のために聖母に協力する」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その7をご紹介いたします。テーマは、「隣人を自分の如く愛すること、隣人の救霊のために聖母に協力すること」です。
 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話7
同時通訳:小野田圭志神父

 先程の拷問(講話)では、次の事を説明しようと考えていました。それは、マリア様への奉献生活の三次元的な要素、という事です。それは、第一と第二の次元は、私たちとマリア様の個人的な関係で、私たちの母であり、女王であるマリア様が、私たちの聖化の為に、私たちが聖となる為に必要である、という事です。そして第三の次元、観点というのは、それは天主様が私たちに与えて下さった使命、そして仕事、つまり愛の掟を全うする事であって、つまり隣人を私たちと同じ様に愛する、自分の如く愛する、特にイエズス・キリスト様が愛して下さった様に、隣人を愛する、という第三の観点です。

 ですから私たちの人生は、天主様と共に共同の仕事をする、共に仕事を働いて、そして救霊という最も最高の幸せを隣人に分け与える、という使命です。隣人愛については、本当の意味の隣人愛については、私たちは本当に、今目も当てられない状態にいます。何故かというと、私たちはそれにほとんど関心を持っていないからです。隣人の救霊について気にもかけていません。

 ですから天主様は私たちにマリア様を与えて、天主を愛するというその次に大切な、隣人を愛するという掟を、私たちが守る事ができるように助けて下さる、教えて下さるのです。私たちがマリア様の道具となればなるほど、マリア様は私たちが隣人愛を達成する事ができるように助けてくれます。何故かというと、私たちがマリア様の道具となればなるほど、隣人の救霊の為に役立つ事ができるからです。

 ところで、永遠の救い、救霊という事は、全く純粋に天主様の御恵みです。でもその天主は、その御自分の望みによって、御自分の意志の決定によって、私たちをその道具と使う事によって、初めて救霊をしようと望んでいるのです。これが天主の定めた法則であって、法であって、それを私たちが受け入れるしかありません。もしも、その道具が使われる事を拒否するならば、素晴らしい芸術家も絵を描く事ができません。

 ですから、私たちはこの事を深く知らなければなりません。もしも、この世に司祭がいないならば、イエズス・キリストは、天主は、救いの業をこの世で遂行する事ができません。もしも、マリア様がその道具が無いならば、マリア様がお持ちのお恵みを、その救霊の為に霊魂に使う事ができないでいます。マリア様には道具が必要です。ですからマリア様の燃えるような救霊、深いそして回心の望み、聖化の望みを持って、その望みはもう涙を流すほどのものであって、そしてその為に必要な御恵みは全てを持っているのですけれども、それを伝える道具が必要としているので、マリア様はやはり涙を湛えながら私たちの元にやって来て、「私を助けて下さい。」と、言うのです。ファチマにやって来た時にマリア様が子供達にお願いした事は、まさにこれと同じ事です。

 ファチマで或いは天使が子供達に尋ねた最初の質問はこうでした、「子供たちよ、あなた達は罪人の回心の為に、祈りと犠牲を捧げる事をしてくださいますか?」と。そして1917年の8月19日、マリア様は子供達に、「祈り、犠牲を捧げなさい。何故ならば、祈り、犠牲を捧げる人がいないので、多くの霊魂たちは地獄に堕ちているからです。」

 この事を言い換えるとどういう事かというと、多くの霊魂が永遠に救われるか、或いは永久に地獄に堕ちてしまうか否かは、その境目は、私たちがちょっとしたお祈りをするか、或いはちょっとした犠牲を捧げるか、それに懸かっているのです。そしてマリア様は皆さんに応えを求めます、マリア様の道具となる為には、救霊の良きマリア様の道具となる為にはどうしたら良いか、マリア様は、皆さんに今伝えようとしています。

 私たちが隣人を本当の意味で愛する為には、何をしなければならないでしょうか?ファチマでは子供達に二つの手段を教えてくれました。祈り、犠牲を捧げる事です。祈りです、まさに祈りです。マリア様の汚れ無き御心には、救霊の為に必要な全てのお恵みがあります。そしてマリア様に必要なのは、その運河で御心から罪人まで届くチューブです、パイプです。ところが、そのパイプは祈りです。

 明日、飛行機、或いはバスで帰る方がいますね。そして明後日は皆さん飛行機とかバスに乗って帰ることでしょう、---- 或いは自転車で帰る方もいるかもしれませんが --- ところで、皆さんが乗ったこのバス、或いは電車の同じ客室に、皆さんと会った事も無いような、そして今回御摂理によってその同じ客室にいるのですけれども、もう再び会う事も無いようなお客さん達が乗っているかもしれません。そしてバスにはもしかしたらテレビの画像が、下らない映画が上映されているかもしれません。それをボーッと見る代わりに、その代わりに目を閉じて、「イエズス様、このバスの1号席に座っている霊魂を救って下さい、2号席に座っている霊魂を救って下さい、その後ろの3号席窓側に座っている霊魂を救って下さい。」と、お祈りするのはどうでしょうか?そうすると、マリア様の道具になります、パイプになります。マリア様のお恵みを、皆さんがその霊魂に注ぐ事ができるようになっています。皆さんのこのほんの小さな祈りは本当何でもありません。

 もしも、皆さんは、頭痛がするとか、お腹が痛いという時にはどうしますか?「大丈夫ですか?」と、言うと、「あぁ、頭が痛い、お腹が痛い。」と、ずっと言う人もいます。ところで、もしもそのような時には、頭痛や或いはお腹が痛いという時には、マリア様にこれを、「救霊の為に、霊魂の救いの為にお捧げします。」と、捧げるのはどうでしょうか?

 皆さんの祈りと犠牲は、マリア様のお恵みを使って霊魂に触れる事です。このほんの小さいパイプの様な私たちの祈りですけれども、そのマリア様のパイプが、祈りがその霊魂に触れたその瞬間、マリア様の胸からものすごい光が、パーッと霊魂に注がれるのです。

 小さなヤシンタちゃんは10歳で亡くなりました。ヤシンタちゃんは、病気で病院に入院して苦しんでいましたけれども、彼女のやった事は、祈り、犠牲を捧げる事でした。そしてこの子供は、自分の知らないような多くの霊魂たちの回心の為に、たくさんの祈りを常に捧げていました。このヤシンタを列福運動の為に特別に働いていた枢機卿は、その列福調査の後に、「この小さな女の子は、その当時全世界で働いていた全ての宣教師たちの仕事を全て集めたよりも、もっと救霊の為に働いていた。」と、宣言されました。

 この小さな祈りの効果、力というのがどれほど凄いかよく理解して下さい。これが、私たちが隣人の為に真剣になって愛するという事の行為です。つまり彼らの救いの為に祈る、という事です。

 幼きイエズスの聖テレジアの生涯も全く同じ事でした。幼きイエズスの聖テレジアが亡くなった時には23歳にしかすぎませんでした。その時、宣教地に行くとか宣教師として出掛けたという事はなくて、ただ小さなカルメルの修道院の中に閉じこもっていて、そこの周りにいたのは20人の同僚のシスター達だけでした。この本当の小さい隠れた幼きイエズスの聖テレジアですけれども、何百万何千万何億という多くの救霊の為に祈りを捧げ、そして彼らのその救霊の為の効果を得ました。ですからカトリック教会は、この小さな修道女を、隠れた修道女を、宣教師の守護の聖人として宣言し、そして偉大な大聖人となりました。

 有名な聖ドン・ボスコのビジョンがあります。イタリアのボローニャという所でドン・ボスコは汽車を待っていました。ところで、その汽車を待っていて、こう汽車がやって来るのですけれども、同じこのプラットホームの向こうの方では、おかしな男が天主様を冒涜して、悪い口汚い言葉で罵っていました。そこで電車が来たのでもう乗らなければならないのですけれども、この霊魂の為にお祈りをしました、「彼が地獄に堕ちませんように、マリア様、彼を救ってあげて下さい。」そして電車に乗りました。電車に乗ったドン・ボスコは、この男の事をコロッと忘れてしまいました。ところで数ヶ月後、ビジョンでこの冒涜の言葉を吐いていた男がビジョンの中に現れて、ドン・ボスコに言葉をかけてきたのです、「ドン・ボスコ、私が誰だか分かりますか?」「分かりません。」「三ヶ月前、私はボローニャの駅にいました。その時、駅で天主に冒涜を吐いていた男がいたでしょう。二日前、私は事故で死にました。そしてその死の直後、私の前に地獄の火がボオオオッと、大きく門が開くのを見ました。ところがその最後の最後の瞬間に、天主様は私に、罪を痛悔するお恵みを与えて下さいました。そしてその時に同時に、天主様はドン・ボスコの姿を見せて、〖この男があなたの為にお祈りをしてくれた。だからこの人のお祈りのおかげで、あなたは地獄に堕ちないのだ。〗と、説明してくれました。」そこでこの現れた男は、「ドン・ボスコ、永遠にあなたに感謝します。もしもドン・ボスコ、あなたがそのちょっとしたお祈りを、三つのお祈りをしてくれなかったら、私は永遠に永遠に永遠に、地獄の火に焼かれていました。

 ですから皆さん、今なぜマリア様が、あたかも乞食であるかのように、皆さんの前に、「お願いですから、どうぞ恵んで下さい。私の道具となって下さい。」と、やって来るのは、意味が理解できたと思います。「私の子供、私の奴隷となるのみならず、更に、私の兵士となって下さい、私の騎士となって下さい。」

 ですから私たちはこう申し上げます、「マリア様、私はあなたに何ができるでしょうか?私は本当に情けない罪人で、本当に悪い、もう役に立たない道具です。」

 私たちの無能さは、マリア様には関係ありません。これについては、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父様が美しくこうやって説明しています、「素晴らしい天才的な画家を見て下さい。画家がこの絵を描く時に色々なペンを持っています。グレコとかティツィアーノとかレンブラントとかは、色んな筆とかペンを使って描きました。そしてその素晴らしい絵を見て、‘あぁ、何と素晴らしい筆だったんだろうか!’と、言う人は誰もいません。もしもその絵を見て、筆の事を褒める人がいたらどうかしています。」

 ですから皆さんのお祈りが、効果を持ってたくさん回心させたからといって、何か誤解しないで下さい。皆さんは筆に過ぎません、道具に過ぎません。

 皆さん、皆さんが例えば、ミケランジェロでも、天才的な画家でもレオナルド・ダヴィンチでも、筆の代わりにほうきを与えて下さい。ミケランジェロは、「え!?ほうきでこれ絵をどうやって描くんですか!?」と、聞くと思はれます。でも、もしも万が一、この普通のどこかのほうきで、素晴らしい絵を描く画家がいたとしたら、彼こそ天才的な画家です。そのような画家がいて、その画家の名前は、無原罪のマリア様で、ほうきの名前は、皆さんです。

 マリア様は仰って下さいます、「皆さん、皆さんは全く無に等しい、0(ゼロ)に等しいものに過ぎません。」私たちは無です、私たちは0です。私たちは何でもありません、全く無いに等しい、0です。000000、0。皆さんがいくら集まっても00000。0は0です。

 でも、皆さんがいくら00000000で、0だとしても、最初に1があれば、100000000(1億)になります。そして、この最初に立つ1が、マリア様です。これは、コルベ神父様の数学です。

 ですから皆さん、私たち自身がロクでもない役立たずな罪人であるという事を忘れないで下さい。でも皆さんはマリア様に自分を捧げて下さい。それが必要です。

 では、このマリア様の手に於ける良き道具、そして騎士、そして兵士となる事の、第三の事を考察します。

  皆さん、ちょっとこういう事を想像して下さい。小野田神父が、もう特別の研究をして、汗水流して、このある液体を発明した、そしてこの液体をちょっと飲む事によって、寿命が20年延びる。20年延びる特別の薬を発明した小野田神父の銅像が、あちこちに建つだろう。そして20年の命を与えた全人類の恩人として、小野田神父の銅像と壁画が、どこにも建てられて、この人類の恩人として名誉を受ける事になります。例えものすごい薬が発明されて、20年間寿命が延びたとしても、その20年の後は、どうせ死んでしまいます。

 私たちはこの地上で、何か立派な偉大な事業をしたいと思っているかもしれません。もしかしたら皆さんは、夢のような大宮殿を建てて、この世に造って、そしてこの世を去りたいと思っているかもしれません。「この男は、このような素晴らしい家を建てて、この世を去った。」そしてある人は、ギネスブックに載るほど全世界の言葉を知り尽くす、そしてもう流暢に話す男として、記録に残るかもしれません。

 しかし、皆さんはこの全人類の為に、もっと素晴らしい貢献をする事ができます。皆さんは、多くの人々に永遠の命を与える事ができます。そして皆さんがこの地上を去って、天の門をくぐるという時に、多くの、数多くの皆さんの知らないような人達がたくさんやってきて、「ありがとう!本当にありがとう!あなたのお祈りのおかげで、今私たちは救われました。今私は永遠の地獄の火から救われて永遠の命を受けました。ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!ありがとう!」と、言われるに決まっています。

 これこそが、皆さんがこの地上で為す最高の大事業です。その他のものは何でも、そのまま空しく去ってしまいます。このマリア様の道具となるという事はつまり、戦闘の教会に於けるマリア様の騎士となって戦う事です。救霊の為に戦う事です。何故かというと、霊魂を救うという事は、この地上における最も厳しい荘厳な戦いに、私たちがそれに参加する事だからです。

 天主様は、全ての人を一人一人救おうと思われて、全ての人を救う為に、自分の命を全て捧げて、そしてそれに必要な全てのお恵みを与え尽くしています。そこで皆さんには自由意志が与えられています。選択しなければなりません。そして皆さんは、二つの陣営、二つの国のどちらかを選ばなければなりません。

 イエズス様の表現を使えば、広い簡単な大通り、大きな道と、狭い厳しい道、誰にも見つけるのが難しいような道の二つの道があります。多くの人々は、単に歩くのみならず、滅びに向かって突っ走っています。でもそこの岐路にマリア様が立って、この滅びに走っている人々を見て、涙を流しています、何とかして救いたいと思っています。マリア様はそのように通りすぎる人々に、「あぁ、行ってはいけません。そうではなくてこっちに、救いの道に来て下さい。」涙を流して言います、「もしも必要ならば、何でも与えます。だから、救いの道に来て下さい。」

 そしてこのこちらで誘惑する人は、色んな方法があります、「あぁ、酒はあるし、タバコはあるし、もう女はあるし、さあ!やりたい放題やったら良いよ!」そしてこの悪の勢力は、今全世界を支配しているかのように見えます。東では共産主義、西側ではフリーメイソン、そして近代主義の宗教。そしてマリア様はほんのたった一人で、ほぼ一人で。

 もちろんマリア様は、天使たちとそして多くの聖人たちと、天国で幸せに永遠の至福を味わっています。しかし同時に、この世の子供たちの救霊をも願っています。そこでマリア様は、この皆さんに、お願いをしに来ています、「お願いですから、私の助けをしてくれませんか?」そうやってマリア様は、「一緒に戦って下さい。」と、お願いをしているのです。

 皆さんが誰かの為にちょっとしたお祈りをする時、それは大きな武器となります。聖マキシミリアノ・コルベは、私たちの小さな祈りの事を、マシンガンと言っています。そして小さな、その私たちの射祷は、弾丸となって霊魂の救いの為に、悪に向かって戦います。そして悪がその弾に当たって倒れると、罪人は回心して起き上がります。

 私たちは戦闘の教会の一員です。そして、戦いをするように招かれています。私たちは戦いをするように招かれています、イエズス・キリストの名誉の為に。特にイエズス・キリストの為に霊魂を勝ち取る為に。この戦いに参加すると、私たちは霊的に宗教的に大人になります。

 いつ、私たちの教えでは教会の教えでは、いつ私たちは大人になるのでしょうか?堅振の秘跡を受けた時に大人になります。でも、堅振というのはどんな秘跡ですか?それは、キリストの兵士をつくる秘跡です。そして司教様はあんた方を、私たちがキリストの兵士となるという事で、戦いの準備をして苦しみを受ける事はできているか、覚悟はできているかという事で、私たちの頬をピシャッ!!と、平手打ちを与えます。

 皆さんは、戦闘の教会の一員であって、堅振の秘跡を受けたキリストの正式な、公式な兵士ですから、イエズス様は皆さんに戦う事を命じて、それが皆さんの本分としてあるのです。皆さんはこの義務があるにも関わらず、そのように戦うという事に対して、コロッと忘れている事に問題があります。天主様に約束したこの義務を果たさなければなりません。

 洗礼の約束では私たちは、天主を愛し、そして悪を、悪魔を捨て、悪魔の業を捨て、悪魔の栄華を捨て、そして善を行う、天主を愛する、という事を約束しました。そして堅振の秘跡では、聖霊の賜物を受け、私たちの周りにいる霊魂たちを、イエズス様の為に勝ち取るという戦いに参与する事を約束しました。

 しかし、私たち一人ではこの約束を守りきる事ができません。洗礼の約束も、堅振の約束も、マリア様を通してこそ完璧に守る事ができます。

 では、マリア様の御手にどうやったら良き道具となる事ができるでしょうか?この事をよく知って下さい、『もしも、もしも私たちが、マリア様の本当の子供、マリア様の奴隷、マリア様の騎士となったら、私たちは、天主様に対する義務の全てを果たす事ができる』と、いうことです。

 では、マリア様の子供、マリア様の奴隷、マリア様の騎士とどうやったらなる事ができるのでしょうか?望めば良いのです。決定をする事です。契約をして、サインをして、判を押す。「あ~、あ~そうしようかな~どうしようかな~、やっぱりな~…。」と、いうのではなくて、「はい、望みます。」

 もしも、皆さんの若い女性が、「あぁ、修道院に入りたいな~、シスターになりたいな~。」或いは若い青年が、「神学校に入りたいな~。」と、思った時に、「じゃあ、あのいつ修道院に行くのですか?神学校にいつ入るのですか?」「ん~…もしかしたら二週間後に、もしかしたら。でももしかしたら二ヶ月後かもしれません。二年後になるかも分かりません。でもあまりよく分かりません。」というのは意志ではありません、決定ではありません。椅子の上にこう座って、夢をこうやって、「いやぁ~、聖なる司祭になりたいな~。」と思うのはとても簡単です。

 意志というのは、そうではなくて、立ち上がって神学校の門へ行って、コンコン、「入学しても良いですか。」「入りなさい。」そして自分の後ろでドアが閉まって、勉強して、これが意志です。ここから始まります。

 ですからもしも皆さんが、マリア様の為に何かしたいな、と思ったら、「あ~やっぱりな~、どうしようかな~、う~んそうだな~。」ではなくて、「はい、やります。」これが奉献です。「私は自分を与えます。」これを忘れる事がないように、荘厳に約束しなければなりません。

 そしてマリア様の子供となり、マリア様の奴隷となる為には、皆さんは33日の黙想会を、グリニョン・ド・モンフォールのやり方に従ってなされなければなりません。何故グリニョン・ド・モンフォールの様式に従うのですか?というと、マリア様は聖グリニョン・ド・モンフォールを選んで、彼に特別にまことの信心を教えたからです。ところでマリア様の騎士となる為には、また別の奉献もしなければなりません。そしてそのマリア様の騎士となる為には、色んな聖人が色んな形式で、マリア様の道具となる為のやり方を提案しました、教えられていました。20世紀に存在していた最大のマリア様の軍隊は、「レジオ・マリエ」です。また20世紀に在った同じ様に重大な重要なものは、「マリア様の無原罪の聖母の騎士」です。そしてまた別には、ファチマの「ブルー・アーミー」です。

 そして皆さんは、道具として兵士として騎士として、マリア様にご自分を与え始めなければなりません。そして聖ピオ十世会のアジア管区では、「私たちは全て、眠りこけているカトリックであっては駄目だ!」と、思っています。皆さんは教会にいると、「グ~…(眠っている。)」そして、司祭がミサの時に御説教をすると、3分以上説教すると、(不機嫌そうな表情)。はい、教会にはそういう人達がたくさんいます。

 私たちは今、悪魔の軍隊と直面して、それと戦いを挑んでいます。そして特にアジア管区では、「無原罪の聖母の騎士」に注目をしました。何故かというと、特に日本ではコルベ神父様がやって来て、第二次世界大戦の多くの霊魂達を回心に導き、多くの奇跡的な事がたくさん起こったからです。もしもこの聖伝のカトリックに目覚めた人達は、私たちが今直面している悪との戦いによく気がついて、その事を意識して、そして戦闘の教会の一員として悪と戦う、という事に全力を以って直面しなければなりません、その事を意識する事を望んでいます。

 そしてもしも皆さんが、聖母の無原罪の騎士としてマリア様の道具となりたい、と思うのならば、その為に一番必要なのは、皆さんの意志です。これから新しい生活を始めるという意志です。新しい生活を始めるという事は、つまり朝3時に起きて生活を始めるという事ではありません。外面的には変わる事が何もありません。もしかしたら髪の毛が少し白くなるかもしれません、そしてもしかしたら痩せるかもしれません。外的には変わる事がありませんが、内的に変わります。内的には新しいモチベーションがあって、新しい動機づけがあって、そして新しい燃えるような救霊の望みがあります。

 皆さんには、何をしようとも人生の十字架と、苦しみと、悲しみが待ち構えています。しかし新しい生活が始まれば、これらの十字架に対してどうやって対処すれば良いか、よく分かります。昔は、その新しい生活が始まる前は、ちょっとした事で、「あぁ、まただ…、あぁ、疲れた、もうイヤだ…あぁ、もうダメだダメだ…。」ところが新しい生活が始まると、例えば、「あぁ、頭痛がある。でもこの頭痛を霊魂の救いの為にお捧げします。」「さぁ、料理をこれを捧げて…。」或いは色んな辛い事、苦しい事を、「霊魂の為に、霊魂を救って下さい!」と、叫ぶ事ができます。

 昔は、結婚生活30年、「あなた、」「何だお前、」「うるさいわねぇ、」「ほっといてほしいよ、」と、色々あったかもしれませんが、これからは新しい生活で、十字架は愛の対象なので、「あなた♡」「何だ♡」

 今までは、十字架、苦しみ全ては頭痛の種でしたが、これからは霊魂の救霊の為の源となります。これで霊魂を救う事ができる。ですから、苦しみ、十字架、万歳!になります。聖マキシミリアノ・コルベの挨拶は知っていますか?「皆さんに、十字架と苦しみと悩みをお祈りします。」

 時間が来ました、明日この続きをします。あの日本で働いていたマキシミリアノ・コルベ神父様が何をなさったか、「無原罪の聖母の騎士」が、ものすごい事をしていた、という事を皆さんにぜひ知ってもらいたいと思います。「無原罪の聖母の騎士」良き騎士となる為にはどうしたら良いか、皆さんに話をします。最低限の事は何か、ほんのちょっと、ほとんど無いような事があるのですけれども、そこから大聖人になるまでに、色んな事があります。

 また明日、今最後のポイントとして、特に現代この21世紀が、マリア様が、無原罪のマリア様が、必ず必要だという事を知らなければなりません。何故かというと私たちは今、黙示録の時代に生きているからです。そして今黙示録の時代を生き延びる為には、マリア様だけが、唯一の、救いの最後のチャンス。マリア様なしには私たちは全て失われてしまいます。しかしマリア様と共に在るならば、私たちは必ず勝ちます。

 そしてこの巡礼が終わる最終の5月の6日、できるならばこの巡礼者の皆さんが全て、「無原罪の聖母の騎士」として、ご自分を捧げて下さる事を願います。フィリピンでは先週500名参加しました、「聖母の騎士」となりました。この規定の用紙に、必要な名前とか必要なものを書いて提出して下さい。

 特にEメールのアドレスが必要なので、それを忘れずに書いて下さい、何故かというと、毎月ニュースレターがEメールとして届くからです。まだ私は日本語を知らないので日本語で書く事はできないので、まだ日本語ではないのですけれども、Eメールでニュースが届きます。書いてそして私に提出して下さい。

 もしも水曜日にいらっしゃらない方は、8月の聖イグナチオの霊操の時に、入会式があります。そしてまた将来もこのような機会があります。

 私たちは今年の2月に司祭の勉強会をしましたが、その時に、敵は、マリア様とイエズス様の敵は、2017年をものすごい準備をして、総攻撃をかけようとして準備をしています。そしてその物凄い酷い出来事が起こる前に、マリア様の軍隊を私たちは今準備しようと決心しました。そしてこのあるアジア管区の司祭は、「できるならばマリア様の軍隊として、その敵に戦う為に、2017年5月13日までに100万人の騎士を準備しなければならない。」と提案しました。

 私はその話を聞く前は、自分こそがいつも夢ばっかり見ているドリーマー、夢想家だと思っていたのですけれども、しかしその司祭のミーティングで、私よりももっとひどい夢想家がいたという事を発見しました。ですから、私は「100万ではなく、10万にしよう。」と、言いました。ではあと3年で、10万人の無原罪の聖母の騎士が準備できる事を祈っています。そしてこの10万人の騎士たちを私たちが準備するプログラムが、今準備されています。ですからこれは、その10万人の為には、今私たちの事を知らないような人達も招かなければならないので、まず皆さんが、聖母の騎士となって下さい。

 そしてもしも皆さんが、この名前を提示して、マリア様の無原罪の騎士となって下さる事ができれば、マリア様は本当にお喜びになる事でしょうし、私も本当に喜びます。

小野田神父:「あの、ついでですけど、小野田神父も、ポーランドのチェンストホーバで、3年前の2012年8月15日に聖母の騎士になりました。」

 これで拷問を終わります。


 

2015年5月5日 秋田巡礼 SSPX Japan 教皇証聖者聖ピオ五世 シュテーリン神父様御説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 秋田巡礼の際、教皇証聖者聖ピオ五世の祝日にシュテーリン神父様が次のようなお説教をして下さいました。「ロザリオ」と「十字架」、「聖母信心」と「ミサ聖祭」の教皇様だったと改めて私たちに教えてくれます。

 どうぞお読み下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年5月5日 秋田巡礼 教皇証聖者聖ピオ五世
シュテーリン神父様御説教

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日、聖ピオ五世の祝日を祝っています。この偉大な教皇様には、多くの多くの事が起きています。この教皇様のおかげによって、トリエント公会議の決意は実践させられました。このトリエント公会議は、特にプロテスタントに打ち勝ちました。特にミサの生贄についての深い理解を、世界に示しました。

 今日、私たちが祝っているこの教皇様は、「ミサを列聖した」と、言われています。この教皇様は、「イエズス・キリストが新約で私たちに下さった、最も偉大な生贄の表現である、最も完璧な表現である。」と、宣言しました。ですから時々、「聖ピオ五世のミサ」とも言われています。このような言い方をしたとしても、この教皇様がミサを発明したのではありません。この教皇様が発明したのではなくて、教皇様はむしろ、ローマにあった最も古い典礼様式を、そのまま取り出して、そのままこれを使って、「このミサこそ最も完璧な祈りであって、最も完璧な形式である。」と、宣言したのです。

 そして聖ピオ五世は、私たち全てカトリック信者に、「最も偉大な霊的活動とは、最も偉大な私たちの行為とは、最も偉大な祈りというのは、ミサに与り、ミサを捧げる事だ。」と、説明しています。そこで聖ピオ五世教皇様は、全ての教区の主任司祭たちに命じて、「一年に少なくとも数回は、必ず、この偉大なミサの生贄についての説明を、教区民たちに説明しなければならない。このミサが、どれほど高価なものであって、貴重なもので、深い意味があり、その天から私たちに与えられた宝石、真珠であるという事を説明しなければならない。」と。

 その当時、キリスト教世界は非常に大きな危機に陥っていました。何故かというと、トルコからイスラム教徒が侵略しようとしていたからです。その当時、皆さんもご存知の通り、キリスト教徒たちは分裂していました。そして、もしもキリスト教に対する最もひどい敵、強烈な敵に対して、キリスト教軍を一致させて彼らに対抗させる事ができたのは、この教皇様しかいませんでした。

 そして最後の戦いとなった、そして決定的な戦いとなった海戦、海での戦いに於いては、イスラム教徒たちはキリスト教軍の5倍、或いは6倍の数をもって侵略して来ました。どう見ても、キリスト教軍に勝ち目はありませんでした。そこで聖なる教皇様は、敵を打ち倒すための武器は何か、という事を発見しました。この武器とは、ロザリオの事です。そして教皇様は、ロザリオの十字軍を発動させて、ローマそしてイタリア、そして全世界に亘って、「ロザリオを唱えるように。」と、訴えました。昔、ロザリオについては、確かに一部の人々は知っている事は知っていました。しかし、この聖ピオ五世教皇様のおかげによって、全世界に知らされる事になりました。

 そこで、その敵の数のものすごい大艦隊たちを見たキリスト教信者たちは、軍人たちは、教皇様にメッセージを送り、「教皇様、勝ち目はありません。」と言いました。そこで教皇様は、キリスト教の軍人たちを皆奉献して、そして戦艦には、グァダルーペの聖母の御影を貼り付けました。そして、キリスト教軍艦隊は、奇跡的に大勝利を収め、そしてそれが1571年10月7日の事でした。

 このレパントの海戦は、ロザリオの大勝利を意味しています。そして聖ピオ五世教皇様は、この大勝利を記念する為に、勝利の聖母の祝日、つまり、「ロザリオの聖母の祝日」を制定し、これが10月7日に祝われています。そこで、イエズス・キリストはカトリック教会は、この教皇様を通して、私たちにいつもそれを使えば必ず勝つ事ができる武器を与えました。つまりロザリオです。

 そしてその聖ピオ五世からちょうど150年後、聖グリニョン・ド・モンフォールは、終末の時代の戦士たちの使う武器について描写しています。聖グリニョン・ド・モンフォールによれば、「終末の使徒たちは信者たちは、右の手には十字架、左の手にはロザリオを持って戦う。」と言っています。何を意味するかというと、右の手に持つ十字架はこれは、「ミサ聖祭に対する信心」、ミサに対する熱烈な信心です。そして左手のロザリオは、「マリア様に対する信心」の事を意味しています。

 そしてこの「イエズスとマリアの使徒たち」という事を表現したグリニョン・ド・モンフォールの後、300年の後に、ルフェーブル大司教様は、この二つの武器を創立した司祭たちに与えて、「ミサとロザリオ、マリアの信心」と、伝えました。

 近代主義は、ミサと、そしてマリア様に対する信心を破壊しようと試みました。まず、聖ピオ五世が列聖した、永遠の、永久のミサ聖祭の代わりに、プロテスタント化したミサを私たちに与えようとしました。そしてマリア様に対するまことの信心の代わりに、それを弱めて、その代わりに、他の宗教の人達にも気に入る事ができるように、対話をする事などを勧めました。

 ルフェーブル大司教様は、「いや、違う。」と、言いました。「聖ピオ五世の発表した大勅令によれば、“このミサは、どのような司祭によっても、時の終わりまで自由に捧げる事ができるミサだ。”」と、言いました。

 しかし、この本当の事を言った為に、罰せられました。

 そこで、この聖伝のミサは、数年の間、あたかもカトリックのミサではないかのように取り扱われさえもしました。

 しかし、ようやく2007年、ベネディクト16世教皇様は、「やっぱりルフェーブル大司教は正しかった。」と、発表しました。そしてベネディクト16世教皇様の書簡によれば、「確かにこのミサは、一度も禁止された事も、廃止された事も無い。」と。

 では何故、このミサの典礼様式とか、ミサについてのこのような戦いがあるのでしょうか?何故かというと、ミサこそが、天主様の私たちに与えた最も大切な神秘であって、最も大切な祈りであるからです。

 聖アルフォンソ・デ・リゴリオは、「ミサこそ、教会の心臓、最も大切な部分である。」と、言います。もしも、人間から心臓を取り去って下さい。この人は死んでしまいます。

 ルターとそのプロテスタントの一味がやった事は、まさにこの事でした。もちろんプロテスタントの人々は、礼拝とかサービスとかをしますが、しかし、それはもうミサではありません。何故かというと、ミサというのは、聖ピオ五世によれば、「イエズス・キリストの、この地上に於ける真(まこと)の現存を意味する」からです。

 トリエント公会議によれば、ミサというのは、本当のカルワリオの生贄の再現であって、それが現存することです。ミサというのは、イエズス・キリストの生贄が現存する事です。ここに於いて本当にカルワリオの生贄が、目の前に現れます。

 皆さんがミサに与る時に、ちょうどプロテスタントがやっているように、集まった集会で天主を賛美する、という事だけではありません。そうではなくて、ミサに皆さんが与るという事は、『ちょうどイエズス・キリスト様が十字架に付けられて、そしてマリア様がその足下に立っている、そこに立ち留んで、皆さんがそのマリア様と一緒に、生贄を捧げている事になります。『ミサでこうカリスを捧げる時には、このカリスの中には、イエズス・キリストが流された全ての血と全ての苦しみが入っています。』

 今この事が私たちができるのは、聖ピオ五世のおかげです。

 そしてこのイエズス・キリストに対する愛を私たちが保存する為にも、そしてそれを続ける為にも、聖ピオ五世教皇様は、私たちにロザリオを与えてくれました。では何故、ロザリオがそれほど強力な武器なのでしょうか?

 皆さん、必ず、聖グリニョン・ド・モンフォールの書いた「ロザリオの秘密」という素晴らしい本を読んで下さい。ロザリオというのは、イエズス・キリストの御生涯の最も重要な玄義を黙想する祈りです。喜びの五連によって、私たちはイエズス・キリストの教え、つまり、「この世で一番大切な、この世の最も中心は、人間ではなくて、イエズス・キリストである。」という事を教えています。フリーメイソンや近代主義は、この世で一番大切な事は、この地上に楽園を作る事であって、新しい世界秩序を作る事であって、人間の尊厳であって、人間の新しい生活であって、と教えるかもしれませんが、ロザリオは「違う。」と、言います。

 喜びの玄義は私たちに、「いや、そうではなくて、この世の中心はイエズス・キリストであって、イエズス・キリストは、昨日も今日も、そして永久に同じであって、彼こそが私たちのリーダーであって、指導者であって、王であって、彼にこそ私たちは付き従わなければならない。」と、教えています。

 そして、苦しみの玄義によっては、私たちの具体的な人生、具体的な道標を教えています。「私たちの歩むべき道は、十字架の道だ。」と、教えています。この世の短い人生、私たちの儚い人生は、何の為かというと、この世の楽しみや快楽やお金とか、この世が私たちに提供する様な、面白おかしい物事の為ではありません。この世の、この世の悲願というのは、「己を捨て、十字架をとって私に従え。」と、言うイエズスの言葉に従う事です。つまり、この世の私たちの人生というのは、絶えざる戦いです。

 戦いの法則というのは、愛の法則です。愛の戦いというのは、愛する人の為に、愛する者の為に、私たちの命を与えて、そして自分を犠牲にするという事です。私たちの愛する家族の為に、私たちの愛する祖国の為に、私たちの愛する人々の為に、自分を与え尽くすという事です。これこそが、イエズス・キリストの与えた愛の掟であって、十字架に付けられたイエズス・キリストの愛に応える為に、そのはかり知れない愛に応える為に、私たちを与え尽くす事です。

 栄えの玄義は、私たちの人生の究極の目的がどこにあるかを示しています。究極の目的とはこの地上に楽園を作る事ではありません。究極の目的とは皆さんのポケットをお金でたくさん詰め込む事ではありません。この究極の目的というのは仏教でいうニルバーナに悟りに到達する事でもありません。この世の究極の目的というのは、永遠の福楽、永遠の命、天国での至福です。皆さん、山の彼方にある素晴らしい大神殿、大宮殿、それはあなたのもの、皆さんのものなのです。そして私たちの人生というのは、その毎日毎日の、そこの復活に辿り着く為のモチベーションであって、動機付けであって、それへと行く事です、辿り着く為のその大きな願いを持つ事です。

 そしてこの三つの鎖が、三つのこの輪っかが私たちの道を、私たちの人生の道標となって、どうやってどこに進むべきかを教えてくれます。そしてこのロザリオの鎖は、同時に花束を作って、毎日私たちはそれを主イエズス・キリストに捧げる事ができるようになっています。

 では、私たちは何を主に与えますか?まず私たちは私たちの知性を与えます。私たちの信仰によって、「イエズス・キリストよ、御身は私の全てです。」と。

 第二の贈り物は私たちの意志です。私たちは、「Yes. はい。イエズス・キリストよ。私はあなたに従います。あなたに従って十字架を担ぎます。そして、最後に復活まで辿り着きます。」と。

 「そして無原罪のマリア様を通して、インマクラータを通して、私の心をあなたに捧げます。そして御身を愛し奉り、そして永遠の永久の愛の王国の一部となりたいのです。」

 このロザリオこそ、聖ピオ五世のおかげで、私たちが手に持っている宝物であるのです。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話8「コルベ神父様の無原罪の聖母の騎士について」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年5月5日、秋田巡礼でシュテーリン神父様がなさって下さった霊的講話のその8をご紹介します。
 今回は、シュテーリン神父様はコルベ神父様とゼノ修道士について驚くような話をして下さいます。全ては無原罪の聖母であるインマクラータの御業です。
 つまり、コルベ神父様の創立した「無原罪の聖母の騎士」についてです。これが第二バチカン公会議後、どのように変えられてしまったかについて話して下さいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話8

同時通訳:小野田圭志神父

 では、今日のこの最初のお話では、コルベ神父様の創って下さった、「無原罪の聖母の騎士」とはどういうものか、それについて話をしたいと思います。

 コルベ神父様は、子供の頃は非常に性格が悪かったので、乱暴で、その為に一生懸命それを直そうと努力しなければなりませんでした。良い子供、性格は良かったのですけれども、でも非常に怒りっぽくて、それを直す為に色々努力しなければなりませんでした。このご自分のお母さんでさえも、本当に自分の子供マキシミリアノを見て、「あんたは本当に心配です。あんたこのまま大きくなったら、ヤクザか暴力団になってしまうでしょう。」と、言いました。そこで、このお母さんの言葉を聞いたコルベ・マキシミリアノは、ポーランドの秩序を受けてマリア様に対する大きな愛を持っていたので、すぐマリア様の所に行って助けを求めました。

 するとマリア様は、「レイモンド(幼名はそうなのですけれども)、」二つの冠を見せて、「どちらを取りますか?」と、聞きました。一つは赤い冠で、殉教の冠でした。もう一つは白い冠で、純潔の冠でした。「どちらを選びますか?」

 「私は二つ欲しい。」幼きマキシミリアノ・コルベは、その時既に分かっていたのです。つまり、マリア様と一緒にあるならば全てができる、しかしマリア様と一緒でないならば何もできない、と。

 ポーランドのマリア信心というのは、非常に戦闘的な信心です。何故かというと、歴史的にいつもポーランドは外部から、プロテスタントやイスラム教やその他異教から攻撃を受けていて、それを守らなければならなかったからです。攻撃があって、自分を守らなければならない時に、もしもポーランドのマリア様に助けを求めて奉献するならば、必ず勝利を収めていました。そうでなければ負けていました。ポーランドでは、ポーランド語でマリア様に対して特別の称号を持っています、それは「へトマンカ」と言って、それは「総指揮官」という意味です。

 コルベ神父様は、フランシスコ会会員として修道生活を始めますけれども、フリーメイソンからのカトリック教会への攻撃を見てすぐに、「あ!この攻撃を受けている教会を守るのはマリア様だ!」と、すぐ分かりました。

 1917年、当時コルベ神父様は神学生で、ローマで勉強していました。そこで二つの博士号を取るのですけれども、その目の前で目撃したのは、人類の歴史上最悪の出来事でした。

 1917年10月のことです。レーニンは10月革命を行い、共産党はロシアを倒し、ソビエト政権を成立させます。同時にローマでは、フリーメイソンがヨーロッパ中からローマに集まり、創立200周年をローマで大々的に行っていました。教皇様はバチカンに隠れ、司祭たちも、街に出る事ができずに家に隠れなければなりませんでした。何故かというと、フリーメイソンが教会の敵として堂々とローマ市を占領していたからです。そのローマ全てを占領してしまったフリーメイソンたちは、大きな宣言をして、「私たちはカトリック教会を破壊する!サタンはバチカンを支配する!」と、宣言していました。そのような時に、司祭や修道士たちが街に出て姿を見せる事は非常に危険でした。司祭、或いは修道者たちは家の中で祈って、「このままいったらどうなってしまうのだろうか。ローマはどうなってしまうのだろうか。教会はどうなるのか。世界はどうなってしまうのだろうか。」と、非常に恐れていました。

 そこで、この若き修道者は長上に言って、「長上の神父様、私たちには解決があります、方法があります、聖母マリア様です。校長神父様、6ヶ月前に神父様はちょうど私たちに、アルフォンソ・ラティスボンの奇跡的な回心について説明して下さったではないですか。その回心はまさにこのローマで起こりました。覚えていますか、マリア様の不思議のメダイによって、教会を憎み破壊しようと企んでいたユダヤ人ラティスボンが、奇跡的に回心して、しかもローマで回心して、修道会を創立したという話を。それがちょうど75年前にローマで、回心の奇跡があったのです。」

 マキシミリアノ・コルベは校長先生に、マリア様のなさった奇跡的な大勝利の話を一つ一つ、これもあった、これもあった、これもあった、これもあった、と思い出させます。特にポーランドで、マリア様はどれほどの勝利を下さったか、という事を懇懇と説明します。ロザリオによる大勝利の話も校長先生にしました。不思議のメダイを身に付けた方々の、ものすごい奇跡をたくさん頂いた、という話をたくさん知っていました。

 ちょうど1年前、実はこのマキシミリアノ・コルベ神学生は、親指を失う寸前でした。ところで、「親指が腐っていますから、どうしても切断しなければならない。」と、お医者さんが言いました。でも、もしも親指を切断しましたら、司祭にはなれません。そこで、ルルドの聖水が与えられて、コルベ神学生はルルドの水を付けると、その翌日には治っていました。そこで校長先生にその事を説明して、この自分の体でもそういう事が起こっている、自分に奇跡が起こっている、という事を話します。

 「聖務日課では、毎週土曜日こうしてお祈りするのではないのですか?先生。“御身御一人が、全世界の異端を滅ぼし給えり”と。天主様の約束、“彼女は,悪魔の蛇の頭を踏み砕くだろう”という約束をお忘れですか?マリア様は、全世界にはびこる悪魔を皆集めても、更に強い、という事を知っていらっしゃるでしょう?マリア様は、この全世界の人々のものすごい、それが例えものすごい悪人であって罪人であったとしても、回心させるお恵みを持っていらっしゃるでしょう?例えそれが、ラティスボンのような極悪の人であっても。」

 「何が私たちに必要でしょうか?」コルベ神学生は校長先生に、私が昨日皆さんに申し上げた事を、同じ事を言います、「校長先生、マリア様は道具が必要です。言い換えると、校長先生、マリア様には、マリア様の周りを取り囲む軍隊が必要です。この軍隊が、マリア様を攻撃する、教会を攻撃する巨大な敵に対して、戦いを挑まなければなりません。校長先生、今全世界の半分は、共産主義によって占領されようと、残る半分はフリーメイソンによって占領されています。フリーメイソンが、私たちのこの目の前で‘教会を破壊し尽くす!’と、言っているではないですか。私たちはそのそれを見て、ただ涙ながら、‘あぁ~どうしようどうしよう。’と、言うだけでは十分ではありません。何かしなければなりません。」

 これはコルベ神父様の言った事ではないのですけれども、私の言葉ですけれども、皆さん考えて下さい。これも悪い、あれも悪い、こんな悪い事があって、こんなに世の中悪い、と言うのは非常に簡単な事です。ところで残念な事に、聖伝の信者でも、「これが悪い、この人が悪い、あれが悪い、あれが悪い、こんな事が起こった、教会はこーだあーだ。」と、話す人がいます。「この人がフリーメイソンだ、あれがフリーメイソンだ、あれはどーのこーの。」と、話す人もいます。皆さん、南米でブエノスアイリスで物凄い酷い事が起こっています。今日、今朝、教皇様が酷い事を言いました。ハワイのホノルルの司教様はこんな事を言いました。私の教区の、小教区の主任司祭は、私たちにこんな御説教をすごい…。皆さん、私たちはそのような事が全てもう暗記して暗唱する事ができるほどよく知っています。しかしそれらの羅列をこう並べてみても私たちは解決の何の役にも立ちません。

 そこで、コルベ神父様はこう言うのです、「ですから校長先生、私たちは立ち上がって何かをしなければなりません。軍隊を作らなければなりません。」

 皆さん、私たちはよく知っています、私たちは本当に役に立たない哀れなほうきであって、0(ゼロ)に等しいものです。でも例え0でも、その0がいくら重なっていても、マリア様が1をその前につけてくださるので、マリア様は必ず勝利します。勝利を収めます。

 1917年10月16日、長上の許可を得て、「無原罪の聖母の騎士」が創立されます。その3日前には、ファチマでは巨大な「太陽の奇跡」をマリア様はおこなっています。でもその当時には、携帯とかiphoneとかインターネットがなかったので、テレビもラジオもありませんでした。ファチマで起こった出来事は、数ヶ月後にようやく辿り着きます。10月16日、ファチマの事を知らずに、7名のメンバーをもって「無原罪の聖母の騎士」が始まります。

 ところで、マリア様がどうやってコルベ神父様を教育したか知っていますか?厳しく教育しました。この創立から1週間後に、休憩のときにいきなり血を吐き出します。結核でした。1週間後には、コルベ神父は話す事もできずに、休息をしなければなりませんでした。1週間前に創立したばかりの「無原罪の聖母の騎士」何もすることができませんでした。皆にとって、「何だ、下らない夢想家が夢をみたに過ぎない。」と、しか思いませんでした。何故かというと、その当時結核というのは、「死」を意味していたからです。

 ですから1年後、皆「無原罪の聖母の騎士」について全く忘れ去ってしまって、ただコルベ神父様だけが、この夢をただ思っていただけでした。マキシミリアノ神学生は、夢をみつつ、健康を少しだけ回復して司祭となり、ポーランドに帰って来ます。

 ポーランドに帰るや否や、「無原罪の聖母の騎士」について話し始めます。その後に、最初の500、或いは600名のメンバーを登録します。せっかくそうして始まったにもかかわらず、1ヶ月の後にはまた結核になり、結核の療養所「サナトリウム」に行って、1年休まなければなりませんでした。こうやって5年が過ぎました。

 こうやって5年経って行くと、その周りにいた修道士たちは、マキシミリアノ神父について、「この今死にそうで、今結核で死にそうにハァ、ハァしているこの神父が、全世界を征服すると言っている。」と、言って皆笑っていました。

 ところが、マキシミリアノ・コルベ神父が病気でほとんど弱りかけてハァ、ハァ言っているだけなのにもかかわらず、その「無原罪の聖母の騎士」は、どんどんそのメンバーは増えて増えて増えていくのです。

 そこで、じゃあ、という事で、ニュースレター、雑誌を印刷し始めます。「その印刷の為のお金を恵んで下さい。」と、言って回りました。一人で編集して、印刷のを作って、それで印刷機を回して、それで配って、たった一人でやっていました。そうやって5000部、最初作りました。

 するとその直後に、5000名の人々が、「騎士になりたい。」と、言って来ました。

 そこで、他の印刷会社に行って印刷を頼むとお金がかかるので、その最初に来た献金を使って、印刷機を買います。その当時は、手でこう印刷する機械でした。最初に買った機械は、印刷の途中壊れてしまいます。でも壊れてしまっても、コルベ神父様はとても機械に強かったので、それを修理して直してしまいます。この印刷機のニックネームがついてしまって、それは、「おばあさん」でした。その周りにいた修道士達はコルベ神父様に、「コルベ神父様は、この‘おばあさん’を持ってちょっとおかしくなった。」と、言って皆笑っていました。

 そのような嘲りとかを受けながら、コルベ神父様はただニッコリと笑って、おそらくこの我慢して、じっと我慢して耐え忍ぶのは大変だったと思うのですけれども、じっと我慢してそれをお捧げしていました。

 ところで、コルベ神父様が受ける嘲りにもかかわらず、騎士たちは増えて増えて増えて、たくさんの騎士たちが増えて、入会所を求めてきました。そこで長上はコルベ神父様を、ロシアとポーランドの国境堺の僻地で、何もない、ただの荒れ地に置きます。何故かというと、その修道会、修道院は何もない所を持っていたからです。

 そこで3人の修道士が送られます。コルベ神父様と、もう一人のブラザーと、もう一人は修練者で修道者になりたいという人でした、3人です。その何を持って行ったかというと、カバン1つで行きました。

 5年後1927年、3人で始まった修道院は、23名の修道士に増えました。当時【修道者以外の】6万名の騎士がメンバーとなっていました。昔空っぽであった修道院の家はもう、ブラザーたちを収容する部屋はありませんでした。そこで1927年5年後には、入会を求めるブラザーたちを受け入れる事ができるように、別の場所を探していかなければなりませんでした。

 そこで、寄付をして下さる恩人がいて、ワルシャワ郊外に土地を買いました。そこで、その買った土地にマリア様の御像を立てて、「マリア様、これはあなたの土地です。これはあなたの都市です、あなたの街です。インマクラータ無原罪の街です。」

 1927年8月6日、周囲にいた小教区の主任神父様たちを呼んで、マリア様の御像の献銅式をしました。そこの儀式、セレモニーの献銅式に集まった神父様たちは、「コルベ神父様、無原罪の聖母の《街》ですか?無原罪の聖母の《都市》ですか?でも、これは荒れ地で荒野で、小屋の一つも無いじゃないですか。ちょっと頭が… どこかネジが外れてませんか?」

 そこで同じ1927年8月に、23名の今までいたブラザーたちが、新しく買った土地に移動します。3つのあばら小屋を立てます。1つはチャペルで、私たちの主イエズス・キリスト様の為です。もう1つは使徒職の、印刷機の為です。最後の1つは、ブラザーたちの住む家でした。冬は寒くて、修道者たちはもう死ぬばかりでした。

 この冬凍えて死にそうだったブラザーたちがいたのは、1927年。それから12年後の1939年、覚えておいて下さい、39年、その時にはこの土地には、建物が30棟ありました。世界中で最新の印刷機が、そこにはありました。毎月、少なくとも100万部の「無原罪の聖母の騎士」の雑誌が印刷されていました。20万部毎日印刷される日刊紙もありました。

 ところで、世界史、経済史上、この1939年というのは、ウォール・ストリートの暴落から始まった大危機で、経済的な大危機で、色んな会社が倒産して、新聞会社が倒産して、もう経済が立ち行かないという時に、マリア・コルベ神父様の新聞社だけが、どんどん部数を伸ばしていました。

 12年前、誰も住んでいない荒れ地だったその土地には、マリア様の無原罪の都市には、その時12年後、約1000名の人々が住んでいました。13名の司祭、762名の修道者、この全てが、この12年の間にここに入会して修道者となった人々です。150名の神学生たちもいました。彼らは将来宣教師となる為に、そこで訓練を受けていました。12年後には、世界で一番大きな修道院となりました。全世界では、「無原罪の聖母の騎士」のメンバーは、400万名を超えました。

 ところで、コルベ神父様は実は、無原罪の聖母の都市を創立した3年後には、宣教に旅立って出ていたのです。どこに行ったかというと、日本でした。

 コルベ神父様は日本の長崎に来て、第2の無原罪の聖母の都市を創立して、第二次世界大戦後は、それは日本の宣教の最も重要な中心地となります。

 第二次世界大戦後、つまりコルベ神父様が強制収容所で亡くなった後には、2つの国のみならず、「無原罪の聖母の騎士」は全世界に広まります。「無原罪の聖母の騎士」のメンバーで、多くの人々が殉教者として聖なる死を遂げました。この「無原罪の聖母の騎士」は、多くの人々の回心の為の道具となり、多くの異教徒たち、例えばアフリカ、或いはロシア、或いは中国、日本の人々をカトリック教に導きました。

 ではどうやって、コルベ神父様はこの事をやったのでしょうか?どうやったかというと、コルベ神父様は、たくさんの0を集めたのです。この0がたくさん集まって、マリア様が1として、ゼロの前にとして立ったので、大勝利を収めました。

 私たちは、このコルベ神父様のやった事を続けなければなりません。いやそればかりではなく、今こそ、コルベ神父様よりももっと、無原罪の聖母の助けが必要だからです。

 この次の拷問…お話で、この終末の時代に於いて、無原罪のマリア様がどれほど大切かという事を、皆さんに是非説明したいと思っています。

 コルベ神父様がカトリック信者たちに、「さあ、マリア様の道具となって下さい。」と、言って、答えると、「では何をしたら良いのですか?」でも、コルベ神父様はほとんど何の答えもありませんでした。「無原罪の聖母の騎士」というのは、他の色々の運動とは違っています。要はそのようなものよりも、もっと少ないと同時に、それよりももっと多いものです。これはほとんど無い、より少ないものなのです。何故かというと、例えばレジオ・マリエとか他の色々な信心会では、色んな事をしなさい、こうしなさい、こうしなさい、こう約束します、というのがあるのですけれども、「無原罪の聖母の騎士」のはそのようなものはほとんど無いからです。

 レジオ・マリエでは、必ず毎週1回、1時間半のミーティングがありますし、毎週、少なくとも1時間半の本質的な使徒職をしなければならないし、色んなその他のお祈りもしなければならないし、色んな義務があります。確かにレジオ・マリエというのは、マリア様から選ばれたエリートたちの選び抜かれた軍隊ですが、全ての人がそれに入って、その同じ様に仕事ができるとは限りません。

 コルベ神父様が求めた義務というのは、「もしもできるならば、不思議のメダイを身に付けて下さい。何故かというと、マリア様がそれを私たちに求めたからです。もしもできるならば、1日少なくとも1回、この不思議のメダイを私たちに下さった時に、マリア様が私たちに教えて下さった祈りを1回だけ唱えて下さい。“あぁ、原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身により頼み奉る、罪人なる我らのために祈り給え。”」

 これだけです。もう無いに等しいものです。それと同時に、「無原罪の聖母の騎士」は、もっと多く要求しています。何故かというと、それは外的な形式というよりも、生き方の問題であるからです。核心の問題です。

 つまり今までの生活とは違う生活が始まった、つまり「今からはマリア様の道具だ!」道具の生活が始まるからです。つまりこれからは、ただ単に天主を賛美して霊魂を救うのみならず、もっと更にもっと、マリア様を助けて、多くの霊魂の救霊の為に働くからです。

 「無原罪の聖母の騎士」になるという時には、確固とした決意を立てて下さい、「これからは、マリア様の汚れ無き御手の内に於ける、良き道具となって生きる。」という事です。

 皆さんは申し込み書に名前を書いて、アドレスを書いて、メールのアドレスを書いて、この会員の登録をして下さい。その会員の登録の番号も受けて下さい。その後に、入会の証明書を受けて下さい。その証明書の裏には、マリア様への奉献の祈りが付いています。司祭が確かに受けた、というサインも付いています。時々、この自分がマリア様の道具となった、という事を思い出して、この奉献の祈りを唱えて下さい。

 コルベ神父様は、マリア様が非常に賢いお母さんだという事を知っています。コルベ神父様はですから、マリア様にちょっとだけやれば、マリア様が取ってしまうという事を知っています。だからコルベ神父様は大成功したのです。

 コルベ神父様がやったのは、「これを始めて下さい、」と。ちょっとこの、「“原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、”という小さなこの射祷を唱えて下さい。」という事だけでした。

 ほんのちょっとこの指先をマリア様に与えるだけで、すると、皆さんが昨日よく聞いて下さったように、「私はもっとマリア様の為にする事ができる。もっともっともっともっと。」と、いう情熱が湧き起るではないですか。皆さんはその騎士となるという事で、宣言して、その教会の代表者として送られた司祭の前に証人として、「騎士となるという事を、分かります。」と、宣言します。

 今後これから、霊魂の救霊の為に、ちょっとした祈りをするという事を始め出します。最初は一日数回かもしれませんけれども、更にもっとたくさん。もしかしたら、突然、信者じゃなかったご主人が、「カトリックになりたい。」と、言うかもしれません。そのお祈りの後に、今までカトリックから離れていた子供が、カトリックに興味を持ちだすかもしれません。「あれ?すごいなぁ、これは。もっとやってみよう。」もっともっとこの小さな祈りをたくさん唱えるようになります。

 もしかしたら、辛い事が日常生活で起こって、苦しい事が起こるかもしれませんけれども、その時は今度からは、「あ!霊魂の救いの為にこれを捧げよう!ファチマでも、マリア様は“祈りと犠牲を捧げて下さい”と言った。さぁ、これを、苦しみを捧げよう、この時間を捧げよう。」と、なります。

 「昨日は、そういえば祈りと犠牲だけでなくて、私が受けた天主様から与った才能を、霊魂の救霊の為に、隣人の救霊の為に使う事ができる、と言ってたなぁ。コンピューターを良く知っているし…」「あぁ僕は文章を書くのが好きだなぁ。」「絵を描くのが好きだなぁ。」「私にはこの才能がある。」「私にはこの才能がある。」「私の才能は、皿洗いをする時にいつもお皿を割っちゃう事です。以前はそれがちょっとおっかなかったけど、でもこれからは、割れたお皿をマリア様に捧げます。」

 こうやって皆さんの人生を新しい人生に変えて下さる、それが、「無原罪の聖母の騎士」に起こっている事です。

 このような物凄い変化の、聖化の例は、ポーランド人の日本における英雄がいます。

 皆さん知っているかもしれませんけれども、或る、ポーランド人の、本当にもうとんまな、頭の足りない男がいました。1925年だったと思うのですけれども、コルベ神父様の建てた「無原罪の聖母の都市」に入会しました。何でか知っていますか?何で他の修道院に行かずに、こっちの修道院に行ったか知っていますか?何故かというと、この男は、コルベ神父様の無原罪の聖母の都市に行けば、入会者には新しい靴がもらえると聞いていたので、「じゃあ、新しい靴をもらいに行こう。」と、思って行ったのです。

 その最初に与えられた任務は、この印刷された雑誌のパッケージを、それを郵便局に運ぶ事でした。そこでこの男は、郵便局に行く時には、コルベ神父様の新しい靴をいつも履いて行きました。コルベ神父様はある時、この自分で色々考えて考えて考えて、その原稿を紙に、雑誌に載せる記事を紙に書いて原稿を書きました。ところで、このブラザーが、書いた原稿を雑誌を包む包装紙に使ってしまったという事を知ります。

 1930年、コルベ神父様は、この修道者を日本に一緒に連れて行きます。ところがこのポーランド人の修道者は、日本に来ても日本語のアヴェマリアを、めでたしを覚える事ができませんでした。最初の、「めでたし聖寵うんぬん…」は日本語ですが、その後は、必ずポーランド語で終わっていました。一生涯日本語を覚えれませんでした。

 この男こそ、この修道士こそ、日本の英雄、日本で多くの人々を救った英雄、「ゼノ」修道士でした。

 この愚かだった、このとんまだまぬけだ、とポーランドで思われていたこの男を、無原罪の聖母は、日本の大英雄に、大聖人に変えたのです。このゼノ修道士こそ、コルベ神父様の命を受けて、そのコルベ神父様の名前によって、「無原罪の園」を建てました。

 第二次世界大戦で日本が被害を受けて、原子爆弾が長崎に落ちて、多くの人が、食べる物も無く家も無く苦しんでいた時に、このゼノ修道士は彼らに家を建てて、世界から送られた食べ物を皆に配り、天皇陛下から感謝の勲章を受けました。

 ですから皆さんは、自分がちょっと間が抜けている、といっても恐れないで下さい。惨めな罪人だとしても恐れないで下さい。ちょっとしただけでも、指をマリア様にあげて下さい、マリア様は全部取ってしまいます。

 本当は10時で終わるのですけれども、始まったのが9時5分だったので、5分皆さんを拷問で苦しめる事にします。

 ところで、この「無原罪の聖母の騎士」、また「レジオ・マリエ」、それから「ブルー・アーミー」という、カトリック教会が20世紀に生み出した3大の、ものすごい偉大な大事業が、いきなりストップします。

 1965年、第二バチカン公会議の終了直後、カトリック教会は全ての分野に於いて、全体、全面的な改革を行います。そこでこれら3つのマリア様に対する信心会は、突然ストップしてしまうのですけれども、何故かというと、なぜならばこの3つの目的としていたものは、第二バチカン公会議の目指していたものと正反対だからです。

 第二バチカン公会議以前のこの3つの団体は、マリア様と共にあるならば、地獄を避ける事ができ、多くの霊魂を救って、地獄の火から救う事ができる、という事を教えていました。

 しかし第二バチカン公会議は、地獄の事を一度も語りません。第二バチカン公会議以後は、「戦闘の教会」という事も聞きません。地獄を避け、天国に行く為に霊魂を救うのだ、という事は突然ストップしてしまいます。「この世に新しい世界を建設する、この世に楽園を建設する、この世に天の御国を建設する。」という事を言い出します。「全民族の平和と愛の社会を作る。」「だから宗教は互いに戦い合うのではなくて、一つにまとまらなければならない。」「だから、他の人をカトリックに改宗させるなどというのではなくて、他の人の宗教の前に尊敬を表して、頭を下げて平和を保たなければならない。」

 ところが、コルベ神父様が、「無原罪の聖母の騎士」で求めていた事は、「罪人の回心、異端者の回心、フリーメイソンの回心、ユダヤ人の回心。彼らが、イエズス・キリストの戻ってくるように、その為に戦う、その為に力を尽くす。」と、いう事です。しかしそれは全てストップしています。

 コルベ神父様が作った祈りも変えられてしまいます。「御身によりすがる我らの為に、“特に、フリーメイソンの為に”」等という言葉があったのですけれども、フリーメイソンも私たちの敵ではないという事で、それはカットされてしまいます。

 1974年には、「無原罪の聖母の騎士会」の新しい会則が出ます。そこで新しい会則には、「私たちは、第二バチカン公会議の成功した新しい精神を実践しなければならない。」「回心させる」という言葉の代わりに、「他の宗教の人達と、友好的な対話をする」という事に変えられてしまいます。

 1998年、新しい改訂版が出て、それが決定的に義務となりました。ところでどうなったかというと、「無原罪の聖母の騎士会」というのはラテン語では、「Militia“軍隊”」となるのですが、その言葉も変えられてしまいます。何故かというと、「“軍隊”と言うと、この平和の世界に於いては合わない。」と、いう事です。「Militia“軍隊”」の代わりに、「Mission」と、いう言葉がフランス語では与えられています。

 「まぁ、そんな事を言うよりも、回心させる必要はもうなくなったんだ。」「マリア様は私たちの姉妹であって、マリア様は私たちの世界に於いて、平和を促進させる方だ。」「マリア様は私たち人間と同じ救われた方だから、その道徳的な価値や、或いは人間の尊厳を促進させる為に、マリア様はいらっしゃるんだ。」

 そこで、聖ピオ十世会の総長フェレー司教様が私に、2000年、ちょうど2000年、私に特別の許可を下さって、聖マキシミリアノ・コルベ神父様が始めた1965年、或いは1974年までずっとやって来られた、そのまさにそのままの「無原罪の聖母の騎士」をもう一度始める、再開させるという事の許可を得ました。

 これは、今から15年前の2000年の聖母月、5月の初土曜日、つまり5月の6日、明日その日付ですけれども、の事でした。

 最初の年は、非常に私にとっても難しい年でした。何故かというと、このポーランドの人が、私たちのやろうとしている事が一体何なのか、よく理解されてなかったようです。2000年当時は、ポーランドの聖ピオ十世会は非常に小さなものに過ぎませんでした。

 その当時、ある管区の管区長が、聖ピオ十世会の管区長が私に手紙を下さいました、「神父様、本当にあなたはちょっと頭がおかしいですね。」実はコルベ神父様も、「インマクラータの馬鹿」と言われていたので、「あ!コルベ神父様と同じ名前が与えられた!」と思って、とても嬉しく思いました。

 2002年には、フランス管区が聖ピオ十世会で第2に、「無原罪の聖母の騎士」を再興させる事を、もう一度始める事を受け入れました。

 2003年に、この赤い表紙の小さな本を私は作って、日本語にも訳されています。その時にアメリカ管区で、「無原罪の聖母の騎士」が、もう一度再開しました。

 2004年には、「無原罪の聖母、私たちの理想」という本を書いて、「無原罪の聖母の騎士」の目的とか、その意図する所を説明する本が出ました。この本は今では10カ国語に訳されています。これによって、「無原罪の聖母の騎士」が何であるか、より良く知られる事になりました。

 私が去年8月に、ヨーロッパを発ってアジアに来る時には、全世界で約6000名の方が「無原罪の聖母の騎士」になりました。

 去年の12月の8日、アジア管区で、「無原罪の聖母の騎士」を再開させました。アジア管区だけでは、まだ最初で始まったばかりなのですけれども、1000名の騎士のメンバーを抱いています。同じ日に、ドイツとスイスとオーストリアで、「無原罪の聖母の騎士」が聖伝に従って再開しました。

 イタリアと南米のいくつかの国でも、「無原罪の聖母の騎士」が始まっています。

 ところで、2017年5月13日までに、10万名の「無原罪の聖母の騎士」が必要とされています。もしも皆さんが1974年以降、「無原罪の聖母の騎士」のメンバーとして登録されたのであれば、聖伝に従って是非登録して下さい。何故かというと、1974年以降に入会された方は、新しい規約、新しい会則に従って入会されたのであって、それはマキシミリアノ・コルベ神父様の作った会則とは、違う会則で入会されているからです。

 皆さんの忍耐を乱用してしまったようです。次のお話はもっと短くなります。次のお話は1時間15分の代わりに、大サービスで1時間10分にします。15分お休みがあります。


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사랑하올 형제 자매 여러분,
성비오10세회(SSPX)
웹 사이트를 소개합니다.
SSPX KOREA

毎年恒例の聖ピオ十世会公式秋田巡礼にご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。

《罪なく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

シスター・ルチア「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。」

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」

御復活の主日の 公教要理 教会のなかに良い麦の中に毒麦がある神秘(レネー神父様)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が、大阪で、復活祭のミサの後に次のような公教要理のお話をして下さいました。元々はソウルで聖木曜日になさったミサ聖祭でのお説教です。

 まず神父様は、聖木曜日になされたユダの裏切りについて考察します。主から特別に選ばれ、愛され、恵みを受けてきた使徒でさえ、裏切りを働いたというのは、驚くことですが、私たちの主はそれが起こることを許しました。

 次に、裏切るものに対して私たちがどのような態度を取るべきかを考察します。教会の中の悪しきメンバーに対して、どのような態度を取るべきでしょうか。悪しき指導者たちに対してどう言う態度を取るべきでしょうか。

 悪しき者たちとの交わりは、絶対的に断固として拒絶するべきでしょうか。ちょうどノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、カタリ派、がそうしたように。

 レネー神父様は、聖アウグスティヌスに従って、教会のメンバーたちに対する愛の結びつきについて語ります。

「教会の中では、悪しき者と交わることは、その悪に同意しない限り、良い者を傷つけない。教会の中での交わりは本質的に私たちの主イエズス・キリストとの交わりであるから。」

 カトリック教会との結びつきは、ただ単に教皇を理論的に認めることではなく、まさに実際の結びつきのことである、と。教皇や教会のメンバーとの交わりを実際に拒絶することは重い罪であり、教会の最初から重い罪として常に非難されてきた、と。

 「カトリック教会において、教皇との交わりは、キリストの代理者としての教皇との交わり」であることをレネー神父様は確認します。だから、「教皇が現代主義者であるという口実のもと、教皇に対して実際に教会法上の従順を拒絶するならば、教皇を理論的にだけ認めているとしても、事実上キリストとの結びつきを断ち切ることになるのです。」

 聖ピオ十世会は、聖アウグスティヌスの教えに従い、もっともカトリック的な立場を取っています。

 何故なら、聖ピオ十世会は、修道会として当然もっているべき正当な教会法上の立場をローマに求めているからです。しかし、聖ピオ十世会は、教理的には、妥協することはありません。

 聖ピオ十世会は、たとえ教皇が現代主義者であったとしても、正当な教会法上の立場を求めることそれ自体は妥協ではないと認めています。これは正義にかなっていることだからです。

 しかし、現代主義者がいる限りローマとのいかなる接触も拒絶する人々の態度は、カトリック教会について間違った概念を抱いている人々の態度です。

 つまり、カトリック教会は健全な部分のみから成りたっているはずだ、というドナトゥス派かカタリ派のような態度です。

 つまり「眼に見える(visible)教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリック(普遍)の、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」(That part alone of the visible Church is Catholic which is one, holy, universal and apostolic. The rest is various sorts of rot.)という態度です。

 また言い換えると「 "公式の教会" は、四つの印に従えば、大部分が "公会議の教会" であってカトリックではない」(Since these today are largely Conciliar, so the “official Church” is largely Conciliar and not Catholic, according to the four Marks.)という態度です。

 更に言い換えると「麦ともみがらが混ざり合っているような状況で、私たちは何をすればよいのでしょうか? 畑に赴き続けるのでしょうか? いいえ!」(In case of such entanglement, as for the wheat and the chaff, what do we do? Do we go on the field? No!”)という態度です。

 もしも "公式の教会" がカトリック教会ではないならば、もしも、今のローマが現代主義者に占領されている限りカトリックではないのならば、そのような態度を持つ人々は、ローマとは一切関係を持つべきではないと、ローマを破門する態度を示します。

 たしかに "公会議の教会" (今は癌のように成長し、ますます自己形成しつつあります)が、将来、カトリック教会とは全く別の独立的な自立的な存在として、決定的に生まれ出る可能性があります。しかし、間違った態度は、すでに、今のローマのもとにあるカトリック教会が、可能性(in potentia)としてでは無く完成された存在(in actu)として、イエズス・キリストの建てた教会ではない新しい公会議の教会として、一切の関係を絶つ態度です。

 これは聖ピオ十世会の創立者の態度ではありません。聖ピオ十世会の態度でもありません。

 ルフェーブル大司教は、聖ピオ十世会の正当な教会法上の立場を求めていました。聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の行なわれた努力をそのまま続けるだけです。

 レネー神父様は、ここでカトリック信仰のドグマを強調します。つまり「教会の中には善い人々と悪しき人々がいる」こと、「教会の外に救いなし(EXTRA Ecclesiam nulla salus)」ということ、「教会に悪しき人がいるという口実で、教会から離れてはいけないこと」です。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


大阪での御復活の主日(2015年4月5日)の
ミサの後になされた公教要理(レネー神父様)

 親愛なる兄弟の皆さん、

 「パンを取り、感謝して裂き、弟子たちに与え、『これはあなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行え』と言われた。食事ののち、杯も同じようにし、『この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約である。私を裏切る者は、私とともに手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去る。だがそれを裏切る者は災いである』と言われた」(ルカ22章19-22節)

 この聖ルカ福音書の一節から、私たちの主イエズス・キリストがご聖体を制定なさったとき、ユダが食卓に就いていたのは明らかです。そして、ユダは汚聖の聖体拝領を行いました。聖マテオ福音書、そして聖マルコ福音書は、ご聖体制定の前に、このユダの裏切りの告知を述べています。しかし、この違いは簡単に説明できます。聖マテオはしばしば、時系列よりも主題によって出来事を要約し、まとめているからです。私たちの主イエズス・キリストは、天主としてすべてをご存じでしたから、教会の中で、悲しいことですが、汚聖の聖体拝領がたくさん起こること、またたくさんのふさわしくない司祭や司教(そして、ふさわしくない教皇)さえもが現れることをご存じでした。ですから、主は使徒の一人がご自分を裏切るのを防ぐことはなさいませんでした。

 ユダは将来起こるすべての裏切りの型であり、そのような裏切りへの強い警告だったのです。「それを裏切る者は災いである」(ルカ22章22節)。救い主である天主が、私たちが天主を裏切ることのないようお助けくださいますように。いとも忠実なる童貞が、私たちをお守りくださいますように。裏切りをしない恩寵を得る条件は謙遜です。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。

 良きメンバーは、これらの裏切り者に対してどういう態度を取るべきでしょうか。狼が何頭か中に入って来たからといって、羊は主の囲いから逃げ出すべきでしょうか。(マテオ7章15節)もみ殻のせいで、良い麦は麦打ち場から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ3章12節)良い麦の中に毒麦があるからといって、良い麦は畑から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ13章26節以下)もし逃げ出してしまうなら、主の納屋に集められることは決してないでしょう。それどころか、去っていく者は、まさにその去っていくという事実によって、風で運ばれていってしまうもみ殻だとされます。悪い魚がいるからといって、良い魚は主の網から逃げ出すべきでしょうか。(マテオ13章47-48節)。逃げ出す魚は、主の器に集められることは決してありません。

 親愛なる兄弟の皆さん、教会の歴史を通じて、主の網には悪い魚がおり、主の麦打ち場には良い麦と共にもみ殻があり、主の畑には良い麦と共に毒麦がありましたが、そのこと自体が多くの人々にとって大きな試みとなってきました。悪しき者たちとの交わりを拒絶する人々が繰り返し現れました。ノヴァティアヌス派、ドナトゥス派、カタリ派がそのような人々であり、のちにはプロテスタントでさえこの点で教会を攻撃しました。しかし教会はいつもこのような態度を拒絶してきました。ですがそんな彼らは忍耐することを拒絶し、周りの人々を高慢に非難することで、事実上自らを教会の外に放り出すのです。そうなれば、「教会の外に救いなし」です。

 これは大変重要なことです。キリストの教会、つまりカトリック教会の中以外では、誰もキリストの命を生きることができないのです。キリストの体、つまりカトリック教会の中以外では、誰もキリストの霊によって命を与えられることができないのです。愛がなければ、つまり教会の愛と「完徳のかなめ」がなければ、誰も救われることができないのです。この教会との結びつきは、ただ単に教皇を理論的に認めることではなく、まさに実際の結びつきです。教皇との交わりを拒絶し、教皇に対して教会法上の正常な状況に自らを置こうとするのを拒絶するならば、教皇を認めると主張することは何の役にも立ちません。私たちが「一、聖、公、使徒継承の教会を信じ奉る」というのはカトリック信仰の一部であり、その教会が、教会の外に救いなしというローマ・カトリック教会なのです。教皇や教会のメンバーとの交わりを実際に拒絶することは重い罪であり、教会の最初から重い罪として常に非難されてきました。

 正しい態度は聖アウグスティヌスの教えた態度です。教会の中では、悪しき者と交わることは、その悪に同意しない限り、良い者を傷つけません。その理由は、教会の中での交わりは本質的に私たちの主イエズス・キリストとの交わりであるからです。ですから、教皇との交わりは、たとえその教皇がアレキサンデル六世であったとしても、あるいはほかのスキャンダルのある教皇であったとしても、(更には信仰の内容に問題のあったホノリウス、世の終わり以前の至福直観を否定したヨハネ二十二世であったとしても、)教皇の誤りとの交わりではなく、キリストの代理者としての教皇との交わりなのです。これが本質的な要素です。ですから、どんなに悪しき教皇であろうとも、合法的な教皇である限り、教皇との交わりは教皇の現代主義との交わりではなく、キリストとの交わりなのです。教皇が現代主義者であるという口実のもと、教皇に対して実際に教会法上の従順を拒絶するならば、教皇を理論的にだけ認めているとしても、事実上キリストとの結びつきを断ち切ることになるのです。

 私たちは聖木曜日の本日、聖アウグスティヌスの原則を非常にはっきりと見ます。私たちの主イエズス・キリストはユダの接吻を拒絶なさいませんでした。教会はこれを、聖週間の朝課の答唱で歌います。これが、教会の悪しきメンバーに対してどれだけ我慢強くあるべきかを示しています。同時に、私たちの主イエズス・キリストがユダの邪悪に少しも同意なさらなかったのは明らかです。もし使徒のだれかが、ユダがいるからという理由で使徒の集まりから逃げ出したとしたら、その使徒は私たちの主イエズス・キリストから逃げ出していたことになったでしょう。

 ですから、聖ピオ十世会の立場は正しい立場なのです。私たちは、正当な教会法上の立場を求めますが、教理的に妥協することはありません。私たちは、教皇が現代主義者であったとしても、正当な教会法上の立場(を求めること)それ自体は妥協ではないことを認めます。これは聖アウグスティヌスの教理です。これは教会の教理を正しく実践に移したものです。しかし、ローマに現代主義者がいる限りローマとのいかなる接触も拒絶する人々の態度は、カトリックの態度ではありません。ドナトゥス派かカタリ派の態度と同類です。それは信仰の問題における誤りに至る態度です。そのような態度は、教会についての偽った考え、つまり、カトリック教会は目に見える教会の健全な部分のみからなると主張するカタリ派の考えにつながるものです。そのため、そのような偽りの原理に基づいて行動し、そのような偽りの原理に基づく司教聖別を始めるとき、これは非常に深刻なものになります。

 先々週の司教聖別について、ウィリアムソン司教やフォール司教が示した理由がどんなものかを調べると、彼らが拡大鏡で見ている小さなことを無視するならば、彼らの挙げる基本的理由は「(聖ピオ十世会本部である)メンツィンゲンはもはや真理の中にはいない」という告発にあることがわかります。では、メンツィンゲンがもはや真理の中にはいない、と彼らが言っているのはなぜでしょうか。その理由は、彼らが、ローマが現代主義者に占領されている限りローマとは一切関係を持つべきではないと主張し、そのためローマに現代主義がある限り教会法上のいかなる正常化も拒絶するとしているのに対して、私たちが正当な教会法上の立場を求めるルフェーブル大司教の行なわれた努力を続けているからです。

 ルフェーブル大司教が教会法上の実際的な正常化を求めることについてローマと議論するのに、ローマが現代主義でなくなるまで待ちはしなかったことは明らかです。丸一年の間、ルフェーブル大司教は実際的な正常化を実現するためにローマ当局と議論しました。またそれは非常に大きな醜聞(スキャンダル)だったアッシジの宗教間対話のすぐあとでした。ルフェーブル大司教は、一九八八年五月五日の議定書に署名したことを少し行き過ぎたとは言いましたが、教会法上の実際的な正常化を求めたことが間違っていたとは決して言いませんでした。そのようなことは決してありません。聖ピオ十世会の歴史を通して、この目的のためにルフェーブル大司教が繰り返し努力したことはよく知られていますし、記録もされています。またルフェーブル大司教は、司教聖別のあと、同じ議論がローマとの間で数年の内にも再開されることを期待するとさえ言っていました。フェレー司教が速く進み過ぎたと非難することはできません。ローマ当局から最初に提案があったのは二〇〇〇年でした。それから十四年以上たちますが、聖ピオ十世会はいまだ正当に正常化されていません。このように遅れているのは、聖ピオ十世会が教理上の妥協を拒絶しているからです。これこそ私たちが妥協していないという最も良い証明です。

 ウィリアムソン司教が先々週行った司教聖別の基本的理由が誤っているので、そのような空しい土台に基礎を置く行為は合法性を持たず、そのため、教会法がその行為に対して正しく適用する制裁に十分値します。なぜなら、教会においては、司教聖別は些細なことではないからです。司教聖別は教会の一致にとって本質的なものです。ルフェーブル大司教が司教聖別を行ったときには現実的な理由、司教聖別という行いにつり合った理由、正当な理由がありました。ですからルフェーブル大司教は、十分に、また行いによって教皇を教皇と認めつつ、司教聖別を行ったのです。ところがウィリアムソン司教が司教聖別を行ったときには、現実的な理由はなく、司教聖別という行いにつり合った理由もなく、教皇を完全に無視して行なったのです。

 これら両方の司教聖別には他にもいろいろな背景があり、私はこれを「著しい対照」という文章の中で詳しく述べましたが、恐らく皆さんもお読みになったでしょう。しかし、私が(今)ここで言いたいのは、この問題の中核です。それは信仰の教義(ドグマ)であって、教会の中には善い人々と悪しき人々がいるということ、また教会のメンバー一人一人、私たち一人一人のうちにもしばしば善と悪が入り交じっているということなのです。善と悪の区別は決していつも目に見えるものではありません。同時に、「教会の外に救いなし」は信仰の教義(ドグマ)です。ですから私たちは、教会に悪しき人がいるという口実で、教会から離れてはいけません。

 さて、兄弟の皆さん、これは皆さんに関係のあることです。皆さんの中には、最近までレジスタンスのミサに行っていた方々がいるのを私は知っています。司祭たちの罪のなかには、信者がそれを耐え忍ぶことができ、信者に影響を与えないものがあります。それは司祭たちの私的な罪です。(でももちろん、そんな司祭は避けるよう忠告します。)

 しかし、司祭たちの罪のなかには、それによって信者が彼らのミサに参加するのが禁じられるものがあります。それは教会の一致に反する罪です。その理由は、ご聖体の秘蹟(ミサ)はまさに教会の一致の秘蹟であるからです。教会をみずから離れた司教に付き従い、事実上教会から離れた司祭によって捧げられるご聖体の秘蹟(ミサ)は、まやかし(lie)になってしまうからです。教会の一致の秘蹟であるべきものが、教会の一致の外で行われるのです。これが聖トマス・アクィナスの教えです。ですから、信者がそのミサと少しでも関わるのは合法的ではありません。彼らと一緒に、皆さんの救いを危険にさらさないでください。この教義(ドグマ)を覚えていてください。教会の外に救いなしです。カトリック教会はカタリ派の教会つまり清い人々だけの教会ではないという教義(ドグマ)です。主の畑には良い麦の中に毒麦があり、良い麦と共にもみ殻があり、主の網には良い魚と悪い魚がいるのです。

 聖ピオ十世会に対する彼らの反乱は十分悪いものでしたが、それに対しては忍耐することもできるかもしれません。しかし彼らの教会に対する反乱、教皇その人との交わりに対する反乱は行き過ぎです。もう彼らとかかわることはできません。キリストの群れから去っていった人々を支持すると、教会の頭(かしら)であるキリストを攻撃することになってしまいます。二股をかけることはできません。彼らは今や、遠くに行き過ぎてしまったのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、私たちの兄弟であり、友人であった司祭たちが、これほど遠くに行ってしまったのを見るのは本当に大変悲しいことです。私たちが神学校でルフェーブル大司教から教えられたことは、決してこういうことではありません。彼らが戻って来るように、彼らのために祈るべきです。聖パウロが言うように、「彼らは天主のために熱心であるが、その熱心は深い知識の上に立っていない」(ローマ10章2節)、「彼らは躓きの石に躓いた」(ローマ9章32節)のです。悪しき教皇たちが、彼らには本当に躓きの石になったのです。

 彼らが戻って来る恩寵を、童貞聖マリアが取り成してくださいますように、また私たち皆が忠実を守り、彼らに騙されないようお助けくださる恩寵を取り成してくださいますように。

 アーメン。
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 Those Who Reject the Popes and are out of The Church - The Holy Thursday(2015-04-02)

 My dear brethren,

 “Taking bread, he gave thanks, and brake; and gave to them, saying: This is my body, which is given for you. Do this for a commemoration of me. In like manner the chalice also, after he had supped, saying: This is the chalice, the New Testament in my blood, which shall be shed for you. But yet behold, the hand of him that betrayeth me is with me on the table. And the Son of man indeed goeth, according to that which is determined: but yet, woe to that man by whom he shall be betrayed” (Lk. 22:19-22).

 From this passage of St Luke, it is clear that Judas was still at table when our Lord Jesus Christ instituted the most Holy Eucharist… and he made a sacrilegious communion. St Matthew, followed by St Mark, mentions the announcement of Judas’ betrayal before the Institution of the Holy Eucharist; but this is easily explained by the fact that he often summarizes and groups together events by themes rather than chronologically. Our Lord Jesus Christ, who knew all things as God, knew that there would be – sadly – many sacrilegious communions in the Church, even many unworthy priests and bishops (and some unworthy Popes).

 Thus He did not prevent one of the Apostles to betray Him, as a type of all those future betrayals, and as a strong warning to them: “woe to that man by whom he shall be betrayed” (Lk. 22:22). May our Divine Saviour always help us not to betray Him! May the Virgin most faithful protect us! And the condition to obtain the grace of not betraying is humility, because “God resisteth the proud, and giveth grace to the humble” (Jac. 4:6).

 What should be the attitude of the good members towards those traitors? Should the sheep leave the fold of the Lord because some wolves are infiltrated inside? (Mt. 7:15) Should the good grain leave the threshing floor because of the chaff? (Mt. 3:12) Should the good wheat leave the field because of the cockle in the midst of them? (Mt. 13:26 ) If it would, it would never be gathered in the barn of the Lord! On the contrary, he who leaves is by that very fact reckoned as chaff carried away by the wind! Should the good fish leave the net of the Lord because of the bad ones? (Mt. 13:47-48) It would never be gathered in the vessels of the Lord!

 My dear brethren, throughout the history of the Church, the very presence of bad fish in the nets of the Lord, of chaff together with the good grain on the threshing-floor of the Lord, of cockle together with good grain in the field of the Lord, has been a great trial for many. And there were repeatedly found some people who refused communion with the wicked: they were Novatians, Donatists, Cathars, and later even Protestants attacked the Church on this point. But the Church always rejected this attitude, and they, by their refusal of patience, by their proud condemnation of those around them, practically casts themselves outside of the Church. And “outside the Church there is NO SALVATION.”

 This is very important: no one can live of the Life of Christ except in the Church of Christ, which is the Catholic Church! No one can be animated by the Spirit of Christ except in the Body of Christ which is the Catholic Church! No one can be saved without charity, and therefore without the love of the Church and “bond of perfection”.

 That bond with the Church is not a mere theoretical acknowledgement of the Pope, it is a very practical bond – it serves to nothing to claim to acknowledge a Pope if one refuses to communicate with Him, to be in a regular canonical situation with him. It belongs to the Catholic Faith that we “believe in the One Holy Catholic and Apostolic Church” which is the Roman Catholic Church, outside of which there is no salvation. PRACTICAL refusal of communion with the Pope and the members of the Church is a grave sin, and has always been denounced as a grave sin since the very beginning of the Church.

 The right attitude is that taught by St Augustine: IN THE CHURCH Communion with the wicked does not harm the good so long as they do not consent with their wickedness. The reason is because in the Church communion is essentially communion with our Lord Jesus Christ: thus communion with the Pope, even if he is Alexander VI, or another scandalous one (even on matters of Faith as Honorius, or John XXII who denied beatific vision before the end of the world), such communion is not communion with his errors, but communion with him as Vicar of Christ: this is the essential element. So no matter how bad a Pope is, so long as he is the legitimate Pope, communion with him is not a communion with his modernism, but communion with Christ. If one rejects any practical canonical submission to the Pope under the pretext that the Pope is modernist, one practically severs the bond with Christ – in spite of a mere theoretical recognition of him.

 We see the principle of St Augustine in a very vivid way today, on Holy Thursday: our Lord Jesus Christ did not refuse the kiss of Judas! The church sings this in the responses of matins of these holy days. This is how patient one ought to be with an evil member of the Church! It is at the same time evident that our Lord Jesus Christ did not consent in the least to the wickedness of Judas. If an apostle would have left the college of the apostles because of the presence of Judas, he would have left our Lord Jesus Christ!

 Therefore the position of the Society of St Pius X is the right one: we want proper canonical situation without doctrinal compromise – and we affirm that a proper canonical situation is NOT IN ITSELF a compromise, even if the Pope is modernist. This is the Doctrine of St Augustine; this is the doctrine of the Church, doctrine rightly put in practice.

 But the attitude of those who refuse any contact with Rome as long as there are some modernists in Rome is not a Catholic attitude: it is a variation of the Donatists’ or Cathars’ attitude. This is an attitude that leads to errors on matters of Faith: it leads to a false notion of the Church, a Cathar notion of the Church, claiming that the Catholic Church is ONLY that healthy part of the visible Church. And this becomes very grievous when one acts upon such false principle, and starts consecrating bishops based on such false principle.

 If one searches what reason is given by Bishop Williamson or Bishop Faure for last week’s consecration, disregarding the small things that they look at with a magnifying glass, one finds that their basic reason is in the accusation “that Menzingen is no longer in the truth” , and why is Menzingen no longer in the truth? Because we continue the efforts of Archbishop Lefebvre for a proper canonical situation while they claim that one should not nothing to do with Rome so long as it is occupied by modernists, and they refuse any such canonical regularisation so long as there is still modernism in Rome.

  It is very clear that Archbishop Lefebvre did not wait for Rome to be free of modernism for discussing with them a practical canonical regularisation: for a whole year he discussed with the Roman authorities in order to obtain it, and he did so just after Assisi, which was a very big scandal. He said that he had gone somehow too far by signing the protocol of May 5th 1988, but he NEVER SAID that he was wrong to search for a practical canonical regularisation, never!

 His repeated efforts throughout the history of the SSPX for this end are well known and documented. And he even said, after the Consecration, that he expected within a few years that such discussions would start again. Bishop Fellay cannot be accused of having gone too fast: the first offers were made in 2000; more than 14 years later, the SSPX has not yet received a proper regularisation. This delay is because we refuse any doctrinal compromise; it is the best proof that we have not compromised!

 Given that the basic reason for last week’s episcopal consecration by bishop Williamson is false, then the act based on such empty foundation has no legitimacy, and therefore fully deserves the sanctions which the Canon Law rightly apply to such action. Because in the Church, episcopal consecrations are not a little thing! There are essential to the unity of the church. When Archbishop Lefebvre did it, he had a real cause, a proportionate cause, a just cause – and he did so while fully and practically recognising the Pope; when Bishop Williamson did not, he did not have a real cause, he did not have a proportionate cause, and did it with complete disregard for the Pope.

 There are many other circumstances about these consecrations which I have developed in the “striking contrast” which you have probably read. But I wanted to treat here of the core of the problem. It is a dogma of faith that in the Church there is a mixture of good and evil people – and often within each member, each one of us, there is a mixture of good and evil. The separation of the one and the other is far from being always visible. It is at the same time a dogma of faith that there is no salvation outside of the Church. So we may not cut ourselves from the Church on the pretext of the evil ones in the Church.

 Now this has consequences for you, my dear brethren. I know that some of you were still going to the resistance Mass until recently. There are some sins of the priests which one may be patient with, and which do not infect the faithful – private sins (though one is of course advised to avoid such priest!) But there are sins of the priests which forbid the faithful to participate with them: and such are the sins against the unity of the Church.

 The reason is because the Sacrament of the Holy Eucharist is the very sacrament of the unity of the Church. Celebrated by a priest who practically cut himself off the Church by joining a bishop who cut himself, the Holy Eucharist becomes a lie: it should be the sacrament of unity while it is done outside of that unity.

 This is the teaching of St Thomas Aquinas. And therefore it is not lawful to the faithful to have any part with it. Don’t risk your salvation with them! Remember the Dogma: outside the Church there is no salvation! And the Dogma that the Church is not a church of cathars, of pure ones: it is the field of the Lord with cockle in the midst of the good wheat, with chaff with the good grain, it is the net of the Lord with good and bad fishes in it.

 Their rebellion against the Society of St Pius X was bad enough – but one could be patient with that. But their rebellion against the Church, against the Communion with the Pope himself, is too much: one may no longer communicate with them. One would offend Christ, the Head of the Church, by supporting those who have left his fold. One may not have a foot in both camps: they are too far apart now.

 My dear brethren, it is indeed a very sad thing to see priests who used to be our brothers, our friends, and who have gone so far. This is NOT what we were taught at the seminary with Archbishop Lefebvre. We ought to pray for them, that they may return. As St Paul says, “they have a zeal of God, but not according to knowledge” (Rom. 10:2), “for they stumbled at the stumbling-stone” (Rom. 9:32). Bad popes have really been for them a stumbling stone.

 May the Blessed Virgin Mary obtain for them the grace to return, and for all of us the grace to remain faithful and to help us not to be deceived by them. Amen.

 Fr. Laisney (FSSPX)


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