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Vocation - An Unnecessary Mystery 修道召命に神秘主義は不要

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区のサイトの記事「Vocation - An Unnecessary Mystery 修道召命に神秘主義は不要」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 天主様の祝福が豊かにありますように!


原文はこちら


修道召命に神秘主義は不要

2015年4月18日

 ドミニコ会士・リチャード・バトラー神父の著書をもとにした説教。


はじめに

 親愛なる兄弟の皆さん、「召命」という言葉は、示唆に富む言葉です。内的な混乱、自分自身を疑うこと、罪悪感や他の感情を(特に若者たちの間に)引き起こします。このような感情が起こる理由、それは、この召命という言葉そのものが無意識のうちに「私には召命があるのだろうか?」という問いを私たち自身に問いかけてくるから です。


区別

 私たちのほとんどは、人生のいくつかの段階において、この問いかけを自らに問います。「私には召命があるのだろうか?」ですが、召命とは何かを本当に理解している人はほとんどいません。

 召命は二つのカテゴリーに分けることができます。最初の一つは修道召命です。これは普通、修道会内部において福音的勧告(清貧、貞潔、従順)を受け入れることです。男性と女性の両方にあてはまります。二つ目は司祭職の召命です。これは叙階の秘蹟より生じる召命です。

 この説教は修道召命についてのものですが、同じくらい司祭職の召命にも当てはまることでしょう。


何が召命ではないか

 先ほど言いましたように、私たちのほとんどは召命とは何かを本当には理解していません。1960年、ドミニコ会士のリチャード・バトラー神父は「修道召命に神秘主義は不要」と題された本を書きました。バトラー神父はこの本の中で、召命を取り巻く近代の間違った観念を明らかにし、天使的博士、聖トマス・アクィナスの永遠の教えを提示して います。

 バトラー神父は、召命とは何かについて、二つの対極的な間違った概念があると述べています。

 一つ目の間違った概念は、まったく客観的視点で召命という考えを見ることです。
 ・天主はすべての人間へ、愛徳の完成という人間の目的への手段として、清貧、貞潔、従順の福音的 勧告を呼びかけている。この三つの勧告は最終目的に到達する最高の手段であり、完全になりたいと望むすべての人間はこれらを受け入れるべきだ。だから、すべての人間が修道院に入るべきだ、という主張です。

 この考えの対極にあるものが、現在広く行き渡り、しかも聖伝のカトリック信者たちの間でさえもみいだされています。これは召命をまったく主観的視点で見るという間違いです。
 ・召命は純粋に内的なものであり、神秘的で、謎に満ちているものだ、という考えです。

 著者は自分の論点を説明するために、空想的作家たちの文章から、いろいろな大げさな一節をからかい気味に引用しています。「修道生活はさまざまな方法でやって来る。ある場合には、議論の余地なく圧倒的なものだ。別の場合には、穏やかで、風のささやきのようで、識別するために注意深く耳をすまさなければならない」「親愛なる友よ、心の奥底で、天主があなたをお呼びでないかどうかを自らに問いなさい」

 最初に述べた、まったく客観的視点で召命を見るという極端な概念にまつわる問題とはこうです。修道生活は最も完全な生活であるとする一方で、天主はすべての人が修道者の身分を受け入れることをお望みではないと、そのご意志が明確に宣言されています。このような思慮に欠ける考えは天国に送るべき霊魂たちを(結婚において受胎されないがために)奪うかも知れず、結婚した聖人たちを列聖するというのは馬鹿げたことになってしまいます。

 上記に述べた概念の対極の思想にまつわる問題はこうです。召命という概念は神秘に包まれているというものです。それは定義できなくなります。グノーシス主義(秘密主義の注入された知識)の状況となり、頻繁にあることですが、お告げを聞くことで、落雷や啓示を期待することで、祈りのときにたまにある、ふんわりした快さを待ち望むことで、天主のご意志を識別しようとして感傷主義の状況を作り出すのです。


何が召命であるか

 修道召命とは、愛徳の完成という目的への手段として、三つの福音的勧告を受け入れるという(恩寵によって駆り立てられる)堅固な意志、それ以外のなにものでもありません。

 召命とは、誰彼の区別なく、すべての人にあてはまるまったく客観的なものではなく、そして明瞭さや客観性を欠いたまったく主観的なものでもありません。召命とは、その二つの対極の考えのちょうど真ん中、黄金の中庸です。

 客観的には、召命とは普遍的な論理的強制ではなく、イエズス・キリストによって、一切の区別なくすべての人に開かれた招きなのです。

 主観的には、召命とはある思想への情動的反応ではなく、完全な愛徳への静かな熱望です。


私には召命があるのだろうか?

 では、カトリックの若者が「召命」という言葉を聞いた時に、たびたび彼に向かって浴びせかけられる居心地の悪い質問へと戻ります。実際のところ、高価な指輪を所有するように、絶え間なくうるさくつきまとう内心の声を聞くかのように「召命がある」というような事実は存在しません。

 真剣に召命を考える人々はこの問いから離れるべきです。その代わりに次の質問を自分たちに問いかけてみて下さい。

1. 私は心の底から愛徳の完成を望んでいるか?

2. 私が修道生活を受け入れるにあたって障害となるかもしれない次のものから自由であるか?
 ・健康でないこと、あるいは精神面に問題があること。
 ・悪習から抜け出せずにいること。
 ・扶養家族がいる。すなわち夫、妻、子ども、高齢の両親。
 ・借金があること。

3. 修道生活を最後までやり遂げるため、私の霊魂は寛大さを持ち合わせているか?
 ・天主の愛による寛容
 ・徳への熱望
 ・他者への寛容
 ・率直であること
 ・気取りや嘘がないこと
 ・名誉欲への慎み
 ・天主の被造物へのバランスのとれた評価(秩序感覚)
 ・賢慮

 召命とは不本意なものでもなく、謎に満ちたものでもありません。熟慮の末に "あなた" が決めるものなのです。すなわち(a)召命が何を意味するのか、(b)その能力があるかどうか、そして(c)最後までやり遂げる寛大さを持ち合わせているかどうか、という熟慮の末にです。

 ですから、もしも皆さんのうちにどなたかが、これらの質問に対し「はい」と答えるならば、親愛なる兄弟の皆さん、皆さんはただ「さ、急いで修道院へ行け!」[訳注: ハムレットのセリフ〕と言いさえすればよいのです。

 もしためらっている方がいるなら、聖トマスのこの言葉を残していきましょう。

修道院に入って完徳を達成できるのかどうかとためらう人々の懸念は、多くの例が示すように不合理なものである……。この快い軛を自らに負わせる人々に対し、聖主は天的実りの爽快さと霊魂の安らぎを与えてくださる。これによりて、願わくはこの約束をなし給うたお方が、とこしえによろずのものを超えて祝され給うお方、我らの主イエズス・キリストを我らにもたらし給わんことを。アーメン。(聖トマスのContra Retrahentesの結びの言葉)

2015年7月12日主日ミサ 聖ピオ十世会レネー神父様 大阪 SSPX Traditional Latin mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先週から私は、イロイロのサンタ・バルナバというところにある聖ベルナルド修練院(Saint Bernard Novitiate)に来ています。ここは、修練院長のダニエルス神父様とカチョ神父様がおられ、4名の修道士、1名の修練士、3名の志願者、志願準備期間者(pre-postulants)などで12名の共同体となっています。修練院の教会を建設中で、高い壁が立ち上がりつつあります。

 ダニエルス神父様は、2013年に秋田に巡礼に来られたことを良く覚えておられて、パウロはどうしているか、あの方はどうしているか、よろしく伝えてほしいと、日本の話に花が咲きました。

 私は、今週末にはミンダナオ島のジェネラル・サントスに向かいミンダナオのミッションをお手伝いする予定です。

 先日の主日には、レネー神父様が大阪で主日のミサを捧げて下さいました。深く感謝いたします。次のようなご報告を頂いたのでご紹介します。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

7月の主日の御ミサの報告です。今回もレネー神父様が来日してくださいました。
7月12日 聖霊降臨後第七主日 の歌ミサには18名が、
7月13日 (月) カルメル山の聖母の記念の随意ミサ(歌ミサ)には10名の方が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!!
12日の御ミサ後には、公教要理で旧約の「ダヴィド」について勉強いたしました。

大男ゴリアテを倒した少年ダヴィドの持っていた武器はわずかに木の杖と、五つの石と石投げだけでしたが、この木の杖はイエズス様の十字架の、五つの石はイ エズス様の五つの御傷の前表であったそうです。
ダヴィドの竪琴によって心を和まされていたサウロ王でしたが、妬みからダヴィドを殺そうと追いかけます。しかし逃げるダヴィドはサウロの命を奪うチャンスが二度もありながら、彼を殺しませんでした。それは、慈悲と、油を注がれた者への敬意によってだったそうです。

ダヴィドが傲慢から行った人口調査を悔いて、天主から罰を受けることを告げられた時、「敵の手におちるより、天主の手に落ちたほうがよい。主は慈悲深いから」というダヴィドの言葉は、一見ずうずうしく思えましたが、裏返すと天主様の大きな慈悲を信じるゆえのことだったのかなと思いました。

天主に家を建てたいと思ったダヴィドに対して、天主様は反対に、ご自身がダヴィドのためにその子孫によって永久に堅固な王座を建てると仰っいました。このダヴィドの子孫がまさしくイエズス・キリストであり、この家とは霊的な家、王国であったのでした。

新約の前表としての色々な事柄を旧約聖書で見ることができて大変興味深かったです。
なかなか旧約聖書の勉強は出来ませんが、神父様が色々ポイントで教えて下さったことで旧約、詩篇、御ミサ、天主様の大きな憐みを今日は勉強出来ました。

12日の月曜日には、三日後に迎えるカルメル山の聖母の随意ミサを前倒し(?)で捧げて頂けました。今日この御ミサに与った信徒は全員茶色のスカプラリオの着衣をすでに受けていたので大変嬉しかったです。

この度も大きな犠牲を払って日本へミッションへ来て下さったレネー神父様に天主様が大きく報いてくださいますように、これからもマリア様が神父様を守り、お助けくださいますよう祈りしつつ

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今月もごミサにあずかれたことを天主様に感謝致します。
祭壇の十字架が大きくて立派なものに変わっていることに驚きました。
お説教の内容は忘れっぽい私はよく記憶していないのですが、きっと動画と書き 起こしでアップしてくださると期待しています。(^_^;)

講話は、旧約の偉大な王、ダヴィドについてでした。
レネー神父様はホワイトボードに St.Davidと 書かれましたが、旧約の義人たち はヨゼフ様のように聖をつけて呼んでも構わないのでしょうか?(そういえばヨ ゼフ様はいつ列聖されたのでしょうか?) 例えばカルメル会では 創立の起源と霊性を預言者エリアにさかのぼるということで聖エリアと呼んでいるようです。

それでは、8月のごミサでお会いできますように。

【お返事】
旧約時代の聖人たちについては、聖ピオ十世の典礼改革でその多くが全世界用の普遍典礼暦から外されました。以前には、聖ダヴィドとか、聖アブラハム、などの祝日を全教会で祝っていました。ただし、地方の教会になると(たとえばエルサレムでは、ナザレトでは、など)旧約の聖人たちの地方固有の祝日があり、祝います。
旧約の聖人で今でも全世界で祝うのは、1962年版のミサ典書では、洗者聖ヨハネと聖マカベオ兄弟ぐらいです。ところで、聖ヨゼフは、新約時代の聖人だと考えられています。

 聖ヨゼフの「列聖」については、現代のやり方で為されたのではありません。「列聖調査」というやり方でする列聖は、ウルバノ8世が1625年3月13日と10月2日に発布した勅令と、1634年7月5日の教書 Caelestis Jerusalem cives によって、唯一教皇様だけが列福、列聖を執り行うことが出来ると言うことが確立しました。
これにより、教皇は列聖の前に、教皇の賢明を照らすために特別に設置した機関、列聖審査のための特別組織によって調査する、という現代の列聖調査のやり方が始まりました。

 列聖について詳しくは、
http://www.immaculata.jp/mag2003/manila171.html
をご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年7月12日レネー神父様お説教 SSPX Japan Latin Traditional Mass Fr Laisney

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年7月12日の主日に大阪でレネー神父様がなさったお説教をご紹介します。 天主と掟への従順、愛と聖寵の神秘についての黙想へと誘ってくださいます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






2015年7月12日レネー神父様のお説教

親愛なる兄弟の皆さん、

本日の書簡は、聖パウロのローマ人への書簡の第6章の続きです。先週の主日の書簡が、第6章の最初の部分でした。この章で聖パウロは、大変重要でかつ大変慰めとなる真理を教えてくれます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、律法を、道徳上の律法を守ることは可能なのです。悪や罪を避け、善を行うことは可能であり、これによって天国へ行くことが可能なのです。聖アウグスティヌスはそれを、一つの驚くべき短い文章にまとめています。「恩寵が律法を守る、すなわち律法が私たちに命じることは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵がそれを私たちに守らせてくださる」。

天主から来るものは天主に帰るべきです。天主は、すべてのものの最初の原因であり、かつ最後の目的です。すべてのものは天主から来て、天主に帰らなければなりません。「私はアルファでありオメガであり、初めであり終わりである」(黙示録21章6節)。ではどのようにして天主に帰るのでしょうか?それは天主の法によってです。天主は、天と地、見えるもの見えないもの、物質的なもの霊的なものすべての創造主です。では、物質的なものをすべて見てみましょう。それらはすべて、天主が決めた法に完全に従っています。重力の法則、電磁力の法則、化学の法則、そして天主が決めたほかの法則すべてです。「太陽の周りを何年も何年も回って疲れたから、自分の思う道に行きたい」と言う惑星は一つもありません。天主が決めた物理的法則に完全に従うことのない素粒子は、全宇宙の中にただ一つもありません。そのように法則に従うことで、すべての物質的なものは天主を讃美しているのです。この天主の法則への完全な従順、普遍の従順は、天主の知恵と力への驚くべき讃美なのです。毎日の美しい日の出と日没、あらゆる美しい風景、あらゆる天空の星々とあらゆる地上の小さな花々などは、その美と調和、天主の法則への完全な従順によって、天使と人間が「讃美すべきもの」であるのです。天使と人間は、天主の御業を黙想して万物の創造主への讃美を炸裂させるのです。「われらの天主なる主よ、あなたこそ光栄と誉れと力を受けられるにふさわしい方です。あなたは万物を創られたからです。万物が存在し、そして創造されたのは、あなたのみ旨によります」(黙示録4章11節)。

さて、皆さんはこう言うかもしれません。「でも、それらのものには何も功徳はありません、自由ではないのですから」。そうです、実際、これこそが、霊的存在である天使と人間を天主が創られた理由であり、天使と人間が必要によってではなく、愛によって法に従うよう自由を授けられたのです。天主が私たちに自由を授けられたのは、天主の法に背くためではなく、愛によって天主の法に従うためです。理解のためにはこれが大変重要です。私たちが自由であるのは、愛によって天主の法に従うためであり、天主の法に背くためではありません。ですから、天主の法自体が愛の法なのです。「すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている。隣人を自分と同じように愛せよ」(マテオ22章37-39節)。天主ご自身が愛なのです。実際、聖ヨハネは言います。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。また、聖パウロは言います。「愛は隣人を損わぬ。したがって愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)。(ここでの「愛」はギリシャ語の「アガペー」を訳したものであって、霊的な愛のことであり、肉体的感覚の愛の「エロス」ではありません。なぜなら、多くの悪は肉体的感覚から来るからです。)

大聖グレゴリウスは、「私たちは『gressibus amoris-一歩一歩、愛の歩みによって』天主に帰る」と教えます。聖トマス・アクィナスは、「愛によって私たちは生活の中で第一の場所を天主にお与えし(ですから週の最初の日は天主に捧げられます。)、すべてのものを天主の栄光に、すべての活動を天主に秩序づけ、そうすることで天主を自分自身全体の王とする」と説明します。そうすれば、驚くべき報いがあります。それは天国での永遠の生命、永遠に御父、御子、聖霊である天主を見る至福直観、天主ご自身の至福を共にすることです。これはまことに驚くべきことであり、天主のご計画なのです。そして善きことです。

しかし、自由な被造物の中には、その自由を乱用し、天主の法に背くものがいます。彼らにとっては、これは大変恐ろしいことです。なぜなら、それによって、彼らは地獄に行くに値するからです。彼らは天主に言います。「われわれはあなたの道についていかない。自分の道を行く方を好む」。すべてのものを超えて天主を愛する代わりに、彼らは創造主よりも被造物の方を好むのです。彼らは被造物を創造主より価値あるものとみなします。お金のため、楽しみのため、自分自身のために生き、隣人を嫌い、隣人から盗み、奪い、現代社会にあまりにもしばしば見られるあらゆる種類の無秩序や堕落に陥るのです。罪は人類にとっての大きな悲劇です。「二つの愛が二つの国をつくった。神を軽蔑する自己愛は地上の(罪の)国をつくった。自分を軽蔑する神への愛は天の(神の)国をつくった」(聖アウグスティヌス「神の国」14章28節)。罪は根本的に無秩序であって、私たちの霊的生活の全秩序を弱め、霊魂に死を用意し、永遠の罰へと導きます。

被造物は、美しくて、しかし、守らない訳にはゆかない天主の法に従うことによって天主に帰るのです。これは厳しい義務なのです。

さて、天主は悪によって負かされるのではなく、善によって悪に勝つのです。天主は、ご自分の御独り子、私たちの主イエズス・キリストを送ることによって人間を贖い、罪から人間を救おうとお決めになりました。しかし、ルターのような悪しき人間たちは、この贖いを間違って捉えています。実際、プロテスタントの中には、律法によって人間を救うという旧約における天主の最初の計画がうまくいかなかったため、新約において天主は、信仰によって人間を救うという新しい計画を立案され、律法への従順はもう必要なくなった、と言い張る者がいます。これはまったく真実ではありません。真実は、キリストが私たちを救われるのは、キリストがまず私たちの罪という負債を支払い、御父の誉れを回復させ、私たちの霊魂を洗い、癒やし、恩寵によって霊魂に律法に従うことのできる力を与えることによってなのです。これが本日の書簡の主題のすべてなのです。

洗礼によって、私たちは罪の汚れから洗われました。「ただ御あわれみにより、再生の洗いと聖霊の一新によって私たちを救われた」(ティト3章5節)。この一新は、霊魂の力をまさに回復させるので、私たちはもう罪に向かって生きるのではなく、天主に向かって生きるのです。実際、「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスと共に葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。私たちは罪に対して死んでおり、罪の体は葬られました。良きキリスト教徒にとっては、罪は終わり、もはや罪は犯さず、罪は問題外です。実際、聖パウロは続けます。「私たちの古い人間がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が破壊されてもはや罪の配下につかないためであることを私たちは知っている」(ローマ6章6節)。私たちの主ご自身が福音書の中で、姦淫の罪を犯した女に同じことを言われました。「行け、これからはもう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)。主はその前に、ご自分が癒やされたベツサイダのあわれな者にこう言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。

「もう罪を犯すな」は、否定的な面です。肯定的な面は天主に向かって生きることです。「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。聖パウロはそれを「キリストの復活にあやかる」と呼びます。「私たちはキリストの死にあやかってキリストと一体になったなら、その復活にもあやかるであろう」(ローマ6章5節)。「もし私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きることをも信じる。そして死者からよみがえられたキリストはもう死ぬことがないと私たちは知っている。キリストに対してもはや死は何の力も持っていない」(ローマ6章8-9節)。ですから、キリストにおける新しい生命では、私たちも霊的に「もう死ぬことがない」、つまりもう罪を犯さないことが可能になるのです。キリストの復活の力によって、私たちはもう罪を犯さず、律法を守ることができるのです。罪を免れて律法を破るのではありません。「だから罪の欲に従うことがないように、あなたたちの死すべき体を罪に支配させるな。あなたたちの肢体を罪に与えて不義の道具とせず、かえって死を逃れて生きる者として自分を天主に捧げ、その肢体を天主のための正義の武器とせよ。あなたたちは律法の下にはなく恩寵の下にあるから、罪はあなたたちの上に何の力もないであろう」(ローマ6章12-14節)。

どうしてこういうことが可能になるのでしょうか。聖パウロは、少し前のローマ人への書簡の第5章で説明しています。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。私たちの心に愛を注ぐことによって、私たちを罪との闘いに勝利するよう助けてくださるのは聖霊なのです。ですから、試みのとき祈るなら、罪に陥らないでしょう。私はさらに進んで言います。祈っている限り、罪に落ちるのは不可能です。天主に忠実であるよう、天主の戒めを守るよう恩寵を願う人々を、天主はお見捨てにはなりません。「この種の悪魔は、祈祷と断食をしない限り追い出せない」(マテオ17章20節)のですから、祈って償いをしてください。聖トマス・アクィナスは、祈りにはある種の不謬性がある、と教えています。天主をお喜ばせするものを願い求めるとき、救いに必要なものを願い求めるとき、謙遜と忍耐があれば、祈りは必ずそれらを獲得するのです。お金や楽しみ、地上のものごとを願い求めるなら、天主は祈りを聞き入れてくださらないかもしれません。(そんなことを願い求めたとき、天主がその祈りを聞き入れてくださらないのは、時にはより良いことなのです。)しかし、天主の戒めに従い、天主のご意志を果たす恩寵を願い求めるとき、謙遜と忍耐をもって願い求めるなら、天主は皆さんが願い求めることを必ず聞き入れてくださるのです。実に、天主は、皆さんが自分の救いを望む以上に、皆さんの救いを望んでおられるのですから。天主は皆さんの救いのために十字架上で亡くなられたのですから。「私は地上に火(天主の愛の火)をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。

そのため、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちは律法を守り、大罪を犯さずに生きることができるのです。また、私たちは大罪を犯さずに生きなければならないのです。

時折、人々と話をしていると、罪の状態で生きている人であるのが分かります。姦淫の罪か、ほかの重大な罪です。皆さんは問いかけます。あなたが昨日死んでいたなら、あなたは今どこにいるのですか?通常は、皆さんがカトリック信者と話しているのであれば、その人はこう答えるでしょう。「うーん、私は地獄にいると思います」。すると私は問いかけます。「あなたは本当にそこに行きたいのですか?」。すると今度はもっと早く答えが来るでしょう。「いいえ」。そこで私は問いかけます。「地獄に行きたくないなら、なぜ地獄に行ってしまうようなことをしているのですか?天国に行きたいなら、天国に行けることをすべきではありませんか?」。しかし、その人はこう答えるかもしれません。「いえ、神父様、私は地獄に行かないでしょう。なぜなら、私はキリストを信頼しているからです。キリストは言われました。天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。(私はこう言うでしょう。)どうしてそんなことが可能でしょうか。あなたは罪の状態で生きており、罪の上に罪を重ねているのですよ。聖パウロは見事に言います。「…人よ、あなたは天主の裁きを逃れられると思うのか。あるいは天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らず、その仁慈と忍耐と寛容の富をないがしろにするのか。こうすればあなたはかたくなさと悔い改めぬ心によって、天主の正しい裁きの現れる怒りの日に、自分のために怒りを積み重ねるであろう。天主はおのおのの業に従って報いられる」(ローマ2章3-6節)。

キリストを信頼すると言いながら、キリストの戒めを破り、あらゆる種類の大罪を犯す人は、口で告白することを行いで否定しています。「彼らは天主を知っていると言うが、その行いによって天主を否定している。彼らはいとわしい者、逆らう者、一切よいことのできぬ者である」(ティト1章16節)。彼らの信仰は死んでおり、そのような信仰では地獄に落ちることから救われません。聖ヤコボは言います。「悪魔もそれを信じて震えおののいている」(ヤコボ2章19節)。救う信仰は、生きている信仰、「愛によって働く信仰」(ガラツィア5章6節)です。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である」(ローマ2章13節)。私たちの主イエズス・キリストご自身が福音書の中で同じことを言われました。「私に向かって、『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」(マテオ7章21節)。彼らは「主よ、主よ」と言うことによって、信仰を持ってはいましたが、それだけでは十分ではありません。彼らがそれを実行しないなら、「その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきり言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ」(マテオ7章22-23節)。

このように、天主の道徳上の律法は、新約においても義務付けられているのは明らかです。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、私たちにはそれを守る力が与えられています。儀式上の律法は、新しい律法の秘蹟で置き換えられています。(罪に対して罰を与える)司法上の律法は、新しい律法のあわれみによって緩められています。(姦淫の罪を犯した女に対して、キリストは「私もあなたを罪に定めない。行け、もう罪を犯すな」(ヨハネ8章11節)と言われました。)しかし、道徳上の律法は高められて、さらに厳しい義務が課されています。「私は言う、もしあなたたちの正義が律法学士やファリサイ人たちのそれに優らぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。さらに主は続けられます。兄弟にさえ怒るな、と。儀式上の律法と司法上の律法と道徳上の律法を区別せず、道徳上の律法はもはや義務ではないと主張するプロテスタントは、大変深刻な誤謬に陥っています。道徳上の律法はもはや義務ではないと主張する人々や、あるいは天主はあわれみ深いのだから人が何をしても誰もが天国に行くと主張する人々には、大変な不信仰があります。

実際、天主はあわれみ深いのですが、天主の御あわれみは私たちを悔い改めへと導きます。「天主の仁慈があなたを悔い改めに導くことを知らないのか」(ローマ2章4節)。天主は私たちに聖であるようお命じになります。「私が聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者であれ」(ペトロ第一1章16節)。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。ですから、聖性を求めないという選択肢はなく、誰もが聖性を求めなければなりません。良き知らせは、私たちが忠実であるようお助けくださる私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、今やそれが可能であることです。

童貞聖マリア、無原罪の童貞は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵の力の最も良い証拠です。主に逆らわない霊魂において、主がいかに多くを成し遂げることがおできになったかということです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵に私たちが忠実であるようにお助けくださるよう聖母に祈りましょう。そして、私たちも罪を避け、永遠の生命へ至る天主の戒めの道、愛徳の道を進むことができますように。アーメン。

The Good of Authority 権威の有益性

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様によるアジア管区のサイトの記事「The Good of Authority 権威の有益性」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 天主様の祝福が豊かにありますように!

 

権威の有益性


2014年2月17日


原文はこちら
 

 真理は権威の上なのか、それとも権威が真理の上にあるのでしょうか? 両者の間にはどのような関連性があるのでしょうか?

 自然的レベルにおいてすら、人間は真理を学ぶために最初に権威を必要とします。すなわち、すべての子どもたちは両親と教師たちの権威に基づいて最初に学びます。その後、自分が、最初に権威によって学んだことを、自分で悟ることができるようになるのです。成人してからでさえ、ほとんどの人たちが権威に基づいて知っている多くの真理【何故そうなのかは説明できないけれども、そのように教わったから信じている真理】が依然として存在します。(例えば、円の面積は、πr2(円周率x半径の二乗)であるということを証明する方法を知っている大人は何人いるでしょうか? 大部分の人々は、学校の教師たちの権威に基づいて、それを教えられます)。とはいえ、自然的レベルならば、人間は権威なしでも現実(真理)の知識の一部に到達できるのです。

 ですが、超自然的レベルでは、人間は超自然的現実(聖三位一体の神秘のような)の知識に、啓示なしに到達することはできません。ですから聖トマス・アクィナスはこのように教えています。「この(聖なる)教えは、権威による論拠に、特に基礎を置いている。なぜなら、その原理は啓示によって獲得されたからである。従って私たちは、啓示がなされた人々の権威を信じる義務がある。このために、この教義の尊厳が取り去られてしまうことはない。というのは、人間の理性を基礎とする権威から生じる論拠は最も脆弱であるけれども、天主の啓示を基礎とする権威から生じる論拠は、最も強力だからである」(Ia q.1 a.8 ad2m)

 天主がお語りになるとき、人間は信じなければなりません。これが「ドグマの原理」であり、ニューマン枢機卿の人生における非常に重要なことでした。「最初にドグマの原理があった。つまり、私の戦いは自由主義との戦いであった。自由主義とは、つまり、反ドグマ的原理とその原理を発展させた主義主張である……。十五歳の時から、ドグマは私の宗教の基本となる原理であり続けた。すなわち、私は他の宗教を知らない。他のいかなる種類の宗教の思想へと入り込むことはできない。単なる感情に過ぎないような宗教は、私にとって夢想とごまかしである」 (Apologia, ch.2)

 啓示された真理は権威とともに提示されなければなりません。従って「聖書のみ」では不十分です! 自分だけの解釈に頼るなら、誰もまことの信仰であるカトリック信仰を持てないのです。教会が教えるという事実に由来しないなら、いったい聖書の権威はどこから来るのでしょうか? 聖アウグスティノはこのように述べています。「カトリック教会が、私にそのようにせよと命じない限り、私は福音書を信じないだろう」(Contra Ep. Fund., 5.6) 権威がないならば、信仰は単なる意見に過ぎません。ですから聖パウロはこのように述べています。「それなら、かれらは、まだ信じなかったものを、どうして呼び求められよう、そしてまだ聞かなかったものを、どうして信じられよう、宣教する者がなければ、どうして聞けよう、遣わされなかったら、どうして宣教できよう」(ローマ10:14~15)我らの主イエズス・キリストは権威とともに話されました(マテオ7:29)。そしてご自分の使徒たちにご自分の権威をお授けになって、彼らを遣わしました。「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人である」(ルカ10:16)「布教」しない説教者に権威はなく、まことの信仰を説くことはできません! このようにして権威の本質は、啓示された真理の知識に対して存在するのです。

 さて、権威の拒絶は、近代哲学の中心である自由主義のしるしです。すなわち、自由主義のしるしは、権威を授けられたがその行使の仕方を知らない人々(例えば、パウロ六世の1968年の神の民のクレドは、彼の信仰告白に過ぎず、それを信じるよう義務づけてはいません)と、権威に服すべきだが命令を嫌う人々の、両者の間にあるとわかります。そのようなわけで、荘厳な判断を行使しないまま、定義もないまま、従って最高権威を行使しないまま、彼らが現代人の言葉で現代人に信仰を提示するのを望んだ時、第二バチカン公会議というドラマが起きたのです。

 第二バチカン公会議に続く混乱の中で、信者たちは信ずべきことをどうやって識別できたでしょうか? 信仰は人間的権威に対してではなく、天主の権威に対して応えるものです。ですから、教会内で、権威を授けられた人間が我らの主イエズス・キリストに対して、混じりけなく透明である必要があります。それは、信者たちが、彼において、イエズスがお語りになっているのだとわかるためです。さて、この混じりけない透明性は、本質的に、権威を授けられた人間が受け取ったものを伝えるための忠実さで成り立っています。事実、外の風景を窓を通して見られるのは、窓が透明であるからであって、(テレビ画面からのように)窓に映っているわけではなく、窓の後ろから、そして窓を「通り過ぎて」、歪むことなしに見られるのです。[権威を授かった]人間が教えることは、彼独自の個人的な意見ではなく、数世紀にわたって受け継がれた信仰を通して、キリストご自身から来たのだということは明白です。ですから、新奇さは異端の確実なしるし、聖伝への忠実さは正統性の確実なしるしです。

 けれども、信者がその識別を見損ない、今日の教会の権威を授けられた者から教えられたために、落ち度はないまま、いくつかの誤謬を信じるよう誘導されたとしたらどうなるのでしょうか? その人の信仰の対象が、「カトリック教会が信じ、教えていること」であり、その信仰の動機が「天主がその真理を啓示し、それを教会に委ねたから」であるならば、啓示の内容について間違っているとしても、その人はまことの信仰を持っていることになります。聖人たちですら、信仰の中身に関して間違えました。聖トマス・アクィナスでさえ、無原罪のおん宿りについての概念が不正確でしたし、再洗礼に関して聖チプリアノもそうでした。ですが、聖アウグスティノが教えたように、教会の唯一性への愛が(=彼は教会の信仰を個人的考えよりも上に置いたから)、彼を救ったのです。(de Baptismo, 6:1,2-2,3)

 しかしながら、カトリック教会の権威を嫌悪するならば、たとえその人が、教会の教えている真理の一部を保ち続けているとしても、その人はもはや真理を保っていません。「何故なら人々は、教会を通して、天主の権威によって、教えられるがゆえ」です。つまり、【天主の権威の故に信じるという】「信仰の動機を失い、信仰の徳を失っています。これこそが、権威が、まことの信仰に対してどれほど本質的であるかということを表しています。

 権威は信仰のために不可欠であるだけでなく、福音的完徳のためにも不可欠です。まさしく聖トマス・アクィナスが──教会の聖伝全体とともに──修道者の完徳は、第一にキリストにならうこと、特にその従順にならうことから成り立っていると教えており、(IIa IIae q.186 a.5) 従順は権威と一体化した長上を必要とします。事実、これはすぐれた祝福なのです。すなわち、私たちにとって具体的な状況下で何が天主のご意志なのかを識別するのは、多くの場合、非常に難しいことだからです。敬虔な信者の日常生活において、信者たちは、自分が天主のご意志を行っているのか、それとも自分たちの個人的な意向を行っているのか、どうやって知ることができるでしょうか? 天主の十戒という限界の中で、個人的意志と天主のご意志の間の区別をどうやってつけられるのでしょうか? 権威はここで必要となります。つまり、正統な権威に従うとき、特に宗教的権威に従うとき、その人は天主のご意志を行っているとわかります。たとえ長上の側に過ちがあるかも知れないとしても、その命令が本質的に悪でない限り、従うことは依然として正しいのです。典型的な例は修道会における任務の命令です。あるいは、ルフェーブル大司教様の例を取り上げましょう。大司教様がチュール司教として派遣されたとき、大司教様をこの小さな教区へと追放した人々は過ちを犯したかも知れません(大司教であったのですから、大司教にふさわしい職務が与えられるべきでした)。でも、大司教様は従順のうちに正しく行動しました。すばらしい謙遜とともに、一切の不平を呟くことなしに。

 権威を取り去れ。しからば修道的従順を取り去ることになる。つまり修道的完徳、キリスト者の完徳を取り去ることになる。

 世俗の権威に関してさえ、教会は常に権威の原理を支持してきました。ピ枢機卿は「教会の聖職者たちの見識ある良心にとって、政府に対する敵愾心はあり得ない。なぜなら、これはまさしく教会の精神に反対することであり、教会の精神は著しく忍耐強く保守的な精神であり、たとえ、世俗の権威のある行為や傾向などを教会が承認もせず、受け入れもしない(例えば堕胎法など)まさにその真っ最中の時であったとしても、教会は、世俗の権威の存在を通して、依然として実行可能な善を無視するほどではない」と述べました。その解説はこのように書き留められています。「ピ枢機卿の霊魂はここにある。枢機卿は権威に対し非常な尊敬を抱いていたので、権威を授けられた人々すべてを尊敬していた。そして、権威者たちに立ち向かわなければならないときでさえ、使おうとしない擁護手段があった。なぜなら彼らに損害を与える一方で、そのような手段は、権威を傷つけるからである」 (Card. Pie, Pages Choisies, p. cii)

 現代においては、このような権威の危機とともに、権威が攻撃され軽蔑されているがゆえに、権威そのものを拒絶するべきではありません。権威の悪用には抵抗しながら(たとえば天主の法に反して行われる時──使徒行録5:29)、権威が依然としてその義務を果たす時(共通善をもたらすために──ローマ13:1~5)を、判別するべきです。権威を授けられた人々(家庭における父親、修道会における長上など)は「忠実であると見いだされる」(コリント前書 4:2)ように骨を折るべきです。善い長上たち──完全ではないにせよ──を持つ祝福された人々は、天主に感謝し、従順の徳をいっそうよりよく実行するよう努力するべきです。権威を持つ人々を中傷すること(例えば、長上は「誤りのない聖伝よりも間違っている教皇たちを好む」などと、まったく真実でないことを言うこと、など)は、偉大な権威の原理を傷つけ、重大な損害を与えているのです。信仰と徳にとって極めて不可欠な権威を害しています。


 フランソワ・レネー神父

フェレー司教へのインタビュー──これは教会のみわざです!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フェレー司教様が今年の6月にフランスで鐘の祝福の時に、フランスのプレザン紙(Present)のインタビューに答えたものの日本語訳をご紹介します。ニュアンスをフランス語に合わせて訳しました。

 フェレー司教様が最後に、次のように言っているのを読み、
Pour moi, nous sommes à la veille d’événements graves sans pouvoir bien les définir. J’appelle à la prière et je veux terminer sur un regard vers le Bon Dieu, ce qui nous permet de toujours garder espoir.
 祈りに寄りすがらなければならない恐ろしい出来事が待ち受けているように思いました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



フェレー司教へのインタビュー──これは教会のみわざです!

英語版はこちら

聖ピオ十世会総長は、司祭兄弟会および同会のローマとの関係について、フランスのプレザン紙のインタビューでの質問に回答した。

フェレー司教は、シャトールーのサンミシェル・ド・ラ・マルティンリ校(l’école Saint-Michel de La Martinerie)の鐘の祝別のために訪問した際、自らが総長を務める聖ピオ十世会の近況について語った。



プレザン紙: 2001年にフィデリテール誌のインタビューで、司教様は「若い聖職者たちの聖ピオ十世会への深い共感の動き」について言及されましたね。この動きは、特に2007年の自発教令が発布と同時に、発展していっているのでしょうか?

フェレー司教: 疑いの余地はありません! 自発教令のおかげでこの動きには新しい刺激が吹き込まれました。ベネディクト十六世の典礼全般に深い関心があったと強調することが重要です。ベネディクト十六世は、ミサだけはなく、聖伝の典礼全体を、司祭たちや信者たちの手元に置くことを真に望んでいました。これは、あまりにも多くの反対があったために実現しませんでした。ですが若い司祭たちは、この典礼に共鳴しています。これが時を超えるものであるからです。教会は永遠を生きているのです。典礼もそうです。典礼が常に若々しい理由は永遠であるからです。天主に近く、時間の枠に捕らわれません。ですから、洗礼で受けた霊魂の刻印が、この典礼をまったく知らなかった霊魂たちの中にさえも共鳴のこだまを響かせるのは、まったく当然のことです。若い司祭たちがこの典礼を発見した時に取る行動は感動的です。彼らは自分たちから宝が隠されていたという印象を受けるのです。

プレザン紙: 聖ピオ十世会は、ベルゴリオ枢機卿、現教皇フランシスコの援助のおかげで、アルゼンチン国家よりカトリックとして正式に認められました。これは単に(アルゼンチンの)行政上の重要性しかないということでしょうか、それとも、もっと多くのことを意味しているのでしょうか?

まず最初に、これには(アルゼンチンの)法律上および行政上の効果があります。これは、──平たく言うと──公式の教会と聖ピオ十世会の全般の関係に関する限り、なんの影響も及ぼしません。ですが、副次的な効果を正しく評価するのは簡単ではありません。つまり、間違いなく教皇フランシスコ、当時のベルゴリオ枢機卿は、聖ピオ十世会がアルゼンチン国家にカトリックとして認められるよう、その承認を勝ち取るための援助を約束してくれましたし、教皇はその約束を守りました。ですから、教皇様が私たちをカトリックであるとみなしていると考えざるを得ないというしか、私たちには選択の余地はありません。

プレザン紙: 同じ路線に沿って、司教様、あなたはバチカンによって、聖ピオ十世会のある司祭を裁判するための第一審の裁判官と任命されました。これは善意のしるしであると理解できるでしょうか?

それは目新しいことではありません。これは十年以上に渡って存在し続けた事例です。事実、これは善意のしるしであり常識のしるしです。ローマ教会の全歴史を通して、ローマ教会において存在が認められることです。つまり、教会の現実主義であり、非常に現実的な問題に対して解決策を見つけるため、教会法上のそして裁治権上の問題を越えることが出来る教会の能力です。

プレザン紙:恩人と友人の皆さんへの手紙の中で、司教様はローマから「矛盾するメッセージ」が来ていると述べられました。これは何を意味するのでしょうか?

聖伝に近づこうとする団体が扱われる、というよりは、虐待されるやり方について私は思い巡らしました。つまり無原罪の聖母のフランシスコ会(the Franciscans of the Immaculate)のことです。また、私たちがローマ当局のさまざまな権威筋より受けたさまざまなやり方についてです。例えば、修道者聖省は今なお私たちを離教的であると考えています(2011年、彼らは聖ピオ十世会に加わった或る一名の司祭を破門だと宣言しました)が、その他聖省から、あるいは教皇ご自身からは、そのような扱いは受けていません。ちょうど今申し上げた通りです。

プレザン紙:「悲観的」「自分たち以外に対して閉鎖的」「聖ピオ十世会に忠実な者たちだけが救われると考えている」──時折、このような言い回しが聖ピオ十世会に対して向けられることがあります。あなたはどのように答えますか? あなたによれば、宣教の精神とは何でしょうか?

この皮肉な言葉の数々が自分に関係あるとは思いません。教義における堅固さは不可欠です。信仰とは交渉次第のものではないからです。信仰とは、完全体として天主より与えられており、啓示された真理の中から一部を抜き取って選ぶ権利は、私たちにはありません。今日ではこのような必須条件を思い起こすことは、多かれ少なかれ常にそうであったように、歓迎されていません。「信仰の戦い」という言い方は、教会の歴史の一部です。宣教師は信仰の言葉を外部に向けて述べなければならず、同時に、すでに信仰を持っている人々を強めようとしなければなりません。私たちは聖ピオ十世会の信徒の方々だけに向かって話をすることは出来ません。たいまつは世界を照らし、信仰の光は熱とともに輝きます。信仰は愛徳によって生まれなければなりません。私は宣教師というものをこのように理解します。

プレザン紙:数週間前、聖ピオ十世会のいくつかの神学校は、ブランミューラー枢機卿及びシュナイダー司教の訪問を受けました。この訪問は「公式の教会」との公的なつながりです。これは欠かせないのではないですか?

教会との結びつきは欠かせません。このつながりの表明のやり方は、いろいろあり得ます。この訪問の日にちと場所については私に一任されていました。バチカンが訪問者を選定しました。私が彼らの訪問に神学校を選びました。なぜなら、これら神学校が、訪問する司教様たちにとって最も説得力があり、最適な代表者であると思ったからです。

プレザン紙:この司教たちの最初の反応はどんなものでしたか?

司教様たちは大変満足しておられました。彼らは私たちにこう言いました。「皆さんはごく普通の人たちだ」と……これが私たちの受けている噂を示しています! 司教様たちは私たちの神学生たちの資質について褒めてくださいました。この最初の親密なコンタクトののちの彼らの結論が、私たちが教会のわざであるということは疑う余地がありません。

プレザン紙:あなた方は、あなた方を隠れて支援する一部の司教様たちとコンタクトを取り続けていますか?

もちろんです! 今日、司祭たちが私たちに近づいてきてコンタクトを取っているのを見ていますから、より高い(司教)レベルにおいても、同じことが起きていると容易に結論を出せます。

プレザン紙:先ほど触れた2001年のインタビューで、あなたはこう宣言されました。「私たちがローマとコンタクトを取ることで教会内にわずかずつでも聖伝を取り戻すことができるチャンスがいくらかでもあるのなら、私たちはその好機を掴むべきだと考える」と。──聖ピオ十世会の立場は依然としてこのままですか?

たとえこれが、特にバチカン自身の内部にあるあからさまな不和のために、簡単なことだとは言えなくても、私たちの立場はこのままです。このような関係には細心の注意を払いますが、私たちの見解は、事実によって確認されるように有効です。これは強固な反対のまっただ中で達成されつつある目立たない仕事です。この方向に向かって働いている人々もいれば、反対の方向に向かって働く人々もいるからです。

プレザン紙:教会内においてバランスを取る拮抗勢力としての聖ピオ十世会の役割は重要ですか?

この役割は何も新しいものではありません。ルフェーブル大司教様がそれを始められ、私たちはそれを続けています。ベネディクト十六世が踏み出した歩みによって、近代主義者たちが憤りを見せており、それは容易にわかることです。

プレザン紙:現在、聖ピオ十世会はどこにいるのでしょうか? 聖ピオ十世会の強みと弱点は何でしょうか? あなたが予見する聖ピオ十世会の未来とはどんなものでしょうか?

私は穏やかに未来を見ています。聖ピオ十世会は、イエズスの聖心とマリアのけがれなき聖心に委ねられた事業です。私たちはただ、イエズスと聖母マリアとのご意志に忠実にとどまりさえすればよいのです。この教会は、聖主イエズス・キリストの教会であり、イエズス・キリストは教会のかしらであり続け、教会が破壊されるのをお許しにはなりません。

聖ピオ十世会の弱点ですか? 分裂の危険であり、これは深刻です。例えば自分たちを「レジスタンス」と呼ぶ聖伝のパロディ集団を見て下さい。これは、ほとんどセクト集団の、非カトリック的精神のことです。こんなものを私たちは一切持ちたいとは思いません。これは、この地上において自分たちだけが善良で正しい人間だと考える人々からなる、自らの内部に閉じこもる運動です。これはカトリックではありません。これは客観的に危険なものですが、危険は相対的です。聖ピオ十世会の大部分は健全で、このような錯覚に陥ることを望んでいません。これによって私たちは超自然的手段に頼るよう促されるのです。天主が私たちにお望みのことを、私たちに教えてくださるでしょう。天主は状況を通してお語りになるのでしょう。

聖ピオ十世会の強みですか? 実りをもたらす生き生きとした忠実さ、そしてカトリック的生き方は、たとえそれがあらゆるものを要求するとしても可能であると現代世界に教えていることです。しかし──もう一つの弱点ですが──私たちはこの時代の子です。近代世界の影響に対抗する免疫があると装うのは夢想でしょう。具体的に言いますと、私たちはこの地上で皺もしみもない、戯画化した教会の姿を望むことを避けなければなりません。聖主はこのようなことをこの地上で私たちに約束なさいませんでした。「聖なるカトリック教会」とはこのようなことを意味しているのではありません。聖会とは、聖主がお与えになった手段──秘跡、信仰、規律、修道生活、祈りの生活を使うことで私たちを聖なるものとすることができるという意味です。

プレザン紙:新しいミサに聖伝のミサの奉献文(Offertorium)を導入しようというサラ(Sarah)枢機卿の提案についてはどう思われますか?

それは新しい考えではありません。ローマで十年近く議論されていることです。再び取り上げられたことを私は嬉しく思います。これは聖なるものと世俗とを混ぜることだと言って、この考えを批判する人々がいます。私は、それどころか、教会に健全なものを取り戻そうという観点からこれは大きな第一歩であると考えます。なぜなら、奉献文(Offertorium)は、ミサ聖祭に関するカトリック原理の要約であり、ミサ聖祭が至聖なる三位一体に捧げられる償いの犠牲であり、罪の償いとして信者とともに、司祭によって天主に捧げられる犠牲であることを要約しているからです。こうして徐々に、信者たちが失ってしまった聖伝のミサへと彼らを連れ戻すことになるだろうからです。

プレザン紙:司教様、締めくくりのお言葉をお願いします。

私の考えによると、私たちは、はっきりと定義できない数々の重大な出来事を目前にしている、と思います。皆さんを祈りへと呼びかけます。そして常に希望を持たせてくださる天主のほうへとまなざしを注ぎつつ、私の言葉を終わりにしたいと思います。

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Entretien de Mgr Fellay à Présent (27 juin 2015)

C’est à l’occasion de la cérémonie de bénédiction des cloches de la chapelle de l’école Saint-Michel de La Martinerie, à Châteauroux, que Mgr Fellay a fait pour Présent un point sur la situation de la Fraternité Saint-Pie X, dont il est le Supérieur général.

Dans un entretien accordé à Fideliter en 2001, vous évoquiez « le mouvement de profonde sympathie du jeune clergé à l’égard de la Fraternité ». Ce mouvement s’est-il amplifié, notamment du fait du motu proprio de 2007 ?

― Sans aucun doute ! Ce mouvement a reçu un nouveau souffle avec le motu proprio. Il convient d’ailleurs d’insister sur l’intérêt de Benoît XVI envers la liturgie d’une manière générale. Il a vraiment désiré remettre à la disposition des prêtres et des fidèles toute la liturgie traditionnelle, pas seulement la messe, ce qui ne s’est pas réalisé jusqu’ici à cause de trop nombreuses oppositions. Cependant la jeunesse, précisément parce que cette liturgie se situe hors du temps, s’y retrouve. L’Eglise vit dans l’éternité. La liturgie aussi, c’est pourquoi elle est toujours jeune. Proche de Dieu, elle n’appartient pas au temps. Il n’est donc pas étonnant que le caractère baptismal fasse résonner cette harmonie, même dans les âmes qui ne l’ont jamais connue. La façon dont réagissent les jeunes prêtres qui découvrent cette liturgie est d’ailleurs émouvante : ils ont l’impression qu’on leur a caché un trésor.

La Fraternité a été reconnue officiellement comme catholique par l’Etat en Argentine, avec l’aide du cardinal Bergoglio devenu ensuite le pape François. Cela n’a-t-il qu’une importance administrative ou est-ce plus révélateur ?

― On y trouve tout d’abord un effet juridique, administratif, sans implication sur l’état des relations générales de la Fraternité avec, disons pour simplifier, l’Eglise officielle. Mais le deuxième effet est difficile à évaluer correctement. Il n’y a aucun doute sur le fait que le pape François, alors cardinal Bergoglio, avait promis d’aider la Fraternité à obtenir la reconnaissance par l’Etat argentin de notre société comme catholique et qu’il a tenu sa promesse. Cela oblige à penser qu’il nous considère bien comme catholiques.

Dans le même ordre d’idées, vous avez été nommé juge de première instance par le Vatican pour le procès d’un prêtre de la Fraternité. Ne peut-on y voir un signe de bienveillance ?

Ceci n’est pas nouveau mais existe depuis plus de dix ans. Il s’agit effectivement d’une marque de bienveillance, et de bon sens. C’est ce que l’on remarque dans l’Eglise romaine à travers son histoire : son réalisme, capable de dépasser des problèmes canoniques, juridiques, pour trouver des solutions à des problèmes bien réels.

Vous évoquez, dans votre Lettre aux amis et bienfaiteurs, des « messages contradictoires » venant de Rome. Qu’entendez-vous par là ?

Je pense à la manière dont une société qui était en voie de rapprochement vers la Tradition a été traitée – ou maltraitée : les franciscains de l’Immaculée. Ou aux diverses manières dont nous traitera une instance romaine par rapport à une autre : la Congrégation des religieux, par exemple, nous considère toujours comme schismatiques (elle a déclaré excommunié, en 2011, un prêtre qui nous rejoignait), alors que ce n’est pas le cas d’autres congrégations ou du pape lui-même, comme nous l’avons dit.

« Pessimiste », « fermé aux autres », « pensant que seuls les fidèles de la Fraternité seront sauvés » : vous êtes parfois évoqué ainsi. Que répondez-vous ? Qu’est pour vous l’esprit missionnaire ?

Je ne me reconnais pas dans ces quolibets. Une fermeté dans la doctrine est, certes, nécessaire, car la foi ne se négocie pas. La foi est un tout donné par le Bon Dieu et on n’a pas le droit de faire le tri parmi les vérités révélées. Rappeler ces exigences aujourd’hui passe mal, comme cela a d’ailleurs toujours été plus ou moins le cas. L’expression « combat de la foi » fait partie de l’histoire de l’Eglise. Forcément, le missionnaire devra faire retentir cette voix de la foi à l’extérieur, tout en cherchant à fortifier ceux qui l’ont déjà. Il n’est pas possible de ne s’adresser qu’aux fidèles de la Fraternité. Le flambeau illumine le monde, la lumière de la foi rayonne, avec chaleur. La foi doit être portée par la charité : c’est ainsi que je vois le missionnaire.

Il y a quelques semaines, des séminaires de la Fraternité ont reçu la visite d’envoyés du Vatican, le cardinal Brandmüller, Mgr Schneider. Ces visites constituent un lien public avec « l’Eglise officielle ». N’est-il pas vital ?

Le lien avec l’Eglise est vital. La manifestation de ce lien peut varier. Les dates et lieux de ces visites ont été laissés à mon choix, le Vatican a proposé des noms. J’ai choisi les séminaires, ce qui me paraissait, pour des évêques, le plus éloquent et le plus représentatif.

Quelles ont été les réactions « sur le vif » de ces évêques ?

Ils se sont montrés très satisfaits. « Vous êtes des gens normaux », nous ont-ils dit… ce qui montre la réputation que l’on nous fait ! Ils nous ont félicités sur la qualité de nos séminaristes. Il ne fait aucun doute qu’ils ont conclu de ce premier contact rapproché que nous étions une œuvre d’Eglise.

Avez-vous des contacts avec des évêques, qui vous soutiennent discrètement ?

Bien sûr ! Si l’on voit que des prêtres se rapprochent de nous aujourd’hui, ont eux-mêmes des contacts avec nous, on peut facilement en conclure qu’à l’échelon supérieur, ce doit être à peu près la même chose…

Dans l’entretien déjà évoqué de 2001, vous déclariez : « S’il y a une chance, une seule, que des contacts avec Rome puissent faire revenir un peu plus de Tradition dans l’Eglise, je pense que nous devons saisir l’occasion. » Est-ce toujours votre ligne ?

Cela reste notre ligne, même si l’on ne peut pas dire que ce soit facile, notamment à cause des dissensions ouvertes au sein du Vatican lui-même. Ces relations sont délicates, mais ce point de vue reste valable et confirmé dans les faits. Il s’agit d’un travail discret, au milieu d’oppositions assez fortes. Certains travaillent dans un sens, d’autres dans le sens contraire.

Le rôle de contrepoids de la Fraternité à l’intérieur même de l’Eglise n’est-il pas important ?

Ce rôle n’est pas nouveau, Mgr Lefebvre l’a commencé et nous le continuons. A constater l’irritation des modernistes devant les pas faits par Benoît XVI, on le voit bien.

Où en est la Fraternité aujourd’hui ? Quels sont ses points forts, ses points faibles ? Comment voyez-vous son avenir ?

Je vois son avenir sereinement. C’est une œuvre déposée dans le Sacré-Cœur et le Cœur immaculé de Marie, le tout est d’être fidèle à leur Volonté.

Cette Eglise est l’Eglise de Notre-Seigneur Jésus-Christ, qui en reste le chef et ne permettra pas sa destruction.

Les faiblesses de la Fraternité ? Le risque de séparation, qui est grave. Voyez par exemple la caricature de la Tradition qui se fait appeler la « Résistance » : il s’agit d’un esprit non catholique, quasi sectaire, dont nous ne voulons pas, un mouvement qui reste replié sur lui-même, avec des gens qui pensent qu’ils sont les seuls bons, les seuls justes sur la terre : cela n’est pas catholique.

Il s’agit d’un danger objectif, mais relatif. La grande partie de la Fraternité est saine et ne veut pas sombrer dans ces illusions. Cela nous pousse à nous appuyer sur les moyens surnaturels. Ce que le Bon Dieu veut de nous, il nous le montrera, il parlera à travers les circonstances.

Les points forts ? La fidélité, vivante, qui porte des fruits et montre au monde d’aujourd’hui que la vie catholique, avec toutes ses exigences, est possible. Mais – autre point faible – nous sommes des gens de ce temps, prétendre être immunisés contre toute influence du monde moderne est chimérique. Plus précisément, il faut éviter le danger d’une caricature, de souhaiter voir ici-bas l’Eglise sans ride ni tache : ce n’est pas ce que le Bon Dieu nous a promis sur cette terre. Ce n’est pas ce que signifie « l’Eglise sainte », cela veut dire qu’elle est capable de sanctifier par les moyens donnés par Notre-Seigneur : les sacrements, la foi, la discipline, la vie religieuse, la vie de prière.

Que pensez-vous de la proposition du cardinal Sarah d’introduire l’offertoire traditionnel dans la nouvelle messe ?

Cette idée n’est pas nouvelle, cela fait une dizaine d’années qu’elle circule à Rome. Je suis heureux qu’elle soit reprise. Certains critiquent cette démarche en disant que ce serait mêler le sacré au profane. Au contraire, dans une perspective d’assainissement de l’Eglise, je pense que cela constituerait un très grand progrès, parce que l’offertoire est un résumé des principes catholiques de la messe, du sacrifice expiatoire offert à la Sainte Trinité, dirigé vers Dieu en réparation des péchés par le prêtre, accompagné par les fidèles. Et cela ramènerait graduellement les fidèles vers la messe traditionnelle qu’ils ont perdue.

Comment souhaitez-vous conclure, Monseigneur ?

Pour moi, nous sommes à la veille d’événements graves sans pouvoir bien les définir. J’appelle à la prière et je veux terminer sur un regard vers le Bon Dieu, ce qui nous permet de toujours garder espoir.

Propos recueillis par Anne Le Pape.

(Source : Présent du 27 juin 2015)

2015年8月聖伝のミサ Traditional Latin Mass SSPX Japan

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月の日本での聖伝のミサのご報告を申し上げます。

 7月31日の聖イグナチオ・デ・ロヨラの祝日に大阪でミサ聖祭を捧げることが出来たのは大きなお恵みでした。

 8月2日には、東京で歌ミサを捧げることが出来ました。天主様に感謝!東京では、午後の公教要理で、天主の十戒の第5戒を復習しました。

 ところで、来月の9月6日の東京でのミサは、都合により午後1時半からの開始となります。よろしくお願いいたします。

 The next month, on September 6th, Mass in Tokyo will start at 1:30 pm. I am sorry for the inconvenience which we may cause because of this change.


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
こんばんは。8月の初土曜日のミサの報告をお送りいたします。

7月31日(金) 聖イグナチオの歌ミサには12人が、
8月1日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサの歌ミサには16人が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教では、聖イグナチオ・ロヨラについてお話頂きました。聖イグナチオが改心した後に聖地へ行く前に、マリア様に巡礼してそこで黙想し総告解をしてからエルサレムに向かったという話を聞いて、聖イグナチオのような大聖人でさえそうしたのであれば、私のような者はマリア様に入り浸っていなければどうにもならないと痛感いたしました。 聖フランシスコ・ザビエルが敬愛する聖イグナチオに跪いて手紙を書いていたという逸話を思い出して、ちょっと跪いてこのメールを打ってみようとしましたが・・・無理でした(;´∀`) 聖イグナチオが、 聖フランシスコ・ザビエルを日本へ派遣して下さった事にも感謝申し上げ、残して下さった「霊操」による黙想会に与る人々が良い実をむすぶことが出来るようお取次ぎをお願いしたいと思います。

土曜日のお説教では8月に「聖母被昇天」「聖母の汚れなき御心」の祝日をお迎えする準備として マリア様がどれだけ聖寵に満ち溢れていらっしゃったか、どれほど素晴らしかったかを黙想いたしました。
神父様のお説教を拝聴しながら、マリア様の霊魂の美しさをどんどん想像していて、マリア様の素晴らしさを思うだけで自分まで幸福な気持ちになりました。
ぜひこの素晴らしお説教を沢山の方々に聞いて頂いて一緒にマリア様の大祝日の良い準備をして頂きたいと思います。お説教のアップをお待ちしています。

土曜日の御ミサ後、Veni Creator Spiritus を歌ってから公教要理の続き 「人間」についてでした。 人と動物の霊魂の違い、霊魂が滅びないという理由、アダムとエワの原初の義の状態などを勉強いたしました。

両日大阪では猛暑日で、神父様にはお疲れの事と思います。どうぞご自愛くださいませ。
大阪でのミッション、ありがとうございました。
日本に大きな回心と多くの救霊を祈りつつ


【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 31人(内、子供2人)

【お便り】
アヴェ・マリア! トマス小野田神父様
“Circuibo et immolabo hostiam jubilationis”
「私は祭壇に廻って、喜びの生贄を屠ろう。」
聖霊降臨後第6主日の神父様のお説教はとても良かったでした。神学的に一級の内容だと思いました。今まで、キリストに対する愛についていろいろ悩みましたが、これによって益々真にキリストにならい、一致を深め、益々誠にキリストを愛していきたいと思っています。“主が私たちを愛されているように、自分も主を愛し返されるまで心が安らぐことがないのです“といったような聖人の言葉があると思いますが、これと同じ気持ちだと思います。

2015年7月31日 聖イグナチオ・デ・ロヨラの聖伝のミサ SSPX Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月15日の聖母の被昇天ですが、いつもミサ聖祭を捧げる新大阪のコロナホテルで、午後6時半からミサ聖祭(歌ミサ)を捧げるように予定が付け加わりました。
 8月16日主日には、大阪で聖伝のミサが二回捧げられる予定です。アジア管区長のシュテーリン神父様が訪問される予定です。

 また、9月6日の東京でのミサ聖祭ですが、都合により午後1時半からの開始の予定です。お間違えの無いようにお願い申し上げます。

 さて、今回は、7月31日に大阪での聖伝のミサの時の説教をご紹介します。日本に聖フランシスコ・ザベリオを派遣してくださった大恩人である聖イグナチオ・デ・ロヨラについてお話ししました。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年7月31日 証聖者聖イグナチオ・デ・ロヨラの祝日



  小野田神父 説教

 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年7月31日、聖イグナチオのミサを行っています。

 このミサは特に、今週の月曜日に亡くなられた、マリアさんの、信徒会長様のお母様の霊魂の為に捧げられています。会長のお母様は、会長の手によって、緊急の洗礼を受けたい、という事で洗礼を受けて、そしてマリアという霊名で、そして私の訪問をお待ちだったのです。本来なら、今回日本に来た時に、お母様にお目にかかって、できれば終油の秘跡とか、或いは必要な祝福を、病者の祝福を、本当は授ける予定でしたが、一足先に主に召されてしまいました。どうぞ、お母様の為にお祈り下さい。

 
 「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は聖イグナチオの祝日ですので、聖イグナチオの人生について、黙想してみましょう。

 聖イグナチオは、どういう人生を辿って、そして一体何がきっかけで大聖人になって、どんな事業をイエズス様の為になさったのか、そしてそれを見て、私たちがどんな点で、聖イグナチオを真似しなければならないのか、或いは、聖イグナチオの人生を黙想した、何か、私たちに与える教訓は何かを、見てみる事にします。

 聖イグナチオは、1491年にスペインのロヨラ城で、お父さんの名前は、ベルトラン・デ・オナス・イ・ロヨラ、そしてお母さんは、マリナ・デ・リコナ・イ・バルダ、というお父さんとお母さんを持った、夫婦の一番最後の末っ子として生まれて来ました。そして幼い頃は、イニゴという名前で、そのオナ地方にあった、ベネディクト会の修道者の聖人の大修道院長の名前を取ったのですが、後にローマ時代の、イグナチオと名前を変える事になります。

 子供の頃は、その当時の流行に従って、スペインでは非常に流行っていた、『騎士の物語』、エル・シードとか騎士が、イスラム教の、キリスト教に反対する人たちからの戦いに、都市を守って、そして貴婦人を助けて、そして英雄的な生涯を送る、騎士道の精神を守る、そして騎士としての栄光を高める、という本をたくさん読んで、それに憧れていました。

 そして、ちょうどその機会がやってきました、というのは、1517年に、ナヘラという伯爵の騎士として、兵士として仕える事ができるようになったからです。そしてその当時、その上流社会に出入りして、貴婦人を見て、「あぁ、この貴婦人が良いなぁ、好きだなぁ。」とか、或いは、この世の楽しみ、この世の栄華、この世の楽しみなどに非常に大きな憧れを持っていました。そしてそれを追及する為に、「騎士道の道を、ますます歩こう。」と、思っていました。そして彼は、イニゴには、それなりの体力と、勇気と力もありました。

 そのようなイニゴにとって、大きな転換期がやってきました。それは、1521年、フランスのアンドレ・ド・フォアという、ナバラ地方にいたフランス人が、それは力のある貴族だったのですけれども、それをスペインの、そこのイニゴが仕えていた上司に対して攻撃をかけます。そしてそのパンペルーナ城に対する攻撃に対して、イニゴが皆と力を合わせて、それに対抗します。上司はすぐに退却するのですけれども、イニゴたちだけは残って、一生懸命それに反撃するのです。結局5月20日、それは聖霊降臨後の月曜日、大砲の弾がイニゴの足に当たって、足の間で避けて、そして負傷を負って、もう歩く事ができなくなります。骨を折って、そしてイニゴが倒れたのを見て、他の仲間たちは皆、これで降参してしまいます。スペインのパンペルーナ城は負けてしまうのです。一生懸命、敵ながらにあっぱれに戦っていたイニゴを見て、フランス人たちも彼を助けて、治療して、家に帰させるのです。

 療養中、自分の家でいつも読んでいた、ロマンの本を、騎士道の本を、「ないかなぁ。」と、探すのです。しかし、そこにあった本は、『キリストの生涯』と、『聖人伝』だけでした。そこで、その時間に任せて、『聖人伝』、『キリストの生涯』を読んで、時を過ごしましたが、『聖人伝』を読めば読むほど、『キリストの生涯』を読めば読むほど、「自分にはもっと、仕えるべきもっと高貴な王がいる。」と、いう事が分かりました。今まで知らなかった、超自然の、天の王国についての事に目が覚めたのです。

 そこでイニゴは、「あぁ、私はもっと偉大な王に仕えなければならない。私の仕えるべき王は、イエズス・キリストだ。そして、もしもこの聖人たちが、これほどキリストの為に仕えたのならば、私も真似をして、彼らのようになりたい。断食をして、苦行をして、そしてイエズス・キリストに仕えたい。」という望みを多く持つようになりました。そしてイニゴは、「これからは、罪の償いと、悔悛と、苦行の生活を送りたい。」という願いに燃えて、「そして聖人たちに倣って、自分もエルサレムに巡礼に行きたい。そしてキリストの、イエズス様の生涯の色々な場所を訪問して、そこで黙想して、そこで一生を送りたい。そして巡礼者の霊魂の助けをしたい。」という決心を立てるようになります。

 そしてここでイニゴは、この大砲が当たって大怪我をしたおかげで、大回心をする事になります。今まで世俗の事だけに、世俗の栄光だけを夢見たのが、キリストの為に仕える痛悔者となったのです。

 そこでイニゴは、歩けるようになると、すぐにエルサレムの方に巡礼に行く事にします。しかし、そのエルサレムにすぐに行くのではなく、その前に、近くにあったモンセラトというマリア様の巡礼地があって、「そこでまず総告解をしよう。」という事で、そこに巡礼に行って、3日間良心の糾明をして、そして総告解をします。

 そしてその告解をした後に、ちょうどその当時の習慣では、騎士道では、人が青年が騎士になる時には、御聖堂に行って、一晩中寝ずのお祈りをします。そしてその夜通しのお祈りをした後に、特別の儀式があって、騎士に叙任されて、そして騎士の服を受けて、そして正式な騎士とするのですけれども、イニゴは、総告解をした後に、一晩中、モンセラトのマリア様の前でお祈りをして、寝ずのお祈りをして、そしてその翌日、今まで着ていた貴族の服を乞食に与えて、乞食に、「交換しよう。」と、言うのです。そしてこれからは、袋の汚い服を着て、そしてそのマリア様の所の聖堂に、自分の付けていた刀や、短剣を置いて、そして、「これからは、生涯、新しい一生を送るのだ。」という事でミサに与って、ちょうどその日は、1522年3月25日、聖体拝領をして、そして至聖所を、モンセラトの至聖所を出発します。

 かといって、どこに行くという当てもなく、「とにかく主の導きのままに。」と、言って出るのです。ところで、イグナチオと服を交換した乞食は後で逮捕されて、「お前、どっかで盗んで来たんじゃないか。」と。イグナチオがそれを説明するまで、泥棒の疑いをかけられたそうです。

 話は戻りますが、イグナチオがそこのモンセラトの至聖所を出ると、たまたま、非常に心の良いカトリックの婦人がいて、イニエス・パスカルという女性に会います。そしてその方がイグナチオをそこに泊める事をするように招いてくれます。そしてこのような乞食のみそぼらしい彼を、彼女がそれを受け入れて、その間、イグナチオは彼女のところに留まりながら、祈りと黙想に耽ります。マンレサ洞窟に行っては、お祈りをし、そして断食をし、特にイエズス様についての御受難を読んで、黙想し、ミサに与り、そして祈りと償いと苦行の生活を送ります。

 そうしてそういう時に、色々な傷心の問題や、或いは誘惑の問題や、色々な霊的な闘いがあるのですけれども、その時に色々な光を受けて、ある時には一週間、8日間続けて脱魂状態にあった、という記録が残っています、そしてそのような、特に霊的な修練に於いて、メモを取って出来たのが、『霊操』といわれるもので、そのノートが元になって、将来、『黙想をする30日の霊操』というものが成立します。

 最初は、罪の償い、改悛、という事だけしか頭になく、キリストに仕えたい、聖人に倣いたい、という事で巡礼の旅に出た聖イグナチオは、このお祈りの後に、霊的な師となって、大変化をする事になります。

 そしてその後にイグナチオは、そのイニエス・パスカルさんたちの家を出て、いつも黙想していた洞窟、マンレサの洞窟を離れて、とうとうエルサレムに旅立ちます。イグナチオが旅立つ時には、そのイニエス・パスカルさんと家族たちは、「私たちは、天使であり、私たちの聖人である、大きな友人を失ってしまった。」と、非常に悲しんだそうです。

 1523年の2月に聖地に向かって、そして聖地に到着して、聖地の色々な所を訪問して、非常に霊的な大きな慰めを受けます。が、フランシスコ会の管理者の方が、「お前は家に帰れ。お前のような者がいると、誘拐されたり、大きな問題が起こるから、すぐ帰ってもらいたい。」と、言われて、イグナチオはそれに従って、せっかく何年もかけてようやく辿り着いたエルサレムを離れて、スペインに戻ります。かといって、一体何をするべきなのか分からなくて、「とにかく霊魂の為になりたい、イエズス・キリストに倣いたい。」という思いで、その巡礼の地から離れなければなりませんでした。もしもそのような命令が無ければ、イグナチオは一生涯、聖地に骨を埋めていた事だったのです。

 しかし、イグナチオはスペインに戻って、「霊魂を救う為には、霊魂たちの役に立つ為には、キリストについての話をするには、そして自分の見出した、この『霊操』の指導をするには、霊的な話をするには、自分もちょっと学をつけなければならない。」という事で、33歳だったにもかかわらず、学校の小さな子供たちに混ざって、学校で勉強しだします。そして2年間、子供たちと一緒に勉強して、そしてアルカラという所の大学に行き、そこで何か、異端の疑いをかけられたので、次にはサラマンカの大学に行き、そしてそこでもまた、疑いがかけられて、牢獄に入れられ、今度はパリに行きます。

 そしてパリで神学を勉強して、そして多くの良い友人たちと会います。ペトロ・ファベル、聖フランシスコ・ザヴェリオ、ライネス、サルメロン、シモン・ロドリゲス、ニコラス・バディラ、などという6人の同志がいて、そして彼らと一緒に、「イエズス様の為に何かをしよう。」そして話しが合って、そして1534年8月15日、パリのモンマルトルのチャペルで、清貧と、貞潔と、そしてエルサレムに巡礼に行く、という3つの約束をして、それから、「これから自分たちは一緒に、自己聖化の道を捧げよう。」という風になります。

 そして、その約束の通り、自分たちの立てた誓願の通り、エルサレムに行こうとするのですけれども、その当時トルコと、戦っていたトルコ軍が海を、地中海を占領していた為に、舟は、エルサレムに行くような舟はありませんでした。幾度、何度も待っても待っても待っても、舟はない、という事で、「もしも天主様の聖旨がそうであるならば、エルサレムに行く代わりに、教皇様に、私たちの奉仕を捧げよう。」という事で、ローマに行きます。

 そして、「私たちは、イエズス様の為に戦う騎士であり、イエズス様の為に戦う小さな軍隊だから、この軍隊を教皇様は使って下さい。」そして、イエズス様の軍隊という事で、『イエズス会』という名前を付け出します。

 しかし、このイエズス会も、最初は修道会という明確なものはなかったのですけれども、しかしその当時、カトリック教会全体をみると、イスラム教徒からの危険、或いはプロテスタントによって、多くのカトリックの国々が影響を受けてしまって、教会を離れてしまっている。イギリスはヘンリー8世が、教会を離教状態にしてしまった。或いはフランスとスペインは、互いにバルワ家とハプスブルク家が戦っている。そして残念ながら、ルネッサンスの影響で道徳もゆるんでしまっている。そして多くの人々は、キリスト教について何も知らない、無知がはびこっている。という事で、「私たちは何か、永続的なものをしなければならない。」という事で、「1つの修道会として、従順の誓願を立てる。」という事を決意しました。

 そして、教皇様パウロ3世が、1540年9月27日に勅令を出して、そのイエズス会を公式に認可する事になります。

 すると、もしも従順であるならば、長上を決めなければなりません。そして、「長上を誰か、これから投票をして決めよう。」という事になります。

 ところで、その当時ポルトガルは、とても海洋的に力のある国でした。そしてアメリカにはブラジル、そしてアフリカにはエチオピア、そしてアジアにはインドがあって、その当時ポルトガル人は種子島にもやって来て、そして「日本と是非、そのポルトガルに、その色々な外国の所に、ポルトガルの領地に司祭を派遣して欲しい。」という事で、ポルトガルの王ヨハネ3世が、イグナチオにお願いするので、イグナチオはそこで、「さあ、すぐに是非派遣して欲しい。」という事で、すぐ近くにいた聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事にします。本当は、別のロドリゲスを送る予定だったのですけれども、病気で、ザヴェリオがそこのすぐ近くにいたので、「お前、行け。」という事で、「はい。」と、行く事になります。
 イグナチオは、聖フランシスコ・ザヴェリオを送る事になります。

 聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオを非常に敬愛していて、イグナチオに手紙を書くには、いつも跪いて手紙を書いていたそうです。そしてイグナチオのサインをいつも胸に置いて、イグナチオの事を慕っていた。その「聖フランシスコ・ザヴェリオとイグナチオは本当に一番の弟子であった。」と、言われています。

 聖フランシスコ・ザヴェリオは、イグナチオができなかったような事を、インドや、或いは日本や、という所でして、そして多くの霊魂たちを回心させます。

 聖フランシスコ・ザヴェリオがインドに旅立つ前に、総長を選ぶ投票を、名前を書いていくのですけれども、そこにはイグナチオの名前が載っていました。総長の投票の時には、全員一致で、イグナチオ以外を除いて、皆がイグナチオが総長をやるように。イグナチオはそれを受けて皆に話をします、自分がやるには相応しくない、という理由をたくさん述べて。「だから3日間もう一度お祈りをして、もう一度投票しよう。」と。皆が同意して、3日間お祈りして、もう一度投票すると、皆がイグナチオを投票します。するとイグナチオはそれを受けて、霊的指導司祭に話をして、「彼に相談する。」そして彼に罪を告白して、その全てを打ち明けて、そして、「私はあなたの指導に従う。」すると、その神父様は手紙を書いて、「皆の前で読むように。」と。その手紙には、「イグナチオに命じて、総長の職を受けるように。」と言われ、そして聖イグナチオは総長になる事になります。

 すると、これからはローマに留まって、イエズス会を監督、指導しなければなりません。全く新しい生活が始まります。戦争の時に受けた足の傷や、断食や苦行で弱っていた体で、非常に健康には恵まれなったのですけれども、しかし総長として、非常に素晴らしい仕事をします。イエズス会は世界中に多くの会員を広め、日本、インド、イギリス、そしてプロテスタントのドイツ、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、或いはアメリカ大陸にも広がって、そしてそのイエズス会の基礎を作ります。

 イエズス会は、非常に天主様の聖旨に適った修道会であった、という事は、その実りを見ると分かります。瞬く間に全世界に広まって、多くの人々が、イエズス会の手を通して、カトリックに回心します。そしてプロテスタントによって失われてしまった者よりもはるかに多くの者が、イエズス会の手を通して、イエズス様の元にもたらされました。

 後の時代には、学校教育を通して、宣教を通して、多くの霊魂がイエズス会の宣教師の手を通して、お恵みを受けます。多くの王たちや貴族たちも、イエズス会の素晴らしい知性を通して、霊的な指導を受けたり、そして教皇様は、イエズス会の素晴らしい神学者によって、トリエント公会議を進めたり、或いは、学校教育を通して、多くの子供たちが無料で、非常に高い水準の教育を受ける事ができました。

 「もしも、フランス革命が起こってしまったのは、それは残念ながら、イエズス会が廃止されて、そしてイエズス会によって教育を受ける事ができなかった人々が多くあったからだ。」とも言われます。

 或いは、「もしも、イエズス会が非常にカトリック教会の敵から攻撃を受けたのは、実はイエズス会こそが、カトリック教会を守る、非常に固い砦だったからだ。」

 特に日本は、最初のイエズス会の最も誇る聖人、最も高貴な聖フランシスコ・ザヴェリオをすぐに私たちの宣教師として受けた、特別のゆかりのある地ですから、聖イグナチオには深い恩義があります。

 私たちは、聖イグナチオの生涯をみて、どのような事を考えなければならないのでしょうか。
 イエズス様は、罪人であっても、それを使う事を良しとされる、という事です。聖パウロもそうでした。教会を迫害していたサウロはパウロとなって、教会の為に働く大使徒となりました。
 野心と、この世の栄華と、快楽を追及していた様なイニゴも、回心して、キリストの騎士となって、イエズス・キリストを真似る者となって、そして、全世界をカトリックに戻す為のイエズス会を創立する者となりました。

 聖イグナチオが元々思っていた、「エルサレムの巡礼」とか、「エルサレムに居てその巡礼者の奉仕をする」というのは全く打ち砕かれてしまいましたけれども、それよりも更に素晴らしい計画を、イエズス様は聖イグナチオを通して実現されました。多くの霊魂が、聖イグナチオと、その創るイエズス会を通して、果たされました。

 私たちも是非、聖イグナチオの御取り次ぎによって、例え私たちが罪人であっても、イエズス様の良き道具となる事によって、多くの霊魂を救う事を、イエズス様が望まれる、という事を記憶する事に致しましょう。

 そしてイグナチオの様に、厳しい苦行と、お祈りと、脱魂のお恵みは頂けないかもしれませんが、しかし、罪の償いの精神は、少なくとも真似る事に致しましょう。特にイグナチオは、マリア様の元で回心をしました、お祈りと回心と、そして霊操を受けました。ですから、マリア様の御取り次ぎをもって、私たちもイグナチオの精神を受けるように、キリストに従う精神を受けるように致しましょう。

 私たちはこの夏、霊操を、黙想会をする事ができそうです。ですから、聖イグナチオの御取り次ぎによって、私たちの黙想会を祝福して下さって、そして良い黙想会ができるようにお祈り致しましょう。

 「聖イグナチオ、我らの為に祈り給え。」
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2015年8月1日(初土)聖母の汚れなき御心のミサ SSPX Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月15日の聖母の被昇天ですが、いつもミサ聖祭を捧げる新大阪のコロナホテルで、午後6時半からミサ聖祭(歌ミサ)を捧げるように予定が付け加わりました。アジア管区長のシュテーリン神父様が司式される予定です。よろしくお願いいたします。
 8月16日主日には、大阪で聖伝のミサが二回捧げられる予定です。

 また、9月6日の東京でのミサ聖祭ですが、都合により午後1時半からの開始の予定です。お間違えの無いようにお願い申し上げます。

 さて、今回は、8月1日に大阪での初土:聖母の汚れなき御心のミサの時の説教をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年8月1日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
 小野田神父 説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年8月1日、8月の初土曜日のミサをしています。聖母の汚れ無き御心の随意ミサです。

 8月の次のミサは、8月16日の主日で、いつもは夕方ですけれども、今回に限り、午前中にミサがあります。シュテーリン神父様と私と2つ、2回ミサがあります。8月16日の主日の、朝の9時と10時30分です。どうぞいらして下さい。


 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、8月15日は、マリア様の被昇天であり、8月22日は、聖伝によれば、マリア様の汚れ無き御心の大祝日であって、日本の第1の主要の守護の聖人であり、また私たちの巡回教会も、マリア様の汚れ無き御心に捧げられた教会であります。今日は、その8月の初土曜日ですから、マリア様の汚れ無き御心、マリア様の御心がどれだけ聖寵が充ち満ち溢れていたのか、という事を黙想する事に致しましょう。

 マリア様の汚れ無き御心の聖寵の満ち溢れの、その偉大さを黙想しつつ、来たる被昇天、聖母の汚れ無き御心の祝日を準備する事に致しましょう。今日このミサを、準備の最初として捧げる事に致しましょう。

 この黙想のポイントは、1つは、「マリア様には、まず罪がなかった。」これはどういう事か。次に「マリア様は、どのようにして聖寵の恩寵を高め、いや増していったのか。」最後に、「私たちはそのようなマリア様に対して、どのような信心をするべきか。」決心を立てる事に致しましょう。

 皆さんもご存知の通り、私たちにとって「洗礼を受ける」という事は、成聖の恩寵の第1のスタートポイントです。洗礼を受ける事によって私たちは、天主様が元々私たちにくださろうとした御計画であった、それを望んでおられた、成聖の恩寵、天主様の命を、私たちが回復する事ができるようになります。原罪が赦され、天主様の命に再び生きる事ができるようになります。ですから私たちは、肉体的に生まれた後に、霊的に、水と霊によって、もう一度生まれ直さなければなりません。

 「霊と水によって生まれない者は、天の国には入れない。」と、イエズス様が仰ったその通りです。私たちにとってそれは、洗礼の儀式を通してきてなされます。が、マリア様は唯一例外でありました。マリア様は、天主御父が既に、御子を、天主御父の最も愛する天主御子を、その方に委ねるべく、その御母となるべく、聖霊の神殿となるべく、特別の準備をして、特別の恩寵で、原罪の1つの汚れも無く、聖アンナ様の胎内に宿る特権を受けた方であるからです。原罪の汚れの無い、受胎をなさった方であるからです。

 これには色々な理由があります。マリア様が原罪の汚れを特別に免れた、という事は、天主様の住まうべき、その天主の聖性と合う方でなければならなかった、天主の聖性がそれを、無限の聖性がそれを要求した事も1つの理由ですが、イエズス様の、御母に対する特別の愛、無限の愛と、イエズス様の全能が、それをさせたのも、もう1つの理由です。また、イエズス様がこの世に来られたその理由というのも、「私たちの、罪の支配からの解放」ですから、マリア様が、まず、罪の支配下に、1つたりとも、一瞬たりとも、あってはならなかった、その解放の目的を、最初からつまずかすわけにはいかなかった。

 教皇ピオ9世は、その「無原罪の御孕り」のドグマを制定する前に、全世界の司教、枢機卿たちに書簡を宛てて、委員会を作り、「マリア様の無原罪の御孕りをドグマにする事について、どうするか、どう思うか。」という意見を求めました。答えを出した司教は626名でした。その内、マリア様の無原罪の御孕りの教義に反対する答えは4つでした。その内、この4つは1つになります。ほぼ満場一致で、「このドグマをするべきだ。」、「昔から伝えられたこの、今まではこれを信じるか信じないかは自由であったけれども、これは使徒たちから伝えられた真理であるから、これを必ず信じるべきドグマとして公表しなければならない。」という、絶対多数の、ほぼ全員の意見がそうでした。53名の枢機卿の前、143名の全世界の司教たちの前で、ピオ9世教皇様は、「マリア様が無原罪の御孕りをなさった、原罪の汚れ無く、マリア様は、御母聖アンナ様の胎内に宿った。」という事を、これをドグマとして、全ての信徒が信じなければならないものとして、使徒たちから伝えられた真理、啓示された真理として公表しました。

 その4年後、1858年ルルドで、マリア様はベルナデッタに現れて、「Que soy era immaculada councepciou. “私は実に、無原罪の御孕りである。”」と、ご自分の名前を明かされました。

 ところで、第2に、「マリア様が無原罪で宿られた」という事は、単なる、原罪の為に私たちには聖寵が与えられなかった、私たちは罰を下されたのだけれども、その罰がただ免除された、だけではありません。それよりももっと肯定的な、偉大なものが与えられました。マリア様にとって、原罪が免除された、というのは一面であって、そのもう反面は、天主御父は、そのマリア様に、旧約時代の全ての預言者、王、司祭、義人、太祖たちが受けた全てのものを合わせたよりも、それをはるかに超えるような、ものすごい、今までかつて義人たちが受けた事がなかったような、それを全て合わせてもまだ足りないようなものすごい御恵みを、成聖の御恵みを、来たる御子の母として準備する為に、マリア様に全てを与えたということでした。

 天主御子も、ご自分の御母を愛する、その崇敬する、その敬愛の愛を込めて、マリア様に、「全ての恩寵を、聖寵を与え尽くそう。」と、思いました。

 聖霊も、その神殿として、その淨配として、マリア様に、そのご自分の持てる成聖の満ち充ちを、マリア様に与えようとしました。

 その最初の無原罪の御孕りの瞬間から、マリア様は、とてつもない、私たちが今まで想像した事もなかったような、夢にも思った事がなかったような、はるかに私たちの知性の把握を超えるような、巨大な御恵みを、大洋のような御恵みを頂いたのでした。

 マリア様の御恵みのその多さは、その最初の瞬間から、私たちの想像を超えています。

 つい今週、日本に来る前に、私はフィリピンで、子供たちの公教要理を教える為に、パラワンという田舎の島に行かなければなりませんでした。公教要理を教える人たちと、カテキスタ数名、フィリピンの方を連れて行ったのですけれども、少しミサが、午前中のミサが11時40分からという事で、朝少し時間があるからと言って、数時間、その部落は、川に面した所にある集落なのですけれども、そこから小さなボートを、バンカというのですが、それに乗らせてもらって、向こうにある島の方まで行きました。30分位行くと、その島に近付きます。もう海が非常に綺麗で、澄んでいて、透明で、底が見えるんです。何か、プールの、深いプールの上を舟が浮かんでいるようでした。魚も見えるし、波はほとんどないし、こうガラスのように透いていて、底が見えて、青い澄んだ綺麗な海で、その向かいの島に、ちょっとした白い砂浜があって、そこには人が何ヶ月も踏んだ事がなかったと思うのですけれども、白い砂は、波にこうもまれて、いつも回っているので、私たちが上陸すると、とてもソフトで、足を踏むと、ブクブクブクッと泡を立てて、海の水の中にある砂でも、スポンジのように柔らかくて、誰も踏んだ事が無いような、泡が出るような所で、綺麗に澄んでいて、そんな綺麗な海を見ると、マリア様の受けた聖寵を何か想像出来るような感じがします。マリア様が、最初の、無原罪の御孕りを受けた瞬間、その綺麗な澄んだ海が、この地球上の全ての海の底知れない、綺麗な澄んだ、大洋のお恵みの大海原を想像できるかもしれません。

 サン・スルピスという有名な修道会がありますが、スルピス会の創立者である、オリエ神父様は、こう言っています、「この無原罪の御孕りの瞬間に、天主は、旧約時代、全ての義人の霊魂達が受けた、全ての完徳と、全てのお恵みを、マリア様に集めて与えた」と。このオリエ神父様は、「マリア様の無原罪の御孕りのその最初の瞬間から、聖霊は、最も完璧な、最も高貴な霊魂達が、今まで受けた事がなかったような、今後も受ける事のないような、全てのお恵みをもっと更に、マリア様の霊魂に注ぎ込み出した。」と、言っています。

 第3のポイントは、マリア様は実は、最初のこの無原罪の御孕りのその瞬間、はかり知れない大海原の様なお恵みを受けたのみならず、マリア様が成長するに従って、この受けたお恵みを、更に、ますます、増加させていった、という事です。

 皆さんもご存知のように、私たちが成聖の状態に於いて、何か愛の行いをすれば、イエズス様の為に小さな行いをすれば、それは無限の功徳を積む事ができます。例えば、昨日黙想した聖イグナチオのように、償いの苦行、或いは、告解、或いは御聖体拝領、或いは断食、大斎小斎、或いは巡礼、或いは愛の全ての行い、施し、お祈りによって増加します。全ての過去の大聖人がそうであったように、霊魂に於いて、成聖はますます高められて増加して、そのイエズス様が下さったお恵みに応えれば応えるほど、更に更に、大きな聖徳を、愛徳を、聖寵を得る事ができます。

 まさにマリア様も、その最初の瞬間から、ますます、全ての瞬間瞬間を使って、大きくしていきました。三位一体は、マリア様の霊魂に於いて、いつも常駐しながら、いつも留まりながら、マリア様の霊魂にますます多くの聖寵を与え続けていきました。マリア様はそれに対応して、それに応えて、ますます愛の行いをしていきました。もしも聖イグナチオが、それだけの罪人から大聖人になったとしたら、マリア様の汚れ無き御孕りからは、どれほどの聖寵があったことでしょうか、増加があった事でしょうか。

 マリア様は、聖伝によれば、「3歳、或いは4歳の時に、聖アンナ様とヨアキム様の手によって聖伝に奉献させられた。マリア様は自ら、神殿の中で、天主に祈り、自らを全く捧げた。」とあります。その12年後、15歳、或いは16歳の時に、聖霊のお恵みの、聖寵の益々益々のいや増しを受けたマリア様は、聖ガブリエルからの挨拶を受けます、「めでたし、聖寵充ち満てるマリア、主は御身と共に在す。」マリア様の心は全て、天主様の為だけのものでした。マリア様の心は、童貞の心であって、主への愛しか知らない方でありました。マリア様は既にその時に、全てを天主様に捧げる婢女として、準備ができていました、「はい、私を必要とするならば、どうぞここにおります。我は主の婢女なり、仰せの如く我になれかし。」

 この愛の一言によって、もちろんマリア様は、ますます聖寵をいや増し続けました。その瞬間イエズス様も、マリア様の御胎内に、人となって、住み給いました。

 もしもマリア様が、その後にイエズス様をお運びして、御胎内に宿しながら、生ける御聖櫃となって、聖エリザベトを訪問して、聖エリザベトの胎内にいた洗者聖ヨハネを挨拶の言葉をもって聖化したとすれば、罪を赦したとすれば、もしも、マリア様の胎内に隠れたイエズス様の力がそれほどであれば、直接、マリア様の中におられたイエズス様は、どれほどの御力をもって、マリア様を聖化し続けたことでしょうか。

 マリア様は、イエズス様を、御降誕、クリスマスの時にお産みになります。マリア様の御心には、御霊魂の中には、どれほどの聖寵と喜びと、平和がいや増し続けた事でしょうか。マリア様は、イエズス様をお連れして、エジプトに避難します。或いはエジプトから戻ってナザレトに住みます。30年間、ナザレトでのイエズス様との生活、イエズス様への愛の生活。或いはイエズス様を、12歳の時に神殿で探された事、福音書には、「マリア様は、全てこれらの事をその心に、汚れ無き御心に留めて、その事を思い巡らせておられた。」と、あります。

 イエズス様の公生活、マリア様を離れての生活。或いはイエズス様の御受難をご覧になるマリア様、御悲しみの聖母。或いは、マリア様がその汚れ無い御心に刺し貫かれたその剣、どれほど御悲しみになられた事か。マリア様がそれまでに、どれほどの功徳を積まれたことか、愛の行いをされた事か。

 私たちは、口で、言葉で表現する能力を既に失っています。ちょうど私たちが言葉で説明するのは、この大宇宙の銀河系、或いは全宇宙の何とか星雲、もう私たちがロケットで飛ばして、はやぶさ号で行ってちょっと土を取って戻って来て、「あぁ、すごい。こんな土を取ってくることができた。」と言うに似ています。私たちがいくら言葉を尽くしても、それにも関わらず、もっと深い神秘が、マリア様の神秘があって、もう言葉で私たちが表現できずに、マリア様に対して、沈黙の内に祈るしかないほどの、ものすごい御恵みをマリア様はお持ちです。それを汚れ無き御心に留めておりました。

 聖霊降臨、マリア様の受けた御聖体拝領。おそらく聖ヨハネが捧げたミサから、マリア様は御聖体拝領をした事でしょう。大聖人たちが御聖体拝領をそれば、そのお恵みは、ものすごいものを聖人たちは受けていました。マリア様の受けた御聖体拝領、一回一回は、ものすごいものだったに違いありません。一回一回がマリア様にとって、おそらく脱魂状態を起こさせるような、愛の御聖体拝領だったに違いありません。一回一回の御聖体拝領が、益々のお恵みの溢れを引き起こしたに違いありません。

 マリア様の被昇天。イエズス様を愛するがあまり、この肉体は霊魂をそのままに留めておく事ができなかった、被昇天。

 そのようなマリア様は、その汚れ無き御心を以って、天主を愛し、私たちを愛しておられます。天主の婢女として、また私たちに対する母として、私たちに、「善を施そう。」と思っておられます。まさにマリア様こそ、私たちの救いであって、私たちの慰めであって、私たちの避難所であります。マリア様の汚れ無き御心こそが、私たちを天国に導く道となるものです。

 ちょうどこのような黙想をすると、私たちは一体どのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか。

 まず、マリア様のその汚れ無き御心におかれた、その成聖の満ち溢れの、その私たちの言葉に言う事ができない、その言葉をはるかに超える、その私にとっても無限のようにさえ思える、マリア様の素晴らしさ、聖寵の満ち溢れ、その汚れ無き御心を賛美する事に致しましょう。

 マリア様の汚れ無き御心に対して特別の信心を持つ事に致しましょう。マリア様の汚れ無き御心を、お慰めする事に致しましょう。

 第2回目のファチマでのご出現の時に、6月13日に、マリア様は3人の子供に、ルチア、ジャシンタ、フランシスコたちに現れて、こう言いました、「イエズス様は、この世に、私の汚れ無き御心への信心を確立する事を望んでおられます。私は、その信心を受け入れる全ての人々に、救いを約束します。これらの霊魂たちは、天主によって愛され、私自身によって、天主の玉座を飾る花として、天主に捧げられる、という事を約束します。」

 特に、シスタールチアを通して私たちに、「私は、あなたを決して離れません。私の汚れ無き御心は、あなたの避難所となり、天主へとあなたを導く道となる事でしょう。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ) 2015年8月2日 SSPX Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、少し遅れてしまいましたが、8月の第1主日の東京でのミサ聖祭のお説教をご紹介します。「祈り」と「痛悔」(改悛)について、お話ししました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



 2015年8月2日 聖霊降臨後第10主日

  小野田神父 説教

 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年8月2日、聖霊降臨後第10主日のミサをしております。今日この御ミサの後、14時30分から、いつものように公教要理の勉強、今日は、「第5戒 汝殺すなかれ」について。そして16時から第2晩課があります。明日は、朝の7時からミサがあります。

 8月の予定ですが、大阪では、8月15日の夕方の18時30分から、被昇天のミサがある事になりました。これは、今までの予定にはなかったのですけれども、都合で付け加える事になりました。そして8月16日には大阪で、朝の9時と10時30分から、午前中にミサがあります。8月11日から15日までは、黙想会を行います。聖イグナチオの霊操による黙想会で、参加者を募ったところ、満席になりました。どうぞ、実り豊かな黙想会の為にお祈り下さい。

 9月の最初の第1主日は、9月6日ですが、6月のように、13時30分からミサを予定しています。予定が変更になってしまった事を申し訳なく思います。9月6日は、午後の13時30分からです。

 また、お祈りのお願いですけれども、このミサに来られておられる、ピオ大関さんのお母様が、先月、私が病者の訪問と祝福に行って、祝福をしたのですけれども、残念ながら、その数日後に、天主様に霊魂を返されました。どうぞお母様の為にお祈り下さい。また、大阪の信徒会長のお母様も、先週の月曜日に亡くなられました。どうぞ、マリアさんの為にお祈り下さい。


 「天主よ、罪人である私を憐れんで下さい。」
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
 
 愛する兄弟の皆さん、今日は収税使、税吏人の回心、祈りの話が出ています。ファリザイ人の祈りと、収税人の祈りとを比較して、その収税人の祈りは聞き入れられた。そこで、私たちは今日、その祈りの為に、或いは聖徳の為に、聖化の為に必要な2つの要素をみる事に致します。そしてその要素をみると、まさにここにこそ天主様の憐れみ、本当の憐れみというのが何か分かります。そして、その天主様の憐れみにもかかわらず、その私たちがもしも、良い聖化をするならば、2つの要素をしなければなりません。それをもっと完成させる為に、憐れみをもっと頂く為に、私たちが何ができるか、そして最後に、いくつか具体的な遷善の決心を立てる事に致しましょう。
 
 第1の点は、聖徳の最も基本的な、重要な要素が2つあります。これは、この収税人の祈りをみると分かります。謙遜な祈りであって、痛悔の祈りであって、祈りの内における痛悔です。この収税人は、目を天に上げようともせずに、謙遜の内に、罪人である、という事を認めて祈っていました。「罪人である私を憐れみ下さい。」と、そして胸を打ちながら、その祈りの内に痛悔をしていました。
 
 これをみると明らかに、聖化の為に必要な、そして聖徳を構成する要素の2つが分かります。それは、「祈り」という事と、「痛悔」です。罪の償いという事です。

 この2つの要素があったが為に、十字架に付けられた、イエズス様と共に付けられた良き盗賊、ディスマスは、「主よ、御身が楽園に至る時に、私を思い出して下さい。」という祈りを以って、痛悔の祈りを以って、「汝、今日楽園に我と共にあらん。」という言葉を聞きました。
 
 イエズス様は、またある例えで、「一人の人が痛悔すればそれは、99人の痛悔を必要としない義人たちよりも更に、大きな喜びが天国にある。」と、言ったのと同じです。
 
 「祈り」と「痛悔」、これをこの今日の収税人は示していました。
 
 ところで第2のポイントは、イエズス様は天主は、その全能をどうやって私たちに示すか、という事を、今日の集祷文でいいます。これにも、2つの要素があります。天主の持つ真の憐れみというのは、罪人たちを、痛悔、悔悛、祈りへと呼びかけて、そしてもしも、その罪人たちが、その呼びかけに応えて痛悔するならば、第2の点に、彼らを喜んで受け入れて、そして彼らを義とする、という事です。私たちにとって必要なのは、まさにこの「痛悔する、私が罪人であるという事を認める」というその謙遜の心です、そしてそれと同時に、「私を、罪人である私を憐れんで下さい。」という祈りです。まさにその2つがあると、天主は私たちを憐れんで、私たちを聖化して下さいます。
 
 ですから今日、集祷文にも、「天主はその全能を、私たちを容赦して、そして私たちを憐れむ事によって、全能を最大に表す。“parcendo maxime et miserando manifestas.”」と、あります。
 
 ところで第3の点ですが、この私たちがその痛悔をする、この悔悛を、私たちが罪人である事を認める、という時には、多くの人にとって、それは、それさえもできずにいます。その罪を認める為に跪いて、そして胸を打つ、「私は罪を犯した。主に憐れみを求めなければならない。」という事さえも、拒む人がいます、多くの人々がいます。多くの御恵みを、私たちは頂いているにもかかわらず、それを認めようとしない人々がいます。
 
 ですから、集祷文では更にこう言います、「multiplica misericordiam tuam.“御身の憐れみをもっと増やして下さい”。」ですから私たちもその祈りをしなければなりません。
 
 では、どうやって祈りをしなければならないのでしょうか。それは、罪人、そのような方々の為に、私たちが進んで、罪の償いや犠牲を捧げる事です。そしてこれを、イエズス様が、イエズス様の聖心が私たちに求めています。マリア様も、ルルドで、或いはラサレットで、或いはファチマで、私たちに求めました。「悔悛。悔悛。悔悛。毎日、ロザリオを祈りなさい。そして天主様の栄光が表われるように、どうぞ小さなチャペルをここに造って下さい。」と、ルルドでも、ファチマでも仰りました。
 
 私たちはですから、祈りと償いを捧げなければなりません。私たちの為に、そして多くの方々の救霊の為に捧げなければなりません。
 
 では、結論に、何をどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか。
 
 この私たちの祈りと、そして謙遜のこの収税人の模範が、まさにこの全くこれの祈りをしている、最大の祈りが、まず聖伝のミサです。ミサを、この聖伝のミサには、多くの場所で、私たちが罪人である、という事を、そして私たちは主の憐れみを必要としている、という事を、罪を謙遜に告白させ、そして跪かせ、そして天主に憐れみを乞う祈りがたくさん、宝石の様な祈りが散りばめられています。どうぞこの聖伝のミサをよく、このミサによく与るようになさって下さい。
 
 第2には、私たちは日々、祈りと償いの業を捧げましょう。特に8月は、マリア様の被昇天や、日本の主要の第1の守護の聖人である、マリア様の汚れ無き御心の祝日がありますから、マリア様に対するロザリオの祈り、そしてマリア様に対して犯される罪の償いの為にも、たくさんの小さな犠牲と償いを捧げて下さい。この暑さを捧げたり、或いは、他の人から、嫌な事を受けても、それを捧げたりなさって下さい。或いは、テレビやコンピューターや、その他の娯楽を捧げたり、或いは犠牲を伴うような何か、或いは好きな食べ物を食べずに、それをイエズス様にマリア様に捧げたり等なさって下さい。
 
 最後に、有名なフェデリコ・バラルト (Federico Balart) が、詩の一節にこんな事を言っているのを紹介して、この説教を終わりたいと思います。

 「お前は、謙遜になるだけ、天主に近付く。
 お前が、跪く時ほど、偉大になる時はない。」

Mejor á Dios te elevas cuando te humillas:
¡Nunca es más grande el hombre que de rodillas !

(HUMILDAD in "Dolores: Poesías" by Federico Balart)

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会 2015年8月 黙想会と大阪での聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月には、日本での「第5回目」の、聖イグナチオによる霊操の黙想会がありました。第1回目は4名の方々が参加しました。今回は26名の方々が参加するお恵みを得たことを天主様に感謝します。北は北海道から南は長崎まで多くの方々が参加できたことをマリア様に感謝します。
 アジア管区長のシュテーリン神父様は、管区長としてはこれで日本に来られるのが3回目です。最初は昨年の9月、次は今年の秋田巡礼、そして今回の黙想会です。黙想会はシュテーリン神父様が指導してくださり、私はその通訳をいたしました。通訳をしながらその良き指導に感心しながら、黙想会に与っていました。

 この黙想会のために、お手伝いをして下さった方々や経済的にカンパをして下さった方々に心から感謝します。

 黙想会の後には、シュテーリン神父様は大阪で聖母被昇天のミサとその翌日の主日のミサ聖祭を捧げてくださいました。更に、私の実家にも足を運ばれ一日を共に休暇として過ごしました。私の両親に、シュテーリン神父様が子供の頃のころの思い出話をして下さり、そのやんちゃぶりに皆で笑いました。(「総告解」をしていたのかな?)
 極めてお忙しくいろいろな重責をお持ちながらこうやって配慮して下さったことをシュテーリン神父様に感謝します。
 来年の秋田巡礼に、また来て下さるとのことです。来年のこの時期に是非もう一度いらして戴いて、秋田巡礼でお約束なさった「聖母黙想会」を指導されることをお願いいたしました。これが実現することを聖母の汚れなき御心に委ねます。

 幾つかのお便りをご紹介することをお許し下さい。

 多くの霊魂が、私たちの主イエズス・キリストのその御憐れみと私たちに対する愛を知り、聖母マリア様が、罪人である私たちを憐れみ愛して下さるその御心に触れることが出来るように祈ります。

天主様に感謝!聖母マリア様に感謝します!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

マリア様の被昇天の大祝日にアジア管区長シュテーリン神父様に大阪で御ミサを上げて頂けた事は大変大きなお恵みでした。
黙想会を指導なさってお疲れの後にも関わらず場所を移動して一人でも多くの方々がマリア様の特別の日を祝う事が出来るよう配慮してくださった神父様方に感謝いたします。

8月15日 (土)聖母被昇天の祝日 の歌ミサには17名が、
8月16日 (主)聖霊降臨後第十二主日 の二つのミサには合わせて48名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

8月15日の被昇天の御ミサでのお説教で、天主様の傑作であるマリア様がいかに偉大な方であったかだけでなく、マリア様に倣ってイエズス様のご受難の玄義に私達が参与すれば、マリア様がその御生涯の偉大な徳の報いとして得られた栄光を私達も聖母の子として受けることが出来る希望もこの被昇天の玄義に含まれていることに大きな希望を持ちました。シュテーリン神父様が何度も仰っていたように、「天主の御業はなんと感嘆すべきものでしょう!」

8月16日の主日のお説教では、この日の聖福音の『善きサマリア人の譬話』を黙想いたしました。今まで、『困った人を助けることは大切だ』という教訓くらいにしか思っていませんでしたが、もっと奥の深い意味があることを知りました。
強盗に襲われた半死半生の人のように、現代では霊魂が半死半生な人々が私達の周りには溢れていること、その人々の救霊のため働かなくではならないことがはっきりとわかりました。
御ミサを終わって帰路、兄弟姉妹達はどれだけ射祷を唱えながら帰ったことでしょうか。

公教要理では、黙想(念祷)の大切さをお話頂きました。
天主様と目と目、心と心をあわせる。天主の真理が現実で、この世こそが儚い夢うつつだと確信してから天主の御前に卑しい自分がいることを意識する。イエズス様の聖心の中に卑しい自分が念祷によって入る事が許されることに感謝と驚きを抱く。ロザリオの祈りを唱える前に5分、黙想してから唱えるともっと祈りに集中できて良い祈りになる。などなど、黙想のコツを沢山教えて頂きました。
帰ってから言われたとおり、ロザリオの前に小さな黙想をしてみましたら本当に集中して祈ることができました。

超御多忙のアジア管区長のシュテーリン神父様に黙想会と被昇天の御ミサをして頂けて本当に感謝いたします。
移動、ミッション、聖務と通訳まで疲労困ぱいされていらっしゃるでしょう小野田神父様、ありがとうございました。
神父様方の天主様への愛と隣人への愛のお手本に刺激されて、私達信徒も本気で天国をめざそうと思います!




【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様
 聖イグナチオ・デ・ロヨラの霊操による黙想会に参加させていただきまして、本当にありがとうございました。
 主が私を愛するためにあれほどの御苦しみを引き受けてくださったのですから、私も主への愛のために十字架を担いたい、主をお愛しして死にたい、そのために聖寵をいただきたいと心から思っています。霊魂を鼓舞するとても素晴らしい内容でした。
 マリア様は私に偶然このお恵みをくださったのではなく、以前から準備をしてくださっていたと感じます。
 日々短い時間でご苦難の黙想をするつもりです。またそれだけでなく、日々全生活をもって主の十字架に与り、主と一致するお恵みを願います。全身全霊で、あたかもイエズス様と化してしまわなければならないと思います。そのためにもマリア様ご自身に私のうちにあって生きてくださいと祈っています。
 言葉に表すのみでなく実行に移し、完遂することができますように、弱い私のためにお祈りをお願いいたします。

 無原罪の聖母の騎士会入会式において、無原罪の聖母の騎士となる誓約をさせていただきまして、ありがとうございました!マリア様の被昇天の大祝日、そして聖母の土曜日に、こんなお恵みをいただけるとは1年前には思ってもいませんでした。これも聖ピオ十世会と、シュテーリン神父様、トマス小野田神父様のおかげです。心から感謝いたしております。(・・・)




【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この度は、霊操の準備、莫大な講話の通訳、食事中の読書、25人近くの総告解、霊的指導、その他様々な労をとって下さって、本当にありがとうございました!!m(_ _)m
神父様の労の実として、霊操や御ミサにいらっしゃった方が全員、聖人となる事ができますように!! (・・・)



【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

黙想会ではご指導と、通訳、告解、御ミサなど本当にありがとうございました。

私は黙想会に参加する前は、「黙想」が大変苦手でした。以前クチュール神父様からも黙想(念祷)の大切さを何度か伺ったことがありましたがどうしても気が散ってしまい、黙想が上手く出来ない自分を不甲斐なく思いまた、信仰の薄さを嘆きながらのこの度のチャレンジでした。
イグナチオの霊操による黙想会では段階をもって黙想の方法を細かく説明して頂き、黙想の助になる色々なお話をお聞きしたりしてその後に黙想してみると、今までと違って深くよく黙想出来ました。あっという間に時間が過ぎて、もう少しこのまま黙想したかったと思う事もしばしばで、今まででは考えられないことでした。

小野田神父様がよく、「イエズス様の聖心に深くお入りになってください」とおっしゃいますが、この黙想会で初めて理解できたように思います。(;´∀`)
まだまだ未熟ですが黙想会を終えてからも今のところの毎朝、毎ロザリオの前に黙想をするのが楽しみになりました。

霊操のプログラムに組み込まれている総告解では大きなイエズス様の憐れみと愛を感じながら告解をする事が出来ました。シュテーリン神父様の総告解にするにあたっての講話では深い安心感と信頼をもって究明と告白に臨む大きな助けを頂けました。
思っていた以上に意味のある黙想会でしたので、私だけでなく参加された方々はきっとそれぞれ大きな御恵みをいただかれたことと思います。

黙想会に参加する御恵みを下さった天主様の御摂理に感嘆せずにはいられません。
貧しい場所にも関わらず驚異の謙遜と愛を持って御聖体としておいで下さるイエズス様に全てをお捧したと思います。
いつもそばにいて私達をイエズス様へと導いてくださる天の優しいお母様に感謝いたします。

シュテーリン神父様、
小野田神父様、
本当にありがとうございました。



【お便り】
+Ave Maria! Immaculata!

小野田神父様、シュテーリン神父様、この度の聖イグナチオの霊操による黙想会と、大阪の御ミサのミッションをありがとうございました。

急遽、ホテルでの黙想会となりましたが、インマクラータは「大逆転の大勝利」をおさめられたと思います。当初の予定の場所であれば、御聖堂と講話会場は別になる可能性がありましたが、ホテルの研修室が御聖堂、兼、講話会場になったことで、神父様が準備してくださった御聖櫃を安置して、御聖櫃の御前で、終日黙想会ができました!
日本のホテルの研修室に、5日間も御聖体にまします天主様が、おいでくださいました!
またインマクラータの騎士が6人増えました!
(最終日の無原罪聖母の騎士の入会式の後、参加した全員26人がインマクラータの騎士でありました!)
インマクラータは御自分の騎士の黙想会ためには、特別に取り計らってくださるのだと思うと、感謝で涙が止まりませんでした。

さらに、黙想会の会場となったホテルには、新大阪とホテル間を送迎するバスがあり、参加者の皆さんが集合に大変便利でした。
送迎バスのおかげで、18:30から被昇天の大祝日の歌ミサを新大阪の巡回聖堂で捧げることができ、たくさんの方が御ミサに与ることができました!

毎日の御ミサ、御聖体の御前での講話、黙想、朝、夕の祈り、ロザリオの祈り、黙想会の締めくくりの御聖体降福式を、天主様に感謝!インマクラータに感謝!申し上げます。

黙想会の始めに、シュテーリン神父様が「聖イグナチオの霊操は、ロザリオや茶色のスカプラリオと同様に聖母マリア様がお与えくださったもの。」と教えてくださり、呆然となりました。聖母マリア様は、ご自分の愛する子供たちに「霊操」までお与えくださったのだと、これまた、感謝で涙が止まりませんでした。

これまで「霊操」の本を読んだだけでは、少し難しく理解できませんでしたが、
シュテーリン神父様の素晴らしい講話で、大変良く理解でき、黙想も集中することができました。心はイエズス様への愛と忠誠心に燃えたちました。
また罪を深く痛悔し、罪を忌嫌って、遷善の決心を固く結びました。
聖母マリア様は「霊操」によって、イエズス様へと深く導かれるからですね。

黙想会後も、教えていただいたとおりに毎日15分以上黙想を続けております(*^_^*)
イエズス・キリスト御国の騎士として、自分と隣人の救霊のために、この世と悪魔に打ち勝つためには、「黙想」も必要不可欠な武器なのだと、痛感しました。

黙想の準備の祈り=「私の思い、行動、言葉、感情は全て、天主の栄光のため。私と私に託された隣人の救霊のために」と、小野田神父様のまねをして「天主の御前に出でて恭しく礼拝せん」を、電車でも、歩いていても、お掃除をしていても、いつも口ずさんでいます。そうするといつも天主様の御前にいることを意識できますね。(*^_^*)

インマクラータは、9回の秋田巡礼の後(ノヴェナにも思える準備期間でしょうか)、日本にインマクラータの騎士たちをおつくりになり、騎士には、「霊操」による黙想会を与えてくださり、「黙想」と「遷善の決心」という武器も装備させてくださったと思います。

どんなにか激務の中、御自分たちのことは二の次で、私たち日本の信徒の救霊のためだけに、はるばる日本に来てくださったシュテーリン神父様と、小野田神父様には、感謝の気持ちをどんな言葉でも表しきれません。
天主様がその善に報いてくださいますように。
インマクラータが神父様がたを、いつも護り、お導きくださいますように。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

長文お赦しください(>_


【お便り】
この度の聖イグナチオの霊操による黙想会を、天主様に、シュテーリン神父様に、小野田神父様に心から感謝いたします。
天主様の無限の愛と憐れみ、マリア様の愛により、私を今までこの世においてくださり、聖イグナチオの霊操の黙想会に参加させてくださいました。
黙想会の素晴らしさを初めて味わうことができました。
毎日の御ミサに与ることができました。全ての講話は私に語りかけているように思いました。
天主様と一致するための黙想の方法や、悪魔の攻撃に打ち勝つよう祈ることを教えていただきました。
もしもこのまま一度も参加できなかったとしたら、どうなっていたでしょうか?と思います。(・・・)

エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へのフランソワ・レネー神父の回答

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランソワ・レネー神父様が、エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へ次のように回答しているので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

 ウィリアムソン司教は、現在のローマ当局者たちの新近代主義(neo-modernism)は腐敗の極みに達し、程度の差はあれ、全ての司教、枢機卿らは全く腐敗しきっているので、積極的に彼らを全て避けなければならない、ローマが第二バチカン公会議を完全に棄てるまで、一切コンタクトを取ってはならない、彼らは背教者どもだ、背教のローマが聖ピオ十世会を認めることは出来ない、と主張します。

 しかし、レネー神父様は、それは間違っている、何故なら、カトリックの最も基本原則にあるように「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」からだ、と明確に説明します。

 ルフェーブル大司教様は、パウロ六世が第二バチカン公会議を発布し、新しいミサを作った後でも、コンタクトを取り続けました。ヨハネ・パウロ二世によって、新教会法典が発布され、アシジのエキュメニカル集会が行われた後にも、コンタクトを取り続けました。

 聖ピオ十世会は、不当な立場に追いやられています。その悪を是正することは善です。聖伝を代表する聖ピオ十世会こそ、ローマによってはっきりとその正統性を宣言されなければならない存在だからです。カトリック教会は、その2000年の過去と自らの聖伝とを、自分のものであると宣言しなければならないからです。これ以上、過去と断絶しよう、聖伝と断絶しようとすることは出来ないからです。

 聖ピオ十世会が公式な立場を持つことを望まない人々が存在します。一つは、カトリック教会の過去を憎む人々、近代主義者、カトリック教会を改革させようとする人々です。もう一つは「レジスタンス」と自称する人々です。

 ウィリアムソン司教が、these Roman officials, appointees perhaps, apostates certainly (拝命者かもしれないが、確かに背教者である、これらローマからの聖職者ら)と呼ぶ一人に、たとえば、シュナイダー司教様(Bishop Athanasius Schneider)がいます。何故なら、シュナイダー司教様は、教皇様からの拝命を受け、聖ピオ十世会の二つの神学校を訪問したからです。

 ところで、ウィリアムソン司教が、カスパール枢機卿などと同じレベルに見ているシュナイダー司教様は、カトリック教会の聖伝の信仰についてそれを取り戻そうと努力しています。たとえば来るローマでの家族についてのシノドゥスについて聖伝のために闘おうとしています

 シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会は第二バチカン公会議を受け入れなくとも、ルフェーブル大司教様が要求していたように聖ピオ十世会の今あるままをそのままに完全な裁治権を与えるべきだ、さもなければ、カトリック教会はその信憑性(credibility)を失い、歴史は将来現在の教会当局を批難するだろう(the history will one day reproach to the ecclesiastical authorities of our days)と言っています。

 シュナイダー司教様は、聖ピオ十世会が何かをするべきだと言うのではありません。ただ、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていないように取り扱われているのは、正当な理由がない、聖ピオ十世会が正当な地位をもっていると言うことを宣言するのはローマの義務であり、責任であり、それが必要である、と言うのです。さもなければ「使徒達のやっていた司牧方法に反する」と言うのです。シュナイダー司教様は、もう聖ピオ十世会を妨害するのを止めるときが来た、もしそれをし続けるなら、カトリック教会こそが信憑性を失う、と警告しています。

 このようなカトリック的な主張をする勇気のある司教を、十把一絡げに「背教者」だと断罪することは現実的ではありません。

 次の文章は、レネー神父様が韓国の信徒から質問を受けてお答えになったものです。既に日本語に訳されていましたが、黙想会その他の仕事で時間が取ることが出来ずブログにアップすることが出来ないでいました。今、少し時間が取れて、ようやくご紹介することが出来るようになりました。では、レネー神父様の文書をお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

エレイソン・コメンツ「間違った議論 Arguing awry」へのフランソワ・レネー神父の回答

いくつもの間違った原則

 今回に限り、ウィリアムソン司教は自身の執筆するエレイソン・コメンツの中で正しい疑問を提示しています。が、間違った原則から始めたために、彼は間違った結論に達しています。

 正しい疑問とは、聖ピオ十世会は自らの教会法的状況を正しくさせるために、ローマ当局者たちと話し合いをするべきかどうか、という正にそのものです。

 この状況は異常ですが、聖ピオ十世会の側に過ちはありません。なぜなら、ルフェーブル大司教の聖伝の信仰と典礼への忠実が原因で、大司教はイレギュラーな状況へと追いやられ、"主流から外され"、不当にも離教であると糾弾されさえしました。1975年、大司教は、あるいはこの戦いから手を引いて神学校を閉鎖し叙階式の執行を断念するか、従ってご自分が受け取ったものを伝えるのをやめるか、あるいは現代主義者たちの激しい怒りと制裁措置を被るか、いずれかの選択を迫られました。この制裁措置の数々は教会法に反していました。なぜならこの制裁措置の根底になったものは、マミー司教による聖ピオ十世会の廃止であり、従って間違いなく教会法に反しているものだからです。ルフェーブル大司教の二つの不服申し立ては、回答もないまま闇に葬られました。この起訴は状況をそのままにとどめる「停止」の効果があるので、聖ピオ十世会は見かけ上非合法であっても、現実には合法的に存続しています。

1988年には同じジレンマがありました。すなわち、大司教様が受け取ったものを伝えていくのをやめるか、いかなる地元の権威を持たない異国人であるにも関わらず、救う必要のある霊魂たちを保護した善きサマリア人の模範に倣うこと、のどちらかを迫られました。これこそ、いつの日か正される必要のある見かけ上の非合法性です。

いや、正されることは善いことです。教会内における秩序はすぐれた善であるからです。そして無秩序のままとどまることは── 一方がそれに対する責任がないとはいえ──正されなければならない悪です。

 この問題こそが、ウィリアムソン司教の反逆のまさに中心なのです。実際のところ、この問題に関する不一致が両者の間になかったならば、ウィリアムソン司教はこれほど多くの間違った非難 [1] をフェレー司教に浴びせかけることはなかったはずです(2013年のウィリアムソン司教による聖ピオ十世会会員への公開書簡に対する私の公開回答を参照のこと)。

 ウィリアムソン司教が軽視した最初の原則、これは聖アウグスティノによって教えられたことです。「教会内の悪人たち──あるいは彼らは知られていないか、あるいは彼らは、平和の一致の目的のために善人たちによって黙認されている──は、その悪に同意しない善い人々に害を及ぼすことはあり得ない」[2] と。

 二年以上前、私は聖アウグスティノのこの原則をすでに指摘し、こう説明しました。「聖アウグスチノの原則を理解するためには、カルメル神父様がたびたび喚起させていた「教会のかしらはキリストであり、教皇はキリストの代理者にすぎない」という偉大な真理を忘れてはなりません。

教会のメンバーたちとの交わりは、まず第一にキリストとの交わりであるがために、善い人々は悪に同意しない限り害を被ることはありません。そして、ある人々は、キリストが教会のかしらであることを忘れてしまい、教会の人間的側面だけに注意を払い、キリストの教会で万事を支配されるイエズスの聖心を忘れ、この交わりをとても恐れています。彼らの苦々しい熱心──ルフェーブル大司教様の精神とは正反対の──は、このイエズスの聖心を軽視していると告白しています。彼らのために祈りましょう」 [3]

 ウィリアムソン司教は次のように書いて、これを「論駁」したつもりになっています。
「腐敗した教会の役人たちの堕落からは、霊的生命を引き出すことは決してできない」と。

 このような非難には欠陥があるとわからない人がいるでしょうか。つまり、霊的生命を与えることのできるのは、腐敗した教会の役人たちの堕落であるなどと誰も主張しておらず、堕落において彼らに従いたいなどとは誰も思っていない、ということです。聖アウグスティノはその反対に、堕落に同意しないことを主張しています! そうではなくその反対に、彼らが使徒の後継者たちである限りにおいて──そして堕落している限りにおいてではなく──彼らとの交わりの中にいることが不可欠だ、と言っています。

 しかし、ウィリアムソン司教が、彼らのことを使徒たちの後継者であると言及している箇所はどこにも見当たりません。結果、司教の結論が間違っていることを驚くにはあたりません。フェレー司教と聖ピオ十世会全体が、教義において一切の妥協なく、ふさわしい関係と教会法上の立場にあることを望んでいるのは、明白に、使徒らの後継者としてのカトリック教会の高位聖職者たちとのことであって、堕落したものとしての彼らとのことではありません。

 そして教会の交わり、教会との一致は、副次的なものでも選択自由な善でもありません。それどころか、救霊のために不可欠な善です。なぜなら「教会の外に救いなし」であり、従って──私たちは自分たちの異常な状況について責任がないとはいえ──これを修正するために、教会の善のために、働くことは善であり不可欠なのです。

 聖アウグスティノの原則は、ここで、このような堕落した高位聖職者の人々とのカトリック教会における交わりは、その堕落に同意しない善人たちに害を与えない、ということを保証しています。

 明らかに、聖アウグスティノが教えたことをウィリアムソン司教は信じていません。司教は実際こう書いています。カトリック信者は絶対的なやり方で「積極的にこのような高位聖職者たちを避けなければならない」と。これは確かに、事実上、教皇聖座空位論者(セデヴァカンティスト)の態度です。実際、あらゆるコンタクトを実際に避けるならば、どうやって現実的に交わりの中にいるのでしょうか?

 もちろん、信者はこのような[堕落した]司祭たちからの直接の接触から守られるべきであり、司祭たちもこのような長上たちから守られるべきです。が、いかなるレベルでも一切のコンタクトを断つならば、まことの交わりはどうやって可能なのでしょうか? ウィリアムソン司教は理論上は教皇を認めていますが、実際には教皇といかなるコンタクトを取ることも望んでいません。ウィリアムソン司教のこの態度に、リベラル主義者たちのやり方を認めることができます。リベラル派は、カトリックの命題を認めていますが、実際には、それとまったく反対の仮説に従うからです。

 同様に、彼は権威の有益性を理論上認めていますが、実際にはあらゆる権威を、自分の上にも下にも拒絶しています! 権威の拒絶はリベラル派の特徴です。ウィリアムソン司教はフェレー司教を批判する前に善き良心の究明をするべきであり、己を正すべきです。私たちはこのために祈ります。

 ルフェーブル大司教がなさったことを、ウィリアムソン司教はフェレー司教にしてもらいたくありません。事実、ルフェーブル大司教はローマ当局者たちと会うことを決して拒絶しませんでした。彼らが要求するたびに、ルフェーブル大司教は聖伝を促進するために──聖ピオ十世会の教会法上の状況のために働くことを含む──ローマに赴きました。もし1988年5月5日のプロトコル(議定書)を受諾したためにルフェーブル大司教が自分は「行き過ぎた」と言ったとしても、ルフェーブル大司教は、試してみること、承認を獲得するために議論することは、良くなかった、などとは決しておっしゃいませんでした。まったくの反対です! 大司教は、ローマとの接触が三年以内に再開することを期待すらしていました。コンタクトは12年後に開始されました。そして、少なくとも私たちは、フェレー司教が早すぎたのではない、フェレー司教は時間をたっぷり使った、と言うことが出来ます。

 ウィリアムソン司教は「ローマの司教たちに聖ピオ十世会の神学校を訪問することを許した」ことを非難しています。司教一人一人の区別をすることもせず、まるで彼らが全員カスパー枢機卿と同じくらいの近代主義者であるかのようにです。これには事実、トミスト的(=聖トマス・アクィナスによる神学的)な現実主義が大いに欠落しています! ですが、ウィリアムソン司教が、2012年12月に「いろいろな『教会』」と題したエレイソン・コメンツ281号で明らかにした、基本的に間違ったこの原則のもとに、彼の言説が存在しています。

「眼に見える教会の、この一部分だけが、聖なる、一なる、カトリックの、使徒継承の教会です。残りは腐敗している種々のその他いろいろです」と。

 別の言い方をすれば、カトリック教会とは腐ったりんごの(小さな)健全な一部分であり、ローマから派遣されたこの司教たちは腐った部分に属しているため、彼らはカトリックではない、ということです。

 ここに基本的に誤った原則、深刻な誤謬が存在します。これがウィリアムソン司教の、そしていわゆる「レジスタンス」の神学全体と現実の行為を蝕んでいるのです。「眼に見える教会の健全な一部分として存在するカトリック教会」という原則です。これは私が新カタリ派と呼ぶ原則です。カトリック教会を眼に見える一部分、少なくとも彼らの信仰において、潔白な部分に縮小してしまうのです(確かに、彼らは自分たちの道徳においてはこのようには主張していません)。これは現実的にカトリック教会を眼に見えるものではない状態にしてしまいます。なぜなら健全な部分と腐った部分との境界の線引きをすることは不可能だからです。従ってこの説は教会が眼に見えるものであるということを否定します。ウィリアムソン司教は現実的に自分たち以外の人々、彼が腐敗していると呼ぶ人々との交わりを拒絶し、この残りの部分はカトリック教会ではないと考えることで自らを正当化しています。

 ですが、ウィリアムソン司教には次のことがわからないのでしょうか? つまり、現在の状況下でウィリアムソン司教は、教皇のいない──彼によれば現在の教皇は腐った残りの部分にいるのであり、健全な部分にいるのではないのですから──「小さな教会 (Petite Eglise)」に結論としてたどり着いていることが。
こうしてウィリアムソン司教は──これと反対のことをいくつもいくつも主張しているにも関わらず──少なくとも事実上、教皇聖座空位論へと陥っています。いわゆるこの「レジスタンス」の苦々しい実りを通して、私たちはこのような間違った原則の悪を理解できるでしょう。つまり、この間違った原則をもとにした司教聖別は正統ではあり得ないということです。

 聖なるカトリック教会は、このような間違った原則を決して教えてきませんでしたし、常に拒絶してきました。聖ピオ十世会はこのような間違った原則を決して教えず、またはっきりと拒絶します。

 聖ピオ十世会の偉大な原則とは、もっととても単純で健全です。つまり、忠実ということです! あらゆる時代の信仰に忠実であること、あらゆる時代の典礼に忠実であること、聖人たちの道徳に忠実であり、かつ、あらゆる時代の教会──聖人たちと罪人たちが聖職者たちの間にさえも入り混じっている──に、彼らの罪には同意することなく、妥協することなく忠実である、ということです。


 聖なる童貞マリアが、このご訪問の祝日に私たちが忠実なままとどまれるよう助けてくださいますように。聖母は、いとも忠実なる童貞女であられました!

 フランソワ・レネー神父

脚注
[1] たとえば、引用すると「聖ピオ十世会の指導者たちは、真理、特にカトリックの真理の首位性について、理解力を失ってしまったかのようです」/2013年のウィリアムソン司教の聖ピオ十世会司祭たちへの公開書簡

[2] « Malos in Ecclesia, qui vel ignorantur vel pro unitate pacis tolerantur a bonis, non eis ad mala consentientibus obesse non posse » Breviculus Collationis cum Donatistas, I:10

[3]2013年3月8日「偽りの反リベラル主義者の錯覚」

2015年聖母被昇天、シュテーリン神父様の聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)でのお説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、


 2015年8月15日、聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が大阪で捧げて下さった聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)でのお説教の動画をご紹介します。





天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

明日の東京でのミサ聖祭は午後1 時半です

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

明日の東京でのミサ聖祭は、午後1時半からです。お間違いのないように注意願います。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ 2015年9月報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
 9月の聖伝のミサは、東京では都合により、9月6日の主日のミサ聖祭が、午後からの開始となりました。
 それでも東京では42名の方々がミサ聖祭に与ることが出来て、心から天主に感謝します。(38名の愛する兄弟姉妹の方々が御聖体拝領をしました。)
 中には、8時間かけて車を運転してきて下さる方々もおられました!天主様に感謝します!
 9月7日(月)の朝ミサには12名の方々が参加しました!

【10月以降の予定】
 大阪では10月から初土曜日のミサが午前11時からのところを10時半開始に変更になります。理由は、毎月初土の歌ミサを行うので、終了時間をお昼頃にさせるためです。
 大阪の10月の主日の夕方のミサは、10月11日のところを、アジア管区司祭黙想会のため(10月5日から10日まで)、10月25日の午後6時半からに変更になりました。ご了承くださいますようお願いします。大阪での初金初土の10月2日、3日のミサ聖祭の日付は変わりません。

 東京では、10月はいつものように10月4日主日の午前10時半からミサです。10月5日(月)は、私が司祭黙想会に参加するためにミサの開始時間が早朝の6時15分となります。ご理解をお願いいたします。

 11月については変更がありません。

 12月のクリスマス・ミサですが、例年通りレネー神父様が12月25日の夕方にミサ聖祭を大阪で捧げて下さる予定でしたが、今年は、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが、クリスマスの時期に大阪で聖伝のミサを捧げることに変更になりました。私は、司祭として初めての日本でクリスマスの夜を過ごすことになり、天主様に感謝しております。
 いつもの聖伝のミサに更に付け加わるボーナス・ミサの予定は、次の通りです。
12月24日(木)大阪 午後06時30分 ミサ聖祭 御降誕祭の前日
12月25日(金)大阪 午前00時   クリスマスの真夜中のミサ、
          午前09時   クリスマスの暁のミサ
          午前10時30分 クリスマスの日中のミサ
12月26日(土)大阪 午前10時30分 最初の殉教者聖ステファノのミサ
12月27日(主)東京 午前10時30分 クリスマスの八日間内の主日のミサ

 来年1月の予定は、次の通りです。
12月31日( 木 )大阪 午後06時30分 聖シルベステルのミサ
01月01日(初金)大阪 午前10時30分 新年の初金のミサ
01月02日(初土)大阪 午前10時30分 新年の初土のミサ
01月03日(主日)東京 午前10時30分 イエズスの聖名の祝日
01月04日( 月 )東京 午前07時00分 

 来年の聖週間は、出来れば、聖ピオ十世会日本では、初めてのことですが、日本で聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日、復活祭を執行したいと思っています。

【訃報】
 去る9月3日の聖ピオ十世の祝日に、フェレー司教様のお母様が天主様に召されました。その霊魂の永遠の安息のためにお祈り下さい。R.I.P.



 9月の御ミサの報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
9月の初金、初土曜の御ミサの報告をお送りいたします。

9月4日(金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサには12人が、
9月5日(土)聖母の汚れなき御心の随意ミサには20人の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!!
神父様の、ミッションのための移動によるお疲れが心配ですが、イエズス様へ全ての犠牲をお捧しておられる雄姿を見て私達も士気が高まりました。とはいえ、どうぞお体ご自愛ください・・・。

金曜日のお説教を拝聴して、物乞いのように、私達の心を叩いて愛と犠牲を求められるイエズ ス様の聖心を、もっとお慰めしたいと思いました。
土曜日のお説教では仲介者としてのマリア様について黙想いたしました。マリア様が完全にイエズス様の贖いに参与されたように私達もキリスト者としてマリア様を通してイエズス様の贖いの御業に参与するためにこの短い人生を与えられているのだと再認識いたしました。

土曜日の公教要理ではアダムとエワの犯した「原罪」について考察いたしました。人祖アダムとエワは、蛇の「この実を食べれば天主みたいになれる」という言葉により、禁じられた実を食べて人類最初の罪を犯した。

聖トマス・アクイナスによると、
①この最初の罪は傲慢であった。「天主のようになりたい」と、彼らの範(分際)を超えた霊的な善を望んだ事が傲慢であった。
②「天主のようになる」とは、『全く天主と等しくなる』という意味と、『ある部分において天主をまねる、天主のようになる』という二つの意味があり、アダムとエワは後者の意味において天主のようになりたいと考えた。
③「天主をまねる」とは、1、自然の本性によってまねる。2、知識においてまねる。3、行動においてまねる。 に分けられる。
アダムとエワは自然の本性はすでに与えられていたので、2と3について天主をまねたいと思った。

「人祖の犯した最初の罪とは、どのくらい重い罪なのか」
①罪の種類によって
②状況によって
の、2つの観点から罪の重さをはかる事ができ、人祖の罪はによってみると、それ以上酷い罪もあるので世界最悪とは言えないが、彼らがおかれていた状況によってみると、完成された状態に作られ、あまりに多くの恵みを受けていた事からして罪を回避さることは簡単にできたはずなので、大変大きな罪だという事ができる。

「アダムとエワとではどちらが罪が重いか?」
上記の2つの観点から見て、状況によってみるとアダム(男)はエワ(女)より完成されていたのだからアダムのほうが罪が重いといる。
類によってみれば、二人は「傲慢」の罪で、同罪であり、
種によってみれば、(1)蛇を信じて天主に逆らって傲慢をおこし且つ(2)アダムを誘ったエワのほうが罪が重いといえる。それに引き替え、アダムは蛇を信じたわけではなく単なる傲慢だった。またアダムはエワを喜ばせるためにした、という情状酌量の余地がある。


「あわれみの聖年」に関する教皇フランシスコの書簡に関する聖ピオ十世会公式発表

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランシスコ教皇様が、9月1日づけで「あわれみの特別聖年」("いつくしみの聖年")【注】における贖宥(Indulgentia)について、この特別聖年の準備・運営に携わる教皇庁新福音化推進評議会の議長、サルバトーレ・フィジケッラ大司教に書簡を書きました。(「あわれみの特別聖年」は、今年12月8日「無原罪の聖母」の大祝日から、来年11月20日新しいミサの典礼による「王であるキリスト」の大祝日まで開催されます。)

 この書簡の中で、フランシスコ教皇様は、聖ピオ十世会の告解の秘蹟が有効であることを言及しています。

 聖ピオ十世会は何も変わっていない、変わる必要はない、しかし、ローマから一方的に「聖ピオ十世会はカトリックである」というメッセージが出されました。教皇様が、聖ピオ十世会がカトリックであることをよく知っているのですから、これからもそのようなジェスチャーがいろいろあることだと思います。ローマは、当然のことをしているわけです。今まで、あまりにも不当に取り扱われすぎていましたから。

 聖ピオ十世会本部は、この教皇様のジェスチャーに対して、次のような声明を発表しました。日本語訳をご紹介します。


【注:この特別聖年をどのように日本語に訳すかについては、既に「マニラの eそよ風」432号で考察しました。
(1)カトリック教会の公式の祈祷文である「公教会祈祷文」の訳には Miserere nobis!, Have mercy on us! が「我らを憐れみ給え」と訳されているのであって、「私たちをいつくしみ下さい」ではないから。
(2)元来ラテン語の misericordia は、miseria (あわれさ、悲惨さ、みじめさ)を心する(cordia)ことであり、「あわれ」という言葉が入っている「あわれみ」が misericordia に合っているから。
(3)天主が、罪を犯し続ける被造物であるそれ自体で目も当てられないような罪人である私たち人間を、憐れに思って下さるのが天主の misericordia であり、日本語で「あわれむ」とは、罪のみじめさやあわれさから引き出そうとすることだから。
(4)日本語で「いつくしみ」とは、年下の可愛い子供・可愛らしい動物や植物などを、(あわれで、不憫だから、ではなく)かわいいから、いとおしく思い、愛情を注いで、大切に思うことであり、「いつくしみ」の対象は、客観的にも愛するに値するようなものだから。
 従って、「あわれみ」と「いつくしみ」という言葉の意味の違いをよく考察すると、一方で「あわれみ」が、対象の悲惨な憐れな否定的な状況を認めてそれから救い出そうとする、すなわち「あわれむ」ことであり、他方で「いつくしみ」が、対象を肯定的に愛すべき善であると認めてそれをそのまま大切にしようとする、すなわち「いつくしむ」ことである、ということがわかります。
 天主は、私たちの惨めな罪の状態を憐れんで、その惨めさから引き出そうとするのが、聖伝による「天主のあわれみ」ですが、罪を否定せず、それを「いつくしみ」をもって、そのまま罪の状態を容認する、ゆがめられた"あわれみ"が、新しい "天主のあわれみ" の概念であって、まさに日本語の「いつくしみ」と言う言葉が、そのまま当てはまります。
 私たちは、来るべき「あわれみの聖年」を、聖伝による天主のあわれみとして理解し、罪をそのまま容認する天主の "いつくしみ" という理解はしません。そのことを明確にするために、「あわれみの聖年」と日本語に訳しています。】

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


原文はこちら

聖ピオ十世会総本部より、「あわれみの聖年」の開始に際して教皇フランシスコの書簡に関する公式発表

2015年9月1日

 聖ピオ十世会は報道機関を通じて、来たる聖年の際に教皇フランシスコによってなされた規定について知った。2015年9月1日、教皇庁新福音化推進評議会( Pontifical Council for the Promotion of the New Evangelization)議長リノ・フィジケッラ大司教 (Archbishop Rino Fisichella) に通達した書簡の最後の段落で、教皇は次のように書いている。

「私は、あわれみの聖年の期間中、和解の秘蹟を受けるために聖ピオ十世会の司祭たちに近づく信者たちが、有効かつ合法に罪の許しを受けることを定める」

【英語訳“I establish that those who during the Holy Year of Mercy approach these priests of the Society of St Pius X to celebrate the Sacrament of Reconciliation shall validly and licitly receive the absolution of their sins.”
(Letter of the Holy Father Francis to the President of the Pontifical Council for the Promotion of the New Evangelization at the beginning of the Extraordinary Jubilee of Mercy)】

 聖ピオ十世会は、教皇の慈父的態度に感謝の意を表明する。我々は、償いの秘跡の執行にあたって、教会法の一般規則(Normae generales)によって与えられた特別裁治権に、全き確信をもって、常に依存してきた。この聖年の開始にあたり、教皇フランシスコは聖ピオ十世会の司祭たちに告解することを望む信者たちが心配することなく秘蹟を受けることが出来ることを望んでおられる。

 この回心の年の期間中、聖ピオ十世会の司祭たちは、告解の秘蹟におけるみずからの職務を、アルスの聖司祭がすべての司祭たちに示した倦むことない献身の模範にならって、あらためて寛大に実践しなければならないと心底より考えている。

メンツィンゲン
2015年9月1日

【聖ピオ十世会】 シュテーリン神父様 2015年聖母の被昇天 聖伝のミサのお説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日9月8日は、聖母マリア様のお誕生日です。

 さて、2015年8月15日、聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が大阪で捧げて下さった聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語のミサ)でのお説教の書き起こしをご紹介します。書き起こしをして区だっさった方には、心から感謝します。

 マリア様の被昇天の神秘が深くよく分かるとても感動的なお説教です。聖母マリアさまのお誕生日に、聖母マリア様が天国に生まれたその祝日のお説教をお読み下さい。

 特にその最後の言葉は、聖母マリア様からの私たちへの熱烈な訴えであり、希望であり、願望であり、望みであるので、私たちの心に訴えてきます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





2015年8月15日 聖母の被昇天の大祝日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 親愛なる信徒の皆さん、今日は、私たちは一緒に、マリア様の偉大なる大勝利を祝う為に集っています。実に、私たちの聖母マリア様の被昇天の玄義は、私たちの主が、聖母に、何をどのように取り扱いたかったか、という事を示しています。天主が全地を、天と地を創り上げた時に、創造した時に、その目の前に傑作が既にありました。それがマリア様です。そしてこの大傑作は、全ての創造の業が終わった時に、最高の地位を占めて、最も偉大な業でなければなりません。そしてマリア様の偉大さを示す為に、天主は、マリア様がこの地上に生きている間、最も酷い、最も苦しい苦しみを耐え忍ぶ事を望まれました。例外は唯一、その御子イエズス・キリストだけでした。

 マリア様は、イエズス・キリストの使命と、その生涯に、最も深く参与しなければなりませんでした。そしてそのマリア様よりも深い参与はなかったほどです。ですから、天主様の感嘆すべき愛の御業を見て下さい。そしてマリア様こそが、その愛の御業に全く深く参与した方です。

 天主は、創造のその始めから、マリア様をその完全に持っていた、その目で見ていた、と申しましたが、悪魔が、創造の御業を、原罪を犯させる事によって破壊した時に、既にマリア様をその復興の対象として、そのマリア様を使う事を望みました。天主の計画はその最初から、勝利を収める女王が、悪魔の力に対して、悪の力に対して勝利を収める事でした。

 どのようにしてこれを実現させようとしたのか、と申しますと、天主御父は、御子の、地上に救い主として来る事ができるかできないかを、マリア様のご意志に、ただ委ねたのです。天主様の計画は、このマリア様を最高のものとして高め、高揚する事でしたが、マリア様は自由でした。全く自由に、それに同意するか、同意しないかができました。

 2つの事を感嘆しなければなりません。まず、天主様の素晴らしいご計画で、そのような存在を創りだそう、と思われた事です。「このマリア様は、天主の敵を全て、粉々に打ち砕くでしょう。」「マリア様は、天主の母となるべきでしょう。」「そして彼女は、御子の救い主の御業に参与して、新しいアダムと共に、新しいエワとならなければならない存在となるでしょう。」「そしてその様な英雄的なご生涯、英雄的な忠実の後に、その御体は、御霊魂と共に、天の栄光を受けるでしょう。」

 私たちは、こう感嘆して言わなければなりません、「おお、天主よ、御身の御業は何と素晴らしい事でしょうか!」何故かというと、マリア様といえども、私たちと同じく無に等しいものであるからです。

 このマリア様を、それほど絶対的に、究極的に、その最高の輝きまで、栄光まで高める事を望んだ天主の御計画は、私たちにも同じような計画を持っています。何故かというと、天主がマリア様を天主の御母と計画したその瞬間、マリア様が私たちの母である、という事も計画されたからです。つまり、マリア様の子供たちの運命は、その究極の行きつく先は、マリア様と同じだ、と言わなければならないからです。例え私たちがもう、マリア様よりはるかに下の存在ではあるけれども、マリア様の栄光に参与する、それに与る事ができる特権を下さったからです。

 「天主の御言葉は、人となって我らの内に住み給えた。」「マリア様を通して我らの内に住み給えた。」と同じ様に、常に、マリア様を通して私たちの霊魂に住み給う事を計画されました。

 天主は同時に、私たちも天主の御子の贖いの御業に参与する事を計画され、望まれました。まず、私たちが贖いの功徳を身に受けて、そして潔められ、新しいアダムとエヴァの子供たちとなる特権を得ます。次に、マリア様がイエズス様を助けて、贖いの業に参与したように、私たちも、マリア様とイエズス様を助けて、霊魂の救いの為に働く事を望まれます。天主の他の子供たちの、霊的な父と母となるように参与するように、招かれています。

 もしも、マリア様がイエズス様に忠実であったように、私たちもマリア様のようにイエズス様に忠実であるならば、私たちにもマリア様に与えられたような、天国の永遠の報いが約束されています。

 「おお、天主様、」私たちは、こう言わなければなりません、「おお、御身の御業は何と感嘆すべきでしょうか!御身の道は何と優れた事でしょうか!」私たちもまた、何でもありません、無に等しいものです。マリア様との違いは、無よりも酷い事です。つまり罪に汚れたものであるからです。天主様は、こんなような罪にまみれた、無以下の私たちをも、天主の御子として、しかも天主の永遠の喜びに参与する事を望まれます。

 では、第2の感嘆すべき点をご覧下さい。マリア様がどうやってそれに、天主の計画に答えたかを見て下さい。これを見ても、私たちは本当に驚くばかりです。マリア様は聖寵に溢れて、そしてその御恵みに満ちて答えました。その答えはあまりにも完璧で、私たちは信じる事がもう出来ないほどの素晴らしさです。

 マリア様は自由でしたから、もちろん「嫌だ、できません。」と、答える事もできました。少なくとも疑ったり、少なくともためらったりする事ができました。天主様は、マリア様が何も理解できなかった事を準備しました。最も聖なる人々でさえも、「え!?そんな事があるだろうか?」と、疑うような事を準備しました。しかしマリア様は、全く完璧に天主の御旨に一致していました。マリア様はいつでも、どこでも、完璧に御旨と同化していました。マリア様に於いては、天主の愛の妨害になるような、いかなる邪魔ものも妨害もありませんでした。ですからマリア様は、全く天主の聖寵によって聖化され、そして天主化されていたのです。「天主的なマリア」とは、聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールの言葉です。

 天使が、大天使がマリア様の元にやってきて、「御身は、天主の御母となるでしょう。天と地の元后となるでしょう。」という事を申します。マリア様にとって、もしかしたら非常に普通の事で、このように考える事は普通の事であったかもしれません。つまり、「私が天主の母となる。私が元后となる。私のそれは素晴らしい名誉のチャンスだ。」と。

 マリア様は、ご自分のことを少しも考えませんでした。マリア様は、天主の御旨を果たす事だけに集中していたので、自分の事には一切構いませんでした。

 そしてイエズス様が30歳になって、マリア様の元を離れて旅立って、公生活を始めた時、マリア様の態度は、全く素晴らしいものでした。3年間の公生活の間、イエズス様は見かけ上、マリア様をほぼ拒絶しているかのように見えます。例えば、イエズス様はマリア様の事を、「お母さん、」とは呼ばずに、「女よ、」と呼びます。マリア様が近くにいるにもかかわらず、イエズス様はこんな事を言います、「誰が私の母か。天主の御旨を果たす者が、私の母だ。」マリア様は全く不平を言いません。全て服従します、全て従います。そして最も素晴らしい御業は、マリア様が十字架の下に佇む事です。

 十字架の下で、全てはもう終わってしまった、もうこれで何もかも終わってしまったように思われました。あたかも、イエズス・キリストは大失敗をしたかのようです。イエズス・キリストはこの世を救う為に来たはずなのに、その救うべきお方が殺されてしまって、救われなかったのです。人間的に言えば、十字架の上でイエズス様は、全く破壊し尽されてしまいました。そして弟子の使徒たちは、皆逃げて逃亡してしまいます。そして十字架の下に佇んで留まっていた人たちでさえも、何の事か分からず、理解ができませんでした。皆、信仰を失ってしまいました。

 ただ、例外があります。それが、マリア様です。全世界が皆全て、「全てが終わった!」と、叫んだときに、マリア様は一人、「必ず復活がある。」と信じていました。マリア様は、気絶したり倒れたりしませんでした。十字架の下で、しっかりと立っていました。マリア様は、不平不満を言いませんでした。マリア様は、ためらったり疑ったりもしません。マリア様の確信を、1つも揺るがすものはありませんでした。この英雄的な信仰を、私たち誰もが理解できません。

 希望の徳について言えば、イエズス・キリストの御国が来るという事、イエズス・キリストがこの世を救う、という事について、この全ての人たちは希望を失っていました。何故ならば、キリストは盗賊の間に十字架に付けられて、極悪人として死去されたからです。イエズス様の預言、大勝利の預言、大栄光の預言、そしてこの世を征服する預言、この世を救うという約束、それはもう目の前で、あたかもこれで万事休す、全く終わり尽くしてしまったかのように思えます。もう、希望は絶対的になかったかのように見えます。

 しかしマリア様は、それにもかかわらず希望します。この全く最悪の状況に於いて、「必ず、イエズス・キリストは勝利する。」と、希望していました。

 これこそが、そのマリア様を天国にイエズス様が連れて行かれた理由です。ただ単に、マリア様の御身体が罪の道具となる事がなかったり、或いは罪を犯した事がなかっただけではありません。マリア様がなさった事、そしてどのようになさったか、という事の報いとして、天に上げられたのです。マリア様は、イエズス様と共に、天のいと高き所、もう、被造物がもうこれ以上、上に上がる事ができない最高の高みまで上げられました。被造物がこれ以上下がる事がない深み、苦しみと、悲しみと、この十字架の苦しみの深みの極みまで行った方はなかったからです。

 つまり他の言葉で言い換えると、天主様は、被造物に於けるこの最高の極みまで、極みの頂まで、マリア様を連れて行ったのです。マリア様は、イエズス様に連れて行かれる時に、「主よ、もうやめて下さい。もうこれ以上できません。」と、一言も言った事はありませんでした。マリア様はそこで、最も酷い境遇を忍耐し、そしてそれを捧げたので、最も素晴らしい栄光に参与しなければならない者となったのです。マリア様は、最も謙遜な御方であったので、天主は最も高き栄光に上げられたのです。だからマリア様は、天使たち、全ての天使たちよりも更に上げられました。何故ならば、マリア様は最も、もう全てを超えるような状況に於いて、信仰を保ったからです。

 マリア様は、今まで被造物が受けた報いの全てを合わせても、それでも全然足らないほどの、更に素晴らしい、最高の、被造物がもうこれ以上受ける事ができない、と思えるほどの栄光を受けました。

 マリア様の栄冠、マリア様が天と地の元后である、とはどういう意味でしょうか?例えば元后とか女王様と言うと、「ええ?天国では何かそういう偉い人が、何かこう信号で統治する何か法律を作ったり、何かそういう政治のビジネスがあるのでしょうか?」

 「元后」というのは、「最高の素晴らしさ」という意味です。「マリア様が、最も高い、高きの高みに上がった」という事です。何故ならば、マリア様はその前に、生きている間に、最悪の、更にその最悪を生きたからです。

 だから、この被昇天は、私たちにとって最も必要な祝日の1つです。何故なら、この祝日は、天主様がいかに寛大であるかを示しているからです。皆さんは仰るかも知れません、「イエズス様、天主様、私はそんなに何でこんなに苦しまなければならないのでしょうか?私の周りにいる人は、本当に変な事ばっかり。私は天主様から罰せられている。何で私ばっかりこんなに悪い事が起こっているのでしょう?」その理由は、この被昇天の祝日に隠されています。もしも、天主様が私たちにひどい境遇を許されるなら、最悪の境遇を許されるなら、実は天主様は私たちに、「最高のものを与えたい」というご計画があるからです。

 私たちがどのように酷い境遇に置かれたとしても、更にひどい境遇に置かれた、私たちの御母がいらっしゃる、という事を知って下さい。この同じ母親は私たちにこう言います、「子よ、ご覧。もしも私と一緒にこの苦しみを通るなら、私と一緒に栄光に行く事ができるのよ。」と。

 それから、もう1つ特別な点がこの祝日にはあります。実は、もっともっとこの祝日にはたくさんの点があって、私がもしもその事を皆さんに全部、こう話そう話そうとしたら、明日の朝までこうやって話しても、まだ皆さん座って聞いています。皆さんをまた拷問にかけるのは望みませんので、短くします。

 マリア様は、御体と霊魂によって被昇天を受けました。何故ならば、私たちは人間であって、人間は肉体と霊魂でできているからです。現代、人間の肉体は非常に重要視されてきています。あまりにも肉体を重要視するので、霊魂の事をすっかり忘れています。現代の人々は、肉体に快楽とか楽しみを与える事だけを考えて、あまりにもそれを与えるので、体は病気になって死んでしまうほどです。現代、人々は肉体をあたかも神々のように礼拝しています。これは物質主義です。でも、皆さんよく知っているように、このかわいそうな肉体は病気になりますし、そして年を取りますし、そして遂にはウジ虫の餌になります。

 ところで、肉体の世話をした事がない人もいます。その時間がないからです。興味がないからです。この体は、彼女の知性、そして意志、そしてその霊魂の道具でありました。例えば、マリア様がイエズス様を、夜中にエジプトへと連れて行く時に、その旅路は準備のないものでしたから、マリア様は全く疲れて、汚れて泥で、埃でまみれていました。しかしマリア様は、身体の事を特に気を使っていませんでした。

 ところで現代の人は、この肉体にあまり無理をかけないで、若くしようとして、そして栄養物をやって、としているではないですか。そしてこの現代の人は、肉体に全てのものを与えて、もうちょっと健康でもうちょっと長生きするようにしています。もうちょっとだけ、この美しさと美貌が保たれるように頑張っています。特に女性の方は、年齢を重ねるにつれて問題が生じています。髪の毛が白くなったり落ちたりすると、この人間の終わりに近付いているのだ、という事が見えてきます。そしてこのような人々は、霊魂の事は一切構わず、肉体の事だけを考えて、肉体の事だけ、肉体の保存と美貌だけを考えて、そして遂には、ウジの餌になってしまいます。

 しかし、私たちの望みは、全くそれとは違っています。私たちはいつも若々しくいたい、と思います。年をとったご老人達は、「若かった頃はこうだった。若かった頃は…。」と、いつも、若かった、美しい頃の時代の事を話して、夢見ています。老人の家には、若い人の写真があって、「この、おばあさん、誰ですか?このきれいな人。」と、聞くと、「これは、私がまだ20歳だった頃なの。」

 私たちはいつも、「若くありたい」と、思っています。「美しくありたい」というのは、それは良い望みです。そして「力強くありたい」という事も良い望みです。しかし、このようなこの望みは、1回しか果たす事ができません。それには証拠があります。それは、1人の方が亡くなって、そして最も美しい体で、最も力強く、被造物の中で上げられているからです。

 ルルドで、聖ベルナデッタがマリア様の姿をご覧になった時に、そのマリア様の美しさは、あまりにも美しかったので、ベルナデッタは、そのマリア様の現れたルルドを離れる事ができないほど、離れる事が非常に辛い事でした。それほど美しかったのです。

 ファチマでマリア様を見たルチアに、「マリア様はどういうご様子でしたか?」と尋ねると、マリア様について、「マリア様は光の体を持っていました。」

 このマリア様が、私たちの母です。このお母様であるマリア様は私たちに、「お前たちも、私と同じようになるのよ。」と約束します。「ここにいらっしゃるおばあさんも、若く、美しくなります。永遠に。」「ここにいるおじいさんも、私の子イエズス・キリストのように33歳の最も完成された年齢に戻るでしょう。」

 若さ、力、そして美、それを全てマリア様は皆さんに約束されます。マリア様は、この被昇天の大祝日に、皆さんの前に、そのご自分の美しい肉体と霊魂を見せて、将来皆さんになる事を約束します。しかし、ここに到達する為には、マリア様と共に行かなければなりません。マリア様を真似しなければなりません。マリア様がご自分の体をそのように扱ったようにする時、ですから、私たちがマリア様に属して、マリア様と共にいるという事は、非常に重要で大切です。それは、このお母様が、私たちの全生涯に於いて、いつも、常に、共に、横にいて下さる為です。それは、マリア様が私たちの肉体をどうやって取り扱ったら良いかを、教えて下さる為です。それこそが、マリア様と共にいる事が、この世界にいる、私たちの人間の肉体を神々のように崇めている人たち、天主の敵に対する最高の勝利です。

 「天に、大きなしるしが現れた。」と、ありますが、その「大きなしるし」として、マリア様は私たちの目の前に立っておられます。太陽をまとい、そして月を足に踏み、そして頭には12の星を冠にして立っておられます。マリア様は、この大きなしるしであるマリア様は、皆さんを招待して、招いています、「いらっしゃい。私の子供でありなさい。私の奴隷でありなさい。私の騎士でありなさい。もしもそうであれば、この世で生きている間に、いかなるものも、お前たちの邪魔ものはいないでしょう。」

 今日、皆さん、マリア様の被昇天の深い玄義を理解できたでしょうか。マリア様はこの難しい現代の時代に於いて、単なる希望ではありません。私たちの、最後の希望です。もしもマリア様をお持ちでないならば、私たちは全てを失ってしまいます。もしもマリア様を持って、マリア様と共に、私たちが生きるならば、マリア様は私たちの最高の理想となって、最高の偉大なしるしとなるでしょう。悪魔が、サタンが皆さんの所に近寄って、誘惑しようとする時、誘う時に、マリア様は常にそのサタンの頭を踏み砕くでしょう。マリア様と共に皆さんは、全ての誘惑に打ち勝つでしょう。皆さんはマリア様と共に、天国に行くでしょう。天国で、マリア様は皆さんをお待ちです。

 もう一度申します。マリア様は、今、天国で皆さんをお待ちです。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年8月16日 聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
 こちらは、マニラの修道院長でありつつも、今年の7月1日付けでマニラの教会の主任司祭の職務を同僚のサア神父様に委任しました。それ以後、フィリピンのマニラ管轄(およびその他)のミッションを視察に回っています。日本と韓国の他にも、香港、イロイロ、ダヴァオ、ジェネラル・サントス、パラワン、レイテ、などに行きました。

 これからバギオや、カガヤン・デ・オロ、カミギン島、ブトゥワンを始め、マレーシアにも行かなくてはなりません。

 9月1日には、レイテ島のマアシンまでデ・ガラレタ司教様のお供をしました。司教様は、堅振の秘蹟を私たちの信徒の方々に授けて下さり、95名が堅振を受けました。

 その他にも、カガヤン・デ・オロでは96名、ダヴァオでは33名、ジェネラル・サントスでは70名、イロイロでは23名、セブでは44名、マニラでは46名が、合計312名が聖伝による堅振を受けました。天主様に感謝!

 日本の大阪では、2015年8月16日(聖霊降臨後第12主日)の朝9時からミサがありました。本来ならお説教は無い予定でしたが、黙想会が終わって盛岡に帰省する方々などがおられたので、シュテーリン神父様からの宿題の霊操最後の黙想のテーマである「天主様の愛」について、帰りの電車の中で黙想する手がかりになればと思ってお話ししました。ご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年8月16日 聖霊降臨後第12主日 
小野田神父説教

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日、事情で、ミサの後にすぐに帰らなければならない方がいらっしゃるので、少しだけ黙想を提案するのを許して下さい。詳しいお説教は、シュテーリン神父様から聞く事に致しましょう。

 私が提案したいのは、今日福音で読んだように、イエズス様が「永遠の命を受ける為には、全てに超えて、天主を愛さなければならない」という事を教えている事です。私たちがここで今生きているのも、今私たちが命を受けているのも、私が持っているもの全て、私が今こう在るのも全て、今こうして考える事ができるのも、こうやって話を聞いているのも、私が今服を持っているのも、今ここでこうしているのも、全て、天主様から頂いたものです。私たちが今持っているもので、天主様から頂いていないものはありません。全てが全て全て、天主様からの特別の御恵みであって、特別の贈り物であって、特別の御恵みです。

 私たちが今こうやって、信仰を持っているのも、生きているのも、そして聖伝のミサに与っているのも、黙想会ができたのも、私たちが素晴らしい管区長様と出会って、そしてそのお話が聞けるのも、全て天主様からの特別のはからいであり、憐れみであり、光であり、御恵みであり、天主様が私たちの為に与えよう、と思っておられるからです。

 そして何故、これほどまで与えて下さったかと言うと、その目的は1つです。何故ならば、天主様は、私たちを愛しておられるからです。何故愛しておられるかというと、私たちに良い点があったという訳ではなくて、ただ単にイエズス様があまりにも良い方で、あまりにも私たちの事を想う、善き御方だったからです。

 愛する人たちを見て下さい。愛する人たちはいつも、愛する人の事を考えて、その相手の為に、自分の持てるものを与えたい、自分の持てる力で何か奉仕したい、何かこう教えたい、何か相手に幸せになってもらいたい、相手がもっともっと喜んで、もっともっと豊かになってもらいたい。自分の持てるものをみんな尽くしても、みんな捧げても、それでも足りない、そうする事が嬉しい。そう思うのではないでしょうか。

 まさに、天主様も私たちを愛するがあまり、私たちが幸せになる事、私たちが天主の命を受ける事を望まれました。私たち、そしてそうする事によって私たちも、イエズス様をお愛し、全てを超えてお愛しし、そしてその愛の交流の中で、永遠に天主と共に愛する事を、天主の中に於いて幸せである事を望まれたからです。

 私たちの創造の目的は、天主を愛し、天主の愛に愛で応えて、そして永遠に幸せである事です。ですから、私たちの最高の掟は、天主を、全てに超えて、全ての心を尽くし、全ての力を尽くして、全ての霊魂を尽くして、お愛し申し上げる事です。私自身よりも、天主を愛する事です。

 そして全ての被造物は、私たちの隣人、友人、その周りにあるものは、天主を愛する為にあるもので、天主へと行く道であります。ですから私たちは、天主様を愛する為に隣人を愛し、そして隣人が天主様を益々愛するように、天主様へと行く為に、隣人の霊魂が救われる為に、隣人がますます天主を愛して、天主にのみ行くように、愛するべきであります。そしてそこを、天主様が望んでおられます。

 「全ては天主を愛し、隣人に於いて隣人が天主を愛するが為に、隣人に於いて天主を愛する。」そしてこれこそ、最大の掟です。

 黙想会の御恵みを、いつも私たちの心に留めておきましょう。その原理と、私たちの原理と、私たちの生活の基礎を、天主様の愛の上に、深く、しっかりと建てる事に致しましょう。そして全ては天主様からの恵み、私たちの出会う日常の全ての出来事は、天主様からの愛の贈り物だ、という事を確信いたしましょう。そして愛の内に、感謝の内に、生きる事に致しましょう。

 マリア様がまさに、そういうご生活をなされました。ですからマリア様の御取り次ぎによって、天に上げられたマリア様の御取り次ぎによって、そのように生きる御恵みを求めましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本 聖伝のミサ シュテーリン神父説教 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年8月16日(聖霊降臨後第12主日)に大阪での歌ミサの中でシュテーリン神父様がなさった御説教をご紹介いたします。

 ところで、2015年の残りの聖伝のミサの予定は次の通りです。

9月13日(主)大阪 午後06時30分 聖霊降臨後第16主日
9月14日(月)大阪 午前09時30分 

 10月の予定は、次の通りです。大阪の初土曜日のミサは10月以降次のように時間が変更になりました:午前11時 => 10時半開始 よろしくお願いいたします。

10月02日(金)大阪 午後05時30分 初金のミサ
10月03日(土)大阪 午前10時30分 初土のミサ
10月04日(主)東京 午前10時30分 聖霊降臨後第19主日
10月05日(月)東京 午前06時15分【!】

10月25日(主)大阪 午後06時30分 王たるキリストの祝日
10月26日(月)大阪 午前09時30分 


 11月の予定は、次の通りです。(11月については変更がありません。)

11月06日(金)大阪 午後05時30分 初金のミサ
11月07日(土)大阪 午前10時30分 初土のミサ
11月08日(主)東京 午前10時30分 聖霊降臨後第24主日
11月09日(月)東京 午前07時00分 

11月15日(主)大阪 午後06時30分 聖霊降臨後第25主日
11月16日(月)大阪 午前09時30分 

 12月の予定は、次の通りです。

12月04日(金)大阪 午後05時30分 初金のミサ
12月05日(土)大阪 午前10時30分 初土のミサ
12月06日(主)東京 午前10時30分 待降節第2主日のミサ
12月07日(月)東京 午前07時00分 

12月13日(主)大阪 午後06時30分 待降節第3主日のミサ
12月14日(月)大阪 午前09時30分 

12月24日(木)大阪 午後06時30分 ミサ聖祭 御降誕祭の前日
12月25日(金)大阪 午前00時   クリスマスの真夜中のミサ、
          午前09時   クリスマスの暁のミサ
          午前10時30分 クリスマスの日中のミサ
12月26日(土)大阪 午前10時30分 最初の殉教者聖ステファノのミサ
12月27日(主)東京 午前10時30分 クリスマスの八日間内の主日のミサ

 来年1月の予定は、次の通りです。

12月31日( 木 )大阪 午後06時30分 聖シルベステルのミサ
01月01日(初金)大阪 午前10時30分 新年の初金のミサ
01月02日(初土)大阪 午前10時30分 新年の初土のミサ
01月03日(主日)東京 午前10時30分 イエズスの聖名の祝日
01月04日( 月 )東京 午前07時00分 

 来年の聖週間は、出来れば、聖ピオ十世会日本では、初めてのことですが、日本で聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日、復活祭を執行したいと思っています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年8月16日 聖霊降臨後第12主日
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父





 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 親愛なる兄弟の皆さん、今日は、非常に有名な、素晴らしい善きサマリア人の話を福音で読みました。黙想会の間、天主様の信じられないほどの素晴らしい、憐れみの神秘を黙想しました。イエズス・キリストこそが、善きサマリア人で、私たちは、半死半生の傷を受けた旅人です。イエズス・キリストだけが、私たちを癒し、私たちに世話をしてくれる事ができます。イエズス様のその行為が、非常に目を見張るものである事は、イエズス様が単に、怪我をしたその私たち、傷を負った私たちを治すだけでなく、日に夜に、私たちの世話をして、そして私たちの生活の細かい所まで、詳細に世話を、それに関心をもって、それに注意を払って下さる事です。

 イエズス様は、私たち半死半生の人を癒す為に、告解の秘跡を定めて下さいました。そしてそれによって、私たちを一人ぼっちにして置き去りにせずに、私たちに誰か、私たちを世話する誰かを委ねて、そして私たちの病が、私たちの傷が、きれいに治るまで世話をさせようと思われました。

 告解のみならず、この例え話は、私たちに関する別の観点も、別の側面も意味しています。このイエズス様の例え話は、ある特定の質問に対する、特定の答えである、という事を忘れないで下さい。その特定の質問とは何かというと、「私が永遠の命に至る為には、何をしなければならないのでしょうか? 何をしたら良いのでしょうか?」です。イエズス様のお答えは、有名な、「天主を、心を尽くし、力を尽くし、全てを尽くして愛せ。そして、隣人を我が身の如く愛せ。」です。

 「では、私の隣人とは誰ですか?」これが第2の質問です。「私の隣人を愛する為には、何をすれば良いのでしょうか? 隣人を愛するとは、どんな意味があるのでしょうか? 」そこで、イエズス様はこの例えを話します。イエズス様は、まず最初に、私たちが普通どんな行動をとるのか、という事を見せます。もしも私たちが隣人を見ると、普通どんな事を考えるでしょうか? 私たちは彼らに対して何をするでしょうか?

 皆さん、考えた事がありますか? 私たちの出会う99%の人が、この福音の例えに出るような半死半生の人である、という事を。この部屋を出ると、この御聖堂を出ると、皆さん多くの人々に出会う事でしょう。この出会う、見る人々は、体としては、走ったり、元気であるかもしれません、美しいかもしれません。そしてもしかしたら、服装を見ると、半分裸のようであるかもしれません、現代では。しかし、外見はそうでも、その心は、霊魂は、半死半生です。その霊魂の敵によって、彼らはもう身ぐるみを剥ぎ取られ、そして傷付けられ、暴力を受けて、もう息絶え絶えなのです。

 では、一体どんなものが霊魂を傷付け、破壊し、半死半生にするのでしょうか? それは、不潔、或いは罪、或いは物質主義などです。

 では皆さん、それなら彼らの為に働いて下さい。どうやって、私たちはどんな態度を取るでしょうか? 私たちは彼らを見て、そのまま何もせずに、横を過ぎ去ってしまいます。私たちはほぼ絶対的に、この私たちの見かける人たちの救霊、或いは霊魂、その彼らの永遠の救いについて全く関心がありません、「あぁ、この道にいる男の子や女の子たちと私に、一体何の関わりがあるでしょうか? 全く関係ない。」イエズス様は、「もしもそういう態度であるならば、あなたは救霊する事ができない。」イエズス様は模範を示して、「隣人愛とは、善きサマリア人である事だ。」と。





 まず、サマリア人は、この半死半生の人を見ます。第2に、「この人は助けが必要である。」と認識します。この福音に書かれている事をよくお読みになって下さい。この半死半生の人は、「助けてー!」とは言っていません。この半死半生の怪我を負った犠牲者は、自分が傷を受けてしまっているので、あまりに弱く、助けを呼ぶ事さえもできず、自分がどうして良いかも分かりません。この世のほとんどの人々は、自分たちが霊的に半分死にかけている、という事さえも気が付いていませんし、知りません。ですから、助けを呼び求める事さえもしていません。

 そこでサマリア人は、この人の前に立ち止まります。イエズス様はそこで、憐れみに心を打たれて、憐れみに心を打たれて。

 皆さんこの外に出て、そして新聞を読んで、テレビでニュースを見て、何を思うでしょうか? 大体怒ります。「こいつら悪い奴だ。」と、思います。この世の腐敗や、この世の嘘や、この世の欺瞞、偽りに、義憤を起こします。そしてそのような人がいたら、皆さんは、「悪い奴だ。」と、悪口を言います。或いはこのような悪い人が、皆さんの事を特に侮辱して、そして皆さんに害を与えようとする人がいたとすると、例えばそのような人は、皆さんの仕事を奪ったり、皆さんの地位を奪ったりする人もいます。皆さんの悪口を言ったり、全く嘘をついてこけ落とそうとしたり、皆さんの根も葉もないような讒言をします。そのような時は非常に辛い思いもします。そのような時に、私たちの態度はサマリア人と反対ではないでしょうか?

 サマリア人は、憐れみに心を動かされています。もしも皆さんが、他の隣人たちから害を受けたり、邪魔されたりすると、憐れみの心を持つのは非常に難しくなります。私たちに害を与える人たちを許すのは、本当に難しい事です。イエズス様は私たちに、そのような時に、彼らを半死半生の者だとして、憐れみを持つ事を教えています。ちょうどそれは、お医者さんが病気の人を診ると同じ態度の憐れみです。





 司祭はよく皆さんの話を聞きます。例えば、夫婦の間でケンカが起こって、どっちが悪い、どっちがこうだ、と言う話を時々聞きます。時々、「あぁ神父様、私の夫は本当に天主様の掟を守りませんし、こんな悪い事をしますし、こんな事も言いますし、うんぬん。」と、言います。「はい、奥さん。奥さんの仰る事は本当に正しい。それは正しい、正しいのです。」そして、腹を立てて、本当にあの恨んで辛んで、悪い態度を取ります。しかし、もしもイエズス様のように、この夫を、「肉体的には健康ですが、霊魂的には病を負った、かわいそうな男だ。」と考えてみたらどうでしょう? 「半死半生でもう死にかかっていて、助けを必要としている人だ。」と。そうしたら皆さんは、憐れみに心を打たれる事でしょう。

 サマリア人を見て下さい。半死半生の人を見て、この人を揺さぶり起こして、「さあ!起きろ!さあ、早く起きて立ちあがれ!」とは言いませんでした。私たちの主の優しさ、サマリア人の優しさを見て下さい。サマリア人は、この半死半生の男に、尊敬をもって取り扱います。そしてこのサマリア人は、この怪我を受けた死にかかっている男に、オリーブオイルを付けて、そしてワインを付けて、そして丁寧に優しく看病します。このサマリア人は、彼を宿屋に連れて行って、そして寝ないで一晩中この床の横に付いて、頭を冷やし、そして様子を見て、「何か必要な事がないか。」と、看病します。

 この怪我をしている人は、自分の知らない人です。自分の友達でもありません。しかもこの男は、平和の都市であったエルサレムから、罪の都市であるエリコまで、罪の道を歩んでいた男です。

 もしも皆さんが、この善きサマリア人の愛の行動の一つ一つを詳細にみると、これこそが、愛の、隣人愛である、と分かります。

 そこで、本当に恥ずかしい事ですけれども、私たちは自問自答してみなければなりません。本当にイエズス様が私たちに命じたように、隣人を愛してきた事でしょうか?

 残念ながら、そうではありません。もしも私たちがこの御聖堂を出ると、他の人たちを見ますけれども、それはただ何人いるか、でしかありません。

 これは象徴です。イエズス様がこの善きサマリア人の、肉体にする事を、本当にイエズス様は、私たちの霊魂にして下さっています。もしもイエズス様がその模範を下さるならば、私たちも皆、善きサマリア人たちにならなければなりません。私たちも、周りの人々の、隣人たちの霊魂の世話をしなければなりません。

 これはどんな意味があるのでしょうか? まず、目を開けてみると、「隣人たちがいる」ということに気が付く事です。そして第2に、「この隣人たちが、非常に危険な状態に置かれている」という事を理解する事です。そしてこの御聖堂を出て、通りに出ると、半分裸の様な女性たちが歩いています。どうぞそのような方々に、「慎みのない人々だ。」「もう失われた人々だ。」などと仰らないで下さい。却って善きサマリア人のように、「半分死にかけている霊魂たちだ。」と、思って下さい。そこで憐れみに満ちて近寄って下さい。

 では、「その傷口にオリーブ・オイルを注いで」というのはどういう事でしょうか? 聖ベルナルドは、「サマリア人が付けたこの香油は、これは『祈り』だ。」と、言います。天主様の御恵みだけが、霊魂を癒す事ができます。天主の御恵みは、祈りによって、初めて受ける事ができます。

 どうぞ、文句を言ったり、不平を言ったり、批判するのを止めて下さい。もちろんこの世の中には邪悪があります。皆さんが怒ったり腹を立てたりする度に、皆さんは病気になってしまいますし、年を取ってしまいます。もしもより少なく怒るならば、より長く生きる事ができるでしょう。そしたら、より少なく頭痛が起こる事でしょう。そして皆さんが怒ったところで、私たちの主に良い事を与える訳でもないし、隣人に良い事を与える訳でもないし、自分自身に良い事が起こる訳でもありません。善きサマリア人が憐れみ深かったように、憐れみ深くあって下さい。この周りにいる人たちの為に、この霊魂たちの為に、射祷をたくさん唱えて下さい。

 この怪我を負った人を運んで、宿屋に運ぶ、というのはどういう事でしょうか? これは、この霊魂たちを、イエズス様の聖心の元に連れて行く、という事です。この半分死にかけている霊魂たちの間で、寝ずに看病する、というのはどういう事でしょうか? 夜眠られないような時には、イエズス様の聖心の前に行ってそして、「これらの霊魂を救って下さい。これらの霊魂を助けて下さい、聖心に引き寄せて下さい。」と、夜お祈りする事です。

 これらの霊魂は、皆さんが犠牲を捧げる時に、皆さんがその犠牲を払った時に、彼らには癒しの恵みが与えられます。

 サマリア人はお忙しい人でした。でも忙しかったにもかかわらず、自分のビジネスの為の時間がなくなったにもかかわらず、サマリア人はその病気の死にかかっている人の為に、時間を使いました。皆さんも、私たちの隣人の為にお祈りをする時間をするべきです。「神父様、時間がありません、本当に忙しいのです。」

 では、私たちの本分上の義務を良く果たす事によって、犠牲としてそれを捧げて下さい。「神父様、私はもう疲れているので、ちょっと映画も見ないといけません。」

 もしも、イエズス様が皆さんに求めている様な隣人愛を実践するならば、私たちの生活は、信じられないようなやり方で変わってしまいます。皆さんは、自分自身の利己主義から抜け出して、いつも自分自身の周りを、自分中心で回っていた世界から抜け出す事になります。そして隣人の必要としているものが何であるか、という事に注意深くなります。皆さんの心は憐れみ深くなります。という事は、愛し始めるようになります。そうしたら皆さんの心は、イエズス様の聖心と似通ったものになります。その時初めて皆さんは、天主様の愛の掟を果たす事ができるようになります。

 では、どうやったら良いのでしょうか? それには一つしか手段がありません。イエズス様の仰ったこういう御言葉の全ての裏側に、後ろに、どなたか一人の方をご覧にならなければなりません。イエズス様が、サマリア人の美しい模範を皆さんに見せる時、もちろん御自身の事を描写しています。その第1の目的は、私たちがそのようなサマリア人でならなければならない事を教える為です。そしてもしもイエズス様が、私たちがこのようなものであってもらいたい、という姿を見せる時に、その姿の後ろにはどなたかいらっしゃいます。

 皆さんどなたか良く知っていますね。イエズス様のお母様、インマクラータ無原罪のマリア様です。全ての聖寵の仲介者であるマリア様だけが、私たちの心を変える事ができます。マリア様だけが、私たちをして、天主を愛し、隣人を愛する事ができるように、教えてくれる事ができます。何故かというと、イエズス様が、「お前の全ての力を尽くして、全ての能力を尽くして、全ての霊魂を尽くして、天主を愛せ。」と、言った時に、イエズス様の頭の中には、これを本当に、忠実に実現した一人の方を頭に浮かべていたからです。何故かというと、マリア様だけが、無原罪のマリア様だけが、天主を本当に真実に、全ての力を込めて愛したからです。

 同時に、マリア様が私たちの母として任命された時に、私たちの憐れみの母となりました。憐れみの御母であるマリア様は、その全ての子供たちが傷付いている時、怪我をしている時に、その時に、憐れみに心を打たれるのです。マリア様は、このかわいそうな半死半生の死にかけている霊魂たちが、完全に良くなるまで止まる事はありません。マリア様は、日中もまた夜も、絶えず、いつも助けようと、看病しようと、心を砕いています。マリア様は、「絶えざる御助けの聖母」です。

 マリア様が、皆さんと私のお母様になりましたから、そして良き母は、愛する子供たちに必要なものを、自分の持てるもの全てを与えますから、マリア様だけが、私たちのような冷たい氷の様な心にも、少し暖かいマリア様の天主への愛と、隣人への愛の心を下さる事ができます。でもその為には条件があります。それは、マリア様が私たちの母である、という事を許さなければなりません。マリア様に、母としてそれを願わなければなりません。私たちが子供として、母に願わなければなりません、「お母さん、それを下さい。」と。

 マリア様は、その偉大な聖人の一人に、その特別な御恵み、特別な任務を与えました。マリア様はこの聖人に、全ての心を尽くして、マリア様を通して愛する、天主を愛する事を教えるように命じました。これは、聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールです。また、マリア様は別の聖人を選びました。そしてこの聖人に、私たちが善きサマリア人であるように、隣人にとってサマリア人であるように教える事ができるようにしました。これが、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父です。

 そして善きサマリア人とは? そして皆さんが善きサマリア人になる為にはどうやったら良いでしょうか? その為には、「無原罪の聖母の騎士」となる、という事です。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 シュテーリン神父様の霊的講話 毎日の黙想・念祷について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月に聖ピオ十世会アジア管区長のシュテーリン神父様が、大阪でのミサの後に霊的講話をして下さいました。その内容を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年8月16日 シュテーリン神父様 霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父

 皆さんをこうやって、拷問で今苦しめているのは、私の責任ではありません。横にいる人の責任です。(笑)

 普通は、公教要理の勉強をします。問いと問題がある公教要理なのですれども、それを今回する事ができません。そこで、今日は、「黙想の重要さ」と、「その有益さ」について、お話ししたいと思います。

 黙想会に与った人も、この問題について深めて下さい。マリア様は、ファチマに現れて、汚れ無き御心への信心について話しました。

 ファチマのマリア様は、「5つの初土曜日に、御聖体拝領をして、告解をして、そしてロザリオの15の玄義の内のどれかを黙想するならば、そして、しかもそれを償いの精神として行うならば、私はそれに、救霊に必要な恵みを与える。」と、約束しました。

 この汚れ無き御心の信心は、単に初土曜だけに実行するものではありません。シスタールチアは後に、「これはテストだ。つまり、私たちは毎日これをする事ができる。毎日この初土の条件を満たすような生活をして、聖母の汚れ無き御心に対する信心を実践する事ができる。」と、言っています。

 ファチマのマリア様は、このルチアの言葉をご出現の中で確認していると思います。何故かというとマリア様は、「毎日ロザリオを唱えなさい。」と、言ったからです。

 でも、こう反対するかもしれません、「神父様、でも毎日告解に行く事はできません。」

 もちろん、秘跡的に告解の秘跡を受ける事はできませんけれども、告解の秘跡を受ける時の最も確信的な、本質的な事は毎日できます。告解の秘跡とはつまり、「自分の罪を痛悔して、天主からの罪の赦しを得る」という事です。毎晩、私たちが良心の糾明をして、罪の赦しを求めて、そして天主様から罪の赦しを頂く、これです。

 もちろん、毎日ミサ聖祭に与る、というのはカトリック信者にとっての理想です。そして毎日御聖体拝領するのは理想です。例えば、ルフェーブル大司教様は、聖ピオ十世会の第3会の会員は、毎日ミサに与って御聖体拝領する事を求めました。もしも、ミサに与る事ができて、そのミサが近くにあれば、という話です。ルフェーブル大司教様は言葉を続けて、「もしも、肉体的に実際にミサに与る事ができない場合には、霊的に与って、そして黙想しなさい。」と、言いました。「もしも、実際に秘跡的に御聖体拝領できなくとも、霊的に、霊的聖体拝領をしなさい。」と。「1日に1回ずつ。そしてもしもできれば、数回しなさい。」と、ルフェーブル大司教様は言いました。「そしてロザリオの諸玄義を黙想しなさい。」と。そんなに時間がかかる事ではありません。しかし、マリア様の汚れ無き御心に対する信心を、毎日の信心へと連れて行きます。そして私たちを、完璧な祈りの生活に連れて行ってくれます。

 私たちは特に、口祷を強調しすぎて、念祷をなおざりにする、黙想をないがしろにする危険があります。ファチマのマリア様は、「念祷」という祈りの価値を私たちに強調しているように思われます。もちろん、この世界の人々は、口で祈る方が簡単ですので、黙想をするというよりは、口祷をよく実践します。そしてまた口祷でやるのは、容易に数える事ができるので、「私は5連唱えた。」或いは、「連梼を5回唱えた。」と。ところが黙想して、15分黙想するのですけれども、その時雑念に襲われてしまって、終わった後で、「あぁ、何もできなかった。」と、残念に思うかもしれません。そういう訳で、念祷の直接にすぐに、実のある実りというものを見るわけではありません。

 カトリック信者は、聖伝のカトリック信者でも、ひどくこの念祷を、この祈りをなおざりにしています。何故かというと、その重要性を知らないからです。

 危険はどこにあるかというと、私たちが口祷の祈りを、口でお祈りする祈りを唱える事だけに集中してしまうと、遂には、心の中でお祈りする、という事を忘れてしまって、「それを唱えれば良いんだ。」と、なってしまって、そして遂には、オウムのようになってしまうからです。何故かというと、本を持って祈祷書を持って、そこに書かれてある文章を読むだけです。

 しかし、ここで何を言っているのか、相手に何を言っているか、というその内容を考えなければなりません。それは私たちの毎日の生活でも必要です。天主様に対してはもっと必要です。これらの祈祷書に書かれている祈りは、非常に意味が深いのです。しばしば私たちは、その意味を考えずに、注意を払わずに唱えがちです。私たちはそこで、この言っている祈りの意味を、もう一度よく考える事をしなければなりません。

 しかし、その極端なもう1つの例は、ロザリオを唱えながら、「天」「に」「まします」「我らの」「父よ」と言って、こうやって1つ1つこうゆっくり考えながらロザリオをすると、ロザリオを1連終えるのも3時間かかってしまいます。

 そうではなくて、時々、15分位、天にましますの祈りを一部取って、そしてその、「天にまします我らの父よ」とは何か、とか、時々その意味を考えて、念祷します。そうすると、益々それに従って、集中するのが楽になります。

 黙想するのにもっと重要な事がもっとあります。まず黙想する時に、皆さんはご自分を、天主の御前に出でて、そして礼拝する、という事です。自分自身を天主様の御前に投げ出して、そして平伏して額ずいて、天主様の御眼を見つめて、そして天主様から見つめられて、という事を意識する事です。何故かというと、天主様を見る事ができないからです。天主様を、私たちの心の間に思い浮かべなければなりません。例え私たちが天主様を見る事ができなくても、天主様はここにいます。隠れたやり方で、皆さんの心に真に在し給うのです。そして皆さんの目の前に、イエズス様の御傷をまじまじと思い浮かべて、そしてそのイエズス様の御前に自分を置いて下さい。これでもう素晴らしい黙想になります。その時初めて、天主様の玄義が、神秘が、私たちにとっての現実になります。

 私たちにとってしばしば、宗教というのは何かの物であって、何かの方、誰か、ではないからです。祈りについての間違った定義とは、イエズス様の御像や御影の前で、自分の事を考えて、自分の事に一生懸命になる、自分の事ばかり考えて、これです。どうぞやってみて下さい。お祈りの時何をしますか?まず自分の事を考えます。自分の周りにいる人の事を考えます。そして時々天主様に、自分と周りにいる人々についてお願いをする。天主様は空中のどこかにいて、でも現実はあなたです。皆さんの問題であり、皆さんの生活であり、皆さんの事が現実です。でも、この誤りから抜け出さなければなりません。ですから、イエズス様、マリア様を、皆さんの目の前に完全に来て下さるようにお願いして下さい。

 小野田神父は何か習慣があります。お祈りの前に、「天主の御前に出でて、恭しく(うやうやしく)礼拝せん。」と、言います。こんな事を言うのは、聖ピオ十世会の中で、小野田神父だけです。

 ただ問題は、これをただ口先だけで言うだけで、天主の御前に出でて、恭しく礼拝せん。と口先だけで言っていて、本当に御前に出ない、という危険があります。

 そこで、お祈りの始まる前に、実際に本当に考えて、天主の御前に出でて、礼拝しなければなりません。ロザリオの祈りをする時に、そのままですね、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。天にまします…」と、言うよりは、そのロザリオの前に、しばらく5分程黙って、黙想して玄義を考えて、それから始めると、ロザリオの価値が、意味が、全く違ってきます。

 まず、このお祈りをする時に、「私だけではない。」と、分かります。そうではなくて天主様、つまり「王の王である天主が、私の前におられて、そしてイエズス様の御傷が私たちの前に現れて、そしてその天主の御稜威に、私たちは額ずいてお願いしているのだ。」という事が理解できます。そこでイエズス様に、「おお、主よ。」本当に個人的に、目と目を合わせて、心を心に合わせて、心を開いて、天主様のその荘厳なる御稜威、そしてその神聖なる全能の御力の輝かしいその前に、それが私たちの心に染み透って、それに感動を受けつつ、お祈りを始めます。

 そして私自身の全く虚しさ、私たちが全く何でもない、という事が、私たちにしみじみと染み渡ります。そして、イエズス様が私たちを赦して、そのイエズス様の密かな玄義の中に入り込んで、それを理解できる事ができるように許して下さる、お知らせてくれる、という事について、本当にびっくりして感嘆しています。「イエズス様の御生涯の中に、その聖心の中に入る」という事が許される、という事に全く驚きます。

 心からイエズス様に感謝します。そしてその信仰の大きな動きによって、その行為によって、「今から黙想する事こそが現実であって、真理であって、他のこの世の出来事は全く夢であって、長続きする本物ではない。今からの事が天主の真理であって、私はこれを固く信じる、これこそが真理だ。」と。そして黙想を始めます。「そしてイエズス様、私は御身のこの神秘によって、御身と全く一致したいと思います。そして他の多くの恵みを願います。」

 これは、この他多くのものをイエズス様に願う、イエズス様にこそ願う、という事は、これは「希望の徳」です。「イエズス様、御身はこれら全ての事を私に教えて下さいました、私に啓示して下さいました。それは私を救いたいと思うからであって、私に永遠の幸せを与える事を望むからです。御身が私を愛して下さっているからです。」「だから私は、御身を愛して応えたい、と思います。今からする祈りが、全く御身への賛美と感謝と礼拝になりますように、御身の聖心に適うものとなる事ができますように、聖心を喜ばせるものとなりますように、その行為となりますように。」その恵みを求めて下さい。その恵みを祈って下さい。

 そしてこの5分間、そういう事を色々考えた後に、ロザリオを取り出して、「我は天地の創造主、全能の父なる天主を信じ、」と、祈った時に、その目の前に、天地の創造主、全能の父なる聖父がこう浮かび上がって来て、この祈りが何か、私たちの機械的なものではなく、現実となって、これが本当の祈りになります。そしてこうすると、そうやって祈ったロザリオは、私たちにとって非常に大切なものになって、最も大切なもの、ただ例外は、ミサ聖祭だけです。

 ルフェーブル大司教様は、よくしばしば、ミサの典礼のテキストというのですか、「この文章に書かれているものを黙想しなさい。」と、勧めました。このミサの間に、このミサで読まれる箇所がこうあって、それをミサの途中にお読みになるのはとても良いことです。

 皆さんは本当にとても良い特権をここで持っています。何故かというと、私がこのここに入って、ここに居たら、何か、神学校にいるかと思いました。何故かというと神学校では、何と言うのでしょうか、クラッパーを使っていますから。ですから、これは共同体がいつも一致して、この典礼に与る事ができるというのはとても良い事です。これはドイツの規律だ、という事ができます。(^^

 そして私たちがミサに与って、そのミサの神秘を深める為には、ミサを黙想して下さい。ミサの1つ、あるいは2つの祈りを取って、それについて考えを深めて下さい、考察して下さい。或いは、ミサについて公教要理が教える所を、それを適用して、この司祭が聖変化させた、聖変化した時に、「あぁ、イエズス様が十字架に付けられた。ミサと十字架の生贄は、同じ生贄だ。」と、理解します。

 どこかのYouTubeで見たのですけれども、ミサをやっている時に、その直後にイエズス様の御受難の場面が同時に、これがこれに対応している、という動画があります。


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 読む事は大切ですが、ですが読むのみならず、読んでいるこの内容を考えて下さい。

 こう見てみると、色んな黙想のやり方がある、という事が分かります。最も美しいやり方は、黙想会の時に皆さん学びました。そしてもしも黙想会に与って、その貴重な宝を頂いたのでしたらば、これからそれを無視して生活をする、というのは、ちょっとそれの責任があります。

 黙想の実りの1つは、「天主様が、生ける方となって、生き生きとした方となって、私たちの前に現れる。」という事です。「マリア様が、単なるどこかの方ではなくて、生ける方となって、この人間的な、個人的なもの」となる事です。

 例えそれが短いものであっても、毎日黙想する事によって、信仰、希望、愛徳は深められ、強められます。そして黙想する事によって、日々黙想する事によって、イエズス様と親しい緊密な、日々の生活を送る事ができるようになります。常にイエズス様に忠実に、信仰に忠実に生き抜くためには、黙想なしにはほぼ不可能です。そしてもしも私たちが霊的に進歩し、聖徳を目指すならば、必ず黙想が必要です。

 私は、皆さんが一人一人、必ず皆さん全部、皆さん全員が、聖人となる事を望んでいます。ですから、毎日の黙想を決してなおざりになさらないで下さい。一番黙想に相応しいのは、適しているのは、朝です。朝、10分早く起きて、遅いのではなく早く起きて、10分或いは15分、朝黙想して下さい。

 ご清聴ありがとうございました。

イエズス・キリストの至聖なる聖心の信心の核心:償い

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 9月の初金曜日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

 カトリック教会の教えによると、イエズスの至聖なる聖心への信心の核心は、私たちがイエズス・キリストと共に世の贖いに参与する、ということです。ここにカトリック教会の教えの中核があります。

 聖伝のミサがまさにそれであり、マリア様の御生涯もそれでした。イエズス・キリストの御心の信心の奥深くに入り込みましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年9月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心
小野田神父説教

 「私は、私と共に悲しむ者を探したが、それはいなかった。
私を慰める者を探したが、それを見つけなかった。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日、9月の初金です。私たちのイエズス様の嘆きに耳を傾ける事に致しましょう。イエズス様は、共に苦しみを捧げる者を、イエズス様の苦しみを慰める者をお探しでおられます、求めておられます。

 イエズス様はこの事を、フランス革命の100年前、1673年から始まった70回の御出現で、聖マルガリタ・マリア・アラコックに、既にその事を求めていました。イエズス様は、ちょうど物貰いが家の前をノックして、「恵んで欲しい。」私たちの償いと、私たちの愛と、私たちの祈りと犠牲を捧げて欲しい、という事をお願いしつつ、私たちの胸を叩いておられます。しかし、世の多くの人々はそれに冷たい反応をして、或いはドアを閉じたままか、或いは追い払うか、或いは嫌な顔をするか。イエズス様の受けるのは、ただ冷淡や冒瀆、そして無関心だけです。そこでイエズス様は、「少なくともお前は、」と、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに、「少なくともお前は、私の心を慰めて欲しい。」「この人類を、これほどまでに愛する心を慰めて欲しい。」と、言われます。

 イエズス様の人生は、「Ecce」「見よ、主よ、ここにおります。」というその言葉で始まり、この言葉で終わる人生でした。この世にいらっしゃる、そのマリア様の御胎内に入るその瞬間、「見よ、ご覧ください、私は参ります。御身の御旨を果たす為に。」と、言われました。イエズス様は、ヨルダン川にいる時に、洗者聖ヨハネからも言われました、「見よ、天主の子羊を。」つまり、「生贄の為に捧げられる天主の子羊を見よ。」そしてポンシオ・ピラトも言います、「Ecce rex. Ecce homo.」「この人を見よ。」

 イエズス様はそして、カトリックの司祭から、ミサのごとに、「天主の子羊を見よ。“Ecce Agnus Dei”」、御聖体を捧げられて、「ここに、イエズス様の天主の子羊、私たちの為に、生贄となった犠牲がおられる、これこそが、真の私たちの罪の償いの生贄である。」と言われます。そしてそれと同時に私たちも、イエズス様の生贄に一致する事を求めておられます。一体何故でしょうか?

 第2の点は、何故かというと、それはイエズス様が私たちに、その神秘体全体として、その苦しみの欠けた所を、私たちが神秘体の、キリストの神秘体の一部として、キリストの苦しみの欠けた所を満たす事を望まれるからです。何故ならば、イエズス様は私たちが、本当の意味でキリスト者となる事をお望みになるからです。何故かというと、聖パウロが言ったように、「私が生きるのは、私ではなく、キリストが私に於いて生きる。」私たちが第2のキリスト、もう一人のキリストとなる事を、お望みであるからです。

 では、キリストとは何でしょうか?つまりキリストとは、「救世主」の事です。イエズス様は、私たちがイエズス様と共に、この世を救う救い主、救いの御業に一致して、協力する事をお望みになるのです。その為にこそ、イエズス様は私たちから罪の償いと、イエズス様の苦しみにますます参与する事をお望みになっておられます。

 イエズス様は、苦しむ為に、苦しみを通してこの世を救う為に、この世に来られました。そして私たちも、キリストと一致する為に、苦しみを通して、イエズス様の救いの御業に参与する事をお望みです。ここに、イエズス様の聖心の信心の核心があります。つまり、償いの精神。「償いの精神によって、私たちの苦しみ、十字架、犠牲、祈りを捧げる。霊魂の救いの為に、天主の光栄の為に、これを償いをもって捧げる。」という事です。

 最後に、マリア様に、私たちの目を向ける事に致しましょう。マリア様は、天使のお告げを受けて、すぐさま、イエズス様と同じ言葉を仰います、「ご覧ください、主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし。」マリア様こそ、イエズス様と一心同体、そしてご自分の全ての生涯を、償いの為に捧げた方でした、共贖者となられた方でした。そしてマリア様の御取り次ぎによって私たちも、共に贖う、世の罪を共に贖う者となりますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 
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