アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
フェレー司教様が今年の6月にフランスで鐘の祝福の時に、フランスのプレザン紙(Present)のインタビューに答えたものの日本語訳をご紹介します。ニュアンスをフランス語に合わせて訳しました。
フェレー司教様が最後に、次のように言っているのを読み、
Pour moi, nous sommes à la veille d’événements graves sans pouvoir bien les définir. J’appelle à la prière et je veux terminer sur un regard vers le Bon Dieu, ce qui nous permet de toujours garder espoir.
祈りに寄りすがらなければならない恐ろしい出来事が待ち受けているように思いました。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
フェレー司教へのインタビュー──これは教会のみわざです!
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聖ピオ十世会総長は、司祭兄弟会および同会のローマとの関係について、フランスのプレザン紙のインタビューでの質問に回答した。
フェレー司教は、シャトールーのサンミシェル・ド・ラ・マルティンリ校(l’école Saint-Michel de La Martinerie)の鐘の祝別のために訪問した際、自らが総長を務める聖ピオ十世会の近況について語った。
プレザン紙: 2001年にフィデリテール誌のインタビューで、司教様は「若い聖職者たちの聖ピオ十世会への深い共感の動き」について言及されましたね。この動きは、特に2007年の自発教令が発布と同時に、発展していっているのでしょうか?
フェレー司教: 疑いの余地はありません! 自発教令のおかげでこの動きには新しい刺激が吹き込まれました。ベネディクト十六世の典礼全般に深い関心があったと強調することが重要です。ベネディクト十六世は、ミサだけはなく、聖伝の典礼全体を、司祭たちや信者たちの手元に置くことを真に望んでいました。これは、あまりにも多くの反対があったために実現しませんでした。ですが若い司祭たちは、この典礼に共鳴しています。これが時を超えるものであるからです。教会は永遠を生きているのです。典礼もそうです。典礼が常に若々しい理由は永遠であるからです。天主に近く、時間の枠に捕らわれません。ですから、洗礼で受けた霊魂の刻印が、この典礼をまったく知らなかった霊魂たちの中にさえも共鳴のこだまを響かせるのは、まったく当然のことです。若い司祭たちがこの典礼を発見した時に取る行動は感動的です。彼らは自分たちから宝が隠されていたという印象を受けるのです。
プレザン紙: 聖ピオ十世会は、ベルゴリオ枢機卿、現教皇フランシスコの援助のおかげで、アルゼンチン国家よりカトリックとして正式に認められました。これは単に(アルゼンチンの)行政上の重要性しかないということでしょうか、それとも、もっと多くのことを意味しているのでしょうか?
まず最初に、これには(アルゼンチンの)法律上および行政上の効果があります。これは、──平たく言うと──公式の教会と聖ピオ十世会の全般の関係に関する限り、なんの影響も及ぼしません。ですが、副次的な効果を正しく評価するのは簡単ではありません。つまり、間違いなく教皇フランシスコ、当時のベルゴリオ枢機卿は、聖ピオ十世会がアルゼンチン国家にカトリックとして認められるよう、その承認を勝ち取るための援助を約束してくれましたし、教皇はその約束を守りました。ですから、教皇様が私たちをカトリックであるとみなしていると考えざるを得ないというしか、私たちには選択の余地はありません。
プレザン紙: 同じ路線に沿って、司教様、あなたはバチカンによって、聖ピオ十世会のある司祭を裁判するための第一審の裁判官と任命されました。これは善意のしるしであると理解できるでしょうか?
それは目新しいことではありません。これは十年以上に渡って存在し続けた事例です。事実、これは善意のしるしであり常識のしるしです。ローマ教会の全歴史を通して、ローマ教会において存在が認められることです。つまり、教会の現実主義であり、非常に現実的な問題に対して解決策を見つけるため、教会法上のそして裁治権上の問題を越えることが出来る教会の能力です。
プレザン紙:恩人と友人の皆さんへの手紙の中で、司教様はローマから「矛盾するメッセージ」が来ていると述べられました。これは何を意味するのでしょうか?
聖伝に近づこうとする団体が扱われる、というよりは、虐待されるやり方について私は思い巡らしました。つまり無原罪の聖母のフランシスコ会(the Franciscans of the Immaculate)のことです。また、私たちがローマ当局のさまざまな権威筋より受けたさまざまなやり方についてです。例えば、修道者聖省は今なお私たちを離教的であると考えています(2011年、彼らは聖ピオ十世会に加わった或る一名の司祭を破門だと宣言しました)が、その他聖省から、あるいは教皇ご自身からは、そのような扱いは受けていません。ちょうど今申し上げた通りです。
プレザン紙:「悲観的」「自分たち以外に対して閉鎖的」「聖ピオ十世会に忠実な者たちだけが救われると考えている」──時折、このような言い回しが聖ピオ十世会に対して向けられることがあります。あなたはどのように答えますか? あなたによれば、宣教の精神とは何でしょうか?
この皮肉な言葉の数々が自分に関係あるとは思いません。教義における堅固さは不可欠です。信仰とは交渉次第のものではないからです。信仰とは、完全体として天主より与えられており、啓示された真理の中から一部を抜き取って選ぶ権利は、私たちにはありません。今日ではこのような必須条件を思い起こすことは、多かれ少なかれ常にそうであったように、歓迎されていません。「信仰の戦い」という言い方は、教会の歴史の一部です。宣教師は信仰の言葉を外部に向けて述べなければならず、同時に、すでに信仰を持っている人々を強めようとしなければなりません。私たちは聖ピオ十世会の信徒の方々だけに向かって話をすることは出来ません。たいまつは世界を照らし、信仰の光は熱とともに輝きます。信仰は愛徳によって生まれなければなりません。私は宣教師というものをこのように理解します。
プレザン紙:数週間前、聖ピオ十世会のいくつかの神学校は、ブランミューラー枢機卿及びシュナイダー司教の訪問を受けました。この訪問は「公式の教会」との公的なつながりです。これは欠かせないのではないですか?
教会との結びつきは欠かせません。このつながりの表明のやり方は、いろいろあり得ます。この訪問の日にちと場所については私に一任されていました。バチカンが訪問者を選定しました。私が彼らの訪問に神学校を選びました。なぜなら、これら神学校が、訪問する司教様たちにとって最も説得力があり、最適な代表者であると思ったからです。
プレザン紙:この司教たちの最初の反応はどんなものでしたか?
司教様たちは大変満足しておられました。彼らは私たちにこう言いました。「皆さんはごく普通の人たちだ」と……これが私たちの受けている噂を示しています! 司教様たちは私たちの神学生たちの資質について褒めてくださいました。この最初の親密なコンタクトののちの彼らの結論が、私たちが教会のわざであるということは疑う余地がありません。
プレザン紙:あなた方は、あなた方を隠れて支援する一部の司教様たちとコンタクトを取り続けていますか?
もちろんです! 今日、司祭たちが私たちに近づいてきてコンタクトを取っているのを見ていますから、より高い(司教)レベルにおいても、同じことが起きていると容易に結論を出せます。
プレザン紙:先ほど触れた2001年のインタビューで、あなたはこう宣言されました。「私たちがローマとコンタクトを取ることで教会内にわずかずつでも聖伝を取り戻すことができるチャンスがいくらかでもあるのなら、私たちはその好機を掴むべきだと考える」と。──聖ピオ十世会の立場は依然としてこのままですか?
たとえこれが、特にバチカン自身の内部にあるあからさまな不和のために、簡単なことだとは言えなくても、私たちの立場はこのままです。このような関係には細心の注意を払いますが、私たちの見解は、事実によって確認されるように有効です。これは強固な反対のまっただ中で達成されつつある目立たない仕事です。この方向に向かって働いている人々もいれば、反対の方向に向かって働く人々もいるからです。
プレザン紙:教会内においてバランスを取る拮抗勢力としての聖ピオ十世会の役割は重要ですか?
この役割は何も新しいものではありません。ルフェーブル大司教様がそれを始められ、私たちはそれを続けています。ベネディクト十六世が踏み出した歩みによって、近代主義者たちが憤りを見せており、それは容易にわかることです。
プレザン紙:現在、聖ピオ十世会はどこにいるのでしょうか? 聖ピオ十世会の強みと弱点は何でしょうか? あなたが予見する聖ピオ十世会の未来とはどんなものでしょうか?
私は穏やかに未来を見ています。聖ピオ十世会は、イエズスの聖心とマリアのけがれなき聖心に委ねられた事業です。私たちはただ、イエズスと聖母マリアとのご意志に忠実にとどまりさえすればよいのです。この教会は、聖主イエズス・キリストの教会であり、イエズス・キリストは教会のかしらであり続け、教会が破壊されるのをお許しにはなりません。
聖ピオ十世会の弱点ですか? 分裂の危険であり、これは深刻です。例えば自分たちを「レジスタンス」と呼ぶ聖伝のパロディ集団を見て下さい。これは、ほとんどセクト集団の、非カトリック的精神のことです。こんなものを私たちは一切持ちたいとは思いません。これは、この地上において自分たちだけが善良で正しい人間だと考える人々からなる、自らの内部に閉じこもる運動です。これはカトリックではありません。これは客観的に危険なものですが、危険は相対的です。聖ピオ十世会の大部分は健全で、このような錯覚に陥ることを望んでいません。これによって私たちは超自然的手段に頼るよう促されるのです。天主が私たちにお望みのことを、私たちに教えてくださるでしょう。天主は状況を通してお語りになるのでしょう。
聖ピオ十世会の強みですか? 実りをもたらす生き生きとした忠実さ、そしてカトリック的生き方は、たとえそれがあらゆるものを要求するとしても可能であると現代世界に教えていることです。しかし──もう一つの弱点ですが──私たちはこの時代の子です。近代世界の影響に対抗する免疫があると装うのは夢想でしょう。具体的に言いますと、私たちはこの地上で皺もしみもない、戯画化した教会の姿を望むことを避けなければなりません。聖主はこのようなことをこの地上で私たちに約束なさいませんでした。「聖なるカトリック教会」とはこのようなことを意味しているのではありません。聖会とは、聖主がお与えになった手段──秘跡、信仰、規律、修道生活、祈りの生活を使うことで私たちを聖なるものとすることができるという意味です。
プレザン紙:新しいミサに聖伝のミサの奉献文(Offertorium)を導入しようというサラ(Sarah)枢機卿の提案についてはどう思われますか?
それは新しい考えではありません。ローマで十年近く議論されていることです。再び取り上げられたことを私は嬉しく思います。これは聖なるものと世俗とを混ぜることだと言って、この考えを批判する人々がいます。私は、それどころか、教会に健全なものを取り戻そうという観点からこれは大きな第一歩であると考えます。なぜなら、奉献文(Offertorium)は、ミサ聖祭に関するカトリック原理の要約であり、ミサ聖祭が至聖なる三位一体に捧げられる償いの犠牲であり、罪の償いとして信者とともに、司祭によって天主に捧げられる犠牲であることを要約しているからです。こうして徐々に、信者たちが失ってしまった聖伝のミサへと彼らを連れ戻すことになるだろうからです。
プレザン紙:司教様、締めくくりのお言葉をお願いします。
私の考えによると、私たちは、はっきりと定義できない数々の重大な出来事を目前にしている、と思います。皆さんを祈りへと呼びかけます。そして常に希望を持たせてくださる天主のほうへとまなざしを注ぎつつ、私の言葉を終わりにしたいと思います。
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Entretien de Mgr Fellay à Présent (27 juin 2015)
C’est à l’occasion de la cérémonie de bénédiction des cloches de la chapelle de l’école Saint-Michel de La Martinerie, à Châteauroux, que Mgr Fellay a fait pour Présent un point sur la situation de la Fraternité Saint-Pie X, dont il est le Supérieur général.
Dans un entretien accordé à Fideliter en 2001, vous évoquiez « le mouvement de profonde sympathie du jeune clergé à l’égard de la Fraternité ». Ce mouvement s’est-il amplifié, notamment du fait du motu proprio de 2007 ?
― Sans aucun doute ! Ce mouvement a reçu un nouveau souffle avec le motu proprio. Il convient d’ailleurs d’insister sur l’intérêt de Benoît XVI envers la liturgie d’une manière générale. Il a vraiment désiré remettre à la disposition des prêtres et des fidèles toute la liturgie traditionnelle, pas seulement la messe, ce qui ne s’est pas réalisé jusqu’ici à cause de trop nombreuses oppositions. Cependant la jeunesse, précisément parce que cette liturgie se situe hors du temps, s’y retrouve. L’Eglise vit dans l’éternité. La liturgie aussi, c’est pourquoi elle est toujours jeune. Proche de Dieu, elle n’appartient pas au temps. Il n’est donc pas étonnant que le caractère baptismal fasse résonner cette harmonie, même dans les âmes qui ne l’ont jamais connue. La façon dont réagissent les jeunes prêtres qui découvrent cette liturgie est d’ailleurs émouvante : ils ont l’impression qu’on leur a caché un trésor.
La Fraternité a été reconnue officiellement comme catholique par l’Etat en Argentine, avec l’aide du cardinal Bergoglio devenu ensuite le pape François. Cela n’a-t-il qu’une importance administrative ou est-ce plus révélateur ?
― On y trouve tout d’abord un effet juridique, administratif, sans implication sur l’état des relations générales de la Fraternité avec, disons pour simplifier, l’Eglise officielle. Mais le deuxième effet est difficile à évaluer correctement. Il n’y a aucun doute sur le fait que le pape François, alors cardinal Bergoglio, avait promis d’aider la Fraternité à obtenir la reconnaissance par l’Etat argentin de notre société comme catholique et qu’il a tenu sa promesse. Cela oblige à penser qu’il nous considère bien comme catholiques.
Dans le même ordre d’idées, vous avez été nommé juge de première instance par le Vatican pour le procès d’un prêtre de la Fraternité. Ne peut-on y voir un signe de bienveillance ?
Ceci n’est pas nouveau mais existe depuis plus de dix ans. Il s’agit effectivement d’une marque de bienveillance, et de bon sens. C’est ce que l’on remarque dans l’Eglise romaine à travers son histoire : son réalisme, capable de dépasser des problèmes canoniques, juridiques, pour trouver des solutions à des problèmes bien réels.
Vous évoquez, dans votre Lettre aux amis et bienfaiteurs, des « messages contradictoires » venant de Rome. Qu’entendez-vous par là ?
Je pense à la manière dont une société qui était en voie de rapprochement vers la Tradition a été traitée – ou maltraitée : les franciscains de l’Immaculée. Ou aux diverses manières dont nous traitera une instance romaine par rapport à une autre : la Congrégation des religieux, par exemple, nous considère toujours comme schismatiques (elle a déclaré excommunié, en 2011, un prêtre qui nous rejoignait), alors que ce n’est pas le cas d’autres congrégations ou du pape lui-même, comme nous l’avons dit.
« Pessimiste », « fermé aux autres », « pensant que seuls les fidèles de la Fraternité seront sauvés » : vous êtes parfois évoqué ainsi. Que répondez-vous ? Qu’est pour vous l’esprit missionnaire ?
Je ne me reconnais pas dans ces quolibets. Une fermeté dans la doctrine est, certes, nécessaire, car la foi ne se négocie pas. La foi est un tout donné par le Bon Dieu et on n’a pas le droit de faire le tri parmi les vérités révélées. Rappeler ces exigences aujourd’hui passe mal, comme cela a d’ailleurs toujours été plus ou moins le cas. L’expression « combat de la foi » fait partie de l’histoire de l’Eglise. Forcément, le missionnaire devra faire retentir cette voix de la foi à l’extérieur, tout en cherchant à fortifier ceux qui l’ont déjà. Il n’est pas possible de ne s’adresser qu’aux fidèles de la Fraternité. Le flambeau illumine le monde, la lumière de la foi rayonne, avec chaleur. La foi doit être portée par la charité : c’est ainsi que je vois le missionnaire.
Il y a quelques semaines, des séminaires de la Fraternité ont reçu la visite d’envoyés du Vatican, le cardinal Brandmüller, Mgr Schneider. Ces visites constituent un lien public avec « l’Eglise officielle ». N’est-il pas vital ?
Le lien avec l’Eglise est vital. La manifestation de ce lien peut varier. Les dates et lieux de ces visites ont été laissés à mon choix, le Vatican a proposé des noms. J’ai choisi les séminaires, ce qui me paraissait, pour des évêques, le plus éloquent et le plus représentatif.
Quelles ont été les réactions « sur le vif » de ces évêques ?
Ils se sont montrés très satisfaits. « Vous êtes des gens normaux », nous ont-ils dit… ce qui montre la réputation que l’on nous fait ! Ils nous ont félicités sur la qualité de nos séminaristes. Il ne fait aucun doute qu’ils ont conclu de ce premier contact rapproché que nous étions une œuvre d’Eglise.
Avez-vous des contacts avec des évêques, qui vous soutiennent discrètement ?
Bien sûr ! Si l’on voit que des prêtres se rapprochent de nous aujourd’hui, ont eux-mêmes des contacts avec nous, on peut facilement en conclure qu’à l’échelon supérieur, ce doit être à peu près la même chose…
Dans l’entretien déjà évoqué de 2001, vous déclariez : « S’il y a une chance, une seule, que des contacts avec Rome puissent faire revenir un peu plus de Tradition dans l’Eglise, je pense que nous devons saisir l’occasion. » Est-ce toujours votre ligne ?
Cela reste notre ligne, même si l’on ne peut pas dire que ce soit facile, notamment à cause des dissensions ouvertes au sein du Vatican lui-même. Ces relations sont délicates, mais ce point de vue reste valable et confirmé dans les faits. Il s’agit d’un travail discret, au milieu d’oppositions assez fortes. Certains travaillent dans un sens, d’autres dans le sens contraire.
Le rôle de contrepoids de la Fraternité à l’intérieur même de l’Eglise n’est-il pas important ?
Ce rôle n’est pas nouveau, Mgr Lefebvre l’a commencé et nous le continuons. A constater l’irritation des modernistes devant les pas faits par Benoît XVI, on le voit bien.
Où en est la Fraternité aujourd’hui ? Quels sont ses points forts, ses points faibles ? Comment voyez-vous son avenir ?
Je vois son avenir sereinement. C’est une œuvre déposée dans le Sacré-Cœur et le Cœur immaculé de Marie, le tout est d’être fidèle à leur Volonté.
Cette Eglise est l’Eglise de Notre-Seigneur Jésus-Christ, qui en reste le chef et ne permettra pas sa destruction.
Les faiblesses de la Fraternité ? Le risque de séparation, qui est grave. Voyez par exemple la caricature de la Tradition qui se fait appeler la « Résistance » : il s’agit d’un esprit non catholique, quasi sectaire, dont nous ne voulons pas, un mouvement qui reste replié sur lui-même, avec des gens qui pensent qu’ils sont les seuls bons, les seuls justes sur la terre : cela n’est pas catholique.
Il s’agit d’un danger objectif, mais relatif. La grande partie de la Fraternité est saine et ne veut pas sombrer dans ces illusions. Cela nous pousse à nous appuyer sur les moyens surnaturels. Ce que le Bon Dieu veut de nous, il nous le montrera, il parlera à travers les circonstances.
Les points forts ? La fidélité, vivante, qui porte des fruits et montre au monde d’aujourd’hui que la vie catholique, avec toutes ses exigences, est possible. Mais – autre point faible – nous sommes des gens de ce temps, prétendre être immunisés contre toute influence du monde moderne est chimérique. Plus précisément, il faut éviter le danger d’une caricature, de souhaiter voir ici-bas l’Eglise sans ride ni tache : ce n’est pas ce que le Bon Dieu nous a promis sur cette terre. Ce n’est pas ce que signifie « l’Eglise sainte », cela veut dire qu’elle est capable de sanctifier par les moyens donnés par Notre-Seigneur : les sacrements, la foi, la discipline, la vie religieuse, la vie de prière.
Que pensez-vous de la proposition du cardinal Sarah d’introduire l’offertoire traditionnel dans la nouvelle messe ?
Cette idée n’est pas nouvelle, cela fait une dizaine d’années qu’elle circule à Rome. Je suis heureux qu’elle soit reprise. Certains critiquent cette démarche en disant que ce serait mêler le sacré au profane. Au contraire, dans une perspective d’assainissement de l’Eglise, je pense que cela constituerait un très grand progrès, parce que l’offertoire est un résumé des principes catholiques de la messe, du sacrifice expiatoire offert à la Sainte Trinité, dirigé vers Dieu en réparation des péchés par le prêtre, accompagné par les fidèles. Et cela ramènerait graduellement les fidèles vers la messe traditionnelle qu’ils ont perdue.
Comment souhaitez-vous conclure, Monseigneur ?
Pour moi, nous sommes à la veille d’événements graves sans pouvoir bien les définir. J’appelle à la prière et je veux terminer sur un regard vers le Bon Dieu, ce qui nous permet de toujours garder espoir.
Propos recueillis par Anne Le Pape.
(Source : Présent du 27 juin 2015)