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2014年12月7日 聖ピオ十世会 聖伝のミサ レネー神父様説教 「見よ、天主の小羊を」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 イエズス様の人生は、天主に対する「Ecce」の人生でした。

 人間となってこの世に来られるとき、そのマリア様の御胎内に入るその時、「見よ、ご覧ください、私は参ります。御身の御旨を果たす為に。」と、言われました。

 イエズス様は、ヨルダン川にいる時に、洗者聖ヨハネからも言われました、「見よ、天主の子羊を」、「生贄の為に捧げられる天主の子羊を見よ」と。

 これについて、レネー神父様が昨年12月に韓国で素晴らしいお説教をして下さいました。それを日本語でご紹介いたします。どうぞ、イエズス・キリストの御心の神秘の中にお入り下さい。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



2014年12月7日ソウル/全州(チョンジュ)の説教―見よ、天主の小羊を
レネー神父様説教

 洗者聖ヨハネはあらゆる預言者の中で最も偉大です。なぜなら、彼はキリストの来臨を告げ知らせるだけでなく、その指でキリストを指し示すという役割が与えられたからです。これについて教会は、洗者聖ヨハネの祝日の晩課の聖歌で歌います。では、彼はキリストをどのように言い表したのでしょうか。「見よ、天主の小羊を。見よ、世の罪を除く御者を」(ヨハネ1章29節)。

 この出来事を思い出している使徒聖ヨハネは、洗者聖ヨハネの二人の弟子のうちの一人で、この言葉を聞いて彼のもとを去り、私たちの主イエズス・キリストに従うようになりました。もう一人の使徒は聖アンドレアでした。

 福音書は言います。聖アンドレアが「最初に自分の兄弟シモンに出会って、『メシアに会った』と言った」(ヨハネ1章41節 Invenit hic primum fratrem suum Simonem, et dicit ei: Invenimus Messiam)。この「最初に」という言葉に注意してください。ここから、別の弟子も、後で自分の兄弟に出会ったということが分かるようになります。ですから、この第二の弟子は使徒聖ヨハネ以外の何者でもないことを示しています。なぜなら、使徒たちの中にいた兄弟は二組だけだったからです。兄たちは生計を立てる仕事で忙しくしていた一方、弟たちは預言者である洗者聖ヨハネの言葉を聞いていたのです。ここにいるペトロ、ヤコボ、ヨハネ、アンドレアは最初の四人の使徒たちで、聖書にある使徒たちの名簿のすべてに彼らの名前があります。

 では、洗者聖ヨハネは、のちに獄につながれたとき、なぜ二人の弟子をイエズスに遣わして、こう尋ねさせたのでしょうか。「来るべきお方はあなたですか、それとも他の人を待たねばなりませんか」(マテオ11章3節)。聖ヨハネはイエズスが何者かを知っていました。では、なぜそんな質問をさせたのでしょうか。それは、聖ヨハネが非常に聖なる人であったため、多くの人々が彼、洗者聖ヨハネが多分メシアではないかと思っていたからです(ルカ3章15節)。また、その中には彼にあまりにも執着していた人々がいたため、彼、聖ヨハネであっても、自分のところを去ってキリストに従うようにさせることができないほどだったからです。ですから、聖ヨハネは考えました。たとえ自分が彼らに説明できなくても、キリストご自身なら、自分ができなかったことを成功させてくださるのではないか。キリストに、自らがキリストであると彼らに説明していただこう。そしてこれが、きょうの福音で私たちの主イエズス・キリストがなさることなのです。主はイザヤの予言を述べられます。「主は救いに来られる。その時、盲人は目を開け、耳しいは耳をひらく。その時、足なえはしかのように飛び、おしの舌は喜び叫ぶ」(イザヤ35章4-6節)。

 このように、私たちの主イエズス・キリストは、ご自分がメシアだと証明する二つの基本的な理由を示されました。預言と奇跡です。イザヤによって預言された奇跡を行うことによって、主は固い基礎、不動の岩の上に弟子たちの信仰を打ち立てられました。来臨の前に預言され、また大変多くの奇跡を行った宗教創設者はイエズス・キリストだけです。これは、洗者聖ヨハネが「見よ、天主の小羊を」と指し示した指以上に力強い天主の指(の業)なのです。

 しかし、洗者聖ヨハネの役割は非常に重要でした。実際、私たちの主の最初の来臨はへりくだりの来臨でした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)とき、メシアであると理解するのは難しかったのです。このへりくだりが洗者聖ヨハネによって預言されたという事実が、私たちの信仰を強めてくれ、私たちは、十字架のいけにえにおける天主の御子、天主の小羊ということを理解できるようになります。実際、このなだめのための無垢な天主の小羊は、天主の御子ご自身以外の何者でもありません。まことの天主であり、まことの人間であって、ご自身を完全な犠牲のいけにえとして捧げることによって、私たちを罪から救うために来られたお方なのです。聖ペトロは美しく書いています。「あなたたちが祖先から受け継いだむなしい生活から贖われたのは、金銀などの朽ちる物によるのではなく、傷もなく汚点(しみ)もない小羊のような、キリストの尊い御血によることをあなたたちは知っている」(ペトロ第一1章18-19節)。

 私たちの主が小羊として、なだめのいけにえになられるだろうということは、旧約ですでに告知されていました。「彼は屠所にひかれる小羊のように、毛を刈る人の前でもだす羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53章7節。使徒行録8章32節を見よ)。

 旧約において、犠牲のいけにえに必要とされる特徴は、傷や汚点(しみ)のないこと、無垢(immaculate)であることでした。私たちの主は無垢のいけにえです。聖パウロがヘブライ人への手紙でこう言うように。「聖霊によって、けがれのないご自分を天主に捧げられたキリストの御血が、私たちの良心を死の業から清めて、生きる天主に奉仕させえないであろうか?」(ヘブライ9章14節)。聖母は新しいエバとして、「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)であり、十字架の下での無垢ないけにえの霊魂でした。教会の歴史においては、幼きイエズスの聖テレジアのように、多くの人もまた、主と聖母ほど完全に無垢ではなかったものの、無垢である「イエズスの慈悲深い愛へのいけにえ」でした。13歳の若い殉教者だった聖なる童貞アグネスは、このことによって、初期の教会の教父たちに強い印象を与えました。聖アンブロジウスは、聖アグネスの名前それ自体が無垢ないけにえ、天主の小羊になることを彼女に運命づけていた、と言います(「アグネス」の語源「アグヌス」はラテン語で「小羊」の意味です)。

 私は、小羊の特徴をもう一つ挙げてみたいと思います。それは喜び、飛び跳ねるような喜びです。まことのキリスト教徒もまた、聖霊の実であるこの天主の喜びを持たなければなりません。実際、聖パウロは「霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔である」(ガラツィア5章22-23節)と言っています。

 小羊のさらにもう一つの特徴は、そのやさしさ、柔和であることです。私たちの主イエズス・キリストは「心の柔和なへりくだった者」(マテオ11章29節)です。私たちもまた、この柔和とへりくだりをまねるべきです。それがなければ誰も救われません。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。

 私たちの主は、主の群れの小羊すべてが主に似た者になるよう望んでおられます。実際、主はペトロに「私の小羊を牧せよ」(ヨハネ21章16節)と言われました。また、「私があなたたちを送るのは、ちょうど狼の中に小羊を送り込むようなものである」(ルカ10章3節)と言われましたが、これは悪に対して悪で報いるのではなく、自分たちの力を信頼するのでもなく、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を信頼することなのです。羊を守ること、特に小羊を守ることは、牧者の義務です。牧者は雇人のようであってはなりません。つまり、世が聞きたいことを言ったり、羊が聞かねばならないことを言わなかったり、狼が来たとき逃げてしまったりしてはなりません。「良い牧者は羊のために自分の命を捨てる」(ヨハネ10章11節)のです。

 黙示録において、聖ヨハネは私たちの主イエズス・キリストを小羊として見ました。また、小羊として32回言及しています。「また私は、一方には玉座と四つの動物、また一方には老翁、その間に七つの角(つの)と七つの目のあるほふられたような小羊が立ってうるのを見た。それは全世界に遣わされた天主の七つの霊である」(黙示録5章6節)。小羊としての主は、すべての天使によって礼拝されます。「彼[小羊]が巻物を手にしたとき、四つの動物と二十四人の老翁は小羊の前にひれ伏した彼らはおのおのの竪琴と香に満ちた金の杯を持っていた。香は聖人たちの祈りである」(黙示録5章8節)。「そして、天に、地に、地の下に、海にあるすべての被造物、その中にあるすべてのものが、『玉座に座るお方と小羊に、讃美と誉れと力あれ、代々に』と言うのを聞いた」(黙示録5章13節)。

 主はすべての聖人に至福直観の喜びをお与えになります。「彼らは再び飢えることなく、渇くことなく、太陽にも熱風にも悩まされない。玉座の中にまします小羊は彼らを牧し、命の水の泉に連れていき、天主は彼らの目から涙をすべてぬぐわれる」(黙示録7章16-17節)。

 「彼ら[十四万四千人=天における奉献された霊魂]は女にけがされない童貞であって、小羊の行くところにどこにでもついていく。彼らは天主と小羊のために初穂として人々の中から贖われたのであって、口に偽りなく、天主の玉座の前にいるけがれのない人々である」(黙示録14章4-5節)。

 まことに、「小羊の婚宴に招かれた者は幸いである」(黙示録19章9節)。「自分の服を洗う者は幸いである。彼らは命の木について権利を持ち、門を通って町に入る権利を持つであろう」(黙示録22章14節)。

 この「小羊の婚宴」は、この地上では、聖なるミサにおいて始まります。ミサの中で司祭が天主の小羊をいとも聖なる三位一体に奉献するのは、小羊の無限の完全性を礼拝し、私たちに与えられた驚くべき賜物すべてに感謝し、私たちの過去のすべての罪を償い、私たちの必要とするすべての恩寵を得られるようにするためです。犠牲を奉献したのち、司祭とすべての信者は、良い心構えのうちに、「世の罪を除く天主の小羊」を拝領するでしょう。小羊として、完全な犠牲のいけにえとして、私たちの霊魂の食べ物として、私たちの主イエズス・キリストがご聖体のうちにまことに現存されるという素晴らしい信仰を持ちましょう。主を拝領する準備をするために、いつも霊魂を清く保ちましょう。いつも主をふさわしく拝領し、その後はそれに応じて生活しましょう。ご聖体における私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、天主性を自分の霊魂に拝領したカトリック信者は、この世的な霊魂のように生きることはできません。地上にいるうちからすでに、天国の命、小羊の婚宴の客にふさわしい命を生きなければならないのです。つまりキリストが必ずその人と共に生きておられるのです。

 親愛なる兄弟の皆さん、洗者聖ヨハネが言ったように天主の小羊である私たちの主イエズス・キリストに従いましょう。また、主の徳、清さ、やさしさ、柔和とへりくだり、喜びをまねるようにしましょう。よい告解と聖なる生活をすることによって、小羊の血で私たちの霊魂を清めましょう。そして、聖母とすべての聖人たちと共にいることのできる、この小羊の婚宴を待ち望みましょう。

アメン

明日の9月14 日の大阪でのミサは、午前6 時半から

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アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様

明日、9月14日月曜日の大阪でのミサ聖祭は、都合上、午前6時半からの開始となりました。よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

2015年9月5日初土 聖ピオ十世会 聖伝のミサ SSPX Japan Traditional Latin Mass 

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、聖母マリア様の7つの御悲しみの祝日です。マリア様の祝日を記念して、今月の初土曜日(2015年9月5日)の聖母の汚れ無き御心の随意ミサの時にしたお説教をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年9月5日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教

 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は、2015年9月5日、9月の初土曜日の聖母の汚れ無き御心の随意ミサを捧げています。今日のこのミサの後に、いつものように公教要理があります。今日は、公教要理で、「原罪について」、原罪の人類の罪は何だったのか。その一体どういう、何を人類は望んだのか。そして人類の罪は、その原罪の罪の重さの度合いはどうなのか。男と女とどちらの、アダムとエヴァとどちらの方が悪かったのか、などを、聖トマス・アクィナスの分析に従って、考察してみたいと思います。

 10月は、10月2日と3日、最初の初金、初土です。そして10月の主日のレネー神父様のミサはですね、司祭の黙想会の為に、11日の代わりに25日に変更になりました。どうぞご注意ください。11月、12月はいつもの通りですが、12月のクリスマスの予定が少し変更になりました。25日の夕方の予定だったのが、24日のクリスマス・イヴから、24日、25日、26日と大阪でミサがあるようになりました。24日のクリスマス・イヴ、そして真夜中のミサ、暁のミサ、午前のミサ、そして26日の土曜日と、ミサがあります。どうぞいらして下さい。

“Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日いつもの通り、初土曜のミサで入祭誦では、「天主の聖寵の玉座に、信頼をもって私たちは近付こう。」と、歌います。天主の聖寵の玉座、つまり、その玉座に近付く一番の方法は、マリア様です。そのマリア様は、マリア様はどうして、私たちの為にこれほど、私たちが御恵みを受ける為に、最も良い手段なのであるか、という事を黙想する事に致します。

 まず第1に、天主様が、マリア様を通して、マリア様の仲介を通して、私たちに御恵みを与えようとした、という事を黙想します。何故マリア様が仲介者となる事ができるのか。次に、マリア様がなさったその功徳とは一体どのようなものか。そして最後に、私たちは結論をとることにします。

 天主様は、イエズス様を、マリア様を通して、私たちに下さる事をお望みになりました。イエズス・キリストが御托身して人間となられて、私たちの間に住み給う、という事を、マリア様を通して、そしてマリア様を通してのみ、与えようとされました。この御托身というのは、全ての御恵みのつくり主であり、全ての御恵みの元である、根源であるイエズス様を、私たちに与える事ですから、つまりマリア様は、「全ての御恵みの根源を受けた」という事を意味します。

 天主様は、昔も今も、そして永遠に変わる事のない方です。そして天主様は、その御望みによってもちろん、マリア様を通さずに御恵みを与える事ができたにもかかわらず、マリア様を通して、そしてマリア様の仲介を通して、マリア様の愛徳を通して、そしてマリア様のその御手を通して、全ての御恵みを私たちに与える事をお望みになりました。天主様がこれをお望みになったので、私たちはそれに従うしかありません。そしてマリア様も、この天主様のお望みの通り、ご自分の手を通して全ての御恵みを与える為に協力しよう、と、望んでおられます。

 一体何故、こういう事があるのでしょうか?イエズス様だけが唯一の仲介者ではないのでしょうか?

 はい、これは私たちがキリスト教の核心に至ると、私たちは、「マリア様がこのように仲介者となった。」と聞いても、全く驚くには至りません。

 何故かというと、「キリスト者の召命」というのは、「イエズス・キリストの贖いの業に参与する」という事にあります。私たち洗礼を受けた者は、「イエズス・キリストと共に、唯一の救い主イエズス・キリストと共に、1つに、1つになり、そしてイエズス・キリストの贖いの業に、救いの業に参加する、参与する」という特別の召命を受けました、召し出しを受けました。

 もちろん私たちは、この世の救いの為にイエズス様と一致して初めて、この救いに協力する事ができます。イエズス様なしには、全く何もできません。しかし私たちは、まず私たち自身の霊魂、そして出来る限り私たちの隣人の霊魂の救霊の為に、この人生が与えられています。この今生きている、この地上での短い人生の間が与えられています。そしてそうする事によって私たちは、「第2のキリスト」とならなければなりません。

 「キリスト者」という事は、「キリスト信者」という事は、「私たちに於いて生きるのは、私たちではなく、キリストが私たちに於いて生きる」という事であって、私たちは霊魂の救霊の為に、イエズス・キリストと共に、贖い主、救い主、第2の救い主、贖い主となる、という特別の高貴な召し出しを受けたのです。

 そしてこれは、このような高い召し出しを受けた、という事は、これは天主様の偉大な無限のあわれみを燦然と輝かす源となるものです。

 もちろん、イエズス様だけが、完全な罪の償いを果たし、完全な贖いをなし、最も完全な救い主です。しかしイエズス様が、私たちもこの救いの業に参与する事をお望みになったので、私たちもその協力者として呼ばれているのです。

 イエズス様だけが、正義によって完璧に罪の負債を支払いしました。そしてそのイエズス様だけが、完全な正義によって、無限の功徳によって、罪の贖いを請求する事ができます。私たちは参与者として、祈りによって、或いは熱心な善業によって、そして生贄を捧げる事によって、私たちの小さな生贄を、イエズス様と共に捧げる事によって、その救いに参与するのです。第2のキリストとなる事ができます。

 これが、キリスト教信者の召命であって、召し出しであって、ここに私たちの人生の核心があります、天主を愛し、隣人を自分の身の如く愛する、核心があります。救霊、天主のより大きな栄光の為の救霊の、という、救霊の御業に参与する、という栄誉です。

 このキリスト者の召し出しの核心が理解できれば、マリア様が特別な召し出しを受けられた、という事を聞いても、驚くには値しません。何故かというとマリア様は、その私たちの救霊の業の贖いに、不変なやり方で参与されたからです。イエズス・キリストを、私たち全てに与える為に、マリア様を必ず通す事を、天主が望まれたからです。

 もしも私たちが第2のキリストとして、小さな救い主として、自分の霊魂と、他の隣人の霊魂の救いの為に協力するとしたら、私たちのその祈りの範囲は、限りがあります。しかしマリア様は、救いの根源であるイエズス様を、マリア様を通して私たちに与えられた方ですから、その贖いの協力の業の範囲は、全てに不変に、時間と場所を超えて、行き渡るものとなります。

 ですから、聖ピオ10世教皇様は、「マリア様とイエズス様の仲介の範囲は同じだけれども、本質的な違いはここにある。」と、説明しています。「イエズス・キリスト様は、決定的な正義によって、全く統合関係によって、罪の贖いを無限に果たした。condignoによって、功徳を受けた。イエズス様の果たした贖いの業は、condignoだ、統合関係にある。全て払い切った。マリア様は、お祈りによって、そして懇願によって、そのマリア様の受けたものは、それにふさわしいものであった。conguoの功徳を受けた。」と、言っています。

 そしてこれだけではありません、第2の点は、マリア様が、マリア様はでは私たちに為に何をなさったか、という事を考えなければなりません。

 確かにマリア様は、イエズス様を受ける事に、「はい。」と、言いました。その「はい。」と、言ったこの論理的な結論は、つまり十字架の苦しみの道の始まりでした。

 黙想会の時に、或いは聖母の被昇天の時に、シュテーリン神父様と一緒に黙想しました。マリア様の奇跡的な妊娠による、御受胎による聖ヨゼフとの関係、或いは、ベトレヘムに行って、救い主の生まれる場所が無かった事、或いはエジプトへの避難、全くお金も道も言葉も分からない外国での避難、逃亡の生活、そして救い主を王が狙っている、というその恐怖、或いはナザレトでの30年間の貧しい生活、貧困の生活、そしてイエズス様を神殿で失ったその悲しみ、或いはイエズス様が公生活に出て、マリア様を離れてしまう時のその生活の苦しさ、そして何よりもまた、イエズス様の御受難を、その目の当たりにしてご覧にならなければならなかったそのご心痛、シメオンの預言が成就して、その霊魂は剣で刺し貫かれました。

 フィリピンでは、水牛という、カラバオというのがいて、とても大人しい動物なのです。それで、それはでもすごく力があって、人間が何十人でも動けないような泥にはまった車でも、そのカラバオは、ヒョイヒョイっと出してしまったりとか。

 アジアのフィリピンにいる水牛は非常に大人しいのですけれども、アメリカにいるバッファローという水牛は非常に獰猛なのだそうです。そしてある時ですね、そういう話を神父様が私にしてくれて、そしてそのアメリカのバッファローは、ライオンが来ても、そのライオンをやっつけると、ライオンが空に上がってしまう、それでライオンが何匹いても、それに勝ってしまうのだそうです。草しか食べないような水牛ですけれども、力がものすごいあるのだそうです。そしてその水牛の群れがある時に、ライオンの群れに襲われて、メスの水牛が子供の水牛と共にライオンに襲われてて、で、ライオンは子供を食べようと、獰猛にこう唸っているのです。するとお母さんの水牛が、この子供を守ろうと、必死にこう守ります。

 動物でも、そうやって子供を守ろうとする本能があって、そして自分がどうなっても、子供さえ、子供だけは失われたくない、と一生懸命、ライオンにさえも立ち向かって戦おうとします、が、マリア様は、ご自分の御子イエズス様を、厳しい十字架、重い十字架を担いで歩まれた時、或いは十字架に釘付けにされた時、或いは非難轟々の屈辱の声を聞いた時、全身傷だらけの御姿を見た時に、罪のない御子イエズス・キリストをご覧になった時に、どれほどご心痛でいっぱいだったでしょうか。しかしマリア様は、イエズス様の罪の贖いの業に参与する為に、全てを捧げられました。

 イエズス様も、御自分の痛みよりも、マリア様のご心痛の方が心配だったに違いありません。自分のお母さんにこれほどの苦しみを与える事ほど、大きな悲しみと苦しみはなかったはずです。そしてマリア様も、そのような御子の、イエズス様のご心痛をよく知っていたが為に、十字架の下でしっかりと佇み、立って、イエズス様を御捧げしていました。

 マリア様は司祭ではありません。何故ならば御聖体を聖変化する事ができないからです。カトリック司祭の本質はここにあります。しかし、マリア様は、イエズス様をこの地上に最初にもたらして、ミサのつくり主である創定者であるイエズス・キリストを、全ての御恵みの根源であるイエズス・キリストを、そして司祭の最高の司祭を、そして十字架の生贄を捧げるその生贄であり、大司祭であるイエズス・キリストを、天主の子羊を、最初にこの地上にもたらした方です。最高司祭の母であります。カトリックの司祭は、天からイエズス様を、聖変化によってこの地上に現存させますが、マリア様はその根源を、この地上に現存させました。司祭は祈って、ミサを立てて、この教区民の為に、或いは全世界のカトリック教会の為に、天主に懇願します。そして天主からの祝福を皆に分配します。マリア様も、そのはるかに優れた方法によって、天主にイエズス様に祈り、そしてイエズス様からの祝福を私たちに与えます、御恵みを与えます。司祭は、イエズス・キリストを聖変化して聖父に捧げます。マリア様も、十字架の下で聖父に御子を、極めて崇高なやり方によって、ご自分の犠牲に合わせて御捧げいたしました。司祭は信徒に、司祭の手のみ、信徒に、跪いた信徒の舌の上に聖体拝領をさせます。マリア様も、マリア様に祈る全ての人々に、無限の功徳によって、イエズス様の無限の功徳から、私たちに全ての御恵みを分配します。

 確かにマリア様は司祭ではありませんが、しかしそれよりも崇高なやり方によって、司祭的な仕事を、私たちの為にされておられます。

 では、私たちは今日、どのような決心を立てたら良いでしょうか。
この入祭誦にあるように、信頼をもって、恵みの、聖寵の玉座であるマリア様の汚れ無き御心に近付く事に致しましょう。マリア様はいつでもどんな時でも、私たちに地上の御恵みを全て分配して下さいます、私たちの為に執り成して下さいます。聖イグナチオがちょうど、私たちにこうするのが良い、と言ったのと同じです。マリア様の所に行くと、マリア様は私たちを連れて、マリア様は私たちと一緒に、イエズス様の元に行きます。そしてイエズス様は、マリア様と一緒に来た私たちを見て、「あぁ、そうかそうか。」と言って、3人で、イエズス様とマリア様と私たちで聖父の元に行きます。それを、イエズス様マリア様と共に来た私たちを見て、聖父はどうして拒否する事ができるでしょうか。

 ポルトガルのある神学者によると、「十字架の上に付けられた時に、右に良い盗賊、左には痛悔しなかった盗賊がたけれども、実は、イエズス様はその2人の盗賊の間にいたけれども、イエズス様とマリア様の間に、この良き盗賊がいた。マリア様がいたから、この盗賊は回心の御恵みを得たのだ。」と、ある神学者は説明しています。もちろんマリア様は、この遠くにいた盗賊の為にも、回心の祈りをしたに違いありませんが、しかしこれは非常に象徴的な事ではないでしょうか。もしもマリア様が、マリア様の近くに行けば、必ずマリア様は私たちの為に、回心の救霊の恵みを勝ち取って下さる、という事を象徴的に表しているようです。

 聖フランシスコ・ザヴェリオも言っていました、「もしもマリア様の、十字架の下にマリア様がいる、という事を説明し忘れると、彼らは回心しない。」と。「しかし、マリア様がいる、という事を言うと、宣教地によって皆回心する。」と。

 では私たちも、聖母の汚れ無き御心に、聖寵の玉座に信頼をもって近付く事に致しましょう。そして第2に、ミサの色んな所を見ると、必ずマリア様の名前が入っています。聖伝のミサに於いては必ずマリア様の名前が、色んな所に散りばめられています。マリア様と共に、御ミサに与り続ける事に致しましょう。

 “Adeamus cum fiducia ad thronum gratiae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 レネー神父様による霊的講話 2015年9月13日 「マリアの聖なる御名」について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

  レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサの前に霊的講話をして下さいました「マリアの聖なる御名」についてです。元来は、2015年9月12日の聖母マリアの聖名の祝日になされたお説教でしたが、霊的講話として、大阪でお話し下さいました。

  聖母マリア様の7つの悲しみの主日を記念して愛する兄弟姉妹の皆様に後しょうかします。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

レネー神父様による霊的講話
2015年9月13日の主日 ミサの後
「マリアの聖なる御名」について


 親愛なる兄弟の皆さん、

 「乙女の名はマリアであった」(ルカ1章27節)。福音書のこの簡単な言葉は、美と恩寵に満ちていて私たちに有益です。私はまず、教会博士であるクレルヴォーの修道院長、聖ベルナルドによる福音書のこの言葉についての美しい説教を皆さんにご紹介します。

 「乙女の名はマリアであった、と言われている。この名について少し言わせてほしい。訳せば、この名は海の星を意味しているが、乙女にして母なる御方に大変適しており、星になぞらえられるのは大変ふさわしいことである。星は光を放っても、自身が朽ちることはないが、それと同じように、この乙女は自身の童貞性を害することなく御子を生んだからである。星が放つ光が星の明るさを減じることはないが、それと同じように、御子を生んだことが乙女の童貞性を減じることはないのである。マリアは、ヤコブから出ることになっていた高貴な星(荒野の書[民数記]24章17節)であり、その輝きは今でも全世界を照らし、その光は天においてきらめくだけでなく地獄にまで達し、地の中まで照らす。さらに体よりも精神を一層照らして熱し、善を保護し、悪を恐れさせる。私は言うが、この御方は明るく光り輝く星であり、数々の功徳に輝き、模範によってまばゆく光り、必然的に、この大いなる広い海の上を見下ろしているのである」

 「堅固な地を歩んでいるのではなく、この世の大海の強風と嵐のために行ったり来たりと揺り動かされていることを知っている汝らなら誰であれ、嵐に押しつぶされたくなければ、この星の明るい輝きをしっかり見ておかねばならない。誘惑の暴風が迫っても、艱難の岩にぶつかるときも、その星を見てマリアを呼ぶのだ。高慢、野心、誹謗、嫉妬の波にさらわれそうになれば、その星を見てマリアを呼ぶのだ。怒り、貪欲、肉の誘惑が汝の霊魂という小舟を打つとき、マリアを見よ。罪の大きさが汝を不安にし、良心の醜さが汝を狼狽させ、裁きの恐怖が汝を愕然とさせ、落胆の深み、絶望の淵に引き込まれそうになるならば、マリアを思え」

 「危険なとき、困難に直面したとき、どうしてよいか分からないとき、マリアを思い、マリアを呼ぶのだ。汝の口から、汝の心からマリアが消えぬようにせよ。マリアの祈りによる助けが欠けることのないように、マリアの会話の模範から離れないように(ふさわしい会話を)せよ。マリアに従うならば、道を誤ることはない。マリアに祈るならば、決して絶望することはない。マリアを思うならば、道に迷うことはない。マリアが支え給うならば、汝が滅びることはない。マリアが導き給うならば、汝は疲れることがない。マリアが助け給うならば、汝は最後に安全にふるさと(天国)へ至る。こうして汝は、『乙女の名はマリアであった』と言われているのを、自ら証しするのである」

 なぜマリア様のこの力が私たちを助けてくれるのでしょうか、なぜ私たちはマリア様に依り頼むべきなのでしょうか? それは、私たちの主イエズス・キリストが私たちを罪から救うために来られ、さらに「高慢はあらゆる罪の始め」(集会書10章15節)であるからです。ですから、天主に帰る道はどうしても、謙遜の道になるのです。このため、私たちの主イエズス・キリストは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)のです。しかし、高慢な人々の中には、「私には聖人の助けは必要ない。直接キリストのところへ行くことができる。キリストはまことの天主であるのだから、救うのに十分な力を持っておられる。さらにキリストは私たちの面倒を見てくださる良き羊飼いなのだから、私には誰の助けも必要ない」と言う人々がいます。さて、そのような態度は私たちの主イエズス・キリストを喜ばせはしません。なぜなら、そこには大きな高慢があるからです。祝された私たちの主は言われました。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子どものようにならないなら、天の国には入れぬ」(マテオ18章3節)。幼子になるためには、私たちには母が必要です。ですから、主はすべての母の中で最高の方である御母をお与えになりました。「主は[主が愛された]弟子に『これがあなたの母だ』と言われた」(ヨハネ19章27節)。この福音記者は、「主はヨハネに言われた」とは言わず、「主は[主が愛された]弟子に言われた」と言います。なぜなら、イエズスが言われたことは、ただ聖ヨハネにだけでなく、すべての愛された弟子たちに向けられたものだったからです。ですから、「愛された弟子」になりたいのなら、その人は「聖母を自分のもとに引き取」らなければなりませんし、聖母を自分の母としなければなりません。そうすれば、聖母は私たちを「幼子」とされ、それがなければ救われない謙遜を教えてくださるでしょう。なぜなら、「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)からです。

 聖母は他の者よりも高く上げられました。なぜなら、(イエズスの次に)他の誰よりも謙遜だったからです。私たちの主イエズス・キリストが福音書でたたえられたときにはいつでも、聖母は隠れておられました。主が拒絶され、十字架につけられたとき、聖母が来られ、最初に十字架の下におられます。それによって、聖母は私たちの主イエズス・キリストの罪と死に対する勝利に結びつけられ、特に死に対する勝利には被昇天によって結びつけられたのです。聖母には大きな力、霊魂をイエズスのもとに導いて、それにより救いにまで導く力が与えられていました。聖母は、霊魂たちに(天主の)すべてのあわれみの恩寵を分配する「あわれみの御母」なのです。

 傷ついた子どもたちが癒やしと保護を求めて母親のもとに駆け寄るように、罪びとである私たちは皆、聖母のもとに駆け寄りましょう。そうすれば聖母は、私たちの霊魂を清め、どのように祈るのか、どのように罪を嘆くのか、どのように私たちの主イエズス・キリストを信頼するのか、どのようにしてまことに主に忠実になれるのかを、その模範をもって教えてくださいます。マリア・マグダレナはそれ以上で、聖母のそばを離れることがありませんでした。この罪びとは無垢な方に、つまりマリア・マグダレナは童貞の中の童貞であるマリア様に引き寄せられました。ですから、十字架の下に一緒にいたのです。マリア・マグダレナをご自分に引き寄せ、十字架の下まで従わせることによって、童貞聖マリアはマリア・マグダレナの救いを保証したのです。

 童貞聖マリアへの信心は、私たちの時代には特に必要です。映画やビデオ、インターネットの発達と、その結果として避妊から自然に反する悪徳にいたるまでの悪徳の増大を原因として不純が増大している時代、さらには不道徳な人々が「中絶の権利」といったこれらの悪徳の「権利」を主張し、悪徳と徳の「平等」を主張している時代だからです。

 人々は、天使と悪魔の違いを、聖人と堕落者の違いを、聖霊の御業と肉の業の違いを、どうして識別することができないのでしょうか? 盲目がそれほど広がってきている訳では決してありません。ですから、私たちには、すべての人々に徳の美しさを思い起こさせる童貞の中の童貞による優しい光が必要です。その光の前では、悪徳の醜さは恥によって打たれます。童貞聖マリアへの優しい愛とまことの信心を持つ信者は、目の前に常に聖母の模範を置き、聖母を攻撃するあらゆるものを避けるのです。大罪を避けるだけではなく、罪に導くであろうものさえも避けるのです。慎みを実践し、衣服の慎みだけでなく、視線や会話、ふるまいでも慎み深くするのです。慎みについて言えば、慎みのない衣服を持ってはいけません。買ってもいけません。それを買わなければ、持つことはありません。持たなければ、着ることは決してありません。慎みのない衣服を買うとき、すでに慎みのないという罪を犯しているのではありませんか? 最初から罪に抵抗してください。ずっと簡単で、ずっと効果的です。

 聖母への信心は、戒めを守るだけでなく、福音の助言まで守るのに大変力を与えてくれます。主を愛すれば愛するほど、私たちは完全を求めるようになり、福音の助言、つまり清貧、貞潔、従順を実行したくなります。「もし完全になりたいのなら、持ち物を売りに行き、貧しい人々に施しをせよ。そうすれば天に宝を積む。それから私についてくるがよい」(マテオ19章21節)。「処女たちのことについて、私は主の命令を受けなかった。けれども、主のあわれみにより信頼に値する者として私の助言を述べる」(一コリント7章25節)、そしてパウロは主のために処女を捧げてそのままにとどまるよう助言します。「結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために主のことを気遣う」(一コリント7章34節)。従順の助言は、私たちの主イエズス・キリストの模範の中の模範によって与えられています。主は「死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われ」(フィリッピ2章8節)たのですから。結婚の絆のうちに生きている信者でも、福音の助言を尊重する必要があります。これは世の堕落に対して彼らを守るものとなるでしょう。聖母は、この福音の助言の美しい模範です。童貞の中の童貞であって、ベツレヘムで貧しさの中にあり、お告げから十字架に至るまで天主のみ言葉に従順だったのです。今日、司祭職と修道生活への良きかつ聖なる召命が緊急に必要とされています。第二バチカン公会議によって引き起こされた教会の危機は、多くの修道団体に大変な損害を与えました。修道者の数は大きく減ってしまっており、多くの熱心な召命でキリストの神秘体を再び満たしていく必要があります。彼らは、奉献された童貞たちについて聖シプリアヌスが述べたように、「キリストの群れの最も栄光ある一部分」なのです。

 マリア様の聖なる御名に対する大きな愛、童貞マリアに対する大きな愛を持っている人がいるなら、それは聖ヨゼフです。聖ヨゼフほどマリア様の近くにいた人はいませんでした。聖ヨゼフが愛したほどマリア様を愛した愛はありません。素晴らしく純粋な愛で、大変深いものでした。また、聖ヨゼフほどマリア様から学んだ人はいませんでした。沈黙の中で祈り、私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、忍耐をもって貧困や(宿からの)拒絶、エジプトでの避難生活に耐えることを学びました。イエズスを神殿に見いだしたとき、はっきりと謙遜を学びました。聖家族の父でしたが、あえて主を叱ることはなく、主がなぜ(神殿でいなくなるという)そんなことをしたのか聞くことさえしませんでした。聖ヨゼフは話すのをマリア様に任せました。イエズスを神殿で見失ったとき深く悲しむという驚くべき方法で、天主を、私たちの主イエズス・キリストを愛することを学びました。聖ヨゼフと同じようなマリア様への信心を私たちのために取り成してくださるよう、聖ヨゼフに祈りましょう。それにより、聖父と聖子と聖霊と共に永遠に天のふるさとにいることが許されるまで、私たちが、心を尽くし、霊魂を尽くし、力を尽くして私たちの主イエズス・キリストに祈り、主を愛し、主に仕えることができますように。アーメン。

聖ピオ十世会 9月13日主日の大阪での聖伝のミサ報告と ロバート・モーリノ司教様の謝罪

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年9月13日の大阪における聖伝のミサの報告をご紹介します。

 ところで、つい最近、アメリカ、ウィスコンシン州マディソンのロバート・モーリノ司教様(His Excellency Bishop Robert C. Morlino)が、聖ピオ十世会に反対する発言をしたことに対してお詫びをしました。司教様は、インタビューに答えて、聖ピオ十世会は「善意の内に行動しようとしている極めて良い人々」からなる「一つの別の司祭会」(“another priestly society” made up of “very fine people trying to act in good faith”)であると描写し、聖ピオ十世会は、カトリック教会の一部であると誠実に認めています。





 ロバート・モーリノ司教様が聖伝を守る司教だというわけではありません。時々、聖伝のミサを捧げておられるそうですが。少なくとも誠実な司教様です。この、聖ピオ十世会がカトリックであること、カトリック教会の一部であること、をはっきり認めたその事実に、感謝します。何故なら、事実であり、真理を認めることは善だからです。

 ベネディクト十六世教皇様は、かつてこう書きました
「時として、私たちの生きている社会は、少なくとも一つのグループを必要としているように思えますそれにはいかなる寛容も与えられないグループ、これに反対しては平然と憎しみ投げつけることが出来るグループを。そして、誰であれこのグループに敢えて接近するなら、---- 今回は、それは教皇でした ---- その近づいた人も寛容の権利を失い、彼もまた憎しみとともに、畏れも遠慮もなく取り扱われうるのです。」

 ベネディクト十六世隠退教皇様、私にも次のように言うことを許して下さい。

 隠退教皇聖下、私も、聖ピオ十世会の一員として、その憎しみと不寛容をひしひしと体験してきました。とりわけ一部のカトリックの人々から。この身で体験しました。

 隠退教皇聖下、現代、私たちの生きているこの社会が、いかなる寛容も与えられてはならないものは、カトリックの聖伝です。誰であれ彼らに敢えて近づこうとするものがいるとするなら、どんな人でさえも寛容を受ける権利をまったく失ってしまうようなこと、それは、カトリック教会の昔のままの信仰です。カトリック教会の聖伝の信仰です。

 愛する兄弟姉妹の皆様、ではご報告を紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

9月の主日の御ミサの報告をお送りいたします。

9月13日(日)聖霊降臨後第16主日の歌ミサには17人が、
9月14日(月)聖十字架の称賛の歌ミサには12人が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

13日の主日には御ミサの前に「マリア様の御名」について霊的講話がありました。
講話では、「乙女の名前はマリアであった」という福音書の一節を説明したクレルヴォ―の聖ベルナルドの美しいお説教や、どうしてマリア様は私達を助けて下さるのか?どうして私達はマリア様に依り頼む必要があるのか?また、聖ヨゼフ様のマリア様の御名に対する大きな愛をお話頂きました。
イエズス様が「こどもの様にならなければ天の国には入れぬ」とおっしゃった時の、「こども」とはどんな事なのか、この講話を聞いてよくわかりました。

御ミサでのお説教では詩篇に出てくる「新しい歌」の意味を黙想いたしました。
レネー神父様が仰るように、「私達もキリストにおいて、キリストと共に、キリストによって、御父への賛美を聖霊の燃える火の中で歌い」、「この天の聖歌隊に入ることが認められ」「天国で聖母と共にその歌を歌う事のできる恩寵を」マリア様がとりなしてくださるよう願いたいと思います。

14日は、早朝6時半からの御ミサであったにも関わらず、レネー神父様の御意向で、信徒もそう願っていましたが、「聖十字架の称賛」の歌ミサを捧げることが出来ました。
奉献時には聖歌隊の方々が「Stabat Mater」を、ご聖体拝領時には聖木曜日の聖務日課の一節「O Crux Ave」(Plestrina)をポリフォニーで歌ってくださいました。
東京から来られた方もいらっしゃいましたし、車で朝4時に出発して早朝6時半の御ミサに与られた方もいらっしゃいました。
主日のミサのなのに与られた方が少なかったので残念でした。体調がよくなかったり、御病気で御ミサに与ることができない兄弟姉妹の方々が多くいらっしゃったので残念でしたが、コルベ神父様がニエポカラヌフの病気の修道士の方々の事を「宝」と呼ばれたように、私達も病気や高齢を祈りと共に捧げてくださる兄弟姉妹を「私達の宝」としてこれらの方々の為にも御ミサに与りました。

レネー神父様の素晴らしいお説教を翻訳してくださる方々に感謝しつつお説教のアップをお待ちしています。ひとりでも多くの方々がこのお説教を読んで(聞いて)くださり、多くの御恵みを分かち合ってくださることを願います。

【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様
 童貞聖マリアの聖なる御名の祝日おめでとうございます!
 私のためにお祈りをありがとうございます。
 今月はマリア様のすべての祝日(8日聖母のご誕生、12日マリア様の聖名、15日聖母の7つの御苦しみ、24日贖虜の聖母)と29日大天使聖ミカエルの祝日が偶然にも休みに当たりました。休みには平日よりさらにロザリオの祈りと主のご受難の黙想をしています。
 祝日に仕事が休みになったのは、時が近いのでよく準備をするようにとマリア様が特に祈りに招いてくださっているのだと思います。

 私が与ることのできなかった8月15日や16日のごミサの様子や、シュテーリン神父様の講話をCredidimus Caritatiで視聴できますのでとても嬉しく思います。
 また年間を通して東京や大阪でのごミサやお説教の様子をお知らせくださることを感謝いたします。
 初土曜日の信心について、シュテーリン神父様のお話しに勇気づけられました。私は毎回ごミサに与ることができませんので、告解もご聖体拝領もできず、初土曜日の信心を、本当の意味で行うことができないと思っていました。しかし、毎日罪を痛悔し霊的聖体拝領をします。それによってマリア様への信心を果たすことができるとお聞きして、とても喜んでいます。
 もはや自分が生きるのではなく、マリア様ご自身に生きていただき、一瞬一瞬十字架のイエズス様と一致して生きたいと希望しています。主と聖母のご光栄と自他の救霊のために。

 私は8月15日聖母被昇天の大祝日に無原罪聖母の騎士とならせていただいて以来、毎日幾度となく奉献文を唱えています。残された生涯をマリア様の勝利のために使い尽くしたいです。私のためにお祈りください。


「主に新しい歌を歌え!」 聖ピオ十世会 聖伝のミサ レネー神父説教 2015年9月13日 SSPX Japan

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

  レネー神父様が2015年9月13日の主日の聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「Cantate Domino canticum novum, quia mirabilia fecit Dominus ! 
主に新しい歌を歌え、主は不思議を行い給うた!」

親愛なる兄弟の皆さん、

このきょうのアレルヤ誦の歌詞の中で、私たちは、新しい歌で天主への賛美を歌うよう強く勧められています。このことは、古い歌がすでにあったものの、今は新しくてもっと良い歌うべき歌があるということを暗示しています。最初の歌は創造の歌であって、創造において天主がなされた驚くべきことについて天主を賛美します。新しい歌は贖いの歌であって、贖いにおいて天主がなされたさらに驚くべきことについて天主をより一層賛美します。

実際、天主は人間を創造され、人間を「創造の司祭」として、すべての物質的被造物の頂点に置かれました。天主から来るものは天主に帰るべきです。しかし、天主には私たちが必要ではありませんし、創造の必要もありません。天主は絶対的に完全ですから、天主がまだお持ちでない何かを私たちが捧げることができるでしょうか? 被造物が天主に捧げるものは「賛美」です。たとえば、天主が完全であることを認めること、天主を全善の至高なる源として認めること、天主の知恵や力、善、この最も偉大なる芸術家について証言することです。このように、天主が創造において置かれた美を黙想すれば、すなわち、夕日や虹の素晴らしさから花の繊細さまで、銀河の力強さから小さなコアラの優しさまで、雷の力から鳥の甘い鳴き声まで黙想すれば、人は大声で叫ぶのです。「われらの主よ、天主よ、地に満ち満ちるみ名のその偉大さ。天上にあるその威光」(詩篇8章2節)。「主のすべての御業よ、主を祝せよ、主をほめ、代々にたたえよ」(ダニエル3章57節)。「日と月よ、主をほめよ、輝く星はみな主をほめよ」(詩篇148章3節)。これが「創造の歌」です。

地上での人間のすべての活動は、天主への賛美に向かうべきであり、私たちが天主からお受けした恩恵をすべて、このようにして天主に帰すのです。ですから、修道院で多くの霊魂が天主への賛美のためにその全生涯を奉献するのは良いことです。この奉献生活において、詩篇を歌いながら、まことに天主のために生きるのです。司祭もまた、「聖務日課」によって天主に賛美を捧げます。これが、エデンの園におけるアダムとエバの主な活動でした。そうすることで、人間は天主への感謝という使命を果たし負債を返し、また、永遠の生命に入る準備をします。つまり顔と顔を合わせて天主を黙想できるようにし、人間の言葉で表せない無限にすぐれた方法で天主の素晴らしさを歌うことができるようにするのです。そして、それが永遠の喜び、永遠の至福となるのです。

しかし、この「創造の歌」を忠実に歌うことによって天主に帰る代わりに、人間は罪に落ち、被造物を創造主に帰るために使わずに、被造物に究極の目的を置いたのです。天主を忘れ、究極の目的として地上のものに愛着したため、人間は自分のための富や楽しみ、権力を蓄積することを追い求め、もはや天主に仕えることをしませんでした。罪は地上の生き物に、特に人間に、無秩序、悪を招き入れました。天主は、悪が広がるのに任せたり、悪に最終決定権を持たせたりするつもりはありませんでした。ですから、天主は償いを要求することによって正義の秩序を回復させました。しかし、建て直すよりも破壊することの方が簡単です。堕落することはできた人間ですが、自分で立ち上がることはできませんでした。人間は、天主がお与えくださった霊的な命を殺すことはできましたが、自分で命に帰ることはできませんでした。そのため、天主はその無限の御あわれみによって、すべての創造を合わせたもの以上の美しい御業を考案されました。贖いの御業です。

天主の栄光を回復させるため、堕落した人間、罪深い人間を癒やすため、人間を命に戻すため、天主は世の救い主として御独り子を送り、私たちの罪と全世界の罪の償いを御子に支払わせ、恩寵によってこれらの霊魂を癒やし、私たちを天主の子として養子にしようと決心されました。御托身と贖いほど、素晴らしい天主の愛を証明するものはありうるはずがないのです。「天主は御独り子を与え給うたほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主のその御独り子を世に遣わされた。それは私たちをみ子によって生かすためである」(一ヨハネ4章9節)。「主が私たちのために命を捧げられたことによって、私たちは愛を知った」(一ヨハネ3章16節)。

この驚くべき天主の愛は、罪びとをさげすむことなく、身をかがめて罪びとを罪のみじめさから引き上げて癒やし、天主の子という驚くべき状態に高めてくれます。この愛は「天主の御あわれみ」です。天主は無限にあわれみ深く、私たちを救うために御独り子を送られることによって、その御あわれみを人間に向けることを明らかにされました。私たちが天主の御あわれみを黙想すればするほど、私たちは大声でこう叫ぶはずです。「主の御あわれみを永遠に歌おう」(詩篇88章2節)。これが「贖いの歌」です。これは幼きイエズスの聖テレジアの自伝にある最初の言葉です。聖テレジアは天主の御あわれみを理解していました。「私は自分の命にかけて言う―主のお告げ―。私は、悪人の死ではなく、むしろ、悪人がその道を改めて生きるようにと望む悪人たちよ、生き方を変えよ。なぜ、死を望むのか、イスラエルの家よ」(エゼキエル33章11節)。罪がいかに大きくあろうとも、天主の御あわれみはさらに大きいのです。天主は、罪びとを改心させ、彼を命へと戻すことがおできになるし、そう望まれます。

天主は、この私たちの改心を望まれるだけでなく、罪びとが罪から立ち帰るよう助けてくださいます。どのようにしてでしょうか? まず第一に、天主は罪びとの罪の負債、償いを支払ってくださいました。そうすれば、罪びとの心はそういう恩人に引きつけられます。犯罪者が隣人の家に火をつけたとしましょう。もちろん、彼に家を建て直す資金はありません。彼は投獄されます。さて、誰かがやって来て、家を建て直す代価を支払い、そうすることでこの囚人に自由を得させるとしましょう。この犯罪者はこの恩人に感謝するのではありませんか。私たちは、自分の罪によってこの犯罪者であったのです。天主を賛美しないことによって、被造物を乱用することによって、私たちは支払うことが不可能な負債をこうむっていたのです。キリストが私たちの負債を支払ってくださいました。私たちは永遠にキリストに感謝しなければなりません。天主がこのことを私たちに理解させてくださるとき、天主は私たちの心を引きつけて天主に帰らせてくださるのです。

私たちが攻撃していた天主、その天主の善を、私たちが一旦理解したならば、私たちはマリア・マグダレナのように行動しなければなりません。罪を嘆き、罪の悔い改め、罪を忌み嫌い、「痛悔」によって私たちの罪深い心を砕かなければなりません。罪を忌み嫌わなければ、天主へのまことの愛はありません。罪を忌み嫌わない人は、まことに天主を愛するとどのようにして宣言できるのでしょうか。罪を忌み嫌えば必ず、生活を本当に改めます。つまり過去の罪の悔い改めをし、将来の罪の機会を避け、それを避ける手段を取るのです。祈りや黙想、公教要理の勉強、そして善業を、まことに日常的に行うのです。また、私たちの主イエズス・キリストがあらゆる方法で私たちを助けてくださいます。あらゆる徳の究極の模範として、最初に私たちのために十字架を担われたことから、この悔い改めの道で私たちを励ましてくださるだけでなく、この悔い改めの道で私たちを内的に強めてくださいます。これは「清めの生活」であり、霊的生活の第一段階です。ここで中心となるのは罪を避け、過去の罪を償うことです。そのとき、主を畏れることは、主をお喜ばせしないあらゆることを避けるのに大きな助けとなります。まさに知恵の始めです。このように、マリア・マグダレナのように、天主の愛を理解し、天主へ立ち帰ることを望む罪びとは、罪を嘆きながら強い痛悔の心をもって、また罪とその機会を絶対に避け、それらを避ける手段を取るという固い意志と決意をもって、私たちの主イエズス・キリストのところに行かなければなりません。例えば、テレビが罪の機会であるならば、それを取り除いてください。ためらってはいけません。「またもしその目があなたに罪を犯させるならそれを抜き取れ、片目で天主の国に入るのは、両眼があってゲヘナに投げ込まれるよりもよい。そこではうじは失せず、その火は消えぬ」(マルコ9章46-47節)。

良い告白とまことの悔い改めによって一旦罪から解放されたなら、その霊魂は今や自由に「贖いの歌」を歌います。すなわち、私たちの主イエズス・キリストへの愛から来る徳を実践しようと努め、主をまねて、いつも主のことをもっと知ろうとします。これは「照らしの生活」です。ここでの霊的生活の中心となるのは、黙想することとあらゆる善業を実践することを通して、私たちの主イエズス・キリストをより一層知り、愛することです。これは、もう悔い改めをしないということではありません。それどころか、私たちの主イエズス・キリストを知れば知るほど、愛すれば愛するほど、過去の罪を忌み嫌い、その償いを行い続けるのです。しかし、これらはもっと易しくになります。それはこの霊的生活の第二段階には愛がさらに多くあるからです。ですから、天主の愛はあらゆる徳を行うのを易しくするのです。

この徳と善業の生活において忍耐によって、「一致の生活」へ到達します。霊的生活のこの第三にして最高の段階は以下の通りです。中心となるのは、生活のあらゆる面を愛が統治することによって、私たちの主イエズス・キリストにおいて、いつももっともっと深く天主と一致することです。祈りはさらに単純で深くなり、徳はさらに強く完全になり、正しいことをするよう注意を払うだけでなく、天主の純粋な愛に到達しようとして、動機を純粋にするよう注意を払います。いつものことながら、そのような深い霊的生活はまた、より大きな十字架を担います。そこにおいては、他の多くの人々の改心を得るために、キリストと共に贖いの神秘に入るのです。これが地上における聖人の生活であり、差し迫った天国への準備なのです。

第一のアダムは「創造の歌」を上手に歌い始めましたが、その後、みじめにも堕落し、そのすべての子孫を自分の堕落へと引き込みました。教会の教えによると、第一のアダムは悔い改めて「贖いの歌」を痛切に歌い、新しいアダムが彼、第一のアダムが引き起こしたダメージを癒やし、修復させるのを待ちました。新しいアダムがやって来て、「創造の歌」と「贖いの歌」を最も完全に歌いました。しかし、さらに高貴であることには、彼は永遠のみ言葉として、御父を永遠に賛美する完全な歌なのです。私たちの地上におけるあらゆる歌は、かすかなこだまに過ぎないのです。天の聖人たちになれば、この永遠の歌を聞くことでしょう。これは、聖人たちの永遠の至福となるでしょう。聖人たちはこの永遠のみ言葉、私たちの主イエズス・キリストと一致し、キリストにおいて、キリストと共に、キリストによって御父への賛美を聖霊の燃える火の中で歌うのです。私たちが、この天の聖歌隊、天のオーケストラに入ることが認められますように。そこでは、聖パウロの次の言葉が完全に成就するのです。「キリストのみ言葉をあなたたちの中に豊かに住まわせ、すべての知恵によって教え合い、戒め合い、心の底から、恩寵によって詩の歌と賛美の歌と霊の歌をもって天主をことほげ」(コロサイ3章16節)。

地上において最も喜びに満ちた声でこれらの歌を歌われた童貞聖マリアが、天国で聖母と共にその歌を歌うことのできる恩寵を私たちのために取り成してくださいますように。アーメン。

2015年の残りの聖伝のミサの予定 SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年の残りの聖伝のミサの予定は次の通りです。

 10月の予定は、次の通りです。
 大阪の初土曜日のミサは10月以降、次のように時間が変更になりました:午前11時 => 10時半開始
 大阪の月曜日のミサも、レネー神父様の飛行機の都合で、10月以降午前6時半となりました。
 よろしくお願いいたします。

10月02日(金)大阪 午後05時30分 初金のミサ
10月03日(土)大阪 午前10時30分 初土のミサ
10月04日(主)東京 午前10時30分 聖霊降臨後第19主日
10月05日(月)東京 午前06時15分【!】司祭黙想会に参加するために早朝のミサとなります。ご了承お願いします。

10月25日(主)大阪 午後06時30分 王たるキリストの祝日【!】司祭黙想会のために予定が、最終主日に変更になりました。ご了承お願いします。
10月26日(月)大阪 午前06時30分 


 11月の予定は、次の通りです。(11月については変更がない予定です。)

11月06日(金)大阪 午後05時30分 初金のミサ
11月07日(土)大阪 午前10時30分 初土のミサ
11月08日(主)東京 午前10時30分 聖霊降臨後第24主日
11月09日(月)東京 午前07時00分 

11月15日(主)大阪 午後06時30分 聖霊降臨後第25主日
11月16日(月)大阪 午前06時30分 


 12月の予定は、次の通りです。

12月04日(金)大阪 午後05時30分 初金のミサ
12月05日(土)大阪 午前10時30分 初土のミサ
12月06日(主)東京 午前10時30分 待降節第2主日のミサ
12月07日(月)東京 午前07時00分 

12月13日(主)大阪 午後06時30分 待降節第3主日のミサ
12月14日(月)大阪 午前06時30分 

12月24日(木)大阪 午後06時30分 ミサ聖祭 御降誕祭の前日
12月25日(金)大阪 午前00時   クリスマスの真夜中のミサ、
          午前09時   クリスマスの暁のミサ
          午前10時30分 クリスマスの日中のミサ
12月26日(土)大阪 午前10時30分 最初の殉教者聖ステファノのミサ
12月27日(主)東京 午前10時30分 クリスマスの八日間内の主日のミサ

 来年1月の予定は、次の通りです。

12月31日( 木 )大阪 午後06時30分 聖シルベステルのミサ
01月01日(初金)大阪 午前10時30分 新年の初金のミサ
01月02日(初土)大阪 午前10時30分 新年の初土のミサ
01月03日(主日)東京 午前10時30分 イエズスの聖名の祝日
01月04日( 月 )東京 午前07時00分 

 来年の聖週間は、出来れば、聖ピオ十世会日本での聖週間を期待していたのですが、来年も今年と同じとなる予定です。日本でますます多くの聖伝のミサを捧げることが出来るように、聖母の汚れなき御心にお祈りをお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会 シノドゥスのための特別の祈りの呼びかけ 9月26日から10月5日まで

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アジア管区のシュテーリン神父様は、聖ピオ十世会フランス管区の祈りへの呼びかけをアジア管区にも広げることをお望みです。
アジア管区では、今日9月26日から10月5日までの一週間を特別の祈りの期間とします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会フランス管区長の声明

数日後に家族に関するシノドゥスが始まります。最初の総会で取られた方針や、参加者の発言の数々、この第2総会のための準備文書を見ると、私たちは教会にとっての大きな危険を恐れます。第二バチカン公会議とそれに続いた改革後の信仰の崩壊の次に、今度は教会が常に教えてきた道徳の法に対する挑戦がなされています。ここ数ヶ月の間、警告の声を上げてきた司教らや枢機卿たちもいます。

 このような霊魂と社会との危険に直面しながら、私たちは受け身でいることが出来ません。私たちは天主に、聖なる教会を憐れんで下さるようにこいねがわねばなりません。これが理由により、私は聖ピオ十世会の信徒の方々と会員たちに、9月26日から10月3日の1週間、

-家族で、あるいは、私たちの教会・小聖堂で、教会が悲惨な状況に陥ることから守って下さるように、聖母にロザリオを祈ること。

-更に、出来るところでは、この一週間の一日、祭壇の上に御聖体を顕示して聖週間、あるいは徹夜の祈りをすること。

-この一週間の間、全ての困難に対するため“pro quacumque tribulatione”の集祷文を、その日のミサの集祷文に付け加えること。

-私たちの主がご自分の代理者である教皇を見守り、教皇が教会の敵の勢力のもとに陥らないように、上記の祈りに償いを加えること。


教会のよき子供として、この呼びかけに寛大に答えましょう。聖霊が、シノドゥスの参加者たちを照らし、信仰において教皇を強めて下さいますように。

“Ut Domnun Apostolicum et omnes ecclesiasticos ordines in sancta religione conservare digneris, te rogamus, audi nos..”
願わくは、教皇と教会聖職位階の全てを、私たちの聖なる宗教において維持し給わんことを。我らは御身に懇願し奉る、我らの祈りを聞き給え。-- 諸聖人の連祷より

クリスチャン・ブシャクール神父 
聖ピオ十世会フランス管区長

2015年9月27日


無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア ファチマ100周年に向けて

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。「無原罪の聖母」とは何か、「騎士」とは何か、そして「無原罪の聖母の騎士」とは何か、を順を追って黙想します。

 「無原罪の聖母の騎士」は、無原罪の聖母の唯一の望みを実現させようとそのことだけを望みます。すなわち、霊魂の救いです。霊魂を天国に導くことです。救霊です。

 ファチマの聖母マリア様の言葉がこだまします。「本当に多くの霊魂が、永遠の滅びに行っています。何故なら、彼らのために祈り、犠牲を捧する人が誰もいからです!」と。

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。そこで、天使たちの子供たちへの前触れの御出現について黙想させます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第8号―アジア

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

無原罪の聖母の騎士会を設立したとき、聖マキシミリアノ・コルベは、この会を他の信心会や第三会、マリア運動などと比較されたいとは思いませんでした。これらの信心会や団体は、会員に一定の祈りや信心業、具体的な使徒職を義務付けています。無原罪の聖母の騎士会の義務は、他の会より少なくもあり、多くもあります。

少ないというのは、一日に射祷を一回することと不思議のメダイを身に着けること以外に、騎士たちにはほとんど何も義務付けられていないからです。怠っても罪に定められてさえいません。

多いというのは、騎士たちは、いつでもどこでも従うべき大きな理想、新しい生活の法を与えられているからです。カトリック信者は、自分が正確に何者なのか、何者であるべきかということについて、深い理解力を受けています。つまり、個人的に祈るだけでなく、自分自身の救いのみを気にかけている個人主義者でもなく、戦闘の教会のメンバーの一人、私たちの主の弟子の一人でもあり、短い一生のうちに達成すべき非常に特別な任務を受け、イエズス・キリストの王国を拡張するために働きかつ戦う者という理解です。また、イエズス・キリストがその御母を、「キリスト教徒の軍隊の最高司令官」「黙示録の婦人」として任命なさったのであり、御母だけが龍と獣に対抗して立ち向かい、御母だけが「龍の頭を砕」き、「世のすべての異端を滅ぼす」との約束お受けになったのですから、聖母に自分を捧げ、聖母に奉仕する者となり、聖母のご意志を成就させ、聖母の子ども、奴隷、道具、兵士、使徒、軍団兵、騎士となるならば、カトリック信者だけが戦闘の教会で自分の役割と任務を果たすことができるのです。

朝目覚めるとき、皆さんは「私は何者だろうか」と自問します。その答えはこうあるべきです。「カトリック信者であり、無原罪の聖母の騎士である!」。そして、「きょうは何をすべきだろうか」と自問するとき、その答えはこうあるべきです。「私は、この一日のあらゆる小さなことに至るまで聖母の道具であり、だからきょうも、私たちの主の誉れのために、多くの霊魂の救いのために戦う。このようにして、私はわが主のこのご命令を達成しよう。『私があなたたちを愛したように、…あなたたちに模範を示したように、すべてを超えて天主を愛し、互いに愛し合え!』」。この考えが皆さんの霊魂に深くまで入れば入るほど、知性や心、意志、感情に浸透すればするほど、思考や言葉、行動に浸透すればするほど、朝から晩まで影響を与えれば与えるほど、皆さんはどんどん深く無原罪の聖母の騎士になっていくのです!

騎士になるためには、自分の人生の新たな法としてこの素晴らしい考えを受け入れようという意志を持てさえすれば(これが奉献の祈りです)十分です。(できるなら)少なくとも一日に一回はそれを思い出し、少なくとも一日に一回は聖母が霊魂を救う手助けをする聖母の道具として何かをすること、それが射祷一回だけであっても十分です。そうすると、皆さんは少なくとも一日に一回、本当に価値のある永遠のこと、天主をお喜ばせすることをしたことになるのです。少なくとも一日に一回、皆さんは自分の指を聖母に差し出したことになるのです。その小さな手ぶりは聖母に忘れられることはなく、しばしば聖母は、あわれな罪びとをその愛すべき御心に引き寄せて、罪びとに罪をやめさせ、聖性を成長させる機会をお与えになると、私たちの聖コルベは約束します。

しかしながら、無原罪の聖母がその子どもであり騎士である者に、さらにもっとお与えになるのは明らかです。事実、私は、自分の短い人生において、聖母の御手の道具としての役割についてもっともっと理解を深めています。ですから、それについて(これから)もっともっと考えるようになるでしょうし、聖母が人間をまことに幸福にし、サタンの支配から人間を解放するのをもっともっとお助けしようするでしょう。自分が無原罪の聖母の騎士であるとの思いは、何か私の活動の駆動装置、意欲の源のようであり、私の霊魂に隠された潜在能力や力強さ、才能を目覚めさせてくれ、少しずつ私の人生を変えていってくれます。そのうち、心が狭く、自己中心的で、怠慢で、退屈した、無関心なキリスト教徒は、理想に満ち、目に愛の炎を燃やした人間、霊魂の狩人となるのです。これこそがまさに、無原罪の聖母の騎士の歴史であり、その驚くべき成功の秘訣なのです。

1917年から1974年まで、この新しい命の法によって霊感を与えられた何百万もの素朴なカトリック信者が完全に別の人に変わって聖母の熱心な兵士となり、百人以上の福者や聖人、何千人もの英雄的霊魂が東ヨーロッパの無神論的共産主義国家において、天主の権利のために戦って命を捧げました。また、全世界の人々をカトリックの真理へと回心させた数えきれないほどたくさんの聖母の騎士もいました。

皆さんは、ご自分の「新しい名前」である「無原罪の聖母の騎士」という名前について黙想するだけで、この「新しい生活の法」を思い出すでしょう。その中にはすべてのものがあるのですから。

1.中心となる言葉は「無原罪の聖母(インマクラータ)」です。聖母なしではカトリック信者ではありえません。

「無原罪の聖母よ、あなたは何者でいらっしゃるのですか」。この質問を一分間黙想するならば、皆さんの地平は無限に開かれるでしょう。天主の御母、キリストの御母であるという聖母の第一にして主要な特権、それによって天主は天国から地上へこられ、それによって私たちは地上から天国へと戻ること。罪のしみもなく、いとも純粋で、聖寵充ち満てる無原罪の聖母。天主の完全な傑作であり、それに比べればすべての被造物はちりの如きもの。「ああ、無原罪の聖母、天と地の元后」。サタンの頭を踏み砕き、その御心が最後に確実で全面的に勝利する黙示録の女性。そして、「私たちを大変愛してくださる御母」。私たちの拠り所、天主へと至る私たちの道、私たちの希望、私たちの喜び! 地上で頼りになる唯一のもの。その中でイエズスの聖心が輝くマリアの汚れなき御心と、この二つの御心に天主の充満をもって浸透していく愛の炎。聖霊! 無原罪の聖母、いとも聖なる三位一体の御聖櫃、天主が私たちに与えようと望まれるまったくすべてのもの。すべては聖母を通して私たちにやって来ること。

2.第二の言葉は皆さんに関係があります、つまり「騎士」です。私は騎士である。それはどういう意味でしょうか。

まず第一に、それは軍事に関係する用語であり、戦いという現実、危険な敵という現実を示しており、地上で生きることは二つの絶対的に敵対する勢力の間の戦争であり、真理と誤謬、光と闇、愛と憎しみ、幸福と不幸、天国と地獄、まことの教会と偽りの教会、キリストとサタンの間の戦争なのだということを思い出させてくれます。

第二に、騎士とは、単なる兵士よりも更なる存在です。騎士の心は素晴らしい目標で燃え上がっています。そのために戦い、命を捨てる用意があり、戦いの良き理由について納得し、率先して戦い、休息を知りません。騎士は高貴な心、勇敢な心を持っています。騎士は素晴らしいもののために戦い、狭量ではなく、決して怠けることなく、臆病者ではありません。中世の騎士の歴史は、これの良い実例です。

第三に、誰も自分を騎士とするのではなく、長上によって、しばしば王自身によってそう叙任されます。これは大きな特権です。中世には、自分がその名に値することを多くの努力や証拠で証明しなければなりませんでした。ですから、騎士の素晴らしい徳は、勇気と感謝、王に全面的に奉仕すること、あらゆる状況下で信頼されることです。完全であること、誠実であること、度量が大きいこと、寛大であることです。

私とはなんと対照的でしょうか。私はしばしば怠惰であり、怠慢であり、無関心であり、目的も理由もなくあらゆる場所をうろつき、あらゆる種類の幻影の餌食であり、野性的な感情を持ち、宣伝と世論の餌食なのです。ちっぽけな楽しみや面白い体験を探し求めて貴重な時間を浪費し、体と霊魂を駄目にし、多くの偽りの友人たちによって心が荒廃させられるのを許しているのです。

しかし、違う見方や意欲からであっても、天主が私にそうなるよう望まれるもの、天主がマリア様を通して私にそうなるようお求めになるものがあります。それは、私が英雄的に行動するために創造されたという永遠の運命を持ち、立派で、高貴なものとなることです。

3.第三の言葉は、前の二つの言葉を合わせたものです。つまり、「無原罪の聖母の騎士」です!

私は聖母のおかげで存在します。聖母が私をお選びになったという現実の中で、聖母の騎士になることに同意するときでさえ、聖母は私の改心と聖母の呼びかけに応える心を準備してくださいました。

私は聖母のために存在します。私が戦う高貴な理由は、聖母の名誉です。聖母は私を汚れなき御手の道具として、失われた子どもたちを誤謬と罪の牢獄から救うために世に送ってくださり、その結果、聖母は彼らを悪魔の鎖と永遠の破滅から解放してくださるでしょう。私のこの短い人生において、聖母は私にほとんど限界のない任務を与えてくださいます。私の人生の残りの貴重な時間を、無限の報いを勝ち取るために、聖母を通して世を征服するために使うのか、使わないのか、すべては私にかかっているのです。(不滅の霊魂一つ一つは、物質の世界全体以上のものです。)

聖母の素晴らしい望みが私の望みになるべきです。「私に子どもたちを返してください。子どもたちを光そして恩寵に連れていかせてください。でも私には道具としてあなたが必要です。あなたは、小さな祈りを通して子どもたちのところへ行きます。あなたは犠牲を通して子どもたちの霊魂に準備させます。あなたは彼らに近づいて、私の不思議のメダイ、私の言葉、私の忠実な奉仕者たちの言葉を与えます。あなたは彼らに私の奇跡と愛を語ります。すると、私はあなたが私と彼らの間に造った、それらすべての小さな架け橋を使って、彼らを改心させ、彼らを私の子のところへ返すためにやって来るでしょう。」

無原罪の聖母の騎士会が聖伝のカトリック信者の中に再び設立されるのを、天主の御摂理がお許しになったのなら、私たちには新しい自分が与えられるか、あるいは自分を取り戻させてもらえることになるでしょう! 私たちは自分を限定し過ぎていませんか? 私たちは、自分が受けた莫大な宝に対して、もう感謝していないという危険な状態にありませんか? 若者たちは宗教を担わなくなり、この世に満ちあふれた楽しみ、映画やゲーム、面白いことにもっと興味を持っているのではありませんか? 自らを「レジスタンス」として自画自賛しつつ「信仰を保全する」という名で自らの小さな個性や新奇性を褒めたたえているだけの人々と戦うというくだらないことに全時間を費やしてしまい、私たちは霊的な力強さを失いつつあるのではありませんか? 私たちは、自分たちの霊感や見方以外に規則のない状態で、小さな心地よい生活に閉じこもるという危険にあるのではありませんか? 私たちは、自分たちの望むことを行うだけで、「何者にも依存しない」ことが多すぎたり少なすぎたりしつつあるのではありませんか? その結果は、完全に自己を喪失してしまいます。

でも、無原罪の聖母ご自身が私たちを目覚めさせるために来られます。愛する子よ、今こそ来て、私の仕事をしなさい。あなたは、私が誰だか知っており、私に祈り、信仰を保つ人々のうちの残されたごくわずかな人々に属しているのです。あなただけのところに私は訪れることができ、あらゆる時代の中で最悪のこの時代に、私が霊魂たちを救うのを助けてくれるようお願いするのです。ですから、あらゆることやあらゆる人についての不毛なコメントや判断で、あなたの時間を無駄に使わないでください。インターネットで出回っているあらゆる意見や発言を読むことで、時間を無駄に使わないでください。政治のことは政治家に任せ、バチカンとの議論は聖ピオ十世会の長上に任せてください。そしてあなたは、自分のすべき仕事をしてください、と。

自分の不滅の霊魂を救い、他の多くの人々を救うのを助けるという、自分自身を取り戻してください! あなたは私の子であり、私はあなたの母なのですから、私だけがあなたに自分自身の感覚を取り戻させることができ、あなたを守ることができます。そうすれば、あなたは自分自身を緩めることはないでしょう。ですから、私のところへおいでなさい。私にあなたをカルワリオに連れて行かせてください。あなたの冷えた心は、あなたのためにその御血を捧げた私の子へのさらに多くの愛で鼓動するようになるでしょう。おいでなさい。私は、あなたが受けた信仰の驚くべき神秘すべてについて、あなたに黙想させてあげます。おいでなさい。私はあなたを私の道具にしてあげます。そうすれば、あなたの生活はもう一度素晴らしいものになるでしょう。そして、あなたが毎日従事している本当に平凡なことが、あなたが地上でできる最上のこと、不滅の永遠の宝を獲得することの重要な手段となるでしょう。「本当に多くの霊魂が永遠の滅びに行くのです。彼らのために祈ったり、犠牲を捧げたりする人が誰もいないのですから!」

皆さんが聖母の騎士であろうとすればするほど、皆さんは霊魂に平安が、心に喜びが、精神に光が増していくのです! 皆さんは、自分が何者か、自分の目標が何であるべきかという、自分自身をいずれ見つけていることでしょう!

皆さんもお分かりでしょうが、小指を聖母に差し出せば、今度は聖母から本当に信じられないほどの多くのものを受けます。すべての信者が自分を騎士として聖母に捧げれば、聖母はそれらの信者の信仰をさらに深くしてくださり、私たちの主のあの御言葉が私たちの中で実現することになるでしょう。「必要なことは唯一つ、まず天主の国を求めよ、そうすれば、すべて他のものは与えられる。」


2015年9月11日、シンガポールにて、
カール・シュテーリン神父



ファチマ2017年へ向けて

私たち無原罪の聖母の騎士は、無原罪の聖母の騎士会設立100周年と同様に、ファチマの聖母のご出現100周年を記念する準備をしたいと望んでいます。可能な限り多くの霊魂を聖母の足元に連れて行き、聖母の汚れなき御心の凱旋のために、黙示録の女性の龍やその獣に対する勝利のために戦う小さな軍隊にしたいと思います。

無原罪の聖母の騎士として、私たちは、無原罪の聖母の騎士会の会則に従って生きなければなりません。ですから、私たちは、聖母がその道具である聖マキシミリアノ・コルベを通して私たちに行うよう命じられたことを知らなければなりません。そのため、一人一人の騎士は「無原罪の聖母、私たちの理想」という本を読み、黙想すべきです。この本は、騎士会の精神、目的、意味のすべてを説明しています。

ファチマの使徒として、私たちは、人々の救いを確実にするために彼らを私たちの主のもとに連れて行くことができるのと同様に、聖母がファチマで三人の子どもたちに与えられたご要望にお応えし、それを広めるようにしなければなりません。ですから、私たちは、その後の世界へ聖母の素晴らしいメッセージを伝えるために選ばれた三人の生涯やメッセージと同様に、ご出現の正確な歴史と聖母の言葉や行いを知らなければなりません。

まず第一に、ファチマのご出現とは何なのかを定義しなければなりません。

ファチマは、1915年に、一つの前触れで始まります(後述参照)。1916年にルチア、フランシスコ、ヤシンタは、春、夏、秋の3回、天使の出現を受けました。1917年には聖母が5月13日から10月13日まで6回、8月を除いてコバ・ダ・イリアと呼ばれる場所で彼らにご出現になりました。8月のその日には、子どもたちは牢に入れられており、ご出現の場所に行くことができなかったのです。しかし、8月19日に聖母はバリンホスと呼ばれる場所で彼らにご出現になりました。7月13日に聖母は、汚れなき御心への信心を確立するため、またロシアの奉献を求めるため、あと2回来ることを約束されました。1925年12月10日には、聖母はポンテベンドラで、1929年5月13日にはトゥイで、修道女志願者となったルチアにご出現になりました。ヤシンタとシスター・ルチアは、個人的な恩恵のため、他にもご出現を受けました。シスター・ルチアは主と聖母からいくつかの啓示を受けました(ビジョンではなく内的な声のようです)。そのとき主と聖母は、汚れなき御心への信心を実践することについての質問に答えられました。

ファチマの全メッセージを理解したいなら、天使の3回の出現と聖母ご自身の8回のご出現について詳細を知っていなければなりません。聖母のお求めに対する信頼できる答えとしてファチマの子どもたちの生涯や行動を考察するのと同様に、彼らが語った主要な言葉を集めることもまた最重要です。私たちがファチマのメッセージを生かすため、本物のファチマの使徒になるため、子どもたちは、このようにして私たちの案内役になるのです。


1915年

ファチマの歴史には、1915年に興味深い前触れがあります。ルチアの初告解の日、ルチアは教区の教会にあるロザリオの聖母の御像の前でひざまずいていました。「私の霊魂の情熱すべてをもって聖母にお願いするため、私のあわれな心が天主のことのみに向けられるためです。目を御像に向けて、この謙遜の祈りを何度も繰り返していると、聖母がほほ笑まれたように見えました。また、愛にあふれた視線と優しい動きがあり、聖母がそうなさったのだと確信しました。私の心は喜びに満ちあふれ、ほとんど一言も発することができませんでした」。初聖体のあと(ルチアは8歳でした)、家の羊の世話を引き受けました。ある日、3人の少女と一緒に、羊に草を食べさせるために塀で囲まれた牧草地に入っていきました。「お昼ごろ、昼食を食べました。そのあと、仲間と一緒にロザリオを祈ることを提案し、みんな熱心に賛成しました。私たちが祈りを始めるやいなや、目の前で、木々の上の空中に止まっている人物が見えました。雪でできた像のようで、太陽の光でほとんど透明になっていました。『あれは何?』と仲間たちは尋ね、非常に怖がっていました。『分からない』。私たちは、前にいるその像をじっと見ながら祈りを続け、祈りを終えたとき、その像は消えました」。このご出現は2回ありました。のちにルチアは説明しました。「このご出現は私に強い印象を与えましたが、どう説明していいのか分かりません。少しずつ、この印象は弱まっていき、それに続く出来事もありませんでしたから、私はそれを完全に忘れてしまっていたと思います」

これらの無言の天の介入の意味は何でしょうか?

第一の意味。天主が人間の中で偉大なことを成し遂げようとなさるなら、天主の適切でふさわしい道具となるよう、選ばれた人々に準備をさせるのがいつものことです。ルチアは小さな子どもでしたが、しっかりとした常識があり、大変素朴な霊魂でした。しかしルチアは、特別な生活を送るために選ばれたのであり、その生活を送るには英雄的な謙遜と非常に苦しむ用意のある深い愛が要求されるのです。

この特別な任務には特別な恩寵が必要です。聖母のほほ笑みはその最初の段階であり、超自然の世界との圧倒されるような接触でした。そのような「接触」は、霊魂を強く聖化するのです。天使が現れれば、この超自然の世界の素晴らしさを理解させてくれ、それが霊魂に深い「印象」を与え、大変素晴らしいため、人間の言葉では説明できないのです。

第二の意味。これらのご出現のあと、小さなルチアの最初の苦しみが家族からやって来ました。以前は、ルチアは大切な「かわいい子」でした。今は、「幻視すること」、天の秘密を聞く役目が、いかに大きな犠牲を払うことになるのかを学ばなければなりませんでした。それによって得になることはなく、また自分がたたえられたり褒められたりすることはなく、子ども時代を幸せにしてくれるすべてのものを失いました。母や姉妹たちから批判の言葉を聞いて、ルチアは書きました。「人をばかにしたこれらの言葉や動作を私は鋭く感じ取り、今に至るまで抱擁を受ける以外は何も知りませんでした」

私たちのための教訓

これらの言葉のない前触れは、重要な教訓を私たちに示しています。

第一の教訓。大きな出来事が起ころうとしているなら、天主が準備してくださいます。天主は使者や天使、聖人を送って、人々を将来下される恩寵を受け入れられるよう(私たちの心を)開いてくださいます。ルチアにとっては、それは聖なるロザリオの元后のほほ笑み(幼きイエズスの聖テレジアもまた、勝利の聖母のほほ笑みによって癒やされました)と、3回の無言の天使の出現でした。私たちにとっては、それは無原罪の聖母の騎士になるという恩寵であり、私たちに送られた使者は、まず第一に私たちを天の御母に近づけてくれた偉大なマリアの聖人たちです。聖グリニョン・ド・モンフォールは、私たちが自分を聖化するためにどれほどマリア様を必要としているのかを理解させてくれますし、聖マキシミリアノは私たちを聖母の旗の下に連れて行ってくれます。その結果、私たちは天主のご意志を成就させ、王たるキリストの呼びかけにお応えすることができるのです。私たちはまた、大天使聖ミカエルや守護の天使にもっと近づくべきです。彼らは同じような方法で、無言であっても私たちに深い天の「印象」を与えてくれます。

第二の教訓。

天国、天使や聖人たち、天主ご自身は私たちの経験を無限に超えていますから、天主ご自身がこの無限の光に対して私たちに準備をさせなければなりません。多くのプロテスタントに加えて、こんにちの近代主義やカリスマ主義の運動もまた、天主を無限の御稜威として正しく理解することを台無しにするという悲しい貢献をしています。遠く離れたところで出現した天使の前でも、すでに子どもたちが震えているのなら、ほとんど無限の数の天使の創造主である天主ご自身の前では、いったいどうなるでしょうか?

私たちは、イエズスとほとんど仲間のように話すことや、聖母にすてきな美しい母として近づくことに慣れています。私たちは、お二人が私たちよりほんの少しだけ優れたお方でしかないかのように、お二人に不平を言います。

聖ヨハネが天使の前でその威光のために膝をかがめたのなら、聖人たちの出現が人々を地に伏せさせ、目をまともに見る勇気もなかったのなら、この深い敬意を表した振る舞いは私たちのそれといかに違っていることでしょうか。

ですから私たちは、超自然の現実の前で適切に振る舞うようもう一度学ばなければなりません。

第三の教訓。

私たちが天主に近づけば近づくほど、私たちはもっとたくさん苦しまなければなりません。ファチマの子どもたちは、聖母から計り知れない幸せと喜びを受けるでしょう。しかし、彼らは「それに対する支払い」をしなければなりません。私たち「ファチマの使徒」も同じです。私たちが天主に奉仕しようと望めば望むほど、俗人たちは私たちをさらに拒絶するでしょう。一般的に言って、苦しみは私たちが近づいていった人々からやって来ます。聖母に奉仕したいのなら、皆さんのいわゆる友人たちは離れていくでしょう。誤解や屈辱、嘲り、軽蔑に苦しむでしょう。しかしきっと、他の友人たちを得るでしょうし、世が知ることのない慰めを受けるでしょう。


親愛なる無原罪の聖母の騎士、ファチマの使徒の皆さん、私たちは2015年に生きています。

これらの出来事のちょうど100年後、天は2017年の来るべき大きな出来事の準備をしようと望んでおられるのは確実です。これらの教訓を学び、それを私たちの生活に生かすならば、私たちはどれほど良い聖母の汚れなき御手の道具になることでしょうか!
(了)

聖ピオ十世会総長のフェレー司教のフランシスコ教皇聖下に対する懇願書

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 アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会総長のフェレー司教様が、教皇フランシスコに懇願書を書きました。英語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

  mgr fellay supplique dici.org 2

Most Holy Father,

It is with great anxiety that we observe all around us a persistent degradation of marriage and the family, the origin and foundation of all human society. This decay is rapidly accelerating, particularly because of the legalization of the most immoral and depraved sorts of behavior. Today the law of God, even the simply natural law, is being publicly trampled underfoot; the gravest sins are multiplying in a troubling way and cry out to Heaven for vengeance.

Most Holy Father,

We cannot conceal from you the fact that the first part of the Synod dedicated to “Pastoral Challenges of the Family in the Context of Evangelization” greatly alarmed us. From ecclesiastical dignitaries we heard and read statements so contrary to the clear and constant doctrine of the Church concerning the sanctity of marriage, that our souls were deeply disturbed. These men claimed to have your support, and their claims met with no public denial. What worries us even more is that certain of your words give the impression that it might be possible for doctrine to evolve in response to new needs of the Christian people. Our disquiet comes from the fact that in his encyclical Pascendi, Saint Pius X condemned an alteration of dogma that would make it conform to so-called requirements of the present time. Both Pius X and you, Most Holy Father, received the fullness of the authority to teach, sanctify, and govern in obedience to Christ, Who is the head and pastor of the flock at all times and in all places, and whose faithful vicar the Pope must be on this earth. That which has been subject to a solemn condemnation cannot, over time, become an approved pastoral practice.

God, the author of nature, established the stable union of a man and a woman for the purpose of perpetuating the human species. Old Testament revelation teaches us, in the most obvious way, that indissoluble marriage between one man and one woman was established directly by God, and that its essential characteristics were not left by Him to the free choice of men, such that marriage remains under a very special divine protection: “Thou shalt not covet thy neighbor’s wife.” (Exodus 20:17)

The gospels teach us that Jesus Himself, by virtue of his supreme authority, definitively reestablished marriage in its original purity, which the corruption of men had altered: “What therefore God hath joined together, let no man put asunder.” (Matthew 19:6)

Throughout time it has been the glory of the Catholic Church to defend the human and divine reality of marriage against turmoil, despite entreaties, disregarding threats and temptations. Even though corrupt men abandoned her for this reason alone, the Church has always held high the standard of fidelity, purity, and fruitfulness, in short, the standard of genuine conjugal and familial love.

As the second part of this Synod dedicated to the family approaches, in conscience we feel it our duty to express to the Apostolic See the profound anxieties which seize us at the thought of “conclusions” that could be proposed on that occasion, if by some great misfortune there were to be a new attack against the sanctity of marriage and the family, a new weakening of couples and home life. We hope with all our heart that the Synod will on the contrary perform a work of genuine mercy by recalling in its entirety, for the good of souls, the Church’s salutary teaching on the subject of marriage.

We are fully aware, especially in the present context, that people entangled in abnormal marital situations must be welcomed pastorally with compassion, so as to show them the very merciful face of the God of love proclaimed by the Church.

Nevertheless, the law of God, expression of his eternal love for mankind, is in itself the supreme mercy for all periods of history, all persons, and all situations. Therefore we pray that the gospel truth concerning marriage, which the Synod ought to proclaim, may not be skirted in practice by numerous “pastoral exceptions” that would distort its true meaning, or by legislation that would almost unfailingly abolish its real import. On this point we feel obliged to say that, despite reminders concerning the indissolubility of marriage, the canonical changes required by the Moto Proprio Mitis Iudex Dominus Iesus facilitating declarations of nullity will de facto open the door to legal proceedings authorizing “Catholic divorce,” even if goes by another name. These modifications acknowledge contemporary morals without attempting to put them in accord with the divine law. Are we then not to be heart stricken by the fate of children born to these marriages annulled in haste and who cannot but be victims of the “culture of waste”.

In the sixteenth century Pope Clement VII refused to accord Henry VIII of England the divorce he was demanding. Despite much pressure and at the risk of an Anglican schism, the Pope upheld the sublime teaching of Christ and his Church concerning the indissolubility of marriage. Will his decision now be repudiated by a “canonical repentance”?

Throughout the world in recent times, many families have courageously rallied against civil laws that undermine the natural and Christian family and publicly encourage scandalous behavior contrary to the most basic morality. Can the Church abandon those who, sometimes to their own detriment, and always subject to mockery and taunts, wage this necessary but very difficult battle? Such a stance would constitute a disastrous counter-witness, and for these persons it would be a source of disgust and discouragement. Churchmen, on the contrary, by virtue of their very mission, should offer them clear support backed up by solid arguments.

Most Holy Father,

For the honor of Our Lord Jesus Christ, for the consolation of the Church and of all faithful Catholics, for the good of society and of all humanity, in this crucial hour we petition you therefore to let your voice resound throughout the world with a word of truth, clarity, and firmness, in defense of Christian and even merely human marriage, in support of its foundation, namely, the difference and complementarity of the sexes, upholding its exclusivity and indissolubility. With filial piety we beg you to let your voice be heard by all, and that it be accompanied by actions too in support of the Catholic family.

We entrust this humble petition to the patronage of Saint John the Baptist, who underwent martyrdom for having publicly defended the sanctity and exclusivity of marriage, even against a scandalous civil authority in a case of “divorced-and-remarried persons.” And we pray the Precursor give Your Holiness the courage to recall before the whole world the true doctrine concerning natural and Christian marriage.

On the Feast of the Seven Sorrows of Our Lady, September 15, 2015
+Bernard Fellay
Superior General of the Society of Saint Pius X

Supplique au Saint-Père
Supplica al Santo Padre
Inständiges Bittgesuch an den Heiligen Vater
Súplica al Santo Padre
Usilna prośba do Ojca Świętego

聖ピオ十世会 聖伝のミサ [トリエント・ミサ ラテン語ミサ] 2015年10月の報告 SSPX Japan

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日はファチマの太陽の奇跡の九十八周年記念日ですね。

 10月の初金、初土(10月3日)、また主日には、日本での聖伝のミサを捧げることが出来、天主に深く感謝します。22年前、叙階されたばかりの司祭として8月15日付けでマニラに任命を受けた後(実際にマニラに到着したのは8月16日の月曜日でした)、日本への定期訪問の最初が10月3日の主日で、幼きイエズスの聖テレジアの祝日でした。聖ピオ十世会の日本のミッションを、宣教の守護の聖人である小花聖テレジアに委ねたことを思い起こします。

 10月3日には、大阪では20名の方々が、10月4日には東京で39名の方々が、10月5日月曜日の朝6時15分の早朝ミサには10名の方々が、聖伝のミサに与ることが出来たことを天主様に感謝いたします。

 東京のミサ聖祭では、3名の方々が初めて聖伝のミサに与ることが出来ました。天主様に感謝!一人の方は、インターネットで聖ピオ十世会のことを知り聖伝のミサに行ってみたいなと思っていたその翌日お友達から「行こう」と誘われて、来てよかったとのことです。

 月曜日のミサが終わった後、司祭黙想会がダヴァオでありご報告をすぐに申し上げることが出来ませんでした。黙想会の間、お祈りを感謝します。

 10月4日の主日ミサで、お忘れ物をした方がおられるようです。カトリック聖歌集などが入っている手提げをお忘れになった方は、保管してありますので、ご連絡下さい。

 来月から大阪では、初金曜日のミサの後に御聖体降福式を行うことになりました。これは、イエズスの至聖なる聖心に、まず日本が受けている恵みを感謝のためにする降福式です。次に、イエズスの聖心が受けている冷淡・無関心・冒涜を償うために行います。どうぞ、多くの方々の参加をお願いいたします。


 今回のミッションについて、次のようなご報告やお便りを頂きましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

初金と初土の御ミサ、また公教要理等本当にありがとうございました!♪(*^▽^*)
来年の、日本のお恵み倍増計画が是非うまくいきますように、お祈りさせて頂きます!!)^o^(
またシノドスや黙想会の為にもお祈りさせて頂きますm(__)m
マリア様の御取次ぎによって、いつもイエズス様が私たちと一致して生きて下さっているという事を自覚して、良き第2のキリストとなる事ができますように!!デオ・グラチアス!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。
お疲れのところ、お見舞いまでして頂いて感謝しています。
神父様の手をご自分の額にあてて、祝福を願われたヨゼフさんを拝見して、確かにマリア様はヨゼフさんにお恵みを送られているなと感じました。
来月は神父様が少しでも休憩がおできになればと思います。

10月の初金、初土の御ミサの報告です。
10月2日(金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ(歌ミサ)には13名が、
10月3日(土)童貞女幼きイエズスの聖テレジアの歌ミサには20名の方々が御ミサに与り、御聖体拝領する御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

初金曜のお説教では、イエズス様の聖心の信心の核心とは何かを黙想いたしました。
イエズス様の愛をその聖心を認め、贖いの御業にイエズス様と同じ心をもって協力すること。何をするにもどんな時でも、イエズス様と共に、自分が生きるのではなく、キリストが生きるように第二のキリストになること、がイエズス様の聖心の信心であり、イエズス様をお慰めする事である事を黙想し、遷善の決心を立てました。
私のような罪深い者がイエズス様と一致するをイエズス様ご自身が望んで下さっていることに改めて天主の愛の大きさと、御憐みの深さに驚嘆せずにはおられませんでした。お説教中、「救霊!・救霊!・救霊!」 イエズス様の聖心の叫びが聞こえてくるような思いがいたしました。

この初土曜日は幼きイエズスの聖テレジアの祝日であったので、宣教師たちの守護者でもあるテレジアについてのお説教でした。
霊的幼児の道とは、親(天主)に全てを委ねる道の事で、テレジアはまさにこの道を修道院の中での隠れた生活をとおして実践された方でした。
「自分はイエズス様のものであるので、イエズス様は自分のもの」という完全にイエズス様と一致する様は金曜のお説教で聞いた聖心の信心の核心そのものでした。
私達も愛によってイエズス様から頂いた全ての日常の試練を感謝をもって受け、イエズス様といつも一致する決心をたて、テレジアがこれをマリア様から学んだように私達もマリア様に聖心をお慰めする方法をよくわからせていただくお恵みを願いたいと思います。
宣教師の保護者である幼きイエズスの聖テレジアが、小野田神父様、レネー神父様、聖ピオ10世会の神父様方に特別のバラの雨を降らせてくださいますようお願いいたしました。

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様も今は黙想会中の事と思いますが、

天主のあわれみ深きはんさいに自分自身を捧げる祈り、以前小野田神父様がブログでとてもお勧めして下さっていたので、母と私はほとんど毎日唱えさせて頂いています(*^^*)


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 19人(内、子供1人)
女: 20人(内、子供1人)
計: 39人(内、子供2人)


【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様

 私のためにお祈りをありがとうございます。
 「シノドゥスのための特別の祈りの呼びかけ」について了解しました。
 「家族に関するシノドゥス」のために、私も祈りの呼びかけにお応えします。
 いつも以上にロザリオを唱え、犠牲を捧げます。聖ピオ十世会で捧げられているトリエント典礼によるラテン語ミサに心を合わせ、ご聖体を礼拝します。
 ミサに与ることができませんので自分にできることは限られていますが、霊的に与りたいと思います。

 フランシスコさんの救霊のために、お祈りをお願いいたします。私のいる病院に入院しておられる末期癌の方です。この方は現在のカトリック教会の信者です。

 神父様のお祈りの時に思い出してください。


【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様
 守護の天使の祝日おめでとうございます!
 私のためにお祈りをありがとうございます。

 また、フランシスコさん(87歳)のためにお祈りくださり、ありがとうございました。フランシスコさんは今日亡くなりました。

 霊名の祝日、アシジの聖フランシスコの祝日(10月4日)がもうすぐ来ることを知っておられましたが、やはりその日を迎えることはありませんでした。守護の天使がフランシスコさんの霊魂を天国へ導いてくださるように願っています。

 シュテーリン神父様の回状「無原罪聖母の騎士たちへ」の邦訳を読みました。

 私は残る生涯を最善の形で無原罪聖母への奉仕に捧げたいと思います。

イエズスの至聖なる聖心 イエズスとの一致とは。聖ピオ十世会聖伝のミサ SSPX Japan

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 本来なら、単なるお説教だけではなく、色々な別のお話を記事に書きたいのですが、別の義務が増えてしまいそこに十字架に付けられるように動きが取れなくなってしまっている感じがします。

 そこでこのブログの愛読者の方々には、退屈な思いをさせていることを残念に思います。6月21日の主日にマニラの教会で「主任司祭」として主日のミサを捧げて以来、後は今に至るまで、別のミッションの各地で主日のミサを捧げています。次回のマニラの教会での主日ミサは11月15日の予定です。

 ミンダナオ南部のミッションの話、レイテ島でのミッションの話、バギオでのミッションや、ボルネオ島でのミッションの話、お伝えしたい話もいろいろあります。幼きイエズスの聖テレジアに倣って、カトリック教会のために役に立つことは、「祈りと犠牲」であると確信し、お捧げしております。

 さて、イエズスの聖心は、私たちを極みまで愛しておられるのに、人々はそれを無視しております。私たちの人生の目的は救霊なのに、それだけは気に掛ける人々があまりにも少数です。

 イエズス・キリストの聖心について黙想することを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ



小野田神父説教
 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年10月2日、10月の初金曜日です。

来週の月曜日から、アジア管区の司祭たちの黙想会がありますので、良い黙想会ができますように、皆さまのお祈りをお願い致します。

それからローマでは、「家庭に関するシノドス」というのが始まります。そこで、このシノドスを、第1総会、去年行われたものを見ると、この方針や或いはその内容が、教会の今までの教えに触れる、それに抵触する内容が揉み込まれており、非常に心配されます。多くの枢機卿様や司教様たちも、それについて声を上げています。どうも教会では、枢機卿が枢機卿に、司教が司教に、今、家庭の事について対立して、そのシノドスでもそれが明らかになるように思われます。それで、フェレー司教様は最近、教皇様に対する、「カトリックの教えをはっきり証明して下さるように」嘆願のお願いをなさいました。どうぞこのシノドスの為に、特別のお祈りをお願い致します。アジア管区では、「特に今週、お祈りと或いは断食、犠牲を払うように。このシノドスの為に捧げるように。」と、管区長様からの呼びかけがありました。どうぞ皆さんも、多くのお祈りと犠牲を捧げて下さるようにお願い致します。

10月は、フィリピンのマニラで、アジア管区の修道院長、フィリピンの修道院長たちとレネー神父様が集まって、来年のミッションの計画を立てる、それを管区長様に提案する、という計画があります。来年、できるだけ私は、そこの会議で、日本にミサの回数を増やすように、お恵み倍増計画を提案しようと思っています。そこでその為に、他にもミッションで、人数が増えて席がなくて、教会の外にいる人たちの方が多い、というような所がたくさんあるので、それにも負けないように説得する事ができますように、皆さん、この会議が良く、日本にたくさん、毎月2回これからありますように、どうぞこのような、大阪で金、土、東京で主日、月曜日、というようなのが2回毎月あるように計画を立てる、という事を提案しようと思いますので、是非それが受け入れられるようにお祈り下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は10月の初金曜日です。私たちは、イエズス様の聖心の信心の黙想を、更に深める事に致しましょう。

 イエズス様の聖心の信心の核心とは何でしょうか?それは、私たちが、人となった天主の御言葉の愛を、イエズス様の肉の聖心、心臓に認め、私たちもその聖心の償いの業に参与する事です。私たちもイエズス様の聖心の思いと1つになって、イエズス様と共に、人類の贖いの業を為す事に協力する事です。私たちが、イエズス様と1つになる、救霊の業に、償いの業に協力する事です。

 言葉を言い換えると、私たちがイエズス様と1つになって、別の、第2のキリスト、或いは小さな、イエズス様と共に贖いをする者となる、という事です。

 では、この事がどういう事かを説明するのを許して下さい。では、イエズス様と1つになるとは、どういう事なのか?イエズス様は、その1つになるという事を、どの、どういう風に説明しているのか、という事を黙想して、私たちは最後に、今月の遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 イエズス様と1つになる、という事は、私たちは先月少しだけ黙想しましたが、例えば、イエズス様と分かち難く1つになるという事は、イエズス様の一部になる、という事です。イエズス様はこれを、色々な例えで話しました。例えば、「私はぶどうの木である。お前たちはその枝である。私の父は、その栽培者だ。もしも私に付いていなければ、お前たちは実を結ぶ事ができない。枯れて焼かれてしまうだけだ。私に留まれ。」と、言われました。イエズス様は、「私たちと1つの生命体になっている」という事を言おうとしました。

 或いは聖パウロには、キリスト信者を迫害している聖パウロには、現れてパウロにこう言いました、「サウロ、一体なぜお前は私を迫害するのか。」と。イエズス様は、「なぜ、私の弟子たちを、私を信じる者を、私の信者を迫害するのか。」と言わずに、「私を迫害するのか。」と言われました。

 聖パウロは、イエズス様と私たちとの関係の事を良く理解していました。そこでそのパウロは、書簡の中に色々、イエズス様と私たちとの関係について説明しています。「キリストはオリーブの木だ。ユダヤ人たちは、天然の野生のそのままの元々の付いていたオリーブの枝だけれども、私たちは異邦人は接ぎ木された者だ。」とか、或いは、「イエズス様を信じる私たちは、キリストの神秘体の一部である。」或いは、聖パウロは別の所では、「天主の家の家族の一員である。」或いは、「使徒たちや預言者たちの基礎の上に建てられた、その隅の親石はイエズス・キリストであるけれども、私たちは1つの家である。私たちは生ける石である。1つの家を建てているものである。」と、言うのです。

 聖パウロによると、イエズス様が私たちの贖いをなさった時に、ただ私たちの負債を払って、私たちと別々のものとして、こう例えば大阪の総合庁舎の市役所に行って、「この、誰それさんのその税金を、私が払います。」その窓口に行ってはい払ってそれで終わり、ではなくて、イエズス様は私たちを自分のものとして、私たちを自分と同一のものとして、自分の体の一部として、自分を植え込まれたものとして、私たちの負債を支払った、という事です。

 ですから御父は、もしも私たちをご覧になる時に、イエズス様によって贖われた私たちを見る時に、単なる、イエズス様がただそう払ってくれたから、「あぁ、負債が払われたからじゃあ」というのではなくて、私たちを見ると、イエズス様の一部である、と、イエズス様のものとして、私たちをご覧になる、という事です。

 考えてもみて下さい。このイエズス様の十字架の御像の、この色々この御光が射している、色々な金のほんのちょっとの欠片、それでもイエズス様の十字架の御像の一部として、それがなければ美しさがなくなってしまいます。

 或いは、イエズス様の一部になった、という事は例えば、大きな木の、ほんの小さな、ほんのちょっとした葉っぱの出かけの様な、この芽の様な小さなものでも、木の皮のちょっとしたものでも、大きな大木の一部であって、生ける一部であるので、これはその一部を構成するものとして、その木に属するものであります。

 とても豪華な大御殿の、その大阪城の建物のほんのちょっとでも、塀のほんのちょっとの石の1つでも、それは大阪城の1つを造っているもので、大阪城の一部であります。

 それと同じように、たとえ私たちがもう、イエズス様の体の神秘体の、ほんのちょっとした産毛の、或いはもうほんの爪の一部であったとしても、イエズス様の神秘体の、御父は私たちをイエズス様のものとして、ご覧になるのです。

 つい最近私が読んでいた本の中で、フランスの王ルイ15世の娘が、ルイーズという娘がいたそうです。そのルイーズちゃんは子供の頃、とても気性が荒くて、時々怒りっぽかったのだそうです。でも後に、お父さんの罪を、ルイ15世の罪を償う為に、カルメル会に入った、償いの生活をした、というそのルイーズちゃんが子供の頃、養育係りの人から怒られて、その叱られたので、「私は、あなたの王様の娘ですよ、という事を知っていますか?」と、言ったそうです。「あまりきつく叱らないで下さい。あなたの王様の娘ですよ。」そしたら、その養育係りの人が答えて、「あなた知ってますか?私はあなたの天主様の娘ですよ。」それを聞くと、ルイーズちゃんは何も言えなくなって、怒りがおさまったそうです。

 実に、この養育係りの方が言ったように、私たちは天主の家族の一部であって、私たちは天主の子供、養子であって、天主の王家の一部であって、イエズス・キリストの神秘体の一部であって、イエズス・キリストの一部である。これを天主御父も、イエズス様も、それを事実として受け入れている事です。

 これはどういう事かというと、イエズス様は、私たちとイエズス様はもう分かち難く、分かれる事ができないように、1つである、という事です。

 第2のポイントで、では、これはどのように説明されているでしょうか?

 聖パウロはこのように言うのです、「私たちは、キリストと共に死んだ (commortui: ティモ後2:11)。十字架に付けられた者である、「私たちの古い人間が、かれとともに十字架につけられた」(ローマ6:6)。「イエズスとともに葬られた」(consepulti: ローマ6:4)。キリストと共に復活した (corressuscitati: エフェ2:6)。キリストと共に永遠に生きるだろう (convivemus: ティモ後2:11)。」或いは、キリストと共に、天に於いて統治する者である、永遠に君臨する者である。「私たちもキリストとともにその王国をつかさどる。(ティモ後2:12)」或いは、キリストと共に天に座す者である、「キリストとともによみがえらせ、ともに天に座らせてくだった。(エフェ2:6)」或いは、キリストと共に、イスラエルの十二の部族を裁く者である、「人の子がその栄光の座につくとき、私に従ったあなたたちも十二の座につき、イスラエルの十二族をさばくであろう。」(マテオ19:28)

 私たちはつまり、イエズス様と同じく十字架に付けられ、同じく復活して、同じく永遠に、イエズス・キリストと共に栄光を受ける者である、とパウロは言います。

 そればかりではありません。イエズス様は、私たちの一人一人の中に生きておられ、貧しい者の中に生きておられる、捕われ人に生きておられる。或いは、私たちに於いて、迫害される者に於いて苦しんでおられる。或いは、私たちの苦しみに於いて、神秘体の苦しみの欠ける所を満たすものである。私たちに於いて戦っておられる、私たちに於いて勝利を収めるものである。

 イエズス様は、私たちがイエズス様と共に死に、復活し、永遠に支配するのみならず、イエズス様は今私たちと共に生きておられて、私たちと共に祈っておられ、私たちと共に苦しんでおられる。

 つまり、私たちの目には見えないけれども、私たちは、歩く生ける第2のキリストとなっている、という事です。聖パウロは言います、「もはや、生きるのは私が生きるのではなく、キリストが私に於いて生きる。」と。私たちの命はイエズス様の命となって、イエズス様の命は私たちの命となる、という事です。

 先月も少し同じ話ですけれども、カリスの奉献の時に司祭は、ワインの中に一滴の水を垂らします。これはカトリック教会がいつもやる事を命じてきたものです。その意味は明らかです。「私たちの生贄を、キリストの生贄と共に捧げる。」という事です。6世紀にアルメニア人たちが、実はこの儀式を廃止しようとしました。しかしその後に、コンスタンティノープルの公会議で、「そのような事をやったアルメニア人たちは間違っている。それは何故かというと、それを廃止する事によって、生贄の本当の意味がよく表明できなくなってしまうからだ。」と言っています。

 そして、この水を一滴垂らしながら、一滴ワインの中に入れながら、司祭はそれを祝福して、「素晴らしいやり方で自然を創造された天主は、人間の本性を創造された天主は、更に素晴らしいやり方で人間の本性を新たに贖い給うた。この水の神秘によって私たちが、キリストの神性に、御神性、天主性に参与する者となりますように。」と、祈っています。

 トリエント公会議は、はっきりと、「この水とワインの一致は、私たちキリスト教の民と、イエズス・キリストの神秘との、その全き一致の神秘を示している。」と、言っています、

 では私たちはここで、一体どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?私たちの中に、イエズス様が一致して生きておられる、という事を更に自覚する事です。私たちが祈る時、イエズス様も共に祈って下さっている、私たちが謙遜の業を果たす時に、イエズス様も共に、私たちの謙遜を補って下さっている、イエズス様と共に、私たちは苦しむ、私たちのどのような日常の生活でも、それはイエズス様と共に、捧げられたものとなっている、という事です。そこで私たちにとって、もはや生きるのは私たちではなく、キリストが生きる事になる、という事です。

 イエズス様の最も人生の究極の目的は何だったのでしょうか?私たちの救霊です。そこで、私たちがイエズス様の聖心の信心をする時に、イエズス様の聖心とますます一致して、多くの霊魂の救霊の為に、祈りと犠牲をお捧げ致しましょう。

 この御ミサが、イエズス様との一致をますます深めるものとなりますように、自覚を深めるものとなりますように。ますますイエズス様の御旨に聖心に入るものとなりますように。イエズス様の聖心をお慰めするものとなりますように。イエズス様との愛の一致になりますように。

 最後に、このイエズス様の聖心の神秘体の神秘を、よく理解されて、完璧な共贖者となった、イエズス様と共に贖いの業を果たしたマリア様に、私たちもマリア様の御取り次ぎによって、良き第2のキリスト者となりますように、ますますイエズス様との一致ができ、聖心への信心をよく深める事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 聖伝のミサ 【トリエント・ミサ】 2015年10月3日 幼きイエズスの聖テレジア

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

 幼きイエズスの聖テレジアについて、その「霊的幼児の道」について、ますます深めることにいたしましょう。

 「霊的幼児の道」は、私たちが自分の小ささを自覚し認めることから始まります。私たちは全て天主から受けたこと、天主が全てであり、私たちは何でもないこと、私たちが一人では何も出来ないことを愛を込めて受け入れることです。私たちのあるべき立場に身を置くことです。私たちの自分の持つ力にあまりにも頼りすぎないことです。私たちが天主の助けを常に必要とすることを理解することです。幼子が父親に助けを求めるように、天主の子らが、聖父なる天主に信頼を込めて助けを求めることです。
 聖テレジアは言います。「私の道は、信頼と愛とに満ちたものです。」(ロラン神父への手紙1897年5月9日)「信頼の欠如はイエズスを侮辱し、聖心を傷つけます。」(マリ・ゲランへの手紙1889年5月3日)「私たちの望みと私たちの希望を制限することは、私たちが天主の無限の良さを拒否することを意味します。」「イエズスは偉大な行動を求めておられるのではなく、委託と感謝だけを求めています。」
 たとえ私たちが欠点だらけであっても、霊的生活に成長することに失敗しているとしても、私たちはがっかりしてはなりません。失望は自己愛から生じるものだからです。ある修道女が聖テレジアに天主の御前に幼子として留まるとは、どう言うことかを聞きました。聖テレジアはこう答えました。
「それは、私たちが自分の無であることを認め、良き天主様から全てを期待し、私たちが実践する善徳を自分に帰することを拒み、自分だけでは良いことをすることが出来ないと信じることです。」(最後の言葉8月6日)
 私たちの過去がたとえ罪にまみれていても、私たちがたとえ弱くても、決心を守れなくても、イエズスの憐れみに信頼することを聖テレジアは教えています。何故なら、イエズスは私たちの努力をご覧になっているからです。聖女が教えるのは、私たちの誠実な努力が成功を収めなかったとしても、天主の憐れみに信頼し続けることです。
「私たちは自分の力の及ぶ限り全てをしなければなりません。私たちはどれほどの骨折りをするかを数えずに与えなければなりません。私たちは、絶えず自己放棄しなければなりません。一言で言うと、私たちは私たちの愛を私たちが行うことの出来る全ての善行で証明しなければなりません。しかし私たちが出来ることは全て極めて小さいので、これらの仕事を聖化する唯一のお方に信頼すること、そして私たちが役に立たないしもべであり、私たちの望む全てをお恵みによって私たちに与えて下さると期待することが極めて重要です。」(マリ・ゲランへの手紙1890年7月)

 では愛する兄弟姉妹の皆様、聖テレジアに倣って、イエズスの憐れみ深い愛に信頼しましょう。私たちの祈りと犠牲と生活の模範によって、多くの霊魂の回心と救霊の恵みを求めましょう。私たちの誠実な努力を憐れみ深くご覧になって、私たちの主イエズスが、奇跡的な聖化の恵みを与えて下さいますように!

 2015年10月3日 童貞女幼きイエズスの聖テレジアの祝日にしたお説教を以下にご紹介いたします。

 無原罪の聖母よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月3日 童貞女幼きイエズスの聖テレジア 
小野田神父説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年10月3日、10月の初土曜日のミサです。今日は幼きイエズスの聖テレジアのミサをしています。何故かというと、幼きイエズスの聖テレジアは、宣教地に於いて、1級の祝日として祝う事になっているからです。宣教地の守護の聖人として、宣教師たちの守護者として、聖テレジアを祝っています。

 今日のこの御ミサの直後に、公教要理の続きがあります。先月は原罪についてみましたが、その続きを、その原罪の後の人類の歴史について、少しふれる事に致します。

「もしも幼子のようにならないならば、あなたたちは天国には入らないだろう。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日は幼きイエズスの聖テレジアの大祝日です。幼きイエズスの聖テレジアの人生を顧みて、一体この聖女が人生に於いて、一体宣教にかかわる何をしたのだろうか?なぜ私たちは、幼きイエズスの聖テレジアの祝日をこれほどまでに、1級祝日として、宣教地では全て祝わなければならないほどの、宣教の為の一体何をしたのだろうか?世界のどこを駆け回ったのだろうか?という事をみて、その幼きイエズスの聖テレジアの生涯を垣間見て、その後に、ではその何故、宣教の守護者となったのか、その理由を第2にみて、最後に私たちは、幼きイエズスの聖テレジアの精神を受けて、それをみて、霊魂の救霊の為に、イエズス様の聖国の到来の為に、一体何をしなければならないのか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 第1のポイントは、では聖テレジアの生涯をざっと垣間見る事に致します。幼きイエズスの聖テレジアは、1873年、フランスのアランソンという所に、敬虔なお父さんとお母さんの元で生まれました。その子供の時から、修道生活に憧れていました。お父さんは元々神学生で、お母さんは修道女になりたい、と思っていた方でした。幼きイエズスの聖テレジアは小さい時から、「決して天主様に何も拒否しない、天主様のお望みの事は全てする。」という望みを立てていました。この望みを死ぬまで守っていました。5歳になると、お母さんが亡くなります。そこで幼きイエズスの聖テレジアは、マリア様の特別の御保護の下に、愛するお父さん、優しいお姉さんたちの世話の下に、すくすくと育っていきました。

 リジューにある、ベネディクト会経営の修道女の経営の学校で9年間勉強し、それから10歳の時には、非常に大きな大病を患いました。その時に、マリア様の、本人の語るによれば、「マリア様の姿を見て、マリア様がお現われになった。勝利の聖母のマリア様だった。」と言います。その勝利の聖母のマリア様に9日間のノベナをして、奇跡的に病気から治りました。

 この感謝の為に、幼きイエズスの聖テレジアは、パリの勝利の聖母の教会に巡礼に行き、その後にローマにも行きます。何故ローマに行くかというと、「司祭たちの為に、多くの霊魂がイエズス様の元に行くように、救霊の為に、自分自身を生贄として、修道女として捧げたい。」その為にまだ年齢が若かったのだけれども、しかしその為に特別の許可を求めに行きました。

 15歳になると、本来ならば普通は許可されなかったのですけれども、レオ13世教皇様と面会ができ、特別の許可を得たので、15歳でカルメル会に喜んで入会する事ができました。マリア様のように隠れた生活、マリア様のように閉ざされた、秘密の美しい花園として、天主様にのみ捧げられた、聖徳の、天主の花園として、天主への愛と隣人への愛に咲き誇る花園として、幼きイエズスの聖テレジアは修道生活を送っていきました。

 ある時、聖書を読んでいて、「もしも、誰かが子供であるならば、彼は私の元に来るがよい。」という1節を読んで、「私も、子供としてイエズス様の元に行きたい。」と、思いました。

 幼きイエズスの聖テレジアは、「天主様を、愛する父親として、その御手に全き信頼と愛を以って委ねる。」という幼児の道でした。

 「幼児の、子供の、霊的幼子の道」というのは、子供っぽいとか、幼稚だとか、幼じみている、という意味ではありません。「罪を知らない子供が、全くお父さんお母さんに依頼して委ねて、それを全く信頼して、そのお父さんお母さんの導かれるがままに、その自分の幼さを、その弱さを委ねて、全て依頼する。」というところにあります。

 もしも、この世が傲慢と虚栄で膨れ上がっているとすれば、幼きイエズスの聖テレジアは、福音的な単純さと謙遜さで、それに対抗しようとしました。全てをイエズス様の愛の下に、信頼をもって委ねました。

 幼きイエズスの聖テレジアはこの事を、「愛のエレベーター」と読んでいます。「ちょうど、エレベーターがスイッチを押すだけで上がるように、イエズス様の鷲の様な大きな翼が、私を連れて空の高い所まで上げて下さる。」

 ちょうど、子供が階段を上がる事ができなくて困っている時に、お母さんにニコリと笑えば、お母さんがそれを見て、階段の上に連れて行って下さる、というその信頼の心でした。

 亡くなる2年前、すなわち1895年、幼きイエズスの聖テレジアは、天主のあわれみ深い愛に自らを奉献致しました。1897年の9月30日、24歳でその霊魂を愛の内に天主様の元にお返しする事になりました。亡くなる前に、「自分は、天国からたくさんのバラの花を降らせましょう。」と約束し、幼きイエズスの聖テレジアの取り次ぎを以って、数多くのはかり知れない奇跡、また奇跡が、無数の奇跡が起こりました。回心の奇跡、治癒の奇跡。「本当に、テレジアは私たちにバラの花の雨を降らせている。」と皆確信し、ピオ11世教皇様が、まず列福、その2年後に列聖し、全ての宣教地の守護者として定めました。

 第2の点は、では幼きイエズスの聖テレジアは、カルメル会の自分の地元から、ローマには巡礼に行ったかもしれないけれども、一生涯ずっとカルメル会の修道会の家の中に閉じこもっていて、一体、宣教の何をしたのか?アフリカに行ったのか?アジアに来たのか?アメリカに行ったのか?一歩も出ずに何故、宣教地の宣教者の守護者として、私たちはこれほど祝わなければならないのか?なぜ祝っているのか?その秘密は何なのか?

 これは、幼きイエズスの聖テレジアの愛による一致に秘密がありました。

 ある時、聖テレジアは、聖パウロの書簡を読んでいて、「私たちはキリストの体の一部だ、肢体だ。ある者は使徒、ある者は教師、ある者は預言者、しかし皆が大切で、皆がその役割を果たしている。しかし、1つの体だ。」というのを見て、「私は宣教師になって、世の終わりまで、この世の地の果てまで、福音を告げ知らせたい。或いは殉教者となって、イエズス様の為にこの命を捧げ、血を流し尽くしたい。」などと、色々な望みを持っていました。「しかし自分にはそれができないので、それを動かしている原動力になりたい、教会の愛になりたい。」と、思っていました。

 最後に、「イエズス様の神秘体の一部だ」という事を自覚するあまり、自分を天主のあわれみ深い愛に奉献した時に、こんな祈りを祈っています、「私は自分の無力を感じているので、願わくは、御自らが私の聖徳となって下さい。もはや私ではなく、私のものはあなたのもの、あなたのものは私のものですから、私の聖徳は、あなたがなって下さい。」また、同じお祈りの中では、「御身は私たちに、御一人子を私たちの救い主として、また私の淨配としてお与えになったのですから、これほど私たちを愛して、全てをお与えになって、御子の全ての功徳は、無限の功徳は全て私のものです。だから私はこの無限の功徳をあなたに捧げます、これは私のものですから。ですから、私を見る時には、私をこのまま見るのではなくて、イエズス様の尊き御面影、御顔を通して、私を見て下さい。イエズス様の聖心を通して私を見て下さい。私はイエズス様の一部です、イエズス様の聖心の一部です。」

 更に、幼きイエズスの聖テレジアはこう言います、「私は神秘体の一部として、全ての聖人たちの全ての功徳と、全ての礼拝と、全ての愛をお捧げします。全ての天使たちの功徳と愛徳をもお捧げします。マリア様の愛もお捧げします。何故かというと、同じ体の一部ですから。マリア様の功徳を、マリア様の御手を通してお捧げします。」同じお祈りの中で、「あなたはこう約束しました。あなたは、もしもご自分の、『私の名前によって頼むなら、御父は必ずお前たちに与えるだろう。』だからその約束の通り、私はあなたの名前で求めます。御父は決して拒否する事がないでしょう。それは、私をイエズス様の一部として見て下さい、という事です。御聖体をいつも拝領している事ができますように。」

 実は、私は昨日、イエズス様への聖心の信心と、私たちのイエズス様との一致について黙想して、その後に、昨日、初金の御聖体拝領の時に、「あぁ、イエズス様は、皆さんの霊魂1つ1つと、こんなに1つとなりたい、全てを与えておられる。皆さんも、イエズス様に、全ての1つを与えておられる。」というのを見て、「あぁ、」御聖体を授けながら、非常に大きな感動を覚えておりました。イエズス様の聖心の私たちに対する愛、一致の愛と、皆さまのイエズス様に対する一致への愛、それを何か目前にして、とても美しいと思っていました。

 幼きイエズスの聖テレジアも全く同じで、「いつも御聖体拝領をしていたい、御聖体と一致していたい。できるならば、私は御身の御聖櫃となりたい。ですから私はお願いします。私を御身の聖櫃として下さい。決して私から離れないで下さい。」というお願いをしました。「私は御身と1つとなりたいのです。私の中にいつも留まって下さい。私のものはあなたのものです、あなたのものは私のものです。」「私は、イエズス様の望みの通り、この世の罪を償いたいと思います。御身をお慰めしたいと思います。だから、私をして罪を犯すような自由を与えないで下さい。御身を悲しませる事がないようにして下さい。いつも御身を喜ばせる事、慰める事だけ、御身の望みを果たす事だけを考えるように、いつもそれだけに1つにして下さい。」最後にこのお祈りの中で、「私は御身に感謝します。何故かというと、あなたは私に苦しみを与えて下さったから。この苦しみの坩堝の中で、私を溶かして下さったから。これほどの十字架と苦しみを与えて下さった事に感謝します。」

 永井博士のようです、「長崎に原爆を落として下さった事を、皆感謝しよう。私たちは、天主様の生贄として選ばれた者となった、感謝しよう。」原爆の落とされた、その直後、多くの修道者、神父様たち、教会を失った、家族を失った博士は、皆にそう言って、「感謝をしよう。」と呼びかけました。

 幼きイエズスの聖テレジアも、「この苦しみを感謝します。だから御身の御栄にも、苦しみにもこう与ったお恵みを感謝して、どうぞ御身の御栄にも与るのを許して下さい。できれば御身の5つの聖痕の栄光を私にも下さい。」「私は、御身の正義を纏い(まとい)たい。愛の生贄となりたい。愛の殉教者となりたい。愛に生きたい。愛に於いて死にたい。」と、いつも思っていました。

 まさに、イエズス様との深い愛による一致によって、幼きイエズスの聖テレジアは、イエズス様の心を、愛で傷付けてしまったのです。幼きイエズスの聖テレジアの祈りに対して、もはやイエズス様は、何の拒否もできずに、「あぁ、我が愛する花嫁よ、さあ来なさい。レバノンから来なさい。さあ我が妹よ、我が花嫁よ、さあ来い、私の心は傷ついた、愛によって傷付いた、とろけてしまった、さあ。」

 そうする事によって、幼きイエズスの聖テレジアは、多くの霊魂をイエズス様のもとに引き戻すお恵みと、バラの花を天から雨と降らすお恵みを受けたのでした。

 では、私たちは今日どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?私たちも、幼きイエズスの聖テレジアに倣って、愛に生きる事に致しましょう。私たちも幼きイエズスの聖テレジアのようにおそらく、隠れた謙遜な単純な生活をして、奇跡を起こすわけではないし、世界を巡礼して旅するわけではないし、殉教の血を流して十字架に付けられて火で燃やされるわけではないし、皮を剥がれるわけではありませんが、しかし、愛によって、イエズス様の全ての、イエズス様から与えられる全ての日常の試練を、感謝をもって受け、イエズス様の聖心を決してお悲しませする事がないように、私たちとイエズス様は1つである、という事をいつも自覚していますように。私たちの行動はイエズス様と共に於ける行動であって、私たちの祈りはイエズス様と共の祈りであって、私たちの全ての生活はイエズス様と共の生活でありますように。

 幼きイエズスの聖テレジアは、これをマリア様から学びましたので、私たちもマリア様から、勝利の聖母から、汚れ無き御心から習う事に致しましょう。聖母の御取り次ぎと、聖テレジアの御取り次ぎによって、私たちがますますイエズス様と一致できますように。多くの霊魂がイエズス様のもとに来ますように。イエズス様を知り、愛し、礼拝し、多くの霊魂が救われ、救霊のお恵みを頂けるように、お祈りを致しましょう。

 「もしも幼子のようにならないならば、誰も天国には入れない。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ) 10月25日の報告:天主の御憐れみを賛美しよう

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 11月1日は、諸聖人の祝日でした。
 いかがお過ごしでいらっしゃいますか?ご無沙汰して申し訳ありません。

 10月25日は、レネー神父様が大阪でミサを捧げて下さいました。レネー神父様に感謝します。天主様に感謝します。





 次のようなご報告を頂きましたので、ご紹介いたします。

 こちらフィリピンでは、司祭の黙想会がダヴァオでありました。9名の司祭が参加しました。

 マニラでは、修道院長会議が二日間にわたってあり、色々なことを話し合いました。いろいろなことが決定されましたが、そのうちの一つが、来年、日本に月に二回訪問してみる、ということです。そのために、ミサの回数が増え、聖ヨゼフ様の祝日が日本でお祝い出来るようになりました。日本のお恵み倍増計画んついて天主様に感謝します!

 【来年の聖週間については、今現在の予定では、残念ながら不可能の予定です。】

 修道院長会議での決議以外では、次の予定が立てられています。

 3月には、総長第2補佐のネリー神父様が日本を訪問される予定です。

 恒例の秋田巡礼について、来年は十周年に当たり、それを記念して天主様の御憐れみを乞い求めて日程と行き先を拡大し、4月29日から5月8日まで、長崎と秋田とに巡礼をすることになりました。

 来年の8月には、11日から15日まで聖母黙想会が日本で開かれる予定です。

 来年の9月には、ティシエ・ド・マルレ司教様が初の日本訪問をされる予定です。

 天主様の御憐れみを感謝します。天主様の御憐れみをとこしえに祝福します。
Misericordias Domini in aeternum cantabo!

 さて報告です。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

10月の大阪での主日のミサの報告をお送りいたします。

10月25日(主)王たるキリストの祝日の歌ミサには20人が、
翌  26日(月)諸聖人の随意ミサには11人が御ミサに与る御恵みを頂くことが出来ました。デオ・グラチアス!

25日のミサの後、神父様と「カトリックの黙想と仏教の黙想」と題しての講話をして頂きました。
講話を通してカトリックの祈り・黙想の意味、結果を再認識するとともに、天主の存在を認めない異教の人々のために善き見本であるマリア様に祈り方を教え頂きながら私達カトリック信者は祈らなければならないと痛感いたしました。
【報告 終わり】

【質問】
 2016年は次の1級祝日が、金曜日に当たります。

1月1日 金 主の御降誕の八日目(1級祝日)白
4月1日 金 復活の金曜日(1級)白
6月3日 金 イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白
6月24日 金 洗者聖ヨハネの誕生(1級祝日)白
7月1日 金 イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤

この全てで小斎が免除されるのでしょうか。それとも、一部だけでしょうか。

【お返事】
 「守るべき祝日」では、大小齋が免除されます。
 日本では守るべき祝日は、クリスマスと1月1日です。
そこで、2016年1月1日(金)主の御降誕の八日目(1級祝日)は、小齋が免除になります。
 その他の祝日については、小齋の免除はありません。


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会 レネー神父様説教 王たるキリストの祝日 イエズス・キリストが王であるということの意味

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年10月25日に大阪でレネー神父様がしてくださった御説教をご紹介いたします。

 私たちの主イエズス・キリストは、私たちの本当の王です。私たちを恵み愛する王です。私たちは、イエズス・キリストの臣下です。イエズス・キリストの御国に属しているとは、なんと幸いなことでしょうか!イエズス・キリストのくびきは軽く、優しく、憐れみに満ちているからです。

 私たちは、王から多くを恵まれたにもかかわらず、罪をもってこの良き王に何と多く背いてきたことでしょうか! 

 願わくは私たちの心が全て王たるキリストのものとなりますように!
では、レネー神父様のお説教をお聞き下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月25日 大阪 レネー神父様説教

王たるキリストの祝日

親愛なる兄弟の皆さん、

私たちの主イエズス・キリストが王であるということは、旧約全体を通じて明白です。ダビド王自身が、多くの詩篇において王たるキリストをたたえるために歌いました。詩篇において、父なる天主はこう言われます。「私は彼を長男とし、地の王のうち、最も高き者と」(詩篇88章28節)する。また、メシアは言います。「『尊いシオンの山の上に、私は王を立てた』。私は主の定めを告げよう。主は私に言われた、『おまえは私の子である、私は今日、おまえを生んだ、私に求めよ、そうすれば私は異邦の民を遺産として与え、地の果てまでも領土として与えよう。鉄のつえで彼らを打ち破り、陶工のつぼのようにかれらを打ち砕け』。さて王たちよ、よく悟れ、地を支配する者よ、学べ。恐れをもって主に仕え、震えおののいて、主のみ足にくちづけせよ、主が怒り給えばあなたたちは滅ぼしつくされる」(詩篇2章6-12節)。

聖福音において、キリストは、癒やしを求める多くの病人によってダビドの子と宣言されます。「主よ、ダビドの子よ、私たちをあわれんでください」(マテオ20章30節)。主は枝の主日に群衆によって王と宣言されます。「ホザンナ、讃美されよ、主の名によって来られる者。祝されんことを。いまや来る、われらの父ダビドの国。いと高きところにホザンナ」(マルコ11章9-10節)。私たちの主イエズス・キリストは、ピラトの前でご自分が王であると告白されます。「『私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士たちはユダヤ人に私を渡すまいとして戦っただろう。だが、私の国はこの世からのものではない』。ピラトが、『するとあなたは王か』と聞いたので、イエズスは、『あなたの言うとおり私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く』と答えられた」(ヨハネ18章36-37節)。するとピラトは、この主張を認めて十字架の上にそれを書きます。「ユダヤ人の王、ナザレトのイエズス」(ヨハネ19章19節)。

キリストの王国は天主の王国であって、聖マテオ福音書では永遠の至福、永遠の命、天の国などと同じ意味です。ですからこの王国は、ここ地上では教会において始まります。カトリック教会は、地上でのキリストの王国であり、キリストの王国を認める人々なのです。実際、私たちの主イエズス・キリストは、天主として全宇宙を統治なさっています。主は自然の法則すべてを定め、人間と天使のための知性と道徳の法を定められました。物質的な被造物はすべて、ただ必要であるがゆえに、これらの法則に従います。霊的な被造物は愛によって法に従うべきなのですが、すべての霊的な被造物がこれに従うという訳ではありません。これが人類の悲劇、罪による悲劇であり、愛という偉大なる法に要約されるこれら天主の法、キリストの法、すなわち「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」(マテオ22章37節)への不服従なのです。

私たち被造物は知性と意志という霊魂の能力を授けられたため、私たちが天国へ行くのは、例えば信仰によって照らされ、愛によって燃え立たされた知性と意志の行いといった「愛の一歩一歩によって」なのです。聖トマス・アクィナスは、主は私たちに天国への道において二重の助けをお与えくださる、と説明します。律法による助けは外的な助けであって、私たちの知性に道を示し、意志に報酬と刑罰によってやる気を起こさせます。究極の報酬は天国の福楽であり、究極の刑罰は地獄での永遠の苦しみです。これは実際、強力な動機付けであり、私たちの意志に対して、その無限の報酬によって善きことをするよう導くとともに、罪という悪、このように善き天主を侮辱するという悪につり合った恐ろしい刑罰によって、悪を行うのを避けるよう動機を与えます。地獄は罪びとによって侮辱された天主の善という面があるのです。

私たちの主イエズス・キリストがお与えくださる第二の助けは、内的な助け、助力の恩寵による助けです。これは善きことを行うという私たちの霊魂の能力(知性と意志)を実際に働かせ、知性と意志を信仰によって天主の真理に執着させ、天主を愛させ、愛によってその戒めに従わせるのです。聖パウロは言います。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。

キリストの法についてよく考えてみましょう。それは、永遠の命へと導く命の法です。最初の三つの戒めは天主に対する私たちの義務に関するものです。その義務は、聖三位一体に対する礼拝、 崇敬、感謝、負っている負債の償い、助けをこい求めることです。礼拝は、天主が至高に優れていることを認めることです。このため、この礼拝はすべて、天主を至高の善、究極の恩人としてたたえます。これは、道理をわきまえた被造物が創造主に対して行い得る最低限のものです。そしてこの地上における礼拝は、私たちに有益です。なぜなら、この地上の礼拝は、私たちの永遠の至福の時、愛情を込めて顔と顔を合わせて天主を見つつ行なう礼拝の義務の準備となるからです。これら最初の三つの戒めは、御父、私たちの主イエズス・キリストへ至る道はひとつしかない、ということを思い出させてくれます。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。私たちの主イエズス・キリストによって立てられた宗教、カトリックの宗教、唯一の真の宗教はこれしかないのです。すべての人のための、唯一の宗教があります。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストはすべての人の救い主だからです。「救いは主以外の者によっては得られません。この世においてわれわれの救われる名は、そのほかにはないからです」(使徒行録4章12節)。このように、私たちには、(インドの異教の神々のような)偽りの神々を礼拝することや、真の天主を誤った方法で礼拝すること(キリストの神秘体であるカトリック教会を拒絶するすべてのプロテスタントや異端の礼拝)はどちらも禁じられ、冒涜は禁じられ、主日を聖化することが命じられています。

これらの戒めは天主を愛する人々にとっては甘美なものです。私たちが天国へ至る道を照らす光です。「戒めは灯(ひ)であり、教えは光であ」(格言[箴言]6章22節)る。天主は、ご自分と友人関係である命に、さらに天主の子としての命にさえも私たちを呼んでおられます。ですから私たちは、天主が示してくださった方法、特にミサの最も聖なるいけにえによって喜んで主を礼拝します。ミサにおいては、これまで地上に存在したあらゆる崇敬、愛、すべての徳の行いに勝るもの、すなわち私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子ご自身が十字架上で御父に捧げられたいけにえを天主にお捧げするからです。

命すべての根源である生ける天主に対する戒めののちには、第四戒があります。これは、私たちに命を伝えた人々、すなわち両親への義務ですが、両親に留まらず、私たちに対して天主の権威を持つ人々全体にあてはめられます。「汝の父と母を敬え。そうすれば、天主なる主がお与えになるこの世において、汝は長く生きることができるだろう」(脱出[出エジプト]20章12節)。

第五戒はすべての人間の命を尊重する義務を教えています。「汝殺すなかれ」(脱出20章13節)。

第六戒が私たちに教えているのは、命の伝達が、天主が意図されたように家庭においてなされるよう尊重することです。家庭とはすなわち、選ばれた者で天を満たすべく、一人の男性と一人の女性が子どもをもうけ、教育するという目的のために一生涯にわたって忠実を守る結合です。「汝姦淫するなかれ」(脱出20章14節)。天主の方法はよいものです。しかし人が自己中心の楽しみのために天主の御業をゆがめるとき、はなはだしいダメージをもたらし、家庭を壊し、子どもたちは別れた両親の間で引き裂かれ、不道徳やあらゆる種類の無秩序をもたらします。純潔の聖域かつ愛徳の学校であるべき家庭が、現代のあらゆる罪、特に妊娠中絶や避妊、また数えきれないほどのあらゆる種類の私通、姦淫、さらには自然に反する罪によって深く傷ついています。まことに、天主の戒めは最も有益で、真にして純粋で忠実な愛という正しい区域に私たちをとどめてくれます。これが可能なのは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵があってのことです。これは可能であるだけでなく、大きな慰めの源です。私の祖父が結婚50周年のときに私たちに言いました。「結婚から50年たったのだから、喜びは最初と同じではないね。しかし、結婚生活を振り返って50年間忠実だったことを思ってみれば、その喜びは最初より大きいよ」。

私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、さらによいことを可能にします。修道生活において清貧、貞潔、従順という三つの福音の勧めを実践することで、霊魂をより高い霊的な命、キリストご自身との神秘的結婚へと引き寄せることを可能にします!私たちの主イエズス・キリストの恩寵がこのようなことを可能にするのですから、結婚した二人が生涯を通じて忠実であり続けるよう、いかにより多くの助けを与えることができることでしょうか。

第七戒が私たちに教えてくれるのは、隣人の生活の手段を尊重することです。「汝盗むなかれ」(脱出20章15節)。正直は、盗むことを避けるだけでなく、隣人に対する私たちの義務を積極的に行い、天主の御摂理が私たちに与えた立場がどんなものであれそこでよく働くということです。ほんの少し考えただけでも、私たちが隣人に対していかに多くを負っているかが分かります。私たちの住居を建てる人々、水や電気を供給する人々、衣服を作り、食べ物を供給する人々です。一人でこれらのことを同時にできるはずがありません。ですから、私たちは仲間である人々の助けを必要としますし、 私たちも、こういった共通善をもたらすようにしなくてはなりません。隣人の善のために、また共通善のために私たちが貢献する度合いに応じてのみ、自分の収入や給料を受けることができるのです。人に損失を与えながら生活するのは正しくありません。

第八戒は、それなしでは人間社会で生活を共にすることができないお互いへの信頼を尊重するよう命じています。「汝隣人について偽証するなかれ」(脱出20章16節)。

最後の二つの戒めは、私たちに外から見える正義を要求するだけでなく、貞潔に反したり貪欲だったりする悪しき望みを禁じることによって、また一般的にあらゆる悪しき望みや考えを禁じることによって、心の中の正義さえも要求します。

「主の律法は完全で、人の魂を慰め、主の証明は真実で、単純な人に知恵を与える。主の定めは正しく、人の心の喜びとなり、主の命(めい)は純粋で、人の目を開(あ)ける。主への恐れは清く、永遠に変わることがなく、主の裁きは真実で、すべて正しい。それはどんなまじりけのない黄金よりも尊く、み言葉は蜜よりも、蜜房のしたたちよりも甘い。教えを受ける、あなたのしもべが、それを守るのは大きな利益である」(詩篇18章8-12節)

ですから、まことに「申し分のない道を歩み、主の法を守る人は幸せである」(詩篇118章1節)!

私たちの主イエズス・キリストが王であるのは、主がすべての人間のために定められた法によってです。しかし、無原罪の御孕りという特権をお受けになり、常に罪のない状態だった童貞聖マリアは別にして、すべての人間は、ある者は多く、ある者は少なく、しかし大抵はさらにずっと多く、天主の法を破ってきました!天主は善き王ですから、御民の弱さをご覧になって、彼らに有罪の宣告をなさることなく、かえって私たちを罪から救い、天国へ至る正しい道に私たちを戻すために、ご自身が地上に来られました。この善き羊飼いは、ご自分の羊が罪という負債を返せるように、ご自分の血を与えてくださり、私たちにすべての徳の完璧な模範を与えてくださいました。

十字架上のいけにえによって、私たちの主イエズス・キリストは、御母を通して私たちに分配してくださるすべての恩寵の報いを得られたのです。主の戒めを守るためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、私たちの主イエズス・キリストの助けが必要です。これが、私たちが毎日祈る必要のある理由なのです。

私たちの主イエズス・キリストは、罪びとをさげすむどころか、罪びとを追いかけて、より良い生活へと戻るよう呼びかけ、悔い改めをするよう呼びかけてくださいます。その罪がどれだけ大きくても、私たちの犯した罪からまさに私たちを救うために御血を流された私たちの主イエズス・キリストは、私たちが自分の霊魂を傷つけた以上に力強く霊魂を癒やしてくださいます。「慈悲は裁きに勝」(ヤコボ2章13節)ち、裁きにまさるのです。主はすべての罪びとに、最も悪しき罪びとにさえも、天国への道に戻るよう助ける恩寵をくださいます。

主は十字架上で亡くなられ、死者の中から復活されましたが、それはまさにそのため、罪びとを罪から救うためでした!しかし、主は私たちが罪の状態のままでいることは望まれません。主は善き医者ですから、主は私たちが健康に戻ることを望まれ、病気のままでいることは望まれません。主が私たちに望まれるのは、主のようになり、聖パウロが言うように、「罪に死んで、天主のために生きる」(ローマ6章11節)ことです。主が私たちに望まれるのは、姦淫の罪で捕らえられた女に言われたように、「もう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)ということです。主は、聖アウグスティヌスが「誤ったあわれみ」と呼ぶ、罪を癒やすことなく覆い隠すあわれみ、心の本当の変化を要求することのなく罪びとを罪の状態に置いたままにするあわれみを望んでおられるのではありません。これは本当のあわれみではなく、あわれみがひどく頽廃したものに過ぎません。

私たちの主イエズス・キリストは、私たちがまさに天主の掟に従えるよう、ご自身をいけにえとしてお捧げくださったので、私たちの主イエズス・キリストの王国が広がり、全ての人に至るよう、 天主と天主の掟の恵みをもたらすため、教会はミサのいけにえを捧げます。どのミサにおいても、ミサは司祭自身やその周りの信者のためだけでなく、教会のすべての意向のため、特に罪びとの回心のためという意向のために捧げられるのです。

私たちの主イエズス・キリストが天と地の元后の冠をお与えになった童貞聖マリアが、私たちを永遠の命に到達させてくれる王たるキリストの戒め、十戒に、心から愛をもって従うために必要とするすべての恩寵を、私たちのために取り成してくださいますように。そして聖母が私たちに強い熱意を与えてくださり、個々の霊魂においても、広くは社会においても、私たちの主イエズス・キリストの王国を拡張していくことができますように。その結果、私たちの主イエズス・キリストのいとも甘いくびきに喜んで服従することによって、私たちが天国の永遠の幸福に達することができますように。

アーメン。


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終について】の黙想

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は「死者の月」です。煉獄の霊魂たちのために祈りましょう。死について黙想しましょう。

私たちも死ななければならないことを思い出しましょう。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終について】の黙想をご提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終について】の黙想
 その1
 今日にも死なねばならないと聞いたならば、誰しも俄かに狼狽して、なお1年、いや1カ月の猶予を求めようとし、その為には大金を投げ出しても惜しくはあるまい。しからば、只今から志を定めて、為すべき事はサッサとしておくがよい。死に臨んでは何一つできるものではない。

 しかもその死のやってくるのは何時かわからないからである。今年か? 今月か? いやいや今日ではあるまいか?

 どうも今のままで死にたくないと思うならば、どうして今のままで月日を送ろうとするのだろうか? 人が急に死んだのを見ては、「マアかわいそうに。何の用意もするひまも無しに・・・」と気の毒に思うのではなかろうか? それなのに自分はその大切なひまを持っていながら、なぜ急いで用意に取り掛からないのだろう?

 主よ、私はいよいよ決心した。これからは御胸に刻まれている私の名を余儀なくも削り去らねばならぬような事は決して致すまい。私は深く主の御憐れみを感謝し奉る。なにとぞ私を助けて行いを改めさせてください。主は私の救霊を望み給い、私も心からこれを望んでいる。願わくば私を憐れんで救霊の恵みを得さしめ、永遠に主を賛美し、主を愛し奉らしめ給え。

 臨終に際して、病人の手には十字架が握らされ、今となってはイエズスの他に信頼でき慰めとなる者はいないのだ、と注意される。しかし今まで十字架もイエズスも愛したことのない人は、これを見ても、慰めはおろかかえって言い知れぬ恐怖を感じるだけであろう。これに反して平素からイエズスを愛し、その為には万事を擲つことを厭わなかった人ならば、この十字架を手にして、これに恭しく接吻するとき、いかなる心楽しい気分を覚えるであろうか。

 最愛のイエズスよ、主は私の全てにましませば、今も臨終の時も、私の唯一の愛の対象とならせ給え。

 その2
 心に罪の重荷を背負っている病人は、ただ「永遠」という語を耳にするだけでも身震いするぐらいである。憐れなる彼は、ただ病の辛さ、医者、薬などのほかは語りたいとも思わない。霊魂のことに対して話題にする人がいると、直ちに嫌気を覚え、「どうぞ休ませてちょうだい!」と話題を打ち切ってしまう。

 病がいよいよもう如何ともしがたい状況に至って、やっと迷いの目を醒まし、「ああ、行いを改める月日があったなら!」と嘆息し、いくらかの猶予を求めようとする。しかし「もう出発の時が来た。早くこの世を去れ!Proficiscere de hoc mundo (臨終の信者にする教会の祈祷文)」と言われるばかり。「今一度他の医者にかかりたい、他の治療法を試したい」と頼んでも、「医者?治療法?今は永遠に入るときです!早く!早く!」と促されるばかりであろう。ああ、その時ばかりは、果たしていかなる気持ちがするであろう。

 「キリストを奉じる霊魂よ・・・この世を去れ」(祈祷文68)かねてより主を愛し奉る熱心な信者は、この「去れ」という命令を受けても、決して肝を冷やすようなことはない。かえって自分が万事を超えて愛し奉るその御主を失う気遣いも、いよいよ今日で最後かと思って言い知れぬ喜びを感じ、小躍りするばかりである。

 「願わくば汝、今日安楽の座を占め、天国の中に住いを得んことを」(祈祷文268)、自分は主の聖寵を保っていると安心して静かに死の来るのを待っている人の為には、いかに楽しい言葉であろう。

 主よ、私もこの安楽の座に導かれ、喜び極まって、今こそ主を失い奉る心配がなくなった!と叫ぶことが出来なければならぬ。主の値高き御血の功徳によって、私は熱くこれを望み奉る。

 「主よ、僕の叫びを憐れみ、その涙を憐れみ給え」(祈祷文268)、愛すべき御主よ、私は臨終の時を待たず今から我が罪を憎み嫌い、これを一心に痛悔し、悲しみの余り胸が破れてしまいたいと望み奉る。嗚呼、無上の善にてまします主よ、私は主を愛し奉る。私は主を愛し奉る。私は一生涯愛しては嘆き、嘆いては愛して、身を終わりたいと決心し奉る。

 「主よ、彼は異なれる天主に造られし者に非ずして、活ける真の天主に造られし者なることを認めたまえ」(祈祷文268)、ああ主よ、私は主のために造られた者であれば、何とぞ私を退け給うことなかれ。私も今までこそ主を軽んじ奉ったが、しかし今では万事を越えて主を愛し奉る。主のほかには何一つ愛さない決心をしているのである。

 その3
 平素から格別主を愛していなかった人は、臨終の聖体を見ても何となくうら怖ろしく覚えるものである。しかし、かねがね主の他に愛するものなしと言うぐらいの人ならば、主が忝くも永遠の旅路の糧とも、道連れともして、己のあばら屋を訪れてくださったことを思って、希望に満ち、感涙に咽ぶのである。

 塗油の秘蹟を授かる段になると、悪魔はこれまでに犯した罪を急に思い出させて失望の淵に突き落とそうとするかもしれぬ。であるから今のうちに残らずその罪を痛悔・告白して罪の赦しを得ておかねばならぬ。秘蹟を授かり終われば、親戚、友人は退き去って、ただ病人一人が十字架と共に残されるであろう。

 主よ、臨終に際して、人はみな私を棄て去るとしても、主のみは決して見捨て給うことなかれ。私はただ主お一人を杖とも柱とも頼み奉る。「主よ、我主に信頼したれば、永遠に辱められじ」(詩篇30-2)

 ああ聖母よ、御身は罪人の御母にましまして、いかなる重罪人でも御前にはせ寄ると、決してお見捨てになることはない。私の臨終に際しても、なにとぞ憐れみの御手を伸ばし、来たり助け給え。アーメン。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終の苦悶と死去について】の黙想

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「死者の月」の黙想のご提案をいたします。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによる【臨終の苦悶と死去について】の黙想をどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【臨終の苦悶と死去について】の黙想
 その1

 冷や汗が額に噴出す、目は眩み、脈拍は弱まり、手足は凍えてさながら死体のようになる。臨終の苦悶は遂に襲ってきた。彼の運命の時は瞬く間に迫ったのである。苦しい息は次第に細り、死期の近い兆候が現れた。司祭は祝別済みの蝋燭を病人の手に握らせ、臨終の祈りを始める。ああくすしきともし火よ、今私の心を照らせ。為したる悪事に薬をつける暇の無い時になっては、汝の光も格別益にはなるまいから・・・。

 この物悲しい蝋燭の光に照らされたら、世間の儚さ、罪の重い憎たらしさなどが手に取るように明らかに見えるであろう。

 遂に彼は行き絶えた。その最後の一息こそ彼にとってはこの世の終わりで、永遠の始まりだ。幸の永遠か、禍の永遠かは、実にこの一息によって定まるのである。

 主よ、私を憐れみ給え。私の罪を赦し給え。私を堅く主に結びつけて、滅びの不幸に陥らせることなかれ。

 いよいよ息絶えたと見るや、司祭は跪いて「天主の聖人は来たりて彼を助け、天使は出でて彼を迎え・・・」と唱え、彼のために安息を祈る。

 主と和解して死んだなら安息を得るに違いないが、万一、聖寵を失ったまま死ぬようなことでもあれば、それこそ可哀想なことで、天主が天主でまします限り、彼は安息できないであろう。

 主よ、私はこれまで幾度となく世の儚い楽しみに引かれて主の愛も聖寵も振捨てた。もしその時に私の命を取り上げておられたら私はいかなる不幸に泣かなければならなかったであろうか。御憐れみの程を深く感謝し、死ぬまで忠実にお仕えすることを決心し奉る。

 その2

 死ぬと間も無く訃報があちらこちらに伝えられる。聞く人々は思い思いに噂をする。「彼は正直は正直だったが、どうもあまり熱心ではなかったね」と言う者があるかと思うと、「彼は救霊を得たでしょうかねぇ」と言う者もいる。親兄弟は悲しみを忘れようとして、なるべく彼について語らないようにする。やがて彼は棺桶に入れられて墓に送られてしまう。

 さてさて今まで社交界の華と言われていた彼も、今や誰一人思い出してくれる者すらいない。その名を出すことさえ遠慮して差し控えるようになった。彼の部屋を訪ねても彼は影も形も見えない。彼の家具、彼の財産は残らず人手に渡ってしまった。そして彼は今どこにいる? 肉体は墓の中に、霊魂は永遠の世界に。

 彼を見たければ墓穴を掘って中を覗くがいい。以前のすこやかな肉体、元気な顔つき、喜びの色が溢れる彼ではなくて、もはやまったく腐敗した肉の塊がある。豊かな頬も、朱の唇も蛆虫は容赦なく食い尽くしてしまった。余すところは白骨ばかり。それすら時を経ると頭は首と、手足は胴と離れ離れになって、完全なものは一つも残らない。見よ!主に背くことがどれほどのことだとのたまっていたその体の成れの果てを。

 ああ天国の聖人達よ、現世で肉体を責め懲らしめられた貴方達はどんなに賢かったことか! 今や貴方達の遺骨は祭壇の上に安置され、霊魂は限りなき栄光を帯び、主を目の当たりに眺めつつ公審判の暁を待ち望む。かつてこの世の苦しみを共にした肉体と再び合体して、永遠無窮に天国の栄光を楽しむべき公審判の暁を待ち給うのである。

 主よ、私も聖人達に倣い、今のうちに肉体を懲らしめて我が罪を償い、主を一心に愛し、後に天国において、聖人達と共に、いつまでも、いつまでも主を賛美し奉りたい。何とぞ御憐れみを垂れて私を顧み給え。私の罪を赦し給え。

 その3

 私が今永遠の世界に在るものとすれば、主の為に何をしていたらよかったのに!と思うだろうか。

 聖カミロはしばしば墓穴を覗き、一人自ら嘆息して「この人が蘇って、再び世に出ることが許されるなら、終わりなき命の為に、どんな努力でも厭わないであろう。それなのに今私は何をしているのだ?」と言って奮い立たれた。私は永遠の為に今まで何をしたであろうか?

 死んだ上では幾ら望んだところで一分間の命すら与えられない。しかし私にはいまだ充分な月日が残っている。今これを何のために用いねばならぬ? いたずらに世の栄華、快楽を漁りまわっていてよいのだろうか? そうやって天国の為に何の備えもしていない間に、突然「現世を去れ」という命令を受けたらどうするつもりなのであろうか?

 主よ、私は憎んでも足りない恩知らずではあるが、しかし御憐れみを垂れて私を顧み給え。他の人は暗闇の中で罪を犯したけれど、私は真昼間に主に背き奉った。罪を犯せばいかなる辱めを主に加えることになるのか重々承知しながら、聖寵の光も、主の御勧めも踏みにじり、散々悪事を働いた。しかし主よ、「願わくば我が恐れとなり給わざれ。主は禍の日に我が避難所にまします」(エレミア17-17)。しかり、イエズスよ、主は私の唯一の避難所にましませば、臨終の苦悶の時、私の恐れとなり給わず、かえって何よりの信頼となりたまえ。

 ああ聖母よ、私はひとえに御憐れみに縋り奉る。アーメン。

カトリックの祈りと仏教の「黙想」との大きな違いについて 聖ピオ十世会 レネー神父様講話

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。レネー神父様がマニラにおられ、私が秘跡についての公教要理の試験を学生たちにしなければならないという話をすると、幼きイエズスの聖テレジアが11才の時に受けた公教要理のテストの話になりました。聖テレジアは、その他はすべて完璧な答えをすることができたのですが、一つだけ答えられなかった問題があったそうです。その質問とは、「モーゼの義理の父親の名前は何か?」でした。

 愛する兄弟姉妹の皆様には、この答えがわかりますか? コメント欄に書き込んでくださいね。

 さて、レネー神父様が、10月25日の王たるキリストの祝日に大阪でしてくださった、聖伝のミサの後の講話、カトリックの祈りと仏教の「黙想」には天と地ほどの違いがあることについて、をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月25日 レネー神父様説教(勉強用)



 カトリックの黙想と仏教の黙想との違い

 親愛なる兄弟の皆さん、

 ある日、「イエズスはある所で祈っておられた。それが終わったとき弟子の一人が、『主よ、ヨハネが弟子に教えたように、私たちにも祈りを教えてください』と言った」(ルカ11章1節)。そこで主は彼らに「天にまします」を教えられました。さて皆さんは、仏教徒もまた「黙想する」と主張していることを非常によくご存知でしょう。また最近、あるオーストラリアの信者が私に、オーストラリアの仏教団体からの情報を送ってきて、助言を求めてきました。その仏教団体の資料を研究したのち、明らかな結論が出ました。カトリックの祈りと仏教の「黙想」には天と地ほどの違いがあります!

 「天にまします」は子の父に対する祈りです。そもそもの最初から、祈りとはこのように人間のペルソナと天主の一つのペルソナとの間の関係です。このペルソナ的(人格を持った対話可能)な天主は、ご自分の子についてすべてを知っておられ、父親のうちで最もよい父親として子のことを気にかけておられます。カトリックの信仰は、天主が至高の知性、究極の霊的実在であり、よってこのようにペルソナを持っていると認めます。天主は、創造に浸透していく目に見えないエネルギーではなく、被造物と区別できないあいまいな実在でもありません。天主は、天主だけが「自分自身によって存在する」という事実そのものから、すべての被造物と明確に区別されます。つまり、自分自身で存在する自己充足の存在なのです。天主が存在を受けたのではなく、天主が自分で存在を持っておられます。天主は至高の存在です。すべての被造物は自分自身で存在できず、自分自身の存在をすべて天主から受けたのです。被造物は「他者によって存在する」、つまり、他者からその存在を受けた、他者に依存した存在なのです。

 仏教徒はペルソナを持つ天主を信じていません。霊魂の霊的性質を信じてさえいません。彼らの哲学は感覚と知性をはっきりとは区別しません。(これが、彼らが菜食主義者である理由です。彼らは、まるで人間とけだものに全く違いがないかのように、「感覚を持つすべての存在」を同じカテゴリーに置いているからです。)このため仏教徒にとっては、天主とペルソナとしての関係を結ぶことができないのです。天主がペルソナとして存在していることを信じてさえいないのです!彼らは、実在の背後にあいまいなエネルギーがあると考えており、そんなあいまいなエネルギーと関係を結ぼうと努力しているのです。これは、これから見ていくように、非常に危険なことです。

 まことの天主は創造主であり、被造物に見られるあらゆる善性の源ですから、天主がそのような善性を持っておられなかったとしたら、それを被造物にお与えになることはできなかったでしょうし、また、天主はお与えになった善性を失われなかったのですから、私たちはすべての被造物の持つ善性を至高の水準で天主の内に見るのです。被造物は、至高の善性の小さくて限定された複製物にすぎないのです。そのため、天主は最高位の知識と意志を持っておられなければなりません。天主は私たちが祈りで言うことをご存じであり、私たちを気にかけてくださいます。ですから、詩篇作者は無知な者を次のように非難します。「民の中の愚か者よ、悟れ、痴れ者はいつ正気に戻るのか。耳を植えた者が聞かず、目を造った者が見ないと思うのか」(詩篇93章8-9節)。天主は私たちが祈っていることを知るために耳を必要とはされません。天主は、私たちが祈る前からそれをご存じだったのです!

 私たちのことをすべてご存じである天主、全能の天主という概念が、仏教徒にはありません。彼らは天主の御摂理を信じておらず、盲目の宿命を信じています。祈りが天にまします愛する御父から何かを「獲得する」ことができると信じておらず、あたかも黙想の目的が単に体内のホルモンやほかの化学物質を刺激することだけであるかのように、黙想の実りに関する唯物論的な説明がある、と考えているにすぎません(この「オーストラリア仏教至福センター」によれば!)。

 でも、言葉を使った祈りであっても単なる黙祷であっても、私たちが天主に祈るのはよいことです。祈りがよいことであるのは、それが天主をたたえることであり、私たちの知性の最もよい使い方であり、その知性を知られうる限りの至高の対象へ向け、「天主に心を上げること」であるからです。実際、聖トマス・アクィナスの教えによると、祈りは本質的に、天主に向けられる知性の行いです。あらゆる会話が知性の行いであるように、祈りは天主との会話であり、私たちが行ううちで最高の会話なのです!ここから、まことの祈りは人間の地上における最高の活動であると、私たちは疑いなく言うことができます。最高の能力(知性)の活動が最高の対象(天主)に向けられるからです。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、天主の子が、主が教えてくださったように天の御父に語りかけるのは難しくないのです。

 仏教徒にとってはまったく逆で、黙想は「何も考えない」ようにする努力を要求されます。はい、実際これが、このオーストラリア仏教センターの「黙想コース25番」にはっきりと書かれています!これは、祈りに関する聖トマス・アクィナスの教えである「知性の行い」の正反対です…。

 仏教徒は、霊魂の力を止めるよう努め、できるだけ静寂の状態を保ち、「何も考えない」ようにします。すると何が起こるでしょうか?彼らは最後には、感覚にすべての注意を払うようになるのです。彼らは次のようにはっきりと言っています。「あなたは行ったり来たりする思いや感覚、感情を知ります」。そして、何も考えないようにすべきであるので、「感覚と感情」だけが残るのです。カトリック教会の教えによると、徳は「正しい理性」(賢慮の徳)によって「感覚と感情」を制御することです。しかし、仏教徒は理性の活動を拒絶することによって、この制御をなくすのです。

 カトリックの黙想の主な対象は、「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)私たちの主イエズス・キリストです。実際、会話は双方向です。私たちは天主に対して考えを表し、天主の考えを聞きます。しかし、天主は私たちにどのようにして語られるのでしょうか?人は自分の「感覚と感情」を信頼できますか?できるはずがありません。そのような欺きを避けるために、天主は啓示によって人間に客観的に語られました。聖パウロがヘブライ人に向かって言います。「天主は、何度もいろいろな方法で、その昔預言者を通じて先祖に語られたが、この終わりの日々には子を通じて語られた」(ヘブライ1章1-2節)。私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を聞くとき、人は天主のみ言葉を聞くのです。しばしば私たちは、このみ言葉の真理の深さを理解していません。私たちは、童貞聖マリアの例に従って、黙想する必要があります。福音書は言います。「マリアは注意深くそのことを心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。聖母は本当に、カトリックの黙想の模範です。ですから、「何も考えない」のとは全く違います。それどころか、カトリックの黙想は、私たちの主イエズス・キリストの真理に考えを巡らし、それで心を満たすのです。

 反対に仏教徒の黙想は、真理へ注意を向ける考えを意識的、精神的に制御することを拒絶します。順序立てて考えることを拒絶し、「多くの考え(ばらばらの思いや考え)が出てきても、それらを考えるのではなく、やり過ごす」ようにするのです。その目的は「実在についての概念的でない体験」に到達することです。そして、彼らはこれこそ真理だと主張するのです!

 これは間違いなく大きな欺きです。実際、真理の定義は「知性と現実の一致」です。もし知性の活動を台無しにして、「概念的でない体験(知性で把握できない体験)」を探し求めれば、そこには真理も、知性と実在の一致もありえません。彼らの言うように「考える過程を置き去りにすること」によって、真理を発見することは不可能です。これは非科学的の最たるものです。考えることを拒否したならば、結果に到達したり、実在についての真の知識に到達したりする科学者などいるはずもありません!科学の偉大なる進歩は西洋文明の実りであり、キリスト教が知性の活動を評価したことに基づくのであって、仏教の「何も考えない」という概念に基づくのではないことは驚くにはあたりません。仏教徒はこのようなやり方で何に到達したのでしょうか?彼らは言います。「あなたに残るのは自覚だけです。さあ、体験しましょう、存在が制限を受けない状態を。考えを超えて、内容を超えて、普遍的で、限界を超えた存在を」。

 この「体験」は、近代主義者の神である「内在」の実り、例えば「感覚と感情」によく似ています。しかし、明確に順序立てて考えることを拒絶すれば、「悪霊」(エフェゾ6章12節)に対する防御のない状態に置かれてしまうということを考えなければなりません。この悪霊は、術にたけた詐欺師であり、その欺きを増加させるために楽しい感情を与えるのが大変上手なのです。まことに、「異邦人の神々はすべてむなしいもの」(詩編95章5節)なのです。

 カトリックの黙想では、より低い能力、つまり感覚の活動、特に想像力の活動をなくそうと意識的に努力しますが、これは、より高い能力である知性の活動を促進させるためであり、知性を天主に、天主の属性に集中させ、特に「永遠の光明の反映であり、天主の行いの、曇りなき鏡」(知恵7章26節)である私たちの主イエズス・キリストに知性を集中させるためです。黙想の実りは聖パウロによって美しく描写されています。「私たちはみな覆いを顔に垂れず、鏡に映すように主の光栄を映し、霊なる主によってますます光栄を増すその同じ姿に変わる」(コリント後書3章18節)。天主の御子と同じ姿に変わること、これが聖パウロがローマ人に教えた予定説の成就です。「天主は御子の姿にかたどらせようと予定された」(ローマ8章29節)。また、エフェゾ人にはこう言いました。「天主は創造以前から私たちを選び、愛によってご自分のみ前に聖である者、けがれない者とするために予定された」(エフェゾ1章4節)。これが、カトリックの黙想の実りなのです!

 このように、本当の祈りは天主との会話です。祈りは、天主との友人関係という驚くべき行いであり、そこにキリスト教徒の生活全体があり、そこでは常に私たちのそばにいてくださる天主という友人に注意を向けます。なぜなら天主は、被造物とは違って、どこにでもおられるのですから。天主は純粋な霊です。天主は、ある場所に体があるというようにある場所におられるのではありません。霊は、それが活動するところにいます。天主は存在するすべてのものを支え、どこででも活動されていますから、どこにでもおられます。しかし、天主を愛する人々の霊魂には、非常に特別な天主の現存、友人としての現存があります。なぜなら、天主は彼らの霊魂においては、成聖の恩寵と愛徳を彼らに注ぎ込むという非常に特別な方法で活動されるからです。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。祈りと黙想は心を開き、この愛徳の流出、聖霊の流出を受けるように霊魂を開くのです!

 祈りとは、絶え間のないカトリック信者の活動です。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「うまずたゆまず祈れ」(ルカ18章1節)、また「いつも警戒し、そして祈れ」(ルカ21章36節)。さらに聖パウロは言います。「すべての祈りと願いをもって心のうちでいつも祈れ。たえず目を覚して、忍耐づよく、すべての聖徒のために祈れ」(エフェゾ6章18節)。聖ヨハネ・ボスコは、「絶え間なく天主に心を上げていた」と言われています。幼きイエズスの聖テレジアなら、天主のことをはっきりと考えないまま3分以上過ごすことはなかったでしょう。人は愛するとき、愛する者のことを考えます!愛するお方が私たちと一緒に目の前におられて、私たちに注意を払ってくださっているとき、これはますますそうでしょう。実際、天主はいつも私たちをご覧になっており、私たちを愛しておられるのですから。

 しかし、特に祈りのために捧げる特別な時間を用意しておくのはよいことです。祈りと黙想に集中したこの時間が一日中続けば、愛する人々には重荷ではない天主の法に忠実であるのに必要な恩寵を得るでしょう。すべての祈りの中で、教会が特別に勧めるのは聖なるロザリオです。現在では昔よりさらにロザリオが必要になっています。特に、レパントの海戦のときのように、童貞聖マリアだけが打ち破ることのできるイスラムが力を持ちつつある現在では。

 しかし、この地上での最高の祈りは、ミサのいとも聖なるいけにえです。私たちはミサで、地上からいとも聖なる三位一体に捧げられた愛・礼拝・すべての徳による偉大なるわざ、すなわち私たちの主イエズス・キリストの十字架上のいけにえに自分を一致させるのです。これが「偉大な祈り」です。自分のすべてを天主に奉献することであり、私たちの主イエズス・キリストに私たちを合わせるようにしてくれる変容の祈り、主が「私の肉を食べ私の血を飲む者は私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章57節)と言われたように、私たちを同じ天主の似姿に変容させてくれる祈りです。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。

 善き主が、仏教によって欺かれてきた人々を解放し、彼らを愛する御子に導き、本当の信仰、カトリックの信仰によって、彼らが本当の祈りとは何か、本当の黙想とは何かを見つけることができるよう祈りましょう。それは、顔と顔を合わせて天主を見るようになる永遠の命のための準備であり先取りなのです。

 これについて、聖ヨハネは言います。「考えよ、天主の子と称されるほど、御父から計りがたい愛を受けたことを。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは御父を認めないからである。愛する者たちよ、私たちはいま天主の子である。後にどうなるかはまだ示されていないが、それが示されるとき、私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主に対するこの希望を持つ者は清くなる」(ヨハネ第一3章1-3節)。

 この10月に、祈りの模範、特に十字架の下で祈りの模範を示された童貞聖マリアが、どう祈ればよいか私たちに教えてくださいますように。アーメン。

「天の国は、婚姻の席を準備する王のようだ。」 キリストの神秘体について 聖ピオ十世会小野田神父説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 皆さま、すごいですね!モーゼの義理の父の名前は、イエトロです。イエトロは、娘のジッポラをモーゼに嫁がせています。

 では、モーゼの生みの親の、父親と母親の名前は何でしょうか?コメント欄に書き込んでくださいね。

 さて、10月4日の主日の東京で聖伝のミサを捧げました。その時の説教をご紹介いたします。

 最近、コンピューターのキーボードの調子が良くなく、苦労していました。今回、ようやく、新しくコンピューターを購入することにしました。まだ慣れていないのですが、何とか普通に文字が打てるようになりました。天主に感謝します。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年10月4日 聖霊降臨後第19主日
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年10月4日、聖霊降臨後第19主日のミサをしています。聖ピオ十世会の聖伝のミサにいらした皆さんに、歓迎の言葉を申します。今日のミサの後、14時30分からいつものように公教要理と、それから16時には主日の晩課があります。月曜日の明日は、いつものようにミサがありますが、ミサの時間が6時15分です、どうぞご了承ください。それから来月のミサは、11月8日と9日です。8日はいつものように10時30分からミサがあります。

3つほどお祈りのお願いがあります。1つは、すぐ今週、私の理解が正しければ、ローマで家族に関する特別の司教会議「シノドス」が開かれます。そしてこのシノドスでは、カトリックの倫理や道徳に反するような教えが交付されるのではないか、という懸念があります。それは既に、幾名かの司教様や枢機卿様たちがその懸念を発表して、今、司教様や枢機卿様たちが2つに分かれて戦っている、という報道が流されています。これについて、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様も教皇様に、「どうぞ、カトリックの教えをはっきりと表明して下さるように。」と、懇願の手紙を書かれました。どうぞこのローマのシノドスの為にお祈り下さい。今日、このミサの特別の集祷文が使われているのも、私たちが困難な状況から救い出される為のお祈りです。

第2のお祈りのお願いは、今週の月曜、明日から、アジア管区の特にフィリピンで働いている司祭の為に黙想会があります。月曜から土曜までで、皆さんの温かいお祈りを、良い黙想会の実りの祈りをお願い致します。

最後のお願いは、お祈りのお願いは、10月の中旬頃にマニラで、フィリピンの修道院長の会議があって、そして来年の計画について話し合って、そしてその計画について、それを管区長様に提出して、という会議がありますが、非常に重要な会議で話し合いで、それで私はその時に、2016年の日本でのミサ倍増計画を提出しようと考えています。それがうまく受け入れられる事ができるように、どうぞ皆さん、お祈りをお願い致します。できれば東京で主日に、2回、月に2回ミサがありますように、計画を立てています。どうぞお祈り下さい。


「天の国は、婚姻を催す王のようである。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はイエズス様の福音の例えに従って、天の国について、一体、「天の国が婚宴の披露宴のようだ」という事は一体どういう事なのか?その誰と誰の婚姻で、一体どういう何が起こるのだろうか?という事を黙想して、次に、それに反対、その婚宴に反対、それの式に与れないようなものは何なのか?それの結果はどんな事が起こるのかをみて、最後に、結論として、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

では、婚宴の、「天の国は婚宴の式」というのは一体どういう事なのでしょうか?私たちはこの事についてよく黙想してきたので、皆さんよくご存知のはずです。御子イエズス・キリストがまず、天主の御言葉がまず人となって、天主の本性と人間の本性が天主の第2のペルソナに於いて一致している事、位格的融合、これがまず、天主と人間との一致の最初です。

そしてその結果何を望んだか、というと、イエズス・キリストは、御自分と贖われた人たちを全て一つにしよう、と思われました。一つの体としようと思われました。贖われた人たちの組織は、教会と呼ばれます。一なる聖なる公教会です。その公教会とイエズス・キリストが、婚姻の様な、更に婚姻よりももっと緊密な結合によって結ばれる、一つの体となる、という事です。そしてこのイエズス様と公教会、キリストの花嫁である公教会、カトリック教会との一致をうまく表す表現は、「婚姻」というほか、それよりも良いものはありませんでした。そこで、婚姻という事を言います。そして私たちは、その婚姻の席に与るように招かれた者です。ただ単に、「あぁ、結婚している人がいるから、お友達だから与って、『おめでとう』って言う」だけではありません。そうではなく、私たちの霊魂も、一人一人の霊魂が、イエズス・キリストとの霊的な、神秘的な、しかし本当の一致に与る、という婚姻です。

聖パウロは、このイエズス様と公教会の一致の事を、キリストの神秘体としてうまく話しています、「夫よ、妻を愛せ。キリストが公教会を愛したように、キリストがその教会の為に血を流して、命を与えたように、夫よ、妻を愛せ。」そして、「妻よ、夫を愛してこれに従え。教会がキリストを愛して、それに従うように、何故かというと、婚姻というのは、キリストと教会との一致の、ちょうどおぼろな影の様であるから。」と、言います。

当時2000年前、婚姻というものの純粋さ、清さ、或いはその汚れの無さ、という事についてあまり知られていなかった時代に、このような事を言うのは、聖パウロにとって勇気がいったかもしれません、言う必要があったかもしれません。しかし、聖パウロはどうしてもそう言わなければなりませんでした。

そればかりではありません、イエズス様は、御自分と霊魂との一致について、御自分と教会との一致について、婚姻の例えのみならず、別の例えも使っています。それは、「私はぶどうの木である。私の父は農夫である、お前たちはその枝だ。私に留まれ、もしも留まらないならば、お前たちは実を結ぶ事ができない。枯れて死んでしまう。そして死んでしまったら、焼かれて、そして捨てられてしまうだけだ。私に留まれ。」と。

聖パウロも同じ事を言います、「私たちはオリーブの木だ。ユダヤ人は天然のオリーブだけれども、そのオリーブの木から離れて、わざと離れてしまった木であって、私たちは接ぎ木されたオリーブの枝だ。」聖パウロはそればかりではありません、「私たちは生ける石だ。そして生ける建物、神殿、キリストの神殿を、天主の神殿を建てている。その基礎が使徒であり、預言者であり、その隅の親石がキリストである。その石の材料の一つの、生ける石である。」或いは、「私たちは、天主の家族の一員、メンバーの一員だ。」と言います。

これは一体どういう事を意味するのでしょうか?イエズス様が私たちを贖って、私たちを「婚姻に与りなさい。」と言った時に、お客さんとして、「あっ、よく来た来た。ここに招待券があって、ここで、あのこれで飲み物をもらって下さい。」ではなくて、私たちは、イエズス・キリストの家族、その一部として、そこの中に、その団居(まどい)に入っている、という事です。

イエズス様は、私たちの罪の贖いの為に、ちょうどこの税務署に行って、「この子の、何とかさんの税金が払えない、未納なので、それを私が代わりに納付します。何番のいくらです。じゃ、これで領収書です。」とやって、私たちを贖ったのではなくて、イエズス様は私たちを、御自分の一部として、私たちを受け取り、私たちはイエズス様の一部として、そして私たちとイエズス様は、まさに一心同体のものとして、私たちの償いを、負債を支払って下さいました。

聖パウロは実は、その書簡の中で、非常にこのギリシャ語の文法的な誤りを犯しながらも、色々な事を言います、「私たちは、キリストと共に死んだものだ。私たちはキリストと共に葬られた者だ。」“それと共に葬られた”という、そのような単語は無いのですけれども、“共に葬られた”という単語を作り出してしまいます。“共に死んだ”という単語を捏造してしまいます。「そして私たちは、キリスト共に復活した者だ。キリストと共に生きる者だ。キリストと共に、天国に於いて支配する者である、君臨する者である。キリストと共に、天主の右に座す者である。キリストと共に、12のイスラエルの部族を裁く者である。」と、言います。そして更にそればかりでなく、「私たちは、イエズス・キリストの一部として、私たちに於いて、キリストが生きている。貧しい者の内に於いて生きているし、捕われ人の者の内に生きているし、そして迫害された者に於いて苦しんでいる。私たちに於いて、キリストは祈っておられる、祈る私たちと共に、キリストは祈っておられる。」と、言います。

つまり、天主様天主御父は、私たちを見る時に、「単なる人間」ではなく、「イエズス様の一部」として、私たちをご覧になる、という事です。

考えてもみて下さい、どんなに小さな産毛の一つであろうが、私たちの体の一つだとして、天主御父は、私たちをご覧になって下さる。もう分かち難く、一つの体としてご覧になっている。そして私たちのする事は、キリストの行動となって、キリストは私たちの為に祈り、行動し、ちょうど夫婦が一つの家族として行動するかのように、更に更に更にもっと、イエズス・キリストは私に於いて生き、私はキリストに於いて生き、キリストと私は一つだ、という事を示しています。

これが、私たちが招かれている「婚姻の席」なのです。

そして第2に、この婚姻の席に、このような一致に、このような緊密な愛による一致に対して、私たちをそれに与らせない、何か邪魔ものはあるでしょうか?どうしたら、それにより良く与る事ができるでしょうか?

それが、「天主の聖寵」です。罪のない状態です、罪が赦された状態です。イエズス様がその御血潮を以って、私たちの為に買い取って下さった、贖って下さった、天主の命です。私たちに於いて生きている、成聖の恩寵こそが、唯一私たちをして、イエズス様と一つにならせて下さいます。そして私たちに、天の遺産を相続させる権利と、イエズス・キリストの名前に於いて、天主御父の右に座す。或いは、天の栄光を、終わりなく喜ぶ、楽しむ、キリストと共に楽しむ、その権利を与えてくれるものです。

もしもこれがなければ、私たちは全てを失ってしまいます。天主の聖寵というのは、それほど大きなお恵みなのです。目に見えないのですけれども、それほどの効果を持っています。でもそれを失うには、たった1つの事をすればよいのです。この服を脱ぎ捨てるには、成聖の恩寵を脱ぎ捨てるには、たった1つの事をすればよいのです。それは何かというと、大罪を1つでも犯せば、それで終わりなのです。

大罪を犯してしまうと、もはや私たちは、天主の敵となってしまいます。何故かというと、私たちはそうだと知りながら、罪であると知りながら、天主に背くと知りながら、自由に、それに同意して、天主の国に「嫌だ。」と言うからです。天主様が嫌がっている、御望みにならない、というのを知りながら、「嫌だ。」と言う事であるからです。その時に私たちは、「何故お前は、大罪の状態で、婚姻の服を着ずにここに来たのか?外に出なさい。私はお前を知らない。」「呪われた者よ。私を離れて、永遠の地獄に火に入れ。」と、言われるしかありません。

これは、天主のイエズス様のせいではありません。私たちがそうと知りながら、自由に、犯した罪の為です。その時に敢えて、罪の状態を選んだ私たちは、どれほど悲しみ嘆く事でしょうか。

ダビドの王に、アブサロンという子供がいました。そのアブサロンは、ダビドの言いつけに背き、「もう、お前は子供だけれども、俺の目の前に来るな。」と、言われました。非常にそれに失望して、嘆いて、そして自分の弟子を召使いを使って、「何とか、何とかもう一度目の前に行く事ができるように。」と、頼んだ事があります。

私の読んだところでは、スペインの王のフィリッポ2世は、あるどこかの貴族が、教会の中でちょっと不適切な行動をして、天主の御前に背く事をした、という事を受けて、「もうお前は目の前に来るな、帰れ。」と言ったそうです。そしたら、その貴族は非常にそれに失望して、それにがっかりして、その後息を引き取ってしまったそうです。

考えてもみて下さい。皆さん、この前私たちは一緒に、宮中に晩餐会に呼ばれる事について、色々話しましたが、想像してみましたが、考えて下さい、「聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っている方々は、皆例外なく、これからは宮中の特別のお友達で、天皇陛下の皇族の一部で、そしてもう自由に、特別のお友達として自由に皇居に来て下さい。自由に使って下さい」と、なっていたはずが、いけないと知りながら、悪いと知りながら、私たちが罪を犯したが為に、「もう来ないで下さい、もう今までの特権はもう終わりです。」という事になったら、私たちはどれ程がっかりするでしょうか。「私は養子の王様の子ですよ、天皇陛下の養子ですよ。」もう終わりです。それは罪を犯す事によって失われてしまいました。

これが、この福音の中で、婚礼の礼服を着ていなかったが為に、外に出される人の運命です。

では最後に、私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?まず第1に、私たちが受けたイエズス・キリストの養子となり、イエズス・キリストの神秘体の一部となり、イエズス・キリストの、天主の命に与り、それに接ぎ木された特別の恵みを受けた者である、というそのとてつもないお恵みを感謝致しましょう。第2に、それに反するものは唯一、罪を犯す事である、という事をよく知る事に致しましょう。そして罪を避け、罪の機会を避ける決心を立てる事に致しましょう。最後に、(イエズス様が)私たちに、どれほどの努力とどれほどの苦しみを以って、この婚姻の席に招いて下さっているか、という事を一番よく理解する事を助けてくれるのは、ロザリオのお祈りです。ロザリオのお祈りをする事によって私たちは、価値がますます分かってきます。そしてそのお恵みを失わない力も、ますます受ける事ができます。ですから特に10月は、ロザリオのお祈りをよくする事に致しましょう。

「天の国は、婚姻の席を準備する王のようだ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会日本による聖伝のミサ 報告・お便り 2015年11月 SSPX Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、


 11月にも、日本で聖伝のミサをささげることができ大変うれしく思います。

 11月6日の初金曜日には、イエズス・キリストの聖心の随意ミサののちにご聖体顕示・聖体降福式があり、約一時間の聖時間を過ごしました。

 11月7日の初土曜日には、九州から初めて聖伝のミサにあずかりに来られた方がおられました。天主に感謝します。

 11月8日の主日には東京で、41名の方がミサにあずかりました。残念ながら、ミサの後でこれらた方々もありましたが、公教要理などを一緒にされて行かれました。新しく聖伝のミサに与った方々が少なくとも2名おられました。天主に感謝します。

 次のようなご報告をいただいたので、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
11日の初金曜日、初土曜日の御ミサの報告をお送り致します。
6日金曜日 イエズスの聖心の随意ミサには13名が、
7日土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサには16名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

7日の御ミサの後には、いつものように公教要理で旧約の時代の勉強を致しました。
今も昔も人類は本当に罪にころびやすく弱い者ですが、天主様が忍耐強く、無限に憐れみ深く、愛深く在らせられる事に深いか感謝と感動を覚えます。
また、遅ればせながら10月の小野田神父様の御誕生日を祝って霊的花束をプレゼントさせて頂きました。

両日のお説教で、私達の救霊の為に十字架上で聖血の最後の一滴まで流し尽くされたイエズス様と、その御足元で御子を捧げ私達の母となって下さったマリア様をお愛しする火をどんどん回りの人達に祈りと行動をもって伝えて最初は小さなな種火ではあっても燃え広がって燃え尽きる事が私達の使命であると伺いました。
お説教を拝聴しながら、また御ミサを続けながら自分のくすぶっていた心の火が少し大きくなるのを感じました。
マリア様と一緒に、マリア様によって、心を天主様への愛に燃え尽くせますようマリア様のお助けをお願いいたしました。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供1人)
女: 23人(内、子供2人)
計: 41人(内、子供3人)


【お便り】
アヴェ・マリア!

こんばんは。お祈りありがとうございます。
昨日、無事子供が産まれました。女の子です。2300gで少し小さいですけど、元気です。
これからもよろしくお願い致します。


【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日一昨日と、初金初土の御ミサ、そして御聖体降福式、公教要理など、本当に色々ありがとうございました!♪♪o(*^▽^*)o
これから毎月、初金曜日には御聖体降福式を捧げて頂けるという事で、本当に嬉しく思います!
御聖体降福式に与る事によって、ますますパワーを頂いて、そしてマリア様の御取次ぎによって、イエズス様の聖心をお慰めする4つの遷善の決心を実行する事ができますように!
イエズス様の御血が無駄に流される事のないように、自分自身はもちろん、隣人の救霊の為に力を尽くす事ができますように、お祈りをお願い致します!m(_ _"m)

デオ・グラチアス!

【お便り】
今日のお説教はとても心にジーンと来ました。
主の十戒も頷き改めて、自分に活を入れました有難うございました。
どうしてもの用事が有りましたけど、そちらをキャンセルして東京に出掛けた甲斐がありました。
返事は要りません。


【お便り】
おひさしぶりです。
お元気でしょうか。
11月に入り生産は減少したため私の配置場所は閉鎖となりました。そして部所の配置が変わりました。

かつての場所には要領の悪い、社会人として、仕事に対して責任感のない方がいて、・・・自分の仕事に支障をきたしていることをロザリオによりマリアさまに打ち明けたところ新しい場所をお与えくださいました。新しい部所は流れてきた製品の正誤を調べ記載する作業ですが不思議なことに気づきました。
次の製品がつくまで待機しているのですが、次の製品が届くまでそれがなんとロザリオ1連分の時間がかかるのです。

なかなか世俗は罪の罠が多く、天主の御教えに背く力が働いていることを実感する毎日でマリアさまがいかに世俗を離れて生活したことにより謙遜を学ばれたかを黙想する日々です。願わくば、・・・この場所で働き続けられますように。

【お返事】
 製品がロザリオによって祝福されているようですね。製品がたくさんできる間に、ロザリオも沢山できそうですね!お仕事は大変だと思いますが、どうぞお捧げください。

【お便り】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは☆ヾ(*`・ω・´*)
ブログのアップをありがとうございます!

マリア様の特別のお恵みによって、イエズス様とマリア様の愛に倣って、私たちも愛徳の実践をする事ができますように!そして私たちの周囲の全ての方々が、イエズス様を愛する愛によって、マリア様を通してイエズス様へと導かれる事ができますように!本当にそれが実現した時にはどれほど幸せなことでしょうか!私の為にもお祈りをお願い致します

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