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命の掟、十戒。「第一戒について(第一部)」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が1月11日(月)にしてくださった、「第一戒について」についてのお説教をご紹介いたします。

 第2回目の11日は、「第一戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月11日―大阪 お説教「第一戒について(第一部)」

親愛なる兄弟の皆さん、

 私たちが前回見たのは、天主の掟が天国への道であること、また、この掟は本質的に、私たちの主イエズス・キリストに倣うことにあり、その命を生きることにあり、あるいはむしろ主が私たちのうちに生きておられ、私たちの中で主の徳を継続させてくださることにあるということです。永遠の命に到達するためには、十戒を守ることが必要です。しかし、十戒自体が「命の掟」なのです。

天主は生きているお方であり、すべての命の源です。さて、天主の命は動物の命、感覚的な命ではなく、むしろ至高の霊的な命です。天主の命は本質的には何でしょうか? 天主は純粋な霊、至高の知性と意志です。天主の命は、天主ご自身である至高の真理を知る命であり、また、これも天主ご自身であるまことの無限の善を愛する命です。天主の命は観想的な命です。天主は非常に偉大であるため、非常に完全であるため、被造物の知性では天主が何者であるかを適切に表現することができません。最も偉大な科学者でも、最も偉大な神学者でも、最も高貴なセラフィムやケルビムでさえ、天におられる童貞聖マリアでさえできないのです。天主のみが、ご自分が何者であるかを適切に言うことがおできになります。ですから、天主は永遠のみ言葉によって、ご自分が何者であるかを言われます。「初めにみ言葉があった、み言葉は天主と共にあった、み言葉は天主であった」(ヨハネ1章1節)。この天主のみ言葉は「愛を呼吸するみ言葉」であると聖トマス・アクィナスは言います。御父と御子は共に、愛の霊、すべてのものを超えた天主の愛、天主のためのすべてのものの愛である聖霊を「呼吸する」のです。永遠において御父からそのみ言葉である御子が生まれ、御父と御子は共に共通の愛の霊、聖霊を呼吸するのです。これが天主の永遠の命なのです! それを見ることを許された聖人たちは、この最も驚くべき黙想において永遠に、うっとりとして心を奪われているのです! 「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。「私たちは天主に似た者になることを知っている。私たちは天主をそのまま見るであろうから」(ヨハネ第一3章2節)。

このように、イエズスが私たちのうちに生き始められるとき、主がなさる最初のことは私たちをして、完全に御父のために生きるように、天主の神殿として完全に天主のために生きるようにさせることです。ですから、これが第一戒なのです。天主は「アルファでありオメガであり、最初の者であり最後の者であり、初めであり終わりである」(黙示録22章13節)。天主は私たちの生活において第一の場所に値するお方であり、私たちの最終的な目的です。天主は私たちの心において第一の場所に値するお方であり、第二の場所に置くべきではありません。私たちは、自分自身を含め、すべてのものと比べてさえも、天主を優先しなければなりません。天主は私たちのうちで統治なさらなければなりません。「み国の来らんことを! み旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを!」(マテオ6章10節)。被造物に最終的な目的という価値を与えることは一種の偶像崇拝であり、第一戒で厳しく禁じられています。多くの人々が「私は殺さない、盗まない。だから私は良い人間だ…」と思っていますが、その最終的な目的は天主に置かれていません。彼らは富や楽しみ、その他造られたものである目標を追求しています。これはまさに第一戒に反する罪です。彼らは自分たちの生活において、天主に第一の場所を提供していないのです。彼らは「金の子牛を崇拝」しており、つまり唯一のまことの天主よりもむしろ、自分自身を崇拝しているのです。

さて、私たちに対する天主の統治は、第一に内的なものです。私たちの知性を統治すること、私たちの意志を統治することです。天主は私たちの知性を信仰の徳によって統治なさいます。つまり、私たちが、私たちの主イエズス・キリストにおいて自ら啓示なさった至高の真理として、天主に忠実を尽くすということです。天主は、私たちの意志を、希望と愛の徳によって統治なさいます。つまり私たちが、すべてに超えて天主を愛し、天主のために他のすべてのものを愛すということです。このように、これらは第一戒によって課された最初の二つの義務であるのです。まことの信仰、カトリック信仰に忠実をつくす義務、そしてすべてに超えて天主を愛する義務です。ここにおいて、霊的な命、まことの信仰と愛によって、いとも聖なる三位一体を愛する観想の命があるのです。

現代世界の多くの人々は、天主は私たちが信じていることに無関心だと思っており、特に私たちが天主について信じていることにさえ無関心だと思っています。そのような「神」は、まことの神、天主ではありません。まことの天主は、すべての真理、とりわけ被造物の真理をご存じである至高の知性でなければならず、自分自身をご存じです。天主がご自分の秘密を人間に啓示され、ご自身のことを話されるとき、天主が話されたことを私たちが信じるか信じないかについて、天主は無関心ではいらっしゃいません。天主は私たちに、ご自分が話されたことを信じるよう望んでおられます。天主は、ご自分が話されたことをすべての人間が信じるよう望んでおられるのです。天主を信じようとしない人々がいるからといって、天主の善さが少なくなるというのではなく、私たちが天主を信じようとしないのは、私たちにとって悪いことなのです。なぜなら、そのとき私たちは闇の中に、真理について無知の中にいるからです。中には、すでに知られている真理を拒否する状態(これは聖霊に対する罪です)にさえいる人々もいます。天主は私たちを愛しておられるのですから、天主は私たちが無知のままでいることをお望みではなく、むしろ天主は「すべての人が救われて真理を深く知ることを望まれる」(ティモテオ前2章4節)のです。真理は天主が啓示されたもので、天主がご自分の教会に託されたものであり、天主は信仰というその「委ねられたよいもの」(ティモテオ後1章14節参照)を教会が保存するのを助けてくださるのです。天主の御子として私たちの主イエズス・キリストは、啓示を完成されました。主が啓示されたのち、聖ヨハネの黙示録を含めた主の啓示されたものには、誰も付け加えることはできません。「信仰の遺産(委ねられたもの)」は、最後の使徒である聖ヨハネの死によって閉じられました。すべての人は、それを信じる義務があるのです。

でもこれは、聖書の一言一句を誰もが暗記する必要があるという意味ではありません。そうではなく、「教会が教えること」を信じれば、また聖三位一体の神秘、ご托身の神秘、ご復活の神秘をはっきりと知れば、私たちは救いに必要な信仰を持っている、ということです。同様に旧約においては、民は「モーゼと預言者の信仰を持っている」ことで十分でした。さらにアブラハム以前においてさえ、人々は天主がアダムに啓示され、「女のすえ」としての救い主についての知識を含む「原始的啓示」として伝えられてきたことを信じれば十分でした。善意の人々に対しては、天主は、必要なら少なくとも天使たちの働きを通じて、啓示の本質的な部分について知るようにしてくださるでしょう。しかし通常これは、宣教師や、よきカトリック信者のあかしを通じて行われます。啓示された天主の権威のゆえに天主が啓示されたすべてのことを信じること、これが信仰の徳です。まことの信仰は救いに必要なのです。「信仰がなければ天主の嘉されることはできない」(ヘブライ11章6節)。

このように、信仰に反する罪は第一戒に反する罪です。信仰に反する第一の罪は異端です。すなわち、啓示の中で自らが望むものを選び取ることです。つまり、自分の判断を、私たちに教えるべくキリストによって指名された権威であるカトリック教会の権威の上に置くことです。ただ、無知は異端ではありませんから注意してください。教えを自分勝手に選ぶことはしないものの、説教者によって欺かれる人々がいます。そのような場合、まことの信仰についての知識が欠如しているだけであり、公式な異端の罪ではありません。このことは、カトリック教会の外の異端のセクトの中で生まれた人や、異教からそのようなセクトに改宗した人にしばしば起こっています。しかしながら、彼らが真剣に天主を探し求めているなら、真理を探し求めているなら、彼らは遅かれ早かれ、このセクトはキリストによって立てられた教会ではないという結論に到達するでしょう。ニューマン枢機卿のような人々にとっては、そのように真理を探し求めることに長い時間がかかるため、彼らに対して私たちは忍耐強くあるべきです。でも、その一方で、彼らが真理を見いだすよう助け、唯一のまことの教会へ移るよう彼らを励ますべきです。

信仰に反する第二の罪は背教です。これは信仰のすべてを拒否することです。真の信仰を知ったのちには、それを拒否すべき良き理由はあり得ません。なぜなら、真理を拒否すべき良き理由などあり得るはずがないからです! 悪しき司祭たちのスキャンダルは彼らの極めて重い責任ですが、それでさえも、私たちの主イエズス・キリストを拒否すべき理由にはなり得ません。これらの悪しき司祭たちがいるにもかかわらず主に忠実にとどまる人々に、主は永遠の報いを与える主人でい続けられるのです。不道徳な生き方をする悪しき司祭たちに従ってはなりません。悪しき司祭たちが新奇なことなどを教えるとき、彼らに従ってはなりません。そうではなく、これら悪しき司祭たちや聖職者たちがいるにもかかわらず、私たちの主イエズス・キリストに忠実でなければなりません。背教は極めて重い罪です。天主を完全に拒否することなのですから。その原因は、地上のものへの愛着と傲慢です。聖トマス・アクィナスは言います。「不信仰という罪は傲慢から起こり、傲慢を通して人は自分の知性を、信仰の支配に服従させること、教父たちの正しい解釈に服従させることを拒むのである」。

さて、信仰は霊的な命における一番最初の徳であり、とにかく、ほかのあらゆる徳の根本ですから、信仰を持っていない人々はキリストの命のうちに生きることができません。ですから、異端と背教が非常に重い罪であるだけでなく、信仰について無知であること自体が人を大きく傷つけるものですから、私たちは、このように主から遠く離れている人々をあわれみ、彼らを信仰の光のもとにもたらすようにすべきです。それは、信仰を宣教する熱意、霊魂たちを主に回心させようとする宣教の熱意が、信仰というこの偉大なる天の宝をその人々と分かち合うことによってです。

信仰の偉大な模範は童貞聖マリア、「Virgo Fidelis-いとも忠実なる童貞(信実なる童貞)」です。聖エリザベトは聖母に声を上げて言いました。「ああ幸せなこと、主から言われたことの実現を信じた方は」(ルカ1章45節)。聖母は、良き天使を信じた忠実な童貞であり、「その実を食べると死ぬことになる」と言われた天主のみ言葉を信じず、反対に蛇の言葉を信じた忠実ならざる童貞エバがしでかしたことを償われたのです。聖母は信仰と黙想の美しい模範です。聖母が幼きイエズスをご覧になるときはいつでも、「彼はいと高き者の子と言われます」という天使の言葉を思い出され、イエズスの神性に対する信仰の祈りをされ、十字架の下に至るまで主に忠実であり、そこに至っても、主は「いと高き者の子」であると信じ続けておられたのです。

まことの信仰は、霊的な命の第一の徳です。これによって、天主のみ言葉であるイエズス・キリストは私たちのうちにとどまり、私たちを照らしてくださいます。しかし、それはまた天主が私たちのために用意された目標である永遠の至福に、私たちの目を開かせてくれます。そして、私たちがその目標へ到達できるよう、天主は私たちを非常に気にかけてくださるので、私たちを罪から救うため、私たちに天国へ行くための力を与えるため、この世に御独り子を送られた、ということを私たちに確信させてくれます。そのため、信仰は人を希望へと導きます。天主を望むこと、天主の至福直観を待ち望むこと、永遠の命を待ち望むこと、そして私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって私たちがそこへ到達することを確信することです。希望は、第二の対神徳です。希望はすべて天主へと方向づけられています。「サルヴェ・レジーナ」で歌うように、私たちはここ地上で、この「涙の谷」で「逐謫(ちくたく)の身」であるかのようです。私たちがここ地上に永遠にいるかのように、そこに落ち着いてしまうのは、いかに間違っていることでしょうか! 私たちは、ただほんの一時的にここ地上にいるだけなのですから。私たちの地上での全生涯は、天国への準備であるべきであり、すべてが天国へと方向づけられているべきです。希望の徳を通じて、私たちの主イエズス・キリストは、美しい方法で私たちの心を主へと引き寄せてくださいます。

希望に反する第一の罪は失望です。これがしばしば起こるのは、私たちが善を行う自分の力に依り頼むからです。そして、うまくいかず、あきらめるのです。また、これやそれやの誘惑を克服できるよう、熱心に祈って天主の恩寵を願い求めるのですが、代価を払ったり、自分を捨てたり、これやそれやの地上の人間や物に対する愛着を捨てたりすることに気乗りしません。ですから、この気乗りしないがために誘惑を克服するのがうまくいかないのです。実際、私たちの主は言われました。「あなたたちも自分の一切の持ち物を放棄する者にならなくては、私の弟子にはなれぬ」(ルカ14章33節)。天主は私たちに、永遠の命を、天の至福を、天主の至福直観という幸福をくださろうとします。しかし天主は、私たちにその代価を払うよう、十字架を担うよう、自分を捨てるよう強く求められます。私たちが天主に対して「はい」と言うとき、制限があったり条件があったりしてはなりません。天主の恩寵に対して、すべてをお委ねしなければなりません。そうすれば私たちは、天国へと私たちを導く天主の恩寵の効力を、天主の助けの効力を実感できるのです。しかし、天主に完全に自分をお委ねするのが気乗りしないなら、そういう人は自分が誘惑に弱いことを感じ、簡単に罪を犯し、そのため失望に襲われるのです。聖アウグスティヌスは、私たちの主を優れた医者にたとえています。しかし病気の人は、この医者の処方箋に対して素直でなければならず、そうでなければ癒やされません。さて、失望はそれ自体で大変重い罪です。さらに、それが危険なのは、霊魂をあらゆる種類の誘惑に任せてしまうように導き、そしてあらゆる悪徳に、しばしば品位のない悪徳にその身を投じてしまうからです。そのための薬は、心を挙げて私たちの主イエズス・キリストに立ち戻ること、天主に立ち戻ることです。そうすれば天主は、その霊魂を清め、癒やしてくださいます。

希望に対する第二の罪は僭越(思い上がり)です。これは、希望の行き過ぎではなく(私たちは天主を信頼し過ぎということはなく、天主の助けに依頼し過ぎということもありません)、希望を歪めているのです。私たちを導いて罪から遠ざけてくださる私たちの主イエズス・キリストの恩寵に素直である代わりに、僭越は、罪から離れる必要なしに、そのままでも天国へ行くことができる、と言い張るのです! この僭越の罪はプロテスタントに典型的です。彼らは自分たちが「すでに救われている」と考えています。ほかにすべきことは何もなく、掟を守る必要もなく、何をしようとも天国へ行くことを確信しているかのようです。この僭越の近代主義的な変種は、「天主の愛は無条件である」ため、天主は人が行うことが何であれ常にお赦しになると主張します。これは希望を歪めることであり、天主の聖性をまったく尊重していません。天主は、ご自分が聖であるがゆえに私たちも聖であるようお望みだからです。このように、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に依り頼む代わりに、霊魂における恩寵の働きに反対したり、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に抵抗したりするなど、僭越は希望の行き過ぎというより、むしろまことの希望から離れてしまうことです。これもまた、大変重い罪であり、さらにまた、ほかの多くの罪に導いてしまうのです。

希望の偉大な模範は、再び童貞聖マリアです。特に十字架の下において、使徒たちが主を捨てて逃げてしまったとき、聖母は常に忠実で、主の復活を希望し続けておられました。これが、聖母が十字架の下に最初におられたにもかかわらず、主に塗るための油を買いに行く女たちの中におられなかった理由なのです。聖母は主が復活されることをご存じであり、確信しておられたのです!

永遠の至福の希望は、霊魂を愛の徳へと導きます。愛の徳は、霊的な命の最高の徳であり、天主と一致する徳です。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。愛によって私たちは、天主のために天主を愛し、詩篇作者が言うように、天主を喜びとします。「私は主において喜ぶ」(詩編103章34節)。「主を喜びとすれば、主はあなたの望みをかなえられる」(詩篇36章4節)。

愛は、第一の最大の掟の対象です。ある日、一人の律法学士がイエズスのところに来て、彼に尋ねました。「『先生、律法のうちどの掟が一番大切ですか』。イエズスは、『〈すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての律法と預言者はこの二つの掟による』と答えられた」(マテオ22章36-40節)。

信仰は希望へと導きます。希望は愛へと導きます。信仰、希望、愛は三つの対神徳です。これらの徳によって、私たちは、ここ地上において、いとも聖なる三位一体を黙想し、天主の真理を愛し、天主の光において喜び始めることができるのです。聖パウロは私たちに言います。「今あるものは信仰と希望と愛の三つである。そのうちで最も偉大なものは愛である」(コリント前13章13節)。実際、愛がなければ、信仰と希望だけでは天国へ行くのに十分ではありません。同じ聖パウロが私たちに言います。「たとい私が山を動かすほどの信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前13章2節)。自然的な善業でさえ、愛がなければ救いに役立ちません。「たとい私がすべての財を施し、この体を焼かれるために与えても、愛がなければ益するところはない」(コリント前13章3節)。

愛の徳は、驚くべき徳です。この徳は、天主のために、私たちにすべてに超えて天主のために天主を愛させるのです。これは、私たちのうちにある聖霊の偉大な賜物です。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれたからである」(ローマ5章5節)。聖霊は霊魂を変えてしまうのです。聖霊は「聖化する方」であり、(天主の)愛によって、すべてが愛に変えられ、毎日の業が、芳しい香りの中で天主に捧げられるのです。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自身を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。このように、愛は功徳の源であり、最終的に愛は永遠の報いに値するのです。なぜなら、愛から行われたことは、天主を大変お喜ばせするからです。

愛の徳は霊魂を導いて祈らせ、黙想させます。これは霊的な命の中心です。これによって、まことにイエズスは私たちのうちに生きられるのです。私たちは「聖霊によって動かされ」、そのため、まことに「天主の子」(ローマ8章14節)であるのです。愛の徳は、すべての掟を守るように導きます。「あなたたちは私を愛するなら、私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)。掟を守ることは愛のために必要なことです。「私の掟を保ち、それを守る者こそ、私を愛する者である。私を愛する者は父にも愛され、私もその人を愛して自分を現す」(ヨハネ14章21節)。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところに行ってそこに住む」(ヨハネ14章23節)。

天主に対する愛は、天主のために、隣人への愛を要求されます。「天主を愛する者は自分の兄弟も愛せよ。これは私たちが天主から受けた掟である」(ヨハネ第一4章21節)。愛によって、私たちは隣人のために天主を望み、私たちの主イエズス・キリストがその隣人を統治するよう望み、隣人のために永遠の至福を望むのです。聖トマス・アクィナスは、次のように要約します。私たちは「ut in Deo sint - 彼らが天主のうちにいる」ように望む、と。実際、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。ですから、隣人が私たちの主イエズス・キリストを持っていないならば、彼らが自分の霊魂に天主を所有していないならば、もし私たちが彼らに全世界を与えたとしても、それは彼らに何の利益ももたらさないでしょう。

それゆえに、隣人への愛は、まったく自己中心ではありません。それどころか、私たちの主イエズス・キリストの偉大な模範に従って、隣人の救いのために喜んで自分を犠牲として捧げるのです。それゆえに、「愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらぬ。非礼をせず、自分の利を求めず、憤らず、悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ」(コリント前13章4-7節)のです。

大罪ならどんなものであれ、愛に反し、愛とは相いれません。しかし、この偉大な徳に直接反する罪があります。天主を憎むことは最悪です。しかし、隣人を憎むことはずっと普通に見られることです。でも、明らかに愛とは相いれません。

第一戒が要求する心の中の義務があります。それは、まさに命の掟、私たちの主イエズスが私たちのうちに生きる、その命の掟です。永遠の命の始まりである霊的な命の掟です。地上においては信仰、希望、愛の命が、天国においては永遠の命へと花を咲かせるのです。その霊的な命の食べ物は、ご聖体です。この最も優れた秘跡を通して、私たちの主イエズス・キリストは、ご自身の御体、御血、ご霊魂、ご神性を私たちに与えてくださるのです。主は私たちのうちに、もっともっと生きるため来られます。そうすれば、私たちは主のうちに、もっともっと生きるのです。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。

童貞聖マリアがそうなさったように、天主がどれほど私たちを気にかけ、私たちを愛し、私たちが完全に天主のために生きることを望まれているかを私たちが実感できるよう、マリア様が私たちをお助けくださいますように。そして、私たちが天国にいくことができますように。アーメン。

イエズス様に倣う為の、イエズス様に近付く為の一番の近道とは

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1月15日に大阪で行った聖伝のミサ(最初の隠遁者証聖者 聖パウロ)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月15日 金曜日 最初の隠遁者証聖者 聖パウロ(歌ミサ)
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月15日、最初の隠遁者聖パウロの祝日です。

 今日このミサの後に、いつも新年に行っている、踏み絵に対して行われた罪の償いの式をする事を提案します。どうぞ皆さん、踏み絵に愛の接吻をなさって下さい。
 
“Confiteor tibi, Pater ,Domine coeli et terrae,quia revelasti ea parvulis.
Abscondisti prudentibus et sapientibus et revelasti ea parvulis.”

「天と地の聖父よ、私は御身に感謝します。何故ならば、あなたはこの事を、知恵ある者や世の賢い者には隠し、小さな者たちに教えて下さったからです。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日福音でイエズス様は、御自分の福音、御自分の教えは、「小さな者たちに表されたものだ」という事を仰っています。この福音の、一番のイエズス様の福音に倣おうと、イエズス様に倣おうと、多くの聖人たちが努力してきました。例えば今日の聖パウロは隠遁者となって、砂漠でたった一人で、113歳になるまで、お祈りと、苦行と、断食の生活をして、イエズス様に倣おうとしてきました。

 ところで、イエズス様に倣う為の、一番の、イエズス様に近付く為の一番の近道があります。それは、マリア様です。マリア様に倣う事です。「マリア様を愛する、マリア様を敬う」という事の一番のやり方があります。それは、「イエズス様の聖心を私たちが頂く」という事です。

 では、今日は、「イエズス様の聖心をいただく」という事は、一体結局何を意味するのか?イエズス様の聖心を頂いて、マリア様を愛する、という事はどうしたら良いのか?第3番目に、イエズス様の聖心を頂いてマリア様を愛する、という事をすると、どんな、どんな変化が私たちに起こるのか?色々、色々な事が起こるかもしれませんけれども、特に今日はその2つをみて、最後に、私たちは何か遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 では、マリア様の、マリア様を愛する、という事がよくできる為に、イエズス様の聖心を頂く、という事はどういう事でしょうか?これは、すなわち、「イエズス様の心を心とする」「イエズス・キリストを着る」「イエズス・キリストが私たちに於いて生きている。もはや生きるのは私ではなく、キリストが生きる」というその事なのです。イエズス様が一番大切にして、イエズス様が一番心にして、イエズス様が一番一生涯をかけて、その最も多くの時間をかけてやろうとした事を、私たちもする、イエズス様のやっていたその通りを、私たちもする、という事です。これが、イエズス様の心を頂いて、マリア様を愛する、という事です。つまり、「キリストにますます一致する」「イエズス様と瓜二つになる」「イエズス様化する」という意味です。

 では、イエズス様の心を頂いてマリア様を愛して、イエズス様のようにますますなるには、どうしたら良いのでしょうか?

 これは、特別の御恵みなのです。これは、知恵ある者や賢い学者たちには隠されていて、小さな者にのみ与えられる、特別の御恵みです。

 でも、イエズス様はこれを望んでいます。私たちがイエズス様の真似をする事を望んでいます。ですから、このお恵みを私たちは求めなければなりません。祈って求めなければなりません。何故かというと、イエズス様はそれを望んでいるからです、「祈れ、さらば与えられん。叩け、さらば開かれん。」

 私たちは、「イエズス様の心を下さい」と、いつも、毎日、頼まなければなりません。

 もしも私たちが、「きっとイエズス様は、そういう事を頼んでも、もしかしたらくれないかもしれない。」という事は、それはイエズス様はとても悲しく思われる事です。何故かというと、イエズス様は私たちが同じ心を持つ事を望んでおられるからです。

 ですから、私たちは毎日お祈りしなければなりません。特に勧められているのが、御聖体拝領の時に、イエズス様を私たちが受けた時に、その時こそ、「チャンスだ。」と、狙って、「私たちの心にイエズス様の心が来ますように。イエズスス様の心を以って、私たちがマリア様を愛する事ができるように。」と、祈る事です。毎日の黙想の時にも、マリア様を愛する心を、イエズス様に乞い願う事です。

 では第3に、もしもそういう風に、イエズス様にお願いして、イエズス様の心を私たちのものとしたら、私たちにはどんな変化が起こるでしょうか?

 イエズス様の御生涯をよくみると、特に2つの点が輝いています。1つは、「イエズス様がマリア様に対して従順であった」という事です。マリア様に必ず従っていて、マリア様に依存していた、という事です。他の言葉で言うと、「マリア様に自分を委ねていた、預けていた、奉献していた。」「イエズス様は、マリア様のものと全くなりきっていた」という事です。福音の中には、それが3つのラテン語の言葉で書かれています、「“erat subditus illis.”《イエズス様は、彼らに、服従していた》」30年間、マリア様とヨゼフ様に服従していた、という事です。

 ベトレヘムでお生まれになる時にも、エジプトに逃げて、連れて行かれて逃げて行く時にも、或いはまた、エルサレムの神殿に奉献される時にも、毎年エルサレムに登る時にも、ナザレトに行かれる時にも、いつでもイエズス様は従順でした。イエズス様は、マリア様に従順である、という事を非常に喜びとして来ました。マリア様から、「イエズスや、こうしてなさい。」と、言われた時に、「はい。」と、答えて、マリア様のお望みの通りしようとした時の、イエズス様の喜びはどれほど大きかった事でしょうか。マリア様をお喜ばせる事ができる、というのは、イエズス様にとってどれほどの慰めだったでしょうか。

 イエズス様は、マリア様のお話しをよく聞いて、マリア様の言葉を、マリア様の望みを、全て叶えようといつも思っていました。小さな時から、30歳になるまで、宣教の生活を始める時まで、いつもそうでした。マリア様がイエズス様をとても尊敬するので、イエズス様もマリア様を、マリア様に倣って尊敬していました。イエズス様の話し口調、或いは行動は、マリア様そっくりでした。

 マリア様は、イエズス様がそうやって従順でなさるのを見て、その天主様の神秘、御謙遜を讃美しながら、もちろん、大きな喜びと感動と、至福の感情に満ちていたに違いありません。イエズス様が、ほんの小さなことでも、マリア様の望みを叶えてくれるのを見ると、助けてくれるのを見ると、マリア様は、どれほど大きな喜びを感じた事でしょうか。

 これが、イエズス様がなさった従順です。これが、イエズス様がいつも心の中に持っていた、従順の心です。イエズス様は私たちに、その心を与えようとしております、「いつもマリア様を喜ばせたい、マリア様に従順でありたい」という心を私たちに下さいます。

 第2に、イエズス様は、マリア様に特別の崇敬と、尊敬の念を持っていました。もちろん、マリア様は、イエズス様のお母様で、天主聖父の代理者であるからもちろんですけれども、マリア様にイエズス様は、特別の尊敬の念として、特別の特権も与えられました。無原罪の御孕り、全ての不完全から逃れていた事、或いは被昇天、或いはマリア様の、マリア様がいつもイエズス様の側に居て、マリア様と共に、イエズス様の贖いの業をする、という特権、等々。

 マリア様は、聖エリザベトに、「我が魂は主を崇め、我が霊魂は主を仰ぎ奉る。全ての世の人々は、世々代々、私を幸せな者と呼ぶ事でしょう。」と、予言されました。この予言は現実になっています。イエズス様の聖名によって、イエズス様の御前に於いて、カトリック教会は、マリア様を讃えて尊敬し、イエズス様の心を以って、イエズス様の神秘体として、マリア様をできるだけ讃えようとしています。

 では、私たちは、どうしたら、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?私たちは2つあります。

 まず1つは、イエズス様の心を頂く事ができるように祈らなければなりません。これは超自然の御恵みだからです。

 第2に、お祈りをして、超自然のお祈りをして、「超自然だからお祈りだけで良いんだ。知らない、あとは知らない。」のではなくて、その後に、イエズス様の心を以って、私たちもマリア様を、マリア様に従順であり、マリア様を尊敬するようにしなければなりません。イエズス様の真似をして、イエズス様の心を以って、マリア様に従順であるように。特に私たちが、日常の義務をマリア様に従順であるが為に、イエズス様の心を以って、果たす事ができるように。

 私たちの日常の義務は、時々単純であったり、時々それほど華々しいものでなかったり、それほど、「何かこの世の為になるのかなぁ?」とも思われるような事だったり、或いは、本当の単純な手作業だったりします。或いは、辛い事だったり、或いは自分が受けた、自分から選んだものではない、与えられた十字架であったり、或いは、悪意から来る十字架や苦しみだったりするかもしれません。

 しかし私たちは、そのような日常の義務と務めを、マリア様への従順を以って、お捧げ致しましょう。イエズス様の心により、従順である為に、お捧げ致しましょう。

 また、その努力のもう1つは、マリア様を崇敬する事です。マリア様に、できるだけの敬意と、尊敬を払う事に致しましょう。マリア様をお愛しして、できる限り、私たちの力の及ぶ限り、マリア様が愛されて、マリア様が崇敬されるように、より多くの人が、マリア様を知り、愛し、崇敬する事ができるように、マリア様を尊ぶ事ができるように、努力致しましょう。お祈りと努力を致しましょう。マリア様を辱める、或いはマリア様を傷付けるような、悲しめる様な事をする人々に代わって、私たちがその罪の償いを致しましょう。そうする事によって、私たちはイエズス様の心をますます自分の心とする事ができます。そうする事によってますます、私たちが、「イエズス化」する事ができます。私たちはますます、イエズス様が最も生涯でなさりたかった、その時間を使った、そのものを実現する事ができます。

 これこそが、マリア様が私たちに、こうやって私たちの中に於いて形成しようとしている、私たちによって実現を求めている事なのです。ますます私たちが、「イエズス様のようになる」という事です。

 1月13日は、一昨日は、ファチマの日でした。ですから特に、ファチマのマリア様にお祈りして、イエズス様の心を私たちが頂いて、マリア様をお愛しする事ができるように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「婚姻の神秘」---真の天主である「御聖体」へのふさわしい態度とは---

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月17日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月17日(主日) 御公現後の第2主日ミサ
小野田神父 説教

 日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ、今日は2016年1月17日、御公現の後の第2主日ミサです。

 1月は日本では過去250年の間、毎年この時期になると、踏み絵を踏まされてきました。そこで、いつも1月にやっている通り、それの償いの為に、私たちは踏み絵に接吻をする儀式をします。

 明日はここで7時からミサがあります。2月は、2月の最初の主日2月7日、ミサがここであります。2月7日と、そして第3主日の2月21日です。
そして今日午後14時30分頃から、公教要理の勉強と、16時から、御公現後第2主日の第2晩課があります。どうぞいらしてください。

 
“Nuptiae factae sunt in Cana Galilaeae”

 「ガリレアのカナで、婚礼の式があった」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日カナでの婚礼の式で、イエズス様が、マリア様の介入で、時がまだ来ていないにもかかわらず、水をブドウ酒に変える奇跡を行いました。

 ちょうど今日から4日前、1月13日の主の洗礼の記念の時には御公現の聖務日課をもう一度繰り返しつつ、私たちは朝課と晩課で、「主の洗礼」と、そして「カナでの婚宴の奇跡」と、そして「3人の博士たちの贈り物」の3つ話が、1つになった話がされます。どんなことかというと、「主が洗礼を受けたのは、これは、私たちの霊魂と天主様が結婚する話だ、霊的に結婚して1つとなる話だ。そこで私たちの主は、水で洗礼を受けたけれども、その結婚式に、私たちの主は水をブドウ酒に変えて、婚宴を祝った。その婚宴の式に、3人の博士は贈り物を贈ってきた。」と、言っています。

 そこで、私は今日皆さんを、このカナでの婚宴の式の福音を黙想しつつ、このカナでの婚宴の式にイエズス様が招かれたように、実は私たちも霊的に、ミサに於いて、イエズス・キリストとの婚宴の式に招かれている、という事を一緒に黙想しましょう。

 皆さんが霊的な婚宴の式に与っている、結婚式に与っている、という事を黙想して、それに招待したいと思います。そこで、その結婚式に於いて、婚宴の式に於いて、私たちは、新郎である天主であるイエズス・キリスト様に対してどういう態度を取らなければならないのか、どういう風に接しなければならないのか、という事を黙想して、そして最後に、遷善の決心を取る事に致しましょう。

 第1のポイントは、では、カナでの結婚式とミサというのは、どんな関係があるのか?という事です。カナの結婚式は、もちろん2つの部分があります。1つは結婚式と、婚宴と、そして後は、宴会です。カナでイエズス様は、宴会の式で、水をブドウ酒に変えましたけれども、私たちは、特に婚姻の最も中核な、最もその核心である両性が、2人が一体となる、男と女が一体となる、という1つの体となる、という所に、婚姻の本質がある、という所に注目します。すると、ミサはまさに、そのイエズス・キリスト、真の天主であるイエズス・キリストと、その花嫁である教会との一致を表しているという事ができます。

 何故かというと、ミサというのは、十字架の生贄の再現であるからです。十字架の生贄ではイエズス様は、第2のアダムとして、死の床に着きました。第2のアダムの脇腹から、水と血が流れ出ました。水は、洗礼の象りであって、教会の入り口の象りです。血は、教会の中心、御聖体の象りであって、シンボルであって、これは教会の中心です。つまり、水と血が出た、という事は、キリストの花嫁である教会が、第2のアダムの脇腹から出て来た。そしてこのキリストは、花嫁である教会と一体である。1つの神秘体を司っている、という事です。

 そして、キリストの神秘体というのは、何か具体的な何か抽象的な、宙に浮いた餅の、絵で描いた餅のような、何か食べる事もできない、見る事もできないものではありません。キリストの花嫁、天主の教会カトリック教会は、私たち1人1人がその肢体の、体の一部となっています。イエズス・キリストが教会と1つになっている、1つの体を作っている、という事は、私たちの霊魂とも1つとなっている、という事です。霊的に、キリストは私たちと婚姻状態となる事を望んでいるのです。洗礼を受けた時に、私たちの中には、イエズス様の天主の命が生きる事によって、1つの体となりました。

 このイエズス様は、カナでは招かれた身でした。しかし本当の婚姻では、霊的な私たちとの婚姻では、新郎です、単なる傍観客ではありません。そこでイエズス様は、水をワインに変えるのみならず、ブドウ酒を御血に変えて、私たちに飲ませようと思われました。パンを御自分の体に変えて、私たちをそれを以って養おう、私たちと一致しようと思われました。そして本当に、私たちがイエズス・キリストと一体となる事を、霊的にも、体的に於いても、一体となる事を望まれました。

 婚姻では、両性が1つの体となるので、もしもそれを別ってしまうような、これを分断してしまう様な事があれば、これは罪となります、大きな罪となります。天主がなした事を、人間がそれを壊そうとするからです。

 私たちに於いては、天主様との一致は、罪によって、分断されてしまいます。罪を犯す事によって、天主の命は私たちの中から死んでしまいます。私たちは、霊的な愛の交友、婚姻状態を、罪を避ける事によって、愛徳の業を行う事によって、保たれなければなりません。

 では第2のポイントです。そのような婚姻の席に招かれた特に私たちは、ミサ聖祭に招かれて、イエズス様と教会との、そのキリストの教会、真のキリストの教会カトリック教会とのイエズス様との一致の神秘を私たちが今与っているその時に、どのような態度を取らなければならないのでしょうか。

 御聖体の本来の意味とは、一体何なのでしょうか?

 イエズス様は私たちを愛する、私たちと一体となろうとする新郎であります。私たちは花嫁ですが、単なる花嫁ではなく、被造物の花嫁であって、罪を犯した花嫁です。それに引き換え、イエズス・キリストは真の天主です。私たちを創り、愛し、養い、全てを私たちに下さった大恩人である、創造主である、天主である、新郎です。そしてこのような身分の違いにも、無限に身分の違いがあるにもかかわらず、私たちをあわれんで、私たちと1つになろうとする、愛の無限をご覧ください。無限の愛をご覧ください。

 ですから、私たちのカトリック信仰によれば、「御聖体」というのは、「キリストの真の体」です。シンボルではありません、象徴ではありません、それを意味するだけではありません。例え、目で或いは鼻で、口で、触角で、それでないと思われようとも、イエズス様がそうはっきり仰ったので、御聖体は、本当に、天主の、人となった天主の、イエズス・キリストの御体となります。もはや普通のパンではありません。パンの中にイエズス様がおられるのでもありません。イエズス・キリストの御体と実体が変化します。

 イエズス様は真の天主ですから、御聖体は、真の天主です。御聖体は、私たちを創り、創造し、養い、愛しておられる、新郎であるイエズス・キリスト、真の天主です。

 イエズス様は、愛を与える為に、御聖体を制定したのではありません。「愛を与える」といえば、例えばお花を与えたり、プレゼントをしたり、自分以外のものを何か贈るかもしれません、ラブレターを書いたり。

 イエズス様は、御自身を、自分自身を、「御自分の御体と命と全て」を私たちに与えようとしました。愛のゆえに。

 ですから、そのような私たちとの霊的な結婚を前に、そしてこのミサは、特にミサでの御聖体拝領は、私たちにとってイエズス・キリスト様との愛の一致を意味するものです。「イエズス・キリスト化」する事です。ですから私たちは、それに相応しい態度を取らなければなりません。

 では、どのような態度が相応しいのでしょうか?

 御聖体というのは、神道の御神体のようなものではありません。仏教の秘仏のようなものでもありません。何故かというとそれらは、単なる物であって、剣とか刀とか剣とか鏡とか、勾玉とか、或いはどこかの彫刻とか、或いはそういうシンボルでも、それを表すような偶像ではありません。

 御聖体というのは、そのような神道の御神体、仏教秘仏などのような物ではなくて、シンボルでもなくて、真に私たちを創造された、生きてまします、私たちを在らしめて下さる、私たちの為に命を下さった、十字架で贖いをなさった、そして私たちを永遠の命に導いて下さる、わたしたちと愛の一致を望んでおられる、「真の天主」であるからです。

 ですから、御神体のように、或いは仏像のように拝んではいけません、もっとしなければなりません。跪いて礼拝して、心から愛の礼拝を、イエズス・キリスト様に対する、私たちを全てを捧げる礼拝をしなければなりません。有り難く伏し拝むどころでは足りません。私たち全てを捧げて、私たちをイエズス様へのものとして、イエズス様が私たちの為に罪の生贄となって下さったのですから、私たちも、同じくイエズス様のものとして、与え尽くさなければなりません。夫婦とはそうではないでしょうか。私たちただ平伏して、「ははぁー!」この恐ろしい、おどろおどろしい、「何かおっかない偶像だ。怒ってる何とかの神様だ」というのではなくて、私たちをあわれんで、愛して、私たちに全てを、御自分全てを与えるものとして、私たちは、更に深い、礼拝と感謝と讃美、そして罪の償いを捧げなければなりません。それが、御聖体の本来の意味です。

 天主様は、私たちを創り、全ての美しいものを下さり、そしてその私たちを愛するが為に人となられた、そして私たちの為に苦しまれた、十字架の上で生命を与えられた、全ての血を流されただけではありません。私たちと1つになろうと思って、御自分をパンとして与えて下さろうとするのです。そのような愛の極みに向かって私たちは、どうして冷淡で、どうして冷たい態度で、突っ立ったままいる事ができるでしょうか。

 イエズス・キリスト様が御聖体を下さったのは、聖パウロが言うように、「全てをキリストに於いて1つにまとめる為、復興させる為、“Instaurare omnia in Christo”の為です。“キリスト”というキーワードがなければ、全く意味がありません。全世界を、全人類を1つに一致させる為ではありません。キリストに於いて、全てを統合させる為です。キリストを頭として、その元に集める為。キリストのない一致を求める為ではありませんでした。そしてその為にこそ、御聖体が与えられました。全ての舌が、イエズス・キリストを主として崇める為に、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの、地獄のものも全て、キリストを、「主である。」と、告白する為です。キリストがいなければ何の意味もありません。全てが、イエズス・キリストを真の天主として、全てこれよりも、天上天下、これよりも高い名前はない、と崇める為です。

 ですから、もしも私たちが相応しい態度でイエズス様を礼拝して、イエズス様を拝領するならば、私たちはますますキリストのようになります。相応しい態度である、というのは、私たちが、イエズス様に対する愛の状態に、成聖の状態にあって、相応しい礼拝を捧げ、罪の償いを捧げる事です。

 今から100年前に、ちょうど100年前の1916年、マリア様はファチマで、ポルトガルの天使を子供たちに3回送りました。ポルトガルの天使は、子供たちに御聖体を持って来て、「見よ」、そしてその御聖体を宙に浮かせたまま、その御聖体からは御血がタラリ、タラリと滴りて落ちています。その天使は、額を地面に付けて、御聖体を宙に浮かせたまま平伏して、「御聖体のうちに真に在し給う、イエズス・キリストの御神性、御人性、霊魂を礼拝致します。御身を礼拝しない人に代わって、私は礼拝します。」と、祈りました。子供たちもそれと同じお祈りをしました。

 これが、相応しいやり方です。天使が私たちに教えて下さったやり方です。これが、私たち全世界の人間が被造物が、日本人であろうと何人であろうと、御聖体に対して、真の天主に対して、なさなければならない態度です。この天が教えたやり方を拒否する事は、私たちにはできません。私たちを愛する新郎、この前に私たちはどうして、愛と感謝と礼拝をする事ができないのでしょうか。禁止されるのでしょうか。

 もしも私たちが、イエズス・キリストの弟子となったのならば、洗礼を受けて、キリストの神秘体の一部となったならば、ますますキリストのようにならなければなりません。第2のキリストとならなければなりません。キリストに真似なければなりません。という事は何かというと、私たちはますます、イエズス様と共に十字架の道を歩かなければなりません。世の罪の贖いの為に協力しなければなりません。多くの方が、イエズス様の御血潮の功徳に与る事ができるように、イエズス様を知り、愛し、そして讃美し、その永遠の命に与る事ができるように、キリストの神秘体の一部となる事ができるように、キリストの下に集められるように、祈らなければなりません。

 御聖体拝領をするという事は、単にご飯を食べる、パンを食べるのではありません。イエズス・キリストの生贄に、私たちも生贄として捧げて、1つの生贄となる事です。第2のキリストとなる事です。そうすると、私たちは徐々に、徐々に変えられて、遂には天国の永遠の婚宴の席に於いて、本当にもう決してイエズス様と離れる事のない、罪を犯す事のない、永遠の神秘的な婚姻が完成するのです。その時に私たちは初めて、「あぁ、キリスト教徒となって、遂にキリストとなった。」と、その時に言う事ができるでしょう。

 そして私たちは、このミサに於いて、その神秘的な婚宴の席に与るように、もっともっと一致するように、と招かれています。

 では、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

 どうぞ、イエズス様に対して、自由に、愛を込めて、心から、心の底から、礼拝と、感謝と、讃美と、罪の償いを捧げて下さい。そしてそれができない、或いはそれをしない多くの人々に代わって、それをなさって下さい。特に御ミサの中で、跪いて、口によって、礼拝をしつつ、御聖体拝領をして下さい。この御聖体拝領が、私たちの永遠の婚姻の秘跡への前兆である、とよく自覚して下さい。イエズス・キリストといつも一致している花嫁である、という事を自覚して下さい。決して、この私たちが、イエズス・キリストと一つの体となった花嫁として、夫である主イエズス・キリスト様を悲しませる事がないように、罪を以って、「イエズス・キリストよ、どっかに行け」などと言ってしまう事がないように、恩人であるイエズス様に対して、冷たい態度や暴力をふるう事がないように、特に御聖体拝領でお祈り致しましょう。御聖体拝領をしつつ、私たちは幾度も過去イエズス様に対して背き、イエズス様の御血を無駄にし、御聖体に対して相応しい態度を取ってこなかったかを辛く思い、決してそういう事がないように、特別の遷善の決心と御恵みを求めましょう。

 マリア様に、「どうぞマリア様、マリア様はイエズス様に対して、いつも相応しい態度を取っておられました。イエズス様を決して悲しませる事がないように、イエズス様と決して離れる事がないように、」その特別の御恵みを求めましょう。

 “Nuptiae factae sunt in Cana Galilaeae”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 2016年 2月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の予定

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2016年 2月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】

◎2016年2月の予定

【大阪】昨年4月よりミサの場所が変更になりました!
大阪コロナホテル(アクセス
大阪府大阪市東淀川区西淡路1丁目3番21号 (JR新大阪駅の東口より徒歩3分)
「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」 (月によって会場の部屋が異なりますので、入り口に貼り出されてある案内をご覧ください。)

   2月10日(水)灰の水曜日(1級)紫 
           午後5時  ロザリオ及び告解
           午後5時半 ミサ聖祭

   2月11日(木)四旬節の平日(3級)紫
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   2月 7日(主)五旬節の主日(2級)紫
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   2月 8日(月)証聖者マタの聖ヨハネ(3級祝日)白
           午前7時 ミサ聖祭

   2月 21日(主)四旬節第2主日(1級)紫
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   2月 22日(月)使徒聖ペトロの司教座(2級祝日)白(聖パウロと不可分の記念)
           午前7時 ミサ聖祭

◎愛する兄弟姉妹の皆様を2016年「長崎・秋田巡礼」へお招きいたします。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016

理解するとは、どういうことか。分かる、理解する、ということのいろいろな意味

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 理解するとは、どういうことでしょうか。
 よく考えると、分かる、理解する、ということはいろいろな意味があると分かります。

 私たちは、自分が見聞きするいろいろな体験や現象やデータを分析して、そこに法則を見いだしたり、関係を見いだしたり、何らかの意味を見いだして「理解」しようともします。犬や猫やその他の動物は、現象を体験するかもしれませんが、それを理論化したり、体系化したりすることはありません。

 たとえば、私たちの周りにはいろいろな自然現象があります。人間は、気圧の配置や風や雲の動きなどを観測して、天気予報をしたりします。動物は、気圧や気温の変化や電磁波などを微妙に感じ取って本能的に行動するかもしれませんが、理由を説明したり、推理したり、例証したりはできません。

 古代ギリシアのアルキメデスは、お風呂に入った時、水があふれる出てそれと同時に自分の体が軽くなったことに気がつき「浮力の原理」を発見しました。アルキメデスは、重さが同じ純金と合金の不純の王冠は空中では天秤で釣り合いがとれているのに、水の中ではそうならない、密度が違うからだ、だから、純金とそうでないものとを見分けることができるということに気がつきました。


 岐阜県の神岡鉱山跡にある有名な実験装置カミオカンデ(KamiokaNDE)は、神岡鉱山の地下1000メートルに、可能な限り純水に近い水が3,000トン溜められています。新しいスーパーカミオカンデには50,000トンの超純粋が蓄えられています。陽子が崩壊する時に、いろいろな粒子が放出されるますが、その中にニュートリノがあります。普通、ニュートリノは地球を貫通してすり抜けてしまいます。しかし、まれにニュートリノは蓄えられた水の中の電子に衝突することがあります。ニュートリノにぶつかると電子からチェレンコフ光という青白い光が出ます。カミオカンデは、このチェレンコフ光を光電子増倍管で検出します。カミオカンデは、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発によって発生したニュートリノを世界で初めて検出しました。
 また「大統一理論」という物理学の理論が正しいとすると論理的に陽子崩壊がカミオカンデで観測されるはずです。しかし、カミオカンデでも、スーパーカミオカンデでも、今のところ陽子崩壊は観測されていません。この意味を理解しようと、人々はいろいろな説明をしたり、解釈をしたりしています。


 八ヶ岳南麓天文台の天文台長、串田嘉男氏によると、FM電波を利用した流星のモニター観測中に、地震活動に先行して、FM電波観測のデータに独特の変動が出現することを観測しました。特に、1995年の兵庫県南部地震前に顕著な変動が観測されたそうです。
通常は届かないFM放送局電波が、地震発生前に震源上空で散乱変化が生じ、通常と比較して、受信強度変化等が観測される現象であろうと、串田氏は理解しました。さらに、前兆変動の時間的変化には一定の時間比率が認められると解釈しました。その解釈が正しければ、地震の発生時期を推定することができると理解しました。
【私の意見としては、たとえそのような現象が実際に関連して起こっていたとしても、地震という現象は、FM電波のみならず、いろいろな自然現象に影響を及ぼすものでしょうから、FM電波の変動現象のみでは全てを説明できないと思います。FM電波の変動現象は、おそらく重要な要素の一つであるかもしれませんが、それ以外の要素も考慮しなければならないのではないか、と思います。たとえて言うと、ちょうど、聖書はキリスト教の教えを知る大切な源泉の一つですが、それだけで全ては説明できない、ということに似ていると思います。】


 旧正月に、中国では「福」という文字を飾る慣習があります。この「福」文字はよくひっくり返っています。頭が下になって足が上を向いています。日本人の感覚では、福を否定しているような感じがします。なぜ、上と下が逆なのか?迷信深い中国人にとって、これは縁起が悪いのではないか?とも思います。

 しかし、中国語では「福が倒れた」を「福倒了」と言って、「福が到達した、福がやって来た」つまり「福到了」につながる言葉遊び(ダジャレ)なのだそうです。縁起がよいとされます。


 フランス語が分かる方は、次のフランス語の「詩」を読むと、まぁ何となく意味が分かるような感じがします。Eh! dites-le, dites-le というのは、「さぁ、それを言いなさい、それを言いなさい」という意味ですし。

Eh! dites-le, dites-le,
De quatre et méfie de le.
Haine de caoutchouc me Douvres de mou.
Le lit le dos que l'a fait de
Tous s'y sèchent à c'port
Et de digérant, ohé! Ouida, ce pou.

 しかし、単語の一つ一つの意味を超えて、もしも、上がマザーグースの有名な次の歌の「フランス語訳」だと知ったら、なぁんだと「納得」するのではないでしょうか。

Hey, diddle diddle,
The cat and the fiddle
The cow jumped over the moon.
The little dog laughed
To see such a sport
And the dish ran away with the spoon.


 ここまでは、前口上です。
 以上のことで、何を言いたかったというと、先日の1月17日(主日)に、東京で聖伝のミサで

御聖体は、神道の御神体や仏教秘仏などのようなシンボルでも偶像でもなく、真に私たちを創造された天主ご自身である、だから、有り難く伏し拝むどころでは足りない、体は跪いて、精神を込めて心から、私たちを全てを捧げて、愛の礼拝をしなければならない、それが、御聖体の本来の意味だ、

という内容を申し上げました。しかし、なぜそのような表現を使ったのか、聖伝のミサに参加された方々にとっては、意味がわからなかったと思います。

 それは、その前日に東京カテドラルの「せきぐち」の12月号を読んでびっくりした方から、その記事をいただいたからです。私も記事を読んでびっくりしました。何故なら、小田武彦神父の指導による待降節黙想会で、「聖体は、神道の御神体や仏教の秘仏のように、ありがたく伏し拝む対象ではない」と主張しているからです。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

イエズス様はマリア様の子で、マリア様と瓜二つだった

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1月16日に大阪で行った聖伝のミサ(教皇殉教者 聖マルチェッロ)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月16日 土曜日 教皇殉教者 聖マルチェッロ(歌ミサ)
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月16日、聖教皇、聖マルチェロ殉教者のミサをしております。このミサの直後、1月にはいつも恒例の、踏み絵で犯された罪の償いをする事を提案します。どうぞ皆さん御聖体拝領のようにいらして、踏み絵に接吻をなさって下さい。

 その後に公教要理をまた始めたいと思います。1月、2016年からは、レネー神父様は、新しく「十戒」の連続御説教を始めましたし、ちょうど私たちも公教要理で、「イエズス・キリスト」について到達しました。そこで、1月のこの今年からの、ちょうどイエズス様の御生涯を深く黙想する前に、その付録として、信仰について、信仰の徳について、希望の徳について、愛の徳について、それを振り返ってから、またイエズス様の話に戻りたいと、イエズス様の信仰に関する、信仰を深く、深める事をする事はどうか、信仰にも色々あるけれども、「信仰が強い」とか、信仰が、「完全な信仰だ」とか、「不完全な信仰だ」とか、或いは、信仰に反する罪はどれほど重いのか、とか色々な観点から、公教要理を今年からまた学んでいきたいと思います。

 2月10日は灰の水曜日で、私たちは21歳以上59歳までの健康なカトリック青年男女は、大小斎を守らなければなりません。また14歳以上のカトリック信者は、年齢の制限なしに小斎を守らなければなりません。また聖ピオ十世会では、四旬節中の全ての金曜日に、大小斎を守っていますので、もしも皆さんご一緒にできる方がいらっしゃれば、どうぞなさって下さい。また、シュテーリン神父様は、2016年の決心として、毎月13日には、大小斎をファチマのマリア様の意向で捧げる事を提案しています。マニラの司祭とブラザー、シスターたちは、さっそく1月13日にこれを捧げましたけれども、皆さんももしもよろしかったら、毎月13日に大小斎を捧げて下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、昨日私たちは、イエズス様の聖心を是非私たちの心に頂いて、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができるように、最高の諸聖人が、今までマリア様に対する信心を行った中で、最高のやり方の信心を、私たちは黙想しました。イエズス様の聖心を私たちの心の中に頂いて、それを以って、マリア様を愛する。では、これをする為に、どうやったら良いか、という事も黙想しました。それをする為には、私たちはいつもお祈りをして、この御恵みを求めなければならない。特に、御聖体拝領の中で、このお祈りを、この御恵みを祈り求めなければならない。毎日、射祷で、朝起きた時に、また日々思い出すごとに、「イエズス様、聖心をどうぞ私の心に下さい。その御身の聖心で、マリア様を愛する事ができますように」と、祈らなければならない、と黙想しました。

 私たちはそれだけでなくて、実際にイエズス様のなさったように、私たちも努力しなければならない、と黙想しました。どんな事をするかというと、昨日黙想したのは、「イエズス様のように、マリア様に従順でなければならない」。マリア様をお喜ばせる為に、マリア様のお望みのままに、私たちも従順となる。イエズス様の30年間の御生涯に、全くピタリと一致して倣う、という事です。

 また、マリア様を尊敬して、崇敬して、マリア様を褒め讃えなければならない。マリア様の名誉の為に、何かをしなければならない、と黙想しました。

 今日提案するのは、イエズス様がマリア様の子だ、という事で、マリア様と瓜二つだった、という事で、「マリア様の御徳と、イエズス様の徳が似ていた」という事、それで、「イエズス様がマリア様の真似して、マリア様に従順であって、崇敬して、それを真似した」という事を考えたら、「マリア様は、私たちにも、イエズス様になさると同じ様な事を、私たちになさって下さる」という事を黙想したいと思います。

 第1の点は、イエズス様がマリア様に対してなさった事、第2の点は、ですから、マリア様が私たちに於いて、あたかもイエズス様に対してなさるかのようにする、この事をみて、それで最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 それで、私たちがこの黙想の結果、どうやって、この黙想がよくできたか、できなかったか、或いは、この黙想が実りがあったか、なかったか、という判断はどうやってつけたら良いのか、どうやって私たちのその黙想を評価したら良いか、という事も、黙想を考えてみます。

 イエズス様はでは、マリア様に従順で、マリア様に尊敬を払っていた。その結果、マリア様の事を真似よう、真似よう、と思っていました。イエズス様の笑い方、イエズス様の口調、イエズス様の物腰、イエズス様の仕草は、マリア様そっくりでした。

 マリア様はどんな方だったでしょうか?マリア様の事をよくご覧になって下さい。マリア様は童貞の内の童貞であり、とても清い方でした。イエズス様も全く純潔の純潔、清い方でありました。マリア様はご自分の事を、「主の婢女なり」と、天使に言いました。「主の婢女なり。自分の事はどうでもいいのです、主の御旨が行われますように。たとえ、主の御旨が何か見た目には不可能であるかのように見えるけれども、私は童貞でありながら、母親となる。あたかも、モーゼの青い、青々とした木が、轟々と火で燃えているかのように」しかしマリア様は、深い信仰を以って、「我は主の婢女なり、仰せの如く我になりかし」ご謙遜と深い信仰と、自分の利益を忘れるほどの謙遜を以って、ご自分が何であるかを示しました。

 イエズス様も全く同じでした。「イエズス様もこの世に入る時に、『見よ、私は御身の御旨を果たす為に来ます。』と、イザヤの預言書に書かれてある通りの事を言った」と、聖パウロは証言しています。イエズス様のその従順、御謙遜、これはマリア様と瓜二つです。

 マリア様は、深い信仰と、その全てが不可能であるかのようにも思われたそのお告げの時から、カナの婚宴、イエズス様からあたかも拒まれたかのようにも見えた、「これが、あなたと私の間に一体何の関係があるのか」それでも、「さあ、この人の通りになさりなさい」として、奇跡を起こさせた、起こしてもらった。

 或いは、天主であるにもかかわらず、死を迎えた。「キリストは死なない」と、書かれてあるのに、目の前で死んでいる。その不可能であるかのような現実、天主の御子であるはずなのに、何故この私の息子は、「主よ、何故我を見捨て給うのか」と言う、あたかも絶望したかのような言葉を仰っている。しかしマリア様は、全てを超えて信じていました。深い信仰を持っていました。

 マリア様は、天使のお告げを受けてからすぐに、エリザベトの事を聞き、愛徳を以って実践しました、「あぁ、エリザベトはもう年をとっている。助けてあげよう、さぞかし苦しんでいるに、さぞかし大変な事に違いない」自分の地位、自分の「天主の御母」という素晴らしい事はすっかり忘れて、エリザベトの愛徳の奉仕の為に行きます。マリア様の霊的な、マリア様を通して、イエズス様は霊的な奇跡さえも行います。

 イエズス様は、そのようなマリア様の行いを、そのようなお姿を、いつも真似しておられました。

 第2のポイントで、マリア様はでは、イエズス様にどのような事をなさるのでしょうか?いえ、もっと言うと、イエズス様の聖心を私たちが頂いた、イエズス様の聖心を頂いている私たちに、マリア様は一体どのような事をなさるでしょうか?

 マリア様は、イエズス様になさるのと同じ様な事を私たちになさいます。どういう事かというと、マリア様は、私たちに於いてイエズス様が形作られる様に、イエズス様がますます生きる様に、私たちにとって生きる、というのはイエズス・キリストであるように、私たちが、イエズス様のように考えて、イエズス様のように話して、イエズス様のように行う事ができるように、マリア様は育ててくれます。私たちの中にイエズス様をますます形作ってくれます。ますます、言ってみれば、養い、育てて、教育してくれます。マリア様は、私たちに於いて、イエズス・キリストをますますご覧になるからです。

 イエズス様の聖心を頂けば頂くほど、マリア様がますます私たちにイエズス・キリストを形作ろうとして、私たちに色々な助言やアドバイスや教えを与えてくれます、よく聞いて下さい。ちょうど司祭がホスチアを聖変化させて、イエズス様の御体にするように、マリア様も私たちに語りかけて、私たちを、見た目にはパンのまま、見た目にはそのままだけれども、実は、イエズス・キリスト自身である、というように変えて下さいます。

 では、マリア様の話を、言葉を、よく聞いて下さい。マリア様は一体、何と仰るでしょうか?マリア様は、イエズス様の聖心が私たちの心にますます入るように、私たちの心をきれいにしなさい、イエズス様に対して戦っている、イエズス様に反対している様なものを、ますます取り除きなさい、とアドバイスして下さいます。

 何故かというと、賢い母は、イエズス様が入ろう、と、イエズス様が御自分の聖心を下さろうとしているにもかかわらず、それを妨害している私たちに気が付いているからです。ですから、イエズス様がせっかく、「自分の心を以ってマリア様を愛しなさい」と、あげたくてあげたくてたまらないにもかかわらず、マリア様も、「あぁ、早く受け取って欲しい、受け取って欲しい」と言うにもかかわらず、私が、それを邪魔して、邪魔ものを付けているので、どうしてもイエズス様がそれを下さる事ができない。マリア様がそれを願っても、その邪魔ものがあるので、ハラハラハラハラしながらも、まだこれを受け取れないでいるのを見て、はがゆい思いをしている。

 「では、マリア様、一体どうしたら良いのですか?」

 すると、イエズス様の聖心を私たちが受けるに邪魔する様なものは、私たちの欠点だ、私たちの悪い傾きだ、私たちがよく深く根強く持ってしまっている、悪い癖がある。その癖の為に、イエズス様を素直に聖心を素直に入る事ができなくなっている。

 「では、その癖は一体何なのでしょうか?」マリア様は私たちに、「どんな癖があるか考えてごらんなさい?」と、招いておられるようです。

 もしかしたら私たちは、虚栄を追っていて、人からいつも褒められたり、ちやほやされるのを望んで、隠れて望んでいるのかもしれません。

 或いは、私たちには、「いやぁ、大した事ないですよ」と、口先だけでは言うけれど、本当は傲慢で、「大した事がないんですね」と、そのまま言われると、「え!?」と、却って怒ってしまったりするかもしれません。

 或いは、私たちは非常に短気で、ちょっとした事によっても、すぐ敏感に、「え!?」と怒るのだけれども、他の人が怒るのを見て、「何だ、この人は」と言うのかもしれません。

 或いは、私はもしかしたら、とても野心家で、人の上に立ちたい、人の上に号令をして、「こうだ、こうだ」とやりたい、と、「仕切りたい」と、思っていて、でも他の人が何か選ばれてやると、「あ!何だこの人は」と言って、妬みを起こしたり、嫉妬を起こしたりしているのかもしれません。もしかしたら、その仕返しをしてやろうとか、復讐をしてやろうとか、今度会ったら見返してやろうと思っているのかもしれません。

 イエズス様の柔和、謙遜な心とは反対なのかもしれません。

 或いは、私たちはとても性格が良くて、「さあ」良い事を聞くと、「さあ、やろう!」と思うのだけれども、ちょっと経つと、「あぁ、もうやめた」と、すぐに根気が無くて、すぐに、「もう難しいから」或いは、「あぁ、めんどくさいから」或いは、「あぁ、気が散った」と言って、すぐにやめてしまって、せっかく立てた決心も3日坊主どころか、3時間で終わってしまうかもしれません。

 或いは、私たちの行いはあまりにも見かけだけで、心の底には全然響いてなくて、外見だけ、見かけだけで、心が伴っていなかったのかもしれません。

 或いは、私たちの行動は、いつも肉欲に、或いは情欲に動かされていて、いつも、「楽をしたい、怠惰に時を過ごしたい」或いは、「つまらない情欲に流されたい。食べて、飲んで」という事だけを求めていたかもしれません。

 或いは、私たちは、私は自分の事だけを考えて、マリア様のように、「あぁ、隣人が困っている」或いは、「天主様の為に」という事よりは、自分はこんなに困っていて、自分はこんなに疲れていて、自分はこうで、自分は、自分は、自分は自分は、としか考えていなかったかもしれません。

 マリア様は、そのよう私たちに於いて、「イエズス様の精神と反対の精神は有りませんか?」と、今日尋ねておられます。

 私たちがそれを、自分のその欠点を、或いはその主要な不足な所を発見するのは、御恵みが必要です。中には自分の正直な姿を見るのは怖いし、或いは嫌だし、或いは正直な姿を見ても、自分が自分で以って思っている姿というのと、もしかしたら一致しなくて、正直な所を見る事ができないかもしれません。

 でもマリア様の御取次ぎによって、ますます私たちがイエズス様を受け入れる事ができるように、その自分、私の欠点が、或いは不足の所が、妨害物が何かをよく悟らせて下さるようにお祈り致しましょう。

 もしも、もしもそのような主要な欠点が何か分かったら、私たちはどうしたら良いでしょうか?

 一番よく勧められているのが、私たちの欠点に反対する様なイエズス様の善徳を、聖徳を、美徳を、私たちがそれを見て、そこに於いて、イエズス様に倣うように努力する、という事です。

 例えばもしも、私はとても根気が無くて、ちょっとすると、「あぁ、ダメだ」「あぁ、もう気が散った」「もう、インターネットだ」「あぁ、テレビを見ちゃおう」さあ本を開いたけれども「あぁ、もうダメだ」というような人には、イエズス様の十字架の道行き、倒れても倒れても歩いたイエズス様、「イエズス様、どうぞ、その根気を下さい」というお祈りをしたらどうでしょうか。イエズス様にその根気を願ったらどうでしょうか。一度にアッと、もちろんイエズス様は下さらないかもしれませんけれども、しかし、少しずつ少しずつ、その力を与えてくれるはずです。

 もしも、私がとても傲慢で、「私の名誉が傷付いた」といつも敏感になっている場合には、イエズス様の柔和、謙遜である聖心に祈って、イエズス様が、屈辱を受けても、何も返答せずに、黙ってそれを耐え忍んでおられた御受難を黙想する事によって、お捧げするのはどうでしょうか。

 第2に、もしも私がその欠点を犯してしまったら、どうしたら良いでしょうか?

 マリア様は、欠点を犯したら、「すぐに、償いをしなさい」と、仰います。もしも私たちがそれをすぐに償うならば、どうやって償ったら良いか、という事も、どうぞマリア様にお伺い下さい、マリア様はここで、「また気を散らしてしまいました」「あぁ、短気になってしまいました」或いは、「こうなってしまいました、どうしたら良いでしょうか?」マリア様は、「では、それの償いに、この十字架を受けなさい」「この今の仕事を終わらせてしまいなさい」などと仰るかもしれません。私たちはその、或いは償いにめでたしをここで、或いは償いの祈りを唱えよう、と思うかもしれません。すぐに償えば償うほど、それは私たちの犯した過失は、恵みの源となります。

 こうやってマリア様は私たちに、イエズス様と反対する様なものを、イエズス様の御恵みを妨害する様なものを浄めよう、浄めようと教えてくれます。

 では今日、どのような遷善な決心を立てたらよろしいでしょうか?

 1つは、イエズス様の聖心を頂くように、ますます今日も、毎日、御聖体拝領の時に、霊的聖体拝領によって、或いは日々のお祈りによって、イエズス様の聖心を求めましょう。イエズス様の聖心を以ってマリア様をお愛しする事ができるように、マリア様に従順であり、マリア様を褒め讃えて、マリア様の真似をするように致しましょう。

 第2に、マリア様の勧めに従って、私たちの心から、イエズス様を邪魔をするようなものを浄める事ができるように、今日是非、私にとって、イエズス様に一番反対する様なものは何かを、ちょっとボヤッとではなくて、一体本当は、具体的に、「本当の所は何なのだろうか」と、マリア様にお伺いしてみる事に致しましょう。マリア様に、どうぞ、そのイエズス様から邪魔するものを、ますます少なくして下さるように、私たちに、それに反対する徳を実践する事ができるようにお祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書:シノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 すこし遅れてしまいましたが、「ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書」について、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローマにおけるシノド(司教会議)の最終報告書
http://www.dici.org/documents/le-rapport-final-du-synode-des-eveques-a-rome/

2015年12月4日

シノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている

 聖ピオ十世会会員、マチアス・ガオドロン神父は1990年、ティシエ・ド・マルレ司教により司祭叙階された。12年間に渡ってツァイツコーヘン(バイエルン)のイエズスの聖心神学校の校長を務めた。現在ではザンクトガレン県(スイス)のInstitut Sainte-Marieで教授を務めている。「教会内における危機についてのカテキズム」(アンジェルス・プレス)の著者である彼は、今回の記事で家庭に関するシノドの最終報告書を分析している。これは最初にドイツ管区の月刊ニュースレター Mitteilungsblatt誌(2015年12月)と、同管区のウェブサイトに掲載された。

 DICI編集部は、フランス語訳と英訳の掲載許可の快諾を得られたことを彼に感謝する。


 希望と不安を同等に引き起こしたローマでのシノドは、2015年10月25日に閉会した。このシノドでは、多くの進歩主義カトリックたちと司教たちが期待したような、離婚して再婚した人々への聖体拝領の実施を勧めることもせず、同性愛者たちにもっと好意的な態度をとろうと呼びかけることもなかった。しかし、シノドは明確な言い回しでカトリックの真理を擁護することもなかった。教皇庁のKurt Koch枢機卿が次のように述べたように、次のことは残念ながら事実である。すなわち「閉じられたドアは一つもない」ということだ。結局、秘跡の新しい実践がいずれ導入されるかどうかという問題は、以前として開かれたままである。

 同性愛に関する限り、シノドはそのno.76において、同性愛の絆は結婚に関する天主のご計画と両立しないと宣言した時、充分に明確な言葉を使用した。この文書はこうも述べている。国際組織が貧困国に財政援助をする引き替え条件として、同性愛者たちの「結婚」を合法化せよと圧力をかけることは断じて受け入れられない、と。

 だが、さらにこの先、離婚して再婚したカトリック信者の問題について、no.84は受け入れ難い声明を含んでいる。実際のところ「聖霊はすべての人々の善のために、彼ら[離婚して再婚したカトリック信者たち]の上にその贈り物と賜物を注がれる」というのは事実だろうか? 厳密に言ってこの文章を受け入れられる人がいるとしても、この「贈り物と賜物」は聖寵の状態にあることを前提としないので、次に続く文章、「彼らは破門されたと感じるべきではない。その反対に、教会の生ける成員として成長できることが彼らにとって不可欠なのだ」という場合と意味がつながらない。離婚して再婚した人々が、みずからを教会から切り離したり、信仰を否定しない限り破門されないというのは事実である。彼らは教会の成員のまま留まる。ということは、しかし、彼らはもはや教会の「生ける」成員ではなく「死せる」成員ということになる。神学用語での生ける成員とは、聖寵の状態にあるカトリック信者のことである。あらゆる大罪が原因となって、成員は失われる。その結果、罪人はキリストとその教会に結びついたままであるが、天的生命の循環をやめた死せる成員としてなのである。離婚して再婚した人々は永久的大罪の状態のうちに生きている。彼らが天主の意志に反する婚姻の状態に終止符を打つつもりがない限り、ちょうど大罪を犯した人々がするように告解してもゆるしは与えられない。ゆるしが有効に与えられるのは、痛悔と生き方を変えるというしっかりした目的がある場合のみである、という単純な理由のゆえにである。このような状態においてこそ彼らは本当の意味で「前進」せざるを得ず、最大限に教会の生命に参与することで、彼らの罪深い状況から離れるために必要な恩寵と強さを乞い求めるのである。

 no.86においては曖昧さも見出される。離婚して再婚した人々と司祭との対話は「内輪で語らうことで、彼らが教会の生命にもっと完全にあずかる可能性と、それを育み、成長させる段階を阻止するものを正しく判断する方法に貢献する」これはどういうことか? このようなカトリック信者たち──じっくりと内省したのち、良心に顧みて決意した──が秘跡に近づくことを許すために、ドアは少しばかり開かれているように見える。離婚して再婚したカトリック信者は、ある意味主要な神学上の問題を何も突きつけていない。彼らは罪の生活を捨てればすぐに、再び告解に行くことができるし聖体拝領できるのだ。だがそうしない限り、キリストと教会の教えを尊重する司祭は誰も彼らに聖体拝領を許可できない。このバラグラフこそがシノドで最も物議を醸した。これは、ようやくのことではあったが、178票という可決のために必要な3分の2票を得てしまった。

 教皇フランシスコは他の場所でも、すでにこの「問題」を解決できる別の道を切り開いた。彼個人の権威で行動することで、また教会の掟を修正するいかなる機関の設立も回避するため、教皇フランシスコは結婚無効の事例手続きを平易にした。つまり、あやふやな結婚無効宣言が将来的に大量発生するということ、また、教会でではなく民法的に再婚した夫婦が、教会において自分たちの結婚が合法化されるということを恐れる重大な理由が存在する。従って、教会の教えの領域においては結婚は不解消的なままであるが、実際にはある種の「カトリック信者の離婚」が日の目を見る可能性がある。

 今回のシノドは分裂を深めた教会の印象をもたらしている。福音の伝統的教えを公に破ろうとはしない大勢の司教たちがいた一方、他方では、この教義を明確に、曖昧さを残さずに明記する少数派の司教たちがいた。カトリック教会内と二回のシノドにおいて二つのアンケートがなされた後、妥協した文書と離婚して再婚したカトリック信者たちを「教会の生ける成員」と認めるという結果だけが残された。もちろん彼らに聖体拝領は許されていないが明確にそれを禁じてもいない。シノドは、ほんのちょっとで、さらに悪い方法で幕を閉じていたかもしれない。保守派の司教たちが、教義からあからさまに離れることを拒否したかもしれなかったが、結婚の不解消性に影響はなかったがためにほっとした。進歩派の司教たちは、彼らが望むすべてを得られなかったとはいえ、教義と規則の緩和化の道をさらに歩み続けることができる。

マチアス・ガオドロン神父

聖ピオ十世会総長による、家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言 2015年10月27日

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 すこし遅れてしまいましたが、「家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言」について、ご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

家庭に関するシノドの最終報告書に関する宣言

原文はこちら


2015年10月28日

 家庭に関するシノドの第二総会の最終報告書は、2015年10月24日に発表され、シノドの教父たちの同意を見せることからかけ離れており、互いに大きく異なる立場の間での妥協を表現している。その中に結婚とカトリック家庭について一部教義を思い起こさせる文章をもちろん読むことができるが、悲しむべき曖昧さと省略にも気づく。そして、相対主義的な司牧的「あわれみ」の名のもと、最も重大な違反が規律の中に顔をのぞかせている。この文書が与える一般的な印象は混乱を生み出しており、この混乱は教会の絶えざる教えに反する意味で利用されないはずはない。

 このため、教皇と司教の役割、そして結婚と家庭に関するキリストから受け取った真理を再確認する必要がある、と私たちには思われる。シノドの第二総会開始前に、私たちは教皇フランシスコに同じ精神において嘆願書を送ろうとの思いに促され、これを実行している。

1 – 教皇と司教の役割 [1]

 カトリック教会の霊的息子として、私たちはローマの司教、聖ペトロの後継者はキリストの代理者であり、同時に全教会のかしらであると信じる。彼の権力とは、固有の意味における裁治権である。この権力に関して、牧者たちは、個別の教会の信者たちも、単独であろうと、団体としてであろうと、公会議においてさえも、シノドにおいても、あるいは司教会議においても、位階制度的な秩序づけ(hierarchical subordination)とまことの従順の義務を負っている。

 ローマの司教との交わりの一致を維持し、同じ信仰を告白するという方法で、キリストの教会は一人の牧者のもとの一つの群れであるように天主は計画された。天主の聖会は、天主によって位階制度をもつ社会として構成されており、この教会において信者を統治する権威は、教皇と教皇のもとにある司教を通して、天主より由来する。[2]

 教皇の最高の教導職が、教義的に関すること及び規律に関することにおいて、啓示された真理の真性の表現を発布する時、それに修正を導入するようなことは、教皇よりも低い段階の権威を授かった教会組織の管轄──司教会議のような──の範囲内にあるのではない。

 永久に保存されなければならない聖なる教義の意味は、教皇と司教の教導職が決定的に教え続けてきたもので、そこから逸れることは決して合法的ではない。従って教会の職務は、あわれみを実践をする場合、無知という貧困を治療し、霊魂たちを救う真理の表現を与えることから始めなければならない。

 従って、啓示された真理は、天主によって制定されたヒエラルキーにおいて、信仰と教導職の教えにおいて、使徒たちとその後継者である教皇及び司教らに「聖なる遺産」として委ねられた。彼らがそれを忠実に守り、権威をもって教えることができるようにである。この「遺産」を包み込む源泉は、聖書と口伝による聖伝である。聖伝はキリストご自身より使徒たちに受け継がれ、聖霊の息吹のもと使徒たちに手渡され、私たちに伝えられた。

 教導教会が聖書と聖伝に含まれたこれらの真理の意味を宣言する時、天主によって啓示されたままに信者が信じられるよう、彼らに対し権威をもってそれを明らかにする。教皇と司教の職務は、信仰のセンス(信仰の感覚、sensus fidei)や「天主の民」の共通の体験が教皇らに提案するものを承認することだ、というのは間違いである。

 私たちがすでに教皇聖下への嘆願書において次のように書いた通りである。「私たちの不安は、聖ピオ十世が回勅「パッシェンディ」で、いわゆる現代世界の要求に順応させようとするドグマの修正を排斥したという事実に由来しています。教皇聖下、ピオ十世とあなたのお二方は、すべての時代、すべての時代のかしらにして牧者、教皇がこの地上において忠実な代理者とならなければならないお方、キリストへの従順のうちに、教え、聖化し、統治するための権威の充満を受け取りました。厳粛な排斥のもとにあるこの事実は、時間の経過によって、司牧上の実践が承認されるようにはなり得ないのです」

 これこそ、マルセル・ルフェーブル大司教が1974年11月21日の宣言において書き記そうと促されたことである。「たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。
 聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)[3]


2 – 結婚とカトリック家庭

 結婚に関しては、天主は人類の繁栄のために、一人の男と一人の女の堅固かつ永久の絆である結婚の設定によってそれを準備された。[4] キリストが結婚を秘蹟の尊厳にまで高めたがゆえに、洗礼を受けた人々の結婚は秘跡である。結婚と家庭は、それゆえに、神聖かつ自然的の両方を併せ持つ制定である。

 結婚の第一目的は子どもの出産と教育であり、人間的意向がそれに反して行動し、阻むべきではない。結婚の第二の目的は、情欲を抑えるのと同様、伴侶が互いを捧げあう相互扶助である。

 キリストは、結婚の絆がキリスト者と全人類の両方にとって決定的なものとなるよう制定された。この絆は不解消的性質を有しており、婚姻の絆は両性の意志によっても、いかなる人間的権威によっても決して破られることはないものである。「人は天主がお合わせになったものを離してはならない」[5] 洗礼を受けた人々の結婚の秘跡の場合、この絆と不解消性は、キリストとその花嫁なる教会の一致のしるしという事実によって、より明確に説明されている。

 人間が結婚の絆と不解消性に反する宣言をし、実行するすべての事柄は、自然の要求や人間社会の善に一致していない。さらに、忠実なカトリック信者には、教会によって規定された宗教的結婚を考慮せずに民事的結婚の絆にのみ加わってはならないという重大な義務がある。

 聖体拝領(聖体の秘蹟を拝領すること)のためには、成聖の恩寵の状態と、愛徳によるキリストとの一致が必要である。聖体拝領はこの愛徳を増すと同時に、キリストの唯一の浄配として彼と一致している教会への愛を示している。その結果、意図的に同棲、あるいは姦淫の一致のうちに同居する人々は天主の掟と教会法に反しており、彼らが正義と愛徳の重大な欠如という悪い模範を示し、明らかな罪人であると見なされるがゆえに聖体拝領は許されない。「妻を去らせて、ほかの人と結婚すると、その人は姦通者である」[6]

 告解の秘跡において確実な罪のゆるしを得るためには、もはや罪を犯さないという決意を持つことが不可欠である。そのため、自分たちの不適切な状況を終わらせることを拒否する人々は、有効なゆるしを得ることはできない。[7]

 自然法に一致して、人間は自分の性を行使する権利を持つのは、道徳によって定められている制限を尊重しながらの、合法的結婚の範囲内のみである。このため、同性愛は自然法及び天主の掟に矛盾している。婚姻からほど遠いところにある結合(同棲、重婚、同性愛の結合)に入ることは、自然法・神法の要求することに反対する不秩序であり、従って、罪である。そこに置いていかなる道徳的善も、たとえ減少した善であっても、認めることができない。


 結婚の聖性と道徳の純潔性に反する現代の誤謬と法律制定がなされているが、自然法にはいかなる例外もない。なぜなら天主はご自身の法を与えられた時、人間の法律制定とは異なり、その無限の叡智においてすべての事柄とすべての状況を予見されていたからである。従って、さまざまな文化からの、めまぐるしく変化する状況に対し、自然法による指導倫理を採るよう一部の人々が提案する、いわゆる「状況倫理」は認められない。道徳秩序の問題解決は、夫婦や司牧者の良心によってのみ決定されてはならず、自然法は行動規範としての良心上に義務を負わせるものである。

 罪人への善きサマリア人的配慮は、罪には妥協しない一種のあわれみとして明らかになる。ちょうど医者が病人を病から助け、効果的に健康を回復させたい望み、その病に妥協せず、それを取り除くことと同じである。「主観主義的な司牧的アプローチ」という、一般的には福音の教えを想起させるが、個々のケースでは福音を破棄するようなアプローチの名のもとに、福音の教えから自らを解放することはできない。福音の教えを弱める危険を冒すことなく、教会の権威を破砕することなく、結婚の不解消性の掟を停止できる能力を、誰も司教に与えることはできない。というのは、この誤ったものの見方においては、教義的に断言されたことが司牧的に否定されうるからであり、法において禁止されていることが事実上正当化されうるからである。

 この大混乱の中で、常に変わらず、至るところで、皆によって、伝えられてきた(quod semper, quod ubique, quod ab omnibus) [8] カトリックの真理を、明確かつ堅固に教皇が再度明言すること、そして局部的に実際上否定されていることがないようにこの普遍の真理を保持すること──教皇の責任を果たしつつ、キリストによって定められた範囲内において──それは今や教皇に委ねられている。

 キリストのおん勧めに従い,警戒して、祈れ(vigilate et orate)。私たちは教皇のために祈る──oremus pro pontifice nostro Francisco 我らの教皇フランシスコのために祈らん。そして私たちは警戒を怠らない──non tradat eum in manus inimicorum ejus[9] 願わくは天主が彼を敵の手に渡したまわざらんことを。私たちは教会のおん母なるマリアに、教皇が天主なるおん子の宝の忠実なしもべとなる恩寵を得てくださることを嘆願する。


2015年10月27日、メンツィンゲンにて
+ ベルナール・フェレー
聖ピオ十世会総長


[1] Council of Trent, Session 4; Vatican Council I, Constitution Dei Filius; Decree Lamentabili, 6.
[2] Mt. 16:18-19; Jn. 21:15-17; Vatican I, Constitution Pastor Aeternus.
[3] Gal. 1:8.
[4] Gen. 2:18-25.
[5] Mt. 19:6.
[6] Mt. 19:9.
[7] Leo XIII, Arcanum Divinae Sapientiae; Pius XI, Casti Connubii.
[8] 「常に変わらず、至るところで、皆によって、宣言されてきたこと」; Vincent of Lerins, Commonitorium.

【再掲】預言者シメオンの役を勤めた福者ヘンリコ・スソー

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
預言者シメオンの役を勤めた福者ヘンリコ・スソー(Blessed Henry Suso, Heinrich Seuse, (Henricus Suso) [1295-1366]の話を再掲します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 驚くべき苦業とセラフィン的愛によって有名なドミニコ会員福者ヘンリコ・スソーは、聖母の潔めを次の方法で頌栄(しょうえい)していた。

 潔めの祝日の前三日間は、霊的に三本のロウソクを準備した。つまり(1)聖母の童貞としての汚れなき清さ、(2)聖母の底の無き深き謙遜、(3)聖母の母としての尊厳を尊敬し、毎日三回「マグニフィカト(Magnificat)」を唱え、これをロウソクとした。その祝日の夜明けに、信者等が聖堂に集まる前に、中央祭壇の前に跪いて聖母の御生涯を黙想し、聖母が幼きイエズスを抱き聖殿に奉献するのを観想した。

 聖母がエルサレムの外門に来られると、ヘンリコは立ちあがって、天主を愛する多くの霊魂たちと共に聖母を迎えに行った。聖堂の入り口へ行き、丁度そこに聖母が御子を携えて聖堂に入ろうとするのに出会ったかのようにして、聖母の名誉のために歌うので暫く停ってそれを聞いて下さいとお願いし、心の中で霊的に「インヴィオラタ」の讃辞を歌って申し上げ「ただ御身のみ汚れなき者としてとどまり給えり(Quae sola inviolata permansisti)」と云う句に達すると聖母に向って「哀れな罪に満ちた者(自分のこと)を憐れんで下さい」と願った。それから立上って、霊的に灯ったロウソクを手にして聖母のお伴をして祭壇の方へ進んだ。

Inviolata, integra et casta es, Maria,
Quae es effecta fulgida coeli porta.
O Mater alma Christi carissima:
Suscipe pia laudum praeconia.
Te nunc flagitant devota corda et ora:
Nostra ut pura pectora sint et corpora,
Tua per precata dulcisona:
Nobis concedas veniam per saecula.
O benigna! O Regina! O Maria!
Quae sola inviolata permansisti.

マリアよ、御身は汚れなき者、終生童貞、そして操正しき方なり:
御身は輝く天の門とされ給うた。
おお、いとも愛すべきキリストの慈悲深き御母:
われらの敬虔なる賛美の称讃を受け給え。
今われらの熱心な心と舌は御身を求め奉る:
われらの心と身体が純潔であらんことを。
御身の甘美なる響きの祈りによりて
とこしえにわれらに赦しを与え給え。
おお、愛すべき御者よ、おお、元后よ、おお、マリアよ。
ただ御身のみ汚れなき者としてとどまり給えり。


 聖母が自分の心にともされた天主の光と愛のこの炎が決して消されることがないように願いつつ、この神秘的行列にお伴する諸聖人に向って、自分と一緒に「アドルナ・タラムム(Adorna thalamum tuum)」を歌った。この「アドルナ・タラムム」は、御浄めの祝日にミサの前に、ロウソクの行列をしながら歌うグレゴリオ聖歌である。

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christum:
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:
天の門なるマリアを抱擁せよ。
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。

 祭壇に到着して、マリアが御子をシメオンに渡す時、ヘンリコは聖母の前に跪き、その美しい御子を自分にも見せて頂き、そして彼を抱き、その御手足に接吻し、暫く自分の欲しい儘にする事を許されるよう願った。聖母はそれを許されるので、ヘンリコは愛と悦びに心躍り、イエズスを抱いて自分の心に押し当て幾度も抱擁するのであった。そして万物の創造主が、天上に於いて美しく大いなる光栄に満ち給うのに、地上に於いては弱く貧しくあり給う玄義を考えて恍惚とするのであった。最後に、讃辞と嘆声と感謝の中に御子を御母に返し、その祝日中、御子からも御母からも眼を放さないようにしていた。


【これは、渡辺 吉徳 (著)「ロザリオの信心 」(1980年)に掲載されている記事に、加筆編集したものです。】



シュナイダー司教:聖ピオ十世会は、教会のための賜、天主の御摂理がお使いになる道具の一つだ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 参考資料として、カザフスタンのアタナシウス・シュナイダー司教様が、つい最近ブログ「ロラテ・チェリ」としたインタビュー(2016年2月1日 公開)の一部をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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ロラテ・チェリ:聖ピオ十世会(SSPX) は、教会内で典型的ではない状況にあります。司教様は、何故、多くのカトリック信徒たちが聖ピオ十世会と共に行動することを恐れている、あるいは不安に思っていると思いますか?司教様が見たことから、聖ピオ十世会はどのようなどのような賜を主流の教会にもたらすことができると思いますか?

シュナイダー司教様:誰かがあるいは何かが重要ではない、あるいは弱い時には、誰もそれを恐れはしません。聖ピオ十世司祭兄弟会を恐れる人々は、究極的には、恒久のカトリック真理を恐れ、カトリック真理が道徳と典礼の領域に求めることを恐れているのです。

私たちの祖先たち、そして、最もよく知られている聖人達が過去千年間やったやり方で、信じ、礼拝し、道徳的に生活しようと聖ピオ十世会が努力するとき、私たちは聖ピオ十世会のカトリック司祭たちと信徒たちの生活と仕事を、現代における教会のための賜であると、しかも、教会内部における、現行の一般的な信仰の危機、道徳と典礼の危機の巨大さを治癒するために天主の御摂理がお使いになる道具の一つであるとさえ考えなければなりません。

聖ピオ十世会の一部には、しかしながら、全ての人間社会においてそうであるように、奇妙な人もいます。正義と愛徳とを欠き、従って本当の「教会と共に考える“sentire cum ecclesia,”」を欠くやり方と思考を持っている人で、独立的な教会となり教会における最高裁となる危険があります。しかし、私の知る限り、聖ピオ十世会の大部分は健全な部分であり、私は聖ピオ十世会総長ベルナール・フェレー司教様のことを、模範的な本当のカトリック司教であると考えています。聖ピオ十世会の教会法上の立場が承認される希望があります。

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Rorate Caeli: A non-typical situation in the church is the Priestly Society of St. Pius X (SSPX). Why does Your Excellency think that so many Catholics are afraid of the SSPX or anxious about any association with it? From what Your Excellency has seen, what gifts do you think the SSPX can bring to the mainstream Church?

H.E. Schneider: When someone or something is unimportant and weak, nobody has fear of it. Those who have fear of the Priestly Society of St. Pius X ultimately have fear of the perennial Catholic truths and of its demands in the moral and the liturgical domain.

When the SSPX tries to believe, to worship and to live morally the way our fore-fathers and the best-known Saints did during a millennial period, then one has to consider the life and the work of these Catholic priests and faithful of the SSPX as a gift for the Church in our days – even as one of the several instruments which the Divine Providence uses to remedy the enormity of the current general crisis of the faith, of the morals and of the liturgy inside the Church.

In some sectors of the SSPX there are, however, as it is the case in every human society some eccentric personalities. They have a method and a mindset which lack justice and charity and consequently the true “sentire cum ecclesia,” and there is the danger of an ecclesial autocephaly and to be the last judicial instance in the Church. However, to my knowledge, the healthier part corresponds to the major part of the SSPX and I consider their General Superior, His Excellency Monsignor Bernard Fellay, as an exemplarily and true Catholic bishop. There is some hope for a canonical recognition of the SPPX.


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アタナシウス・シュナイダー補佐司教のインタビュー「ファリザイ人たちへの反論」2014年11月30日

ベネディクト十六世:学者が作った新しいミサにより、古代教会以来の典礼の歴史が断絶し、連続性が破壊した

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 引退教皇であるベネディクト十六世は、こうおっしゃっています。

古いミサ典書が禁止されるということは、全典礼史を通じて一度もなかった。

【ローマ・ミサ典書の】改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたこと。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかった。

ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しない。

古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味する。

今回【新しいミサで】起きたことは、古い家を壊して新しい家を建てた【のと同じこと】。
歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止した。

典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとした。

これらが私たちに大きな損害を与えた。

教会が、いきいきと生きていくことができるためには、典礼の歴史の連続性を認め【なければならない】。

私たちが今日経験している教会の危機は、「たとえ神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である【新しいミサによる】典礼の崩壊が原因であると、私は確信している。

今日、【新しいミサの】典礼において、天主が存在しており、天主が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっている。


 ベネディクト十六世の言葉をお聞きください

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「私のレーゲンスブルク時代のはじめに当たって、第二の大きな出来事は、パウロ六世のミサ典書の刊行です。これは、いままでのミサ典書を、たった一年半の移行期間を猶予として、ほとんど完全に禁止するものでした。公会議後の試行錯誤の時代に、典礼の姿は深く変えられてしまったので、ふたたび規範的な典礼本文が出されるのは喜ばしいことでありました。しかし私は、古いミサ典書が禁止されるということについては、深い驚きを感じざるをえませんでした。全典礼史を通じて一度もなかったことです。しかし、それは、まったくあたりまえのことであるかのような印象が与えられました。現行のミサ典書は、トリエント公会議後の一五七〇年に、ピウス五世によって制定されたものだから、四〇〇年後の新しい公会議のあとでは、新しい教皇によって新しいミサ典書が制定されるのは当然だというのです。

 しかし真実はそうではありません。ピウス五世は、当時現存したローマ・ミサ典書に手を加えただけなのです。このような改訂は、歴史的な発展の一環として、世紀を通じて常に行われてきたことでした。ピウス五世のあともミサ典書の改訂は行われましたが、以前のものを使用禁止にしたことはありませんでした。それは成長と純化の連続的なプロセスであり、そこにおいて連続性が破壊されたことは一度もなかったのです。ピウス五世によってまったく新たに制定されたミサ典書など存在しません。長い成長の歴史のなかで、ピウス五世によって手を加えられたものがあるだけです。

 トリエント公会議ののちにつくられた新しいミサ典書は、今回のミサ典書の刊行とはまったく違う性質のものでした。宗教改革は特に、典礼の「改革」というかたちではじまりました。カトリック教会とプロテスタント教会というふたつのものが、はじめから別々のものとして、平行してあったわけではありません。教会の分裂は、ほとんど気づかれることなく進行したのです。もっともはっきりと目に見えて現われ、歴史的にもっとも深刻な影響を与えたのは、典礼における変化でした。この変化は場所によってもさまざまで、その結果、カトリックであるか、もはやカトリックではないかの境界線を引くことは、ほとんどできないような状態でした。

 典礼についての統一的な規則の不備と、中世における複数の典礼形態の並存の結果として生じたこの混乱の状態に直面して、ピウス五世は、二〇〇年以上の典礼の歴史を示すことのできない地域教会に対してのみ、疑いなくカトリック的なものとして、ローマ市教会の伝統的なミサの本文であるローマミサ典書を導入することを決定したのでした。二〇〇年以上の歴史を示すことができれば、そのカトリック的な性格は確実であると見倣され、それまでの典礼にとどまることができたのです。

 いままでの、そして、いままで合法的であると見倣されてきたミサ典書の使用が禁止されたわけではなかったのです。古代教会の聖体秘蹟書以来、何世紀も連綿とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計りしれないものです。いままでも行われてきたようなミサ典書の改訂であるが、今回は、典礼に各国語を導入するということで、いままでよりも根本的な改訂になったというのであれば、それは意味のあるものであり、公会議によって正当に求められたものということができましょう。

 しかし、今回起きたことは、それ以上のことだったのです。古い家を壊して新しい家を建てたのです。もちろん大幅に古い家の材料を使い、古い設計図によってということですが。この新しいミサ典書において、実際に多くの点が改良され、また豊かなものとされたのは疑いのないところです。しかし歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。

 これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまったのです。そうすると今度は、なぜ学者や中央機関だけが決定権を持つのか、最終的には個々の共同体が自分たちの典礼をつくってもよいのではないかと考えるのは、論理的です。しかし、典礼が自分たちによってつくられたものとなってしまえば、典礼は、典礼本来の賜であるもの、すなわち、私たちの生産物ではなく、私たちの根源であり、私たちの生命の源であるところの信仰の神秘との出会いを、私たちに与えることはできません。

 教会がいきいきと生きていくことができるためには、典礼意識の革新、すなわち、典礼の歴史の連続性を認め、ヴァティカン公会議を断絶としてではなく、発展として理解することができるような、典礼における和解の精神が欠かせません。私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則にしたがって行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いてくださるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

 もし典礼において、信仰の共同体、世界にひろがる教会の一致とその歴史、生きているキリストの神秘が現われるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現わすのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、ひとつの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件のもとでは、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。それゆえ私たちは、第二ヴァティカン公会議の本来の遺産に、ふたたび生命を呼び醒ますような、新しい典礼運動を必要としているのです。」
(『わが信仰の歩み』春秋社より)

クラウス・ガンバー神父:新しい典礼改革は、伝統的なローマ式典礼の真の破壊だった。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 クラウス・ガンバー神父(Klaus Gamber, レーゲンスブルグの典礼研究所の創立者所長、ローマの教皇庁立典礼アカデミーの名誉会員)の言葉を聞いてください。

 ガンバー師の「ローマ典礼の改革」のフランス語版に対して、ベネディクト十六世(ラッツィンガー枢機卿)は「序言」を書いて、彼の功績を讃えてこう言っています。

「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨て去り、その代わりに、丁度制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた。ガンバーは、真の預言者の警戒と真の証人の勇気とを持って、この捏造に反対した。そして、彼の信じられないほど豊かな知識をもって、疲れを知らずに私たちに真の典礼の生きる充満性について教えてくれた。」

 ガンバー神父は「ローマ典礼の改革」の中でこう断言しています。

「パウロ六世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae)には一切変化を加えたことがない、ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入しただけだ。」

「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」

新しい典礼改革は「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」であった。(p. 102.)

「混乱は大きい! この暗闇のなかでまだ明らかに見ることができる人が誰かまだいるのだろうか? 私たちに正しい道を示すことのできる指導者が私たちの教会のどこにいるのだろうか? 自己増殖をし続け最も聖なる神秘のまっただ中でさえも汚染し続けている近代主義神学の癌のような増殖を、この癌が広がってより大きな損害を及ぼす前に切り取り捨てるだけの勇気のある司教たちはいったいどこにいるのか? 私たちにとって現代必要とされているのは新しいアタナシウスであり、新しいバジリオであり、四世紀にキリスト教世界がほとんど全てアリウスの異端に陥ってしまっていた時にこれに対して立ち上がって闘ったような司教たちである。今日、私たちには、信仰の残っている人々を一致団結させてくれるような聖人が必要である。それは私たちが誤謬に対して戦い、弱い者とフラフラしている者たちをその無力感から立ち上がらせることができるためである。」(p. 113.)

「(聖伝のミサは)もう一度、私たちの信仰の規範となり、全世界においてカトリックの一致のシンボル、大変動と終わることのない変化の時代における安定の巌とならなければならない。」

「現代の教会は、新しいミサの必要が全くない。教会に必要なのは霊的生活を充足させることだ。これこそが信仰の危機を乗り越えうる。この危機は権威の危機でもある。少なくとも部分的には、権威の危機の責任は、ローマに起因されなければならない。」 (p. 68)

 聖伝の「ローマ典礼様式」と「現代典礼様式」と二つの典礼様式が存在する。

「パウロ六世の典礼形式は事実上新しい典礼様式を作り上げた。」(p. 39)

「今日、私たちは、教会の聖伝ほぼ二〇〇〇年の廃墟を前にして立っている。私たちはこう思わざるを得ない。多くの改革は教会の聖伝に損害を与え、それはそれを元に戻すのが難しいほどだ。今日、かくも酷い破壊の後に、聖伝の秩序を再建築するのが可能なのかと疑問にさえ思う。しかし、私たちは希望を諦めてはならない。」(p. 95)


「私たちは東方教会にも、西方教会にも、会衆と対面する儀式などというものは存在していなかったことと言うことができるし充分に証明することもできる。むしろ存在していたのは、祈る時に東方を向くということだけであった。」 (p. 77)

「初代教会において、そして中世において、祭壇の位置を決定したのは東方を向くと言うことである。聖アウグスティヌスを引用すると、『私たちが立って祈る時、天が始まる東を向く。天主が東におられるからという理由で(あたかも天主が東から西に移動されるかのように)そうするのではない。そうではなく、私たちの心を高い秩序に、つまり天主へと向けることを思い出させてくれるためである』」

「典礼の歴史においても神学においても社会学的にもいかなる根拠もないが故に、会衆と対面したミサの儀式というのは徐々に姿を消すべきである。」 (p. 92)

「『司牧者』誌において、第二バチカン公会議のすぐ後に発表された『荘厳ミサ』という著名な本の著者であるユングマンを引用したいと思う。ユングマンはこう書いている。『初代教会の祭壇が、常に会衆と対面して儀式をするように作られていたと、しばしば繰り返し主張されるが、それはおとぎ話以外の何ものでもないことが分かった』と。」

「焦点は常に天主に向かっていなければならない。人間にではない。このことは、司祭が会衆の方に顔を向けるのではなく、祈る時に皆が天主に向かっていなければならないということを常に意味した。従って、対面式の儀式は、事実上、間違っていると結論付けなければならない。結局、対面式の儀式は、天主から離れさせ、人間に向かわせるものである。」

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号 ― 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号」の日本語訳をご紹介いたします。

 「あわれみの聖年」は2015年12月8日の「無原罪の御宿り」から荘厳に始まりました。

 神父様は、「天主の御あわれみ」を私たちに黙想することを提案しています。

「無原罪の御宿り」こそ、「天主の御あわれみ」の神秘を表し、

「無原罪の御宿り」において、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのかを世にお示しになられること。

「あわれみの年」は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけであり、この天主の呼びかけに、私たちが何をしなければならないか?を教えてくださいます。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アジアの無原罪の聖母の騎士への手紙 第10号
*** 無原罪の御宿りといつくしみ(あわれみ)の年 ***

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

毎年、無原罪の御宿りの祝日が近づくと、聖マキシミリアノ・コルベはあふれんばかりの霊的な喜びで満たされ、修道士たちにその喜びを伝えていました。この偉大なる教義は聖母ご自身だけに関係するのではなく、私たちに対しても優れて実践的な結果をもたらす、と聖マキシミリアノは、しばしば彼らに説明していました。12月8日が近づきますから、彼と共にこの神秘に入り、それについて黙想しましょう。その日は、騎士全員が無原罪の聖母への奉献を確実に更新すべき日なのです。

今年、教皇様は「天主のいつくしみ(あわれみ)の年」を宣言しました。12月8日に荘厳に始まります。広く説明されてきていることは、不幸にも天主の御あわれみの理解そのものについても、その私たちの生活への影響についても、多くの霊魂を大変な災厄に導くことになるような全くの誤った解釈がおこなわれているということです。彼らを回心させて回心と聖化というあわれみ深い恩寵を受けさせる代わりに、この偽りのあわれみは、彼らに自らの罪を続ける決意を固めさせ、「天に向かって復讐を叫ぶ」忌まわしい行為さえも寛容に扱い、また正当化するのです。さらに、「光であり、その中に闇は一切ありえない」という天主の本質そのものについての完全に誤った理解を示しているのです。

それにもかかわらず、私たちは、教皇の意向すなわち教皇の個人的な考え方と、最高の権威者による行為とを区別しなければなりません。つまり、最高の権威者が、「聖年」を定めることによって、天からのあふれんばかりの恩寵が来るよう天を開いてくださったのであり、私たちがその恩寵に対して自分の心を開くなら、それを受けることができるのですから。エルザレムでの枝の主日の出来事のあとの大司祭の言葉を思い出しましょう。彼は言いました。「民のために一人の人が死ぬ方がよい」。カヤファの意向は確かに悪しきものでしたが、大司祭としての職務において彼が述べたその言葉は、預言的であり正しいものでした。同様に、「今年の大司祭」の意向にもかかわらず、最高の大司祭イエズス・キリストはご自分の代理者による客観的かつ法的に正当な決定を尊重され、そのため主は、世界と教会にかつて見られたうちで最悪のこの危機の時において、その無限の御あわれみをあわれな人類に注ごうと望んでおられるのだ、と私たちは結論できるのです。天主だけが、悪をより高い善へと変えることがおできになり、そのため、天主は多くの高位聖職者の心にあるあわれみについての誤った考えさえもお使いになり、この一年の間に、まことの御あわれみをお示しになることができるのです。

しかしながら、この地上にいる司祭一人一人の任務は、教会の教導権、教父たち、教会博士たち、まことの聖人たちによって明らかにされ、教えられた天主のまことの御あわれみを信者に提示することです。そうすれば、あわれみの年は、よい心構えをもって天主の愛の泉に近づく全ての人々にとり、大きな恩寵の源となるでしょう

「偶然によって」は何も起こりません。それゆえに私たちは、どこでも常に天主の御摂理の道を見いだすべきです。私たちの主が、無原罪の御宿りの祝日にあわれみの年を開始するよう、教皇様に霊感をお与えになったのは、「偶然によって」ではありません。事実、天主の御あわれみの神秘を表すのに、すべての被造物の中でただお一人だけ汚れなく、原罪を免れておられた聖母の御宿り、聖母の存在のまさに始まり、それ以上の時はありません。無原罪の御宿りにおいて、天主は、ご自身が被造物に対してまずどのような存在でいらっしゃるのか、そして、天主とのこの根本的な関係が無限の御あわれみであるよう望んでおられることを世にお示しになるのです。

天主の御あわれみは、無でしかない者への天主のまったくあわれみ深い謙遜の御業です。天主は、まったく見返りをうけることなく、無償の愛をくださいます。さらに、これは私たちに対する天主のまさに最初の御業なのであり、私たちの側からでき得るどのようなお応えよりも先にあるのです。天主は、その全能と上智をお使いになり、無条件であふれるほど豊かに、ご自身の愛、光、幸福、内的な喜びを与えてくださいます。天主は、私たちがこの永遠のあふれるほどの賜物の基礎の上に存在することを望んでおられます。天主は、その命で私たちを豊かに満たそうと望んでおられます。

しかし、私たちが、天主の賜物に対して、それを喜んで受け入れ、それに対して完全に心を開く場合にのみ、天主はこれを行うことがおできになります。罪を通して、私たちはこの天主の愛の流れを妨げており、天主に私たちへ御あわれみを与えていただく代わりに、私たちがこれらの賜物を受ける権利を持っていたかのように、私たちが自分自身でその賜物を得ることができるかのように思ってしまうのです。これは傲慢な態度であり、私たちの心の奥の本質はもちろん、天主の心の奥の本質まで否定しているだけでなく、それらを逆転させてしまうのです。天主が人類のしもべとしてとらえられているのです。人間は天主のようになりたいのです。

しかし、天主は、私たちの邪悪さと罪深さを使ってでも、さらに多くの御あわれみを示すことがおできになるのでした。天主は、半死半生の人類である私たちに、「良きサマリア人」である御独り子を送られ、私たちに赦しと浄めを与えてくださいます。この良き羊飼いは、迷える羊をあわれみ深く探し出し、御父の家へと戻してくださいます。イエズスが十字架に掛かり、私たちのために亡くなられたことは、天主の御あわれみの最大の現れです。「最後に至るまで」、主はご自分が持っておられるものすべてを、血のまさに最後の一滴まで、私たちにお与えになったのです。

しかし、人間の最大の悲劇は、多かれ少なかれ、その傲慢と自己満足の中に自らを閉じ込め、この至高のあわれみ深い天主の愛を受け入れないことにあるのです。天主の恩寵に自ら心を開いている人でさえ、天主がその御あわれみを完全にお見せになることを許しませんでした。なぜなら、「わが(天主の)心の計り知れないほどの愛に対する怠慢、無関心、忘却」があったからです。

では、天主の御あわれみを完全に受け入れ、天主のあふれるほどの恩寵に対する障害物を何も置かなかった人間がいるでしょうか? 実際に天主によって運命づけられ、天主がそうあるように計画なさったような人間を、私たちは見つけることができるでしょうか?

はい、その人こそが、インマクラータ、無原罪の聖母です! 聖母という存在はそのすべての点において、天主の御あわれみを反映したものです。聖母は天主からのものをすべて受け取り、受け入れられます。まさしくその結果、この天主の特性は、ある意味で、聖母においてご托身されているのです。聖母だけが、永遠の御父のすべての賜物を受け取られました。聖母は、天主がお下しになった善さに完全に心を開かれました。愛は、持っているすべてのものを与えることを望みます。天主は、被造物が受けることができるすべてのものを与えることを望まれます。そして、被造物の中で唯一聖母が、まことに天主の恩寵のすべてを受けたのです。なぜなら、聖母は、天主の愛に対して、いかなる障害物も置かれなかったからです。いつでも、どこでも、完全に、天主のご意志に対して「はい」と言われたのです。聖母は、絶対的に忠実に、天主の愛に応えられたのです。ためらいもなく、疑問もなく、疑いもなく! 天主ご自身が地上に来られるにあたって、聖母以上に良い道具と神殿はありえませんでした。それゆえに、最も善き御父の御摂理は、その汚れなき娘が、ほんの少しの悪に染まることをもお許しにならず、悪魔が聖母の霊魂へ触れることもお許しになりませんでした。これが聖母の無原罪のお宿りなのです。

無原罪のお宿りにおいて、私たちは、天主の御あわれみがまことに及ぶ範囲を発見するのです。まったく信じられないことであり、驚くべきことであるのは、天主が無でしかない被造物に対してどれほど多くを与えようと望まれるのか、天主の聖心が私たちの惨めさ(misery)に対してどれほど多く気にかけておられるのか、です。あわれみのラテン語である「ミゼリコルディア(Misericordia)」が示す通りです!

「見よ、わが最愛の子どもたちよ、われに造られし『無』よ、われに贖われし罪びとよ!
われは、わがあわれみを汝らに与えるに際して、無限の寛大さを示したい。汝らには無原罪の聖母が見えるか? 聖母がどれほど純粋か、どれほど美しいか、信じられないほどあらゆる徳にどれほど充ち満ちて、わが愛で燃える心を持っているかを? 最高の知恵、浸透する知性、わが永遠の命に満ち、聖霊の浄配、わが子の母、わが無限の力に参与するわが娘を? 汝らは、今までこのような被造物を見たことがあるか? これこそ、わがあわれみである!」

しかし、さらに次の段階があるのです。聖母は天主の御あわれみを完全に受けられたため、今度は聖母がその子どもたちすべてに対するあわれみの源となるよう、天主は望まれたのです。イエズスが十字架の上で聖母に対して「あなたの子を見よ」と言われたとき、聖母は私たちの霊的な母となられました。それは、聖母が私たちのためにすべての恩寵の母なる源、すべての恩寵の仲介者、あわれみの御母―「マーテル・ミゼリコルディエ(mater misericordiae)」になられたことを意味しているのです! このゆえに私たちは理解するのです、人々が聖母の助けを請い求めるところがどこであれ、子どもが愛情深い母親について知っているように、聖母は「あわれみ深く」、常にあわれみ深く、母としてのあわれみに満ちておられるということを。

天主は、私たちの救いと私たちの永遠の幸福を大変望まれています。天主が、地上における天主の御あわれみの目に見えるしるしとして、御子の人間としての聖心を造られただけでなく、私たちに「あわれみの御母」を、私たちを非常に愛してくださるその御母のあわれみ深く汚れなき御心とともに与えてくださったほどに!

あわれみの年は、その深奥においては、被造物に対する天主の呼びかけなのです。「われは慈悲を示そう! 汝らにわが賜物を、わが光を、わが宝を、わが愛を与えよう!」。私たちがしなければならない唯一のことは、心の扉を広く開けて、自分を本当に天主の方に向け、インマクラータ、無原罪の聖母に倣うことです。私たちが、すべてを受け入れるという聖母の態度をもちさえすれば、私たちは、 天主の御あわれみをもう一度受け入れ、私たちの罪の浄めという天主からの驚くべき御業に始まるあふれんばかりに豊かな賜物を天主からいただくことができるのです。なぜなら、天主は何度も何度も私たちをお赦しになるのにお疲れになることは決してなく、私たちの強情さや不忠実をご覧になるのではなく、私たちの最も小さな悔い改めのしるしさえもお使いになって私たちを無限の愛の賜物に再び浸してくださるからです。

では、「無原罪の聖母の騎士」とは何でしょうか? 人間の霊魂に天主の御あわれみを注ぐための聖母の道具なのです。私たちのすべての祈り、犠牲、使徒的活動には、唯一の目標があります。汚れなきあわれみの御母を、罪と誤謬というあわれみのない闇に座したままの愛する子どもたちに近づけさせ、聖母が彼らの心に触れて、天主の無限の御あわれみに向かわせ、天主が彼らを救い、聖人にするのを可能にさせることなのです。

2015年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、ニゴンボ(スリランカ)にて。
カール・シュテーリン神父

聖パウロ三木:まことの天主の御教えを他にして永久の命に入る道はござりませぬぞ!

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、2月5日は、聖伝によると、日本二十六聖殉教者の祝日でした。

 聖パウロ三木の最後の言葉をご紹介します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「見物の方々、それがしがいまわの言葉を心して聞かれよ! それがしはこれ国家に背く大逆人にもあらず、方々と等しく忠良なる日本(やまと)の民の一人なり。さるを今ここにはり付けられたるは、ひとえに世の救い主、イエズス・キリストの御教えを述べ伝えたるによるもの。
されどもこの苦しみは大いなる天主(デウス)の聖寵(ガラサ)にして我が無上の喜びとするところなり。
見物の衆よ、それがしの言葉をゆめゆめ疑い給うなかれ。古語にもいわずや、人の死なんとする、その言やよし、と。
それがしは今し絶えなんとする玉の緒にかけて断言せん。このまことの天主の御教えを他にして、永久の命にいる道はまたとござりませぬぞ!
それがし等ここに罪無くして十字架に磔るといえども、生命を奪う人々に対しても、つゆ怨みの心をも抱くものに非ず、唯、方々及び我が日の本の国民がことごとく、この同じ救いの途に入り給わん事をひたすら希うのみ。」

(1597年2月5日、十字架の上より、聖パウロ三木 二十六聖人の殉教を直接見聞したフランシスコ会士マルセロ・デ・リバデネイラが書き記した証言 
Historia de las islas del archipielago y reynos de la gran China, Tartaria, Cuchinchina, Malaca, Sian, Camboxa y Iappon, y de los sucedido en ellos a los religiosos descalços compuesta por fray Marcello de Ribadeneyra による。
第7章イエズス会修道士パウロ三木殉教者の生涯 CAPITULO VII De la vida del bienaventurado mártir Paulo Miquí, HERMANO DE LA COMPAÑÍA DE JESÚS には次の記述がある。

Y en ella más particularmente le mostró, porque siendo levantado en alto, sin turbarse ni dejarse vencer del amor que tenía a su padre adoptivo, que estaba presente, derramando muchas lágrimas, haciendo de la cruz pulpito, el tiempo que tuvo de vida siempre predicó, diciendo a los japones que él también lo era y que les desengañaba, como hombre que en aquella hora había de decir verdad, que no había en otra ley salvación sino en la ley de Cristo Nuestro Señor, a quien adoran los cristianos. Y que él alegremente daba su vida por ese mismo Dios ; que él perdonaba a sus enemigos, y al rey, y a todos los que eran culpados en su muerte, y rogaba al Señor que se bautizasen.
Y con estas palabras acabó. Hallándose a sus pies un padre de la Compañía, que le esforzaba para ir a la bienaventuranza del cielo, adonde recibiría particular gozo viendo muchas almas que por su predicación se habían salvado. Porque predicaba sin temor humano, como se echó de ver antes que fuese preso. (pp. 656-657)

【直訳】そして、彼においてそれは特に現れた。何故なら、高く上げられ、恥ずかしがらず、目前にいた養父に持っていた自分の愛に押し負かされ、多くの涙を流しながら、十字架を説教台に変えて、日本人たちにこう言って残る時間を常に説教した。自分もそう(日本人)である、(死なんとする)かの時に、人間は真理を言うように、それらを断言する、キリスト教信者たちが礼拝している、私たちの主キリストの法以外には、そのほかの救いの法はない、自分は喜んでこの同じ天主のために自分の命を与える、自分は、敵らを赦し、王を赦し、自分に死をもたらした全ての人間を赦し、主に彼らが洗礼を受けるように祈る、と。
この言葉を持って、彼は息絶えた。彼の足元に、イエズス会の司祭がいた。彼は天国の至福に行こうと努めた。そこには自分の説教で救われた多くの霊魂たちを見て特別の喜びを受けた。何故なら、彼は世間体を恐れずに、投獄前と同じように説教していたからだった。

四旬節に向けて

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 来る2月10日は灰の水曜日で、四旬節が始まります。2016年は、ファチマ100周年を準備するためにきわめて大切な年です。また、聖マキシミリアノ・コルベが創立した無原罪の聖母の騎士の創立100周年でもあります。それに併せて、四旬節をますます深めていきましょう。よき決心を立てましょう。

 2017年は「戦いの年」となります。マルチン・ルターによるローマに反対する反乱の500周年で、それはローマにおいてもエキュメニズムの名によってカトリックとともに祝われようとしています。この悪魔的な方針の間違いにより、多くの霊魂がますます混乱する虞があります。

 中には、教会の危機に躓いて「教皇聖座空位主義」に陥ってしまうような人も出ることでしょう。

 カトリック「保守派」と言われる人々は、次のような論理をします。

大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、教皇様によって認められた。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、それ自体では良いものでなければならない。第二バチカン公会議は正しく解釈されておらず、間違って適用されているだけだ。

 「教皇聖座空位主義者」と言われる人々は、次のような論理をします。

大前提:教皇様は、不可謬だから、教皇が認めること、教皇が教えることは、それが何であれ、真理でなければならない。
小前提:第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、以前のカトリック教会の教えと矛盾している。
結論:従って、第二バチカン公会議の教えとその後の実践は、本当の教皇が認め、教えることではない。

 しかし、正しい大前提はこうです。

真の教皇は、不可謬性の賜の特権を行使しようするとき、間違った教えをすることができない。キリストは、聖ペトロとその後継者たちが、この地上で繋ぎ、解く時にのみ誤りに陥らないように保護を与えた。歴史が教えるように、教皇が不可謬の特権を行使しようとしないなら、教皇と言えども全教会に誤りを教えることができる、ただし、誤った教えを啓示された真理として全教会に決定的に信じることを強制することはないし、啓示された真理に真っ向から反するような実践を全教会に強制することはない。

 ところで、この大前提を説明すると、第二バチカン公会議以後の教皇たちは、不可謬見を行使してドグマを決定しようとも、誤謬を排斥しようとしたこともありませんでした。教皇たちは、第二バチカン公会議と同じように、司牧的に、非強制的に、非ドグマ的に教え続けてきました。

 聖金曜日に、私たちの主イエズス・キリストが十字架につけられて、しかも「我が天主よ、我が天主よ、なぜ我を見捨て給うや?」と言いつつ死んだことを見た人々は、キリストは死ぬはずがない、と言って躓きました。聖母マリアだけが、イエズス・キリストが真の天主であり真の人であることを最後まで変わらずに信じ続けました。

 ファチマのジャシンタはこう言っていました。「かわいそうな教皇様、皆が、教皇様のために祈らなければなりません。」ファチマの牧童たちは、教皇様のためにいつも祈りと犠牲を捧げていました。

 インマクラータなる聖母マリア様の元にいつも留まりましょう。多くの霊魂が聖母の私たちにたいする愛を、また、聖母が私たちの母であり元后であることを認めることができるように祈りましょう。ファチマでは、聖母はご自分の汚れなき聖心を私たちの避難所として、また、天主へと私たちを導く道として与えてくださいました。

 キリストの神秘体である教会の受難の時、また、ファチマ100周年を準備の時、私たちはいつも聖母マリアの元に馳せよりましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

オッタヴィアーニ枢機卿:新しいミサは、全体的にも詳細も、ミサに関するカトリック神学から逸脱している

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(翻訳)をご紹介します。

オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙

1969年9月25日、ローマにて

教皇聖下

「聖なる典礼に関する憲章の実行のための委員会」の専門家らによって準備されたミサの新しい司式(Novus Ordo Missae)を、注意深く吟味し、その他の人々が綿密な調査をするように願い、そして、長い祈りと考察の後に、私たちは次の考察結果を聖下の前に報告するのが、天主の御目の前における、また聖下に対する重大な私たちの義務であると感じます。

1、添付のミサの新しい式次第の批判的研究は、神学者、典礼学者、霊魂の牧者らから成るあるグループのなしたものでありますが、これは短いものにもかかわらず、次のことを非常に明らかに示しています。すなわち、もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。あの当時に決定的に定められた典礼様式のカノンは、この[ミサの]神秘の完全性に対して向けられた如何なる異端に対しても越えることのできない防御の壁を作っていたのです。

2、聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上で正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることが、あたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような疑いは既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまうことでしょう。
最近の改革は典礼に於いてしたばかりの変化のために信者の側では、ただ完全にまごつかせる以外の何ものにも行き着かなかったことを十分に示しています。信者は落ち着きが無くなり、信仰をますます無くしているとの疑うことの出来ない印を既に見せています。聖職者の中で最も優れたものの間でさえ、良心の危機の苦悶を訴え、これに関して無数の例を私たちは毎日知るに至っています。

3、これらの考察は牧者らとその群の両方の生の声によって聖下の元にのみ届くことが出来るのですが、聖下の慈愛溢れる父の心にそのこだまを見つけ出さざるを得ません。聖下の父の心は常に教会の子らの霊的必要を非常に深く心配しておられるからです。ある法律がその臣民の善を望んで作られたにもかかわらず。それがその反対に有害であったと分かるときにはこれらの臣民はその法律を廃止するように忠孝の信頼をもって願う権利、いえ義務があるというのはいつも本当のことでした。

 ですから、これ程の痛ましい分裂と、信仰の純粋さと教会の一致に対するますます大きくなる危機(このことは私たちの共通の父である聖下ご自身がお嘆きになったことでもあります)の時に当たって、私たちは本当に心から聖下にひたすらお願い申しあげます。聖下ご自身がかくも高く賞賛され、全カトリック世界がかくも深く愛し崇敬してきた聖ピオ5世のローマ・ミサ典書の実り豊かな完全性に私たちが続けて使用することが出来るようにその可能性を私たちから奪わないで下さい。

 オッタヴィアーニ枢機卿(署名)
 バッチ枢機卿(署名)




新しいミサ制作においてオブサーバーとして参加したプロテスタントの牧師達
Raymond George (Methodist)
Ronald Jaspar (Anglican)
Massey Shepherd (Episcopalian)
Friedrich Künneth (Lutheran)
Eugene Brand (Lutheran)
Max Thurian (Calvinist-community of Taize).



ジャン・ギトン:パウロ六世には、ミサからカトリック的なものを消す、カルヴィン派に近づける意向があった

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新しいミサはエキュメニズムのために作られました。
 ジャン・ギトン(Jean Guitton)はパウロ六世の親密な友人でした。何故パウロ六世が新しいミサを作ったかその秘密を直接聞きました。

「"パウロ六世の" という名前を持つ新しい典礼の意向は、信徒らにミサに対するより大きな参加をもとめること、聖書にもっと大きな場所を与え、いわゆる『マジック』とか『実体の聖変化』とかいわれるもの、つまり全実体変化というカトリックの信仰の場所を少なくする、ことだといって間違いはないと思います。言い換えると、パウロ六世には、聖伝の意味においてあまりにも『カトリック』的なものをミサにおいて消し去る、或いは少なくとも訂正するか曲げる、そしてカトリックのミサを、繰り返して言いますが、カルヴィン派のミサに近づけるという意向がありました。」

 新しいミサを作った中心人物アンニバレ・ブニーニは新しいミサについてこう言っています。

「教会は、霊魂への愛と別れた私たちの兄弟たちが一致の道へと至るように全てをしようと言う望みとに導かれ、(プロテスタントたちにとって) 躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた。」
(Documentation Catholique du 4 avril 1965)

オッセルバトーレ・ロマーノにも、ブニーニは同じことをこう言っています。
「私たちは私たちのカトリックの祈りから、カトリックの典礼から、別れた兄弟達、つまりプロテスタントたちにとって、躓きの陰となるかもしれないものは全て取り除かなければならない。」
(Archbishop Annibale Bugnini, L'Osservatore Romano, March 19, 1965)

真の巡礼の一つ一つは、天主のお恵みの巨大な源泉です---2016年長崎秋田巡礼について シュテーリン神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する巡礼者の皆様!

真の巡礼の一つ一つは、天主のお恵みの巨大な源泉です。私たちの主イエズス・キリストは、自分の家を離れて、大きな犠牲を払って、天主の無限の御憐れみの特権的な場所を訪問する人々にふんだんに報われます。これらの場所は、永遠の光に私たちを近づけるために、また、悪魔の罠から私たちを解放し、闇の勢力との戦いにおいて私たちに力を与えるために、天主によって選ばれています。これらの場所の選択と天主の介入の日付とは、しばしば驚くべきものです。
あたかも、現在の異端と反キリスト教的勢力の霊的原子爆弾のまさにその投下された地に、天主は信じられないほどの美しい聖寵の花の庭を植えることを望まれているかのようです。
天主は、1830年、パリにおいてそうなさいました。パリ全市とフランス全国がひどい社会主義革命を遂行しているまさにその時、聖母はパリで聖カタリナ・ラブレに現れて、不思議のメダイを与えました。天主は、1917年にもそうなさいました。ロシアの10月革命をもって、共産主義の恐怖政治が始まりつつあった時、聖母はその時、フリーメーソンによって支配されていたポルトガルのファティマに現れました。

私たちは日本について考えるとき、またこの国を支配している唯物主義と異教主義の悲しい現実を述べねばなりません。しかし天主の御摂理は、全世界のための無数の御恵みの源泉としてこの国を選んだのでした。秋田の非常にごく控えめな修道院に、慎ましいシンプルな木製の聖母マリア像があります。この彫像から、聖母マリアに近づくすべての人々に御恵みと憐れみの生ける水が流れ出たのであり、流れ出ています。
その水は、私たちには涙として来ます。このことは、聖母の涙は、信じられないほどの苦しみの実りであるという意味です。秋田のメッセージは、母親のメッセージであります。地獄の火から、現代の全ての誘惑から、自分の最愛の子供たちを救うために望んでいる母のメッセージです。

今年、私たちの巡礼は小さな記念の年となります:これらの生ける水を私たちの心の中に霊的に汲み取るためにインマクラータの元に来て、今年で10回目であるからです。
この生ける水は、完全に私たちに浸透しなければなりません。私たちの知性を貫通しなければなりません。それは、私たちが現代の混乱において誤らないように、それどころか、すべての近代主義、エキュメニズム、およびその他の異端に対抗して、しっかりと私たちの聖伝のカトリックの信仰を保持することができるようにするためです。
罪に対する恐怖と嫌悪感で私たちを満たし、イエズスと聖母マリアとの分かちがたく一致した聖心に対する常により大きな愛をもって私たちをいっぱいにするために、聖母からの生ける水は、私たちの心に浸透しなければなりません。

私たちの感覚を制御し、感覚をして真理と善との忠実なしもべにするために、聖母マリアの生ける水は、私たちの感覚を貫通しなければなりません。また、すべての私たちの行動、私たちの家庭生活、私たちの本分、職務、全てに浸透しなければなりません。それはいつでもどこででも、天主と隣人とを愛せという、天主の掟を守るためです。

秋田の聖母を通して、聖心からの御恵みの巨大な大河を受けるようによく準備するために、私たちは長崎で巡礼を開始します。真の唯一の真の信仰のために恐ろしい拷問の中で自分の命を与えた日本の殉教者たちの援助を私たちは懇願します。全歴史の中でもっとも聖母信心の厚かった最も偉大な聖人たちの一人である、聖マキシミリアノ・コルベの事業を私たちは観想・熟考します。最後に、1945年に、その都市に落ちた原子爆弾の大惨事を私たちの心の中に思い起こしますが、私たちはこれを世俗の目ではなく、この出来事の優れた目撃者であり被害者であるパウロ永井隆博士の素晴らしい指導の下、信仰の目で、恐ろしい出来事を見ることを望みます。

親愛なる巡礼者の皆様、巨大な恵みが私たちを待っています。今は天主の憐れみの聖年であるので、私たちは天主の御憐れみの真の次元を発見するためにこの巡礼を利用したいと思います。何故なら、この天主の御憐れみについてその正反対のことを、私たちはほとんど毎日聞かされているからです。しかも、真理のパンを私たちに与える義務を持っているにもかかわらず、天主の愛や天主の憐れみという聖なる言葉と現実を誤用して【たとえば、罪を犯し続けても天主は愛だから大丈夫だ、などと】最悪の石を私たちに与える人々の口からそれが来ています。

聖母は憐れみの御母でおられるので、私たちは天主の憐れみという光において、インマクラータなる聖母の玄義を黙想する霊的黙想会を巡礼とともに行いたいと思っています。私たちは、以前よりもはるかに深い方法で聖母を見いだすでしょうし、巡礼の後には、このような母を持っているという私たちの愛と感謝とは、私たちの現代の暗闇の時において、私たちの生活を喜びと慰めとで満たしてくれるでしょう。

私は、巡礼者の皆様にこの巡礼をよく準備することをお願いします。私たちが、無原罪の聖母の騎士アジアのウェブサイト www.militia-immaculate.asia に公開した全ての文章をできる限りお読みになって、特に聖マキシミリアノ・コルベに関すること、無原罪の聖母の騎士に関することを熟読して準備してください。

これらの霊的読書は、聖母マリアの精神の中に入ること、聖母がこの巡礼中に皆さんに与えようときわめて強く望んでいる、多くの愛と憐れみの御恵みをより多く受けることができるように準備するのに役立ちます。

2月11日、ルルドの聖母の祝日にて
感謝を込めて皆様のものである、

カール・シュテーリン神父

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Dear pilgrims!
Each true pilgrimage is an immense fountain of divine graces: Our Lord rewards abundantly those who leave their homes and make important sacrifices to visit the privileged places of His infinite Mercy. These places are chosen by Him, to bring us closer to the eternal light, to free us from the snares of the devil and gives us strength in our fight with the powers of darkness. The choice of these places and the dates of the divine interventions are often astonishing: it seems, that in the very epicenter of the spiritual atom bomb of the present heresies and anti-christian powers God wants to plant a garden of incredible flowers of graces. So he did in Paris 1830, when the whole city and country underwent the terrible socialist revolution, Our Lady appeared to Saint Catherine Laboure to give her the Miraculous Medal. So he did in 1917, when the October Revolution in Russia was the beginning of the communist terror, she appeared in Fatima in Portugal in a moment, when the whole country was dominated by the Freemasons.

When we think about Japan, we also state the sad realities of materialism and paganism dominating the country. However, the Divine Providence did chose this country as a source of innumerable graces for the whole world. In a very modest convent in Akita there is a very modest and simple wooden statue of Our Lady. From this statue came and come out living waters of graces and mercy to all those who approach Our Lady: the waters come to us as TEARS. This means, they are the fruits of incredible sufferings. And the message of Akita is a message of the MOTHER, who wants to save her beloved children from the fires of hell, from the temptations of our times.

Our pilgrimage this year will be a little jubilee: it is the 10th time that we come to the Immaculata to gather spiritually in our hearts those living waters, which must penetrate us entirely. They must penetrate our intelligence, so that we may not err in the troubles of our times, but hold firmly our traditional catholic faith against all modernism, ecumenism and other heresies. They must penetrate our hearts to fill us with horror and aversion towards sin and with an always greater love towards the United Hearts of Jesus and Mary. They must penetrate our senses to control them and make them faithful servants of the Truth and the Good. They must penetrate all our actions, our family life, our duties of state, everything - to fulfil the great commandment of God (Love of God and the neighbor) always and everywhere.

In order to be well prepared to receive such an immense river of graces from the Sacred Heart through Our Lady of Akita, we will start our pilgrimage in Nagasaki: we implore the assistance of the martyrs of Japan, who gave their life for the One true Faith amongst horrible tortures; we will contemplate the work of one of the greatest Marian Saints in the whole history, Saint Maximilian Kolbe, and finally we also want to revive in our hearts the catastrophe of the atom bomb which fell on that city in 1945: but we will meditate this horrible event not with the eyes of the world, but with the eyes of the faith under the wonderful guidance of the outstanding witness and victim of this event, Dr. Paul Takashi Nagai.

Immense graces wait for us, dear pilgrims. As we are in the holy year of the Divine Mercy, we want to profit from this pilgrimage to discover the true dimension of the DIVINE MERCY, which is the very contrary from that we hear almost everyday coming from the mouths of those, who should give us the bread of Truth, but fill us with hard stones of the worst of errors abusing the most holy words and realities ( Divine Love, Divine Mercy etc.) .

And because Our Lady is the MOTHER OF MERCY, we want to have this pilgrimage joint with a spiritual retreat considering the mystery of the Immaculata in the light of the Divine Mercy. We will discover Her in a much deeper manner than before, and after the pilgrimage our love and thanksgiving to have such a MOTHER will fill our life with joy and consolation inmidst the dark hours of our times.

May I ask you to prepare this pilgrimage in reading as much as you can all the texts we publish on the Militia Immaculatae Asia website www.militia-immaculate.asia , especially on Saint Maximilian Kolbe, the Militia Immaculatae etc.

These spiritual lectures will help you very much to enter the spirit of Mary, to become more and more disposed to the many graces of love and mercy Our Lady desires SO MUCH to give you during the pilgrimage.

聖ピオ十世会 日本における2月の聖伝のミサ報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月7日、五旬節の主日には東京で聖伝のミサを捧げることができました。31名の兄弟姉妹の皆様が参加するお恵みをいただきました。今回は、いつもより人数が少なかったようです。
 ミサの後の公教要理では、カトリック信仰を友人や隣人に確実に伝えるにはどうしたらよいか、プロテスタントとカトリックとではどんなことが決定的に違うのか、という理解に達することができるように話が進められました。
 最後には主日の晩課で終わりました。

 2月8日の月曜日の早朝ミサには10名の方々が聖伝のミサに与りました。天主様に感謝!
 2月10日の灰の水曜日には、聖ピオ十世会としては日本で初めて灰の水曜日のミサを捧げることができました。天主様に感謝!17名の方々が聖伝のミサに与りました。
 2月11日には、新しく2名の方々が聖伝のミサに与ることができました。天主様に感謝!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 10人(内、子供0人)
女: 21人(内、子供0人)
計: 31人(内、子供0人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッション、ありがとうございました。
大きな苦しみを静かに耐え忍んでおられる神父様のお姿を見て、私達信徒も、四旬節に祈りと犠牲を沢山捧げる勇気が出ました。
マリア様が神父様をお助けくださいますように!
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

2月10日 灰の水曜日 灰をかける式、御ミサには17人の方々が、
2月11日 灰の水曜日後の木曜日のにも17人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

両日のお説教では、四旬節の意味と、なぜ償いが必要なのかを黙想し、そのあとに四旬節をよく過ごす遷善の決心をたてました。

「人よ、汝は塵であり、塵に戻ることを覚えよ」と教会が教えるとおり、額に灰を受けて、罪が招く永遠の罰の現実を忘れないようにする事は現代ではほとんど忘れられてしまっているように感じます。そんな時代だからこそ、私達は教会の一員として、教会の勧めと励ましに従って自分と、他の人々のために罪の償いをしなければならないし、
小野田神父様が仰るように、苦しみの無限の価値を再認識する「喜ばしい時節」が四旬節なのだと実感致します。

シュナイダー司教様が聖伝を守る聖ピオ十世会を「天主からの教会への贈り物だ」とおっしゃった事に違わぬ様、四旬節を祈りと犠牲に明け暮れて天主の子、教会の子としての勤めを怠らぬよう励みたいと思います。
私達の小さな祈りと、犠牲と呼べるかどうかとも思えるほど小さな犠牲をマリア様のお助けによって、マリア様を通してお捧げし、良い四旬節を過ごせるよう、日本に多くの回心を与えて頂けるよう、お取次ぎを祈ります。
また、日本の殉教者方にも、彼らに倣って天主様の為におおしく苦しみを耐え忍ぶ力をお取次ぎいただきたいと思います。

11日の御ミサの後の公教要理では、「カトリック信仰の核心がどこにあるのか?」「カトリックとプロテスタントは何が違うのか?」
などと人に聞かれたら、カトリック信徒として良く説明できるようになるための勉強を致しました。

わかっているつもりでも、いざ人に質問されると答え方に迷ってしまうことがありました。本当に核心を理解していないと、人には説明できないものだということがよくわかります。今日復習、勉強した事に関しては自分の理解を深めていることが出来ていれば嬉しいです。

神父様 「なぜカトリック教会を信じなければいけませんか?」
信徒A  「カトリック教会の権威は、まことの天主であるイエズス・キリストに由来しているから、私達はカトリック教会を信じなければならないのです。」

立派に答えられる方を見て、やはり聖ピオ十世会の信徒の方は優秀だなあと自分はさておき(;´∀`)関心しました。

多くの犠牲と共に来日してくださった小野田神父様に、天主様が豊かに報いてくださいますように。
マリア様が神父様をお助けくださいますように。
日本に多くの回心がありますように。

ミサの祈り

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 公教会祈祷文に掲載されているミサの後の祈りのフランス語をご紹介します。

ミサの後の祈

主よ、われらを多くの人のうちより選びてミサ聖祭にあずからしめ給いし御恵みを深く感謝し奉る。われらが卑しき身をもって、主の御前に犯したる罪を赦し、この聖祭の功徳をもってわれらの心を潔め、かつ堅固ならしめ給え。

われら今主の御旨に従いて業につかんとするに当り、すでにこうむりたる御恵みを忘れず、聖祭の功徳を、永く失わざらんため、思い、望み、言葉、行いを、すべて慎まんと決心す。こいねがわくはこの決心を祝し給え。アーメン。

Prière après la Sainte Messe

Seigneur, je vous remercie de la grâce que vous m’avez faite en me permettant d’assister aujourd’hui au sacrifice de la sainte Messe préférablement à tant d’autres qui n’ont pas eu le même bonheur. Je vous demande pardon de toutes les fautes que j’ai commises par la dissipation et la langueur où je me suis laissé aller en votre présence. Que ce sacrifice, ô mon Dieu, me purifie pour le passé et me fortifie pour l’avenir.

Je vais présentement avec confiance aux occupations où votre volonté m’appelle. Je me souviendrai toute cette journée de la grâce que vous venez de me faire, et je tâcherai de ne laisser échapper aucune parole ni aucune action, de ne former aucun désir ni aucune pensée qui me fasse perdre le fruit de la Messe que je viens d’entendre. C’est ce que je me propose avec le secours de votre sainte grâce. Ainsi soit-il.

 ご参考までに韓国語では次のように祈ります。

미사후송 (미사가 끝난 후 바치는 기도)

주여, 많은 사람 중에 너 우리에게 특별한 은혜를 주사, 오늘날 미사성제에 참예케 하심을 감사하오니, 많은 사람이 우리와 같이 이런 다행함을 얻지 못하였나이다. 구하오니 천주는, 이 미사 중에 냉담함과 분심 잡념으로 우리 범한 죄과를 용서하시고, 이 성제의 공덕으로 이후로는 더 열심으로 너를 경애하고, 네 계명을 더 착실히 지키고, 모든 선공을 더 흔근히 행하고, 삼구의 모든 유감을 더 힘써 대적하게 하소서.

이제 너 이 명하신 우리 본분의 일을 하러 가옵느니, 아무쪼록 말 한마디나 일 한가지나 생각 한끝이나 조그마한 원 하나이라도, 조심하여 이 성제의 효험을 잃지 않기로 뜻을 정하오니, 주는 네 은혜로 이 뜻을 완전케 하시고, 우리를 도와 그대로 행케 하소서, 아멘.



 公教会祈祷文の中にあるその他のミサの祈りのフランス語は次の通りです。


ミサの始まる時の祈:

+ 聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。
いとも尊き三位一体の天主、われ主の御名にむかいて礼拝を尽し、感謝を献げ、罪の赦しと主の御恵みとを求めんために、ここに謹みてミサ聖祭にあずかり奉る。
願わくは、われらをして司祭と心を合わせて、救霊のいけにえを献げしめ給え。かつ主がわれらのためにカルワリオにて御血を流し、苦しみを受け給うを仰ぎ視しならば、われらの必ず起したらんが如き思いを、今ここに起さしめ給え。

Commencement de la messe

Au nom du Père, et du Fils, et du Saint-Esprit. Ainsi soit-il.
C’est en votre nom, adorable Trinité, c’est pour vous rendre l’honneur et les hommages qui vous sont dus, que j’assiste au très-saint et très-auguste sacrifice.
Permettez-moi, divin Sauveur, de m’unir d’intention au ministre de vos autels pour offrir la précieuse victime de mon salut, et donnez-moi les sentiments que j’aurai dû avoir sur le Calvaire si j’avais assisté au sacrifice sanglant de votre Passion.


栄光唱(黒色或いは紫色の祭服を用いる時はこれを唱えない。)

天においては天主に栄えあれ。地においては恵まれたる人々に平安あれ。主なる天主、天の王、全能の父、われら主を称(たた)え主を崇(あが)め、主の御栄えの大いなるがために感謝し奉る。
拝すべきイエズス・キリスト、御父の御独(おんひと)り子(ご)、万物の習、世の罪を除き給わんがため天主より遣わされし子羊、われらの祈を聞き容れ給え。御父の右に坐(ざ)し給う御者(おんもの)われらをあわれみ給え。そはイエズス・キリスト、主は唯一の聖、唯一の習、唯一の至高者にして、聖霊と共に御父の御栄(みさか)えのうちにましませばなり。

Gloria in excelsis

Gloire à Dieu dans le ciel, et paix sur la terre aux hommes de bonne volonté. Nous vous louons, Seigneur, nous vous bénissons, nous vous adorons, nous vous glorifions, nous vous rendons de très-humbles actions de grâces, dans la vue de votre grande gloire, vous qui êtes le Seigneur, le souverain Monarque, le Très-Haut, le seul vrai Dieu, le Père tout-puissant.
Adorable Jésus, Fils unique du Père, Dieu et Seigneur de toutes choses, Agneau envoyé de Dieu pour effacer les péchés du monde, ayez pitié de nous ; et, du haut du ciel où vous régnez avec votre Père, jetez un regard de compassion sur nous. Sauvez-nous, vous êtes le seul qui le puissiez, Seigneur Jésus, parce que vous êtes le seul infiniment saint, infiniment puissant, infiniment adorable, avec le Saint-Esprit, dans la gloire du Père. Ainsi soit-il.


司祭右側で集祷文を唱えるときの祈:

全能の天主、聖母マリアおよび今日(こんにち)祝う聖人の代祷(だいとう)を聞(きこ)しめして、司祭の求むる御恵みを施し給え。*われら司祭と心を合わせて我らのため、ならびにわれらに係わりある人々のために祈り奉る。願わくは、必要の御恵みをわれらに賜(たま)いて終りなき命にいたらしめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。アーメン。

Oraison

Accordez-nous, Seigneur, par l’intercession de la sainte Vierge et des Saints que nous honorons, toutes les grâces que votre ministre vous demande pour lui et pour nous. M’unissant à lui, je vous fais la même prière pour ceux et pour celles pour qui je suis obligé de prier, et je vous demande, Seigneur, pour eux et pour moi, tous les secours que vous savez nous être nécessaire afin d’obtenir la vie éternelle, au nom de Jésus-Christ Notre-Seigneur. Ainsi soit-il.

司祭右側で書簡を読むときの祈:

慈悲深き天主、主は御身を知らざる人々のうちよりわれらを選びて御教えを示し給い足れば、われら心の底より喜びてこれを受け奉る。預言者および使徒の言葉をもって伝えられたる御教えを守り、これを実行せんと欲す。*濃い願わくは、われらをしていにしえの聖人の如く主に仕え、太祖(たいそ)の如く主を奉じ、預言者の如く主を知り、使徒の如く主を伝え、専ら主を愛して御跡(みあと)を慕わしめ給え。

Épître

Mon Dieu, vous m’avez appelé à la connaissance de votre sainte loi préférablement à tant de peuples qui vivent dans l’ignorance de vos mystères. Je l’accepte de tout mon cœur, cette divine loi, et j’écoute avec respect les oracles sacrés que vous avez prononcés par la bouche de vos Prophètes. Je les révère avec toute la soumission qui est due à la parole d’un Dieu, et j’en vois l’accomplissement avec toute la joie de mon âme.

Que n’ai-je pour vous, ô mon Dieu, un cœur semblable à celui des saints de votre ancien Testament ! Que ne puis-je vous désirer avec l’ardeur des Patriarches, vous connaître et vous révérer comme les Prophètes, vous aimer et m’attacher uniquement à vous comme les Apôtres !


司祭左側で福音を奉読するときの祈:

主よ、今司祭の読みあぐるは、預言者および使徒の言葉にあらずして、イエズス・キリストの御言葉と御行いなることを信じ奉る。たとえ主の御言葉なりと信ずるも、これに従わざれば何の益かあらん。また信仰あるも、愛と善業との勲(いさおし)なくば主の御裁きの前にいかでか罪を免(まぬが)るべき。
われら今御言葉を深く信じ奉るが故に、われらが仕業の御言葉に適わざりしを責め給うことなく、かえってわれらが信ずるところを行う力をわれらに与え給え。

Évangile

Ce ne sont plus, ô mon Dieu, les Prophètes ni les Apôtres qui vont m’instruire de mes devoirs ; c’est votre Fils unique, c’est sa parole que je vais entendre. Mais, hélas ! Que me servira d’avoir cru que c’est votre parole, Seigneur Jésus, si je n’agis pas conformément à ma croyance ? Que me servira, lorsque je paraîtrai devant vous, d’avoir eu la foi sans le mérite de la charité et des bonnes œuvres ?

Je crois, et je vis comme si je ne croyais pas, ou comme si je croyais un évangile contraire au vôtre. Ne me jugez pas, ô mon Dieu, sur cette opposition perpétuelle que je mets entre vos maximes et ma conduite. Je crois ; mais inspirez-moi le courage et la force de pratiquer ce que je crois. À vous, Seigneur, en reviendra toute la gloire.


奉献の祈:

限りなく聖なる御父、全能にまします天主、われみずからは御前(みまえ)に出(い)ずる能(あた)わざる者なれども、救世主イエズス・キリストがこの聖祭を定め給いし時の御旨と、今われらのためにいけにえとなりて、御みずからを献げ給える御旨とに従い、司祭の手をもってパンとぶどう酒との供物(そなえもの)を献げ、主が万物の主宰者にましますことをたたえ、われらの罪を償い給わんことをこいねがい、主の賜物なる数々の御恵みを感謝し奉る。

またわれらは罪人にて救わるるに足らざれども、贖罪のいけにえとならせ給えるイエズスの御功徳によりて施し給う救霊の恵みを、われらのため、及びわれらの親族、恩人、友人またわれらの敵のためにもこいねがい奉る。また公教会のため、教皇のため、本教区の司教、司祭、その他、すべてわれらがその権威に服すべき人々のため、および主を進ずる一切の人々のためにこの尊きいけにえを献げて祈り奉る。

願わくは死せる信者の霊魂をあわれみ、御子イエズスの御功徳によりて、かれらに終りなき平安を与え給え。
慈悲深き御父よ、わが国の上に御恵みを注ぎ給え。主を憎む者をも棄て給わざれ。主を知らざる者、主を信ずるもまことの教会に入らざる者およびすべての罪人を救霊の道へ導き給え。またわれらを憎みて害を加えんとする者にも、御恵みをもって報い給え。われらのかれらに赦す如く、われらの罪を赦し給え。アーメン。

Offertoire

Père infiniment saint, Dieu tout-puissant et éternel, quelque indigne que je sois de paraître devant vous, j’ose vous présenter cette hostie par les mains du Prêtre avec l’intention qu’a eue Jésus-Christ mon Sauveur lorsqu’il institua ce sacrifice, et qu’il a encore au moment où il s’immole ici pour moi.
Je vous l’offre pour reconnaître votre souverain domaine sur moi et sur toutes les créatures. Je vous l’offre pour l’expiation de mes péchés, et en action de grâces de tous les bienfaits dont vous m’avez comblé.

Je vous l’offre enfin, mon Dieu, cet auguste sacrifice, afin d’obtenir de votre infinie bonté, pour moi, pour mes parents, pour mes bienfaiteurs, mes amis et mes ennemis, ces grâces précieuses du salut qui ne peuvent être accordées à un pécheur qu’en vue des mérites de Celui qui est le Juste par excellence, et qui s’est fait victime de propitiation pour tous.

Mais, en vous offrant cette adorable victime, je vous recommande, ô mon Dieu, toute l’Église catholique, notre saint Père le Pape, notre Prélat, tous les Pasteurs des âmes, nos supérieurs temporels, les princes chrétiens, et tous les peuples qui croient en vous.

Souvenez-vous aussi, Seigneur, des fidèles trépassés, et, en considération des mérites de votre Fils, donnez-leur un lieu de rafraîchissement, de lumière et de paix.

N’oubliez pas, ô mon Dieu, vos ennemis et les miens. Ayez pitié de tous les infidèles, des hérétiques et de tous les pécheurs. Combien de bénédictions ceux qui me persécutent, et pardonnez-moi mes péchés, comme je leur pardonne tout le mal qu’ils me font ou qu’ils voudraient me faire.


司祭祭壇中央で序唱を唱える時の祈:

救世主イエズス・キリストの来り給うべき時近づけり。主願わくはわれらの心に聖霊を満たし、専ら主のことをのみ思わしめ給え。

全能の御父、永遠の天主はいずれの時似ても、いずれの処似ても、讃美せらるべきかな。天使は主の御前に礼拝し、聖人は主を讃美す。今やわれらがつたなき声をもこれに合わせて讃美するを許し給わば、われら喜びに堪えずして歌わん。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍(ばんぐん)の天主、主の御栄えは天地に充ち満てり。いと高き処にいます御者は尊まれさせ給え。主の名によりて来り給う御者は、祝せられさせ給え。


Préface

Voici l’heureux moment où le Roi des Anges et des hommes va paraître. Seigneur, remplissez-moi de votre esprit ; que mon cœur, dégagé de la terre, ne pense qu’à vous. Quelle obligation n’ai-je pas de vous bénir et de vous louer en tout temps et en tout lieu, Dieu du ciel et de la terre, Maître infiniment grand, Père tout-puissant et éternel !

Rien n’est plus juste, rien n’est plus avantageux que de nous unir à Jésus-Christ pour vous adorer continuellement. C’est par lui que tous les esprits bienheureux rendent leurs hommages à votre Majesté ; c’est par lui que toutes les Vertus du ciel, saisies d’une frayeur respectueuse, s’unissent pour vous glorifier. Souffrez, Seigneur, que nous joignions nos faibles louanges à celles de ces saintes intelligences, et que, de concert avec elles, nous disions [le sanctus] dans un transport de joie et d’admiration.
Sanctus

Saint, Saint, Saint est le Seigneur, le Dieu des armées. Tout l’univers est rempli de sa gloire. Que les bienheureux le bénissent dans le ciel. Béni soit celui qui vient sur la terre, Dieu et Seigneur comme Celui qui l’envoie.


司祭典文を奉読する時の祈:

あわれみ深き御父よ、今献げまつる供物を祝し、これをよみし給いて公教会を守り、教皇、司教およびすべての信者を恵み給わんことを御子キリストによりて願い奉る。

わけてもここに集まれる人々、および目上、親族、恩人、友人を恵み、またわれらに祈りを求むる人々を顧み給え。われらの主イエズス・キリストの御母、終生童貞なる聖マリア、またその浄配なる聖ヨゼフ、使徒、殉教者、聖人たちと心を合わせて、われらの供物の、御旨に適うものとならんことを願い奉る。

Canon

Nous vous conjurons au nom de Jésus-Christ votre Fils et notre Seigneur, ô Père infiniment miséricordieux, d’avoir pour agréable et de bénir l’offrande que nous vous présentons, afin qu’il vous plaise de conserver, de défendre et de gouverner votre sainte Église catholique, avec tous les membres qui la composent, le Pape, notre Prélat, et généralement tous ceux qui font profession de votre sainte foi.

Nous vous recommandons en particulier, Seigneur, ceux pour qui la justice, la reconnaissance et la charité nous obligent de prier, tous ceux qui sont présents à cet adorable sacrifice, et singulièrement N*** et N***. Et afin, grand Dieu, que nos hommages vous soient plus agréables, nous nous unissons à la glorieuse Marie, toujours vierge, Mère de notre Dieu et Seigneur Jésus-Christ, à tous vos Apôtres, à tous les bienheureux Martyrs, et à tous les Saints, qui composent avec nous une même Église.


パンとぶどう酒との献げものにえんしゅする時の祈:

主よ、願わくはいにしえの聖人が救世主を待ち望み奉りし熱心をわれらの心に充たし、その信仰と愛とをわれらに燃えしめ給え。*主イエズス・キリスト来り給え。いとも妙なる御業をなし給え。天主の子羊、罪の世をあがなえる尊きいけにえは、今この祭壇に臨み給う、ああありがたき御慈しみなるかな。

Que n’ai-je en ce moment, ô mon Dieu, les désirs enflammés avec lesquels les saints Patriarches souhaitaient la venue du Messie ! Que n’ai-je leur foi et leur amour ! Venez, Seigneur Jésus ; venez, aimable réparateur du monde, venez accomplir un mystère qui est l’abrégé de toutes vos merveilles. Il vient, cet Agneau de Dieu, voici l’adorable Victime par qui tous les péchés du monde sont effacés.


聖体奉挙の祈(この祈りは発声しない):

救い主イエズス・キリスト、一切の人を救わん為に十字架にくぎ付けにせられ給える御体を、謹みて拝し奉る。
救い主イエズス・キリスト、一切の人を救わん為に十字架の上にて流し給える御血を、謹みて拝し奉る。

Élévation

Verbe incarné, divin Jésus, vrai Dieu et vrai homme, je crois que vous êtes ici présent ; je vous y adore avec humilité, je vous aime de tout mon cœur ; et comme vous y venez pour l’amour de moi, je me consacre entièrement à vous.

J’adore ce sang précieux que vous avez répandu pour tous les hommes, et j’espère, ô mon Dieu, que vous ne l’aurez pas versé inutilement pour moi. Daignez m’en appliquer les mérites. Je vous offre le mien, aimable Jésus, en reconnaissance de cette charité infinie que vous avez eue de donner le vôtre pour l’amour de moi.



聖体奉挙後の祈:

全能なる天主、主はこの聖祭をもってイエズス・キリストの御受難の苦しみおよび御復活の栄えをわれらに追懐せしめ、われらのために傷つけられ給えるその御体と流させ給えるその御血をば、今現に祭壇の上に供え給えり。

主の御みずからわれに与え給える、この聖く尊き生け贄を、今謹みて御前に献げ奉る。旧約の祭りは、ことごとくこのいけにえに象(かたど)りたるものにて、このいけにえのみ、善く御心に適う御子イエズス・キリストの、御体と御血なれば、この聖祭にあずかる人々に、その御功徳をこうむらしめ給え。

また司祭と心を合わせて死せる信者の霊魂のために祈り奉る。ことにわれらに係わりある者に、この尊きいけにえによりてその苦しみを逃れ占め、終りなき平安を与え給え。*あわれみ深き御父、罪人なるわれらにも、この恵みを施して、ついに主の使徒、殉教者、諸聖人たちと共に住み、共に終りなく主を愛し、かつ讃美するを得しめ給え。

Suite du canon

Quelles seraient donc désormais ma malice et mon ingratitude, si, après avoir vu ce que je vois, je consentais à vous offenser !
Non, mon Dieu, je n’oublierai jamais ce que vous me représentez par cette auguste cérémonie ; les souffrances de votre Passion, la gloire de votre Résurrection, votre corps tout déchiré, votre sang répandu pour nous, réellement présent à mes yeux sur cet autel.

C’est maintenant, éternelle Majesté, que nous vous offrons de votre grâce, véritablement et proprement, la victime pure, sainte et sans tache, qu’il vous a plu de nous donner vous-même, et dont toutes les autres n’étaient que la figure. Oui, grand Dieu, nous osons vous le dire, il y a ici plus que tous les sacrifices d’Abel, d’Abraham et de Melchisédech : la seule victime digne de votre autel, Notre-Seigneur Jésus-Christ, votre Fils, l’unique objet de vos éternelles complaisances.

Que tous ceux qui participent ici de la bouche ou du cœur à cette Victime sacrée soient remplis de sa bénédiction.

Que cette bénédiction se répande, ô mon Dieu, sur les âmes des fidèles qui sont morts dans la paix de l’Église, et particulièrement sur l’âme de N*** et de N***. Accordez-leur, Seigneur, en vertu de ce sacrifice, la délivrance entière de leurs peines.

Daignez nous accorder aussi un jour cette grâce à nous-mêmes, Père infiniment bon ; et faites-nous entrer en société avec les saints Apôtres, les saints Martyrs et tous les Saints, afin que nous puissions vous aimer et vous glorifier éternellement avec eux. Ainsi soit-il.



神こう唱を唱える時の祈:

世の罪を除き給う天主の子羊、*われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、*われらをあわれみ給え。
世の罪を除き給う天主の子羊、*われらに平安を与え給え

Agnus Dei

Agneau de Dieu, immolé pour moi, ayez pitié de moi.
Victime adorable de mon salut, sauvez-moi.
Divin médiateur, obtenez-moi ma grâce auprès de votre Père ; donnez-moi votre paix.



司祭右側で聖体拝領後の文を唱える時の祈:

主はわれらを救わんがためにいけにえとなり給いたれば、われらも、主の御栄えのためにみずからいけにえとならんと欲し、御旨のままにわが身を献げ奉る。主の御摂理によりて、われも同じくこれに勝たんと欲す。
今聖祭によりて、わが心の潔められしをかたじけなく思い、今より後、主と共に生きんがために主の御戒めを守り、たといわがすべての持ち物を失い、またいかなる苦難に遭う共、主に背くまじと決心し奉る

Dernières oraisons

Vous venez, ô mon Dieu, de vous immoler pour mon salut, je peux me sacrifier pour votre gloire. Je suis votre victime, ne m’épargnez point. J’accepte de bon cœur toutes les croix qu’il vous plaira de m’envoyer ; je les bénis, je les reçois de votre main, et je les unis à la vôtre.

Me voici purifié par vos saints mystères ; je fuirai avec horreur les moindres taches du péché, surtout de celui où mon penchant m’entraîne avec plus de violence. Je serai fidèle à votre loi, et je suis résolu de tout perdre et de tout souffrir plutôt que de la violer.


祝福の時の祈:(黒色の祭服の時はこれがない)

主よ、司祭の手をもってわれらを祝し、祝福の御恵みを、常にわれらの上にあらしめ給え。
+聖父と聖子と聖霊との御名によりて。アーメン。


Bénédictions

Bénissez, ô mon Dieu, ces saintes résolutions, bénissez-nous tous par la main de votre ministre, et que les effets de votre bénédiction demeurent éternellement sur nous.
Au nom du Père, et du Fils, et du Saint-Esprit. Ainsi soit-il.
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