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主は救いのために必要なすべての力を持っておられる。「無原罪の御宿り」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 レネー神父様が先日の主日にミサののちにしてくださった「無原罪の御宿り」についての講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年12月13日―大阪 勉強用説教「無原罪の御宿り」


親愛なる兄弟の皆さん、

 童貞聖マリアは、(その母聖アンナに)宿られたとき無原罪でした。聖母は「無原罪の御宿り」です。この信仰の教義はどういう意味でしょうか?

 その意味は、天主の特別な特権によって、私たちの主イエズス・キリストの功徳のゆえに、童貞聖マリアは原罪から守られていたということです。

 原罪は、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです。そのとき、エバ、そしてアダムが天主に逆らって禁断の果実を食べ、天主のご意思よりも自分たちの意思を優先し、天主への従順を拒否し、天主のみ言葉よりも悪魔の言葉を信用し、善と悪についての知識を自分たちで得ようと望んだ、つまり何が善で何が悪であるかを自分たちで決定しようとしたのです。自分たちの上に法があることを欲せず、天主の法を拒絶したのです! 彼らは、罪についての完全な知識を持ち、善き主へのはなはだしい忘恩を承知の上で、この罪を犯したのです。主が彼らに、素晴らしい楽園だけでなく、無苦痛、不死、知識、正義という賜物に加えて、とりわけ成聖の恩寵という賜物をお与えになったにもかかわらずです。成聖の恩寵は、天主との友情という驚くべきものであり、それは彼らが夕べに天主と親しい会話を交わしていたことによって分かります。

 罪を犯した後、彼らは、この友情が台無しになったのにすぐ気付いたため、身を隠しました。彼らはまた、肉の反逆を感じたため、いちじくの葉で身を覆いました。彼らは成聖の恩寵を失いました。つまり、知識、正義、無苦痛、不死という「(自然を外れた)外自然の賜物(preternatural gifts)」を失ってしまったのです。彼らは死の支配下に入ったのです。彼らの本性は深く傷つき、すなわち、今や罪への悪しき傾きを感じたのです。

 アダムの罪はその子孫にも伝わります。それはなぜでしょうか? 不正義のように思えます。それを理解するためには、次のことを考えなければなりません。天主は、成聖の恩寵をただ アダムとエバだけにお与えになったのではなく、彼らの子孫にも成聖の恩寵が伝わるようにというご意向を持っておられたのです。もしアダムとエバが罪を犯さなかったとしたら、彼らは体の命だけでなく、一緒に結び付いた霊魂の命も伝達していたことでしょう。ある意味で、外自然の賜物は、本性と恩寵の「接着剤」のようなものだったのであり、天主の子にふさわしくなるように人間の本性を完成させるものだったのです。アダムが天主の養子であったということは、福音書自体にも見られます。それは、聖ルカ福音書のキリストの系図の終わりが「アダムは天主の子であった」と言っているところです。本性によらず、恩寵によって子であったのです。私たちの主イエズス・キリストのみが本性によって天主の御独り子であり、御父とまさに同じ天主の本性を持っておられるのです。しかし、アダムは養子として、恩寵によって子であったのです。さて、アダムはこれら外自然の恩寵を失ったのですから、失ったものを与えることはできませんでした。ですから、アダムは私たちに外自然の賜物を伝えることはできず、そればかりか、この接着剤を失ってしまったのですから、体の命と一緒に霊魂の命(成聖の恩寵)を伝達することはできませんでした。これによって、アダムの子孫は、アダムの過ちによって、霊魂の命をはく奪された状態で生まれるのです。
 この最初に持っていた恩寵のはく奪は、まさに原罪の本質そのものです。また、それとともに私たちはアダムの傷ついた本性を受け継いでいます! 原罪は実際、人類の一番最初におけるとてつもない災厄だったのです!

 原罪は信仰の教義です。聖パウロは実際、ローマ人へ書き送っています。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入って、すべての人が罪を犯したので死がすべての人に及んだ」(ローマ5章12節)。人類を眺めてみて、罪への傾きのような多くの悪があるのを見るとき、天主の御業がいつも善いのであるなら、どのようにしてそうなり得たのかと不思議に思うでしょう?! 人類の最初におけるこの悲劇だけが、人間の罪深さを説明することができます。

 原罪は三つの結果をもたらします。1)成聖の恩寵の喪失、2)死という罰、3)罪による傷―です。この傷は、知性における無知という傷、意志における悪意(自己中心)という傷、欲望における弱さと情欲という傷です。

 しかし、天主は人類をお見捨てにはなりませんでした。天主は、「罪から民を救う方」(マテオ1章21節)である救い主を送ると約束されました。私たちは「他の人々と同じく本来は怒りの子であった。しかし慈悲に富む天主は、私たちを愛されたその大きな愛によって、罪にために死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださった、あなたたちの救われたのは恩寵による」(エフェゾ2章3-5節)。私たちの主イエズス・キリストが「現れたのは罪を除くためであり、イエズス自身に罪はない」(ヨハネ第一3章5節)。

 私たちの主イエズス・キリストは天主の子であり、御父と等しいお方であり、私たちを罪から救うために天から下ってこられた全能者です。主は救いのために必要なすべての力を持っておられます。そして、その証拠はまさにこの祝日です。無原罪の童貞の祝日です。聖母は完全に罪から救われたため、罪は聖母に対しては何の力もなく、聖母に手を出すことはできませんでした。聖母は完全に(汚れのない)無原罪であり、御宿りのときだけでなく、全生涯にわたってそうあり続けたのであり、聖母は無原罪のお方、インマクラータなのです! 聖母は童貞中の童貞であり、あらゆる領域においてこの童貞という言葉の意味があてはまります。完全な無垢であり、罪に決して触れられることはありません。聖母は罪に対する最良の薬、予防薬を受けられたのです。聖母は御宿りの最初の瞬間より、あらゆる罪から守られていたのです。聖母は決して大罪を犯さず、小罪さえも決して犯しませんでした。聖母は決して原罪の影響を受けたことはなく、罪への傾きもまったくありませんでした。聖母は絶対的に(汚れのない)無原罪なのです。

 さて、かつて原罪を否定する異端者がいました。彼らはペラギウス派と呼ばれました。原罪を否定した結果として、彼らは救いのための恩寵の必要性を否定しました。私たちの主イエズス・キリストの恩寵がなくても、私たち自身の自然の力によって罪を犯さないことは可能だ、天主の全ての戒めに従うことは可能だ、そして天国に行くことは可能だ、と主張したのです。彼らの異端は、自然主義として現代でも続いています。自然主義も原罪を否定し、人はみな善き者として生まれるが、社会が悪い者にしてしまうのだと主張します。これは、ルソーや他の多くの人々の哲学です。教皇ピオ九世は、1854年12月8日に無原罪の御宿りの教義を定めたとき、この教義はペラギウス派と自然主義の誤謬に対する薬であると説明しました。聖母に原罪がなかったのなら、聖母は私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要としなかった、と言う人がいるかもしれません。しかし、これは大変な考え違いです。実際、聖母が原罪から守られているのは、まさに私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってなのですから! 恩寵を必要としないどころか、童貞聖マリアはまさに「聖寵充ち満てる」お方です! また、ご自分に偉大なことをなさったのは天主であると、誰より先に聖母ご自身が認めておられます。「全能者が私に偉大なことをされたからです。その御名は清く、そのあわれみは、世々敬い恐れる人々の上に下ります」(ルカ1章49-50節)。

 私たちは原罪のアンチテーゼ(正反対)を聖母に見いだします。聖母は聖寵充ち満てるお方です。聖母は死に定められませんでしたが、御子が私たちの罪の負債を支払うために死を選ばれたため、聖母は御子にご自分を一致させることを選ばれ、そのために亡くなられました。しかし、命へと復活され、体と霊魂は天にあげられました。また聖母には、罪の傷、罪への傾き、自己中心性、弱さ、情欲のひとかけらもありませんでした。

 聖ベルナルドは、聖母が「天主のみ前に恩寵を得た」(ルカ1章30節)のは、聖母ご自身のためだけでなく、私たちのためでもあったのだ、と言いました。聖母は私たちに、母として与えられました(ヨハネ19章27節)。聖母は私たちに、私たちの主イエズス・キリストが十字架の上で獲得された恩寵を配られます。聖母は私たちに、私たちの霊魂にある原罪の傷を癒やす恩寵をお与えになります。私たちには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要です! 「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。知性を照らし、無知の傷を癒やすため、私たちには信仰の恩寵が必要です。すべてに超えて天主の愛と共に私たちの意志を燃え立たせ、自己中心と悪意の傷を癒やすため、私たちには愛の恩寵が必要です。弱さの傷を癒やし、天国へ行く途中に出合うあらゆる困難、特に世の妨げによる多くの困難に打ち勝つため、私たちには剛毅の恩寵が必要です。情欲の傷を癒やし、速やかな満足と地上の楽しみへと向かわせる私たちの中の悪しき傾きに抵抗するため、私たちには感覚における節制と禁欲の恩寵が必要です。それによって、特に祈りにおいて、私たちの霊魂が天主の方へ挙げられるように。「心の清い人は幸せである、彼らは天主を見るであろう」(マテオ5章8節)。聖母はこれらの恩寵に満たされ、「聖寵充ち満てる」お方でしたから、私たちのためにそのすべての恩寵を取り成してくださいます。聖母は、私たちが黙想すべき外的な模範であるだけでなく、私たちの霊魂を変容させ、癒やす内的な恩寵を、私たちのために取り成してくださるため今も働いてくださる取り次ぎ者でいらっしゃるのです。

 天主は悪から善を引き出すお方です。原罪は、私たちが謙遜を保つために有益です。罪は傲慢によって世に入りました。原罪のなかったアダムとエバが傲慢になり、ひどく堕落しました。原罪を持って生まれた私たちにとって、自分の霊的な惨めさを認めると、それが私たちに謙遜を保たせてくれます。洗礼ののち、残っている傷もまた、私たちに謙遜を保たせてくれます。童貞聖マリアは受けた恩寵によって、いつも最も謙遜な心を持っておられました。「主が卑しいはしために御目をとめられたからです」(ルカ1章48節)。聖母は、私たちが謙遜の行いをすることができるよう、私たちを助けてくださる強い力をお持ちです。

 第一の謙遜のわざは、私たちが天主に依存していることを認めることです。私たちの中にある善であるものはすべて、天主から頂きました。聖母は、「全能者が私に偉大なことをされたからです」(ルカ1章49節)とお認めになられました。感謝は美しい徳です。私たちは、特に完全な感謝のいけにえ、ミサを捧げることによって、天主に感謝します。

 天主だけが、「ens a se―自分で存在する」のです。天主は存在をお受けになったのではありません。すべての被造物は「ens ab alio-他者によって造られ、他者によって存在する」のです。私たちは最終的に天主から存在を受けました。それゆえに、天主が被造物に依存することは絶対になく、逆に、私たちが完全に天主に依存しているのです。この天主の超越性が、天主を礼拝すべき理由そのものなのです。聖母はマニフィカトの同じ文の中でこの超越性をお認めになられました。「そのみ名は清」(ルカ1章49節)い、と。謙遜は、天主への崇敬と礼拝に密接に結び付いています。ですから私たちは、完全な礼拝のいけにえ、ミサの聖なるいけにえを天主に捧げるのです。

 天主が何者にも依存しないこと、天主が無限に完全であることを聖母はどちらもたいへんよく理解しておられましたから、天主のみ前で完全な謙遜でおられました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。しかし、不幸なことに、他の人間はすべて多くの罪に陥ります。小罪だけの者もいますが、多くの者は大罪に陥ります。ですから、これが天主のみ前で謙遜であるべき第二の非常に重要な理由なのです。私たちは天主の御目の前に立つのにふさわしくありません。私たちは惨めな罪びとです。聖ペトロは、奇跡的な大漁ののち、ひれ伏して言いました。「主よ、私から離れてください。私は罪びとです」(ルカ5章8節)。ですから、私たちには絶対に贖い主が必要です。私たちは私たちの罪を償うために、天主に完全ななだめのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げることが必要なのです。

 聖母は、私たちが罪深い者であることを知るのを助けてくださいます。聖母の完全な清さと無垢と比べることで、私たちの罪が真実の光の中で、その醜さを見せます。私たちの生活から絶対に拒否すべき大罪―それは絶対に駄目です―だけでなく、天主をお喜ばせしない小罪の醜さも見せてしまいます。私たちは、聖母の助けによって、聖母のように、インマクラータのように、もっともっと恩寵に忠実であるように、清くあるように努力すべきです。罪に対する戦いにおいて、聖母は最も力をお持ちのお方です。聖母は謙遜によって、悪魔の、この傲慢の怪物の頭を踏み砕かれました。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。女のすえは、おまえの頭を踏み砕く」(創世記3章15節)。罪に対する戦いに勝利するため、ここ地上で私たちの必要とするすべてのものを得るため、私たちには聖母の助けが必要です。そうすれば、聖母は多くの惨めさから私たちを助けてくださいます。私たちには私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、その恩寵を願い求めなければなりません。そのため、私たちは完全な祈願のいけにえ、願いのいけにえ、ミサの聖なるいけにえを捧げるのです。

 生けるインマクラータ、無原罪の聖母は、まったく清らかでまったく純粋なお方です。それは、聖母が常に天主の光の下で、私たちの主イエズス・キリストという光の下で生きておられたからです。「み言葉には生命があり、生命は人の光であった」(ヨハネ1章4節)。「私は世の光である。私に従う人は闇の中を歩かず、命の光を持つであろう」(ヨハネ8章12節)。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの地上での生活の始まりから終わりまで、十字架の下まで、主に完全に従っておられました。それゆえに、聖母はさらに、被昇天によって天国にまで主に従うに値するお方でした。被昇天は、無原罪の御宿り(という与えられた恩寵)に対して忠実だった聖母への究極の報いなのです。無原罪の御宿りが聖母の生涯の聖寵充ち満てる始まりであったように、被昇天は同じ聖母の生涯の聖寵充ち満てる終わりなのです。聖母が聖寵充ち満てるお方であるのは、私たちの主イエズス・キリスト、「御父の御独り子、恩寵と真理に満ちておられた」(ヨハネ1章14節)お方に充ち満ちておられたからです。

 ですから、この祝日の実りを引き出しましょう。聖母への無原罪の御宿りという驚くべき賜物をさらに深く尊重するという実り、私たちの主イエズス・キリストが御母になされた驚くべきわざを見て主の救いの御力をさらに深く信頼するという実り、私たちが自分の惨めさ、原罪の結果を考察してさらに深く謙遜になるという実り、私たちが天主に依存していることを考察して聖母をまねようと努めるときさらに深く謙遜になるという実り、私たちの主イエズス・キリストの恩寵、主によって生き、主のために生き、主の光において生きる恩寵に対するさらに大いなる忠実を持つという実りを引き出しましょう。そして最後には、主の恩寵によって、天国に行き、御父と聖霊と共に永遠に、顔と顔を合わせて主を見るという祝福されたその日を迎えることができますように。アーメン。

私たちの主イエズス・キリストの御降誕おめでとうございます!聖ピオ十世会 聖伝のミサの報告

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のすべての司祭、修道士、修道女たちを代表して、愛する兄弟姉妹の皆様に主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申しあげます。

 聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、或る男性が(ほかのあまりに多くの人々がそうするように!)信心無くミサに与っていたそうです。ミサの最後に読む福音で「しかしてみ言葉は人と成り給い我らのうちに住み給えり」と読む時、その人はそのまま立ったままだったそうです。すると悪魔がその瞬間現れて彼を殴り、「感謝を知らない野郎!お前は天主がお前のために人と成ったと聞いたのに膝をかがめようとしないのか?もしも天主が私のために同じことをされたなら、私は永遠に天主を感謝していることだろう!」

私たちは、人となった天主イエズス・キリストの前にひざまづき、額づき、イエズス・キリストの御足に接吻をささげ、愛と感謝と賛美を込めて礼拝を捧げましょう。

イエズス・キリストは私に永遠の命を下さるためにご自分の命を与えてくださったのに、イエズスは私の愛を受けることさえできないでいます!

イエズス・キリストは、命がけで私たちに無限の宝を与えようとしてるのに、私たちはそれを無視と忘恩と冷淡で答えています。

2015年の間、天主から受けた全ての恵みを感謝しつつ、聖ピオ十世会のためにしてくださっている皆様の祈りと支援とを感謝します。ミッションを手伝ってくださっているレネー神父様にも心から感謝します。

願わくは、新2016年がさらに恵みにあふれる年となりますように謹んで祈ります。


 さて、12月13日の主日に、レネー神父様が大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。いつも日本に来てミサを捧げてくださるレネー神父様に感謝します。

 また、12月24日から25日、26日と大阪でクリスマスのミサを捧げることができました。クリスマスには、関東方面や東北、九州から聖伝のミサに与りに来られた方々がおられ、幼きイエズス様がさぞかしお喜びになられ、お恵みで報われることだろうと思いました。
12月27日は主日のミサを、東京で捧げました。東京では、新しく初めて聖伝のミサに与った方々が5名以上いらっしゃって、天主様に感謝します。

明日の28日も東京で朝の7時から聖伝のミサがあります。

では、愛する兄弟姉妹の皆様に報告をご紹介ます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月の主日の、レネー神父様による御ミサの報告です。
12月13日 (主)待降節第三主日(バラの主日)のミサには14名が、
12月14日 (月)平日のミサには12名の方々が、御ミサに与り御聖体拝領をする御恵みを頂きました。 デオ・グラチアス!

主日のお説教ではクリスマスにイエズス様をお迎えする待降節の準備として、本当の罪の悔い改めをするよう呼びかけられました。
洗者聖ヨハネの使命をよく知ることにより、私たちの主イエズス・キリストの神性についてのその偉大な信仰をもち私たちが完全に主のために生き、イエズス様を知らない人々に知らせようとするその熱心さを聖人に取次いで頂くように祈りました。
また、イエズス様のご誕生までの間、マリア様がどんな風にイエズス様をお迎えする準備をなさったかを考えるよう提案して下さいましたのでこの待降節の黙想中に、マリア様にどのようなお心でイエズス様をお待ちになっておられたのか少しでも教えて頂こうと思います。

主日の御ミサ後、公教要理として無原罪の御宿りの日のお説教をして頂きました。

無原罪の御宿りという驚くべき賜物を受けられたマリア様とその恩寵を与えられた天主様を黙想する時、聖母の無原罪の御宿りとミサ聖祭に密接な関係があることがよくわかりました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
日本でのクリスマスミサ、ミッションをありがとうございました。
この度の御ミサの報告をお送りいたします。
12月24日(木) 18:30 ご降誕前日のミサ には小さなお子さん二人を含む23名の方々が、
12月25日(金)  0:00  主のご降誕の真夜中のミサには20名が、
         9:00  暁のミサには18名、
         10:30  日中のミサには25名、
12月26日(土)  10:30  最初の殉教者聖ステファノのミサには19人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!!

三日間に四つの歌ミサと、一つの読誦ミサが日本で捧げられた大きな御恵みを天主様に感謝いたします。
私達の愛を引き寄せるため、私達の愛を受けたいがために幼子として貧しい馬小屋にお生まれになったイエズス様を日本中の人、世界中の人が礼拝し、感謝申し上げ、お愛しする日が来るよう切に願います。

私達を愛するが故に、人としてお生まれ下さったイエズス様を今後一切お悲しませする事がありませんように、益々イエズス様をお愛しする事が出来ますように、マリア様のお取次ぎにすがる思いでミサに与っていました。

御病気や仕事など、色々なご事情でミサに与ることがお出来にならなかった愛する兄弟姉妹の方々の上にもクリスマスの特別の御恵みがありますようお祈りいたしました。

御ミサの後には各日ともローマの伝統に倣って幼きイエズス様の御像の御足に接吻する式がありました。
愛おしいイエズス様の可愛い御足に接吻するとイエズス様がにっこりほほ笑んで下さったように感じました。

26日の公教要理の後には、数名の方が五色のスカプラリオの着衣式をされました。スカプラリオの着衣のために骨を折って下さった兄弟姉妹の愛徳に感謝を申し上げます。m(__)m
激務の中、クリスマスに沢山の御ミサを上げて捧げて下さった小野田神父様にも心から感謝申し上げます。
天主様の御恵みが神父様の上にもたくさん、たくさんありますように!!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

クリスマスイブから御降誕の真夜中の御ミサ、そして暁と日中の御ミサ、そして26日の御ミサ、そして公教要理など、本当にありがとうございました!!
小野田神父様が、司祭になられて初めて、日本でクリスマスイブと御降誕の真夜中の御ミサをお捧げになる事ができたという事を想い、感動いたしました。
大変ハードなスケジュールの中、日本の為にこれほど多くの御ミサを捧げて下さって、本当に小野田神父様、天主様、マリア様に感謝致します!!m(_ _)m
このお恵みによって、日本で聖ピオ十世会の聖伝の御ミサに与る方がたくさん増えますように!!

私たちの救霊の為にイエズス様がお生まれになる時には、誰もイエズス様の為に場所を提供してくださらなかったので、少なくとも私たちは、人間となって下さった天主様に、無限に御謙遜になられたイエズス様に、跪いて、愛と感謝と賛美と、罪の痛悔をお捧げする事ができますように!

デオ・グラチアス!

【報告】
12月27日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供0人)
女: 29人(内、子供1人)
計: 43人(内、子供1人)

2016年が天主様の祝福と恵みに満ちた年となりますように!新年の聖伝のミサ 聖ピオ十世会日本

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 新年のお喜びを申し上げます。2016年が天主様の祝福と恵みに満ちた年となりますように心よりお祈り申し上げます。

 新年の元旦のミサを日本で捧げることができたことを天主様に感謝します。
 12月31日には大坂で大みそかの感謝のミサを捧げることができました。子供たちも与ることができ、初めて聖伝のミサに与る方々がいらっしゃって大変うれしく思います。
 ミサの直後には聖体降福式をおこない、一年のすべてのお恵みをご聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストに感謝を捧げました。

 新年元旦と二日にも、大阪で聖伝のミサを捧げました。初金と初土曜のミサでした。久しぶりにミサに来られた方々もいらして喜ばしいミサとなりました。
 1月1日には、ローマの伝統にしたがって、Veni Creator Spiritus を歌いました。ミサの直後には、初金の信心としてご聖体の前で聖時間を過ごし、新年の豊かな恵みを恋求めました。
 1月2日には、初土曜日の信心のミサを捧げることができました。ただし、恒例の公教要理はお正月休みとしました。新潟から車を運転して大阪までクリスマスと年末年始の聖伝のミサに与りにこられた方もおられました!

 東京では、1月3日の主日にミサの前に成人の洗礼式がありました。天主の子供がまた一人生まれたことに感謝します。また聖伝のミサには多くの方々新しく来られ、ミサに来る小さな子供たちも多くなり、天主様に深く感謝します。

 年末年始(12月31日、1月1~3日)の4回の聖伝のミサは、これらを愛する兄弟姉妹の皆様の意向で捧げました。

 1月3日に洗礼を受け、初聖体を受けたこの方は、ミサが終わった後お弁当を食べている間に私にこう感想を述べてくれました。ご聖体がミルクのように感じた、と。

 実は、これと同じことを、幼きイエズスの聖テレジアも詩で歌っていました。

Cette rosée, elle est au sanctuaire,
L'Ange voudrait s'en abreuver aussi ;
Offrant à Dieu sa sublime prière,
Comme saint Jean il redit : « Le Voici ! »
Oui, le voici ce Verbe fait Hostie,
Prêtre éternel, Agneau sacerdotal !
Le Fils de Dieu, c'est le Fils de Marie...
Le Pain de l'Ange est le lait virginal!

Le Séraphin se nourrit de la gloire,
Du pur amour et du bonheur parfait;
Moi, faible enfant, je ne vois au ciboire
Que la couleur, la figure du lait.
Mais c'est le lait qui convient à l'enfance,
Du Coeur divin, l'amour est sans égal...
O tendre amour, insondable puissance !
Ma blanche Hostie est le lait virginal !

(La Rosée divine ou le Lait virginal de Marie より)

 幼きイエズスの聖テレジアは、聖母がイエズスを私たちに与え、私たちをイエズス・キリストに与えるという事実を見つめながら黙想します。聖母と幼きイエズスとの関係を、ご聖体拝領にまで適用します。聖母が幼きイエズスに与えた童貞の母乳は、イエズスのいと尊き御血と御体となり、この御血を十字架の上で私たちの贖いのために流し、御体は御聖体として私たちに与えられます。幼きイエズスの聖テレジアは、自分は幼い子供だから、チボリウムにあるホスチアの色を見て、白いホスチアは自分を養う童貞の乳であると言うのです。このことを受洗した方に申し上げますと、洗礼のお恵みをしみじみ感じておられること、をお返事にいただきました。

 願わくは2016年において、より多くの方々が、聖母を通してイエズス・キリストを知り、信じ、愛し、礼拝ことができますように。

 確かに、聖母は、天主との比べれば、無に等しい何でもないものです。
 しかし、天主は、聖母を、永遠の昔から自由意思によって選びました。
 三位一体は、聖母を通してのみ、イエズス・キリストを私たちに与えることを望みました。
 聖母への真の信心は、私たちをしてイエズス・キリストへとますます近寄せます。

 聖母の心を私たちにもいただくことができますように。私たちが聖母の心でイエズスを愛し、礼拝することができますように。

 また、イエズスの聖心を私たちがいただいて、その心で私たちが聖母を愛することができますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッション、ほんとうにありがとうございました。 年末年始の御ミサの報告をお送りいたします。

年末年始、御ミサとご聖体降福式、小野田神父様と楽しいひと時を過ごすことができて大変幸福でした。
小野田神父様の多くの犠牲と愛徳に天主様が何百倍もに報いてくださいますように!

12月31日(木)ご降誕後七日目のミサ と聖体降福式には20名の方々が、

年が明けて2016年
1月1日(初金) ご降誕後8日目のミサ と聖体降福式には17名、
1月2日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサには15名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

年末には、初めて御ミサに与られた未信者の男性の方々が2名おられ、久しぶりに来られたちいさな子供達も最後まで大変行儀よく御ミサに与っておられました。ちいさな子供がご聖体に対して敬虔な態度でひれ伏すのを見てこのような子供達が聖堂に溢れる日が来ることを切に祈りました。
きっと幼きイエズス様も年末の忙しいときに集まった人たちのことをとても喜んでくださったに違いないと思います。
御ミサが終わって、御聖体降福式で「テ・デウム」を歌い2015年、1年 を通して天主様に頂いた多くの御恵みに感謝し、御聖体にましますイエズス様に愛をお捧げする事が出来ました。

元旦にも御ミサが日本で捧げられた事に大変感謝いたします。
2016年も、余すところなくマリア様を通して、マリア様によって、マリア様と共にイエズス様にお捧げする決心をたてることが出来ました。
3日間のお説教を通して、イエズス様とマリア様の聖心がひとつであり、イエズス様をお愛しするためにマリア様の聖心を頂き、マリア様を御愛してお喜ばせするためにイエズス様の聖心を頂くことをイエズス様は大変喜ばれる事を知りました。

ミサの後にはローマの古い習慣に従って、幼きイエズス様の御足に接吻する式がありました。美しいイエズス様の御像を眺めながら、人類の為に小さく、低くなられた天主の神秘の偉大さに感激いたしました。可愛らしい御足に接吻したとき、イエズス様が微笑んで下さっているような気がしました。

その他の報告

●初詣に出向く人々の雑踏を見て、これらの方々の為に償いのためにミサに与り、天主様にこれらの方々の回心を祈りました。
●年の最後と始めに御ミサと御聖体降福式に与れた大きなお恵みに天主様の憐れみと愛を感ぜずにはいられませんでした。マリア様が、日本を特別愛してくださっていることにも深く感謝申し上げます。
●元旦に聖歌隊が歌っておられたチマッチ神父様作曲の「アヴェマリア」がとても日本的で美しく、正月にふさわしいと思いました。
●馬小屋と幼きイエズス様がとても美しかったです。


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 17人(内、子供2人)
女: 28人(内、子供2人)
計: 45人(内、子供4人)

無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア ”騎士",その4つの重要な意味

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様からの「無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア」の日本語訳をご紹介いたします。

 神父様は、「無原罪の聖母の騎士」という名前を私たちに黙想することを提案しています。
聖マキシミリアノ・コルベ神父様はなぜ「騎士」と呼ぶのでしょうか?

 私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っています。

 朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

 シュテーリン神父様は、最後に、再来年の2017年“ファチマ100周年”の準備のために、聖母マリア様がなさったのと同じ準備をさせようとお考えです。この第2回目は「天使の出現」について黙想させ、「あふれんばかりの天主の現存」と「天主の御稜威(みいつ)」を学ぶことを。

 どうぞお読み下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


無原罪の聖母の騎士への手紙 第9号―アジア

親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベが無原罪の聖母の道具を「騎士」と呼んだのには、重要なわけがあります。聖母が、この世でのご自分の道具となるよう私たちに呼びかけられるのは、死の闇と影の中に座したままの愛する子どもたちを救われるためです。聖母はその霊魂たちに改心と聖化の恩寵という大量の光を差し込ませたいと望まれており、私たちはその光を伝える橋または経路となるべきなのです。しかしながら、隣人を愛するということを、マリア様を通じてまことに行うことは、単に義務を果たしたり霊操や苦行を行ったりすることではありません。これは戦争であり、絶え間のない戦いなのです。それゆえに、聖マキシミリアノは、まさに軍隊の用語を使ったのです。恩寵が霊魂に出会うときはいつでも、聖母は不倶戴天の永遠の敵に出会うのです。この敵、悪魔は、原罪を通してこの世の支配者なのです。無原罪の聖母の役割は、再び征服することです。霊魂を贖って、サタンの暴政の国から私たちの主イエズス・キリストの永遠の国へと向かわせることです。

私たちはこの「騎士」という称号を軽々しく考えるべきではありません。私たちが普通に考えている以上に、それはずっと大きな意味を持っているのです。

第一に、この称号は、私たちが戦闘の教会に属しており、この地上で生きるということは不倶戴天の敵同士の絶え間のない戦いであることを思い出させてくれます。

私たちの主は言われます。「誰も二人の主人に仕えることはできない。…破滅に至る道はいかに広く、救いに至る道はいかに狭く通りにくいことか」。主についてはこう言われています。「彼が立てられたのは、イスラエルの多くの人の堕落と復活、そして逆らいのしるしとなるためである」。「私と共にいない者は、私に逆らう者である」。聖ヨハネは言います。「彼は世にあった。…世は彼を知らなかった。彼はご自分の家に来られたが、その人々は受け入れなかった。…この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先にわたしを憎んだことを忘れてはならぬ。あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。…私があなたたちを選んでこの世から取り去った」。さらにその第一の手紙の中で、ヨハネは基本原理を明確に述べます。「世と世にあるものを愛するな。世を愛するなら御父の愛はその人の中にはない。世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、生活のおごりなどはすべて御父から出るのではなく世から出る」(ヨハネ第一2章15-16節)。

聖パウロと教会の教父たちは、これ以外の教理を知りませんでした。聖アウグスティヌスは特に、救いの歴史のことを、天主の国と悪魔の国の終わりなき戦いであると要約しました。キリスト教のこの基本的考えは、例外なくすべての聖人に見られます。

天主を否定するフリーメーソンの扇動行為を目撃した聖マキシミリアノはこう書いています。「では、私たちは何をすべきなのだろうか、無原罪の聖母の騎士である私たちは…今日、私たちは、どちらの側に立つのかを断固として、また毅然として宣言しなければならない。無原罪の御母の連隊の兵士としてキリストの旗の下に立つのか、サタンの旗の下に、天主を憎むという反乱と背教の旗の下に立つのかを。私たちの主イエズス・キリストご自身が『私の味方でない人は私に背き、私とともに集めぬ人は散らしてしまう』と言われるように、ここには和解や妥協はありえない」。

私たち無原罪の聖母の騎士は、すでに決定を下しているのです。

さて、私たちは皆、現代の時代精神によって影響を受けています。今日、平和主義が教会内を支配しています。私たちはみな兄弟姉妹だ、敵はもはやいない、と教会内の人々は言います。平和、それが第一にして主要な標語なのです。彼らは言います、天主は戦争をお望みではなく、平和を望んでおられる、と。それに続いて、私たちは異なる信仰を持つ人々を理解するようにし、彼らを受け入れ、彼らの価値を知り、彼らと一緒に活動するべきだと言います。いずれにしても、人はすべて善意の人であり、それが、私たちが平和と幸福の新しい世界を建設している理由なのだ、と。そんなスローガンは教会の不倶戴天の敵によって何世紀もの間使われてきたという事実はさておき、そんな「宣言」は霊魂に対して犯すことのできる最悪の罪です。戦争は継続中であり、敵は攻撃し続けています。しかし、私たちの軍隊の将軍たちは武器を捨てるだけでなく、この敵を友と呼んで抱きしめさえし、非常に練りに練られた方法で誰かが背後から自分たちを傷つけていることに気がつきません。これが教会の危機なのです。ほとんど抵抗することなく、教会は霊魂たちを渡して、サタンの奴隷の状態にしているのです。

それゆえに、騎士は「一人ですべての異端をことごとく滅ぼし給うた」女の方の旗の下に立たなければなりません。この方はまた、現代の無神論という怪物ヒドラと戦う私たちを助けることがおできになります。カトリック信者は今日、戦いの精神で満ちていなければなりません。そうでなければ滅びてしまうでしょう。この敵は確かに大変危険です。なぜなら、目に見えず、形のない影響力として動員されてきているからです。人々をやさしい風のように包み、最強の壁を通り抜ける波長のように包みます。素敵でもっともらしく思えるフレーズに満ち、「バランスがとれ」、友好的で、親しみがあり、魅力的で楽しさに満ち、共感を呼ぶ感情があります。これが、敵が今日使っている毒なのです。このどこにでもいる死をもたらす敵との戦いを宣言することは、危険だと知られている明白な攻撃者に対処しなければならないことに比べれば、比較にならないほど困難です。この戦いはどのようなものか、敵の戦術はどんなものか、どんな武器やどんな戦略を使うべきなのか、といったことを考える前に、今が戦闘状態、実際、生死をかけた絶え間のない戦闘状態にあることを確信しなければなりません。「兄弟たちよ、節制し警戒せよ。敵の悪魔は吠えるししのように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている。信仰を固めて彼に抵抗せよ」(ペトロ第一5章8-9節)。無原罪の聖母の騎士会会則の第一条は、この戦いを強調しています。「彼女はおまえの頭を砕くであろう」(創世3章15節)。もちろん、これは天国の地獄に対する戦争の宣言の最初にして唯一のものであり、無原罪の聖母の騎士の生き方を決定づけるべきものです。

第二に、終わりのとき、この戦いが激しさを増すことと、「できるなら選ばれた人たちをさえ迷わすほど」(マテオ24章24節)悪魔が勝利に次ぐ勝利を収めるという事実について完全に意見の一致があることもまた重要です。

ですから、天主の御母が主なご出現、特にラ・サレットとファチマにおいて、この戦いの最終段階のことを述べられ、忠実な子どもたちに対して聖母が私たちにお与えくださった強力な武器を手に取るように呼びかけられているのは驚くに当たりません。結局、聖母がご出現になったのは、正確に言えば、この戦いにおいて私たちのそばにいて、勝利へ至る最も確実な方法を教えられるためだったのです。天主の御母がシスター・ルチアに話されたときに使われた表現である「決定的戦い」の時代である現代において、若きダヴィドが怪力のゴリアテに相対したように、無原罪の聖母の旗の下、敵に対して真っ向から戦いを挑む小さな軍隊を招集することは、これまで天を喜ばせてきています。この戦いはさらに激しくなりつつあるため、主はしもべたちを高めて、この戦いについて知るだけでなく、戦いの前線において、細心の注意を払ってしもべたちの心と姿勢を兵士の理想の状態に保ち、敵の目を真っすぐに見て、敵の仮面をはぎ、敵と戦うようにさせてくださいます。これが無原罪の聖母の騎士です!

第三に、騎士とは普通の歩兵ではなく、いわゆるエリートに属しています。

再び聖マキシミリアノの言葉を聞きましょう。「天主の教会の敵たちによってなされたそのような強力な行為に直面して、私たちは無駄に時間を過ごすことが許されるか? ただ単に不平を言ったり涙を流したりすることが許されるか? 否! 考えてもみよ。最後の審判の時、私たちは自分のしたことを説明するだけでなく、天主は、私たちができたであろうにもかかわらずなさなかったよい行いすべてを数え上げられる。私たち一人一人には、最前線に立って敵の攻撃をかわすという重大な義務が課せられている。よくこんな言葉を聞く。『でも、私に何ができるだろうか。敵は十分組織化されており、大きな力と富を持っている…』。そんな人は、聖パウロがこう言ったことを確かに忘れてしまっている。『私は、私を強めてくださる天主においてすべてができる』」。

ですから創立者の著作においては次のような言葉が繰り返し使われています。騎士の身分、戦い、攻撃、霊魂を勝ち取る、敵を打ち滅ぼす、弾薬、正しい武器を配備する、など。それは、彼が、キリスト教が眠りに落ち、悪魔との平和が宣言されてきているこの私たちの時代の危険を予見していたかのようです。「騎士、騎士の身分、戦い。すべてまさに戦争のように聞こえる。なぜなら、実際に戦争なのだから! ライフルや爆弾、戦車、毒ガスが使われる戦争ではないが、本当の戦争だ。私たちの戦略は何か? なによりも、祈りなのだ」、「私たちは自分の頑迷さに勝ち、この防衛的な態度から脱しなければならない。フリーメーソンや自由思想は天主と信仰に対して戦いを仕掛けており、人を聖なるものを破壊する卑しい動物や野蛮人にしてしまおうとしている。だから私たちも戦おう。もちろん許された手段をもって。私たちと隣人たちが異教徒になるのを防ぐだけでなく、マリア様がすべての人の心を統治し、それによって彼らにキリストの国がやって来るようにするために」。

第四に、しかしながらこの戦いを、私たちの人生における冒険的な段階、感傷的な映画、コンピューターゲームのように理解してはなりません。この戦いには、私たちの持てる限りの強さが求められます。戦いは地上における私たちの滞留のあらゆる面に影響を与え、敵を打ち負かすまでは、限界を知らず、終わりがありません。言い換えれば、この戦いには中途半端なものはありません。騎士は最高の理想によって絶えず霊感を与えられなければなりません。「このお方、無原罪の聖母が、可能な限り早く全世界の元后、すべての人の霊魂の元后、世界のすべての国々の元后になってくださるために、すべての心が例外なしに聖母への愛で満たされるために、それが私たちの最高の理想である」。

騎士にとって、凡庸、怠惰、無関心は無縁です。「だから、騎士は悪が広がることに無関心でなく、心を挙げてそれを嫌い、機会があるならば、どこであれいつであれ、霊魂に毒を与える悪なら何であっても追い詰めるのだ」。

ですから再び言います。朝目覚めたなら自問してください。「私は何者か?」。私は完全に無原罪の聖母のものであり、聖母の子どもであり、聖母の奴隷であり、聖母の兵士であり、さらに重要なのは、聖母の騎士であるということです!

2015年10月27日、マニラにて。
カール・シュテーリン神父


ファチマ2017に向けて(2)

1916年春 ― ルチアに対する天使の第一の出現

フランシスコとヤシンタ

ファチマの偉大なるドラマは1916年、天使の三回の出現によって始まりました。私たちの人生において特別な出来事が起こるならば、特にその始まりと終わりについて考察しなければなりません。始まりは、私たちの人生に重要な変化をスタートさせ(たとえば、勉強の始まり、信仰への回心、将来の配偶者との最初の出会い、召命の最初のしるしなどです)、終わりは、その出来事を通じて私たちに起きたことすべての頂点、まとめのようなものです(司祭叙階、婚姻の秘跡、長い間の勉強の後の最終試験などです)。天主の現れにおいても同様で、始まりと終わりに特別な注意を払わなければなりません。その始まりは、その上にビル全体が建てられる土台にたとえられ、終わりはビルの完成に似ています。

1916年以来、フランシスコとヤシンタは、従妹のルチアを手伝って、自分たちの家とルチアの家の羊の群れの世話をする許可を両親から得ていました。ルチアは9歳、フランシスコはちょうど8歳、ヤシンタは6歳でした。

1916年の春のある日、子どもたちは羊たちと共に、生まれ育った村アルジュストレル近くのオリーブ園にいました。いつものように、正午のころロザリオを祈り、軽い昼食を取ったあと遊び始めました。

「私たちはしばらくの間、ゲームを楽しんでいましたが、そのとき、強い風が木々を揺らし始めました。何が起きたのか見ようとして、見上げて驚きました。その日は通常と違って静かだったからです。すると、オリーブの木の上に、私たちの方にやって来る人物が見えました。私が前に話をした人でした。ヤシンタとフランシスコは以前まったく見ていなかったし、私もそのことを彼らに言っていませんでした。その人が近づいてくると、私たちはその容貌を識別することができました。若い男性で、14歳か15歳ぐらいでした。雪より白く、太陽の光が通り抜けたとき水晶のように透明で、大変美しい姿でした。

私たちは驚き、心を奪われ、びっくりしてしゃべることができませんでした。

私たちのところに来ると、その人は言いました。 『恐れるな! 私は平和の天使である。私と共に祈れ!』

天使は地面にひざまずいて、ひたいが地面につくまで頭を下げました。

超自然の力に導かれて、私たちも同じようにし、天使が言う言葉を聞いて、その言葉を繰り返しました。

『わが天主よ、われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る! われ、御身を信ぜず、御身を礼拝せず、御身に希望せず、御身を愛さぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る!』

これらの言葉を三回繰り返してから、天使は立ち上がって言いました。
『このように祈れ。イエズスとマリアの聖心は、汝らの願い求める声をお聞きになる。』そして天使は姿を消しました」。

私たちも、この最初の天の介入について黙想しましょう。

1.いつもと違う強い風

聖書の中にある天主の現れを黙想すれば、突然吹く神秘的な風と関係あることがしばしばあることが分かります。例えば、ホレブ山の預言者エリア、聖霊降臨の日の高間の家での使徒たちです。また、ルルドで最初に無原罪の聖母がご出現になったとき、聖ベルナデッタは「突風のような音」に驚きました。

詩篇103章は言います。「あなたは風を使いとし、あなたは風の翼に乗って進まれる」。霊に当たるヘブライ語は「強い風」と訳すことができます。この最初の事実は、ファチマ(の出来事)をこの世での天主の出現に近いものとします。この風によって、天主は超自然の雰囲気をおつくりになり、それがあらゆる闇と悪を吹き払い、光と天国のような平和をもたらすのです。

2.最初の言葉「恐れるな! 私は平和の天使である」

この言葉は福音書にあるものとそっくりです。天使が神殿でザカリアに現れ、洗者聖ヨハネの懐胎を告げたときです。あるいは、お告げの日の後に聖母にあいさつしたとき、天使は言いました。「恐れるな、マリア」。天使が聖ヨゼフに現れたとき、あるいは、ご復活の日の朝にイエズスの墓にやって来た女たちに現れたとき、天使は言いました。「恐れるな!」

3.天使の出現

天使の出現について聞かれたとき、ルチアはしばしば「Era de luz―天使は光のようでした!」と言っていました。これもまた、福音書の言葉とそっくりです。主のご復活を告げた天使は稲妻のような外見を持ち、その服は雪のように白かったのです(マテオ28章3節)。また、この福音記者は、ご変容の主についてこう述べています。「主の顔は太陽のように輝き、服は雪のように白くなった」(マテオ17章2節)。「天主は光であって、少しの闇もない」(ヨハネ第一1章5節)。天主がご自身を(天使や聖母を通じて)人間にお見せくださるときはいつでも、輝きと光をまとっておられます。光に関するこの神秘は、ファチマのご出現全体を通して、本当にしばしば言われています。

4.あふれんばかりの天主の現存

ルチアは天使の出現について述べています。「私たちを包んだ超自然の雰囲気が非常に強かったため、長い間われを忘れてしまい、天使が去っていっても同じ姿勢のままで、同じ祈りを続けて繰り返していました。天主の現存を、本当に心の底から強く感じたため、私たちは互いに話をしようなどとは思いもよりませんでした」。天主の現存は途方もないことであって、私たちの弱い人間の力にとっては、粉砕されてしまうほどのものでした。しかし、この「天主の現存の前での無力」は、この三人の子どもたちにとって、まず第一に天主が無限に聖であることと被造物が無であることをよく知るという、まことの謙遜を学ぶ上での最高の場となったのです。

私たちへの教訓

1.私たちの中の天使

ファチマは天使の出現によって始まります。天主は私たちに、「目に見えない世界」が存在することと、私たちにとってそれがどれほど重要かをよく考えて理解させようと望まれます。純粋な霊としての天使が私たちに思い出させてくれるのは、私たちが永遠のために創られたということです。天使は、天主の超越性、御稜威、聖性を反映しています。私たちの住むこの物質的な世界においては、五感で感じるものだけしか理解できませんが、天使の存在は(五感で感じられないものがあると分からせる)重要な治療薬です。天使は、物質に対する霊の優位性、一時的なものに対する永遠の優位性を明らかにしています。

天使はまた、天主の無限の美しさを反映しています。歴史上の天使の出現においてはいつも、彼らの輝きと光に満ちた信じられないほどの美しさが見られています。聖トマス・アクィナスによれば、「美は、真理と善を輝きと栄光によって表しているもの」ですから、天使は私たちに真理と善であるものを愛させ、崇めさせ、それと同時に、醜いあらゆるもの、偽りと悪であるあらゆるものに対する健全な嫌悪を私たちに与えるのです。

最後に、天使は天主の全能の力と強さの反映です。

大天使聖ミカエルはルシフェルとその追随者を天国から地獄へと投げ落としました。
ガブリエルという名の訳は、「天主の力」です。
ラファエルはトビアを導き、最も大きな悪から彼を守る大変な力を持っています。

特に私たちの時代においては、私たちは自分の極端な弱さと力不足を感じています。第一に、良心を調べればいつも、力強い世代だった先祖たちに比べ、私たちは自分が完全に退化していることが分かります。また、どこであれ「闇の力」の支配があるがゆえに、私たちの生きる限り、天使の現存と保護の下にいれば、私たちはあらゆる誘惑に簡単に勝つのです。

天主が天使を送ってくださったのは、私たちを守るため、私たちの世話をするため、私たちの守護天使とするためであることを忘れないようにしましょう。一般的に言って、私たちが生きているあらゆる状況の中で、天使たちに私たちを助けようとする力と望みがあることを私たちは過小評価しています。ファチマでは、天使が子どもたちに祈ることを教え、一緒に祈りました。一回一回のミサには天使がいて、ご聖櫃の前で絶え間なく讃美と礼拝をし、天の元后に対して大きな崇敬と愛を捧げていることを私たちが思い起こすなら、私たちの霊的生活はたちまち変わることでしょう。なぜなら、天使たちは、私たちの霊魂が天主に対して開かれるために適した雰囲気をつくり出すからです。

2.天主の御稜威(みいつ)

この大変高貴な天使、彼が子どもたちに何を言い、どのような動作をするのでしょうか? 天使は天主に祈るために、地にひざまずいて、ひたいを地面につけます。一位の天使がすでに、子どもたちがその前でほとんど息をすることができないほど高貴な存在であるのなら、数十億もの天使が天主の御稜威のまえで地にひれ伏しているというのなら、いったいなんと言えばいいのでしょうか?! 「天使たちはみな、玉座…の周りに立ち、玉座の前にひれ伏して天主を礼拝した」(黙示録7章11節)。

ファチマの偉大なる始まりは何ですか? 一つの祈りです。

その祈りはどう始まりますか? 「ああ、わが天主よ」

・天主の無限の御稜威と偉大さについての失われた真理。無限の大海。創造物は天主の前では無。

・私たちにとって、これが意味することは、始めであって終わりであり、必要なただ一つのこと、世と私たちの生活の中心、それは私たちではなく天主であるということです。ああ、わが天主よ。

・あらゆる被造物は天主の前ではちりです。ですから、ひれ伏すこと、ひざまずくこと、これらは、私たちが真理を認め、天主の支配と天主に服従することを理解することの目に見えるしるしなのです。(天主よ、)あなたは始めであって終わりであり、本源であって目的であり、土台であって頂上です。私はまったくの無です。私は、あなたのおかげで、あなたにおいて、あなたのためにのみ存在することができるのです。

3.本質的な徳:信仰、希望、愛―私たちのいのちの本質

この祈りは絶えず、私たちを天主と関係づけてくれます。天主がすべてであるなら、最も重要なことは、私たちが天主に対して正しい態度を取ることです。するとこうなります。「われ御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る」。

われ信じ奉る、われ天主の目に見えない世界を認め奉る、われ、わが周りの目に見える世界以上に、御身がわれに啓示し給うたことを確信し奉る。われ信じ奉る、われ天主の実在を認め奉る、われ、わが目を真理とただ一つのまことのいのち、天主の存在と活動に開き奉る。

礼拝は、天主の啓示に対して素早くお応えすることです。信仰によって、天主が私のすべてであり、私が天主に完全に依存していることを理解するなら、私はそれを行動で示さなければなりません。

礼拝は、天主が私の本源でありかつ最終の目的であること、つまり私のすべてであることを承認することです。そして自分自身を本当に理解することです。私は完全にあなたに依存しており、私はあなたのものです。

希望は天主のご意思を成就させたいという望み、天主のところに到達したいという望みです。

天主の偉大さ、幸い、愛を見た者なら誰でも、限りない喜びへ憧れを持つ以外のことはできません。しかし、希望はまた、天主の御約束への信頼です。私たちは至福を希望し、望むことしかできません。なぜなら、天主は私たちをそのようないのちへと招いて天主の子どもとしてくださるからであり、私たちに天国での居場所を用意してくださっているからです。

愛は心が一致することです。私たちを創り、救う天主の愛へ、私たちを天主ご自身のいのちに参与させようと望む天主の愛へ完璧にお応えすることです。私たちのいのちの頂点であり、私たちがすることのできることのうちで最も高貴で最も良いこと、実際に私たちの人生の中で唯一の価値あることなのです。

「私たちの人生の終わりに、私たちはどれほど愛したかについて裁かれるでしょう」と幼きイエズスの聖テレジアと十字架の聖ヨハネは言っています。

4.罪という神秘―償いの必要性

「われ、御身を信ぜ…ぬ人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。大変興味深く重要なことは、私たちの人生の本質(私たちの天主との関係)を述べたあとで、天使は子どもたちにまったく反対のこと、天主の実在を否定すること、つまり罪について教えるのです。

ですから、ファチマの一番最初から、今日では完全に忘れられているもう一つのテーマが現れるのです。世界と人間の歴史は、二つの対立する力、天の国と悪魔の暴政の国、天主への「はい」と天主への「いいえ」(信じない、礼拝しない、希望しない、愛さない)との間の戦いです。

「素晴らしい新世界、地上の楽園」での生活を想像し、普遍的な友情と愛で皆が結ばれるであろうと想像するならば、それは最悪の幻想となってしまうでしょう。

いいえ―まことの天主への「はい」と「いいえ」の間の戦争があり、主ご自身の明白な宣言によれば、最後まで「はい」の態度でいる人々だけが救われるのです。

しかし、天主の敵を信じる人々に対して、ルシフェルの「私は仕えない」に従う人々に対して、私たちはどんな態度を取ればいいでしょうか? 憎しみでしょうか? 無関心でしょうか? 怒りでしょうか? 不幸なことにそれが、私たちの周りにいる悪に対して、しばしば私たちが起こす反応です。

天使は違う言葉を教えています。「われ、…人々のために、御身に赦しを請い願い奉る」。この小さな一文を何度も何度も黙想しなければなりません。

第一に、これは痛悔の祈り、悔悛の祈りです。赦しを請い願うことです。
罪びとが行う第一の愛のわざは罪を悔やみ、赦しを請い願うことです。私たちはみな罪びとですから、私たちはみな赦しを請い願わなければなりません。

「信じない人々」とは誰ですか?
他の人々だけでなく、この私も「信じない人々」の一人なのです。人生において、いったい幾度、信仰や従順(礼拝)、天主への信頼、まことの望み、天主と隣人への愛に欠けていたでしょうか! 自分がいま「光」の中にいるという事実は、私の技能や寛大さのゆえではなく、天主の無限の御あわれみのゆえなのです。

それゆえ私は、現在信じない人々、私も含めてかつて(それはそれほど以前ではないかもしれません)信じない人であったすべての人々と一致して、赦しを請い願います! この連帯は、隣人へのまことの愛のわざなのです。まことの愛は私たちの隣人に「全ての最善のもの」を求めます。全ての最善のもののなかで一番のものは、それがなければ救いが得られない「罪の赦し」です。

第二に、この祈りは、本当の最高の善と、本当の究極の悪が何であるかを分からせてくれます。
ファチマの一番最初に、「われ赦しを請い願い奉る」の言葉があるのなら、私たちは「天主を信ぜず、…天主を愛さぬ…」ことはいかに恐るべきことかを理解します。ですから、私たちの人生において最も重要な任務の一つはこのことについて思いをめぐらすことです。これは次回述べる天使の出現によって確認されることになるでしょう。


*** 非常に重要 ***

新しいウェブサイト www.militia-immaculatae.asia があります。

私たちは喜んで皆さんにお知らせします。「アジアの無原罪の聖母の騎士会」の新しいウェブサイトがもうすぐ開設されます。
アジアのすべての国々の騎士が、その国々に無原罪の聖母のことを知らせるために、私たちと協力してこの使徒職を行っています。

このウェブサイトを自分のためにだけ使うのではなく、できるだけ広めてください。これは、無原罪の聖母の道具としての皆さんの聖なる義務であって、聖母のことを知らせ、可能な限り多くの霊魂が聖母を愛するようにさせるためです。

しかしながら、誰かに文章を読んでもらったり、黙想してもらったりするために、皆さんがこのウェブサイトへのリンクをその人に送信するのなら、
その前に無原罪の聖母の射祷を唱え、皆さんがそのリンクを送信する人の心に聖母が触れることがおできになるようにお祈りください。

でも、第一に皆さんにお願いするのは、聖母にノベナ(聖母の連祷)を唱えることです。この重要な使徒職に対する聖母の祝福と恩寵を請い求めるのです。

どうぞ、皆さんの知り合いに、誰もが次のEメール「 info@militia-immaculatae.asia 」を使って無原罪の聖母の騎士会の管理者に連絡できることを知らせてあげてください。
(了)

2016年の聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の予定【日本聖ピオ十世会】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年の聖伝のミサの予定をご紹介します。今年はより多くの聖伝のミサが日本で捧げられるので大変うれしく思います。【2016年1月6日現在の予定です。やむを得ない事情により予定が変更される場合があるかもしれませんが、その場合はご容赦を願います。】

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Dearest Friends of the SSPX Japan and of the Traditional Latin Mass,

We are very happy to announce the following Traditional Latin Mass Schedule for the whole year of 2016. We are glad to have more Masses in Japan for your sanctification. [This is a schedule as of Jan 6th, 2016. In case of necessity, and unforeseen circumstances, this MAY be subject of change. In this event, we would like to ask your kind understanding.]


Jan 01, 2016 Osaka 10:30
Jan 02, 2016 Osaka 10:30
Jan 03, 2016 Tokyo 10:30
Jan 04, 2016 Tokyo 07:00
Jan 10, 2016 Osaka 18:00
Jan 11, 2016 Osaka 08:00
Jan 15, 2016 Osaka 17:30
Jan 16, 2016 Osaka 10:30
Jan 17, 2016 Tokyo 10:30
Jan 18, 2016 Tokyo 07:00

Feb 07, 2016 Tokyo 10:30
Feb 08, 2016 Tokyo 07:00
Feb 10, 2016 Osaka 17:30
Feb 11, 2016 Osaka 10:30
Feb 21, 2016 Tokyo 10:30
Feb 22, 2016 Tokyo 07:00

Mar 04, 2016 Osaka 17:30
Mar 05, 2016 Osaka 10:30
Mar 06, 2016 Tokyo 10:30
Mar 07, 2016 Tokyo 07:00
Mar 13, 2016 Osaka 18:00
Mar 14, 2016 Osaka 06:30
Mar 18, 2016 Osaka 17:30
Mar 19, 2016 Osaka 10:30
Mar 20, 2016 Tokyo 10:30
Mar 21, 2016 Tokyo 07:00
Mar 27, 2016 Osaka 18:00
Mar 28, 2016 Osaka 06:30

Apr 01, 2016 Osaka 17:30
Apr 02, 2016 Osaka 10:30
Apr 03, 2016 Tokyo 10:30
Apr 04, 2016 Tokyo 07:00
Apr 10, 2016 Osaka 18:00
Apr 11, 2016 Osaka 06:30

May 15, 2016 Osaka 18:00
May 16, 2016 Osaka 06:30
May 20, 2016 Osaka 17:30
May 21, 2016 Osaka 10:30
May 22, 2016 Tokyo 10:30
May 23, 2016 Tokyo 07:00

Jun 03, 2016 Osaka 17:30
Jun 04, 2016 Osaka 10:30
Jun 05, 2016 Tokyo 10:30
Jun 06, 2016 Tokyo 07:00
Jun 12, 2016 Osaka 18:00
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クリスマスの夜にお生まれになるこの方は、一体どなたなのか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月24日、御降誕の前日に大阪で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月24日 主の御降誕の前日のミサ
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月24日、クリスマスイブ、御降誕の前日のミサをしています。あと数時間で、真夜中に、クリスマスの深夜のミサがあります。その御ミサに、もしかしたら小さな友達が来る事ができないかもしれないので、一緒に今日、クリスマスの夜にお生まれになるこの方は、一体どなたなのか、一体どうやってお生まれになったのか、それを一緒に黙想しましょう。それから、では私たちは、その今日お生まれになった方に、どのように何をしたら良いか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 クリスマスの、今から2015年前のこのクリスマスの夜にお生まれになった方は、この全世界を創った、この大宇宙を創った、太陽と、星と、お月さまと、銀河を創った、真の天主、人間と動植物を創った天主様です。天使たちに命令をかければ、何千何万何億という天使たちが、その通りに動いて、その通りに働く、全知全能永遠の、無限の幸せの中にいる天主、それがその天主様が、私たちの為に小さな幼子となって、お生まれになった、それがクリスマスです。

 一体何故この天主様が、このお生まれになった方が、本当の天主である、この創り主である、私たちの為にお生まれになった救世主であると知る事ができるのかというと、それは旧約時代、イエズス様がお生まれになる前に、何千年もの間、色々な所で、色々な予言者が、救世主がお生まれになる、天主様がそう予言された、そう約束された、という事を全て、このお生まれになったイエズス・キリスト様において、その予言が全て成就しているからです。1つや2つ3つではありません。旧約の救世主に関する予言がピタリ、ピタリ、ピタリと、全てがイエズス様によって起こっているからです。

 ではこの天主様、人となった天主様は、一体どうやってお生まれになったのでしょうか?イエズス様のお父様であるヨゼフ様と、お母様であるマリア様は、ナザレトという村に住んでいました。イエズス様の養父である、イエズス様を養い育てて下さった、マリア様と結婚していたヨゼフは、ダヴィドの王家の子孫で、ベトレヘムがその本籍地でした。ちょうど今から4日前に、ローマの皇帝から勅令が出て、「人口調査をするので、人々は、自分の本籍地に行かなければならない、名前を登録しなければならない。」という勅令が出ました。

 その勅令が出て、マリア様は、もう赤ちゃんがお腹にいて、イエズス様をお腹にいて、とても旅行がするのが大変だったにもかかわらず、イエズス様を、このヨゼフ様とマリア様はベトレヘムまで旅をします。4日の間、ホテルもなければ、交通機関もない、貧しい2人は、辛い旅路を行かなければなりませんでした。今のように安全でもなければ、電気もなければ、山の道を険しい道を通って行かなければなりません。おそらく野宿をしなければならなかったと思います。体を休める所も無かったはずです。冬だったので、とても寒くて凍えたに違いありません。しかしヨゼフ様とマリア様は、互いに助け合いながら、かばい合いながら、ベトレヘムへと旅路を急ぎました。

 ベトレヘムに着いてみると、宿屋は泊まる所はもう人でいっぱいで、貧しいマリア様とヨゼフ様の為に部屋は1つもありませんでした。いくら友達に親戚に頼んでも、受けたのは拒否ばかりでした。もう何日も歩いて旅を続けて疲れきっているマリア様、ヨゼフ様、特にマリア様は体が重かったので、もう赤ちゃんがもう生まれるばかりだったので、さぞかし辛い思いをしたに違いありません。

 一体考えても見て下さい。私たちが聖伝のミサに与りに来たい、真夜中のミサだ。でもホテルがもう満席だ、ホテルがない、泊る所が無い、一体今晩はどうしたら良いのだろうか。友達の家もダメだ、他もダメだ、どうしたら良いんだろうか、でももう、もうここに来ている、一体生まれる救世主はどうなるのだ。マリア様も、ヨゼフ様も、自分の事はともかく、救世主の事を、イエズス様の事をひたすらに心配したに違いありません。

 考えても見て下さい。もしも私たちが、いくら謙遜になって、誰かに道を譲った、他の人に何かを譲ってあげた。本当ならば長い行列を並ばなければならないのだけれども、他の人に誰か譲って、代わりにまた別の後ろの方に並んだ。或いは、等々、色んな謙遜の行為をしたとします。それでも、私が私たちが、もしも虫ケラになる、という事から比べれば、私たちがしたのは一体何でしょうか。例え、私たちが虫ケラになったとしても、人から踏まれるようなアリンコになったとしても、例えそれが大天使が、或いは諸聖人が、立派な聖人が虫ケラになったとしても、天主様が人間になった、という事から比べれば、はるかに限りのあるものです。何故かというと、私たちと虫ケラの間では、限りのある被造物の関係ですから、程度があります。しかし、無限の全知全能、永遠の無限の天主の、永遠に無限に幸せな天主が、人間になった、という事から比べると何でもありません。

 マリア様はおそらく、その事を考えていたに違いありません。無限の天主様が人となって、私たちを救う為に人となって生まれているのに、そのイエズス様の為に、宿屋が無い、暖かい部屋が無い、寒い冬の凍える風しかない。イエズス様の為に、相応しい場所さえも見つける事ができなかった、という事を、マリア様はどれほど残念に思ったことでしょうか。しかし、ヨゼフ様もマリア様も、何とかしてイエズス様の為に場所はないか、と探し回ったあげく、ベトレヘムの村の隅に、宿屋の代わりに洞窟を見つけます。動物のいる小屋でした。

 そこにヨゼフ様はマリア様に、「ここでどうだろうか。」マリア様は、「ここにしましょう。」ヨゼフ様は、一生懸命その洞窟を、馬小屋を、動物のいる所をきれいにして、何とか準備をします、マリア様も何とかそれを、イエズス様の為に準備します。寒い風のビュービューなる所を、何とかして風が当たらないようにしたかもしれません。もしかしたら、唯一の暖房というのは、動物の体温と、或いは、動物の息から出る、「ハッハッ。」という、この息だけだったかもしれません。もしかしたらちょっとした火をくべたかんもしれません。その凍えるような寒い所で、誰からも受け入れられずに、私たちの為に、私たちを救う為に、私たちに永遠の命を与える為に、私たちに永遠の宝物を与える為に、私たちを永遠に幸せにするために、私たちに天主の命を与える為にお生まれになってくださった方が、この幼き赤ちゃんが、私たちの救い主、イエズス・キリスト様です。

 イエズス様は、私たちから愛を受けようと、私たちをどれほど愛しているか、という事を知らせようと、こうやってお生まれになって下さいました。

 このイエズス様に、私たちはどうしたら良いでしょうか?私たちはイエズス様の前に、このように小さくなって下さったイエズス様に跪いて、心から礼拝と感謝と賛美をお捧げいたしましょう。イエズス様に、愛の接吻をお捧げいたしましょう。今までイエズス様に、罪を犯す事によって辛い思いをさせてきた事を痛悔して、金輪際、イエズス様を辛い思いをさせる事のないように、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖なる夜、天主の無限の愛が私たちに現れた

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(真夜中のミサ)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月25日 主の御降誕【真夜中のミサ】
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお喜びを申し上げます。今日のこの御ミサの直後に、幼きイエズス様の御足の接吻をする、というローマの伝統に従った儀式を行いたいと思います。御ミサの直後に、御聖体拝領の感謝の祈りの後に、またこの前に跪いて、イエズス様に礼拝を捧げて下さい。その後、簡単な御降誕のお祝いの小さなパーティーがあります。

 愛する兄弟の皆さん、日本でもこのクリスマスは、聖夜と呼ばれ、多くの人たちが、この夜をイルミネーションで飾り、クリスマスのプレゼントを交換する、クリスマスギフトを送るという事をしています。では、このクリスマスの聖なる夜、一体何が起こったのか、一体誰が、誰の為に何をなさったのかを黙想して、それを受けた私たちがどのような反応をしたのかを黙想して、何か私たちの取るべき決心を立てる事にしましょう。

 今日、2015年前の今日、クリスマスに、牧場にいた羊飼いたちが、羊たちの群れの番をしていると、天使が、天使の光が彼らを包みました。その光があまりにも畏れ多く、威光に満ちて、この世を離れた、とても神々しいものであったので、この眩しい光を見て、「一体これは何なんだろう。」羊飼いたちは恐れました。すると、光に輝く美しい天使が、一位の天使が彼らに現れて、「恐れるな。私はお前たちに大きな喜びを伝える。お前たちの為に、ダヴィドの村に救い主が生まれた。それがキリストである。」と、喜びのメッセージを伝えました、「大きな喜びをお前たちに告げる。」と。

 そのメッセージを伝えると、一位の天使と共に、天軍の、天の軍隊の天使たちが、数千、数万、数億と、数え切れないほどの天使たちが光輝いて、天を覆って、大きな声で主を賛美しながら、「天のいと高き所には天主に栄光あれ。この地上には、善意の人々に平和あれ。」と歌を歌って、その天上の美しい歌を、光に満ちて歌って、それを羊飼いたちは目を大きくして、驚きと喜びに満たされて、「救い主が生まれた!その天も地も喜んでいる。」という事を見て、「さあ、では私たちはその救い主を拝みに行こう!」と、その救い主を探して、羊飼いたちは、そのそこに救い主を、イエズス様を探して、そこに目指して行った、という事が起こったのです。

 ですから、このクリスマスの夜は、本当に聖なる夜であって、光に満ちた、歌に満ちた夜なのです。天主様が人間に最高の贈り物をした夜です。何故最高の贈り物かというと、天主が私たちに下さったのは、単なる金や銀や、或いはダイヤモンドや、或いは食べ物など、朽ちる被造物ではなく、天主様が私たちの為に与えて下さったのは、天主の御一人子、永遠の天主の御言葉、聖父と全き栄光と、全能と、全知を持つ、天主三位一体の第2のペルソナが人となって、私たちの為に与えられた、私たちの為に生まれた、私たちの救い主として与えられたからです。

 「天主が人となった」という事を考えてみて下さい。天皇陛下が、地震にあった被害者をお見舞いに行って、「どうですか。大変でしたね。」と言って、膝をついて、顔と顔を合わせて、目線を低くして、「大変でしたね。」と、慰労して慰めるのを見ると、「あぁ、天皇陛下は本当に優しい方だ。天皇陛下はご謙遜な方だ。」と思いますが、天主様が、永遠無限の全能の天主が、天使たちもその言葉一つによって全地を駆け巡る天主が、この全宇宙でさえもそれを抱えきる事ができないほどの天主様が、何万光年、何光年、光の速さで行っても行っても行っても、何万年行っても、その端が見えないほどの、それをその宇宙を大宇宙を創った天主が、小さな子供となって、赤ちゃんとなって、私たちの為に生まれた、というのみで、私たちはどれほど、その御謙遜と優しさに感謝しなければならないでしょうか。

 聖パウロは今日の書簡で、「天主の、私たちの主、天主の御恵みが、私たちに現われた。」と言います。天主様の目に見えない愛が、目に見える形となって現れました。この聖なる夜は、天主様が私たちに示す愛の夜でもあります。

 天主様は一体、誰の為に人となったのでしょうか。それは、私たち人類の、私たちの為、皆さんと私の為でした。私たちは、ちょうど天主様の大きな大海の海の中に泳ぐ小さな魚のような、本当にもう僅かな、ゴミだか塵だか分からないようなものですが、その私たちの為に、私たちの救いの為に、私たちが天主の命を得る事ができるように、私たちが天主と共に、永遠の喜びに入る事ができるように、永遠の命に入る事ができるように、死ぬべき命をとって生まれて来ました。

 私たちが、か弱い私たちが天主様の力を得る事ができるように、救いの力を得る事ができるように、か弱い姿をとられ、今日お生まれになりました。私たちが天に昇る事ができるように、地上に降りて来られました。

 つい最近、私の記憶が正しければ、金星の惑星に、衛星が軌道にのるかのらないか、失敗するか、失敗しないか、それが成功した、「金星の惑星についた」と、「その軌道にのった」というような記事を読んだのですけれども、しかし天主様は、天からこの地上に降りて、人間として、私たちの救いの為に降りて来られました。私たちの為に。

 何故、ではこのような幼子の姿をとられたのでしょうか?何故かというと、私たちがこの天主に近寄る事ができるように、天主が私たちをどれほど愛しているか、という事を私たちが見る事ができるように、私たちの愛を引き寄せる事ができるように、わざと、大人ではなく、王様の帝王の姿ではなく、か弱い、私たちの一番弱い、何もすることのできない、一番弱い状態の姿でお生まれになりました。この姿を見せる事によって、私たちもイエズス様を愛する事ができるように。

 私の知っているお友達は、とても動物が好きで、猫が好きで、猫を側にいつも居て、「あぁ、この猫は死んでしまうんではないか。猫を看取りたい。猫から離れると、猫からちょっと悪く思われるんじゃないか。」と思って、猫を大切にしているお友達がいます、とても心の優しいお友達です。私たちは、小さなか弱い動物や、か弱い赤ちゃんや、小さなものを見ると、「あぁ、可愛いなぁ。」と思って、それを「大切にしたい。」と思います。それが人情ではないでしょうか。イエズス様も、私たちからの愛を受けようと、私たちへの愛を見せると同時に、私たちからの愛を受けようと、このような姿をとりました。

 では、この世の人たちは、どのような態度を取ったでしょうか。確かに羊飼いのように、その光を見て、「あぁ、さぁじゃあ私たちも行こう!」と「その救い主を見に、礼拝しに行こう!」と、言う人々もいました。東の博士のように、はるばる遠くから旅行をして、イエズス様のこの御降誕に合わせて、この星に導かれて来られた方もいました。しかし、人類の大部分は、ほとんどの人々は、イエズス様を認めませんでした。イエズス様を受け入れませんでした。イエズス様を受け入れる場所がありませんでした。イエズス様がお生まれようとしたのに、それを拒みました。イエズス様が天主であるにもかかわらず、人となって、幼くなって、か弱くなって、「さあ、私を愛して下さい。」と言って生まれて来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ」「断る」「入って来るな」「邪魔だ」と言って、イエズス様を、イエズス様に入る隙間も与えませんでした。

 考えてもみて下さい。もしも天皇陛下が、「さあ、聖ピオ十世会の皆さん、お友達になりたいと思います。さあ、お友達になって下さい。」と言ったら、「あぁ、もちろん陛下、何という名誉でしょうか。お友達になります。そのようなお言葉を聞いて本当に名誉です。」と、私たちは言うではないでしょうか。「あぁ、私は有名な作家の何とか何とかが、私は友達なんだよ。」「映画俳優の何とかは、僕の友達なんだ」と、「高校の同級生なんだ。あぁ、何とか大臣の、総理大臣は私の同級生でね、」「この政治家の市長様は私はいつも電話をしているんだ。」と、お友達がいるというのを大切に思うではないですか。動物でさえも、友達にしたいと思うではないですか。

 でも、イエズス様の場合にはそうではありませんでした。イエズス様だけは友達になりたくない、イエズス様だけは受け入れない、と、多くの人はイエズス様を認めませんでした。イエズス様を救い主として、救世主として、真の天主として、礼拝する事を拒んだのです。拒みつつあります。イエズス様がこうやって御謙遜に幼子になっているにもかかわらず、「イエズス・キリストの前に跪いてはいけない。」と、言う人さえいます。

 聖書によれば、イエズス様の前で、羊飼いも、3人の博士たちも、「礼拝した“adoraverunt”」と書かれています。つまり、この「礼拝した」というのは、天主として認めて、自分が被造物である、と言う事を認めて、最も低い態度をとった、という事です。それをさえ、「してはいけない」と、言われています。

 イエズス様は、イエズス様は2000年前、生まれる場所がありませんでしたが、イエズス様が私たちの心に入ろうとする時に、それを拒む人がいます。例えお生まれになったとしても、生まれた直後であったとしても、ヘロデのように、イエズス様を亡き者にしようと、「あぁ、そうか、博士よ、救い主は生まれたか。でも救い主に私の地位を譲る事はできない。救い主よりも私の方が大切だ。救い主の前に膝をかがめるよりも、救い主は邪魔者だ。救い主イエズス・キリストは亡き者でなければならない。私が、私の思い通りの事をする為に、キリストに道を譲る事はできない。」と。イエズス様を死に追いやろうとした王もあります。

 ヘロデは私たちの、憐れな罪人である私たちのかたどりでもあります。私たちはどれほどイエズス様を受け取りつつも、イエズス様を、罪の赦しを受けてイエズス様を私たちの心に受け取りつつも、イエズス様よりも大罪を好む事によって、「あぁ、イエズス様、やっぱりもういりません。私は自分の思い通りの事をします。イエズス・キリスト、あなたは邪魔です、邪魔者です。」と、言って、大罪を以って、私たちの中に住む天主の聖寵を殺し、イエズス様を追い出し、「イエズス様の住む、イエズス様の場所はもう無い。」と、何度言ってきた事でしょうか。そし罪を犯すたびに、このヘロデの虐殺と同じような事を私たちは繰り返してきました。ベトレヘムの住民たちが聖家族にした事と同じような事を繰り返して来ました。私はイエズス様をどれほど心から、霊魂から追い出してきた事でしょうか。イエズス様に冷たい態度を取った事でしょうか。イエズス様に、「あなたの場所はありません。さあ、さあ!」と、追い払った事でしょうか。

 では、私たちは今日このクリスマスに、この聖なる光に満ちた天主様からの贈り物のクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。

 愛する兄弟の皆さん、この2015年のクリスマスに、この今日この年は、私にとってとても、とても特別な聖なる年です。何故かというと初めて、司祭となって初めて、日本でクリスマスの真夜中のミサをする事ができているからです。

 今年、聖ピオ十世会は、日本で初めて主の御降誕の真夜中のミサをしています。

 もう金輪際、イエズス様を、この今年のクリスマスから、もう絶対に悲しませることのないように、もうイエズス様を泣かせる事がないように、私たちの為に生まれたイエズス様に、もう「どっかに行け。」と、言ってしまう事がないように、「イエズス様、私の心を温めて下さい。私の心をきれいにして下さい。」「私がいつもイエズス様を迎えて、イエズス様が私の心を叩く為に、どうぞイエズス様、思召しの通りになさって下さい。」「私の小さな住処にいらして下さい。どうぞイエズス様、私の全てとなって下さい。イエズス様、私の心に来て下さい。もうイエズス様を追い出してしまう事がないように。」遷善の決心を立てる事に致しましょう。「もしもイエズス様と被造物、イエズス様と私のどっちを取るか、という時には、イエズス様どうぞ、御あわれみによって、常にイエズス様の御旨とイエズス様を取る事ができるように、例えそれが私にとって犠牲を払わなければならない事であったとしても、聖家族を私の胸に迎える事ができるように助けて下さい。」と、お祈り致しましょう。

 第2には、イエズス様は、イエズス様は私たちの心に入りたい、入りたい、行きたい、私たちの心に生まれたい、と思いつつも、多くの心はイエズス様を閉ざしています。その心が開かれるように、私たちが代わりにお祈りして、犠牲を捧げて、私たちがイエズス様に代わりにその礼拝を捧げて、愛を捧げて、「どうぞそのような人々の心を開いて下さい。イエズス様、この彼らの心に生まれる事ができるように助けて下さい。」とお祈り致しましょう。

 ファチマの天使は、ポルトガルの守護の天使は、イエズス様、御聖体の前で跪いて、額ずいて礼拝して、「私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々の為に、礼拝しない人々の為に、希望しない人々の為、愛さない人々に代わって、愛し、礼拝し、希望し、信じます。」と、何度も何度も繰り返して礼拝していました。子供たちもそれを真似して礼拝していました。私たちもそれを真似する事ができますように、このクリスマスから真似する事ができますように。

 この、今日、イエズス様がお生まれになった、私たちの為に、救い主がお生まれになった、という事を聞いて、天使の喜びの声を聞いて、光に満ちた、その天軍の声を聞いて、私たちもイエズス様の元に駆け走る、参ずる事に致しましょう。イエズス様の元に近付いて、「イエズス様、私はこうやってイエズス様の前に近付き、馳せ参じ、跪いて、額を地に付けて、御身を礼拝致します。御身を愛し奉ります。御身を信じ、御身に希望します。」と、礼拝を捧げる事にしましょう。

 最後に、羊飼いたちは、マリア様を見て、マリア様と共に居るイエズス様を見ました。ですから私たちも、イエズス様が与えられますように、私たちの心にイエズス様が生まれますように、いつも、この生まれたイエズス様を離す事が無いように、マリア様に御取り次ぎを乞い求めましょう。マリア様は汚れの無い御方で、無原罪の御宿りで、汚れ無い御心で、決して天主を悲しませたり、イエズス様を追いやったり、聖霊を追い払ったりする事はありませんでした。マリア様の御取り次ぎによって、私たちが相応しく主を礼拝して、讃美して、感謝して、愛して、良き御降誕節とする事ができますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

なぜ、イエズス様は幼子の姿をとってお生まれになったのか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月25日、主の御降誕の大祝日に大阪で行った聖伝のミサ(日中のミサ)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月25日 主の御降誕【日中のミサ】
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日の、クリスマスの、主の御降誕のお祝いを申し上げます。このミサの直後に、感謝のミサの後の祈りをした後に、ローマの習慣に従って、イエズス様の御足に接吻をする儀式を行いたいと思います。どうぞ皆さん、1日何度も接吻をなさって下さい。イエズス様に、愛と感謝で迎え入れるようになさって下さい。それから、今日はクリスマスの大祝日ですので、公教要理はお休みで、簡単なスナックなどが用意されております。また明日、10時30分から土曜日のミサがあります。大晦日の12月31日には、夕方18時30分から。お正月、新年1月1日には、新年のミサが10時30分から、朝の10時30分から。土曜日には、2日の土曜日には10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 今日、入祭誦では、“Puer natus est”“filius datus est nobis”と、歌いました。幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられた。では、今日御ミサでは、一体何の為に、幼子が私たちの為に生まれ、御子が私たちに与えられたのか、その何故かを黙想し、第2に、この幼子、御子をお喜ばせする為にはどうしたら良いのかを黙想し、最後に遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 一体、幼子は何故、私たちの為に生まれたのでしょうか。それは、私たちを愛して、私たちに永遠の命を与える為でした。私たちに真の平和を与える為でした。私たちを天主の子とする為でした。私たちを、私たちの罪を赦す為でした。私たちにはどうしても償いを果たす事の出来ない、その罪を全て償って、全く赦し、私たちを御父の元に連れて行く為でした。幼子は私たちを、ただ単に赦す為に、お生まれになったのでした。

 私たちは天主に対して、一体どんな良い事をしたのでしょうか?何か良い功徳を積んだのでしょうか?何かその赦しを得るに相応しい何かがあったのでしょうか?

 いえ、全くありませんでした。しかし、天主の御あわれみと、その良さによって、ただ単に天主が良い御方であるので、私たちを赦そう、私たちをひたすらに赦そうと思って、御子を与えて下さいました。私たちに命を、永遠の命を与える為に、赦す為に、人となり給うたのでした。幼子となったのでした。

 考えてもみて下さい。私たちがもう不治の病で、もう命が無い、どうしても、どうしても助からない。ただし、唯一、助かる方法がある。それは、誰かが、健康な、病気を一つもした事がないようなとても健康な人が、その臓器を、体の一部を、それを取って私に与えて、その血液もほとんど皆私にくださったら、輸血をしたら、私の命は助かるかもしれない、助かる。でもそれは非常に危険な手術で、その臓器を提供したり、献血をする人は、とても痛い思いをしなければならないし、苦しい思いをしなければならないし、命は、死ぬ事はないけれども、しかし一生、不便な思いをして生きて行かなければならない、という人がいたら、でも、でも私の所にやって来て、「あぁ、あなたの事を愛しています。どうぞ私の体の一部を使って下さい。私の血をあげます。」という人がいたら、本当に私は感謝して、どうやってお礼を言ったら良いでしょうか。本当にもうこの人の為に、一生お礼を言って、何をどうやって恩返しをしたら良いか分からないほどです。

 イエズス・キリストは、真の天主の御子は、単なる人間であったとしても、それほどの感謝をするべきなのに、真の天主の御一人子は、私たちに永遠の命を与える為に、私たちを生かす為に、御自分を、御自分の御血を全く流して、私たちを御自分の御体で養う為に、子供となって、幼子となって、今日、お生まれになりました。

 何という私たちにとって、愛と喜びと平和の日であるでしょうか。私たちはこのイエズス様に、何と感謝と愛を捧げなければならないでしょうか。しかし、そのような事実を知りながら、天主御子イエズス・キリストが、私たちの為に人となって、「我らの救いの為に人となり、」と、例えば使徒信経で言ったとしても、一体私はその意味をどれほど深く考えたでしょうか。イエズス様から与えられたその永遠の命を、どれほど粗末に扱った事でしょうか。永遠の命と引き換えに、天主の御聖寵と引き換えに、つまらない地上での楽しみや、ほんの瞬間の罪、或いは嘘、或いはほんのちょっとした利益の為に、それを取り換えてしまった事が、どれほど多かった事でしょうか。

 考えてもみて下さい。その私に輸血をして、臓器を与えて、「さぁ、健康になって下さい。」と言った人に対して、私が、「あぁ、もうあなたなんかいりません。邪魔です。」と言ったとしたら、その人はどれほど傷付く事でしょうか。或いはせっかく頂いた臓器も、乱暴に、また健康を壊すような事をして粗末にしたら、一体誰がもう1回、そのような大切な臓器を私たちに下さる方がいるでしょうか。誰が一体献血して、「さあ、もう1回血を受けて下さい。さあ、もう1回手術をして下さい。」と言う方がいるでしょうか。

 イエズス様は、何度も何度も、私から冷たい思いをされながらも、その度に、私たちにあわれみと、赦しと、慈悲を、何度も何度も下さり続けました。御血を、御血によって私の罪を赦し、また赦し、また赦し、それを何度も何度もして下さいました。その為に、イエズス様は幼子となられました。

 一体、このイエズス様にどうやって、どうやって感謝したら良いでしょうか?どうやってお喜ばせしたら良いでしょうか?

 第2のポイントです。この幼子イエズス様を、私たちはもはや悲しませたくない、お喜ばせしたい、と思います。ではどうしたら良いでしょうか?「幼子は、幼子のやり方がある。」と聖人たちは言います。イエズス様は大人となって、この権威ある王として、私たちを処罰する、裁く、或いは、「こうだ、こうだ」と言う者として、お生まれになったのではなく、何もする事のできない、小さな、か弱い赤子となって生まれて下さいました。この赤子は怒る事を知りません。知っているのは、泣く事と、笑う事です。赤ちゃんに、こうちょっとだけこう笑顔を見せると、「いない、いない、ばあ」を見せると、赤ちゃんはニコニコとして、けらけらと笑います。イエズス様をどうしてお喜ばせしたら良いでしょうか?

 イエズス様をお喜ばせするのはいとも簡単です。それは、私たちが過去の罪を悔い憎んで、悔い改めて、イエズス様に、痛悔の涙と痛悔の念を捧げる事で、イエズス様はニコリと満足致します。

 昔、中国でのことです。周の王であった幽王という王様の所で、非常に美しい褒姒(ほうじ)というお姫様がいたそうです。そのお姫様は、とても絶世の美女で、とても美しかったのですけれども、ニコリともしなかったそうです。王様が何を、色々な事をして笑わせよう、喜ばせようとするのですけれども、ぶすっとしていて、何も笑おうとしない。するとある時に、何かの間違いで、敵が来たという事で警報を鳴らして、王様の軍隊が大勢集まって来て、「さあ、敵が来た!」という事で、整列を揃えて、戦いに備えているのですけれども、実はそれが間違いで、誤報だった、という事が分かると、皆が兵隊たちが、「あぁ、何だ。」と言って、引き返して行きます。

 それを見て、その王様のお姫様は何か笑ったそうです。王様はその笑ったのを見て、「あぁ、これだ。」と言って、何度も何度もそのような誤報を出して、兵隊を集めて、お姫様を笑わせようとしたそうです。しかし、あまりやってるうちに、兵隊も、「何だ、また。あぁ、嘘だよ、また。練習だよ、また。これ、何でもないよ。」と言って、本物の敵が来た時に、準備ができなくて、この国は滅びてしまったそうです。

 イエズス様をニコリと笑わせるには、このように大変ではありません。イエズス様をニコリと笑わせるには、私たちは愛の言葉を、愛の礼拝を、愛の感謝を申し上げれば、それでイエズス様はとても満足です。イエズス様は過去の事などすっかりコロリと忘れて、非常に満足されます。何故ならばイエズス様は、私たちを赦す為に来られたからです。

 では、私たちは今日、このクリスマスに、一体どのような決心をしなければならないでしょうか。

 ひたすらに、イエズス様をお喜ばせする為に、決してもう今後イエズス様を悲しませることのないように、私たちの大恩人であるイエズス様の心を傷付ける事がないように、私たちは、遷善の決心を立てる事に致しましょう。罪の機会と罪から遠ざかり、イエズス様を、イエズス様をお喜ばせする事をのみする事ができるように、イエズス様に御助けを乞い求めましょう。

 第2に、イエズス様は私たちを赦す為に、このすすんで、自らすすんで人となりました。ですから、私たちもイエズス様に倣って、幼子のようになり、私たちの受ける侮辱や屈辱、或いは嫌がらせなどを、心から赦す御恵みを乞い求めましょう。もしかしたら皆さんは、「あぁ、何故、」ちょうど3人の博士たちが言われたように、「何故、そんな遠い所まで、聖伝のミサを与りに行くのか。」「あぁ、そんな救い主は、綺麗な立派な王宮で生まれるのではないか。何故そんな貧しい、みそぼらしい馬小屋なんかで生まれるはずがない。」「ミサはきれいな教会で立てられなければならない。」或いは、色々な悪口や誤解や、悪口を言われるかもしれません。どうぞそのような方々の為にお祈りをなさって、私たちは、罪を、そのような方々の事を、心から寛大に対応するように致しましょう。

 或いは、もしかしたら私たちは、本当はこれほど良い事をしたのに、これほど親切をしたのに、これほど相手の為にしたのに、それに対して却ってけなされたり、悪い評価を受けたり、或いは嫌がらせをされたりするかもしれません。それも、イエズス様が受けたその辛い悲しみを思って、お捧げする事に致しましょう。

 もしかしたら私たちは、天主様の御摂理によって、本当なら受けて当然の様な事を受けなかったり、或いは辛い境遇にあったり、或いは病気になったり、或いは事故に遭ったり、痛い思いをしたり、損をしたりするかもしれません。それもしかも悪意をもってされるかもしれません。それもイエズス様に、イエズス様の為に赦す御恵みを乞い求めましょう。

 第3には、イエズス様はいつもマリア様の元に来られようとしました。マリア様の、マリア様を通してお生まれになり、マリア様の元に30年間従順でいる事によって、最大の栄光を、天主に栄光を帰す事を知っていました。ですから私たちも、イエズス様に倣って、イエズス様のように幼くなり、小さくなり、マリア様の良き子供として生きる事ができるように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちにとって本当の自由とは何かー御降誕の神秘

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月26日、最初の殉教者聖ステファノの祝日に大阪で行った聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月26日 最初の殉教者聖ステファノの祝日のミサ
小野田神父 説教



 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月26日の聖ステファノ、最初の殉教者のミサをしています。今日のこのミサの後、聖体拝領の後の祈りの後に、イエズス様の、幼きイエズス様の礼拝を、ローマの習慣に従って致しましょう。
それから、いつものように、土曜日の公教要理があります。今日は、イエズス・キリストについて、その続きを致しましょう。
12月31日にも御ミサがあります。午後の6時30分からです。

 
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、クリスマスの翌日ですから、私たちはイエズス様の御降誕の神秘を続けて黙想する事に致しましょう。

 昨日は、一体何故、イエズス様が幼子の姿をとってお生まれになったのか、それは私たちからの愛を求める為だった。そして私たちを赦す為に、赦そうとするが為に、この世にやって来た、という事を黙想しました。

 この私たちを赦そうとする為にやって来た天主は、幼子の姿をとったばかりではありませんでした。奴隷の姿をも私たちに見せて、あたかもしもべであるかのように、あたかも奴隷であるかのように、従う者であるかのように、幼子になられました。そしてその事を黙想して、今日は聖ステファノと、そしてマリア様の土曜日ですから、2つの遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 昨日、クリスマスの終わってから、病気の人の方のお見舞いに行きました。そのお見舞いの帰りに、中国の漢字の話が出て、そして占いを古代中国の人が、占いをする為に多くの人が、占いをする度に生贄となって捧げられた、という話を聞きました。確かに思ってみると、世界各地で悪魔は、大体恐ろしい形相をした像を作らせて、或いは火の燃えている赤い顔、全身が赤い、怒ったような物凄い形相の恐ろしい姿の神々の姿をとって、或いは恐ろしい獣であるかのような、ライオンと虎と豹とものすごい形相の怒った顔。或いは象の様な、或いは猿の様なおかしい恰好をした、或いは恐ろしい、或いはおどろおどろしい姿をして、人々に自分の命令に従うようにと、或いは自分に犠牲を捧げるように、人身御供を捧げるように、さもなければ恐ろしい呪いがかかるぞ、と言って脅したり、或いはメキシコのアステカのように、人の心臓を捧げなければ太陽が止まってしまうぞ、と脅したり、多くの人々の命と、生きている人々の血をすすって、そして人々は恐怖と恐ろしさのあまりに生きていました。

 でも真の天主様はそうではありませんでした。私たちに、私たちから恐れを、恐怖を、のではなく、呼び起こすのではなく、「むしろ私は、仕えられる為ではなく、仕える為にやって来た。」

 お生まれになったその当時、その時、イエズス様は真の天主様は、くるまれて、布に包まれて、手足を動かせる事もできずに、「それがしるしである。」と、天使から言われた通り、くるまって布に包まれて、身動きもできない形でお生まれになりました。

 イエズス様は、被造物であるマリア様とヨゼフ様の元に、30年間従順に過ごしました。

 この全地宇宙を創った天主。天使たちが従順に従うこの天主様。王の王である天主。何もすることのない、何も幸せに欠ける所が無い、無限に幸福である天主。もうその喜びにこれ以上の喜びはない、という、そして全てのものはその元に従っているという天主。

 この全知全能の永遠の無限の至福の天主が、ヨゼフ様の元に、お掃除をしたり、水を汲んだり、働いたり、額に汗を流して重い物を持ったり、労働をして、そして貧しい賃金でようやく口に糊して、そしてお腹を空かせて、寒い冬、暑い夏、そして人からは、「貧乏人だ」或いは、「薄汚い」などと言われながら生活した天主。

 最後には、しもべの最も極悪人なしもべとして、十字架に付けられて、私たちの為に、自分の御血を流されて、そして私たちに全てを与え尽くした、しもべとして、天主でありながら奴隷の姿を、天主であるという事を固守せず、奴隷の姿をとって、十字架に至るまで、十字架の死に至るまで従順でおられた、従う者でおられたイエズス様。そういう形で、そういう奴隷として、従う者としてお生まれになりました。

 これを見ると、「私たちにとって本当の自由とは何か」とよく理解させてくれます。本当の自由というのは、「天主を愛する自由」であって、「真理を信じる自由で」あって、「善を選ぶ自由」であって、何でも悪でも、悪い事でも好き勝手するのが自由ではありません。本当の自由というのは、「この世からの、被造物への愛着からの自由で」あって、「天主に対して従順である自由」である。天主以外のものに愛着を持つ者は、本当の自由ではなくて、これは隷属状態への始めだ。悪魔と自分に対する隷属の始まりだ、という事を教えてくれます。

 このイエズス様は私たちに、そこまで王の王であるにもかかわらず、このようなしもべの状態で、私たちにお生まれになった。一体私たちが、私たちの一体どこを、そんなに大切に思って下さったのでしょうか?私たちにとって、何か主のお目に適う良い事があったのでしょうか?どうして、主はそこまでも私たちの為にやって下さるのでしょうか?

 主は、天主は、私たちをただ無償に愛するが為に、全てをなげうって、私たちの愛を勝ち取ろう、としもべの姿さえもとられるのでした。それにもかかわらず私たちは、天主のしもべとなろうとせずに、悪魔からの要求には、「はい。はい。」とよく従い、そして天主からの命令にはどれほど多く、「嫌だ。嫌いだ。」と言ってきた事でしょうか。イエズス様は、私を愛するが為に、このようにしもべになって下さったのに、私たちはイエズス様のしもべになる事を、何度嫌がった事でしょうか。

 では、今日どのような決心を取ったら良いでしょうか。

 まず、マリア様は、私たちに良い模範を見せて下さっています。天使がやって来て、「あなたは苦しみますよ、あなたは選ばれました。世の救いに協力して下さい、天主の御母となって下さい。」と言われた時に、「我は主のしもべなり。仰せの如く我になれかし。」「私は天主様の奴隷、婢女であります。どうぞ私を自由に使って下さい。私を道具として使って下さい。」と、答えられました。

 私たちもマリア様の御取次ぎによって、今後は、今からマリア様のように、マリア様の御取次ぎによって、天主様のしもべとして、良き道具となりますように、天主の御旨をいつも果たす事ができますように、天主の、イエズス様の真似をする事ができますように、イエズス様にますます似通った者となる事ができますように。イエズス様は、十字架の死に至るまで従順であられました。ですから私たちも十字架を、私たちの日々に与えられる十字架を、よく担う事ができますようにお祈り致しましょう。


 第二に、聖ステファノはこの神秘をよく理解していました。イエズス様の御降誕の後に、すぐその直後に、天国に生まれた聖ステファノは、その死の直前、聖書によれば、「聖霊に満ちていた」と書かれています。そして死の直後には、イエズス様が聖父の御右に立っておられるのを、天が開けて見ています。そこで、「イエズス様が真の救い主である」という事を述べて、誰もそのステファノに反論する事ができる者はいませんでした。そして遂に、「イエズス様が真の天主だ。天主の右に立っておられる、というのは、本当の天主だ。」という事を言ったので、「このようなステファノは生かしておく事はできない。」石殺しにしようとしました。そして人々は自分の服を、邪魔になるので、サウロの、将来回心するパウロの足下に置いて、ステファノに石を投げます。石を打たれながら、「彼らに罪を負わせないで下さい。」イエズス様と全く同じ許しの言葉を述べて、そして彼らの罪の為に、イエズス様のしもべとして殉教していきました。

 願わくは、私たちも聖ステファノのように、私たちに悪をするような人、或いは悪口を言うような人々の為にお祈り致しましょう。そしてその方々の回心の為にお祈りしましょう、「天主よ、彼らに罪を負わせないで下さい。どうぞ、彼らをお赦し下さい。」ひたすらに、イエズス様に倣うしもべとなる事ができますように。聖ステファノの祈りによって、この祈りによって、パウロは、サウロは回心する恵みを受けた、と言われています。

 願わくは、私たちの祈りによって、或いは許しによって、或いは私たちの拙い犠牲が嘉せられて、マリア様の御取次ぎによって嘉せられて、願わくは、多くの方々が、イエズス・キリスト様を信じる御恵みが与えられますように、回心の御恵みが与えられますように。そして、イエズス様をますます多くの人々が愛して、そしてイエズス様のようになりますように。そして天国に、イエズス様の御恵みによって、天主の子となり、天国の永遠の福楽を得る事ができますように。

 マリア様と、聖ステファノの御取次ぎを以ってお祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年1月10日 聖ピオ十世会レネー神父様による聖伝ミサ(大阪): 私達の究極の幸せとは何であるか

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは!

 聖ピオ十世会のレネー神父様が、一昨日の主日と昨日の月曜日に大阪で聖伝のミサを捧げてくださいました。次のようなご報告をいただきましたので愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
1月の大阪での主日の御ミサの報告をお送りいたします。
1月10日 聖家族の祝日(御公現後第一主日)のミサには19名が、
1月11日 御公現の随意ミサには15名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。
 デオ・グラチアス!

今年はレネー神父は、「十戒」についてシリーズでお説教をしてくださるそうで、10日はまず「十戒」について、11日には「第一戒」(第一部)をお聞きしました。

10日のお説教では、私達の究極の幸せとは何であるかをよく考察した後、それは「無限の善」を所有する事、つまり唯一の無限の善であられる天主を所有する事であると理解いたしました。

そして、天主を所有するために見いだし、永遠の生命に至る唯一の道こそがイエズス・キリストであり、その愛の掟を守るためには祈りと秘跡によってイエズス様からの恩寵をうける必要がある。決して自分の力では出来ない事を忘れないよう、年頭にあたり、マリア様の模範によって天主様をお喜ばせする決心をたてました。

11日のお説教では、まず天主がどのような方であられるかを美しく述べられ、私達が「天主を何にもまして一番にする」という必要性を説明して頂きました。また、「第一戒」にはどんな罪があるのか、信仰、希望、愛徳に反する罪とは何かを例をあげてわかりやすく教えてくだいました。私達の霊魂を養うためご自身を私達にお与えになる天主に感謝しきれない思いで胸がいっぱいになりました。御聖体、イエズス様こそが私達の命の掟そのものなのですから、御聖体にましますイエズス様に恩寵を願い、ますますイエズス様と一致し、イエズス様を御愛しできるよう最も忠実に天主の掟を守られたマリア様にお取次ぎを願います。

お説教の途中でちいさなハプニングがありました。
レネー神父様のお説教の日本語訳を読んでくださっていた兄弟姉妹の方が、『イエズス様が御聖体としてご自分をお与えになる』というところで感極まって声が出なくなってしまいました。涙ながらにひと言、ひと言、続けて読まれるのを聞いて私達も感動せずにいられませんでした。

時が満ちて、天主は聖父は、御子を私たちに送られた。それは、私たちが養子となる事ができる為である。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年12月27日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2015年12月27日 御降誕の大祝日の八日間中の主日
小野田神父 説教

 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2015年12月27日、主の御降誕の八日間の間の主日のミサをしております。

 このミサの前のお知らせの前に、皆さんの主の御降誕のお祝いを心から申し上げます。今年2015年の間、会長を始め、聖歌隊の方々や侍者の方々、またこの聖ピオ十世会の教会のミサの運営を助けて下さった全ての皆さんに心から感謝します。この皆さんのお祈りと、ご支援と、全てのご協力に、百倍の、千倍のお恵みで、イエズス様が報いて下さいますように、心からお祈り申し上げます。

 今日のこの御ミサの後に、ミサの後の祈りと御聖体拝領後の祈り、またお告げの祈り、いつもの祈りのようにやった後に、恒例のイエズス様の御足の接吻を、ローマの習慣に従って、私たちもする事に致しましょう。14時30分から、公教要理があります。前回は、「公教会の掟」をみましたから、次は「徳」について。16時からは第2晩課、主日の第2晩課があります。

 来年は、1月3日と1月10日に、ここで主日のミサがあります。1月3日、第1主日と、10日、第3主日です。

 
“Venit plenitudo temporis Deus Filium suum misit ut adoptionem filiorum reciperemus.”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日私たちは、クリスマスの八日の、八日間の間の主日で、私たちの主の御降誕を祝ったばかりですから、私たちの主が、一体どなたであって、私たちの為に生まれて下さった幼子イエズス様が、一体どなたであって、一体何の為に、どのような形でお生まれになったか、という事を黙想して、それから、私たちはこのクリスマスに、イエズス様から受けたお恵みを感謝する為に、どんな事をしなければならないか、その遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 今日、聖パウロの書簡では、聖パウロははっきりと言います、「約束の、予言の時が満ちて、この世の最初、アダムとエヴァの時から、救い主が送られるという約束があって、その内に多くの預言者を通して、色々な時に色々な場所を通して、色々な形で予言された救い主が、その来るその時が満ちて、天主聖父は、その御一人子を、真の天主の御一人子をこの世に遣わされた。この世に送った。天主御子は人となってお生まれになった。それは、私たちが天主の子として養子となる為である。」と。

 ですから、このパウロの言葉を見ると、私たちの為にお生まれになった、この幼きイエズス・キリストは、過去の全ての予言を全て成就してお生まれになった、御生涯の後にも、お生まれになった後にも、2000年後の後にも、全て予言を成就しておられる真の救い主、人となった真の天主、この世の創造主がお生まれになった、という事が分かります。

 では、「天主」というのは、どういう方なのでしょうか?私たちは、「天主が人となった」という事のあまりにも素晴らしい事に、その事をよく理解する為に、その偉大さを理解する為に、「天主が一体どのような方であるか」という事を、もう一度みる必要があります。

 天主というのは、この全ての宇宙を創った方です。何万年、何十万光年の距離のある巨大なはかり知れない大宇宙を、御自分の望みのままに御創りになった。無限の可能性のある中から、この私たちの今生きている世界を自由に御創りになって、私たちを在らしめている、その天主です。

 新聞によりますと、日本はものすごい事を達成した。元素の113番を遂に作って、もう自然には存在しないのだけれども、もう、きっとこの元素には、「ジャポニウム」という名前が付けられるかもしれない。私たちは、高度な技術と科学を使って、この全宇宙の神秘を解明しようとして、その一体この宇宙がどうやって作られているのか、その元となっているものは何か、その周期は何か、などと研究していますが、それら全ての法則を創り、宇宙を創り、元素を創り、今在らしめて維持している、それが天主様です。

 この目に見える自然界を創っただけではありません。私たちの見る、また生きている動植物に命を与えるだけではありません。万軍の天使たち、大天使ケルビム、セラフィム、織天使、智天使、座天使、9つの階級の天使の全てを創り、号令を与え、その天使たちは、何億何兆という大群が、その天主様の御旨のままに動いておられる。

 この全宇宙を支配しておられる天主が、この大宇宙でさえも、抱え包み込む事ができない、無限の天主が、無限に幸せで、無限に完成されていて、無限の永遠の、私たちの知性でははかり知ることのできない、全知全能のこの天主様が、2015年前のクリスマスに、私たちの間に、子供として、赤ちゃんとして、お生まれになりました。一体何の為に?

 聖パウロは言います、「これは、私たちが天主の子供となる為だ。」

 考えてもみて下さい。私たちが一体天主様の目から見ると、一体何なのでしょうか?一体どんな良い事があったのでしょうか?どんな、何かそれほどのものがあったのでしょうか?

 天主様は、ただひたすらに私たちをあわれんで、その良さの為に、私たちを子供として、養子としてなさろうと、御子を送られたのでした。

 そればかりではありません。私たちは実は、天主に対して罪を犯した放蕩息子でした。天主の命令に逆らって、逆らい続けて、それにもかかわらず、主は私たちの為に御子を送ってくださいました。

 聖パウロは、「罪が、悪が溢れる所には、お恵みが、聖寵は更にもっと溢れる。」と、言いますが、まさに、イエズス様が私たちの為になさろうとした事は、天地を創造するよりも、更にものすごい事でした。私たちが罪によって失ったものものよりも、更にもっともっと大きなものが私たちに与えられました。復活の徹夜祭に、聖土曜日に、カトリック教会はこう歌います、「O felix culpa“このかくも偉大な贖い主を、私たちが受ける事になった原罪は、何という幸せな罪であったか”」と。私たちには、本当はそのように救い主を受けるにふさわしくなかったにもかかわらず、私たちをあわれんだが為に、救い主を送って下さった天主。私たちを養子にしようとして贖った天主。

 考えてみてください。もしも私たちが不治の病で、「もうこのまま、あと数ヶ月の命だ。」と、お医者さんに宣告されたとします。それも世界で最高のお医者さんで、もう助からない、どんな事をやっても助からない、ただ助かる道は一つある。誰かが、あなたの為に貴重な臓器を提供して、それを受けて、血液を全部入れ替えて、もしかしたらその人は、それを提供したが為に、一生不自由な目を、思いをするかもしれない、危険な手術を冒さなければならないかもしれない、そうしたら、でもそうしたらあなたの命は助かる。

 もしもどなたかが、それが例え、私たちがもしかしたら、「何だこのような人、」というような、軽蔑するような人かもしれませんが、誰かがやって来て、「私はあなたの事が好きです。だから私の内臓を、私の体の一部を使って下さい。」「お医者さんによれば、私の体は合うそうです。私の血も使って下さい。私はその為に手術を受けます、この生涯どんな痛い思いをしても。どうぞ、長く生きて下さい。」という人がやって来たら、もしかしたらその人が、私たちの学校の友達であったり、或いは会社の同僚で、部下だったりするかもしれません。

 すると、「でも、もしもそうしたら君、一生困るよ?一生痛い思いをしなければならないよ?もしかしたら、走る事もできなくなっちゃうかもしれないよ?大丈夫ですか?」「あとちょっと、『もしもこうすれば、あと20年、30年生きる、命が延びる。』と先生が言っていますから、どうぞ使って下さい。」と、もしもこの方が私にそうやって提供して下さったら、私は何と感謝して、一生その人が生きている間、本当にもう頭が上がらないで何とお礼をして良いか分からないほどです。

 私たちの主イエズス様は、天主であるにもかかわらず、この全能の、この世界の創造主であるにもかかわらず、私たちを生きさせる為に、永遠の命を与える為に、御自分の養子として迎える為に、自分の命を私たちに与える為に、十字架に釘付けにされて、生贄となって屠られる為に、血潮を全て流して、私たちの罪を洗う為に、こうお生まれになって下さいました。

 そればかりではありません。私たちに秘跡や、御聖体やミサやお祈り等によって更に、力を強め、光を与え、その御教えを以って、私たちを助けてくれます。

 今日、聖福音の中で、二人の義人の話をみました。一人はシメオンで、「主のキリストを見るまで、絶対に死なない。」と、聖霊から言われて、「あぁ、キリストは早く来たか。」或いは、「来ないか。」と言って、神殿で祈り、祈り、祈り、待ちに待ち続けていた老人がいました。或いは、アンナという老人は84歳まで、いつも断食と祈りを以って、神殿で日中メシアを待っていました。アブラハム、太祖、預言者、多くの義人が4000年の間、救世主が来るのを待ちに待ち焦がれて、祈りを捧げ、犠牲を捧げて、「さあ、早く主よ、天から露を降ろして下さい。早く義人を送って下さい。さあ、早く、私たちを救ってください。私たちは救い主がなければ、もうどうすることもできません。天の国を開いて下さい、私たちはこのままではもうだめです。」と、熱烈な祈りと、溜息と、願望を、天にガンガンと上げていました。でも、そうしているにもかかわらず、旧約の義人たちは、私たちの主を見る事も、触る事も、その教えを聞く事もできませんでした。

 でも私たちは、2015年12月27日に生まれている私たちは、何と幸せな事でしょうか。イエズス様がどうやってお生まれになったのか、どうやってどのような御生涯だったのか、私たちの為に、どのように苦しい状態でお生まれになったのか。マリア様の元で、ヨゼフ様の元で、ナザレトで30年間従順に、御謙遜に、隠れてお過しになったのか、或いは、どのように労働に、額に汗して、貧しい口に糊をしたのか、と知る事ができます。

 また、私たちを愛するがあまり、御自身の御血を全て流した事、7つ秘跡、最後の晩餐によって制定されたミサ聖祭と、新約の司祭職、聖霊の賜物、そのイエズス様の立てた教会、カトリック教会を知り、その御教えを知る事ができて、どれほど私たちは幸福でしょうか。

 イエズス様が、このように小さくなって、もう福音によると、「布によって包まれて」もう身動きもできないほど包まれていたのは、私たちを自由にする為でした、罪から解放する為でした、悪魔の奴隷から解放する為でした。私たちの為にこんなに貧しくなったのは、私たちを天に於いて豊かにする為でした、天の遺産を私たちに与える為でした。こんなに弱くなったのも、私たちが悪魔の誘惑や、罪の誘惑から強く抵抗する事ができる為でした。涙を流しているのも、その涙によって私たちの罪をきれいに洗い浄めるためでした。

 このようなイエズス様を見て、私たちは最後にどのような遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

 私たちは、イエズス様に対して、感謝と賛美と礼拝とを尽くさなければなりません。

 何か昨日、インターネットのニュースによると、残念な事ですけれども、「アメリカのオクラホマ州では、クリスマスのイブに、州の知事の、州知事の許可を以って、マリア様の像が冒涜された。」という話を、ニュースを見ました。日本では、アンネ・フランクの本を、ちょっと破っただけで、ものすごいニュースになりました。もしもコーランに火を点けた等となれば、もうその人は、このまま生きて一生どうなっているか分かりません。ところが、マリア様やイエズス様に対しては、州知事が、「あぁ、いいよ。」と言ったそうです。

 人類の大部分は、イエズス様がお生まれになった時から、「お前はいらない。」と言って、「お前の住む場所はない。さあ、さあ、」と言って、イエズス様を追いやって来ました。イエズス様は馬小屋の中で、動物の中でお生まれになりました。私たちの為に救い主がこうやって、「さあ、私の臓器を使って下さい。私の命を与えますから、さあ、永遠の命を受けて下さい。」と言っているにもかかわらず、人類は、「来るな!邪魔だ、さあ、あっちへ行け!」と言いました。

 「イエズス様が生まれた」という事を聞くとヘロデは、「あぁ、メシアが生まれるのはどこだ。」「預言によれば、それはベトレヘムです。」「殺せ。」と、言いました。

 イエズス様は、真の救い主は、生まれたその直後から、死の迫害を受けて、逃亡生活をしなければなりませんでした。エジプトまで、ヨゼフ様は、マリア様は、イエズス様を抱えて、言葉も分からなければ、場所も分からずに逃げなければなりませんでした。

 皆さん考えてみて下さい、私たちが、「さあ、今から中国に逃げろ。」と。言葉も分からなければ、知る人も知らなければ、一体どうやって。

 ところで私たちは、イエズス様はそうやって、そのように排斥されているのですから、私たちはますますイエズス様を賛美して、感謝しなければなりません。

 私たちの過去は、実はヘロデにも似た、或いはオクラホマ州知事のようだったかもしれません。何故かというと、せっかく洗礼の御恵みを受けて、御聖体を受けて、天主の子となって、養子となって、天主の血を私たちの体の中に流す身となって、永遠の命を受けた、永遠の命に生きる者となった、イエズス様の兄弟となった、聖霊の神殿となったにもかかわらず、罪を犯す事によって、イエズス様よりも被造物を、イエズス様よりも、ほんのちょっとした自分の情念の方が良い、ほんのちょっとした好奇心の方が良い、この嘘の方が良い、と、イエズス様の命と、どれほど引き換えにしてきた事でしょうか。その為に私たちは、イエズス様の御像を心の中で破壊して、イエズス様に涙を流させてきてしまったのではないでしょうか。私はイエズス様に、多くの罪によってイエズス様を、「嫌だ。イエズス様よりも、他のものが良い、自分が大切だ。」と、何度言ってきた事でしょうか。

 このイエズス様を、私たちはお喜ばせするように致しましょう。第1の決心は、この御降誕祭に於いて、イエズス様の眠っておられる秣桶(まぐさおけ)に、馬小屋に近付き、イエズス様に、痛悔と、愛と、感謝の祈りと、接吻と念を起こす事に致しましょう、「イエズス様、どうぞ金輪際、イエズス様を泣かせる事がないように、イエズス様をいつも離す事がないように、イエズス様をいつも私の心に留めておく事ができるようにして下さい。」それを、クリスマスの特別の捧げものとしてお捧げいたしましょう。

 また第2に、最後に、イエズス様は、私たちがイエズス様のようになる事を望んでおられます。イエズス様のように謙遜に、柔和に清らかになる事を望んでおられます。また、私たちがイエズス様にますます近付く事がなるように望んでおられます。だからイエズス様の真似をする事にしましょう。イエズス様の真似をする最高の方法は、それは、「マリア様を愛する事」です。イエズス様は、マリア様の傍を決して離れませんでした。死ぬまで離れませんでした。マリア様を喜ばせようとだけしていました。マリア様は、イエズス様を喜ばせる事だけをしていました。決して悲しませる事はありませんでした。マリア様に、私たちがイエズス様を良く頂く事ができるように、お祈り致しましょう。

 “時が満ちて、天主は聖父は、御子を私たちに送られた。
それは、私たちが養子となる事ができる為である。”

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

イエズス様は、悪と罪に打ち勝つ全てのものを、手段を私たちに与えて下さった。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 12月31日に大阪で行った聖伝のミサ(御降誕の大祝日の八日間中の七日目)のお説教をご紹介いたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!

2015年12月31日 御降誕の大祝日の八日間中の七日目
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2015年12月31日の大晦日の、一年の最後の御ミサを捧げています。そこで今日の御ミサは感謝の意味で、イエズス様とマリア様に、皆さんの全てのご意向の為に、このミサを捧げています。今日と、今日のミサと明日と明後日の3日間のミサは、皆さんの為にミサをお捧げいたします。どうぞ心を合わせて下さい。

 特に、この一年の終わりに、私は天主様に、イエズス様に、マリア様に、本当に感謝しています。特に今年は、初金、初土曜を、新しいコロナホテルでやるようになって、御復活祭のミサもでき、クリスマスのミサも日本で初めて、深夜のミサからずっとする事ができました。本当に御恵みで、今年は大晦日の最後のミサもする事ができます。本当に感謝します。何よりも感謝したいのは、秋田の巡礼に多くの方が参加して良い巡礼ができた事です。また、8月には聖イグナチオの霊操による黙想会ができたことです。本当に感謝します。とても良い、実りの多い一年が今、過ぎ去ろうとしています。

 この聖ピオ十世会の大阪の信徒会長にも色々お世話になりました。ありがとうございます。侍者をして下さった方々や、聖歌隊の方々にも感謝致します。この会場を準備して下さる方や、お花を準備して下さる方や、秋田の巡礼の為の準備や、黙想会の為にしおりを作ったり、予約をして下さった方々に感謝致します。どうぞ、千倍もの一万倍もの多くの御恵みがありますように。

 今日はこの御ミサの後に、カトリック教会の習慣に従って、ローマの習慣に従って、「テ・デウム」を歌いたいと思います。特に一年の終わりですから、最後の、一年最後の聖体降福式も、短いものではありますけれども、それをイエズス様の前で感謝して、感謝を込めて聖体降福式をして、イエズス様に感謝と賛美を捧げて、この一年を締めくくろうと思います。この聖体降福式の時に、ローマの伝統に従って、「テ・デウム」という感謝の歌を歌います。どうぞ、皆さんも一緒に歌って下されば嬉しく思います。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、小さなお友達、今日はこのミサにいらして下さってとても嬉しいです。イエズス様を、秣桶(まぐさおけ)にこうやって寝ておられるイエズス様を、今日は私たちは見て、イエズス様の元に近寄って、イエズス様、かわいい赤ちゃんとなって生まれて下さったイエズス様、イエズス様は、真の天主様であるのに、全能の天主様であるのに、どうしてこんなに幼い赤ちゃんになったのですか?という事を黙想しましょう。

 「イエズス様が全能の天主である」という事は、「何でもできる、力のある、この全てのものを創った御方だ」という事です。「力がある方」という事は、イエズス様は、こうも言いました、「信頼せよ、私はこの世に勝ったのだ。」と。イエズス様は御受難の時に弟子たちに向かって、「私は、この世に勝った。力ある天主だ。この世の罪も、悪も、悪魔も、全てのこの世の勢力に、私は勝った。だから心配するな、安心せよ。私は真の天主だ、全能の天主だ。」と、仰っています。

 また黙示録を見ると、聖ヨハネはこう言います、「ユダの獅子は勝った。」「ユダの獅子」というのはイエズス様の事で、「イエズス様は最高の、最後の勝利者である」という事です。

 聖パウロという使徒は、イエズス様について、「私を強めて下さる方において、私は全ての事ができる。」と、言っています。「私を強めて下さる方」というのは、もちろんイエズス・キリスト様の事です。

 イエズス様は、弟子たちにもこう言いました、「お前たちは、私がいなければ何もできない。お前たちはぶどうの枝だ。私はぶどうの木だ。お前たちは、私を離れては何もできない。何も実を結ぶ事ができない。」

 イエズス様は、力に満ちた、私たちに全ての御恵みと、全ての力を与える御方で、その力ある方が、この全てを創って、全てのものに命を与えている方が、こんなに小さく赤ちゃんになりました。一体何故なのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様は私たちに力を与える為に、こうやって弱くなりました。御自分の弱さによって、私たちが力をつくように。イエズス様は赤ちゃんになったばかりではありません。生けるパン、天から下った生けるパンであるイエズス様は、まず私たちに、命を与えるパンとなって、もう人間ではないかのように、ただのパンの欠片であるかのようにもう見えて、私たちに力を与えようとしています。

 イエズス様はこうやる事によって、私たちに特別の力、武器を与えてくれました。「秘跡」と「お祈り」による武器です。特に秘跡は、7つの秘跡の内に、御聖体の秘跡が、最も私たちにとって力を与えて下さる、私たちに、悪に対して抵抗力を下さる武器です、助けです。

 この幼きイエズス様が真の天主である、と同じように、今、御聖体に、今ミサの後に御聖体礼拝をしますが、御聖体降福式をしますが、また御ミサの時に御聖体拝領をしますけれども、このパンのように見えるこの御聖体は、もはやパンではありません。これは、真にイエズス様の御体なのです。私たちを生かして、私たちに力を与え、私たちに罪に対する抵抗力を与え、聖徳を増し、成聖の恩寵を増す、天主の御子、イエズス・キリスト様の御体です。これを与える為に、イエズス様は幼子となって、人間となって、私たちの元にやって来られました。

 このイエズス様の御聖体がますます愛されますように、ますます礼拝されますように、感謝されますように、イエズス様に、イエズス様の御聖体がますます愛を込めて拝領されますように、お祈り致しましょう。イエズス様の愛の秘跡である御聖体が、愛されますように、お祈りしましょう。

 残念ながら、この一年を振り返ると、イエズス様の御聖体を、感謝を以って礼拝したり、相応しい態度で御聖体拝領をするような方は、ますます少なくなっているようです。私たちが、どうぞこのミサの時に、また御聖体降福式で、御聖体に相応しい、感謝と賛美をお捧げ致しましょう。

 イエズス様が下さった第2の武器は、小さくなったイエズス様が下さった第2の武器は、それは「お祈り」です。イエズス様は、生まれてから8日後、『イエズス』という名前をとる事をお望みになりました。天使から言われた通り、『イエズス様』という名前をとりました。『イエズス様』というのは、私たちを救う、『天主は私たちを救う』という意味で、イエズス様は私たちにこう言いました、「私の名前によって求めよ。聖父に求めよ。そうすれば何でも与えられる。」と。「聖父はお前たちに、何でも与えるだろう。」と。

 ですから、私たちもイエズス様の聖名によってお祈り致しましょう。御聖体を礼拝致しましょう。イエズス様の御名によってお祈り致しましょう。すると、この弱いイエズス様の力が私たちにますます、弱くなったイエズス様の力が私たちに与えられます。

 聖アウグスティヌスは私たちにこう言っています、こう書いています、「イエズス様が、こんなにも私たちに、この悪に打ち勝つ力と手段と与えているのに、『秘跡』と『祈りに』よって手段を与えているのに、私たちが、『あぁ、私たちは弱いから罪を犯すのだ。』という言い訳はもうできない。」と、言っています。

 「ちょうどそれはお医者さんが、最高のお医者さんが、『じゃあ、この簡単だ、この病気は簡単だ。この病気を治すには、毎日このこれを、この私の名前で病気が治るようにお願いして下さい。』或いは、『こうして下さい。』と、薬を与えられているにもかかわらず、それを敢えてしないものである。」

 或いは、「悪魔はイエズス様によってもう鎖に付けられてしまって、捕えられている。だから悪魔は私たちに何の害もする事ができない。もしも害をするとしたら、私たちが、悪魔が害を与える事を望むしかない。例えて言えば、犬に、獰猛な犬が鎖に繋がれているんだけれども、ただワンワン吠えているだけだ。この犬は鎖に繋がれているので、絶対私たちに咬み付く事はない。もしも咬み付かれるとしたら、わざわざその悪魔に近付いて、『さあ、さあ、咬み付いて。』と、手や足を出す愚か者しかいない。」

 「イエズス様は、悪と罪に打ち勝つ全てのものを、手段を私たちに与えて下さった。その為にこんなに小さくなったのだ。その為にこれほど苦しまれたのだ。この為に十字架の苦しみを全て引き受けたのだ。こうして弱くなったのだ。」と。

 愛する兄弟の皆さん、私たちは何と愚かだったでしょうか。イエズス様の下さった手段を使わずに、悪魔に手を差し出したり、吠えている犬に近付いて何と愚かにも咬まれてしまったり、危険な所に行ってしまった事が何度あった事でしょうか。イエズス様が、この一年たくさんお恵みを下さって、更に下さって、更に下ったにもかかわらず、イエズス様が私たちに、「秘跡」と「祈り」の効果を下さったにもかかわらず、そのお恵みにうまく応える事ができませんでした。

 願わくは、マリア様の御取り次ぎによって、この幼きイエズス様の元にいつも馳せ寄り、イエズス様を礼拝し、御聖体を礼拝し、イエズス様の御名によっていつも祈り、マリア様の御取り次ぎによっていつも祈り、私たちが悪と罪に打ち勝ち、ますます聖徳の道に行けますようにお祈り致しましょう。この一年受けた全ての御恵みを感謝致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

去年受けた「枝」についてのご連絡

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

連絡が非常に遅れてしまい、行き届かなかったのですけれども、去年受けた「枝」をお持ちの方は、

大阪は今回の1月の御ミサで、東京は2月の最初の御ミサの時にどうぞ私のほうへお戻し下さい。

今回、間に合わない方は、もしよろしければ次の機会にお持ち下さい。
 
2月10日は『灰の水曜日』です。

大阪では夕方の5時半から御ミサがあります。どうぞ御ミサに預かりにいらしてください。

日本の教会の掟によれば『灰の水曜日』は21歳から59歳までの健康な成人信者は大小斎を守らなければなりません。

また、14歳以上のすべての健康な信者は小斎を守らなければなりません。この大小斎の義務もどうぞ捧げるようになさって下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

新年にあたって、イエズス・キリストの心を心とせよ。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月1日に大阪で行った聖伝のミサ(御降誕の大祝日の八日目)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月1日 御降誕の大祝日の八日目
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月1日、元旦、イエズス様の御降誕の八日目のミサをしています。今日は、日本では守るべき祝日であって、そして明日も10時30分からミサがあります。今日は、また特に初金曜日ですので、ミサの直後、聖時間をイエズス様の聖心にお捧げしたいと思います。1月は、10日・11日と御ミサがあります。また、15・16日と、金・土とミサがあります。どうぞ、皆さんのお越しをお待ちしております。
この今日は、初金で、聖時間があって、その後に、できればお正月ですので、皆さんと一緒に時を過ごしたいと思ったのですけれども、病気の方がいらっしゃって、病院に入院された方がいるのですけれども、その終油の秘跡の為に行かなければならなくて、この皆さんに失礼してしまうかもしれませんが、どうぞご了承ください。
明日はイエズス様の、幼きイエズス様に礼拝の接吻をしつつ、礼拝する儀式を一緒にする事に致しましょう。
新年は、この遂にファチマの100周年の1年前となりました。そこで特に今年は、秋田と長崎に巡礼に行こうと思っています。今年は特別に長崎も付け加えました。このような機会は、将来おそらく無いと思います。そして皆さんと一緒に長崎に行くというのは、非常に貴重な、おそらく又と無いチャンスですので、是非皆さん、是非、ファチマ100周年を準備する為にも、良く参加する事ができる、良くご計画を、いらっしゃる事を、是非是非、考えて下さる事をお願い致します。
そして8月13日からは、9ヶ月におけるノベナが始まります。今年は特に、ファチマの準備をする大切な年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。
また8月には、ここで大阪で、聖母の特別のマリア黙想会、聖母の黙想会が開かれます。8月の10日から15日まで、皆さん10日に集合で、15日まで、どうぞ皆さんこれも、非常に貴重な機会ですので、ファチマのマリア様100周年の為に、是非ご参加をご考慮くださる事を、深くお願い致します。
それから、今年は復活祭が少し早く、3月30日が復活祭で、2月10日は灰の水曜日です。灰の水曜日には、私たちはここでミサをする事を予定しています。皆さん、そこでご家庭に枝があればですね、今度私が参ります時に、枝をお持ち下されば幸いです。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日、この御降誕八日目のこのミサは、八日間の間、イエズス様の色々な神秘を黙想して、典礼によると、或いは聖務日課によると、聖務日課の色々なAntifonaや色々な言葉は、「イエズス様が真に天主であった」という事をよく黙想するように私たちに導いています。そしてこの、「イエズス様が真に天主であった」という事をもっとはっきり言う為に、公教会の典礼によると、「マリア様が童貞であり、同時に、天主の御母である」という事が非常に強調されています。「実際に、マリア様が天主の御母である」という事は、「イエズス様が天主であった」という事の、コインの表と裏であるからです。「イエズス様が天主であった」という事を否定する人は、どうしても、「マリア様が天主の御母である」という事を否定します。

そこで、「天主の御母であるマリア様」という事は、ではマリア様は、「天主を産んだ」という事は、天主を創造したのか?「天主」というものを生み出したのか?のではなくて、もちろん、これは、「マリア様がお産みになったイエズス・キリストは、真の天主であった。」という事です。これはちょうど例えて言えば、例えば、ベートーベンを産んだお母さんは、「音楽家のお母さん」だったけれども、ベートーベンのお母さんが、音楽家そのものを生んだわけではなくて、「産んだ子供が音楽家だ」という事です。

それと似た様に、マリア様からお生まれになったイエズス様が、「真の天主」であるが為に、「マリア様は、天主の御母である」という事です。

では、今日そこから、マリア様とイエズス様の関係を黙想する事を提案します。

イエズス様は、「マリア様からお生まれになる」という事を望んだ、天主は、「マリア様からお生まれになる」事を望んだ。という事は、イエズス様は、私たちにどのような事を模範で示そうとされたのか、そして、マリア様は、私たちにとってどのような御方なのか、最後に、私たちは、この新年にどうしなければならないのか、新年をかけて、どのように、どのような目標を設定しよう、するのが良いか、何を新年の希望として立てるか、という事を黙想したいと思います。

天主様が、マリア様を選んで、マリア様からお生まれになったという事は、これは天主が全く自由に、無限の可能性の中から1つを選んで、知性を以って選んで、そしてこうする事を望んだ、という事です。これは、天主が自由意志を使って、自由選択能力を使って、本能でも、運命でも、義務でも、何でもなく、無限の可能性の中から、このマリア様からお生まれになる事を望んだ、という事です。これを望まれた、という事です。そしてこれを、そうする事が、「最高の業であって、最高の事である。」と思われたからです。何故ならば、天主の御業は全て完璧であるからです。そしてイエズス様はこうする事によって、天主はこうする事によって、私たちに模範を示しました。

聖パウロは言います、「キリストの心を心とせよ。」或いは、「古いパン種を捨てて、イエズス・キリストを着よ。」或いは、「私がそうしているように、お前たちもイエズス・キリストを学べ、その真似をしろ。私がイエズス・キリストの真似をしているように、お前たちも私の真似をして、イエズス・キリストを真似よ。」と。

イエズス様も私たちに仰います、「私は、お前たちに模範を残した。」イエズス様が、私たちにマリア様を選ばれたという事は、自由意志によって選ばれた、という事は、私たちに模範を残しているという事です。もしも私たちが、聖パウロと同じように、「私にとって生きるとはキリストである。」のであれば、イエズス・キリストの模範を真似なければなりません。そしてイエズス様は、マリア様を御自分の母として選んだ、という事を、まず私達は真似なければなりません。これが、天主御父に対する、最高の愛の表明であって、そしてマリア様に対する愛の表明として、イエズス様は御母として選ばれました。

イエズス様は、30年間、マリア様の元にいつもおられました。離れずにおられました。そしてマリア様の元を離れたのはたった3年間で、その3年間に、他の人の為に尽くされました。しかし、贖いの業の為には、十字架の最後の時には、マリア様と共に時を過ごす事を、贖いの業を成し遂げる事を望まれました。

最初の奇跡も、マリア様を通して起こす事を望まれました。贖いの業も、マリア様を通して起こす事を望まれました。

そればかりではありません。イエズス・キリストは、単なる、単にこの地上に於いて生きている間、マリア様を崇敬したばかりか、天に於いても、今でもずっと、マリア様を母として尊敬し、マリア様のいつも祈りを聞き入れ、そしてマリア様をいつも喜ばせようとされておられます。

そればかりではありません。イエズス・キリスト様の神秘体のカトリック教会も、天上の凱旋の教会も、地上の教会も、心を合わせて、マリア様を賛美しています。そして苦しむ教会は、マリア様を通して、多くの恵みを受けています。全神秘体が、キリストの神秘体が、マリア様を色々な方法で、色々な祝日で、色々なマリア様の特権を賛美する事によって、天上でも地上でも賛美しています。マリア様の為に色々な修道会が作られました。マリア様の為に色々な信心をしています。

そして、私たちも、このイエズス様の神秘体を真似なければなりません。天に於けるイエズス様、地上に於けるイエズス様、そしてイエズス様の神秘体を真似なければなりません。これが、聖パウロが私たちにしきりに勧めている、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」という事です。

では第2のポイントで、マリア様は私たちにとって、どのような御方なのでしょうか?

皆さんもご存知の通り、マリア様は私たちにとって、本当の母です。それは単にイエズス様が十字架の下で、「見よ、これが汝の母なり。」と、聖ヨハネを通じて、マリア様を私たちの母としてくださった、という事を宣言して下さったというだけではありません。何故かというと、もしかしたら誤解する人がいて、「じゃあ、ただの宣言をしただけならば、ちょうど私たちが養子に取られたように、養子に与えられたように、マリア様が法律的に名前だけ、マリア様となった、マリア様がお母様となった。でも、本当に私たちに命を与えてくれるお母さんは別にいて、名前だけはお母さんだ。」と、誤解する人がいるからです。

それだけではありません。確かにイエズス様は十字架の上で荘厳に、「これ汝の母なり。」と、宣言して、ハンコを打って、確証しましたけれども、しかしマリア様はナザレトで、「仰せの如く我になれかし。」と仰って、イエズス・キリストをご胎内に宿した時に、キリストの神秘体の頭を宿した時に、それと同時に、私たちに全てを、神秘体の成員を全て、可能性の内に全て、神秘的にお宿しになったのでした。

そして実際にカルワリオに於いて、イエズス様と共に御苦しみを受けて、贖いの業を成し遂げたその時に、産みの苦しみを以って、私たちに超自然の命を与えて下さったのです。もちろん、超自然の命を私たちが現実に受けるのは、洗礼を受けた時です。しかし既にマリア様は私たちに、十字架の下で私たちに、超自然の命を与える母となられたのです。

ですからマリア様の事を、「ちょうどマリア様は、私たちのお母様のような方だ。」などと言っては、これはマリア様にとって、本当に大きな悪口となってしまいます。何故かというと、マリア様というのは本当に、私たちに超自然の命を与えた、超自然の命の母であるからです。

第3に、私たちはでは新年に、どのような、何を、どんな良い決心を立てたら良いでしょうか?

初詣に行く人は、「交通安全」「家内繁盛」「事業の成功」とか、色々な現世的な事をお祈りするかもしれません。しかし私たちは、人生の究極の目的が、「霊魂の救いである」「天国に行く事である」という事を知っていますから、イエズス様が御誕生になったその目的も、「私たちに永遠の命を与える事である」という事を知っていますから、私たちの究極の目的が与えられるようにお祈り致しましょう。私たちが天国に真っ直ぐに行く事ができますように。それこそが、新年の最高のお祈りです、願いです。

では、その為にはどんな手段が良いのでしょうか?それは、私たちがイエズス・キリスト様の、イエズス様をすっかり真似て、イエズス様の心を心として、ますますイエズス様に似通った者となる事です。そうする事によって、イエズス様が開いて下さった天国に、真っ直ぐ、まっしぐらに行く事ができるからです。私たちの心の中に、イエズス様の心が、内的なエンジンとして、動力として動いて、私たちを動かして下さいますように。イエズス様の考えが、私たちの考えとなりますように。イエズス様が仰ったように、「私はぶどうの木である。私を離れては、何の実も付ける事ができない。」イエズス様の幹から来る木の汁が、聖寵の恩寵と、そしてイエズス様の息吹と、イエズス様の考えと、イエズス様のお望みが、私たちの息吹と望みになりますように。イエズス様がなさるように、私たちも行動する事ができますように。イエズス様が頭であるのですから、その頭の思うように、望むように、私たち手足が動く事ができますように。それこそが、新年の私たちの願いであり、望みであります。

では、その為にはどうしたら良いでしょうか?私はこの新年に、ファチマの100周年を準備する為にも、イエズス様に倣って、イエズス様の心を心として、私たちの心も、霊魂も、全く、マリア様にお捧げする事を提案します。皆さんは、毎日きっとなさっています。朝起きた時に、御聖体拝領した時に、イエズス様のように、私たちの心も霊魂も、過去、現在、未来、全て、そして物体的なものも、霊的なものも、全て、自然の恵みも、超自然の恵みも、全て、マリア様にお委ねする。まさにイエズス様がなさった、その事です。

この新年にあたって、是非、この1年の全ての御恵みと、全ての行動、思い、言葉を、マリア様にお委ね致しましょう。そしてイエズス様が私たちの中にいらして、私たちを動かして下さって、イエズス様がなさったように、私たちもマリア様を愛する事ができまように、マリア様の良き子供となる事ができますように、マリア様の良き道具として、マリア様の元にいる事ができますように、お祈り致しましょう。

イエズス様がなさったように。「あぁ、こうすると何か、利益があるから、得があるから。」現世利益を求めて、ではなくて、イエズス様がマリア様をただただ愛して、マリア様にひたすら愛したように、私たちもイエズス様に倣って、マリア様をひたすらお愛しする事ができますようお祈り致しましょう。

願わくは、私たちがイエズス様の心を以って、マリア様を愛する事ができますように。そしてその為にも、どうぞ遷善の決心を立てて下さい。今年1年、変わらずに、朝起きたら、マリア様に奉献の祈りをする、御聖体拝領の時に、イエズス様に倣って、マリア様に奉献をする、そして頻繁に、「イエズス様がどれだけマリア様をお愛しされたか」という事を考えて、私たちも、「イエズス様のようにマリア様を愛したい」と思う。

最後に、マリア様は私たちのお母様ですから、マリア様がイエズス様をお愛しすると同じ愛を以って、私たちを、「私たちのようなものを愛して下さっている」という事を考えましょう。マリア様が、私たちがどれほど惨めでつまらないものであったとしても、イエズス様を愛すると同じほどの愛を以って、愛しされているという事は、どれほどの愛でしょうか。私たちの想像を絶する愛を以って、愛されている事を考えましょう。

この、イエズス様のようなマリア様への愛は、天主様からの特別の御恵みです。ですから、このような愛を私たちも頂く事ができますように、特に2016年の特別の御恵みとして、この賜物を、マリア様を通して、イエズス様に乞い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちがマリア様をお愛しする「理由」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 1月2日に大阪で行った聖伝のミサ(初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ)のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年1月2日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父 説教



 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年1月2日、2016年の初土曜日の聖母の汚れ無き御心の随意ミサを捧げています。今日このミサの後では、まだ御公現までの時期ですので、ローマの習慣に従って、幼きイエズス様の礼拝式を行いたいと思います。

 今年は、ファチマ100周年のその前の準備の特別の年です。どうぞその準備が良くできるように、秋田・長崎巡礼、それから聖母の黙想会が準備されています。どうぞ、ご参加する事を是非よろしくお願い致します。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、2016年、この年が、全くマリア様に捧げられた年でありますように、ファチマ100周年への準備が良くできますように、特にこの初土のミサで、私たちはマリア様に対してどのような愛を為すべきか、その為に、私たちがマリア様を愛する、その動機を、理由を、色々黙想してみる事にします。その後に、では具体的に、マリア様を愛する為にどうしたら良いか黙想して、遷善の決心を取る事に致しましょう。

 聖グリニョン・ド・モンフォールによると、「天主様は、マリア様が、現在より多く知られ、より多く愛され、より多く崇敬され、尊敬される事を望んでいる。今まで、マリア様が生きておられた時より以上に、よりよくそうなる事を望んでおられる。」「もしも、あるべく、私たちの主が、イエズス・キリストが知らされていなければならないように、今知らされていないとしたら、愛されていないとしたら、それは、マリア様がまだよく知られていないからだ。」「この世に一番最初に、救い主をもたらしたのはマリア様であって、第2の、次の、第2の時にも、つまり現代、マリア様を通して、御子はこの世に与えられる。」と、聖グリニョン・ド・モンフォールは言います。

 願わくはこの新年が、この1年が、私たちがマリア様をますます知り、愛し、崇敬する事によって、イエズス様がますます知られ、愛される年となりますように、黙想致しましょう。

 では一体、私たちはどういう理由でマリア様をお愛しすれば良いでしょうか?

 今日提案するのは、私たちがイエズス様の神秘体の一部である、という事からです。つまり、イエズス様と私たちは同じ命を生きていて、聖パウロによれば、「我にとりて生きるはキリストなり。イエズス・キリストを着よ。イエズス・キリストの心を心とせよ。」というその論理的結論として、「マリア様を愛する」という事です。

 この、「イエズス・キリストの心を心とする。イエズス・キリストが私たちに於いて生きている、イエズス・キリストこそが私たちの原動力だ」という事を、2つの側面から見る事ができます。

 1つは、イエズス様の聖心を、私たちが頂いている、イエズス様が私たちの心に生きている、という事から、私たちが「イエズス様が愛するその愛を以って、マリア様を愛する事ができる」からです。

 では、イエズス様はどういう理由でマリア様を愛しておられたのでしょうか?イエズスス様に是非、「聖心の秘密を教えて下さい。イエズス様、イエズス様の聖心を私にも下さい。私がそれを以って、マリア様を愛する事ができますように教えて下さい。」と、お願いする事に致しましょう。

 色々な理由がありすが、今回は3つに絞ります。

 1つは、マリア様が、イエズス様のお母様であったからです。マリア様は、イエズス様が特別に選んだお母様であって、マリア様ほど完璧で、美しい、清い霊魂の、徳に溢れた母はいない、それほどの母親であったからです。

 イエズス様をお喜ばせする為に、諸聖人は色々な努力をしました。ある者は殉教し、イエズス様の為に多くの童貞女たちは殉教し、命を捧げました。或いはイエズス様の為に、私たちの祖先、日本の殉教者も命を捧げました。或いはイエズス様の為に、修道会を創ったり、全生涯を捧げて一生懸命働いた聖人、宣教師たちがいます。イエズス様の命令をいつも果たそうとする天使たち、それらの色々な多くの聖人、聖女、証聖者、殉教者、大天使、聖天使、全てを集めても、マリア様ほど、イエズス様を喜ばせる事ができる方はいなかったからです。イエズス様をいつも愛しておられた、イエズス様の為だけに生きておられたお母様であったからです。

 マリア様の御生涯を見ると、イエズス様を愛し、イエズス様の為に全ての苦しみと犠牲を喜んでお捧げした全ての聖人、聖女、殉教者たちの苦しみを全て集めても足りないほど、マリア様の受けたその御苦しみと、その御悲しみは、イエズス様の為だけに捧げられたものでした。

 マリア様がイエズス様のお母様であったのみならず、マリア様はイエズス様から特別に選ばれた第2のエヴァでした。イエズス様の贖いの業を遂行すべき選ばれた、贖いの伴侶でした、共贖者でした。イエズス様に御肉体を与え、イエズス様を養い育て、イエズス様が犠牲として捧げられる事ができるように、イエズス様が自分を贖い主として捧げられる事ができる為に、マリア様は全てを捧げて協力されました。

 イエズス様に肉体を与えたのみならず、マリア様の意志も望みも、喜びも苦しみも、生贄も犠牲も全て、イエズス様と離れずに、最後まで、十字架の下に至るまで、イエズス様と共に一致しておられたからです。贖いの業を完成する為に、いつも共に働いておられたからです。イエズス様が、そのようなこのマリア様を、どうして愛さないわけがあるでしょうか。

 そればかりではありません。イエズス様が人となってお生まれになったのも、私たちを天国に導く為でした。私たちが永遠の命を得るためでした。その為に、私たちがイエズス様の元へと戻って来るように、回心するように、マリア様はいつも私たちを助けて下さっています。罪人が回心するように、或いは、敬虔な者がますます熱心になるように、聖である者がますます聖徳を高める事ができるように、マリア様はいつも私たちの為に助けて下さるので、このようなマリア様を、イエズス様はどうして愛さないわけがあるでしょうか。

 マリア様ご自身、イエズス様の贖いの最高の実りでした。イエズス様の創造と贖いの最高の傑作でした。このような素晴らしい傑作マリア様を、どうして天主の御子イエズス様が、愛さないわけがあるでしょうか。

 イエズス様が人となったのは、私たちの救霊の為、と同時に、聖父に栄光を捧げる為でした。

 イエズス様は、マリア様からの協力と承諾を得て、人として、人間として、天主聖父に栄光と贖いの業を捧げる事ができるようになりました。聖父に、マリア様の子となる事によって、最高の賛美と感謝と栄光を捧げる事ができるようになりました。そのマリア様の協力に、イエズス様は深く感謝しています。ですからイエズス様は、聖父に栄光を帰する事ができるためにも、マリア様に感謝と愛を表しています。

 またマリア様ご自身も、イエズス様と共に、諸聖人、天使たちが合わせても、決してする事ができないほどの、賛美と感謝と愛を、天主聖父に捧げておられるので、イエズス様は、このようなマリア様を、どうして愛さずにおられるでしょうか。

 もしも私たちがイエズス様の心を頂くならば、このような動機でマリア様を、「あぁ、ますます愛そう」と、「イエズス様と同じ心で愛そう」と、なるに違いありません。

 もう1つの側面は、「もしも私たちの中にイエズス様が生きているならば、イエズス様と一体であるならば、マリア様も同じく、私たちをそう考えられる」という事です。

 イエズス様は言われました、「子よ、これ汝の母なり。」「女よ、これ汝の子なり。」

 マリア様は、たとえそれがどのような者であっても、イエズス様が愛される者を、愛し給う者を、マリア様も愛されます。マリア様は、私たちは本当につまらない罪人ですけれども、罪を犯して、主に背く者ではありますけれども、しかし、イエズス様が私たちの贖いの為に御血潮を流して、私たちを極みまで愛された事を知っておられるので、イエズス様が愛しておられる私たちを、マリア様も愛しておられます。

 マリア様は、私たちを御子のように、御子の愛した者として愛されるのであれば、大切に扱って下さるのであれば、私たちはどうしてこの愛を、愛を以って返さないわけにいられるでしょうか。

 イエズス様は私たちを、マリア様の子供として宣言されました。マリア様は私たちを、イエズス様と同じ愛を以って愛されます。マリア様がイエズス様にされた愛は、私たちの想像を超える、とてつもない愛でした。シュテーリン神父様が、それは本当に詳しく教えて下さいました。全ての世の中の最高の母の愛を以って集めたとしても、マリア様がイエズス様を愛する愛に及ぶものはない。その同じ愛を以って、私たちを愛して下さる。どうして、私たちがそのマリア様を愛さないでおられるでしょうか。

 マリア様は、私たちを十字架の苦しみを通して、超自然の命に産み出されました。超自然の命を与えて下さった、本当のお母様です。私たちを天国の命に産み出してくださった、本当の、霊的なお母様です。本当の母が、このような苦しみをもって産んだ子供である私たちを、どうして愛さないでおられるでしょうか。このような苦しみを以って生んで下さった私たちが、その御母を、お母様を、愛さないでどうしていられるでしょうか。

 もしも私たちが、「イエズス様と一体である」という事を深く理解しているとすると、マリア様は更にもっと、理解しています。「イエズス様と私たちが一体である」という事を、マリア様はよく、深く理解して、私たちの事を見ています。つまり、マリア様にとって、「私たちを愛する」という事は、「イエズス様を愛する」と同じなのです。「イエズス様を愛する」という事は、「私たちを愛する」と同じなのです。

 ですから、私たちに与える事は、皆イエズス様に与える事であって、イエズス様に与える事は、私たちに与える事です。ですから、「そのイエズス様と私たちが一つである、イエズス様が私たちに於いて生きている」という事をよく理解すると、私たちは、マリア様からのイエズス様への愛を受け、またイエズス様の愛を以って、マリア様を愛する事ができるようになります。

 では、私たちはこの新年に、「マリア様を、イエズス様の愛を以って愛する」とその遷善の決心を立てる事に致しましょう。では、一体どうすれば良いでしょうか?

 私たちは既に、マリア様の道具として、マリア様の子供として、マリア様の騎士として、インマクラータの騎士として、既にマリア様に捧げられたものですけれども、この今年の1年の全てを、私たちの全ての活動と、思いと、言葉と、行いと、私たちの全ての義務と、十字架、苦しみを、あらかじめマリア様にお捧げ致しましょう。私たちの日常の生活全てを、ますます大きな愛を以って、マリア様にお捧げいたしましょう。

 私たちの起床から、朝の祈りから、私たちの日常の義務、単純な平凡な義務、それを、マリア様をますます愛する心を以ってお捧げいたしましょう。もしも私たちが、小さな事に忠実である事ができるならば、大きな事も忠実である事ができるはずです。小さな事を、大きな愛を以ってお捧げ致しましょう。マリア様にいつも従順でありますように、私たちの義務に忠実であるように、決心を致しましょう。

 マリア様の御助けを以って、私たちが隣人に対して親切でありますように、愛徳を以っていつも接する事ができますように、忍耐と柔和をいつも欠く事がないように、決心を立てる事に致しましょう。毎日の生活をお捧げするのみならず、この2016年が、マリア様の汚れ無き御心にますます一致したものとなるように、イエズス様の心で、マリア様を愛する事ができるように、イエズス様がマリア様になさった事を黙想して、考えて、色々な本を読んだりする決心を立てましょう。

 イエズス様はマリア様に、色々な特権や、栄光や、完徳を与えて下さいました。それらの祝日を、或いはそれらの、イエズス様がマリア様になさったその色々な御恵みを考える事に致しましょう。

 また、マリア様がイエズス様になさった事も考える事に致しましょう。マリア様がイエズス様をどのように愛されたのか、イエズス様と共にどのように苦しまれたのか。

 幼きイエズスの聖テレジアは、終わりに、あるシスターにこう言ったそうです、幼きイエズスの聖テレジアの言葉によれば、「私は、神父様たちの御説教によっては、あまり感動を受けませんでした。しかし、福音を読んで、マリア様が私たちの為にどれほど苦しまれたか、という事を黙想して、それから、大きな霊的な利益を得ました。」と。「何故かというと、神父様たちは、マリア様の特権や、色々な栄光をこう話されるので、あまりにも、こうマリア様が素晴らしい、素晴らしい、と言って、それの事だけで、あまりにも遠くにおられる方のように仰るのですけれども、でも福音を読むと、マリア様は私たちと同じ苦しみを受け、私たちと同じ清貧、或いは十字架の苦しみを苦しまれた。その、だからもっと私たちに対する愛を感じる。」と、幼きイエズスの聖テレジアは言っています。

 マリア様の事を考える。最後に、私の提案するのは、マリア様に対する信心は、これは天主様からの特別の御恵みです。ですから、そのマリア様の信心を得る御恵みを祈りで求める事に致しましょう。イエズス様は、「私の名によって祈れ。そうすれば、聖父は必ずお前たちに与える。」と、言われました。イエズス・キリストの御名によって、ひたすらに、マリア様に対する信心を、愛を、乞い求める事に致しましょう。マリア様に倣う事ができるように、お祈り致しましょう。

 ちょっと前に、北朝鮮に拉致された、めぐみさんのお母様が動画に出ていて、そのめぐみさんの産んだ、子供の娘だ、と言われる孫さんの動画が出ていて、それを見ていてお母さんが、「あぁ、この子の笑い方はめぐみそっくりだ。この子を見ると、ほんとこれはもうDNAとかそんなのなくても、これはもうめぐみの子供だとすぐ分かる、もう生き写しだ。」というような事を言っていたのを思い出します。

 時々、出会う信徒の方の親子を見ると、「本当にそっくりだ、お母さんそっくりだ。」という方がいます。イエズス様は、マリア様の瓜二つだったに違いありません。誰が見ても、「あぁ、イエズス様は、全くそっくりだ、マリア様の子供だ。すぐ分かる。話し方も、笑い方も、言う内容も全てそっくりだ。瓜二つだ。」

 私たちもマリア様にお祈りして、イエズス様にお祈りして、マリア様の信心や愛を頂き、マリア様に瓜二つになりますように。マリア様の、童貞の内の童貞であるマリア様から、貞潔の徳を。また、「我は主の婢女なり、仰せの如く我になれかし。」と言ったマリア様に、謙遜と、従順の徳を。主の御旨に対していつも従順である事ができるその徳を、マリア様を真似る徳を。また、すぐにエリザベトに訪問されたマリア様を見倣って、愛徳と奉仕の徳を得る事ができるように。また羊飼いの言葉や、博士たちの言葉を、皆胸に留めて心で思っておられたマリア様に倣って、私たちもマリア様に倣って、いつも黙想と、主の事を考えている事ができるように。

 また、イエズス様を愛し、ヨゼフ様を愛したマリア様に倣って、私たちも、ヨゼフ様を愛する事ができますように。

 お祈りを以って、特別のマリア様に対する愛と、マリア様の子供として、道具として、いつも従順である御恵みを乞い求めましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

“主は私たちを救う” 『イエズス』。いと貴きその聖名について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年1月3日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月3日(主日) イエズスの聖名の祝日
小野田神父 説教

 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年1月3日、イエズス様のいと貴き聖名の祝日を祝っています。

 主日のお知らせをする前に、皆さんに新年のお慶びと、皆さんに新しい新年が、恵みが豊かで、天主様からの祝福が溢れて、聖なる実り豊かな1年となりますように、心からお祈り申し上げます。大晦日のミサと、元旦の三が日の3日のミサは、皆さんの意向で捧げています。今日のミサも皆さんの意向で捧げていますので、どうぞ皆さんの良い1年を祈って、一緒にミサを捧げて下さい。

 このミサの後に、1月で、ローマでは、主の御公現の頃まで、イエズス様の礼拝式をやっているので、その私たちもそのローマの伝統と習慣に従って、イエズス様の御足に接吻の儀式を、ミサの直後に、ミサの後の祈り、お告げの祈りが終わったら、皆さんと一緒にしようと思っています。

 それから今日はミサの前に、ここでいつもミサに通って公教要理を受けて、洗礼の準備をしていた、ピオ・アウグスチヌスさんが、めでたく洗礼を受けて、天主様の子供となりました。どうぞ皆さん、この受洗者の為にお祈り下さい。ピオ・アウグスチヌスさんは、本当なら家族の方が今日いらっしゃる事を期待して、この日に日程を設定したのですけれども、できれば、ご家族の方が皆、洗礼の御恵みを受けますように、どうぞお祈り下さい。
14時30分から公教要理の勉強があります。それから、16時からは晩課があります、主日の晩課があります。今日は、イエズス様の聖名の祝日の晩課です。明日は7時からミサがあります。それから2週間の後に、1月17日にも朝10時30分からミサがあります。どうぞいらして下さい。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 “In nomine Jesu omne genu flectatur,”こう入祭誦で、聖パウロのフィリピ人への手紙を使って、イエズス様の祝日を公教会は祝って、こう歌っています、「イエズス様の聖名に於いて、全ての膝は、天にあるものも、地にあるものも、地獄のものも、全ての膝は、膝をかがめる。全ての口は、イエズス・キリストを、『主である。』と、告白する。」

 ですから今日は、イエズス様の聖名がどれほどすごいものか、その聖名の力の素晴らしさを見て、一体何でそんなにイエズス様の聖名には力があるのか、その理由を少し黙想して、第3に、では私たちはこの新年、ミサを捧げながら、どういう決心を取ったら良いか、黙想してみる事に致しましょう。

 救い主、私たちを救う為にこの地上に来られた真の天主、私たちの為に人となった天主の名前は、永遠の昔から、“主は私たちを救う”『イエズス』という風に決められていました。そこで天使は、その事を聖ヨゼフに、「イエズスと名付けよ。何故ならばこの子は、全ての民を救う方であるからだ。」と、言います。イエズス様は、ユダヤのしきたりに従って、生まれてから八日目に御割礼を受けて、その時に『イエズス』という名前を、つまり『救い主』という名前を受けました。イエズス様が天主様として最初の血潮を流されたその時に、『救い主』“天主は私たちを救う”『イエズス』と名前を受けたのは、全く相応しい事でありました。天主様の御摂理通りでありました。

 聖人たちは、このイエズスの聖名を黙想し、それを光として、或いはそれを糧として、これを慰めとして、これを愛の対象として、いつも祈り、考え、愛してきました。これは、使徒聖パウロ、使徒聖ペトロの時代、使徒の時代から伝わるものです。

 今日、書簡で読まれたのもそのエピソードの1つです。ある時聖ペトロが、初代教皇様が、街を歩いていた時に、乞食が、「恵んでくれ」という顔をして、手を差し出したのです。するとペトロはそれを見て、「あぁ、かわいそうな方よ、私はあなたに与える何もお金もない、金も銀も持っていない、だけれども、金よりも銀よりももっと素晴らしいものをあなたに与えよう。イエズス・キリストの聖名によって立ち上がれ。」と言うと、この人は今まで生まれた時から立った事のない方でしたが、立ちあがって、「あれ?」歩くようになったのです。

 すると、このペトロがトラブルに巻き込まれてしまいました、「一体この人をどうしたのか、お前一体何をしでかしたのか。」という事で、そこでペトロが、今日書簡にある事を読むのです、「私は、あなたたちが十字架に付けた命の与え主の聖名によって、この方を治したのです。あなたたち、家の造り主が捨てた、その隅の親石が、このイエズス・キリストです。天上、天下、私たちが救われる聖名は、この方以外にはないのです。天上、天下、私たち人間には、イエズス・キリスト以外の名前は与えられていません。」こうはっきり言うと、もうペトロを、或いはキリスト教徒を迫害していた人は、何も言う事ができませんでした。

 これが、初代教皇様が、はっきりと、ユダヤ人を通して、全人類に宣言した事です、「イエズス・キリスト様の聖名は、金よりも銀よりも、この地上の全ての宝よりも、黄金よりも、もっと価値がある、このイエズス・キリスト様の聖名によって、奇跡さえも起こる。天主はそれほどの力を与えている。この私たちが救われる為には、これ以外には他にはない、名前がない、イエズス・キリストだけが、唯一の救い主である。」と、はっきり宣言します。一体何故なのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様がこう言ったからです、亡くなる前に、「今までお前たちは私の聖名で祈った事がない。しかし、これからは私の名前によって祈れ。聖父が、もしお前たちが私の名前で祈るならば、何でもお前たちの望むものは与えるだろう。さあ、望め、求めよ、さらば与えられる。」と、仰ったからです。ですから、イエズス様の聖名には、これほどの力があるのです。

 アシジの聖フランシスコを見て下さい、イエズス様の聖名に対してどれほどの信心があったか、イエズス様の聖名を色んな所に書いて、家に飾りとして付けていました、『IHS』これは、“Iesus Hominum Salvator”という意味のラテン語の略でもありますが、それを飾っていました。

 聖イグナチオは、この自分の創った修道会のグループを、“イエズスの伴侶”『イエズス会』と付けました。「イエズスの聖名が全世界に広まるように、愛される様に。」と望んでいました。イエズス会の創立メンバーの一人、聖フランシスコ・ザヴェリオは、日本にまでやって来て、イエズス様の聖名を届けました。

 一体何故、イエズス様の聖名にはこれほどの力があるのでしょうか?

 何故かというと、イエズス様は天主聖父に、死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順であったからです。御自分を無とされて、天主であったにもかかわらず、人となり、私たちの為に、全く無罪であったにもかかわらず、私たちの罪を全て負って、十字架に付けられ、私たちの為に、聖父の光栄の為に、御血潮を全て流し、聖父に、「父よ、彼らを赦し給え、彼らはその為すべき所を知らざればなり。」と、言って、十字架の死に至るまで、父に、聖父に、その御旨を果たす事だけを考えていたからです。その贖いの業を果たす事だけを考えていたからです。これは、聖パウロの説明です。

 だから聖パウロによれば、「聖父は、イエズス・キリストを、イエズス様を全ての名に勝る名前を与えた。天上、天下、イエズス・キリストよりも貴い名前はない。」

 全て、天にある全ての天使たち、ケルビム、セラフィム、大天使、諸天使たち、聖人、聖女、殉教者、博士、預言者、全てはイエズスという聖名に於いて、深く、深い讃美と感謝と礼拝を捧げるのです。天上に於いて、『イエズス』と言えば、もう聖人たちが全てその前に「ははぁーっ!」と平伏す聖名なのです。

 地上に於いても、イエズスの聖名によって、私たちは救いを得ます。この地上に於いて、イエズス・キリストの名前以外に、永遠の命を受けるべき道はありません、名前はありません。イエズス様が教えた通り、聖父と、聖子と、聖霊の御名に於いて洗礼を受けなければなりません。

 地獄に於いても同じです。地獄、悪魔たちは、自分からは跪く事ができないので、膝がないと言われていますけれども、もちろん悪魔は、体が無いので、膝も体もありません。しかし、『イエズス・キリスト』という、地獄に打ち勝った、死と地獄と罪に打ち勝った者の前には、どうしても平伏す事しかできないのです。何もイエズス・キリストの前に抵抗する事ができないのです。

 ですから私たちは、イエズス・キリストの聖名が与えられている、イエズス・キリストの秘跡が与えられている、イエズス・キリスト御自身が与えられている、という事を、何と感謝しなければならないでしょうか。

 考えてもみて下さい。誰かがもしも、例えばお母さんは子供の事をいつも考えて「太郎ちゃんは、ちゃんとやっているか、花子ちゃんは、ちゃんと元気か、ご飯は食べているか。」と、いつも考えます。奥さんは、お父さんが外に出れば、「ちゃんと新幹線に乗れたか、ちゃんと児童会館には着いたか。」或いは、「ちゃんと家に帰る道は間違えないか。」などと思います。ところでイエズス・キリストほど、私たちを愛する方がいるでしょうか?

 もしも私たちがイエズス様を愛するのであれば、イエズス様の事をよく、どうしてもよく考えなければなりません。イエズス様のなさった事を黙想すればするほど、お生まれになった秣桶(まぐさおけ)になって、貧しく私たちの為に生まれて下さったイエズス・キリスト様が、私たちの為に血潮を全て流された天主イエズス・キリスト様を思うと、この全世界で、これほどまで私たちを愛している名前はありません。

 『イエズス・キリスト』この聖名を、どうぞ私たちも愛して、この名前を敬う事に致しましょう。

 では、どのような決心を今年立てたら良いでしょうか?カトリック教会は、イエズス・キリストの神秘体であって、イエズス・キリストの花嫁ですが、イエズス様の聖名の前では、例えば司祭は、ビレッタという帽子をかぶれば、それを脱帽します。或いは祭壇の上であれば、『イエズス』という名前を言うと、十字架の方を向いてお辞儀をします。聖務日課の時には、或いはミサの時も、イエズス様の名前を言う時には、司祭は頭を軽く会釈します。

 聖パウロが、「イエズスの聖名に於いて、全ての膝はかがまる。」と、言うのですから、イエズス様の聖名にこうやって敬意を表すのは、最も当然な事です。ですから私たちも、今年もイエズス様の聖名を愛して、イエズス様の聖名を愛を込めて唱え、それに敬意を払うようになさって下さい。イエズス様の聖名を愛を以って唱える、というのは、これは教会がやっていたり、或いは修道士の方がやっているように、「イエズス様」「イエズス、御身を愛し奉る。」「イエズス・マリア・ヨゼフ、御身を愛し奉る。」「イエズス、我らをあわれみ給え。」「イエズス、我らを助け給え。」「イエズス、あわれみ給え」「イエズス、御身を愛し奉る。」「イエズス・マリア・ヨゼフ」と、いつも心の中で、イエズス様の聖名を呼んで、お祈りして、お願いしたり、感謝したりする事です。どうぞ実践なさって下さい。絶えざる感謝の祈りをなさって下さい。

 第2に、私の、最後に、提案したいのは、イエズス様の聖名を心から愛して、それを、それにいつも讃美をしていたのはマリア様です。ですから今日は、マリア様の御心を私たちが頂く事ができるように、お祈り致しましょう。私たちにマリア様の御心を、私たちに於いてマリア様の御心を以って、マリア様が、私たちに於いて、イエズス様を愛して下さいますように。私たちのやる事は、とても足りない所がたくさんあるので、マリア様が私たちの所に来て、マリア様の心を以って、イエズス様を愛する事ができますように、お祈り致しましょう。

 マリア様は、イエズス様の聖名に於いて、全ての日常生活を捧げてきました。イエズス様をお呼びする時の、マリア様の幸せなお顔を考えてみてください、「イエズスや、」「イエズスよ、」「さあイエズス、」また、イエズス様からの言葉を聞いて、マリア様がイエズス様にどうやってお話しなさったかも想像なさって下さい。

 イエズス様とマリア様はいつも一体でした。イエズス様はそのようなマリア様を非常にお愛しされて、30年間、マリア様の元を離れませんでした。イエズス様の聖名によって、マリア様は十字架の下まで、全ての苦しみを私たちの為に捧げられました。

 願わくは、マリア様に倣って、イエズス様をこの今年1年ますます愛して、讃美する事ができますように、従順である事ができますように、お祈り致しましょう。そうする事によって、私たち、この地上でイエズス様の名前を讃美する私たちが、イエズス様御自身を見て、お会いして、永遠に愛する事ができますように。イエズス様の名前をいつも私たちの心に刻んでいる私たちが、天国にも私たちの名前が刻まれますように、お祈り致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私達の究極の幸せとは何であるか。「十戒」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様が1月10日(主)にしてくださった、「十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

今年はレネー神父は、「十戒」についてシリーズでお説教をしてくださるそうです。第1回目の10日はまず「十戒」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年1月10日―大阪 お説教「十戒」


親愛なる兄弟の皆さん、

 今年は、十戒に関する一連の説教をしたいと思います。十戒の重要性を理解するために最も良いのは、私たちの主イエズス・キリストのみ言葉を聞くことです。ある日、若い男が主のところへ来て尋ねました。「『よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?』。イエズスは、『なぜ私に、よいことについて尋ねるのか。よいお方はただ一人である。命を受けたいなら掟を守れ』と答えられた」(マテオ19章16-17節)。このように、十戒は、永遠の命に到達するためにしなければならないことを私たちに教えてくれます。

あるものは目的として私たちがそれを望み、また別のものは単に何かほかのものを得るための手段として私たちが望みます。例えば、私たちが薬を求めるのは、薬のためではなく健康のためです。私たちは健康を重要なものと考えますから、健康を回復させるために苦い薬さえすすんでのみます。健康のために手段として必要ならば、痛みを伴う外科手術さえも望みます。さて、健康それ自体も究極の目的ではありません。実際、健康であるときは、その健康を使って何をするのでしょうか? 健康は幸せの一つの条件ですが、幸せそれ自体ではありません。それでは、私たちが究極の目的として求めるものが何かありますか?

すべての人が幸せになりたいと望んでいます。すべての人の究極の目的は幸せです。しかし、幸せはどこにありますか? 幸せは単に主観的なものでしょうか? 単なるよい気分でしょうか? まったく違います。実際、誰かが皆さんにこう言ったと考えてみてください。「あなたは宝くじで大きな賞金を獲得しました」、すると皆さんは幸せと感じるかもしれません。でも、それはその人が本当のことを言ったと皆さんが思うからです。翌日、皆さんがそれは本当ではなかったと知ったなら、最初に感じた気分は台無しになり、その上、皆さんは欺かれたことに傷つくでしょう。真実に基づかない幸せは単なる夢にすぎず、石鹸の泡のようにはじけてしまいます。これは詐欺です。誰も欺かれたくはありません。それは本当の幸せではありません。私たち誰もが望むものではありません。

聖アウグスティヌスは説明します。本当に幸せになるためには、私たちは私たちの望みすべてを満足させるであろう善きものを所有する必要があり、それを私たちが所有していることを知って、それを好む必要があります。もし大きな金額を相続したとしても、それを知らなければ、まだ幸せではありません。もし何かを持っていて、それを知っていても、それを好んでいなかったら、それがあっても幸せではありません。また、自分の好むものを持っていても、それが本当によいものでないならば、この状況ではまだ幸せではありません。この最後のケースの典型的な例は、悪しき結婚です。ある人を愛し、その人と結婚しても、その人が本当によい人でないならば、大きな失望と激しい悲しみの源になります! 本当の幸せを与えるためには、本当によいものを必要とするのです。「私は自分にとって何がよくて何が悪いかを自分で決めることができる」と言うのは真実ではありません。なぜなら、私たちはもののよさをつくることができず、単に私たちが決定しただけでは、ものを私たちにとってよいものとするのに有効ではないからです。これはいろいろな意味でまったく明らかです。私たちが病気になって薬が必要な場合、単に私たちが決定しただけでは、これやそれやの製品を私たちの病気に有効な薬にするのに十分ではありません。その薬が客観的に効能があるかないかは決まっており、私たちの決定がその有効性を変化させるのではありません。それゆえに、私たちの決定はその薬が私たちにとってよいものかどうかを変化させません。私がこのことを強く主張する理由は、私たちが生きているこの時代は、多くの人々が「理想主義」によって欺かれている時代だからです。この理想主義は例えば、まるで誰もが自分の望むことを何でも考えだすことができるとか、まるで誰もが「自分自身の真理をつくる」ということです。これは確かに非常に非科学的であり、正しい哲学に反しており、最も単純な常識に反してさえいます。

すると、人はどんなものに完全な幸せを見いだすことができるでしょうか? 聖トマス・アクィナスは異なる種類の善きものを順番に調べて、完全な幸せはそのどれにも見いだし得ないことを証明します。まず、完全な幸せがお金に見いだし得ないことを証明します。お金の本質そのものによって、それは目的ではなく単なる手段です。銀行口座に大きな残高があることは、それで何かを購入することができるという以外に、何か利益をもたらすでしょうか? このように富は手段にすぎず、究極の目的ではありません。成功した人々はさらにお金を儲けるためにお金を使う方法を知っている、と言う人々がいます。しかし、それは悪循環です。この彼らが儲けた「さらに増えたお金」で、彼らは何をするのでしょうか? 彼らは、それ以上に儲けるためにそのお金を使うのでしょうか? そうしていくと、果てしなく続きます。これは悪循環です。お金は手段であってそれ自体が目的ではないということを証明しているだけです。

次に聖トマスは続けて、幸せは名誉や名声、栄光にあるのではなく、また権力にあるのでもないことを証明します。これらのものはすべて、人の外側にあるものであり、その人自身をよりよくするのではありません。さらに幸せは、究極的に体の善さや快楽にはあり得ません。なぜなら、それは人間の本質のうち、より低い部分にすぎず、霊的部分よりずっと下にあるからです。聖トマスは続けて、幸せは霊魂の善さそれ自体にもあり得ないとさえ述べます。なぜなら、これらの善さは制限されているからであり、何であれ私たちの所有するものが制限されているのなら、私たちはもっと多くを望むからです! 制限されているものは、私たちの霊魂を満足させるのに十分ではないのです。

幸せは無限の善を所有することにのみあり得るのです。そして天主のみが無限の善です。ですから、人間の幸せは、天主を所有することにのみ見いだされ得るのです! そして、天主を所有するということは永遠の至福直観にあるのです。ここにおいて、永遠の命があるのです! 天主は私たちをご自分のために造られました。天主は私たちをご自分のために創造されました。実際、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。「主よ、あなたは私たちをあなたのためにお造りになり、私たちの心はあなたにおいて憩うまで安らぐことはない」(聖アウグスティヌス)。

さて、私たちはどのようにすれば、天主を見いだすことができるでしょうか? どのようにすれば、天主と一緒にいる永遠の命に到達することができるでしょうか? どのようにすれば、永遠において天主を所有することができるでしょうか? 天主へ至る道は何でしょうか? それは私たちの主イエズス・キリストです! 実際、主は言われました。「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。私たちの主イエズス・キリストは御父へ至る道であり、主は天主へ至る唯一の道であって、ほかに道はありません。「法」はすべて、立法者によるいくつかの「言葉」から成っています。さて、天主のみ言葉は、まさに聖三位一体の第二のペルソナ、私たちの主イエズス・キリストです。ですから、主は永遠の法なのです。ご托身によって、霊的な永遠の法は目に見えるようになられました。聖アウグスティヌスは、それを人間の言葉と比較します。私たちが考えるとき、私たちは心の中で言葉を発しますが、誰もそれを聞くことはできません。私たちが話すとき、私たちはそれらの言葉に体を与え、物質的な方法(音波は物質の振動です)で表します。このように、ご托身になった天主のみ言葉は私たちの法です。イエズス・キリストは私たちの法なのです!

これは、私たちの主イエズス・キリストがすべてのことをなさったので、私たちには何もすることがない、という意味でしょうか? あるいは、プロテスタントが言うように、私たちは主を信じなければならないだけで、私たちは罪を犯すのを続けてもいい、ということでしょうか? まったく違います。これが意味するのは、キリスト教徒としての私たちの全生活は、私たちの主イエズス・キリストに従うことにあり、私たちの主イエズス・キリストに倣うことにあり、私たちのうちに生きているキリストにあるということです。これについては聖パウロが美しく言っています。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自身を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。「だから私は切に望む、あなたたちは私に倣う者となれ、私がキリストに倣っているように」(コリント第一4章16節、11章1節)。私たちの主イエズス・キリストご自身はこう教えられます。「私のしたとおりするようにと私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)。また聖ペトロは言います。「キリストはあなたたちのために苦しみ、その足跡を踏ませるために模範を残されたのである」(ペトロ前2章21節)。

しかし、これは、キリストの来臨の前には、人々は天主へ至る道を、天主の法を知ることができなかったという意味でしょうか? いいえ。最初から天主は人間に、掟の本質を見いだすのに十分な理性の光をお与えになっていました。これが自然法です。しかし、罪が多くなったがゆえに、天主は自然法を思い出させるものとして、モーゼに再びこの基本的な掟、十戒をお与えになりました。次に天主はさらに加えて、メシアの来臨を準備するための儀礼的な法をお与えになり(このように、旧約のいけにえに関する教えはすべて、私たちの主イエズス・キリストの十字架上の完全ないけにえの前じるしです)、またある罪にはある罰を当てるという「裁判の法」をお与えになりました。このように、旧約には三種類の教えがあります。十戒のように道徳的な教え、儀礼的な教え、裁判上の教えです。

さて教会は、旧約の儀礼的な法は新約においてはもう有効ではないと教えています。旧約は新約の光で置き換えられた影(コロサイ2章17節、ヘブライ8章5節)のようであり、あるいは、それが表したもの自体で置き換えられた前兆(コリント第一10章6節)のようなものだからです。裁判の法は、特に一部の罪の重さに対して、指標的価値を保っています。旧約において死によって罰せられたものは大罪を表しており、それらは偶像崇拝、冒涜、殺人、姦淫などです。新約においては、ここ地上で負わせられる罰はもっとあわれみ深いものですが、これらの罪はやはり大罪であり、その罪に対して本当の償いがなされない限り、地獄での永遠の罰に値するのです。旧約の道徳の法はキリストによって廃止されたのではありません。まったく違います。むしろ道徳の法は、キリストによって、より高い基準にまで引き上げられました。私たちの主イエズス・キリストご自身が言われます。「あなたたちの正義が律法学士やファリザイ人たちのそれに優らぬ限り、決して天の国には入れぬ」(マテオ5章20節)。そして主は続けていくつかの掟を説明され、新約においてはどんなに高い聖性が要求されているかを示されます。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな、殺す者は裁かれる』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒る人はみな裁きを受け、…」(るであろう)(マテオ5章21-22節)。

プロテスタントはカトリック教会の知恵を拒否しているため、これら三つの教えを区別することができなくなり、十戒を含めた旧約の律法を新約においてはもはや義務ではないものとして考えがちです。これは悪魔による大変な欺きです。悪魔は、あたかも彼らが罪を犯し続けてもよいかのように、「信仰のみ」で十分であるかのように、彼らを欺いているのです。しかし、私たちの主イエズス・キリストは非常にはっきりと言われました。「私に向かって『主よ、主よ』と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人だけが入る。その日多くの人が私に向かって『主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか』と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、『私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ』」(マテオ7章21-23節)。ですから、信仰を持つ者(すなわち『主よ、主よ』と言う人たち)が誰でも救われるのではなく、掟を実際にきちんと守り、御父のご意志を行う者だけが救われるのです。聖パウロはローマ人に対して同じことを言っています。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である」(ローマ2章13節)。十戒を守るということは、基本的には愛さなければならないということです。「あなたたちは私を愛するなら私の掟を守るだろう」(ヨハネ14章15節)、また、「あなたはすべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて主なる天主を愛せよ」(ルカ10節27章)は、「第一の最大の掟である」(マテオ22章38節)。

これは、私たちが自分の力で「律法を守る人」になり得るという意味でしょうか? いいえ。律法を守るために私たちにはイエズス・キリストの恩寵が必要です。私たちが掟を守るから義とされるのではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストによって私たちが義とされるから私たちは掟を守ることができるようになるのです。言い換えれば、義化は掟を守ることに続くのではなく、掟を守ることの前に義化があるのです。天主は過去の罪をお赦しになり、私たちに与えられる聖霊によって私たちの霊魂に恩寵を注いでくださいます。そして、私たちが十戒を実際に守ることができるようにしてくださるのです。これが大変重要です。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人のうちにいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできぬからである」(ヨハネ15章5節)。私たちの主イエズス・キリストがいないと私たちは何一つできず、永遠の命のために有益なことは何一つできません。しかし主と共に、主にとどまり、信仰、希望、愛によって主の愛にとどまるなら、私たちは「多くの実を結ぶ」のです。すなわち、多くの本当の善業を行うのです。「私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章10節)。主こそが私たちに、本当の善業を行うことのできる力を与えてくださるお方であり、その善業は私たち自身の栄光ではなく、主の栄光であり、御父の栄光のためなのです。主は言われます。「あなたたちも、人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちのよい行いを見て、天においでになるおん父をあがめるであろう」(マテオ5章16節)。「天主はあなたたちに常に十分に足るほどの物を持たせ、すべての善業のために余分な物があるほどの、あふれる恵みを与えられる」(コリント第二9章8節)。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストの法を守るため、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします! そしてこの恩寵を、私たちは祈りと秘跡によって受けるのです。毎日祈りましょう! 善を行うために、私たちの主イエズス・キリストの助けを願いましょう! 特に誘惑を感じたときには祈りましょう! 祈りましょう、そうすれば罪に陥ることはないでしょう。主が皆さんを助けてくださいますから。

さて、モーゼがシナイ山で旧約の律法を受けたように、私たちの主イエズス・キリストは山の上で新約の法を明らかにされました。有名な「山上の垂訓」で、聖マテオの福音書の第5、6、7章にあります。真福八端で始まり、その後、新約の法では旧約の法よりさらに高いものが求められること、すなわち完徳が求められることが述べられます。「天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。聖ルカの福音書においては同じ掟が与えられますが、ニュアンスがついています。「御父が慈悲深くあらせられるように慈悲深いものであれ」(ルカ6章36節)。

旧約は石の板に書かれており、これは多くのヘブライ人の心が固いことを表していました。モーゼが旧約の律法を受けたのは、最初の過越祭である紅海渡海から五十日後にシナイ山ででした。新約は「墨ではなく生きる天主の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」(コリント後3章3節)のです。ですから、天主の霊は、新しい過越祭である御復活の五十日後の聖霊降臨のとき使徒たちに与えられました。私たちの心に書かれたということは、誰もが自分の好きなことをするという意味ではなく、むしろキリスト教徒としての全生活が天主の愛によって、つまり新しい掟によって突き動かされるという意味です。「私は新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合え。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え」(ヨハネ13章34節)。天主の愛によって突き動かされるということは、「天主の霊によって導かれる」(ローマ8章14節)ことであり、それは私たちに天主をお喜ばせすることをさせ、つまり私たちを掟に従わせるのです。そうするのは、奴隷的な恐れからではなく、天主への愛からなのです。

今年の初めにあたり、強い決意を固めましょう。私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするため、掟を守り、天国へ至る道を歩み、主に従い、主に倣うという決意です。洗礼の約束を更新しましょう。「私は悪魔を捨てます、そのすべての業を捨てます、そのすべての栄華を捨てます」、つまり悪魔の欺き、悪魔の誘惑…を捨てるのです。詩篇作者が次のように言うように、私は喜んで掟の道を走ります。「私はあなたの掟の道を走り、あなたは私の心を広くされた」(詩篇118章32節)。

私たちは、聖人たちの模範によって、とりわけ童貞聖マリアの模範によって、掟を守る道を歩むよう、大変勇気づけられます。聖母は天主の霊に非常に忠実だったため、掟を守る道から少しでも外れることは決してありませんでした。聖母はどんなことにおいても決して罪を犯しませんでした。聖母とすべての聖人が、私たちの主イエズス・キリストの掟を守る道を歩む私たちを強く助けてくださり、私たちが天主の恩寵によって本当に天主をお喜ばせすることができ、そうすることで天国へ行くことができますように! アーメン。

聖伝のミサにおける祭壇のお花の意味とは何か?【クレカリ10周年記念】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、当ブログ Credidimus Caritati 開設10周年です。このことを天主様に深く感謝します。

 祭壇のお花について、ご質問をいただきました。お答えいたします。

 レデンプトール会の Joseph Wuest C.SS.R. 神父の書いた Collectio Rerum Liturgicarum によると、祝日に花束を花瓶に生けて祭壇を飾ることが命じられている【Caeremoniale Episcoporum I, caput XII, N. 12 及び 教皇ピオ六世 Auctorem Fidei 】。
 花は花瓶に趣味よく飾られ、ろうそく台の間に置かれなければならない【Caeremoniale Episcoporum I, caput XII, N. 12】。
 ただし、待降節や四旬節・受難節の聖務やミサをするとき(待降節第3主日と四旬節第4主日、聖木曜日は例外)、死者のための聖務やミサのときは、花を飾らない。

 お花の意味は、天主の祭壇を飾るために「切り取られ」て、奉献されるということです。ロウソクが自らを燃やして光と熱を出すように、お花も自分を捧げて天主に捧げられるという意味があります。私たちも、罪から切り離されて、この地上から離脱して、自分をイエズス・キリストのために与え尽くすことができますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

追記

Collectio Rerum Liturgicarum には、こうあります。
次の日に祭壇に花を飾ることは禁止されてはいない。幼子殉教者の祝日、祈願祭の日々、祝日の前日(vigilia)、七旬節、六旬節、五旬節の主日。【Ephemerides Liturgicae (Ius et Praxis) LII, p.169】

聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を有効かつ合法なものとすることを認めます【教皇フランシスコ】

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聖ピオ十世会の司牧する教会に参加することを
選んでいる信者の皆さん(…)
聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を
有効かつ合法なものとすることを認めます。
【教皇フランシスコ】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランシスコ教皇様が、特に聖ピオ十世会について、「彼らはよい信仰を持ち、秘跡を執行しています」、「聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を受けた信者の罪のゆるしを、有効かつ合法なものとすることを認めます」と述べています。

 御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストを礼拝するために、多くのカトリック信徒の兄弟姉妹を聖伝のミサに招待いたします。

 フランシスコ教皇様は、さまざまな理由により、聖ピオ十世会の司祭が司牧する教会に参加することを選んでいる信者の皆さんのことを考えておられます。

 御聖体の前で突っ立って、あたかも単なる普通のパンであるかのように手で聖体拝領をすることは、私たちにはできません。イエズス・キリストをふさわしく礼拝し、賛美し、感謝し、懇願するために、私たちは主の御前にひざまづかなければなりません。

 天主が人となって、さらに小さな幼子となって私たちのうちに住み給うたのに、私たちは突っ立ったままでいることができるでしょうか?

 詳しくは、フランシスコ教皇様の、「いつくしみの特別聖年」に際して与えられる特別免償に関する書簡の日本語訳がカトリック教会中央協議会のサイトで公開されていますので、そこでお読みください。

「最後に、聖ピオ十世会の司祭が司牧する教会に、さまざまな理由により参加することを選んでいる信者の皆さんのことを考えます。いつくしみの特別聖年は誰も除外しません。彼らはよい信仰を持ち、秘跡を執行していますが、司牧的な観点から見て不安定な状況にあると、さまざまな地域の司教がわたしに報告してくれました。わたしはこの会の司祭や上長との十全な交わりを回復するための解決策が、近い将来、見いだされると信じています。一方、それらの信者の善に応える必要があることに促され、わたしは、特別な配慮として、いつくしみの特別聖年の間に聖ピオ十世会の司祭からゆるしの秘跡を受けた信者の罪のゆるしを、有効かつ合法なものとすることを認めます。」

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【参考資料:韓国語】
자비의 특별 희년 대사에 관한 프란치스코 교황 성하의 서한

마지막으로 고려할 사항은 비오 10세 형제회 사제들이 직무를 수행하고 있는 성당의 여러 가지 사정이 있는 신자들에 관한 것입니다. 이 자비의 희년은 그 누구도 배제하지 않습니다. 여러 지역에 있는 형제 주교님들께서 그들이 사목적으로 어려운 상황 속에서도 지키고 있는 깊은 신앙심과 성사 생활의 실천에 대하여 저에게 말씀해 주셨습니다. 저는 머지않아 비오 10세 형제회의 사제들과 장상들과 완전한 친교를 회복할 수 있는 해결책을 찾을 수 있을 것이라고 믿습니다. 그 사이에 이러한 신자들의 선익을 위하여, 저의 권한으로, 비오 10세 형제회의 사제들에게 고해성사를 보러 가는 이들은 자비의 희년 동안 유효하고 합법적인 사죄를 받을 것이라고 결정합니다.

【参考資料:中国語 バチカンのウェブ・サイトより】
http://w2.vatican.va/content/francesco/zh_tw/letters/2015/documents/papa-francesco_20150901_lettera-indulgenza-giubileo-misericordia.pdf
最後,我要特別考慮一些信徒們,他們因為各種原因,選擇前往部分聖堂,參加由聖庇護十世司鐸兄弟會的司鐸所舉行的各項禮儀。本次慈悲禧年,不排斥任何人。來自不同的地區的幾位主教弟兄們,讓我知悉他們的善意和施行聖事的良好作法,儘管從牧靈的角度上,他們身處在一個並非理想的情況。我希望在不久的將來,我們可以尋得方法,和聖庇護十世司鐸兄弟會的長上,恢復完全的共融。但在此刻,為了該團體信徒的益處,我規定在慈悲禧年期間,那些尋求聖庇護十世司鐸兄弟會的司鐸舉行和好聖事的信徒們,將有效的及合法的獲得罪過的赦免。



聖ピオ十世会、聖伝のミサの報告 ブログ Credidimus Caritati の開設10周年 

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、ブログ Credidimus Caritati の開設10周年です!2006年の1月21日の東京は、雪が降っていました。とても美しい雪でした。

 今月の1月18日(月)も、夜半から東京に雪が降り積もり、朝7時からのミサに与りたくても与れない方々がいらっしゃいました。それでも六名の方々が早朝ミサに与りお恵みをお受けになりました!

 1月15日、16日には大阪で、17日と18日には東京で聖伝のミサを捧げることができたことを天主様に感謝します。

 次のようなご報告をいただいておりますので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御ミサの報告をお送りいたします。

1月15日(金)最初の隠修者聖パウロ のミサには14名が、
1月16日(土)教皇殉教者聖マルチェロ のミサには16名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオ・グラチアス!

ミサの後には毎年恒例、禁教令時代の絵踏みの償いのとして、「踏絵への接吻」をいたしました。

お説教でイエズス様の聖心が私達を愛して私達と一致したいと望んでくださっているにも関わらず、私達のうちにあるイエズス様に反するものつまり、罪がその御恵みを拒絶してしまっていること、その罪、欠点を真剣に取り去り、克服する事によってイエズス様と完全に一致する事が出来るようになると伺いました。私は自分の弱い部分をずいぶん昔から気づいているのに、今だに克服できていないことがあることを深く反省し、恥ずかしくなりました。神父様がおっしゃるようにイエズス様を完全にお受けする事が出来るよう『真剣に』毎日、自分の欠点を克服できるよう、善きお母様であるマリア様に必死で助けて頂く決心をいたしました。


16日の御ミサあとには公教要理がありました。対神徳のひとつ「信仰」について深く勉強しました。

●信仰は、唯一の真理である天主を対象とし、その動機も天主の権威に基づき、天主が述べられたが故に信じなければならない、天主からくる超自然の徳である。

●人間には自由意志が与えられており、自分の意志で天主を信じることを選ぶときそれは功徳になり、逆に言えば信仰の徳を与えるために天主は私達に自由をあたえられたとなる。

●信仰には「完全な信仰」(fides formata)と、「不完全な信仰」(fides informis) とがあり、どちらもまことの天主を信じているが、「完全な信仰」が真理を知り、その掟に従い、善を行い聖性の状態であるのに対し、「不完全な信仰」は頭の中で知識的に天主が真の天主であると知ってはいるが、罪の状態で聖性の状態ではなく、信仰の徳ではない。

●信仰が深いとか浅いとかどのようにはかるのかというと、聖トマス・アクイナスによれば、人は「知性」と「意志」の両方をもって信仰の大小をはかる。つまり天主の神秘をよく知り、意志を持って善行をおこなうこと両方を加味して信仰が深いかどうかをはかっているのです。(聖母マリア様ほど信仰が深い方はいらっしゃらないというのは、マリア様ほど天主の神秘をよくご存知で、ご自分の意志を聖霊と一致されて聖霊のお望みのまま全てを善く行われたという意味になるだろう。)

●信仰を得るには
1、信じるべき事柄を提示される恵みと、
2、それに同意する恵みの二つのお恵みが必要である。
●信仰を持つと、1、天主に対する畏れ(畏敬)が生じ、2心が浄められる。


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 14人(内、子供1人)
女: 27人(内、子供2人)
計: 41人(内、子供3人)

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