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秋田巡礼-霊的講話【2】-2016年5月4日シュテーリン神父様「天主の憐れみとはどういうことか」

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2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話2
「天主の憐れみとはどういうことか」
-憐れみの御母を深く知る為に-
同時通訳:小野田圭志神父

では続きをお話します。

今年は憐れみの聖年ですので、「憐れみの御母であるマリア様」についてお話しをしたいと思います。憐れみの聖年については、また後にしばらくしてからお話しますが、まず最初に「憐れみの御母」、つまりマリア様の中に深く、もっと近くに皆さんを連れて行きたいと思っています。マリア様のその存在の深みの中に深く入っていく為には、マリア様の色々な、どのような方であるか、色々な角度から考察しなければなりません。

コルベ神父様によると、ルルドの観点は、マリア様の「無原罪の御宿り」です。ファチマは、「汚れ無き御心」です。或いはマリア様を「元后」として、「女王」として考える運動もあります。

例えばコルベ神父様と聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様を、「母」であり、「元后」として「女王」として見ました。

教会の非常に初期からあったのが、この「憐れみの御母」という称号です。「天主の御憐れみ」、「マリア様の憐れみ」という事は、まぁ一応言葉の意味は分かります。イエズス様の「憐れみ深い聖心」、マリア様の「憐れみ深い御心」というのは、「愛する御心が私たちの、惨めな私たちに愛を注いでいる」という事です。

どのような本物の御出現であれ、それが本物であれば、「マリア様がこのような、このように罪人を憐れんで下さる」というタイトルに気が付きます。

今日の午後、私たちは秋田のマリア様のその御像の前に行きますけれども、皆さんが何千何百万ものお願いをマリア様に捧げる前に、まずマリア様のその御顔をご覧になって、マリア様を眺めて下さい。ご覧になってマリア様に、「あぁ、御母マリア様よ。み母マリアよ、御身は何とお優しく、何と憐れみ深い方でしょうか。私にとって、私にどれほどの優しい方だったでしょうか」と祈って下さい。

マリア様の御像、或いはイコン、或いは御影の中には、特に「憐れみの母」という事をよく表しているものがあります。

ファチマのマリア様には2つの御像があります。マリア様が最初に現れた時の、「手を合わせて雲の上に立っている御像」です。第2の御像は、御心、「ご自分の御心を見せて、両手を開いている御像」です。これは第2の御出現に基づいているものです。第2の御像をよくご覧になってこれを黙想すると、「マリア様がどれほど御憐れみに満ちた方か」という事がよく理解できます。

北欧のヴィリニュスという所には、最も太古からあるマリア様のイコンがあります。このイコンのタイトルが、「憐れみの御母“Mater misericordiae”」です。この個人的な話で申し訳ありませんが、私には本当に一番好きな所です。何故かというと、このイコンの、奇跡を起こしているイコンの2m先まで近付いて、この前に跪いてお祈りする事ができるからです。誰もそこに行った人は同じ事を思います、「マリア様は本当に、憐れみ深い御母である」と。


グアダルーペでも同じ事を感じます。ちょうどこのヴィリニュスのマリア様と同じように、グアダルーペのマリア様も私たちの方に目を眼差しを向けていて、マリア様に馳せ寄って来る人たちに全て、「憐れみで包みたい」という態度を見せています。

「憐れみの御母」という事をよく仰って、説教をした3人の聖人たちがいます。中世の偉大な教会博士であり教父、クレルヴォーの聖ベルナルドです。聖コルベ神父様は、クレルヴォーの聖ベルナルドをよく引用するのが好きでした、「天主は、正義であって憐れみである。しかし天主は、『憐れみ』というその属性をマリア様に全て与えて、自分は『正義』というタイトルだけを持つ事を望んだ。」ベルナルドはこう言います、「おぉマリアよ、天主は御身に、憐れみの秩序の王国を全て委ね給うた」と。

この言葉をよく、よく、よく、黙想しなければなりません。聖コルベ神父様によると、「もしもマリア様のこの中に入ろうと望むならば、この言葉からスタートしなければならない」と。

皆さん、これから少し深みに入るので、難しいと思われるような話しをするかもしれません。しかし皆さんあの、睡眠時間にならない事を期待しています、司祭がその神秘の深みに深めれば深めるほど、皆さんの頭を深く深く沈んでいくという事がないように。(^_^;)

まず、「憐れみの御母」という事を理解する為に、「憐れみ」という言葉が理解できていなければなりません。ところでとてもおもしろい事が起こっています。教皇様が「憐れみの聖年」聖なる年を宣言したのですけれども、「では、一体憐れみとは何か?」という事を深く私たちに説明しようとする方がいらっしゃらないのです。

よく起こる事ですけれども、「言葉は表面的に使うのですけれども、その一体何を意味するかよく分かっていない」という事がよくあります。よくこのような人々は、「自由!」「自由!」「自由!」と言いますけれども、でも「自由」という言葉の本当の意味を知っているのでしょうか?

また人々がよく使って、乱用してさえいるのが、「愛」という言葉です。「愛」という言葉の名前で全ての事をしています。カトリックの中でさえも、「愛」というものが本当は何を意味するかよく理解していない人がいます。

この私たちの人生と、聖なる宗教のキーワードである「憐れみ」という事の、その言葉の何を意味するのかをよく知らなければなりません。

では、「憐れみ」という言葉の本質と、そのエッセンスを黙想します。

「憐れみ」というのは、天主様の「属性」です。天主様は、天主様の属性というものには他に何があるかというと、「全能」であったり、「全知」であったり、或いは「全善」であったり、「永遠」であったりします。天主は「単純」であって、天主は「愛」であって、天主は「憐れみ」であります。

「憐れみ」というのはラテン語では、「misericordiae」と言います。この「憐れみ“ misericordiae ”」というのは、3つの言葉が含まれています。1つは「miser」という言葉。次に、「cor」です。その次に、その「miser」と「cor」の間に「i」という言葉で音で繋がっています。「misericordiae」の「miser」の意味は、「憐れ」という意味です。憐れであって、悲惨であって、もう目も当てられなくて、どうしようもなくて、もう助けを必要としている、という状態です。「misericordiae」の「cor」というのは、「心」という意味です。

では「憐れみ」とは何でしょうか?

まず「憐れみ」という言葉の中には要素の中には、「憐れ、惨め」という意味があります。これが私たちの今置かれている状況です。何故かというと、私たち被造物は自分では何も無いからです。私たちは貧しい「無」です。聖マキシミリアノ・コルベ神父様は皆さんの事を、「0(ゼロ)だ」と言っています。0。全く0。何にもない「無」、0です。全てが欠けています。もしも喉が渇いたとしても、自分で喉の渇きを癒やす事もできません。裸です。その私たちは自分の弱みを痛いほど感じています。

皆さんが一番よく、「無である」という事を感じるのはいつでしょうか?病気の時です。病気の時はもう弱々しく、もう惨めで、憐れな状態に陥っています。病気であればあるほど、病気が苦しければ苦しいほど、ますます憐れです。

「心」は命の源です、命です。ここでは実は、「天主様の聖心」の心の事を話しています。天主様の、命の源である天主様の「心」は、全てを持っています。天主の聖心は、「存在の充満」です。無限の大洋の大海の海のその豊かさです。

皆さん、この「憐れみ“ misericordiae ”」の中には、2つの両極の極端が1つに混ざっています。1つは「無に等しい憐れ」と、それから「豊かな無限の富である天主の心」です。1つには「究極の貧しさ」、反対には「究極の豊かさ」があります。一方では「無」があり、もう片方では「存在の充満」があります。一方には「惨めさであり、病気であり、病であり、死」があります。もう一方には「若々しさと、命と、喜び」があります。

ところで憐れみの本質というのは、この両極端が1つに混ざっているところに本質があります。この豊かな充満、「存在の充満」である心が、「無」に心を留めるのです。「無限の豊かさ」が、「惨めな、憐れな無」に心を留めます。光は、この闇を照らそうとします。この富が、裸を衣を着せようとします。生ける泉の生ける水は、この渇ける無を癒やそうとします。在りて在るものが、無を満たそうとします。

聖トマス・アクイナス、これは神学者の中で最も偉大な神学者ですけれども、「憐れみ」という天主の属性についてそれに言及して、「『憐れみ』というのは、天主の属性の中で最も偉大な属性である。」

皆さん反論を出すかもしれません、「聖トマス様、でも旧約聖書によると、『天主は在りて在るものである。』在りて在る、この『在る』というのが、天主の一番最も重要なものであって、『憐れみ』ではないのじゃないですか?聖トマスよ。」「しかも新約聖書によれば、『天主は愛である』と聖ヨハネは言っています。だから憐れみではなく『愛』が、天主の真の最も大切な属性です、聖トマス様。聖トマス・アクイナス様、本当に最も最高の神学者なのでしょうか?」

聖トマス・アクイナスは、こうその反論に異論に回答しています。

天主の「憐れみ」というのをよく頭の中に記憶させて下さい。永遠の天主、無限の大海の海であるかのような天主、この大海の大海原と比べると、水の一滴でさえもないような、無である私たちをご覧になる。この無限の在りて在るものが、この無に等しい、全く無いに等しい「無」に関心を抱いている。

皆さん、皆さんは家でお掃除をする時に、この机の上に溜まったちょっとゴミの中に、「あぁ、偉大なゴミ。ゴミよ、塵よ」と仰るでしょうか?天主様は、この無に等しいゴミとか、この塵に等しい、もう何でもないような私たちに関心を持って、そのこのゴミに自分の豊かさを注がれるのです。

皆さんは私たちは在りませんでした。無でした。存在していませんでしたが、それを存在させられて在らしめられました。皆さん持っていなかった才能、能力を、天主様は与えました。全く無である私たちは、無償で天主様からものすごいものを受けて、受けて、受けて、受け続けています。

確かに天主様は「愛」です。どのような行動でもその最初に、天主の愛がありました。「愛」というのは天主様の「善性」です、「善さの表れ」です。

天主様について2つの事をよく区別しなければなりません。「天主様の内的な命、内的な生活、内的な天主それ自体」と、「天主が被造物に対してなさる行為」という事です。この2つを区別して下さい。

「天主様の内的な命」というのは、過去あり・現在あり・将来あるだろう全てのものの中で最も偉大な神秘です。

私たちはこの世の事や、この人生の事で頭がいっぱいになっています。私たちは「人間人類の歴史がどうだ」、「この私の祖国はどうなる」、「過去どんな事があった」、「教会がどうなる」という事に関心を持っています。で、「一番大切なのは私の、私の生涯だ。」

では皆さん、この地上に生きた、将来生きる全ての人類一人一人を皆集めて、その人生を全部集めて下さい。全人類の歴史を、その最初から最後まで全部集めて下さい。世界中に存在した、存在するだろう全ての国々と、王国と、共和国を全て集めて、しかも天使たちの国も集めて下さい。それら全てを集めたとしても、「天主様の内的な命」と比べると無に等しいのです。

皆さん、大海の太平洋にある大海原の全ての水一滴一滴を数えて下さい。この大海の大海原の水全てを集めて、この水の一滴、この瓶にピタッと付いている一滴の水を比べて下さい。しかし天主というのは、この大海の大海原の全て集めても、それは無に等しいような、天主は更に大きな無限の存在です。この全世界は、この一滴に比べるよりも更に小さな存在です。

イエズス様は、この天主御父にこう祈りました、今日の福音書を見て下さい、「父よ、御身は私をこの世に送られ給いました。私はこの世を今去って、御身の元に戻ります。」

皆さん、この天主からイエズス様が送られて、またイエズス様が天主の元に戻る、というこの回帰の、この回転のようなこの大運動を見て下さい。天主御父は、その無限の存在、その全ての愛、全てを御子に与えます。この大海の太平洋の大海原の全ての水が、もう全て別の大海に全てを流れ尽くしたかのようです。御子は、その全ての天主御父から受けたその愛と、全ての存在を、もう一度跳び喜ぶような喜びで、御父にまた戻します、返します、愛で返します。

教会の博士たち、教父たちは、「御父からそのものすごい大海の波のうねりが御子にドワーッと流れて、御子からはその御父に対して、愛の返答の流れがドワーッと流れ出て、この御子と御父の愛の激流の流れの後に、このまた愛の、愛がまたほとばしり出る」と表現しています。「この大海のうねりの交わって、その柱のように飛び出るようなこの海の流れが、聖霊の発出だ。」

皆さんの内の多くの人は、私に納得しています。もちろんこれこそが天主の、救われた天国にいる、救われた霊魂たちが目の前に目の当たりにする、三位一体の内的命のその秘密の、その神秘の事なのです。これが聖三位一体の真理、玄義です。これが愛の定義です。

もしも皆さんの前に、この御父から御子に対する愛の流れ、御子から御父に対する愛の激流、御父と子とその愛の結晶のその激流による聖霊の発出というのがなければ、聖三位一体に対する正しい概念を持っていない事になります。

15世紀以降、三位一体のこの玄義が、何か退屈な面白くない事になってしまっています。昔は少し前までは、「聖三位一体」という事について、非常に深い感動と興味を持っていました。でも現代、21世紀のカトリック信者の信仰は大体どんなものか知っていますか?ユダヤ教的であってイスラム教的です。これが、多くのカトリックが考える「あぁ、何か天のどこかに隠れて隅っこにいる、いとも高き御方である」と。「この世を創った建築家。」でも、この天主が一体どのような方か、あまり興味もないし関心もない。

何故私がこう言うかというと、「天主」、私たちを愛する天主、この愛の激流である天主、愛を御子に与えて、御子が愛を返すその天主、ものすごい私たちの関心をそそるべき天主に、皆さん関心がないからです。

皆さん、皆さん私たちの命は天主から来て、天主に帰るべきもので、その後では誰も、私たちの事を思い出す人はいなくなるでしょう。今21世紀のこの「教会の危機」というのは、数十年後にもう解決されて、「もうこの話は昔の話だ」と言って、誰も話さなくなるでしょう。この地上にいる人は、来て、それからどこかに消えてしまいます。

しかし、天主のみいつも、天主のみそのまま変わらずに留まります。天主はかつて在り、今在り、将来在り続ける方です。天主は愛であります。天主の憐れみというのは、この御自分の一部を皆さんに、「分かち与えたい」という事です。天主は、御自分の持っているものを皆さんに与えたい、分かち合いたい、与え尽くしたい、というこの憐れみというのは何なのでしょうか?

天主が自分の存在を、自分が在りて在るものである天主が、その自分の「在る」を分け与えて、被造物を「在らしめる」、というこの愛の動きを、「創造の業」と言います。

この創造された被造物が、そのまま在り続けて、そのまま天主の愛によって統治され統括され、その天主の支配を受けて在らしめられている、という事を、この愛のこの動きを、「御摂理」と申します。

この創造させ、創造したものを摂理によって統治し、それを聖化し、聖なるものとして天主の命へと導く、この愛の流れを、「憐れみ」と言います。

一体何故、「憐れみ」が天主の最も最高の属性なのでしょうか?

何故かというと、天主様の全ての別の色々な属性というのは、「天主の憐れみの為に、その奉仕の為にあるもの」だからです。

天主は「全能」です。しかしこの「全能である」という事を、この「憐れみの業を為す為」に使っています。天主は「全知」です。全ての事を知っていますが、これは「憐れみの業を果たす為」に使われています。天主は「全善」です。善の塊であって最高の善であります。この善は、自分の在るものを、自分の良さを、自分の存在を、他者にこう分かち与えるのですけれども、これはこの善性は、「天主の憐れみの為の道具」です。

何故私は今このような話しをしているのでしょうか?憐れみの定義を与える為でしょうか?

これは、「天主という方がどのような方か」という事を理解するその助けになる為です。天主様の本質とは、一番大切なものは何でしょうか?皆さんがユダヤ教的な、或いはフリーメイソン的なこう天主の理解の仕方ではなく、本当のカトリックの理解の仕方をしてもらう為です。

もしも皆さんが「天主」という名前で、「どこかのガツンとした冷たい真っ黒い石ころで、それでこの石ころがこの全世界を創った」と考えたとしたら、「何もこう心も無いような冷たい存在である」と思ったら、皆さんはイスラム教的な理解の仕方をしています。

「天主」という事をカトリック的に、キリスト教的に理解したら、「天主」というのは、「いつも心を大きく開いて、私たちを愛して、無限に愛して、限りなく愛して、境なく愛して、私たちに全てを与え尽くしている。」それが天主です。

この「憐れみの天主」をうまく言い表す固有の言い方は、「父」です。

現在のユダヤ教の天主の神、或いはイスラム教で言う神、或いはフリーメイソンで言う神、これは「父」ではありません、だから「本当の天主」ではありません。

ですから、聖トマス・アクイナスは言葉を続けてこう言います、「憐れみというのは、天主の御業の全ての御業の原因のまた原因である。」【ここでシュテーリン神父様は、聖トマス・アクイナスの言葉をラテン語で引用されましたが、その翻訳はしなくても良いと言われ翻訳は省略します。】

これを「木」のように例えています。外の木をご覧になって下さい。憐れみ、「天主の憐れみ」というのは、この木の「根っこ」に比較されます。

皆さん、ジャングルの中にいたとして下さい。例えばそのジャングルに入って、1本の幹が、この部屋くらい大きな太々とした幹だったと考えて下さい。アフリカではこれは「木の王」と言います。アフリカに私が行ってその大きな木を見ると、本当にその偉大さに畏れ多くなります。でもそれほど大きな幹があるとしたら、その根っこはどれほど大きいか知っていますか?この目の前にある木の幹はこのぐらいです。でももしもそうだとしたら、根っこはもっと大きく広がっています。この大きな根っこから幹ができます。この幹が高く、高く、高くなればなるほど、根っこは広く、広く、広く、こう深くなければなりません。この木が葉っぱを付けて、花を咲かせて、実を付けたとしたら、その全ての栄養分はこの「根っこ」から取られます。もちろん幹を通って登りますけれども、でも根っこから全てを吸い取ります。

ですから、「天主様の憐れみ」というものを「根っこ」にして、「天主様の御業がなされた」という事を理解して下さい。この木に、たくさんの木の実が成っていたとしたら、おいしい実が成っていたとしたら、それほどたくさんのものをこの根っこが力強く吸い取って、この木に与えた、という事を意味しています。

私たちは自分の、私たち自身の体験に従って物事を理解しようとします。まず、「憐れみ深い人」というのはどういう人でしょうか?

もしも良い先生がいて、教師がいて、その自分の生徒に良い教育を与えて、良い規律を与えるとしたら、これは憐れみの男です。皆さん、もしも皆さんの中に先生がいらしたら、皆さんが良い教師になるか、ならないかのその成功のキーワードは、「憐れみ」です。もしも生徒が皆さんの中に、「本当の意味での『憐れみ』というのがある」というのが分かれば、もしもそれが子供たちが分かったとしたら、それは子供たちが皆さんの持っている知識、良さ、時間、その能力を、この何も頭の中に入っていない、この無知で何も分かっていない子に、愛を込めて、憐れみで、その愛情で教えて、教えて、助けてやったという事で、その子供たちは皆さんの事を決して生涯忘れる事はないでしょう。

でも、私たちがもしも憐れみの業をするとしたら、その動機は様々です。ある時は「天主様の栄光の為」、ある人は「隣人の利益の為」、或いは「国家の利益の為」、或いは「家族の善の為」、或いは「自分の給料を得る為」。

でも天主様はその動機は1つです。天主様は皆さんからお金が欲しくて創造したのではありません。皆さんが必要だから創造したのではありません。天主様は皆さんを創った事によって、何か自分が困ったこう問題を引き起こす事を創った事になります。何故天主が私たちを創造して下さったかというのは、「憐れみ」これしかありません。

永遠の、無限の、普遍の善である天主は、ただ単に憐れんで、与え、与え、与える為だけに、今ここで皆さんに与える為だけに創造されたのです。

マリア様も同じものを受けました。マリア様も天主様によって与えられて、与えられて、与えられたので、マリア様はただ喜んでこれを他の人にこれを与え、与え、与えるのを喜びとします。

でもところが、その喜びのはずのマリア様は涙を流しています。この秋田で何故涙を流したか、その主要な理由が分かりますか?

何故かというと、皆さんに「与えたい」、「いつも、いつも、与えたい、与えたい」からです。マリア様の御手は、天の宝物でもういっぱいなのです。マリア様の御心は、「与えたい」という愛でもうはち切れんばかりです。もう与えるお恵みでいっぱいなのです。天使は言いました、「聖寵充ち満てる御方よ、」それは皆さんの為です。でも私たちはそれを望まないのです、受けたくないのです。マリア様が皆さんのドアをノックするのですけれども、でもドアは開かれないのです。皆さんはこのマリア様からの宝物を、お恵みを必要としています。もしもそれを受け取らないならば、地獄に行ってしまいます。

皆さん、マリア様の涙はまず、まず皆さんが「天主様を侮辱したから」というのが最初ではありません。もちろんこれはそうですけれども、もっと深い理由があります。マリア様がお現れになった時に、「心は固く閉ざされていたから」です。マリア様はこうお現れて、「子供よ、いらっしゃい。私には天と地の全ての宝物がありますよ。あなたの為に天主様の命が全てありますよ。私の手にはあなたの幸せがあります。来て下さい、いらっしゃい。皆さん来て下さい。ここに何億円のお金があります、このお金を受け取って下さい、お願いですから受け取って下さい、そしたら私の涙は止まります。さぁ、お金を取って下さい。」

皆さん、皆さんの中でお金持ちがいて、ポケットの中に1兆円あったとして下さい。その方が誰かに「与えよう」と、「あげたい」と思っています。その為に一生懸命働きました、与える為に。もしもそれを与えるならば、本当に嬉しいのです。もしもそれをですね私に為に与える為に、私に与えてくれる為だけに働いてくれました。与えたくて与えたくてしょうがないのです。空港からタクシーに乗って、「あぁ、神父様にお金をあげよう。あぁこの為にもうたくさん一生懸命働いた。」私の部屋に来て、ノックします、「神父様、あのね、あの、僕あの、プレゼントがあります。」神父様はポケットの中に1銭もありません。神父様はこのホテルクリプトンにどうやって料金を支払ってよいか分かりませんでした。その他にも教会で借金を払わなければなりませんでした。神父様はここでドアを開けて、「あぁ!」と、「よく来てくれた!」と言わなければなりません。「天主様はあなたを送って下さったのですね!」ところが、神父様は部屋の中でこの音楽を聞いていました、ズンカ、ズンカ、ズンカ、ズンカ。「神父様?いらっしゃいますか!?おはようございます、神父様!プレゼントがあります!」「えぇ!ちょっと待って!」10分待たされます。ドアが開いて、「何か用ですか!?」「神父様、1兆円のプレゼントがあります。」「出て行け!」ドン!(ドアを閉める)

これはマリア様の、これが私たちのマリア様を泣かせる態度です。マリア様は私たちに与えたいのです。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

秋田巡礼-霊的講話【3】-2016年5月4日シュテーリン神父様「天主の正義と憐れみは完全に調和する」

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2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話3
「天主の正義と憐れみは完全に調和する」
同時通訳:小野田圭志神父

「天主様の憐れみ」というものが何か、人間の弱い言葉と弱い概念を使って何とか説明しようと努力してみました。

私たちは、天主様の全ての業が、深く、憐れみという事に根付いて、それを原因としている事を確信しなければなりません。この世を創造された事、この世を創造して御摂理によって保ってくれる事、それは憐れみの御業です。

天主様が人となって御託身をされた事、人となられた天主が、十字架の上で命をかけて御血潮を流されて贖われた、贖いの業、これも憐れみによるものです。

私たちを浄め聖化して下さる、これも憐れみの業です。

私たちに永遠の報いを与え、自分の本当の子供として受け取って下さる、養子として下さる、という事も憐れみの御業です。

この「天主の憐れみ」というものは、天主の属性全てを一つにまとめます。

ところで、天主の属性の中には、「憐れみ」という事と対立する属性があるかのように思われます。それは「正義」です。

しかしこの「天主の正義」という事は、よく使われるのですけれども、その深い意味を理解していないかのように使われています。この「天主の正義」という事については、悪い、或いは正確に言えば、十分でない理解の仕方がよくあります。ですからこの悪い間違った理解の仕方によって、「天主は正義である。『しかし』同時に憐れみ深い」などという言い方をします。

では、「天主の正義」とは何でしょうか?

「正義」というのは「義」というのは、「その各自に、それに相応しいものを与える」という事です。ラテン語では「Suum cuique」と言って、「それぞれに、彼のものを」という意味です。

「天主が正義である」という事は、「まず天主が、自分の本性に相応しい、与えなければならないものを与えて、私たちに、それに与えなければならないものを与える」という事です。つまり「善い善人には報いを、悪人には罰を与える」という事です。

何故かというと、「正義」というのは、「天主様が聖である」という事の表現の1つであるからです。「正義」という事だけが、「秩序と調和」を生み出す事ができます。「正義」という事が、「各人が、正しく持つ権利であるもの」を与えます。ですから、「善人」には「報い」を、「悪人」には「罰」が与えられます。

聖ヨハネはこの正義について正しく表現しています、「天主は光である。従って、彼には闇がない。」

「正義」というのは、「真理を守る徳」です。正義は、善を守り光を保護します。善を守り、悪から汚れたものから破壊を防ぎます。誤謬から真理を守ります。悪から善を守ります。汚いものから美を守ります。死から命を守ります。暗闇から光を守ります。天主は光であって、その中に闇はありません。

罪とは何でしょうか?罪とは、「偽り」であって、「悪」であって、「汚れ」であって、「死」です。罪が現れると、光の中に闇が現れます。

しかし正義は、その暗闇を除去します。正義は、負債があればそれを支払う事を要求します。罪、或いは悪がなされれば、それに対して償いがなされなければなりません。審判者には正義の徳が要求されます。

ここで表面的な問題があるように思われます。原罪を犯した後に私たちは、天主を非常に多く屈辱しました。私たちが罪を犯せば犯すほど、無限の負債を天主に負います。しかし負債は必ず支払わなければなりません。私には支払う事ができません。

天主は私の霊魂を、極めて美しい宮殿として創りました。この宮殿は天主に属しています。この天主から与えられた、天主に所属しているこの宮殿を、私は乱用して、まずく使って、それを乱用しようとしました。

きれいな宮殿を、罪を犯す度にハンマーを持ってガツン!ガツン!と壁を壊し、窓ガラスを壊し、柱を壊し、破壊しようとするのが、これが「罪」です。

天主様の前で、廃虚となった宮殿を提示するのです。このような廃虚は天主の前に差し出す事はできません。

もう一つの例をあげます。天主様は非常に美しい「美」を作りました。ところがこの美しい芸術作品に、私は泥を塗り、汚物でそれを汚します。

皆さん考えて下さい、この美しく、このように花で飾られたきれいな祭壇に、誰かがいきなりやって来て、その中に汚いバケツの中に汚い汚物を入れて、もう臭くて臭くてたまらないものをブワーッ!とこの祭壇にみなかけたら、皆さんは「あぁっ!」と驚くではないでしょうか。

この「正義」によって、秩序を保つ為に、調和を保つ為に、全てのこの美を保つ為に、全ての罪をこの汚物を除去しなければなりません。

でも天主は憐れみ深い方です。ではどうやってそれが両立するのでしょうか?

両立するのは難しいかのように思われますが、その解決の仕方が間違うと異端になります。異端の特徴は、正義と憐れみを「対立させる」事です。あたかもそれが互いに矛盾しているかのように。

ある異端は従って、「憐れみを生かす為に、天主の正義をほっぽらかしてしまう」という異端で、或いは正義を、「天主の正義を生かす為に、天主の憐れみを打ち捨ててしまう」、これも異端です。

これは、天主の正しい理解が欠如していた、という事の結果です。また私たち自身、私たちの救霊の業を理解していなかった事によるものです。

ではプロテスタントは何を教えているでしょうか?

ルターはこう言います、ルターによれば、「天主は罰を与えない。」ルターによれば、「天主は憐れみだから、その何かカバーで罪をかぶせて見えないようにして、美しいマントをかけてカバーをかぶせて、それで覆ってしまって見えないようにするだけだ。本当は罪人なのだけれども、あたかも罪人ではないかのように、美しいかのように取り扱ってくれる」と言います。「天主様が、この崩壊して汚い汚物だらけの宮殿の、霊魂の宮殿にきれいなマントをかけて、『ああ何と美しい宮殿でしょうか。』と言ってくれる」というのがルターの解決策です。

ルターによれば、「罪人とは従って永久に罪人で、罪はそのまま残る」と言います。「しかし天主は聖人であるかのように取り扱ってくれる」と言います。「この多くの汚物はマントにかぶせられて、そのまま天国に受け入れられる」と言います。

ですから「その罪と汚物をそのまま持ち続けつつ、天国にいる」という事になります。「天主は正義の要求を無視して、『私は憐れみ深いからいらっしゃい』と言う。」「天主様はこうやって私たちを、そういう私たちを受け入れてくれるので、私たちは自分を浄める必要はない。だから苦行よ、さようなら。告解よ、さようなら。罪の償いよ、さようなら。」ルターによれば、「罪を力強く犯せ、しかし更に力強く信じよ。」

この間違った考えは、「天主が一体どのような方であるか」という事を誤解させ、「私たちが人生において、罪の償いを果たさなければならない」という事を忘れさせます。

ところで私はルター派の牧師たちに黙想会の指導をしました。このルター派の牧師たち自身が私に言った事ですけれども、「この役立たずのルターは、私たちの仕事を全く、人生を役に立たなくしてくれる。何故かというと、私たちが何をしても、全く役に立たないからだ。」

ルター派、プロテスタント自身が言うのですけれども、「プロテスタントには聖人がいない。聖人にはなれない。誰も聖人ではない、聖とはなれない。聖とする事ができない。何故かというと、私たちは汚いまま、罪人のまま残るからだ。ただカバーがかけられただけだ。」

「天主様だけが聖で、いくらイエズス様が、『回心せよ』とか、『罪の償いをせよ』と言っても、全くそれは無駄な言葉だ」という事になります。

皆さん、これはカトリック教会に対する何という大きな一撃だったでしょうか。「新しいミサは、1969年に、ルター派の牧師たちとの合意のもとで作られた」という事です。新しいミサによると、もうそのミサの中の祈りの中には、私たちが「罪の償いをする」、「苦行をして罪を償う」、或いは「地獄の罰が待っている」という事はもう語られません。そのようなものは「無い」のです。これが現代の新しいミサの霊性であって、近代主義の霊性です。罪に対する戦いは必要ないのです、新しい考えによると。良い人であればよいのです。

その結果は何かというと、天に復讐を叫ぶものすごい罪を犯しても、例えば同性愛、或いはその他多くの罪を犯しても、「あぁ、OK。何でも良いのです。天主様は皆さんを愛していますよ。」

「これが、」現代の人によると、「これが、天主の憐れみだ」と言います。「天主様は本当に優しいパパだから、盗んでも良いし、殺しても良いし。憐れみに、憐れみに、憐れみに満ちているから、地獄に追いやる事は決してありませんよ。何でも罪を犯して良いのですよ。」そこで多くの人が、残念ながら教会の指導者たちもよく、「あぁ、地獄はあっても空っぽだ」とか、「誰も地獄に行かない」などと言います。

という事は、「天主の正義というのは無い」という事になってしまいます。でもその結果として、「秩序」、或いは「美」、或いは「聖性」「聖なる事」という事さえも破壊されてしまいます。

それが現代起こっている教会の混乱です。

ニュースによると、昨日か一昨日、カテドラルの中で司教様が自転車に乗ってやって来てぐるぐる廻ったのだそうです。何故かというと、その青年の為のミサでその青年はスポーツをする人たちだったそうで、その青年たちの気に入る為に。これが、どうやって、教会の中にある典礼の聖なるものであるという事が壊されているか、という事の見本です。この教会の中の美しい歌、 聖歌、或いは侍者の美しい動きなども、こういうダンスで壊されてしまっています。

その反対もあります。それがジャンセニストです。ジャンセニストは、天主の正義を守ろうとしました。天主を厳しい方である、正義の方である、と高く上げて、その為に憐れみを地に落しました。

このジャンセニストの影響は、20世紀の個人的なそういう祈りの中にも少し残っていました。年配の方々からまた昔の年配の方々が、「天主様は厳しい御方であって、厳しい会計士であって、その最後の1銭1毛まで払うのを要求する厳しい取り立て人だ。キリスト教の信者の生活とは、それが最後には借金を全て返すか返さないか、それをちゃんと払ったか払わないかを、ちゃんと払う事がキリスト教の使命だ」と。
「憐れみ、或いは優しさ、これは天主の属性ではない。何故かというと、天主が弱いという事を意味するからだ。」

時々カトリックの人も誤解して、「私に害を与えた人に対して優しかったり、その人を許してあげたりする事は、弱さのしるしだ」と誤解する人がいます。

これに対する近代主義の反応があります。それは、「天主があまりにも良い方なので、イエズス様は悪の前に目を閉じる」と。

でもこのような異端と誤謬を排して、カトリックの教えはその中庸に立っています。

この今から話す事は、非常に大切です。

この天主様の中に、「善」と「美」と「正義」が「調和」していなければなりません。

悪と汚物と罪は、闇が消え去らなければならないように、無くならなければなりません。負債は払わなければなりません。私は自分では悪を除去する事もできなければ、負債を支払う事もできなければ、闇を取り払う事もできないので、私を取り払わなければなりません。本来ならば、天主の正義は私を打ち砕き、私は永遠の罰を受けなければなりません。私は、罪の為に1000の地獄を受けて当然です。もしも正義の審判官が私に正義の宣告をするならば、そうして当然です。

皆さん、皆さんの愛する家族の、その家族がある男によって残酷に殺され、その残酷に殺したのみならず、それを強盗で、その皆さんの持っていたお金を全部奪い、捕まったとします。裁判が行われますが、裁判で審判官が、「あぁ、この被告は俺の友達だ。自由、釈放。」と言えば、皆さんどういう態度を取るでしょうか?「これは公平ではない!不正だ!不正義だ!」

もしも皆さん、政府がこのような事をしたらどういう事を言うでしょうか?「全世界の不正!腐敗!なぜ善人は罰せられ、悪人は誉められているのか!」と。

私は罪を犯す事によって、殺人犯であり、盗人であり、本当に悪人となりました。しかしその罰せずにそのまま解放される事ができるでしょうか?私たちは皆全て、このような罪人ですから、地獄に行かなければなりません。

ところが天主の無限の憐れみによって奇跡が起こります。1つのチャンスがあります。もしも無限の負債があって、支払いきれない時にどうしたら良いでしょうか?

誰かとても金持ちの友人がやって来て、皆さんの代わりに支払って下さる方がいます。「友よ、君は僕の友達だ。僕が代わって支払ってあげよう。」

或いはコルベ神父様のように、「フランシス、お前結婚して子供がいるよね。もしもお前が今死んじゃうと家族が食っていけない。だから僕が代わりに、身代わりになろう。」と言うのです。

コルベ神父様はこのフランシスの代わりに、男の代わりに自分で飢餓室に入って、死んでいくのです。コルベ神父様はフランシスの罰を自分の肩に背負って、身代わりになりました。

天主御父は、御自分の御子をやはり私たちの身代わりに送ります。天主様の御子は私たちのうちの一人となって、私たちの負債を背負う為に人となります。これは天主御子が私たちに近寄って、「お前の負債をみんなおくれ。私がそれを支払ってあげよう」と言う事ができる為です。

有名な映画の絵があります。誰かが死刑を受けて、この死刑の判決の執行その直前の事です。その時に親友が突然やって来て、彼の前にバッと立ちふさがって、その弾丸が自分に当たって友を助けるのです。

「友人の為に命を与えるほど大きな愛はない。」これこそが最高の「憐れみ」です。

私が罪を犯して、イエズス様が支払ってくれました。天主様の罰の剣が私の目の前にグワッと下りるところを、イエズス様はその前にバッと立って、それを受けてくれました。

この天主の正義の剣の効果はどのようなものだったかという事は、イエズス様の御受難と御死去によって現れます。天主の正義はきわめて満足され、、「これで良し」とされました。天主の正義と、天主の美と、秩序は、こうして復興されました。これこそが、この「正義」が確立した時こそ、天主の最も、被造物が見た事のない「憐れみ」が現れたのです。

これがカトリックです。これが聖伝のミサです。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

「ロザリオについて」聖なるロザリオの神秘と黙想:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「ロザリオについて」のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月9日 聖霊降臨後の第21主日―大阪 お説教「ロザリオについて」
親愛なる兄弟の皆さん、

十月はロザリオの月です。特に今月は、聖なるロザリオを唱えることを励ますのが教会の習わしです。教会は、今月毎日ロザリオを祈る習慣を持つことで、信者がこの聖なる習慣を一年中続けることができるよう望んでいます! 教皇レオ十三世はこの信心を励まし、多くの贖宥を与えましたが、この信心はレオ十三世よりもずっと前からあるものです。

聖なるロザリオは十三世紀の初め、聖母御自らによって聖ドミニコに与えられました。回心の恩寵、聖性の恩寵、罪に対する勝利の恩寵といった数えきれないほど多くの恩寵を得る手段でした。また、これによって、まことの信仰の敵、特にイスラムに対する有名な勝利を得たのでした。レパントの海戦やウィーン包囲での勝利、またその他の有名な勝利です。聖なるロザリオの祝日自体は、教皇聖ピオ五世によって十月七日と制定されました。この日はレパントの海戦の勝利の記念日でした。最初は「勝利の聖母の祝日」と呼ばれ、のちには「いとも聖なるロザリオの祝日」と呼ばれました。

ファチマの三人の子どもたちが、彼らが見た美しい婦人にその名前を尋ねたとき、婦人は「私はいとも聖なるロザリオの婦人です」と答えました。ファチマの何回かのご出現は、一九一七年十月十三日の有名な奇蹟で頂点に達し、このことは、聖なるロザリオへの信心をさらに広めました。では、教会がこの信心をそれほど強く勧めているのはなぜなのでしょうか? 天主ご自身が、この信心を通じた奇蹟を起こしてまでこの信心をお勧めになるのはなぜなのでしょうか? それは、聖なるロザリオが、キリスト教的完徳を獲得し、私たちの霊魂を救うための素晴らしい手段であるからです!

実際、キリスト教的完徳の本質は、私たちのうちに生きておられる私たちの主イエズス・キリストにあるのです。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身を渡された天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。これは、私たちの主イエズス・キリスト、天主の御子ご自身が天から降りて来られた目的そのものです。「私は羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。その「豊かな命」とは、永遠に続く命、永遠の命のことです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。永遠の命の本質は、天主の知識と天主の愛にあります。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります」(ヨハネ17章3節)。

知識に天主の愛がない場合は、大変不十分な知識になるでしょう。なぜなら「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまられる」(ヨハネ第一4章16節)からです。このため、聖ヨハネはこう言います。「愛のない者は天主を知らない。天主は愛だからである」(ヨハネ第一4章8節)。その天主の愛と知識を、私たちの主イエズス・キリストを観想することによって私たちは得るのです。「私たちに対する天主の愛はここに現れた。すなわち、天主はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちを御子によって生かすためである」(ヨハネ第一4章9節)。

観想とは、私たちの主イエズス・キリストへ愛に満ちた眼差しを向けることであり、私たちをイエズスとさらに強く一致させようと望み、私たちをイエズスの死の神秘においてイエズスと一致させようと望みます。そうすることで、私たちをイエズスのご復活の神秘においてもイエズスと一致させるようになるでしょう。実際、「私たちは天主の子である。私たちが子であるなら、世継ぎでもある。キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは天主の世継ぎであって、キリストとともに世継ぎである」(ローマ8章16-17節)。ここには、ロザリオのすべてがあります。キリストにおいて「私たちは天主の子である」という部分、ここは喜びの玄義です。「その苦しみをともに受けるなら」という部分、ここは苦しみの玄義です。「キリストとともに光栄を受けるために」という部分、ここは栄えの玄義です。

同じように使徒信経にも、ロザリオのすべてがあります。つまり、ロザリオには使徒信経のすべてがあるのです。実際、使徒信経の中心は私たちの主イエズス・キリストへの信仰です。主は「聖霊によりて宿り、童貞マリアより生まれ」―ここは喜びの玄義です―「ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架に付けられ、死して葬られ、古聖所に降りて」―ここは苦しみの玄義です―「三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる天主の右に座し」―ここは栄えの玄義です。気を付けていただきたいのは、使徒信経は主の童貞聖マリアからのご誕生からポンシオ・ピラトの管下での主の御苦しみへ、つまり喜びの玄義から苦しみの玄義へと直接行くのであり、その間にいわゆる「光の玄義」はないということです。

さて、私たちの主イエズス・キリストのご托身を観想すること、そして特に主のご復活の神秘に一致するため、主のご受難と死の神秘を観想すること、これがロザリオのすべてです! その聖なる御母以上に私たちの主イエズス・キリストを理解した人はこれまで誰もいませんでした。聖母はこれらの偉大なる真理を観想、黙想なさいました。まさに福音書がこう証言しています。「マリアは注意深くそのことを心にとどめて考え続けた」(ルカ2章19節)。ですから、これらの偉大なる真理の正しい理解を私たちが見いだすのは、聖母の汚れなき御心においてなのです。聖母の汚れなき御心が、聖母が非常に深い段階にまで獲得されたその理解を私たちに与えてくださるのです。

特に、私たちが聖マリアの汚れなき御心に見いだすのは、罪に対する嫌悪と罪の償いへの望みです。聖母はファチマでそれを要求しておられます。そして現代世界には、そのような罪への嫌悪が本当に必要です。現代世界の特徴の一つは、罪という概念そのものを拒否していることです。現代人はこう言い張ります。「私は自分のしたいことを何でもすることができる。私にこうしろと言える人は誰もいない。天主でさえも!」。これは恐ろしい冒涜であり、最も忌まわしいいくつかの罪へ、特に現代世界の邪悪さの縮図である妊娠中絶の罪へと扉を開くのです。

しかし、私たちが、聖母とともに私たちの主イエズス・キリストを、お告げの日のご托身から十字架上の死に至るまで観想するならば、私たちは罪に対して絶対に「いいえ」と言うことができるだけでなく、天主に対して「はい」と言い、十字架上の私たちの主イエズス・キリストおよび十字架の下の聖母と一致して、罪を償うために自分をいけにえとして捧げることができるのです。まず自分自身の罪を償うため、そしてこんにちでは非常に増えているこの世の罪を償うために。

実際、お告げが示しているのは、天主が人間を気にかけてくださっていることです。私たちをお造りになった天主は、アダムの罪ののち私たちをお見捨てにならずに、救い主を送るという約束をしてくださり、その約束をお告げの日に実現させてくださいました。その福音書の一節は何と美しいことでしょうか! この第一玄義においては、すべてが聖で、すべてが清く、すべてが愛。年若い少女の前での天使の謙遜。天主の御母として選ばれてすぐ、主の奴隷、はしためとしてご自分を奉献した少女の謙遜。最後に、マリアの子となり、「奴隷の形をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされ、その外貌は人間のように見えた」(フィリッピ2章7節)天主の御子ご自身の謙遜。

天主は私たちのことを気にかけてくださっているだけでなく、非常に愛してくださっていますので、イエズスがマリアのふところにおられたときのように、私たちと最も親密な一致をお望みなのです。主はマリアのうちに生きておられたように、私たちのうちに生きたいとお望みです。天使のお告げはすでに、ご聖体という美しい神秘を告知しており、私たちはそのご聖体によってマリアと同じ恩寵を得るのです。つまり、主がマリアのうちに生き給うたようにイエズスが私たちのうちに生き給い、主が聖母を変容させ給うたように私たちを変容させ給うという恩寵を得るのです。次は美しい祈りです。「ああ、マリアのうちに生き給うイエズスよ、聖性の霊によって、御力の充満によって、御徳の真理によって、御道の完成によって、御神秘の一致によって、来りてしもべのうちに生き給え。御父の御栄えのために御霊によって、あらゆる悪意の力を抑え給え」(聖グリニョン・ド・モンフォール「聖マリアの秘密」)。

聖母のご訪問において、私たちは、天主への愛がいかに早く隣人への愛へと導くかを見ます。天主の御子で満たされて、聖母はすぐに従姉のエリザベトのところに行って手伝いをなさいます。私たちはまた、まことの隣人愛が彼らのところにイエズスをもたらすことにあるのも見ます。また、これはエリザベトの喜びです。「主の御母が私を訪問してくださったのですか。これほどのことがどうして私に恵まれたのでしょう」(ルカ1章43節)。エリザベトとその胎内にいる洗者聖ヨハネはどちらも、マリアのうちに生きておられるイエズスの現存によって聖化されます。エリザベトとザカリアの家がマリアが来られたことで聖化されたように、皆さんの家族は、家族で祈るロザリオによって聖母が来られるときに聖化されることになります。家族で毎日祈るロザリオは、家族全員にとって一日の最も重要な時間であり、数えきれないほど多くの祝福を得る源泉なのです。

主のご降誕において、私たちは、私たちの主イエズス・キリストに対してこの世が反対するのを見始めます。宿はマリアとヨゼフに対して門を閉ざし、その結果、イエズスが来られることによる祝福を得ません。私たちは決して心をイエズスに閉ざさないようにしましょう! むしろ、羊飼いたちのように、よく見張っていて、マリアの腕の中にいるイエズスのところへ行けるよう、守護の天使に従う準備をしておきましょう。「急いでマリアとヨゼフとまぐさおけに寝かされたみどり児を見に行った」(ルカ2章16節)。彼らはイエズスを見つけましたが、それはマリアを見つけたからでした。マリアは私たちをイエズスにお導きになります。三博士を案内した星のようです。「彼らは子どもが母のマリアと一緒にいられるのを見た。彼らはひれ伏して礼拝した」(マテオ2章11節)。マリアは私たちに、私たちの主イエズス・キリストのご神性を、私たちが礼拝し、崇拝するにふさわしいご神性を教えてくださいます。私たちの主イエズス・キリストを礼拝するのを拒否する人々は天主を知らないのです。「御子を信じる者には永遠の命があり、信じようとしない者は命を知らず、その人の上には天主の怒りがとどまる」(ヨハネ3章36節)。

主の神殿での奉献において、私たちはマリアとヨゼフが律法に従順であることをたたえます。お潔めを要求する律法から聖母を免除した条項がありました。モーゼであっても、このいとも聖なる童貞、童貞中の童貞に、不浄についての律法を適用することはできなかったでしょう。でも謙遜から、ご自分を目立たせないために、聖母は律法に服従し、律法に従って貧しい人々のいけにえである二羽の鳥のいけにえをお捧げになりました。すると、聖霊が年老いたシメオンを神殿へ導き、彼は私たちの主イエズス・キリストの栄光を歌いました。「異邦人を照らす光、御民イスラエルの誉れである」(ルカ2章32節)。しかし、彼はまた、マリアの心を貫くつるぎのことを預言し、こうして聖母を十字架の神秘へと導きました。これは聖母の第一の悲しみでした! これらの神秘は、典礼が歌うように「喜びと涙が混じって」いました。

幼子イエズスの喪失と神殿での発見は、十字架の神秘へのさらなる序章です。「私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ」(ルカ2章48節)。この聖母の第三の御悲しみにおいて、聖母を苦しめているのはヘロデのような迫害者ではなく、私たちの主イエズス・キリストご自身です! 主はお二人から離れられました。主が聖母の苦しみの原因でした! なぜでしょうか? 聖母は主を非難なさらず、こうお尋ねになります。「なぜ、なぜこんなことをしたのですか」。すると、主のお答えは神秘に満ちていました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか」(ルカ2章49節)。「彼らにはイエズスの言われたことが分からなかった」(ルカ2章50節)。しかし聖母はこの教訓を学ばれ、のちに御子が再び聖母の最大の苦しみの原因になられたとき、すなわち聖母が十字架上に吊るされた主をご覧になったとき、聖母は再び「なぜ」と尋ねることはなさいませんでした。聖母はなぜなのかをご存じだったのであり、主が「父のことに従事している」こと、つまり十字架のいけにえによって世を贖っておられることをご存じだったのです。

こうして、この最後の喜びの玄義は苦しみの玄義へと私たちを導きます。これが、私たちの主イエズス・キリストが来られた目的です。「彼は罪から民を救う」(マテオ1章21節)。第一の苦しみの玄義は非常に重要です。私たちはキリストの肉体の苦しみに目を向けがちですが、ゲッセマネの園において主は人間のあらゆる罪についての精神的な恐ろしさによってひどく圧倒されたため、主を本当に悶えに、血をしたたらせるほどの悶えに至らせました! ああ主よ、罪のまことの恐ろしさと、自分の過去の罪と世のあらゆる罪をまことに嫌悪する心を、私たちにお与えください。それによって、御身がなさったように、罪を償うべく私たちも自らを奉献することができますように! 天主がどれほど罪をお嫌いになるのか、罪を償うため十字架のいけにえへと御子をお送りになるほどに罪をお嫌いになるのかを、私たちが理解しさえできたなら! そしてイエズスは御父のご計画に完全に入っていかれます。主は苦しみたいと望まれます。罪の償いをなさりたいからです! 主はさらに完全に苦しむためにご神性を隠されます。聖母もまた、罪を嫌われます。私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、聖母は汚れなく、完全に罪がないお方だからです。私たちは、自分の霊魂を罪から解き放っておかなければなりません。そして私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、それは可能なのです! 主のご受難が常に目の前にあれば、私たちは決して罪を犯さないでしょう。主の御苦しみを、あえてさらに増やそうとすることができますか?! ですから、私たちの目の前にこの聖なるご受難を何回ももたらす聖なるロザリオは、罪を避け聖なる生活を送るための大変大きな助けなのです。

柱にくくられた鞭打ちは、特に不潔な罪に対する償いです。人々が肉の望むままにさせる一方で、主の肉体は、あらゆる不潔の罪の償うために、この鞭でひどく引き裂かれました。「信仰の創始者であり完成者であるイエズスに目を注ぐようにしよう。イエズスは差し出された喜びのために、恥も顧みずに十字架を忍」(ヘブライ12章2節)ばれました。聖骸布には、鞭打ちの痕が最も目立っています。学者たちの計算では、その数は百以上でした! 私たちが誘惑を受ける時には、このことを思い出しましょう。私たちは主を侮辱し、主のこれらの御苦しみをさらに増やそうとすることができますか? いいえ決してできません! 疑問の余地はありません! キリスト教的な清さに反するあらゆる侮辱に対して、マリア様の汚れなき御心とはまったく相いれない侮辱に対して、私たちはファチマの聖母とともに償いをいたしましょう。

茨の冠をかぶせられることは、特に全ての傲慢の罪に対する償いです。ここで皆さんは、いと高き至高の知恵である方が愚か者扱いされているのを見ます! とりわけ彼らは主の王権をあざけったのです。私たちの主イエズス・キリストは実際に王、最高の王でいらっしゃいます。しかし民は主の律法に服従することを拒否します。現代人はとりわけ人間の上に法があることを拒否しており、それによって事実上、すべての法を台無しにしています。現代人は天主から自由でありたいと望み、王たるキリストをあざけっています。現代人の傲慢は、天主を侮辱する権利、妊娠中絶をする権利、自然に反する悪徳を行う権利があるなどと主張するまでに至っているのです。しかし、私たちの主イエズス・キリストが来られたのは、そのご受難の屈辱によって、特に茨の冠をかぶせられることによる屈辱によって、この傲慢を償うためでした。主が私たちに、謙遜を愛する心と、主のために屈辱を寛大に受け入れる心を与えてくださいますように。謙遜は聖マリアの素晴らしい徳です。「主が卑しいはしために御目をとめられた」(ルカ1章48節)。

主が十字架を担われたことは、私たちに苦しみにおける忍耐と堅忍を教えます。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる。だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる」(マテオ10章22節)。聖母、聖ヨハネ、聖なる婦人たちとともに、最後までキリストに従いましょう! 無垢でありあたかも「緑木」のように贖いの神秘を成し遂げられ、その犠牲によって永遠の誉れを獲得なさっている主のことについて嘆くのではなく、むしろ、罪について、罪びとについて、まず私たち自身について嘆きましょう。なぜなら、これは真の悪であるからです。罪は悪の根っこです。罪とは、全力で避けなくてはならない唯一の悪です。肉体の苦しみは、もし罪を負っていないならば、贖いの原因になります。殉教者たちなら、罪を犯すよりもむしろ死を選びます。罪よりもむしろ死を望むという、この固い決心を更新しましょう。

十字架上の三時間と十字架上の主のご死去は、人類の歴史全体の中で最も荘厳で崇高な時でした。そのとき、この至高の犠牲が聖三位一体に捧げられ、天主はご自分にふさわしい誉れを受けられ、霊魂たちは汚れのない小羊の尊き御血によって贖われ、天主の御子はその神秘体の肢体として何百万もの聖人を獲得され、ご自身と一つにさせ、聖化され、また悪魔は打ち負かされ、罪はあふれんばかりに償われました。そして、この最も聖なる犠牲の効果を持続させるために、私たちの主イエズス・キリストは、その前日の最後の晩餐のときにいとも聖なるご聖体を制定されました。これによって、主ご自身が主の司祭たちの司祭職を通して、汚れなき小羊としてご自分をお捧げになり、主ご自身の肉と血によって私たちに食べ物を与えることを継続なさいます。その結果、私たちは主によって生きることができるのです! 聖母は、十字架の下におられて完全に主と一致され、そこで新しいエバ、すべての生きる者、すなわち私たちの主イエズス・キリストに属して生きる人々すべての母、私たちの母となられました。聖母が、この偉大なる玄義についての知識と、この玄義への愛を私たちに与えてくださいますように!

三日目に、主は死者の中から復活されました。死は罪の結果であるため、復活祭の死に対する勝利は聖金曜日の罪に対する勝利のあとに続きます。主のご復活は主の最も偉大なる奇蹟です。主は何回も使徒たちに現れ、彼らにご自分のご復活についてのたくさんの証拠を、彼らが主のために死ぬ準備ができるほどの証拠をお与えになりました。使徒たちは、死に至るまで主に忠実であるならば、自分たちも主とともに栄光を受けて復活するであろうということを知っていたのです。私たちは、洗礼によって主のご復活に一致します。実際、私たちはキリストとともに死に葬られ、その結果、私たちは主とともに新しい命へと復活するのです。ですから、「同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え」(ローマ6章11節)。キリストは、ナインのやもめの独り子を死者の中から生き返らせたのち、その母にお返しになったように、やもめであり御独り子を失った御母にご自身をお返しになりました。主が御母のためになさったことは、あのナインのやもめのためになさったことより少ないはずがありません。

多くのご出現ののち、ご復活から四十日目に主は栄光のうちに天へ昇られ、全能の御父の右に座し給います。天使たちは使徒たちに、主が去られたときと同じ栄光のうちに再び来られることを確約しました。主は生ける者と死せる者を裁くために来られます。聖母が私たちを助けてくださり、私たちが次の美しい言葉を聞くにふさわしい生き方ができますように。「父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」(マテオ25章34節)。また、私たちがいつも絶対に罪を避けることによって、次の別の言葉を、最も恐ろしい言葉を聞かないで済みますように。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」(マテオ25章41節)。天が開けて、主は聖ステファノにご出現になり、彼がたとえ死に至っても信仰を告白するよう励まされました。主はすべての殉教者を励まされます。主は、私たちがたとえ死に至っても、聖なる生き方、信仰とすべての掟に忠実な生き方をするよう私たちを励まされます!

使徒たちは、五旬節の日に聖霊が来られるまで聖母とともに九日の間、準備をしました。聖霊は彼らをその賜物で、とりわけ愛で満たされました。彼らは天主への愛で燃え上がり、主が以前お告げになったように、その愛で全世界に火をつけたいと願いました。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。聖母の御心は大きくされ、私たちの主イエズス・キリストのすべての肢体を、教会の全ての肢体を抱くまでになりました。聖母は今や私たちの母でいらっしゃり、私たちに対して持っていらっしゃる望みのうち、私たちの救いほど大きいものは他にありません。聖母はまた、私たちが聖霊で、聖性の霊で、全てのものを超えた天主への愛の霊、天主のための隣人への愛の霊で満たされるよう望んでおられます。聖母は私たちに、自分の周りの人々への宣教者になるよう、自分の近くにいるすべての人々に同じ愛を燃え立たせるよう望んでおられます。

聖母は罪なくして御宿りになりました。聖母は罪なくして生きられました。悪魔に一歩も譲ることなく、天主とまったく矛盾することなく、いつも完全に聖霊に忠実でした。今や報いの時がやって来ました。罪を知ることのなかった聖母は、罪の結果、墓での腐敗を知ることはおできになりません。天主の御子に命をお与えになった聖母は、すぐに報いをお受けになることになります。その霊魂に対してだけでなく、その体に対しても栄光の被昇天によって。こうして聖母は、天主の報いは一つ一つの努力にふさわしく与えられ、地上のどんな喜びをも無限に超えるものであることの生ける証しとなられたのです。聖母の被昇天というこの偉大なる神秘が、私たちの心と霊魂を、過ぎ去っていつか消え去るこの世の喜びを超えて高く上げ、私たちの心を天国から離れないようにしますように!

その後聖母は、天国で元后としての冠を受けられました。天主なる御子が聖母に、私たちの利益のための素晴らしい御力をお与えなりました。その御力は、聖母の御取り次ぎと母としての配慮によって、ここ地上の私たちを助けてくださるためのものです。聖母は、すべての天使をご自分の意のままになさり、彼らにご自分の命令を実行させられます! そして、天使たちはそれを喜んで行ないます。彼らはみな、聖母に与えられた恩寵と栄光の充満を敬っているからです。彼らは聖母の騎士であり、私たちもまた、私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって聖母の騎士になることができ、またそうするべきです。マリアにお仕えすることによって、私たちがお仕えするのはイエズスです。主が王でいらっしゃるのですから! 私たちが天国へ行って永遠に聖母や諸聖人とともに、限りなく永遠に至るまで天主において私たちの喜びを得ることができるよう、この地上において正しい生き方ができますように!

皆さんお分かりのように、聖なるロザリオは、私たちの信仰に関する本質的な神秘を私たちに黙想させ、マリアを通して私たちの主イエズス・キリストの深い知識に私たちを導きます。聖なるロザリオは本質的に、二つの最も美しい祈りでできています。私たちの主イエズス・キリストご自身が教えてくださった「天にまします」、これはあらゆる祈りの中の最高の祈りであり、この中で私たちは主をお喜ばせするのに必要なすべてのことを順序だてて願うのです。また、「めでたし」も聖書の言葉からできていますが、前半だけでなく後半も、聖人たちによって一つにまとめられました。これらの祈りは、玄義を黙想しながら霊魂が息をするようなものになります。息の繰り返しが私たちの体の命に必要であるのと同じように、この祈りの繰り返しは私たちの霊魂の命に不可欠です。聖なるロザリオをうまく祈れば、私たちはマリアの汚れなき御心にもっともっと入っていくことができるでしょう。そしてこの最も聖なる道を通って、イエズスの至聖なる聖心に入っていき、そこで永遠の幸せを見いだすことになるでしょう。

私たちがロザリオを愛し、ロザリオを生き、私たちの主イエズス・キリストの国を広めるために、天国へ行くために、汚れなき御心への信心をもって、特に自分の家族にロザリオを広めることができますように! アーメン。

聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

【英語原文】
On the Rosary
The month of October is the month of the Rosary: it is the custom of the Church to encourage the recitation of the holy Rosary especially during this month. The Church wants that, taking the habit of saying a daily Rosary during this month, the faithful may continue this holy habit throughout the whole year! Pope Leo XIII encouraged this devotion, and rewarded it with many indulgences, but it is much older than him.

The Holy Rosary was given by our Lady herself to St Dominic early in the 13th century, and was the means of innumerable graces of conversion, of holiness and victory over sin, and even famous victories over the enemies of the true faith, in particular over Islam: Lepanto, Vienna, and others are famous such victories. The very feast of the Holy Rosary was instituted by Pope Saint Pius V on the 7th of October, as the anniversary of the victory of Lepanto: it was first called “feast of our Lady of Victories” and later “feast of our Lady of the most Holy Rosary”.

When the three children of Fatima asked the beautiful Woman whom they saw what her name was, she answered: “I am the Lady of the Most Holy Rosary”. The apparitions of Fatima culminated with the famous miracle on the 13th of October 1917, which further spread devotion to the holy Rosary. So why does the Church recommend so highly this devotion? Why does God Himself recommend it by the miracles He performed through it? Because the Holy Rosary is an excellent means to acquire Christian perfection and save our souls!

Indeed Christian perfection essentially consists in our Lord Jesus Christ living in us: “I live, now not I; but Christ liveth in me. And that I live now in the flesh: I live in the faith of the Son of God, who loved me, and delivered himself for me” (Gal. 2:20). This is the very purpose for which our Lord Jesus Christ, the Son of God Himself, came down from Heaven: “I am come so that they may have life, and may have it more abundantly” (Jn. 10:10). That “more abundant life” is everlasting life, eternal life: “God so loved the world, as to give his only begotten Son; that whosoever believeth in him, may not perish, but may have life everlasting” (Jn. 3:16). It consists essentially in the knowledge and love of God: “Now this is eternal life: That they may know thee, the only true God, and Jesus Christ, whom thou hast sent” (Jn. 17:3).

Knowledge without love of God would be a very deficient knowledge, because “God is charity: and he that abideth in charity, abideth in God, and God in him” (1 Jn. 4:16). Hence St John says: “He that loveth not, knoweth not God: for God is charity” (1 Jn. 4:8). That knowledge and love of God, we acquire by contemplation of our Lord Jesus Christ: “By this hath the charity of God appeared towards us, because God hath sent his only begotten Son into the world, that we may live by him” (1 Jn. 4:9).

Contemplation is a loving look at our Lord Jesus Christ, and desires to unite ourselves more and more with Jesus, to unite ourselves with Him in the mystery of his death so that we may be united with Him in the mystery of His Resurrection. Indeed “we are the sons of God, and if sons, heirs also; heirs indeed of God, and joint heirs with Christ: yet so, if we suffer with him, that we may be also glorified with him” (Rom. 8:16-17). Here you have the whole Rosary: “we are children of God” in Christ, these are the joyful mysteries; “if we suffer with Him”, these are the sorrowful mysteries; “that we may be also glorified with Him”: these are the glorious mysteries.

Similarly in the Creed, we have the whole Rosary – or in the Rosary we have the whole Creed. Indeed the heart of the Creed is the faith in our Lord Jesus Christ, “who was conceived by the Holy Ghost, born of the Virgin Mary” – these are the joyful mysteries – “suffered under Pontius Pilate, was crucified, buried and descended into Hell” – these are the sorrowful mysteries – “the third day He rose from the dead, ascended into Heaven, sitteth at the right hand of God the Father almighty” – these are the glorious mysteries. Note that the Creed goes straight from the birth from the Virgin Mary to the suffering under Pontius Pilate, from the joyful to the sorrowful mysteries: no so-called “luminous mysteries”.

Now this contemplation of our Lord Jesus Christ in His Incarnation, and especially in the Mystery of His Passion and death so as to be united in the Mystery of His Resurrection, this is the whole Rosary! No one has ever understood our Lord Jesus Christ more than His holy Mother. She did contemplate and meditate on these great truths, as the Gospel itself gives testimony: “But Mary kept all these words, pondering them in her heart” (Lk. 2:19). So it is in her Immaculate Heart that we shall find the proper understanding of these great truths; her Immaculate Heart will give us that understanding which she had acquired so deeply.

In particular we find in the Immaculate Heart of Mary the hatred for sin and the desire for reparation for sin. She asks for that at Fatima. And the modern world does need very much such detestation of sin. One of the characteristic of the modern world is the refusal of the very notion of sin: modern man claims “I can do whatever I want. Nobody can tell me what to do – not even God!” This is a horrible blasphemy and the open door to the most abominable sins, in particular the sin of abortion, which is the epitome of the wickedness of the modern world.

But if with our Lady we contemplate our Lord Jesus Christ from His Incarnation on the day of the Annunciation to His death on the Cross, then we can only but say an absolute NO to sin, and yes to God, and offer ourselves as victims of expiation in union with our Lord Jesus Christ on the Cross and with our Lady at the foot of the Cross, to make reparation for sin – first for our own sins, but also for the sins of the world, which are so much multiplied today.

Indeed the Annunciation shows that God cares for men; God who created us did not abandon us after the sin of Adam, but promised to send a Saviour and fulfilled that promise on that day of the Annunciation. What a beautiful passage of the Gospel! All is holy, all is pure, all is charity in that first mystery. The humility of the Angel before a young girl; the humility of She who was just chosen as the Mother of God and offers herself as the servant, the handmaid of the Lord; and finally the humility of the Son of God Himself who becomes the son of Mary, “emptying himself, taking the form of a servant, being made in the likeness of men, and in habit found as a man” (Phil. 2:7).

Not only God cares, but He loves us so much that He wants this most intimate union with us, as when Jesus was in the bosom of Mary. He wants to live in us, as He lived in Mary. The Annunciation already announces the beautiful mystery of the Holy Eucharist, in which we have the same grace: Jesus living in us as He lived in Mary, and transforming us as He transformed our Lady. This is the beautiful prayer: “O Jesus, living in Mary, come and live in Thy servants, in the spirit of Thy holiness, in the fullness of Thy might, in the truth of Thy virtues, in the perfection of Thy ways, in the communion of Thy mysteries. Subdue every hostile power, in Thy Spirit for the glory of Thy Father.”

In the Visitation, we see how the Love of God immediately leads to the love of the neighbour. Our Lady, filled with the Son of God, immediately goes to serve her cousin Elisabeth. We also see that the true love of the neighbour consists in bringing Jesus to them. And this is the joy of Elisabeth: “whence is this to me, that the mother of my Lord should come to me?” (Lk. 1:43). Both Elisabeth and St John the Baptist in her womb are sanctified by the presence of Jesus living in Mary. As the house of Elisabeth and Zachary was sanctified by the coming of Mary, so are your families going to be sanctified when our Lady comes by the family Rosary. The daily family prayer is a most important moment of the day for the whole family and the source of innumerable blessings.

In the Nativity, we start to see the opposition of the world to our Lord Jesus Christ: the inn closes its doors to Mary and Joseph and as a consequence will not have the blessing of the coming of Jesus. Let us never close our heart to Jesus! Rather like the shepherds, let us keep watching, ready to follow our guardian angels that lead us to Jesus in the arms of Mary: “they found Mary and Joseph, and the infant lying in the manger” (Lk. 2:16). They found Jesus because they found Mary: she leads us to Jesus. She is like the star that guided the Magi: “they found the child with Mary his mother, and falling down they adored him” (Mt. 2:11). She teaches us the divinity of our Lord Jesus Christ, worthy of our adoration, of our worship. Those who refuse to adore our Lord Jesus Christ do not know God: “He that believeth in the Son, hath life everlasting; but he that believeth not the Son, shall not see life; but the wrath of God abideth on him” (Jn. 3:36).

In the Presentation we admire the obedience of Mary and Joseph to the Law. There was a clause that exempted our Lady from a law requiring purification: Moses could not have included the most pure Virgin, the Virgin of virgins, in a law of uncleanness! Yet out of humility, in order not to singularise herself, our Lady submitted to the Law and offered the sacrifice of two little birds, the sacrifice of the poor, according to the Law. And the Holy Ghost led the old man Simeon to the Temple and he sang the glory of our Lord Jesus Christ: “A light to the revelation of the Gentiles, and the glory of thy people Israel” (Lk. 2:32). But he also prophesised the sword that shall pierce Mary’s heart, thus introducing her into the mystery of the Cross: this was the first sorrow of our Lady! These mysteries were “mixing joys and tears” as the Liturgy sings.

The loss and finding of the Child Jesus in the Temple are a further introduction into the mystery of the Cross. “Son, why hast thou done so to us? Behold thy father and I have sought thee sorrowing” (Lk. 2:48). In this third sorrow of our Lady, it is no longer the persecutor like Herod that is making our Lady suffering, but it is our Lord Jesus Christ Himself! He parted company with them; He was the cause of her suffering! Why? Our Lady does not condemn Him, but she does ask: “Why? Why hast Thou done so to us?” And our Lord’s answer is full of mystery: “I must be about my father's business” (Lk. 2:49). “And they understood not the word that he spoke unto them” (Lk. 2:50). But our Lady did learn the lesson, and later when Her Son would again cause her the utmost suffering when she saw Him hanging on the Cross, she did not ask Him again “Why”, she knew why, she knew that He “was about His Father’s business”, the Redemption of the world through the Sacrifice of the Cross!

Thus this last joyful mystery introduces us to the sorrowful mysteries. This was the purpose for which our Lord Jesus Christ had come: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). The first sorrowful mystery is very important: we tend to look only at the physical sufferings of Christ, yet in the garden He is so overwhelmed by the spiritual horror of all the sins of men that this leads Him to a true agony, so much so that He was sweating blood! Deign to give us, o Lord, a true horror for sin, a true detestation of our own past sins and of all the sins of the world, so that we may dedicate ourselves to making reparation for sins as Thou didst! If only we would understand how much God hates sin, to the point of sending His Son to the sacrifice of the Cross to make reparation for it! And Jesus fully enters into the plan of His Father; He wants to suffer because He wants to make reparation for sin! He hides His divinity in order to suffer more fully. And our Lady also hates sin: she is Immaculate, absolutely without sin – by the grace of our Lord Jesus Christ. We must keep our soul free from sin, and by the grace of our Lord Jesus Christ this is possible! If we would have constantly the Passion of our Lord in front of our eyes, we would never sin: how could we dare to add to His sufferings?! Hence the Holy Rosary that brings us again and again this Holy Passion in front of our eyes is a very great help to avoid sin and to live a holy life.

The scourging at the pillar is in particular opposed to the sins of impurity: while people pamper their flesh, our Lord’s flesh was horribly torn by these whips, to make reparation for all these impurities. “Jesus, the author and finisher of faith, having joy set before him, endured the cross, despising the shame” (Heb. 12:2). On the Holy Shroud, the marks of the scourging are the most remarkable. Doctors have counted up to above 100 marks! Let us remember that when we are tempted! Can we add to these sufferings by offending Him again? No! It is out of question! With our Lady of Fatima, let us make reparation to all these offenses against Christian purity, offenses so incompatible with the Immaculate Heart of Mary!

The crowning with thorns is in particular opposed to all the sins of pride. Here you have the most High, the supreme Wisdom treated like a fool! In particular they mocked His Kingship. Our Lord Jesus Christ is King indeed, the Supreme King. But people refuse to submit to His Law. Modern man in particular refuses any law above men – thus practically destroying all laws. Modern man wants to be free from God, and mocks Christ the King. The pride of modern man goes so far as to claim a right to offend God, rights to abortion, right to unnatural vices, and so on. But our Lord Jesus Christ came to make reparation for this pride by His humiliations in His Passion and especially in this crowning with thorns. May He grant us the love of humility and the generous acceptation of humiliations for His sake! Humility is the great virtue of the Blessed Virgin: “he hath regarded the humility of his handmaid” (Lk. 1:48).

The carrying of the Cross teaches us patience and perseverance in suffering: “you shall be hated by all men for my name's sake: but he that shall persevere unto the end, he shall be saved” (Mt. 10:22). With our Lady, St John and the holy women, let us follow Christ until the end! Let us not so much weep over Him, Who is innocent and like the “green wood” is accomplishing the mystery of Redemption and acquiring by His Sacrifice an eternal glory, but let us rather weep over sin, over sinners, over ourselves first, because this is the true evil: sin is the root of all evil. Sin is the only evil that must be avoided at all cost. Physical suffering, if borne with innocence, becomes a cause of redemption: the Martyrs would rather die than sin. Let us renew this firm resolution: to die rather than to sin!

The three hours on the Cross and death of our Lord on the Cross was the most solemn and sublime moment in the whole of human history: then the supreme Sacrifice was offered to the most Holy Trinity, God was honoured as He deserved, souls were being redeemed by the Precious Blood of the Immaculate Lamb, the Son of God acquired and united unto Himself and sanctified millions of Saints as members of His Mystical Body, the devil was vanquished and sin was compensated by an overabundant satisfaction. And to continue the effects of this most Holy Sacrifice, our Lord Jesus Christ had instituted the day before during the Last Supper the most Holy Eucharist, in which He Himself continues to offer Himself by the ministry of His priests as the Immaculate Lamb and feed us by His own Flesh and Blood, so that we may live by Him! Our Lady was there at the foot of the Cross, perfectly one with Him, and became there the New Eve, the Mother of all the living, i.e. of all those who live of our Lord Jesus Christ, our Mother. May she grant us the knowledge and the love of that great mystery!

On the Third Day He rose again from the dead: as death is the consequence of sin, so the victory over death on Easter follows the victory over sin on Good Friday. His Resurrection is His greatest miracle: He appeared so many times to His Apostles and gave them so much proof of His Resurrection that they were ready to die for Him: they knew that they too would rise again glorious with Him if they were faithful to Him until death. We are united to His resurrection by Baptism. Indeed we are buried with Christ into death so that we may rise again with Him unto newness of life: therefore “do you also reckon, that you are dead to sin, but alive unto God, in Christ Jesus our Lord” (Rom. 6:11). As Christ gave the only-begotten son of the widow of Naïm back to his mother after He rose him from the dead, so He gave Himself back to His Mother Mary, who also was widow and had lost her only-begotten Son: he could not do less for His mother than for that widow of Naïm.

After many apparitions, He ascended gloriously into Heaven on the 40th day after His Resurrection, and He sits at the right hand of the Father Almighty. The Angels assured the Apostles that He will come again as gloriously as He went; He will come to judge the living and the dead. May our Lady help us to live in such a way as we may deserve to hear those beautiful words: “Come, ye blessed of my Father, possess you the kingdom prepared for you from the foundation of the world” (Mt. 25:34). And may we always absolutely shun sin, lest we hear those other words, most frightful ones: “Depart from me, you cursed, into everlasting fire which was prepared for the devil and his angels” (Mt. 25:41). In Heaven he appeared to St Stephen, encouraging him to profess the faith even until death; He encourages all the martyrs; He encourages us to live a holy life, a life of faith and fidelity to all the Commandments, even until death!

The Apostles prepared themselves for nine days with our Lady until the coming of the Holy Ghost on Pentecost day, and He filled them with His gifts and above all with His Charity: they were burning with the love of God and wanted to inflame the whole world with that love, as our Lord had announced: “I am come to cast fire on the earth; and what will I, but that it be kindled?” (Lk. 12:49). Our Lady’s heart was enlarged to embrace all the members of our Lord Jesus Christ, all the members of the Church. She is now our Mother and has no greater desire for us than our salvation. She wants us also to be filled with the Holy Ghost, the Spirit of holiness, of love of God above all things and of the neighbour for God’s sake; she wants us to be missionary around us, and kindle that same love in all those close to us.

"On the Rosary" Sermon by Fr. Laisney SSPX : 英語版「ロザリオについて」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「ロザリオについて」のお説教の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the Rosary
My dear brethren,

The month of October is the month of the Rosary: it is the custom of the Church to encourage the recitation of the holy Rosary especially during this month. The Church wants that, taking the habit of saying a daily Rosary during this month, the faithful may continue this holy habit throughout the whole year! Pope Leo XIII encouraged this devotion, and rewarded it with many indulgences, but it is much older than him.

The Holy Rosary was given by our Lady herself to St Dominic early in the 13th century, and was the means of innumerable graces of conversion, of holiness and victory over sin, and even famous victories over the enemies of the true faith, in particular over Islam: Lepanto, Vienna, and others are famous such victories. The very feast of the Holy Rosary was instituted by Pope Saint Pius V on the 7th of October, as the anniversary of the victory of Lepanto: it was first called “feast of our Lady of Victories” and later “feast of our Lady of the most Holy Rosary”.

When the three children of Fatima asked the beautiful Woman whom they saw what her name was, she answered: “I am the Lady of the Most Holy Rosary”. The apparitions of Fatima culminated with the famous miracle on the 13th of October 1917, which further spread devotion to the holy Rosary. So why does the Church recommend so highly this devotion? Why does God Himself recommend it by the miracles He performed through it? Because the Holy Rosary is an excellent means to acquire Christian perfection and save our souls!

Indeed Christian perfection essentially consists in our Lord Jesus Christ living in us: “I live, now not I; but Christ liveth in me. And that I live now in the flesh: I live in the faith of the Son of God, who loved me, and delivered himself for me” (Gal. 2:20). This is the very purpose for which our Lord Jesus Christ, the Son of God Himself, came down from Heaven: “I am come so that they may have life, and may have it more abundantly” (Jn. 10:10). That “more abundant life” is everlasting life, eternal life: “God so loved the world, as to give his only begotten Son; that whosoever believeth in him, may not perish, but may have life everlasting” (Jn. 3:16). It consists essentially in the knowledge and love of God: “Now this is eternal life: That they may know thee, the only true God, and Jesus Christ, whom thou hast sent” (Jn. 17:3).

Knowledge without love of God would be a very deficient knowledge, because “God is charity: and he that abideth in charity, abideth in God, and God in him” (1 Jn. 4:16). Hence St John says: “He that loveth not, knoweth not God: for God is charity” (1 Jn. 4:8). That knowledge and love of God, we acquire by contemplation of our Lord Jesus Christ: “By this hath the charity of God appeared towards us, because God hath sent his only begotten Son into the world, that we may live by him” (1 Jn. 4:9).

Contemplation is a loving look at our Lord Jesus Christ, and desires to unite ourselves more and more with Jesus, to unite ourselves with Him in the mystery of his death so that we may be united with Him in the mystery of His Resurrection. Indeed “we are the sons of God, and if sons, heirs also; heirs indeed of God, and joint heirs with Christ: yet so, if we suffer with him, that we may be also glorified with him” (Rom. 8:16-17). Here you have the whole Rosary: “we are children of God” in Christ, these are the joyful mysteries; “if we suffer with Him”, these are the sorrowful mysteries; “that we may be also glorified with Him”: these are the glorious mysteries.

Similarly in the Creed, we have the whole Rosary – or in the Rosary we have the whole Creed. Indeed the heart of the Creed is the faith in our Lord Jesus Christ, “who was conceived by the Holy Ghost, born of the Virgin Mary” – these are the joyful mysteries – “suffered under Pontius Pilate, was crucified, buried and descended into Hell” – these are the sorrowful mysteries – “the third day He rose from the dead, ascended into Heaven, sitteth at the right hand of God the Father almighty” – these are the glorious mysteries. Note that the Creed goes straight from the birth from the Virgin Mary to the suffering under Pontius Pilate, from the joyful to the sorrowful mysteries: no so-called “luminous mysteries”.

Now this contemplation of our Lord Jesus Christ in His Incarnation, and especially in the Mystery of His Passion and death so as to be united in the Mystery of His Resurrection, this is the whole Rosary! No one has ever understood our Lord Jesus Christ more than His holy Mother. She did contemplate and meditate on these great truths, as the Gospel itself gives testimony: “But Mary kept all these words, pondering them in her heart” (Lk. 2:19). So it is in her Immaculate Heart that we shall find the proper understanding of these great truths; her Immaculate Heart will give us that understanding which she had acquired so deeply.

In particular we find in the Immaculate Heart of Mary the hatred for sin and the desire for reparation for sin. She asks for that at Fatima. And the modern world does need very much such detestation of sin. One of the characteristic of the modern world is the refusal of the very notion of sin: modern man claims “I can do whatever I want. Nobody can tell me what to do – not even God!” This is a horrible blasphemy and the open door to the most abominable sins, in particular the sin of abortion, which is the epitome of the wickedness of the modern world.

But if with our Lady we contemplate our Lord Jesus Christ from His Incarnation on the day of the Annunciation to His death on the Cross, then we can only but say an absolute NO to sin, and yes to God, and offer ourselves as victims of expiation in union with our Lord Jesus Christ on the Cross and with our Lady at the foot of the Cross, to make reparation for sin – first for our own sins, but also for the sins of the world, which are so much multiplied today.

Indeed the Annunciation shows that God cares for men; God who created us did not abandon us after the sin of Adam, but promised to send a Saviour and fulfilled that promise on that day of the Annunciation. What a beautiful passage of the Gospel! All is holy, all is pure, all is charity in that first mystery. The humility of the Angel before a young girl; the humility of She who was just chosen as the Mother of God and offers herself as the servant, the handmaid of the Lord; and finally the humility of the Son of God Himself who becomes the son of Mary, “emptying himself, taking the form of a servant, being made in the likeness of men, and in habit found as a man” (Phil. 2:7).

Not only God cares, but He loves us so much that He wants this most intimate union with us, as when Jesus was in the bosom of Mary. He wants to live in us, as He lived in Mary. The Annunciation already announces the beautiful mystery of the Holy Eucharist, in which we have the same grace: Jesus living in us as He lived in Mary, and transforming us as He transformed our Lady. This is the beautiful prayer: “O Jesus, living in Mary, come and live in Thy servants, in the spirit of Thy holiness, in the fullness of Thy might, in the truth of Thy virtues, in the perfection of Thy ways, in the communion of Thy mysteries. Subdue every hostile power, in Thy Spirit for the glory of Thy Father.”

In the Visitation, we see how the Love of God immediately leads to the love of the neighbour. Our Lady, filled with the Son of God, immediately goes to serve her cousin Elisabeth. We also see that the true love of the neighbour consists in bringing Jesus to them. And this is the joy of Elisabeth: “whence is this to me, that the mother of my Lord should come to me?” (Lk. 1:43). Both Elisabeth and St John the Baptist in her womb are sanctified by the presence of Jesus living in Mary. As the house of Elisabeth and Zachary was sanctified by the coming of Mary, so are your families going to be sanctified when our Lady comes by the family Rosary. The daily family prayer is a most important moment of the day for the whole family and the source of innumerable blessings.

In the Nativity, we start to see the opposition of the world to our Lord Jesus Christ: the inn closes its doors to Mary and Joseph and as a consequence will not have the blessing of the coming of Jesus. Let us never close our heart to Jesus! Rather like the shepherds, let us keep watching, ready to follow our guardian angels that lead us to Jesus in the arms of Mary: “they found Mary and Joseph, and the infant lying in the manger” (Lk. 2:16). They found Jesus because they found Mary: she leads us to Jesus. She is like the star that guided the Magi: “they found the child with Mary his mother, and falling down they adored him” (Mt. 2:11). She teaches us the divinity of our Lord Jesus Christ, worthy of our adoration, of our worship. Those who refuse to adore our Lord Jesus Christ do not know God: “He that believeth in the Son, hath life everlasting; but he that believeth not the Son, shall not see life; but the wrath of God abideth on him” (Jn. 3:36).

In the Presentation we admire the obedience of Mary and Joseph to the Law. There was a clause that exempted our Lady from a law requiring purification: Moses could not have included the most pure Virgin, the Virgin of virgins, in a law of uncleanness! Yet out of humility, in order not to singularise herself, our Lady submitted to the Law and offered the sacrifice of two little birds, the sacrifice of the poor, according to the Law. And the Holy Ghost led the old man Simeon to the Temple and he sang the glory of our Lord Jesus Christ: “A light to the revelation of the Gentiles, and the glory of thy people Israel” (Lk. 2:32). But he also prophesised the sword that shall pierce Mary’s heart, thus introducing her into the mystery of the Cross: this was the first sorrow of our Lady! These mysteries were “mixing joys and tears” as the Liturgy sings.

The loss and finding of the Child Jesus in the Temple are a further introduction into the mystery of the Cross. “Son, why hast thou done so to us? Behold thy father and I have sought thee sorrowing” (Lk. 2:48). In this third sorrow of our Lady, it is no longer the persecutor like Herod that is making our Lady suffering, but it is our Lord Jesus Christ Himself! He parted company with them; He was the cause of her suffering! Why? Our Lady does not condemn Him, but she does ask: “Why? Why hast Thou done so to us?” And our Lord’s answer is full of mystery: “I must be about my father's business” (Lk. 2:49). “And they understood not the word that he spoke unto them” (Lk. 2:50). But our Lady did learn the lesson, and later when Her Son would again cause her the utmost suffering when she saw Him hanging on the Cross, she did not ask Him again “Why”, she knew why, she knew that He “was about His Father’s business”, the Redemption of the world through the Sacrifice of the Cross!

Thus this last joyful mystery introduces us to the sorrowful mysteries. This was the purpose for which our Lord Jesus Christ had come: “he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). The first sorrowful mystery is very important: we tend to look only at the physical sufferings of Christ, yet in the garden He is so overwhelmed by the spiritual horror of all the sins of men that this leads Him to a true agony, so much so that He was sweating blood! Deign to give us, o Lord, a true horror for sin, a true detestation of our own past sins and of all the sins of the world, so that we may dedicate ourselves to making reparation for sins as Thou didst! If only we would understand how much God hates sin, to the point of sending His Son to the sacrifice of the Cross to make reparation for it! And Jesus fully enters into the plan of His Father; He wants to suffer because He wants to make reparation for sin! He hides His divinity in order to suffer more fully. And our Lady also hates sin: she is Immaculate, absolutely without sin – by the grace of our Lord Jesus Christ. We must keep our soul free from sin, and by the grace of our Lord Jesus Christ this is possible! If we would have constantly the Passion of our Lord in front of our eyes, we would never sin: how could we dare to add to His sufferings?! Hence the Holy Rosary that brings us again and again this Holy Passion in front of our eyes is a very great help to avoid sin and to live a holy life.

The scourging at the pillar is in particular opposed to the sins of impurity: while people pamper their flesh, our Lord’s flesh was horribly torn by these whips, to make reparation for all these impurities. “Jesus, the author and finisher of faith, having joy set before him, endured the cross, despising the shame” (Heb. 12:2). On the Holy Shroud, the marks of the scourging are the most remarkable. Doctors have counted up to above 100 marks! Let us remember that when we are tempted! Can we add to these sufferings by offending Him again? No! It is out of question! With our Lady of Fatima, let us make reparation to all these offenses against Christian purity, offenses so incompatible with the Immaculate Heart of Mary!

The crowning with thorns is in particular opposed to all the sins of pride. Here you have the most High, the supreme Wisdom treated like a fool! In particular they mocked His Kingship. Our Lord Jesus Christ is King indeed, the Supreme King. But people refuse to submit to His Law. Modern man in particular refuses any law above men – thus practically destroying all laws. Modern man wants to be free from God, and mocks Christ the King. The pride of modern man goes so far as to claim a right to offend God, rights to abortion, right to unnatural vices, and so on. But our Lord Jesus Christ came to make reparation for this pride by His humiliations in His Passion and especially in this crowning with thorns. May He grant us the love of humility and the generous acceptation of humiliations for His sake! Humility is the great virtue of the Blessed Virgin: “he hath regarded the humility of his handmaid” (Lk. 1:48).

The carrying of the Cross teaches us patience and perseverance in suffering: “you shall be hated by all men for my name's sake: but he that shall persevere unto the end, he shall be saved” (Mt. 10:22). With our Lady, St John and the holy women, let us follow Christ until the end! Let us not so much weep over Him, Who is innocent and like the “green wood” is accomplishing the mystery of Redemption and acquiring by His Sacrifice an eternal glory, but let us rather weep over sin, over sinners, over ourselves first, because this is the true evil: sin is the root of all evil. Sin is the only evil that must be avoided at all cost. Physical suffering, if borne with innocence, becomes a cause of redemption: the Martyrs would rather die than sin. Let us renew this firm resolution: to die rather than to sin!

The three hours on the Cross and death of our Lord on the Cross was the most solemn and sublime moment in the whole of human history: then the supreme Sacrifice was offered to the most Holy Trinity, God was honoured as He deserved, souls were being redeemed by the Precious Blood of the Immaculate Lamb, the Son of God acquired and united unto Himself and sanctified millions of Saints as members of His Mystical Body, the devil was vanquished and sin was compensated by an overabundant satisfaction. And to continue the effects of this most Holy Sacrifice, our Lord Jesus Christ had instituted the day before during the Last Supper the most Holy Eucharist, in which He Himself continues to offer Himself by the ministry of His priests as the Immaculate Lamb and feed us by His own Flesh and Blood, so that we may live by Him! Our Lady was there at the foot of the Cross, perfectly one with Him, and became there the New Eve, the Mother of all the living, i.e. of all those who live of our Lord Jesus Christ, our Mother. May she grant us the knowledge and the love of that great mystery!

On the Third Day He rose again from the dead: as death is the consequence of sin, so the victory over death on Easter follows the victory over sin on Good Friday. His Resurrection is His greatest miracle: He appeared so many times to His Apostles and gave them so much proof of His Resurrection that they were ready to die for Him: they knew that they too would rise again glorious with Him if they were faithful to Him until death. We are united to His resurrection by Baptism. Indeed we are buried with Christ into death so that we may rise again with Him unto newness of life: therefore “do you also reckon, that you are dead to sin, but alive unto God, in Christ Jesus our Lord” (Rom. 6:11). As Christ gave the only-begotten son of the widow of Naïm back to his mother after He rose him from the dead, so He gave Himself back to His Mother Mary, who also was widow and had lost her only-begotten Son: he could not do less for His mother than for that widow of Naïm.

After many apparitions, He ascended gloriously into Heaven on the 40th day after His Resurrection, and He sits at the right hand of the Father Almighty. The Angels assured the Apostles that He will come again as gloriously as He went; He will come to judge the living and the dead. May our Lady help us to live in such a way as we may deserve to hear those beautiful words: “Come, ye blessed of my Father, possess you the kingdom prepared for you from the foundation of the world” (Mt. 25:34). And may we always absolutely shun sin, lest we hear those other words, most frightful ones: “Depart from me, you cursed, into everlasting fire which was prepared for the devil and his angels” (Mt. 25:41). In Heaven he appeared to St Stephen, encouraging him to profess the faith even until death; He encourages all the martyrs; He encourages us to live a holy life, a life of faith and fidelity to all the Commandments, even until death!

The Apostles prepared themselves for nine days with our Lady until the coming of the Holy Ghost on Pentecost day, and He filled them with His gifts and above all with His Charity: they were burning with the love of God and wanted to inflame the whole world with that love, as our Lord had announced: “I am come to cast fire on the earth; and what will I, but that it be kindled?” (Lk. 12:49). Our Lady’s heart was enlarged to embrace all the members of our Lord Jesus Christ, all the members of the Church. She is now our Mother and has no greater desire for us than our salvation. She wants us also to be filled with the Holy Ghost, the Spirit of holiness, of love of God above all things and of the neighbour for God’s sake; she wants us to be missionary around us, and kindle that same love in all those close to us.

Our Lady was conceived immaculately; she lived immaculately, without giving an inch to the devil, without the least discrepancy with God, always absolutely faithful to the Holy Ghost. Now came the time of the reward: she who has not known sin could not know the consequence of sin, the corruption of the tomb. She who had given life to the Son of God was to receive the immediate reward not only for her soul but also for her body with her glorious Assumption. She has thus become the living proof that God’s reward is worth every effort, and infinitely above any earthly joy. May this great mystery of her Assumption lift our hearts and soul above those passing, fleeting joys of the world, and set our hearts fixed in Heaven!

Up there she was then crowned as Queen: her divine Son has given her that great power for our benefit, in order to help us here below with her intercession and motherly care. She has at her disposal all the Angels, to execute her mandates! And they are most happy to do so; they all admire the fullness of grace and glory that was given to her. They are her knights, and we too can be and should be her knights, by the grace of our Lord Jesus Christ. In serving Mary, it is Jesus whom we serve because He is the King! May we so live here below as to go to Heaven for ever with our Lady and all the saints, taking our delight in God for ever and ever!

As you see, the holy Rosary by making us meditate on all the essential mysteries of our Faith, lead us into the deep knowledge of our Lord Jesus Christ through Mary. It is composed essentially with two most beautiful prayers: the Our Father, taught by our Lord Jesus Christ Himself, the best of all prayers, in which we ask in an orderly way all what we need to please Him. And the Hail Mary also is composed from the words of the Holy Scriptures, not only the first half but also the second half, put together by the Saints. These prayers become like the breathing of the soul while meditating on the Mysteries. Their repetition is as essential for the life of our soul as the repetition of breathing is necessary for the life of our body. The praying well of the Holy Rosary will make us enter more and more into the Immaculate Heart of Mary, and through that most holy path enter into the most Sacred Heart of Jesus, where we will find eternal happiness.

May we love the Rosary, may we live the Rosary, may we spread the Rosary especially in our families, with devotion to the Immaculate Heart, for the extension of the kingdom of our Lord Jesus Christ, in order to go to Heaven! Amen.

ロザリオの十字軍)2016年10月16日現在、日本からロザリオ2,016環、犠牲20,090回が報告されました。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年10月 16日現在、
日本から今までの総計で、ロザリオ2,016環、犠牲 20,090回が報告されております。天主様に感謝!

マニラからは、ロザリオ9,678環、犠牲6,419回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ423環が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
私たちの大切な敬愛する小野田神父様
いつもお世話になっております。
だいぶ遅くなりましたがご報告いたします。
ロザリオ (8月15日~10月10日)
ヨゼフ  ロザリオ58環 犠牲 カウントしておりませんでした。
マリア   ロザリオ62環 犠牲 12回
以上

よろしくお願いします。
デオ グラチアス!


【報告】
ロザリオの十字軍のご報告
小野田神父様、
こんにちは!ロザリオの十字軍のご報告です。

8月15日~9月30日
ロザリオの祈り 95環
犠牲 47

犠牲については、「イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、また聖マリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償うためです」と犠牲をするときに言ったものをその数にしました。しかし毎日記録を取りませんので、1日1回心がけて実行していますので、1日1回を数に入れていただきたいと思いこのようになりました。
小さな犠牲をお捧げする毎に、それに負けないほど罪を犯していることをいつも思いますので、お捧げすることをさせていただけることは大きな助けをいただいていると思います。とっても甘やかされている子供のようだと思います。感謝しきれないのですが、一生懸命お捧げしたいと思います。

ところで、今のブログの写真は、「太陽のダンス」を見ている人々でしょうか?「何の写真だろう」と見ていましたら、このように思い至り、勝手にそう思ってしまい、この人たちを見るだけで毎日感動しています。もし違っていても、カトリック信者の方たちでしょうから、とても心強く思われてうれしいのです。

【お返事】
ご報告をありがとうございます。
特に、この「イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、また聖マリアの汚れなき御心に対して犯される罪を償うためです」祈りは、大切です。どうぞ、お続け下さい。

はい、今のブログの写真は、今から99年前の10月13日に起こった「太陽のダンス」を見ている人々の写真です。6万人から8万人の人々がこれを目撃しました。
太陽は、いろいろな方向に動き出し、いろいろな色の光線を発して、山や木々や人々や地面をいろいろな色で染めました。ちょうどステンドグラスの光を通して太陽の光が教会の壁や床やベンチや人々を染め出すようです。太陽が動き出してこうやって光線を出したのは、ちょうど正義の太陽である生ける天主イエズス・キリストが、私たちにいろいろなお恵み(聖寵)の光線を与えて下さり、照らして下さり、恵んで下さっているということのように思えます。奇跡の時、太陽は天から地上に降りてこようとしました。その熱でずぶ濡れになった人々はすっかり乾いてしますのですが、イエズス様も私たちをご自分の愛熱の火で燃え立たせて下さるようです。あるいは、私たちを裁くために来たり給うということを象徴しているのかもしれません。
どうぞ、これからもロザリオの十字軍の祈りと犠牲を捧げ続けて下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。聖ピオ十世会-ロザリオの十字軍 (今年の8月15日から来年の8月22日)

2016年10月9-10日,16-17日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
10月9日(主日)と10日は、レネー神父様が大阪でミサ聖祭を捧げて下さいました。

10月16日(主日)と17日は、兄弟姉妹の皆様のしもべが東京でミサ聖祭を捧げました。東京では、40名の方々が聖伝のミサに与ることができました。天主様に感謝!赤ちゃんたちと子供たちの数が増えているので大変うれしく思います。カトリック教会らしく素晴らしいことです。

聖霊降臨後第22主日のミサには、同じようなテーマが繰り返されます。私たちの祈りを注意深く聞いて欲しい、私たちの祈りの声に心を向けて欲しい、祈りの声に注意を払って下さい!です。

例えば入祭唱:主よ、深い所から御身に私は叫んだ、主よ、私の声を聞き給え!御身の両耳を私の祈りの声に注意深く向け給え!
De profundis clamavi ad te, Domine; Domine, exaudi vocem meam. Fiant aures tuæ intendentes in vocem deprecationis meæ. Si iniquitates observaveris, Domine, Domine, quis sustinebit?

集祷分:私たちの避難所かつ力である天主よ、御身の教会の敬虔な祈りに寄り添い給え!敬虔の創り主よ、私たちが忠実に祈り求めるものを効果的に得ることができるようになし給え。
Deus, refugium nostrum et virtus: adesto piis Ecclesiae tuae precibus, auctor ipse pietatis, et praesta; ut, quod fideliter petimus; efficaciter consequamur.

聖体拝領唱:私は叫んだ、天主よ御身は私の祈りを聞き入れ給うが故に。御身の耳を傾け給え。私の言葉を聞き入れ給え。
Ego clamavi, quoniam exaudisti me, Deus : inclina aurem tuam, et exaudi verba mea : custodi me, Domine, ut pupillam oculi : sub umbra alarum tuarum protege me.

ところで、今から100年前、ポルトガルの守護の天使は、3人の子供たちにこう言いました。
Os Corações de Jesus e Maria estão atentos à voz das vossas súplicas.
イエズスとマリアの聖心はあなたがたの嘆願の声に注意を払っておられます。

これを見ると、教会の「御身の両耳を私の祈りの声に注意深く向け給え!」に対する答として聞こえてきます。
「もちろんだ!イエズスとマリアの両の聖心は、あなたがたの祈りの声に注意を払っておられる!」Fiunt Cordes Iesu Mariaeque intendentes in vocem deprecationum vestrarum と。

では、いただいたご報告を紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

10月の大阪でのレネー神父様による主日の御ミサの報告をお送りいたします。

10月9日(日)聖霊降臨後第21主日の御ミサには15名が、
  10日(月)聖フランシスコ・ボルジアの御ミサには10名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!!

主日のお説教は、「ロザリオについて」で、ロザリオはキリスト教的完徳を獲得し、救霊の良い手段である事と、各玄義の黙想のアドバイスを頂きました。
また、御ミサの後、他の二つのお説教も読んで頂きました。「恩寵はどのようにはたらくのか?」 と、「罪の結果、恩寵の必要性」でした。
私事ですが、ここ数年、二つの疑問をもっていました。
ひとつは、『なぜ自分はこんなにも罪にかたよりやすいのだろうか?』という事、もう一つは『どうして自分は罪びとであるのにこんなにも沢山の御恵みを頂いているのだろう?』という事でした。
昨日の御ミサの後の二つのお説教をお聞きして、この疑問が解決しました。(^^)v

また、祭壇横の天使の像の前にファチマの天使の祈りの入った額がおかれていて、信徒会長からこの祈りをするように勧めて頂きました。
来年のファチマの聖母ご出現100周年に向けて、改めてこの祈りを沢山唱えるきっかけになりました。 ありがとうございました。


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 15人(内、子供1人)
女: 25人(内、子供5人)
計: 40人(内、子供6人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ

いつもありがとうございます。昨日のごミサでは、カエザルのものはカエザルに、天主のものは天主に帰すとのことでした。天主さまのものでありたいと、強く祈る気持ちを少しでも持つことができるよう 努めたい、そのようにわずかでも努めるなら、罪ばかりの惨めな者である私であっても、天主さまの憐れみによって地獄を免れることができるかもしれない。そのようなことを 回心後しばらくは胸にありましたが、時間の流れとともに薄れ去っていたことに、このごミサにより気づかされましたように思います。

午後の公教要理では、ファチマについてお話しくださいまして、ありがとうございます。「人間の世界では 第一次世界大戦、地の下では悪魔的革命家レーニンを操っての地獄の勢力、天からは救いの勢力。地獄の頂点はモスクワ、ポルトガルのファチマには天の勢力。」この大変興味深いお話しに 聴き入ってしまいました。

ご講話は 1916年と1917年を、地上を見て 悪魔からの介入を見て 天からの介入を見てと、この3つの視点から眺めてみますとのことでした。

この3つの視点から、ファチマを見ることができて、これまで単にファチマの奇跡をのみ取り上げて、或いはコルベ神父さまの聖母の騎士会発足と関連づけて見ることしかなかったのですが、詳しく当時のヨーロッパの国勢をおはなしくださったことにより、悪がどれだけ酷いものだったかということと、ファチマの出来事はそれに対しての天からの介入の意味が強くあったのだ などということを深くはっきりとらえることができたように思います。特にこの時代のことは、高校生のときの世界史でも とても複雑に入り込んでいて、どの国の視点から見るかなど難解でした。「神聖ローマ帝国の死がカトリックの政治の死を象徴しているかのようでした」と カトリック信仰の目で解説していただいたことが、とても良かったです。神聖ローマ帝国の実質的に最後の皇帝フランツ・ヨゼフという方は、軍事用のベッドで寝起きし跪き台で祈りを捧げ、祈りによって周囲からの陰謀を食い止めようとするような方だったとのことでした。それなのに次々と身内をフリーメーソンや無政府主義者による暗殺や自殺などで失って、人類の罪の全てを捧げ尽くしたのかもしれないとのお話しにはジーンと来ました。そういう敵からの攻撃がカトリックの政治にたいして行なわれ、第一次世界大戦が始まることになったということがわかったように思います。このことをまず 地上の世界のこと、人間の世界の出来事として説明してくださいました。
お昼のときに、ラスプーチンの残忍な仕業を詳しくお話しくださいましたが、それは午後の講話につながるものだったのですね。ロシアでは国を混乱させ破滅に追いやったラスプーチンとか、スイスで革命を起こす計画を練っていたレーニンとかの動きなど、これらはフリーメーソンの動きとともに、悪魔からの介入と受け止めました。
ヨーロッパの1916年の状況が第一次世界の最中だということを、恥ずかしながら初めて認識しました。「西部戦線異常なし」というのは、映画の題名かもですが、いつもと同じく変わらず死傷者が多数発生中ということのアイロニーでしょうか。毎日たくさんの人が殺されていて、何百万人、数千万人もの人間が亡くなっていったというのは 大変なことです。
今は世界大戦はないけれど、教会への見えない攻撃が酷い状況で、教会の内側からの綻びがひどく、「通常通り霊魂の滅亡多数にて教会内部戦線異常無し」とは言い過ぎでしょうか。良いことのようにカモフラージュされた敵からの攻撃を見極めなければ、眠らされてしまっている霊魂が滅亡するその数は増えるばかりなのかなと 考えてみました。この戦争も止めさせてもらいたいです。
天からの介入のお話しは、何回読んでも何回聴いても飽きることなく 聴きたいです。天使とマリア様のご出現によって捧げられるようになった ルチアとジャシンタとフランシスコの犠牲と祈りは、どれほど天主様の御心をお慰めしたことでしょう。
印象的だったのは、10月13日のご出現と太陽の奇跡についての対比でした。太陽の奇跡を見ていたのは大群衆の見物人で、3人のルチアとジャシンタとフランシスコは、マリアさまヨセフさまイエズスさまのご出現を受けていたという対比です。
紙の本やインターネットで読んだ時 読み過ごしていました。私たちにも、ロザリオの祈りと犠牲をお捧げすることでファチマが単なる奇跡の話しになるのではなく、私たちの心の中にマリア様ヨセフさまイエズスさまに霊的にいらしてくださることになりますようにと願うものです。
少しでも心を込めてロザリオを唱え わずかなことしかできなくても犠牲をお捧げするよう努め、天使の教えてくれた祈りをわずかな時も利用して祈りたいと思います。たくさんの滅びに向かう霊魂のために、今わたしたちにもできることなのだと思いました。
30分延長しても時間が足りなく、最後は急ぎ足でお話くださいましたが、端折らない神父様のお話しを ちゃんとお聴きしたかったです。素晴らしいお話しをありがとうございました。
デオグラチアス!


【お返事】
素晴らしいレポートです!特に、「通常通り霊魂の滅亡多数にて教会内部戦線異常無し」ということに思いついたのが、正にその通りだと思いました!ありがとうございます

一人一人の兵士には、その家族や友人や思い出や愛情がそれぞれありますが、戦争の中で亡くなっていきます。ヴェルダンの戦い(約100万名が死傷)、ラ・ソンムの戦い(イギリス軍は、42万名、フランス軍は20万名、ドイツ軍60万名が死傷)、などで毎日多くの人命が失われましたが、それでも戦線はほとんど動くことはありませんでした。
しかし、上層部は兵士をゲームの駒のようにしか見ていなく、一日に何千人が亡くなっていっても、戦線は数センチも動かず、何ヶ月も同じ所を守っていて、何の特記するニュースもない、「西部戦線異状なし」ということです。
第二バチカン公会議以後、司祭召命や修道者召命が激減し、カトリック信仰がますます失われている大戦争状態のようです。それでも「大本営」(?)は、聖変化の時には跪くな、御聖体は立って手で拝領せよ、と命じ「教会に危機はない」と言っているかのようですね。

フランツ・ヨゼフ皇帝には、実は後継者がいて、カールと言います。若くして皇帝になりました。29歳でした。1916年12月30日にブダペストで戴冠式がありました。(その翌日、12月31日の早朝4時頃に、ラスプーチンが暗殺されています。)
カール皇帝は、第1次世界大戦の終結を望み続けそのために力を尽くしました。
1922年4月1日、ポルトガル領のメデイラ島に追放されて、貧困のうちに死亡します。(ファチマもポルトガルでした。)カール皇帝は、ヨハネ・パウロ二世によって2004年に列福されました。


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

レポートをお送りいたします。

お説教
これだ! と分かった点
「チェザルの物はチェザルに、天主の物は天主にかえせ。」という言葉に従順の本質が隠されている、ということ。
それは全ての権威は天主から来るのであり、長上に従うことは天主の御旨である。私たちの人間の自然本性それだけでは上下の区別をつけることができないが、天主から来る権威をいただくことで、上下の差がつけられる。
なぜ天主はこの差異を与えられたのか、それは、天主は人間に社会生活を送ることをお望みになられるからである。ではなぜ、社会生活を送ることを望まれるか、それは私たちをして共通善に取り組ませ進ませるためである。
この部分は公教要理にもあると思いますが、「では、チェザルの物はチェザルに、天主の物は天主にかえせ。」というイエズス様のお言葉の中に従順の本質が隠されており、この一言だけでよくこの世の中で話題にされる「人間は皆平等なのか否か」とか「なぜ王制があるのか」とか「権威とは何か、権威は必要か」といった類の問題に一切の解決を与えます。本当にイエズス様は真理でいらっしゃるのだと再び感動致しました。
また、後にイエズス様が捕らえられピラトの前に引かれていった時、「チェザルに税を収めることを禁じ・・・」(ルカ23章2節)という偽証がでますが、これはイエズス様の仰ったこととは真逆の訴えであったこともよく理解ができました。

最近、お説教の中で神父様が御ミサ中のそれぞれのお祈り(集祷文や入祭文など)の意味と聖福音との繋がりを解説してくださるので、今日の御ミサ全体のお祈りの意向は特になんだろうか?ということを意識して御ミサに与るようになりました。
今日の御ミサは待降節に向けて、天主様への「私たちは天主からいただいた様々な能力や物や諸々を全く善く用いず、好き勝手に使ってきましたが、しかし、天主よ、私たちの声を聞いてください!!」と願い求めつつ、待降節と御降誕へ向かっているのではないかと思いました。
このことを考えると、ルフェーブル大司教様が教会の典礼暦に従って毎日の黙想をすることを勧めていらっしゃった理由が理解できたようでした。

今回の御ミサでよく分からないところはありませんでした。何をどこまで理解しているのか理解できていないのか、頭の中で区別が付かず、もっとよく聖福音を読んで黙想して考えようと思います。。。

御ミサののちの講話の時間には、ファティマでのマリア様のご出現を3つの視点から見て、解説していただきました。
1つは私たちの世界で、第一次大戦当時のヨーロッパ
2つめは、地獄で、ロシア・モスクワ
3つめは、天国で、ポルトガル・ファティマ です。
とても素晴らしい内容でした! 今までは、ファティマの御出現・第一次大戦・ロシア革命前夜と革命、と別々には勉強したり本を読んだことはあったのですが、それぞれを並列して見比べ、またそこに天国からのご介入と地獄の勢力の動きを見ることははじめてだったので、とても興味深くお話しを聞かせていただきました。もっと詳しく伺いたい!
と思いましたが、時間が無くなってしまったので残念でした。。。本当にすばらしい内容で、カトリックやファティマの御出現をよくご存じない方に、逆にファティマの御出現は知っているけれども、その時のヨーロッパがどうなっていたのか、その時準備されていたロシア革命について詳しくご存じない方や、また、それらの出来事を俯瞰して考えた事のない方にも、もっともっと多くの方々に聞いていただきたいと思いました。
神父様がお話しくださった内容に映像資料をつけてNHK『映像の世紀』のようにインターネットやテレビで配信し、配信後には償いの御ミサ、その後には御聖体降福式も中継し、ロザリオをみなで唱えられれば良いのに。。。と思いました。

17日には、聖マルガリタ・マリア・アラコック様の御ミサにも与ることができ、大変幸せでした。
11月は多くの御ミサが捧げられる予定ですので本当に嬉しいです。
更に多くの方々が、御ミサに与ることができますように! ロザリオの月ですので、ロザリオももっと頑張って唱えたいと思います。

デオグラチアス!
+In Mary Immaculate,

「罪の結果、恩寵の必要性」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「罪の結果、恩寵の必要性」の霊的講話(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月9日 聖霊降臨後の第21主日―大阪 霊的講話「罪の結果、恩寵の必要性」
親愛なる兄弟の皆さん、

これまで見て来たように、十戒は、私たちが天主の子としてこの地上で既に超自然の命を生きることによって、またキリストが私たちのうちに生きておられることによって、永遠の命に至る道を私たちに示してくれます。しかし、たちまち次のような反論が出てきます。すべての掟に従うことは、あまりにも難しすぎるように思われる。掟に従うことは誰にもできないように思われる。ルターは、掟を守ることは不可能である、とまで言いました。プロテスタントの中にはしばしば、さらに先に行っている人々がいます。彼らは言います。天主は律法によって、すなわち掟への服従によって人間を救うという最初のご計画をおつくりになったが、それはうまくいかなかった。そのため今では、これらのプロテスタントたちによれば、天主は律法ではなく恩寵に基づく新たな契約をつくられ、この契約においては、私たちはもはや律法の下にはいない、と。つまり彼らは、私たちがもう律法に従うことを義務づけられず、律法から自由である、ということを意味すると解釈しているのです。

このプロテスタントの解釈の仕方には、悪魔によるとんでもない欺きがあります。カトリックの真理は二つの単純かつ本質的な真理で要約されます。1)私たち自身では、実際に掟を守ることはできません。私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)。2)私たちの主イエズス・キリストの恩寵があれば、私たちは掟を守ることができ、また守らなければなりません。この聖書の同じ一節の中で、私たちの主イエズス・キリストは言われました。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)。「あなたたちが多くの実をつけることは、私の父の光栄であり、そして、あなたたちは私の弟子になる」(ヨハネ15章8節)。また聖パウロが言います。「私を強め給うお方において私にはすべてができる」(フィリッピ4章13節)。

このプロテスタントの解釈の仕方がいかに誤っているかを理解するために、教会は、旧約の律法において掟を三種類に区別しなければならない、と教えています(列王上8章58節参照)。1)第一の掟にして最も重要なものは、十戒のような道徳上の掟です。2)第二に、儀式上の掟があり、これは割礼、犠牲を捧げること、「不浄な食べ物」を避けることを含む多くの種類の洗浄-などです。3)そして、第三の掟は「法的な掟」です。これは特定の罪に対して特定の罰を適用します。ですから、多くの大罪が死刑によって罰せられました。偶像崇拝、冒涜、殺人、姦淫、同性愛などです。もっと軽い罰は、盗みのようなもっと軽い罪に適用されました。

さて教会は、旧約の儀式上の掟は新約においては停止されたと教えています。新約の新しい儀式である七つの秘蹟によって置き換えられました。その中で最も重要なのはミサの聖なる犠牲であり、旧約のすべての犠牲が告知し、前じるしとなっていました。ですから、洗礼が割礼に取って代わり、悔悛が旧約のすべての洗浄に取って代わり、ミサの聖なる犠牲は、旧約の多くの犠牲のすべてに取って代わった、といった具合です。この領域において、前じるしで告知されていたものを実現させたことによって、新約は「旧約を成就させています」。しかし現実が前じるしに取って代わったのですから、もはや旧約の犠牲を行うことは許されません。そんなことをすれば、キリストの来臨を否定するに等しいのです。ローマへの方角を示している道路標識は、ローマの外では見られるでしょうが、ローマに到着したときにそんな標識があるなら間違っています。その標識があれば、まだローマに着いていないことになってしまいます。これらの旧約の儀式は来るべきメシアを告知しているのですから、それを行うことはメシアがもう来られたということを暗に否定しています。このため、新約において聖パウロは言います。「あなたたちが割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たなくなる」(ガラツィア5章2節)。これは、聖パウロが、私たちは「もはや律法の下にはいない」(ガラツィア5章18節)と言うときの中心となるポイントです。聖パウロは、教会に入って来る異邦人に対してこれらの旧約の儀式を押し付けようとした「ファリザイ人の異端」(使徒行録15章5節)に反駁していました。

第二の律法は、新約においては軽減されています。例えば、姦淫を犯した女がイエズスのところに連れて来られたとき、イエズスは言われました。「あなたたちの中で罪のない人がまずこの女に石を投げよ」(ヨハネ8章7節)。そしてイエズスご自身も石を投げられませんでしたが、むしろその女にはっきりと警告されました。「私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」(ヨハネ8章11節)。これは、死刑が廃止されたという意味ではありません。そうではなく、聖パウロ自身は次のように教えています。「上に立つ者は善い行いのためではなく、悪い行いのために恐れねばならぬ。あなたは権威を恐れないことを望むか。それなら善を行え。そうすれば彼から賞められる。彼はあなたを善に導くために天主に仕える者である。もしあなたが悪を行うなら恐れよ。彼はいたずらに剣を帯びているのではないからである。彼は天主に仕える者であって、悪をする者に怒りをもって報いる」(ローマ13章3-4節)。でも、新約において死刑が適用されるのは、冷血殺人のようなずっと重い罪だけです。

第三の律法、道徳の法は、新約において決して廃止されていません。むしろ、より完全性の高い段階へと揚げられています。山上の垂訓全体がそれを示しています。「知ってのとおり、昔の人は『殺すな…』と教えられた。だが私は言う、兄弟に怒ることさえするな」(マテオ5章21-22節)! 聖アウグスティヌスが言います。兄弟に対して怒らないように命じるお方は、殺すなという掟を廃止するのではなく、むしろさらに高い完全性を要求する、と。同様に、私たちの主は言われました。「知ってのとおり、『姦通するな』と今まで教えられている。だが私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。右の目がつまずきになるなら抜き出して捨てよ。全身がゲヘナに投げ込まれるより、体の一部を失う方がましである」(マテオ5章27-29節)。聖パウロ自身が言いました。「聖徒にふさわしいように、あなたたちの中では、淫行、いろいろな汚れ、情欲は口にさえもするな。…淫行の者、好色な者、情欲の者はみな―これは偶像崇拝者と同じである―、キリストと天主の国を継げない」(エフェゾ5章3、5節)。ですから、道徳の法は新約においてもまだ義務づけられており、より高い完全性さえも要求しているのは明らかです。

これらのプロテスタントたちを欺いているものは、聖パウロの言う「私たちは律法の下にはない」(ローマ6章14節他)ということを彼らが理解していないということです。教父たちは、これらの言葉を正しく説明しました。聖アウグスティヌスは説明します。われらは律法の下にいるのではないが、それはわれらが律法を破るのを許されているというのではなく、われらの主イエズス・キリストの恩寵によって、聖霊の恩寵によって、われらが愛によって律法を守る力を与えられているからそういわれるのである。であるから、律法はもはやわれらを破滅させる重荷ではない。実に、われらの主を拒否し、律法に従う力を持たない人々は、律法に従わないとして律法が彼らを有罪とする。それゆえに、彼らは律法によって破滅させられると感じる。これすなわち「律法の下」にいることである。しかし、律法は、われらの主イエズス・キリストの恩寵によって力を与えられて、実際に律法を守る人々の友となる。実に、律法は、箴言に書かれているように、永遠の命への道を私たちに示してくれる友として彼らと共にある。「掟は灯であり、律法は光である」(箴言6章22節)。彼らは律法によって破滅させられず、律法の下にはなく「キリストの律法と共に」ある。(コリント前書9章21節)。

これは明らかに、聖パウロが教えていることです。「あなたたちは律法の下にはなく恩寵の下にあるから、罪はあなたたちの上に何の力もないであろう。それはどういうわけか。私たちはもう律法の下にはなく恩寵の下にあるから罪を犯してよいのか。決してそうではない。あなたたちがある人に従うために奴隷として自分の身を捧げるなら、あなたたちは自分が従うその人の奴隷となることを知らないのか。罪に身を捧げるのは死のためであり、従順であることは正義のためである。だが私は天主に感謝する。なぜなら、これまで罪の奴隷であったあなたたちが、罪から解放されて正義の奴隷となったからである。私はあなたたちの肉の弱さを顧みて、人間的な言い方で話す。あなたたちは、不法に至るためにその肢体を不浄と不法の奴隷としたが、今は聖徳に至るためにその肢体を正義の奴隷として捧げよ」(ローマ6章14-19節)。恩寵が私たちに罪を犯すことを許すのではなく、反対に、恩寵は「聖徳に至るために正義の奴隷となる」よう私たちに力を与えてくれるということが、この一節から非常に明白です。

では、私たちは「律法の善業によって義化される」のでしょうか? そうではありません。律法への従順は義化の後にあり、義化の前にあるのではありません。私たちが義とされるのは私たちの主イエズス・キリストの恩寵によってであり、その結果、私たちに律法を守る力が与えられるのです。聖パウロははっきりと言います。「あなたたちはその恩寵により、信仰によって救われた。それはあなたたち自身によるのではなく、天主の賜物である。それは行いによるのではない。誰もそれを誇ってはならぬからである。私たちは天主に創られた者であり、天主があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された」(エフェゾ2章8-10節)。善業は義化の前にあるのではなく、むしろ義化の後になければならないのです。

ここが信仰についての大変重要なポイントです。律法を守るため、天国に行くために、私たちは私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とします! そしてその恩寵があれば、私たちは律法を守ることができ、また実際に守るのです。私たちがこの恩寵を必要とする二つの主な理由があります。第一の理由は、キリスト教徒の命の目標は超自然の目標、天国の永遠の命、天主の子として天主の命と幸せを共にすることだからです。さて、これが人間の本性の持つ能力を超えているのは確かです。そのため、そんな高い目標に達するためには、私たちには天主の恩寵が、もったいないほどの天主の御助けが絶対に必要なのです。この理由から、童貞聖マリアでさえ、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が絶対に必要でした。キリスト教徒の命は天主の養子としての命です。そのような命は私たちの本性の能力を超えています。ですから、天主の子としてふさわしく生きるために、私たちは御独り子、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とするのです。そのとき、この恩寵は、私たちがそのような命を生きることをはっきりと可能にする七つの「聖霊の賜物」の源です。教会は、恩寵は私たちの本性をこの超自然の命へと高める、と言います。

第二の理由は、私たち人間の本性は罪によって傷ついているからであり、そのため、自然法を守ることさえできないからです。この第二の理由は、(主の本当に特別な恩寵によって)罪なくして宿り給うた聖母には当てはまりませんが、原罪を持って生まれた私たちすべてに当てはまります。実際、どのような罪であっても三つの結果が出てきます。汚れ、当然受けるべき罰、そして傷です。聖トマス・アクィナスの説明を聞きましょう。

罪による第一の結果は、「罪の汚れ」です。すなわち、心の闇、成聖の恩寵の喪失です。罪の行為は過ぎ去りますが、この「罪の状態」は残ったままです。このままでは、霊魂は成聖の恩寵を奪われ、天主に対する反逆の状態にあり、聖霊の光を奪われ、闇の中にいるのです。そのため、「汚れ」と呼ばれます。罪のよるこの最初の結果は、洗礼で「洗われ」ます。洗礼の後に大罪を犯したなら、この罪の汚れは悔悛の秘蹟で浄化されます。実際、これらの秘蹟は、霊魂をその光で満たし、それによって罪の闇を追い出すお方である聖霊の甘美なる現存によって、成聖の恩寵を戻してくれます。

罪による第二の結果は、当然受けるべき罰です。正義は、罪びとが自分の罪を償い、その罰が正義の要求を満たすように要求します。天主は善きお方であり、悪が勝利するままにはなさいません。天主は悪に最終決定権を持たせることはなさいません。正義は、罪の償いを要求し、それは当然受けるべき罰です。簡単な例を挙げて、それを明らかにしましょう。盗みを働いたとき、謝るだけでは十分ではなく、償わなければなりません! 自分が駄目にしたものを回復させなければなりません! 洗礼はすべての罪を赦すだけでなく、罪のために当然受けなければならないすべての罰も赦します。しかし、洗礼ののちに罪を犯すなら、そのときは悔悛の秘蹟がその罪を赦しますが、罪による罰をすべて赦すという訳ではありません。悔悛が必要であり、当然受けるべき罰という代償を支払うことが必要です! なだめの犠牲であり、天主の正義を満足させ、すなわち、当然受けるべき罰という代償を支払う、私たちの主イエズス・キリストの犠牲において、私たちの悔悛は、主の功徳と一致することによって価値を持つのです。

罪による第三の結果は大変重要です。それは罪による傷です。罪は、私たちの本性に傷を負わせます。原罪がすべての人間に傷を負わせましたが、私たち自身の罪がその傷の上に加わります。人類を見るとき、人は悪と罪の大きさによって圧倒されます。天主によって善きものとして創られたのなら、人間がそれほど罪を犯しやすいのはどうしてなのでしょうか? 天主は実際、最初の人間を善きものとして創られましたが、この最初の人間であるアダムは自分の罪、すなわち原罪によって、自分自身と自分の子孫を破滅させました。第一のアダムによって入り込んだこの悪を癒やすため、私たちは新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストを必要とします。主の恩寵が私たちの本性を癒やします。私たちの主イエズス・キリストは実際、全能の天主であり、私たちを罪から救うために人となられた聖三位一体の第二のペルソナです。主は、私たちの本性を癒やす御力をお持ちです。主の御力を最もよく証明するものは、主の御母、童貞聖マリアに与えられた優れた恩寵です。主は、聖母を原罪の伝染から全く完全にお守りになったため、聖母は「原罪から保護され」、それによって聖母は無原罪の御宿りとなられました。聖母だけには原罪がなく、罪による傷もなかったのです。聖母が無原罪であるのは、この優れた癒やしの恩寵という予防薬の効能なのです。

その傷は、どんなものから構成されていますか? 聖トマス・アクィナスは、それは四重の傷であり一定の悪への傾きだ、と説明しています。私たちの本性の能力には、一定の機能不全があります。私たちの知性は無知によって傷を負っており、私たちの意志は悪意によって傷を負っており、私たちの強い欲求は弱さによって傷を負っており、私たちの感情的な欲求は情欲によって傷を負っています。私たちの知性における無知による傷は、真理に到達することを一定程度困難にしています。私たちは結論に一足飛びに行き過ぎるか、あるいは結論を把握しないかのどちらかです。私たちの意志における悪意による傷は、主に自己中心であり、天主を第一の場所に置く代わりに自分自身を第一の場所に置くのです。弱さによる傷は、善きことにおいて忍耐し、特に困難において忍耐する強さが欠けていることです。情欲による傷は、この世のものや楽しみに向かう傾向が行き過ぎることです。いくつか例を挙げて、簡単にこれらの傷を見ることができます。酒に酔った男は、また飲みすぎようとする傾向を持つようになるでしょう。子どもが最初に嘘をつくときはいつもぎこちないものですが、次は簡単になる、といったものです。嵐のため木が片方に倒れたとき、農夫はその木を元の垂直に戻しますが、木を反対側に引っ張るためのロープも使います。ですから、私たちも自分自身に対してそうしなければならず、自制と苦行を行うことによって、これらの悪しき傾きに対して闘わなければなりません。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。

私たちがこれまで言ってきたように、洗礼の秘蹟によって罪の汚れは洗われ、罪による罰は完全に赦されます。そして罪による傷の癒やしの過程が始まるのです。私たちの主イエズス・キリストは、良き医者のように、その傷を清め、そこに薬を塗り、絆創膏で包んでくださり、それから私たちに言われました。さあ、気を付けなさい! ですから、イエズスはベトサイダの池で癒やし給うた男に言われました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。初期のキリスト教徒の多くは、このように洗礼から死に至るまでの恩寵に忠実でしたし、教会の歴史を通じて、そのようにした聖人たちがいました。幼きイエズスの聖テレジアのように。しかし、洗礼ののち罪に戻ってしまった場合、その傷が再び口を開け、また頻繁に罪に陥る場合は、「その人の後の状態は前より悪くなる」(ルカ11章26節)のです。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに強く言われました。「誘惑に陥らぬように目を覚まして祈れ。心は熱しても肉体は弱いものだ」(マテオ26章41節)。

これらの傷があるため、私たちは皆、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を絶対に必要とするのです。それゆえに、私たちがキリストの恩寵を必要とする二つの理由があります。1)私たちが招かれている超自然の幸せを得るため、2)私たちの本性に罪による傷があるため、です。私たちの主イエズス・キリストの恩寵は、私たちを癒やしてくれる恩寵であり、かつ私たちを高めてくれる恩寵です。この恩寵は、私たちの本性を、罪による傷から癒やし、天主の子の命にまで高めてくれます。これら二つの面は切り離すことができません。罪から癒やされる必要がなく、悔悛と秘蹟がなくとも、天主の子の命を生きることが可能であると言い張るのは自分をだましていることになるでしょう。また、天主の子として生きることなく、まるで自然の善に到達するので十分であるかのようにするなら、罪から癒やされることは不可能でしょう。

私たちは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要としますが、私たちはそれをどのようにして得るのでしょうか? それは、祈りと秘蹟によって得るのです! これらは、恩寵を得るために私たちの主が私たちに与えてくださる二つの手段です。しかし、求めなくても主が与えてくださる多くの恩寵もあります。事実、主が私たちに祈る恩寵を与えてくださらなかったら、私たちは回復の道を進み始めることは決してなかったでしょう。最初の恩寵は常に、功徳なしに与えられますが、人間は恩寵に協力しなければなりません。もし、私はキリストからすべての恩寵をいただけると思っているので何もする必要はない、と言ったとしたら、それは自分をまったく欺いているのです。良き主人として、私たちの主イエズス・キリストは私たちにいくつか才能を与えてくださいましたが、私たちはその才能が実を結ぶようにしなければなりません。さもないと、私たちは私たちの主から、次の非難の言葉を聞くことになるでしょう。「悪い怠け者のしもべだ!…この役立たずのしもべを外の闇に投げ出せ。そこには嘆きと歯ぎしりがあろう」(マテオ25章26、30節)。

親愛なる兄弟の皆さん、この説教には多くの教理がありましたが、次の非常に重要なポイントを覚えておいてください。私たちの主イエズス・キリストの恩寵がなければ、私たちは何も善いことができません。しかし、主の恩寵があれば、私たちは、天国に行くために私たちが守らなければならない道徳の法を守ることができます。私たちの主の恩寵は、私たちを四重の傷から癒やし、私たちの本性を天主の子の命にまで高めてくれます。私たちは、熱心な祈りと秘蹟によって、癒やしかつ高めてくれる恩寵を豊かに得ることができます。聖母と諸聖人に祈りましょう。私たちの祝されし主が、私たちに恩寵を豊かに与えてくださり、私たちをその恩寵と完全に協力させてくださり、それによって、私たちが永遠の命に至る実を結ぶことができますように! アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

11月1日、2日に予定されていたミサ聖祭

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

こんにちは!

今年の11月1日、2日に予定されていたミサ聖祭ですが、聖ピオ十世会の総長第一補佐のフルーガー神父様が、入院中で、どうしても11月1日まで退院出来ないようです。昨日、連絡がありました。フルーガー神父様の来日は、来年に延期になりました。

来年のフルーガー神父様の訪問予定が分かり次第、ご連絡いたします。

今回は、大変申し訳ありません。

フルーガー神父様の早期の回復のために、お祈りをよろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!トマス小野田圭志神父

日本での聖伝のミサのご案内【2016】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

2016年の残りの御ミサのスケジュールをお知らせいたします。

スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。

いつものように、左のカレンダをクリックして、最新のミサ日程で、ご確認できますが、

修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2016】』の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。

この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。

聖ピオ十世会 年間の予定はこちら


【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」
大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002
(アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【東京】「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図


**** 11月の予定  ****
 【大阪】
 11月4日(初金)
 証聖者司教聖カルロ(3級祝日)白 
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月5日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月13日(主)
 聖霊降臨後第26主日(2級)緑(御公現後第6主日)
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月14日(月)
 殉教者司教聖ヨザファト(3級祝日)赤
 午前6時半 ミサ聖祭

 11月18日(金)
 聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月19日(土)
 寡婦聖エリザベト(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 11月1日(火)、2日(水)←フルーガー神父様が入院されたために、キャンセルになりました。どうぞご了承ください。フルーガー神父様の早期の回復のために、お祈りをよろしくお願いいたします。

 11月6日(主)
 聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月7日(月)
 聖霊降臨後の平日(4級)緑
 午前7時 ミサ聖祭

 11月13日(主)←追加されました。
 聖霊降臨後第26主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月20日(主)
 聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日)
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月21日(月)
 童貞聖マリアの奉献(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭


**** 12月の予定  ****
 【大阪】
 12月2日(初金)
 殉教者童貞聖ビビアナ(3級祝日)赤 
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月3日(初土)
 証聖者聖フランシスコ・ザビエル(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月11日(主)
 待降節第3主日(1級)バラ色(或いは紫)
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月12日(月)
 待降節の平日(3級)紫
 午前6時半 ミサ聖祭

 12月16日(金)
 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月17日(土)
 待降節の四季の斎日 土曜日(2級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月23日(金)
 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日)
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月24日(土)
 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 【東京】
 12月4日(主)
 待降節第2主日(1級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月5日(月)
 待降節の平日(3級)紫
 午前7時 ミサ聖祭

 12月18日(主)
 待降節第4主日(1級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月19日(月)
 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日)
 午前7時 ミサ聖祭

 12月25日(主)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月26日(月)
 最初の殉教者聖ステファノ(2級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

"Consequences of sin, need of grace" Sermon by Fr. Laisney SSPX : 英語版「罪の結果、恩寵の必要性」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「罪の結果、恩寵の必要性」の霊的講話の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Consequences of sin, need of grace
My dear brethren,

As we have seen, the Ten Commandments show us the path to eternal life, by already living here below the supernatural life as children of God, Christ living in us. But immediately an objection is raised: it seems too difficult to follow all the Commandments. It seems that no one can follow the Commandments. Luther went so far as to say that the Commandments were impossible. Some Protestants often go further and say that God had made a first plan to save men by the Law, i.e. by obedience to the Commandments; it did not work; therefore now, according to these Protestants, God made a new Covenant, not based on the Law but on grace, in which we are no longer under the Law which they interpret to mean that we are no longer bound to obey the Law, free from the Law.

There is a great deceit of the devil in this Protestant approach. The Catholic truth is summed up in two simple and essential truths: 1/ by our own selves, we indeed cannot fulfil the Commandments. Our Lord Jesus Christ said: “Without Me you can do nothing” (Jn. 15:5). 2/ With the grace of our Lord Jesus Christ, we CAN and must fulfil the Commandments. In the very same passage, our Lord Jesus Christ said: “I am the vine: you the branches: he that abideth in me, and I in him, the same beareth much fruit:” (Jn. 15:5). “In this is my Father glorified; that you bring forth very much fruit, and become my disciples” (Jn. 15:8). And St Paul says: “I can do all these things in him who strengtheneth me” (Phil. 4:13).

To understand how erroneous this Protestant approach is, the Church teaches that, in the Old Testament Law, one must distinguish three kinds of precepts (see 1Kg 8:58): 1/ The first kind of precepts and the most important were the moral precepts, such as the Ten Commandments. 2/ Secondly, the ceremonial precepts, such as the circumcision, the offering of sacrifices, the many ablutions, including the avoidance of “unclean foods”, etc. 3/ And the third kind of precepts are called “judicial precepts”: they provide certain punishments for certain sins: thus many mortal sins were punished with the death penalty: idolatry, blasphemy, murder, adultery, homosexuality, etc. Lighter penalties were provided for lighter sins such as theft.

Now the Church teaches that the ceremonial precepts are terminated in the New Testament: they are replaced by the new ceremonies of the New Testament, the Seven Sacraments, of which the most important is the Holy Sacrifice of the Mass, which was announced and prefigured by all the sacrifices of the Old Testament. Thus Baptism replaces circumcision; Penance replaces all the ablutions of the Old Testament; the Holy Sacrifice of the Mass replaces all the many sacrifices of the Old Testament, etc. In this domain, the New Testament “fulfils the Old Testament” by bringing the reality announced by the figures; but that reality displaces the figures; it is no longer permitted to do the Old Testament sacrifices: they would be the equivalent of a denial of the coming of Christ. A road sign indicating the direction towards Rome will be found outside of Rome, but when you are arrived in Rome, such road sign would be wrong: it would mean that you are not yet there. These Old Testament ceremonies announce the Messiah to come, implicitly denying that He already came. Thus in the New Testament St Paul says: “if you be circumcised, Christ shall profit you nothing” (Gal. 5:2). This is the main point of St Paul when he says that we are “no longer under the Law” (Gal. 5:18). He was refuting the “heresy of the Pharisees” (Act. 15:5) who wanted to impose these ceremonies of the Old Testament on the Gentiles coming into the Church.

Laws of the second kind are mitigated in the New Testament. For instance, when a woman taken in adultery was brought to Christ, he said: “He that is without sin among you, let him first cast a stone at her” (Jn. 8:7). And He himself did not throw the stone, but rather warned her clearly: “Neither will I condemn thee. Go, and now sin no more” (Jn. 8:11). That does not mean that the death penalty is abolished: no, St Paul himself teaches that “princes [=persons in authority] are not a terror to those who do good work, but to those who do evil. Wilt thou then not be afraid of the power? Do that which is good: and thou shalt have praise from the same. For he is God's minister to thee, for good. But if thou do that which is evil, fear: for he beareth not the sword in vain. For he is God's minister: an avenger to execute wrath upon him that doth evil” (Rom. 13:3-4). Yet the death penalty is only applied to the greater crimes in the New Testament, such as cold-blood murder.

The Third kind of Law, the moral law, is far from abrogated in the New Testament. It is brought to a higher degree of perfection. The whole Sermon on the Mount is there to show it: “You have heard that it was said to them of old: Thou shalt not kill… But I say to you, don’t even be angry with your brother” (Mt. 5:21-22)! St Augustine comments: he who commands not to be angry with one’s brother does not abolish the commandment not to kill, but rather requires a higher perfection. Similarly, our Lord said: “You have heard that it was said to them of old: Thou shalt not commit adultery. But I say to you, that whosoever shall look on a woman to lust after her, hath already committed adultery with her in his heart. And if thy right eye scandalize thee, pluck it out and cast it from thee. For it is expedient for thee that one of thy members should perish, rather than that thy whole body be cast into hell” (Mt. 5:27-29). St Paul himself said: “But fornication, and all uncleanness, or covetousness, let it not so much as be named among you, as becometh saints… For know you this and understand, that no fornicator, or unclean, or covetous person (which is a serving of idols), hath inheritance in the kingdom of Christ and of God” (Eph. 5:3,5). So it is clear that the moral law is still binding in the New Testament, and even requires a higher perfection.

What deceives these Protestants is that they do not understand what St Paul says: “we are not under the Law” (Rom. 6:14, etc.) The Fathers of the Church have explained these words in the right way. St Augustine explains that we are not under the Law, not as if we would be allowed to break the Law, but because by the grace of our Lord Jesus Christ, the grace of the Holy Ghost, we are empowered to fulfil the Law out of love: thus the Law is no longer a burden that crushes us. Indeed those who, rejecting our Lord, do not have the strength to obey the Law, the Law condemns them because they disobey it; therefore they feel crushed by the Law: that is to be “under the Law”. But the Law becomes a friend for those who, being empowered by the grace of our Lord Jesus Christ, do fulfil the Law: indeed the Law accompanies them as a friend who shows us the path to eternal life, as it is written in the Proverbs: “the commandment is a lamp, and the law a light” (Pro 6:22); they are not crushed by the Law, they are not under the Law but “with the Law of Christ” (1 Cor. 9:21).

This is explicitly what St Paul teaches: “For sin shall not have dominion over you; for you are not under the law, but under grace. What then? Shall we sin, because we are not under the law, but under grace? God forbid! Know you not, that to whom you yield yourselves as servants to obey, you are the servants of him whom you obey, whether it be of sin unto death, or of obedience unto justice. But thanks be to God, that you were the servants of sin, but have obeyed from the heart, unto that form of doctrine, into which you have been delivered. Being then freed from sin, we have been made servants of justice. I speak a human thing, because of the infirmity of your flesh. For as you have yielded your members to serve uncleanness and iniquity, unto iniquity; so now yield your members to serve justice, unto sanctification” (Rom. 6:14-19). It is very clear from this passage that grace does not allow us to sin, on the contrary, graces empowers us to “serve justice unto sanctification.”

Are we then “justified by the works of the Law”? Not so. Obedience of the Law follows justification, it does not precede it. It is by the grace of our Lord Jesus Christ that we are justified, and thereby empowered to fulfil the Law. St Paul says that explicitly: “For by grace you are saved through faith, and that not of yourselves, for it is the gift of God; not of works, that no man may glory. For we are his workmanship, created in Christ Jesus in good works, which God hath prepared that we should walk in them” (Eph. 2:8-10). It is very clear that good works do not precede justification, but rather must follow it.

Here is a very important point of faith: we need the grace of our Lord Jesus Christ in order to fulfil the Law, in order to go to Heaven! And with His grace, we can and do fulfil the Law. There are two main reasons why we need that grace. The first reason is that the goal of the Christian life is a supernatural goal, everlasting life in Heaven, sharing God’s life and happiness as a child of God. Now that is certainly above the abilities of our human nature. Hence we all absolutely need the grace of God, the undeserved help of God, in order to reach such high goal. Even the Blessed Virgin Mary absolutely needed the grace of our Lord Jesus Christ for that reason. The Christian life is the life of adoptive children of God: such life is above the ability of our nature; we need the grace of the Only-Begotten Son, our Lord Jesus Christ, in order to live worthily as children of God. This grace then is the source of the seven “gifts of the Holy Ghost” which clearly enable us to live such life. The Church says that the grace elevates our nature to this supernatural life.

The second reason is because our human nature is wounded by sin, and therefore not even capable to fulfil the Natural Law. This second reason does not apply to our Lady, who was conceived without win (by a very special grace of our Lord), but it applies to all of us, who were born with original sin. Indeed any sin has three consequences: the stain, the due penalty and the wound. Let us listen to the explanations of St Thomas Aquinas.

The first consequence of sin is the “stain of sin”, that is the darkness of the mind, the privation of sanctifying grace. The act of sin passes, but there remains this “state of sin”, where the soul is deprived of sanctifying grace, in a state of rebellion against God, deprived of the light of the spirit, in darkness. Hence it is called a “stain”. This first consequence of sin is “washed” in Baptism. If one sins mortally after Baptism, this stain of sin is cleansed in the Sacrament of Penance. Indeed these Sacraments give back sanctifying grace, with the sweet Presence of the Holy Ghost, who fills the soul with His light, thus expelling the darkness of sin.

The second consequence of sin is the due punishment. Justice requires that the sinner makes up for his sin, and the punishment satisfies the requirement of justice. God is good, and will not let evil prevail; He will not let evil have the last word. Justice requires a compensation for the sin, and that is the due punishment. A simple example will make it evident: if one has stolen, it is not sufficient to say that one is sorry, he must repay! We must restore that which we have broken! Baptism not only forgives all sins, but also forgives all punishment due to sin; however if one falls back into sin after baptism, then the Sacrament of penance does forgive the sin, but does not forgives all the punishment of sin: there is need of penance, to pay the due punishment! Our penance has value by its union with the merits of our Lord Jesus Christ in His Sacrifice, which is a Sacrifice of propitiation, satisfying for the Divine Justice, that is, paying for the due punishment.

The third consequence of sin is very important: it is the wound of sin. Sin inflicts a wound in our nature. Original sin inflicted a wound in every human, and our own sins have added onto that wound. When one looks at mankind, one may be overwhelmed by the amount of evil and sin: how is it possible that humans be so prone to sin if they were created good by God? God did indeed created the first man good, but that first man Adam wrecked his own self and his descendants by his sin, the original sin. We need the New Adam, our Lord Jesus Christ, to heal the evil introduced by the first Adam. His grace heals our nature. Our Lord Jesus Christ is indeed the Almighty God, Second Person of the Most Holy Trinity, Who became man to save us from sin: He is powerful to heal our nature. The best proof of His power is the superior grace given to His own Mother, the Blessed Virgin Mary, whom He so perfectly protected from the contagion of original sin that she was “preserved from original sin”, and thus conceived Immaculate: she alone never had original sin; she did not have that wound of sin. Her being immaculate is the effect of that superior healing grace: a preventing remedy.

In what consists that wound? St Thomas Aquinas explains that it is a four-fold wound, consisting in a certain inclination to evil: it is a certain disorder in the faculties of our nature: our intelligence is wounded by ignorance, our will is wounded by malice, our strong appetite is wounded by weakness and our emotional appetite is wounded by concupiscence. The wound of ignorance in our intelligence is a certain difficulty to attain the truth: either we jump too fast to conclusions or we do not grasp it. The wound of malice in our will is mainly selfishness, to put ourselves first instead of putting God first. The wound of weakness is a lack of strength to persevere in good especially in difficulties. The wound of concupiscence is an excessive tendency towards earthly goods and pleasures. One can easily see these wound with certain examples: a man who got drunk will have a tendency to drink again too much; a child’s first lie is always awkward but the next will be easier; etc. When a tree has fallen on one side because of a storm, the farmer puts it back straight, but also puts a rope that pulls it on the opposite side. So also must we do for ourselves, we must fight against these evil inclinations, by the practice of discipline and asceticism: “If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross daily, and follow me” (Lk. 9:23).

By the sacrament of Baptism, as we have said, the stain of sin is washed, the penalty of sin is remitted completely, and the healing process of the wound of sin starts. Our Lord Jesus Christ, like a good physician, cleaned the wound, put some medicine on it, and wrapped it in bandage and then said to us: now be careful! Thus Jesus said to the man he healed at the pool of Bethsaida: “Behold thou art made whole: sin no more, lest some worse thing happen to thee” (Jn. 5:14). Many of the early Christians were thus faithful to the grace of their baptism until death, and through the history of the Church there were Saints who did so, such as St Thérèse of the Child Jesus. But if one falls back into sin after Baptism, the wound reopens, and if one falls often, “the last state of that man becomes worse than the first” (Lk. 11:26). Our Lord Jesus Christ has stressed to his Apostles: “Watch ye, and pray that ye enter not into temptation. The spirit indeed is willing, but the flesh weak” (Mt. 26:41).

Because of these wounds we all absolutely need the grace of our Lord Jesus Christ. Therefore there is a double reason for which we need the grace of Christ: 1/ because of the supernatural happiness to which we are called, 2/ because of the wounds of sins in our nature. The grace of our Lord Jesus Christ is a healing grace and an elevating grace. It heals our nature from the wound of sin and elevates it to the life of a child of God. These two aspects are inseparable. It would be self-deceit to pretend to be able to live the life of a child of God without needing to be healed from sin, without penance and the sacraments; and it would not be possible to be healed from sin without living as a child of God, as if it were sufficient to achieve a natural goodness.

We need the grace of our Lord Jesus Christ, and how do we get it? By prayer and the Sacraments! These are the two means of grace that our Lord has given us – but there are also many graces that He gives without even been asked. In fact, if He would not first give us the grace to pray, we would never even start on the path of recovery. The first grace is always unmerited; but man must cooperate with grace. If one would say: I expect all grace from Christ and need to do nothing, one would greatly deceive oneself. As the good Master, our Lord Jesus Christ has given us some talents, but we must make them fructify, otherwise we would hear this condemnation from our Lord: “Wicked and slothful servant! … And the unprofitable servant cast ye out into the exterior darkness. There shall be weeping and gnashing of teeth” (Mt. 25:26,30).

My dear brethren, there was a lot of doctrine in this sermon, but remember these very important points: without the grace of our Lord Jesus Christ, we can do nothing good. But with His grace, we can fulfil the moral Law, which we must in order to go to Heaven. The grace of our Lord heals us from the four-fold wound of sin and elevates our nature to the life of children of God. We can obtain that healing and elevating grace in abundance by fervent prayer and the Sacraments. Let us pray to our Lady and all the Saints, that our Blessed Lord may give us His grace in abundance and give us to fully cooperate with His grace, making it fructify unto eternal life! Amen.

「恩寵はどのように働くのか」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「恩寵はどのように働くのか」の霊的講話(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年10月9日 聖霊降臨後の第21主日―大阪 霊的講話「恩寵はどのように働くのか」
親愛なる兄弟の皆さん、

昨日、私たちは非常に重要な真理を見ました。私たちの主イエズス・キリストの恩寵に対する二つの必要性があることです。私たちが、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とするのは、つまり主の御助けを必要とするのは、第一に、原罪による傷と私たちの過去の罪による傷を癒やすためです。私たちの主イエズス・キリストの恩寵を必要とするのは、第二に、私たちの命を天主の子の命にまで高めるため、天主の子として生きるためです。恩寵は私たちの本性を癒やし、高めてくれます。でも、どのようにでしょうか?

聖パウロは、その答えをローマ人へ書簡を書いたときに与えました。「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(ローマ5章5節)。また、聖トマス・アクィナスは、愛徳は聖霊の最高にして最良の賜物だが、愛徳は他のすべての徳、「注入された徳」と呼ばれる超自然の徳を伴ってやって来て、また、「注入された徳」と呼ばれるのはまさに聖霊によって私たちの霊魂の中に注がれる(注入される)からだ、と説明しています。皆さんは覚えていらっしゃると思いますが、罪による傷は悪への傾きです。そこで聖霊が私たちに善への傾きを与えてくださることによって私たちの霊魂を癒やしてくださる、ということです。これらの徳は、あらゆる領域における、まさに善への傾きなのです。

聖トマスは、聖霊による第一の基本となる賜物は「成聖の恩寵」であり、これは私たちの霊魂の本体そのものにある良き性質であって、私たちの霊魂が私たちの主イエズス・キリストの命を生きるようにさせる、と説明しています。ですから聖パウロはガラツィア人にこう書くことができました。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生き給うのである」(ガラツィア2章20節)。体の一つの肢体は個別の命を持たず、体全体の命で生きています。ですから、私たちの主イエズス・キリストの神秘体の肢体は、キリストの命で生きているのです。成聖の恩寵によって、私たちはキリストの神秘体の中に「接ぎ木」されています。天主の樹液のようなキリストの命が私たちに流れ込み、こうしてその樹液が私たちを義とし、私たちをして天主をお喜ばせさせるのです。「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人のうちにいるように私にとどまる者は多くの実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)。

霊魂の本体そのものの良き性質が私たちの能力に流れ込み、そこにおいて「注入された徳」すなわち信仰、希望、愛、およびすべての道徳的な注入された徳によって花を咲かせます。これらの徳によって、特に愛によって、私たちの意志はもはや天主に反逆することはなく、むしろすべてに超えて天主を愛し、それゆえに「正しくされた」状態になり、まことに義の状態になるのです。プロテスタントたちが間違って言うように、単に「義と宣言される」のではありません。信仰の徳によって、私たちは、天主によって啓示されたすべての真理、天主の教会であるカトリック教会によって教えられたすべての真理を信じる傾きを与えられます。希望の徳によって、私たちは、天国を望み、天国に至るためのキリストの助力に信頼する傾きを与えられます。愛の徳によって、私たちは、すべてに超えて天主を愛し、天主のために隣人を愛する傾きを与えられます。

これらの徳が、私たちの霊魂に善への傾きを与えることによって、罪の傷による悪しき傾きを正すのが、皆さんには分かるでしょう。これらの徳は、これらの悪しき傾きを減少させることによって、少しずつその傷を癒やし、また私たちが注意深く罪を避けるならばこの癒やしが日々強められるのです。しかし、皆さんはまた、これらの徳が天主の子の徳であることも分かります。それは子どもに特有の徳であって、父親を非常に信頼するため、彼は父親が告げるすべてのことを信じるのです。また父親の腕の中にいる子どもは、自分が能力をはるかに超えたことを成し遂げることができると確信します。ですから、私が子どものころ、私たちが山にいるいとこたちを訪ねたとき、父は私たちを肩にのせました。そのとき、私たちは、自分たちがどんな山にでも登れると信じました! 私たちの天主への愛は人間同士の愛ではなく、子どもとしての天の御父への愛なのです。このように、これらの徳、私たちの霊魂にある恩寵の効果は、どちらも私たちの本性を癒やし、高めてくれます。

しかし、命のあらゆる領域において道徳的な徳もあります。聖トマスは美しくこれらの徳を描写しましたが、数が多すぎてここですべてを述べることはできません。四つの枢要徳、つまり賢慮、正義、剛毅、節制と、それらに付随した徳のいくつかについて述べることにしましょう。賢慮の徳が注入されると、私たちは究極の目的のため、すなわち天国へ行くため、天主の掟に従った正しい手段を選ぶように傾きを与えられます。こんにち、自分たちの命を天主へと秩序付けようとしなかったり、実践において天主の掟を無視したりする人がいかに多いでしょうか。超自然の賢慮(の徳)の注意深い働きによって、掟に従い、天国へ至る道で聖人に倣うことができるのです。

正義の徳が注入されると、私たちは他人に対する義務である借りを返すよう傾きを与えられます。ですからまず第一に、天主の子としての生活の中で重要な部分を占めている宗教の徳によって、天主に対する義務である礼拝を天主に捧げるよう傾きを与えられます。宗教の徳はすべてに影響を与え、「天主の栄光のために」(コリント前書10章31節)私たちにあらゆる善きわざを行うようにさせてくれます。しかし、正義はまた、両親や合法的当局者へ当然払うべき敬意を示すように、また合法的な命令にはすべて従うように、といった傾きを私たちに与えてくれます。この徳の中で最も高い徳は、従順という福音的勧告に見いだされます。

剛毅の徳が注入されると、私たちは誘惑に対して強くあり屈服しないよう、粘り強く善を行ってこの地上での十字架を担うのを耐え忍ぶよう、傾きを与えられます。私たちには、殉教者たちのように信仰を告白する勇気を持ち、善を率先して行い悪に従わない勇気を持つという傾きが与えられます。この徳の中で最も高い徳は、殉教者たちに見いだされます。

節制の徳が注入されると、私たちは楽しみや慰めについてあらゆる行き過ぎを避けるだけでなく、罪からさらに離れて過去の罪の償いをするために、自制して合法的にでき得ることまでも喜んで捨てるという傾きが与えられます。この徳の中の最も高い徳は、地上の物の所有と肉の楽しみを一切捨てることである清貧と貞潔と完全な童貞性という福音的勧告に見いだされます。

しかし、ある人はこう言うかもしれません。「でも神父様、私たちがこれらの注入された徳を持っているのなら、私たちの中に悪への傾きや善を行う困難さが見られるのはどうしてですか?」。その理由は、善への傾きを伴っているこれらの注入された徳が超自然のレベルにある一方で、悪への傾きを伴っている罪による傷は自然のレベルにあるのであり、そのため(自然のレベルにある方が)人がより感じやすいのです。聖パウロは、この闘いを書簡で次のように美しく述べています。「実に肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。それらは相反している」(ガラツィア5章17節)。これらの注入された徳は善への力強い傾きですが、自動的にそうなのではなく、私たちの側で意識して選び取る必要があります。私たちは、徳のあるように行動するよう選ばなければなりません! こうして、これら霊魂の力を働くようにさせるため、私たちはその力に正しい動機、超自然の動機、信仰による動機を与える必要があります。これを力強い車に例えてみましょう。ポルシェにしましょうか。アクセルを踏めばその力を感じることができますが、ギアをニュートラルにすると車は動きません。実際にその力で車を動かすためには、ギアを入れる必要があります。そうすれば、エンジンの本当の力を感じます。ですから、これら超自然の徳についても同じで、信仰の動機を持つことによって、信仰の光の中で生きることによって、それらの徳にギアを入れるのです。聖パウロの複数の書簡を読めば、このことがよく出てくるのが皆さんにも分かるでしょう。

例えば、私たちが「天主はどこにでもおられ、私を見ておられる」ことを常に自覚していて、それによって私たちの天の御父の慈愛に満ちた御目のもとで生きるならば、確実に多くの悪を避けるでしょうし、自分の義務を果たそうとさらに多くの注意を払うでしょう。実際、子どものことを考えてみると、父親がその子の後ろにいるだけでも、その子は例えば勉強をするなど正しいことをしようと注意を払い、コンピューターゲームで時間を無駄にしないでしょう。その上、天主は私たちがすることを見ておられるだけでなく、私たちが言うことを聞いておられ、私たちが考えることさえもお見通しなのです! 「被造物のうち一つとして天主のみ前に隠れられるものはないのであって、すべては天主のみ前に明らかであり開かれている」(ヘブライ4章13節)。「人間は目で見るけれども主は心を見る」(サムエル上16章7節)。

また、御子である天主が私たちのことを気にかけてくださるあまり、天から下って私たちの救いのために十字架上で苦しみ、私たちが罪に死ぬようにするため十字架上で亡くなられ、私たちが天主に向かって新しい命に生きるよう(ローマ6章4、11節参照)三日目によみがえられたことを私たちが常に思うならば、私たちが十字架の犠牲を常に目の前に置くならば、いったいどうして新たな不忠実によってその御苦しみを増やそうと私たちはあえて思うでしょうか? いったいどうしてそんな考えが、すべてにおいて天主をお喜ばせするさらに大いなる熱心さ、天主の聖なる御意志を行うさらに大いなる熱心さ、これらの徳すべてを実践に移そうとするさらに大いなる熱心さを、私たちに燃え立たせないでしょうか? こういう訳で、良きカトリックの家庭では、すべての部屋に磔刑像か聖画があるのであり、その結果、そのような考えが常に私たちの心にあって、私たちの主イエズス・キリストへの愛を実践に移すのを助けてくれるのです! これは、聖パウロがエフェゾ人に次のように言っていることです。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。聖パウロは、このように十字架につけられたイエズスをあらゆる完全な愛の模範として考え、すぐに続けて実践的な結論をこう引き出します。「聖徒にふさわしいように、淫行、いろいろなけがれ、情欲は口にさえもするな」(エフェゾ5章3節)。聖パウロにおいて、私たちの主の犠牲という超自然的動機が、いかに純潔と貞潔という注入された徳にギアを入れるのかを見てください。コリント人に対して、聖パウロは似たような動機を取り上げ、非常に強い言葉で締めくくります。「あなたたちの体はキリストの肢体であることを知らないのか。それなのに、キリストの肢体をとって娼婦の肢体にしてよかろうか。決してそうはしない!」(コリント前書6章15節)。まさに問題外です! ここでもまた、超自然的動機を考察してください。

聖パウロはまた、別の超自然の動機を提示します。「あなたたちが天主の聖所であり、天主の霊はその中に住み給うことを知らないのか。天主の聖所を壊す者があれば、天主は彼を壊される。天主の聖所は聖なるものである。あなたたちはその聖所である」(コリント前書3章16-17節)。「あなたたちの体はその内にある天主から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか。まことにあなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント前書6章19-20節)。

彼の書簡全体を通じて、聖パウロはすべての徳を実践するために、これら高い信仰の動機を提示します。これはまさに、私が説明しようとしていることです。天主の子にふさわしい生き方をするため、恩寵に素直に従う生き方をするため、私たちはこれらの信仰の動機すべてを持ち、それらに従うことが必要です。明らかなのは、これらの注入された超自然の徳を行う動機は信仰の動機であって、だからこそ信仰のことを考えれば、これらの注入された徳が全力で働くのを感じ、善を行い誘惑に打ち勝つ力、自制する力、天主の掟に忠実である力、聖人になる力を感じるのです。こうして天主の恩寵によって、私たちの主は私たちの本性を癒やし、高めてくださいます。私たちは御父なる天主の子として生き、御子なる天主である私たちの主イエズス・キリストの肢体として生き、聖霊の神殿として生きるのです。

注入された徳は、例えば秘蹟と祈りを通じて、また功徳の実りとして、あふれんばかりの新たな恩寵によって増やされていきます。このようにこれらの徳を実践に移すことによって、私たちは功徳を得ることができ、それによって徳を増やすことができるのです。しかしその上、これらの超自然の徳を実践に移すことそのものが、対応する自然の徳を増大させるのです。事実、本来それらの自然の徳は、理性の光に照らして良い行いを繰り返すことよって得られるものです。例えば、バイオリンを長い時間練習することによって、人はバイオリン奏者になります。さて、これらの信仰の動機は、理性に反するどころか、これらの注入された徳によってする良い行いを繰り返すことによって私たちの理性を光で満たし、私たちの意志を天主の強い愛で満たすのです。こうして私たちは少しずつですが、私たちの本性にある傷にまったく反する自然の徳も得ていくのであり、またこれらは同じ自然のレベルにあるので、これらの自然の徳が増えれば増えるほど、私たちの本性はさらに癒やされ、傷はさらに小さくなるのです。

非常に重要なポイントが一つあります。天主は私たちに強制はなさらないということです。天主は私たちの霊魂に愛徳とこれらの注入された徳のすべてを注ぐことによって、私たちに善を行う傾きをやさしく与えてくださいますが、私たちに強制はなさらず、どんな暴力を使うこともなさいません。私たちがそれを求めなければなりません! 私たちは天主の恩寵に協力しなければならず、天主が私たちの霊魂に注いでくださった愛とこれらの徳を実践に移さなければなりません。また恩寵に協力するために、上で説明したように、私たちは「信仰によって生き」(ローマ1章17節)なければならず、私たちの命に関する信仰についてこのような理解を持たなければならず、信仰のことを考えることによってこれらの徳にギアを入れなければなりません。私たちの霊魂に注がれた愛徳、そして他のこれらすべての注入された徳は、上で説明したように、私たちに善を行うよう傾きを与えます。しかし私たちは、信仰の光に照らされて、意識して天主を選ぶように、天主に忠実であるように、恩寵に協力しなければなりません。

私たちは、天主の子としてのこの人生において、聖人たちの模範、とりわけ童貞聖マリアの模範にたくさんの支えと励ましを見いだします。昨日、私たちはカルメル会の保護聖人、黙想のお手本、信仰と徳の生活のお手本であるカルメル山の聖母の祝日を祝ったばかりです。教会は典礼の中で毎日、この聖性の道において私たちを励ましてくれる一人の聖人あるいは一つの神秘のどちらかを与えてくれます。

結論として言えば、私たちは天主の恩寵、癒やし高めてくれる恩寵を必要とします。この恩寵によって、私たちの本性にある傷が癒やされ、私たちの命は天主の子の命になるのです。私たちの主イエズス・キリストは「恩寵と真理に満ちて」(ヨハネ1章14節)おられます。「私たちはその満ちあふれるところから恩寵に次ぐ恩寵を受けた」(ヨハネ1章16節)。私たちは祈りと秘蹟によって、その恩寵をいつも受けています。私たちの主は、私たちに主の霊、聖霊を与えることによって、私たちの心に天主とすべての善の方を向く傾きを与えるべく、私たちの霊魂に愛徳とすべての注入された徳を注ぐことによって、私たちの悪しき傾きを癒やしてくださいます。聖母とすべての聖人が、私たちが私たちの主イエズス・キリストの恩寵に常に素直であり、主の先行的恩寵に心を込めて協力するよう、私たちを助けてくださり、そうすることで私たちが天国への王道を、永遠の命へ至る十字架の道を進むことができますように。アーメン。

「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」について

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

兄弟姉妹の皆様を「ファチマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼2017」にご招待いたします。

英語のチラシはここにあります。ダウンロード:SSPX Asia Fatima Pilgrimage 2017 Flyer.pdf

【期間】:2017年8月17日(木)から8月27日(主日)まで

【集合と出発の場所】:関空に午前8時

【巡礼の予定】(人数とその他の事情により活動内容に多少の変動がある可能性があることをご了解下さい。):

   8月17日(木)夜:リスボン着:ファチマのホテルへチャーターバスで向かう
   18日(金):ファチマにて自由行動(バスをチャーターしてファチマ周辺の教会巡りも考えています。)
   19日(土):ファチマ(聖ピオ十世会国際巡礼)
   20日(主):ファチマ(聖ピオ十世会国際巡礼)
   21日(月):リスボンの教会巡り
   22日(火):リスボンからローマへ移動:ローマに夕方到着
   23日(水):ローマ見学
   24日(木):ローマ見学
   25日(金):ローマ見学
   26日(土):ローマ発:午前10時
   27日(主):関空着:午前9時

 ローマでは、主要な大聖堂、例えばラテラノ大聖堂、バチカンの聖ペトロ大聖堂(聖ペトロ大聖堂の地下の聖ペトロの墓)、バチカン博物館、
 聖マリア大聖堂、門外の聖パウロ大聖堂、コロセウム、カタコンベなど、さらにコルベ神父様の無原罪の聖母の騎士の創立の場所を
 訪問する予定です。

 シンガポールやフィリピンからのグループは、さらにチャーターバスで聖フィロメナの聖地であるムニャノ、
 聖パドレ・ピオのサン・ジョヴァンニ・ロトンド、聖ミカエルのガルガノ山、御聖体の奇跡で有名なランチアノも巡り(8月28日)、
 その後にアジアに戻ってきます(到着は8月29日の午後)。

 日本のグループは、長い休みを取ることが難しいことを考えて8月28日の月曜日から仕事に戻れるように、ローマの巡礼だけに絞り、
 一足先に帰国します。

【滞在】:ファチマでは御出現地にすぐ近くの Hotel Dom Goncalo に宿泊の予定です。

 ローマではローマ市内の中心地で巡礼に便利な、チルコ・マッシモ(Circus Maximus)の宿泊施設を利用する予定です。
 ローマ市内では残念ながら観光チャーターバスで移動することが禁止されているので、私たちは公共交通機関を使って、
 計画的にローマの教会巡りやカタコンベ巡りをする予定です。

【お申し込みについて】:ご参加をご希望の方々は、トマス小野田神父までご連絡ください。

【お申し込みに必要なもの】は、

 1)パスポートの写真のページの写し Passport Photocopy (photo page)
 2)500シンガポール・ドル(予約金:払い戻しが利きません)SGD500 non refundable deposit

 です。これをシンガポールの担当のロスキ神父様に11月30日までに渡さなければならないので、
 なるべくお早めに、11月20日までにお申し込み下さい。よろしくお願いいたします。

国際巡礼ですので、世界中から多くの方々が来られることになります。どうぞ、この貴重な機会にファチマに巡礼にいらして下さい。

多くの愛する兄弟姉妹の皆様からのご参加をお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

"How Grace works" Sermon by Fr. Laisney SSPX : 英語版「恩寵はどのように働くのか」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「恩寵はどのように働くのか」の霊的講話の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

How Grace works
My dear brethren,

Yesterday, we have seen a very important truth: our double need for the grace of our Lord Jesus Christ. We need the grace of our Lord Jesus Christ, i.e. the help of our Lord, first in order to heal the wounds of original sin and of our past sins; we need the grace of our Lord Jesus Christ secondly in order to elevate our life to that of a child of God, in order to live as children of God. Grace heals and elevates our nature. But how?

St Paul gave the answer when he wrote to the Romans: “the charity of God is poured forth in our hearts, by the Holy Ghost, who is given to us” (Rom. 5:5). And St Thomas Aquinas explains that charity is the highest and best gift of the Holy Ghost, but it comes together with all other virtues, supernatural virtues, called “infused virtues” precisely because they are poured forth into (=infused) our soul by the Holy Ghost. You remember that the wounds of sin were inclinations to evil; well, the Holy Ghost heals our soul by giving us inclinations to good: these virtues are precisely inclinations to do good in every domain.

St Thomas explains that the first and fundamental gift of the Holy Ghost is “sanctifying grace”, which is a good quality in the very substance of our soul, making it living of the life of our Lord Jesus Christ. Thus St Paul could write to the Galatians: “I live, now not I; but Christ liveth in me” (Gal. 2:20). A member of a body does not have an individual life, but lives of the life of the whole body; so members of the mystical body of our Lord Jesus Christ live of the life of Christ. By sanctifying grace we are “engrafted into” the Mystical Body of Christ; the life of Christ like a divine sap starts to flow in us, and thus it makes us just and pleasing to God. “I am the vine: you the branches: he that abideth in me, and I in him, the same beareth much fruit” (Jn. 15:5).

This good quality in the very essence of the soul flows into our faculties and blossoms there with the “infused virtues”: faith, hope, Charity and all the moral infused virtues. By these virtues, especially by charity, our will is no longer in rebellion against God, but rather loves Him above all things and is therefore “rectified”, it is truly just, not merely “declared just” as the Protestants falsely say. By the virtue of Faith we are inclined to believe all the truths revealed by God and taught by His Church, the Catholic Church; by the virtue of hope we are inclined to long for Heaven and to trust in the help of Christ to get there. By the virtue of Charity we are inclined to love God above all things and our neighbour for God’s sake.

You can see that these virtues, by inclining our soul towards good, correct the evil inclinations of the wounds of sin; they heal them little by little diminishing these evil inclinations and if we are careful to avoid sin this healing will be strengthened day by day. But you also notice that these virtues are the virtues of children of God: it is the proper of a child to so trust his father that he believes everything his father tells him; also a child in the arms of his father is confident he can achieve things which are much beyond his abilities. Thus when I was a child, we visited some cousins in the mountain and our father would put us on his shoulders: then we trusted we could climb any mountain! Also our love for God is not the love of an equal, but rather the love of a child for his Heavenly Father. Thus one can see that these virtues, effect of grace in our soul, both heal and elevate our nature.

But there are also moral virtues in every domain of life. St Thomas describes these virtues beautifully, but they are too numerous to mention all of them here. Let us mention the four cardinal virtues of prudence, justice, fortitude and temperance, with some of their annexed virtues. Thus by infused virtue of prudence, we are inclined to choose the right means towards the ultimate end, i.e. towards heaven, according to the Commandments of God. How many today either do not order their life towards God, or ignore the Commandments of God in practice. Supernatural prudence is very careful to follow the Commandments, and imitate the Saints on the path to Heaven.

By the infused virtue of justice, we are inclined to give to others what we owe them, and first of all to give to God the worship we owe Him by the virtue of religion, which has an important part of the life of a child of God. The virtue of religion influences everything, making us doing all good work “for the glory of God” (1 Cor. 10:31). But justice also inclines us to give due respect to our parents and to legitimate authorities, to obey all legitimate orders, etc. The highest practice of that virtue is found in the Evangelical Counsel of Obedience.

By the infused virtue of fortitude, we are inclined to be strong against temptation and not to give in, to persevere in good and be patient in carrying our crosses here below; we are inclined to have the courage to confess the Faith like the martyrs, to be leaders in good and not followers in evil. The highest practice of that virtue is found in the martyrs.

By the infused virtue of temperance, we are inclined not only to avoid all excesses with regards to pleasures and comfort, but even to deny ourselves and renounce willingly even things which could be legitimate, in order to be more removed from sin and make reparation for past sins. The highest practice of that virtue is found in the evangelical counsels of poverty and chastity and even perfect virginity, by which one renounces all possession of earthly things and all pleasures of the flesh.

But one might say: “but Father, if we have these infused virtues, how is it that we still find in ourselves some inclinations to evil and difficulties to do good?” The reason is that these infused virtues with their good inclinations are at the supernatural level, while the wounds of sin with their evil inclinations are at the natural level, and therefore more easily felt. St Paul describes this struggle beautifully in his epistles: “For the flesh lusteth against the spirit: and the spirit against the flesh; for these are contrary one to another” (Gal. 5:17). These infused virtues are powerful inclinations towards good, but they are not automatic, they require conscious choice on our part: we must choose to act virtuously! Thus to put these powers of the soul to work, we need to give them their proper motive, supernatural motives, motives of faith. Compare this with a powerful car, say a Porsche: you can feel its power when pressing the accelerator, but if you are in neutral gear, the car will not move. To actually move with that power, you need to put it into gears: then you feel the real power of the engine. So it is for these supernatural virtues, you put them into gear by having motives of faith, by living in the light of Faith. You see that constantly in the epistles of St Paul.

For instance, if we always remember: “God is everywhere; God sees me” and thus live under the loving eye of our Heavenly Father, then for sure we will avoid a lot of evil, and we will be much more attentive to do our duty. Indeed, think of a child, if his father is just behind him, he will be attentive to do that which is right, for instance to learn his lessons, rather than lose his time with computer games. And God sees not only what we do, He hears what we say, He even sees what we think! “Neither is there any creature invisible in his sight: but all things are naked and open to his eyes” (Heb. 4:13). “For man seeth those things that appear, but the Lord beholdeth the heart” (1Sa 16:7).

Also if we constantly consider that God the Son cares for us so much that He came down from Heaven and suffered on the Cross for our salvation, died on the Cross so that we be dead to sin and rose again the third day so that we may be living unto God in newness of life (see Rom. 6:4,11), if we have the Sacrifice of the Cross always in front of our eyes, how could we dare to add to His suffering by new infidelities? How could such thought not inflame in us a greater zeal to please God in all things, to do His holy Will, to put in practice all these virtues? This is why in good Catholic homes, there is a crucifix or a holy picture in every room, so that such thought be constantly in our mind and help us to put in practice our love for our Lord Jesus Christ! This is what St Paul says to the Ephesians: “Be ye therefore imitators of God, as most dear children; and walk in love, as Christ also hath loved us, and hath delivered himself for us, an oblation and a sacrifice to God for an odour of sweetness” (Eph. 5:1-2). Having considered thus Jesus Crucified as model of all perfect love, St Paul immediately continues and draws the practical conclusions: “But fornication, and all uncleanness, or covetousness, let it not so much as be named among you, as becometh saints” (Eph. 5:3). See how for St Paul the supernatural motive of the Sacrifice of our Lord puts into gear the infused virtue of purity and chastity. To the Corinthians St Paul takes a similar motive and concludes with very strong language: “Know you not that your bodies are the members of Christ? Shall I then take the members of Christ, and make them the members of a harlot? God forbid!” (1 Cor. 6:15). Out of question! Again here consider the supernatural motive.

St Paul also gives another supernatural motive: “Know you not, that you are the temple of God, and that the Spirit of God dwelleth in you? But if any man violate the temple of God, him shall God destroy. For the temple of God is holy, which you are” (1 Cor. 3:16-17). “Know you not, that your members are the temple of the Holy Ghost, who is in you, whom you have from God; and you are not your own? For you are bought with a great price. Glorify and bear God in your body” (1 Cor. 6:19-20).

Throughout all his epistles, St Paul always gives these high motives of Faith for the practice of all virtues. This is exactly what I am trying to explain: in order to live a life worthy of a child of God, a life of docility to grace, we need to have all these motives of Faith and follow them. It is clear that the motive of the practice of these supernatural infused virtues is a motive of faith, and then, when you have such consideration of faith, you feel the full power of these infused virtues, power to do good and to overcome temptations, power to mortify ourselves, power to be faithful to the Commandments of God, power to become Saints. Thus by His grace, our Lord both heals our nature and elevates it: we live as children of God the Father, as members of our Lord Jesus Christ, God the Son, and as temples of the Holy Ghost.

Infused virtues are increased by a new outpouring of grace in our souls, such as through the Sacraments and prayer, but also as a fruit of merit: thus by practicing these virtues, one can merit and thus obtain an increase of them. But further, the very practice of these supernatural virtues build up the corresponding natural virtues: those natural virtues indeed are normally acquired by the repetition of good actions at the light of reason. Thus one becomes a violinist by a long practice of the violin. Now since these motives of Faith, far from being opposed to reason, fill our reason with light and our will with the strength of the love of God, through the repetition of good actions done by these infused virtue, we little by little acquire also the natural virtues opposed directly to the wound of our nature, and, being at the same level, the more these natural virtues grow, the more our nature is healed and the wound diminished.

There is a very important point: God does not force us; He sweetly inclines us to do good by pouring Charity and all these infused virtues in our souls, but He does not force us, nor does any violence to us. We must want it! We must cooperate with His grace and actually put in practice that love and these virtues which He poured into our soul. And to cooperate with grace, as explained above, we must “live by faith” (Rom. 1:17), we must have this view of Faith on our life, we must put into gear these virtues by considerations of faith. The charity poured in our soul and all these other infused virtues do incline us to do good as explained above; but we must cooperate with grace by deliberately choosing for God, for fidelity to Him, in the light of Faith.

We will find much support and encouragement in this life of children of God from the examples of the Saints and above all by the examples of the Blessed Virgin Mary. Yesterday we just celebrated our Lady of Mount Carmel, patroness of the Carmelite, model of contemplation, model of a life of faith and virtues. The Church in her Liturgy gives us every day either a Saint or a mystery that encourages us in that path of holiness.

In conclusion we do need the grace of God, healing and elevating grace, by which the wounds of our nature are healed and our life becomes the life of a child of God. Our Lord Jesus Christ is “full of grace and truth” (Jn. 1:14). “And of his fullness we all have received, and grace for grace” (Jn. 1:16). We receive that grace habitually through prayer and the Sacraments. Our Lord heals our evil inclinations by giving us His Spirit, the Holy Ghost, pouring into our soul charity and all the infused virtues to incline our heart towards God and all good. May our Lady and all the Saints help us to be always docile to the grace of our Lord Jesus Christ, cooperating wholeheartedly to His prevenient grace, so that we may advance on the royal road to Heaven, the road of the Cross leading to everlasting life. Amen.

秋田巡礼-霊的講話【4】-2016年5月4日シュテーリン神父様「天主の大いなる2つの憐れみの御業とは」

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2016年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話4
「天主の大いなる2つの憐れみの御業とは」
同時通訳:小野田圭志神父

最後の講話では、天主様の素晴らしい属性である正義と憐れみ、憐れみと正義、この二つがどのように素晴らしく調和しているか、という事を見ました。

異端というのはギリシャ語で「ハイレシス」と言って、これは「選ぶ」という意味です。自分の信じたいことを選ぶことで、という事は「天主の真理を全て信じないこと」ですから「調和を壊す」という事です。そして「矛盾を作り出す」という事です。この典型的な例が、正義と憐れみのこの対立です。その天主の正義と憐れみのどちらかを選んで、どちらかを捨ててしまうと、これは異端になってしまいます。

それを調和させて、一致させて、理解します。この2つの両極端が1つの同じ場所に調和を以て存在するのが、カトリックです。イエズス様のペルソナにおいて、そして特に十字架のいけにえに於いてこの2つの素晴らしい調和があります。イエズス様は一番いとも高きところと一番低いものを1つにまとめます。つまり天主様であり被造物であり、それで同時に、それが2つが1つのペルソナにおいて合体しています。

異端者は、「どうやって天主が被造物になる事ができるだろうか?」或いは、「被造物が天主になる事ができるだろうか?」天主が人となる時に、これは私たちの目の前に実現します。

十字架のいけにえでも同じです。天主イエズス・キリストの無限の天国の至福、天主としての至福と、人間としての苦しみを1つにまとめました。

天主の正義と天主の憐れみが、イエズス・キリストにおいて1つに調和しています。この十字架におけるほど天主の正義が表れた事はありません。イエズス・キリストはきっちりと正義に適って、人間の全ての罪の負債を支払いました。イエズス・キリストは全人類が受けるべき当然の罰を一人で受けました。こうやって完全に天主の正義を満足させました。

それと同時にこの十字架に於いてこそ、天主の憐れみがこれほど表れている事はありません。この皆さんのような私たちのようなろくでもない罪人の為に、天主が御自ら命を与えて下さった、という事の憐れみ、これ以上の憐れみはありません。

ではもっと話しをしましょう。しかし小野田神父は25分しか私に時間をくれませんでした、とても厳しい方です、ドイツ人のようです。(笑)

天主の憐れみの表現には2つあります。天主の第1の憐れみの業というのは何でしょうか?

これは聖書に最初に書かれています、「初めに、天主は天と地を創造された」と。明日歌ミサでクレドを歌います。その時にこれを、天主の憐れみへの讃美歌として歌ってください、「全能の聖父、天主は私たちの父となった。私の父だ。」

天と地の創造主、天主様のこの心から、私たちを愛する無限の善の心から、誰に与えようとするのでしょうか?この心から与えようとするその対象は、その誰が惨めなのでしょうか?

その対象はまだ在りません、存在していません、無、虚無です。その天主は無を考え、そして例えばこの真っ暗闇のこの闇をご覧になるように無を見て、そして天主は御言葉を発します。これは皆さんでは発する事ができない言葉です。「光在れ。」「光は創られた、光は在った。」突然無から世が創造されます。全てこの被造物が在り始めるのです。

その時には皆さんは存在していませんでした。数年前、天主は皆さんを在るようにさせて、そして今こうして存在しています。

この創造には、天主の憐れみの特別な側面があります。「天主の憐れみは予防的であって、その前を行く」とあります。私たちがこうやって在り始めるその前から、天主様は私たちの事を考えて、私たちの為になさって下さっています。私たちが何かする前に、天主の憐れみが既に働いています。皆さんが話し始める前に、天主様は皆さんの言おうとする事を聞いていました。私たちが真理を見い出したのは天主の憐れみの業であって、天主様はその事を昔から既に計画されておりました。

皆さんが御聖体の前で跪いて、「あぁ我が主よ、主よ、どうぞ私の家族を回心させて下さい、どうぞ憐んで下さい」と祈る時、でもこのような事がこうやってお祈りをして憐れみを乞う事ができるというのも、実はこれは天主様が私たちにお恵みで、憐れみで、そのお恵みを下さったからこそできるのであって、天主様の予防の、既に私たちに下さっているお恵みの結果です、憐れみの結果です。

天主のこの憐れみの業を、まず私たち自身に非常に具体的に適用させなければなりません。

皆さん、この皆さんの持っているこの美しい手を見てください。そしてここにいらっしゃる美しい女性の方々は鏡の前に立って、「鏡よ鏡よ、私に言って下さい。私は美しいですか?」と。

でもあの正しいやり方で鏡を見てください。「私はもう年寄りでおばあちゃんになった」などと言わないでください。5本の指がある。この1本があるのは憐れみの結果です。これも憐れみ、これも憐れみ、これも憐れみ、これも憐れみで在るのだ。全て天主様の憐れみの聖心から来るのです。私たちの体の1つ1つは、皆さんの美しい髪の毛の1本1本、この爪、皆さんの目も見る事ができる、耳があって聞く事ができる、心臓が今動いている、これも憐れみです。皆さん頭が良い方です。ハンサムです。特別に料理の上手い方です。もしかしたら皆さんの中に大統領がいるかもしれませんし、教授がいらっしゃるかもしれません。

「私は永遠に天主の憐れみを歌おう」と詩篇にあります。私は本当にいつでもどこでも憐れみを歌いたいと思います。皆さんと私が持っている何か、価値のあるもの皆、何か良いものは皆、私たちからのものではなくて天主様から頂いたものです。私たちには昔は心臓がありませんでしたが、心臓が創られて創造されて与えられました。皆さんに愛する温かい心を与えて下さいました。

主はこう言います、「私なしにはあなた達には何もできない。」

もしも天主がなければ、私たちには悪をするしかありません。もしも私たちが何か善を持っていて善をする事ができるとしたら、それは天主の憐れみのおかげです。詩篇には、「御身の憐れみは我を生かし、御身の憐れみが我を支え、御身の憐れみは我を行動させ」とあります。いつも憐れみの御業を賛美しています。

この第1の憐れみは、皆さんを在らしめ、そして皆さんに良いものを与えるだけではありません。1回それをやって終わりではありません。いつもそれが続いているのです。今この瞬間覚えていますか?今頭は動いていますか?今息をしていますね?天主様の憐れみのおかげです。皆さんは愛する事ができます、愛するチャンスがあります。理解ができます、皆さんはそれほど馬鹿ではありません。これは天主様の憐れみです。

私たちは1人では何もできません。天主様に全く依存している存在です。全ては天主から来るのです、由来するのです。全てはいつも絶えず天主様の聖心からやって来ます。天主の常に私たちに流れる憐れみの激流、これはイエズスの聖心です。イエズス様の聖心に槍が貫かされて、そこから血と水が流れますが、ラテン語では「continuo」と書かれています。すぐに流れたと。

朝、皆さん実際問題として起きたら何をしますか?目を開けて考え始めます。周りを見て、手と心と足を感じて、「天主様、本当に御身は憐れみ深い御方です。24時間御身のおかげで、御身が私を在らしめているおかげで、私が今持っているものを持ち、今私がこうあるようにあるのです。」

天主様は続けて皆さんに与えますけれども、その理由は動機は、憐れみです。

この憐れみという事は深い意味があります。でも皆さんが今こうやって存在して生きているというのは、天主様のものすごい憐れみの御業の結果ですけれども、しかし第2の行為の憐れみの業として比べたら、それは本当に小さなものです。天主様は最初に無から皆さんを創造しました。たとえ皆さんがものすごい完璧な天使のような存在であっても、そしてものすごい完璧な人間であったとしても、天主様の前では無に等しいのです。天主様の前では、どのように素晴らしい存在であっても被造物である限り、本当にばかばかしい一滴にしかすぎません。それでもこれが創られただけでも、憐れみのものすごい業です。

第2の憐れみの業を見てください。

この小さな一滴を見て、あたかもそこら辺にある石ころの1つを愛し、愛に焦がれているかのように。どこかのこのホテルクリプトンのこのお掃除のおばさんがゴミ箱を見て、「あ!何かすごいものを見つけた!あ!あ!」「え、おばさん何これ。これゴミじゃないの。」「でも、私にとってこれはすごいんだ!」皆さんちょっと頭がまわってると思うかもしれません。

天主様にとって私たちはまったく無に等しいゴミです。でもこの小さなこのゴミのような存在を成長させます。なんとこのゴミのような存在を天主様は、「自分の子供としよう」と考えたのです。

これは今から言うのはちょっとしたイメージです。

皆さんは奴隷です。皆さんはこの世界のどこかの端っこに生まれた、このジャングルの中のど真ん中に生まれた奴隷のまた奴隷の奴隷の子供で、どんな誰も知らないような存在です。それの生活というのは、人間というよりは獣のような生活をしています。その時にある王様がやって来て、この偉大なる王様が近くにやって来るのです。「いらっしゃい。」「え?」この王様は、その着物から王冠から見ると宮殿から非常にお金持ちでものすごい力のある方ですけれども、でも皆さんはボロを着て汚ならしくて、何も持っていません。そしてこの王様は皆さんを連れて、この王宮で宮殿に持って連れて来るのです。お風呂というのも知りませんでしたし、お皿というのも知りませんでしたし、服というのもこうやって着るのも知りませんでした。ベッドも見た事がありません。ご飯がこうちゃんと炊かられて料理してあるのも初めてです。こんなきれいな服も初めてです。鏡も見た事がありませんでした。そしてある時その乞食はですね、このジャングルから来て初めて鏡を見て、「何だこれは!?ヴーッ!!」と叩くと、自分だった。

これは、本当に天主様がやった事に比べたら何でもない事です。ただのこの貧しい人が王の、王様の王子になった事くらい。でも天主様がなさった事は、「私たちを天主の子供とする」という事です。天主様はただ単に美しい生活を70年、80年、90年、100年、この地上で生活するだけを望んだのではありません。永遠に永久に、ものすごい至福を与えようと思っていました。この四角い壁の家のこの数㎡の中に何人かは一緒に生活している、というのではなくて、無限の至福の幸せの団居(まどい)の中に生活する事を望んでいたのです。

たとえ皆さん、朝起きた時にこの全世界の所有者となって、そしてこの全世界の持てる全ての富と全ての権力、全ての力を全てを皆さんが行使する事ができるとしたとしても、天主様が皆さんの為に備えて下さっている永遠の命から比べれば、全く無に等しいのです。

天主様は皆さんを自分の本当の子供として、息子として、娘として取り扱うのです。そうはっきり書かれています、私たちは単に子供という名前だけではなくそうなのだ。その最後の福音にそう書いてあります、「天主を受け信じた全ての人は、その天主の子供となる事ができる力を与えた。“filios Dei fieri”」これが天主様の聖心で、天主が与える事ができる全てを与える心です。

最初の憐れみの行為というのは、単なる準備にすぎません。第2の憐れみの業は想像を超えるほど偉大なものです。

ではこの天主の憐れみというのは一体どうやって起きたのでしょうか?天主様は全く無の皆さんに、どうやってその信じられないほどの無限の富で満たして下さったのでしょうか?

「ちょっと奴隷、来い来い。」と言って、郵便局からここに郵便物がある。ここに切手がある、ここにパスポートもある、永遠の入国の天国へのパスポート。天主様からの公式の証明書、「あなたは天国の所有者です、天主、スタンプ、サイン。」そういうようなパッケージが届いたとしたらどれほど嬉しいでしょうか。そういうような郵便物を届けた郵便局の配達人として、天使を送ったのなら何か非常に簡単かもしれません。或いは天主様が預言者を選んで、では小野田神父を選んで、そしてその選んだ預言者が天国の天主様の郵便局に行って、これを配達する、この「天国行きですよ~」といってこれを配る。もしもそういう事があったら、この永遠のそのパスポートを天主様が下さったという事で、永遠に無限に感謝しなければなりません。

しかし天主様が、どうやって御自分の憐れみを皆さんにお知らせしようか、というそのやり方とは次のようでした。

天主様は自ら、自分からこの地上にやって来ようとしたのです。その為に自分の御一人子が人間となって来る事を、御一人子を送る事を望まれたのです。これは天主様の憐れみの別の局面です。

天主様のただ贈り物、その「物」が無に届くだけではなく、父がその「御自ら」その罪を犯した私たちの方に走ってやって来て、その子を抱きしめて贈り物を与えるのです。

こうやって天主は人となって、それがイエズス・キリストです。そしてこの人となった天主イエズス・キリストは、王の王、タボル山でこう御変容の時に見せたそのすごい王の王として、或いは復活したイエズス・キリスト、復活したものとしてではなく、最も低いものと、謙遜の内の謙遜の中に、その私たちに仕える為に人となったのでした。

イエズス・キリストの全ての御業、全生涯、なさった全てのことは、主の1つの大きな憐れみの業です。

明日は皆さんこの事を考えなければなりません。一体どうやってこの憐れみが起こったのか?今語り始めたこの事を続けて考察しなければなりません。

では、この天主様の最高の憐れみの業はどこでなされたのでしょうか?そしてこの最も大きな憐れみは誰に与えられたのでしょうか?

おそらくこう言うかもしれません、「最も最悪の罪人に与えた」と言うかもしれません。何故かというと、天主から最も遠く離れた者に、それに最も多くの宝をやって、それを天主のもとに戻したからです。ほとんど合っています、でも完璧ではありません。

更にもっと与えた方がいます。それがインマクラータで、無原罪のマリア様です。これが何故かを明日ぜひ説明したいと思います。

そうすると、「なぜ一体マリア様において天主様の憐れみというのが発展して、それが現実の事となっているのか」という事が深く理解できます。聖ベルナルドはこう言いました、「天主様はマリア様に憐みの秩序を次元を、全てマリア様に委ねた。」

マリア様は、マリア様がこの地上における天主の憐れみとなったのです。だから「憐れみの御母」と言う事ができるのです。

もっと本当は話したい事があるのですけれども、今は話す事はできません。時間が来てしまいました。では終課を唱えます、主日の終課です。




聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

「聖母の連祷についての解説」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「聖母被昇天の大祝日」のお説教(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年8月15日 聖母被昇天の大祝日―ソウル 
お説教「償いの必要性-マリアの汚れなき御心は現代の罪の解毒剤。聖母の連祷についての解説」

親愛なる兄弟の皆さん、

本日、私たちは童貞聖マリアの受けられた報いをお祝いします。聖母の地上での生涯は私たちの主イエズス・キリストに大変忠実だったため、聖母は最高の報いを受けるにふさわしく、それだけの功徳があったのです。でも天主は功徳以上の報いをお与えになります。それは、寛容さにおいて天主は誰よりも勝っていらっしゃるからです。まず、天主ご自身がその功徳の源です。なぜなら、天主がまず恩寵を与えてくださり、それによって私たちは功徳を積むからです。そして天主はその功徳に対して報いを与えてくださり、それはその功徳以上の報いなのです! まことに幸いなるかな、聖母のように天主に忠実にお仕えする人々は!

聖母の最初の恩寵は無原罪の御宿りでした。最初の恩寵というものは常に、功徳によるのではありません。聖パウロはこう言います。「先に天主に与えて、のちにその報いを受けた者があったか」(ローマ11章35節)。聖母はこの最初の恩寵に完全に忠実で、天主の恩寵に全力で協力なさいましたから、この完全な報いにふさわしい方でした! さて、マリア様の全生涯にわたる天主の恩寵への完全な協力は、私たちが「マリアの汚れなき御心」と呼んでいるものです。そのため皆さんには、被昇天の祝日とマリアの汚れなき御心の祝日に緊密な結びつきがあるのが分かるでしょう。教皇ピオ十二世が、汚れなき御心の祝日を被昇天の八日目に適切に定められたのです。

さて、フェレー司教は一年間のロザリオ十字軍を起動しました。マリアの汚れなき御心をたたえて、本日からファチマの聖母のご出現の百周年となる来年の汚れなき御心の祝日まで続きます。皆さんは、毎日ロザリオ(5玄義)を唱えるよう、できるならロザリオ全部(15玄義、もしできるならもっと多く)を唱えるよう、また罪の償いのために犠牲をするよう、とりわけマリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのための犠牲をするよう強く励まされています。

私たちがこの世の悪が恐ろしい段階にまで増大しているのを見るとき、イスラムの暴力、最も不自然なレベルにまで至る道徳の腐敗、邪悪であることの「権利」さえも要求し、現代の不道徳のどこか縮図でもある妊娠中絶の広がり、中絶された胎児の体の一部の販売、などといったものを見るとき、私たちは自問します。私たちに何ができるだろうか? 私たちの主イエズス・キリストが罪から私たちを救うためにこの世に来られたとき、主はいかにしてお救いになったのだろうか? 主は十字架上でご自分を完全ないけにえとして捧げられました! 現代世界の腐敗に直面して、主は私たちに、主に倣い、これらすべての罪を償うよう呼びかけておられます。実際、聖パウロはこう言っています。「実に愛される子らとして、天主に倣う者であれ。私たちを愛し、私たちのために芳しい香りのいけにえとして天主にご自分を渡されたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め」(エフェゾ5章1-2節)。私たちの主イエズス・キリストに倣うため、正確には主が私たちの救いのためにご自分をいけにえとして実際にお捧げになったその愛において主に倣うため、これこそが私たちが行うべきことです。私たちは罪の償いの犠牲をすることによって、これを行うのです。

天主は完全に幸せでいらっしゃるため、罪がどうして天主を怒らせるのか理解するのが困難だという人がいます。しかし、私たちの母親が私たちの罪を悲しむことを理解するのは困難ではありません。母親は、子どもたちが良き人であることを願うものです。自分の子どもたちが犯罪者や変質者であると分かれば、母親は大変悲しみます。さて、聖母は私たちの母です。なぜなら、聖母はすべての人間の母であり、それは私たちの主イエズス・キリストがすべての人間の救いのために御血を流されたからです。ですからこんにち、聖母は、現代世界のあらゆる罪のせいで大変悲しんでおられます。そのため、聖母の良き子どもたちは自分たちの犠牲で償いをすることによって、聖母をお慰めするよう努めるのです。そうすることで、彼らは、罪びとも救われるために、私たちの主イエズス・キリストが罪びとに回心(と悔悛)の恩寵を与えてくださるよう、罪びとの上にあわれみを求めます。

マリアの汚れなき御心は、現代の罪とは正反対です。この御心は、あらゆる領域における最も美しい清さ、童貞性の聖域です。聖母は、罪の道を一歩たりとも歩み始められたことさえありませんでした。聖母はまた、柔和でやさしく、現代世界の暴力とはまったく反対です。聖母はすべての母親の中で最高の母親であり、命を与える方であって、母親の胎内の赤ん坊の殺害とは正反対です。ですから、マリアの汚れなき御心への信心は、これらの罪に対する解毒剤です。ですから、私たちの主イエズス・キリストは、この世に御母の汚れなき御心への信心を確立しようと望まれます。そんな美しい天主のご計画に、惜しむことなくお応えしましょう。

マリア様の御心をより良く知るために、私が聖母の連祷に短い解説を加えます。

「聖マリア」。私たちはここで、マリア様の聖なる御名をたたえます。天主の御子が地上での御母としてお選びになったお方のお名前ですから。

「天主の聖母」。聖母のいと潔きご胎内に聖霊によって宿り給うたその瞬間から、まことの天主でありまことの人間であるイエズスの御母になるという他に類を見ない聖母の使命を私たちはたたえます。従って、聖母は「天主の御母」の称号に完全にふさわしいのです。子どもの母親であるということは、人格(ペルソナ)の間の関係であり、御子の人格は至聖なる三位一体の第二のペルソナです。聖母の他の称号はすべて、この最初の称号から導かれるのです。

「童貞のうちにていとも聖なる童貞」。これは、「王の中の王」という表現に似たヘブライ語で最高を示す表現であり、最も完全な童貞を意味しています。実際、聖母はイエズスのご誕生の前も、その間も、そのあとも童貞であり、永遠に童貞でいらっしゃいます。聖母は体においても霊魂においても童貞であり、いかなる領域においても、その霊魂をまったく汚されたことがありません。

「キリストの御母」。「キリスト」とは油を塗られた者、ヘブライ語のメシアのことで、選ばれた民全体が何世紀もの間待ち望んでいたお方です。聖母はユダ族の出身、ダヴィド家の出身でした。聖母は、そのご胎内に「キリスト」を受胎すべく、天主によって選ばれたお方で、キリストを待ち望み、キリストを遠くから見た(ヘブライ11章13節参照)聖なる太祖や預言者が何世代にもわたって期待していたことが実現したのでした。

「教会の御母」。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストは、その御体である教会(コロサイ1章24節参照)と分離され得ないからです。聖母が、体の母ではないのに頭の母であることはありえません! このように聖母が御母であるということを拒否する人々は事実上、キリストを教会から、頭を体から分離しようとしているのに等しく、それが私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせさせることはありえません。彼らの回心のために祈りましょう。こんにち、キリストが救いに必要だということを進んで受け入れるものの、教会が救いに必要だということを拒否する人々が多くいます。カトリックの神学者の中にさえも。しかし、キリストの体の一部であるカトリック教会に属することなく、彼らはどのようにしてキリストと一致することができるでしょうか? キリストの体であるカトリック教会の内にいることなく、彼らはどのようにしてキリストの命を生きることができるでしょうか? こんにち私たちは、教会の肢体をまことに刷新することによって、教会の美しさを復興させるために、いまこそ教会のために聖母に祈る必要があります。

「天主の聖寵の御母」。成聖の恩寵は、私たちのうちにあるキリストの命です。母として聖母は、私たちが聖母を通して命を受け、聖母を通して恩寵を受けるというお方です。また良き母として聖母が私たちに持っていらっしゃる最大の望みは、ただ私たちが完全にキリストの命を生きることです。ですから、私たちは豊かに恩寵を得られるよう聖母に祈ることができるのです。

「いと潔き御母、いと操正しき御母、終生童貞なる御母、きずなき御母」。これらの称号はすべて、大いなる喜びをもって聖母の潔さを歌い、この完全な童貞性と母であることの見事な結合を歌います。まことに、現代世界に本当に必要とされている潔さの模範が聖母に見いだされます。聖母は、潔さは奉献された童貞のものだけでなく、すべての母親も自分のレベルに応じて守るべきものであることを私たちに思い出させてくださいます。結婚している信者は世の腐敗を避けなければなりませんし、身分に応じた貞潔を守り、互いに忠実であり、あらゆる乱用を避けなければなりません。

「愛すべき御母」。聖母は私たち聖母の子どもに対して、何と親切でいらっしゃるのでしょうか! 子どもとして、私たちは喜んで聖母と一緒に、聖母のおそばにいます。聖母は非常に愛すべきお方なのですから。

「感ずべき御母」。貞潔において感ずべき、十字架の下に至るまでイエズスへの愛において感ずべき、主が聖母にお与えになった特別な賜物、被昇天においてその頂点に達した賜物のゆえに感ずべきお方です。私たちは聖母が天国へ行かれるのをたたえます! まことにきょう、私たちは聖母に対して「感ずべき御母」と歌います。

「善き勧めを賜う御母」。聖母の善き勧めはカナで給仕人たちに与えられた勧めです。「何でもあの人の言うとおりにしなさい」(ヨハネ2章5節)。イエズスがお望みになることを常に行うことは、まことに人生における正しい規則です。主の掟に従うだけでなく、主の勧め、福音的勧告にも従うことは、キリスト教的完徳への近道です。

「創造主の御母」。良き子どもとして、私たちの主イエズス・キリストは「母に従って」(ルカ2章51節)おられます。しかしイエズスは創造主であり全能のお方です。そのため聖母は、私たちを救うため、あらゆる恩寵を得るために、どうにかして、イエズスの全能の力を発動させることがおできになるのです。

「救世主の御母」。主は十字架上で、私たちの罪の支払いをされ、すべての恩寵を得る功徳を獲得されました。御母として、マリア様は私たちのために主からこれらすべての恩寵を得ることがおできになります。そのため私たちは、聖母の取り次ぎの力に大きな信頼をもって、聖母のところに行くべきです。

「いとも賢明なる童貞」。聖母の賢明さは天使ガブリエルに対する質問に表れています。「私は男を知りませんが、どうしてそうなるのですか」(ルカ1章34節)。聖母は、この御使いが天主から来たことを確信したいので、それを試すため、天使が聖母の童貞の誓いを破るよう求めないことを確認されたのです。純潔を守るためには、人は賢明に行動し、あらゆる罪の機会を避けなければなりません。そんな機会が増大しているこんにちでは、賢明に行動することが最も必要とされています。聖母は、妥協することなくあらゆる罪の機会を避けるという賢明の徳を私たちに教えてくださいます。

「敬うべき童貞」。世は童貞性を軽蔑していますが、教会は―私たちの主イエズス・キリストご自身の教えに従って―童貞性を非常に高く尊重します。童貞の中の童貞である主の御母を敬うことは、すべての良きカトリック信者にとって大切であり、また純潔の重要性を常に思い出させます。

「誉むべき童貞」。私たちの主イエズス・キリストに次いで、歴史上、童貞聖マリアほど敬われ、愛されたお方はいません。また聖母の敵でさえも、まさに聖母に反対するがゆえに、聖母を知らずにはいられません。

「力ある童貞」。聖母は祈りによって力強いお方です。聖母は常にイエズスをお喜ばせすることをなさってきましたから、聖母はイエズスにご自分が望まれることなら何でもお願いできます(でも聖母は主をお喜ばせしないことは決してお望みになりません)。こうして聖母は、私たちが救いのために必要とするすべての恩寵を私たちのために取り成すことがおできになり、罪びとの回心、信者の聖化、煉獄の霊魂の解放を取り成すことがおできになります。

「寛仁なる童貞」。ラテン語では「最も寛大な」という意味です。寛大さは、悔い改めた罪びとへの罰を少なくする徳です。

「信実なる童貞」。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵に常に忠実でした。聖母は自分の義務に常に忠実でした。聖母はまた、いとも忠実な友、忠実さの模範です!

「正義の鑑み」。聖書では、「正義」という言葉はしばしば「聖性」の同義語です。聖母は、私たちの主イエズス・キリストの徳と聖性を映し出す完全な鑑み(鏡)であり、私たちがイエズスを知り、特にイエズスが謙遜と純潔を愛されることを知る鑑み(鏡)です。

「上智の座」。私たちの主イエズス・キリストは、ご托身になった上智、知恵です。主は、御母の膝の上にお座りになった子どもとして、玉座の上にお座りになった王として、この世に来られました! 聖母は実際、このイエズスの知恵で、天主の神秘についての深い知識で満たされておられるのです。

「われらが喜びの源」。なぜなら、聖母は私たちに、私たちのすべての喜びの源であり、また私たちの至福直観の対象、永遠の至福であるイエズスを与えてくださったからです。

「霊妙なる器」。これはすなわち、最も美しい霊的な賜物、最も高められた霊的な命のための聖霊の七つの賜物を受けた人のことです。そして聖母はそれらを私たちにくださることがおできになるのです。

「崇むべき器」。これはすなわち、崇めるべきもの、有徳なもの、賞賛に値するもの、それらすべてのものが聖母において最も素晴らしい形で見られるということです。まことに天主は聖母を、ご自分の寛容さ、すなわち驚嘆すべき贖いのショーケースとされました。

「信心のすぐれたる器」。いったい誰が聖母の信心を描写することができるでしょうか? 聖母がいかに祈りを好んでおられたのかを、聖母の祈りがどれほどの高みまで上がるのかを、聖父と聖子と聖母の天主たる浄配である聖霊をいかに愛しておられるかを。私たちが祈りを学びたいのなら、聖母にお願いしましょう。

「くすしきばらの花」。このばらの花は、聖母の純潔のため白く、その十字架の下での御悲しみのため赤く、その被昇天の栄光のため黄金色です。

「ダヴィドの塔」。これはソロモンの雅歌で使われている言葉です。雅歌の中で、この言葉は花嫁に対して言われます。「あなたの首は、砦としてつくられたダヴィドの塔のようだ。そこには千個の円盾(まるたて)、勇士たちの盾が、掛け連ねてある」(雅歌4章4節)。聖母は、この雅歌で「戦列を整えし軍勢のごとく恐るべき」(雅歌6章10節)とも描写されています。このすべてが、悪魔とそれに従う者どもに対抗する聖母の力を示しています。聖母は、悪魔に対しては絶対的な「いいえ」を、罪に対しては「いいえ」を、一切妥協することなくおっしゃいました。聖母は、誘惑との闘いにおいて私たちに力を与えることがおできになります。ですから聖母への感謝を込めて、勝利を得た霊魂たちは(兵士としての)彼らの盾を聖母に捧げます。かくしてこれらの盾は、ダヴィドの塔が勇敢なダヴィドの兵士たちのすべての盾で飾られたように、聖母を飾るのです。

「象牙の塔」。これもソロモンの雅歌で使われている言葉です。「あなたの首は象牙の塔」(雅歌7章5節)。これはこの比喩的な方法で、聖母の美しさを、キリストの完全な花嫁の美しさを描写しています。なぜなら、聖母は御母であるだけでなく、新しいエバでもあり、新しいアダムの完全な助け手でいらっしゃるからです。聖母は、この新しいエバ、教会のかたどり、キリストの花嫁として十字架の下に立っておられたのです。

「黄金の堂」。黄金のような純粋な愛徳、霊的な富、まことの「しみも虫もつかず、盗人が穴をあけて盗み出すこともない天の宝」(マテオ6章20節)のことです。また、「[ソロモンがつくった旧約の神殿の]至聖所にあたる本堂を六百タレントの目方にあたる黄金の板で覆った」(歴代の書下3章8節)にある言葉でもあります。この内的な「黄金の堂」は霊魂の内的な聖所を意味しており、その中には聖霊が住み給うのです。その純粋さと聖性から、マリア様は教会によって特別に「天主の神殿、聖霊の聖所」(「聖母の土曜日」の聖務日課の賛課の交誦)と呼ばれています。成聖の恩寵の状態で生きている人もすべて「聖霊の神殿」ですが、聖母に比べればその美しさははるかに劣っています。聖母は私たちすべての模範である「黄金の堂」です。

「契約のひつ」。神殿の最も中心の幕屋の中に、モーゼによって造られた契約の櫃があり、その中にモーゼはマンナと律法の石版を置きました。マンナは、天から下ったまことのパンである私たちの主イエズス・キリストを象徴していましたが、このパンはまさに聖母のいと潔きご胎の中に置かれました。また私たちの主イエズス・キリストの恩寵によって、聖母は完全に律法に、特に愛徳という律法に従われました。そのため聖母は、「契約のひつ」と呼ばれるにふさわしいのです。契約の櫃はまた、黄金の板で全体を覆われ、この櫃をいとも美しいものとしました。ちょうど、愛徳とあらゆる徳によって全体を飾られた祝されし童貞の霊魂のように。

「天の門」。これは、エゼキエルが見た新たな神殿の東の門のことを言っています。「主は私に言われた。『この門は閉じていなければならぬ。開くことはない。誰も、ここを通ってはならぬ。閉じたままにしておく。ここは、イスラエルの神、主が入られたところだからである』」(エゼキエル44章2節)。聖ヒエロニモは私たちに、この門は聖母を象徴しており、それは聖母を通って天主なる主がこの世に入られたからである、と説明しています。閉じた扉は聖母の終生童貞のしるしです。しかし私たちは、聖母へのまことの信心によって、聖母を通って天国へ行くことができるのです。

「暁の星」は、「正義の太陽」と呼ばれる私たちの主イエズス・キリストのご出現を意味しています。「私の名を恐れるものには、正義の太陽が昇り、その翼には、救いがある」(マラキア4章2節)。その翼は十字架上の私たちの主イエズス・キリストの広げられた腕であり、これによって私たちの霊魂は癒やされるのです。

「病人の快復」。罪によって傷を負ったすべての人々は聖母のところに行くことができ、そうすれば聖母は、彼らを癒やしてくださる私たちの主イエズス・キリストへ彼らを導いてくださいます。主はこの美しい癒やしの恩寵を聖母に委ねられました。聖母は「すべての恩寵の分配者」であり、私たちの主イエズス・キリストのすべての恩寵を分配するお方なのです。

「罪人の拠り所」。自分の罪、その重さ、その頻繁さに打ちのめされ、それから抜け出したいと思っている人々はみな聖母のところへ行き、聖母を通してまことの回心の恩寵、堅固な回心の恩寵を得ることができます。聖母は彼らを追い帰したりなさいません。

「憂き人の慰め」。肉体的にも精神的にも苦しんでいる人々はみな、聖母のところへ行けば恩寵を見いだすでしょう。癒やしの恩寵を、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストと一致して自分の苦しみを耐え忍ぶ恩寵を、慰めと力強さの恩寵を。

「キリスト信者の助け」。子どもはいつもその母親を呼び求めることができます。子どもは母親が自分を見捨てるつもりがないことを知っているからです。聖母はすべての母親の中で最高の母親です。ですから聖母はご自分を呼び求めるすべての人々をお見捨てになることはなく、むしろ急いで助けに来てくださいます。キリスト教世界には、この称号あるいは別の似た称号の聖母に捧げられた多くの聖堂があります。聖母の御取り次ぎによって、その聖堂で特別な御助けが与えられたからです。

「天使の元后、太祖の元后、預言者の元后、使徒の元后、殉教者の元后、証聖者の元后、童貞者の元后、諸聖人の元后」。これらの美しい聖人たちはみな、いやむしろ全ての聖人たちが、主に対する聖母の地位の優越性のゆえに、聖母を元后、女王として敬っています。旧約においては、女王である人は王の妻ではなく(王には通常何人も妻がいました)、ソロモンの母のように、むしろ王の母でした(列王の書上2章19節参照)。聖書は、私たちの主イエズス・キリストの先祖であり、自身が「ダヴィドの子ら」であったユダの王たちの母全員に言及していますが、これは彼女らがみな、あのダヴィドの子(キリスト)の母、諸聖人の元后の前表だったからです。聖母は、王である私たちの主イエズス・キリストの母であるがゆえに女王でいらっしゃるのです。

特に聖母が太祖の元后でいらっしゃるのは、聖母がキリストの先祖のうちで最後にして最も優れた先祖、すぐ前の先祖、その御母その人でいらっしゃるからです。最も優れた太祖たち、アブラハムとダヴィドに対しては、キリストは彼らの「子孫」であるという約束が与えられました。この「子孫」は、聖パウロが記すように単数形であり、預言が当てはまるのはヘブライの民全体に対してではなく、キリストに対してなのです。さて、聖母は「イェッセの根から出る枝」、すなわちアブラハムとダヴィドの長く続く子孫たちから出る新芽であり、ついにそこにキリストという花が咲いたのです。

聖母が預言者の元后でいらっしゃるのは、預言者の多くが聖母について預言したからです。
聖母が使徒の元后でいらっしゃるのは、使徒たちが聖母を知り、聖母を私たちの主に次ぐキリスト教徒の最も完全な模範として、自分たちの母として尊敬していたからです。実際、私たちがその次の世紀に見いだすのは、教父たちが、例えば聖イレネオが聖母を新しいエバとして提示していることです。彼はこの教えを聖ポリカルポから学んだに違いないのであり、聖ポリカルポ自身はそれを、童貞聖マリアを(主から)委ねられた使徒聖ヨハネから学んだのです。

聖母が殉教者の元后となられたのは、死に至るまで素晴らしい剛毅の模範として、とりわけ十字架の下にたたずんでおられたからです。
聖母が証聖者の元后、すなわち卓越した英雄的な生涯によって主のことを証しした諸聖人の元后でいらっしゃるのは、聖母の生涯がそれら諸聖人すべての生涯よりもさらに完全なものであったからです。
聖母が非常に特別な意味で童貞者の元后とされるのは、聖母が最も完全に無垢であり、つまり聖母が汚れなきお方であるからなのです!

「原罪なく宿りし元后」。これは聖母の並外れた特権であり、そのため聖母は他のすべての聖人をはるかに超えた地位におられます。この称号は、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が私たちにも必要であることを思い出させるものです。私たちの本性には、生まれたときから持っている原罪による傷があるのですから。

「被昇天の元后」。聖母だけが、世の終わりの前に、体と霊魂を天に上げられたのです。聖母の生涯の終わりにおけるこの特権は、聖母の生涯の始まりにおける無原罪の御宿りという特権に対応しているのです。

「いと尊きロザリオの元后」。ロザリオは、聖母への信心の素晴らしい手段であり、聖母が聖ドミニコにお与えになったもので、数えきれないほどの世代にわたって信者を聖化してきました。聖母はロザリオによって、聖母の汚れなき御心への信心を再び確立され、そうして世の回心の恩寵を獲得されます。

「平和の元后」。聖母は地上に平和をもたらしてくださいますが、そのうえ私たちを天国での永遠の平和へと導いてくださいます。

聖母の汚れなき御心への信心を確立することによって、マリア様の統治を通じて私たちの主イエズス・キリストの統治が到来しますように! アーメン!



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

巡礼者からのメッセージ(長崎秋田2016)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の5月の長崎と秋田の巡礼に参加された方から次のようなメッセージをいただきました。巡礼に参加された皆様へのお礼も含まれておりますので、ご紹介することをお許し下さい。ドイツ人の巡礼者ですが、日本語でお便りをタイプして送って下さいました!すごい!そのままをご紹介いたします。

ところで、11月は、東京ではミサがたくさんあります。11月1日と2日のミサはキャンセルになりましたが、次の主日にミサがあります。

11月06日午前10時半、
  13日午前10時半、
  20日午前10時半、

よろしくお願いします。

大阪でも、いつものようにミサ聖祭があります。大阪の新しい聖堂には、10月13日にステンドグラスが付けられました!天主様に感謝!
愛する兄弟姉妹の皆様がミサ聖祭に与られることをお待ちしております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

シュテーリン神父様、小野田神父様、フォーティン神父様,
2016年の長崎~秋田の巡礼に参加された皆様!

御無沙汰申し訳ありません!その後、お変わりなくお過ごしのことと存じます。

大変遅くなってしまいましたが、巡礼のお礼を申し上げます。

私はドイツへ帰ってから、24時間以内に(ちょっと湿っていたままの衣服で)シュテーリン神父様が説教して下さったMI黙想会にも参加し、次の週末には哲学教室にも参加しました。ところで、聖 Thomas Aquinas の Summa Theologiae の日本語の翻訳は2013年の初め頃もう終わっていましたが、ドイツ語のはまだ終わっていないということを、ご存知ですか。素晴らしいですね!^^

http://scholastiker.blogspot.de/2013/01/thomas-von-aquin-in-japan.html

シュテーリン神父様が巡礼のスピーチの中で話された、聖Thomas Aquinasの引用句を覚えていらっしゃいますか。「やっていることをやりなさい!ー age quod agis! 」です。日本の皆様は本当にそれを実行されている方々だと思います!

それは、皆様が、今年のすばらしい巡礼を準備し、運営してくださったこと、カトリックの信仰をよく理解し、隣人愛を実践なさっていることなどからです。巡礼の間中、本当の家族の一員のように感じさせていただきました。もちろん、全ての国々、Singapore, USA, Philippines, Poland, Australia, Malaysia, Switzerland, Germany(神父様、ね^^)からの方々も、本当の隣人愛を実践している方達であるということを体験致しました。皆様のすぐに打ち解けた友情や優しさに感謝致します! この無類の体験に深い感銘を受けて頂きました!

特に、巡礼運営チームの方々に大変感謝致します!巡礼のずっと前何ヶ月間も忙しかったことでしょう!そして、巡礼中にも自分のことはさておいて、参加者のためだけに一生懸命に働いて下さいました。日本の皆様は本当に我慢強い方達です!

尊敬する神父様方にも心から「ありがとうございました」と申し上げたいです。毎日私達に祝福と素晴らしいお説教、精神的なご指導をしていただきました。最後にシュテーリン神父様とシュテーリン神父様と同様に天才的通訳者、小野田神父様に、持久走のような精神的お話しマラソンに対して心の底からのお礼を申し上げます。いついつまでも、永遠にも、天主様のお恵みが豊かにありますように。

私の心は話したいことをいっぱいのですが、残念ながら今も日本語の初心者しかいないで、すみません。よろしくお願い致します!

玄関の聖水を置いているところに、巡礼でいただいた名札を掛けています。毎日それを見るたびに、皆様のことを考えています。またいつかお会いできますように。
尊敬する神父様方に、皆様に、天主様が豊かに報いて下さいますように、天主様の祝福が豊かにありますように!いついつまでも、永遠にも!

お祈りのうちに、

イリス

Reverend Father Stehlin, Reverend Father Onoda, Reverend Father Fortin,
Dear Pilgrims of 2016 pilgrimage to Nagasaki and Akita!

There's no excuse for my long silence and first of all I do hope, that everyone of you is fine! Although rather late I won't miss to say "Thank you!" for this pilgrimage!

After returning to Germany I proceeded within less than 24 hours (and with still little wet clothes ...) to the MI retreat, which were preached by Rev. Father Stehlin as well. And the following weekend I attended a course in scholastic philosopy. By the way, did you know while the Germans are still working upon the translation of St Thomas Aquinas' "Summa Theologiae" the Japanese translation was completed around the beginning of 2013. Congratulations! ^^

http://scholastiker.blogspot.de/2013/01/thomas-von-aquin-in-japan.html

Do you remember Father Stehlin quoting St Thomas: "Do what you are doing! - age quod agis! "? I think that's exactely how Japanese people do what they do!

That's how you organized and conducted this year's so wonderful pilgrimage, how you grasp the catholic faith, how you practice the grace of charity. During this pilgrimage you really gave me the feeling of being part of a family. Which, of course, was true for all of you whereever you came from, Singapore, USA, Philippines, Poland, Australia, Malaysia, Switzerland, Germany (well, Father ;-) ), all of whom I experienced to be full of neighbourly love! I do want to thank all of you for your exceptional and warmhearted kindness and so uncomplicated friendliness! I was deeply impressed by this matchless experience!

I'd like to say "Thank you so much!" especially to those who must have been busy already months before the pilgrimage to get everything ready, as well as during the pilgrimage to run things smoothly - oblivious of your own spiritual comfort just to spoil the rest of us! ^^ The Japanese are arduous indeed!

"Thank you!" with all my heart to our dear Reverend Fathers, who spoiled as day after day with their heavenly blessings, their sermons, their spiritual assistance! Last but not least, allow me to say "Thank you!" from the bottom of my soul to Reverend Father Stehlin and his simply congenial translator, Reverend Father Onoda, for this unceasing marathon of spiritual conferences! May Our Lord bestow abundant graces upon you in time and in eternity!

My heart is full of things I'd like to tell you, but I'm still only a beginner in Japanese, so, please, excuse me and keep me in your favours!

I placed my name tag of our pilgrimage on the wall above the little bowl for the Holy Water at the entrance of my little flat. So seeing it every day I remember all of you. May we meet again!

Dear Reverend Fathers, Dear pilgrims, may Our Lord reward and bless you abundantly! For time and eternity!


In union of prayer,

Iris

"Commentary on the Litanies of our Lady" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「聖母の連祷についての解説」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「聖母の連祷についての解説」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Monday 15th August, Feast of the Assumption of the Blessed Virgin Mary
The Immaculate Heart of Mary

Need of reparation
The Immaculate Heart of Mary is the antidote to modern sins
Commentary on the Litanies of our Lady
By Fr. Laisney SSPX

My dear brethren,

Today we celebrate the reward of the Blessed Virgin Mary. All her life on earth was so faithful to our Lord Jesus Christ, that she deserved and merited the highest reward. Yet God rewards beyond the merits, because He cannot be overcome in generosity: first He himself is the source of the merit, because He gives the grace by which we merit; then He gives the reward of the merit and goes beyond! Truly blessed are they who serve God faithfully, like our Lady!

The first grace of our Lady was her Immaculate Conception: and the first grace is always unmerited, as St Paul says: “who hath first given to him, and recompense shall be made him?” . She was perfectly faithful to that first grace, cooperating fully with the grace of God, and thus deserved the perfect reward! Now that life-long perfect cooperation of Mary with the grace of God is what we call “the Immaculate Heart of Mary”: hence you see the intimate connection between the feast of the Assumption and the feast of the Immaculate Heart of Mary, which Pope Pius XII fittingly set on the octave day of the Assumption.

Now Bishop Fellay is launching a one-year Crusade in honour of the Immaculate Heart of Mary from today to the feast of the Immaculate Heart next year, which will be the 100th anniversary of her apparitions at Fatima. You are very strongly encouraged to say every day the Rosary (5 mysteries) and if possible the full Rosary (15 mysteries, or even more if you can!) and to make sacrifices in reparation for sins, especially those sins that are particularly offending the Immaculate Heart of Mary.

When we see the evils of this world multiplying to a frightful degree, the Islamic violence, the corrupt morals to the most unnatural levels, even asking for a “right” to be perverse, the spread of abortion which is somehow the epitome of modern immorality, and even the sale of aborted baby body-parts, we ask ourselves: what can we do? When our Lord Jesus Christ came into this world to save us from sin, how did He do it? He offered Himself as the perfect victim on the Cross! Faced with the corruption of the modern world, our Lord calls us to imitate Him and to make reparation for all these sins. Indeed St Paul says: “Be ye therefore imitators of God, as most dear children; and walk in love, as Christ also hath loved us, and hath delivered himself for us, an oblation and a sacrifice to God for an odour of sweetness” . To imitate our Lord Jesus Christ, precisely in the love He practiced in offering himself as Victim for our salvation, this is what we ought to do. We do this by making sacrifices in reparation for sins.

Some people have difficulty to understand how God could be offended by sin, since God is perfectly happy. But it is not difficult to understand that our Mother is sad for our sins: a mother wants her children to be good; she is extremely sad when she sees them being criminals and perverts. Now our Lady is our mother, because she is the mother of all men, because our Lord Jesus Christ shed his Blood for the salvation of all men. And today she is extremely sad because of all the sins of the modern world. So her good children will strive to console her by making reparation by their sacrifices. In so doing, they will call for mercy on the sinners, so that our Lord Jesus Christ may grant them the grace of conversion (and penance!) so that they too may be saved.

The Immaculate Heart of Mary is the opposite of the modern sins: it is the sanctuary of the most beautiful purity, virginity in all domains; she never even started the least on the path of sin. She is also meek and gentle, so opposed to the violence of the modern world. She is the best of all mothers, giving life, the opposite of those murders of babies in the womb. Hence devotion to the Immaculate Heart of Mary is an antidote to these sins. Hence our Lord Jesus Christ wants to establish devotion to the Immaculate Heart of His mother in the world. Let us respond generously to such beautiful divine plan.

To know better the Heart of Mary, I will give a short commentary on the Litanies of our Lady.

“Holy Mary”: we honour here the holy name of Mary, which the Son of God has chosen for His earthly mother!

“Holy Mother of God”: we honour here her unique mission, that to become the Mother of Jesus, Who is true God and true man from the first moment of His conception by the Holy Ghost in her most pure womb. Hence she fully deserves the title of “Mother of God”: motherhood is a relation between persons, and the person of her Son is the Second Person of the Most Holy Trinity. All her other titles flow from this first one.

“Holy Virgin of virgins”: this is a Hebrew superlative, similar to “king of kings”, meaning the most perfect virgin. Indeed she is virgin before, during and after the birth of Jesus, virgin for ever. She is virgin in her body and in her soul, having never stained her soul in any domain.

“Mother of Christ”: “Christ” means the Anointed One, the Messiah in Hebrew, the one the whole chosen nation was expecting for so many centuries. She was of the tribe of Judah and of the family of David. She was the one chosen by God to receive “the Christ” in her womb, fulfilment of the expectation of these generations of holy Patriarchs and prophets, who longed for Him and saw Him from afar .

“Mother of the Church”: because our Lord Jesus Christ is inseparable from His Church, which is His Body . She could not be the mother of the head without being the mother of the body at the same time! Those who reject this motherhood of our Lady practically try to separate Christ from His Church, the head from the body, and that cannot please our Lord Jesus Christ. Let us pray for their conversion. Today there are many, even among Catholic theologians, who are willing to accept that Christ is necessary for salvation, but who reject that the Church is necessary for salvation. But how could they be united with Christ without being part of His Body, the Catholic Church? How could they live of the life of Christ without being in the Body of Christ, the Catholic Church? Today more than ever we need to pray our Lady for the Church, to restore the beauty of the Church by a true renovation of its members.

“Mother of divine grace”: sanctifying grace is the life of Christ in us. As a Mother, she is the one through whom we receive life, through whom we receive grace. And as a good mother, she has no greater desire for us but that we may live of the life of Christ fully: so we can pray to her to obtain graces in abundance.

“Mother most pure, most chaste, inviolate and undefiled”: all these titles sing with great joy the purity of our Lady, and the admirable union of that perfect virginity with her motherhood. Truly one finds in her the model of purity so much needed in the modern world; she reminds us also that purity is not merely for consecrated virgins, but also for all mothers, at their own level. Married faithful must avoid the corruptions of the world, and practice the chastity of their state, being faithful to one another and shunning all abuse.

“Mother most lovable”: what kindness in our Lady for us, her children! As children, we are happy to be with her, close to her, because she is so lovable.

“Mother most admirable”: admirable in her chastity, admirable in her love for Jesus even to the foot of the Cross, admirable for the extraordinary gifts our Lord has given her, culminating in her Assumption: we admire her going up to heaven! Truly today we sing to her “Mother most admirable!”

“Mother of good counsel”: her good counsel was the one given to the waiters at Cana: “Whatsoever he shall say to you, do ye” . To do always what Jesus wants is truly the right rule of life. To follow not only His commandments, but also his Counsels, the Evangelical Counsels, is the short way to Christian perfection.

“Mother of the Creator”: as a good Son, our Lord Jesus Christ is “subject to her” . But Jesus is the Creator, the Almighty: so she can somehow dispose of that almighty power to save us, to obtain all kinds of graces!

“Mother of the Saviour”: He paid for our sins and merited all graces on the Cross, and being his Mother, Mary can obtain all these graces from Him for us. So we should come to her with great confidence in the power of her intercession.

“Virgin most prudent”: her prudence is manifested in her question to the Angel Gabriel: “How shall this be done, because I know not man?” She wanted to make sure the messenger was from God, and to test this, she checked that he would not ask her to break her vow of virginity. To keep one’s purity, one must be prudent and avoid all occasion of sin. This is most necessary today, when such occasions have multiplied. Our Lady teaches us the virtue of prudence, to shun all such occasion of sin, without compromise.

“Virgin most venerable”: the world despises virginity, but the Church – taught by our Lord Jesus Christ Himself – holds virginity in very high esteem. Veneration for his Mother, the Virgin of virgins, is dear to all good Catholics and a constant reminder of the importance of purity.

“Virgin most renowned”: no one, after our Lord Jesus Christ, has been so honoured, so loved in history as the Blessed Virgin Mary. And even among her enemies, in their very opposition to her, they cannot but know her!

“Virgin most powerful”: she is powerful by her prayers. Because she has always done what pleased Jesus, she can ask him anything she wants (but she never wants anything that would displease Him!) Thus she can obtain for us all the graces we need for our salvation, she can obtain the conversion of sinners, and the sanctification of the faithful and the deliverance of souls in Purgatory…

“Virgin most merciful”: the Latin has “most clement”. Clemency is the virtue by which punishment is diminished to the repentant sinner.

“Virgin most faithful”: she was always faithful to the grace of our Lord Jesus Christ; she was always faithful to her duty. She is also a most faithful friend, the model of fidelity!

“Mirror of Justice”: in the Scriptures, the word “justice” is often synonymous of “holiness”. She is the perfect mirror of the virtues and holiness of our Lord Jesus Christ, beautiful mirror in which we get to know Jesus, and especially his love for humility and purity.

“Seat of Wisdom”: our Lord Jesus Christ is the Incarnate Wisdom. He came into this world as a child, sitting on His mother’s lap, as a King on His throne! Our Lady is indeed filled with this Wisdom of Jesus, deep knowledge of the mysteries of God.

“Cause of our joy”, because she gave us Jesus Who is the source of all our joy, and will be eternally the object of our beatific vision, eternal beatitude.

“Spiritual vessel”: that is, recipient of the most beautiful spiritual gifts, the Seven Gifts of the Holy Ghost, for the most elevated spiritual life. And she can give them to us.

“Vessel of honour”: that is, all that which is honourable, virtuous, praiseworthy can be found most excellently in her. Truly God has made of her the showcase of His generosity, the marvel of Redemption.

“Singular Vessel of devotion“: who could ever describe the devotion of our Lady, how much she loved to pray, the elevation of her prayers and affection to God the Father, to her Divine Son, to the Holy Ghost – her Divine Spouse? If we want to learn to pray, let us ask our Lady!

“Mystical Rose”: white because of her purity, red because of her sorrow at the foot of the Cross, gold because of her glory in her Assumption!

“Tower of David”: this is a reference to the Canticle of Solomon, in which it is said to the Bride: “Thy neck, is as the tower of David, which is built with bulwarks: a thousand bucklers hang upon it, all the armour of valiant men” . Our Lady is described also in this Canticle as “strong as an army in battle array” . All this shows her strength against the Devil and his followers: she said an absolute NO to the Devil, NO to sin, with no compromise at all. She can strengthen us in our fight against temptation. Then in gratitude to her, the victorious souls offer her their shield, which thus decorates her as the Tower of David was decorated by all the shields of all the valiant soldiers of David.

“Tower of Ivory”: this is another reference to the Canticle of Solomon: “Thy neck as a tower of ivory” . It describes in this figurative way, the beauty of our Lady, the beauty of the perfect Bride of Christ – since our Lady is not only the mother, but also the New Eve, perfect helper of the New Adam. She stood at the foot of the Cross in this quality of New Eve, model of the Church, Bride of Christ.

“House of gold”: the gold of pure charity, spiritual riches, true “treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal” . It also refers to “the house of the holy of holies [in the Old Testament temple built by Solomon, who] overlaid it with plates of gold, amounting to about six hundred talents” . This inner “house of gold” signifies the interior sanctuary of the soul, in which dwells the Holy Ghost: because of her purity and holiness, Mary is called in a special way by the Church “Temple of God, Sanctuary of the Holy Ghost” . All who live in the state of grace are also “temples of the Holy Ghost” but far from being as beautiful as our Lady was. She is the model of us all: house of gold!

“Ark of the Covenant”: in that inner tabernacle, there was the ark built by Moses, in which he had put the manna and the Tables of the Law. The manna symbolised our Lord Jesus Christ, who is the true Bread coming down from Heaven, but which precisely was put in the most pure womb of our Lady; also by the grace of our Lord Jesus Christ she perfectly obeyed the Law, especially the Law of charity: hence she deserves to be called the “Ark of the Covenant”. The ark too was completely covered in golden plates, making it most beautiful, as is the soul of the blessed Virgin, completely adorned by charity and all virtues.

“Gate of Heaven”: that refers to the Eastern Gate of the new Temple, seen by Ezechiel: “And the Lord said to me: This gate shall be shut, it shall not be opened, and no man shall pass through it: because the Lord the God of Israel hath entered in by it, and it shall be shut” . St Jerome tells us that this gate symbolises our Lady, through whom the Lord God entered into this world: the closed door is the sign of her perpetual virginity. But we can go to Heaven through her, by true devotion to her.

“Morning star” indicating the arrival of our Lord Jesus Christ, called the “Sun of justice”: “unto you that fear my name, the Sun of justice shall arise, and health in his wings” (Mal 4:2). His wings are the extended arms of our Lord Jesus Christ on the Cross, from which our soul is healed.

“Health of the sick”: all those wounded by sin can come to her and she will lead them to our Lord Jesus Christ who will heal them. He entrusted to her all those beautiful healing graces. She is the “dispensatrix of all graces”, the one who distributes all the graces of our Lord Jesus Christ.

“Refuge of sinners”: those who are overwhelmed by their sins, their gravity, their frequency, and want to get out of them, they can all come to her and obtain through her the grace of a true conversion, solid conversion. She will not push them away.

“Consoler of the afflicted”: all those who suffer, physically, spiritually, can come to her and find grace of healing, grace to bear their sufferings in union with our Lord Jesus Christ crucified, grace of consolation and strength.

"Help of Christians": a child can always call upon his mother; he knows she is not going to abandon him. Our Lady is the best of all mothers; she is not going to abandon all those who call upon her, but rather is prompt to come to their help. There are many shrines in Christendom that give her that title under this or another form, because of some special help that had been granted there through her intercession.

“Queen of Angels, of Patriarchs, of Prophets, of Apostles, of Martyrs, of Confessors, of Virgins and of all the Saints”: all these beautiful Saints, all Saints honour her as their Queen, because of the excellence of her position with our Lord. In the Old Testament, the one who was queen was not the wife of the king (he usually had several wives), but rather the mother of the king, as is seen with Solomon . The Scriptures mentions all the mothers of the kings of Judah, ancestors of our Lord and themselves “sons of David”, because they were all figures of the Mother of the Son of David, the Queen of all Saints. She is Queen because she is the mother of the King, our Lord Jesus Christ.
In particular she is Queen of the Patriarchs because she is the last and most illustrious ancestor of Christ, the immediate one, His very Mother. To the most illustrious patriarchs, Abraham and David, had been promised that Christ would be their "descendant", in the singular as St Paul notes so that the prophecy applies to Christ rather than to the Hebrew people as a whole. Now she is the "Rod out of the root of Jesse," that is, the shoot from the long line of descendants of Abraham and David, on which at last Christ as the flower blossomed.
She is the Queen of the Prophets, because many of them prophesised about her.
She is the Queen of the Apostles, because they knew her and esteemed her, after our Lord, as the most perfect model of Christians and as their mother. Indeed we find in the very next century Fathers of the Church such as St Irenaeus presenting our Lady as the New Eve, a lesson he must have learnt from St Polycarp who himself learnt it from St John, the Apostle to whom the Virgin was entrusted.
She became the Queen of the Martyrs, especially when she was standing at the foot of the Cross, model of excellent fortitude even until death!
She is the Queen of the Confessors, that is, of all the Saints who gave testimony to our Lord by the excellence of their heroic life, because her life was even more perfect than that of all of them.
She is the Queen of the Virgins in a very special way, because of her most perfect innocence: she is The Immaculate!

“Queen conceived without original sin”: this is her singular privilege, which places her above all the other saints. It reminds us also of our need of the grace of our Lord Jesus Christ, because of the wounds of our nature, due to the original sin with which we were born.

“Queen assumed into heaven”: she alone was assumed into heaven body and soul before the end of the world. This privilege at the end of her life corresponds to the privilege of her Immaculate Conception at the beginning of her life.

“Queen of the most holy Rosary”: this is the great means of devotion to her, which she gave to St Dominic, and has sanctified countless generations of faithful. It is the means through which she will again establish the devotion to her Immaculate Heart, and obtain thus the graces for the conversion of the world.

“Queen of peace”: she obtains peace on earth, but even more she leads us to everlasting peace in Heaven!

May the reign of our Lord Jesus Christ come through the reign of Mary, by establishing devotion to her Immaculate Heart! Amen!

「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」とはどういうことか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年10月16日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年10月16日 聖霊降臨後第22主日
小野田神父 説教

日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年10月16日、聖霊降臨後第22主日のミサをしております。今日は奇しくも、聖マキシミリアノ・コルベ神父様がローマで無原罪の聖母の騎士を創立して99周年の日で、創立の日でもあります。

今日いつものように14時30分から公教要理の勉強があります。
前回は聖書について、特に聖ヒエロニモの業績について黙想しましたが、今日は10月13日のすぐ次の主日ですので、ファチマのマリア様について、99年前に一体どんな事が起こったのか、という事を一緒に黙想していきたいと思っています。

16時からは主日の第2晩課があります。明日も7時からいつものようにミサがあります。

11月は第1・第2・第3と、3週主日を連続でミサがある予定です。どうぞいらして下さい。

来年ファチマに巡礼に行く予定です。締め切りがシンガポールの方に、締め切りは11月30日までに、申し込みのお金500シンガポールドルとパスポートの写しを送らなければならないので、ファチマにローマに行こうという方はぜひ早めに仰って下さればと思います。



“Reddite ergo quae sunt Caesaris Caesari, et quae sunt Dei Deo.”
「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日私たちの主は、ファリザイ人から試みを受けて、「ユダヤ人はローマに従うべきか、従順であるべきだろうか?それともローマには異教の権威だから従わずに反乱するべきかどうか?」という事を試されました。

そしてお答えになったのが、この有名な、「チェザルのものはチェザルに返し、天主のものは天主に返せ」でした。ここに、「私たちが従順というものはどこに通ずるのか」という本質が隠されています、述べられています。

そこで今日提案したいのは、この「チェザルのものはチェザルに返す」という事はどういう事なのか?

そして第2に、「天主のものを天主に返す」とはどういう事なのか?です。
実は、今日のミサを見ると、むしろ強調は「天主のものは天主に返す。」その返したいその為に、その為の祈りがミサの全てに込められたように思われます。そこで天主のものを天主に返すとはどういう事か、という事を黙想して、

最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

第1のポイントです。
では「チェザルのものはチェザルに返す」という事はどういう事なのでしょうか?

これは聖パウロがはっきりと説明しているように、「全ての権威は天主から来る」という事です。全ての権威が天主から来ているのであって、天主から来ない権威は全くないが故に、私たちは、私たちの上に立てられた目上に長上に従わなければならない、そしてそれは天主の御旨に非常に適う事である、という事です。何故かというと、天主様は私たちが社会生活を送る事を望み、そしてその社会生活の基礎とする「権威」を与える事を望まれたからです。私たちが権威に従うという事は、天主の御旨であるからです。

ではなぜ私たちは他の人に従わなければならないのでしょうか?何故かというと、人間の本性それだけを見るとその事だけを見ると、実は私たちは人間の本性としては皆同じであって、その数がいくら多かろうが、いくら知恵があろうが、本性の、人間の自然の本性だけを見るならば、誰がその人の上に立つ、その人の下だ、という事は説明がつかないからです。

天主は、人が権威の上に立つようにまず「家庭制度」というものをつくりました。子供がお父さんとお母さんから生まれてきて、子供が家庭の中に生活するというように望まれました。同じく、この家庭が集まって「社会」をつくる事を望まれました。

天主が権威者に権威を与えるが故にこそ、それが天主の御望みで社会生活をする事が御望みであるからこそ、私たちは天主に従うが故に地上の権威に従わなければなりません。

この天主の権威が故に、地上の権威者、それがお父さんやお母さんであったり、或いは学校の先生であったり、或いは町長さんであったり、市長であったり、或いは王様であったり、天皇陛下であったり、大統領であったりしますが、天主様が私たちの意思を1つにまとめて、1つの共通の善の為にまとめる為に、1つに一致させる事を御望みになったが為に、この権威に従う事は天主の聖心に非常に適う事になるのです。

その権威は従って天主の代理者であって、その権威に従う事は私たちはすなわち天主に従う事に繋がるのです。ですから権威者が法律を定める時には、私たちは天主からのものとしてそれに従わなければなりません。もしも国が例えば兵隊に、「この国の為に、守る為に行って戦え」と命令するならば、それにさえも従わなければならない義務が生じます。

しかしこの地上の権威は、天主の代理者であるが故に権威を持つものであるので、もしもそれがあからさまに明らかに天主に反するものであったり、或いはキリストに反するものであったり、或いはイエズス様の立てたカトリック教会の権威と掟に反するものであれば、それは私たちには従う義務がありません。

ですから日本に来たキリシタンたちも同じ事を教えられていました。迫害を受けながら宣教師たちは、「上の命令は天主様の命令だから、それに従うように。例えそれが私たちを迫害するような者からのものであっても、私たちは従わなければなりない。ただしキリストを否む、キリストに逆らう、というような命令にだけは私たちは従う事ができない」と同じ事を教えていました。

つまり、「チェザルのものはチェザルに返せ」という事は、「地上の権威には、天主の権威に従うが為に従いなさい」という事です。それが納税の義務であり、或いは兵役の義務であり、或いは遵法精神であり、全てそうだという事です。

ではその、チェザルものはチェザルに返すその元になった、「天主の権威」というものは何でしょうか?

今日のミサの中心のテーマはここにあります、「天主のものは天主に返す。」つまり私たちは、「私たちの存在、私たちが今こう在る事を、今こう生きて、息を吸って生活している事ができる事、私たちが目をもって、耳をもって、そして鼻で呼吸をして、手で触って、足で歩いて、私たちが全て持っているものは天主から来た。それを私たちは天主に返さなければならない。」

もしも私たちが良い市民である事を命じられているならば、イエズス様が良い日本国民である事を命じておられるならば、更にもっと良き天国の市民である事を命じておられる、という事です。

私たちは天主様から全てを頂き、それは天主の為に頂きました。私たち自身の為に、私たちの自立的な、天主に反する、天主とは関係ない、天主とは全く独立した世界や何かをつくる為ではありません。しかし、こう私たちが天主様から頂いたこの肉体と霊魂、知性と意思、或いは心と精神、私たちの持てる全ての才能と能力、或いは私たちの持つ全ての財産やその友人、家庭、全ては天主様から頂いたものであるにもかかわらず、私たちはそれ一体をどうやって使ってきたでしょうか?天主様の為に全てをお返ししたでしょうか?天主に属するものとしてそれを返したのでしょうか?良き天国の市民だったのでしょうか?

私たちは何か、「そうだ」と言ってしまう事は自分を騙しているという事に気が付いています。

何故かというと、「天主の為に良く時間を使ったのだろうか?良く自分が与えられた才能を使ったのだろうか?」というとそうではなく、他の為に、自分のやりたい、しかし禁じられた事の為に、或いは天主に反する為に、或いは罪を犯す為に使ってしまった、という事が過去あるからです。

ちょうどそこから、今日の入祭誦の叫びが出てくるようです、「私たちは本当なら天国の市民として生活しなければならないにもかかわらず、でも実際はバビロンの流刑に居て、天主から遠い所に居るようだ。深い淵の中から私は天主に叫ぶ。御身が邪悪に目を向けたならば、一体誰がそれに、邪悪ではない身の潔白を証明する事ができようか。どうぞ私の叫びの、祈りの声を聞いて下さい」と入祭誦では歌っています。

入祭誦の中には実は無いのですけれども、この有名な詩篇の中には、「御身の耳を注意深く傾けて下さい。私の祈りの声を聞いて下さい。“Fiant aures tuæ intendentes in vocem deprecationis meæ. ”」という有名な1節があります。

集祷文も同じです。集祷文も「教会の祈りに耳を傾けて下さい」と言っています。聖体拝領唱も同じです、「御身の耳を傾けて私の声を聞いて下さい」と。

これは一体何を意味しているかというと、「私たちが天主様の、天主の義務を果たさなければならないにもかかわらず、これを果たすのに失敗している。私たちには主の助けと憐れみが必要である」というその心からの叫びです。イエズス様が、「天主のものを天主に返せ」と言われたのにもかかわらず、私たちはそれをうまくする事ができないでいる。

一体私たちはどうしたら良いのでしょうか?どうしたら天主のものを天主に返す事ができるでしょうか?「どうぞ私の声を聞いて下さい。」教会はミサの全ての中で、「私たちの声を聞いて下さい」「私たちの声を聞いて下さい」「聞いて下さい」と嘆いて、叫んで、繰り返し、繰り返し、頼んでいます。

では私たちはどのような遷善の決心を取ったら良いのでしょうか?

ちょうど100年前、1916年、同じような事を言った存在があります。それはファチマで3人の子供たちに、ポルトガルの守護の天使が現れてこう言ったのです。

「我が天主よ、私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。私は御身を信じない人々、御身を礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の赦しを乞い願い奉る。」

このように3回お祈りをして見本を見せて、その次に子供たちに言いました。10歳にもならない子供たちでした。「イエズス様とマリア様の聖心は、あなたたちのこの祈りに非常によく耳を傾けている、注意深くしている」と。

天使のこの、「あなたたちの祈りの声に、イエズス様の聖心とマリア様の御心は非常に注意深く聞いていますよ」というのは、ちょうど教会の今日の叫び、お祈りに対する答えではないでしょうか。全く同じ言葉が使われています、ただ、「2つの耳」の代わりに「イエズス様とマリア様の聖心」に変わっているだけです。他は全く同じです。

では、私たちはちょうど99年前のマリア様の言葉にも、10月13日に現れたマリア様の言葉にも耳を傾けて下さい、「もうこれ以上、天主に対して罪を犯さないで下さい。私たちの主はもはやすでに犯され続けています。もうこれ以上犯さないで下さい」と最後にお願いしました。シスタールチアは後に、「ファチマのマリア様の言葉の中で一番印象に残った、一番心に深く残ったのはこの言葉だった」と言います。

私たちも、天主のものを天主に返すように致しましょう。もはや主を犯す事はないように、罪を犯し続ける事がないように、私たちのでは祈りを捧げる事に致しましょう。

「主よ、私は御身を信じ、御身を礼拝し、御身に希望し、御身を愛し奉る。御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の代わりにその赦しを乞い求め奉る」と私たちも何度もお祈り致しましょう。

すると、私たちのこの祈りは非常にイエズス様とマリア様の心に快く響き、そして極めてそれに敏感に答えて下さるはずです、天使がそう約束しました。

マリア様は同じくファチマで仰いました、毎回6回御出現される度に、「ロザリオを唱えなさい」「ロザリオを毎日唱えなさい」「ロザリオを毎日唱え続けなさい」「戦争が終わる為にロザリオを唱えなさい」と言われました。

ですから私たちもこの声に応える事に致しましょう。こうする事によって私たちは、天主のものを天主に返す事ができます。

“Reddite ergo quae sunt Caesaris Caesari,et quae sunt Dei Deo.”
「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

Kolbe Publications(コルベ出版社)のウェブ・サイトのご紹介

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

新しくできた Kolbe Publications (コルベ出版社)のウェブ・サイトをご紹介いたします。

ここで、聖コルベ神父様や、無原罪の聖母に関する英語の本が入手できます。


聖伝による無原罪の聖母の騎士のウェブ・サイトをご紹介いたします。
International Site of the Militia Immaculatae - Traditional observance -

聖伝による無原罪の聖母の騎士の雑誌もあります。

 ●無原罪の聖母の騎士誌 第1号

 ●無原罪の聖母の騎士誌 第2号

どうぞご覧下さい!

【ニュース】
アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



聖なるロザリオの黙想【苦しみの玄義】-2016年5月4日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

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苦しみの玄義黙想(2016年5月4日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父

『苦しみの玄義 第1玄義:
この一連を捧げて、主がゲッセマニの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を痛悔する恵みを乞い願わん。』

マリア様はイエズス様のゲッセマの園にての苦しみを、その時に御額からその御顔から汗の涙が出るのを見ているからです。マリア様の御言葉によれば、マリア様の心をそう悲しませているのは、この世の罪であり、人々の罪です。ですから、私たちが犯した罪の深い痛悔の念を乞い求めましょう。


『苦しみの玄義 第2玄義:
この一連を捧げて、 主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

聖伝によると、この鞭打ちは私たちの不潔の貞潔に背く罪を償う為に、イエズス様が受けられました。まず肉の貞潔に背く罪です。この罪がイエズス様の肉体を粉々に砕きました。

同時に、この最も汚い汚物がマリア様の顔にも投げつけられました。これが霊的な貞潔に反する罪です。この霊的な貞潔に反する罪というのは、真理を拒む事です。御身の最も汚れのない、最も清い御心を受けるのを拒む罪です。

マリア様の汚れなき御心インマクラータは私たちに、最も澄んだきれいな生ける水を私たちに下さるのです。マリア様は泣いておられます。何故かというと、その最もきれいな命の水に私たちが関心をも示さないからです。それよりもこの世が与える不潔な、汚らしい汚れた水を好むからです。

このような不潔な汚いものが世界に溢れかえっている時、マリア様はどのような反応を示すでしょうか。

「どうぞマリア様、お母様、あなたのきれいな御顔を私たちから背けないで下さい。」私たちは確かに不潔な者ですけれども、私たちの前にこう立って両手を開いて私たちを招いておられます。

「私たちの不潔なこの汚物にもかかわらず、御身は私たちを拒み給いません。」従って私たちはどのように大きな罪を犯したといえども、決して落胆してはいけません。この両の手を開いて私たちを招いて下さる事によって、御身の無限の憐れみを私たちに示して下さいます。

「お母様、私は私の汚物を持ってきました。罪に対する最も大きな憎悪の憎しみの心を下さい。」


『苦しみの玄義 第3玄義:
この一連を捧げて、主が茨の冠を被せられ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、侮辱を恐れざる恵みを乞い願わん。』

イエズス様は王であります。従って王冠を受けるに相応しい者です。イエズス様は王の王でありますから、全ての王冠を受ける権利があります。

イエズス様はその王国を、その御母マリア様と共に分かち合っています。ですから秋田のマリア様は地球の上に立っています。これは、「マリア様がこの地上で起こっている全ての事を支配している」という意味です。秋田のマリア様は女王であり元后です。

イエズス様はしかし今、別の王冠を被っています。これは第二の時には被っておられない王冠です。実に今被せられている王冠は、悪魔的な、嘲りの、偽の王冠です。本当の王であるイエズスを馬鹿にする王冠でした。

私はイエズス様を馬鹿にする事になります。どうして馬鹿にするかというと、もしも口先ではイエズス様を「王だ!」と叫びつつ、イエズス様に従わない時、私はイエズス様に偽の王冠を被せる事になるからです。口先だけでは、「我は天地の創造主を信じる」と言いつつも、しかし実際の生活ではあたかも天主様がいらっしゃらないかのように行動するならば、私がまた口先だけでは「御旨が地にも行われん事を」と言ったとしても、たとえ口先で言っても、実はその御旨を果たす事に何の関心もなかったとしたならば、偽の王冠を被せる事になります。もしもその御旨が自分の意図に適わないならば、私はそれに逆らって文句を言います。「おおイエズス様、御身は王たり給え」と言いながら、「我が、私の自分の意思がなされますように」と祈るならば、それを実行するならば、茨の冠を押し付ける事になります。

イエズス様をこうやって拒否すると、その事はすなわち、その女王である元后であるマリア様をも拒否する事になります。今マリア様は、イエズス様に逆らう反逆の子供たちの前に立っています。マリア様は今目の前に、御子に茨の冠を押し付けた人々の前に立っています。その茨の冠がマリア様の心をますます悲しませています。

「もしも私が今まで茨の冠をイエズス様に押し付けてばかりいたとしても、どうぞマリア様、どうぞ御顔を背けないで下さい。私から遠ざからないで下さい。」

今マリア様は元后として女王して、全ての力を持って権能を持って、私たちの前に立っています。

「我が子よ、我が娘よ。たとえあなたが我が子に何千何万もの茨の冠を押し被せたとしても、私は決してあなたを見捨てませんよ。あなたが我が子の頭に茨の冠を押し付けた時、それと同時にあなたは私の心に茨の冠を押し付けました。我が子よ、我が娘よ、あなたは私の心をどれほど悲しませた事でしょうか。でもあなたを愛しています。私のもとにいらっしゃい。あなたの茨を私に下さい。もしもそれができないなら、私の足もとにいらっしゃい、身を投げかけなさい、癒してあげます。」


『苦しみの玄義 第4玄義:
この一連を捧げて、 主が十字架を担い給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、苦難を甘んじ受くる恵みを乞い願わん。』

イエズス様は十字架を担ぐ事によって私たちにその無限の御憐れみを示し、私たちの負債を全て払って下さいました。

秋田ではマリア様もこの同じ十字架の前で立っておられます。イエズス様の十字架こそがマリア様が汚れのない御者である事の原因です、その源泉です。イエズス様が十字架で亡くなったのが、マリア様が罪の汚れのない美しさを持っている原因です。イエズス様が十字架の上で亡くなって功徳を、無限の功徳を積んだ事が、マリア様が無限の能力、全能の力を持っているその原因です。

マリア様は十字架と私との間に立っておられます。マリア様は私に十字架の贖いの実りを下さいます。イエズス様が十字架の上で亡くなった時の全ての無限の功徳を、全て私たちに下さいます。

それと同時に、マリア様は私たちを十字架へと連れて行きます。マリア様は私たちに、十字架に付けられたイエズス・キリストがどなたか、という事を教えて下さいます。マリア様は私たちをして、十字架に付けられたイエズス・キリストを信じ、希望し、愛する事をさせて下さいます。マリア様は私と一緒に、十字架の道行きを歩いて下さいます。そして遂にカルワリオに於いて、イエズス様と出会う事ができます。

マリア様に特別この一連を捧げて、勇気を持つ事ができますように、そして救われる為には私たちが十字架の道を歩まなければならない、という事を理解させて下さるようにお祈り致しましょう。


『苦しみの玄義 第5玄義:
この一連を捧げて、 主が十字架に釘付けにせられて死し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、救霊の恵みを乞い願わん。』

この秋田の聖母の御像は私たちに、いつ、そしてどこで、マリア様が天主の御母であるマリア様が、私たちの母となられたか、という事を教えています。

それは十字架の上で、今死なんとする我らの救世主イエズス・キリストが弟子に向かって、「見よ、汝の母ここにあり」と。そしてその死なんとする御子はマリア様の方を向いて、弟子の方を指しながら、「見よ、汝の子ここにあり」と。

十字架の道行きの黙想の後に、マリア様は私たちの方をご覧になって、「さあ、これからは私があなたの母ですよ」と言っておられます。

死なんとする人の意思は非常に聖なるものです。

「これが私の子の遺言でした。私があなたの母となる事です。」「ご覧なさい、私をご覧なさい。私の内に母でないという所がどこにあるでしょうか。母は苦しみます。私の心は霊的に七つの剣で刺し貫かされました。私の目からは洪水のように涙が湧き出ています。これら全てはあなたの為ですよ。この涙はあなたの心を動かして、回心に導く為です。御子の七つの最後の言葉の内の一つを取って悪と闘いなさい。十字架のもとで御子から、この世の全ての異端を打ち砕く力を得ました。」

「疑いがあるのですか?私のもとにいらっしゃい。」
「あなたの家族の誰かが信仰を失ったのですか?私のもとに連れて来なさい。」
「あなたは信仰のない人々に囲まれているのですか?私のもとに連れて来なさい、私の御心に奉献しなさい。」
「あなたは悪魔から誘惑を受けているのですか?私は十字架のもとで悪魔のサタンの頭を踏み砕く力を得ました。あなたは悪魔の誘惑に迫害を受けているのですか?私が彼らの頭を踏み砕いてあげましょう。」
「重い鎖があなたを縛りつけているのですか?いらっしゃい、さあ鎖を解きほどいてあげましょう。」

「この大きな愛と大きな力を、十字架に付けられた御子から私は頂きました。いつも私のもとにいらっしゃい。この十字架のもとにいらっしゃい。私のもとにいつも留まっていなさい。あなたが必要な全てのお恵みを与えましょう。そしてあなたがお祈りをしている全ての人々の為にお恵みを与えましょう。」


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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