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聖なるロザリオの黙想【栄えの玄義】-2016年5月5日秋田巡礼にて フォルティン神父様、小野田神父

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苦しみの玄義黙想(2016年5月4日 秋田巡礼にて フォルティン神父様、小野田神父)
同時通訳:小野田圭志神父

『栄えの玄義 第1玄義:
この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』(小野田神父)

私たちの主は、40日間何度も、多くの弟子たちの前に御現れになり、現実的に、物理的に御復活された事を証明されました。イエズス様は御腕を広げて御手をお見せになって、イエズス様の御体が本物であること、復活によって同じ体になるという事を示して下さいました。

また同時に主は、エンマウスの弟子たちにお現れになって、彼らを通して私たちにこう教えて下さいます、「あぁ、愚かな者よ。キリストは苦しみを受けてその栄光に入るべきではなかったのか。」復活への道は、十字架の道であります。

私たちの御母マリア様は、十字架と私たちの間に立っておられます。マリア様は、私たちが十字架の道を歩む事ができるように、助け導いて下さいます。もしもマリア様が私たちと一緒に十字架の道行きを歩いて下さるならば、それはとても甘美で易しいものになります。何故なら、マリア様が私たちを助けて下さるからです、マリア様が私たちを導いて下さるからです。

復活の栄光へと繋がる道は、謙遜の十字架の道です。マリア様は私たちに謙遜の道を示して下さいます。私たちもいつもマリア様と共に、マリア様の後に続いて、謙遜の十字架をよく担う事ができますように、そして遂には、永遠の復活の栄光へと辿り着くことができますように、マリア様にその御恵みを乞い求めましょう。



『栄えの玄義 第2玄義:
この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて天国の福楽を深く望む心を乞い願わん。』(フォルティン神父様)

私たちの主は、凱旋を以て天国に昇りました。地上での使命は全て果たされました。主は御父の御旨を全て果たされました。人類を贖い尽くしました。今、主は御父の元に帰ります。

主の凱旋のトロフィーはそれは、主の受けた手の傷です。手と足の釘の痕です。そして刺し貫ぬかれた胸の御傷です。そこから御血が流れたその胸です。この傷は御父と私たちへの愛の証拠です。しかし一人の霊魂には イエズス様はそれほどの多くの苦しみを受ける必要がありました。それは私たちの聖母の為の苦しみです。

主は天主御父の右に座し給うのです。御父に御自分の勝ち取った御傷を見せながら、この主が受けた手足の傷をトロフィーとして見せながら、そして多くの諸聖人の行列を以て天国に入場します。今まで固く閉ざされていた天の門は今、広く開いています。

私たち一人一人の為に、天の国に特別の場所を今準備して下さっています。特にマリア様の為には特別の場所を準備されました。私たちの主イエズス・キリストを通って来た全ての御恵みは、まずマリア様の御手を通って与えられます。私たちが受ける御恵みに、ちゃんと応える事ができる御恵みを乞い求めましょう。この御恵みは全て、イエズス様の至聖なる聖心からマリア様の手を通して、私たちに届きます。その御恵みを通して、私たちの天国への場所に確かに到達する事ができるように。



『栄えの玄義 第3玄義:
この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、聖霊の賜物を乞い願わん。』(小野田神父)

マリア様は聖寵に満たされた御方でした。すなわち聖霊の賜物を、聖霊の愛を、全て限りなく、限定なく全てを受けた唯一の霊魂でした。聖霊の与えようと下さる愛と、その莫大な御恵みを1つも拒否する事なく、全て主の御旨のままに、自分の事よりは主の御旨をいつも考えて、それを実践した方でした。

聖霊の御恵みを充満まで受ける事ができたのは、それはマリア様が、ご自分が無であり、主の婢女であり、そして自分は何でもないものである、という事をよく自覚していたからです。マリア様が謙遜であれば謙遜であるほど、その謙遜の深みに入れば入るほど、聖霊はますますマリア様を御恵みで満たされたのでした。

あたかもマリア様と聖霊は一心同体であるかのようです。あたかも聖霊がマリア様の体を使って動いているかのようでした。恵みに、聖寵に充ち満てる御方マリア様でした。

聖霊の御恵みは、まずマリア様を通して使徒たちに与えられます。そして教会を形造るようになりました。マリア様を通して私たちも、ますます私たちが無である事を、私たちが聖霊の御恵みを、天主の愛を、聖寵をますます受ける事ができるように、私たちの汚物をますます取る事ができるように、御取次ぎを乞い願いましょう。




『栄えの玄義 第4玄義:
この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、その御取次ぎによりて善き終わりを遂ぐる恵みを乞い願わん。』(フォルティン神父様)

一人の男によって罪がこの世に入りました。イエズス・キリストがこの地上にやって来られ、そして私たちの為に死を受け、それは私たちが永遠に生きる為でした。

死、そして腐敗、これは人類の罪の結果です。私たちの主が死去されたように、マリア様も亡くなります、たとえ原罪を持っておられなかったとしても。

マリア様は、特別の天主様の特権によってマリア様の霊魂は原罪の汚れから免れました。私たちの主は、マリア様のこの汚れなさを守ろうと望まれました。

そこでマリア様の御体は、腐敗を知るべきではありませんでした。マリア様のそのご謙遜をどのようにイエズス様が高めたか、という事を私たちは見る事ができます。それは、その御体が腐敗から免れるように、と配慮されたそれによります。

ここによって私たちが、謙遜というものがどれほど大切で、貞潔純潔という事がどれほど大切か、という事が分かります。マリア様に天主様がどれほどの御恵みをささげたかというのを見ると、この御体の腐敗を防がれた、という事を見ると、その価値が分かります。



『栄えの玄義 第5玄義:
この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いたるを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』(小野田神父)

マリア様はあまりにも非常にご謙遜な方であったので、イエズス様のすぐ右に座す、天のいと高き所に、最も高い所に上げられました。被造物の中で天使たちよりも、何億何千何万の天使たちよりも、全人類の全てよりも更にはるかに高い栄光の座に、イエズス・キリストのすぐ右に座しておられます。天と地の元后となられました。それはマリア様のご謙遜があまりにも深い、きわめて深いものだったからです。

マリア様は女王として君臨していますが、それは憐れみの女王して、憐れみの母として、私たちの為に憐れみを天主の憐れみを取り次ぐ者として、全能の憐れみとして元后に立てられました、母として立てられました。

マリア様の喜びは私たちに御恵みを与える事です。私たちに永遠の命を与える事です。その為にあまりにも多くを苦しんだ方です。マリア様はとてつもないお恵みをプレゼントを与えたい、与えたい、と思うのですけれども、私たちはそれをもらおうとしません。ものすごい奇跡のような贈り物さえも、多くの人々は冷たく、無関心で、悪口を言っては馬鹿にして、それを受け取ろうともしません。こんなに苦労して勝ち取った贖いの報いを、人々は足蹴にし、捨て去り、感謝もせず、ドアを閉ざし、マリア様の心はとても悲しく涙するばかりです。

世の人々に罪の赦しを与えようと思ってこれほど苦しんだのに、人々は罪を犯し続けています。世の人々に御恵みを与えようとしているのに、その御恵みは冷たく拒否されるのです。

マリア様は言います、「迫り来る困難から救う事ができるのは私だけです。」

マリア様に対する深い信頼と、愛と、その恵みを豊かに受くる事ができる謙遜を、マリア様に倣う謙遜の恵みを乞い求めましょう。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

長崎巡礼-霊的講話-2016年5月2日 シュテーリン神父様「長崎のルルドの聖母の御前にて」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月2日 長崎巡礼での長崎のルルドの聖母の御前でのシュテーリン神父様の講話をご紹介いたします。

【無原罪の聖母の騎士誌】
無原罪の聖母の騎士誌 第1号

無原罪の聖母の騎士誌 第2号

【ニュース】
アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




2016年5月2日 長崎巡礼 長崎のルルドの聖母の御前にて
シュテーリン神父様霊的講話
同時通訳:小野田圭志神父

この巡礼の第1部を終えようとする今この瞬間、私たちの心の中には深い理解と、確信がなければなりません。

まず理解の1つは、「どのように偉大な大聖人であったとしても、その最初は全く無に等しい、何でもない存在であった」という事です。どれほど偉大な大聖人となった方であっても、その最初は惨めな、もう役に立たない、どうでもいいような罪人であったという事です。

そこで今から、この巡礼の第1部を終えようとする今、マリア様の前で、「インマクラータに奉献する祈り」を唱えようとしますけれども、最初に私(某)に霊名を入れて名前を入れて、罪人である、役に立たない罪人、無に等しい罪人である、という事をまず認識して下さい。

第2の確信は、「マリア様は天地の元后でありながら、私の母となった」という事です。私のあまりにも惨めさ、或いは空しさにもかかわらず、マリア様は私たちを私を、その愛する子供として選んで下さったという事です。マリア様は、マリア様だけは、この何もない、もうろくでなしのような無に等しい罪人である私たちをして、大聖人にする事ができる、という確信です。、マリア様はこの事が必ずできるという事は、私たちの目で、耳で、この数日間見て聞いた事です。私たちはこの数日間、私たちの目で見て、黙想し、そのような事があったという事を知らなかった事を知りました。

ですから皆さん、目をカッと開いて下さい。信仰の目を開いて下さい。私たちの周りには何百万という日本の殉教者たちがいます。私たちの周りには何百万という無原罪の聖母の騎士たちがいます。私たちの周りには隠れキリシタンたちが、何世代もの間もう不可能な状況の中において信仰を保った方々がいます。その全ての殉教者、隠れキリシタン、聖母の騎士たちは皆、マリア様の方をご覧になっています。

そこで私たちもそれに合わせて跪き、声を合わせて、大きな声を出し、また涙を流し、歌を歌い、讃美をしつつ、「おお、インマクラータよ、天地の元后よ、」と祈りましょう。「罪人、私たちはそうであったその罪人の避難所よ、」と申し上げましょう。「私たちを愛して下さる、とても愛して下さる御母よ」と言いましょう。

これが私たちの第3の確信で、「私たちを愛して下さる母親が、天に在す」という事です。日に夜に、私たちを許そう、許したいと思って下さる母です。私たちが罪の暗闇と誤りの中に留まっている時に、「早く光の中に引き寄せたい」と思って下さる母です。私たちの人生のどの瞬間においても、私たちが天主様の最も近い所に行く事ができるように、お恵みを与えようとして下さる母です。

私たちはもう一度マリア様の方に、目を閉じマリア様の方を向くと、マリア様は私たちにどうやってお祈りをするかを教えて下さいます。マリア様は私たちの方に優しく手をのべて、「さあ、あなたの手を私に下さい。あなたの持っているものを私に下さい。あなたの全てを私に捧げなさい」と。私たちがもしも「霊魂を救おう」或いは「聖人になろう」と思うならば、これが唯一のチャンスです。これが、この有名な奉献の祈りの本質であり中核です。つまり「お母さま、私はいつも御身の子としていつも留まり、いつも御身の手に私の手をいつも捧げていたい。いつも御身の元を離れたくない」という祈りです。「御身なしに1日を始めたくありません。御身なしにどのような事業も、どのような仕事もしたいとは思いません。御身がお望みになる事を私も望みます。」

ここで、この場所で、マリア様は私たちに答えを下さいます、「私はあなたを幸せにすると約束します。でもこの世ではなくて来世に。」この同じ言葉を、聖ベルナデッタにマリア様はルルドで仰りました。マリア様は皆さんに幸せを約束して下さいます。でもこの地上での短い、馬鹿馬鹿しい儚い人生においてでは期待しないで下さい。マリア様は言葉を続けてこうお願いします、「どうぞ私を助けて下さい。私は皆さんをここに連れてきました。それはあなたが、たくさんの多くのお恵みを頂く為です。私を助けて他の多くの人もここに連れて来て下さい。多くの人が救われ、霊魂を救う事ができるように助けて下さい。私はたくさんの事を要求しません。『良い事を行いたい』という心と、『あなたの周りにいる人々を私に連れて来たい』という事で良いのです。」

もしもマリア様が皆さんをそれほどにまでお愛しになって下さるのであれば、マリア様の事も少しお愛し下さい。どうぞマリア様の言う事、願いに、「はい、お母様。はい、それを私も望みます」と答えて下さい。「私をして、あなたの憐れみ深い御手における道具として使って下さい」と仰って下さい。「御身の為に奉仕し、多くの人が御身を知り、愛する事ができるように。そうする事によって御身の子、イエズス・キリストの王国がこの地上において広がりますように。」

では、今からこの奉献の祈りを4回繰り返します。今から4回繰り返しますが、その4回毎、その唱えている司祭に合わせて霊的にこれを奉献して下さい。小野田神父が日本語で言います。シュテーリン神父様は同じ言葉をポーランド語で言います。フォルティン神父様が英語で言います。それから3人の司祭がラテン語でも言います。


【インマクラータ(無原罪聖母)への奉献の祈り】
聖マキシミリアノ・マリア・コルベ(1917年10月16日)

ああ、インマクラータ(無原罪聖母)よ、天と地の元后、罪人の拠り所、我らの愛深き母よ、天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望み給えり。
不肖なる罪人、我(名前)は、御足のもとにひれ伏し、御身にひれ伏してこいねがい奉る。
我がすべてを全く、御身のもの、御身の所有物として受け入れ給え。また、我とともに、我が霊と肉の全ての能力、我が全生涯、死、永遠を、御身の最も望み給うように成し給え。
御身について「かの女は、おまえの頭を踏みくだくべし」また「御身は、ひとりで全世界の異端をことごとく滅ぼし給えり」と申されし事を成就すべく、もしも御心にかなうならば、我と我が持てるもの全てを残り無く使い給え。
我をして、御身の汚れ無き且つ憐れみ深い御手のうちに、ふさわしい道具としてなし給え。そは、かくも多くの道を迷った無関心の霊魂たちに、御身のみ栄えを知らせ、最高度にいや増し、かくしてイエズスの至聖なる聖心の至福の御国を、能う限り拡張するためなり。
御身が介入し給うところはどこであれ、御身は回心と成聖の聖寵を与え給う。全ての聖寵は、御身の御手を通してのみ、イエズスの至聖なる聖心から、我らに来たり給うなればなり。

R.聖なる童貞女よ、我をして御身を讃えしめ給え。
V.御身の敵に立ち向かう力を我に与え給え。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、11月2日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。
毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

願わくは死せる信者の霊魂、天主の御憐れみによりて、安らかに憩わんことを!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。

交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

長崎巡礼-お説教-2016年5月3日 「この剣はマリア様の御心をグサリと貫いた。マリア様はその時、千回死ぬかと思うほどの苦しみを感じた。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月3日 長崎巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサでのシュテーリン神父様の御説教をご紹介いたします。

【無原罪の聖母の騎士誌】
無原罪の聖母の騎士誌 第1号

無原罪の聖母の騎士誌 第2号

【ニュース】
 アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月3日 長崎巡礼 聖マリアの七つの御悲しみの随意ミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

私たちはこの地にやって来て、多くの聖人たちのものすごい素晴らしい行為を見ました。その全ては、1つの源から源泉から、お恵みの源としてやって来て、その源とはイエズス様の、イエズス・キリストの聖心であって、その全ての聖心からのお恵みは、マリア様の汚れ無き御心に与えられました。

今回私たちは、日々ものすごい偉大な業を見ました。「全ての良い事、全ての英雄的な事、全ての偉大な事は、全てマリア様の御心から流れて来ている」という事も見ました。今日マリア様は私たちに、この事を黙想するようにと招いて下さいます。

では一体、その多くの恵みを湛えるこのマリア様の汚れ無き御心ですけれども、一体どうやって私たちの為に母となり、霊的母となり、全ての聖寵の仲介者となったのでしょうか?どうやって?

実は、命の源、真理の源、存在の源、全ての良い事の源は、天主様です。天主様だけです。マリア様は私たちにこの事をよく強調しています。「天主様の御前では私たちは、全く、もちろんマリア様を含めて、全く無に等しい何でもないものである」という事です。私たちには2人の仲介者があるわけではなく、2人の救世主があるのではありません。1人しかいません。これはドグマの、信仰のドグマであって、私たちの救い主はイエズス・キリストただ御一人であり、人となった天主の御子、私たちの為に十字架に付けられて苦しまれた、この1人しかいらっしゃいません。

しかしこの私たちの主イエズス・キリストが、私たちの救いの為に、「1人の方と共に、救霊の大事業を果たそう」と望まれました。これがその御旨でした。イエズス様は二重のやり方で、共にこの事業を果たす事を望みました。

まず第1に、イエズス様はマリア様が御自分の母である事を望みました。イエズス様はご自分の聖なる浄配である教会、公教会を作った時に、マリア様が同時に私たちの母である事をも望みました。そこで十字架の上で贖いの業を達成したその瞬間、公式にマリア様を任命します、人類の母となるように、「見よ、御身の母ここにあり」と。

イエズス様が十字架の上で亡くなって、苦しまれて、苦しまれて、苦しまれて、勝ち取った全ての功徳は、マリア様に与えられました。このイエズス様の望みは、意思は、その意向は、「自分の全て勝ち取った全ての恵みが、マリア様を通してのみ私たちに与えられる事、全ての母の最高の母、全ての女性の内の最高の女性の手を通して、私たちに与えられる事」を望んだのです。

私たちの為に、十字架の上で贖いの功徳を積まれた、という事の意味を理解しなければなりません。

イエズス様は、この世の全ての人々の聖化、その浄め、その回心の為に必要な、もうありとあらゆる御恵みを十字架の上で勝ち取りました。一人一人の為に勝ち取りました。それは回心の御恵みです。この回心の恵みが、日本の長崎において信じられないようなやり方で実りをもたらした事を見ました。何百万の人々が信仰を勝ち取る事ができるように、回心の御恵みをしましたが、それはこの十字架の贖いの功徳であって、マリア様を通して与えられました。永井博士の回心の御恵みもやはり、イエズス様の十字架からマリア様を通して到達しました。

単に、闇から光に、地獄から天国に、誤りから真理に、という回心の御恵みだけではありません。それだけではなく、天主様の「恵みの充満」にまでの恵みもあります。それが「聖化」のお恵みです。従って公教会は、十字架を、生ける木の樹木と比較します。この樹木の実りが、果実が、十字架に付けられたイエズス・キリスト様なのです。この十字架に付けられたイエズス様は、1人の女性にこの十字架の木の実りを全て集めて、「人々に配りなさい」と命令したのです。この事をして、マリア様を「全ての聖寵の仲介者」と呼びます。

でもイエズス様はもっと御望みになりました。イエズス様は自分の成し遂げようとした贖いの業に、もっと口で表現し尽くす事のできないような素晴らしいようなやり方で、信じられないようなこう崇高なやり方で、非常に高い、特異なやり方で、マリア様が自分の贖いの業に参与するように御望みになりました。イエズス様が無限の実りを、功徳を積んで、その全ての功徳をマリア様に譲って、マリア様はその功徳を皆に分配する、マリア様だけがそれを分配する事ができるという事だけでも偉大な事です。

しかしもしもそうだとしたら、マリア様は確かに分配者ではありますけれども、その分配の中身に対しては、何ら「自分のもの」と言う事ができない、「自分とは関係ないもの」と留まってしまったかもしれません。

しかし、イエズス様の御苦難をその目の前で直接に見たマリア様の御悲しみは、どれほど大きなものだった事でしょうか。何故かというと、マリア様の全生涯はイエズス様だったからです。マリア様はイエズス様をご自身よりも更に愛しておられました。もしも愛する、愛の深い母親がいたとして、その自分の愛する子供が苦しむのを見たら、その母はその子供が苦しむよりも更にもっと苦しむ事でしょう。もちろんその母の苦しみはその子供よりも更に大きいのです。

イエズス様は、マリア様が全ての被造物の中で最高の被造物である、という事をよく知り、誰よりもイエズス様を愛している、という事を知っています。イエズス様の全てのフィーリングは感情は、マリア様も同じく感じていました。イエズス様の望みはマリア様の望みでした。イエズス様の苦しみもマリア様の苦しみでした。これも信仰の真理です。

これについては、聖アウグスチヌスがきれいに表現しています、「イエズス様が御肉体において苦しんだ全てのものを、マリア様は御心に於いて、心に於いて霊的に苦しんだ。」

イエズス様の苦しみのシンボルは、イエズス様から滴り落ちる「御血」です。マリア様の御心に於ける、心に於ける苦しみのシンボルは「涙」です。

マリア様の御涙は、ご自分が私たちの救いの為にどれほど、どういう役割を示して、果たしているのかという事を明らかに示しています。

一方で、イエズス・キリストの贖いの御業、能動的な業があります。御体はただれ、朱の血に染み、御頭は冠をかぶせられ、釘を付けられ、贖いの業を達成されます。遂には、御心は貫かされ、それは開いて、そこから御血が流れ出ます。

この「受難」に対応して、マリア様の「共同受難」があるのです。マリア様の共同受難というのは、「イエズス様と一緒に、共に苦しんで、同じ感情を、同情をした」という事です。共同受難という事は、「2つの御心を1つに一致させた」という事です。イエズス様の聖心が槍で貫かされた時に、聖ベルナルドはこう言っています、「イエズス様は何も感じなかった。何故かというと、イエズス様はもう息絶えていたからだ。しかしこの剣は、マリア様の御心をグサリと貫いた」と言います。「マリア様はその時、千回死ぬかと思うほどの苦しみを感じた」と。

今日秋田に参りますが、私たちが秋田で黙想しなければならない事はこの事です。私たちはマリア様が涙を流しておられるのを見るでしょう。101回、木像のマリア様が涙を流されたという事は奇跡です。でもマリア様が本当に、現実に涙を流されたのは、カルワリオで十字架のふもとで御子が亡くなるのを見たときの涙です。ところで、このマリア様の涙についての素晴らしい黙想は、この七つの御悲しみのミサの続誦「Stabat mater」にあります。

イエズス様は御復活して、昇天されて、天国に行かれて、幸福にいらっしゃるにもかかわらず、それにもかかわらず、その以後全人類の歴史を見ると、マリア様の御像、或いは御影、或いはマリア様が御現れになった例えばラサレットのように、涙を流されている、という事が起こっています。これがカトリックの深い神秘であって玄義であります。これは、このマリア様の御涙は、近代主義に対するその強烈な鉄槌です。

近代主義の人々が何と言うか知っていますか?「イエズス様は昔々に亡くなったけれども、復活された。だから復活されたので、復活の神秘で、過越の神秘で、もう何もする必要は無いのだ。だから過越の神秘に従って、新しくミサを作らなければならないので、新しいミサはすでに天国の喜びを分かち合う、楽しいおもしろおかしいものでなければならない」と。

しかしこの考えはプロテスタントの考えで、キリスト教的ではありません。これが新しいミサです。

私たちの主は、ミサ聖祭を行う祭壇の上で、毎日、毎日、その御受難を神秘的に繰り返して、ミサで、現実に、いけにえが捧げられているのです。カルワリオで流された同じ御血が、このカリスの中に入り、私たちの前に入っているのです。それと同じようにマリア様も、この世の終わりまで御涙を流されているのです。

近代主義者はこう言います、「あぁ、マリア様というのは私たちのお姉さんで、私たちがこの地上の旅を続ける為の同僚者だ、一緒に旅をする人だ。」

でも本当は、マリア様というのは、イエズス・キリスト様と共に、共同に贖いを果たした共贖者であって、イエズス・キリスト様の贖いの業の共であるのです。

もう一度、この殉教者の御血、流した血を讃美しましょう。極めて難しい状況に置かれながらも、250年の間、何代にも何代にも渡って信仰を守ってきたキリスト信者の素晴らしい業を見ましょう。永井博士の素晴らしい生涯とその死を黙想致しましょう。もう一度マキシミリアノ・コルベ神父さまの素晴らしい生涯と死を黙想致しましょう。

これは御血と御涙の結晶であり、その実りです。イエズス・キリストが付けられた十字架の御下に、マリア様が立ち留まっておられる、という事です。マリア様はこの御体から流れる滴る御血を身に受けて、胸から流れ出る御血の滴りを受けました。その血と、マリア様の御涙は1つに混ざり合って、地上に降りたのです。

ではこの長崎の多くの聖人たちは、一体どこからその力を得たのでしょうか?なぜ彼らは残酷な拷問を耐え忍ぶ事ができたのでしょうか?どこからその力を得て、彼らはその自分の敵を許し尽くす事ができたのでしょうか?一体どこから、彼らの心に平和と、顔には微笑みをいつもたたえる事ができる力を得たのでしょうか?

それは、イエズス様の御血とマリア様の涙が混ざったそのところからです。

ではこの事が分かれば、なぜ御血と御涙のところに行かなければならないか、という事がよく理解できます。この事が分かると、聖ヨハネ・ボスコのビジョンの、夢のビジョンが分かります、「教会は二つの柱によって守られて固められている。1つは御聖体の柱であって、もう1つはマリア様の心であった」と。

そうすると、聖グリニョン・ド・モンフォールが、「終末の時代の使徒たちは、『イエズスとマリアの使徒』と言われる」というその理由が分かります。聖グリニョン・ド・モンフォールはその終末の使徒を描写して、「右の手には十字架、左の手にはロザリオ」と言っています。

もしも私たちが回心のお恵みを頂きたいのならば、もしも私たちが聖化の、聖となるお恵みを頂きたいのならば、同じ、彼らと同じ恵みの泉に行かなければなりません、源泉に行かなければなりません。

ですから私たちは皆さん、秋田に行きましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

聖なるロザリオの黙想【栄えの玄義】-2016年5月7日秋田巡礼にて シュテーリン神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年5月7日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様の提案するロザリオの黙想をご紹介いたします。

【無原罪の聖母の騎士誌】
無原罪の聖母の騎士誌 第1号

無原罪の聖母の騎士誌 第2号

【ニュース】
 アジア管区のニュースレター「アポストル」第44号ができました。ここです。どうぞご覧下さい。Apostle No 44

【2017年ファチマ・ローマ巡礼】
「ファティマとローマへの聖ピオ十世会国際巡礼 2017」についてのご案内は、こちらをご覧下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



栄えの玄義黙想(2016年5月7日 秋田巡礼にて シュテーリン神父様)
同時通訳:小野田圭志神父


『栄えの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、主の復活し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて信仰の徳を乞い願わん。』

御受難の後に復活されたイエズス・キリストを受けたのは、まず最初にマリア様でした。イエズス・キリストが御体で受けた御受難を全て、マリア様は心で受けました。十字架のもとで、人類の受けるべき全ての苦しみをマリア様は、イエズス様と共に受けたからです。十字架のふもとでマリア様だけが、イエズス・キリスト様に最後まで忠実でした。マリア様だけがイエズス様のもとに霊的に一致していました。他の者が皆イエズス・キリストを疑い、信仰を失った時でさえも、マリア様だけはイエズス様に対する信仰を守りました。マリア様は疑った時が1つもありませんでした。マリア様はイエズス様が真の天主である、救い主である、という事をはっきりと確信していました。

イエズス・キリストが死者の内から復活するこの夜が来ました。御体はもはや傷だらけとなり、聖心は槍にて貫かされていた時、今突然イエズス様は復活して喜びに満ち、命に満ち、復活されます。傷はただ傷跡としてのみ残ります。この傷痕はもはや傷ではなく、光の源となります。

「私は復活であり、命である。」イエズス・キリストに於いて全ては、命を与える命です。この偉大な栄光において、イエズス様はマリア様に現れます。私たちは深い深い尊敬の念と、深い敬畏を以ってイエズス様とマリア様のこの出会いを目撃致します。イエズス様はマリア様のその忠実に、その信仰に報いを与え、そしてマリア様に喜びを与えます。

マリア様になさったのと同じように私たちにもイエズス様は、もしも私たちがイエズス様に忠実であるならば、最後まで忠実であるならば、報いを下さるでしょう。

この巡礼は、私たちの信仰を深めるという目的があります。私たちの主イエズス・キリストは救い主であり、天主であり、マリア様は私たちの母である、という事を確信する目的があります。

「あぁイエズスよ、マリア様、秋田の聖母よ、私の貧しい信仰を強めて下さい。」



『栄えの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主の昇天し給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて天国の福楽を深く望む心を乞い願わん。』

マリア様は私たちに天主の憐れみを下さります。特に、私たちにとって最も大切な臨終の時に。秋田のマリア様、そしてマリア様の御涙も同じメッセージを私たちに告げています。最も大切なのは、地獄の門が閉ざされ、天国の門が大きく開かれるという事です。イエズス様が天に上がった時に、「天に私たちの場所を準備しに行く」と約束されました。つまり私たち一人ひとりそれぞれの為に、終わりない命の喜びを準備しに行かれたという事です。

しかし私たちがその場所に到達する為には、どうしてもマリア様が必要です。ですからマリア様は、天主様の御恵みを全て携えて私たちの元にやって来ます。そして私たちが地獄の大きな道を駆け下っているのを見つけて、この場所にやって来ます。私たちがもしもこの世の喜びに身を委ねてしまっているならば、間違っている道に走っています。だからマリア様は涙を流しておられます。ですからマリア様は「償いをするように」と呼びかけています。ですからマリア様は、どれほど罪が天主を犯しているのかという事を思い出させ、ですからどれほど恐ろしい罰が待っているかという事を思い出させます。

しかしマリア様の御言葉を聞く子供を見つけると、御母としてマリア様はどれほどお喜びでしょうか。マリア様に従順である子供を見つけると、どれほど喜ばれる事でしょうか。もしもこの子供がマリア様にその小さな手を差し出すのなら、どれほど喜ばれるでしょうか。もしも私たちが手を少しでも差し伸べれば、マリア様はその手をとって天国まで必ず連れて行って下さいます。マリア様は罪と地獄に対する恐れを与えてくれます。と同時に、天国に対する大きな望みを与えてくれます。この御恵みを今乞い求めましょう。



『栄えの玄義 第3玄義:この一連を捧げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて聖霊の賜物を乞い願わん。』

私たちの主イエズス・キリストは、聖霊の事を「慰め主」と言いました。「慰める」という事は、誰か苦しみ、或いは悲しみ、或いは困難な状況にいる人を「助ける」という事です。孤独、或いは寂しい人を慰めます。

私たちの担いでいる十字架がますます重く感じられる時に、私たちは慰めが必要です。聖霊が来たり給うという時に、イエズス様は非常に深い言葉を使われました、「私はお前たちに慰め主を送ろう。慰め主が来ると彼は、お前たちに全ての真理を教えて下さるだろう。」つまり慰める人は、「真理を教える」という事です。

全ての真理とは何でしょうか?

つまり、「唯一の本当の真の天主と、その憐れみを教える」事です。言葉でえも言うこともできない、その無限の天主の愛の事です。

また全ての真理とは、「私たちが無であり、何でもなく、そして罪深い、全く何でも価値の無いものである」という事実です。

全ての真理とは、「この無限の善である天主が、無である私たちの罪人の元にやって来て、この泥の中からそれを救い出し、永遠の幸せに運び出す。」これが真理です。

全ての真理というのは、「この地上での生活はあっという間に終わってしまう、瞬く間に終わってしまう一瞬のものであって、その永遠の為の準備の期間であって、後には永遠の喜びが待っている」という事です。

マリア様が御出現になった所はどこでも、また特に秋田のマリア様では、私たちは慰めを頂く為にやって来ました。私たちはマリア様の元に、私たちの持っている悲しみ、苦しみ、不安、心配を全て持ってきました。私たちの病気、病、十字架を持ってきました。この家族の問題、国の問題をマリア様の元に持ってきました。

私たちがもしもマリア様を信じるならば、マリア様は私たちに心に慰めを下さいます。何故ならば、聖霊はその浄配であるマリア様に、慰める力を与えたからです。

「あぁマリア様、ですから私たちは御元にやって来ました。御身の開いた両手は私たちをいつも招いておられます。」

「あぁ私の苦しむ子供たちよ、私の御心にいらっしゃい。私の心に抱きしめてあげましょう。そしてあなたを慰め、力付けてあげましょう。」



『栄えの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、その御取次ぎによりて善き終わりを遂ぐる恵みを乞い願わん。』

今朝黙想したように、マリア様がこの地上を離れ、天主の元に発ち行かれるその時がやって来ました。マリア様のこの地上での生涯の最後の瞬間は、最も偉大な愛の瞬間であり、最も深い謙遜の瞬間でした。何故ならば、マリア様はご生涯の間常にご謙遜だったからです。マリア様がこの地上を離れ、この霊魂が天へと上げられる時に、そのマリア様の心には自分の事は一切なく、ただ単に天主の事だけで、その愛で燃え上がっていました。このマリア様の燃える愛の火はあまりにも大きく、肉体はその霊魂を肉体の内に留めておく事はできないほどでした。そこでマリア様はこの地上を離れ、天国に上ります。

マリア様はファチマで、またルルドで、秋田で、何を私たちに教えて下さるでしょうか?

マリア様は1つの事を教えてくれます。「私たちの人生の毎日毎日、1つの事だけをしなければならない」と。それは、「私たちが愛において成長する事ができるように、マリア様がそうする事ができるように許す」という事です。

私たちの体は常に年を取りつつ、そして死に近づきます。この地上で私たちが関心を持っている、こう私たちの心を惹くようなものは全て失われます。私たちの美もなくなります。健康もなくなります。力もなくなります。私たちの影響力もなくなります。死に近づく時に私たちは全てを失います。しかしこれら全て、成長する為の手段です。

「私たちの健康が、肉体の健康がなくなったとしても、マリア様、私はこの苦しみを御身に捧げます。」「私の美しさがなくなります。でも関係ありません。御身こそが私の美しさです。」「死がもうすぐやって来ます。しかし構いません。何故ならば、死は永遠の命の始まりですから。」

「御母マリア様、天地の元后よ、私が愛に於いて成長する事ができるように助けて下さい、それを許して下さい。毎日少しでも少しずつ多く、天主を愛する事ができるようにさせて下さい。」

天主を愛するとは、天主の聖心に適う、天主を喜ばせるという事です。天主を幸せにする事です。そして悲しませない事です。或いはより少なく悲しませる事です。

「御母マリア様、私が隣人愛において成長するのを助けて下さい。私たちの隣人の永遠の救霊、永遠の幸せの事に心を砕く事ができますように、心配する事ができますように。汚れなき御手における良き、ますます良い道具とさせて下さい。御身が私を使って、回心と聖化の御恵みを霊魂たちに伝える事ができますように。そうすると私も、『死』に良い平穏な心で顔を向ける事ができます。」聖なる死をお祈り致しましょう。



『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』

この天と地の元后としての戴冠式は、一度だけ起こった事ではありません。これは天国に於けるマリア様の永遠の凱旋です。これは何を意味しているでしょうか?

私たちがこの地上である事は全て、マリア様は天国で完全に持っておられるという事です。そして私たちのその天国に発つその瞬間を待っているという事です。マリア様は私たちが永遠の喜びに達するのを待っておられます。

マリア様は私たちの母であり、私たちはマリア様の子供です。でもまだ良い子供ではありません。忠実な子供でもありません。私たちはよく頻繁に悪い子供でもあります。天国に行けばマリア様は本当に私たちの良き母となって、私は本当に良い子供となります。永遠において、マリア様がお持ちのものは全て私に下さる事ができるようになります。最高の母であるマリア様から、天主様の全ての宝を、私は全て天国で受ける事ができるようになります。

マリア様は今、私たちの母であり元后です。私はマリア様の騎士であり兵士であります。何と弱々しい兵士でしょうか。よくこの戦いから逃げてしまっています。本当に怠慢で、マリア様の命令を実行するのにあまりにも不熱心です。でも天国に行けばマリア様は、本当に完全に私の女王様となります。そして私はマリア様の大勝利に参与します。永久に私たちの敵は破壊尽くされ、敗北を期します。悪魔はもういません。もう罪はあり得ません。暗闇も落胆も何もありません。問題も涙も悲しみもありません。愛の王国が永久に始まります。

マリア様はこの事をとても望んでおられるので、もう天国でただ単に待っているだけではできませんでした。マリア様は奇蹟を以って、「私はあなた達と一緒にいますよ」と教えてくれます。

マリア様は言います、「あぁこの場所に於いては、少なくともここに於いては、私があなたの母であるという事を許して下さい。もっと母であるという事を許して下さい。ここに於いてあなたを、あなたの女王としてあなたを導くのを許して下さい。そしてここではあなたは我が子よ、我が兵士よ、我が騎士よ、我が臣下よ、私にもう少し忠実であって下さい。」



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

秋田巡礼-霊的講話【5】-2016年5月5日シュテーリン神父様「“天主の憐れみ”と“謙遜”」

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2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5
「“天主の憐れみ”と“謙遜”」
同時通訳:小野田圭志神父

私たちは天主の属性の最も偉大なもの、つまり「天主の憐れみ」という事について理解を深めようとしました。

天主の、全ての所有者が無に施したという、その2つの状況が1つになったということを覚えて下さい。

Abyssus abyssum invocat.(詩篇41:8)深淵が深淵を呼ぶ。“Abyssus「深淵なる無限の天主」”が“Abyssus「深淵なる無」”と結びついた、という事をいつも覚えて下さい。無限の善と豊かさと美しさと、無限の無が1つになった、という事をいつも覚えて下さい。

第1の憐れみは、その天主の心から無を生み出した、無から有を生み出した、創造したという事です。創造した後には私たちを在り続けさせて、存在し続けさせて、それを保存し続けて、それが御摂理です。無に等しいような私たちをとってこれを私たちをして、天主の息子、天主の娘、聖なる子供たちとして下さった事です。何も持っていない奴隷が、天主の子供となって全てを持つ事ができるようになった。

天主の永遠の命がどうやって私たちに下さる事になったのでしょうか?どうやって?

天主様はただ配達の人を送ったのではなくて、御自身から、自ら、私たちのもとにやって来られました。色んな来方がありました。しかしその色んなやり方、来るやり方に於いて、どんなやり方で来られたでしょうか?色んなやり方がある中で、一番御自分の「憐れみ」というものをよく示す事ができるやり方で来られました。

無限の天主、誰も踏み込む事のできない天主が、ほんの小さな胎児になられました。無限の計り知れない天主が、ほぼもう目に見えない小さなものとなられた、という事を考えて下さい。天主が人となって人間の心を持ちました。この人間の至聖なる聖心に於いて、憐れみがますます光り輝きます。

何故かというと、「心がどれほど良いか、良い心を持っているか」という事は、「どれほど憐れみ深いか、どれほど愛するか」という事で計られるからです。母の、良き母の心というのは、自分の子供たちに与え、子供たちを愛するという事です。これが御自分の聖心を皆さんに見せようとした時に、理解させようとした事です。

聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう言います、「見よ、人類をこれほどまでに愛したこの聖心を見よ。」

明日は初金曜日ですから、イエズス様の聖心の連祷を唱えます。その時に、『全ての宝を秘めたるイエズスの聖心』という言葉があります。全ての宝、天と地の全ての宝と全ての徳に満ちた聖心です。

この天主の聖心は一体誰の為に鼓動を打っているのでしょうか?

このほぼ無に等しい存在の為に、鼓動を打っています。

しかし非常に恐ろしい事が起りました。皆さんの存在、天主が創られたすばらしい美しい宮殿、この宮殿は原罪によって罪によって廃墟となり、汚く汚されてしまいました。天主様が無限のものすごい贈り物をプレゼントを持ってやって来て、そのプレゼントを与えようとしてこの宮殿の前に来るのですけれども、ノックしてもドアは開かれないし、その神殿はすでに汚く汚されて、破壊されてしまっているのです。

もしも天主様が贈り物を与えようとして来て、せっかく来たのに宮殿に来てみたら、この自分の作った宮殿はもう汚く汚されて、壊れてもう入る事もできなくなっている酷い状況です。天主様は何をするべきでしょうか?

「無からあなたを創った時に、憐れみをもう既に見せたのではないでしょうか?この美しい宮殿を建てたのは一体誰ですか?私ですよ。美しい花と美しい装飾品であなたを飾って、この美しい美徳で飾ったのは才能で飾ったのは私ですよ。でも私があげたあなたに与えた全てのものを、ただ壊して、破壊して、濫用していただけなのです。私の愛をただ馬鹿にして笑って、毎日毎日馬鹿にするだけでした。私の心をもう与える事ができません。もしも最初に忠実である事ができないなら、2回目はもうチャンスがありません。この美しい宮殿はすでに屈辱されました。もう私の目に入らないで下さい。」

天主様はこうは言いませんでした。

天主様はこの悪に、この闇に向かい合います。天主様が自分の永遠の命をこの無に等しい被造物に与える為に、悲劇は起こります。天主様はこの世を贖う為に血を流す、流血の悲劇のドラマを今から行います。

憐れみに満ちた天主の御旨においては決心が立てられています、「悪魔はこの宮殿を破壊した。しかし私はそれを回復させよう、建て直そう。」

この世の中に天主が人となって来られた時に、イエズス様の聖心は鼓動を打ち始めます。天主様はこの破壊された宮殿の中に入ります。この閉ざされた門を強くたたいて、このドアが開けられるように求めています。私たちの冷たい石のような心にドンドンとノックします。

しかし、その開かれた冷たい門から、汚らしい水がドクドクと流れて来ます。私たちの心の奥からは、汚物が激流のようにドロドロドロと流れて来て、イエズス様のきれいな聖心を押し潰します。イエズス様はその汚い罪の杯を飲み干し、そしてその罪の結果を全てこの肩に背負います。

例えば人間の心をきれいな心をとって、それを千回、一万回、何十万回もそれを押し潰してしまったと考えてみて下さい。私たちがイエズス様にやったことはそれです。

イエズス様の聖心の憐れみは何をしているでしょうか?私たちの全ての汚物、汚らしいものを自分のものとして取って下ってくださいます。恐ろしい御受難によって、私たちの汚く壊れた霊魂を、また美しく建て直しました。

イエズス様は私たちの負債を全て支払いました。私が当然受けなければならない罰をイエズス様が全て受けられました。イエズス様は自分の可能な限り私たちを愛し尽くしました。

天主様の憐れみは終わりがありません。たとえ罪であっても、それは天主の憐れみの障害ではありません。その罪を打ち砕いても憐れみを与えます。

イエズス様の憐れみは、その完璧な従順によって、私たちの不従順と反抗を癒します。私たちの貞潔に背く罪も、イエズス様の体と頭とこの肉体が全て破壊し尽くされる事によって癒します。私たちの死も、御自分が最もひどい最悪の死を受ける事によって癒します。

ここに天主様の憐れみの全ての段階が、全てのリストがあります。

皆さん、私たちは今憐れみの聖年の中にいます。この憐れみの聖年を宣言された当局からは残念ながら、この「本当の天主の憐れみ、憐れみとは何か」というこの今私が申し上げた事についての一言の言及もありませんでした。天主様イエズス様がこの世の全ての悪、汚れ、汚物を自分に受け取った後には、1つ望んでいる事は、御自分の憐れみを全ての人に、「どのような罪人であれ、どのような極悪人であれ、全ての人々に自分の憐れみを示したい」という事です。

では私たちの救いの救霊の一番の障害は何でしょうか?

私たちの罪ではありません。私たちの弱さでもありません。私たちの性格でもありません。怒りっぽい事でもありません。問題は、「私たちが天主の憐れみを望まない事」です。

私たちはこう言わなければなりません、「私たちは誰も、天主の憐れみを十分に受け取ろうとしていない」と。

私たちが想像を超えたよりもはるかにもっと、もっと、もっと、もっと、イエズス様は憐れみを与えたいと願っています。

イエズス様がもっと下さろうとしている時、良きキリスト信者とはどのようにあるべきでしょうか?

良きキリスト信者というのはこうです、こうあるべきです。イエズス様に許可を与えて、「はい、憐れみを下さい」と憐れみを受け取ることです。

もしも皆さんが1億円私に下さるとしたら、もちろん私は、皆さんが私に1億円を下さる事を許可します。

しかしその反対に、もしも私が皆さんにこう言ったとしましょう。
「お金をくれる前に、私の足に接吻して下さい。私の服も洗ってください。2時間くらい待ってくれませんか。もっと別のことが、他にやる事があるからです。そのあとで、1億円もらってあげましょう」と。もしもそんなことを言ったら、皆さんは怒って、それならあげません、もういい!とおっしゃることでしょう。

実はこれが私たちのやっている事です。私たちがいつもやっている事はイエズス様の聖心に、「私の罪を赦しても良いですよ。私の汚物を取っても良いですよ。」
これはオーバーではありません。

時にはこうも言います、「でもイエズス様、でも全部汚物は取らないで下さい。ちょっとだけ残しておいて下さい。私は汚物が好きなんです。」「1億円も私に与えないで下さい、1億円もいりません。ただ千円だけ下さい、千円。」

私たちはイエズス様の贈り物をいつも制限しているのです。だから天主様は涙を流しています、悲しいのです。

聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は仰って、「見よ、人類をこれほどまでに愛する聖心を。しかしこの返答として私の受けるのは、冷淡と、無関心と、冒瀆だけだ」と。

ではすると、一体誰に、一体どこに、イエズス様が全てを与え尽くす事ができるかという事が分かりますね?

遂にイエズス様が、御自分の与えようとした御恵みの全てを完璧に与える事ができる、この心にだけはイエズス様は全てを100%与える事ができるのです。何故かというとこの心は、イエズス様の贈り物を100%受けるように開いているからです。

それがマリア様です。だからですからマリア様は聖母は、天主様の最高の御恵みを全て受けた方です。これが聖母の無原罪の御宿りの正しい理解のやり方です。何故かというとマリア様は、無原罪の、原罪の汚れなき宿った方ですから、全て受ける事ができたからです。

聖トマス・アクィナスはこの点が理解できませんでした。2つの意見を提示して、マリア様が原罪を持って懐胎されたという意見に傾いているように思われます。何故かというとその理由は、「全ての人間は贖わなければならないから。そしてマリア様さえも贖われていなければならないから」という事です。もしも、「イエズス・キリストの贖いの業を必要としない」と言う人間がいたとしたら、それは異端者です。「原罪を除去する為にイエズス・キリストの贖いが必ず必要だ」という、キリスト以外の方法を、聖トマス・アクィナスは見出す事ができませんでした。

聖トマス・アクィナスはこの点に於いて正しいのです。つまり、「マリア様も、原罪を赦される為に、イエズス・キリストの贖いの御業を必要としていた」という事です。しかしマリア様の贖いは、更にもっと崇高なやり方で行われました。マリア様は天主様から与えられた特別のやり方によって贖われたからです。

ドグマの定義の文によればこうあります、「将来の人類の贖いの御業を見て通して、人類の贖い主は、マリアはその体内に宿るその創造を受けたその瞬間に、贖いの実りをすでに適用を受けて、天主はマリアの霊魂が原罪の汚れによって汚されるのを許さなかった。何故ならば、イエズス・キリストは後に彼女の為に、十字架の上で亡くなるから。」永遠の天主は、たとえ時に於いてイエズス・キリストがまだ死んでいなくても、そしてその実りが、その結果の功徳がなされていなかったとしても、そのそれを既に永遠のうちに見て、その結果をマリア様に適用させたからです。

ではマリア様が無原罪の御宿りであり、原罪の汚れから逃れたという事は一体何故でしょうか?マリア様の美徳だったでしょうか?

いいえ。ただ単に、天主の憐れみでした。マリア様がそれほどまでいと清く、そして無原罪であったとしても、汚れのない方であったとしても、それは天主の憐れみの最大の表れの結果です。

例えばこれはイメージですけれども、マリア様の霊魂が創られて、この創造されてそしてこの母の胎内に宿ろうとするその瞬間、霊魂がこう宿ろうとするその瞬間、イエズス様がその前に現れて、原罪の汚れがその霊魂を触るその瞬間、イエズス様の御受難がそれをストップさせたとでも言えるでしょうか。

皆さん話しが複雑になってきたので、皆さん確かにフンフン、フンフンと納得して下さっています。(^^;)

多くの人がこの無原罪の御宿りという事をよく理解していないので、皆さんが理解する事は非常に大切です。ですから別の例を挙げます。

多くの人は、「マリア様は贖いを必要としていなかった」と考えていますが、これは誤解です、これは異端です。幼きイエズスの聖テレジアはこういう素晴らしい例を挙げています。幼きイエズスの聖テレジアはこう言います、「天主は二重の、2つのやり方で私たちを罪から救う事ができる。」

第1のやり方は普通のやり方です。1つは、子供がよちよち歩きでこの汚い汚物の中にドターン!と倒れてしまって、うわ~ん!と言った時に、天主様の憐れみで、それをきれいにして下さるというやり方です。

それが強烈に倒れれば倒れるほど、また深くズブズブと中に潜ってしまえばしまうほど、そこから取り出してしまう天主様の憐れみはますます輝きます。ものすごい大きな罪人が回心する時に、より多くの天主の憐れみが輝きます。マリア・マグダレナ、放蕩息子、ザケオ、良き盗賊のディスマス、聖アウグスティノ、罪と誤謬に深く浸かっている人が回心する事です。これが天主の大きな憐れみです。

でも別の憐れみの表れ方があります。子供がかけっこをしています。お父さんが、その子供がかけっこをしているの見て、「あっ前に躓く何か石ころがある」というのを見ると、「もしもあれだと、それに躓いて転んで大ケガをする!」子供が走っている所に向かってお父さんも走って、案の定、子供はこの石に躓いて「あぁ~っ!」と泥の中にもう突っ込むか、という時に、お父さんがその子供を抱きかかえて、そして立たせてあげる。子供は汚く汚れませんでした。何の傷も受けません。何の罪も。

でもどちらが、どこに、より大きな憐れみがあるでしょうか?泥の中に倒れてしまったのを可哀相に思って助け出すのも憐れみですが、それが無いように防いだ、というのはより大きな憐れみです。そのような霊魂は、「あぁ天主様、あなたは本当に憐れみ深くて、私がそのようにあまりにも弱いので、そのように罪を犯す事さえもお許しになりませんでした。」

これはマリア様に起こった事を理解する為の、非常に遠くにあるそんな影のような例えです。原罪の汚れがマリア様の霊魂に触れてそれを汚そうとするその瞬間、天主がそれをマリア様の霊魂を取って抱えて、原罪の汚れから汚されるのを防いだ、とでも言いましょうか。

天主様の全ての聖心にある愛は皆さんに与えられました。ですから皆さん一人ひとり天主の憐れみをご存知のはずです。「私は天主の憐れみを永遠に歌おう。おぉ、憐れみの天主、御身は私を創造して下さいました。憐れみ、天主の憐れみは私を創り、私を保存し、私を導き、御摂理によって守ってくれます。憐れみのイエズスは私を浄め、守り、助けてくれます。イエズス様の聖心は憐れみは、私の霊魂を聖化し、天国を開いてくれます。」

同じ事をマリア様も言います。でもまた別の、全く別のやり方で仰います。何故かというとマリア様は、天主様の憐れみを全て、完璧に、与えられるがままに受け取るからです。「でも」とか、「しかし」とか、制限は無いからです。

マリア様が天主の憐れみにそれほどまで深く開かれて、それを全て受ける事ができたのは、1つの条件がありました。それは、「私たちが何でもない『無』であるという事を自覚する事」です。

「天主が無限の御方であり、無限の善であり、全知全能である、最高の方である」という事を自覚するだけでは足りません。それだけではなく、「私たちが無であり、もう天主がなければ何でもない」という事を自覚しなければなりません。何故かというと、私たちの中に何か天主以外のものを、別のものがあれば、天主はその中に入る事ができないからです。

私は先ほど申し上げました、「天主様の憐れみは私たちの中に入る事ができない。」何故かというと、私たちの中に障害物があるからです。私たちの中に、自分の事だけでいっぱいであるからです。私たちの心の中には汚物だらけなのにもかかわらず、その汚物を私たちの良い特徴だと考えています。

ミサのカリスを見て下さい。このカリスの中に汚いものとか何かゴミを入れたとします。貴重な液体をその中に入れる事ができません。ミサの時にはそのワインを注ぐ前に、司祭はちゃんとそれをきれいにして、ゴミの1つもないように確かめてから入れます。イエズス様の御血が入る為には、このカリスは清く、その中には何もゴミが入ってはいけません。

これがマリア様と私たちの違いです。憐れみを受ける為には、条件はただ1つです。私たちの弱さではありません。私たちの悪い性格でもありません。私たちのファンタジーや幻想でもありません。私たちがちょっと頭が狂っている事ではありません。私たちの中で欠けているのは「謙遜」です。

この御謙遜こそが、マリア様の中に憐れみのその激流が降り注いだその原因です。謙遜だけが、天主様のその偉大な憐れみの恵みを全て制限なく受け入れる事ができるようにさせる条件です。マリア様は御自分の事からすっかり目を逸らしていました。マリア様は自分の弱さについて嘆く時間がありませんでした。他人の弱さがどうのこうのと、ゴシップにおしゃべりをする時間はありませんでした。御自分がどれほど小さいのか、と考える時間さえもありませんでした。マリア様は天主様の事だけを考えていました。ですから全てを受ける事ができたのです。

天主の最高の属性は「憐れみ」だとすれば、被造物の最高の属性は「謙遜」であるべきです。

「憐れみ」というのは、天主としてのその基礎にある属性です。
「謙遜」というのは、私たちの霊性とこの全ての聖徳の基礎に、土台となるべきものです。

天主の憐れみは、他の天主の属性の父親のような基礎です。
謙遜は全ての徳の母となるべき徳です。

天主は能動的な原因であって、全ての原因の根源です。
聖人になるには2つの事が要求されます。天主の方からは「無限の憐れみ」が。霊魂からは「謙遜」が。

私たちの問題はこれです。いつも私たちは自分の事だけを考えて、「私はこんなに悪い、こんなに悪い、こんなに悪い、こんなに悪い」と思うことです。

では私たちの痛悔というのはどうでしょうか?「私は怒っている。そんなにそれを一生懸命直そうとするのですが、それができない。」「神父様、私は何で昔から同じ罪ばかりを犯して、あぁもう何でもありません。」「私は本当にもう何をやっても駄目で、天国に行けないかもしれません。」

そう仰る必要はありません。天主様はその事をよく知っていますし、私もよく知っていますし、皆さんもよく知っていますから、別に言わなくても分かっています。

私たちが言わなければならない事は、ただ謙遜であるという事です。

私たちは無です。でも、天主様は偉大です。それを認めることです。

では今から休憩を入れます。今からですね、皆さんが聞いた事のないようなやり方で、「マリア様の御謙遜」という事について話をしたいと思います。

それはそのこのお話しの後に、皆さんがマリア様のように御謙遜になる為です。

では休んで下さい、15分間休憩です。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

秋田巡礼-お説教-2016年5月5日シュテーリン神父様「主の御昇天」今日、天主イエズス・キリストは天の門を大きく開いて、天主聖父の右に座し給うた。

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2016年5月5日 秋田巡礼 主の御昇天のミサ
シュテーリン神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

40日間の使徒たちへの御出現の後に、私たちの主イエズス・キリストは大きな凱旋を以て天国の国に戻ります。これは私たちの主の偉大な凱旋でした。この凱旋に私たちも、私たちの慰めの為に参与するように望んでいます。

永遠の最初の、その初めのない最も最初から、第2の天主のペルソナは全き幸せの中におりました。永遠のある時に、天主は天と地を創られました。この私たちがこの巨大さに感嘆する大宇宙は、天主様の前ではほんの一粒のゴミに過ぎませんが、それを天主は創りました。

天主がこれを創造されたのは1つの目的の為です。その目的とは、御自分に似た被造物が、つまり天使たちと人間たちが、御自分と同じ幸せに参与する事ができる為でした。これは天主様の巨大な憐れみの御業です。

無である私たちが在らされ、在らしめられて、天主の子供として、永久に永遠に無限の幸せを得る、参与するように望んでおられるのです。

天主様は、流されの身であるこの地上に長い間居る事は望まれませんでした。何故かというと、私たちの存在は2つの部分に分けられるからです。

ちょっとした準備の段階と、その次に本当の命が始まります。少しの旅の後に、本当の私たちの住まいの生活が始まります。ちょっとした仕事と試練の時の後は、永遠の休息が待っています。

しかし人間はその事がよく分かっていませんでした。この地上の無、この世の無にあまりにも重要性を置きすぎています。天主に背を向けて、この地上の事だけに専念しています。これが天主に対する侮辱であり罪です。天主にとって全く問題なく全てはキャンセルして、全くこれを無に帰する事もできました。

そうはなさいませんでした。天主は罪を、更にもっと巨大な憐れみの御業の機会としたのです。

天主の偉大なる三位一体の第2のペルソナが、この小さな無に等しい世界にやって来られました。正確に33年間、私たちの間に住まわれました。

私たちの主イエズス・キリストは、童貞女マリア様からお生まれになられた、真の天主・真の人であります。

30年間、貧しい大工の子として生活されました。それは私たちに模範を与える為です。どうやって生活するべきか、どうやって天主の御旨を果たすべきか、天主の御心に適うべきかという事を示す為でした。

3年間、私たちに真理を説教しました。天主の御国を地上に確立する為です、すなわちカトリック教会です。それは私たちが天主の御国に帰る事ができる為の「道」とその「道具」を準備する為でした。

地上での生活のその最後に、自分御自身の命を捧げられて、十字架の上で亡くなりました。私の為にその御血を全て流されました。私の罪を全て洗い浄めて下さいました。悪魔の支配とその鎖から解き放って下さいました。もう死の病にかかっていたのを今、元気にして下さいました。天主の命を私の心に注ぎ込んで下さいました。昔は単に悪魔の子であったのに、今は天主の子供として下さいました。失われたエヴァの悲しい子供であったにもかかわらず、今では天の御父の子、天の御母の子として下さいました。天主御父の御旨を果たし、この地上に於いて果たさなければならない使命を全て完璧に果たされました。

3日目の後に、死の内から甦り給うたのです。栄光に満ちた復活に於いて、「真にイエズス・キリストは天主である」という事を証明しました。イエズス・キリストは、確かに御自分の宗教だけが本当の真の宗教である、と証明しました。私たち全ての、私たちの人生の究極の目的は、終わりは何か、という事を示しました。それは「復活」です。

使徒たちの間に留まって40日間の間、御自分の復活のその効果を、復活体とはどのようなものか、という事をその目に示しました。それは彼らの信仰を強める為です。将来の教会の指導者としてそのミッションを準備する為でした。

この日がやって来ます。そこからいらした天主聖父のその元に、もはや帰る事ができます。この循環をご覧下さい。天主聖父から出てこの世に来られ、私たちの元に住まわれ、使命を全て果たされて、天主聖父の元に帰って行きます。

第1の運動は愛の発出です。天主聖父を愛し、天主聖父の御旨に適う為、また私たちへの大きな愛の為に、天主聖父を離れて私たちの元に来られて、私たちを愛するが為に全ての苦しみ困難を受けました。

良き牧者が羊を、失われた羊を探して、どこかに井戸に落ちていないか、迷子になっている羊たちを探してかき集めました。天主聖父の元に帰ります。

「天主聖父の元に戻られた」という事は、「皆さんと私の為の道が開かれた」という事です。何故なら原罪以降、天の門は閉ざされていたからです。誰も自分で自分を救う事はできません。

今日、天の門を荘厳にイエズス・キリストは開かれました。今日、天主イエズス・キリストはその門を大きく開いて、天主聖父の右に座し給うたのです。

この瞬間、天に一体どんな事があったか想像できますか?

数万、数億、数兆の天使たちがこのイエズス様を待っていたのです。天主聖子が遂に、地上での使命を果たされて天に戻ってやって来た。それを歓迎して、それを喜び受け入れるその天使たちの姿を。

そうやって天の御国を所有する為に戻って来るのですが、一人ではありませんでした。旧約聖書の多くの義人たちを連れてやって来られました。まず連れて来られたのは聖ヨゼフ。洗者聖ヨハネ。その次に全ての太古の義人と預言者たち。何百年も何千年も待ちに待ち焦がれていた、この命の人生の最終目的に到達したのです。

今すでに道は開かれています。イエズス様は皆さんと私の為に道を開かれました。この道というのは、イエズス・キリスト御自身です。

皆さん分かりますね?この私たちは、この地上の為にここに創造されているのではありません。天国の為に創られました。今まで太祖たちは追放の身でした。それが遂に今日、家に帰る事ができたのです。この太祖たちはこの時、各、各々がそれぞれの冠、それぞれの報い、それぞれの栄光を受けて、それを永久に所有するのです。

イエズス様が何と仰ったか覚えていますね?「私はお前たちの場所を準備しに行く」と。「準備が終わったらお前たちを皆連れて戻って行く。」

愛する信者の皆さん、これこそが今日の喜びです。しばらくの間、私たちの追放の逐謫の身であるこの地上での無を、苦しみを忘れて下さい。天の門が開いているのご覧下さい。このきれいな黄金の門が皆さんの前に大きく開かれていて、その中には皆さんの名前が金の文字で書かれています。

イエズス様がマリア様の為に準備したその栄光、聖ヨゼフ様の為に準備したその栄光、それと同じような栄光を、皆様の為に一人ひとりの為に準備しています。

注意して下さい、まだ到着してはいません。恐れおののかなければなりません。もしかしたらそれを失ってしまうかもしれないからです。

でも絶望してはなりません。何故ならイエズス様は約束されたからです、「もしも私と共に留まるなら、また私の母と一緒にいるなら、必ず天国に到達する。」

これは「希望」と申します。この聖なる希望は、ファチマのマリア様も繰り返して仰いました、「私の汚れなき御心は、あなたたちにとっての避難所です。天国へと導く道となるでしょう」と。

テ・デウムの中でこの聖なる希望について歌われます、「私はあなたに信頼を置いた。私は決して永遠に辱められない」と。

愛する信徒の皆さん、今日この日私たちは、天主様に信頼する大きな心を持たなければなりません。天主は全てができます。何故なら全能だからです。天主様は皆さんの救霊を望んで求めています。イエズス様は皆さんを愛しておられます。

もしも辛い事、悲しい事、苦しい事、困難がこの地上であったら、「あぁ、この地上はあっという間に消えてしまう。消えてなくなる」と思って下さい。10年15年前に苦しんで、苦しんでいたこの事を思い出して下さい。「もしかしたらもうこれで生きられないかもしれない。もう駄目かもしれない」と思ったかもしれません。もう感情が混乱してしまっていたかもしれません。もう「全てが万事休すだ」と思ったかもしれません。でも今日そんな事覚えていないじゃないですか。それと同じように今日の苦しい事も、5年後には同じ事です。

この世は新幹線のようにあっという間に過ぎ去ってしまいます。その後で一体何が起こるでしょうか?

マホメットや仏陀や他の人は何と言うでしょうか?「ニルバナ」とか、「無」とか、或いは下らない話し。

でも私たちの主イエズス・キリストは真の天主であり、この真の天主である事を御自分の身を以て証明されました。この真の天主が約束しています。マホメットさんの約束は私たちは信頼する事ができません。しかしイエズス・キリストの約束は信じる事ができます。

私たちはただ、ただ、ただ、天主様イエズス様に感謝、感謝、感謝のみです。何故ならばイエズス様は私たちの間に在して、私たちの為に天国に行く道を準備したからです。

人々が普通自分の人生の事を考えると恐れています。「あぁ年を取ったし、弱くなっているし、家族にとっては重荷だしもう巨大ゴミのようだ。年を取ると病気になるし、もう最後の死を待つばかりだ。」日々日々、人々はますますがっかりして憂鬱になってしまいます。

本当はその反対であるべきです。「今日はまた1日天国に近くなった!家にもうすぐ近く、帰るのにまた近くなった!」

1日が終わった後で私たちはこう言わなければなりません、「イエズス様、1日のこの仕事が終わりました。私がいつも御身に忠実であるますように助けて下さい。何故なら約束されたからです。」
『私にいつも終わりまで忠実であれ。そうすれば永遠の喜びの冠を受けるだろう。』


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

ロザリオの十字軍)2016年11月9日現在、日本からロザリオ3,526環、犠牲28,803回が報告されました。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月 09日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ3,526環、犠牲 28,803回が報告されております。天主様に感謝!

マニラからは、ロザリオ23,273環、犠牲15,484回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ1,216環、犠牲260回が報告されています。

今週は、
11月12日(土)10時半から大阪でミサ聖祭が、

11月13日(主)10時半から東京でミサ聖祭があります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様
諸聖人の祝日おめでとうございます!!
いつの日にか私達も諸聖人方のように天の国に凱旋することができますように、聖人方がみなマリア様を愛されたようにマリア様をお愛しすることができますように!

10/1~10/31のロザリオ十字軍の報告をいたします。
ロザリオ42環
犠牲99回
をお捧げすることができました。
デオグラチアス!

【報告】
下記に御報告を。
どうぞ、宜しく御願い致します

シスター   ロザリオ93  環      犠牲 報告なし
ヨゼフ・マリア    64  環      1860 回
アンナ        28  環        930 回
マリア         3 環         30  回
マリア        31環        1550  回
マリア        31環         310  回
バルナバ       80 環         467  回
アリア        93  環        310  回
ヨゼフ        93  環       0 回   
マリア        149 環       934 回
マリア         93 環       186 回
マリア         95 環    362 回
     計    853  環    6939 回  
以上です。


【報告】
8月15日から10月31日まで、ロザリオ228環、犠牲152回を報告します。デオ・グラチアス!

【報告】
追加です。聖なるロザリオ12環、犠牲 310回追加報告します。


【報告】
10月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
6人で
ロザリオ:248
犠牲:817
お捧げいたしました。

【報告】
10月のロザリオ十字軍の報告をいたします。
10月1日〜10月31日
ロザリオ 117環
犠牲 396回
です。

デオグラチアス!

2016年11月4-7日,の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月の初金、初土とミサ聖祭を大阪で捧げることができました。
ステンドグラスの入った御聖堂で、一段と美しくなり、お祈りもミサ聖祭もますます心を高く上げてすることができました。天主様に感謝!

11月6日の主日には東京で聖伝のミサを捧げました。

午後の公教要理には、カステラーニ神父様の書いた「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)に基づいてお話をしました。
ご参考までに、以下にスペイン語のPDFファイルのリンクをご紹介します。
いろいろな体裁のものが三つありますが、内容は同じものです。

カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)
カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)
カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)

今週は、
11月12日(土)10時半から大阪でミサ聖祭が、

11月13日(主)10時半から東京でミサ聖祭があります。

来年、聖ピオ十世会アジア管区はファチマとローマに国際巡礼を行う予定です。
参加ご希望の方々は、どうぞ今日、お申し込みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

11月4日 初金曜 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ には20名の方々が
11月5日 初土曜 聖マリアの汚れなき御心の随意ミサ にも20名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!

11月4日の御ミサには赤ちゃんと小さな女の子が来られていました。歌ミサと御聖体降福式が終わるまで2時間以上最後までおられました。
お聖堂に赤ちゃんの声がするのはとても嬉しいことでした。日本に多くの聖なる家族が与えられますようお祈りを続けたいと思いま す。

「私の心は、侮りと悩みしか期待できなかった。私は誰かがともに苦しんでくれると期待していた。しかし誰も苦しんではくれなかった。
私は人から慰められるのを待っていたが、慰めてくれる者はひとりもいなかった。」
このイエズス様の聖心のミサの奉献文のイエズス様の聖心の叫びを100年前にファチマで天使が代弁していた事について黙想いたしました。
イエズス様の聖心もマリア様の御心も、祈りと犠牲を求めていらっしゃる事をカトリック信者である私は毎日どれくらい真剣に考えているか?
と振り返ると、奉献文の「誰も苦しんではくれなかった」という言葉が胸に突き刺さります。
マリア様が100年前に三人の子供達にお願いされた祈りと犠牲は 、この100年の間に一体どれだけイエズス様とマリア様のみこころをおなぐさめできたのでしょうか?
自分がこの100年の間にこの世に生まれてきたことの意味をしっかりと心に刻んで天主様がお与え下さる全ての十字架を従順に快く担えるよう、御ミサでお祈りしました。

初土曜日のお説教を聞いて、いつも天国へ心をあげて、マリア様の愛の日でもやされ、マリア様の望まれるよう霊魂の救いのために祈りと犠牲を捧げる事を深く決心しました。


【報告】
アヴェ・マリア!
インマクラータ!
小野田神父様こんばんは。
日曜日に煉獄の霊魂の為にお墓参りに行きました。
11月2日から一週間は全贖有が頂けると教えて頂いてから3年目になります。
何故か毎年、道中トラブルが起こります。
今回もはやりトラブルが起こり、引き返そうかと迷いましたが、煉獄で苦しむ霊魂の事を思い、ロザリオをしてマリア様にお願いし、無事にたどり着くことができ、お墓の前でロザリオ一環、全ての死者のための祈り、デ・プロフンディスを唱えることができました。
デオ グラチアス!
主よ、永遠の安息をかれらに與え。耐えざる光をかれらの上に照らしたまえ。かれらの安らかに憩わんことを。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
死者の月になり、「永遠」について、黙想してみました。

公教要理では・・・
173* 地獄とは、どのようなところでありますか。
   地獄とは、悪人が天主に棄てられて、悪魔と共に終なく苦しむところであります。
174* 地獄に行くのは、どのような霊魂でありますか。
   地獄に行くのは、大罪をもって死んだ人の霊魂であります。
   終ない天国と地獄との存在は、
  一、天主の啓示によっても明らかでありますが(コリント前 13:12、黙 21:4、ペトロ後 2:4、マテオ 8:12)
  二、道理を推し究めても、此の世に於ける幸不幸の不公平なことを改めるために、
     後の世で適当な賞罰がなければならぬことによって認められます。
     尚此の賞罰に終がないのは、人は不滅の霊魂を有して、永遠なる天主の御前に善悪を行うのでありますから、
     たとえその善悪は一時的の仕業であっても、永遠の賞罰を受けねばならぬことになるのであります。
     特に地獄については、人は死と共に取り返しのできぬ最後の決定を受けねばなりませんから、
     死後痛悔して罪の赦を蒙る余地がなく、従って罪人は終ない地獄の罰を受けねばならないのであります。
177 世の終の後にも煉獄がありますか。
   世の終の後には、天国と地獄とがあるだけで、煉獄はありません。
と、あります。

もし息を引き取る瞬間に、聖寵の状態でなかったら?それで万事休す。永遠に地獄。永遠。永遠。永遠。
ひとりの例外も特例もなく、地獄に行けば永遠!
永遠を考えると恐怖で息苦しくなります!

ヤシンタは特に地獄について、いつも黙想していたそうですね。
どれほど多くの人が地獄に行ったか、地獄に行った霊魂はどれほど哀れな状態かを見て。

マリア様は「彼らのために祈る人がいなかったから。」とおっしゃいました。
それで、ヤシンタたちは、ファティマの聖母マリア様の懇願のとおりに、地獄に落ちようとしている霊魂のために
祈りと犠牲を捧げつくそうと決心しました。あんなに小さな子供でしたのに!

ファティマ100周年の時代に生きている私たち(カトリック信者)のなすべきことは、

ファティマのマリア様の懇願のとおりに、ファティマの3人の牧童たちに倣って、
マリア様の汚れ無き御心に逃げ込んで、毎日ロザリオを握りしめて、
地獄に落ちようとしている多くの罪人の救霊のために、彼らのために、彼らに代わって祈り、天主対する侮辱、冒涜を
償い、犠牲をすることだと理解いたしました。

毎日、マリア様の汚れ無き御心と共に、汚れ無き御心に犠牲をお捧げするときに、この祈りを唱えながら。
“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母マリア様、我らのために祈りたまえ。
我は弱き者ゆえ、御身の懇願に、従順たる御恵みを与えたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス様の聖心は嘆いておられるけれども、「この聖母の汚れなき御心聖堂に集う霊魂たちは例外だ」と仰って下さったのがとても嬉しかったです。
イエズス様とマリア様のお気に入るようにという事だけを考えて、「ここにいます」と、ファチマの天使様を真似てお祈りと、
日々の犠牲をお捧げすることができますように!

公教要理のレポートを書かせて頂きます!

《分かったところ》
ファチマの御出現の時代背景がこんなにひどい第一次世界大戦の真っ最中だとは知りませんでした。全く終わりの解決の糸口の見えない、状況は何も変わっていないのに、戦死者の数だけが膨れあがるという、まさにこの世の地獄という状況で、しかし、人間の力ではどうしようもできない状況でも解決に導いて下さるのが、マリア様で、小野田神父様が質問された方のお答えでも仰って下さっていましたが、天主様の憐れみマリア様の憐れみの力がより一層輝くために、もちろん人間の自由意志の濫用なのですが、天主様はこの第一次世界大戦が起こることをお許しになったのだなと思いました。

また東京の方もレポートで書いて下さっていましたが、第二バチカン公会議以降の今教会内部にある戦争は、上層部が「戦争は起こっていない、何も問題がない」と、敵に対して無抵抗のままなので、更に全世界で膨大な数の霊魂が死んでいる更に恐ろしい状況だなと思いました。
この時また、秋田のマリア様が天から介入して下さり、秋田のマリア様は、「私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください」と、解決に導いて下さっているのだなと感じました。またより一層ロザリオの十字軍の重大さを感じました。

《分からなかったところ》
全てが新たな発見で、分からない所はなかったように思います。三部作にして下さりありがとうございます。これから天の介入の所に入っていくと思うので次が楽しみです!

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日一昨日と、御ミサ・御聖体降福式・ファチマの歴史の時代背景の御講話など本当に色々ありがとうございました!!(*^▽^*)
ステンドグラスが付けられた御聖堂は本当に天上的で美しいですね!!それを眺めているだけで心が天に上げられるようです。
ルフェーブル大司教様が、「…天主様との一致は、むしろ、宗教的な天的な音楽や、典礼行為を取り巻く全体的な雰囲気や、その場所の敬虔さとか沈潜、建築学的な美しさ、キリスト共同体の熱意、ミサ司式者の高貴さや敬虔の念、象徴を使ってある装飾、香の香り、などによって得られるのです…」と仰っていた事を思い出しました。

デオ・グラチアス!


【報告】
大変遅くなってしまいましたが、
御ミサでの所感をご報告申し上げます。(^_^;)

【霊的講話で】
これまで第一次世界大戦については、
「サラエボ事件でオーストリア皇太子夫妻が暗殺された、それが第一次世界大戦のきっかけとなった。」という
歴史の授業の内容しか記憶していませんでした。
今日の小野田神父様の霊的講話で、その真理が明らかになりました。
真の宗教、真理の観点では、これは国同士を巻き込んだ戦争ではなくて、
「カトリック」対「フリーメーソン、共産主義」の戦い、つまり「唯一の善」と「悪」の戦いだったことです。
真の、唯一の天主、唯一の宗教だけが、歴史も自然も、全てを完全に説明できると深く理解できました。

また天主を排除した世界が、どれほどみじめな状況になるかを悟りました。

【お説教で】
ファティマのマリア様は「私は天国からのものです。」とおっしゃいました。
どうして「天主の御母です」とか「無原罪の御宿りです」などとおっしゃらなかったのだろうと、
ずっとなんとなく疑問でした。その疑問にマリア様は小野田神父様のお説教を通してお答えくださいました。
それは私たちの心を天国に向けようとされていたのだと理解できました。
なぜなら、ルチアはすぐに自分やヤシンタ、フランシスコ、亡くなったお友達が天国に行けるか、行ったかを聞いたからです。

マリア様は、亡くなったお友達が煉獄に行ったこともおっしゃいました。
7月には地獄のビジョンを子供たちにお見せになりました。
ファティマのマリア様は死の次にある、天国、煉獄、地獄を
現代の私たちに、はっきりとお示しになられたのですね。

ファティマの天使が、大天使聖ミカエルであったことに驚きました!
天使の祈りを、額を地面につけて唱えるよう教えてくださったのが、
聖ミカエル様であったことに、深く納得し、天軍の総帥が自ら手本をお示しになってくださったことに
さらに尊敬と親愛が増しました。
ポルトガルも日本も、聖母の汚れ無き御心に捧げられた国家だから、
聖ミカエル様も保護者となってくださったのでしょうか?と思いました。

天使は祈ることはできても、苦しみ、犠牲を捧げることはできないので、
苦しんだり、犠牲を捧げることのできる人間を羨ましいと思ってさえ、いるということに、
はっ!としました。
そして犠牲をお捧げできる私たち人間はなんて幸せなんだろう。
天主様にもっともっと愛と犠牲をお捧げしたいと思いました。

つい最近、プロテスタントの布教の車のスピーカーから、「イエス様を信じるものは救われる・・・」とずーっと流れていました。
その大音量のテープを聞いた人は「ああ、”宗教”だ、”宗教”が何かやっている」と失笑していました。
テープの内容は「復活されたこと」「神を信じるものは救われる」というもので、確かに間違ってはいないことでしたが、
テープを聞きながら、カトリックとどこが違うのかを考えていました。
カトリックでは、車から大音量で布教をしたりしません。
カトリックは、天主を知ろうとしない、あまりにも多くの人たちのために、
その人たちのために、その人たちのかわりに祈り、犠牲を捧げて、自分の命を捧げてまでも、
罪人の回心を聖母を通して、天主に懇願します。
回心は天主からの憐れみの恩恵であり、聖母の御手を通して与えられるものです。
天主の無い、憐れみの御母のいない、聖なる御ミサの無い、真の秘蹟の無い、真の信仰の無い、プロテスタント。
そのスピーカーから流れるテープを聞いて、「回心」はあるのだろうか?と思いました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、我らのために祈りたまえ。


【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供2人)
女: 21人(内、子供3人)
計: 42人(内、子供5人)


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様

小野田神父様、こんばんわ。いつも私たち霊魂のために奔走してくださって心身ともにお疲れのことと思います。いつも本当にありがとうございます。

御ミサのレポートをお送り致します。
・今日の御ミサでこれだ!と分かったこと
1つは、書簡で聖パウロは「憐れみの腑を着よ」とパウロ様は仰っており、これは「上辺だけでなく、腹の底から憐れみをもつ」ということであること。
書簡では私たちは天主様から「愛された者である、選ばれた者である」と述べられていることを考え直し、何と恵まれた有り難いことだと思いました。
しかし、その分の責任が伴うので、(堅振の時の霊魂に刻まれる印、印を受けたまま地獄へ落ちてしまった場合、地獄の更に深い場所へ行く話を思い出しました。)責任を果たせるように、更にマリア様におすがりしてお祈りしなければと思います。よく償いの行為と、ロザリオのお祈りをしようと思いました。

もう1つは、聖福音で敵が毒麦をまいたがこれは天主様のご計画の内で、しかし「毒麦は最後には集めて炉に入れられる」こと。
現代社会がすっかり忘れ去ろうとしており、カトリック教会さえもその存在を忘れさせようとしている「四終」を思い出しました。(私はノブスオルドの教会に通っていた時には「四終」という言葉さえ知りませんでした・・・)私たちは常にこれを意識すべきである事を再確認し、特に死者の月に当たって良い黙想をすることができました。

「憐れみの腑」「四終」という事を考えつつ、「ああ、天国への道はなんと遠い・・・・・・」と思っていたのですが、
聖体拝領誦の「汝らにいう、祈って願うことは、すでに得たと信じよ。そうすれば、得るであろう。」というお祈りでとても慰めを受けました。
天主様とマリア様に感謝いたします!


公教要理の時間には、聖ヨハネによる黙示録について、レオナルド・カステラニ神父様の著書を元にしたお話を伺いました。
黙示録は難解で意味がよく理解できておらず、意味を知りたいなと思いインターネット上で黙示録について検索するとオカルト的だったり終末論の要素が強調されすぎていたり・・・という検索結果や本しか発見できなかったので、これは見ない方が賢明だろう、と思いそのままにしておりました。
しかし、今回は神父様が解説してくださるということでとても嬉しかったです!

今回教えていただいたことを以下にまとめました。
・黙示録は、使徒聖ヨハネがパトモス島で書いた。
・始まりの言葉 "Apo-kalypsis" とは、「ベールを取る、隠れたものを明らかに啓く」という意味。
・黙示録には様々な解釈がある。ある人は、これは詩で、つまり文学であるから誰にも理解できないという。
 またある人は、これは預言書だが難解で誰にも理解できないという。しかし、この本の著者であるカステラニ神父様は、違った見方をして、
 「これは預言書で確かに難解だ。しかし天主様は難解で理解不能なものを聖書の正典として残されることは、なさらないはずである。
 つまり、難解だが意味を理解することができるはずであり、また、意味を探し求めることに意義がある。」と述べている。
・黙示録には2つの傾向がある。1つは、「終末論に重きを置いた歴史」 もう1つは、「歴史に重きを置いた終末論」である。
・聖ヨハネは、黙示録中で計20のビジョンを見る。初めの10は「終末論に重きを置いた歴史」、後の10は「歴史に重きを置いた終末論」に分類される。
・20のビジョンは以下の通り。
 「終末論に重きを置いた歴史」に分類される初めの10
 1.7つの教会への手紙
 2.本(巻物)と子羊
 3.7つの封印
 4.選ばれた者達が印をされる
 5.7つのラッパ
 6.本(巻物)が飲み込まれる
 7.神殿が測られる
 8.2人の証人 
 9.第7のラッパ
 10.冠を被る婦人
 「歴史に重きを置いた終末論」に分類される後の10
 11.2匹の獣
 12.童貞と子羊
 13.永遠の福音
 14.刈りとる者
 15.7つのさかずき
 16.大淫婦
 17.バビロンの壊滅
 18.千年王国
 19.最後の審判
 20.凱旋のエルサレム
・「1.7つの教会」とは、「歴史の中の7つの教会の段階」である。
 1.エフェゾ:「跳躍」の意。(意味はイエズス会士ビヨ枢機卿の解釈に依る)使徒達〜ネロ帝の時代を指す。
      「ニコライ派の異端」(2:7)とは助祭ニコラウスのこと。
       エフェゾはカトリックが盛んでありつつも、異教も盛んであった。
       ニコラウスはそちらに靡き人々に悪い手本を見せてしまった。
 2.スミルナ:「没薬」の意。殉教者の時代、ネロ帝〜デオクレティアヌス帝の時代。
       「10日間の試練」とはネロ帝〜デオクレティアヌス帝の10代の皇帝を
        指しているのだろうか。
 3.ペルガモ:「巻物、羊皮紙」の意。教父・博士達の時代。聖アンブロジオや聖アウグスティヌスが出た。
 4.ティアティラ:シャルル・マーニュ〜宗教改革の時代。キリスト教文明が最高潮を迎えた時代であった。
 5.サルデス:ルネッサンス〜フランス革命を経て現代まで。
      ルネッサンスとは、フランス語"re-naissance"「新たに生まれる」の意。
      黙示録3:1には、「あなたは生きる者だと思われているが、実は死んでいる。」とある。
 6.フィラデルフィア:「兄弟愛」の意。新しいエルサレムのこと。
 7.ラオディキア:千年の福なる教会

黙示録の解説を全く見たり聞いたりしたことのない私にとっては正に目からウロコでした。この難解な書物を素晴らしく研究なさった教父達や神父様達のお力と努力は素晴らしいと思いました。
カステラニ神父様の、天主様は(理解不能な書物を残すなどという)不要なことはなさらないはずだ、これは難解だが意味を理解することができるはずであり、また、意味を探し求めることに意義がある。という姿勢も本当にカトリック的で素晴らしいと思います。「分からないものは分からないから、いいや!」や
逆にこれまでの教会が教えてきたことを超越して異端的解釈・独り善がりの解釈をしてしまうのではなく、天主様が教会を通してこれまで教えてくださった事から決して離れずに、しかし、まだ良く理解できていない事柄に対する理解を深めようと天主様の恩寵を求めつつ努力する姿勢は、聖イグナチオが仰っている「中庸」だとも思い、これが素晴らしいカトリックの教義を深めてきた方々の、そしてカトリック教会の姿勢であると思いました。学問や事象等々、何か物事に対した時に人間は正にこのようにあるべきだと思うので、それを実践し続けてきたカトリック教会は本当に素晴らしいです!!! 私はよく分からない、理解できないことがあると「いいや!」と逃げてしまうタイプなので・・・さらにより良いカトリック教会の成員となるために天主様の恩寵を望み、しかし自らもよく努力する姿勢を身に付けなければ、と思うことができました。デオグラチアス!
また、神父様もおっしゃっていましたが、聖書には1つの言葉に対してだけでも二重・三重の意味があり、これはとても人間の力で書けるものではない大変素晴らしい天主様の御言葉です。信仰指導書には聖書を「奉読する」と書かれているものも多くあると思うのですが、聖書は正に「読む」ものではなく「奉読する」べきものであると思いました。

聖母の汚れなき御心への信心が一日も早く確立されますように!
+In Mary Immaculate,


【報告】
十アヴェ・マリア・インマクラータ!

今回も御ミサに与ることができまして感謝でした。
10月のミサでは、聖伝のごミサは まるで天国のようだと気づかされ、ミサの美しさと天国への憧れで気持ちがいっぱいになりました。ところが、いつ間にかその心のなかにはこの世のことがいっぱい満ちてしまって、苦しさに気づいた時には、自分ではもうどうすることもできないかのように、お手上げみたいになりました。そんななさけない状態で 聖霊降臨後第25主日の御ミサに与らせていただきました。
そして、ちょうどそのような私の霊魂を癒し慰め励ましてくださるかのようなこの日のお説教でした。
「どれほど多く天のことをかんがえたことか?」との問いかけには本当に地上のことだけ自分のことだけになってしまっておりました、と答えざるを得ないような者です。
けれど この世にはそして教会の中にさえも 敵が毒を撒いたのであり最後には毒麦は毒麦として集められ焼かれ、良い麦は集めて蔵に納められるのだから、選ばれたものとして聖なるものとして天主様から愛されたものとして特別のお恵みを受けたものとして「憐れみの腹わたを着よ! 謙遜 慎み 忍耐を着よ!」 と 励ましていただきました。
私は 選ばれ愛された者と言われる資格もなくただ惨めで恥ずかしい事ばかりの者ですが、天主様の恩寵をいただきましたことの感謝とともに「あなたの聖なる家族を守ってください!」と嘆願し祈らねばならないと勇気づけられました。
そして ご受難と復活を遂げ、私たちのために天国を獲得してくださったイエズス様への愛をもってその天国をもっといつも思い起こすようにしましょうとのお話しに ハッといたしました。
ここにいる私は 良い麦畑に憩っているかのように感じられ、聖なる平安が漂うごミサに与ることのできる幸せに感謝したしました。「私が悪い麦であっても 聖なるミサ聖祭の功徳と ここにいる皆様の祈りとにより いくらかでも良いものとされますように。」

帰宅し眠りに入るまで 「天国のことをもっとしばしば思いますように」、「ジャシンタのように自分のなされる悪を思うのではなくそれを罪の償いとして喜んで犠牲を煉獄の霊魂のためにお捧げすることのできますように」との2つを自分自身に言い聞かせました。この2つを心の留めて、ロザリオ十字軍を続けられたらと思います。 (私の場合 自分がにうっかりしていて周りの人に悪いことをしてしまっていると気づかされることの方が多いものです。)

公教要理では、黙示録の講話でした。1956年に Leonardo Castellani 神父さまの書かれたものを 元にした お話しということで、
聖ヨハネが見た20の幻視のなかで、特に7つという数字を用いた幻視について詳しく説明していただきました。
黙示録には7つという数字がいろいろなところにつかわれてます。
お話しのなかで、特に サルデスの教会の時期が、ルネサンスからフランス革命を経て 現代まで続いている時代を象徴した部分ですという説明が、印象深かったです。
新しく生まれる renaissanceは、
re(もう一度) + naissance(生まれる)
この時代について 「生きてると言いながら実は死んでいる、生き返ったと言いながら、実は古代の異教のものの生き返りで実は死んでいる」、との説明が特に心に留まりました。
帰宅して聖書の黙示録を開いて読みました。そうしたらサルデスの教会へ書き送られた言葉が活き活きとしたものとなってきました。
人間がルネサンス以降 神の方へ向かうのをやめようとし始め、人間性を重視する文明を築こうとし、政治においても神から付与された政権というものを捨て、ついには第二次世界大戦から第二バチカン公会議まで至ってきているいま、古い宗教に縛られた古い生き方を捨てさり、人間として生きることを目指しているかのように自分ではそう思っている今の人たちは、実はキリストの死と復活によって新しい命をいただいたことを捨て、古代の異教バビロンの死の生活をする死んだ者達に過ぎないと、言っているかのように思えてきました。
目を覚まして、死んでいるに過ぎない人間中心の生き方から 「どのように教えを受け、どのように聞いたかを思い起こして、それを守りなさい。そして 悔い改めなさい。」(黙示録3:3 )の助言を真摯に受け入れなければ、キリストによって得られた勝利の白い衣は着れない、というところは、聖伝の伝統的なカトリックの教えを守りなさいと言っているかのように思われてしまいました。人間中心の今の生き方は バビロンの時代のようなものなのでしょう。そして この部分が現代に当てはまる時期であるとのCastellani神父様の考察は なかなか鋭いのかなと 感じます。
 イエズス様がマリア・マルガリタ・アラコックにご出現されて聖心の信心が打ち立てられた過程を思い出したり、マリア様のファチマでのご出現でマリア様の御心の信心を通してイエズス様の聖心の信心へと向かうことをお望みになられたのも、この人間中心の生き方をあらため 私たちが本来そうであるようにつくられたところのイエズス様を心の中心に王として生きるようにとの 天主様のお計らいなのだろうとを思いうかべた次第です。

次回の黙示録の講話も楽しみにです。

今月は 小野田神父様が主日の御ミサを続けて三回捧げてくださるご予定で、またすぐに御ミサに与れると思うと 大変嬉しいです。本当にありがとうございます。

感想を書くことで 自分自身のなかで 信仰を確認する作業ができるようです。手元から流れいったかもしれないものを ちゃんと抱きとめ しっかり言葉にして大切にすることができるようです。
神父様、いつも大変ありがとうございます。

デオグラチアス!



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

MISSA PRO DEFUNCTISで歌われる ” Dies irae ” ディエス・イレ

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アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月2日は、全ての死せる信者の記念を行いました。ミサ聖祭では有名なディエス・イレ Dies Iraeが歌われますが、その中国語訳、韓国語訳、日本語訳をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ラテン語

Dies irae, dies illa
solvet saeclum in favilla:
teste David cum Sibylla.

Quantus tremor est futurus,
quando judex est venturus,
cuncta stricte discussurus!

Tuba mirum spargens sonum
per sepulcra regionum,
coget omnes ante thronum.

Mors stupebit et natura,
cum resurget creatura,
judicanti responsura.

Liber scriptus proferetur,
in quo totum continetur,
unde mundus judicetur.

Judex ergo cum sedebit,
quidquid latet apparebit:
nil inultum remanebit.

Quid sum miser tunc dicturus?
Quem patronum rogaturus,
cum vix justus sit securus?

Rex tremendae majestatis,
qui salvandos salvas gratis,
salva me fons pietatis.

Recordare, Jesu pie,
quod sum causa tuae viae:
ne me perdas illa die.

Quaerens me, sedisti lassus:
redemisti Crucem passus:
tantus labor non sit cassus.

Juste judex ultionis,
donum fac remissionis
ante diem rationis.

Ingemisco, tamquam reus:
culpa rubet vultus meus:
supplicanti parce, Deus.

Qui Mariam absolvisti,
et latronem exaudisti,
mihi quoque spem dedisti.

Preces meae non sunt dignae:
sed tu bonus fac benigne,
ne perenni cremer igne.

Inter oves locum praesta,
et ab haedis me sequestra,
statuens in parte dextra.

Confutatis maledictis,
flammis acribus addictis:
voca me cum benedictis.

Oro supplex et acclinis,
cor contritum quasi cinis:
gere curam mei finis.

Lacrimosa dies illa,
qua resurget ex favilla
judicandus homo reus.

Huic ergo parce, Deus:
pie Jesu Domine,
dona eis requiem. Amen.

中文

MISSA PRO DEFUNCTIS 追思亡者弥撒

Dies irae 继抒咏

达味圣王,蒙主默示,预言将来,有朝一日:主动义怒,火毁判世。
审判大主,赫赫来临,思言行为,全要审问,人人战栗,个个悔恨。
号角一响,死过众生,闻声而起,出离坟坑,齐集主前,战战兢兢。
复活之人,孤苦伶仃,交代自己,一言一行,或生或死,无不惊恐。
常生记录,摆在眼前,善功罪过,一一在案 ,永福永祸,由此定断。
审判天主,一登宝座,一切隐秘,全要揭破,善有善报,恶有恶果。
义人这时,也难心安,我大罪人,更有何言?又能找谁。替我申辩?
唯有投靠,仁慈君王,人要得救,全靠主赏,我今求主,对我宽让。
仁慈耶稣,念我为祢而赎,祢为救我,走过苦路,求祢来日,再把我救。
祢为救我,疲劳奔走,祢为赎我,受十字苦。但愿这苦,没有白受。
审判大主,公正威严,审判之日,来到眼前,求祢仁慈,救我罪恶。
我今痛苦,犹如囚犯,因我有罪,羞愧满面,求主垂怜,求主宽宥。
从前祢宽恕了玛达肋纳,也饶恕了右盗,祢也给了我得救妙法。
我的祈祷虽不堪当,但祢仁慈宽宏大量,求祢救我免遭永殃。
山羊绵羊分站两边,求将我列绵羊之间,脱离山羊站祢右边。
恶人被骂遭受祸殃,投入永火理所应当,善人蒙召返回天乡。
我今俯首苦苦哀求,真心痛悔一生罪辜,期望末日蒙主宽宥。
审判之日悲惨可怕,尘土之人要从土中复活,带着罪恶去受审判。
无依无靠唯有求主宽宥,仁慈耶稣求世主,求赐炼灵息止安所。阿们。


韓国語

부속가

1. 그 의노의 날이 오매 세상만물 재되리니 다위 시빌 예언이라.
2. 심판장이 강림하사 사언행위 엄밀사핵 놀라움이 어떠할꼬.
3. 만국만방 무덤위에 나팔소리 진동하여 모든이를 모으리라.
4. 만세만민 부활하여 심판장께 대답할제 사망만물 기절하리
5, 서언행위 기록한 책 만민앞에 펼쳐놓고 세상심판 하시리라.
6; 심판장이 좌정하매 모든은밀 탄로되어 벌 없는 죄 없으리라.
7. 의인 겨우 안심커든 불쌍한 나 무슨말까 어느번호 청할쏘냐.
8 지엄하신 대왕이여 구할 자를 구하시니 나를 또한 구하소서.
9.예수여 생각하소서 주 길의 연고된 자를 그날에 멸치마소서.
10. 피곤토록 나를찾고 십자정사 구원하니 이런 수고 무익할까.
11. 공의보수 심판주여 셈바치는 그날 전에 사죄지은 베푸소서.
12. 수치만면 붉어지고 통곡체읍 구하오니 천주여 용서하소서.
13. 마리아를 사하시고 우리기구 들으시고 내게희망 주셨도다.
14. 나의기구 부당하나 지선인자 베푸시고 영원화염 꺼주소서,
15. 산양에서 나를뽑아 면양중에 않히시고 주우편에 세우소서.
16. 악인들을 벽파하여 맹렬화염 던지시고 나는천국 부르소서.
17. 부복하여 간구할새 마음이 부서지오니 내종말을 돌보소서.
18. 저날눈물의 날이니 판단받을 죄인들이 먼지에서 나오리라.
19. 주여죄인 사하소서 인자하신 주예수여 저들에게 쉼주소서. 아멘.

日本語

かの日は、怒りの日、
この世が灰燼に帰す日、
ダビドとシビラの証言の如し。

いかばかり恐ろしきたらんや、
審判者が来たり給うて
個々のことが厳格に裁かれんとするとき。

驚きのラッパは音を鳴り散らし、
各地の墓を通して
すべての者を玉座の前に集めんとせん。

死も自然も驚くなり。
被造物がよみがえる時、
審判者に答えんとせんがために。

書かれた本がさしだされん、
そこにすべてが含まれている本が、
それによりてこの世が裁かれる本が。

よりて審判者が玉座に座し給うとき、
何であれ隠されていたことは明らかにされ、
そのまま隠されて残るものは何も無し。

その時哀れな私は何をば言わんや?
如何なる弁護者を頼まんとするや?
義人さえほとんど安全ではなきその時に。

恐るべき御稜威の王よ、
御身は救われるべき者を無償で救われ給う、
憐れみの泉よ、我を救い給え。

思い出し給え、憐れみ深きイエズスよ、
御身がこの世の生を受けたるは、我がためなることを、
かの日に我を滅ぼし給うなかれ。

御身は我を探し求めて疲れ座り給い、
十字架を堪え忍び、贖い給うた、
かくなる苦労が無とならんように。

正義なる最後の審判者よ、
赦しの賜をなし給え、
決算の日の前に

被告として我は嘆き、
罪は我が顔を赤らる、
天主よ、こいねがう者を容赦し給え。

御身はマリア(マグダレナ)を赦し給い、
盗賊の祈りも聞き入れ給いし、
我にも希望を与え給いき。

我が祈りは相応しからず、
しかれども優しき御身、大目に取り扱い給え、
我が永遠の火に焼かれざらんがために。

羊たちの間に場所を与え給い、
牡山羊から私を分離し給え、
右側に置き給え。

呪われし者どもは辱められ、
激しい炎が加えられるとも、
至福者たちとともに我を呼び給え。

我ひれ伏し額づきて願い奉る。
灰の如く砕かれた心もて、
我が最期を計らい給え。

かの涙の日は、
灰からよみがえる日、
裁かれるべき被告なる人間が。

故に、天主よ、この者を容赦し給え、
憐れみ深き主イエズスよ
彼らに安息を与え給え。アーメン。


至聖なるイエズスの聖心の訴え、ファティマの天使の呼びかけに応える

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月4日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年11月4日、初金曜のイエズス様の至聖なる聖心のミサをしております。今日もこの御ミサの直後に、いつものように聖時間、初金曜日の聖時間があります。どうぞ皆さんいらして下さい。
明日は初土のミサが10時30分からあります。いつものようにあります、どうぞお越し下さい。

来週の土曜日にも大阪でミサがあり、主日にも夕方にもレネー神父様のミサがあります。
またその2週間後の後も、金・土といつもの通りにミサがあります。どうぞいらして下さい。
来週の土曜日のミサも増えたという事にご注意下さい。
今日は典礼歴によると、カロロ・ボロメオの祝日ですので、シュテーリン神父様の霊名の祝日でもあります。シュテーリン神父様の為にお祈り下さい。


“Sustinui qui simul mecum contristaretur et non fuit; consolantem me quaesivi et non inveni. ”
「私と一緒に悲しんでくれる者を待っていたけれども、それはいなかった。私を慰めてくれる者を探したけれども、私は見つける事ができなかった。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様の聖心の随意ミサを、初金のミサを捧げて、イエズス様の訴えがあります。イエズス様は、私たちの人類の罪の贖いの為に、これほど苦しみと悲しみを捧げたにもかかわらず、「私と一緒に悲しんでくれる者、世の罪を嘆いてくれる者を探したけれどもいなかった。私を慰めてくれる者を探したけれども、誰もそんな者を見つける事ができなかった。」そのイエズス様の聖心の嘆きを、このミサで聞きました。

そこでこの嘆きのエコーをこだまを、ちょうど100年前1916年に、やはり天使が現れて子供たちに伝えてくれたので、その天使の訴えにもう一度耳を傾ける事に致しましょう。

天使というのはもちろん、人間と比べればはるかに上位の方です。

考えてもみて下さい。日本には天皇陛下がいらっしゃいますけれども、もしも全世界の皇帝、世界の皇帝というのがいて、全世界の国民から世界中の人々から愛されて、尊敬を受けて、その模範に従って、立派な君子、聖人君子のような世界の皇帝がいたと想定します。その皇帝の下には世界40億名の人々が慕って、その命令に従順に従っているとしますが、もしもそのような皇帝が、世の始めから終わりまでずっと生きていたとしたら、何兆何京億のものすごい人々を従える皇帝になります。

ところで天使には9の階級があって、その一番下が天使で、その上が大天使、座天使などなど続いています。するとその一番下の階級の天使の一位が、私たち一人ひとりに、この世の始まってから終わりまで一人ひとりに与えられるので、私たち全人類のこの世の始まってから終わりまでの数よりも、天使の数は更にもっと大きい事になります。しかもそれだけではなく、天使たちは村や町やあるいは団体にも守護の天使として与えられますし、地球の守護の天使、火星の守護の天使、天体の守護の天使もあります。それですから、9の階級の全ての天使、ケルヴィム、セラフィムまでを全てを集めたとしたら、それはもっと大きな数になります。人間の想像を超えるほどの数の天使たちがいる事になります。

その天使を治める最高の天使が、今では「大天使聖ミカエル」だと言われています。昔はルチフェルが支配していましたけれども、ルチフェルが堕ちてしまったので、その代わりに大天使ミカエルがその天軍の総帥として立てられました。

ファチマに来たのはおそらく大天使聖ミカエルではないかと言われていますけれども、全世界の皇帝と比べたらもっとすごい権力と力を持った天使がやって来て、私たちに教えてくれるのです。この天使が跪いて、額づいて、身を平伏して、

「私は天主を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します。私は御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々に代わって赦しを願います。」

これを3回唱えました、心から唱えました。畏れ多く平伏して、天主に赦しを求めつつ祈りました。そして子供たちに、「これと同じようにお祈りをしなさい。イエズス様とマリア様の聖心は、あなたたちの祈りに注意深く耳を傾けています」と教えてくれました。

天使たちの最も高貴な職務というのは何かというと、「主を礼拝して、主の為に愛と礼拝を捧げて、そしてその前に平伏して、主を信ぜず、礼拝せず、希望せず、愛さない人々の代わりに赦しを乞い求める」この役割だったのです。これが最も高い天使が、ポルトガルの平和の天使が子供たちに教えてくれた務めの、自分の務めの祈りでした。

「これと同じようにしなさい」と。「イエズス様の聖心、マリア様の御心はその祈りに非常に極めてよく耳を傾けるから。」

そればかりではありません。2回目に出現された時には、いきなりルチアの家の井戸端に現れて、「一体お前たちは何をしているのか?さぁ、お前たちは時間を無駄にしている時間はないぞ。この世の人生はすごく短いのだ。あっという間にこの地上から離れて天国にお前たちは行くのだから。一体何をしているのか。祈りなさい、たくさん祈りなさい」と言いました。

まさに11月、死者の月で、この言葉を天使たちは私たちに聞かせてくれるかのようです、「お前たちはこの地上にほんの束の間しか居る事ができない。すぐに死を迎えなければならない。既に多くの霊魂たちは、もうこの地上を去って行った。死者の事を考える月だ。お前たちもすぐそうなる。昨日は彼ら。今日はお前だ。明日はお前だ。この地上は祈る為にあるのだ。」

それで天使は言葉を続けて、「イエズス様とマリア様の聖心は、」ここでも至聖なる「聖心」という言葉が出ました、「イエズス様とマリア様の聖心は、お前たちに特別の計画がある、憐れみの計画を持っている。」また2回目の御出現でも、イエズス様とマリア様の聖心の話が出ました。一体どんな計画かというと、天使は言葉を続けます、「祈りと犠牲を、いとも高き者に続けて捧げなさい。」

ルチアは、「一体犠牲はどうやって捧げたら良いのか?その犠牲を捧げるというのはどうしたら良いのだろうか?」と聞くと、「全ての事を犠牲として捧げなさい。特に償いの行為として、罪人の回心の祈りとして、全てのものを天主様に捧げなさい」と言いました。「そうすれば、平和を呼び求める事ができるから。」

また同じ主題に戻って、「主がお前たちに送る全ての苦しみを、従順な心を以て耐え忍びなさい。そしてそれを受け入れなさい」と言いました。

天使は祈りを捧げる事はできますけれども、いけにえを捧げる事はできません。苦しみを捧げる事はできません。天使たちは人間の事をきっと羨ましく思っているに違いありません。何故ならば私たちは、祈りといけにえを捧げる事ができるからです。

「特に天主が送る苦しみをいけにえとして捧げなさい、受け入れてそれを捧げなさい」と天使は子供たちにお願いしました。

そればかりではありません。第3回目の時にも天使が現れて、今度は御聖体とカリスを持って来て、それを空中に浮かせながら、やはり同じように跪いて、額を地面に付けて額づいて、最高の天使である者が、御聖体の前で全く無に等しいものとして額づいて、

「いとも至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊よ、我は御身を礼拝し奉る。私は全世界の御聖櫃の中におられるイエズス・キリストの御体、御血、御霊魂、人性そして天主性を全て、罪の償いとして、冒瀆、瀆聖、そして無関心の罪を償う為にこれをお捧げ致します。そしてイエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心の無限の功徳によって、罪人の回心をお願いします」と祈りました。

天使は更に私たちに、祈りと私たちの祈りと私たちの苦しみを捧げるのみならず、「イエズス・キリストの祈りと、イエズス・キリストの苦しみを、御聖体を捧げるように。イエズス様の聖心とマリア様の御心の無限の功徳を通して、罪人の回心を願うように」と教えてくれました。「私たちはイエズス様とマリア様の無限の功徳を頂いたので、これを捧げなさい。これを通して罪人の回心を祈りなさい」と教えてくれました。

そればかりではありません。罪の償いの為の聖体拝領をルチアに子供たちにさせました。ルチアには御聖体を、二人のジャシンタとフランシスコにはカリスから御血を飲ませました。既に初土の信心の先駆者であるかのように、子供たちは償いの聖体拝領さえもしました。

これは一体私たちに何を教えているかというと、「私たちのこの人生で一番大切な事は、この『祈る事』、『罪の償いと罪人の回心の為に犠牲を捧げる事』である。これこそが最も私たちの人生で大切な事であって、最も有効な時間の使い方であって、これこそがイエズス様とマリア様の聖心の憐れみの計画であって、この祈りに耳をよく傾けておられて、この祈りこそ最も聖心に気に入るものである」という事を教えています。

私たちは今日この初金曜日に、イエズス様の聖心の訴えにもう一度耳を傾けて下さい。

「私は、私と共に悲しんでくれる者を探したけれども誰もいなかった。私を慰める者を探したけれども見つける事ができなかった。」

でもイエズス様は今日はこうおっしゃることでしょう。
「例外がある。それは、このマリア様の汚れなき御心の聖堂に集まった、集うこの霊魂たちは例外だ。この霊魂たちは私たちに大きな慰めを与えてくれた。私が悲しんでいる時に共に悲しんでくれた。私が慰めを求めている時に慰めを与えてくれた」と大きな喜びをお持ちだと思います。

ここに集う霊魂たち、私たちは、天主の御恵みで、「はい、ここにいます」「お慰めしたいと思います」とイエズス様に言う事ができますように。

今日、イエズス様の訴えとそして天使の呼びかけに応える事に致しましょう。私たちも天使に真似て、償いの祈りと償いを果たす事に致しましょう。まさにファチマのメッセージは20世紀の私たちの為にあります。聖伝の信仰を守る私たちの為にあります。

では、マリア様の汚れなき御心の御助けによって、このファチマの天使の模範に従う事ができますように、イエズス様の呼びかけに寛大に応える事ができるように、御取次ぎをお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

秋田巡礼-霊的講話【6】-2016年5月5日シュテーリン神父様「マリア様のご謙遜」

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2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話6
「マリア様のご謙遜」
同時通訳:小野田圭志神父

私たちは先ほど、「謙遜によって、謙遜のおかげで、マリア様は全ての憐れみを受ける事ができた」という事が分かりました。

ミサの時に時々、カリスの方に目を向けて下さい。金メッキで時には金で出来た、純金で出来たカリスがあります。イエズス様の御血を入れる為には、カリスの中には何も入っていてはいけません。御血は何の混じり気もなく、その中、きれいなカリスの中にいなければなりません。

マリア様の汚れなき御心はまさに、この純金のカリスのようでした。聖母の連祷の中にはちょうど『霊妙なる器』とありますけれども、これはマリア様がちょうどこの純金のきれいなカリスであったかのようです。

天主様の憐れみを全て知り尽くしたいですか?マリア様のご謙遜を知って下さい。マリア様のご謙遜が、天主の愛を引き寄せたのです。

ここで2つをよく区別しなければなりません。「マリア様のご謙遜」と、「私たちの謙遜」とでは区別があります。

それは「動機」であって、私たちの謙遜の動機は、「もう私たちが罪人であって罪を犯した者であって、憐れみを受けるに値しない者」というのが動機です。素晴らしい、天主様から与えられた宮殿を汚して壊してしまって、その破壊の責任は私自身にあります。「この破壊された宮殿の原因は私にあって、私の罪である」という事が私の謙遜の動機となっています。

マリア様は罪を1つも犯しませんでした。マリア様のご謙遜はこの罪を犯したという事の惨めさによる動機ではありません。

マリア様のご謙遜は、「愛による謙遜」です。マリア様のご謙遜というのは、「無に等しい自分を友として扱って下さる、その天主に対するご謙遜」です。或いはもっと上手く言い換えると、「良き妻である謙遜」です。この妻は全く無であり、何も持っていません。しかし新郎の夫からの、無限の彼女に対する贈り物を知っています。この妻は新婦は、この素晴らしい贈り物にただただ感嘆するばかりなのです。天主様の美が自分の所にやって来るのを見て、それをただただ讃美します。天主様の全ての完徳が、全てマリア様の心に来るのを見て讃美します。光と御恵みがマリア様の所にもうとめどなくやって来るので息もできないほどです。

そういうのを知っているので自覚しているので、マリア様には1つの答えしかありません。「“マニフィカト” 我が霊魂は主を崇め奉る。何故ならば、力ある方が私に大いなる業をしたからです。その御名は聖なるかな。」

マリア様の御生活において御生涯に起こった事は、私たちの生涯の全く正反対でした。

もしも皆さんの中に何か良い所が見つかったら皆さん何をするでしょうか?その自分の中の才能、良い所があるという事があると、ますます罠にはまってしまいます。「それは自分のおかげだ。自分のものだ」と言って、そして自分に帰属させます。そして自分の事を自己賛美して、他の人たちの前に見せびらかして、他の人々からそのような賛美を受けようとします。

「神父様、すばらしい御説教をしますね。」「神父様、神父様の翻訳はとても素晴らしいですよ。」「あぁ奥さん、とても美しいですね。鼻がとても高いです。」

これが、ガボンで宣教師として働いていた時に起こった事でした。黒んぼの女の子がやって来て、私に大きな目をまん丸にしてやって来ました。その女の子が私に恋をしたのかなと思いました。そういう時に私は時々、野蛮なちょっときつい態度をします、「何が欲しいのか!?」私はきっとこの女の子が、「あぁ神父様、愛しています」と言うのかなと思っていました。何と答えたか知っていますか?「神父様、鼻が大きいですね!」(^^;)

これが私たちの人生の問題であって、いつも何か良い事があると自分に帰属させます。他の人々からの注目を浴びようとして、そして他の人から褒めてもらおうとする、これが問題です。

本当ならそれの反対でなければなりません。もしも誰か知性的でとても頭が良い方があったら、それはますます謙遜でなければなりません。しかし私たちがこの世の中で見るのは、非常に知性的な頭の良い人たちが、もう絶望的な傲慢に膨れ上がっている事です。

マリア様はご自分の霊魂の中にあった「天主様の宝」の事によく気が付いていました。

本当の謙遜というのはこういうのではありません、「私は本当に弱くて、本当に私はダメで、本当に何もなくて、良い事もできなくて、これもダメで、これもダメで…」が謙遜ではありません。

ある時、誰かがこう私に聞きました、「神父様、神父様はとても頭が良いですね。」私はこう言いました、「その通りだと知っていますよ!」「神父様、神父様とても傲慢ですね。」「それは時にもよります。」それは条件があります。「誰に自分の才能を帰属させるか」によります。

アヴィラの聖テレジアの賢い言葉を聞いて下さい、「謙遜というのは、天主様の贈り物を無視する事ではない」と。「それがどこから来るか、という事を学ぶ事に謙遜がある」と。

ですから、マリア様の御生涯に起こった出来事を深く研究する必要があります。

謙遜というのは1つの世界です。謙遜というのは、その時と場合によって色んな表現の仕方があります。私たちは秋田に、マリア様の中に深く入る為にやって来ました。だから重要です。私たちがどうやってマリア様に倣うか倣わないかによって、私たちが聖人になるかならないかは決まります。

マリア様の色んな御生涯における行動を見て、私たちと比べて比較して、こうやってマリア様に求めて下さい。もしもそれがなければ謙遜になるとは何か理解できないでしょう。
時々黙想会の後で、黙想会をした人が、「黙想会の決心、“もっと謙遜になる事。”」こんな事は全く意味がありません。マリア様の謙遜をよく見て下さい。

マリア様がまだ小さな女の子だった時に、エルサレムの神殿に送られて教育を受けます。教父たちによると多くの教父たちによると、「マリア様は無原罪の御宿りであったので、その瞬間、天主様から天来の知恵を与えられて、知識も与えられて、マリア様は多くの事を既に生まれつきに知っていて、そのような注入された知識をお持ちだった」とあります。

既に幼くしてマリア様は、天主様から知識を知恵を注入されていたので、聖書の事を誰よりも、この地上にその時生きていた誰よりも深く知っていたはずです。マリア様はこの文字通りの文字面だけではなく、その深い隠された意味さえも理解していたはずです。

ではこのマリア様、小さな女の子がエルサレムで何をしたでしょうか?

しかしマリア様は、この知識を全ての人々に隠しておられました。神殿の責任者当局、司祭たちに従順に従って、その教えるままを勉強していました。エルサレムの神殿の司祭が、色々な昔のやり方によるユダヤ教のゴチゴチとした教えをグダグダと述べている時に、マリア様はそれを一生懸命、忍耐深く聞いていました。律法学士の教えをマリア様はよく聞いていました。そしてその律法学士の教えは、後にイエズス様が、「文字通りのその律法の精神を殺している」と告発したその悪い教えでした。

例を挙げます。ではこのユダヤの律法学士によると、「一体何時に朝の祈りしなければならないか?」律法学士によると、「朝の祈りの朝というのは、朝日が夜の闇を追い出し始めた、その日が昇りかけたその時から始まる。この黒い真っ黒の夜空が白みかけていて、光が少し出たところ。」

「ではその白みかけたというのは、この山の影が白みかけたのか?それとももうちょっと上が白みかけたのか?そのもうちょっと天が白みかけたのでしょうか?」「或いはこの光が弱々しい時でもう既に朝なのか?それとももうちょっと強くなったら朝なのか?それとももっと光り輝いたら朝なのでしょうか?」

生徒は、この色んな学派の解釈を覚えなければなりませんでした。「ガマリエル学派によると、これこれで。そして別の学派によると、これこれで。また別の学派によるとこれこれで」と、その学説を全て暗記しなければなりませんでした。

もしもそのような学説を聞いていてそれを聞いて、「もう退屈だなぁ」と思わなければならない方はマリア様でした。他の子供たちと一緒に聞いていて、マリア様はそれをずっと忍耐深く聞いていました。何故かというと、たとえ90%その中には下らない話だと思われていても、10%は何か良い話しがあるかもしれないと聞いていたからです。そしてその10%の為に聞いていました。

この謙遜は、「従順」と言われます。

私たちにはそれと全く正反対の事が起こります。皆さん何年か小教区にいますよね。神父様からまた同じ御説教を聞きます。「ふわぁ~(あくび)。この御説教またかよ、よく知ってるよこれ。」時々は、「私の方がもっとよく知っているよ」という事を見せつけようとします。誰か黙想会の後で、黙想会をした人が私の所に感謝に来ました、「神父様、この黙想会の事を本当に心から感謝します。私はこの事をもう何度も何度も何度も聞かされていて、もう覚えてしまっているほどです。耳にタコができています。もしも私があなただったら、もっとこうやって、こうやって、これとこれをもっとよく、もっとうまく説明した事でしょう。」

そのような場合には、私たちは利益を受ける事はありません。何故かというと、「天主の教えを何度も繰り返し聞く」という事は同じではないからです。皆さん、聖書などを読んで、イエズス様の御言葉を同じ事を何千回も何万回も読んで下さい。その度ごとにその実りが違います。

私はこの次のような、今から言う事を何度も何度も経験した事があります。私は、この他の神父様も同じようですが、私には特別のタレントというか才能があって、私はこの説教をとても退屈にさせるという才能があります。(^^;)そして説教をすると皆さんを眠らせるという技術もあります。(^^;)でもそのようなお説教を聞いた霊魂のうちに時々、私の所に来て、「神父様、私は今日特別の御恵みを受けました。」その私が言ったほんの一言二言がこの霊魂に染み通って、それに深い印象を与えて、何十年もこう神学の勉強をしたよりも更に深い理解を与えた、という事があります。これが謙遜な霊魂を天主様が報いて下さる例です。

もしも皆さんの中に、「神父様、知っています知っています。分かってる分かってる分かってる」という考えがあったら、どうぞそのような考えを捨てて下さい。これは傲慢にしかすぎません。

ところでエルサレムの神殿に話を戻しますと、神殿では「童貞性」という事に対してとても否定的な考えがありました。「もしも夫人に子供がいないという事は、天主様からの呪いだ」と考えられていました。ですから、「普通の良い女性というのは、結婚して子供を持たなければならない」と考えられていました。まだインドではこうなのですけれども、その当時は、誰と結婚するかというのは、自分で決めるのではなくて、両親或いは司祭が決めました。もしも女の子が神殿で奉仕の為に送られたならば、両親の親権を行使するのは司祭たちであって、この子供たちの女の子たちの責任は司祭たちにあって、誰が誰と結婚するというのは司祭が決めました。その当時では女の子は、「一体結婚するのかしないのか」或いは「誰と結婚するのか」という事は聞く事もできませんでした。

マリア様も同じでした。マリア様の為にはダヴィドの家のヨゼフという男を選びました。マリア様は神殿において、ご自分の貞潔の誓願を立てます。それはマリア様にとってとても大切な事でした。しかしユダヤ当局の司祭たちは、マリア様の心の中で一番大切なものを一つも理解できませんでした。しかし、その為にそのような司祭たちに反抗せずにそのまま従うには、マリア様にご謙遜が必要でした。もしもマリア様が、「自分のその意向をヨゼフという男に打ち明けたら、どんな反応が起こるだろうか。」恐れに打ち勝つ必要もありましたし、それに信頼しなければならないという事がありました。

皆さん、皆さんの人生の中で最も大切な事を、誰か別の人が決定しなければならない。しかもその決定は、皆さんの思っていたものと正反対だったとします。人間的に言えば、皆さんの持っている燃えるような望みは、実現する事は不可能だ、という状況に置かれたとします。

私たちは普通その時に、不平を言います、ブツブツ言います、「一体何でそんな事が私の身に起こったのか。」「あぁ、私が一体何の悪い事をしたのか。」「あぁ何故こんな事が起こるのか。」「僕はこの女の子と結婚したかったのに、もうあっちの世界に行くんだ。」

でもマリア様は謙遜に信頼しました。

第2の謙遜の表現があります。「天主の御摂理に信頼する」という事です。

問題に対する解決が見つからない時には、そして全てが失敗に終わって大失敗に終わろうとする時に、万事休すであって、もう全てこれでもう事が終わってしまうという時、全くもう救いの手助けもなくて、もうこれからもうどうしようもないという行き止まりだという時に、その時に何の混乱もなく、反乱も反抗もなく、天主の御旨に全て委ねて、忍耐強く待つ。これが謙遜です。私たちはこれからどれほど遠くにいる事でしょうか。

謙遜で、自分が無であるという事をよく自覚している人は、天主の御旨を果たす為に全てをします。そしてもしもその制限、限界を体験すると、ただ天主の御摂理に信頼するだけです。

3つの言葉があります。『天主は全てを知っている』『天主は全能だ』『天主は私を愛している』

第3の謙遜の表れは、「御告げ」です。

天主様が人間となるその瞬間は、無限の御謙遜の瞬間でした。喜びの第1玄義は謙遜の徳を乞い願います。小さな子供は、お母さんの事をよく見てお母さんの真似をします。マリア様のご謙遜をよく見て下さい。そしてその徳を真似て謙遜になりましょう。

御告げの時に、全ては謙遜でした。

大天使聖ガブリエル。この「ガブリエル」という名前の意味は、「天主の力」という意味です。天主の最も偉大な天使たちの内のその一位である大天使聖ガブリエルが、天主から特別大使として送られて、15歳のか弱い女の子の前に頭を深く下げて挨拶します。謙遜です。

これからマリア様のご謙遜を見ます。

そしてそのマリア様のご謙遜よりもはるかに素晴らしいのは天主のご謙遜で、天主はその天のいと高き所から、小さな胎児となる、小さな小さな胎児となる為に地上に降りて来られます。

この大切な時にマリア様には何が起こったでしょうか?

色々な聖画を見ると、マリア様の御告げのご様子がありますけれども、マリア様はお祈りに専念しておられました。突然大天使が現れます。マリア様はとても感動します。そして天使の挨拶の言葉を聞きます。誰もそのような言葉を聞いた事がありません。私たちが理解するよりもはるかに深く、その意味するところを理解しました。「聖寵に充ち満ちた御方、天主御身と共に在す。」その意味を深く理解していました。

聖書によると、「それを聞いて心を騒がせた」とあります。何故かというと、そのような素晴らしい名誉の動機が分からなかったからです。何故なら、自分の事は「全く最も端けらで、全く小さなものだ」と考えていたからです。「なぜ自分がこのような偉大な贈り物を、賜物を受けなければならないのか」と。

聖伝によると、マリア様は「救い主が生まれるべき時が来た」という事を知っていました。そこで、「是非そのような救い主の御母の女奴隷となって、召し使いとなってその方に奉仕したい」という事を望んでいました。

この瞬間お告げの瞬間、マリア様こそがこの救い主の母となる事と選ばれたと理解しました。この時に、「天主の偉大な御恵みが被造物に与えられる」という事を理解しました。最高の名誉と最高の贈り物が与えられる、このマリア様に与えられたという事が理解できました。

その答えは何でしょうか?

最初にマリア様が仰った言葉はこれです。マリア様は、「一体これはどうやって起こるのでしょうか?何故なら私は男を知りません」と。

マリア様は、この名誉とか、特別な待遇という事にあまり興味を持ちませんでした。マリア様にその将来何が起こるか、という事はあまり関心がありませんでした。「天主の御旨とは何か、一体何か。」これが一番の関心でした。

マリア様が1つ理解していたのは、天主様は聖母がいつも童貞のままに残るという事をお望みだ、という事です。天主様に聖別された童貞として残る、それが天主様の御旨なのだけれども一体どういう事か。

聖ヨゼフを配偶者として与える事によって、マリア様の童貞性を守る事ができるという事は、天主によって確認されました。司祭たちが、神殿の司祭たちが聖ヨゼフを選びましたけれども、この聖ヨゼフの考えた事は司祭たちはよく知りませんでした。

実は、全世界において、ただ聖ヨゼフだけが、「童貞性の貴重さ」という事を、イスラエルの律法学士たちの意見や学説に反して信じていたのです。それのみならず、聖ヨゼフは全世界でただ一人、「その理想に向かって生きよう」という決心を立てていた男でした。

天主様は全知です。そして全能です。そのようなものを全て1つにまとめる事ができます。もしも私たちが謙遜であるならば、天主様は私たちにとって最高の事を全て準備お膳立てして下さいます。

ですからマリア様は、「終生童貞であるという事が天主の御旨である」という事をよく理解しました。

ところが天使は、「あなたは母となる」と言うのです。「母となる」という事と「童貞を守る」という事は2つは矛盾します。天主様はマリア様が童貞である事をお望みだと理解して、そして同時に母となるという事を理解しますが、「一体どうやって起こるのだろうか?」

そこでマリア様には、その「一体これがどうやって起こるのか」という事を聞く権利と義務がありました。

そこで天使はマリア様に、そのどうやって起こるかを説明します。700年前のイザヤの預言を引用して、「童貞女が子供を生むだろう、母となるだろう」という事を説明します。その天使の言った言葉の結論は、「天主様には不可能な事がありません。」

マリア様は、「なれかし」と言ってその同意を与えます。

もしかしたら普通の人で、どのように聖なる人でも、そのような天使がこうやって、「救い主の母となるだろう」と告げに来たとしたら、もしかしたらちょっとした満足を覚えるかもしれません。「あぁ、このような名誉を受けるとは何と素晴らしい事だろうか」と思ったかもしれません。「他の人にどれほど良い事をする事ができるでしょうか。」「あぁ、私をそうやって名誉を与えて下さるのは、何と天主様は優しい方でしょうか。」ほんのちょっとだけでも、満足や喜び、その名誉を感じるのは、これを避けるのは難しい事かもしれません。

でもマリア様は、マリア様は全ての女性の中で選ばれた特別の女性であって、全ての被造物の中で特別の存在となります。マリア様はご自分の中にある全ての善徳と、全ての美しいものと、その童貞性の美を見ます。それと同時にマリア様は、「全ては天主様から頂いた贈り物である、賜物である」という事を理解しています。「私は全く無なのですけれども、天主様の憐れみによってのみ、ひたすら憐れみによってこれを頂いた」と。「全ての美しいものは天主によって与えられた」と。

マリア様はこの「2つの無限」を考えます。まずマリア様の前に、「無限の天主の御稜威」をご覧になります。そして「無限の自分の空しさ、無」を見ます。

その論理的な結論は、「おぉ天主様、御身は全てであり、私は何でもありません。私はあなたが全て。御旨のままに御言葉の通り我になりますように。ここに御身の女奴隷がおります。」

この謙遜なマリア様の答えが、天主様の心を非常に感動させました。天主様ご自身がそこで、この世を救う為に人となられました。

御復活節が終わると、お告げの祈りを1日3回唱えます。「主の御使いの告げありければ、」これをどうぞ忘れないで下さい。

何で1日に3回もお告げの祈りを唱えるのでしょうか?この「3」というのは、それが「満ちておられる」という事と、それが「完璧である」という事と、その「継続性」を意味します。朝と昼と夜、マリア様のご謙遜を黙想しなければなりません。そして真似しなければなりません。教会はですから、「御告げがこの救霊の業にどれほど重要な役割を示したか」という事を強調するのみならず、この「マリア様の謙遜の中に深く入る事ができる」という事を教えています。「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし」というのを3回1日に唱える、そしてその中に入るという事は謙遜の行為です。

御告げの後に、別のご謙遜の表れがあります。マリア様は急いで聖ザカリアと聖エリザベトの家に行きます。天と地の元后、天主の御母が、最も謙遜で最も卑しい仕事を、奉仕をする為に急ぎます。これは何を意味するのでしょうか?

「マリア様は、謙遜な者と居るのを望む」という事です。辱しめられた、卑しめられた、屈辱を受けた者と居るという事を望むのです。マリア様は、謙遜で屈辱を受けた人たちと共に居るという事です。

もしも皆さんが他の人から馬鹿にされて、そして卑しめられたとしたら、マリア様は皆さんの所に行くと、自分の家に来たかのように感じられるでしょう。

その当時イスラエルには、謙遜な人はそんなに多くはいませんでした。ファリザイ人やサドカイ人などは非常に傲慢な人たちでした。しかしこの謙遜な人たちの間に属していたのが、ザカリアとかエリザベトでした。聖書によると、「彼らは憐れみの天主の救いを待ち望んでいた」とあります。

この2人は辱しめられていた人でもあります。何故かというと、子供がいなかったからです。そしてこの子供がないという事のみならず、ザカリアは唖になるという辱しめをも受けました。しかも天主様の聖なる仕事をしている最中に、その何か罰を受けたかのようにいきなり唖になって帰って来た。「何と悪い奴だろうか。」多くの人々は、この子供がないとか、唖になったというのは、隠れた罪の為による罰であると考えていました。共同体は皆この二人の事を軽蔑して、馬鹿にしていました。マリア様はそのようなこの二人のもとに走って行くのです。

また次の謙遜の表れが来ます。

私たちは皆、無に等しいものですが、天主様はこのような事を自覚する無の霊魂たちを愛します。いつも類は類を呼ぶと言うのでしょうか、いつも似たような人たちには似たような人たちが集まります。私たちは知っています、この世で謙遜になるのは、辱しめを受け、屈辱を受けなければならないという事を。そこで何か本能的に、もしも私たちが屈辱を受けた時には、そのように辱しめられた卑しめられた人の方に向かいます。

また謙遜の特徴の1つは、「一番大切なものは何か」という事を覚えている事です。それを覚えて感謝する事です。天主の憐れみの御業を覚えて感謝する事です。私たちの無を満たして下さる天主のその聖心を覚えて感謝する事です。

これがマリア様の歌「マニフィカト」です。

聖書の中で、全ての聖書を探すとマリア様の言葉が7回出てきます。ほんの小さい言葉です。一番長いのがマリア様の祈りです。マリア様が一番長く話したのが、このマニフィカトのお祈りです。

もしもご謙遜になりたいですか?天主様の憐れみをよくこう考えて下さい。私たちがそれを受けるに全く相応しくないという事を考えて下さい、思い出して下さい。天主様の憐れみの業1つ1つを深く感謝して下さい。

以上のように、色々な憐れみの表れのやり方があります。

もっと難しい謙遜の表れは、「苦しみ」においてやって来ます。

もしも謙遜な霊魂であるならば、その結果、苦しむ霊魂と共に苦しむという態度が生まれるからです。謙遜な霊魂は、天主の深い神秘の意味を理解します。謙遜な霊魂は、天主イエズス様の愛がどれほど大きいかを理解します。御聖体を拝領する時に、どれほどえも言われない、信じらないほどの偉大な御恵みが私たちに来ているのか、という事を謙遜な霊魂はますます深く理解します。罪がどれほど恐ろしいかを理解します。するとその理解した事を友達にぜひ話したくなります。

私たちが天主様の近くに行けば行くほど、多くの場合友人を失ってしまいます。何故かというと、皆さんは別の言語を話し始めるからです。今までのお友達は、皆さんが何を言っているか理解できなくなります。一番近しいお友達だった人も、一体何の話しをしているのか理解できなくなります。この女の子の友達が「さぁ、ショッピングに行きましょう。一緒にご飯食べよう。」「すみません、時間がないのです、もっと別のする事があるから。」皆さんのお友達は、「大阪のおいしい店みんな知ってるよ。昔よく行ったじゃないあの喫茶店。どうしたの?」「昔は365日別の違うきれいな服を着てたじゃない。今何それ、何か学校の制服のように。」

皆さんこういう事を体験された事でしょう。皆さんが持っているその宝、憐れみの宝を他の人に与えたいのですけれども、彼らはそれを理解できないのです、それをブロックされています。何か彼らは昔のお友達は、今自分からどんどん離れて行くかのようです。もう互いに理解し合う事ができないかのようです。昔は面白かった、昔は関心があった事はつまらなくて、何か時間の無駄で、そして昔のお友達はもう目から消えてしまのです。この苦しみも私たちは受け入れなければなりません。

この例を挙げます。聖ヨゼフは最も幸せな男の1人でした。何故かというと、これほどすばらしい妻と結婚できたという事です。ところで聖ヨゼフ様は、マリア様がザカリアとエリザベトの家から帰って来ると、何かお腹が膨らんでいるのを見ます。聖ヨゼフは自分の目を信じる事ができませんでした。「なぜ妊娠しているのか!?」でもその証拠が目の前に突き付けられているから、もう議論をする余地もありません。マリア様からは何の説明もありません。「一体何が起っているのだろう、一体何なんだ!?」でもその結論を出す事ができません。「このマリア様は全く純粋で、きれいな清い御方で、これほどの清い方はいない。それは知っていた。しかし誰か別の男と私通をしたのか、もしもそのような事であれば最も悪い最悪の罪であって、本来ならば石殺しにされなければならない。」

聖ヨゼフはもう眠る事ができませんでした。解決の道がありませんでした。もしもこの子供が生まれたら役所に行って、この子供について出生について聞かれます。「これはあなたの子供ですか?」もしも、「そうです」と言えば嘘になる。もしも、「いいえ」というと、マリア様は石殺しにされる。「どうしたら良いのか。」唯一残された道は、このまま姿を消してしまう事、跡を残さずに姿を蒸発してしまう事。マリア様はきっとこう聞かれたら、「これはあなたの子供ですか?」「はい。」

そしてマリア様と離れて、別の所に行こうと決心した時、マリア様の命を守る為にそうしようとした時、でもこれは一体ヨゼフにとって何を意味したか分かりますか?この「生活の喜び」というのは全て失われるのです。最愛の妻、最も愛する妻を今離れて、もう決して見る事もない、会う事もない、話す事もない。

マリア様はそしたらより少なく苦しむと思いますか。マリア様はヨゼフ様の苦しみをよく理解していました。マリア様はヨゼフ様にちゃんと説明したかったのです、本当なら。そうすればこの2つの清い霊魂が互いに苦しみ合い、互いの喜びを分かち合う事ができたはずです。

でもこの2人は謙遜のままに留まりました。マリア様もヨゼフ様も、反乱とか反抗とかを起こす事はありませんでした。最も悪いものを、最悪のものを受け取る準備ができていました。何故なら、「私は何でもない」からです。「無」だからです。「天主が望む事だけを為すように。」

天主様は謙遜の全ての行為を祝福して下さいます。もしも必要ならば奇跡さえも起こします。

天主の御前で謙遜になる霊魂は、喜びのみならず、苦しみにおいても天主に信頼します。私たちの場合には、謙遜はいつも辱しめ、辱しめを受ける苦しみと一緒に来ます。マリア様は私たちと別の境遇には置かれていましたけれども、マリア様は罪から守られていましたけれども、マリア様は進んで、自ら進んで喜んで、屈辱と辱しめを受ける事を望みます。そうしてマリア様は、全ての観点において私たちの為の謙遜の模範となる事ができました。

今晩、イエズス様が御誕生された時に、マリア様はどれほど屈辱、辱しめられたか、という事を黙想しましょう。

今日午後、ご謙遜な単純な木像のマリア様の前に行った時に、どうぞ謙遜の徳を乞い求めて下さい。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

「洗礼の秘蹟について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「洗礼の秘蹟について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「洗礼の秘蹟について」

親愛なる兄弟の皆さん、

洗礼は七つの秘蹟のうちの最初の秘蹟です。最初に洗礼を受けなければ、誰も他の秘蹟を受けることはできません。洗礼は、他の秘蹟への扉、特にご聖体の秘蹟への扉なのです。すでに聖ユスティノがこう言いました。「この食べ物は私たちの間では『エウカリスチア』(ご聖体)と呼ばれており、私たちが教えていることが真理であると信じており、かつ罪の赦しのための洗浄で洗われて新たに生まれ、かつキリストが命じたように生きている人以外は、それにあずかることは許されていない」。まことの信仰、洗礼、そして命が成聖の恩寵の状態にあること、ご聖体を受けるためのこれらの条件は、こんにちでも教会の始まりのときと同じです。

洗礼が最初であるのは、それが誕生だからです。命の始まりです! 「まことにまことに私は言う。人は新たに生まれないと、天主の国を見ることはできぬ」(ヨハネ3章3節)。この新たな誕生は「水と聖霊によ」(ヨハネ3章5節)るのです。そして、これは永遠に続く命の誕生です。洗礼のときに受けたその新たな命は天国で花を咲かせます。ここ地上ではそれを失うこともありますが、天国ではもう失うことはありません。しかし本質的には同じ命です。

教会は次のように教えています。主が洗礼を制定なさったのは、主がヨルダン川で洗礼を受けられたときであり、それによって主は水を聖化されました。主が洗者聖ヨハネによって洗礼を受けられたあと、天が開けて御父の声が聞こえ、聖霊が鳩の外観のもとに来られました。これは、洗礼によって私たちが天主の子となり、聖霊の神殿となることを表しています。その後、主ご自身が洗礼を始められました。主は最初の使徒たちに洗礼を授け、その後、聖ヨハネが言うように(ヨハネ4章1-2節)、その使徒たちが他の弟子たちに洗礼を授けました。聖ヨハネは一番最初の二人の使徒のうちの一人であり、おそらく主ご自身によって洗礼を授けられました。

洗礼の質料は天然の水、いやむしろ天然の水によって洗われることです。洗礼を行うことのできる三つの方法があり、教会の始まりの時点では普通だった浸礼によってなされるか、体の上に流れるように水を注ぐことによってなされるか、または(本当に洗うのに十分な量の水による)灌水によってなされるかです。実際、皆さんが体を洗う必要のある場合、お風呂に入るか、水道の蛇口の下で洗うか、シャワーを浴びるかのどれかでしょう。こんにち洗礼を授ける普通の方法は水を注ぐことですが、それは他の方法よりも実際に行いやすい方法だからです。浸礼は、特に寒い国々では危険でした。特に小さな子どもにとっては!

洗礼の質料は、罪と罪による罰から霊魂を洗うことを表していますが、また「キリストとともに葬られること」も表しています。浸礼による洗礼ははっきりとそれを表していますが、単に水を注ぐことだけでも確かにその意味を持っています。実際、埋葬の儀式においては通常、信者は花か土を棺の上に置きますが、必ずしも棺を完全に覆ってしまうのではありません。さて聖パウロはこう言います。「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである」(ローマ6章3-4節)。

洗礼が有効であるためには、水が肌の上を流れることが必要です。プロテスタントの中には、洗礼を行う方法があまりにずさんであるため、時には洗礼が無効である場合があります。私がアメリカで知っているケースでは、カトリック信者になりたがっていた若い男性が私に話してくれたのですが、彼はプロテスタントの牧師である彼のおじによって洗礼を授けられたそうなのですけれども、そのおじが彼に言うには、自分の一本の指を水の中に少しつけたあと、その指でひたいに十字架のしるしをしたというのです。さて、皆さんが泥の中に転んだ場合、そのあと一本の指を水の中に少しつけて泥だらけの肌の上に十字架のしるしをして、それできれいになるでしょうか? なるはずがありません! お風呂に入るかシャワーを浴びるか、あるいは少なくとも水道の蛇口の下で洗う必要があります! 聖アルフォンソが彼の著書「倫理神学」の中で、そんなケースについてはっきりと言及しており、その場合はその人が条件つきで再洗礼を受ける必要があると言っていることを知るのは興味深いことです。

洗礼の「質料」の意味は、洗礼の「形相」によって明確になります。この形相は、次の聖福音の中にはっきりと見いだされます。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」(マテオ28章19節)。至聖なる三位一体の御名において行うことは、洗礼が単なる体の洗浄ではなく聖なる洗浄であることを明確にしています。すべての罪とそれによる罰が受洗者の霊魂から完全に取り除かれるのは、至聖なる三位一体の力によるのです。また司祭は、至聖なる三位一体を敬うため、(受洗者に)水を流すとき、その水で三つの十字のしるしをします。

多くのプロテスタントたちが洗礼のこの正しい「形相」を使っていないことを知っておく必要があります。彼らは使徒行録の中で、ある人たちが「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」(使徒行録19章5節)と読んでいます。ですから彼らは、洗礼の形相は「私は、主イエズスの御名によって、あなたに洗礼を授けます」と言うことだと、間違って思っているのです。そんな洗礼の方法は確実に無効であり、私たちの主イエズス・キリストご自身が教えられたことに反しており、聖マテオの福音書で主が使徒たちに明確に与えられた指示に反しており、教会が始まりのときから続けてきた変わることのない実践に反しています。

では、使徒行録の中で聖ルカはなぜ「彼らは主イエズスの御名によって洗礼を受けた」と言ったのでしょうか。第一に、使徒行録の目的は、典礼についての本を書くことや、秘蹟をどのように授けるかを書くのではなく、むしろペトロとパウロの使徒職によって福音が広がっていったことを記述することであったのであり、これらのプロテスタントたちは聖ルカの言葉から不適切な結論を引き出しているのです。第二に、「主イエズスの御名によって洗礼を受けた」という言葉は、「ヨハネによる洗礼」と対比しようという意図で使われています。これはエフェゾのケースではっきりしています。エフェゾの町の最初の弟子たちは、アポロと呼ばれる男によって教えを受けており、アポロは洗者聖ヨハネの弟子でしたが聖三位一体のことを明確には知らなかったのです。聖パウロがそこに着いたとき、彼らが聖霊の存在さえも知らなかったことが分かりました。ですから聖パウロは彼らに尋ねました。「『どんな洗礼を受けたのですか』。彼らは答えました。『ヨハネの洗礼です』」(使徒行録19章3節)。ここではっきり分かるのは、彼らがイエズスの洗礼を受けていたのなら、まさに「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を受けて」いたはずですから、必ず聖霊を知っていたはずだということであり、また彼らが聖霊を知らなかったのなら、それは明らかに彼らが「イエズスの洗礼」によって洗礼を受けていなかったことを意味していたということです。洗礼の正しい形相を尊重していないため、多くのプロテスタントの洗礼は無効です。

このことから、第二バチカン公会議以前は、最初の洗礼が正しい質料と正しい形相および意向で行われ、有効であったと証明されえない限り、教会はプロテスタントからの改宗者に全て条件付きで再洗礼を授けていました。

秘蹟は、それが意味するものを実際につくり出します。こうして、洗礼は霊魂の洗浄を意味するだけでなく、実際に霊魂を完全に洗浄するのです。教会は、洗礼はそれ以前に犯した罪をすべて洗い去ると教えています。洗礼は原罪と大罪、小罪のすべてを洗い去ります。洗礼はまた、これらの罪による罰をすべて赦しますから、洗礼ののちすぐに死ねばその人は煉獄に行く必要がなく、直接天国へ行きます。

私たちはこれまで、罪による三つ目の結果があることを見てきました。それは罪による傷であり、それは洗礼によって完全に癒やされるのではありません。洗礼は癒やしの過程を始めるのであり、傷に対して薬をつけるのですが、その薬で癒やしがすべて完了するには時間がかかるのであり、信者の側の協力が必要になります。

洗礼は受洗者に成聖の恩寵をつくり出します。これは、罪を洗い去るのと同じ現実の肯定的な面です。闇は光によって追い払われます。罪は成聖の恩寵によって追い払われます。成聖の恩寵が注入されることなしに罪が赦されることは不可能です。また、反対に、罪を追い払うことなしに成聖の恩寵を受けることも不可能です。実際、成聖の恩寵と罪は同じ霊魂に同時に存在できません。光と闇が同じ場所に同時に存在できないのと同じように。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ」(マテオ6章24節)。成聖の恩寵は、天主ご自身の命にあずかることです。聖ペトロはこう言っています。「主は私たちに偉大で尊い約束を与えられた。それは、その約束によって、あなたたちを天主の本性にあずからせるためであった」(ペトロ後書1章4節)。天主の本性にあずかること、天主の命にあずかること、天主からそのような命を受けることは、天主の子になることを意味します。天主の御独り子である私たちの主イエズス・キリストの肢体にならなければ、これは決して起こりません。私たちは、天主の御子の肢体として、天主の御子において天主の子なのですから。キリストの体、すなわち教会、カトリック教会の中にいなければ、天主の命を生きることは不可能なのです。このことから、有効で実り豊かな洗礼が、私たちをカトリック教会の肢体にするのです。

もう一つの重要な洗礼の効果は、洗礼によって霊魂に刻まれる刻印です。洗礼によって、私たちは天主の子としてのしるしを付けられます。この刻印は永遠に続くもので、洗礼にふさわしく生きて天国へ行く人々の栄光となり続け、または不信心な生き方によって洗礼を汚して地獄へ行く人々の恥となり続けます。この刻印は、一生の間、助力の恩寵、つまり天主の子としてふさわしく生きるよう助ける恩寵を与える素晴らしい源泉なのです。

秘蹟というものは、「エクス・オペレ・オペラート―なされた行為それ自体によって」働きます。その意味は、その秘蹟を受けたという事実それ自体によって、その秘蹟の効果を受けたということですが、ただ一つ条件があります。その条件とは、秘蹟の効果に対して障害を置いていないことです。たとえば、実際、盗人が洗礼を受けても同時に盗んだ物を返すことを拒んだ場合、その盗んだ物への愛着が恩寵を受ける障害となります。この場合、盗人は洗礼の刻印を受けますが、成聖の恩寵を受けず、罪の赦しを受けず、むしろこれまでの罪に汚聖の罪を加えることになるのです!

洗礼の恩寵に対して最もよくある障害は異端です。まことの信仰を、カトリック信仰を拒否することです。このことこそ、プロテスタントの洗礼が恩寵を与えない理由です。例外は赤ん坊だけで、それはもちろんそのような障害を置いていないからです。そのような障害は、使徒たちの信仰、すなわちカトリック信仰を受け入れることによって回心し、悔悛の秘蹟を受けることによって取り除かれます。

洗礼の秘蹟の通常の執行者は司祭です。司祭は、教会の美しい典礼のすべてを使って「荘厳な洗礼」を授けることができます。しかし、緊急の場合には、信者なら全員、さらには誰であっても、カトリック信者でない人でさえも、洗礼を授けることができます。なぜそうなのでしょうか? なぜなら、天主はすべての人の救いを望んでおられ、それゆえに人々が洗礼を受けるのを広く可能にされるからです。ですから、もしカトリック信者の母親が子どもを産むときに、出産に際して困難が起こるならば、母親は看護師に洗礼をお願いすることができるのです。その看護師がカトリック信者でない人であっても、子どもに洗礼を授けるようにお願いし、洗礼が適切に行われるかを確認します。すなわち、看護師が、「われ、聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝を洗う」と言いながら子どもの肌の上に水を注ぐのを確認するのです。看護師が、母親が意向として持っていることを行うという意向を持っていれば、意向を正しくするには十分です。なぜなら、母親は教会が意向として持っていることを行うという意向を持っているからであり、すなわち有効な洗礼になるからです!

正しい意向、すなわち教会が行うことを行うという意向もまた必要です。なぜなら、言葉と儀式の意味そのものは、最終的には秘蹟の執行者の意向によって決定されるからです。一部のプロテスタントのように、教会の意向がはっきりと拒否されている場合、意向の欠如によって秘蹟は無効になります。教皇レオ十三世は、英国国教会の叙階の秘蹟について次のように説明しました。いけにえを捧げる司祭職ということを拒否することによって、彼らは正しい意向を持っていなかったため、彼らの叙階は無効であった、と。通常は、カトリックの儀式を行うことそのものが、意向が正しいことの保証なのです。

洗礼の儀式は美しく、更なる恩寵の源です。洗礼の儀式は、大変重要な問いと答えで始まります。司祭は問いかけます。「あなたは天主の教会に何を求めますか?」。求道者は答えます。「信仰を求めます!」。続いて司祭は問いかけます。「信仰はあなたに何を与えますか?」。求道者は答えます。「永遠の命を与えます!」。そして司祭はこう締めくくります。「あなたが永遠の命を求めるなら、掟を守りなさい」。これらの短い問いと答えは、洗礼の精神と目的のすべてを含んでいます。最終目標は天国での永遠の命です。キリスト教徒の全生涯を通じて、常に目の前にその目標を置いておかなければなりません。私たちは、ここ地上においては巡礼者であり、「この涙の谷でのちくたくの身」です。「あなたたちは聖徒たちと同市民、天主の家族である」(エフェゾ2章19節)。

天国へ行くために、人は信仰を必要とします。ですから、求道者はまことの教会からまことの信仰を求めます。「あなたは天主の教会に何を求めますか? 信仰を求めます!」。そして洗礼が与えるものはこれです。私が数週間前に説明したように、洗礼は注入された信仰の徳、希望の徳、愛の徳を成聖の恩寵と一緒に与えます。しかし、信仰だけでは十分ではなく、天国への道であり、それゆえに教会の勧告である掟に従う必要があるのです。「命を求めるなら、掟を守りなさい」。これは、主に「よき師よ、永遠の命を受けるために私はどんなよいことをすればよいのでしょうか?」(マテオ19章16節)と尋ねた若者に主ご自身が言われたことです。私たちの主は答えられました。「命に入りたいのなら掟を守れ」(マテオ19章17節)。

ノブス・オルドの典礼の洗礼では多くのものが削除されており、これら最初の問いと答えも任意とされました。まことの教会からまことの信仰を求めることがなくなり、天国を望むことがなくなり、いや少なくともこれが任意になってしまいました。

その後、司祭は、聖霊降臨のときの強い風のように、聖霊のくだる象徴として、子どもに息を吹きかけます。そしてこう言います。「汚れたる霊よ、この者よりいでよ。しかして聖霊に席を譲れ」。こうして、ある戦い、つまり霊魂を求める戦いが続いていることが分かります。天主はこの霊魂を救うことを望んでおられますが、悪魔は霊魂をだまして破滅に導こうと躍起になっています。原罪と自罪があるため、洗礼を受けていない者は一定程度、自分の餌食を失いたくない悪魔の支配下にあったのです。キリストは、その霊魂を悪魔の力から解放されます。これは悪魔祓いの儀式でさらにはっきりとします。

悪魔祓いは、私たちを悪魔から解放するための天主への単なる祈りではありません。悪魔祓いとは、主にその権能を与えられたキリストの役務者により、私たちの主イエズス・キリストの御名によって悪魔に対して与えられる、実際の指図であり、命令です。悪魔はそんな悪魔祓いの前でおののき、求道者の霊魂に対する力を失います。ノブス・オルドの典礼の洗礼は、これらの悪魔祓いのすべてを廃止してしまい、悪魔に対抗する祈りがたった一つだけしか残っていません。悪魔に対して離れるようにとの命令はもはやまったくありません。

その後、司祭は、「汝のひたいにも心にも十字架のしるしを受けよ。天の教えの信仰を受け、天主の神殿となるにふさわしい行いをせよ」と言いながら、求道者のひたいと胸に十字架のしるしをします。他にも何回か十字架のしるしが求道者になされます。秘蹟の前には、求道者の胸と両肩に”求道者の油”でなされ、これによって十字架を愛し、十字架を担う勇気を持つよう励まされます。洗礼のあとには、頭の上に聖香油で十字架のしるしがなされ、子どもが聖霊の神殿になったことが表されます。これらの十字架のしるしが明らかにしているのは、十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストの弟子になること、すべての恩寵は十字架から来ること、そして「自分を捨て、日々自分の十字架を背負って(十字架の)キリストに従わ」(ルカ9章23節)なければならないことです。またもや、新典礼では、これらの十字架のしるしの多くは廃止されてしまっているのです。

求道者は、腐敗しない象徴、霊的な良き味の象徴として、祝別された塩を受けます。これはまた、「最初の食べ物」であり、ご聖体である「いのちのパン」(マテオ6章11節)を求道者に渇望させます。

その後、求道者は司祭のストラに導かれて教会の中に入ります。これは唯一のまことの教会、カトリック教会に入り、教会の聖職階級に服従することを象徴しています。求道者が教会の中で行う最初のことは、洗礼の準備で習った使徒信経を告白することです。子どもの場合には、子どもの代わりに代父母が子どもの名によってカトリック信仰を告白し、子どもに信仰を教える約束をします。実際、まことの信仰は、カトリック教会の一致をつなぐ、最初にして最も基礎的なものです。この信仰こそ、求道者が全生涯にわたって保持し、実行しなければならない信仰です。次に、求道者はすべての祈りの手本である「天にまします」を唱えます。なぜなら、カトリック的生活は、本質的に、天主の子としての祈りと天主との友情の生活であるからです。この祈りは毎日しなければなりません。

その後、三回の悪魔の放棄、三回の信仰告白があります。これは最も重要なことです。私たちは、特に誘惑に遭うとき、かつて、きっぱりと、これら悪魔の誘惑をすべて放棄したことを思い起こさなければなりません。つまり、私たちは、罪に対して固い決意をもって「いいえ」と言ったのです。私たちは、悪魔が私たちを誘惑するとき、この決意を新たにしなければなりません。「私は悪魔を捨てます。その業を捨てます。その欺きを捨てます」と。私は悪魔を捨てます。なぜなら、私は固い決意をもって天主を選んだのですから。天主に対して「はい」、悪魔に対して「いいえ」と!

他にも多くの美しい祈りがありますが、長くなり過ぎてしまうため、詳しくは説明できません。ただ、付け加えさせていただければ、洗礼のあと、私たちは私たちの霊魂の清さの象徴として白い衣を与えられ、そしてキリストの法廷まで、すなわち審判を受ける生涯の終わりまで、それを汚れなく保つよう忠告を受けます。幼きイエズスの聖テレジアのように、自分の霊魂を洗礼による無垢の状態に保つ人々は幸いなるかな! それを失った人々は悔悛の秘蹟を受け、それを回復させるようまことの悔悛をしなければなりません。しかし、それを失わない方がさらに良いことであり、さらに天主をお喜ばせするのです! この白い衣は、王が自分の子の婚礼の宴席に来るのを許した人々が着てくることを期待している「礼服」のことを表しているのです(マテオ22章11-12節)。

最後に、受洗者は、火のついたろうそくを与えられますが、これは受洗者の霊魂に灯されたばかりの信仰の光および愛徳の火の象徴です。「この燃えるろうそくを受けよ。汝の洗礼を非の打ちどころのない状態に保て。天主の掟を守れ。主が婚礼の祝宴に来られるとき、汝が天国の王宮ですべての聖人たちとともに主の御前にいて、永遠にそこに住むことが許されるように」。こうして、天国をその目的として始まった洗礼の儀式は、天国をその最終的な報いとして終わるのです。

洗礼によって、私たちは天主の子、キリストの肢体となり、それゆえにマリア様の子となります。聖母は洗礼を受けた人すべてをご自分の子として養子になさり、私たち一人一人を非常に特別に心にかけてくださいます。マリア様の御子である私たちの主イエズス・キリストをお喜ばせするために、私たちはマリア様の子として生きましょう。

私たちの洗礼を常に思い起こしましょう。私は洗礼を受けており、異教徒として生きることはできません! 私が、自分の洗礼に恥じぬよう、私たちのかしらであるキリストに栄光を帰すことによって、キリストの肢体としてふさわしく生き、主の徳に倣い、「主によって、主とともに、主のうちに」生きることによって、永遠に聖霊との一致のうちに御父の栄光の中に入ることができますように。アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

"On the Sacrament of Baptism" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「洗礼の秘蹟について」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「洗礼の秘蹟について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the Sacrament of Baptism

My dear brethren,

Baptism is the first of the seven Sacraments: one cannot receive any other Sacrament unless one is baptised first. It is the door to the other Sacraments, especially the most Holy Eucharist. Already St Justin said: “And this food is called among us "Eucharistia" [Εὐχαριστία = the Eucharist], of which no one is allowed to partake but the man who believes that the things which we teach are true, and who has been washed with the washing that is for the remission of sins, and unto regeneration, and who is so living as Christ has enjoined.” The true Faith, Baptism and a life in the state of grace, these conditions for receiving Holy Eucharist are the same today as they were the beginning of the Church.

Baptism is the first because it is a birth: the beginning of life! “Amen, amen I say to thee, unless a man be born again, he cannot see the kingdom of God” (Jn. 3:3). That new birth is “of the water and of the Holy Ghost” (Jn. 3:5). And it is a birth to everlasting life: that new life received at baptism blossoms in Heaven. Here below it can be lost; in Heaven it can no longer be lost. But it is essentially the same life.

The Church teaches that our Lord has instituted Baptism when He was baptised in the Jordan, thus sanctifying the waters. After He was baptised by John the Baptist, the heavens opened, the voice of the Father was heard and the Holy Ghost came under the visible appearance of a dove: this signifies that by Baptism we are made children of God and temples of the Holy Ghost. Then our Lord Himself started to baptise: He baptised His first apostles and then they baptised the other disciples as St John says (4:1-2): he was one of the very first two Apostles, perhaps baptised by our Lord Himself.

The matter of baptism is natural water, or rather the washing by natural water. It can be administered in three ways, either by immersion as was common at the beginning of the Church, or by pouring water in such a way that it flows over the body, or by aspersion (with enough quantity to make a real washing). Indeed if you need a wash, you can either take a bath, or wash under a tap or take a shower. The common way to baptise now is by pouring water, being the more practical way. Immersion especially in cold countries proved rather dangerous, especially for little children!

The matter signifies the washing of the soul from sin and from the punishment of sin: but it also signifies the “burial with Christ”: baptism by immersion clearly signifies it, but also the simple pouring of water does have that signification: indeed in a burial ceremony usually the faithful put either some flowers, or some dirt on the coffin without necessarily covering it entirely. Now St Paul says: “Know you not that all we, who are baptized in Christ Jesus, are baptized in his death? For we are buried together with him by baptism into death; that as Christ is risen from the dead by the glory of the Father, so we also may walk in newness of life” (Rom. 6:3-4).

In order to be valid, it is necessary that the water flows on the skin: some Protestants sometimes are so sloppy in their way to administer Baptism that it is invalid. I knew a case in the USA where a young man, who wanted to become Catholic, told me that he had been baptised by his uncle, who was a Protestant minister, and that uncle told him he had simply dipped his finger in water and traced the sign of the cross on the forehead with it. Now if you had fallen in the mud, and then dip one finger in the water and trace a sign of the cross on your muddy skin, are you going to be clean? Not at all! You need either to take a bath or to take a shower, or at least to wash under a tap! It is interesting to know that St Alphonsus in his Moral Theology explicitly mentions that case and says that in such a case the person needs to be conditionally re-baptised.

The signification of the “matter” is made clear by the “form” of Baptism. This form is explicitly found in the Holy Gospel: “Going therefore, teach ye all nations; baptizing them in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Ghost” (Mt. 28:19). The invocation of the most Holy Trinity makes it clear that Baptism is a sacred washing, not just the washing of the body. It is by the power of the most Holy Trinity that all the sins and their punishment are completely removed from the soul of the baptised. Also the priest pours the water making three crosses with the water, in honour of the most Holy Trinity.

One needs to know that many protestants do not use this right “form” of Baptism; they read in the Acts that such and such persons were “baptized in the name of the Lord Jesus” (Acts 19:5). And they wrongly think that the form of Baptism consists in saying “I baptise you in the name of the Lord Jesus.” Such manner of baptising is certainly invalid, being contrary to what our Lord Jesus Christ Himself taught, contrary to the instruction He clearly gave to His Apostles in St Matthew’s gospel, and contrary to the universal practice of the Church since the beginning.

Why then did St Luke in the Acts of the Apostles say that “they were baptised in the name of the Lord Jesus”? First of all, the purpose of the Acts was not to write a book on liturgy, on how to perform the sacraments, but rather to describe the spreading of the Gospel by the ministry of Peter and Paul, to these Protestants draw an undue conclusion from St Luke’s words. Secondly, the expression “baptised in the name of the Lord Jesus” intends to make a contrast with the “Baptism of John”. This is manifest in the case of Ephesus: the first disciples of that city had been instructed by a man called Apollo who was a disciple of St John the Baptist and did not know explicitly the Holy Trinity; when St Paul arrived there, he found that they did not know even the existence of the Holy Ghost. So he asked them: “In what then were you baptized? They said: In John's baptism” (Acts 19:3). It is quite clear here that, if they had been baptised in the Baptism of Jesus, they would necessarily have known the Holy Ghost, precisely because they would have been “baptised in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost”; if they did not know the Holy Ghost, that meant clearly that they had not been baptised in the “Baptism of Jesus”. By not respecting the proper form of Baptism, many Protestant Baptisms are invalid.

Hence before Vatican II, the Church would systematically re-baptise conditionally the converts from Protestantism, unless their first baptism could be proven to be valid, being done with the proper matter and proper form and intention.

Sacraments produce that which they signify: thus Baptism not only signifies the washing of the soul, but does indeed completely wash the soul. The Church teaches that Baptism washes all the sins committed before it: it washes original sin and all mortal and venial sins. It also remits all the punishment due to these sins, so that if someone would die right after baptism he would go straight to Heaven, not having any purgatory to do.

We have seen that there is a third consequence of sin, which is the wound of sin, which is not completely healed by baptism: Baptism starts the process of healing, it applies medicine on the wound, but it will take time for that medicine to reach complete healing, and will require the cooperation of the faithful.

Baptism produces sanctifying grace in the baptised: this is the positive side of the same reality as washing away sin. Darkness is expelled by the light: sin is expelled by sanctifying grace. It is not possible to have the remission of sin without the infusion of sanctifying grace; and vice-versa it is not possible to receive sanctifying grace without sin being expelled. Indeed sanctifying grace and sin cannot co-exist in the same soul: in the same way that light and darkness cannot coexist in the same place: “No man can serve two masters” (Mt. 6:24). Sanctifying grace is a participation in the Life of God Himself; St Peter says: “he hath given us most great and precious promises: that by these you may be made partakers of the divine nature” (2 Pet. 1:4). To become partakers of the Divine Nature, of the divine Life, to receive such life from God, that means to become children of God. This does not happen except by becoming member of our Lord Jesus Christ, the Only Begotten Son of God: we are children of God IN the Son of God, as members of the Son of God. It is not possible to live of the life of God except in the Body of Christ, which is the Church, the Catholic Church. Hence a valid and fruitful Baptism makes us members of the Catholic Church.

Another very important effect of Baptism is the character it imprints on the soul: by Baptism we are marked as children of God. That character will last for ever, for the glory of those who lived worthily of their baptism and go to Heaven, and for the shame of those who defile their baptism by an ungodly life and go to hell. That character is a wonderful source of actual graces throughout life, graces that help to live worthily as children of God.

The Sacraments work “ex opere operato – by the very performance of them”: that means that by the very fact one has received that sacrament, one has received the effects of it – but there is one condition: unless one puts an obstacle to such effect. Indeed, for instance, if a thief would receive baptism but at the same time would refuse to return that which he had stolen, that attachment to stolen goods would be an obstacle to grace: he would receive the character, but not sanctifying grace and not the forgiveness of sins, rather he would add a sin of sacrilege to his old sins!

The most common obstacle to the grace of baptism is heresy: the refusal of the true Faith, the Catholic Faith. This is the reason why Protestant baptism does not give grace – except in the babies, who of course do not put such obstacle. Such obstacle is removed by conversion, embracing the Faith of the Apostles, i.e. the Catholic Faith, and the sacrament of penance.

The ordinary minister of the Sacrament of Baptism is the priest; the priest can give the “solemn Baptism”, with all the beautiful rites of the Church. But in case of emergency, any faithful and even anyone, even non-Catholic, can give Baptism. Why so? Because God wants the salvation of everyone and therefore makes it widely possible for people to be baptised. Thus if a Catholic mother is giving birth and difficulties occur in the delivery, she may ask the nurse, even if that nurse is not Catholic, to baptise the child, making sure that the baptism is performed properly: that is, making sure that she pours the water on the skin of the child while saying “I baptise thee in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost”. Having the intention to do what the mother intends is sufficient for the intention to be right, because the mother intends to do what the Church intends, i.e. a valid baptism!

The right intention, i.e. the intention to do what the Church does, is require also: because the very signification of words and ceremony is ultimately determined by the intention of the minister. If the intention of the Church is explicitly rejected, as some Protestants do, then the lack of intention renders the sacrament invalid. Pope Leo XIII explained that for the sacrament of Holy Orders for the Anglicans: by rejecting a sacrificing priesthood, they did not have the right intention and so their ordinations were invalid. Usually the very performance of the Catholic ceremony is a guarantee that the intention is right.

The ceremony of Baptism is beautiful and source of additional graces. It starts with very important questions and answers: the priest asks: “What do you ask of the Church of God?” The catechumen answers: “Faith!” Then the priest asks: “What does faith offer you?” The catechumen answers: “eternal life!” And the priest concludes: “If you wish to enter life, keep the Commandments.” These short questions and answers embody the whole spirit and purpose of Baptism: the ultimate goal is eternal life in Heaven; throughout one’s Christian life, one must always keep such goal in front of one’s eyes. We are pilgrims here below, “exiled in this vale of tears”: “you are fellow citizens with the saints, and the domestics of God” (Eph. 2:19).

In order to go to heaven, one needs faith: so the catechumen asks the true Faith from the true Church: “What do you ask of the Church of God? Faith!” and this is what Baptism will give: it gives the infused virtues of Faith, Hope and Charity together with sanctifying grace as I explained some weeks ago. But faith alone is not sufficient, there is need of obedience to the Commandments, which are the path to heaven, hence the exhortation of the Church: “if you wish to enter life, keep the Commandments.” This is what our Lord himself had said to the young man who asked Him: “Good master, what good shall I do that I may have life everlasting?” (Mt. 19:16). Our Lord answered: “if thou wilt enter into life, keep the commandments” (Mt. 19:17).

The Novus Ordo rite of baptism has suppressed many things, and rendered these first questions and answers optional: no more asking the true Faith from the true Church; no more intending Heaven – or at least this has become optional.

Then the priest blows on the child, as a symbol of the coming of the Holy Ghost as a strong wind at Pentecost, and says: “depart from him, unclean spirit, and give place to the Holy Ghost!” Thus, one sees that there is a battle going on, a battle for the soul: God wants to save that soul, but the devil is out to deceive and lead it to perdition. Because of sin, original and actual, the unbaptised was in a certain way under the power of the devil, who does not like to lose his prey: Christ is going to deliver that soul from the power of the devil, as will be even clearer with the exorcisms.

The exorcisms are not mere prayers to God to deliver us from the devil; they are actual commands, orders, given to the devil in the name of our Lord Jesus Christ, by the minister of Christ to whom our Lord had given such power. The devils tremble in front of such exorcisms, and lose their powers over the soul of the catechumen. The Novus Ordo rite of Baptism has suppressed all these exorcisms and kept only a mere prayer against the devil; there are no more commands to him to depart.

Then the priest makes the sign of the cross on the forehead and on the heart of the catechumen, saying: “receive the sign of the Cross on your forehead as well as on your heart, receive the faith of the celestial precepts and be so in your behaviour that you deserve to become the temple of God.” Several other times the sign of the cross will be traced upon the catechumen: before the sacrament with the oil of the catechumen on the heart and on the shoulders to encourage the love of the Cross and the courage to carry it; after Baptism the cross will be made upon the top of the head with the holy Chrism to signify that the child has become a temple of the Holy Ghost. These signs of the Cross manifest that one becomes a disciple of our Lord Jesus Christ crucified, that all grace comes from the Cross and that he will have to “deny himself, and take up his cross daily, and follow Christ” crucified (Lk. 9:23). Again many of these signs of the Cross have been suppressed in the new rite.

The catechumen receives the blessed salt, symbol of incorruption and of spiritual good taste; it is also “the first food” and makes one hunger for the “super-substantial food” (Mt 6:11) which is the Holy Eucharist.

Then the catechumen enters into the church under the stole of the priest, symbol of entering the one true Church, the Catholic Church, and submission to the hierarchy of the church. The first thing he does in the Church is to profess the Creed which he has learnt in his preparation for baptism: for the children the god-parents profess the Catholic Faith in the name of the children and engage themselves to teach it to them. Indeed the true faith is the first and most fundamental bond of the unity of the Catholic Church. This is the faith that the catechumen will have to uphold during his whole life and put in practice. Then the catechumen recites the Our Father, which is the model of all prayers, because the Catholic life is essentially a life of prayer and friendship with God as children of God. He will have to use this prayer every day.

Then there is the triple renunciation to Satan and triple profession of Faith. This is most important: we must remember, especially in times of temptation, that once for all we renounced all these seductions of the devil; we said a resolute NO to sin. We must renew this when the devil tempts us: “I do renounce Satan; I do renounce his works; I do renounce his deceits.” I renounce Satan, because I chose resolutely for God: Yes to God, No to the devil!

There are many other beautiful prayers, which it would be too long to explain in detail. Just let me add that after baptism, we are given a white garment, symbol of the purity of our soul, and we are admonished to keep it unstained until the Tribunal of Christ, that is, until the end of our life when we shall be judged. Blessed are they, who, like St Thérèse of the Child Jesus, keep in their soul the innocence of their baptism! Those who lost it have to use the Sacrament of penance, and do real penance to recover it; but it is better and more pleasing to God not to lose it! This white garment is a reference to the “wedding garment” that the King expects for those admitted in the banquet hall of the wedding of the Son of the King (Mt. 22:11-12).

Lastly the baptised is given a burning candle, symbol of the light of faith and fire of charity that have just been enkindled in his soul: “receive this burning candle; keep thy baptism beyond reproach; keep the Commandments of God so that, when the Lord comes to the wedding feast, thou may be able to be admitted in His presence with all the Saints in the heavenly courts and live for ever and ever!” Thus the baptism ceremony which started with Heaven as its purpose ends with Heaven as its ultimate reward.

By baptism, we become children of God, members of Christ, and thus children of Mary. Our Lady adopts all the baptised as her children and has a very special care for each of us. Let us live as children of Mary, so as to please Her Son our Lord Jesus Christ!

Let us always remember our baptism: I am baptised, I cannot live as a pagan! I must live in a manner worthy of our baptism, as a worthy member of Christ, giving honour to Christ our Head, by imitating his virtues and living “through Him, with Him and in Him” unto the glory of the Father in the unity of the Holy Ghost for ever and ever. Amen.



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

「幼児洗礼そして堅振について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「幼児洗礼そして堅振について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「幼児洗礼そして堅振について」

親愛なる兄弟の皆さん、

一連の公教要理の時間を続けましょう。今は秘蹟について勉強しています。

洗礼についての最後のポイントです。自分の子どもに早く洗礼を受けさせるよう配慮するのは、カトリック信者の親にとっての重い義務です。親が子どもに自然の命と超自然の命の両方を一緒に伝達することが、天主の元々のご計画でした。自らの罪によって、アダムは自然と恩寵を結び付ける原初からの義を失いました。それ以来、恩寵はもはや天主が意図なさっていたように自然に「付属する」ことがなくなってしまいました。それゆえ、子どもは成聖の恩寵を取り去られた状態で生まれるのです。もしアダムが罪を犯さなかったとしたら子どもにあったはずの恩寵が失われている状態、これが原罪なのです。

子どもは自然の命と超自然の命の両方を持つことが天主のご意向でしたから、親は自分の子どもにその超自然の命を、新たな誕生としての洗礼という手段によって授けるのを待ってはいけません。これこそが新たなアダムである私たちの主イエズス・キリストの命であり、子どもたちは洗礼によって主の体の一部となるからです。親が理由もなく子どもに洗礼を受けさせる前に長い間待つことは重い罪です。

すると、次のような反論をする人々がいます。「しかし、子どもはこれについて何も言えません。子どもが選べるようにすべきです」。これは間違った論法です。実際、子どもは自然の命を受けるのも選びません。命を受けるのを選ぶことは誰にもできません! 命は賜物であり、それ自体良いものなのですから、不平を言う余地はまったくありません。命があとでつらい状態になる場合であっても、命それ自体が悪いということを意味しません。そうではなく、命それ自体良いものであり、それゆえに親は子どもに命を与えたことを非難されるべきではありません。教育を受けさせてやらなかったり、親としての世話をしてやらなかったりという落ち度はあるかもしれませんが、命を与えることは落ち度ではありません。同様に、超自然の命は驚くべき賜物であり、自然の命よりもずっと価値がありずっと貴重です。親はそんな賜物を与えることで決して非難されるべきではありません。さらにまた、洗礼のあと良いカトリック教育を受けさせてやる必要があります。そこには落ち度があるかもしれません。しかし、子どもが赤ん坊のときに霊的な命を与えることは間違っていません。

プロテスタントの一部は、彼らの誤ったプロテスタントの信仰のせいで子どもの洗礼を拒否しています。彼らは、洗礼は信仰の宣言の単なるしるしであり、それ自体に効果はないとみなしているからです。そのため彼らは、子どもはその信仰の宣言をすることができないので、洗礼は子どもにとって無益なものだと考えているのです。これは教会の聖伝に反し、幼児洗礼を実践した使徒伝来の聖伝に反しています。幼児洗礼を実践してきたことそれ自体が、まさに、聖アウグスティノによると原罪があることの最も確実な証拠でした。なぜなら子どもには自罪があり得ないので、もし子どもにまったく罪がないとしたら、洗礼は「罪の赦しのために」(使徒行録2章38節)与えられるのですから、洗礼が子どもにとって無益なものだということになってしまうからです。

私たちの主イエズス・キリストはこう言われました。「子どもたちを私のところに来させよ。とめてはならぬ。天主の国を受け入れるのはこのような者たちである」(ルカ18章16節)。キリストのところに来させるためには、洗礼が必要です。洗礼によって、子どもはキリストの体の一部になるからです。それゆえに、私たちの主のこの命令に基づいて、使徒たちと全教会は何世紀にもわたって、常に子どもに洗礼を授けてきました。

聖パウロの書簡の次の一節に、幼児洗礼のヒントが見られるでしょう。それは聖パウロが、カトリック信者でない配偶者が「信者の配偶者と同居するのを承知する」ならば、すなわち、信者である配偶者にカトリック信仰を問題なく実践することを許すならば、信者である配偶者の子は「聖となった」と言うところです。「信者でない夫は信者であるその妻によって聖とされ、信者でない妻は信者であるその夫によって聖とされる。そうでなければ、あなたたちの子どもは汚れたものである。しかし今は聖となった」(コリント前書7章14節)。子どもが聖となったのは、子どもが洗礼を受けているからです。信者でない配偶者が「聖とされ」ているのは、多くの場合そうであったように、それによってその配偶者が回心へと導かれるであろうからです。

さらに、旧約には、幼児洗礼をはっきりと証明する二つのタイプの洗礼があります。割礼は生まれて八日目の幼児に行われました! 聖チプリアノは紀元二五〇年ごろ、次のように質問してきたある司教に答えています。「割礼を八日目まで待ったように、われわれは洗礼を授けるのを八日目まで待つべきであるか?」。聖チプリアノの周りに集まったカルタゴの教会会議は全会一致でこう答えました。「われわれは八日目まで待つことさえすべきでない!」。第二のタイプの洗礼は紅海の渡海です。それについて聖パウロはこう言います。「私たちの先祖は…みな雲と海の中でモーゼにおいて洗われた」(コリント前書10章1-2節)。これは明らかに「水と聖霊によってもう一度生まれる」(ヨハネ3章5節)というキリストにおける洗礼の象徴です。さて、ヘブライ人が赤ん坊を海岸に残したままにせず、赤ん坊も親の腕に抱かれて紅海を渡ったことは明らかですから、それは「有効な」渡海だったのです! ですから幼児洗礼は、答えを代父母が行うとしても、有効な洗礼なのです。

聖書の中で、まことの信仰(復活)に異議を唱えていたサドカイ人に向かって、私たちの主はこう答えられました。「あなたたちは聖書も天主の力も知らぬから誤った考えを持ったのだ」(マルコ12章24節)。皆さんお分かりのように、この御言葉はまたこれらのプロテスタントにも当てはまります。これは幼児洗礼という問題についての一つの例ですが、プロテスタントの全ての誤りについても同様です。しかし、プロテスタントの人々が聖書を理解するためには、私たちの主イエズス・キリストが聖書の管理と信仰の遺産を委託なさった教会の言うことに耳を傾ける必要があります。実際、聖パウロはこう言っています。「天主の家は生きる天主の教会であり、真理の柱であり基である」(ティモテオ前書3章15節)。そして、使徒たちにまで直接さかのぼる教会こそ、カトリック教会なのです。

第二の秘蹟は堅振です。子どもは生まれたあと成長しますし、成長する必要があります! 堅振は、まさにその名の通りのものです。洗礼で受けた命を堅固にし、強め、しっかりさせ、堅実なものにします。堅振は私たちを「キリストの兵士」にすると教会は教えています。実際、一つの戦いがあり、それは罪に対する、悪魔やこの世に対する、そして自らの内にある悪しき傾きに対する戦いです。洗礼の時、私たちは悪魔とそのわざ、その誘惑を捨てました。それは、来るべき戦いがあることを私たちに告げるものだったのです。ですから、そのように強められる必要があるのです。堅振を受けるのは、聖霊の特別な流出によってです。

私たちの主イエズス・キリストは、約束しておられた通り使徒たちと最初の百二十人の弟子たちに聖霊を送られた聖霊降臨の日に、この秘蹟を制定されました。聖霊降臨は大変特別な出来事で、そのとき使徒たちはより優れた方法で、すなわち聖香油ではなく、聖霊の火という実在の炎で堅振を受けました! しかし、聖霊によって霊感を受けた使徒たちは、聖香油を塗り按手をすることによって他の人々にも堅振を授けるべきだと理解しました。

使徒行録の中で、私たちは、堅振と洗礼の間のはっきりとした区別を見ます。助祭フィリッポがサマリアに行き、そこで多くの人々を回心させ、彼らに洗礼を授けました。しかし、それからフィリッポはエルザレムに人を送って使徒たちに来てもらうよう願いました。なぜなら、彼は堅振を授けることができなかったからです。ペトロとヨハネがやって来て新たな受洗者に按手し、それによって彼らは使徒たちが聖霊降臨で受けたのと同じ聖霊の流出を受けました。

このように、堅振の質料は、ひたいの上に十字架のしるしをして聖香油を塗ることです。聖香油はオリーブ油とバルサムを混ぜたものです。聖アルフォンソ・リグオリは、もしバルサムを使わなかったならば、条件付きで再び堅振を受ける必要がある、と言いました。彼は、別の油を使ったかどうかを尋ねることさえしません。彼にとっては、そのようなこと自体およそ考えも及ばないことだったからです! ですから、ノブス・オルドが「オリーブ油またはほかのどの野菜の油でも」使うとしていることによって、無効な堅振への扉を開いてしまっているのです。

オリーブ油は、聖霊降臨のときのような聖霊の火を象徴しています。また聖霊の象徴である鳩は、天主との和解のしるしとして、洪水ののちにオリーブの木の枝をくわえて来ました。平和は聖霊の実の一つだからです(ガラツィア5章22節)。また運動選手は、彼らを強めるために油を塗られました(今でも彼らはあらゆる種類の軟膏を塗ってもらいます)。油を塗るのは、十字架のしるしで、肌のうちで最も見えやすい部分であるひたいの上に行われます。これは、私たちが十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストにおいて信仰を告白しなくてはならないことを象徴しています。私たちは「福音を恥としてはならない。福音はすべての信仰者を救う天主の力であるから」(ローマ1章16節)です。

聖伝の堅振の形相は、司教がひたいに油を塗りながら言う次の言葉で成っています。「われ聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝に十字架のしるしをなし、救霊(たすかり)の聖香油をもって汝を堅固にす。」

堅振の執行者は司教です。司教は大司祭であり、新たに生まれた信者を完成させることのできる大司祭です。司教は戦闘の教会の指揮官です。この秘蹟の重要性は、授けるために司教を必要とするという事実によって明らかです。非常に特別な場合には、特別な委任によって、司祭がこの秘蹟を有効に執行することができます。司教区が広い場合にあり得るもので、その場合は司教総代理が委任を受けます。あるいは、司教が病気のため、この秘蹟を執行するのに助けを必要とする場合に、その委任がなされます。教皇だけがその委任をすることができます。東方典礼カトリック教会の司祭は、洗礼ののちすぐに堅振を授ける委任を受けていますが、西方教会ではその慣習はありません。

堅振は霊魂にしるしを、殉教にまで至る信仰を告白することができるキリストの兵士としてのしるしを刻印します。実際、聖霊のその特別な賜物、剛毅の賜物は殉教者において明らかになります。彼らは、死も恐ろしい拷問も恐れず、罪を犯すよりはむしろ死を、私たちの主イエズス・キリストを否むよりはむしろ死を選ぶのです。私たちは自分がそのしるしを受けたのだということを覚えておくべきであり、それゆえに罪に対して強くあり、誘惑に対して常に強く「いいえ」と言い、罪に対して「いいえ」と言い、天主に対して「はい」と言うべきです。「でも」や遅れ、ためらいがあってはなりません。どんな状況の下でも、罪を犯すことは決して許されません。私たちの主イエズス・キリストは、絶対の忠実を、死に至る忠実を捧げるのにふさわしいお方です。なぜなら主は、死に至るまで忠実なこれら良き兵士たちに、永遠の栄光の冠を与えてくださるからです。「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに命の冠を与えよう」(黙示録2章10節)。

もっと通常の状況であっても、堅振の秘蹟による特別な恩寵は、私たちがキリストの国を拡げるための勇気を持ち、言葉と行いの両方を使ってただ信仰を告白することによって宣教者となるための勇気を持つのを助けてくれます。聖なる生活という証言が、私たちの主の国を拡げるための素晴らしい手段なのです。

堅振の秘蹟は生きている者の秘蹟です。堅振を受けるためには成聖の恩寵の状態でなければなりません。罪の状態で堅振を受ければ汚聖になります。子どもが青年期の霊的な課題を克服するための準備をし、信仰において強くなるように、十二歳より前に子どもに堅振を受けさせるのは良いことです。子どもに堅振を受けさせることは親の義務です。

堅信の儀式は単純ですが重要です。この儀式は、聖霊降臨の晩課の讃歌である「ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス(聖霊よ来り給え)」を歌うことによって、聖霊を荘厳に呼び求めることで始まります。その後、全員がひざまずき、司教が立ち上がって全員の上に両手を広げて、イザヤの預言に従って七つの霊を呼び求めます。「その上に主の霊がやどる。知恵と分別の霊、賢慮と強さの霊、知識と主への恐れの霊が。彼は、主へのおそれをよろこびとする」(イザヤ11章2-3節)。

それから司教は座り、受堅者が一人ずつ順番に司教に近づいて足元にひざまずき、代父または代母が右手を受堅者の右肩に置いたまま受堅者の後ろに立ちます。司教は親指に聖香油をつけ、それから両手を受堅者の頭に置いて、次のように言いながら親指でひたいに十字架の形に聖香油を塗ります。「われ聖父と聖子と聖霊との御名によりて汝に十字架のしるしをなし、救霊(たすかり)の聖香油をもって汝を堅固にす」。受堅者は「アーメン」と答えます。これが、秘蹟そのものが授けられるまさにその瞬間です。その後、司教は、受堅者の強さや耐える力を調べる象徴として、受堅者の頰を軽く打ちます。

最後の祈りは、私たちが聖霊の神殿であることを思い出させてくれます。そのあと最も重要なのは、堅振を受けたばかりの人々が、使徒信経を唱えることによって公に信仰を告白することです。そのとき彼らは、生涯の終わりまで今告白しているその信仰を守る準備のできた兵士としてそこに立っているのです。また、あらゆる祈りの模範である「天にまします」も唱えます。祈りによって、勝利の恩寵を受けることになるからです。また、最も良く使う祈りである「めでたし」も唱えます。マリア様は私たちの主と分かちがたいお方だからです。

聖霊に満たされて、お告げの日にイエズスの御母となり給い、聖霊降臨の日に教会の御母となり給うた殉教者の元后である聖母が、堅振を受けるすべての人をその特別な御保護のもとに置き、彼らがキリストのまことの兵士となるようお助けくださいますように! 「無原罪の聖母の騎士」となることは、私たちに自分の堅振を思い出させ、天国での永遠の報いに至るまで私たちを助けてまことに騎士として生きるようにしてくれる、私たち全員にとって大きな助けなのです。アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

"Infant Baptism – Confirmation" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「幼児洗礼そして堅振」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「幼児洗礼そして堅振」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Infant Baptism – Confirmation

My dear brethren,

We continue our series on the catechism; we are currently studying the Sacraments.

One last point on Baptism: it is a grave duty of Catholic parents to care for the prompt baptism of their children. It was God’s original plan that parents would transmit both natural and supernatural life together. Adam by his sin lost the original justice that bonded together nature and grace: henceforth, grace is no longer “attached” to nature as it was intended. Therefore, children are born deprived of sanctifying grace: this privation of grace that should have been in them, had Adam not sinned, is original sin.

Since God’s intent was that the children have both natural and supernatural life, parents should not wait to give to their children that supernatural life, by the means of Baptism as the new birth. This is the life of the New Adam, our Lord Jesus Christ, whose member they become by Baptism. It is a grievous sin for parents to wait without reason for a long time before baptising their children.

Some people object: “but children don’t have a say in this. They should have the choice.” This is a wrong reasoning. Indeed children do not choose to receive the natural life either: nobody can choose to receive life! It is a gift, it is a good thing in itself, and therefore there is no room for complaint. If life becomes painful afterwards, it does not mean life in itself is bad: no, it remains good in itself and therefore parents should not be blamed for having given it to their children. There may be some fault in the lack of education, lack of care of the parents, but not in giving life. Similarly, the supernatural life is a marvellous gift, much more valuable and treasurable than natural life: parents are never to be blamed for giving such a gift. There also, there is need of the subsequent care of a good Catholic education: and there may be some failures there; but it was not wrong to give spiritual life when the children were babies.

Some Protestants reject children’s baptism because of their Protestant erroneous faith, that considers baptism only as a mere sign of an act of faith, without any efficacy in itself. So they think that a child being unable to make such an act of faith, baptism is useless for them. This is against the antique tradition of the Church, against the Apostolic tradition that practiced infant Baptism. It was precisely the very practice of infant Baptism that was for St Augustine the surest proof of original sin, since the children could not have any actual sin, and if they had no sin at all baptism would be useless for them, since Baptism is given “unto the remission of sin” (Act. 2:38).

Our Lord Jesus Christ said: “Suffer children to come to me, and forbid them not: for of such is the kingdom of God” (Lk. 18:16). To come to Christ requires Baptism, by which they are incorporated into His Body; therefore upon this command of our Lord, the Apostles and the whole Church through the centuries always baptised the children.

One can see a hint of the infant baptism in the passage of St Paul where he says that the children of a Catholic spouse “are holy”, if the unbelieving spouse “consent to live with him/her”, i.e. allows the believing spouse to practice peacefully the Catholic Faith: “For the unbelieving husband is sanctified by the believing wife; and the unbelieving wife is sanctified by the believing husband: otherwise your children should be unclean; but now they are holy” (1 Cor. 7:14). The children are holy because they are baptised; the unbelieving spouse is “sanctified” because it will lead them to conversion, as happened in many occasions.

Moreover, there are two types of Baptism in the Old Testament which manifestly prove Infant Baptism: circumcision was given to infants of 8 days! St Cyprian around the year 250 answers a bishop who asked: should we wait the 8th day to baptise as they waited the 8th day to circumcise? And the council of Carthage gathered around St Cyprian unanimously answers: we should not even wait until the 8th day! The second type was the crossing of the Red Sea, as St Paul says: “our fathers … were all in Moses baptized, in the cloud, and in the sea” (1 Cor. 10:1-2), clearly image of the Baptism in Christ “born again of water and the Holy Ghost” (Jn. 3:5). Now it is evident that the Hebrews did not leave their babies on the shore, but the babies too crossed the Red Sea, in the arms of their parents, and that was a “valid” crossing! So infant baptism, even if the answers are given by the God-parents, is a valid baptism.

To the Sadducees who objected the Scriptures against the true faith (in the Resurrection), our Lord answered: “Do ye not therefore err, because you know not the scriptures, nor the power of God?” (Mk. 12:24). As you can see, this also applies to these Protestants: you have an example here on the subject of Infant Baptism, but it would be similar on all their errors. But in order for them to understand the Scriptures, they need to listen to the Church, to whom our Lord Jesus Christ entrusted the care of the Scripture and the deposit of Faith: indeed St Paul says: “the house of God is the church of the living God, the pillar and ground of the truth” (1 Tim. 3:15). And the Church that comes right back to the Apostles is the Catholic Church.

The second Sacrament is Confirmation. After being born, a child grows, and needs to grow! Confirmation is what its very name says: it confirms, it strengthens, it makes firm and solid the life received at Baptism. The Church teaches that it makes us a “soldier of Christ”. Indeed there is a battle to wage against sin, against the devil, the world and even against the evil inclinations within ourselves. At Baptism we renounced Satan, and all his works, and all its seductions: that announced us that there would be a battle coming. Hence the need for such strengthening. It is by a special outpouring of the Holy Ghost that one is confirmed.

Our Lord Jesus Christ instituted this Sacrament on the day of Pentecost, when He sent the Holy Ghost upon His apostles and the first 120 disciples as He had promised them. Pentecost was a very special event, and the Apostles were then confirmed in a superior manner, not with Chrism, but with actual flames of the fire of the Holy Ghost! But inspired by the Holy Ghost, they understood that they should confirm the others by the imposition of the hands together with the anointing of holy Chrism.

In the Acts of the Apostles, we see the clear distinction between confirmation and baptism: the deacon Phillip went to Samaria and converted many there and baptised them; but then he sent to Jerusalem to ask the Apostles to come because he could not confirm them. Peter and John came and imposed their hands upon the newly baptised and then they received the same outpouring of the Holy Ghost as the Apostles received on Pentecost.

The matter of Confirmation is thus the unction of the Holy Chrism, in the sign of a cross on the forehead. Holy Chrism is a mixture of olive oil with balsam; St Alphonsus of Liguori said that if one did not use balsam, one needs to be conditionally reconfirmed; he does not even ask if one would use another oil: it was simply unthinkable for him that one would ever do that! So when the Novus Ordo uses “olive oil OR any other vegetable oil”, they open the door to invalid confirmations.

Olive oil signifies the fire of the Holy Ghost, like at Pentecost. Also the dove, symbol of the Holy Ghost, had brought a branch of olive tree after the flood, as a sign of reconciliation with God: peace is a fruit of the Holy Ghost (Gal. 5:22). Also athletes were anointed with oil (now they are still anointed with all kinds of ointments) to strengthen them. The anointing is done in the form of a cross and on the forehead, the most visible part of our skin, to signify that we must profess the faith in our Lord Jesus Christ crucified. We must not be “ashamed of the gospel. For it is the power of God unto salvation to every one that believeth” (Rom. 1:16).

The traditional form of Confirmation consists in the words that the Bishop says while anointing the forehead: “I sign thee with the sign of the Cross and I confirm thee with the Chrism of salvation in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost.”

The minister of Confirmation is the bishop. He is the high priest, the one who can bring to perfection the newly-born faithful; he is a captain in the militant Church. The importance of this Sacrament is manifested by the fact that it requires a bishop to give it. In very special cases, with a special delegation, a priest can administer validly this Sacrament; this happens in some large diocese when the vicar general can be given such delegation; or it happens when the bishop becomes sick and then needs help to administer this Sacrament. Only the Pope can give such delegation. Priests of the Catholic Eastern rites often have that delegation to confirm right after Baptism, but that is not the custom in the Western rites.

Confirmation imprints a character on the soul, the character of a soldier of Christ, able to profess the faith even to the point of martyrdom! Indeed that special gift of the Holy Ghost, the gift of fortitude, is manifest in the martyrs, who did not fear death, nor frightful tortures, and who would rather die than sin, rather die than deny our Lord Jesus Christ. We should remember that we have received that character, and therefore ought to be strong against sin, always saying a strong NO to temptation, NO to sin, and YES to God. There must be no “buts”, no delays, no hesitation: under no circumstances one is ever allowed to sin. Our Lord Jesus Christ deserves an absolute fidelity, even unto death, because He crowns with eternal glory those good soldiers who are faithful unto death: “Be thou faithful until death: and I will give thee the crown of life” (Apoc. 2:10).

Even in more ordinary circumstances, the special sacramental grace of confirmation helps us to have the courage to extend the Kingdom of Christ, to be missionary by the simple profession of Faith, both with words and with deeds. The testimony of a holy life is a great means for the extension of the kingdom of our Lord.

The Sacrament of Confirmation is a sacrament of the living: one must be in the state of grace in order to receive it; it would be a sacrilege to receive it in the state of sin. It is good to give it to the children before twelve years old, so that they be ready and strong in the faith to overcome the spiritual challenges of the adolescence. It is an obligation for parents to provide it to their children.

The rite of confirmation is simple but important. It starts with the solemn invocation of the Holy Ghost by the singing of “Veni Sancte Spiritus”, the hymn of Vespers of Pentecost. Then all kneeling, the pontiff stands and extends his hands over all in general and calls for the sevenfold Spirit, according to the prophecy of Isaiah: “And the spirit of the Lord shall rest upon him: the spirit of wisdom, and of understanding, the spirit of counsel, and of fortitude, the spirit of knowledge, and of godliness. And he shall be filled with the spirit of the fear of the Lord” (Is. 11:2-3).

Then the bishop sits and the confirmands come and kneel at his feet, one per one, having their god-father or god-mother standing behind them with the right hand on their right shoulder. The bishop dips his thumb in holy chrism, and then put his hands on the head of the confirmand and with his thumb anoints the forehead in the form of a cross saying: “I sign thee with the sign of the Cross and I confirm thee with the Chrism of salvation in the name of the Father and of the Son and of the Holy Ghost.” The confirmand answers: “amen”. This is the very moment of the sacrament itself. Then the pontiff gives the confirmand a slight hit on the cheek as a symbol of checking his strength, his ability to resist.

The last prayer reminds us that we are the temples of the Holy Ghost. Most importantly after, the newly confirmed profess publicly their faith by the recitation of the Creed, standing as a soldier prepared to defend that faith which they now profess until the end of their life. They also recite the Our Father, as the model of all prayers, by which they will obtain the grace of victory. They also recite the Hail Mary, as their most common prayer, inseparable from our Lord.

May our Lady, Queen of Martyrs, who had been filled with the Holy Ghost on the day of the Annunciation to become the Mother of Jesus and on Pentecost to become the Mother of the Church, take under her special protection all those who are confirmed, and help them to be true soldiers of Christ! It is a great help for all of us to be “Knights of the Immaculata”, as it reminds us of our Confirmation and helps us to live it truly until its eternal reward in Heaven. Amen.

「ルターの誤謬と異端思想について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話「ルターの誤謬と異端思想について」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後の第26主日―大阪 霊的講話「ルターの誤謬と異端思想について」
親愛なる兄弟の皆さん、

二週間前、教皇は、ルターがヴィッテンベルクの教会に九十五か条の論題を貼り付けた反逆の五百周年を祝いました。これはとんでもないスキャンダルですが、報道機関はあまりニュースにしませんでした。こんにちではそんなスキャンダルはあまりにありふれたことだからです。それでも、これは非常に間違ったものであることに変わりはありません。実際、ルターは歴史上で最も悪しき異端者の一人であり、何百万もの霊魂を迷わせ、永遠の破滅へと導いてきたのです。

ルターはときどき、悪行に対して戦った「改革者」として描かれます。しかし現実には、彼は自分が非難した悪行よりももっとひどい悪行を行いました。修道者として立てた三つの誓願を破り、修道院を去り、自分の影響を受けて修道院を去った修道女と結婚しました。暴力的な人間で、言葉で多く人に対して悪行を行い、最も聖なるもの、特にミサの聖なる犠牲と教皇制度を冒涜しました。しばしば酒に酔っていました。合法的な権威に反抗して暴力による反乱を先導し、十六世紀と十七世紀の「宗教戦争」の原因でした。どうしたら、そんな人間を手本として示すことができるでしょうか? 全く信じられないことです!

ルターの神学は一つの言葉で要約できます。「~のみ」です。この言葉によって、彼は真理を捻じ曲げ、真理を失いました。彼はこう主張しました。信仰のみ、恩寵のみ、聖書のみ、キリストのみ、と。これによって彼は真の信仰を失い、成聖の恩寵を失い、聖書の理解を失い、最後にはキリストご自身を失ったのです!

「~のみ」という言葉はルターにとって大変重要なものであったため、それを聖書に付け加えたのです! 聖パウロが「それゆえ信仰によって義とされた」(ローマ5章1節)と書いたところに、ルターは聖パウロが書きはしなかった「~のみ」の言葉を付け加えました。仲間のプロテスタントの中にはルターにそれを指摘した者さえいて、なぜその言葉を付け加えたのかを尋ねたとき、ルターはこう答えました。「なぜならルター師がそう言ったからである!」。このように、ルターは聖パウロさえも自分の思う通りに訂正したのです。

「信仰のみ」という表現によって、ルターは愛の必要性を拒否します。彼にとって、義化とは外的なもの、すなわち人の外のもので、その人は義であるという天主の宣言にすぎません。ルターによれば、その人は自分の罪において罪びとのままに留まるという事実があるにもかかわらず、そうだというのです。そのルター的な義化に必要とされる唯一のものは、「信仰のみ」です。これに反して、教会は聖パウロとともに次のように教えています。「たとい私が預言の賜物を持ち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほどの満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい」(コリント前書13章2節)。ですから、信仰のみで愛がなければ、永遠の命に至るにいささかもふさわしくありません。人は信仰のみでは義とされません。

なぜ愛も必要なのでしょうか? なぜなら、義化は、義についての単なる外的な宣言ではなく、むしろ人の霊魂の、罪の状態(霊的な死)から恩寵と義の状態(霊的な命)への完全な変容だからです。体が霊魂から離れるとき体が死ぬように、霊魂が天主から離れるとき霊魂は霊的に死んでいるのです。その反対に、体が霊魂と一致しているとき体は生きており、霊魂が天主と一致しているとき霊魂は生きているのです。さて、天主とのその一致は、聖パウロが「愛は…完徳のかなめである」(コロサイ3章14節)と言うように、愛による一致です。その反対に、「もしわれらの主イエズス・キリストを愛さない者があれば呪いあれ。主は来り給う」(コリント前書16章22節)。このように、人は信仰を持っていても愛がなければ、聖ヤコボが「霊のない体が死んでいるように、行いのない信仰も死んでいる」(ヤコボ2章26節)と言うように、その信仰は「死んで」いるのです。聖ヤコボはここで、愛の行いのことを話しています。聖パウロが「なぜなら、キリスト・イエズスにおいては、割礼を受けることも受けないこともいずれも価値がなく、愛によって働く信仰だけに価値がある」(ガラツィア5章6節)と言うように。

ですから、そのような外的な信仰、弁論による信仰によって、霊魂の内的な変容と愛がなくとも、信仰のみによって人は義とされると主張することにより、ルターはまことの信仰そのものさえも失ったのです。

そしてルターは、人は行いなしに、「恩寵のみ」によって救われると主張します。ルターは、人がいかなる良い行いを行おうとも、それが人を救いに至らせることはできないと主張しました。良い行いは必要ではなく、天主の恩寵のみが人を救うと言うのです。これは明確に聖書に反しています。回心以前に、義化以前に、そのような回心をするにふさわしい超自然的な良い行いはあり得ない、ということが真実です。実際、成聖の恩寵の状態になる以前には、人は罪の状態にあり、恩寵ではなく罰を受けるのにふさわしいのです。しかしながら、回心ののちには、人生の終わる前に良い行いが必要であり、私たちの主イエズス・キリストの恩寵とともになされたこれらの良い行いが、救いのために必要なのです。

この良い行いは木に求められる良い実であり、そうでなければその木は切り倒されてしまうでしょう(ルカ13章6-9節)。この良い行いは、働き者の召し使いが、預かったタレントによってもうけた追加のタレントです。しかし、「受けたタレントを十分に実らせなかった、この役立たずのしもべを外の闇に投げ出せ。そこには嘆きとはがみとがあろう」(マテオ25章30節)。「よい実を結ばぬ木は、切り取られて火に投げ入れられる」(マテオ3章10節)。選ばれた者は、「なぜなら、私が飢えていたとき食べさせてくれた…」ので報いを与えられます。このちょっとした言葉「なぜなら」が明確に示しているのは、彼らに報いが与えられるのは彼らが良い行いをしたからだということです! また、地獄の宣告を受けた者は、良い行いをしなかったからそう宣告されたのです(マテオ25章31-46節)。ですから聖パウロはティトにこう勧告しています。「私たちの伴(とも)も必要な場合善を行うことを学ばねばならない。そうすればすべてが実を結ぶであろう」(ティト3章14節)。天主が良い行いに報いをお与えになるということは、聖書にある非常に多くの聖句で明らかです。箴言はこう言います。「貧しい人に施しをするのは天主に貸すことで、天主が恵みを下して報いてくださる」(箴言19章17節)。ですから私たちの主は言われます。「むしろ自分のために天に宝を積め。そこではしみも虫もつかず、盗人が穴を開けて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)。また、もてなしによる実もそうです。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者の報いを受け、義人を義人として受け入れる人は、義人の報いを受ける」(マテオ10章41節)。「人の子は父の光栄のうちに天使たちとともに来て、その日各自の行いによって報いを与える」(マテオ16章27節)。「見よ、私はまもなく各自の行いに従って与える報いを持って来る」(黙示録22章12節)。このように、天国が義人に「与え」られるのは、その良い行いが理由であり、地獄が悪人に「与え」られるのは、その悪しき行い(あるいは良い行いがないこと自体)が理由なのです。

良い行いを拒否することによって、ルターは成聖の恩寵を失いました! 特に、ルターは悔悛という良い行いを、私たち自身の罪の償い、隣人の罪の償い、煉獄の霊魂の罪の償いという良い行いを拒否しました。さて、イエズスの聖心はパレ・ル・モニアルでそのような償いをするよう、特に初金曜日にするようお求めになりました。聖母はファチマで再び、同じような罪の償いをするよう、特に初土曜日にするようお求めになりました。ですから、現代世界の圧倒的な邪悪さを見るとき、特に妊娠中絶の邪悪さを見るとき、そのような良い行いが緊急に必要なのだということがわかります。

そして、ルターは、人は「聖書のみ」に従うべきだと主張しました。しかし、キリストに関するすべてのことが聖書に含まれているのではないことは、 聖書自体が証言しています。「イエズスは弟子たちの前で、この本には記さなかったほかの多くのしるしを行われた」(ヨハネ20章30節)。「イエズスが行われたことはこのほかにも多いが、一つ一つ記したなら全世界さえもその書かれた本を入れることができまいと私は思うのである」(ヨハネ21章25節)。例えば、聖パウロはイエズスのある言葉(「受けるよりも与えることに幸せがある」使徒行録20章35節)に言及しますが、その言葉は福音書の中には見られません。聖ルカは、私たちの主が「さらに聖書を理解するよう使徒たちの精神を開かれた」(ルカ24章45節)と言っています。さて、主が使徒たちにお与えになった聖書のこれらの説明は、どこにあるのでしょうか? そのごく一部は書簡の中に見られますが、もっとずっと沢山あるのは疑いありません。それは、教会の教父たちによって書き記されてきた使徒たちの口伝による教えの中にあるのです。ですから、聖書を正しく理解するためには、教父たちの教え、すなわち聖伝が必要です。聖パウロ自身が、「だから兄弟たちよ、固く立て。私たちが言葉によってあるいは手紙によって教えた伝えを守れ」(テサロニケ後書2章15節)と言及しています。ここで聖パウロは明らかに、自分の書簡の中に書かれた言葉と、話された言葉を同等に扱っています。話された言葉すなわち使徒たちとその後継者たちの口伝による教えを拒否することによって、ルターは聖書の正しい理解から自分自身を切り離したのです。

プロテスタントたちは普通、自分たちは聖書を理解するための霊感を聖霊から直接受けていると主張します。しかし、そのような主張は自己矛盾です。本当にそのようなことがあるとしたら、聖霊は何回にもわたって 矛盾したことを言っていることになってしまいます。なぜなら、教義上の複数の重要な点について、互いに反対し合う非常に多くのプロテスタントのセクトがあるからです! また、モルモン教徒は自分たちの「モルモン書」が正しいとして同じことを主張しており、イスラム教徒でさえ自分たちの「コーラン」が正しいとして同じことを主張しています…この多くの分裂とは対照的に、聖パウロは「主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ4章5節)であると教えています。実際、「天主は不秩序の天主ではなく平和の天主である」(コリント前書14章33節)のです。

こうして、「聖書のみ」と主張することによって、ルターは聖書の正しい理解を失い、特に、教会について豊富に、非常に明確に述べられた節を理解することができなくなったのです。そしてこれがルターの最後の「~のみ」です。ルターは、教会の仲介なしに「キリストのみ」に行くと主張するのです。彼は、キリストのみが仲介者であるという口実のもとに、教皇も司祭も聖人も必要ないと主張します。こうして彼は、聖母や聖人たちへの祈りをすべて拒否しました。さて、聖パウロはこう言います。「天主は唯一であり、天主と人間の間の仲介者も、人間であるキリスト・イエズスただ一人である」(ティモテオ前書2章5節)。しかし「ただ一人の仲介者」は「一人だけ」を意味するのではありません。キリストが「ただ一人の仲介者」であるということは、私たちの主イエズス・キリストを通らずに済む人は誰もいない、「私は道であり真理であり命である。私によらずには誰も父のもとには行けない」(ヨハネ14章6節)という意味です。しかし、私たちの主イエズス・キリストは一人ではありません。聖パウロは多くの箇所で、多くの方法で、キリストは「教会という体の頭」(コロサイ1章18節)であると私たちに教えています。頭は体から離すことはできないため、私たちの主イエズス・キリストを教会から離すことはできません。教会はキリストの体ですから、その教会を拒否する人はキリストを持つことができません! 私たちの主イエズス・キリストは花婿であり(マテオ9章15節)、教会は花嫁です(ヨハネ3章29節、黙示録21章2、9節)。誰も花嫁から花婿を離すことはできません。「だから、人は天主が合わせられたものを離してはならぬ」(マテオ19章6節)。それゆえにルターは教会を拒否することによって、キリストを失ったのです!

さて皆さんには、この「~のみ」というたった一つの言葉が、いかにして破滅をもたらすものになり得るのかがお分かりになったでしょう。ルターはこのために全てを失いました。まことの信仰を失い、恩寵を失い、聖書の理解を失い、最後には私たちの主イエズス・キリストをも失いました! 私たちは、決して愛から信仰を切り離したり、良い行いから恩寵を切り離したり、話された御言葉から書き記された御言葉を切り離したり、キリストの教会からキリストを切り離したりしてはなりません。私たちは、キリストの御教えの一部ではなく全体を受け入れなければなりません。そうすれば私たちは、キリストの全体をカトリック教会の中に見いだすのであり、またカトリック教会の中にのみ見いだすのです!

聖人たちはみなカトリック信仰に愛着を持ち、天主への大きな愛をもってカトリック信仰を生きました。彼らは良い行いに満ちていました。彼らは聖伝によって何世紀もの間伝えられてきたものに忠実でした。彼らはキリストの教会の内でキリストを愛しました。聖人たちは私たちの主イエズス・キリストの友です。彼らは主とともに晩餐にいるのです(ルカ14章16節)。主の晩餐において他の客と話をするのを拒否するならば、良い客ではありません。ですから、聖人たちへの信心は必要なのです。本当に無礼なのは、実際、晩餐の席にいる人のうち、王以外の誰とも話をするのを拒否する人です! そんな人はふさわしい客ではないため、追い出されてしまうでしょう。

信仰の保護者である童貞聖マリアが、私たちがルターの誤謬によって貶められないカトリック信仰を保つよう、ルターが行ったようにあれやこれやを排除することなくカトリック信仰全体を保つよう、愛徳によって働き天国の宝を勝ち得るカトリック信仰を保つよう助けてくださり、ついには私たちがまことの「聖徒たちと同市民」(エフェゾ2章19節)となるにふさわしくなり、至福直観の中で永遠にその聖人たちの仲間に加わることができますように! アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

2016年11月13日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月13日は同じ日に、大阪ではレネー神父様が、東京では私がミサ聖祭を捧げることが出来ました。天主様にそのミサのお恵みを感謝します。この主日には、日本では、2名の司祭の2つの聖伝のミサがあり、大阪では14名の方々が、東京では46名の方々が別々にミサに与ったので、60名の方々がミサに与りました。天主様に感謝!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

私達の大切な小野田神父様こんにちは。
大阪でボーナスミサを挙げて頂き、ありがとうございました。

小野田神父様司式の
11月12日(土)教皇証聖者聖マルティノ のミサには8名が
レネー神父様司式の
11月13日(主)聖降臨後第26主日のミサには14名が、
11月14日(月)司教殉教者聖ヨザファトの早朝ミサには7名が
御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

聖マルティノの祝日のお説教では、異端に立ち向かい司教としてのご自分の勤めを全うしたがために迫害を受け、殉教されたマルティノ一世教皇様と、マルセル・ルフェーブル大司教様が重なりました。ルフェーブル大司教様が聖マルティノの名前を受けられた事は偶然ではなかったように思います。
ファチマのルチアが言うように、「マリア様をお喜ばせするのは犠牲で、ロザリオの祈りはその犠牲をよく果たすことができる御恵みを得ることができる」
のですから、今私達が参加している聖ピオ十世会のロザリオ十字軍は全くファチマの精神に沿ってイエズス様とマリア様の聖心をお喜ばせするものだと確信します。
自分も、聖マルティノ、ファチマの子供達、また、自分の守護の聖人に倣って自分の日々の勤めをよく果たしてファチマ100周年をよく準備したいと思います。

また、神父様の義務は、教会が教え伝えてきたことをそのまま伝える事だとおっしゃりましたが、聖ピオ十世会の神父様方はルフェーブル大司教様がそうされたと同じ道を歩んでおられると思います。神父様方がご自分の義務を全うされて迷える信徒たちをこれからもイエズス様の法へお導き下さいますよう一所懸命お祈りしなければならないとも思いました。

主日にはミサのお説教と、その後に二つの講話をして頂きました。
お説教は洗礼の意味とその美しい説明、
公教要理では幼児洗礼の重要さと堅振の秘跡の意味、そしてルターの誤謬と異端思想についてお聴きしました。
洗礼をもって天主様がどれ程私達を愛して下さっているかを感じ、感謝で胸が熱くなりました。

デオ・グラチアス!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数と献金額/支払額は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 22人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供3人)
計: 46人(内、子供4人)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、こんにちは! 今週も東京で御ミサを捧げてくださり本当にありがとうございます。先週、昨日、来週と3週間も連続で御ミサに与ることができて本当に幸福です。ありがとうございます! 
御ミサのレポートをお送り致します。

これだ! と分かったこと

パン種の例えで言われているパン種とは、全てに影響を与える、全てを膨らませるもの、つまり御聖体のことである。これは教父たちもそのように言っている。 ということです。
芥種(からしだね)もそうですが、最初は小さな小さなものだが、強く大きく成長し、全てに影響を与えるほど大きく強いものになる、ということをイエズス様が譬を使ってお話なさったのだとよく分かりました。
神父様が「私たちの中で御言葉の種をどのように成長させることができたでしょうか。」とお話し下さった後に、自分自身を省みてとても反省致しました。いつも御ミサに与るほどの御恵みをいただいていながら、私はマリア様や天主様に良い勧めをいただいても「私はこのやり方がしたい、この方が良いんですよ、そんなこと知っています。」と傲慢にも答えていたと思ったからです。

日曜の夜にもう一度聖書を読んだのですが、その時は、イエズス様がお話下さったパン種の譬の中に登場する「女」をマリア様に置き換えて読んでみました。「女がこれをとって、三斗の粉の中に入れると、全部がふくれる。」、「女がこれをとって、入れると」とあるので、マリア様によって信仰のたねを取って入れていただかないと、やはり霊魂全体は膨れ得ない=信仰の充満、完成には至らない=天国の栄福には達するができない、とイエズス様は仰りたかったのではなかろうか、と思いました。また、マリア様は良きお母様として私たちを成長させる尊いパン種でパンを作ってくださっているように、今はご自身をいけにえとして捧げられ御聖体にましますイエズス様を育てて下さったのだなと感じ、マリア様の存在の尊さを再び感じました。

午後の黙示録の講話については内容が前回よりも複雑だったので、感想のみ書き送らせていただきます。
(後ほどノートをもとにして要点の書き起こしにチャレンジします。)

特にこれだ!と分かったことは、黙示録9章7節に登場する「いなご」は、出版の自由、メディアのことである、とカステラニ神父様が解釈なさったということです。

頭にはまるで王のように振る舞う金の冠(ジャーナリズムは国家の第4の権力と言われるほど)、偽りの人間の顔(賢そうに見せている)に、人を惹きつける(良い意味で、ではなく)女の髪、獰猛な獅子の歯、羽音はうるさく、多くの人がメディアの流す情報に右往左往させられ霊魂は傷を負い痛んで、まるでさそりに刺されたようです。このように考えて、この「いなご」の解釈に納得いたしました。「言論の自由」と引き換えに人はそもそも知る必要の全く無いことや、その職能や身分に応じて知る必要のある以上の事を知り、霊魂が天主様の前にその奥義や玄義や聖書の中を駆け巡り天国へ駆け上がる自由、天主様へ捧げる善を選ぶ自由という本当の自由を失ってしまったと思います。霊魂が天主様の御前に馳せることを妨げるのが悪魔の目的ですから、「彼らには王がいる、深い淵の天使」、アバッドンの意味は「破壊」とあるのでサタンのこと、「言論の自由」の名の元に偽りの自由を与える嘘つきの主人、ということでまさにその通りだと思いました。今は外を歩いているだけでテレビの音が耳に入ったり、酷い歌の歌詞が耳に入って来たり・・・私たちは本当に恐ろしい時代に生きていると思います。霊魂がそうとは自覚はせずとも周りから受ける影響は計り難く大きいものであると思うので恐ろしい事です。

このようにに書いている私もほんの数年前までは、カトリックの洗礼を受けていながら信仰生活を実践せずイエズス様やマリア様のことを考えもせず、聖書も読まないしお祈りもしません、という生活を送っていました。ですから、黙示録を読んで「人間の三分の一が滅ぼされた。」というところ(何度かでてくると思うのですが・・・)を読むと恐ろしくなります。そして、天主様、マリア様の大きな憐れみと、どなたか私の為に祈って下さった方のいらっしゃる事を思います。死者の月ものこり半月程ですが私が以前そうだったように、まさに地獄に向かわんとする霊魂の為にもよく祈ろうと決心いたしました。

来週の御ミサもとても楽しみです。
神父様が残りの休暇期間も良い時間を過ごされますように、お祈りしております。

+In Mary Immaculate,

【お返事】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
レポートをありがとうございます!

「女」が、聖母マリアさまであるということ、素晴らしい指摘です!
教父たちは、教会のことだと言っていたのですが、教会の典型の聖母マリアさまでもあるに違いありません。

ノートをもとにした要点が楽しみです!



【報告】
11/13日のレポートです  

今回のごミサのお説教を拝聴し、芥種(からしだね)とは ”御言葉”あるいは”殉教者の血”のことで、そしてパン種とはホスチア 御聖体 のことだということが わかりました。
また、御ミサのホスチアの説明で カトリック教会がローマの教皇様との一致を保ち続け、そして初めからのミサが継続して捧げられているようになっていることがわかり、感謝しました。
勿体なくも御聖体をいただきまして、イエズス様に来ていただきまして、私の中でイエズス様が私のすべてを主のものにしてくださいますことに何も拒むことがありませんように、聖母マリア様が聖霊の働きに拒むことがなかったことに少しでも倣うことができますよう、マリア様にお祈りいたします。

今回の公教要理はなかなか難しかったです。
前回の続きとして、第5章から第10章前くらいまでと第13章の前半を  前回の様にカステラーニ神父様の本をもとにお話しいただきました。
今回は7つの封印と7つのラッパについてのお話ということでした。

「わかったこと」を 以下にまとめてみました。

第6章では、6つの封印が解かれ説明されます。
第1の封印が解かれて出てきた白い馬は キリスト教世界の君主たち(例えばシャルルマーニュ≪カール大帝≫やルイ9世など)をあらわしているとのこと。政治的力を使ってキリスト教を保護した。この白い馬がいなくなってしまうと 反キリストに力を奪われてしまうことになる。
第2の封印が解かれて出てきた赤い馬は戦争をあらわしているとのこと。
第3の封印が解かれて出てきた黒い馬は飢饉をあらわしているとのこと。「オリーブ油と葡萄酒には害を加えてはならない」というのは 飢饉になって物価が高くなってもお金持ちの人はなんら影響を受けず何の不自由なく贅沢品も買えることを指す。
第4の封印が解かれて出てきた浅葱色の馬は死とペストをあらわしているとのこと。また迫害の時代がちかづいているという意味。
第5の封印が解かれて出てきた人々の霊魂とは殉教者をあらわしているとのこと。
第6の封印が解かれて出てきた時の天変地異の有様は、大いなる怒りの日を前にイエズス様の来臨を前にして、異端や離教などが起こり教会の教えをよく知っているべき人たち(空の星)が健全でない間違った教えを教え始めて(地上に落ちた)人々を苦しめるようになった大激動をあらわしているとのこと。( 山は宗教を表し、海はこの世のことを表す。)再臨が近づいている。

そして第8章において第7の封印が解かれる。ここでは7つある封印の最後の第7の封印の内容が 詳細に入れ子(マトリョーシカの人形)のような形で、 7つのラッパという表現で 説明される。最終の段階に来ることがラッパによって表現される。ラッパというのは王様がいらっしゃる前に吹かれるものであり、この場合の7つのラッパが吹き鳴らされるというのは 反キリストが来る前触れを表している。反キリストというのは とても怖ろしい異端者のもので人類を変えてしまうような間違った考え・偽りの考えのこと。

第1のラッパが吹くと モンゴル方面からのフン族やヴァンダル族がローマ帝国にやってきて全てを破壊し尽くしてしまい、その地はアリウス派という異端に変わってしまう。
第2のラッパが吹くと、アラビア半島からアフリカの北部へと海賊行為を行いイベリア半島を通り フランスへまたコンスタンチノープルへと向かって イスラム教が キリスト教を破壊する。
第3のラッパが吹くと、東方キリスト教会がローマから離教する。輝いている大きな星とは司教のことで、フォルティウス主教、ミカエル・ケルラリウスが離教を完成させた。
第4のラッパが吹くと、ルターやカルヴィンなどプロテスタントが始まり 無神論の哲学やフランス革命の哲学などが現れ出る。 これにより、人間の理性が最高のものでこれに合ったものを信じればよい、何を信じるかは私が判断するのだという反キリストの宗教が準備されるようになる。(カトリックは天主様に人間の知性も意志もおささげする)
第5のラッパが吹くと、イナゴが登場する。これは出版の自由を意味し、国家の第4の権力ともいうべきジャーナリズムによりカトリック教会を破壊しようとするものが表れる。ここ9章1節の星とはルターあるいは寧ろカルヴィンのことであるだろうとカステラーニ神父は書いている。このイナゴによって、天主様の印を持っていないものは攻撃を受けるが、カトリック信仰を持ち実践している人は害を受けないということを、「緑の者は刺されなかった」と書いている。現代はなんでもマスコミのいうことを聞かなければならないような風潮によりそれを鵜呑みにする者も多く、マスコミの威力の凄まじさがイナゴで表現される。9章11節のアバドン(ヘブライ語)、アポリオン(ギリシア語)は、破壊者、絶滅者という意味を持ち、カトリック教会を破壊するものということ。
第6のラッパに入ろうとするところで、今回は時間でした。2億という数字に少し触れられたところまでです。

福音記者聖ヨハネは キリストの教えが今後どんなふうに歪められるかということのヒントを 後世のカトリック信者のために ここで書き残してくださったように感じました。「人類を変えてしまうような間違った考えや異端・謬説・偽りの考えが あたかも天主様の教えのように説かれるようになり、人々を苦しめようとするので注意しなさい」という警告を心にとどめなければならないと思いました。
星が落ちるという表現で 人々を導く立場の方々が失墜してしまい 教導職にいながら間違った教えを説き始めてしまうことであることは、ファチマや秋田にご出現になられたマリア様も私たちに注意を喚起していたことを思い出しました。

【お返事】
詳しいご報告をありがとうございます。
一生懸命に聞いて下さっていて感謝します。これほどのことをノートにとれるとはすごいですね。
最後の第六の天使がらっぱを吹きならした。「この騎兵団の数は二億であった。私はその数を聞いた」で時間が来てしまいました。

カステラーニ神父様によると、この二億の騎兵団の馬たちとは「戦車」のことではないか、と言っています。
「馬とその騎兵を見たが、かれらは、火とヒヤシンスと硫黄との色をした鎧をつけていた。馬の頭は獅子の頭のようで、その口からは火と煙と硫黄とを吐いている。馬の口から出る火と煙と硫黄の三つの災難によって、人間の三分の一が亡ぼされた。馬の力はその口とその尾とにあった。その尾は蛇のようであり、頭がある。それで害を加えるのである。」
二億とは、第一次世界大戦と第二次世界大戦とでの戦闘員たちの数のようですし、この馬の口からは火と煙と硫黄とを吐く、とあるからです。

第一次世界大戦と第二次世界大戦とが終わっても、人々は「偶像崇拝」を止めないからです。ここで言う「偶像崇拝」とは、人間の高度技術、「労働の実り」、国家、お金、民族、祖国、武器、暴力、権力などでそれらに天主だけに置くべき信頼を置いているからです。
黙示録にはこうあります。「その苦しみによって亡ぼされなかった残りの人々は、自分の手でしたことをまだくいあらためようとせず、悪魔たちと、見ることも聞くことも歩くこともできない黄金・銀・銅・石・木の偶像を礼拝しつづけた。かれらは、その殺害、魔術、淫行、盗みを改めなかった。」



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

11/13午後の講話のレポートをお送りいたします。
すっかり遅くなってしまいました、申し訳ありません。

黙示録 今回は、「7つの封印」と「7つのらっぱ」についてお話ししていただきました。
・7という数字について
 教父達は、7について「7=4+3」と「7=4+2+1」という2通りの解釈している。
 前者は、4で最も良い点・最高点に達し、そこからまた降る
 後者は、2と1の間で、最後の7の段階に達する前にこれまでの出来事を繰り返し、どのような手順を踏んで最後の7まで行くのか手順を示す
・7つの封印・・・ティアティラ〜ラオディキアの教会で起こること
  1)白い馬、冠、弓、勝つために出ていく(黙示録第6章1節)
    白い馬は、キリスト教君主たちのこと(シャルル・マーニュ、ルイ9世などのカトリックの君主)
    冠を被り、弓を使ってキリスト教を保護するために戦った
    ※聖イレネオと聖クリゾストモによると、この後も「白い馬」が登場するが、特徴が違うので意味は違うものと解釈すべき
  2)炎の色の馬、大きな剣(黙示録第6章3節)
    炎の色の馬は、戦争のこと 
    炎の色は血の色であり、これは大きな剣によって流される
  3)黒い馬、秤、「小麦1ケニクスは1デナリオ・・・、油とぶどう酒には触れるな」(黙示録第6章5章〜6章)
    戦争の後の飢饉、物価の上昇のこと 1デナリオは当時の1日の労働の対価にあたる。物価上昇の起こることを意味する
    油とぶどう酒は、金持ち、特権階級を指す。全く世間の景気の影響を受けない人々のこと
  4)浅黄色の馬、死、地の4分の1が死ぬ(黙示録第6章3節)
    迫害の時が近づいている、ということ
    ※ここまで4つのヴィジョンには馬が登場する。「4+2+1=7」の解釈に当てはまる
  5)祭壇に流れる血(黙示録第6章9節)
    殉教者の血、迫害を受ける人々の血
  6)大地震、太陽・月の色が変わる、天の星が落ちる、山と島が場所を変える(黙示録第6章12節)
    太陽の色が変わるとは、異端や離教により教会の教えが歪められ変えられること。そして、輝きを失ってしまう
    血のような月とは、教えが健全でなくなり、人が血を流すような間違いを犯すこと
    天の星とは天の方角を示す星、つまり教会の教えをよく知っているべき教師や指導者のこと、それらが落ちる
    山や島は不動のものを象徴する 頑丈な国家、諸国も第激動に巻き込まれるということ
    ※大自然の現象を説明し、最後の第7にイエズス様の再臨が近づいているということを象徴している
     7に進む前にさらに詳細に教会の各時代毎に起こることを説明し、最後へ向かいどのような状況で進むのかを最初に戻って再び説明する
     「4+2+1=7」の解釈に当てはまる
     ※第7章の解釈 「海」は絶えず動くものとして、この世、世間のこと。 「地」は不動のものとして、宗教のこと。
  7)「天は半時ばかり静かになった。」(黙示録第8章1節)
    半時の解釈 1日=24時間 1日=48×2分の1 半時=48分の1日 天主はにとっては1日=1000年のようだとあるので、半時とは約20年
    世の終わりが来る最終段階の前に平和な時があるのではないか、それは約20年ではないか
    7つのらっぱが与えられる(黙示録第8章2節)
    ※さらに世の終わりの段階を詳しく説明するために、ここに7つのらっぱのヴィジョンが入る ここも「4+2+1=7」の解釈に当てはまる

・7つのらっぱ・・・人類を破壊してしまうような異端、謬説のこと
          らっぱの音が鳴ると王が来ることの前触れだが、ここでは反キリストの来る前触れと解釈する
  1)第1のらっぱ(黙示録第8章7節)
     アリウス派の異端とローマに侵略した多くの異民族のこと(フン族、ゴート族、ヴァンダル族) 
    この異民族のうち多くはアリウス派に靡いた
  2)第2のらっぱ(黙示録第8章8節)
    イスラム教のこと 海は宗教を指す(前出第7章の解釈参照)
    海賊行為を行いイベリア半島〜スペイン〜フランス、また、コンスタンティノープルからもキリスト教を破壊した
  3)第3のらっぱ(黙示録第8章10節)
    東方離教のこと 輝く星は司教のこと 純粋な水の源(天主の教え)の上に落ちたので、
    それらは救いをもたらさなくなった
  4)第4のらっぱ(黙示録第8章12節)
    プロテスタントのこと 太陽、月、星、昼、夜も光を失うほどの影響を与える
    聖書のみの信仰・無教会主義・聖書自由解釈・無神論的哲学・フランス革命の哲学が登場し、
    天主を人間の理性に従えること・人間理性に対する崇拝がはじまる 
    例えば、エマニュエル・カントの純粋理性批判(「もう人間は成人した、これからは人間が判断する」)などの哲学
    これは、反キリストの宗教の準備 
  5)第5のらっぱ(黙示録第9章1節)
    星とはルターもしくはカルヴァンのこと カステラニ神父様によると、むしろカルヴァンだろうという
    キリスト教の教えが煙によってはっきりと見えなくなってしまう
    いなごとは、出版の自由のこと ジャーナリズムを動かすことによって人民を動かすことができるので、
    「戦いに備えた馬」のようであり、カトリックに対する武器として備えられている 
    「アバッドン」「アポリオン」とは、壊すもののこと カトリック教会と
    イエズス・キリストを破壊しようとする破壊者
    地の草と緑のものとは信仰を実践しているキリスト教信者のこと 
    5ヶ月とは150年のこと(前出の計算方法による)1789年から150年後にWWIIが勃発 
  6)第6のらっぱ(黙示録第9章13節)
    2億の兵士 昔は2億の人々を統治することは不可能だと思われたが、
    現代ではマスコミ等の影響でそれも可能だろう
    昔は理解することが難しかったことが、現代になるにつれ理解しやすくなってきている 
    
残念ながら時間になってしまいましたが、7つの封印・7つのらっぱの解説の続きを伺うことができてとても有意義でした。
書き起こしをすることで、自分でも知識を整理することができました、デオグラチアス!
神父様、本当にいつもとてもすばらしい講話をしていただき本当にありがとうございます! 

"On Luther’s errors and heresies" by Fr. Laisney SSPX : 英語版「ルターの誤謬と異端思想について」聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「ルターの誤謬と異端思想について」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


On Luther’s errors and heresies

My dear brethren,

Two weeks ago the pope celebrated the 500th anniversary of the rebellion of Luther, affixing his 95 thesis on the church of Wittenberg. This is a huge scandal, which did not get much media coverage because such scandals are too common today, but it remains nonetheless very wrong. Indeed Luther is one of the worst heretics of history, having lead astray millions of souls to their eternal perdition.

Luther is sometimes represented as a “reformer”, who would have fought against abuses. The truth is that he himself committed worse abuses than what he denounced: he broke his three religious vows, left the monastery, married a nun who had left her convent following his influence; he was a violent man, verbally abusing many, blaspheming the holiest things, especially the Holy Sacrifice of the Mass and the institution of the Papacy; he was often drunk. He led violent rebellions against legitimate authorities and was the cause of the “wars of religion” of the 16th and 17th century. How could such a one be presented as a model? This is unbelievable!

Luther’s theology can be summed up in one word: “alone”. By this word, he twisted the truth and lost it. He claimed: faith alone, grace alone, Scriptures alone, Christ alone: thereby he lost the true faith, lost sanctifying grace, lost the understanding of the Scriptures and ultimately lost Christ Himself!

That word “alone” was so important for him that he added it in the Scriptures! Where St Paul wrote “Being justified therefore by faith” (Rom. 5:1), Luther added the word “alone” which St Paul had NOT written. When even some fellow Protestants were pointing this out to him, and asking him why he added that word, his answer was: “because Master Luther said so!” Thus he took upon himself to correct even St Paul!

By the expression “faith alone”, Luther rejects the needs of charity: for him, justification is extrinsic, outside of man, a mere declaration of God that such man is just – in spite of the fact that, according to Luther, such man would still remain a sinner, in his sin. The only thing required for such Lutheran justification would be “faith alone”. Contrary to this, the Church teaches with St Paul that: “if I should have all faith, so that I could remove mountains, and have not charity, I am nothing” (1 Cor. 13:2). Faith alone, without charity, is thus worth nothing unto eternal life: one is NOT justified by faith alone.

Why is charity also necessary? Because justification not a mere extrinsic declaration of justice, but rather it is a complete transformation of one’s soul, from the state of sin (spiritual death) to the state of grace and justice (spiritual life). As a body is dead when it is separated from the soul, so a soul is spiritually dead when it is separated from God. At the opposite, a body is living when it is united with its soul, and a soul is living when it is united with God; now that union with God is by charity, as St Paul says: “charity … is the bond of perfection” (Col. 3:14). At the opposite: “If any man love not our Lord Jesus Christ, let him be anathema, maranatha” (1 Cor. 16:22). Thus if a man has faith without charity, his faith is “dead”, as St James says: “for even as the body without the spirit is dead; so also faith without works is dead” (Jac. 2:26). St James speaks here of the works of charity, as St Paul says: “For in Christ Jesus neither circumcision availeth any thing, nor uncircumcision: but faith that worketh by charity” (Gal. 5:6).

Thus by claiming that one was justified by faith alone, by such extrinsic faith, forensic faith, without the inner transformation of the soul and charity, Luther lost even the true Faith itself!

Then Luther claims that one is saved by “grace alone”, without works. He claimed that whatever good work a man would do would avail him nothing unto salvation: only the grace of God would save him, without the need of any good work. That is explicitly against the Scriptures. The truth is that before conversion, before justification, there can be no supernaturally good work that would deserve such conversion: indeed before being in the state of grace, one is in the state of sin and deserves punishment, not grace. However, after conversion there is need of good works before the end of one’s life, and these good works done with the grace of our Lord Jesus Christ are necessary unto salvation.

These good works are the good fruits required from the tree, otherwise it will be uprooted (Lk. 13:6-9). These good works are the additional talents earned by the hard-working servants with the talents they received, but “the unprofitable servant – who did not make the received talent fructify – cast ye out into the exterior darkness. There shall be weeping and gnashing of teeth” (Mt. 25:30). “Every tree therefore that doth not yield good fruit, shall be cut down, and cast into the fire” (Mt. 3:10). The elects are rewarded “because I was hungry and you gave me to eat…”: this little word “because” clearly show that their reward is given to them because of their good works! And the damned are condemned because of their lack of good work (Mt. 25:31-46). Thus St Paul exhorts Titus: “let our men also learn to excel in good works for necessary uses: that they be not unfruitful” (Tit. 3:14). That God rewards good works is manifest in so many passages of the Scriptures: the Proverbs say: “He that hath mercy on the poor, lendeth to the Lord: and he will repay him” (Prov. 19:17). Thus our Lord says: “But lay up to yourselves treasures in heaven: where neither the rust nor moth doth consume, and where thieves do not break through, nor steal” (Mt. 6:20). And the fruits of hospitality: “He that receiveth a prophet in the name of a prophet, shall receive the reward of a prophet: and he that receiveth a just man in the name of a just man, shall receive the reward of a just man” (Mt. 10:41). “For the Son of man shall come in the glory of his Father with his angels: and then will he render to every man according to his works” (Mt. 16:27). “Behold, I come quickly; and my reward is with me, to render to every man according to his works” (Apoc. 22:12). Thus Heaven is “rendered” to the just because of their good works, and hell is “rendered” to the wicked because of their evil works (or the very lack of good works).

By rejecting good works, Luther lost sanctifying grace! In particular he rejected the good works of penance, of reparation for our own sins, for the sins of our neighbour and for the souls in Purgatory. Now the Sacred Heart asked at Paray-le-monial for such reparation especially on first Fridays; our Lady at Fatima asked again for similar reparation especially on first Saturdays. And when one sees the overwhelming wickedness in the modern world, especially that of abortion, one understands the urgency of such good works.

Then Luther claimed one should follow “Scriptures alone”, but the Scriptures themselves testify that they do not contain everything about Christ: “Many other signs also did Jesus in the sight of his disciples, which are not written in this book” (Jn. 20:30). “But there are also many other things which Jesus did; which, if they were written every one, the world itself, I think, would not be able to contain the books that should be written” (Jn. 21:25). For instance, St Paul mentions a word of Jesus (“It is a more blessed thing to give, rather than to receive” Acts 20:35), which is not found in the Gospels. St Luke mentions that our Lord “opened the understanding of the apostles, that they might understand the scriptures” (Lk. 24:45). Now those explanations of the Scriptures which our Lord gave to his apostles, where are they found? A little bit of it is found among the epistles, but there was undoubtedly much more, which is found in the oral teaching of the apostles which has been written down by the Christian Fathers. Hence in order to have the proper understanding of the Scriptures, we need the teaching of the Fathers, i.e. Tradition. St Paul himself mentions that “Therefore, brethren, stand fast; and hold the traditions which you have learned, whether by word, or by our epistle” (2 Thess. 2:15). Here St Paul manifestly puts on an equal footing the written word of his epistle and the spoken word. By rejecting the spoken word, i.e. the oral teaching of the Apostles and their successors, Luther cut himself from the proper understanding of the Scriptures.

Protestants usually claim that they are directly inspired by the Holy Ghost to understand the Scriptures: but such a claim is self-refuting, indeed if that were the case, the Holy Ghost would contradict Himself multiples times, since there are so many different Protestant sects that oppose one another on major doctrinal points! And the Mormons claim the same in support of their “book of Mormons”, and even Muslim could claim the same in support of their “Koran”… In contrast with this multiple division, St Paul teaches that there is “One Lord, one faith, one baptism” (Eph. 4:5). Indeed, “God is not the God of dissension, but of peace” (1 Cor. 14:33).

Thus by claiming “Scriptures alone”, Luther lost the proper understanding of the Scriptures, and in particular was no longer able to discern the abundant and very clear passages speaking about the Church: and this is the last “alone” of Luther. He claims to go to “Christ alone”, without the mediation of the Church. He claims to need no Pope, no priest, no saint, under the pretext that Christ alone is mediator; thus he rejected all prayers to our Lady and to the Saints. Now St Paul says: “For there is one God; and one mediator of God and men, the man Christ Jesus” (1 Tim. 2:5). But “one mediator” does not mean “alone”: that Christ is the “one mediator” means that one cannot bypass our Lord Jesus Christ, “I am the way, and the truth, and the life. No man cometh to the Father, but by me” (Jn. 14:6). But our Lord Jesus Christ is not alone: St Paul tells us in multiple places and many ways that Christ “is the head of the body, the church,” (Col. 1:18). As the head is inseparable from the body, so is our Lord Jesus Christ inseparable from His Church: one cannot have Christ if he refuses the Church, which is the body of Christ! Our Lord Jesus Christ is the Spouse (Mt. 9:15) and the Church is the bride (Jn. 3:29, Apoc. 21:2,9): one cannot separate the groom from the bride: “What therefore God hath joined together, let no man put asunder” (Mt. 19:6). Hence by rejecting the Church, Luther lost Christ!

Now you understand how this little word “alone” can be so destructive! Luther lost everything because of it: he lost the true faith, he lost grace, he lost the understanding of the Scriptures and ultimately he lost our Lord Jesus Christ! We must never separate faith from charity, grace from good works, the written from the spoken Word, and Christ from His Church: we must not take a part but the whole doctrine of Christ. And we find the whole of Christ in the Catholic Church, and in the Catholic Church alone!

All the Saints were attached to the Catholic faith and lived it with great love for God; they were rich in good works; they were faithful to what had been handed down through the centuries by Tradition; they loved Christ in His Church. The Saints are friends of our Lord Jesus Christ; they are with Him in the banquet (Lk. 14:16): one would not be a good guest in the banquet of the Lord if he would refuse to talk with the other guests: hence devotion to the Saints is necessary. Very rude indeed would be the one who would refuse to speak to anybody in the banquet room except the King! He would not be a fitting guest and would be expelled.

May the blessed Virgin Mary, guardian of the Faith, help us to keep the Catholic Faith unsullied by the errors of Luther, to keep the whole Catholic Faith without excluding this or that as Luther did, to keep the Catholic Faith working through charity, acquiring to ourselves a treasure in Heaven so that we may deserve to be true “fellow-citizens with the Saints” (Eph. 2:19) and join them for ever in the beatific vision! Amen.


「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、憐れみの腸を着よ」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月6日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月6日 聖霊降臨後第25主日のミサ
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年11月6日、聖霊降臨後第25主日のミサをしております。

今日この御ミサ後にいつもの通り14時30分から公教要理があります。前回は聖書について話しをしましたが、今回は黙示録について少しお話しをしようと思っています。16時から晩課があります。明日の朝も7時からミサがあります。

11月は来週の主日と再来週の主日にも続けてミサがあります、いらして下さい。

2017年のカレンダーが、アジア管区のカレンダーがあります。これはなんと300円です。お友達の為にもプレゼント用にもたくさん買って、ここに在庫がないようにご協力下さい。それからアメリカのAngels Pressのカレンダーもあります。これは2000円です。

ファチマの巡礼に、来年8月17日から26日の主日の朝に空港に帰って来るようにするのですけれども、飛行機代とホテル代全て含めて、ファチマとローマの巡礼の観光バスとか含めて、28万円から30万円で10日間で予定しています。

締め切りが11月30日までなので、申し込みの方は早めにお願いします。この申し込みの為に日本のお金で約4万円ほど申込金をお願いしなければなりません。世界中から多くの方がいらっしゃると思いますので、是非この100年に1度の機会に、皆さん是非いらっしゃるようになさって下さい。



“Induite vos sicut electi Dei, sancti et dilecti, visera misericordiae.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖パウロが書簡書の中で、「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、憐れみの腸を着よ」と言っています。その後にも、「謙遜も、慎みも、忍耐も着よ」と言葉を続けていますけれども、今日はこの聖パウロの言葉を、死者の月に合わせて、今日このミサを黙想する事を提案しています。

聖パウロは、「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、憐れみの心を、憐れみの腸を着よ」と言っています。

そこで、ここで私の思うにはこのキーワードは、「天主から選ばれた者として、聖なる者として、愛された者として、特別の御恵みを受けた者として」という事です。私たちの特別の使命があります。その使命は何かというと、ちょうど昇階誦で言われているかのようです、「私たちの家族を、聖なる天主の家族を、あなたの家族を守って下さい。」

ちょうど私たちは、この地上にいる戦闘の教会ですけれども、そればかりではありません。私たちの家族は、天国にもそして凱旋の教会にも、煉獄の浄めの教会にも広がっています。「そして1つの家族として守って下さい」と集祷文で言っていますが、私たちは実はその3つの天と地と煉獄を合わせる、選ばれた、天主から選ばれた者たち、聖なる者たち、愛された者たちである、という事を今日聖パウロは思い出させてくれています。

ちょうど11月1日は諸聖人の祝日でした。ちょうど数日前でした。諸聖人の祝日には私たちは、聖ピオ十世会の創立を祝うのみならず、それよりももっと、天国にいる全ての天使、聖人たちの栄光に満ちた、その喜びと、歓喜と、幸せの様子を黙想しました。

天国にいる何千、何万、何百万、何億という多くの選ばれた人たちが、きれいな服を着飾って、真っ白なドレスで、そして宝石と素晴らしい飾り物に満ちて、そして手には勝利の棕櫚を持って、頭には冠を被って、そして素晴らしい、もうその美しさにはもううっとりとするほどの光景を、多くの大群の聖人たちが、童貞者たちが、博士たちが、主の前に讃美と感謝を捧げて与っている、永遠の幸せの晩餐に与っている、その光景を黙想しました。

天使たちが喜びに満ち溢れて、その天の大群が、讃美と感謝と憐れみの歌を天主に捧げている。その天主の御稜威は、それは太陽と比べたら、太陽が本当にろうそくのように見えるほどものすごい眩い、しかし目は全然痛くならない輝きと、美しさと、栄光に満ちて、その御稜威に満たされた、天主三位一体がその玉座に座し給うて、天主聖父、聖子、聖霊、そしてその隣に、私たちの母であり元后であるマリア様のものすごい素晴らしいお姿を黙想しました。

私たちはその天主の選ばれた者として、聖なる者たちとして、愛された者として、そこの一族に、私たちはその席に連なる者として、私たちはここに今生きています。

聖パウロは言います、「特に愛徳を持て」と。「天主を愛し、そしてこの私たちの家族である諸聖人を愛するように。憐みの腸を持て。謙遜と忍耐を纏(まと)え」と言っています。

ファチマのマリア様も仰いました。ルチアはマリア様のものすごい美しいお姿をご覧になってファチマで、「恐れないで下さい。私はあなたに何も悪い事をしませんよ」と言うと、「あぁ、あなた様はどこから来られたのですか?どちらの方ですか?」と聞くと、「私は、天からの者です」と仰いました。マリア様もすぐに私たちの心を天に上げられているかのようです。

ところで私たちは一体、どれほど多く天国の事を考えたでしょうか?「11月は死者の月だ、諸聖人の御祝いだ。」しかし私たちはどれほど愛する天国と、天主様と、イエズス・キリスト、諸聖人、私たちの為にこれほどお祈りして下さって、私たちの為に命さえ御血さえ流された天主イエズス様を、天国の事を、その為に私たちが創られて、今この地上に生きている天国の事を考える事でしょうか?

もしかしたら私たちは、天国の事を全然考えずに、この地上の事だけを考えて生きていたかもしれません。「私の友達がこんなに私に悪さをした。」「私の姑はこんなに悪い。」「私の妻はこうだ。」或いは「私の嫁は、」「私の先生は、」「主任司祭は、」或いは「安倍首相は、」或いは「プーチンは、」或いは「オバマは、」或いは…、そして私たちの関心はこの地上の事だけで、特に私の、自分の事だけばかりを考えていたかもしれません。考えるとしたら、人から受けた嫌がらせ、嫌な事だけを考えて、「何でこんな悪があるのか。」「何でこんな悪が私に許されたのか」と。

そうやって反省すると、それに答えるかのように今日の福音はこう言っています、「おっと、ちょっと待った待った、おっとどっこい。この世には実は敵が毒麦を撒いたのだ。だから本当は、天主の種だけ、天主の福音の種だけ撒かれたはずのこの世界に於いても、実は教会の中に於いても、敵が毒麦を撒いたので、異端や、罪や、或いはつまずき等がどうしても起こってしまったのだ。しかし、天主はそれをそのままにする事をお望みになった。何故かというとそれは、もしも今毒麦を全部取ってしまうと、良い麦さえも傷付いてしまうからだ。だから、この地上に悪が、毒麦が、つまずきが、嫌がらせがあるのは、天主の計画の中の一部なのだから、私たちはそれを知らなければならない。しかし最後にそれは、毒麦は毒麦として分けられて、束ねられて燃やされる。そして良い麦だけは特別に選ばれて、倉庫に入る、そこで保管される。だから今はその忍耐と試練の時である。憐れみの腸を身に付ける時である」と言っているかのようです。

ちょうどこれは11月2日、霊魂の、死せる信者の記念の日には、多くの煉獄の霊魂のために、私たちは死せる信者の為にお祈りしました。この世がこの地上での生活が終わったら、私たちは束ねられて焼かれるか、或いは天国にいるか、もしも焼かれたとしても煉獄に行くとしたら、それはお祈りを以って助けられるから、私たちは彼らの事も考えなければならない」と教会は教えているからです。ですから11月2日があります。

更にイエズス様は、「最後の最後には、最終の分離がある」という事を暗示しています。もしも悪を行った者たちは、私たちが罰するのではなくて、天主が永遠に罰し給うのです。永遠の地獄の火にくべられなければなりません。イエズス様はこの事を何度も暗示されました。

マリア様も同じでした。ファチマのマリア様は子供に教えるのです。子供は聞きました、「あぁ、マリア様は天国からいらしたのですか?じゃあ私も天国に行けますか?」「はい、行けます。」「じゃあ、ジャシンタは?」「“Também.” 彼女も行きます。」「フランシスコは?」「“Também.” はい、フランシスコも行けますけれども、フランシスコはたくさんロザリオを唱えなければなりません。」「じゃあ、マリア・ダス・ネヴェスはもう死んじゃったけれども、今天国にいますか?」「はい、います。」「アメリアは?」「アメリア、彼女はあの子は、この世の終わりまで煉獄にいます。」18歳か20歳だったそうです。100年前に亡くなった女の子ですが、「煉獄に、世の終わりまでいる」とマリア様ははっきり仰いました。

日本語のある本の中には、この「煉獄にいる」とだけしか書かれていないので、あれ?おかしいなぁ、と思って、ルチアのポルトガル語の手記を読んだら、ちゃんとポルトガル語の中には、「世の終わりまで」というマリア様の言葉がありました。

するとそれだけではありません。マリア様は7月13日に子供たちに地獄のビジョンを見せました。あまりにも恐ろしいもので、この床がパッと開いて地面がパッと開いて、大きな火の大海原が見えました。多くの霊魂たちがそこに雪のように、吹雪の雪のように落ちていました。形相の酷い形相をした、おどろおどろしい獣のような悪魔たちが霊魂たちを虐めていました。一瞬間、ほんの一瞬でしたけれどももう子供たちは、「もしも天国に行くという約束がなければ、死んでしまった」と言っています。

マリア様は、そしてイエズス様も、そしてカトリック教会も私たちに、「さぁお前!罪を犯すな!犯すと地獄落ちだ!」と脅そうとはしません。そうではなくて、「多くの霊魂たちが落ちているので、何とかこれを救わなければならない。この彼らの事を憐れんで、彼らの為に祈らなければならない」と言っています。

ではこの福音、「選ばれた者として、聖なる者として、天主から愛された者として」一体私たちは今日この主日にどんな遷善の決心を立てなければならないでしょうか?

私は3つの事を提案したいと思います。

1つは、天主から選ばれた者として私たちは、天の国に行くべき者、その為に選ばれた者、その為に聖なる者として、天主から愛された者として、天国の事を深く愛さなければなりません。天主、天国の事をよく思い出さなければなりません。皆さんの中で愛する子供、或いは愛する娘の事を思っていつも、「この子はどうしているだろうか」と思うではないでしょうか。私たちも天国の事を思い出さなければなりません。それが愛の証拠です。

そればかりではありません。「私が天国に行くかどうか」例えばルチアがそう思ったように、それのみならず、私たちの隣人も聖なる家族の一部として天国に行けるように、「ジャシンタやフランシスコはどうか?」と聞いたルチアに倣って私たちも、「あぁ、私のお友達は天国に行けるだろうか?その為にたくさんお祈りしよう」と思う事に致しましょう。私たちが皆天国に行けますように。

第2に提案したい事は、煉獄にいる、或いは地獄に落ちるかもしれない、私たちの祈りを最も必要とする霊魂たちの事です。マリア様は最初に現れた時に子供たちに聞かれました、「アメリアが世の終わりまで煉獄にいる」という事を聞いた時に、「あなたは天主様があなたたちに送る全ての苦しみを、罪の償いとして、そして罪人の回心の為の懇願の祈りとして、お捧げしますか?その事を望みますか?」と聞きました。ルチアは、「はい、望みます」と答えましたが、聖パウロも今日それを言っています、「憐れみの心を持て。特に愛徳を持て。とりわけ愛徳を持て。」煉獄の霊魂や、地獄に落ちようとする霊魂たちの事を思う事に致しましょう。私たちになされる悪を思うのではなく、私たちへの罪の償いの機会としてそれを利用する事に致しましょう。

これはもう有名な話なので皆さんご存知ですが、ルチアはお母さんから信じてもらえませんでした。ファチマの子供のルチアはお母さんに話しても、それを信じてくれませんでした。「嘘つきめ、嘘をついちゃいけないよ。そんな子は地獄に落ちるから。」主任神父様も、ファチマのマリア様の事を言っても信じてもらえませんでした。その為に叩かれたり、殴られたり、かといってルチアは、「嘘だ」と言う事はできませんでした。本当だったので。お父さんとお母さんの言う事を聞かなければなりませんでしたが、しかし本当の事を嘘だと言う事はできませんでした。信じてもらえずに叱られました。そういう話しをジャシンタにすると、ジャシンタのお母さんは信じてくれました。そしてジャシンタのお父さんはジャシンタを守ろうとしました。そういう話しをジャシンタにするとジャシンタは、「あぁよかった、私のお母さんは信じてくれて良かった」と思わずに、「あぁ、ルチアちゃん良いなぁ!私もそうやって罪の償いを捧げたかった」と反応したそうです。

私たちも聖パウロに倣って、私たちが受ける全ての、天主が送る全ての苦しみを、罪の償いとして捧げる事に致しましょう。天主を愛し、そして罪の償いの為に、私たちの受ける苦しみを捧げる、煉獄の霊魂や罪人の回心の為に犠牲を捧げる、というこの2つは、第3の決心にと続きます。

それはロザリオの十字軍で、多くのロザリオと犠牲を、ロザリオの十字軍の為に皆さんどうぞこの機会に参加するようになさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。
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