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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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家庭訪問をするファチマの聖母マリア像への祈り

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会アジア管区では、2017年のファチマ100周年を記念して、巡礼のファチマ聖母像が、私たちの家庭を訪問して下さるように計画しています。
日本のファチマ像は、マニラにおられるピーター・フォルティン神父様からの寄贈です。マニラの学校では、フォルティン神父様の指導の下で、ファチマの聖母像が教室や職員室などを回り、次のような祈りをもって聖母像を生徒や先生たちが迎えています。また、他の聖母像はフィリピンの家庭を訪問して、その前でロザリオを唱えています。さらに、フィリピンでは南のマルベル(コロナダル)という所からファチマの聖母像が、北のバギオという所まで(2016年10月28日から2017年7月31日まで)歩いて私たちの聖ピオ十世会の全ての教会や御聖堂をお回りになる(総計約2017キロメートル)ことが実施されています。これはフィリピンでは、"MARY'S MISSION TOUR"と名付けられています。

SSPX ASIA MMT

 そこで、日本でも、ファチマの聖母マリア像が私たちの家庭を祝福してお回りになるのを望み、計画しました!

 次の祈りを持ってファチマの聖母マリア様をお迎えしましょう!


家庭訪問をするファチマの聖母マリア像への祈り

聖母マリア様がいらっしゃるとき

天主の御母にしてわが母なる聖母マリアよ、我らは(わが家族は、我は、わが社は、わが部署は、わが商店は、わが教室は、わが部室は、等々)、
御身のかたじけのうご訪問に心から喜び奉る。御身は、我らが貧しき団居(まどい)に来られることを快しとされ、御身の我らに対する愛を示し給えり。御身がここにとどまり給うこの一日(この一週間、この十日間、この一ヶ月)、願わくは御身この場所を祝福し給い、御身の御恵みを豊かに施し給え。

我らが愛すべき御母よ、我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)を祝し、
ここに住む(働く、生活する)全ての人々を守り、悪の手を退け給え。
我らは心を一つにして、子供として、全てを母なる御身に奉献し奉る。我らが全て、御身の御一人子イエズス・キリストの御教えと、
母なる公教会の掟とを守り、聖なる一生をおくることができるように助け給え。

御身のこのご訪問により、御身の御姿を見るだけで、我らの心は喜びに躍り、天主へのまことの愛徳がわき起こり、
御身へまことの信心がますます増大するのを覚ゆるなり。願わくは、天主への愛と御身への愛が、わが隣人に伝わらんことを!
御身の御助けによりて、天主と隣人とに対する義務を、特に愛徳の掟の義務を守らせ給え。聖子私たちの主イエズス・キリストによりて願い奉る。


「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、アジア、特に中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

 ロザリオの元后なるファチマの聖母よ、我らのために祈り給え!
 ロザリオの元后よ、世界に真の平和を与え給え!


聖母マリア様が家庭を離れるとき

 おお、ファチマの聖母マリアよ、ロザリオの元后よ!
 天主の御母にしてわが母なる聖母マリアよ!

この一日(この一週間、この十日間、この一ヶ月)、御身の住処となった我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)の団居から、御身の立ち去る時は来たりし。御身のかたじけのうこのご訪問のあふれる喜びを、我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)は、言い表すこと能わず。たといしばらくの間であろうとも、御身は我らと共にあることを望まれ給えり。御身のその母の愛に感謝し奉る。
願わくは、御身の再び来たり給わんことを。その喜びの日を久しく待ち望み奉る。御身を離れること無く永遠に見(まみ)ゆるその栄光の日を心から熱く待望し奉る。

ここから立ち去らんとする今、願わくは御身と共に我ら(わが家族、我、わが社、わが部署、わが商店、わが教室、わが部室、等々)の心をも持ちゆき給え。御身を我らが決して忘れることなからんがために。

聖子私たちの主イエズス・キリストによりて願い奉る。


English text:

a. Opening Prayer:

Our Mother and Mother of Christ, we are happy and honored by your visit in this class room which you made worthy to be the abode of your love and affection. During the day that you will stay here, please bless this room and always abide with it through your graces.
Beloved Mother bless this room and those using it including those who are away; deliver them from all evil.
From now on all our minds, our hearts and our works are consecrated to you, since you are our mother, and grant that all of us may comply with the commandments of your Son Jesus Christ and with the commandment of Mother Church. We pledge that this visit arouse us all to a true love of God and to true devotion to you so that we may fulfill our duties to ourselves, our neighbors, and to society.

Oh Mary, through Thy Holy and Immaculate Conception, convert Russia, Europe, Asia, especially China, Korea and Japan! Convert whole world to Jesus Christ!

Oh, Immaculate Heart of Mary, be salvatin for Russia, Europe, Asia, especially for China, Korea and Japan! Be salvation of the whole world!

May peace reign in the world!
Our Lady of the Rosary, pray for us.



b. Farewell Prayer:

O Beloved Mother the time has come for your departure from this classroom your home for 1 day. Our lips cannot express the joy overflowing in our hearts in this visit.
Inspired by your love Mother you desired to be with us even for only a while. Thank you Mother, thank you. Please come back some other day, we will wait for you with profound ardor.
Upon your departure take with you our love, take with you our hearts, never allow us to forget you nor to stray away from your care now and forever.
Amen.


ファチマの天使の祈り

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

ファチマの天使の祈り

「我が天主よ、われは信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します! 
我は、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、御身に赦しを願います。」

Meu Deus! Eu creio, adoro, espero e amo-Vos. Peço-Vos perdão para os que não crêem, não adoram, não esperam e Vos não amam.


「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界のすべての祭壇に現存されているイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と御神性を、
イエズス・キリスト御自身が受けている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。
イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

Santíssima Trindade, Padre, Filho, Espírito Santo, (adoro-Vos profundamente e) ofereço-Vos o preciosíssimo Corpo, Sangue, Alma e Divindade de Jesus Cristo, presente em todos os Sacrários da terra, em reparação dos ultrajes, sacrilégios e indiferenças com que Ele mesmo é ofendido. E pelos méritos infinitos do Seu Santíssimo Coração e do Coração Imaculado de Maria, peço-Vos a conversão dos pobres pecadores.


2016年11月18-21日,の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月は、東京では連続で3回主日に聖伝のミサを捧げることができ、このお恵みを天主様に深く感謝します。11月20日は、典礼暦最終の主日でしたので、東京では続けて黙示録について勉強しました。

11月27日の主日は、待降節第一主日です。イエズス・キリストが来られるのを準備いたしましょう。待降節は、過去キリストがお生まれになることを太祖の人々が歴史的に待望していたことに思いを馳せて、私たちもイエズス・キリストの聖誕を準備することです。

それだけではありません。待降節中に、イエズス・キリストが私たちの心にも今、現在、お越しになること、また、将来生ける人々と死せる人々とを裁くために来られることも準備させるからです。

最近私の読んだ、レオナルド・カステラニ神父(Leonardo Castellani, S.J. 1899 – 1981)が書いた黙示録の注解はとても興味深いものでした。カステラニ神父様はアルゼンチンのイエズス会司祭で神学者です。彼は、教父たちによる黙示録の解釈を専門に勉強した司祭で、聖アウグスティヌスや聖トマス・アクィナス、大聖アルベルトなどはもちろん、近代の有名な伝統的な神学者たちの意見を含めて、聖伝の観点からコメントを加えており、とても参考になりました。特に、近代主義者たちの解釈を的確に批判し、それを知性的に指摘しているのです。彼は、ロバート・ヒュー・ベンソン神父(Monsignor Robert Hugh Benson)の書いた「この世の君主」The Lord of the World (1907)をスペイン語(El señor del mundo, 1956)にも訳してます。

ベンソン神父の「この世の君主」のことをもっと話します。ベンソン神父は英国教会(聖公会)からカトリックに改宗したイギリス人です。ベンソン神父の父親は、カンタベリーの聖公会大主教(Edward White Benson, 1829 – 1896)で、黙示録の注解(The Apocalypse,: An introductory Study of the Revelation of St. John the Divine, 1900)を書いています。おそらくそれに影響を受けたのでしょう、ロバート・ベンソンは反キリストの到来を「この世の君主」として描き出します。

インサイド・バチカン誌の編集長であるロバート・モイニハン(Robert Moynihan)のエディトリアル5号(2015年2月5日付け)によると、ラッツィンガー枢機卿はこのベンソン神父の「この世の君主」について「新世界秩序」という観点で、1992年にミラノで話をしています。それは1990年9月11日にジョージ・ブッシュ(父)が初めて「新世界秩序」(new world order)という言葉をペルシャ湾の危機について米国議会で使ったすぐ後でした。モイニハンが指摘するには、これは1989年にベルリンの壁が崩れた翌年のことで、ブッシュ大統領とゴルバチェフが1990年9月にヘルシンキで首脳会議をやった直後、この1年後の1991年12月25日にゴルバチェフがソ連の解体に署名しており、そのちょうど11年後に、やはりジョージ・ブッシュ(子)が大統領の時世界貿易センタービルの攻撃がありました。

ラッツィンガー枢機卿は、ミラノの聖心大学で1992年2月8日に「新世界秩序」について話しますが、その内容は英語に訳されてイグナチオ・プレスから『ヨーロッパの転換期?教会と現代世界:評価と展望』と題して出版されました。A Turning Point for Europe?: The Church in the Modern World : Assessment and Forecast, Ignatius Press これは既に1991年にドイツ語で Wendezeit fuer Europa?: Diagnosen un Prognosen zur Lage von Kirche und Welt という題で出版されています。

ベネディクト十五世が聖ヨゼフへの信心について語った『ボヌム・サネ』(1920年)の中で人間社会に対する天主の権威を認めない世界を作ろうとするとき、不可避的に恐怖が統治することになる、と語ったように、ラッツィンガー枢機卿は、講話の中で、反キリストは、キリスト無しに"平和"をもたらすものとして現れる、と警告しています。ちょうどそれはベンソン神父のフィクションにうまく描かれていました。

『この世の君主』のヒーローはイギリス人司祭、パーシー・フランクリン神父です。ベンソン神父の自分自身の投影のようです。フランクリン神父は、米国ヴァーモント州のアメリカ人議員ジュリアン・フェルセンバークに注意深く関心を払っています。フェルセンバークは、世界戦争を回避させて世界を救い「救世主」と呼ばれ、世界を統一します。フェルセンバークは世界の大統領となり、これからは「天主を信じる」という者は反逆罪を問われます。天主教の代わりに民主教だけが、人類教だけが許される世界が出現します。天主が人間となったカトリックの代わりに、人間が神となった世界です。天主に基づく愛徳の代わりに友情が、希望の代わりに満足が、信仰の代わりに知識が、取って代わります。フランクリン神父は、ローマ教皇ヨハネ二十四世に呼ばれ、教皇にフェルセンバークについて説明します。天主に対する宗教の代わりに安楽死が実践されていること、真理の名の下に宗教を破壊しようとしていること、少数のカトリック信者たちだけが「この世の君主」に抵抗していること、を伝えます。
教皇は質問します。「何をすべきだと思うか?」
フランクリン神父は答えます。「教皇様、ミサ聖祭、祈り、ロザリオです。これらの最初で最後の武器です。この世はこれらの力を否定しています。キリスト者たちがその全ての重みを全て使うべき力を。全てはイエズス・キリストにあります。イエズス・キリストにおいて、最初と最後があります。その他は、何も出来ません。」

愛する兄弟姉妹の皆様、これこそを私たちは、待降節の間にいたしましょう。聖伝のミサ、祈り、犠牲、そして聖なるロザリオの祈り。これこそが私たちの武器です。イエズス・キリストが第一であり、私たちの全てです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。
大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

11月18日(金)聖ペトロ、聖パウロの大聖堂の献堂式のミサには12名が、
11月19日(土)寡婦聖エリザベト のミサには13名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

18日のお説教では聖ペトロ、聖パウロの大聖堂が建てられた背景やその意味を知る事ができました。
11月にローマの三つの大聖堂の献堂を祝うのは、1日の諸聖人の祝日から始まって、私達の心を天へ、天のエルザレムへ上げるようにとの教会の計らいであるという事がわかりました。
この日の聖福音のザケオのように、私たちがイエズス様を知りたいと思えば、イエズス様はこちらに来て下さって私たち自身を教会(神殿)にして下さるのですから、私達もザケオに倣って回心してイエズス様をお喜ばせするよう努めなければならないと思いました。

19日はハンガリーの聖エリザベトの人生についてお説教をして頂きました。
幸福な王女の生活から一転して夫であるルイ王を失い、弟ヘンリーから裏切られ、すべての財産を奪われ追放されたまだうら若かった彼女が不平不満や落胆無しにそのような沢山の十字架をどうやって耐えることができたのか興味を持ちました。
日々の小さな十字架にさえ、時々へこたれたり、悲嘆にくれたりする自分と、なにが違うのかもっと知りたいと思いました。

御ミサの御聖体変化の時、丁度地震がありました。かなり揺れたので家にいる家族や今日御ミサに来れなかった代子の無事をとっさに祈りました。
まさに、今、捧げられているイエズス様の尊いいけにえによって、今日の地震は大きくならないのだろうと勝手に安心してミサに集中しました。
この地震を、イエズス様がカルワリオでご自分を捧げられた時に起こった地震と重ねた人々もいたようです。

公教要理ではウォーレン・キャロルの「1917」という本を参考に、1917年の天と地の戦いの年についてご教示いただきました。
ロバート・ヒュー・ベンソン神父様の書かれた「世界の主」(Lord of the World)というフィクションが、今まさにノンフィクションになっている現実に恐ろしさを覚えました。それと同時にベネディクト16世、フランシスコ両教皇様がたもこの本を薦めておられたと知って本の結論である「結果、カトリック信者には祈りだけが残った」、カトリック信者の武器は祈りであり、償いであるという事を教皇様方が認めておられることにうれしく思いました。


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供1人)
女: 22人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供4人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父さま、いつもありがとうございます。
私は、『預言者ダニエルの言った、〈荒らす者のいとわしいもの〉が聖所に立つのを見たら、―読む者は悟れ―そのとき、ユダヤにいる者は山に逃げよ。』のみ言葉のなかの”山”とは、いったいなにをあらわしているのだろうかと長い年月ずっと不思議でした。
今回の神父様のお説教で、山とは永遠に変わることのない天主様の教えのことと伺って、なるほどそうなんだ!と思いました。この2000年の間変わることのないカトリックの教えのことなのですね。
典礼歴の最後には 昔からこの個所が読まれていたとのこと。黙示録の記述とも内容が重なっていて、典礼暦の最後が聖書の最後と同じような内容が語られていることに気づかされました。
黙示録の最後の御言葉は美しく荘厳で励まされます。「私たちがいつもイエズスさまを全てのうちに第一とした人は栄光を受けます」とお説教の中でも栄光のことをお話くださいました。受難の後には復活が、そしてイエズスさまが栄光のうちにおられるということを、忘れないようにします。

今回の公教要理も、難しい内容でした。
以下に「わかったこと」をまとめてみました。(間違っていたらすみません)
9章後半では 第二次世界大戦で使われた多くの武器のことが表現されていて、戦争が終わっても人々は偶像礼拝をやめることがなかったことが描かれている。
11章の1節で出てくる『神殿を測る』の神殿は 黙示録の最後に出てくる天のエルサレムとは違う意味。(計るとは、建物を造る 立て直すという意味があるとフランシスコ会の聖書の注にありました。)
『42ヶ月(三年半)の間 神殿の外庭が異邦人に外庭を荒される』というのは、反キリストがくる前に教会に離教・背教のような動きが見られるという意味。教会での教えは半分空っぽにされても 教会自体はなくならない、しかし天主様の置かれるべきところに代わりに偶像が置かれる。
『中心の至聖所が残る』ということにより、神殿のすべてが破壊しつくされないように、教えの中枢を護るグループ(SSPXのことでしょうか?)が残されることを表す。
教えの真髄がなくなってしまうと、意味のある催しだったものがただの盆踊りになってしまったり 四旬節前のCarne Vale 肉にさよならをいうのがカーニバルのお祭り騒ぎに変化してしまったり、聖人を記念するのが逆に悪魔のお祭りのハローウィンになったり・・・のように、ユダヤ教がファリザイ主義に陥ったように、宗教が形骸化してしまう。中核であるご聖体を守らなければならない(←ごミサのことでしょうか?)

『二人の証人』の意味は二通りの解釈がなされているが、一つはエリアとエノク、もう一つは"パウロ"と"ヨハネ"を指しているという説。ルフェーブル大司教さまとカストロマイヤー司教様のお二人とみるお話も。
『ソドマともエジプトともたとえられている大都市』はローマという意見もあるがむしろエルサレム。
『契約の櫃』は 聖母の連祷でも詠われるごとく マリア様のこと。
古来から解釈学というものがありそれに沿った解釈をするようになっているとのこと、暗号を解くカギがあり勝手な解釈をすることがないように配慮されているとのことで、 それらをもとに上記についてそれぞれ詳しく説明される。
ここまでが、カステラーニ神父様の本によるお話しでした。

もう一冊「Lord of the World (この世の主) 」という小説 フィクションとして1907年に カトリックの司祭 Fr. Robert Hugh Benson によって書かれたフィクション小説の本についても、ご紹介くださいました。現教皇様前教皇様のお二人ともが言及された本で、25年以上も前にもそして昨年にも、世界はこの通りになっているとおっしゃられているそうです。この本には、どのように世界に反キリストが表れるか反キリストがどのいう者か想像してその特徴を詳しく述べられているということでした。「アメリカの大統領が人々を喜ばせることを言って自分を平和を与える政治家に見せて人々を喜ばせるが、その政策はキリストのいない政策 キリストを排除する政策で、キリスト教徒は平和を乱す者として告発される。マスコミ・政治経済のすべてを牛耳ってキリスト教は迫害されてしまう。しかし、それに立ち向かうための最高の武器である祈りと犠牲は残る、祈りと犠牲は天主様からの力であり目に見える技術などよりもはるかに力があるものだから」という内容の本だそうです。
いずれにしても、今はまだラッパがすべて吹かれたわけではなく、反キリストが登場した後になってから反キリストが来たとわかるとのこと。

今回のご講義は天主様(真理)の代わりに偶像を置かないようにということで、ごミサのお説教から引き続いてお話の内容がつながっているように思いました。貴重なお話をありがとうございました。

追伸
ロバート・ベンソン神父様の本の紹介をしていただいた時、ピオ12世教皇様が「New Contemplare」という訓話のなかで 反キリストのついて お話しくださったことを ご紹介くださいました。ピオ12世教皇様は 「今の世界はプロテスタントから始まり反キリストへと向かった」と言われたそうです。プロテスタントは天主とキリストは良いが教会はいらないと言った《1517年》、 フリーメーソンは天主は良いがキリストと教会はいらないと言った《1717年》、共産主義は天主もキリストも教会もいらないと言った《1917年》。 というようにちょうど2017年から遡ることのちょうど500年前 300年前 100年前に プロテスタントから始まった反キリストの動きに変化が見られ、ますます悪い方向へと向かっているとのことです。
このお話に先がけて小野田神父様は、1990年の9月11日に アメリカのパパ・ブッシュによって 初めて新世界秩序(New World Order)という言葉が使われたと説明されました。そして、カトリックについて「イエズス・キリストは私たちが天に行くために全く新しい秩序を作られたのです。カトリックとは、イエズス・キリストによって作られた〝天に行くために〟唯一機能できる 全く新しい秩序なのです。人類における幸せと全世界にわたる平和のための唯一の全世界の国際組織なのです。」と説明をしてくださいました。
”カトリック教会が普遍・唯一の秩序のものだったのに、天主のない秩序が欲しいという(人たちを代表して)アメリカの大統領があらわれた。” ベンソン神父様の本には先見の明があったというか、反キリストの性質がとてもよく表現されている本だということが、よくわかりました。
カトリックとは何かということと、反キリストとはどういうものを指すのかということを、小野田神父様が私によくわかるように説明をしてくださいましたことを 深く感謝いたします。聖書の中に「イエズスが肉体をとって下られたキリストであることを宣言する霊はみな神からである。またこのイエズスを宣言しない霊はみな神から出たものではなく、来るだろうと聞いている反キリストの霊である。それはもう世に来ている。」(ヨハネ第一の手紙4章2~3)を見つけて読みました。ご講話を伺ってこの意味をより現代の状況に合わせて黙想しました。ありがとうございます。


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様

11/20の御ミサのレポートをお送りいたします。

御ミサ
今回の御ミサは暦年最後の主日ということで、世の終りと審判についてがメインテーマであったように感じ、3週連続で公教要理の時間にお話を伺っている黙示録の内容と通じていると思いました。

これだ! と分かったこと今回は2点あります。
1.この世の創造の目的とは、霊魂の救いであること
私たちが天国へ行き直接に天主を見、至福直感の幸せを得るためにこの世が創造された
イエズス様の御苦難のすべては私たちの霊魂の救い
天主イエズス様は私たちを地獄へ落とす為にいらっしゃるのではなく、救うためにいらっしゃるのだ
天主様の思いは平和の思いであって、悲しみではない(入祭文より)ということが良くわかりました。

今回のお説教を聞いて、私自身が実は今までこの世の創造の目的について深く良く考えたことがなかったことに気がつきました。
この世の創造の目的は「自分の」救霊のためということは意識していたのですが、それまででした。
天主様は「私たち皆」の、「全人類」の救いを望まれた、ということ、「そのために」この世を創造され、そして御自身が十字架に掛けられ贖いを果たされたということは何という神秘だろうかと思いました。御自身が受ける全ての侮辱と、御自身のなさるすべての労苦と、この世の終りまで起こる全ての事をご存知でありながら、しかしなお「私たちのために」この世を創造されたということは本当に天主様の愛であって、傷ついても与え尽くす親の愛であると思いました。もし、そのように私たちを救いたい、と思っていらっしゃる天主様に「地獄へ行くように」、と言わせてしまうことは何という悲しいことだろうかとも思います。私自身がその悲しみの原因とならないように、また、この世の他の人達に対しても天主様がそのような悲しみを抱かずとも良いようにお祈りが必要だと思いました。

2.「荒らすもののいとわしいもの」とは、偶像が崩壊した聖所に立つことであり、教えが歪曲されることである。
教父たちは、最も進んだ、来るべき偶像崇拝とは天主の代わりに人間を礼拝するということではないか、と解釈しているということ。
カステラニ神父様の黙示録のお話を思い出し、正に今のこの世のことであると思いました。ローマ皇帝を崇拝する等の偶像崇拝ではなく、天主の代わりに人間の栄光や技術や身体を崇拝し、天主を忘れ、創造の目的を忘れ、最後の審判のことを忘れさせようとし、もう既に忘れかけている今の時代のことであると思いました。
この世が創造のはじまりの目的を忘れてしまったことは、最後を忘れてしまうことをより容易にしてしまったのかもしれない、と思いました。また、最後を忘れてしまうことも、最初の目的を容易に忘れさせるのではないかとも思いました。

午後の講話
カステラニ神父様の著作を元にした黙示録についてのお話の第3回でした。また、フランシスコ教皇様が2015年に自らお薦めになったベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の"Lord of the World"(1907)についてお話しをして頂きました。

カステラニ神父様は、テーマを決めて論文を書いていており、黙示録の解釈は第7のらっぱとイエズス様の来臨というところで実質的に終了しているとのことで、前々回(11/13)からお話しいただいた黙示録の内容は今回で最終回でした。
以下に内容をまとめました。

前回の続き
第7のらっぱについて
・黙示録10章8節の「小さな巻物」とは、黙示録そのもののこと
・黙示録11章には、反キリストが来る前に教会が荒らされる、艱難があるということが書かれている
 ここで2つの出来事がある
 1)神殿をはかる(11章1節〜)
 ここで登場する「神殿」は、21章に登場する天のエルサレムとは別である
 教父達は、異邦人に外庭を荒らされた神殿とは、イエズス様の再臨の前に、教会に大きな背教や離教があるということだと解釈している。しかし、外庭は荒らされるが破壊はされてはおらず、至聖所・中核は残っている。つまり、神殿はなくなってはいない。これは、少数だが天主の信仰・教義を守るグループがあるということだろう。多くのものが形骸化してしまい、中核を守る人々は攻撃されるだろう、この中核とは御聖体のことであろう。
 カステラニ神父様は、カトリック教会が荒らされてしまう原因は、「ファリサイ主義(発言と行動が一致していない)」と「フォークロア(カーニバルやハロウィンなどのように民間伝承や民間信仰に取り込まれ、本来の意味を失う)」により引き起こされる形骸化ではないかと予想している。また、Benjamín Benavidesの「カトリック教会にファリザイ主義が存在しなかったならば、今、共産主義は存在しなかっただろう」("No habría comunismo en el mundo, si no hubiera fariseísmo en la Iglesia.")という発言も紹介している。
 2)2人の証人(11章3節〜)
 2つの説があり、どちらが正しいかは不明である
 エリア・エノク(2人共死んだという記述が聖書にない)説と「パウロ」という名に代表される司教と「ヨハネ」という名に代表される司教という説。(「パウロ」という名に代表される司教はプロテスタントから出て、「ヨハネ」という名に代表される司教は聖ヨハネが宣教した東方教会から出て、2人共にカトリック教会が正しい、離教してはいけないと言い、ローマのペトロとの一致するための証人として立つ)
 2人の証人の屍が横たわる大都市(11章8節)は、エルサレムであろう。
・第7のらっぱ(11章15節〜)
 契約の櫃(11章19節)は聖母の連禱の中にある契約の櫃と同じ意味、つまり、聖母マリア様のことでこの世の終わり頃には聖母マリア様が私たちの目に見えるように頻繁に現れるということではないか。たとえマリア様ではないとしても、今まで隠されていたものや天主様の働きが私たちの目に見えるようになる、ということではないか。
 太陽に包まれた婦人(12章1節)とは、教会であって象徴的にマリア様であろう。
 男の子(12章5節)とは、イエズス様のことであろう。
 古代からユダヤ人の改心が起こると言われているので、婦人が荒野に行き、男の子を産むというところでユダヤ人の改心についても触れられているのではないか。


ベンソン神父様(Father Robert Hugh Benson)の「Lord of the World」(1907)についてベンソン神父様はイギリス人で、父親はカンタベリー大司教・母親も身分の高い人であったがカトリックに改宗し、フィクションの小説として、「Lord of the World」を書いた。
内容は、天主のいない秩序を持って世界を統一しようとする人・反キリストが表れ、その人は世界のリーダーになり皆の耳に快いことを言いつつカトリックを迫害しはじめる。反キリストは、悪魔のように恐ろしい形相をもって現れるのではなく力のある政治家として現れるが、その政策は全て天主を排除する、天主のいない世界を作る政策である。偽りの平和・偽りの喜びを人民に与える一方で、カトリック教徒はそのような平和を乱すものとして告発される。反キリストは政治・マスコミ等全てを支配してしまい、キリスト教徒には何も持つものがないように見えたが、しかし実際には最後の武器を持っていた、それは、「祈りと犠牲」であり、「御聖体」だった。これこそ最高の武器で、世の中の最も強い武器もこれには勝つことができない。
というもの。
ラッチンガー枢機卿様も「この本の通りになっている。」と言及し、2015年にはフランシスコ教皇様も「世界はこの通りになっているからこの本を読むように。」と勧めた。


感想
黙示録は、難解な書物であるので詳しく読み取るのは難しいが、時代が進むに従い良く理解できるようになってきたこと、そして、「最後の時には明確に全てが分かるだろう」ということが分かりました。
聖福音とお説教との内容とも繋がり、全ては天主様のご計画の中に起こっている事であり、最後の時にはイエズス様は必ずいらして、そして勝利なさる、ということを改めて確信いたしました!
ベンソン神父様が、「Lord of the World」の中で仰った「祈りと犠牲」が私たちカトリック教徒に残された武器である、ということは、ファティマのシスタールチアも仰っていらっしゃいますしイエズス様もマリア様も聖人達もその武器でこの世に勝利なさったのだから、やはりこれが最高の道で王道なのだなと、これも改めて確信することができました。
また、カステラニ神父様が聖書解釈について「典型(プロトタイプ)を当て嵌めて行うのが聖書解釈であり、想像と解釈は違う。」と仰ったことも教えていただき、これも印象的でした。
御自身が典型となり、天国までの道を示された天主イエズス様とマリア様に本当に感謝の気持ちでいっぱいになりました。デオグラチアス!

また、カステラニ神父様の素晴らしい著作を私たちの為に分かりやすく教えて下さった小野田神父様に本当に感謝いたします。いつも素晴らしいお話をしていただき、本当にありがとうございます!
デオグラチアス!



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

台湾で同性婚合法化の動き

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

こんにちは。

今日は11月29日で、聖母の無原罪の御孕りの大祝日の準備のノベナが始まる日です。

今回は、お祈りのお願いを申し上げます。何故なら、台湾で同性婚合法化の動きがあるからです。

台湾カトリック教会は同性婚合法化に対して反対を表明しました。台湾のカトリック教会は祝福されますように!

聯合報 天主教陳科神父 反對同性婚合法 2016-11-03 11:52

カトリック輔仁大学のキャンパスミニストリーは、オープンレターで全校の教師と学生に対し、キリストの信仰は聖書に基づいており、同性の性行為に同意できないと表明しました。

カトリック輔仁大学はチャプレンが同性婚法制化反対のメールを教員と学生宛に出しました。
Anger swells after Fu Jen's anti-gay letter

輔大公開信反同 直批「同志如竊盜不能合理化」

どうぞ、台湾の方々のためにお祈り下さい。台湾がソドマとゴモラのようになってしまいませんように!

情報として、2014年1月とやや古い記事ですが、東洋経済の記事です。この記事のことを紹介して下さった方によると、「東洋経済新聞は、日本のメディアに多い傾向ですが、東洋経済も台湾独立派寄りで、今回同性婚を推進している時代力量の党首黃國昌へのインタビュー記事もあります。日本では保守派に対する台湾独立派の働きかけのため、多くの保守派がリベラル傾向の強い台湾独立派を支持しています。したがって、このような本来保守派が反対するような同性婚について注目されないのは誠に残念です。」

東洋経済の記事
同性婚容認で揺れる台湾 「多様性ある結婚」をめぐって、対立が先鋭化

CNN 日本語版の今年の記事
台湾で同性婚合法化の機運、年内にも法案 アジア初実現か

同性愛支持派のサイトによる記事
台湾の同性婚合法化への討論は今どこまで進んでいるのか?

台湾の新聞「自由時報」の記事
同志大遊行落幕 外媒:台灣擁有最先進社會 
(ゲイパレード終了 外国メディア:台湾は最先進社会を擁している)

力挺婚姻平權! 小英在臉書「掛上彩虹」
(婚姻平等を力強く支持!蔡総統はフェイスブックに「虹を掛ける」)



愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版 【2017年のカレンダーに寄せて】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版が出来上がりました。
12月2日(初金曜日)、大阪の御ミサから販売開始いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【2017年のカレンダーに寄せて】

アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版を、おとりになっている愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年は、ファチマにおける聖母マリアの御出現100周年です。また同時に、聖マキシミリアノ・コルベ神父様の創立した無原罪の聖母の騎士会の創立100周年です。

そこで、このカレンダーはこれらの100周年をより良く過ごすことを目的に作られました。今年は特別に、このカレンダーを手にしたら、まず全ての内容に目を通すことを提案します。そうすると、ファティマのマリア様のご出現について深い理解をもつことができ、聖母の汚れなき御心の中に深く入り、100周年の良いスタートになると思われるからです。

100年前の1917年は、イエズス・キリストが昇天して以来、世界史の中で、最も恐るべき年でした。ヴィッテンベルクにおけるプロテスタント宗教革命(1517年10月31日)とロンドンにおけるフリーメーソンの最初のロッジ創立(1717年6月24日)とペトログラードにおける共産主義ボルシェビキ革命(1917年11月7日)と地獄の勢力と、人類を天国に導いて救おうとする天からの力(特に1917年10月13日の太陽の奇跡)との対立が人々の目の前で現実のものとなったからです。プロテスタント革命と共産革命との間には、フリーメーソンの娘であるフランス革命を経て、絶え間ない論理の流れがあります。それをピオ十二世教皇が1952年10月12日に「ネル・コンテンプラーレ」(Nel Contemplare)という訓話で、プロテスタント主義、啓蒙哲学、無神論的マルクス主義を次のようにまとめています。
「キリストは良いが、教会はダメだ。次は、天主は良いが、キリストはダメだ。最後には不敬の叫びとなって、天主は死んだ、さらには天主などいなかった。」«Cristo sì, Chiesa no. Poi: Dio sì, Cristo no. Finalmente il grido empio : Dio è morto; anzi : Dio non è mai stato.»「天主の無い経済、天主の無い権利、天主の無い政治」un'economia senza Dio, un diritto senza Dio, una politica senza Dio という基礎の上に、世界の構造を構築しようとしています。私たちは、このことを深く理解しなければなりません。

このカレンダーは、私たちを救おうとする天からの聖寵と憐れみとの業を理解するために、次ごとに、聖母マリアがファチマでなさって下さったことを黙想することを提案しています。ファチマの出来事を世界的な歴史の文脈で、いえ、天と地と地獄の壮大なドラマとして理解することは、ファチマで何が起こっていたのかを知るために、深い意義があります。これについては、カレンダー付録「1917年」をご覧下さい。

2016年10月30日、イタリア中部を襲った大地震によって聖ベネディクト大聖堂が瓦解しました。聖ベネディクトの生家に13世紀に建てられた教会でした。イタリアで同性愛の「結合」が2016年7月に合法化された後、イタリアでは地震が急増した(Giovanni Cavalcoli, O.P.)と言われます。同性「婚」で家庭という天主の作った制度を壊し、道徳的社会的激震を起こしたことが、この地震による教会の破壊によって、象徴されているのかもしれません。

2016年11月08日、福岡市の博多駅前で、早朝の5時14分、しっかりとしていたはずの道路が突然に陥没しはじめましたが、7時20分すぎには、ドドドという地鳴りがして、土煙を上げて幅が約30メートルある5車線の道路全体が崩れ落ちました。こうして九州の玄関口にある大通りに突如、巨大な穴が出現し、汚臭と茶色く濁った下水で池のように変わりました。

日本は、天主様の御憐れみで、今は表面上は、平和で「異常は何もない」かのように思えます。私たちの人間の技術で「万全を期して」平和を作ろうと努力していますが、しかし、もしも私たちが天主の無い、世界を作り上げようとしているのなら、博多駅前の道路のように、土台があまりにも弱く不安定なので、思ってもいなかったその時に、もろくもあっという間に崩してしまうでしょう。ファチマの聖母は私たちに教えてくれました。

「もし私があなたたちにこれから言うことを人が実行するなら多くの霊魂たちは救われ平和になるでしょう。戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、・・・別の更にひどい戦争が起こるでしょう。
・・・もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」(7月13日)

「彼らはもうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」(10月13日)

2017年は、人類の歴史にとって、カトリック教会の歴史にとって、私たちの救霊にとって、極めて重要な壮大なドラマが繰り広げられる年となることでしょう。私たちがこの年をどのように過ごすかに、人類の歴史かかっています。私たちは、ルシアやフランシスコやジャシンタたちのように、聖母の御助けにより、聖母の汚れなき御心の要求に従ってこの年を過ごしましょう。聖母の汚れなき御心をますます愛し、お慰めする年といたしましょう。そのためにこのカレンダーが一助となれば、これを作った私たちにとってそれより大きな喜びはありません。

2016年11月21日 聖母の御奉献の祝日、
ルフェーブル大司教様の宣言42周年の日、
オーストリア皇帝、ハンガリーの使徒的王、フランツ・ヨーゼフの崩御100周年忌に

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版 :【付録】 1917年

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【付録】1917年

100年前の、1917年、世界は第一次世界大戦の真っ最中でした。連合国(イギリス・フランス・ロシア帝国・セルビア・モンテネグロ・イタリア・ルーマニアなど)が、中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア)と戦っていました。ヨーロッパでは、戦車、毒ガス、潜水艦、飛行機、機関銃などの新兵器が投入され、毎日、数千名の人々が戦場で命を失っていました。

ヴェルダンの戦い(フランスのロレーヌ県北部ベルギー国境の近く)だけでも、1916年2月から10月までの間に、百万名の死傷者を出しましたが、戦いが終わったときにはフランス軍もドイツ軍も始めた場所と全く同じ位置を動きませんでした。

北フランスのソンムの戦いでは、13Km程の戦線を守るために、イギリス軍50万人、フランス軍20万人、ドイツ軍42万人の死傷者を出しました。例えば、1916年7月1日の一日の数時間だけで、イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を出しました。イギリス軍の千年の歴史で最大の損失でした。そこにあるのは、終わりのない機関銃戦と鉄条線と、無惨な殺戮と破壊だけでした。

第一次世界大戦は、1914年にサラエボから始まりましたが、どこで終わるのか誰にも分かりませんでした。「平和」という言葉は、忘れられ、禁止されていました。「平和」とはイコール敗北であり裏切りでした。既に1915年の終わりには、本当なら1914年の終わりにでさえ、国家指導者や軍人たちはだれもこの戦争に勝つことは出来ないと理解していなければなりませんでした。このままでは西洋文明が共倒れとなって崩壊するだけでした。この戦争を続けることは、人類の歴史にかつてなかったッ狂気でした。しかし、政治家と将軍たちは自分たちの勝利を常に語っていました。地上で平和の訴えをしていたのは、ローマのベネディクト十五世だけでした。しかし教皇の声は人々からは無視されつづけました。王も臣民もカトリック信仰に生きた時代を「暗黒時代」と呼ぶ現代こそが、戦争を「人類の恒常的な装置」としている「暗黒時代」(ベネディクト十五世)となってしまいました。

1917年には、ローマでさえも、フリーメーソンがそのロンドンにおける最初のロッジ創立200周年を祝っていました。ローマのどこもかしこにもルチフェルによって踏みにじみられ打ち負かされている大天使聖ミカエルの旗やポスターが貼られていました。戦争はこの地上だけのことではなく天と地獄とが共に戦っている見えない世界の大戦でした。聖ペトロ大聖堂に向かって、悪魔的な行列が練り歩き「サタンがバチカンを統治し、教皇はサタンのしもべとなる」という冒涜のスローガンさえ人々は叫んでいました。人類は、狂気の淵に深く落ち込んでいました。

その兆候はかすかにありました。1902年5月8日、私たちの主イエズス・キリストの御昇天の祝日、カリブ海に浮かぶマルティニークの活火山であるプレー山(Mont Pelée)が大噴火を起こし、県庁所在地だったサン・ピエールの住民の約3万名ほぼ全員(脱出したのは3名のみ)が生き埋めとなる事件がありました。その年、噴火の40日前だった聖金曜日に、フリーメーソンたちがプレー山に私たちの主イエズス・キリストの十字架を嘲弄して町中を引き回してついにはその火山口に捨てた後のことでした。これは、イエズス・キリストをうち捨てた後の世界に迫る来る何かが起こることを暗示していたかのようでした。
ロシアのアンドレイ・ベールイは、1902年のマルティニーク諸島の火山爆発のうちに、新しい悲劇の新時代の物理的な証拠を見て取っていました。大気中に漂う火山灰のために、二、三年の間は大気がバラ色をしてして、ロシアにでさえ信じがたい美しさの日没や夜明けの現象があったのです。

別の兆候は、1912年4月14日に起こりました。イギリスの最大の客船タイタニック号は、高価なカーペットとクリスタルのシャンデリアで最高に飾られ、技術の粋を集めて作られた船で(ホワイト・スター・ライン社の従業員が1911年5月31日タイタニックの進水式で「天主でさえもこの船を沈没できない」と自慢していた程)沈むことがないと考えられた世界最大の豪華船でした。しかし、1912年4月14日、サウサンプトンからニューヨーク行きの処女航海でその4日目に、目に見えない氷山に脇を傷つけられて沈没します。海面下にある氷山の下部が船の右舷を7秒ほどこすり、6個の狭い穴(合わせて1.2m²ほど)が船体に開いたのです。

ちょうどタイタニック号のように、人類は自分の富と技術とにうぬぼれて、天主とイエズス・キリストのいない世界を作ろうとし、それを自慢していました。カトリックを国教とする王国とカトリックを信じる帝国を崩壊させ、カトリック教会の世界における影響力を弱める、これがためにも戦争は続けられなければなりませんでした。例えばトマーシュ・マサリク(後にチェコスロヴァキア共和国の初代大統領となる)の Světová revoluce(『世界革命』1925年、英訳 The Making of a State)によると、彼は1915年にロンドンで「ハプスブルク帝国の解体が戦争の第一の目的のようだ」と知ります。

しかしその結果は、世界戦争を通して天主の無い希望の無い深い墓の中に人類を投げ込むことでした。人・モノ・カネは際限なく、躊躇なく、遠慮なく、底なしの戦争の淵に投げ込まれました。誰にも戦争を止めることが出来ず、西洋世界は自己破滅の泥沼にずぶずぶと潜り込んでいきました。しかし公式報告はあくまで「西部戦線、異常なし」でした。

天主は、2000年前、ゴルゴタ(しゃれこうべ)の場所で十字架に付けられて人間のために御血を流しました。1916年の春に人間たちが数百万名以上の死傷者を出して血を流しつつ戦っているとき、平和の天使はポルトガルのファチマのカベソ(頭)という場所に送られました。ファチマの子供たちにこう祈るように教えてくれました。
「天主よ、我は信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る!御身を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々のために、赦しを乞い求め奉る。」
これを跪き額づきながら3回繰り返した後「このように祈りなさい。イエズスとマリアの御心はあなたがたの祈りの声に注意を払っておられます」と言いました。

1916年7月30日

1916年7月30日、ローマではベネディクト十五世が、御聖体拝領をする5000名の子供たちに次の歴史的な説教をしました。「あなたたちは、天主が隠されたそして無限の計画をもって、罪深き社会の腕を使って行いになった、最も恐るべき罪の償いに参与しています。・・・私は、あなたたちの罪のなさという全能の手段をもって天主の助けを呼び求めることを決心しました。assistere voi alla più terrificante espiazione, che Iddio, con arcano ed infinito consiglio, abbia mai operata colle braccia stesse della peccatrice società... Noi abbiamo risoluto di ricorrere alla invocazione del divino soccorso coll’onnipotente mezzo della vostra innocenza.」
1916年の秋に、やはり頭(カベソ)の場所で、ポルトガルの守護の天使は三人の牧童に罪によって極めてひどく犯されているイエズス・キリストに、罪の償いをするように教えています。「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、御身を深く礼拝し奉る。世界のすべての祭壇に現存されているイエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、御霊魂と神性を、イエズス・キリスト御自身が受けている侮辱、冒涜、無関心を償うために、私は御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」
天使は、この祈りを教えた後「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい」と言って、ルチアに御聖体拝領を、フランシスコとジャシンタに御血の拝領をさせました。

1916年11月

ウィーンでは、戦争が始まって2年後の1916年11月、戦争で帝国の容態が悪化しつつあったその時、肺を患っていた皇帝フランツ・ヨーゼフの容態は、悪化していました。かわいそうな皇帝!皇帝フランツ・ヨーゼフの実弟のマキシミリアンはメキシコ皇帝となったが処刑され(1867年)、皇太子ルードルフを自死で失い(1889年)、最愛の皇后エリーザベトは外遊先のスイスで暗殺され(1898年)、そして甥の皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻も暗殺(1914年)されていたのでした。皇帝の病気悪化の知らせを受けたカールは、11月12日、戦場からウィーンへと駆けつけます。「だが驚いたことに、86歳の老帝は苦しそうに身体を曲げて咳き込みながらも執務室で平常取りに働いていた。・・・ひたすら国家のためを思い仕事に励む皇帝は、肺炎が悪化して高熱があるにもかかわらず、机上に山と積まれた書類に目を通し、署名していた。このころ彼は早朝の3時半に起きて仕事を始めていたのだが、さしもの皇帝も、日に日に衰弱しているのは致し方なかった。」(小野秋良・板井大治『カール一世』35ページ)

1916年11月21日夜9時、オーストリア皇帝、ハンガリーの使徒的王、神聖ローマ皇帝の子孫、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフは、68年の統治の後、帝都ウィーンで86歳で崩御し、それと共に、オーストリア・ハンガリー帝国も崩壊するかのようでした。帝位はカールに引き継がれ、この厳粛な瞬間、カールはロザリオを握って聖母マリアの絵の前に跪きます(前掲書36ページ)。

オーストリア・ハンガリー帝国は、20の国家と言語が、ハプスブルク家による一致の古い遺産を通して一つになった帝国でした。帝国内にはかなりの地方自治が認められていましたが、しかし、近代の民族主義の扇動によって、ますます分裂を煽られていました。カトリックの皇帝こそが一致の象徴でした。カトリック教会によれば、教会と国家とは、調和して進むけれども、同じではありません。教会は道徳について国家を指導するけれども、国家に世俗の統治は委ねています。また国家は教会を支配していません。皇帝において、ハプスブルク家においてのみ、オーストリア・ハンガリー帝国が継続するという希望が残っていました。若きカールはこの希望をもたらしていました。

ロシア帝国においては、皇帝(ツァーリ)は、諸民族と広大な土地の一致の象徴でしたが、それ以上でした。若きカールとは異なり、ツァーリが国家でした。ロシアには地方自治や自律がありませんでした。ツァーリこそがロシアの唯一の主権者でした。ロシアの伝統とは、暴発と鎮圧、非寛容、非妥協、極限主義、絶対主義と偉大な専制君主ツァーリでした。ジンギス・カン以来の二五〇年に亘るモンゴル・タタールの軛の遺産、イヴァン大帝以来のロシアがそうであったようにツァーリだけが国家でした。残念なことにジンギス・カンはキリスト者ではなく、イヴァン大帝は悪しきキリスト者でした。もう一つの違いは、ローマ・カトリック教会との離教状態でした。ロシアの奉じた正教は、国家と教会とが結びつき、一つになっていました。ツァーリがロシアの教会の上に立ち、「正教」は、まずツァーリの思うがままに動かされますます不健全となり、最後にはラスプーチンを生み出すほど迷信的なものになっていきました。

1896年5月18日、モスクワでのニコライ二世と皇后アレクサンドラ・フョードロブナの戴冠式を祝賀する市民の祭典が行われていたホドゥインカの原では早朝6時直後、12分から15分ほどの間に、早朝に地方からまたモスクワから集まった70万人のうちの一人がつまずくと、一瞬のうちに、20人が転び、数百名が転び、多くが埋め立てていなかった浅い溝に落ち込み、数千名が死傷した事件が起こりました。少なからぬ人々がこれに新体制への前兆を見て取りました。ロシア屈指の冷徹な政治家であったセルゲイ・ウィッテによれば、ツァーリは全祝典を当然中止すべきでしたが、祝典パーティーはそのまま続けられました。ツァーリの大蔵大臣、シベリア鉄道の建設者でかつ出資者で、帝国随一の有能で現実的な男であったウィッテは、ロシアの問題を明白に見抜きツァーリに進言していました。ウィッテの建設した世界最長のシベリア鉄道の遺産がなければ、ロシアは戦争の重さに堪えられなかったことでしょう。ウィッテはロシア史上最初となる国会(ドゥーマ)にツァーリの権限を委ねることをツァーリに同意させますが、しかしツァーリのウィッテに対する報償は免職でした。

ウィッテの次に来たのはピョートル・ストルイピンでした。首相ストルイピンの施策のもとで比較的成功した農民たちつまり富農(クラーク)が裕福になり、経済的にロシアは巨歩を進めていました。(このクラークさえも後に共産主義者は何百万人をも略奪してしまいます。)しかし、1911年、ストルイピンは警察のスパイに撃たれて死亡します。

ロシアでは心霊術と降神術、神秘(オカルト)主義と迷信礼拝がますます人々の心を捉えつつありました。皇帝一家だけがそれに夢中になっていたのではなく、インテリゲンチャと普通の市民がそれに新しい基礎を探し求めていました。皇后アレクサンドラの先祖のうちにはハンガリーの聖エリザベトがいましたが、彼女の母はオカルト主義に傾倒しており、彼女にとってオカルト主義と宗教とはほとんど同義でした。彼女がプロテスタントから正教に帰依したとき、彼女が受け入れたのは迷信に満たされた16世紀のロシア正教でした。彼女の信仰は、モスクワの生活の中でももっとも遅れた層の無知で迷妄の世界に通ずるものがあり、占い師や預言者に対する迷信にしがみついていました。ツァーリの信仰はツァーリーツァの信仰に全く似通っていました。(ハリソン・ソールズベリー『黒い夜白い雪』上238ページ)

皇帝の皇太子(ツァーレビチ)であるアレクセイ・ニコラーエビチは当時不治の病であった血友病を遺伝的に煩い、それを直してくれる者をわらにもすがる気持ちで望んでいました。奇跡的な治癒を祈り求めていましたが、何も起こりませんでした。起こったのはラスプーチン到来でした。シベリアの未開の森林地帯の馬泥棒で放蕩者グリゴーリー、一日中鯨飲馬食と肉欲に耽る粗野な通名ラスプーチン(放蕩・自堕落者)は、1905年から皇帝夫妻に影響を及ぼし始めます。ツァーリは、ラスプーチンに対する迷信と、妻アレクサンドラへの献身とによって、自分の思い通りには動きませんでした。妻が家庭を取り仕切り、帝国は他の者たちがツァーリの名前によって統治していました。1911年、暗殺の数ヶ月前、ストルイピンはツァーリにラスプーチンをシベリアに送り返すように説得しようとしています。皇帝の答は「ピョートル・アルカージェビッチ、私は君が心底から私に献身していることを知ってもいるし、信じてもいる。おそらく君が私に話したことは全て真実だろう。しかしお願いだから、もう私にラスプーチンの話はしないで欲しい。私にはもはやどうしようもないのだ。」(上掲書247ページ)その後、ストルイピンは暗殺されますが、ツァーリは争議に出席せず、皇后はストルイピンのために祈ることさえ断ります。

1916年2月、ラスプーチンはツァーリーツァへの影響力を行使して、年寄りで無能でしたが誠実なゴレムイキンに代わって、自分の子分である無能なステュルメルを首相にします。ラスプーチンの庇護を受けていた国会議員で正気ではないアレクサンドル・プロトポーポフも1916年に内相に任命されます。「ラスプーチンはありとあらゆる気まぐれに任せてツァーリの閣僚たちの首をすげ替えている。1915年秋から16年秋にかけて、内相が五人、陸相三人、農相四人という有様だった。」(上掲書337ページ)

1916年11月19日、君主制支持者のウラジミール・プリシュケービチは、国会で、王冠に対する限りない愛とツァーリに対する加工たる献身の念と共に「あらゆる悪は、あの暗黒の力、あの勢力に起因する。その親玉がグリーシュカ・ラスプーチンなのだ」と声を上げます。彼は、アレクサンドル・プロトポーポフなどの閣僚たちの名前を挙げ「ツァーリが恐るべき現実に目を開かれるようにするために、諸君は辞職を願い出るのだ」と。(上掲書345ページ)

1916年11月、レーニンと妻のクルプスカヤは、スイスのチューリヒにある靴屋の狭くて不便な部屋に仮住まいをしていました。レーニンは、図書館で夕方の6時まで勉強し、貧乏のどん底にありました。レーニンは「悪魔のような惨めな生活費ーーこれ以上生き続けることはとても困難になった」と書いています。また11月に愛人のイネッサ・アルマンには手紙で「今日、ここで、左翼の集会がありました。姿を見せたのはほんの少しで、スイス人二人、ドイツ人二人、ロシア・ユダヤ・ポーランド人三人。報告なし。ただのおしゃべり。」誰からも忘れられ、貧しさと孤独とのうちにいたレーニンは、翌年1月にはチューリヒの公民館での集会で「われわれは来たるべき革命の決戦をこの目で見届けることは出来ないかもしれない」と、革命への希望を失っていることを告白さえします(ロバート・ペイン『人間レーニン』上244ページ)。これからちょうど1年後の11月7日、この男がツァーリに代わる「国家」となり、ロシアの唯一の絶対の主権者となり、暴発と鎮圧、非寛容、非妥協、極限主義、絶対主義と偉大な専制君主になろうとは誰が思ったことでしょうか。
100年後の2016年11月8日の日本で、万全を期していた地下鉄工事の最中、博多駅前の大通りに突然、道路が陥没し、巨大な穴が出現し下水で池のように変わったように、ロシアはいきなり帝政ロシアが崩れ落ちることになります。

1916年12月30日

1916年12月25日は、王の王である天主の聖子が人となって降誕されたことを祝うクリスマスでした。その数日後の12月30日、ハンガリー帝国の首都ブダペストでハンガリーの新しい王と女王が生まれました。1000年の降誕祭に初代キリスト王であるハンガリー王ステファノ一世は、教皇シルベステル二世から送られた王冠を持って戴冠し即位しましたが、オーストリア皇帝カール一世は、ハンガリー王カーロイ四世として使徒的王として即位しました。「エリエン・ア・キラリ!Elien a Kiraly! 王様万歳!」国民は歓喜の歌を奏でました。「来たれ友よ すべての友 喜びつどえ ベトレヘムに み使いの 王なるみ子を 来たれ拝まん 来たれ拝まん 来たれよ拝まん わが主を」ブダペストの喜びの鐘は、新しく生まれた使徒的王と天の王の誕生を同時に祝っているようでした。

ベトレヘムで生まれた王は、私たち人間の救いのために、三年間の公生活の後、パンをご自分の体に変え、ワインをご自分の御血に変え、私たちに御体と御血を与え尽くして、ゴルゴタの十字架の上で亡くなります。

ブダペストで即位した王は、約3年の統治の後、国民のために全てを与え尽くして、国外追放となりポルトガル領マデイラ島でその王としての霊魂を、王の王イエズス・キリストに帰すことになるでしょう。

戴冠式があった前日の1916年12月29日(当時ロシアが使っていたユリウス暦では12月16日)、ペトログラードは凍てつく寒さで雪が降っていました。12月29日と30日の長い真っ暗闇の真夜中、ドミートリー・パーブロビチ大公(ツァーリ・ニコライの従兄弟の一人)とウラジミール・プリシュケービチ(国会のなかで最も反動的で、君主制、ロシア独裁制の支持者)、医師ラーザベルト、スウホチーン大尉が、フェリックス・ユスーポフ公爵(ロシアきっての裕福で高貴な家柄で、妻はロマノフ家の公女イリーナ・アレクサンドロヴナ)の邸宅モイカ宮殿に集まるのです。フェリックスが、自称祈祷僧グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンを迎えるために準備した半地下には、ラスプーチン(ラスプーチンは「放蕩・自堕落」という意味)の愛用した甘口のポルトやマデイラ・ワインの瓶、薔薇とチョコレートのケーキ、青酸カリが準備されていました。

12月30日午前1時、ユスーポフはラスプーチンを迎えに行き、2時に自宅に連れて来て、直ぐに半地下に招きました。ラスプーチンは毒入りマデイラと毒入りケーキを飲み食いした後も何の変化もありませんでした。毒入りグラスをさらにもう一杯飲みます。何も起こりません。ユスーポフは銃を取りラスプーチンに向けて発射します。二人は向かい合ったままです。ラスプーチンの野獣のような重い体は、雪のように白い北極熊の敷皮の上にどさっと倒れます。死体を敷物から引っ張ってみると、血は見当たりませんでした。一滴もありません。調べてみると銃弾はラスプーチンの心臓のあたりを貫通しています。ラスプーチンはまだ死んではいませんでしたが、その息づかいを見ると断末魔の苦しみにあえいでいるようでした。計画通り、共犯者たちはラスプーチンの偽の帰宅を演じます。スウホチーン大尉がラスプーチンのコートと毛皮帽子を着けラスプーチンのふりをして、ドミートリー大公と医師ラーザベルトとでラスプーチンの来た方角に車で出て行きます。残ったユスーポフとプリシュケービチとはロシアの明るい将来について語りあい、その素早い回復を話していました。ユスーポフは部屋に戻って屍を揺すってみると、突然、ラスプーチンの左目が開き、右目を開き、よろめき立ち上がって、ユスーポフに飛びかかって来ます。ユスーポフは叫びます。「プシュケービチ!撃て!撃て!奴は生きている!やつは逃げだそうとしているぞ!」(ハリソン・ソールズベリー『黒い夜白い雪』上363ページ)ラスプーチンは中庭に出て雪の中を歩いて、ユスーポフの名前を繰り返しながらぶつぶつ言います。「フェリックスめ、フェリックスめ、ツァリーツァに洗いざらいぶちまけてやるからな!」(同所)午前3時と4時の間のことあたりはしーんと静まりかえっていました。ラスプーチンはもう街路に向かう門の寸前まで来ています。プシュケービチは優秀な射手でした。しかし二十歩の距離から最初の二発を打ち損ねます。銃声は静かな夜中に響きます。ラスプーチンは逃げだそうとしています。プリシュケービチは三発目を放ち、また四発目も撃ちます。弾は背中に命中しラスプーチンは雪の中に倒れます。プリシュケービチはこの四発の銃声が聞かれてしまったことを考え、門を開いて街路にいた二人の兵士に行って呼びかけます。「私は、ロシアとツァーリの敵グリーシュカ・ラスプーチンを殺した。」彼がそう言った途端、二人は彼に飛びつき、抱きしめ、接吻して叫びます。「神様万歳、とうとうやったのか!」彼が誰にも言うなと言うと二人は「閣下、私たちはロシアの人民です。信じて下さい」言います(上掲書364ページ)。

1917年を迎えようとするその直前、12月30日午前5時、ロシアの堕天使、エフィムの子グリゴリー「自堕落」は、凍てつくペトログラードのネフカ河に氷を割って開けた穴から、その遺体が捨てられます。この遺体が発見され検死されたとき、肺の中には水がありました。凍る河の中でもまだ生きていた証拠です。しかし、「自堕落」は死に、それと共に帝政ロシアも死を迎えようとします。


この続きは、「聖伝の典礼暦による2017年のカレンダー日本語版」にて、お読みください。

私たちの心に、マリア様の心に燃えていた愛の炎が私たちの中にも燃え伝わりますように

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月5日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月5日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年11月5日、聖母の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心のミサをしています。このミサの後に、いつものように公教要理で、今回はファチマの100周年の準備の為に、一体100年前にどんな、世界の状態はどんなだったのか、この地上と天国と地獄ではどんな戦いが起こったのかについて黙想する事を提案します。

それから今日は初土曜ですので、食事の後で、信徒会長と今日の初土曜の信心をまたなさって下さい。

ここではいつものミサに加えて、来週の土曜日にも10時30分からミサがあります。ですからここでは、今週の土曜日と来週の土曜日と、更に再来週の土曜日にも10時30からミサがあります。それから12月も、23日と24日の予定に加えて、22日にも夕方にミサが付け加えられました。

ファチマに巡礼に行こうという方は、この11月30日が締め切りですので、早めにどうぞ申し込みをなさって下さい。シンガポールのお金で500ドルとパスポートの写真の付いた所のスキャンをして送って下さればこれで大丈夫です。



“Ut corda nostra ignis ille divinus accendat,qui Cor beatae Mariae Virginis in flammavit”
「私たちの心にも、童貞マリア様の心に燃えていたその火が私たちにも燃え移りますように。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日聖母の汚れなき御心の随意ミサの中で、密誦では、「私たちの心に、マリア様の心に燃えていた愛の炎が私たちの中にも燃え伝わりますように」とお祈りします。

そこで一体、マリア様の心には一体どんな愛が燃えていたのか?どんな火が炎が轟々と燃え盛っていたのか、永遠の火が燃え盛っていたのか?という事を黙想する事を提案します。特にファチマのマリア様を通して、この火が一体何であったのか?という事を黙想致しましょう。そこでその黙想の後に、私たちもその同じ火で燃える事ができるように、マリア様に御取次ぎをお祈りして、そして遷善の決心を立てる事に致しましょう。

昨日は、100年前ファチマにポルトガルの守護の天使がやって来て、平和の天使がやって来て、おそらく大天使聖ミカエルがやって来て、子供たちの前に「どうやってお祈りをしたら良いのか、イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心の特別の憐れみの計画、それの一番心に気に入る祈り」について話しました。

マリア様もそれと同じ事を、最初にお現れになった時に仰います。マリア様がファチマのトキワガシの樹の上に立ってお現れになった時に、ルチアは聞きます、「一体あなた様はどこからいらしたのですか?」マリア様は答えました、「私は、天国からの者です。」ルチアは、「一体あなた様は私に何をお望みですか?」そしてルチアは更に質問して、「私も天国に行く事ができますか?」と、「ジャシンタは行きますか?」「フランシスコは行きますか?」と聞きます。

この最初のマリア様と子供たちの会話を見ると、マリア様が私たちに一体、「一番私たちに持ってほしいという関心事は何か」という事を教えているようです。

「私は天国からの者です。」

マリア様は私たちの心をすぐに天国に上げさせました。もちろんマリア様は、「私はイエズス様の御母です」「私は童貞聖母マリアです」と言う事ができたかもしれません。でもマリア様は、「天国からの者です、天国から来ました。」

この言葉を黙想すると、ちょうど11月1日のこの前の諸聖人の大祝日を私たちは思い出さずにはいられません。天国の全ての聖人、天使たちが非常に栄光に満ちて、きれいな栄光の服に着飾って、或る者は真っ白いきれいな純白の雪よりも白いドレスを着て、或る者はキラキラ光る宝石に眩いて、或いは或る者は殉教の赤い帯を締めて、或る者は貞潔の真っ白いドレスを着て、或る者は博士としての知恵の冠を被りながら、或いは童貞の冠を被りながら、殉教の冠を被りながら、手にはおそらく勝利の棕櫚を持って、或る者はかつてこの地上では王様だった、或る者はこの地上で教皇様だった、或る者は家庭の主婦だった、或る者は司祭だった、或る者はもしかしたら私たちの先祖も日本の殉教者も、或いは世界中の多くの数知れない何千何万何億という多くの人々の数が、大聖人の数々が、きれいな天国のステンドグラスよりもはるかにこの光輝くような、宝石のようなキラキラとする天のエルサレムの大聖堂の中で天主の栄光に導かれ、その反射で輝きながら、「聖なるかな、聖なるかな、」と叫び、歌い、讃美しているその天主、天国。

更に天使たちも、ケルヴィム、セラフィム、9つの階級の全ての天使たちが何兆何億という多くの大群が、その讃美の歌をきれいなハーモニーで歌っている。その中にその中心にあるのは、眩い限りのマリア様、聖ヨゼフ、イエズス様、玉座に座っておられる御父。その三位一体の輝かしい光栄、その眩い威光。その前に皆ひれ伏して、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。至聖なる三位一体よ、聖父と聖子と聖霊、御身を心から讃美致します。心から礼拝致します。御身を愛し申し上げます」と、大天使、天使たちや聖人たちが声を合わせて歌い、讃美しているその栄光の天主、天国。

おそらく天国では、その眩い光の中に色々な色と、音楽と、或いはこの地上のすばらしい香の焚香りよりも花々の香りよりも更に美しい芳しい香りが漂い、そして音楽が奏でられて、そして歌が歌われて、讃美と感謝と喜びで満ち溢れたその天国から、マリア様が私たちの元にやって来て、「私は天国からの者です」と仰ったのです。

そして私たちも、「あぁ、その天国の光り輝く喜びと、永遠の命の中に招かれているのだ!」と心をすぐに上げざるを得ないではないでしょうか。

一体私たちがどれほど、この私たちの究極の目的である「天国」の事を考えているでしょうか?私たちを愛するがあまり、この地上を創り、「天国の栄光に入れたい」と思って私たちを創造した天主三位一体の愛の事を、憐れみの事を考えるでしょうか?

よく私たちの言われる事は、「愛すると、その愛するその相手の事をいつも寝ても起きても考えている」と言います。もういてもたってもいられずにその人の事を考えて、その人を思って、「どうしているか」と思うのですけれども、天主様は私たちの事をいつもこうして思って下さいます。

私たちは一体どれほど天国の事を思っているでしょうか?天国のイエズス様や三位一体やマリア様の事を考えているでしょうか?

或いは全然考えていなかったのかもしれません。地上の事だけで追われて、その事だけを地上の面白おかしい事だけで、天国の事はケロッと、全ての事は天国の事を除いて考えていたのではなかったでしょうか?

ルチアは、マリア様が天国からいらしたという事を聞いて、すぐに聞きます、「私も天国に行けますか?」

ルチアは何と良い子供でしょうか。すぐに「マリア様の元に行きたい。その天国の栄光に入りたい。」天国の喜びの事を思いました。

一体私たちはどれほど、「天国に行くだろうか?天国に行きたいなぁ!」天国に、私たちも大きな望みを持って、「すぐに行きたいんだ!」と思っているでしょうか?それよりももしかしたら、「地上のもっとこの面白おかしい事をして、」「この地上の事でお金を貯めて、」「この地上でおいしい物をたらふく食べて、」という事を思っているかもしれません。「あの服を着て、」「あのあそこに、」地上の事だけで頭がいっぱいだったかもしれません。

ルチアのすごい事はもっとでした。「自分が天国に行くか」と聞いて、「はい、行きますよ。天国に行きますよ」という特別のマリア様からの優しいお返事を頂いたら、「じゃあ、ジャシンタちゃんは?ジャシンタは行きますか?」と、すぐに自分のお友達の事を考えます。「“Tambien.”ジャシンタも行きます。」「じゃあ、フランシスコは?」「うん、フランシスコも行きますよ。でもフランシスコはたくさんロザリオを唱えないといけません。」

私たちはどれほど、私たちのお友達や、家族や、友人が、「天国に行くかどうか」という事を考えるでしょうか。私たちの家族や、友人や、同僚や、隣人、兄弟姉妹たちが「すぐに天国に行くだろうか」という事を考えるでしょうか。その救霊の事を考えるでしょうか。

それよりも救霊の事よりももっと、「あぁ、」否定的な事を或いは考えたり、「あぁ、うちの夫は私にこんな悪い事をした」とか、「うちの姑はこうだ、ああだ」等と、「あぁ、うちの子供は本当に…」などと、「うちの上司は…」、「うちの修道院長は…」などと思っているかもしれません。

マリア様が、「天国に行く」という事を約束して下さるその事を、「行きますよ」と教えて下さった事は、子供たちにとって何という喜びだったでしょうか。コルベ神父様も長崎で、「天国に行く」という事を知らされた時にとても大きな喜びで、それは本当に大きな秘密でした。子供たちの心はすぐに天国にへと向かいました。

すると次に思った事は、第2のこのポイントは、ルチアの質問でした。

「じゃあ、死んだマリア・ダス・ネヴェスはもう天国にいますか?」マリア様は優しく答えます、「はい、いますよ。今天国で永遠の命を味わっています。」「あぁよかった、マリアちゃん今天国にいるんだ。」

「じゃあ、アメリアは?」アメリアさんは18歳か20歳くらいだったそうです、ちょっと前に亡くなった。マリア様は、「彼女は、世の終わりまで煉獄にいます。」

今から100年前、インターネットもYouTubeも3Dの映画もそういう娯楽も、悪い雑誌なども全くなかったそのような時代に、携帯もなかった時代に、スマートフォンもなかった時代に、一体アメリアちゃんが世の終わりまで煉獄で苦しまなければならない、罪の償いをしなければならない、一体どのような罪を犯したのでしょうか。

「世の終わりまで煉獄にいる。」

ちょうど11月2日死者の日には、教会は司祭に3つのミサを捧げさせます。煉獄の霊魂たちが早く天国に行けますように。マリア様もきっと子供たちにこの事を、「煉獄の霊魂たちが、もしかしたら世の終わりまでずっと苦しんでいなければならない。何故かというと、誰も彼らの事を考えていないから」という事を教えたかったのかもしれません。

マリア様は実は、7月にはもっとすごい事を教えます、子供たちに。7月にお現れになった時に手をパッと広げると、地上地面を開かせて、この今ちょうど灰色に見えているようなこの床の下が開かれて、真っ赤に燃える、燃え盛る火の大海原を見るのです。

想像して下さい、私たちが空中に浮いて、轟々と燃える火の大海原を見て、その中に多くの霊魂たちが、雪が吹雪の雪が落ちるようにバラバラ、バラバラ、バラバラと地獄に落ちている。そして物凄い厳しい、恐ろしい獣のような形相をした、見るからに恐ろしい、もう顔を見るのも嫌な、見るのも嫌な悪魔が、その霊魂たちをいじめて拷問している。あまりにも恐ろしい姿を見ました。

マリア様は瞬間、その地獄の様子を瞬間的に見せます。ルチアは後に、「もしも私たちが天国に行くという事を約束されていなかったら、もう恐ろしさのあまり死んでしまったに違いない。」私たちがお化け屋敷に行ってびっくりしたというよりもさらに恐ろしいものでした。もうこのそのような地獄を見るだけで、それでもう恐ろしさのあまり気を失って死んでしまう、それほどの恐ろしさでしたが、その後でマリア様は非常に悲しい面持ちで、「あなたたちは可哀相な霊魂たちが行く地獄を見ました。」

マリア様は永遠の事を私たちに教えようとしていました。子供たちに、「この地上の短い人生は、永遠の助かりの為に、救霊の為にあるのだ。その為に使わなければならない。そしてそれを使い損ねた人たちはあまりにも多くいて、多くの霊魂たちが地獄に落ちている」という悲しい現実を教えてくれました。

マリア様は子供たちが、「さぁお前、地獄に落ちるぞ、さぁさぁ、罪を犯すな!」と脅した訳ではないのです。マリア様は、「あなたは天国に行きます。だけれども、多くの霊魂たちが天主を侮辱し、冒瀆し、無関心でいるので、そして誰もこの霊魂たちの為に祈り、犠牲を捧げる人がいないので、かわいそうに、この人たちは地獄に落ちてしまうのですよ。」「さぁ、何とかしましょう。さぁ、この霊魂たちを助けあげましょう。この霊魂たちに何とか憐れみを捧げてあげましょう」と、仰っているのです。

ここがマリア様の違いです。私たちもこのマリア様の心の中に、汚れなき御心に燃える火を垣間見たのではないでしょうか。マリア様は、「霊魂を救いたい。私たちと多くの霊魂を救いたい。天主を愛し、天主を愛するが為に、この多くの霊魂を天主の元に引き寄せたい」という、この永遠の愛の火で燃えていたのでした。霊魂の救いの望みで燃えていたのでした。

5月の最初に、「天国に行きますか?ジャシンタは?フランシスは行きますか?」と聞いたその後に、マリア様はこの子供たちにこう言うのです、「アメリアちゃんが世の終わりまで煉獄にいる」と言ったその直後に、こう言ったのでした、「あなたたちは、天主様があなたたちにお送りする事を望まれる全ての苦しみを天主に捧げて、自分を捧げる事を望みますか?それを罪の償いとして、罪人の回心の為に捧げる事を望みますか?」と聞きました。

天使が最初に現れて言った事と全く同じ事でした、「一体何をしているのか?お前こんな事してのらのらしている時間はないんだぞ。この地上でお前たちは祈りと犠牲を捧げて、罪人の回心の為に全てを捧げなければならないんだよ」という事を教えた事と全く同じ言葉を、マリア様は仰ったのです。

「あなたたちはそれを望みますか?」

マリア様は同じ事を私たちにも望んでいます。典礼を通して、天国の諸聖人の大祝日と死者の記念を経た私たちにとって、初土でマリア様は同じ事を聞いています、「あなたたちは、天主様のお送りする全ての苦しみを、罪の償いとして、罪人の回心として捧げる事をお望みになりますか?あなた自身を天主様にお捧げする事をお望みになりますか?する事ができますか?多くの霊魂たちが地獄に落ちています。何とかそれを助ける事ができますか?私と一緒に助けて下さい。多くの霊魂が天主を冒瀆し、侮辱し、屈辱して無関心なので、天主は本当に御悲しい、もうこれ以上罪を犯させないように、何とか霊魂を地獄の火から守る為に、救う為に助けてくれますか?全ての苦しみを捧げてくれる事ができますか?」と、マリア様は私たちにも聞いています。

ルチアは答えます、「はい、望みます。」

するとマリア様は答えました、「はい。あなたたちはたくさん苦しまなければならないでしょう。でも天主様の憐れみが、天主様の御恵みがあなたたちの慰めとなるでしょう。」と。「ロザリオを毎日唱えて下さい。」

マリア様は言葉を続けます、マリア様は私たちにも同じ事を仰るに違いありません。「はい、マリア様、望みます。マリア様の御心を、汚れなき御心をお慰めして、イエズス様の聖心をお慰めして、霊魂を救う為にマリア様と同じ愛の火で燃やして下さい。」

マリア様は私に、「では、たくさん苦しまなければならない事ですよ。辛い事もたくさんあるでしょう。でも天主様の御恵みは、私たちを強めて下さる事でしょう、慰めて下さることでしょう。私の御心はあなたたちの避難所となる事でしょう、天国への道しるべとなる事でしょう。心配しないで下さい。私は決して見捨てる事はありません。いつもそばにいます。」

では私たちは、今日この初土曜日でどのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちも是非、まず第1に、私たちもマリア様のいらっしゃる天国へと心を高く上げましょう。「私たちもマリア様の元に早く行きたい」という望みがこう起きますように。マリア様の愛の火て私たちの心を燃やして下さるようにお願い致しましょう。私たちは天国に行く為にここに生きています。その為にここに生まれてきましたから。

第2は、マリア様のお望みの通り、多くの霊魂たちを救う為に、祈りと犠牲をお捧げ致しましょう。これこそ隣人に対する真の愛です。私たちがもしもこの地上で、健康や、この地上での成功を祈るとしても、天国を失ってしまったら一体何の意味があるでしょうか?私たちの本当の隣人愛は、隣人の救霊にあります、隣人の救霊を望む事にあります。この隣人の救霊を望みましょう。地獄に行かないように、また今罪を犯そうとしている人、或いは地獄に落ちよう死のうとしている人たちが、天主の憐れみを最も必要とする人たちが、天国に導かれますようにお祈り致しましょう。

最後に第3には、天主様はあまりにも多く侮辱されているので、それをお慰め致しましょう。私たちにとってここに違いがあります。私たちは天主様を中心として、天主様が愛されるように、天主様が礼拝されますように、天主様こそが一番でなければなりません。天主だけが全てでなければなりません。ですから私たちの心を込めていつも、「主を信じ、礼拝し、希望し、愛します」という射祷を唱えましょう。そして主を愛さない人、主を信じない人、礼拝しない人、希望しない人、愛さない人の代わりに赦しを乞い求めましょう。私たちはその主を冒瀆する人々の為に、特に御聖体に於けるイエズス様を侮辱するような人々、礼拝しないような人々の為に代わって、御聖体を心から愛を以て礼拝して、その御聖体を償いの意向で拝領致しましょう。これが初土の信心です。

私たちの求めるのは、この「弱者に対する権利が無視された」とか、「私たちの人権が阻害された」とか、「私たちの人間の権利としての尊厳が無視されたから、それについて謝罪せよ」と言うのではありません。私たちは進んで赦しを天主様に、罪人に代わって赦しを求めます。罪人に「謝罪せよ」と要求するのではありません。

そしてこの、罪人に代わって私たちが犠牲を捧げるという事こそ、イエズス様とマリア様の聖心をお慰めするという事こそ、初土の信心です。今日はこの遷善の決心を取って、良い11月、死者の月を送る事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

マリア様に、一番心に適う事は何なのか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月12日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月12日(土)殉教者教皇聖マルティノ1世のミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2016年 11月12日、教皇殉教者聖マルティノ1世のミサを捧げています。今日のこの御ミサの後に公教要理の時には、公教要理に代わってクリスマスの朝課の練習をできればしたいと思っています。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は聖マルティノ1世教皇殉教者の御ミサですから、私たちはその教皇様の生涯を垣間見て、私たちに一体何が教えられているのか、何が求められているのか、天主様は私たちに今日、この教皇様の姿を見せて何をお求めになっているか、という事を黙想して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

教皇聖マルティノ1世は、649年から655年まで教皇様でした。短い統治の間マルティノ1世教皇様は特に、過去ローマで多くの方々が殉教したその殉教を、異教徒の皇帝からローマ皇帝から受けた迫害を、実は洗礼を受けたローマ皇帝から迫害を受ける事になって、「使徒たちでもなかったそのような栄光を受ける事ができた。イエズス・キリストの為に苦しみを受ける事ができた」という事を喜んでおられました。

一体何故そのような事が起きたのでしょうか?

当時教皇様が教皇職に登位すると、コンスタンティノープルでは異端の説が流行っていました。特にコンスタンティノープルの大司教パウロは、総司教パウロは、「モノテリティズム」と言って、「イエズス様の中には天主の意思しかない。イエズス・キリストの中には意思は1つしかない」という説を立てました。

カトリックの教えによれば、「位格的結合の為に、イエズス・キリストの天主のペルソナにおいて、人間の本性と天主の本性が1つに合体しています。そこでイエズス様は完全な人間であり、完全な天主であります。完全な人間であるという事は イエズス様は完全な人間としての知性も、人間としての意志も持っています。それと同時にイエズス様は天主でもありますから、天主としての知性と、天主としての意志も持っています。イエズス様には『2つの本性がある』という事から、知性も意思も2つある」という事が結論付けられますけれども、この異端説は、「そうではない。イエズス・キリストは意志が1つしかない。全ては天主の意思によって動いている。」暗黙のうちに、「イエズス・キリストは不完全な人間だ」という事を意味していました。

そこで教皇様はすぐにその事を、多くの手紙を書いて、「そうではない。何故ならば、こうで、こうで、こうだ。」そして多くの使者を送って、異端説を唱えている司教たちを説得させて、「そうではない。」その説を捨てさせるようにしました。

その祈りと犠牲によって、その教皇職の義務を素晴らしく果たした聖マルティノ1世は、遂にコンスタンティノープルの総司教を異端説から正当なカトリックの方へと導く事に成功します。

ところが、コンスタンティノープルにいたローマ皇帝は実は異端説を信じていました。そしてその「異端説を捨ててカトリック信仰に戻った」という事を聞いて非常に怒ったコンスタンス2世は、このなんとか聖マルティノを亡き者にしようとしました。

聖マルティノは更にこの事をラテラノ公会議を開いて、この事を公会議でその事を信仰をはっきりとさせました、「イエズス・キリストは、天主の意思と人間の意思の2つがある」とはっきりさせました。

すると、教皇様は御自分の職務を立派に果たしただけだったのですけれども、その事はローマ皇帝の怒りを買いました、世俗の権力の怒りを買いました。そこでローマから派遣された使者たちは、色々な島々に追放されてしまいました。

そればかりではありません。ローマ教皇を亡き者にしようと使者、オリンピウスという男が送られて、「彼をミサの最中に暗殺するように」という命令を受けました。そしてオリンピウスという使者を送ってその教皇を亡き者にしようとするのですけれども、ミサの途中それは果たせませんでした。何故かというと、いきなりその黒幕は目をやられて盲目になってしまって、そして何もする事ができずに使命を果たす事ができませんでした。

それを知ったコンスタンス2世は更に使者を送ります。この使者は教皇を騙して、遂に コンスタンティノープルに誘拐しそして連れて来ます。コンスタンティノープルでは教皇マルティノ1世は床に付けられて、そして多くの人々の異端者の笑い者にされ、その後に約3ヶ月牢に閉められ、次に裁判を受けて、島流しに合い、そして全くの貧困と苦しさの内に、そこで殉教します。

教皇様は自分の使命を立派に果たした、それだけで、この殉教の苦しみを味わわなければなりませんでした。

一体、聖マルティノ1世教皇様は私たちに何を教えているのでしょうか?

私たちに、「私たち自身の義務を、私たちの為すべく務めをよく果たせ。そしてそれこそが私たちの聖徳の道である。もしかしたらそれが、世俗の人々の笑いを買うかもしれない、或いは怒りを買うかもしれない、受け入れてもらえないかもしれない。しかし私たちの日常の、天主から与えられた義務を良心的に、誠実に果たす事が私たちの最高の聖徳の道だ」という事を教えています。

もしも私たちがファッションに従わずに、慎みのない服を着ないとしたら、世間の人たちは私たちの事を嘲笑うかもしれません、「時代遅れだ。おばちゃんのようだ。」或いは「何?このような事もやらないの?」と笑われるかもしれません。

しかし、仕事の帰りに、「さぁ、」一緒に行ってはいけない「店に行こう。」或いは行ってはいけない所に「行こう」と言われて、「 私は行けません」と。「何だお前は、世間付き合いが悪い。」しかし時には、私たちはそれを捧げなければならない時があります。

幼きファチマの幼きフランシスコとジャシンタも、自分の務めを果たし、そしてそれを犠牲として捧げていました。ルチアは大きくなって、「マリア様に一番心に適う事は何なのか?」と聞かれたら、すぐにこう答えました、「それは、私たちが日常の務めを犠牲として捧げる事です。」

まさに天使が最初に教えてくれた事、そしてマリア様が最初の御出現の時に言ってくれた事、「あなたは天主様があなた達に送る事を、罪の償いとして、罪人の回心の祈りとしてそれを捧げますか?」「はい、私たちは捧げます。」それこそが一番の天主の聖心に適う事であると教えています。

あるときルチアは聞かれて、「ではロザリオは、ロザリオの祈りよりも犠牲の方が大切なのか?」と。するとルチアは、「そうだ」と言って、「でもロザリオの祈りは、このお祈りをする事によって私たちの犠牲を良く務める事ができるように助けてくれるので、とても大切だ。だからロザリオをする事によって、私たちはもっと犠牲をする為に自分の務めを果たす事ができる、だからロザリオを忘れてはいけない」と言っていました。そして「ロザリオを唱え、自分の犠牲を罪の償いとして罪人の回心の為に捧げる事ができる為に、スカプラリオをいつも身に付けるべきだ。何故ならこれを身につける事によって、私たちの義務をはっきりと分からせてくれるから。祈り、償いをしなければ、犠牲をしなければならない事を思い出させてくれるから」と言っていました。

まさに11月1日、諸聖人の祝日で私たちが祝ったのもこれでした。多くの本当に名も知れないような、私たちから見たら或いはこの世から見たら何の、もしかしたらこの世から見れば、「一体どれほどの歴史的な事を残したのか?」と分からないような、多くのジャシンタやフランシスコたち、多くの一介のカトリックの信徒たちのその大群。日々の犠牲を捧げて、或いは貧しさを捧げて、或いは仕事を捧げて、或いは屈辱を捧げて、或いは小さな犠牲を捧げて、或いは自分の義務をコツコツと果たす事によって、自分の与えられた使命を果たす事によって、お父さんとして、お母さんとして、或いは子供として、或いは公務員として、或いは今日の聖マルティノ1世のように教皇様として、或いは皇帝として例えばカール皇帝のように、或いはルフェーブル大司教様のように司教様として、多くの義務を果たした事によって一生を聖化させて、教会に多くの栄光と、天主に讃美と、霊魂の救いと、罪の償いを果たした無数の人々がいます。

聖マルティノ教皇様は殉教者はまさにそれの一人でした。私たちにもその道を辿るように招いています。

もしもこういう事を言う事が許されれば、教皇様はつい最近、「フランシスコ教皇様はスウェーデンに行ってルター派と同じ共同宣言をした」とか、或いは「ルターの像をバチカンに入れた」と報道がなされ、私たちはそれを見ると非常に悲しみと心配で心が襲われます。願わくは、教皇様が御自分の務めを果たせますように。

しかし私たちにとって、教皇様の為にお祈りをする、「教皇様がその務めを果たす事ができますように」とお祈りをして助けるという事は私たちの務めである事ですけれども、「教皇様が教皇様であるかないか」というのを知るのは私たちの務めではありません。それを知ったから私たちが聖人になるのでもないし、天国に行くのでもありません。

教皇様の為に、私たちはお祈りを致しましょう。教皇様がロシアをマリア様のお望みの通りに、全ての司教様たちと一致して、汚れなき御心に奉献なさいますように。

またどうぞ愛する兄弟の皆さん、私の為にもお祈り下さい。私が良く司祭職を、その責務を全うする事ができますように。私の義務は、「同じ、昔からの同じ教えを、何も変えずに忠実に伝えて、そしてそれを説明して、それを繰り返し、また繰り返し、繰り返し繰り返し、同じ事を何度も何度も何度も何度も、皆さんに言う事」です。その務めが果たせる事ができますように。

もしかしたら、「小野田神父は同じ事ばかり何度も言っている、面白くない。ブログを読んでもいつも同じ事ばっかりだ。新しみがない。何かもっと別の事も話したら良いのではないか」と非難されるかもしれませんが、願わくはそのような方が、カトリックの司祭の義務が実は、「同じ事を繰り返す事にあるのだ」と気が付いてくれますように。そして全ての司祭たちが、その義務をよく果たす事ができますように。聖マルティノ1世教皇様に倣う事ができますように。そして私たちもその日常の全ての義務を犠牲としてお捧げして、そして祈りと共に多くの霊魂の救いの為に、教会の為に、教会の発展の為に、私たちの人生を捧げる事ができますように。

そうする事によって遂には諸聖人と共に、聖マルティノ1世や多くのジャシンタやフランシスコ、ルチア、多くの義務を果たした、祈りを果たした聖人たちと共に、天国での凱旋を楽しむ事ができますように、お祈りを致しましょう。聖母マリア様に特に御取次ぎを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

「天の国は、芥子種に似ている。」 「天の国はパン種のようだ。」 芥子種やパン種とはどういう意味か?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月13日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月13日 聖霊降臨後第26主日のミサ
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年11月13日、聖霊降臨後第26主日のミサです。このミサで読まれるテキストの内容は、御公現後第6主日のミサです。

日曜日のお知らせは、明日はいつものようにはミサがなく、次のミサは来週の主日です。そして12月も、11月と同じように3回ミサがあって、最初の主日、第3の主日、そしてクリスマスです。どうぞ皆さんいらして下さい。

ファチマの巡礼を来年8月に計画しています。8月17日に日本を出てファチマに行って、そして26日の主日の朝に帰ってくる予定ですけれども、アジア管区でグループで行くので、日本やシンガポールやフィリピン各地から同じ飛行機で、同じ価格で行く事ができます。しかも値段も私たちが1人で行く飛行機代よりも、或いは飛行機代と同じほどの事で全てのプログラムを、ファチマとローマに行って、そしてホテル代、飛行機代全て含めて30万円ほどで、28万円から30万円ほどでやろうと思っています。

団体の割引を有効に使って、ホテルも一番ファチマに一番良い所を貸し切ってあります。今そこの、ファチマでその時期にホテルは、もう私たちによって全て取られているので、もしもファチマだけに行くという方、ホテルに泊まりたいという方だけでも私にどうぞ仰って下さい。飛行機は別の方でも、ホテルだけは一緒にしたいという方はいらして下さい。

ファチマの巡礼に是非、皆さん招待したいと思いますので、色々なお仕事とか事情とか色々な事があると思いますけれども、多くの方の参加をお待ちしております。締め切りは11月30日までとなっていますので早めにお願い致します。

今日の午後は、やはり14時30分から公教要理があって、今日はこの前の続きの黙示録の7つの封印と7つのラッパについて、カステラーニ神父様の注解を紹介したいと思っています。16時からは第2晩課があります。


“Simile est regnum caelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種のように似ている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は私たちの主が、天国の国の例えを福音で話して下さいました。「天の国は、芥子種のようだ」或いは「パン種のようだ」と仰いました。

そこで今日提案するのは、ではそのパン種やこの芥子種というのは一体どういう事なのか?ではもしもそれが大きくなったら、膨れたらどのようになるのか?というのはどこに現れているのか?

そこで第2に、その現れている聖パウロのテサロニケへの手紙の中を見て、

そして最後に私たちは、そのようにパン種を膨らませて芥子種が大きくなるのを私たちがどのようにしたら良いのか、という遷善の決心を立てる事に致しましょう。

この芥子種の例えは非常に有名ですから、皆さんもうよくご存知です。教会というのは天主様の建てた王国であって、目に見えずに働きます。しかし最初は本当に小さなもので始まったとしても、それは遂には大きなものとなって強くなって、そして多くの人々を多くの民族を、天を高く昇る、天に高く生える大木となる、と言います。

確かにイエズス様の聖心は御言葉は、芥子種のように本当に小さく始まりました。最初に12の使徒たちが、最後の晩餐の高間から聖霊降臨の時に出て説教をして、その日に3000名が洗礼を受けた時から始まると、全世界にあっという間に広がりました。ローマの異教の帝国は、「キリスト教を自分の国の教えとする。宗教とする」と言うまでになりました。多くの迫害と多くの血が流されたにも関わらず、殉教者の血は却って種となって、多くのキリスト教徒を生み出しました。

そればかりではありません。ローマ帝国の外にもキリスト教は進んでいきました。ですからゲルマン民族やスラブ民族、そしてインドやアフリカの方まで進みました。遂には日本やアジアにも到達しました。そしてこれはまだまだ続きます。たとえ暴風雨があって枝が折れてしまった、何とか遭ってしまったとしても、天主の御国は更に更に発展せざるを得ません。多くの聖人たちがその枝であり、多くの実りをもたらしました。ですから空の鳥たち、王様や多くの民族たちがその枝に留まってそこに休み、大家族を築いています。たとえ聖人たちの体はそこで死んだとしても、その枝は残りその模範は残り、多くの人々を養っています。

イエズス様はもう1つ例えを出します、「天の御国は、ちょうどパン種のようだ。」

「パン種」というのはラテン語の“fermentum”という言葉の訳ですけれども、これは、「パン粉の、あらゆる所に目に見えずに隅々まで働いて、それを全てに影響を及ぼして、全てにその力を与える、そして膨らませる」という例えです。

この「パン種」は何かというと、「イエズス様の御聖体だ」と教父たちは解釈しました。

何故かというと、皆さんミサの様子をよくご存知の方はよく分かると思いますが、司祭はミサの途中でパンをホスチアを3つの部分に割ります、まず最初に半分に、そして残された半分のうちの1つを取ってそれに、それを持って小さなホスチアのかけらを持って、それで十字架の印をして、その中にそれをカリスの中に御血の中に入れます。これは古代から伝えられていた儀式で、その昔は、実はこの入れる小さなかけらは、同じミサの使われたホスチアではなくて、その前のミサのホスチアの小さなかけらを、今のミサの中に入れたのでした。

何故かというと何故こんな事をするかというと、教皇様のミサでは、初代ちょうど初期にはそのようにやっていたからです。教皇様は、「ミサが、司教様が捧げようが、司祭が捧げようが、教皇様が捧げようが、荘厳ミサであろうが、読誦ミサであろうが、いつ、どの時代に捧げられるミサであっても、同じ1つのミサである」、この「継続している」という事を示す為に、自分の立てた聖変化させた一部を次のミサの為に取っておいて、そしてその前のミサで聖変化されたホスチアをカリスの中に入れました。

そればかりではありません。こうやってミサの一致とミサの継続性を表わす小さなそのかけらは“sancta”、「“sancta”聖なるもの」と言われているのですけれども、このこれは特別の祝日や或いは主日になると、ローマの全ての教会に教皇様からその破片が送られて、そのミサの、主日のミサではその大祝日のミサでは教皇様から送られたホスチアの破片をカリスの中に入れました。

これは何を意味するかというと、「こうする事によって私たちは、ローマの教皇様と一致している、交わりがある」という事を意味しているのでした。そして特に大祝日になると、特別な例えばクリスマスとか復活祭とか特別の祝日になると、ローマから特別に大司教や総司教等にそのホスチアが特別に運ばれて、聖香油などの様に運ばれて、そしてそれが入れられたのです。この破片の事を特別に、この一致を示す破片の事を“sancta”と言わずに、“fermentum”と、「パン種」というラテン語の名前が付けられました。

そこで教父たちは、「この『パン種』というのは、この『教会に染み通る御聖体』の事だ」と見ていました。「御聖体こそが、私たちの体の中に入り私たちをキリスト化させる、イエズス・キリスト化させるそのパン種であって、私たちは聖体によって膨れて成長するのだ」と解釈していました。

イエズス様が私たちに与えるパン種は、私たちを霊的に成長させる霊的な力であって、御恵みの事であって、天主の聖寵の事なのです。そうする事によって私たちは、イエズス様の御言葉の種と芥子種と、そして御聖体のパン種によって私たちは大きく、カトリック教会は大きく成長しなければなりません。

聖パウロが実はこの模範についてテサロニケの手紙の中で、テサロニケの教会の、その「模範となっている」という事を非常に褒めています、「私はあなたたちの事を忘れた事はない。あなたたちの信仰、それはまたあなたたちの愛徳、あなたたちの希望、それは本当に素晴らしいものだ」と褒めています。何故かというと、彼らの信仰は困難を耐え忍び、そして忍耐する、犠牲を捧げるのに準備ができている愛徳であり、そしてイエズス様だけに希望するものだったからです。

どうぞ聖パウロの美しい書簡をお読み下さい。カトリック教会は、母なる私たちの教会はこうやって、私たちがどのように遂にはなるべきか、イエズス・キリスト様の御来臨を待ち望んで生活しているテサロニケの人たちを模範に出しています。

「あなたたちの信仰の営みが、全ての人々に模範として知れ渡っている。私はそれについて非常に嬉しい。もう誇りに思う。あなたたちが選ばれた者であるという事を知ってほしい。あなたたちの選びを知ってほしい。天主から愛された兄弟たちよ」と言っています。

では私たちはその模範を見て、どのような遷善の決心を取ったら良いでしょうか?

私たちにとってイエズス様の御言葉の種は、或いは御聖体はどのように成長したでしょうか?今年1年、イエズス様は私たちに多くの恵みを下さいましたが、御聖体を下さいましたが、それを私たちがその中でどのように成長させる事ができたでしょうか?イエズス様の御旨の通りに、イエズス様が私たちに影響を与えたいがままにそれを受け入れたでしょうか?或いは、イエズス様が「本当はもっと私たちを成長させたい、大きくさせたい、ぐんぐんすくすくと天まで伸ばしたい、大きな枝にして実りもさせたい」と思ったにもかかわらず、私たちはそれを「ダメだ」「いらない」と言ったのでしょうか?

私たちの信仰はどうだったのでしょうか?愛徳はどうだったのでしょうか?犠牲を捧げるのに準備はできていたでしょうか?或いは希望はどうだったでしょうか?私たちは何を希望していたのでしょうか?天の事を希望したのでしょうか?それとも地上の事だけが関心事だったのでしょうか?

私たちの生活は他の方々にとって模範となっていたでしょうか?私は知っています、「聖ピオ十世会のミサに与る方の、聖伝のミサに与る方の信仰は模範的だ」と皆が言っているのを知っています。がしかし、私たちはそのような良い、そのようなお褒めの言葉に与る事ができるそれに相応しい者だったのでしょうか?本当はもしかしたらまだ足りないところがあったのではないでしょうか?私たちは主に全てを希望して、主に祈りを捧げていたでしょうか?

ちょうど今日そのような黙想をすると、この今日の密誦の祈りに繋がっていくように思われます、「御聖体が、イエズス様の御恵みが私たちを浄めて、そして刷新して、導いて守って下さいますように」とお祈りしているように思われます。

今日そのような反省をした後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。私たちがいつも、イエズス・キリストの御言葉に反対を邪魔物を置かないように、イエズス様の御旨を果たす事ができるように、イエズス様の御聖体の力を私たちがそのまま、妨害を入れずに受け入れる事ができるように。

ではその為にどうしたら良いでしょうか?

一番のやり方は、マリア様にお願いする事です。何故かというと、マリア様は御聖体の、聖霊の働きを一切拒んだ事が無かったからです。罪の汚れの無い方であったからです。イエズス様の御望みを、天主の御望みをそのまま、きれいに映し出されるガラスのように、それを実行されたからです。

ですから私たちがますます育つ為にも、教会がますます育つ為にも マリア様にお祈り致しましょう。ロザリオと犠牲を、マリア様の汚れなき御心を通してお捧げ致しましょう。マリア様には私たちに、私たちに与える多くの力を持っていますから、それをマリア様から頂く事に致しましょう。

“Simile est regnum caelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種に似ている。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂 この二つの献堂式の記念には、どんな意味があるのか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月18日(金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月18日(金)聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献のミサ 
小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年11月18日、聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献の献堂の祝日です。

今日この聖堂の奉献の祝日で私たちは、この聖堂の歴史的な事実は何だったのか?

これは神秘的に一体何のどんな事を意味しているのか?という事を黙想して、

最後に私たちの遷善の決心を立てる事に致しましょう。

既に2世紀から、聖ペトロまた聖パウロの亡くなった所に出来たお墓はローマで有名でした。異端の人(例えば異端の司祭カイウス)であってさえもその事は話題になっていて、「もしも嘘だと思うなら行ってみろ。聖パウロはオスティアの街道の所に墓があるし、聖ペトロはバチカンの丘の墓場にある。そこには競技場があって、その競技場の隣にペトロの墓がある。」

ところでコンスタンティノ大帝が、お母さんのお祈りと影響によって遂に洗礼のお恵みを受けた後、その8日の後、涙ながらにバチカンにある聖ペトロのお墓に行って、そしてそこに「聖ペトロを記念する大聖堂を建てたい」と望みました。そこでそこに行って跪いて平伏して、自分の着けていたローマ皇帝の王冠をそこに置いて、自分の手で鋤を持って鍬を持って、袋をザルに12個分土を掘って、「ここに私は聖ペトロの大聖堂を建てる」と言って、12の使徒の頭である聖ペトロを記念して、12の分の土を別に乗せて、「ここだ」と行って場所を示して、大きな場所を示して、実はローマの掟によって昔からの掟によって、お墓には誰も手をつけてはいけなかったのですが、唯一の例外として、ローマがやった唯一の例外で、聖ペトロの為に、そこにあったお墓を潰して、坂だった所を全部ならして、そして大きな非常に荘厳な教会を建てる事、「自分のお金で建てる」と望みました。

それと同時に聖パウロの墓地にも行って、「そこにも建てる」としました。聖パウロのお墓はローマの城の門の外にあったのですが、そこに建てる事を決定しました。

聖シルヴェストロ教皇様は、聖ペトロの教会を11月18日に聖別して奉献しました。私たちローマの典礼によれば 、11月9日にラテラノ大聖堂、至聖なる救世主イエズス・キリストの大聖堂の献堂を祝いますけれども、そのやはり約10日後、18日にこの大聖堂が聖ペトロ大聖堂が祝別されました。

そして巡礼者が昔からそのお墓詣出をする事ができたように、「聖ペトロの告白」という場所がありました。これは「聖ペトロが信仰告白をした」という意味で、教皇様の立てるミサの特別の祭壇がありますけれども、そのすぐその祭壇はその聖ペトロの告白、そのお墓のすぐ真上に建てられました。しかもその聖ペトロのお墓の所まで下りていく事ができるような階段も付けてあります。この今までは聖ペトロが使っていたという木の祭壇があったのですけれども、それは別のブロンズのものの中に収められて、そして石で祭壇ができました。聖シルヴェストロは、「金輪際、祭壇は石で作られる」と命令して、それを設定しました。ですから今でも私たちの祭壇の中には、「祭壇石」と言われる石を乗せなければなりません。

ところがこの荘厳な祭壇、この大聖堂も長い約1000年以上にわたる使用によって、それも傷んだりしてきました。そこで新しく1626年に、新しい今の私たちが見る事ができる、ミケランジェロによる設計の大聖堂が教皇ウルバノ八世によって、やはり11月18日に奉献され、そして特別の儀式を以って聖別されました。

聖パウロの御聖堂も、実はコンスタンティノ大帝によって建てられて、聖別されるのですけれども、残念ながら19世紀になると1823年に火事で焼かれてしまいました。火事でほとんどが全焼してしまって、その次の後の4代の教皇様の特別の努力によって、それが更に、それよりも今まであったよりも更に荘厳に、あたかも仕返しをするかのように立派に建てられます。そしてやはりその御聖堂の献堂を祝う事になりました。

ただし、11月18日に聖別式をする特別の献堂式をする代わりに、当時の教皇様ピオ9世はとても良い事を考えました。何故かというと、時は1854年で、献堂式を行うことができる準備が出来たからです。同じ年の12月8日に、「マリア様の無原罪の御宿りの特別のドグマを発表する」と決定しました。その時全世界から、もうこれ以上集まる事ができないだろうというほどの多くの枢機卿様、司教様が喜んでやって来ていて、そしてそのドグマの宣言を祝う為にやって来ていました。そこでその2日の後に12月10日に、ローマのこの聖パウロの大聖堂に行って、ここで荘厳な奉献式をしました。ただし献堂の祝日は、同じ11月18日であると決定しました。

ではこの二つの献堂式の記念には、どんな意味があるのでしょうか?

この2つの献堂式が私たちに、「確かに聖ペトロと聖パウロはローマにやって来た。そしてそこで殉教したという歴史的な事実がある。もう目に見える動かす事のできない証拠がある」という事だけではありません。それだけでも大した、もうお金では買う事のできない歴史の事実であって、2000年の事実がそこに現れています。

それと同時に、ちょうどこのミサの時に黙示録を私たちは読みました。11月1日には諸聖人の祝日を祝い、私たちの目を天に上げました。諸聖人のものすごい栄光、その喜び、天のエルサレムの市民、イエズス・キリストとその花嫁である公教会の神秘的な結婚、イエズス・キリストの私たちは生ける神殿となった、そのそれが完成させられた、その姿を黙想しましたが、ちょうどそれを象るかのようにその11月9日には、至聖救世主のラテラノ大聖堂の献堂式があり、またそのやはり約10日後の18日には、聖ペトロ・聖パウロの献堂式があるという事は、「私たちの心が、天のエルサレムにますます上がるように」という教会の特別な計らいでした。歴史的なその状況がちょうどこの11月に、この献堂式が3回も、3つの教会の献堂式を私たちが全世界で祝うという事を望んだのでした。

ラテラノ大聖堂は、最も重要な「全ての教会の母」と言われる教会であって、これは教皇様がローマの最高の司教として、ローマの教区の為の教会ですが、聖ペトロ大聖堂は聖ペトロが殉教した場所であって、世界的な意味を持つ、全世界の教皇様としての役割を果たす為の教会という性格を持っています。もしもラテラノ大聖堂が「ローマ教区の人々が集まる教会」であれば、聖ペトロ大聖堂は「巡礼者が聖ペトロを巡礼する為に、その聖地に巡礼する為に集まった教会」でした、世界的な普遍的な意味を持つ教会でした。

ですから聖ペトロ大聖堂では、非常に重要なミサ祝日には、指定巡礼大聖堂としていつも聖ペトロ大聖堂が指定されています。こうする事によって教会は、「私たちの心をますます天国に、私たちの祖国に、究極の目的である天の栄光へと目を向けさせよう、向けさせよう。特に11月にその事を黙想させよう」と思ったのでした。

では私たちはどのような決心を取れば良いでしょうか?

それは今日、ちょうどこの福音の中に表れています。ザケオは税吏で、ユダヤの人々からは「罪人である」と考えられていました。しかし、「イエズス様を見たい。イエズス様にお会いしたい。イエズス様という方がどういう方かを知りたい」と思うと、イエズス様は、「今日、私はお前の所に行く。お前のもとに留まる、お前の家に行く。」そして、ザケオの家をいわば教会にしてしまったのです、大聖堂にしてしまったのです。

イエズス様はそれによって批判を受けます、「何でこんな罪人の家に遊びに行くのか。」しかしイエズス様の決心はその断固として変わりません、「私は罪人の為にやって来た、救いの為にやって来た」と。

イエズス様がいらっしゃる所は、そこは全て聖堂となります。もしも石で出来た聖堂が、このように大きな荘厳な儀式を以って聖別されるならば、本当にイエズス・キリスト様を受ける私たちの霊魂、私たちの体はどれほど大切に扱わなければならないでしょうか。天国のエルサレムの生きる石となって、その天国の神殿を形作る一部となる私たちはどれほど、イエズス様の目にとって貴重なものでしょうか。

イエズス様は私たちへも、「今日今晩、お前の所に行く」と、「御聖体拝領を以って行く」と仰っています。「行きたい。」

私たちは一体その時に何と言わなければならないのでしょうか?ザケオのように、「イエズス様、もしも私に悪いところがあったら、全てそれを放棄します。もしも償いをしなければならないのだったら、2倍で償います。そして私の罪の為だけはなく、主を信じない人の為にも、礼拝しない人の為にも、希望しない人の為にも、愛さない人の為にも、私は主を信じ、礼拝し、希望し、愛します。」

もしもアメリカの国民が、新しい大統領に「アメリカ、ファースト!」と言う方を選んだとしたら、もしもそうしたら、それはきっとアメリカの人たちにきっと心に気に入ったからに違いありません。

イエズス様も私たちに、「イエズス、第一!」或いは、「イエズス様が私たちの全てだ。イエズス様こそ私たちが最も必要とする方だ」と言うように御望みではないでしょうか。

イエズス様が私たちのところに来て下さるのを迎えて、私たちもイエズス様に、心からの信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げ、「イエズス様だけに生きる」という、「イエズス様の為に生きる」という決心を立てる事に致しましょう。その為に、弱い私たちを助けて下さるマリア様に是非お願い致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみについて黙想」することをご提案します。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、12月7日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。
毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。

聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

願わくは死せる信者の霊魂、天主の御憐れみによりて、安らかに憩わんことを!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。

2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。

3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。

4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。

5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。

6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。

7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。

交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。


聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph


英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

ハンガリーの聖エリザベトの生涯、その徳に倣う。

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愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月19日(土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年11月19日(土)寡婦聖エリザベトのミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年11月19日、ハンガリーの聖エリザベトの祝日のミサをしています。

今日この御ミサの後でいつもの通り、御聖体拝領の後の感謝の祈りをいたしましょう。その後で、 5分間ほどしてからその後に、ファチマのマリア様について、1917年、今から100年前にどんな事が起こったのか、という事をお話ししたいと思っています。この前のお話しの続きなのですけれども、どうぞ聞いていって下さい。


「ハンガリーの聖エリザベト、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神聖ローマ帝国、或いはハンガリー王国はとても、その家族は王家は、多くの聖人や多くの聖女たちを生み出しました。ここでつい最近ポルトガルの女王様の聖エリザベトのお祝いをしましたけれども、今日はその伯母さんにあたる親戚の、ハンガリーの聖エリザベト女王様のそして寡婦の祝日をお祝いしています。

今日はですから、聖エリザベトという方はどんな方だったのか?どんな人生を、いつどこで、どうやって生まれてどうやって生活したのか?をまず黙想して、

その次に、聖エリザベトは一体どんな苦しみを受けたのか?どんな一番その最高潮だったのはクライマックスだったのはどんなところだったのか?聖エリザベトは3つの苦しみを受けました。

それで最後に私たちは、じゃあこの今年2016年11月19日に生きている私たちは、一体どのような遷善の決心をしなければならないのか、どうやって生きていかなければならないのか、という結論を立てる事に致しましょう。

聖エリザベトという方は、1207年ハンガリーの王様のアンドレアという使徒的王の娘として生れました。ハンガリーの王様は初代王が聖ステファノと言って、教皇様からその王冠を戴いた特別の王様で、「使徒的王」と言われています。その最後の王様がちょうど私たちが今日お話しするカール1世、福者カール1世で、今日お話しをする聖エリザベトはこのカール1世の先祖にあたります。また今日後にお話しするロシアのツァリーツァ、皇帝の皇后も、皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラもやはり、ハンガリーのエリザベトをその祖先に持っています。

1207年に生まれたエリザベトは、若い頃から既にドイツのトゥリンケンという所の宮廷に送られて、そしてそこの王様となるべき公爵、「公爵」というのは、王様の次に皇太子がいますが、その皇太子の次に偉い、位の高い方で、この公爵のルイという人のもとに若くして結婚します。14歳の時に1221年に結婚して、そしてそこの王様のお城に住みます、ヴァルトブルグというお城に住みます。そしてとても良い、王様はとても良い方で、とても幸せな結婚生活をします。王様と結婚している内に子供もたくさん生まれてきました。

子供の頃からとても信心深かった聖エリザベトは、結婚してからもその信心業を忘れる事はありませんでした。たとえ王様のルイ4世のもとに結婚したとしても、いつも夜に朝早くに起きてお祈りをして、そしてお祈りの生活も決して忘れる事はありませんでした。特に貧しい人やかわいそうな人、辛い人、病気の人に対して非常に大きな憐れみの心を持っていて、自分の義務をよく果たしながらも、そのような人たちの面倒をよく見ていました。特にそのようなかわいそうな人がいると、看病したり見舞ったり、或いは孤児の子供たちを助けたり、或いは寡婦となって旦那さんが亡くなってしまったようなお母さんや奥さんの為には特別の注意を払ったり、或いは病気の人、或いは貧しい人の為に自分の持ち物を与えてしまったりしました。ある時には飢饉が起こった時には、自分の倉庫の中にあった小麦や食べ物を貧しい人や苦しむ人たちに与えました。

ある時に、その王様の財産を管理していた人が不平を言った事がります、「皇后様は、エリザベト皇后様は王様の財産を貧しい人に配って困ります」と言うと、ルイ王様は答えて、「私の妻のエリザベトには好きなようにさせてあげなさい。皇后がもしも与えたい物があれば、それを自分の好きなようにやって、ただ私の為には自分のお城のヴァルトブルグのお城と、もう1つ別のナウムブルクのお城だけを残してくれればそれで良いのだ」と言って、とても寛大にエリザベト皇后を守って、そして助けて愛してくれていました。

エリザベトもそのような夫に支えられて、お祈りと、そして奉仕と、寛大な貧しい人を助ける事に精を出しました。特に歴史家の記録によると、「その当時女王様たちは、フランスの女王様たちに負けないほどきれいな美しいドレスを着て、美しいお化粧をして着飾っていた」とありますけれども、でも貧しい人を助ける為には、その自分の身分が要求する時にはそれを使いますが、それを却ってそうではなくて、簡単な服で、作業がしやすいように助けて回ったそうです。時には癩(らい)病の人を看病して、その人を自分で自ら看病した事もありました。そしてその癩病の人の足に接吻した事もあるのだそうです。

ある時にエリザベト皇后は、その非常にこの厳しくいつも悲しそうな顔をしてお祈りや、何か隣人の愛徳の業をする人たちに、「あぁ、この人たちは何か天主様をおっかながってているのではないか。天主様は喜んで与える人にもっと寛大に喜ぶのに、何かいつも辛そうであまり喜ばない」とポロッと漏らした事もあるそうです。

そのような非常に優しい、寛大で、国民から愛されて、夫と家族円満なエリザベトでしたけれども、とても辛い事が起こりました。それは3つのポイントがあります。

1つは十字軍でした。十字軍の為に王ルイは皇帝フレデリック2世と共に、エリザベトと一緒に生活をする事ができなくなりました、軍隊に出なければなりませんでした。兵士たちを率いて戦いに出なければなりませんでした。それが王様の義務だったからです。「決して夫と離れる事がない」と思っていた、そしていつも幸せな生活をする事を喜んでいた、このように素晴らしい優しい夫に恵まれたエリザベトにとって、このルイ王と離れる事は特に辛かったのです。特に子供も3人いましたし、小さな子は数ヶ月でした。

次に第2の大きな試練は、その後に、実はルイがイタリアで、十字軍の戦いでフレデリックのもとにいる時に死亡したという、「死別した」というニュースを受けた時でした。その愛する王を失った時の聖エリザベトの悲しみは、もう私たちの想像を絶するものがありました。しかしその時には、王の女王としての服をみな脱いで、「これからは貧しく、貧しい服を着て、もう王様がいなくなったので喪に服して、そして貧しい人と身寄りのない人の奉仕の為に生きよう」と思ったそうです。

第3の十字架は、今度は今まで家族の一員であったはずの弟が、ヘンリー・ラスペという弟が、自分の夫の持っていた城を自分のものにしてしまって、そして今まで嫁に入ってきたエリザベトを追い出してしまったのです。財産を全て奪ってしまって自分のものにしてしまって、「兄嫁は出て行け」と、自分の住んでいた宮殿からお城から追い出されて、子供はその時残して行ったのですけれども、その子供さえも、遂には「出て行け」と追い出されてしまいました。しかもこの悪い事に、この弟は国民に、臣下に命令して、「この兄嫁を受け入れてはいけない。誰もその宿に宿してはいけない」などとさえも言うのです。

国民はどれほど心を痛めた事でしょうか。「この女王様こそが自分の貧しい時に助けてくれた方であって、病の時には看病してくれた方であって、この苦しい時には資金を送ってくれた方であって、これほどの大恩人を恩を返す事ができない、もしもそんな事があったら大きな罰が待っている。」そしてこの女王様は全く財産を失って、友達も失って、そして寒い冬であったとしてもその中を凍えながら、住む所を寝る所を探して行かなければなりませんでした。3人子供がいて、乳飲み子を持っていたそのお母さんにとってどれほどそれは辛い事だったでしょうか。

考えてもみてください。私たちがどこかの家にお嫁に行って、そしたら主人が亡くなった。そしたら弟がそれを、夫の家を取ってしまって「出て行け」と言われた。

エリザベトはしかし天主様の御憐れみによって、ある、それでも憐れみのある方がいて、「もう打ち捨てられた馬小屋がここにあるから、そこに休む事ができる」という事を教えてくれました。

何かイエズス様の御誕生の時にあった事と同じような事が起こりました。天主の天国の全ての宝を残して、この地上に全く貧しい者として生まれて、そして馬小屋で生まれた。

聖エリザベトも同じでした。全てこの世の人々から捨てられて、そして意地悪な悪口や、嫌みや嘲笑い、或いはもう聞くに堪えないような悪口とか言われたかもしれません。お金持ちであった時にはちやほやされたかもしれませんが、しかしこんなに貧しくなってしまっては、王様の敵となってしまっては、もう誰も助ける者もいませんでした。

それでも聖エリザベトのすごい事は、まだ20歳にならない、20歳になるかならないかのこの若い皇后は寡婦は、それを喜んで天主様の為に御捧げした、という事です。

こうしてエリザベトはその後に、夫が亡くなった後の1年後には、フランシスコ会の第3会会員に入会する事にします。そしてこれからはもっと貧しい、つぎはぎだらけの貧しい者で、そして謙遜な、病人の世話とかお掃除とか、自分の住む所はもう貧しい掘立小屋で満足していて、そして若くして24歳にして亡くなります。

亡くなった時には大きな葬儀が行われました。そして聖エリザベトのお墓ではたくさんの奇跡が起こりました。あまりにもその奇跡が目を見張るものであったので、否定できなかったそれをその事を確認した教皇様は、聖エリザベトが亡くなった4年後の1235年に、聖グレゴリオ9世教皇様が聖エリザベトを聖人の位に列聖しました。そしてこの聖エリザベトは、初代の王様である聖ステファノの名前にふさわしい立派な大聖人になったのです。聖エリザベトの娘にはやはりトゥリンケンの聖ジェルトルード、或いはその伯母さんにはヘドウィージェ、或いはその姪や姪の子供たちにはボヘミアの聖アグネスとか、ハンガリーの聖マルガリタ、或いはポーランドのクニグンデ、或いはこの前お祝いしたポーランドの聖エリザベトなどが顔を並べて、そして最後には、福者聖カール1世もその子孫としてあります。

聖エリザベトは、この世の富とこの世の栄華を全く軽蔑して、イエズス・キリスト様の愛の為に全く軽蔑して、イエズス・キリスト様を信じて、そしてそれを礼拝して、それに希望して、イエズス・キリスト様を愛して生きた方でした。

この人生はちょうど、私たちの目の前にいる天使が礼拝している、イエズス様の人生と同じものであって、そしてファチマのジャシンタやフランシスコ、或いはシスタールチアが送ったような生活であって、ファチマと同時代に生きたカール皇帝も同じように生きてきました。

私たちはでは今回、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

今日は、私たちも聖エリザベトに倣って、私たちは聖エリザベトと比べると、その若くしてこれほどの聖徳に達した彼女と比べると、「私たちは何年も生きているにもかかわらず、何とそのほど遠いものであるか」と思いますけれども、聖エリザベトとマリア様の御取次ぎによって、この私たちの目をいつも天国の栄光に、天国のイエズス様の事に、イエズス様への愛の為に、天国にいつも眼差しを確固と定めている事ができますように、そしてこの世で辛い事が起こった、悲しい事が起こった、不正な事をされた時には、イエズス様を愛するが為に、多くの諸聖人たちに倣って、私たちもそれをイエズス様への愛の為に捧げる事ができますように、そして遂には聖エリザベトと同じように、天国の栄光の中で永久に永遠に喜ぶ事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

聖母の無原罪の御孕りの大祝日おめでとうございます

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖母の無原罪の御孕りの大祝日おめでとうございます。

ところで、今年の9月に、4名の枢機卿たちは、教皇フランシスコに勧告『アモーリス・レティチア』が引き起こしている離婚して「再婚」した人々が聖体拝領することが出来るのかについての疑問を尊敬を込めて提出しました

4名の枢機卿たちの名前は次の通りです。

Card. Walter Brandmüller
Card. Raymond L. Burke
Card. Carlo Caffarra
Card. Joachim Meisner

「Dubia(ドゥビア:疑問)」の全文(英語訳)は次にあります。
A Plea to Untie the Knots in "Amoris Laetitia" - an open letter to Pope Francis from four cardinals of the Church.

その形式は、教義の知的な理解に関することでした。枢機卿たちは、教皇に難しい何かを達成せよと言うものではなく、自分たちの理解が正しければ、教皇自身が主張することはこれこれと理解されるが、それで正しいのか、間違っているのか、イエスかノーか、でした。教皇様の意図は何なのか、教皇様の発言の意味は何か、でした。

このような教義に関するこの理解で正しいか否かという質問は聖伝に基づくもので、ルフェーブル大司教様も「第二バチカン公会議による信教の自由」に関する疑問を教皇様に提出したことがあります。

提出後2ヶ月が経ちましたが、教皇からのこの教義に関する答えはありませんでした。

最近、新しい枢機卿の任命式がローマで行われ、通常ならば任命式のために世界中から集まった枢機卿たちと教皇様とが枢機卿会議を開くのですが、それも説明なくキャンセルとなりました。説明がなかったとしても理由がなかったわけではないでしょう。教皇様は、枢機卿たちの提出した疑問により枢機卿たちの論争を恐れたと言われています。

教皇様は家族についてのシノドで自由な発言を要求されていました。全てのことを自由に話すことが出来ても、教義の内容を正確に理解しようとすることは許されていないかのようです。

これについてシュナイダー司教様は、TV Libertés でのインタビューで、教皇様の勧告は、著者の教皇様の意向で強制の力を持っていないこと、リベラル派は「天主の十戒の第6戒のない福音」、「離婚への権利の福音」を述べ伝えていること、教会には既に表面に現れていない離教状況(キリストの教えの真理から離れている状況)が存在すること、私たちが教皇様のためにたくさん祈りをする必要性があること、などを警告しています。

Terres de mission n°10 avec Mgr Schneider, évêque auxiliaire de l'archidiocése d'Astana

https://www.youtube.com/channel/UCSVf6BL58EcNjwUlBgUKoog




天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月2-4日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

12月2日と3日には、大阪で聖伝のミサを捧げることが出来ました。
2日には、初金曜日の聖時間を聖体降福式で過ごしました。
3日には広島から初めて来られた方いらして大変うれしく思いました。
大阪では、香部屋としてつかっていたお部屋を半分にして、その分御聖堂を拡張し、その工事が大変うまく出来、見違えるようになりました。

12月4日には東京で聖伝のミサを捧げました。
12月にも東京では3回の主日にミサがあり、そのお恵みを感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

12月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

12月2日(初金) 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサには12人が、
12月3日(初土) 聖フランシスコ・ザビエル の祝日のミサには18人の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教では待降節について黙想いたしました。 
入祭誦で歌われた「イエズス様の聖心の想い」とは、私達のもとにやって来たい、天国から地上に、私達を救うために下りたい、という「愛の想い」であること、
イエズス様の御到来には①ベツレヘムでの ご降誕、②最後の審判、③御聖体としての、三つがある事などを黙想しました。
茨の冠を安置するために聖ルイ9世が建てたサン・ド・シャペルという全面ステンドグラスに囲まれた素晴らしい教会は、とんでもない建設費を投じて建てられたそうですが、
聖ルイ王が茨の冠をコンスタンチノープルから買い取った値段は、サン・ド・シャペルが2個半建てられるほどの値段だったそうです。
茨の冠がそれほど価値があるものであるのに、私たちはミサの中でイエズス様ご自身をお迎えし、また聖時間でイエズス様に直接お話させて頂けるとは、イエズス様の愛と謙遜は全く無限であると感ぜずにはいられませんでした。

待降節になると、もうすぐクリスマスだと、気持ちが浮かれ、今までどれだけ良い準備ができていただろうかと考えさせられました。
良い待降節を過ごすためには「イエズス様の愛の想い」を感じて、真剣な準備が必要だとお説教を聞きながら思いました。
誰よりもよく準備してイエズス様をお迎えになったマリア様にお助けを賜って,残りの待降節をイエズス様の無限の愛の神秘に深くはいりたいと思います。

12月4日は、聖フランシスコ・ザビエルの大祝日で、お説教では聖人の生涯を黙想いたしました。

御ミサの後では新約聖書の成立についての序章部分を勉強しました。

今年のクリスマスには日本では大阪でも、東京でもクリスマスの御ミサがあるという大きな御恵み天主様に感謝します。
マリア様が私達にどれほど良くして下さっているか考えると、ファチマのマリア様のお望みをもっともっと頑張って果たさねばと思います!!!
小野田神父様がお持ちくださった巡回用のファチマのマリア様の御像はとても美しく、優しく、うっとりしてしまいました。日本に沢山の御恵みをお与え下さる事を感謝します。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

このたびも、大阪での初金、初土、東京での主日のミッションをありがとうございました!
所感をご報告申し上げます。

初金に「日本のファチマのマリア様像」が、大阪の聖堂にいらっしゃいました。
大阪の聖堂は拡張工事が終わって、こじんまりとはしていますが、
広く美しい聖堂となって、ファチマのマリア様をお迎えすることができました。

正面祭壇右の、いつもは「汚れ無き御心」の額がある幕屋に、ファチマのマリア様がいらっしゃるのを見て
気がつきました。「あ!聖堂を広げて美しくしてくださったのは、ファチマのマリア様であられたんだ!」と。
これから日本の信徒のお家を回って、たくさんの祝福と恩恵をお与えくださる、その最初に
広く美しい聖堂を私たちにお与えくださったのではないでしょうか?
ちょうど、お客様がお土産をお持ちくださるように。
マリア様の私たちへの大きな愛、寛大な御心を感じ、心から感謝いたします。

この「日本のファチマのマリア様像」を、私たち信徒は、心から喜んでお迎えし、大切にします。
たくさんの愛と祈りと犠牲をお捧げしようと思います!
この御像を日本のためにプレゼントしてくださった、フォルティン神父様にも心から感謝申し上げます。
「ファチマの聖母マリア像がいらっしゃった時の祈り」と「離れられる時の祈り」は、
マリア様への「子ども」としての愛があふれるとても美しいお祈りですね。大好きです!

12/3の初土は日本の大恩人の聖フランシスコ・ザベリオの祝日でした。(宣教地なので一級大祝日)
聖フランシスコ・ザベリオの歌ミサに与ることができました。
小野田神父様のお説教で、「イエズス様に気に入られること、喜ばれること。それだけが私たちの最大の目的です。」
とのお言葉が心に残りました。
どれほど私はイエズス様以外のことに心悩み、かき乱され、苦しんでいることか!と思います。
願わくは、マリア様にお助けいただいて、究極の目的、天主イエズス様のことだけを考えることができますように。

この日、広島からおひとり、求道者の方が御ミサに与られました。
初土曜日でマリア様の汚れ無き御心の特別のお恵みと、
広島と縁の深い、聖フランシスコ・ザベリオ様の特別のお恵みに導かれていらっしゃったのだなあと思い、
その求道者の方のために御ミサでもお祈りいたしました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(o^▽^o)

昨日一昨日と、初金のイエズス様の聖心の御ミサ、御聖体降福式、フランシスコ・ザヴェリオ様の祝日の御ミサ、公教要理など本当に色々ありがとうございました!

そしてファチマのマリア様の御像を日本にお持ち下さってありがとうございます!!結構大きな御像なのでフィリピンからお持ち頂くのは大変だったと思いますが、本当に私たち日本信者の為にありがとうございますm(_ _)m
この御像を日本に寄贈して下さったフォルティン神父様にも心から感謝致します。
フィリピンではファチマの聖母像の御訪問を受けた所では、既に非常な御恵みが現れているそうですごいですね!!
そしてこの日本のファチマの聖母像は昨日から、私たちが住んでいる家を訪問して下さっています。
このマリア様の御像の前で、家族で、聖母マリア様がいらっしゃる時のお祈りと、聖母の汚れなき御心に身を捧げる祈りと、聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈りとロザリオを唱えました。マリア様が私たち家族を祝福しに来て下さり、とても幸せに思います。
多くの方がこの御恵みを頂くことができますように!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供1人)
女: 24人(内、子供2人)
計: 45人(内、子供3人)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、こんにちは!
今回も日本で御ミサを捧げてくださったことを心から感謝いたします。

御ミサのレポートをお送りいたします。
今日(待降節第二主日)の御ミサは一言でまとめると「主がエルサレムにやってくる」ということだ、と典礼学者たちは言っているということで、エルサレムとは何か、ということについて説明していただきました。

・今回の御ミサで、これだ!とわかったこと
典礼学者たちは、エルサレムは四つの層からなっていて、最上層の第四層は私たちの霊魂である。
一番下の層は、ユダヤのエルサレム 次の二番目の層は、新しいキリスト教徒のエルサレム(イエズス様のご誕生) 三つ目の層は、天上のエルサレム(天国) 一番上の四層目は私たちの霊魂である。まるで、都市が敵の手によって破壊されてその上に新しい都市が生まれるように、新しいエルサレムが誕生する。
なぜ、第四層目が一番高い最高のものが霊魂かというと、天上のエルサレムの王、王の王である天主イエズス様は私たちを光栄で飾るため私たちの元にいらっしゃることを望んでおられるほど霊魂を愛しておられるからだ。
ということが分かりました!
第四層がある、と聞いた時、第四層は何だろう・・・? と考えて全く浮かばなかったのですが「霊魂」と聞いて納得いたしました。イエズス様は私たちの霊魂の元にいらっしゃって、私たちを光栄で飾って永遠の幸福の中にご自身と共にいることを望まれたために、十字架においてご自身を犠牲としてお捧げになり、私たちに御ミサの生贄を残され、それを与えられるほど、霊魂を愛されたことを思い直すことができました。そして前回の御ミサのお説教で神父様がお話しになった「この世の創造の目的は霊魂の救いであること」も思い出されました。霊魂という一番高い第四層のために、旧約の義人や太祖たちがイエズス様の御誕生を準備し、イエズス様がお生まれになり新しいキリスト教徒のエルサレムが生まれ異邦人にも救いがもたらされ、そして天国への扉がイエズス様の犠牲によって開かれ、そこに凱旋することのできる霊魂、そしてまた、天主を迎え入れることのできる霊魂は本当に尊いということを考えることができました。
そして、天のエルサレムに行くには、聖福音で話されているように、洗者聖ヨハネのなさったように準備すること、十字架が必要だということを改めて認識いたしました。日に三度のお告げの祈りでも、「その御苦難と十字架とによりて」と祈っているのに、十字架を厭うことの多さを反省いたしました。天主様から与えられる尊い自分の十字架を、しっかりと担って、カルワリオの丘をマリア様と共に歩くことができますように、とお祈りいたしました。

余談なのですが、神父様がお説教でお話しくださったサント・シャペルについてネット検索して写真を見ました。本当に素晴らしいステンドグラスですね…! 写真を見ただけでも、とても美しいことが分かりました。ただ、今は観光施設となりコンサート会場に用いられているそうで残念です・・・聖ルイ王が御聖堂を建てられた当時のようにサント・シャペルでも毎日、聖伝の御ミサが捧げられますように! とお祈りせずにはいられませんでした。


午後の講話では、茨木晃神父様(イエズス会のスペイン人の神父様で、日本に帰化なさった)が書かれた『新約聖書の成立について』という著書を元に聖書の正統性について、聖書を偽りだとか作り話だとか疑う人たちもいるが、歴史的事実との一致や、他の歴史書との一致、登場人物たちのあまりにも生き生きとした描写などから事実に基づいて書かれた物であることは疑うことができない、という事をお話しいただきました。
今回は特に聖パウロが実在の人物であるということについて、具体的には
・ローマの歴史家エストニウスの記録の中に、「ローマ皇帝クラウディウスは、ローマにいるユダヤ人たちがキリストについて論争して迷惑している」と書かれており、ローマからユダヤ人が追放された。この時追放されたアキラ・プリスキラ夫妻がパウロと会い、カトリックに改心している。
・コリントにて、ローマ皇帝ユニウス・ガイオの裁判にかけられる
 ユニウス・ガイオはセネカの兄弟でローマ皇帝だったが、ローマにおいての正式な記録がなく、疑わしいとされていた。しかし、1905年フランス人のブルゲ(M.E.Bourget)がギリシア旅行の写真集に発表した1枚の写真に、ユニウス・ガイオが皇帝であったことが書かれた石碑が写り込んだ。それが、聖書学者の目に止まり、聖書の記述が事実に基づいていることが確認された。
などの事実から、これを疑うことはできないということを教えていただきました。
特に驚いたのは、1905年にフランス人のブルゲという方の写真にたまたま写り込んだ石碑で皇帝の実在が確認されたということでした。天主様は時に本当に驚くような、時に意外な方法で私たちに必要なことを教えてくださるのだな、と思いました。

月曜の朝の御ミサ後の軽食の時間には、イエズス様の聖骸布についてや、鞭打ちの苦しみの話を皆さんとすることができ、とても良い時間を過ごすことができました。イエズス様が口では表現できないほど、全身傷でないところがないほど傷を受け血を流し尽くされたこと、茨の冠は頭蓋骨を貫通していたこと、その状態でカルワリオの丘を登られ十字架に釘付けにされたことを考え、それに私たちもついていけるのかについて黙想なさったことなど、皆さんからお話しを伺って考えることができたからです。やはり信仰を共にする方とお話しできることは素晴らしいと思いました、デオグラチアス! 

もう早いもので待降節第二主日を過ぎました。天主イエズス様の御来臨を迎えるにふさわしい準備を、日々の祈りを犠牲をもって進めて行くことができますように、聖母マリア様の汚れなき御心に依り頼みお祈りいたします。また、8日は無原罪の御宿りの祝日なので、良い祝日を迎えることができますように!!これも、お祈りいたします。

神父様もどうぞお身体に気をつけて、マリア様が神父様をいつも導いてくださいますように。お祈りしております。

+In Mary Immaculate,



【報告】
十アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様 今回もごミサをありがとうございます!
待降節第二主日の御ミサのお説教は御降誕の大祝日に向けてどのように準備をしたらよいかをご教示くださいましたように受け止めました。
私も 「主よ私たちの心を目覚めさせ道を準備させてください」と 毎日願わなければと思いました。そのことを詳しくお話しくださいまして ありがとうございます。
”主が来られるエルサレム”という言葉には 幾通りもの意味が含まれているとのこと、その最も高みにあり かつ 深淵なることは霊魂のうちに主が来られることを顕していると伺い 平伏すような感慨をおぼえます。
単に2000年前ユダヤの地エルサレムにイエズス様が御生まれになったということだけでなく、エルサレムという言葉には この地上のキリスト教徒の教会というエルサレムや 世の終りの後に私たちに与えてくれる天上の教会・天の花嫁というエルサレムをも指し示していることを  パリ のサント・チャペルの教会を例に挙げられてお話しくださいました。そして ”私達の霊魂こそイエズス様が御生まれになられるエルサレムなのだと識りそのための準備を整えること”が、この待降節に私たちがしなければならないことだと お話しくださいました。サント・チャペルの二階の祭壇の上にある宝物置きが それ(霊魂のうちに建てられます聖堂)を象徴しているのかもしれないとのことで、小野田神父様により イエズス様が「私たちの霊魂のなかだ、その中にこそ入りたい!」と仰られるとき、この上ない勿体なさとそのようなお言葉に相応しくないための戦きの思いを持ちました。御ミサの中でいかに相応しく準備をして主を迎え入れるかのお話を聴き祈ることができてとても幸せに思いました。
神父様はこの日の祈りの言葉を注解してくださりながら、お恵みを持って入りたいという主をイエズス様を受け入れなさい、そのような天上の富を心から願い求めなさい、そして心の中の天のエルサレムに行くためには心の浄めと十字架が必要で、そこに行こうとすれば十字架に出会うが、十字架に出会うことを怖れずに 却ってそれによって受ける苦しみを抱いて 十字架を愛して日々の務め 日々の嫌なことも十字架として捧げてくださいと 道を示してくださいました。ありがとうございます。

午後の公教要理は 新約聖書についてのお話でした。「新約聖書の成立について」茨木晃S.J.著をもとに、特に「聖パウロが確かに実在した人物であった」ということにテーマを置き パウロの生涯を詳しくお話しくださいました。それは「なぜ新約聖書が疑いのない事実か」と言う問いに対して 聖パウロだけは実在していることを説明できるからということでした。

ところで私がこれまで持っていた聖パウロのイメージとは、12使徒とは全く異なるタイプの方、キリスト者を迫害までしたというのに突如回心した方、 実際にイエズス様と共に過ごしたことがないのに信仰の重要で大切なことを書簡に書き残してくだり教会にとって重要な聖典を書いてくださった方 異邦人への宣教を使命とされていた方だということでした。テント作りで生計を立てていることを述べて、あなたたちも自分で働いて食べるようにしなさいという言葉があるので、あれっあんまりお金持ちでないのかも?と思っていました。

お話を伺って、ユダヤ人でありながらトルコのタルソで生まれ ギリシャ語に堪能でヘブライ語を学び、親がお金でローマ市民権を買ったローマ市民だったとは 初めて知ることでした。社会的地位のあるお金持ちの息子で非常に教養もあり自由に国々を移動できる人物であった聖パウロは、(ユダヤ人からすると)外国に住む熱心なユダヤ教徒で エルサレムに留学し あの”ガマリエル”のもとでしっかりと熱心にユダヤの律法を学んでいた一方で、ギリシャ文化についても精通し旧約聖書をギリシア語で理解することもできていて、ある意味国際的感覚の持ち主であった、ということもわかりました。聖パウロがどのような人物であったか教えていただき、彼が異邦人への宣教のための選びの器の条件が良く整っていたということがよくわかりました。

他にも、聖パウロがキリスト教を宣べ伝えながらユダヤ人からも迫害を受けてあちこち旅をして回り最後にはローマの地で殉教されることになったことには歴史の裏付けがハッキリあることなどお話しいただきましたが、印象に残ったのは、新約聖書に出てくる人物の実在を証明するものが発見された出来事のお話です。それは 使徒行録18章12節の「ガリオがアカヤの地方総督だった時」の、ガリオという人物に関することで、1905年 M.E.Bourguet ブルゲという人がギリシャ旅行の写真集を発表したとき、ブルゲ本人がまったく意図したことでなかったにもかかわらず、本人の記念写真の本人の写っている背後に石板(記念碑)も偶然に写っていて、そこに《ローマ総督 ユニウス・ガリオの功績を称える A.C.51-52年》と明記されていることが読み取れたのだそうです。それまで、ユニウス・ガリオという人物はセネカの兄弟であるということはわかっていたけれども、そのユニウス・ガリオたる人物が実在する証拠が残っていなかったので、使徒行録に書かれていることも作り話ではないかという扱いも受けることもあったそうです。ところが はっきりと写真に写っていたことにより、その論争に終止符が打たれたとのこと、その偶然のような廻り合わせにより新約聖書の中の登場人物が実在する人物だということの証明されるものが発見されたというお話が興味深かったです。

「聖パウロはあまりにもユニークなキャラクターであまりにも聖パウロの話や人生がよく出来すぎていて 歴史家でさえ知らなかったことも書かれているためにすべて作り話であるかのようにも思われるけれども、聖パウロを実在する人物としなければ21世紀の現在にはもう辻褄が合わないと言わざるを得ないようなことが 歴史を知れば知るほど出てきてしまい、パウロの人生、登場人物、なぜパウロがローマに来ることになったのかなど、それらがピタリピタリとパズルが合う如く あまりにもよく証明されるために、後代の人の作り話などではなく、確かに聖パウロという人物が実在する人物だったと言えます。」という言葉で、ご講話を締めくくってくださいました。聖書は特別な書であるということしか頭にありませんでしたが、疑いのない事実が書かれている書であるということもしっかりと心に留めておきます。ご講話をありがとうございました。



【お便り】
Maria! Immaculata!

無原罪の御宿りの大祝日、おめでとうございます!
御受胎の最初の瞬間から、悪魔の頭を踏み砕き給えりという言葉が、心にずーっとこだましています。ノベナをしたからですが^_^;
悪魔は、たった一度さえ、マリア様に勝つことができず、存在の最初の瞬間に、赤ちゃんにもならない、小さなマリア様に頭を踏み砕かれたのですね。
インマクラータをお与えくださった天主様に感謝いたします!
天主様の偉大な御憐れみに感謝いたします!

インマクラータ、我らのために祈りたまえ。



【お便り】
トマス小野田神父様

ブログ拝読いたしました
小野田神父様は同じことしか言わないなどという方がおられるのですか
驚きました

私も真理を探す人が、様々な言葉に惑わされている様子をみるたびに、御言葉はひとつ、信仰はひとつ、主の牧場はひとつ、カトリックはひとつしかないと言っています(・・・)

カトリックの司祭は、どなたに御教えを訊ねても同じ答えが返ってきました
それこそが聖なる普遍の教会の体現ではなかったでしょうか
今は司祭ごとに、答えが違っています
むしろ信徒ごとに答えが違っていて当然で、あなたの感じ方を大切にしなさいという感じで、余計にイエズス様から遠ざかってしまっています

同じことしか言わないという方は、耳に心地よい言葉を、生ぬるいものを求めておられるのでしょうか
天主は、マリア様も生ぬるいものは決して受け取りません
熱いか冷たいかです

トマス小野田神父様
人々の顔色よりも、これからもイエズス様、マリア様の顔色を気にしてください

罪人と天主を和解させられるのは司祭のみですから
御聖体を触れるその手が決して汚されることがありませんように


ロザリオの十字軍)2016年12月8日現在、日本からロザリオ6,597環、犠牲33,284回が報告されました。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月 08日現在、

日本から今までの総計で、ロザリオ6,597環、犠牲 33,284回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは、ロザリオ35,045環、犠牲22,475回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ2,640環、犠牲297回が報告されています。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!

8月15日から11月21日までの報告です。

8月、100環
9月、296環
10月、417環

です。


【報告】
ロザリオの十字軍のご報告

アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、
ロザリオの十字軍のご報告です。

10月1日~11月30日
ロザリオの祈り 153環
犠牲 61

2016年12月04日の『マリア様に、一番心に適う事は何なのか?』に「カトリックの司祭の義務が実は、「同じ事を繰り返す事にあるのだ」と気が付いてくれますように」とありますが、わたくしこれに気がついてとても感謝をしているものです。そのおかげで、いつも慰められ、励まされ、戒められ、教えられているなアと思っております。「ローマ人への手紙」の第10章を思い出しました。その中の14節以降を。
また、「われらの教皇フランシスコのために祈らん。・・・」と祈ります。とりわけ、11月19日のレネー神父さまの霊的講話を読んでからは、より多く祈るようにしております。「司祭のための祈り」とともに。「『教皇様が教皇様であるかないか』というのを知るのは私たちの務めではありません」と言葉でハッキリとお聞きできたので、今後この祈りには確信が増えていくでしょう!
どうぞ、繰り返し繰り返し、何度も何度も何度も、わたくしたちにおっしゃってください。そしてわたくしたちを助けてください。そうすれば、わたくしたち一人ひとりは、信者でない多くの人たちに囲まれている日々の生活の中で、彼らの耳に届く言葉や祈り、彼らの目に見える行いや生活をキリスト信者としてあらわしていけるでしょう。意志してそうするにしても、特に意志していないときにも。
ミサに与っていられる皆様方のご報告も助けられております。


【報告】
Bonjour, Mon Père

Bonne fête de St François-Xavier.
Je vous remets un rapport sur le resultala de croisade de rosaire,
periode du 1er au 30 novembre 2016:

Chapelets 45
Sacrifices 105


【報告】
11月分の聖なるロザリオの十字軍の本当に有り難い皆様からの御報告もさせて頂きます
シスター         90 環          
ヨゼフ マリア      71 環        240回
アンナ          28 環       228 回          
マリア          24環        600 回
マリア          30環       300  回
バルナバ         80 環        406 回
アリア         100 環       300 回
ヨゼフ          90 環          0 回       
マリア         115環        811 回
マリア          90環         180回
マリア          90 環        450回                       計  808 環  3515 回  
以上です


【報告】
御報告を致します。

聖なるロザリオ 6環、犠牲 33回


【報告】
11月30日までの家族での合計は、920環です。よろしくお願いします。


【報告】
11月のロザリオ十字軍のご報告をさせていただきます。
6人で
ロザリオ:295 環
犠牲:736 回
お捧げいたしました。


「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年11月20日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年11月20日 聖霊降臨後第27主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2016年11月20日、聖霊降臨後第27主日のミサをしております。
今日この御ミサの後の予定ですが、14時30分からいつものように公教要理があります。今日はカステラーニ神父様による黙示録の最後の第7のラッパについて話をしたいと思っています。
16時から主日の晩課があります。明日は朝の7時からミサがあります。

12月の予定は、12月も11月と同じように3回ミサがあります、主日が3回あります。
12月4日の第1主日と、18日の第3主日と、25日のクリスマスの主日です。


「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は典礼暦の最後の主日で、今日公教会は毎年この主日には、最後の審判の事を、この世の終わりの事について黙想させてくれます。

この世は一体何の為に創られたのでしょうか?その創造の目的は一体何なのでしょうか?

霊魂の救いです。私たちが天国に行って、イエズス・キリストと三位一体と永遠に至福になる事です。その為にこの全宇宙が創られました、無から創造されました。

イエズス・キリストが、天主の御言葉が人となって、イエズス・キリストとなってお生まれになった、貧しい馬小屋にお生まれになった、人々から裁かれて十字架に付けられて亡くなった、この御託身の神秘と贖いの神秘、この目的は一体何だったのでしょうか?なぜ天主は人となって、これほど苦しむ為に生まれて来たのでしょうか?そして苦しまれたのでしょうか?

私たちを天国に連れて行く為でした。人類の全歴史は、この目的に到達するかしないかによって計られます。これが成功するか成功しないかによって、この創造の究極の目的が達成されるか達成されないかがかかっています。

イエズス様は最後の日に、人間としてそして天主として、生ける人と死せる人とを裁く為にまたもう一度やって来られます。イエズス・キリスト様はこの事を何度も仰いましたし、これはカトリック教会の信仰の玄義です。この説教の後にすぐに私たちはクレドでそう言います、「生ける人と死せる人とを裁かん為に来たり給う、主を信じ奉る。」教会はこの事を私たちに思い出させる為に福音で、イエズス様の最後の、この世の終わりについて何と仰ったか、その直々の御言葉を、その口から出たその言葉を私たちに聞かせて下さいました。

それと同時に、この典礼歴の最後には、イエズス・キリスト様の本当の思いを、「永遠の昔から、何を私たちの為に思ってきたか」という事をよくよくと聞かして、何度も何度も何度も何度も聞かせてくれました。

それは、「私の思いは平和の思いであって、罰の思いではない。私はこの世を救うが為にこの世を創造したのであって、罰する為ではない。私はこの世を救う為に人となったのであって、地獄に落とす為ではない。私はこの世を多くの霊魂たちを天国に救いたい。そしてその救う為に、最後の審判に来るのだ。しかし最後の審判の時にはもはや、その時は決定的な裁きとなって、もはやこの審判の判決は変える事ができない。ある者は残念ながら、永遠の裁きを受けなければならない、変える事のできない罰を受けなければならない。しかしその他の者は、その為にこの世が創られて、天国で準備されている永遠の福楽に入る為に、私は褒美を与える為に、報いを与える為に、慰めを与える為に、喜びと栄光を与える為にまたやって来る。私の考えは平和の考えだ」と教会は私たちに、このミサの初めから優しくそれを教えてくれます。

イエズス様の今日の御説教に御話しによれば、この世にはこの最後の審判の時には、2つのイベントがあります出来事があります。

1つは、「厭うべきものの恐るべきもの “abominationem desolationis” が、これが聖なる所に置かれる」 という事です。

「しかし最後には、イエズス・キリストがその栄光と力を持って戻って来る」 という事です。

そこで是非、この2つの事がどのような事なのかを黙想して、私たちは遷善の決心を立てる事にしましょう。

教会は、司祭たちに聖職者に聖務日課を唱えるように命令していますけれども、その聖務日課によると聖ヒエロニモの解釈によると、「この 『厭うべきものの憎むべきものが至聖所に置かれる』 というのは何かというと、『厭うべきものの』というのは “abominationem” というのは、それは 『偶像』 の事である。 『憎むべきもの』 というのは、それは 『崩壊した至聖所に置かれる厭うべきもの、本当ならば聖なるものが置かれなければならない所が、厭うべきものが置かれているので、そこが憎むべきものになっている』 という状態を表している」 と言います。

これは、イエズス様がちょうどこの福音の中で言うように、「その時、太陽は暗み、月は光を放たなくなり、天の星は動き」 と言うように、「今までの聖なる教えが暗んでしまって、よく分からなくなってしまった。」 或いは、「月が、本当ならそのイエズス・キリストの教えを、正確に輝き映しだされなければならないものが、それが光を出さなくなってしまっている。私たちを導くべき天の星である教会の指導者たちが、動いてしまっている。」

つまり聖ヒエロニモによれば、「これは、『教会のその聖なる教えが歪曲されてしまっている』 という事を意味している」 と言います。「イエズス様は、その時にどうしたら良いかと言うと、『その時には、私たちはすぐに高い山に登れ。』 つまり、『永遠の変わる事のない、天主の山に登れ』 と教えている」 と解説しています。

「この世が偶像崇拝するというのは確かに、ローマ皇帝の像を偶像として崇拝するとか、或いは仏陀の像を崇拝するとか、色々な偶像崇拝があるかもしれません。しかしもっと、もっと大きな偶像崇拝は、天主が居るべき所に人間がズカズカと入ってしまって、天主の代わりに人間を、あたかもその代わりに礼拝させる、という事ではないか」 と教父たちは解釈します。

「人間の手の業である技術、高度な技術を崇拝したり、或いは偽りの人間の作った栄光を信じてしまったり、その前に膝をかがめてしまったり、或いはもっと悪いのは、肉の快楽の前にその事だけしか考えずに、その事だけを追求して生活してしまったり、そして食べる事、飲む事、そしてその他卑猥な事だけを考えて生活してしまっている。ちょうどソドマの時に、天から火が降ってくるという事を人々は考えてもいなかったように、或いはノアの時代には洪水が水が降ってきて、洪水によって今までのものが全て消されてしまうという事が分からなかったように、人々は肉の事、自分の事、そして自分のやりたい放題にやる事だけを考えている、これこそが来たるべき偶像崇拝ではないか」 と指摘しています。

まさに現代の世界を見ると、ますますその傾向を、そうではないかと疑われます。携帯のスマートフォンを見て下さい。多くの人はそれをどのように使っているのでしょうか?Youtubeの宣伝を見て下さい。或いはその他のテレビで、或いは雑誌で、人々が何を話しているか聞いて下さい。食べる事と、飲む事と、そして下品な事です。

反キリストは、キリストに反対するものがこの世を支配する時には、どうやって支配するでしょうか?おそらく人々に石を、人々の為に石をパンに変えて、「さぁ、これがお前たちの食べるパンだ。さぁこれを食べろ」として、人々を誘惑するかもしれません。或いはマスコミやその他の力を使って、ジャーナリズムを使って、「高い所から飛び降りて、それでも平気だった。」そして全ての人々の称賛を得る為に力を使うかもしれません。或いはこのもしかしたら、サタンを礼拝する事によって、この世の地上の全ての富を自分のものにするかもしれません。

つまり言ってみると、イエズス様が 「No!」 と言った3つの誘惑を全て使って、この世を支配するようになるかもしれません。すると人々は、ますます自分の思い通りに面白おかしく、自分の欲望のままに、ゲラゲラと生活できるので、それをますます受け入れていくかもしれません。

しかしそのような時に突然、イエズス様は私たちの主イエズス・キリスト様が、例えこのマスコミが何と言っても、皆に 「その結果はどうなるだろうか?」 とアンケートを取ってみても、「いやぁ、キリストはもうダメだ」 などと言ったとしても、それを裏切ったようにイエズス様が空に雲に乗って、大きな栄光を以って、私たちを裁く為に、善人に、最後まで耐え忍んだ者に冠を与える為にやって来られます。

イエズス様は私たちに言うでしょう。このイエズス様こそが最後のトランプのカードで、いくらマスコミが何と言っても最後に勝つ方であって、私たちにイエズス・キリストを第一としたか、しないか、イエズス・キリストが私たちの全てであったかどうか、という事で私たちを裁かれるでしょう。イエズス様をどのように愛したか愛さないかによって、私たちを裁かれるでしょう。そしてイエズス様をいつも愛した者には報いが与えられます。

ですから私たちは今日、どのような遷善の決心を取らなければならないでしょうか?

典礼暦に終わりがあるように、例えマスメディアが何と言おうとも、使徒信経に私たちがそう唱えるように、昔から教えられた通りに、伝えられた通りに、この世には終わりがあります。イエズス・キリストは必ず私たちを裁く為に、善人に報いを与える為に、正義を全うする為に来られます。

その時に、いつも 「御名の尊まれんことを、御国の来たらんことを、御旨の天に行なわるる如く、地にも行なわれんことを」 と祈っていた人は何と幸いな事でしょうか。「イエズス・キリストこそ第一だ。イエズス・キリストが私たちの全てだ」 と言った人は何と幸いでしょうか。その時には大きな栄冠を受けます。その時には全ての天使たちと聖人たち、そして全ての殉教者、イエズス様の為にこの世地上で苦しみを受けて、それを捧げてきた人々と共に、私たちは永遠に喜ぶ事になります。

この世は過ぎ去りますが、イエズス様の言葉は決して過ぎ去りません。真理はそのまま残ります。マリア様にお祈り致しましょう。私たちもマリア様と共に、この栄光に達する事ができますように、お祈り致しましょう。

「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

イエズス様の聖心の永遠のお考えとは

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月2日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年12月2日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年12月2日、聖ビビアナ童貞殉教者の祝日で、初金曜日です。イエズス様の初金の信心のミサを行っています。

ファチマ100周年を準備する為に、ファチマのマリア様の巡礼の御像を日本にお持ちする事になりました。このファチマの御像はフィリピンでは、色んな所でマリア様が回っています。つい最近ではダバオで、このマリア様をダバオの副市長がこの職員の前で、私たち司祭とティム神父様と一緒に、ダバオ市をマリア様の汚れなき御心に奉献しました。或いは軍隊もその部隊も、マリア様の汚れなき御心に奉献しています。ダバオだけではなく、色々な市町村などがマリア様の御像を迎えて、奉献しています。

フィリピンのマニラの学校では、このマリア様の御像が教室を回って、そして職員室も回って、そしてとても多くのお恵みを頂いています。先生たちも見違えるようになりました。校長先生のフォルティン神父様は、「もう説明できない事だ」と、もう私に言っています。そこでその最初のマリア様の御訪問を最初にした時から私は招かれて、「理事長も来るように」、それでそのマリア様がどれほど多くのお恵みを私たちにもたらしているかというのを見ているので、是非このお恵みを皆さん受けて頂きたいと思って、是非このファチマのマリア様に来て頂きたいと思って、皆さんのお宅をマリア様が祝福して訪問して下さるように、という意向でマリア様の御像をお持ちしました。

フィリピンの学校で使っている、「マリア様をお迎えする時のお祈り」と「さようならのお祈り」を、学校で使っているそのままなのですけれども、ですから「class room」とか書いてありますけれども、それは例えば「私たちの家」とかですね、「私たちの家族」「私たちの部屋に」などと変えて、どうぞこのマリア様を受け入れるようになさって下さい。マリア様は多くのお恵みを皆さんのご家族と皆さんに必ず下さります。私はそれをもう見て、もうそれを疑う事ができない事実を見ています。ですからもしもマリア様を、「ぜひ私たちの家に来てほしい」という方がいらしたら是非仰って下さい。明日からマリア様は皆さんを訪問されます。



“Cogitationes in generatione et generationem”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は初金で、イエズス様の永遠のお考えについて入祭誦で私たちは歌いました。イエズス様の聖心の考えは、「代々限りなく、彼らの霊魂を死から救い、そして彼らを飢えから癒やす為に、それが私の考えである。」

私たちはこの今待降節に入りました。待降節に入った私たちは、イエズス様の聖心の思いをますます深く黙想致しましょう。イエズス様の聖心の思いは、愛の思いです。私たちのもとにやって来たい、という思いです。

3つの思いがあります。イエズス様は永遠の天主、永遠の御言葉です。それが私たちのもとにやって来たい、というその熱烈な思いが3つの御来臨によって、3つの到来によって表わされています。

今日私たちの御聖堂は拡張工事が終わって、より多くの方を御聖堂に招く事ができるようになって大変嬉しく思います。このステンドグラスで飾られた、4階の、上にある天に上げられた教会は、まさに天のエルサレムように思われます。何か天国のようにも思われます。この綺麗なステンドグラスで囲まれた教会を見ると、ちょうどパリに聖ルイ9世が、聖なる王が造ったサント・シャペルという綺麗な御聖堂、教会の事をどうしても思わざるを得ません。

サント・シャペルは2階建ての教会なのです。1階は普通の教会で、壁ががっしりとしていて窓もあって、普通の教会ですけれども、でも天井はそんなに高くありません。でも2階に行くと天井が非常に高くて、そして壁が無いのです。壁に代わりにあるのは窓ガラスで、一面が窓ガラスになっています。全てがステンドグラスで囲まれていて、柱があるだけで、そしてこの光に囲まれた教会になっています。技術的にそれは12世紀に聖ルイ9世が造った時には、その壁の無いガラスだけのステンドグラスだけの教会を、そんなに高い物を造るというのは非常に難しい事でした。しかしそれをやってのけたのです。

何故それを造ったかというと、国家財産のほとんど全てを使って、当時コンスタンティノープルにあった茨の冠をそれを購入したのです。そして購入するその茨の冠を収める特別の場所として、そのチャペルを造りました。その茨の冠がどれほど高かったかというと、この茨の冠を買ったお金でサント・シャペルが2個半建てる事ができたそうです。

このサント・シャペルの光に囲まれた御聖堂を私もパリに行った時に行って、本当に素晴らしくて、ステンドグラスの細かい色で飾られた、天地の創造から聖ルイがその茨の冠をパリに持って来る時までの話が全てステンドグラスで、旧約の時代からその時までの流れが全てステンドグラスで描かれています。

もちろんこれは天国の淡い儚いイメージでしたけれども、しかし聖なる王様はできるだけ素晴らしい御聖堂を造って、天国での栄光がどのようなものかという事を示そうとしたのです。

この御聖堂の美しいステンドグラスを見ると、その事を思い出されます。

その光に囲まれた栄光の天主の御言葉、聖ルイはその茨の冠の宝庫を、特別の宝物の箱の所に祭壇の上の所に置いておいて、それの鍵は7つ付いていました。その7つの鍵をいつも身に付けていて、寝る時もそれを肌身離さずその7つの鍵を付けていつもいました。聖ルイ王にとって最高の宝でした。

ちょうどそのように、もうこれ以上守られて、これ以上幸福で、これ以上もう不足するものがない、という天の王の王、全能の永遠の天主が、私たちを「是非この光の国に、永遠の命に、この喜びの中に導きたい」と思って、1階に降りて来て下に降りて来て、そして私たちの霊魂を探そう、とやって来られます。それがクリスマスであって、それが御降誕でした。

待降節は、その私たちの救い主、創造主であり王の王であるイエズス・キリスト様が、主の御言葉が人となったその愛の、無限の愛の神秘を準備するその期間です。

イエズス様の聖心の愛はただそれだけではありません。イエズス様の愛は、イエズス様を愛してこの人生を、短い人生を送った全ての人に、「最高の報いで、最高の幸せで報いてあげよう」と思っているその愛です。「お前たちは私の為にこれほど尽くしてくれた。さぁ今度は私の番だ。私がお前の、これからお前の望みを叶えてあげよう。お前の思い通りにしてあげよう、お前をもうこれ以上ないほど幸せにしてあげよう。お前は生きている間私を本当に幸せにしてくれた、喜ばせてくれた。今度は私がお前を喜ばせてあげよう。」「主よ、もうこれ以上まだあるのですか」というほどの報いを私たちに与えようと思われる時です。それが最後の審判のイエズス様の御姿です。

最後の審判で、私たちの行為を全て、隠された思い、密かな思い、全ての言葉、行いを全世界に公布して、私たちがどれほどイエズス・キリストを愛したのか、イエズス・キリスト様の為に生きてきたのか、どんな小さな行為でさえも決して報われないものはない、涙は全て取られて、喜びに満たされる。そして全ての辱しめは取られて、喜びと栄光に変わる。それを私たちに下さろうと、正義を全うさせようとやって来られます。

その時に、私たちがイエズス様になした小さな犠牲、辛い事を我慢した事、イエズス様の為に捧げた寛大な行為、イエズス様の為に捧げたあの時間、イエズス様の為にしたあの愛徳、イエズス様に捧げたあの小さな奉献、或いはイエズス様の為に捧げたあの物質的なこの事が、私たちが思ってもみなかったものすごい報いとなって、「さぁ、これをお礼として受けてもらいたい。さぁ、これがあなたへの感謝の気持ちだ」とイエズス様が報いて下さるその時です。

その時にはもちろん、悪人にとっては恐るべき時です。何故かというと、あれほど隠していた邪悪な考えや、あれほど嘘で固めた偽善がバレバレに分かってしまって、あれほどの恥ずかしい隠した恥が皆に、悪意が、悪さが、皆の前に発表されて、そしてその時に、悪人たちがイエズス様に対してなした冷たい態度、悪意、悪態、忘恩、冒瀆は全て、その彼らの辱しめと、屈辱と、そしてこれ以上ない悲しみの原因となるでしょう。

どんなに小さな秘密も明らかになります。私たちがその時にイエズス様に祈った憐れみを求める祈りは、憐れみを受けるものとして返ってきます。イエズス様に対してなした傲慢な態度は、やはりそれにふさわしい辱しめとなって返ってきます。イエズス様を愛する者たちに、特に愛と正義を持って、私たちに憐れみを持って、それを「お返ししよう」と帰って来るその最後の審判の時、イエズス様は愛に満ちて、憐れみに満ちて、また戻って来られます。

その時、私たちは顔を上げて、「あぁイエズス様、救い主、早くとく来たり給え。さぁ早く来て下さい」と、どれほど熱烈に望む事でしょうか。

そればかりではありません。イエズス様が来たのは2000年前の歴史的な、単なるその関係無いベトレヘムだけで、或いは何年かいつか分からない未来の事だけではありません。イエズス様は私たちを愛して、愛して、愛に焦がれて、私たちの霊魂のもとに入って来ようと思っています。

イエズス様にとって私たちの価値、私たちの霊魂がどれほど大切かというと、それは聖ルイ9世が持っていたその茨の冠よりももっと大切です。聖ルイは7つの鍵を首にいつもかけて寝ていましたけれども、イエズス様は私たちをその聖心の中に深く入れて、愛に焦がれて、私たちと1つになりたい、私たちの霊魂の深くに入りたい。私たちをもっとイエズス様の聖心の深くに入れたい、天のエルサレムの、その光に輝いたこのサント・シャペルのそのもっともっと一番宝の宝庫の中に入れたいと思っています。その鍵で聖心の鍵を開いて、その中に深く私たちを入れたいと思っています。ですから私たちに御聖体を与えて下さいます。

ですから今日私たちに聖心を開いて、「私の考えは、彼らの霊魂を死から救い、霊魂を飢えから癒やす事だ」と仰って下さっています。「さぁ、苦労する者よ、私のもとにやって来なさい。私のくびきは軽い。私は柔和謙遜である者であるから、私に倣え、私について来い。」

イエズス様は私たちに愛の招きをしています。イエズス様は私たちのもとに来たい、私たちの心にやって来たい、と熱烈な思いでいらっしゃいます。

待降節は、私たちがその思いに応える時期です、「イエズス様、来て下さい。早く来て下さい。イエズス様、私たちは今まであまりにも冷淡でした、無関心でした。そして冷たい心を持っていましたけれども、イエズス様、この待降節中いつもイエズス様を迎える準備ができますように、ますます準備ができるように愛に燃え立たせて下さい。マリア様、どうぞ私たちの心に来て下さい。そしてイエズス様を迎える事ができるように助けて下さい」と準備を致しましょう。

今日はミサが終わったら聖時間があります。イエズス様に是非、素晴らしい待降節を迎える事ができるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

カトリック教会の4名の枢機卿から教皇フランシスコへの公開書簡:「アモーリス・レティチア」における結び目を解く要請

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

四名の枢機卿たちが教皇フランシスコに提出した、「アモーリス・レティチア」における結び目を解く要請を日本語でご紹介します。

ラ・サレットの聖母の祝日である2016年9月19日、カトリック教会の四名の枢機卿たちがフランシスコ教皇と教理聖省長官のミュラー枢機卿とに書簡を書き送りました。それは、「アモーリス・レティチア」(仮訳:愛の喜び)のカトリックの道徳に関する部分を良く理解することが出来るように求めるためでした。

しかし、残念ながら、その回答がなかったために、枢機卿たちはこの手紙を公開しました。この手紙は、四部から成り、公開の理由を説明する「必要な前書き」、「四名の枢機卿たちの教皇への手紙」、「五つの疑問“Dubia”」、最後に「四名の枢機卿による疑問の説明」です。

ここでは、最初の三部を日本語で紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


1. 必要な前書き

四名の枢機卿たちによってフランシスコ教皇聖下へ書簡を送るのは、深い司牧の配慮からであった。
私たちは、多くの信徒たちが教会の生命に関する極めて重大なことに関して、重大な方針の誤りと大きな混乱とを抱いていることを認知した。司教団の中でさえも「アモーリス・レティチア」(仮訳:愛の喜び)の第八章の解釈に、対照的な違いがあることも認知した。
教会の偉大な聖伝は、私たちにこのような状況から抜け出す方法は、方針の誤りと混乱の原因であるこれらの疑問を解いてもらうことを使徒座に求めつつ教皇様により頼むことであると教えている。
従って、私たちの手紙は正義と愛徳との業である。
正義の業:この手紙によって私たちはペトロの聖務は一致の聖務であり、信仰において兄弟達を固める奉仕は教皇に属している、ということを告白しているからである。
愛徳の業:私たちは、教会における分裂と対立とを避けるために、全ての曖昧さを取り除いて下さるように頼んで教皇を助けることを望んでいるからである。

私たちは特別の義務を遂行した。教会法349条によると、枢機卿たちは、個人個人であっても、普遍教会の世話をする教皇の職務を助けることが委ねられている。
教皇様は、これに答えないことを選ばれた。私たちは教皇様の決定を、静かに尊敬を込めて考察し議論し続けるように、との招きであると解釈した。
そこで、私たちは天主の全ての民に私たちのしたことを伝え、文書を全て提示している。
この事柄を「進歩主義 対 保守主義」の枠組みによって解釈することを誰一人として選ばないように私たちは期待している。そのような解釈は、全く当を得ていない。私たちは、霊魂の本当の善に、深く気を遣っている。霊魂の善こそが教会の最高の法である。私たちの関心は、教会内の如何なる政治を推進させることではない。

誰一人として私たちを、不当に、教皇様の敵で憐れみのない人間であるかのように裁かないことを、私たちは期待する。私たちがしたこととしていることは、私たちをして教皇と一致させる深い団体としての愛情から、そして信徒たちの善を気遣う情熱とから来ている。

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿 + Card. Walter Brandmüller
レイモンド・バーク枢機卿 + Card. Raymond L. Burke
カルロ・カファラ枢機卿 + Card. Carlo Caffarra
ヨアキム・マイスナー枢機卿 + Card. Joachim Meisner


2. 四名の枢機卿たちの教皇への手紙

フランシスコ教皇聖下へ
及びゲルハート・ミュラー枢機卿閣下へ

教皇様、

聖下の使徒勧告「アモーリス・レティチア」の発表の後、神学者たちや学者たちは、様々に異なっているのみならず、矛盾対立している解釈を提案しました。特に、第八章に関してそうです。更に、マスメディアはこの論争を強調しました。そのために信徒の多くの間で、不確かさ、混乱、方針の誤りが発生しています。

このために、以下に署名をした私たち、そして多くの司教や司祭たちは、様々な社会階層の信徒たちから、使徒勧告の第八章に正しい解釈を与えるように要請を受けています。

私たちの司牧の責任に良心上動かされ、聖下が私たちにお求めになったシノドの精神をよりよく果たすために、深い尊敬を持って、復活した主に、兄弟達を信仰において固めるように召命を受けた、信仰の最高の教師としての教皇様に、質問をすることを敢えていたします。それは、私たちがこの手紙に添付した疑問(ドゥビア)に善意によって回答を与えて下さることによって、不確かなことを解き、明確さをもたらすためです。

願わくは、聖下が私たちを祝福し給わんことを。私たちは祈りの内にいつも聖下を思い出しております。


ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿 + Card. Walter Brandmüller
レイモンド・バーク枢機卿 + Card. Raymond L. Burke
カルロ・カファラ枢機卿 + Card. Carlo Caffarra
ヨアキム・マイスナー枢機卿 + Card. Joachim Meisner

ローマにて
2016年9月19日


3. 疑問“Dubia”

1. 「アモーリス・レティチア」の断言(nn. 300-305)に従うと、
有効な婚姻の絆に結ばれているにもかかわらず、「ファミリアリス・コンソルチオ」第84番によって与えられ、その後も「レコンチリアチオ・エト・ペニテンチア」34番と「サクラメントゥム・カリターティス」29番とが再確認した条件を満たさず、別の人と"more uxorio"婚姻しているかのように一緒に生活している人に、改悛の秘蹟において赦しを与えることが可能になり、従って、聖体を授けることが出来るようになったのか、を質問します。
使徒勧告「アモーリス・レティチア」の註351(305番)にある「ある場合には」という表現は、新しく同棲をしていて"more uxorio"婚姻しているかのように一緒に生活し続けている離婚した人々に適応されうるのでしょうか。

2. シノド後の使徒勧告「アモーリス・レティチア」(304番参照)の発表後、聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「ヴェリターティス・スプレンドル」79番の、聖書と聖伝とに基づいた絶対的な道徳の規律、内在的に悪の行為を禁止し例外なく守らねばならない絶対的な道徳律が存在する教えを、有効であると見なす必要がまだあるのでしょうか?

3. 「アモーリス・レティチア」(301番)の発表後、習慣的に天主の掟に逆らって生活している人、例えば、姦淫を禁止する掟(マテオ19:3-9参照)にもとって生活している人は、重大な習慣的な罪の客観的状態にいる(Pontifical Council for Legislative Texts, Declaration, June 24, 2000、参照)と断言することはまだ可能なのでしょうか?

4. 「アモーリス・レティチア」(302番)の「道徳的責任を緩和させる状況」についての断言の後、聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「ヴェリターティス・スプレンドル」81番の聖書と教会の聖伝とに基づいた教えを、すなわち、「状況や意向は、その客観的対象のために内在的に悪である行為を、"主観的に"良いものへと、或いは、選択肢として擁護されるものへと変容させることは、決して出来ない」という教えを、有効であると見なす必要がまだあるのでしょうか?

5. 「アモーリス・レティチア」(303番)の後、
聖ヨハネ・パウロ二世の回勅「ヴェリターティス・スプレンドル」56番の聖書と教会の聖伝とに基づいた教えを、すなわち、良心の役割の創造的な解釈を排除する教え、行為の客観的対象のために内在的に悪を禁止する絶対的な道徳の規律に、良心が例外を正当化させることは決して許可され得ないという教えを、有効であると見なす必要がまだあるのでしょうか?

「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年12月11日 待降節第3主日―大阪 
お説教「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」
親愛なる兄弟の皆さん、

洗者聖ヨハネは最も偉大な預言者でした。なぜなら、「これがあの方です!」とメシアを指し示す役割が彼に与えられたからです。聖ヨハネが使った言葉は非常に注目に値します。「天主の小羊を見よ、世の罪を取り除き給う御者を見よ」(ヨハネ1章29節)。この小羊はすなわち、犠牲のいけにえです。彼は自らの犠牲によって、一度限りの十字架の犠牲によって、世の罪を取り除きます。そしてこの犠牲が、ミサの犠牲によって私たちへ効力を及ぼすのです。

ミサの犠牲は十字架の犠牲を減らすことなく、十字架の犠牲を増やすこともありませんが、トレント公会議で定義されたように、一つ一つのミサはまことの犠牲です。この偉大なる神秘をほんの少しでも理解するのに最もよい方法は、私たちの主イエズス・キリストの現存というもうひとつの神秘を考察することです。主は御体を一つだけお持ちです。でも、聖別されたひとつひとつのホスチアは、まことにキリストの御体であり、増やすことはなく、減らすこともありません。すでに聖アンデレの殉教の報告の中の彼の言葉が思い起こされます。「私たちは一つの祭壇を持っている(ヘブライ13章10節参照)。そこで日ごとに私は、全能にして唯一のまことの天主に、牡牛の肉でもなく山羊の血でもなく、汚れなき小羊を、信じるすべての人々がその肉を食べたとき、すべての人の中に住みかつ生きるほふられた小羊を捧げている」(11月30日の聖務日課、第5朗読)。

最も初期の時代から、ミサは犠牲であると教会は教えてきました。聖アウグスティノはそれを「主の御体と御血の犠牲」(『詩編注解』33章5節)と呼びます。ですから、聖体拝領は普通の食事ではなく、聖パウロ自身が言うように、むしろ「主の御体にあずかること」であり、「キリストの御血にあずかること」(コリント前書10章16節)です。ですから司祭は、まさに洗者聖ヨハネの次の言葉で、聖体拝領の前に信者にキリストの御体を提示します。「Ecce agnus Dei-天主の小羊を見よ、世の罪を取り除き給う御者を見よ」(ヨハネ1章29節)。聖体拝領は、十字架の犠牲のいけにえ、天主の小羊、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものをいただくことです。

さて、プロテスタントの人々は、ご聖体におけるキリストの現存を信じていません。ですから、その結果として、彼らはまことのなだめの犠牲としてのミサを信じておらず、司祭の持つ聖別するという特別な力、すなわち全実体変化させる特別な力、つまりパンの実体をキリストの御体に変化させ、ぶどう酒の実体をキリストの御血に変化させる力を信じていません。ですから彼らの聖餐式では、彼らはパンを食べぶどう酒を飲み、最後の晩餐と十字架の犠牲を単に記念しているだけであり、彼らの食事は単に、正しく叙階さていない牧師が司式しているだけのものです。そういうわけで、次の三つが、ミサに関してプロテスタントの人々が信じていない最も重要な教義です。ご聖体における主の現存、まことの犠牲でありかつなだめの犠牲としてのミサ、正しく叙階された司祭が必要であること―です。

さて、近代主義者が一九六〇年代にミサを変更したとき、彼らはあらかじめ六人のプロテスタントの牧師に、新しいミサを準備する委員会のオブザーバーになるよう依頼していました。その委員会の作業の終わりに、彼らは教皇パウロ六世や委員会の他のメンバーとともに写真に納まりました。六人の牧師は教皇とともに第一列にいましたが、委員会のカトリックのメンバーは後方にいました。この写真は、一九七〇年五月三日発行のフランスの司教団の公式出版物である「ドキュマンタシオン・カトリック」の表紙を飾りました。彼らは最後の決定において投票はしませんでしたが、委員会の他のメンバーと自由に討議し、カトリックのミサの中で彼らが好ましく思わないものを他のメンバーに伝えました。その委員会のまさに書記だったブニーニはすでに一九六五年に、典礼改革の目的は「私たちの分かれた兄弟たちのつまずきの石となるものの片鱗さえも取り除くこと」であると言っていました。ですから、新しいミサにおいて、前に述べた三つの教義を明白に表明する多くの儀式が廃止されるか、あるいは大きく減らされているのは、驚くには当たりません。

例えば、聖伝のミサの典文の中には、二十五回の十字架のしるしがあります。新しいミサの中には一つしかありません。つまり、十字架のしるしの九五%が取り除かれたのです! なぜ、それほどたくさんあったのでしょうか。なぜなら、十字架のしるしは十字架のいけにえを指し示していたからです。ですから、司祭が「われら…は、この清く、聖く、汚れなきいけにえ…を捧げ奉る」と言っているとき、司祭は犠牲の質料の上で三つの十字架のしるしをし、そのいけにえを指し示していたのです。これらのしるしはすべて、(新しいミサの)第一奉献文においてさえも削除されました。

教会はご聖体におけるキリストの現存を信じていますから、司祭は主を礼拝し、ホスチアを持つ前後に毎回ひざまずきによってこの礼拝を示します。ですから、聖伝のミサには十回のひざまずきがあるのです。新しいミサでは、まだひざまずきが行われているとしたら、残っているのは三つだけです。つまり、七〇%が削除されているのです!

さらに深刻なことには、奉献文がその本質を変えられてしまっています。聖伝のミサにおいて、司祭は私たちの主イエズス・キリストの御体と御血になることを予期しながら奉献します。新しいミサにおいては、司祭は単にパンとぶどう酒を奉献するだけです。これは大変な違いです!

聖伝においては、司祭はパテナを奉献しつつこう言います。「聖なる父、全能永遠の天主よ、不肖の下僕である私が、活けるまことの天主に捧げるこの汚れなきいけにえ-それは単なるパンではなく、間違いなく私たちの主イエズス・キリストを意味しています-を受け入れ給え。私の数知れぬ罪と侮辱と怠りのため、また、ここに列席する人のため、そして、生きる者、死んだ者-犠牲は煉獄の霊魂に捧げられます-、すべてのキリスト者のために、これを御身に捧げ奉る。願わくは、これを、私と彼らの永遠のたすかりに役立つものとならせ給え。アーメン」。

その後、カリスを捧げながら司祭はこう言います。「主よ、われらは、たすかりのカリスを御身に捧げ、御慈悲に願い奉る。願わくは、これが、甘美な香りを放ちつつ、われらと全世界の救いのために、主の天主なる御稜威の御前に立ち上らんことを。アーメン」。その瞬間は、まだパテナの上にはパンしか、カリスの中にはぶどう酒しかありませんが、教会は、パンとぶどう酒がまもなくキリストの御体と御血に変化することを予期しながら奉献していることは明らかです。

教理に満ちたこれらの美しい祈りは、削除されてしまっています。それらの祈りは今では、「大地の実り、人の手のわざであるパンを捧げ【日本語では、[ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです]】」、「大地の実り、人の手のわざであるパン/ぶどう酒を捧げ【日本語では、[ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです]】」という二つの祈りで置き換えられました。はっきり言いましょう。もしミサが単なるパンとぶどう酒を捧げるものだったとしたら、それには価値がありません! 今では当てはまらなくなっている旧約以上のものにはなりません。その反対に、聖トマス・アクィナスはこう言います。「なぜなら、ヘブライ書10章1節『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの時の影である』によれば、旧約の律法による犠牲は、キリストの御受難によるまことの犠牲を、形だけ内包したものであった。それゆえに、キリストによって制定された新約の律法による犠牲は[新約の律法を完成させるために]、さらに大いなるものを持つべき必要がある、すなわち、十字架につけられたキリストご自身を、しるしや形においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべき必要がある」。そのため犠牲の対象物-私たちが捧げるもの-は、旧約におけるパンとぶどう酒のような単なるしるしではなく、むしろ私たちの主イエズス・キリストの御体と御血そのものなのです。「人の手のわざ」という表現は、聖書の中で八回、いずれも、なんと偶像を示すのに使われていることを記しておくことは価値があります!(詩編113章12節、134章15節、列王下19章18節、歴代下32章19節、知恵13章10節、イザヤ37章19節、バルク6章50節、6章51節)例えばこう書かれています。「異邦人の偶像は金銀で、人の手のわざ」(詩篇113章12節)。奉献の対象物として、聖書で偶像を示す表現を使うことは不釣り合いと言わざるを得ません。

プロテスタントはパンとぶどう酒を捧げます。私たちカトリックは「主の御体と御血の犠牲」を捧げます。プロテスタントは十字架の犠牲の記念をするだけです。カトリックは実際にキリストの犠牲を捧げます。主はこれを、聖アウグスティノが美しく言うように、教会が主とともに自分を捧げることを学ぶよう、教会にお与えになったのです(「神の国」10巻20章参照)。

同様に、ミサの終わりにある「placeat」の祈りも削除されています。その祈りはこう言いました。「聖なる三位一体よ、下僕なる私の聖役を嘉し給え。不肖の私が、あえて御稜威の御前に捧げ奉ったこのいけにえを喜び給い、御慈悲によって、私と、私がこれを捧げたすべての人々のために喜納せられるものとならせ給わんことを。われらの主キリストによりて。アーメン」。その祈りを削除することもまた、犠牲という真理を沈黙させることなのです。

もう一つの重要な変更は、手による聖体拝領です。理論上は例外的な許可であるにすぎないにもかかわらず、実際にはあらゆるところへ広がってしまっており、時には強制されています。手による聖体拝領は決して聖伝にはありません。たとえ最も初期の教会の時に行われていたとしても、教会が私たちに伝えてきたものではありません。なぜでしょうか? なぜなら、聖体拝領は主の現存を信じる非常に強い信仰をもって行われたのであり、そのことが教会を御聖体の礼拝に至らしめたからです。教会が私たちに伝えてきたのは、ひざまずいて舌の上にご聖体を受けるという礼拝によって明白に表明した初期の教会の信仰なのです。彼らは信じたからこそ、礼拝したのです。そして初期の教会が私たちに伝えたのは、ひざまずいてご聖体を受けるという礼拝とともに、主の現存への信仰なのです。聖アウグスティノはこう言います。「私は[ご聖体にまします主を]礼拝するならば罪を犯さないだけでなく、礼拝しないならば罪を犯すのである」。ですから、礼拝は任意のものではなく、義務だったのです。

のちになって礼拝ぬきの手による聖体拝領を再導入したのは異端者たちでした。それは彼らの不信仰のせいでした。ですから、人が本当に不思議に思うのは、近代主義者たちがなぜ、六人の異端者に新しいミサの準備に参加するよう依頼したのかです! この手による聖体拝領を導入したことは、数えきれない霊魂を信仰の喪失に至らせました。一般信者の間でだけでなく、おそらく司祭の間ではもっとだったでしょう。こんにちの多くの司祭たちは、もはや主の現存を信じていません。なぜでしょうか? なぜなら、彼らは主を礼拝しなかったからです。彼らがご聖体にまします主に示す敬意がまったくないからです。手による聖体拝領は信仰の喪失に至らせるのですから、それゆえに絶対に避けなければなりません。私はこれまで決してご聖体を手に授けませんでしたし、これからも決してそうするつもりはありません。私はこれまで決してご聖体を手で受けませんでしたし、これからも決してそうするつもりはありません。

こんにち一般化した乱用の一つは、平信徒がご聖体を配ることです。男性だけでなく女性でさえも配っています。聖トマスは、この秘蹟を聖別するのとそれを配るのは同じ人物が行うべきであると言っています。これが、叙階式の典礼の一部として、司祭の両手に特別に聖なる油が塗られる理由です。司祭の両手が塗油されていることは全き真実ですから、司祭が重い病気になった場合、司祭の両手の内側はすでに塗油されているため、平信徒のように手の内側ではなく、手の外側に病者の塗油を受けるのです。さらに、司祭の親指と人差し指の二本の指は、ご聖体に触れる指であるため、特別に塗油されているのです。

こんにち一般化した乱用のもう一つは、女性の侍者です。これは、以前は決して絶対に行われていませんでしたし、一九九七年までは禁じられていました。ところがこの年にヨハネ・パウロ二世が近代主義者の圧力で譲歩したのです。これは、司祭と平信徒の区別をぼかしてしまいます。男性の侍者は祭壇の下で侍祭の役割を果たしますが、この侍祭は下級聖職の一つ、すなわち司祭職へ上げられる段階の一つなのです。さて、天主の御制定によって、司祭職は男性に留保されています。私たちの主イエズス・キリストは十二使徒に男性だけをお選びになりました。それは、十字架の犠牲は、キリストとキリストの教会との神秘的結婚でもあるからです。十字架上の主は教会の花婿でいらっしゃり、教会は新しいエバとして、新しいアダムの開かれた脇腹から生まれるのです。聖母は、新しいエバとして、全教会を代表して十字架の下にお立ちになり、聖母に対して主は、愛された使徒を聖母の子どもとしてお与えになり、この神秘的結婚が(子どもを得るという)実りが豊かであることを表明します。全歴史を通じて愛された弟子たちはみな、キリストとキリストの教会のこのいとも神秘的な結合、豊かな実りから永遠の命へと至る結合から生まれるのです!

他にも、聖伝のミサから新しいミサの間で変更されてしまった非常に多くの点があります。そしてこれらの変更はすべて、同じ方向性を持っています。それは、次の三つの教義におけるカトリック教会の信仰を明白に表明する多くの祈りや動きを廃止するということです。1)ご聖体におけるキリストの現存、2)ミサがまことのかつなだめの犠牲であり、主の御体と御血の犠牲であるという事実、3)その犠牲を捧げるためのまことに叙階された司祭が必要であるという事実-です。他の変更点を挙げるとすれば、祭壇石が任意のものとなってしまったこと、多くの場合に平信徒が、女性でさえもご聖体を配るということ、ご聖体が今やしばしば中央祭壇から移動させられて隅や他の部屋にまで追いやられているという深刻な事実、悔悛や地獄、苦行、この世のことを軽んじるなど、世が好ましく思わないことについての祈りが削除されたことなどです。

聖トマスは、信仰には二つの行いがある、と説明しています。啓示された真理に従う内的な行いと、その信仰を告白する外的な行いです。聖パウロが言うように、「人は心で信じて義とせられ、言葉で宣言して救いを受ける」(ローマ10章10節)。さて、信仰の告白を組織的に減らすと、生ぬるさや弱さの状態に至ります(「神学大全」第二部の第一部、第53問、第3項参照)。そのような状態では、人はつまずきがあったとしても、それに対抗する準備ができていません。そのあとに、本当にそのようなつまずきが起これば、多くの人が堕落し、実際に信仰を失います。なぜなら、その人たちは信仰を告白しなかったからです。ミサにおいて、ご聖体への敬意がないことは、多くの人をその弱さに至らせ、そのあと彼らがもっと大きなつまずきを目撃すると、「たいしたことではない、それは単なるパンにすぎないから」と言いがちになってしまいます。もしそう言うとすれば、その人は信仰を失ってしまったのです! このようにして、どれほど多くの人が実際に信仰を失ったでしょうか?

いいえ、新しいミサは聖伝のミサと決して同じものではありません。とてつもなく大きな違いがあります! オッタヴィアーニ、バッチ両枢機卿は教皇パウロ六世に対して、こう手紙で書きました。「(ミサの)新しい式次第は、全体としても部分においても、トレント公会議の第二十二総会において決議されたミサに関するカトリック神学から驚くほど逸脱しています。その時、最終的に定められたこの典礼の『典文』は、(ミサの)神秘の完全性に対して向けられたあらゆる異端に対しても乗り越えられない防壁をつくったのです」。

私たちが全時代の信仰を守りたいと思うなら、私たちはまた、全時代の典礼、とりわけ全時代のミサにおける信仰の荘厳な表現も守らなければなりません。カトリック教会の聖伝の信仰に忠実であること、聖人たちの道徳である教会の聖伝の道徳に忠実であること、聖伝のミサに忠実であることは、互いに深くつながっています。私たちはこの三つを切り離さず守らなければなりません。

十字架の下に立ち給う忠実な童貞(信実なる童貞)が、教会の最も偉大なる宝である聖伝の典礼によるミサの聖なる犠牲に忠実であり続けるよう、私たち全員を助けてくださいますように。その結果、いつか私たちが天国で永遠にその実りを楽しむにふさわしい者となりますように! アーメン。



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

"On the differences between the new Mass and Traditional Mass" by Fr. Laisney SSPX

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教、「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

On the differences between the new Mass and Traditional Mass

My dear brethren,

St John the Baptist is the greatest prophet, because to him it was given to point to the Messiah: this is HE! The words St John used are most remarkable: “Behold the Lamb of God, behold him who taketh away the sin of the world” (Jn. 1:29). The Lamb, that is, the victim of the sacrifice: He takes away the sins of the world by His Sacrifice, by the Sacrifice of the Cross once for all, which is applied to us by the Sacrifice of the Mass.

The Sacrifice of the Mass does not detract from the Sacrifice of the Cross, nor does it multiply the Sacrifice of the Cross, yet each Mass is truly a Sacrifice, as it was defined at the Council of Trent. The best way to grasp – a little only – this great mystery is to consider the other mystery of the Real Presence of our Lord Jesus Christ: our Lord has only one Body, and yet each consecrated Host is truly the Body of Christ, without multiplying it, yet without any diminution. Already in the report of the martyrdom of St Andrew, his words are recalled: “We have an altar , whereon day by day I offer up to God, the Almighty, the One, and the True, not the flesh of bulls nor the blood of goats, but an immaculate Lamb and when all they that believe have eaten of the Flesh Thereof, the Lamb That was slain abideth whole and liveth.”

From the earliest times, the Church has taught that the Mass was a sacrifice. St Augustine calls it “the sacrifice of the Body and Blood of the Lord.” Hence Holy Communion is not a common meal, but it is rather the “partaking of the body of the Lord” and “communion of the blood of Christ” (1 Cor. 10:16), as St Paul himself says. Thus the priest presents the Body of Christ to the faithful before communion with the very words of St John the Baptist: “Ecce Agnus Dei - Behold the Lamb of God, behold him who taketh away the sin of the world” (Jn. 1:29). Holy Communion is eating the victim of the Sacrifice of the Cross, the Lamb of God, the very body and blood of our Lord Jesus Christ.

Now the Protestants do not believe in the Real Presence of Christ in the Holy Eucharist, and consequently they do not believe in the Mass as a true Sacrifice of propitiation and they do not believe in the special power of the priest to consecrate, i.e. to transubstantiate, that is, to completely change the substance of the bread into the Body of Christ and the substance of the wine into the Blood of Christ. In their communion service, they eat and drink mere bread and wine, and they merely remember the Last Supper and the Sacrifice of the Cross; their meal is merely presided by a minister, who has not been properly ordained. Thus these are the three most important dogmas that relate to the Mass and that the Protestants do not believe: the Real Presence, the Mass as a true and propitiatory Sacrifice, and the need of a properly ordained priest.

Now when the modernists changed the Mass in the 1960s, they had asked six Protestant ministers to be observers in the committee that prepared the New Mass. At the end of the work of that committee, they were photographed with Pope Paul VI and the other members of the committee: the six Protestants were in the front row with the Pope, while the Catholic members of the committee were in the background. This photograph was on the front page of the “Documentation Catholique”, official publication of the French bishops on 3rd May1970. Though they did not vote in the final decisions, yet they did talk freely with the other members of the committee and they let them know what they did not like in the Catholic Mass. Bugnini, who was the very secretary of that committee, had said in 1965 that the purpose of the liturgical reform was “to take off even the shadow of a stumbling block for our separated brethren.” Hence it is not surprising that in the new Mass many ceremonies that manifested the three dogmas mentioned above were suppressed or greatly reduced.

For instance, in the Canon of the traditional Mass, there are 25 signs of the Cross. In the New Mass, there is only one: that is 96% signs of the cross taken away! Why were there so many? Because they were pointing to the victim of the Cross. Thus when the priest was saying: “we offer Thee the pure victim, the holy victim, the immaculate victim”, he was making three signs of the cross over the matter of the sacrifice, pointing out to that victim. All these signs have been removed, even in the first Eucharistic prayer.

Because the Church believes in the Real Presence of Christ in the Eucharist, the priest adores our Lord and marks this adoration by genuflections both before and after each time he takes the host. Hence you have ten genuflections in the traditional Mass. Only three remain, if they are still done, in the New mass: that is 70% removed!

More grievously, the offertory has been denatured. In the traditional Mass, the priest offers in anticipation the Body and Blood of our Lord Jesus Christ. In the new mass, he merely offers bread and wine. This is a huge difference!

Traditionally the priest says offering the paten: “Receive, O Holy Father, Almighty and eternal God, this spotless victim – that can only mean our Lord Jesus Christ, not mere bread – this immaculate victim, which I, Thine unworthy servant, offer to Thee, my living and true God, to atone for my numberless sins, offenses and negligences; on behalf of all here present and likewise for all faithful Christians living and dead – the sacrifice is offered for the souls in Purgatory –, that it may profit me and them as a means of salvation to life everlasting. Amen.”

Then offering the chalice, the priest says: “We offer Thee, O Lord, the chalice of salvation, humbly begging of Thy mercy that it may arise before Thy Divine Majesty, with a pleasing fragrance, for our salvation and for that of the whole world. Amen.” Though at that moment, there is yet only bread on the paten and wine in the chalice, it is clear that the Church offers by anticipation the Body and Blood of Christ, into which the bread and wine will be soon changed.

These beautiful prayers, full of doctrine, have now been suppressed. They have been replaced by two prayers, in which they now “offer bread, fruit of the earth and work of human hands” and “offer bread/wine, fruit of the earth and work of human hands”. Let it be said emphatically: if the Mass were the offering of mere bread and wine, it would be worthless! It would not be greater than the Old Testament which now is of no avail. On the contrary, St Thomas Aquinas says: “For, the sacrifices of the Old Law contained only in figure that true sacrifice of Christ's Passion, according to Heb. 10:1: For the law having a shadow of the good things to come, not the very image of the things. And therefore it was necessary [for the perfection of the New Law] that the sacrifice of the New Law instituted by Christ should have something more, namely, that it should contain Christ Himself crucified, not merely in signification or figure, but also in very truth.” So the object of the Sacrifice – what we offer – is not a mere figure like bread and wine in the Old Testament, it is rather the very body and blood of our Lord Jesus Christ. It is worth to note that the expression “work of human hands” is used eight times in the Holy Scripture, each time to designate… idols! Thus it is written: “The idols of the gentiles are silver and gold, the works of human hands” (Ps. 113:12). It is, to say the least, incongruous to use as the object of the offering an expression that designates idols in the Scriptures.

Protestants offer bread and wine; we Catholics offer “the Sacrifice of the Body and Blood of the Lord”. Protestants only make commemoration of the Sacrifice of the Cross; Catholic actually offer the Sacrifice of Christ, which He has given to His Church as St Augustine says beautifully, so that she – the Church – may learn to offer herself with Him .

Similarly the “placeat” prayer at the end of Mass has been removed. It said: “May the tribute of my worship be pleasing to Thee, most Holy Trinity, and grant that the sacrifice which I, all unworthy, have offered up in the presence of Thy Majesty, may be acceptable to Thee, and through Thy mercy obtain forgiveness for me and all for whom I have offered it. Through Christ our Lord. Amen.” To remove such a prayer is again to silence the truth of the Sacrifice.

Another very important change is communion in the hands. Though it is theoretically only an exceptional permission, it has practically spread everywhere, and is sometimes imposed. Communion in the hand is NOT traditional at all. Even if it had been done at the beginning of the Church, it is not what the Church has transmitted to us. Why? Because it was done with such great faith in the real presence of our Lord, that led the Church to adore the Eucharist: it is that Faith of the early Church manifested in the adoration of Communion on the tongue and kneeling down, that the Church has transmitted to us. Because they believed, they adored; and they passed on to us both the faith in the Real Presence together with its adoration in Communion kneeling down. St Augustine says: “Not only I do not sin if I adore [our Lord in the Blessed Sacrament], but I sin if I don’t.” So adoration was not optional.

It was the heretics who later re-introduced communion in the hands without adoration because of their unbelief. So one wonders why on earth have the modernists asked six heretics to take part in the preparation of a new mass! This introduction of communion in the hand has led countless souls to the loss of faith, not only among the faithful but perhaps even more among the priests. Many modern priests today no longer believe in the real presence. Why? Because they did not adore our Lord, because of all the lack of respect they show daily to our Lord in the Blessed Sacrament. Communion in the hands leads to the loss of faith and therefore must be avoided absolutely. I never gave it in the hand and never will. I never received it in the hand and never will.

Another common abuse today is the distribution of the Blessed Sacraments by laypersons, and even by women. St Thomas says that it belongs to the same person to consecrate this sacrament and to distribute it. This is the reason why the hands of the priests are specially anointed with holy oil as part of the ordination rite. It is so true that the hands of the priests are anointed that, when a priest is grievously sick, he receives the anointing of the sick on the outside of the hand and not on the inside like the faithful, because the inside of his hands has already been anointed. And the two fingers, thumb and index, are specially anointed because they are the fingers that touch the Holy Eucharist.

Another common abuse today is altar girls. This practice was never, absolutely never done before, and was forbidden until 1997, when John Paul II gave in the pressures of the modernists. This blurs the distinction between priest and layperson: the altar boy at the foot of the altar fulfils the role of an acolyte, which is one of the minor orders, that is, a step towards the priesthood. Now by divine institution, the priesthood is reserved for men: our Lord Jesus Christ chose only men for His twelve apostles, because the Sacrifice of the Cross is also the mystical marriage of Christ with His Church: our Lord on the cross is the groom of the Church, which, as the new Eve, is born of the open side of the new Adam. Our Lady stands at the foot of the cross, as the New Eve, representing the whole Church, and to her our Lord gives the beloved apostle as her child, manifesting the fruitfulness of this mystical marriage: all the beloved disciples throughout history are born of this most mysterious union of Christ and His Church, fruitful unto everlasting life!

There are very many other items that have changed between the traditional Mass and the new Mass; and all these changes are in the same direction: to suppress the many prayers and actions that manifest the Faith of the Catholic Church in these three dogmas: 1/ the real presence of Christ in the Holy Eucharist, 2/ the fact that the Mass is a true and propitiatory Sacrifice, the Sacrifice of the Body and Blood of the Lord, and 3/ the fact that there is need of an truly ordained priest to offer that Sacrifice. One could mention the fact that the altar stone has become optional; in many instances lay-persons distribute the Blessed Sacrament, even women; the grievous fact that the Blessed Sacrament is now often removed from the main altar and put aside in a corner, or even in another room; the removal of prayers mentioning what the world does not like, such as penance, hell, mortification, despising earthly things, etc.

St Thomas explains that there are two acts of Faith: the interior act by which we adhere to the revealed truth and the exterior act by which we profess that faith. As St Paul says: “With the heart we believe unto justice; but with the mouth, confession is made unto salvation” (Rom. 10:10). Now the systematic diminution of the profession of faith leads to a state of tepidity and of weakness , in which one is not ready to stand up in case of scandal: then when such scandal happens, many fall and actually lose the faith, because they had failed to profess it. In the Mass, the lack of respect towards the Blessed Sacrament leads many to such weakness, and then if they are witness to a greater scandal, one is inclined to say: “it does not matter, it is just bread”: if one says that, one has lost the faith! And how many did actually lose the Faith in this way?

No, the New Mass is not the same as the Traditional Mass. There is a huge difference! Cardinals Ottaviani and Bacci had written to Pope Paul VI: “the Novus Ordo represents, both as a whole and in its details, a striking departure from the Catholic theology of the Mass as it was formulated in Session XXII of the Council of Trent. The “canons” of the rite definitively fixed at that time provided an insurmountable barrier to any heresy directed against the integrity of the Mystery.”

If we want to keep the faith of all times, we must also keep the solemn expression of that faith in the Liturgy of all times, and above all in the Mass of all times. Fidelity to the traditional Faith of the Catholic Church, fidelity to the traditional morals of the Church, the morals of the Saints, fidelity to the Traditional Mass is deeply connected. We must keep the three inseparably.

May the faithful Virgin, standing at the foot of the Cross, help all of us to remain faithful to the Holy Sacrifice of the Mass in its traditional liturgy, which is the greatest treasure of the Church, so that one day we may deserve to enjoy its fruits for ever in Heaven! Amen.


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