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2019年6月2日(主日)御昇天後の主日のミサ 「聖霊の聖なる配偶者、浄配なる聖母」に対する祈りで聖霊降臨の準備をする

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

2019年6月2日(主日)御昇天後の主日のミサ
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2019年6月2日、主の御昇天の後の主日の御ミサを捧げております。

お知らせがあります。
このミサの後にいつもの通り、第一主日の聖体降福式があります。

それからその後、去年もそうしたように、マーチ・フォー・ライフの今年の為の招待の録画をしたいと思います。もしも皆さんもご参加して下されば嬉しくおります。特に小さなお友達が一緒にして下さると嬉しく思います。特に去年は多くのラテンアメリカの方々がたくさん参加されたので、その方々が参加する事ができるようにメッセージを呼びかけたいと思っています。

今日朝ミサの前に告解ができなかった方の為に告解もあります。

今日のお昼の後に、侍者の方の集いがあります。特に7月には荘厳ミサが予定されているので、それの準備の為の会合があります、よろしくお願いします。

16時頃からいつもの通り晩課があります。
6月と7月の予定については、皆さんこの配られたスケジュールをご覧下さい。



「私は、お前たちを孤児としては残さない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、

今日この御説教で、3つの点を申し上げたいと思います。

「この一週間をどのように過ごすべきか」という事が、私たちにとっての一番の関心事です。何故なら次の来たる主日は聖霊降臨だからです。
その為の遷善の決心を、その準備をどのようにしたら良いか、という事を一緒に黙想する事に致しましょう。

3点あります。

第1は、典礼の特別な恵みです。

有名なドン・マルミオンというベネディクト会修道院長は、色々な霊的な書物を書いています。その最も核心のメッセージは何かというと、「イエズス様は、その花嫁であるキリストの神秘体カトリック教会の典礼を通して、御自分の御恵みを、その典礼にふさわしい御恵みを与える。クリスマスならばクリスマスにふさわしい御恵みを、聖霊降臨ならば聖霊降臨の御恵みを、あたかも私たちが使徒たちがその時代に生きていたかのように、その御恵みを与える。だからその典礼暦に従って、典礼の精神に入って祈りと一致する事は非常にふさわしい事であって、イエズス様の御望みであって、教会が望む事である。」

では今日、一体、どのような典礼歴の時にあるのでしょうか?

先週の木曜日、私たちの主の御昇天でした。イエズス様が御自分の天主の力によって、天に上がられました。「使徒たちは」福音によると、「天をずっと見上げて、イエズス様の方を見上げていた」とあります。

ちょうどそれが主の昇天の精神でした。「私たちも心を天に上げて、私たちの遂に至るべき行くべき所は天にある。私たちの究極の家は、祖国は、帰る家は、天にある。天の永遠の幸せ、天のイエズス様との諸聖人との円居(まどい)をいつも憧れて、心を天に向けている。」これが御昇天の祝日の核心でした。

ところが福音の次を読むと、「天使たちがやって来て、『ガリレアの人たちは一体、天を見上げてポカンと何をしているのか。さぁ、主は今昇られたと同じように帰ってくる。さぁ、その準備をしなさい。』」と。

今日教会は天使の代わりに、天をずっと向いている私たちに、心が天に向けられた私たちに、「さぁ、主は帰ってくる。準備をしなさい、祈りなさい。“vigilate in orationibus.”」

聖パウロは言います、「祈りで警戒せよ。祈りにおいて、寝ずに番をしていろ」と、「常に目覚めて祈りをしていろ。」

“vigilate in orationibus.”
「祈れ」と私たちに招いています。


第2の点。では一体教会はどのように祈ろうと、何を祈ろうと勧めているのでしょうか?
それは、「聖霊が降臨する。イエズス様は私たちを一人では、孤児として親無しに残してはおかない。もう一度来る。」「私は行く、そしてまた来る。お前たちの元に来る」と言います。これがアレルヤ誦です。

福音を読むと、「私は聖霊を送る」とあります。聖霊はイエズス様の御名によって私たちに送られて、そしていわば言ってみれば、聖霊とイエズス様は一体です。同じ三位一体の天主でありますから。聖霊はイエズス様の御名によりて、目に見えない形で私たちの元にやって来ます。

イエズス様は私たちに御聖体の形でも留まります。そして目に見えない聖霊の形でも、私たちに与えられます。「洗礼を受けた者には、聖父と聖子と聖霊が住まわれる」という事です。

御聖体もそうですけれども、聖霊が私たちの元にやって来るという事も、一時的な事ではありません。私たちの元に常に留まり給うのです。私たちの元に三位一体は住まいを築くからです。聖霊といつも一緒になっている事ができるという事です。


第3の点は、私たちの決心です。

では私たちはその為にはどうしたら良いでしょうか?聖霊をどのようにしたら受ける事ができるでしょうか?

「祈り」をしなければなりません、「聖霊来たり給え。」そして、聖霊を受ける為の「心の準備」をしなければなりません。「祈り」による準備と、あと私たちの「愛」による準備です。

聖霊は天主は、罪と同居する事ができません、共存する事ができません。罪のある所には、聖霊は入る事はできません。私たち、「天主」ではなくて「私」がいる所には、聖霊は入る事ができません。謙遜が必要です。「私たちの力では何もできない。イエズス・キリストの御力と聖霊の導きが必要だ」という心が必要です。

一体どうしたらそのような心を持つ事ができるでしょうか?

秘密は「マリア様」です。マリア様は、聖霊に1度も「No」と言った事がない、イエズス様を御胎内に宿したそのマリア様は、聖霊にいつも100%、その御旨を果たしていました。聖霊の導きのままにいました。

古代から教父たちは、もちろんマリア様と聖霊は、マリア様は人間であって聖霊は天主でありますから、このような言い方は非常におかしいのですけれども、しかしマリア様と聖霊があまりにも一体化していて、あまりにも一致していたので、聖母は聖霊の浄配と呼びました。

マリア様が、聖霊があたかもそこに生き写って住んでいるかのように、「聖霊の見えるイコンである」と呼ばれたり、あるいは「聖霊の聖なる配偶者、浄配である。聖霊の妻である」とよばれました。

「なぜかというと、マリア様のなさる事はつまり、聖霊のなさる事だから。それほどまで一つとなっている」と教父たちは言っています。

私たちが聖霊を受ける準備をする為に、祈りと、特にマリア様に対する祈りが必要です。謙遜なマリア様に。今日残る10日、この聖霊降臨の準備をする事に致しましょう。マリア様の御取次ぎによって準備を致しましょう。

「私は、あなたたちを孤児としては残さない。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

証聖者ゴンザガの聖アロイジオのミサ 説教 全世界の王であるよりも天主の子供であるほうがもっと良い。

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2019年6月21日(金)証聖者ゴンザガの聖アロイジオのミサ
小野田神父 説教


「ゴンザガの聖アロイジオ、我らの為に祈り給え。」


全世界の王であるよりも、天主の子供であるほうがもっと良い。
"It is better to be the child of God than king of the whole world." -- St. Aloysius Gonzaga
Photo Credit

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はゴンザガの聖アロイジオの祝日です。昨日は御聖体の大祝日でしたが、御聖体によって養われた、天使のパンを食していたゴンザガの聖アロイジオは、天使のパンによって天使のような聖徳を身に付けて、そして天に上げられました。若くして、24歳で亡くなりました。

そこで今日は、
⑴聖アロイジオの生涯を黙想して、
⑵遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴ゴンザガの聖アロイジオは、1568年に高貴な家庭に生まれました。イタリアの高位貴族フェルディナンド・デ・ゴンザガ侯爵(侯爵は公爵の次の位)の長男で、マントヴァの近くのカスティリョーネ城主の跡取りで、フィレンツェでの宮廷で9歳の時から仕えていました。ルネッサンス期のイタリアの乱れた風紀に対して、聖アロイジオは、すでに12歳の時には、フィレンツェで聖母の祭壇の前で貞潔の誓願を立てました。

聖カロロ・ボロメオに出会い、聖人の指導によって、初聖体も受けました。

1582年、スペインの王皇帝フィリップ2世の宮廷に仕えるしもべとして、またゴンザガ家の跡取りとして、スペインのマドリッドに宮廷生活を送るために送られました。

しかしゴンザガの聖アロイジオは、幼い時から罪の無い、汚れの無い生活を送り、それと同時に犠牲の生活、罪の償いの生活も送っていました。

そこで、宮廷での生活はもちろん、誘惑や面白おかしい事もたくさんあったのでしょうが、それを全て避けました。特にフィリップ2世の王女である、オーストリアのマリア皇后の顔は、好奇心を抑えるために一度も見た事がなかったそうです。

祈りに熱心で、5時間続けてお祈りしても、決して雑念が入る事がなかったと言われています。

イエズス会の聴罪司祭の指導を受けるようになって、「自分もイエズス会に入りたい」と思いました。17歳でマドリッドから帰ると父親にイエズス会入会の許可を願います。父は猛反対します。3年間父親を説得します。非常に困難な説得でした。しかし、父は長男の揺るがない決心を見て遂に入会の許可を与え、聖アロイジオは1587年にイエズス会に入会します。

入会前の1585年7月に、マントヴァという所で聖イグナチオによる霊操の修行をしていました。

ちょうどその時に天正遣欧少年使節が、中浦ジュリアンたちがヨーロッパにやって来ていて、ローマでグレゴリオ13世と謁見した後、帰路につきロレットの聖母の家に巡礼し、その後ロンバルディア地方にやって来て、7月にマントヴァに来ました。公爵を始めマントヴァすべてがお祭りで遣欧少年使節を大歓迎しました。

同じイエズス会のこの彼らが歓迎を受けているのを知って、ちょうど同じ所にいたのです。しかしゴンザガの聖アロイジオは、好奇心を抑えるために、犠牲としてそれを、会う事はしなかったのだそうです。しかしすぐ近くにいました。暑い7月でしたが、部屋にこもって祈りに専念していました。(*)

イエズス会の会員として、特に天主に対する祈りと、そして罪の償いの為の犠牲、そして愛徳の業に励みました。癩病が流行した時に、その看護の為に身を尽くして、看護して、遂に癩病にうつり、そして命を落とします。1591年6月25日の事です。24歳でした。
死の床に着いた時に、やはりイエズス会の功名な霊性の深い聖ロベルト・ベラルミーノの指導を受けて亡くなっていきました。聖ベラルミーノは、このゴンザガの聖アロイジオに対して、「この子は、生まれた時から一度も大罪を犯した事がなかった」と、その天使的な聖徳について証言しています。

今でもそのお墓はローマに、聖イグナチオ教会にあります。


⑵聖アロイジオの生涯は私たちに、一体何を教えているでしょうか?2つの事を私は訴えていると思います。

1つは、「どんなに身分が高くても、どんなに高貴な生まれであったとしても、そしてどんなにお金を持ってこの世で力があったとしても、天国に行く為には、罪の無い、謙遜な天主への愛と、罪の償いの生活をしなければならない、貞潔を守らなければならない、そして隣人愛を尽くさなければならない。そしてそれは生まれが高貴であろうが、生まれが卑しいものであろうが、全く同じである。」

「ゴンザガの聖アロイジオは幼くして、そして自分が高貴であるにもかかわらず、このこれが備わっていた。そして私たちにその必要性を教えてくれる、『時代がどんなもので、どこであれ、どこの国であれ、どんな生まれであれ、私たちはそれを、この罪のない生活、罪の償いを、汚れの無い生活を送らなければならない』」という事です。

第2には、私たちは集祷文にも言うように、そして聖体拝領後の祈りにも言うように、また密誦でも祈るように、私たちは、その今日の模範で、私たちの模範となってくれるゴンザガの聖アロイジオのような罪の無い生活には従う事ができなかったけれども、しかし少なくとも償いには、その跡を従う事ができますように。

同じ御聖体を、天使のパンを食べ、食する事が許される私たちですけれども、聖アロイジオは御聖体によって、天使のような純潔と聖徳の道を歩みました。私たちはそれに遥か遠いものですけれども、少なくともそれを見て、感謝の内に留まる事ができますように。

聖アロイジオは自分の生活を通して、天主の婚姻の服を、真っ白な服を着ていた、純潔の服を着ていたけれども、それの純潔の服には宝石が、真珠がたくさん付いていた。この真珠は、罪の痛悔の涙であって、私たちも少なくとも、その罪の痛悔の真珠を付ける事ができるように。

聖アロイジオにとって、皇后様のお顔を見る事はとても簡単だったかもしれないけれども、しかしそれさえも、罪でなかったかもしれないけれども、それさえも犠牲として捧げた。私たちはこの目を毒する多くのものがこの周りにありますが、聖アロイジオの模範によって、私たちもそれを避ける事ができますように。

そして聖アロイジオは、日本の遣欧少年使節をその時には、500年前は会って話をする事がなかったけれども、今では是非私たちの方に眼差しを向けて下さって、私たちの方に助けの力をのべる為に近寄って下さって、私たちに励ましと、応援と、特別の御恵みを下さるように、お祈り致しましょう。

特に現代、カトリック教会では色々なスキャンダルが報道されています。私たちには是非聖アロイジオのような聖徳を持つ聖職者や、そして信徒の模範が必要です。聖伝のミサの実りとして、御聖体の実りとして、皆さんと私たちも、私の生活が、聖アロイジオに遠いものですけれども、より少なく遠くなりますように。

そうする事によって、御聖体の実りが、ちょうど山の上にある街のように輝き出ますように、多くの方々がよりますます御聖体の御恵みによって聖徳へと導かれますように、ぜひゴンザガの聖アロイジオにお願い、お祈り致しましょう。

特に聖アロイジオはマリア様を通して貞潔の誓願を立て、そしてイエズス会に入会を決心しました。私たちもマリア様の御取次ぎによって、聖アロイジオに倣う事ができますように、お祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


(*) "Vie de Saint Louis de Gonzague, de la Compagnie de Jésus" par Virgilio Cepari, P. 78.

聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂を、聖母の汚れなき御心に奉献する祈り(2019年5月19日更新)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪の「聖母の汚れなき聖心聖堂」では、2019年5月19日、主日のミサの後、特に5月13日のファチマの聖母の最初の御出現の日を記念して、ファチマの聖母行列を行い、最後には恒例の聖母の汚れなき御心に対する奉献の更新を行いました。5月は特に私たちの大阪の聖堂と大阪の信徒の方々の奉献(2017年7月13日に行った奉献)の更新でした。

二年前の7月13日には、御ミサ後に御聖体降福式があり、御聖体の前でロザリオを唱え、そのあとに大阪のお聖堂と、司祭や信徒たちとその家族をマリア様の汚れなき御心に奉献し、名前が書かれた紙を金のマリア様の汚れなき御心のペンダントの中にいれてマリア様の御像に安置しました。

東京でも7月16日(主日)に同様の儀式を行いました。

その時の奉献文を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

アヴェ・マリア・インマクラータ!


聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂を、
聖母の汚れなき御心に奉献する祈り

おお、聖母の汚れなき御心よ、イエズスの聖心の母にして、われらの元后にして母なる聖母よ!

御憐れみをたれて、この聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂に御眼差しを注ぎ給え。われらは御身に、忠孝の愛を示し、この荘厳な奉献によって御身に崇敬を表すことを望み奉る。

われら、聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂の司祭、信徒は、御身にわれらの全てを、肉体も霊魂も、能力も感覚も、人生の全ての悲しみも喜びも、われらの持てる全てを、われらそれ自身を、われらが愛する全てを、御身にことごとく捧げ奉る。

汚れなき童貞女よ、天主の御母にして全ての人々の母よ、われらは御身の聖母の汚れなき御心に、われら自身とわれらの「聖ピオ十世会大阪・聖母の汚れなき御心聖堂」とを奉献し奉る。われらを御身の子供として受け入れ給え。

御身の汚れなき御心が、われら聖母の汚れなき御心聖堂の司祭、信徒らにとって、若きも老いたるも、健康なる者も病の者も、熱心なる者も罪を犯した者も、また将来の会員らにとっても、天主へと導く道とならんことを。

われらの愛する御母よ、われらを統治し給え。われらが豊かなときも貧しいときも、喜びの時も悲しみの時も、健康の時も病の時も、生涯に亘っても死後も、いつも御身のものたるために。

聖母のいとも憐れみにあふれる御心よ、童貞の元后よ、われらの心も精神も守り給え。御身はファチマにて、人々の傲慢や不貞潔や異教精神をいたく深く嘆き悲しみ給うたり。われらをして現代にあふれるこれらの洪水から逃れしめ給え。

今より後は、御身は当会の元后にして母なり。われらの霊的かつ物体的な善を世話し給え。われらの祈りを聞き給いて、この世の悲しみと困難の時、特にわれらの臨終の時にわれらに慰めを給え。

われらは、われらの家族、当「聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂」、われらの祖国、全世界に、正義と愛徳における天主の平和を呼び求め奉る。

われらは、われらの能う限り、御身の御助けにより、償いと改悛との精神をもって御身の諸徳に倣い、真のキリスト教的生活を送り、世間体を気にせずに、頻繁な改悛の秘蹟と御聖体の秘蹟を受け、典礼に敬虔に与り、公教要理を注意深く学ぶことを謹んで約束し奉る。

おお、聖なるロザリオの元后よ、われらはロザリオの祈りを毎日欠かさずすることを約束し奉る。

われらは、御身の助けを持って、キリスト教生活が私たちに要求する犠牲を全て受け入れ奉り、それらを御身の汚れなき御心により、御身の聖子イエズス・キリストのミサ聖祭の犠牲と一致して、イエズスの聖心に捧げ奉る。

美しい愛の母よ、われらの心に、また当会とわれらの家庭に、天主を愛する愛の火を燃え立たしめ給え。願わくは、この愛の火によりて、われらの身分上の努めに常に忠実ならしめ、天主の聖寵により、われらの模範と犠牲と祈りとを通して、われらの隣人と憐れな罪人たちに対する熱心な使徒とならしめ、彼らを真の信仰生活を送るように導くことができるようなさしめ給え。

願わくは、イエズスの聖心の御国が、御身の汚れなき御心の御国と共に、「聖ピオ十世会大阪の聖母の汚れなき御心聖堂」とその全ての信徒らに来たらんことを。われらの元后にして母なる聖母よ、われらが御身を愛し御身に奉仕し、御身に真に奉献された生活を送ることにより、われらがついに至聖なる三位一体との永遠の至福に至るにふさわしき者とならんことを。アメン。

「わが天主よ、われ、信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。われ、信ぜぬ人々、礼拝せぬ人々、希望せぬ人々、御身を愛さぬ人々のため、御身に御赦しを願い奉る。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中のすべての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」


CONSECRATION OF THE CHAPEL OF IMMACULATE HEART OF MARY

O Immaculate Heart of Mary, Mother of the Heart of Jesus, our Queen and Our Mother! Look down with mercy upon this Chapel of Immaculate Heart of Mary, SSPX Osaka. We wish to show thee our filial love and to render to thee our homage by this solemn act.

We come to offer thee our whole being, body and soul, faculties and senses, our life with all its sorrows and joys, all that we possess, all that we are, all that we love.

O Immaculate Virgin, Mother of God and Mother of all men! We consecrate ourselves and our Chapel of Immaculate Heart of Mary, SSPX Osaka, to thy Immaculate Heart. Receive us as thy children.

May thy Heart be for all us priests, teachers and catechists, parents and children, young people, adult and elderly, healthy and sick, absent, present and fallen away the path that leads to God.

Reign over us, O Beloved Mother, so that we may be thine both in prosperity and in adversity, in joy and in sorrow, in health and in sickness, in life and in death.

O most compassionate Heart of Mary, Queen of Virgins, watch over our minds and our hearts and preserve them from the flood of pride, impurity and paganism of which thou didst complain so bitterly at Fatima.

From this moment, thou art named Queen and Mother of this Chapel. Look after our spiritual and temporal well-being, hear our prayers and console us in the sorrows and tribulations of this life and particularly at the hour of our death.

We want to call down upon our families and our Chapel, our country and the whole world the peace of God in justice and charity. On our part, we promise to imitate thy virtues in a spirit of reparation and penance by a true Christian life, by frequent confessions and holy Communions, by fervent participation in the divine Liturgy, and by attentive study of the catechism without regard to human respect.

O Queen of the Holy Rosary, we promise to offer thee the prayer of the rosary each day.

We accept now, all the sacrifices that a Christian life will impose on us, and we offer them to the Heart of Jesus, by thy Immaculate Heart, in union with the Mass of thy divine Son.

O Mother of fair love, inflame in our hearts, our Chapel and our homes, with the divine fire to keep us faithful to our duty of state and to become, with the grace of God, zealous apostles towards our neighbours and poor sinners by our example, our sacrifices and prayers, bringing them to the practice of the true Faith.

May the reign of the Sacred Heart of Jesus, together with thy reign, enter this Chapel of Immaculate Heart of Mary, SSPX Osaka, our Queen and Our Mother, so that living truly consecrated to thy love and service, we may one day deserve eternal happiness in the presence of the Holy Trinity. Amen.

My God, I believe, I adore, I hope and I love Thee! I beg pardon for those who do not believe, do not adore, do not hope and do not love Thee.

O Most Holy Trinity, Father, Son and Holy Ghost, I adore Thee profoundly. I offer Thee the most precious Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ, present in all the tabernacles of the world, in reparation for the outrages, sacrileges and indifference by which He is offended. By the infinite merits of the Sacred Heart of Jesus and the Immaculate Heart of Mary, I beg the conversion of poor sinners.

日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り (2019年7月)Consecration of Japan to the Immaculate Heart of Mary

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2019年7月の初土と最初の主日には、大阪と東京とでそれぞれ、御聖体降福式の時、日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り(2017年8月15日の奉献に少し手を入れた)を更新しました。

愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り
(2019年7月)

【導入部:聖母より受けし御恵みと愛とを思い起こさん】

聖母の汚れなき御心よ、1549年、御身の被昇天の大祝日に、われらが祖国は、唯一真(ゆいいつまこと)の救い主の福音を伝えし聖フランシスコ・ザベリオの到来を喜びたり。地の果ての日沈む国ポルトガルより、極東の日出(いず)るわが国まで、正義の太陽イエズス・キリストの光は届けられたり。
聖フランシスコ・ザベリオは、わが国に来るより15年前、被昇天の大祝日に、聖イグナチオらと共にパリのモンマルトルでイエズス会を結成したり。その時も、御身は彼を喜びと希望とで満たし給えり。御身がこのイエズス会司祭を送り給うたのは、巡礼者として聖地エルサレムにはあらず、教皇パウロ三世の公使として東洋の果てなりし。
被昇天は、光と希望の夜明けを告げる幸いなる明けの星のごとく、われらが祖国にとりて煌煌とかがやけり。御身は、われらが日本に、赦しと、命と、喜びと、平和と、幸せとを与えんことをのみ望み給えり。その慶びの日の後、われらが祖国のあまたの先祖同胞は、高貴なる者も卑しき者も洗礼の御恵みを受け、天主の養子となり、聖子の御体と御血とに養われたり。多くの貴族の子弟らは、イエズス・キリストの司祭となり、或いはローマに、或いはエルサレムに行く御恵みをも得たり。分けても数十万の無数の老若男女は、1597年の26名を初穂として、自らの血を聖子の血に合わせ、殉教の誉れの冠を授かり、天国へと直行せり。大司祭の御母にして、天の門よ、御身は、われらの救霊のため特別の愛もて祈り給えり。
御身の御取り次ぎにより、われらが先祖は、イエズス・キリストへの信仰の御恵みと天主の御助けとにより、祈りを愛し、お上(かみ)に従い、従順・忠実たりて、隣人には福祉と憐れみをほどこし、迫害せんものを赦し、主の御教えを全うせり。雲仙の殉教者らは、「いと尊き御聖体は讃美せられさせ給え!」と叫びつつ、その玉の緒を主に返し奉れり。島原にては撃たれて飛び来る弾丸(たま)を、御身のロザリオの珠(たま)にして祈り奉れり。御身は、西坂で最初の穴吊りの責めを受けし福者ニコラス福永を訪れ、慰め、励まし給えり。福者福永の最後の言葉は、聖母マリアの連祷なりし。殉教者の元后よ、御身はわれらが祖国に多くの恵みを祈り給いたり。
われらが祖先にとりて最も残酷なる拷問は、かくも愛する母の御影(ごえい)を毎年足で踏ませられ、御身に侮辱を加えさせらるることなりし。われらのために十字架に付けられ給うた聖子イエズス・キリストと、主の死を悼み主を御胸に抱き給うた御母の御姿を踏むは、いかに心苦しきことなりしぞ。キリスト者が迫害されし時、御身も、愛する子らとともに苦しみ給いしなり。
司祭不在の長き年月の間、隠れたる信徒らは、御身の御像を隠し持ちつつ、御身の聖なるロザリオを愛し、喜びと苦しみと栄えの玄義を黙想し奉り、これを良く唱える御恵みを得たり。御身こそ、司祭になり代わり、われらが先祖らを慰め支え給えり。日本各地に残る多くのキリシタン遺物が、彼らの御身への愛を雄弁に物語るなり。
御身は、イタリア人シドッティ神父に日本宣教の望みを起こさせ、1708年、屋久島に到着させ給いたり。神父が日本に持ち来たるは、悲しみの御身の御影(ごえい)とて、慰め無き悲しみとカルワリオの御苦しみとを捧げ給う涙の御身の御姿(みすがた)なりし。師がキリシタン屋敷の地下牢にて殉教せし後に、今に至るまで東京国立博物館に残されしは、日本の子供らのために悲しみ給う御母の涙なり。
御身は、日本への宣教師フォルカード師に知恵を息吹き給えり。キリシタン禁令のただ中、殉教の血に浸され赤く染める300年を経て、ついに1844年の幸いなる聖母聖月の最初に、日本の那覇にて、師がわれらが祖国をかたじけなくも捧げ奉りたるは、正に、聖母の汚れなき御心に対してなりし。「無原罪の御孕り」なる御身は、1856年日本の建国記念の日を選び、フランスのルルドにて聖ベルナデッタにお現れになり給いし。御身は、フォルカード司教をフランスのヌヴェールの司教として、聖ベルナデッタが修道誓願により御身に捧げらるるを司式せんことを計らい給えり。
1865年3月17日、御身は、その美しき御像の足元に、迫害を逃れんとて潜伏中の信徒らを招き寄せ給えり。「サンタ・マリアの御像はいずこ?」 彼らは、御身を見奉りて、まさしくこれぞ!サンタマリア様!聖子イエズス様を抱き給う!と喜び、自らの信仰を明かさん秋(とき)を得たり。子らが母を見つけし喜びなりしぞ。彼らがたとえ「旅」に流されんとも、御身は流刑の信徒らを訪れ、優しき母として津和野に現れ、慰め給いたり。
御身は、今より100年前の1917年、ポルトガルのファチマにて、ご自分の汚れなき御心の神秘を、われらに垂(た)れて諭(さと)し給えり。同じ年、おお、汚れなき聖母(インマクラータ)よ、御身はご自分のしもべ聖マキシミリアノ・コルベに燃える望みを抱かしめ、御身のために捧げられし騎士会をローマにて創立させ、このしもべをわれらが祖国に送り給えり。
1945年、御身の被昇天の大祝日を準備しつつ、原爆を受けたる長崎の、多くの修道女らとカトリック信徒らとは「み母マリア、身も心もとこしなえに、献げまつる!」と息も絶え絶えに歌いつつ、死の苦しみを愛を込めて御身に捧げ奉れり。戦争終結のため、ファチマの聖母なる御身に、夜を徹して祈る司祭も多かりし。われらが祖国を愛する信徒らは、日々祈りと犠牲とを捧げ奉り、平和のために祈りたり。長崎カトリック信徒代表パウロ永井隆博士は、慰霊祭に弔辞の弁にかく言えり。
「日本は聖母に献げられし国たること、吾浦上の天主堂もまた特に聖母に献げられしものたることを想い出すなり。・・・いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通し奉るわが浦上教会こそはまこと世界中より選ばれ、天主の祭壇に献げらるるべき潔き羔の群れではなかりしぞや。・・・浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられしことを感謝し奉る。」
かくて、御身の被昇天の大祝日に、御身の御取り次ぎにより、われらが祖国は、終戦の御恵みを得たり。日本の司教団はこれを直ちに認め、一致団結して日本を御身の汚れなき御心に奉献し奉れり。御身の被昇天の祝日は、天主への讃美にわれらを招く鐘が教会に鳴り響くごとく、われらが祖国の上に、平和を告げて鳴り響きたり。終戦の年に鳴り響きし長崎の鐘は、正に御身への讃美の歌となりけり。1951年の御身の御誕生日には、日本はサン・フランシスコ条約を締結し、戦争状態は法的に終了し、日本国民の完全な主権は承認されたり。
御身は、1975年の最初の土曜日から、1981年9月15日の悲しみの聖母の記念日まで、われらが祖国の秋田の地に来たり給うて、ファチマのメッセージを繰り返し伝えつつ、共償の涙を、101回にわたりて流し給えり。日本の国民の救霊のために苦しみ給うた涙にして、それにもかかわらず母の愛が冷淡に無視さるることを歎(なげ)き給う涙なりしぞ。

【奉献】

ああ慈悲深き聖母の汚れなき御心よ、
至聖なるイエズスの聖心の前に於て全能の御心、
何人たりともその祈祷の空(むな)しかりしを覚えることなき御心よ、
いと潔きあわれみの御母、平和の元后なる聖マリアよ、われらは聖なる教会の導きに従い、今日、日本および日本国民の、御身の汚れなき御心に対する奉献を更新し、そのすべてを御身の御保護に委ね奉らんと欲す。
今日、イエズス会士なる教皇フランシスコの御代の下で、御身が送り給うた聖フランシスコ・ザベリオを思いつつ、
日本の公式の且つ聖なる指導者なる司教らの、密かなる願いとその意図(こころ)とを汲み、
日本の先祖たちから脈々と続く、御身に対する愛と信頼と奉献との聖なる忠孝の伝統を続けんがために、
御身の聖子の真(まこと)の教会なるカトリック教会に属する聖ピオ十世会、その総長により、日本の霊魂を緊急援助・司牧するを正式に命じられた担当司祭として、
自らの力と権能の及ぶ限りにおいて、
御身の愛されし子供にして御身のしもべとして、
ここに、御身の汚れなき御心になされた日本の国とその国民との奉献を、荘厳に更新し奉る。
われらは、われらの全てを、肉体も霊魂も、能力も感覚も、人生の全ての悲しみも喜びも、われらの持てる全てを、われらそれ自身を、われらが愛する全てを、御身にことごとく捧げ奉る。

【奉献の結果:聖母の御保護のもとに入らん・聖母は御自分の所有物として守り給う・受動的態度】

願わくは聖母、憐れみの御まなざしもてわれらの心をみそなわし給え。われらを御身の子供として受け入れ給え。われらが弱き手より、御手(みて)の中に、日本を受け取り給い、御身ご自身の所有物としてこれを守り保護し給え。われらの愛する御母よ、われらを統治し給え。そは、イエズス・キリストの外においては、救いはありえぬがゆえに、霊魂らを悪魔の手から奪い取り、イエズスが日本において、統治し、しろしめし給うためなり。
ファチマの聖母よ、御身が、われらが祖国への愛のためになしたことを思い起こし給え。日本をイエズスに与え、日本を救い給え。イエズス・キリストにおいてわれらは真理と生命と平和を見いだすがゆえなり。
御身の汚れなき御心が、日本に住む全ての人々と世界にいる全ての日本国民とにとりて、若きも老いたるも、健康なる者も病の者も、熱心なる者も罪を犯したる者も、また将来の子供らにとりても、千代に八千代に、天主へと導く道とならんことを。

【聖母の御取り次ぎを求めん】

われらが聖母よ、日本のために祈り、聖子に取り次ぎ給え!
罪の概念を失わさんとする、限度を知らぬ不道徳と不潔の津波から、若き青少年たちを守り給え。われらが、イエズスの御聖体における御血に養われ、百合のような貞潔の徳を育てんがために助け給え。力強き童貞よ、われらのために祈り給え!
日本において「戦後」直後にはじまりし嬰児大虐殺の戦争を赦し給え、且つこれを速やかに終わらせ給え。日本民族が御身を知らず、闇に住むのを、憐れみ給え。
聖子イエズス・キリストの福音の輝く光を、われらが日の本に燦然と輝かせ給え。聖子の真の御教えに基礎をおく文明をわれらが受け入るるを得しめ給え。キリスト信者の助けよ、われらのために祈り給え!
聖母よ、日本のために取り次ぎ給え!善人でさえ滅びの危険のある情欲と疑いのこの秋(とき)において!
日本の国民を、聖子への信仰において、カトリック教会への愛において、聖徳の高い望みにおいて、秩序の遵守において、また兄弟愛において、全て一つにまとめさせ給え。平和の元后よ、われらのために祈り給え!
われらの心に、天主を愛する愛の火を燃え立たしめ給え。願わくは、イエズスの聖心の御国が、御身の汚れなき御心の御国と共に、日本に来たらんことを。われらの元后にして母なる聖母よ、われらが御身を愛し、御身に奉仕し、御身に真に奉献されし生活を送るにより、われら日本国民全てがついに至聖なる三位一体との永遠の至福に至るにふさわしき者とならんことを。

【日本司教団の奉献の祈り】【奉献の結果:聖母の御助けにより、聖母のものとして、聖母のために、苦しみを捧げる聖母にならわん・能動的態度】

願わくは聖母、御あわれみの御心をひらきて、われらの願いを聞き給え。
われら今、この世のすべての苦しみ、悩みを雄々しく堪え忍び、そを世の罪の償いとして、天主に捧げ、その御怒りをなだめ奉り、わけても御身の汚れなき御心にならいて、主の御旨を重んじ、身を清く持して、聖なる一生を送らんと決心す。
願わくは聖母、力ある御手をのべて、われらの弱きを助け給え。
願わくは、御身、慈母の愛もてわれらを護り給え。

【聖母の汚れなき御心のミサの集祷文】

天主の聖母、われらのために祈り給え。
キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。
祈願 全能永遠なる天主、主は童貞聖マリアの御心のうちに聖霊のいみじき御宿をしつらえ給いたるにより、願わくは、御憐れみをたれて、かの汚れなき聖母の御心に日本を捧げ奉りたるわれらをして、主の聖心にそいて生くるを得しめ給え。われらの主キリストによりて願い奉る。

アーメン。

【聖ピオ十世会】聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告2019年7月 SSPX JAPAN, Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪では、7月の初金、初土に聖伝のミサをささげました。
東京では、7月7日に主日のミサ、8日に月曜日の早朝ミサをお捧げしました。

東京では二人の子供たちが洗礼を受けました!天主に感謝!

ところで、二か月前の大阪の「聖母の汚れなき聖心聖堂」で5月19日(主日)に聖母の汚れなき御心に対する奉献の更新式がありました。

同じ大阪大司教区では1868年にパリ外国宣教会のムニクウ神父(Pierre Mounicou)が神戸に着任されたことをもって宣教が再開されました。150年後、「再宣教150周年を祝う一年」の最終日である2019年6月16日(主日)に14時から大阪カテドラル聖マリア大聖堂で感謝ミサが捧げられ、ミサの中で「聖マリアの汚れないみ心に大阪教区を捧げる祈り」の祈りが唱えられました!

私たちは、この聖母への奉献のニュースに大変嬉しく心躍る気持ちを覚えました。
何故なら、聖母の汚れなき御心に奉献された国々は、特別の恵みを受け、平和と繁栄と祝福を受けてきたこと、
日本の司教団が、終戦直後、一致団結して日本を聖母の汚れなき御心に奉献したこと、
秋田では天使が、聖母は日本が聖母の汚れなき御心に奉献されていることを喜んでいると言われたこと、
2017年のファチマ100周年には世界中の司教団がそれぞれの国を聖母の汚れなき御心に奉献したけれども、日本ではそれがなかったこと、
などを思い、
日本の司教様たちが、日本を聖母の汚れなき御心に奉献することをこころから願っていたからです。

前田枢機卿様のよき模範が日本全国に行きわたりますように!

また、私たちが慎ましくも行ってきた聖母の汚れなき御心に対する奉献が、この大阪大司教区の奉献という一歩への恵みをもたらすことに一役買ったと敢えて信じます。

そこで、ますます多くの恵みを祈り求めて、2019年7月の初土と最初の主日には、大阪と東京とでそれぞれ、御聖体降福式の時、日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈りを更新しました。

これは、報道によると今年の11月にフランシスコ教皇様が来日するので、その機会に、日本の全ての司教様たちが教皇様とともに日本を聖母の汚れなき御心に奉献するお恵みをもたらすことを特に懇願してのことです。

フランシスコ教皇様の来日は、トランプ大統領や習近平あるいはG20の来日とは次元が違うはずです。

教皇様が人間としてどのような方であれ、キリストの代理者として来られるはずだからです。

フランシスコ教皇様の今年の来日が、日本にとって真の主イエズス・キリストを知る良いきっかけとなる奇跡の来日となりますように!

聖フランシスコ・ザビエルが日本に与えたような良い影響をフランシスコ教皇様の来日が日本に与えることが出来ますように!

では聖伝のミサの報告をご紹介いたします。

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

御血の月である7月の初金曜日に、御聖体降福式によって、御聖体の内に真に在し給うイエズス様のいと尊き御体・御血・御霊魂・御神性を、特に日本でイエズス様御自身が受け給う侮辱・冒瀆・無関心を償う為に御捧げする事ができて嬉しく思いました。

ファチマの天使の第2の祈りを3回、いつも御聖体降福式の時に唱えて下さってありがとうございます!

嬉しい事に、前田枢機卿様は、大阪大司教区再宣教150周年の最後の日の6月16日に、大阪教区をマリア様の汚れなき御心に奉献して下さり、日本がマリア様の汚れなき御心に奉献される第一歩を、素晴らしい模範を示して下さり、非常に嬉しく思います!デオ・グラチアス!

この事によりこれから大阪教区には、マリア様の汚れなき御心からの御恵みが、更に、更に、溢れんばかりに注がれる事になるのだろうなぁと確信しております!

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 34人(内、子供5人)
女: 31人(内、子供3人)
計: 65人(内、子供8人)

今日の洗礼式後のパーティーの参加者数:25人

【報告】
初水曜日のヨゼフ様の信心をいつもブログで仰って下さってありがとうございます。
昨日は第3のイエズス様が御割礼によっていと尊き御血を流されて、そして「イエズス」という聖名を名付けられた所を黙想致しました。
本当はイエズス様はその御割礼の時に流された御血だけでも、全人類を贖うには充分だったはずなのに、御受難と十字架上での御死去という、
本当に全人類にとってあまりある贖いの御業をイエズス様とマリア様は成し遂げて下さったのだという事を思いつつ、
一人でも多くの方がその贖いの無限の功徳に信頼して馳せ寄る事ができますように、そしてその臨終の時には、尊きイエズス様の聖名とマリア様とヨゼフ様の御名を唱えつつ、この世を去ることができますように、お祈り致しました。



*****

【参考資料】
聖マリアの汚れないみ心に大阪教区を捧げる祈りをご参考までにご紹介いたします。

聖なるおとめマリア、神の母、「無原罪の聖母」の名のもとに大阪教区を守ってくださる方。あなたの愛する子、イエス・キリストと結ばれ、聖霊の愛に燃やされ、あなたの汚れないみ心に大阪教区を捧げて祈ります。

キリストの体の一員である私たちは、今日(きょう)ここに集い、あなたへの信頼をこめて、私たちの喜びと苦しみ、希望と不安のすべてをあなたに捧げます。

希望の母である聖マリア、善と悪、光と闇との間をさまよいながら歩む私たちを、あなたは母の配慮をもって、いつも見守ってくださいます。苦しみと悩みの中にあっても、ゆるぎない信仰をたもちながら、歩み続けることができるよう、母の手をもって、私たちを支えてください。

平和の元后である聖マリア、家庭と共同体を破壊する怒り、憎しみ、暴力がなくなり、喜びがあふれるよう、私たちを導いてください。教会と世界が平和と希望に満ち、すべての分裂と排除を乗り越えることができるよう、私たちを助けてください。

喜びの源である聖マリア、あなたの汚れないみ心からあふれる愛にうながされて、住む家のない人、貧しい人、故郷こきょうを追われた人、抑圧されている人、私たちの共同体から忘れられている人、社会の不正義に苦しんでいる人を、誰よりも愛するよう、私たちの心を動かしてください。

すべての人々の母である聖マリア、母の胎に宿ったときから死に至るまで、人間のいのちが尊重され、いのちをおびやかすすべての罪を、しりぞけることができますように。結婚と家庭の聖性を守り、すべての人が神の子として成長し天の祖国に至る道を歩むことができるよう、私たちを導いてください。

福音宣教の星である聖マリア、神のみ旨をいつも受け入れる力を、与えてください。私たちが、聖霊のうながしに素直に従う者となり、善と悪を見極め、より良いものを選び、いつでもどこでも熱心に、福音を告げ知らせることができるよう、私たちを励ましてください。

教会の母である聖マリア、私たちに聖性への道を示し、共に歩んでください。あなたの最愛の子に日々近づいていく望みを、私たち一人ひとりの心に、芽生えさせてください。母としてのみ腕に寄りすがり、あなたの汚れないみ心に大阪教区を捧げ、すべてをあなたの最愛の子、私たちの主イエス・キリストにゆだねます。

アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、私たち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。

ビルコック神父様やトマス神父様の来日を歓迎します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ビルコック神父様(聖ピオ十世会)とトマス神父様(イエズス会)がフランスからいらっしゃいました。歓迎します。









レムナント誌のマイケル・マット氏が来日されます

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レムナント誌のマイケル・マット氏がアメリカから来日され、フランス革命についてお話しされます。




枯山水と濡れ枯山水(?)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
初来日のビルコック神父様とトマス神父様をお連れして、観光名所にお連れしました。
龍安寺の石庭 jardin sec、枯山水庭園に行きました。雨が降っていたのでjardin sec mouillé 濡れた枯山水庭園でした。

海遊館にも、濡れた「枯山水庭園」(?)のようなものを発見しました。



天主様の祝福が豊かにありますように!




14 juillet : Revisitons la révolution – Symposium international 国際シンポジウム「フランス革命を見直そう」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

お知らせです。

国際シンポジウム「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」が開催されております。

今日、一日目に参加させて頂きましたが、学術的にとても深い内容で、日本ではよく知られていないフランス革命についての最新の研究が発表され、中身の濃い一日でした。

日本の各地から多くの方々がお集まりになって集中してお話しを伺っておられました。

明日は最終日で、素晴らしい講師の方々が大変貴重なお話をして下さる予定です。

ほとんどが今回そのためにわざわざ日本までお越しくださった方々です。

二日目の最終日の予定
2019年7月14日(主日)午後2時から午後6時半まで

場所:麗澤大学 東京研究センター 新宿アイランドタワー4階(西新宿)

SYMPOSIUM 2e jour:

14h00 mot d'ouverture : Abbe ONODA (FSSPX)

14h05 - 15h00: Prof. Jason Morgan (Univ. Reitaku) : L’indépendance des états-unis : révolution avant la révolution 合衆国の独立:革命の前の革命

15h05 - 16h00: Mr. Michael Matt (The Remnant) Catholics of the Vendee: First Responders Against a Nascent New World Order ヴァンデ地方のカトリック信徒たち:生まれつつある新世界秩序に反対する最初の答え

16h00 - 16h30: intermediaire

16h30 - 17h25: Abbé Billecocq (FSSPX) : Persécution et sainteté sous la révolution ou Relations de l’État et de l’Église de la monarchie du droit divin au concordat de Napoléon en passant par constitution civile du clergé, être suprême et religion civile. 神授君主制から、聖職者民事基本法・至上存在・市民宗教・ナポレオンの政教条約までの革命期における国家と教会との関係 [traducteur: Abbe Onoda]

17h30 - 18h25: Père Jean-François Thomas (S.J.) : "Vandalisme et émergence de l'idée de patrimoine" 文化財破壊と文化遺産概念の発生 [traducteur : Abbe Onoda]

18h30 - 18h45: propos final : Mr. Paul de Lacvivier et Prof. Jason Morgan

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ、ラテン語ミサ)の報告 SSPX JAPAN Traditional Latin Mass in July 2019

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 7月には、色々なイベントが準備されていました。

 今回は、ビルコック神父様(聖ピオ十世会)とトマス神父様(イエズス会)とがフランスから来日され、私たちのために霊的な聖務を果たしてくださいました。二人のお陰で、大阪では平日に12回のミサが捧げられました。東京では荘厳ミサが捧げることができ、サマース神父様のミサも含めると17回のミサが捧げられました。天主様に感謝!

 7月13日と14日には「フランス革命を見直そう」という国際シンポジウムが開かれ、それに参加することが出来ました。

 これについては、また、時を改めて感想を書きたいと思います。特にマリオン・シゴー女史のお話「人民の名によって」がとてもわかりやすく、大きな拍手喝采が送られました。彼女のお陰で最近のフランス革命の研究の成果を知ることができ、リヨンでの虐殺について始めて知りました。

 7月15日には、マーチフォーライフがありました。

 300名ほどの方々が参加し、今回は二名の司教様たちも参加されました。マーチした聖職者は9名でした。台湾からシスターの方々も三名来られて、参加されました。聖ピオ十世会関係では、司祭4名を含めると33名がマーチに参加しました。天主様に感謝!
 東京にあるカトリック教会からは、残念ながら、一部の方々の参加だけでした。

 マーチの前に、ビルコック神父様に霊的な講話をして頂きました。数日前にフランスではヴァンサン・ランベールという無罪の男性が殺害されたばかりだったので、とても現代性のあるお話しでした。

 ヴァンサン・ランベール(Vincent Lambert)さん(42)は、2008年の交通事故で植物状態になってしまいましたが、医学的な治療処置は必要ではなく、ただ、必要なのは、栄養と水分だけでした。両親は子供が栄養を与えられ続けることを望んだのですが、妻がもう嫌だと言い出し、裁判となりました。裁判所が最近、栄養を与えてはいけないという判決を出し(!)、ヴァンサンの命は奪われました。生命維持装置が取り外され、9日目の7月11日に死去しました。罪のない人々の命が、邪魔だから、負担だからという理由で亡き者にされました。

植物状態だった方々の意識が戻った例はあり、最近でもアラブ首長国連邦 (UAE) の女性ムニラ・アブトゥラ(Munira Abdulla)は、1991年に32歳の時、4歳の子供を学校に迎えに行く途中で、交通事故で重傷を受け、脳に重度の損傷を負い植物人間になりました。この子供は母親の世話をし、2019年に、27年後意識を戻しました。
19歳の時交通事故で植物状態になったのですが、2003年、事後の19年後に意識を戻したアメリカ人の Terry Wallis のケースもあります。

しかし、ヴァンサンにはそれが許されませんでした。お母さんのお腹の中の赤ちゃんと同じように邪魔者扱いされ、亡き者にされました。

この続きについては、ビルコック神父様の講話の書き起こしを、ご期待ください。

では、報告をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日7月14日(主日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

9時からの読唱ミサ(小野田神父、トマス神父)の参列者数
男: 6人(内、子供1人)
女: 8人(内、子供1人)
計: 14人(内、子供2人)

10時半からの荘厳ミサ(ビルコック神父、小野田神父、トマス神父)の参列者数
男: 33人(内、子供4人)
女: 31人(内、子供5人)
計: 64人(内、子供9人)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日7月15日(月)海の日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

10時以前の読唱ミサ(ビルコック神父、小野田神父、トマス神父)の参列者数

8時半からの小野田神父の読唱ミサでは:
男: 4人
女: 5人
計: 9人

10時半からの歌ミサ(サマーズ神父)の参列者数
男: 18人(内、子供2人)
女: 16人(内、子供2人)
計: 34人(内、子供4人)


【報告】
Dear Fr Onoda:

According to our count, the following faithful participated from our group:

男性:13名(内、子供2名)
女性:16名(内、子供2名)
合計:29名(内、子供4名)

+

神父:4名

総計:33名

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第五主日のミサをありがとうございました。
フランスからおいでくださったビルコック神父様とイエズス会のトマス神父様、小野田神父様と御三人で荘厳ミサをおささげくださいましてありがとうございます。
ほとんど席が埋まって信者さんでいっぱいになり、もう座る場所がなく、立ち席での方もいらっしゃったようです。ミサが始まってからも幾人もいらっしゃったようです。
はじめて見える方も、久しぶりに見える方も、そして中には前日の国際シンポジウムの会場で見かけた方々も幾人もいらっしゃいました。

フランスの美しい聖堂でいつも厳かにこの伝統的なミサ聖祭を捧げていらっしゃるフランスの神父様たちには、すべてが日本式の古びた貸会場のにわか作りの聖堂が、どんなふうに目に映り、どんな感想を持たれたことでしょう。

丁度、前日当日の午後に行われた“フランス革命を見直そう”というシンポジウムでは、フランスでかつてカトリック信者が大変な酷い迫害を受けた時代があったことを、紹介してくださいました。

フリーメーソンや天主に反抗するような思想などが、少しずつカトリック教会を攻撃し始め、教会のなかにもそのような思想の影響を受けた司祭が入りこむようになり、やがて勃発したフランス革命による策略で自分たちの信じるカトリック信仰を捨て去るよう強要されて、ヴァンダ地方やリヨンの街は、根こそぎやられてしまって、それまでのごく普通の信仰を中心にして営まれていた素朴な生活が奪われるどころか、全市民の命までも失われてしまったこと。フランスの国では、長い間、少なくともフランス革命から数えるのでさえも230年もの間、今も伝統的カトリック信仰を迫害し、悪魔の仕掛けた革命の考えがそそのそうとする別な偽物の信仰と取りかえようとしたり混ぜ込もうとしたりする動きに対して、断固して抵抗し闘い続けているカトリック信者が今もいるということを知らされることは、言葉にできない何かでした。

日本でも、フランスでの例えば観想修道会に対する迫害によってたくさんの修道女がギロチンに架けられて殺されたり国外へ逃亡したりした歴史がある云うことは、知られているようです。

けれどその本来の流れがどこから始まり、どこに続いていて、今のカトリック教会の状況とどのようにつながっているか、日本ではまったく紹介されていない。
ただ過去の歴史の一部分がその部分を切り取られて知らされているに過ぎない。
しかし、その流れが行き着いた先が、第二バチカン公会議後の現代のプロテスタント化され革命の精神によって汚染された教会だと思うのは、行き過ぎなのか?いや、けっしてそうではないと感じました。

フランスでは、今も本当のカトリック信仰のためにまだまだごくわずかの人たちが、働いている。私たちの修道会のビルコック神父様とイエズス会のトマス神父様は、そのような方々の中のお一人のように思いました。

とてもお優しくとても聖なる佇まいの御二人の司祭様達は、そのような歴史を鳥瞰する大きな視野をお持ちの方々なのだと感じました。

こういったことの状況はあまりにも大変で、それも本当にあった出来事がことごとく隠蔽されちゃんとしたことが伝わってきていないことを、感じました。
私は今受けている衝撃の大きさを、把握することもできないまま、ただ呆然としているように思います。

日本の聖ピオ十世会も、まったくカトリック教会の内側からの攻撃の中にあるかのようだと思いました。それは、そのフランスの国で230年以上前から戦わなければならなかった信仰を守るための戦いと、本質的に同じ路線の上にあるのかもしれません。

そのことは、いま聖ピオ十世会に普段見えている信者にすら見えていないかもしれません。(当然といえば当然ですけれど。)私たち信者は、ごく普通の凡人ばかりなので、聖伝のミサに与りたいと思ってこられた方が、聖伝のミサにある本当のカトリック信仰だけに目を向けるようにされて、みじめな信者のふるまいなどに目を向けませんようにと願ってしまいます。けれども大切な聖なる御ミサを汚すような信者のふるまいは、よくよく注意してなければならないのに、今の状態はよくわからない有様です。私は、聖ピオ十世会のミサに与りに来ている信者の方々も、フリーメーソン・革命・プロテスタント主義の影響を受けることを避けられないでいる状況の中で生きなければならないでいることを思います。私たちは聖なるミサをもっと大切にすることの意味をもっと考えて実行しなければならないと思いました。押し寄せるサタンの力に抵抗するために、どうしても必要だからです。

ビルコック神父様とイエズス会のトマス神父様は、おそらく想像もつかないような御忍耐を、このような私たちに対してなさってくださったのだと思います。素晴らしい神父様にお会いできその御ミサにあずからせていただいて、心から天主様に感謝申し上げます。ただそこにおられるだけで、何か日常とは異なる何か感じられますことは、小野田神父様と同じです。この現代の日本で、フランス人二人と日本人の司祭による、それもお一人はカトリック信仰を最初に日本に宣教したイエズス会の司祭によって、聖伝のラテン語による背面の荘厳ミサが、この混迷を極めている2019年に、東京で捧げられていることは、とても意味深く有難く感動する出来事に思いました。

私は、ご一緒させていただいた時間のなかで、お二人のフランス人の神父様がずっと日本にいてくださって、小野田神父様とご一緒にいつも御ミサを立ててくださるような錯覚を覚えてしまいました。まことにまことにありがとうございます。

至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え
聖母の汚れなき御心、我らのために祈り給え
日本の殉教者、我らのために祈り給え
聖マリアの汚れなき御心のうちに

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

7月7日のレポートを送らせていただきます。

聖霊降臨後第四の主日のミサをありがとうございました。
私たちの乗っている舟が一体どういった舟であるか、カトリック教会という箱舟は、いったいどういうものなのか、はっきりとしたお話によって、知ったように思います。また本当の愛徳の行為とはどういうことかというお話も強く心に残っております。お説教がとても力強く感動してちょっぴり涙ぐんでしまいました。

私達は、教皇様のために、いつも必ずミサの後に「ミサの後の祈り」をさせていただいております。
歴代の教皇様たちが、どのようにこのカトリック教会を定義されていたかというと、カトリック教会はイエズス様が唯一の救いの箱舟としてこの地上に設立されたのであり、このペトロの舟に入ることで救われる、と定められたものだとのお話でした。

小野田神父様が日本で宣教を始められてから26年、いよいよ日本に設立される修道院から舟をこぎ出して日本各地にて網を投げかけようとするその決意が込められているように、お説教は私の胸に響いてまいりました。 遠くマニラの修道院からではなく、この日本の真ん中に置かれる修道院から舟を出すこともすぐ間近になってきました。この日は、途中からも椅子を出すほどで、聖堂はいっぱいになりました。まさに、沖に漕ぎ出せと宣言する小野田神父様を祝福してくださるようなマリア様からのお恵みと思いました。

ペトロの舟に乗る者は昆虫でも獣でも動物でも人間でも何でもよい、救われるためただこの舟に乗ればよいのですと言われた時、本当に私のようなものでもカトリックの舟に乗せていただいていることへの感謝でいっぱいになりました。罪深いものである私を憐れんでくださいますように、どうか最後まで堅忍して償いを果たしカトリックの舟に乗っていることのできますようにと祈りました。

それと前日から祈っていたことですが、遠い所にお住まいでなかなか機会がない方たちにもこのミサの恵みが届けられますようにと一生懸命お祈りいたしました。私自身何の功徳もないものなのに、イエズス様の十字架上のいけにえの再現によりその御血がもう一度霊的に流される聖伝のミサに与らせていただいています。天主様からの愛が私たちの上に降り注がれるこの聖伝のミサが、もっと受け入れられますように。もしも、日本の各地からこの聖伝のミサを立てていただきたいと連絡が届きますなら、神父様はきっとすぐ沖に漕ぎ出しますことでしょう。

神父様は、叙階後すぐ日本にて聖伝のミサを挙行されるため尽力はじめたようですが、様々な誤解や中傷などによって思うように各地で継続的にミサを捧げることが難しかったと人づてに伝え聞いたことがあります。聖伝のミサに対する酷いバッシングがあり、今もそれが続いていることを感じます。

今、カトリックのミサというのはこの対面式の日本語で捧げられるミサしかないと思っている人がほとんどと思います。もしかしたら二千年前からノブスオルドミサが捧げられてきているとうっかり勘違いしがちになるやもしれません。少し前のミサがどのようなものであったかさえまったく知らされることがなく、全てがかき消され自然風化するにまかせ、カトリック教会の歴史が歪められているかのような異様な様相に、深く心を痛める者の一人です。数十年の長い年月、軒下に追いやられてしまってほとんど顧みられることのなくなったとしても、カトリック教会には“教皇様によって聖別されたミサ”が今もあることに気づいていただきたいと思います。なぜ聖伝のミサが、陰湿さをもってタブー視されるのか、その理由をよく考えてみなければならないと思います。

私の個人的な想いとしてなのですが、しっかりした事実を知らないまま、カトリック教会がなにであるかを知ろうとしても、無理があるように思います。(しっかりとしたペトロの船に乗ったことにならないのではないかとの意味。)

というのは、過去を封印しようとしているその裏には、プロテスタントとフリーメーソン(秘密結社)によって教会が破壊されようとしている事実が隠されていると知るようになってきたからです。すでに膿(うみ)をもって病んでいても、決して患部を切開してその傷を癒そうとせずに、口を閉ざす姿であってはなりません。明確な理由とか、正当な判断とかではなく、捏造することでしか、その病を隠すことができないのは、大変なことと思います。それゆえに、自分でも自分が何者であるかをわからなくなるほどの混乱に陥ってしまい、変更されるはずのないような教義がいじられようとされても、それがどうしてよくないかさえも判別ができなくなっているのならば、悲しみをおぼえずにいられません。私は、衆愚・暗愚という言葉がけっしてカトリックの内部を表現するものではないと信じたいのです。私達カトリック教徒は誰もがみんな真剣に私たちの霊的母親であるマリア様に寄り縋り祈っているからです。

判断の基準となるところが崩壊している様相を見せる現代社会では、いったいどうしたら、真のキリストの教えにたどり着けるでしょうか。

小野田神父様が、その救いの箱舟はカトリック教会であると話された時、それは「二千年続くカトリック教会全体の重みと実体」を証言されたのであり、「ここ数十年の変遷をたどるカトリック教会の状況でのこと」ではないとわかりました。

私達は、カトリック教会全体を正しく見る目を持つ導き手に、導かれなければならないのではと思います。過去を正しくとらえることを拒否したままでは、無理でしょう。ここ数十年だけの変化しようとするカトリック教会だけの姿を述べ伝えようとしても、その深い底流に流れている大きな聖なる恵みにまで容易にたどり着けるでしょうか。乾いた表土が舞いたてる埃が、信徒の眼を曇らせ悩ませるだけかもしれません。(高じれば信徒が司祭の指導もないままに勝手な解釈などしますでしょう。)、現代が蒙っている病(革命とフリーメーソンと近代主義)に侵されていない健全な神学によって培われたペテロの舟の漕ぎ手・導き手が、本当の愛徳をもって日本のどこでも宣教される時代が来ることを強く望んでお祈りいたします。

(この数十年の間にカトリック教会とプロテスタント教会の間にはどれほどの近似点が生じるようになったことでしょう。もしプロテスタントの理論を取り入れてしまえば、それはもうカトリック教会ではありません。これまでの聖人たちが、強く攻撃すべきものとしてどれほど霊的な戦いを戦ってきたことでしょう。)

もし仮に、救いの港まで到達しないような舟に乗ってしまっていると感じるなら、誰でもちゃんとしっかりした舟に乗らなければなりません、マリア様のおっしゃられるように自分の責任でその舟に乗らなければならない時が来ているのでしょうから。

この聖ピオ十世会の修道会の司祭様達は、二千年の間変わらずカトリック教会を司牧してきたそのやり方のままを学んで司祭になられた神父様達ですので、こここそは確かな箱舟の一つであるに違いないと思います。

無学なものであるのにこんなに長い感想ではご迷惑ではないかと心配しつつ、書いてしまいました。すみません。使徒継承から続いている救いの舟、ペトロの舟に乗ることができましたので、迷うことなく信心の生活に励み、罪の償いをいたし、イエズス様とマリア様と聖ヨゼフ様により頼んで、祈りたいと思います。

どうか、十字架上のイエズス様に向かって捧げられる、イエズスさまの犠牲の再現により私たちの罪の赦しのために捧げられる、この背面式のラテン語のミサのほうが、世界中で初めから長い間捧げられてきているものだということが、知られるようになりますように。決して禁止されているものではないということが、知られるようになりますように。日本のカトリック教会で、ラテン語の背面式のミサを、信徒が望むならばどの教会でも捧げることができるようになりますように。

またこの日は続いて、ご聖体降福式のなかで「日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り」を更新してくださいました。

神父様はこの長文の祈りを一気に奉献してくださいました。すごい迫力で感動いたしました。一緒に一所懸命にお祈りいたしました。お友達は、このお祈りはマリア様と日本の初めからの関係がとてもしっかりと表現されていて素晴らしいお祈りの文章に感激しました、自宅でも時間があったらこの奉献文でお祈りしたいと話されていました。

大阪ではずっとこのようなお祈りを聖母行列とともにマリア様にお捧げしてこられて、どれほどマリア様は大阪教区のために恵みを取り次いでくださっていることでしょう。大阪に倣って、東京でも少しでも熱心にこの「日本を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り」を唱える機会が増えますようと思います。東京教区、さいたま教区、横浜教区でも、それぞれ私たちの教区を聖母の汚れなき御心に奉献していただけるよう、祈ることができるようにと思います。教皇様が来日されました時は、どうか日本の司教団全員でこの日本を聖母の汚れなき御心に奉献してくださいますように、心からお祈り申し上げます。

この日は二人の可愛い男の子の洗礼式が行われました。ペトロの舟に乗れたことの意味がまだ分からない小さな子も、しっかりしたお兄ちゃんと優しいお父さんの敬虔な祈りによって、きっと良きカトリック信者に成長されますことでしょう。私もしっかりと祈らせていただきます。

童貞聖マリアの無原罪の御心よ、我らのために祈り給え!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(^O^)/

今日産みの日は、マーチ・フォー・ライフの日でしたね!

今年は鹿児島の司教様と、大阪の司教様もマーチに参加して下るのですね!

小野田神父様とサマース神父様とビルコック神父様とトマス神父様と4名の神父様方がマーチに参加して下さって、去年よりも多い神父様方が参加して下さったのではないかと、とても嬉しく思います!

デオ・グラチアス!ファチマのマリア様に感謝!

そして拙いながらも私もその時間にロザリオを唱えさせて頂き、霊的に参加させて頂きました。

 東京国立博物館にあったミサのお道具

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ビルコック神父様とトマス神父様とをお連れして、東京をお見せしました。
上野にある東京国立博物館には、こんなミサのお道具がありました。ご紹介いたします。
ミサ典書を置く台




祭壇に飾る十字架像


これはカリス入れ?に似ていますね。


これはミサのお道具入れ?勝手な想像です。









天主様の祝福が皆様の上に豊かにありますように!







聖ピオ十世会 聖伝の荘厳ミサ SSPX JAPAN Solemn High Mass, Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
7月14日(主日)には、荘厳ミサが挙行されました。その時の写真をご紹介いたします。












天主様の祝福が豊かにありますように!







「御聖体の内に真に在し給うイエズスの御前で、讃美と感謝と礼拝」2019年6月22日(土)御聖体降福式にて

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「御聖体の内に真に在し給うイエズスの御前で、讃美と感謝と礼拝」

(2019年6月22日(土)御聖体降福式にて 小野田神父)

御聖体の内に真に在し給うイエズスの御前で、讃美と感謝と礼拝を御捧げ致します。

特に多くの聖なる召命が与えられますように、日本のカトリック教会と世界のカトリック教会を指導する、聖なる、学識深い、イエズス様の愛に満ちた、多くの聖なる司祭たちが与えられますように。

来週は大阪で、世界の指導者たちが集まりますが、彼らが、イエズス様の指導の声に耳を傾けますように、イエズス様の無い世界では、平和も、繁栄も、本当の幸福も無いという事を、この指導者たちが理解して、イエズス様の声に耳を傾けますように。聖母の汚れなき御心の中に、この指導者たちが、真の光を見出しますように、聖母の汚れなき御心に近付きますように。

ファチマの天使が教えた2番目の祈りを3回、唱えましょう。

2019年6月22日(土)証聖者司教聖パウリーノのミサ : 私たちに最も必要な司祭であって、イエズス様が求めておられる司祭

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2019年6月22日(土)証聖者司教聖パウリーノのミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年6月22日、ノラの聖パウリーノの司教証聖者のミサを捧げています。

このミサの後で御聖体降福式を行ないたいと思っています。特に日本から聖なる司祭、修道者がたくさん与えられますように、たくさん出てきますように、その二つの御恵みを乞い求めます。イエズス様の事を多くの方が知る事ができますように、イエズス様のブドウ畑で働く多くの人を送って下さいますように、御聖体降福式を、簡単ですけれども行ないます。

7月は御ミサが何回か増えるようになっています。それについては会長様から連絡が来てあると思います。インターネットでもお知らせします。

7月は外国から、特にフランスからビルコック神父様、それからイエズス会のトマス神父様(この神父様はフランスで唯一聖伝のミサを捧げておられる聖ピオ十世会のお友達の神父様です。)が来られて、日本でミサを挙げて下さいます、3人の司祭がミサを捧げる予定です。サマーズ神父様もいらっしゃいます。少しミサが増える事になります。ご招待致します。



「聖パウリーノ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はサマーズ神父様の叙階の記念日です。サマース神父様の為にもお祈り下さい。

今日は聖パウリーノの祝日ですから、
⑴この聖パウリーノという方がどのような方であったのかという事を黙想して、
⑵そして私たちに一体何を教えているのか、という事を一緒に黙想致しましょう。


⑴ノラの聖パウリーノという司教様は、聖アンブロジオとか聖アウグスチノと同じ時代に生きた一人です。431年6月22日、今日、亡くなりました。聖パウリーノのお墓はローマにありますけれども、その聖遺物は聖ピオ十世によってノラに移動されました。

今日のミサで使われている集祷文は、特に聖ピオ十世教皇様がご自分でお作りになった集祷文です、「願わくは、聖パウリーノの跡を慕って、それを私たちが、地上のものを軽蔑して、天のものだけを愛する事ができますように」と。

では、聖パウリーノというのは一体どのような方だったのでしょうか?

聖パウリーノは元々の名前は、ポンティウス・メロピウス・アニチウス・パウリヌス Pontius Meropius Anicus Paulinus という名前で、昔はガリアと言われていましたが、そのボルドで353年に、とても高貴な家に生まれました。

若い時から天国を学ぶ機会が与えられて、特に有名だった会うそうですという詩人の、文才で高い有名な詩人アウソニウス Ausonius について勉強しました。若い時から非常に優秀で、とても良い人柄で、そして自分の出世とこの世での成功の為に、自分の故郷ボルドを離れて元老院の元老となって、最後にはコンサルトという死生観ともなって、ローマの高い地位に若い時から就いて、そして遂にはカンパニアという地方の地方総督となりました。

そして自分の家をノラというそのカンパニアの所に居を構えて、そして総督としてその地を治めていました。若い時から、まだ年が若かったにも関わらず、彼の賢明さと、統治の上手さ、そして学識、そして人の良さ、そしてその柔和さによって、多くの人々がパウリーノの事を非常に尊敬して、そして慕っていました。

ノラには殉教者聖フェリックスという人の聖地がありました。そしてその聖地に、フェリックスを慕って巡礼する多くのキリスト教徒たちがいました。パウリーノはキリスト教徒ではありませんでした、世俗の総督で、ただしかし巡礼者が一生懸命、貧しい人も色んな人々がその聖フェリックスの巡礼地に、お墓に巡礼に行くのを見て、心を打たれて、何とかしてその自分の公共の立場から、皆の善を考える事から、何とかして彼らの為に、安全に巡礼する事ができるように、危険から守ってあげたいと思いました。

そこで巡礼者が泊まる所ができるように、巡礼の宿を造ったり、あるいは巡礼者が安全に巡礼地に、聖フェリックスのお墓に辿り着く事ができるように道を整えたり、公共投資をしました。心を砕きました。

そのような事はもちろん多くのキリスト教信者の心を打ったのですけれども、イエズス様の心も打ったに違いありません。なぜかというと、パウリーノはそのような親切をすると同時に、自分が天国への巡礼の道を整える事になっていたという事になるからです。ますますキリスト教について関心を持って、「一体キリストとは誰なのか?なぜこの人たちは殉教したのか?何を信じているのか?」と自問します。深く知りたいと思うようになりました。

そして色々な政治的な状況もあって、その当時有名だった聖アンブロシウス、彼もやはり回心した、そして高貴な出身の司教様でしたけれども、聖アンブロシウスとも親しくなったり、そして遂には辿り着いた結果は、「キリストのいない人間というのは、キリストを持っていない人間というのは、ただの塵、ただの影にすぎない、価値がない。」

そして自分の持っていた地位を全て捨てて、ミラノに行きました。ミラノに行って、聖アンブロジオの元で、「キリストの事をもっと深く勉強したい」と来ました。その後には自分の故郷であったボルドーに帰って、ボルドーで洗礼を受けました。ボルドーで洗礼を受けた後に、実は「これからはキリスト教徒として生きよう」と「生活しよう」と思って、そしてキリスト教の女性と結婚します。そして子供ももうけます。しかし、子供は小さな内に亡くなってしまいます。「天主様の御旨は別のところにある」という事が分かりました。

「この世の幸せを求める事ではなく、天国の幸せを求める」という事を追求した聖パウリーノは、妻と同意の下で、「二人で、これからは結婚生活ではなく、貞潔を守って修道生活を送ろう」と決心します。そして「自分に信仰の芽生えを与えてくれた聖フェリックスのお墓の元で、修道者として生活しよう」と、ボルドーからノラに戻ってきます。

そして聖フィリックスの元で、そのお墓の番をしながら、修道生活、修道士として、清貧と祈りの生活をし始めます。その当時、やはり同時代の知識人であった聖アウグスチヌスとも友達になります。ところが聖パウリーノは目を失明してしまいます。そして失明をするのですけれども、しかし有名なトゥールの聖マルチーノによって、目がそれを癒されます。イエズス様のその特別のその御恵みを以て、聖パウリーノはスペインに行きます。そしてスペインで司祭に叙階されます。

実は司祭になるのは、「それの事は私にはふさわしくない」と拒んだのですけれども、「是非!」と言われて、そして司祭となり、そしてノラに戻ってきます。そしてノラの司教様に409年任命されます。

ノラの司教として、今度は総督ではなく司教として、ノラの人たちに霊的な善を施そうと一生懸命になります。その当時はヨーロッパは非常に不安定でした。ローマ帝国は違法の移民族から多くの侵略を受けていました。多くの蛮族がローマ帝国の中に侵略してきて、多くの破壊行為をしたり、侵略をしたり、略奪をしたり、その恐ろしさ、その残酷さ、その酷さは、歴史家もあまりにも酷かったので、あまりにも恐ろしい光景だったので、その詳しい事を私たちに残す事さえもできないほどでした。

ヴァンダル族が、野蛮な民族たちがやはりノラにもやって来て、そして破壊行為を繰り返して略奪をしていた時にも関わらず、ノラでは聖パウリーノは出来る限りの事をして、自分の持っている財産を使って、貧しい人たちを養う食べ物を与えたり、看護をして力を尽くしました。ある時には子供を失った、ヴァンダル族に捕らえられてしまった未亡人がやってきて、司教様に、「子供が捕まえられました。そしてその身代金を要求されています。助けて下さい」と言った時、ノラの聖パウリーノは、もはやその時には自分の持てるのものは自分の体しかありませんでした。そしてその子供に支払う身代金を払う事ができなかったので、自分が身代わりになったほどでした。

天主様の特別の奇跡的な助けによって、牢獄に入れられた、そして奴隷となってしまった司教様ですけれども、何とか逃れる事ができて、そしてまたノラに戻ってきました。

これを見ると、どれほど聖パウリーノが天主を愛するが為に、この地上のものを軽蔑して、そして天主を愛するが為に隣人を自分の事か愛していたか、何とかしようとして自分の持てるものを全て使っていたか、という事が分かります。まさにイエズス様のようでもありました。

こうして78歳の時に、431年今日、6月22日に、霊魂をイエズス様の元に返して、司教としてお亡くなりになりました。

⑵この司教様聖パウリーノは、私たちに何を教えているでしょうか?

「私たちに愛すべきものはたった一つしかない。イエズス・キリストであって、天の事であって、私たちの永遠の命であって、私たちの究極の目的であるその4つの事に集中しなければならない。そしてそれ以外の事は全く塵芥であって、天国に向かう為の手段にしか過ぎない。」

「もしもそれがなかったら、キリストがない人間というのは全く塵であって、影にしか過ぎない。あっという間に消えてしまう影法師に過ぎない。永久の変わらないものを追求しなければならない。それはイエズス・キリストであって、天国であって、永遠の命である。」それを私たちに教えています。

ノラの聖パウリーノの生涯は私たちに、「司祭とは、あるいは司教様とはどのようなものでなければならないか」と教えていると私には思いました。

「清貧の精神、イエズス・キリストを愛するその愛の精神、イエズス・キリストのみを追求する司祭、このような司祭こそが私たちに最も必要な司祭であって、イエズス様が求めておられる司祭である。」

「このような司祭こそが、この物質に囲まれた世界において、この世の快楽とこの世を愛する事だけしか考えないように宣伝されているこの世界において、若い人々もおろし付きつけて、『イエズス・キリストの為に自分の全てを捨てて従いたい』と思わせるそのような模範、そのような聖なる司祭がカトリック教会に必要だ」という事を教えていると思います。

後で6月は聖ピオ十世会では多くの神学校で、聖ピオ十世会の神学校では多くの司祭が叙階されます。スイス・ドイツ・アメリカ、この新司祭たちがノラの聖パウリーノのような司祭になりますように、そして多くの若者たちが、特に日本の若者たちが、そのような司祭を目指して惹きつけられますように、イエズス・キリストに惹きつけられますように、特にお祈り致しましょう。

「聖パウリーノ、我らの為に祈り給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2019年6月30日(主日)聖霊降臨後第3主日 至聖なるイエズスの聖心の荘厳祭 ラファエル・デュ・シャゾ神父様御説教

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2019年6月30日(主日)聖霊降臨後第3主日 至聖なるイエズスの聖心の荘厳祭
ラファエル・デュ・シャゾ神父様御説教
同時通訳:東京信徒会長


【東京信徒会長】
今日はラファエル・デュ・シャゾ神父様が初めていらして頂いています。
それで、今日の御ミサの後に聖体降福式があります。いつものようにミサの後の祈りをした後に、聖体降福式があります。

聖体降福式の最後に、先ほどお配りしたかと思いますけれども、聖心の祝日に当たる今日はそれをお祝いしていますので、「人類の忘恩に対する償いの祈り」というのを行ないます。

それからそのミサの後ですけれども、お昼ご飯を食べた後、霊的講話があります。そしてその後晩課があります。

神父様は今日この後成田空港にいらっしゃる予定です、明日のミサはございません。

それから来週の日曜日主日は、主日のミサ、小野田神父様がいらっしゃるので通常通りあります。


【ラファエル・デュ・シャゾ神父様】
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

この今日の福音に出てきますけれども、イエズス様の胸を突いたこの槍ですけれども、これは戦いに使われた物で、色々たくさんの敵を殺す為に使われてきた槍だと思います。

しかしこの金曜日、聖金曜日ですが、この兵士がイエズス様の胸を刺したこの槍というのは、今回は死をもたらす為ではなくて、たくさんの人に生命、命をもたらす為の槍です。

槍というのはこれは武器ですけれども、今日はこの事を考えるのが非常に大事だと思います。この槍というのは、天主様がずっと永遠の昔から予定されておられたもので、その天主様の心を私たちに開く為にずっと準備しておられたものなのです。

皆さんご存じの通り、十字架というのは、これは拷問の為の道具でありました。イエズス様がその十字架の、拷問の為の道具に架けられたのですけれども、イエズス様が架けられた事によって、これは生命の木となりました。

同じように、この槍というのは元々武器でありまして、人を殺す為にあったものですけれども、それがイエズス様に刺される事によって、この槍が、天主様の用意されたその愛を私たちに与える道具と変わりました。

天主様はこの槍というのを私たちにお見せになったというのは、2つ理由があると思います。

まず1つは、天主様の愛です。聖ヨハネの福音にあります通り、天主様というのは愛でありますし、それを私たちにお見せになる為に、この槍を突かれて、胸が開かれて、その動いている、胸が鳴っている胸をお見せになるという事によって、愛を私たちにお見せになりました。

天主様がなさる事というのは、天主様がどういう御方であるかというのを示しています。ですからこの場合、この単なる武器という物をお使いになったのですけれども、武器というのをお使いになって、天主様の聖心を見せて下さるという事で、天主様が愛であるという事を私たちにお見せ下さったという事です。

天主様の愛というのは、もうそれ自体で満たされたものですので、誰かがそれを愛さなければいけないという事はありません。もう愛で満ちていますので、例えば私たちを創造して下さった、この世界を創造して下さった、という事は、天主様の愛自体が天主様から流れ出ている、という事です。

「愛」というのは、人々を結び付けるものです。しかし私たちは天主の愛から離れ離れになっている人間ですから、この離れ離れになった人間を天主の愛の元に戻さなくてはいけません。ですからこの十字架、槍で刺されたというこの事は、私たちをその天主の命の元に戻す、という方法でありました。

天主様が、この人となられたイエズス様の聖心を見せて下さったというのは、私たちが人間だからです。私たちが人間として、その人間である天主の聖心を見て、その天主様の愛にお応えする事ができるように、というのがその根拠です。

聖ヨハネは、福音にありますけれども、「イエズス様の聖心が開くのを見た」と言って、そして「そこから血と水が流れ出たのを見た」と書かれています。

私たちもこのヨハネのようにならなくてはいけません。天主の聖心から、血と水が出ているのを見る人にならなくてはいけません。

天主様の計画というのは、私たちを創造されて、そしてイエズス様がこの世に体を取っていらっしゃって、私たちを贖って下さった、この全ての計画は、天主様の愛から出ています。そしてその兵士がイエズス様を刺したのですけれども、その後回心したように、私たちも同じように回心しなくてはいけません。それは、イエズス様の聖心から出てきた水と血に洗われて、回心しなくてはいけません。

皆さんご存知の通り、ミサというのは、この天主様の犠牲の繰り返しであります。ですからその実りを私たちが受ける為には、その犠牲が行なわれているという事は、天主様の聖心が開かれているという事ですから、私たちも聖ヨハネと同じように、その聖心を見て信じる事です。それから先ほど申しましたように、その兵士のように、私たちの全ての罪から血と水で洗われるという事が必要です。

今日は私たちは、イエズス様のその開かれた聖心を見ているわけですが、私たちはこの開かれた聖心を見たヨハネ、一人一人が聖ヨハネにならなくてはいけません。そして私たちの心をも開くことが重要です。

パウロが“Credidimus Caritati”「私たちは天主の愛を信じた」と言いますが、このローマの兵士のように、私たちも犯した罪から回心する事が重要です。

天主様は、この聖心を見せて下さるというのに、非常に力強い、またその痛ましい方法で、私たちに天主様の愛を見せて下さいました。そして私たちも天主様に自分の心を開いて、これをお返ししなくてはいけません。そして先ほど申しましたように、天主様がこの世をお創りになって、この世にいらっしゃって、私たちを贖って下さったという計画の後ろにあるのは全て、愛からです。

ですから、私たちもそれを真似て、同じように愛徳から行動しなくてはいけません。私たちも自分の心を開いて、自分の隣人に同じように愛徳の行ないをしなくてはいけません。

最後に2つ述べたいと思います。

この槍というのは、先ほど申しましたように、単なる兵士の武器であります。しかしながら、天主様の愛によって、この武器というものが私たちを天国に導くいわば種となりました。ですから、私たちも日頃色んな事をするわけですが、どんな小さい事をしても、それが天主様への愛徳の道具となるようにしなくてはいけません。

それからもう1つ、イエズス様の聖心から流れ出した御血というのは、特に今日私たちはこの聖心の祝日を祝っておりますけれども、御ミサの時にカリスの中に流れ込むのが、その槍にて貫かれたイエズス様の聖心から流れ出た、私たちを浄める御血そのものです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

御聖体の荘厳祭が今、日本におけるカトリック教会においてどれほど重要で、必要か、御聖体を讃美し礼拝する事がどれほどイエズスの聖心に適う事か

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2019年6月23日(主日)聖霊降臨後第2主日のミサ 御聖体の荘厳祭
小野田神父 説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年6月23日、御聖体の荘厳祭を行なっております。

今日この御ミサの終わりから、御聖体降福式が始まります。

その後、いつもの通りに感謝の祈りをした後に、今日は生まれたばかりのペトロ君とパウロ君の洗礼式があります。どうぞお祈り下さい。それから代父の方が発起人となってここで小さなパーティーを開催したいという事ですので、皆さん時間がありましたらどうぞお出で下さい。

15時から晩課があります。

明日は、洗者聖ヨハネの祝日で朝7時からミサがあります。

次のミサは6月30日、来週です。シャゾ神父様がここでミサを捧げて下さるとの事です。来週は特にイエズス様の聖心の荘厳祭、御聖体降福式も兼ねて行なう予定です。
午後にはドゥ・シャゾ神父様からの霊的講話も、晩課も予定されています。いらして下さい。

来月はミサが3回あります。第1・第2・第3です。特に第2主日の場合には、ここで荘厳ミサが行なわれます。神父様がフランスから2名来て下さいます。

7月13日と14日には、フランス革命230周年をもう一度見直そうという事で、フランスからあるいはアメリカから有名な先生たちが日本にいらして、シンポジウムがあります。どうぞ皆さんいらして下さい。

サマース神父様もいらして下さいます。7月15日は海の日ですけれども、私たちは今年もこの海(産み)の日のマーチ・フォー・ライフに参加する予定です。マイケル・マットさんが、あるいはサマース神父様や、フランス人の神父様たちも参加する予定です。

鹿児島や、大阪からも司教様たちもいらして「一緒に歩く」という事になったそうです。皆さんもいらして下さい。


「私の肉は真の食べ物であり、私の血は真の飲み物である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は御聖体の荘厳祭をしております。

この御聖体の荘厳祭が今、日本におけるカトリック教会においてどれほど重要で、どれほど必要とされているか、そして今日皆さんがこのミサに与って、御聖体を讃美して、礼拝している、という事がどれほどイエズス様の聖心に適う事か、という事を是非今日は知って頂きたいと思っています。

今日この黙想のテーマは、「天主様が一体、何を御聖体に対してする事を望んでおられるのか?」「御聖体とは一体何なのか?」「そして私たちは何をしなければならないのか?」という事を、皆さんが「あぁ、そうだったのか!」という事をはっきり目に見て下さる事です。

もしも御聖体に対して私たちがしなければならない事がますます分かれば分かるほど、この私の話は、その願ったものに到達する事になります。

御聖体に対しては色んな話があります。御聖体の奇跡。御聖体の制定。なぜ制定されたのか。また御聖体のこの祝日の制定がなぜなのか。しかし今回は、100年前の現代の話に絞らせて下さい。

皆さんもご存知の通り、私たちも何度も黙想した通り、1916年秋、ファチマで、御聖体の天使が3回目に、子供たちに現れました。超自然の雰囲気でした。

風の強い音が聞こえたかと思うと、子供たちは綺麗な、水晶のように綺麗な天使を、青年のような天使を、美しい姿を見ました。この天使は今度は、左手にカリスを持っていました。カリスの上には御聖体がありました。

天使はそうやって御聖体と御血を持って現れて、一体何をするかというと、それを空中に浮かせたまま、跪きました。跪いたばかりでありません、額ずきました。額を地面にスレスレに付けて押し付けて、御聖体を礼拝しました。

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る。世界中の全ての御聖櫃のうちにましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂と御神性を、イエズス・キリスト御自身が受け給う侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身に捧げ奉る。イエズス・キリストの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳によりて、あわれな罪人の回心を御身に願い奉る。」

3回唱えました。

その後天使は立ち上がって、御血を取りカリスを取り、御聖体を右手で取って、子供たちに、「イエズス・キリストの御体と御血を礼拝しなさい、拝領しなさい。忘恩の人々によって、これほど恐ろしくも侮辱されている、御体と御血を礼拝し、拝領しなさい」と言って、聖体拝領させました。

ルチアには御聖体を。なぜかというと、初聖体をしていたから。

しかしまだ初聖体をしていなかったジャシンタとフランシスコには、御血を少し飲ませました。

「彼らの、忘恩の人々の罪を償い、そして汝らの天主を慰めなさい。」そう言うと、もう一度跪いて、額ずいて、額を地面に押し付けて、同じ祈りを3度繰り返します。超自然の雰囲気でした。

子供たちも天使と同じ事をしました。子供たちは天使がいなくなっても、同じ姿勢をずっと取り続けて、何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、繰り返して同じ祈りを捧げていました。

私たちが御聖体の荘厳祭に何をしなければならないか、という事はここにはっきりと分かります。

このファチマの天使は、カトリックの真理をはっきりと教えてくれます。模範を示してくれています。態度で、どうしなければならないかを教えています。

まずこのカトリックの印というのは、この真理というのは、今現代残念ながら、エキュメニズムとか、あるいは「心の問題で、自由だ」とか、「キリスト教の色んな意見がある。対話をしなければならない」という、「虹の、レインボーの意見があって良いんじゃないか」という態度によって、全くかき消されるか、あるいは迫害されている真理です。否定されている、暗黙の内に否定されて、それを信じ続けていると攻撃されて、罰せられる真理です。

どのような真理かというと、3つあります。

1つは、「御聖体に、私たちの主イエズス・キリストが真に現存している」という真理です。

私たちがどうしようと、賛成しようとしまいと、そう思おうと思わないが、現実に、客観的に、そうである真理です。イエズス・キリストは真に御聖体の内に在し、私たちの内に留まり給うのです。

ファチマの天使はその事を、トリエント公会議の表現を使って言いました。世界中の全ての御聖櫃の内に真に在し給う御体、御血、御霊魂、御神性、人間性、人間の本性を全て、天主性を全て備えたまま、イエズス・キリスト様は真に世界中の全てのカトリックの聖櫃の内に在し給うのです。

ここに在し給うのは、真の天主です。この全世界を支配して、この全世界に全自然界に命令を下す、最高の主権者です。

私たち人間と一位の天使とでも比べれば、もちろん天使の方がはるかに崇高で偉大で力があります。純粋の霊ですから。その天使が、自分は全く塵芥にすぎないかのように跪いたのみならず、額ずいて、その御聖体に在す天主を震えおののいて礼拝している。

教会には3つの段階があります。
「凱旋の教会」天国にいる全ての天使たちと聖人たちが集まっている教会。
「戦闘の教会」地上の教会。私たちの事です。
「苦しむ教会」煉獄で罪を償う為に今苦しんでいるその霊魂たち。

凱旋の教会、全ての天使と聖人たちは総に集まって、跪いて額ずいて、イエズス様を天主として、御聖体を礼拝しています。「これこそが正しい態度である」と私たちに見せています。

「跪け。礼拝せよ。感謝せよ。イエズス様はこれほども苦しんでおられるのだ。真の天主がここに在すのだ。控え控え!」と。


第2は、「御聖体とカリスが現れた」という事です。つまり「御体と御血が分離している」という事で、「イエズス様は屠られている」という事です。

つまり「ミサというのは、イエズス様の十字架のいけにえの再現であって、私たちのその目の前で、現実に、もう一度再現されている事である事」というカトリックの真理です。

ミサいうのは、面白おかしい食事会ではないのです。兄弟の、天主の民の集いではありません。集会ではありません。もちろん人々はそれに参与しますけれども、しかし本質は、「十字架のいけにえのその再現」にあります。罪の償いの為に、イエズス・キリストが御自分の命と、御体、御血を、天主聖父に捧げる事にあります。ここにミサの本質があって、それが御聖体によって表されています。

そこで天使はそれを礼拝します。その神秘を礼拝します。イエズス・キリストのその無限の愛、贖いの愛、私たちの為に御自分を全て与え尽くしたその愛、このイエズス様の苦しみに感謝して、礼拝します。

人間の為にこれほど血を流されて命を捧げられたイエズス様に、天使が、天使は自分の為にはそうされなかったにも関わらず、礼拝と感謝を捧げています。人間はどれほどそれをしなければならないでしょうか。

「御聖体が一体何であるか」、「ミサが一体何であるか」という事は、現代暗黙のうちに否定されています。

もしも御聖体を口で拝領しようとするなら、「もう来るな!」と言われます。跪こうとするものなら、「一致を乱す!」と言われます。それについては個人的な話もありますし、皆さんの中で署名運動をやった方々や、何とか教会に良くなってもらいたいと思って、色々尽くした方々がたくさんいらっしゃいます。私はよく知っています、皆さんの名前と顔とを。どれほどの事をなさったか。しかし何も変わりませんでした。ただ御聖体に対する態度は、ますます悪くなったばかりでした。何十年待っても、何も起こりませんでした。

50年前に聖ピオ十世会が創られた時に、やはり新しいミサがちょうど出来たそのような時でしたけれども、聖ピオ十世会がカトリック教会によって正式に認可された時に、その会則にはこうありました。

「聖ピオ十世会は、その会として、全ての司祭を、その司祭の存在理由、一体司祭が何の為に存在しているか、というそれを実現させる為に、心を配らなければならない。即ち司祭は何の為に存在するかというと、『ミサ聖祭』の為であって、『そのミサの意味するところその全て』『そのミサを補うその全て』『そのミサから流れ出る全て』の為に存在している。その為に聖ピオ十世会も存在している。聖ピオ十世会には特別なカリスマ、特別なものはない。ただカトリック教会が最も大切にしていたものを大切にするのだ。『カトリックの司祭』と『カトリックのミサ』だ。」

しかしそうすればそうするほど、創立者であるルフェーブル大司教様は罰せられ、迫害を受けて、罪に追われ、悪口と非難を受けておられました。

私たちは真理の主人ではなく、真理のしもべであるので、真理を変える事ができません。天使のように、その御聖体の神秘の前で、ただひたすら礼拝するのみです。それを信じ続けるのみです。


第3には、天使が教えてくれたのは、私たちに「償いをしなければならない」という事です。

私たちは単に、天主を信じ、礼拝し、希望し、愛するのみならず、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、愛さない人々の為にそれに代わって、罪を償い、その罪の赦し乞い求めなければなりません。

子供たちは天使から言われました、「恩知らずの人々によって、恐ろしくも侮辱されている私たちの主イエズスの御体と御血を礼拝し、拝領しなさい。」

私たちもそれをしなければなりません。天使が言ったのはものすごい表現でした、「恐ろしくも冒辱されている、侮辱されている御体」“body and blood horribly outrage by ungrateful man” きっと天使たちはもう怒りで、どれほど自分の怒りを抑えなければならないか、とその口調から察する事ができます。

天国の天使団たちは、あるいは聖人団たちは、私たちの地上で行なわれている、イエズス様に対する恐るべき冒瀆と屈辱を見て、どれほど涙を流して悲しんで、天主に御憐れみを乞い求めている事でしょうか。

私たちは今日そこで、教会の精神に従って、天使たちの大群と天国の聖人たちと共に心を合わせて、ファチマの精神で、今日御聖体荘厳式を行なっています。


愛する兄弟の皆さん、どうぞ御聖体変化の時には、必ず跪いて下さい。もしも体の弱い方で跪けない方はもちろんそのままで結構です。できる方はそうなさって下さい。イエズス様の真に在すこの現存の前で礼拝なさって下さい。イエズス様の愛を感じて、イエズス様を愛し奉って下さい。

そして、ただ私たちは信じて礼拝するそれならず、その私たちの犠牲をも苦しみをも、イエズス様の苦しみに合わせてお捧げ下さい。

今日御聖体拝領する時には、あるいは天使の手から受けるかのように、イエズス様をお慰めする為に、御聖体拝領なさって下さい。御聖体降福式もその意向で御捧げ下さい。

今日おそらく天国では、私たちをご覧になる天使たち聖人たちは、三位一体は、イエズス様は、マリア様は、どれほど御喜びになり、御慰めを受ける事でしょうか。例え人数が少なかったとしても、私たちの愛はどれほどその天国を喜ばせて、私たちの上に、日本全国に、御恵みをもたらすものとなる事でしょうか。どうぞ、この皆さんが今なさっている事がどれほど素晴らしい事か、という事を理解なさって下さい。

マリア様にお願い致します、「マリア様、私たちの心にもファチマの天使を送って下さい。ファチマの天使のその精神に従って、今日この御聖体の荘厳式に与らせて下さい。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「ローマ・ミサ典礼書は、トリエント公会議の教令に基づき、公布され、・・・無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世 1969年4月3日「ミサーレ・ロマーヌム」)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「西方キリスト教世界の存亡は「ラテン語伝統ミサ」の存続にかかっていると思う。」という記事を書かれていて、私もその通りだと思いました。

教会建築、教会音楽、教会美術、その他全ての天才的な芸術の源は、ラテン語の聖伝のミサのためにあったからです。

聖人の聖徳、殉教者の剛毅、童貞女らの純潔、正統教理、崇高な倫理は、ラテン語の聖伝のミサによって養われてきたからです。

「ローマ・ミサ典礼書は、さきに、...トリエント公会議の教令に基づき、1570年、私の先任者聖ピオ五世によって公布されたものでありますが、それが同じ聖なる教会会議を通じて、キリストの全教会に広く行き渡った多くのすばらしい成果の一つであることは、衆人の認めるところであります。
 四世紀に亘って、ラテン典礼の司祭が、聖体のいけにえをこれを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は、地球のほとんど至る所に、これを携えていったのであります。また教皇グレゴリオ一世がその大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通して、無数の聖徒が、天主に対する信仰心を豊かに養ってきたのであります。」(パウロ六世 1969年4月3日使徒座憲章「ミサーレ・ロマーヌム」

この記事を巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんに感謝します!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

喜べ、花嫁でない花嫁よ!純潔なる童貞女よ!(アグ二・パルセネ) Ἁγνὴ Παρθένε

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「私たちの十字架の道を共に歩いてくださる御母」という記事に、Агни Парфене / Ἁγνὴ Παρθένε(アグ二・パルセネ)という歌の日本語訳を作って掲載してくださっています。

とても知性的で素晴らしい訳です。

この歌は、最後の一節がリフレーンとなって、何度も何度も繰り返されます。つまり、これが最高に強調される内容です。

リフレーンは、Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε「喜べ、おお未婚の花嫁!」です。

ところで、この日本語訳を読んでいて、ふと思いました。未婚の花嫁、というのはそんなに特別なのだろうか、と?

花嫁というのは普通は未婚の女性がなるのではないだろうか?

バツイチではない、女性が花嫁になって、何が特別なのだろうか?

聖母マリアが、聖ヨゼフと婚姻の契りを結んだとき、未婚の女性だったのは本当だけれども、他の女性も普通はそうではないのだろうか?

という単純な疑問です。

ウィキペディアの英語版にある、ギリシア語に忠実に訳された英語訳は O unwedded Bride!でした。確かに「結婚しなかった花嫁」です。

では、一体ギリシア語ではどうなっているのだろう?

Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε

Χαῖρε 喜べ!(これは大天使ガブリエルが童貞聖マリアに言った挨拶の言葉です。ラテン語では Ave ! 「めでたし!」です。)

Νύμφη 花嫁よ

Ἀνύμφευτε この単語をよく見ると、否定の Ἀとνύμφηとから合成されているので、直訳すると「ニンフィ(花嫁)でなかった」「非花嫁だった」という意味になります。

この歌は、「ニンフィであり且つニンフィではない聖母」を讃える歌なのです。

では、「非花嫁だった花嫁」つまり「花嫁でない花嫁」とは、一体どういうことでしょうか?花嫁であって同時に花嫁ではない、とは?

聖ヨゼフに対しては、終生童貞なる聖マリアは貞潔を守り童貞を守りましたが、しかし法律上は婚姻をしたので、花嫁ではないとは言うことが出来ません。

聖母マリアは、童貞であり同時に母でした。「花嫁でない花嫁」とは、母なる童貞女、童貞女なる母親という意味でしょうか? いえ、母と童貞女という言葉は概念が違います。しかし、このリフレーンは同じ「花嫁」を同時にそうでありそうでないと言っています。

一体どういうことでしょうか?

ここで聖マキシミリアノ・コルベと教父らの教えに従って、聖母マリアが聖霊の浄配であるという表現に行き着きます。

つまり、聖母は、聖霊のイコンであり、聖霊の充満を受けていたので、聖母と聖霊とはあたかも「婚姻」で結ばれたかのように一つになっていた、という教えです。そのことに思い当たると、「花嫁でない花嫁」の意味が理解できます。聖母は被造物で人間であるので、天主なる聖霊と「婚姻」などすることができるわけがありません。聖母は聖霊の「花嫁」ではありえません。しかし、聖母が、聖寵に充ち満ちたお方であり、天主の御旨を完全に行う方であったので、あたかも聖霊と聖母とは一つであり、聖母が聖霊の生き写しであったかのようなので、「花嫁」あるいは「浄配」と呼ばれているのです。

だから、聖母は婚姻しなかった浄配、「花嫁でない花嫁」です。

そこで、巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんの日本語訳に手を加えてみました。たとえば、ギリシア語の呼格を英語で表現するとき Oh を付けたりしますが、なるべくギリシア語に近づけてみました。最後の部分の日本語訳にも挑戦してみました。

内容は、非常に単純で、聖母に色々な呼称や敬称で呼びかけて、リフレーンを繰り返します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

純潔なる童貞女よ!

純潔なる童貞女よ、女王よ*、汚れなき天主の母よ、喜べ、花嫁でない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
童貞女なる母にして元后よ、露滴る羊の毛よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* 判事の書のゲデオンの故事から「わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。」
「露滴る羊の毛」は、「聖寵満ちみてる」聖母の前兆であった。判事の書には、さらに、地だけが露で濡れていたにもかかわらず乾いていた羊の毛の奇跡も起こった。これは、聖母だけが原罪の汚れを免れて宿った無原罪の御孕りの前兆であった。]

天よりもいとも高き方よ、いとも輝かしい光線よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天使たちをいとも凌駕する、童貞女らの群れの歓びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天よりもいとも輝くお方、光よりもいとも透き通った方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天軍の大群よりも、いとも聖なるお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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終生童貞なるマリアよ、全宇宙の主よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Κυρία = Domina]
全く純潔にして汚れなき花嫁よ、全く聖なる女王よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
花嫁にして元后なるマリアよ、我らの喜びの源よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
誉れ高き乙女なる女王よ、全く聖なる母よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
ケルビムよりも貴き方よ、いとも栄光に満ちたお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
肉体を持たぬセラフィムよりも、座天使らよりも凌ぐお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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喜べ、ケルビムの歌よ、喜べ、天使らの讃歌よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、セラフィムの頌歌よ、大天使らの喜びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、平和よ、喜べ、喜びよ、救いの港よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
御言葉の花嫁部屋よ、萎れぬ芳香の花よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
{* ἱερά, ἄνθος τῆς ἀφθασίας]
喜べ、天国の歓喜よ*、とこしえの命、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Παράδεισε τρυφῆς]
喜べ、いのちの木、不死の泉よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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私は御身に懇願する、女主権者よ、御身を今呼び求める、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私は御身に乞い求める、全ての主権者よ、御身の恵みを与え給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
いとも清き敬うべき童貞女よ、全き聖なる女王*よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Δέσποινα]

熱烈に御身に懇願する、聖なる神殿よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Θερμώς επικαλούμε Σε, Ναέ ηγιασμένε,]
【別のバージョン*:私の祈りを聞き給え、全宇宙の女主人よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!】
[* ἐπάκουσόν μου ἄχραντε, κόσμου παντὸς Κυρία,]

私を助け、戦争から解放し給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私を永遠の命の相続者となし給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!


Photo Credit

今日(2019年7月21日)東京で聖伝のミサが午前10時半からあります。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
今日(2019年7月21日)東京で聖伝のミサが午前10時半からあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父






旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ

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2019年6月30日(主日)ラファエル・デュ・シャゾ神父様霊的講話
「旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ」

同時通訳:東京信徒会長



昨日初めて日本に来ました。日本が大変好きです。

今日は、この私たちの宗教の一番大事な事、「御ミサ」の事についてお話したいと思います。

教理の事をご説明するのではなくて、典礼の方からご説明したいと思います。なぜかというと、この典礼というのは、実はカトリックの教義を示すものだからです。

昔、旧約の話なのですけども、脱出記の頃ですが、ヘブライ人がエジプトから逃げた時に、モーゼを通してイスラエルのヘブライ人の民は、天主様から「典礼をどうするか」という規則を頂きました。

聖書に詳しく書いてありますが、その規則を読むと非常に面白いのですけれども、例えば祭壇の大きさがどのくらいであるとか、祭壇のどこにどういう石を使いなさいとか、ものすごく細かいルールがあります。そしてその中で特に面白い部分は、二人若い男の人が、この典礼に使う器とかを作る方法というのが、これも規定されています。

ただ知っておいて頂きたいのは、この典礼の規則というのは、天主がそのイスラエルの民に直接渡された、「天主の定められた規則である」という事です。

今申しましたように、この典礼の規則というのはどういう風になっているかというと、ただそういう風に私たちが天主を礼拝するというだけでなくて、実際典礼でどのようにこういう風にしなければいけない、という事が詳しく書かれています。

もちろんその教えて下さった事の中には、「天主様がこういう方である」とか、「メシアが来るのだ」とか何だとか色々色々あるのですけれども、非常に興味深いのは、その「私たちが天主に向かってどのように礼拝するか」という事を、天主から詳細に私たちに教えて下さって、指示して下さっている、という事です。

例えば、「私たちがどういうように礼拝するか」という、近代的な今の人たちは、「いや、私が神様をこうやって礼拝したいという気持ちがあるので、こう礼拝する」というのと対照的に、この時代を見ると、天主から私たちに、「こうやって私を礼拝しなさい」という規則が来て、私たちはそれを受けたという、これが非常に特徴的です。

この今思い出して頂きたいのは、旧約に書いてあるこの詳しい典礼は、「こうこうこうこうしなさい」という規則というのは、旧約の時の規則です。

旧約というのは、思い出して頂きますと、新約の象りに過ぎなかったものですから、そこにそれだけ詳しい規則が決まっているという事は、新約に関してももっと詳しく「こうやりなさい」というのを、天主様から指示があります。

それでヘブライ人が旧約の時代に、砂漠であったり、あるいはエルサレムの神殿であったりでやっていたその典礼というのを、私たちが今現在やっているものと同じなんだ、という事を知って下さい。

この旧約の時代の典礼というのは、いわば象徴的な象りの典礼をしていました。そして私たちがそれに比べて今やっている事というのは、本当の、真の典礼をやっています。

私たちの御ミサで見るこの典礼というのは、本当の司祭、本当のいけにえで、本当に救いの力のある典礼をしています。

それと比べてみますと、旧約の時は色んな事をしています。例えば、色んな牛だとか、羊だとか、鳥だとか、色んな生贄を捧げたり、油を注ぐんだとか、ブドウ酒を注ぐんだとか、色々な儀式がありましたけれども、それは何をしていたかというと、それらの生贄というのが、新約のいけにえの象りであったからであって、新約ではご存知のように、本当の司祭(それはイエズス・キリスト御本人です)が、本当のいけにえ(これもイエズス・キリスト御本人です)を本当に捧げて、救う力がある、という本当の典礼を今行なっています。

イエズス様がこの地上に来られた時というのは、おそらくこれは大変な事業だったと思います。というのは、旧約の色々な司祭がたくさんいて、そして色々な生贄が行なわれていました。

ところがイエズス様が来られて、その旧約の色々な生贄と色々な司祭が色々やっていた事を全部一人で、「新しいものと交換する」という風に仰いました。そしてこの「交換する」と仰ったその実態が、「御ミサ」です。

私たちは現在御ミサが起こっているという時には、この先ほど申しましたように、本当の司祭が、本当のいけにえを、天使たちの前で捧げているという事です。そして神父様が思われるのにこの動き、旧約のその象りである色々な生贄が、新しい本当のいけにえと替わるというのは、イエズス様がサマリア人の女性とお会いになった時に始まったものです。

そしてヨハネにあるのですけれども、弟子たちが何か買い物に行って、このサマリア人の女性とイエズス様がお話をされた、そしてそこでイエズス様が仰るのは、「時は来ている」という風に仰います。そして「時は来ている」というのはどういう時かというと、「この旧約で預言された色々色々の象徴が、本物になる」と、「その象徴だけではなく、本当になる。そして本当のそのいけにえを、本当に礼拝する時が来る。」

そしてそれが実際に実現したのは、イエズス様が十字架の上で亡くなられて、「全て成し終えた」と言われた時に、その時から、永遠に至るまで、本当の一つの完全ないけにえが、完全な司祭によって続けられる、というのが始まったと言えると思います。

「新約の典礼というのは、真理における典礼だ」という風にヨハネの4章に書いてあります。

そして「真理における」というのはどういう事かというと、このミサというのは、神秘的に行なわれている、神秘的になされている、そしてこのイエズス様の死というのが永遠の犠牲になっている、そしてミサの時にイエズス様の御血というのは、カリスの中に注がれて、そのまま神秘的にその信者の元に流れているという事ですけれども、これを旧約と比べてみると、旧約の祭壇では何が起こっていたのかというと、旧約の神父が、例えば先ほどの牛や羊を生贄にして殺して、その血を皆にこう実際に撒いている、という事をやっていました。

ですから、新約の同じ「ミサ」というのは、「神秘的に血が流されて、信者の元にその救いの御血が行く」というところが違います。そしてこれは本当に、先ほど申しましたようにイエズス・キリストがサマリア人の女性に、「もうこの時間は来た」「時が来る」と仰った事だと思います。

そして先ほど申しましたように、新約のいけにえというのは、イエズス・キリスト御本人です。私たちのミサではイエズス・キリスト御本人です。旧約の時はその象りのものが捧げられていたに過ぎませんでした。

マラキアの書にありますが、そこで預言されています、「後に、こういう時代が来る。犠牲が、太陽の昇る所から沈む所まで捧げられる時代が来る」という風に言われています。

そしてこれはどういう事かというと、「カトリックの教会が、全世界にこのキリスト教を広めて、ミサが全世界で行なわれる」という事を示している文章です、旧約にあります。

そしてまたそこで述べられているのは、「綺麗な捧げ物がなされ、」それは何を言っているかというと、イエズス様が亡くなられた時は大変な事がありました。イエズス様の御体から血が流れていましたし、鞭で打たれましたし、とても綺麗なものとは言えませんが、それが神秘的にこのような形でミサになると、綺麗な生地の色で、いわば「無血のいけにえが捧げられる」という事ですので、これが先ほどの旧約に書かれている預言されている事です。

旧約の頃の礼拝の話で、パウロがユダヤ人への手紙で書いていますけども、「これは、イエズス・キリストがなさるのが似つかわしい。なぜなら彼は罪を犯さなかったから」と書いていますけれども、この大祭司、「イエズス・キリストが大祭司」というのは、もちろん旧約の時代にはレヴィ族という人がいて、祭司をやっている人たちの一族というのがいました。彼らがこの役割を担っていました。その中でもアーロンの家族というのが有名だと思います。そしてその祭司が旧約で何をやっていたかというと、「人々、信者の為に、それに代わって、天主と話す」という事をやっていました。

私たちの大祭司イエズス・キリストにいくと、もちろん罪を犯しておられませんし、純粋の御方ですし、それに重要なのは、「彼は同じように、私たちと同じ人間の一人でもある」という事であります。そして私たちになり代わって、天主と話して下さっています、という事です。

そして旧約で、では祭壇というものも決まっているのですけれども、祭壇というのはどういう風になっているかというと、これも色々なルールが規則がありまして、「人々の住んでる所から別の所で、こういう囲いをして、こうやって、こうやって」そして「祭壇はこういう風に油を塗って、祭壇で使う容器の蓋はこう油を塗って」という風に詳しく書いてありました。

ところがイエズス・キリストはマテオの中で、その祭壇の重要性に関するもので、「祭壇というのが、贈り物を聖化するのだ」という事を仰います。

私たちのでは祭壇はどこかというと、教会の中にあります。そしてその私たちの教会の祭壇というのは、これで分かる通り、旧約のどんな祭壇よりもより聖なるものであります。なぜかというと、イエズス・キリスト、大祭司イエズス・キリストが使われる祭壇であるからです。

新約の中では、一番最後の黙示録というのが、先ほどの旧約の脱出記に対応するようなものなのですけれども、今日は時間がないのであまりお話できませんが、先ほど申しましたように、私たちの見ているこの新約の典礼というのが、旧約の典礼が現実になったものである、という事を知って頂きたいと思います。

この新約の典礼というのは、今起こっているのは犠牲なのですけれども、それはまた先ほどの新約を最後まで見て頂きますと、天国で天上で、この後起こる、どのような礼拝が起こるかという事の予告でもある、という事が分かります。

例えばその祭壇というものに関しては、よく「天の国の基礎である」というのが聖書にあります。そしてこの天の国というのはご存知のように、カトリックの教会であったり、聖人たちであったりするわけですが、それも聖書に出てきます。

この祭壇というものに関してまた別の点から見ますと、昔エジプトにいた時は、イスラエルの人々が使っていた祭壇というのは動かせるもので出来ていました。定住していたわけではないので、動かせるもので、木で出来ていました。ところがエルサレムに来てからは、彼らは定住できましたので、祭壇というのは石で造られるようになりました。

この「石」というのは、もちろん「天主」の象徴、シンボルで、例えばヤコブがカナアンにいた時、この「天主の住んでおられる石」という話が出てきます。

もっと分かりやすいのが、例えばモーゼが砂漠にいた時に、皆が喉が乾いて大変だというので、自分の持っていた棒で、岩を叩いたら、生命の水が出てきた、というお話があります。今日お話した通り、このモーゼは何をしているかというと、イエズス・キリストの胸を槍で刺した兵士の象りをしていた、という事です。「彼が棒で突いたら、生命の水が出てきた」というのが、新約の、「ローマの兵隊がイエズス様の胸を突いたら、血と水が出てきた」というものの象りであった、という事です。

最後にお話したいと思いますが、この典礼の規則というのは色んな規則があります。例えばどういう服を着て、どういう色の服を着て、どういうカレンダーで、どういうお祈りとどういう祈りが今日やって、繋がっていて、どういうジェスチャーをして、目をどっちに向けて、どこで跪いて、そしてお香を使うとか、十字架を使うとか、十字の印をするとか、ローソクだとか、灰だとか、聖水だとか、色々色々あります。

色々あるのですけれども、これらのものはどうやって出てきたかというと、これもやはり旧約と同じように、「天主様から明らかにされた」、そしてどうやって明らかにされたかというと、「その権威を持ったカトリック教会に、聖霊によって明らかにされてきたもの」と、「教会がまとめてきた」というものが典礼です。ですから旧約と非常に似た構造になっています。

例えば今、神父様がなさったミサの途中に、神父様が階段の前で手をこう置くとか、こう置くとか、こう置くとか、色んなジェスチャーで、そしてそれに関して色んな聖人が色んな事を書いています、「こういう精神的な意味がある」とか「こういうような」と書いています。

ただし、どんなに「こういう意味とこういう意味とこういう意味がある」と言っても、全部意味が分かるという事はあり得ません。なぜなら、このミサというのはある意味では、イエズス・キリストの書かれた詩であるからです。

例えば、「雅歌」というのが旧約にありますけれども、そこで花嫁が花婿に最初に、「私の愛する人」という風に呼びかけています、「私の愛する人、来て下さい」と言っています。

そして典礼というのは、この愛する人たちの間の会話ですから、「これはこういう意味だ、こういう意味だ」と、その愛する花婿と花嫁、「イエズス・キリスト」と「教会」の間の会話なので、ある程度分かるかもしれませんが、やってもやっても尽きない意味があるものだと思います。

ありがとうございました。
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