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聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)報告 SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会の聖伝のミサの報告を頂きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
Ave Maria Immaculata!

7月の所感をご報告いたします。

7月13日・14日の東京でのシンポジウムのために、フランスから聖ピオ十世会のビルコック神父様とイエズス会のトマス神父様が来日されて、
大阪では、9日から12日まで毎日3つの御ミサを捧げてくださいました。
また14日には、アジア管区長のサマーズ神父様が大阪で主日の歌ミサを捧げてくださるために、
東京の前に大阪にお立ち寄りくださりくださいましたこと、天主様に感謝申し上げます。

私たち日本の信徒にとって、ビルコック神父様はお会いする前から、存じ上げていた神父様でした。
毎週日曜日に、有志の信徒の方が、ビルコック神父様のカテキズム動画に日本語字幕をつけてアップしてくださり、毎週楽しみに視聴していたからです。

※聖ピオ十世会フランス管区のWEBサイトでビルコック神父様によるカテキズム動画(1話10分ほど)がアップされています

カテキズムのお話は簡潔でわかりやすく、毎回、初めて知ることがあり、「天主様に感嘆、感謝」せざるを得ません。

動画を拝見していると、神父様は頭脳明晰で、厳格であられるイメージを持っておりましたが、実際のお人柄は、柔和で高貴な聖なる雰囲気をたたえた神父様でした。

歌ミサでは聖歌隊となって一緒にグレゴリオ聖歌を歌ってくださったり、終課を一緒に歌いました。

神父様が素朴な美しい声でお歌いになると、教会の祈りであることを思い起こされ、感激いたしました。

イエズス会のトマス神父様は、威厳があられるのに、お優しく、控え目で謙遜な雰囲気を持っておられました。

東京で、マーチフォーライフの前のビルコック神父様の講話中に、どなたかが階段をすべらせたような音がしたときに、トマス神父様が咄嗟に階段に助けに向かわれたお姿が印象的でした。

2点についてご報告したいと思います。

その①
このたび「フランス革命」と「マーチフォーライフ」に関係性があることを理解しました。
特に、ビルコック神父様の講演と講話でお話になられておられていたと思います。

【マーチフォーライフの前の講話の要旨】をまとめてみました。

・「革命」の真の姿は「天主に対する憎しみ」「天主の秩序に対する憎しみ」「天主をひきずりおろして玉座についた人間」だと。(講演より)

・本来革命を阻止すべき役割、できるはずだった聖職者は啓蒙主義の毒に冒されて、自らが崩壊のために働き犠牲となってしまったと知りました。(講演より)

・堕胎・同性愛・安楽死の考え方は罪の精神(悪魔の精神)であり、生命を攻撃するのは「自由享楽の精神」・「個人主義」の精神。

・自由の精神こそ「革命の精神」であり「人間が天主になろうとすること」

・人間中心主義は、人間の死に行き着く。自由を求めて生命に逆らうほど不幸になる。現代社会は人類の自殺の文化(死の文化)といえます。

・マーチフォーライフは単なる堕胎反対のみならず、生命の掟十戒に逆らう全ての文化に対する反対を表明するものなので、
 私たちカトリックはマーチフォーライフなどで戦うことが必要。

・マーチフォーライフに参加することは勇気のあること。それは国の法律に反対の声を挙げることだから。私たちの知性と意志を罪の精神から守ることです。

・聖フィリッポ・ネリは毎朝、天主に祈っていた。「主よお護りください。主の御助けなくしては、夜にはイスラム教徒となってしまうでしょう」と。祈りこそ重要。

・ですからマーチに参加にしながら、お祈りしてください。私たちが快楽・自由の精神から守られるように。

・マーチは自然の生命だけを守るのではなく、超自然の行為であって「信仰宣言」なのです。

・天主ご自信が生命であり、生命は全て天主のものである。生命である天主が人間となり、人間の生命を贖うためにこの世に来られた。

・マリア様の胎内から、洗者聖ヨハネを聖別され、病人を癒し、死者には生命をお与えになって、天主自らが、どれほど人間の生命を大切にされたかを示された。

・堕胎はイエズス様の事業を軽蔑し、主ご自身をも軽蔑することになる。

・なぜ主は人間の生命を大切に思われたのか?それは身体を活かしているのは霊魂であり、霊的生命は永遠であるから。

・肉体を滅ぼさない状態で、人間の霊魂を殺すことができる。それは霊魂に天主に対する敵対をおく(罪の状態にあること)ことで、罪は永遠の地獄を招く。
 よって死の文化=地獄の文化といえる。

・1917年7月にファチマの聖母は三人の子供たちに地獄のビジョンを見せられた。1917年には堕胎法も安楽死もなく、教会にはまだ多くの信徒がいて、教会の権威もあった時代だった。もしも今日、マリア様が地獄を見せられたら、どれほど多くの人が地獄に落ちていることか?

・霊魂の生命を殺すことは、もっと重大なこと、マーチフォーライフは胎児のために生命を守るために、また超自然の生命を守り生きることを願って歩きましょう。

・マーチフォーライフに参加することは良いことだが、最も大切なことは祈ること。

・カトリック信者は個人的にそして公的に祈る義務がある。公的に祈るのは、信仰を告白し、生命である主に属していることを表明するためです。

・大切なのはマーチで歩きながら、祈ること。周囲の人々に生命を守ることが大切だと見せるとともに、もっと高貴な霊魂の生命を守るために歩かなければいけない。

・霊魂の生命は本当の光、生命は真の光であったと聖福音に書かれている。祈りながら生命を守るだけでなく、周囲の人々の光とならなければならない。

・こうすることで主の真の弟子となることができる。主のように生命と光をもたらすからだ。

・生命を守る最善の方法は、ロザリオを祈ること。ファチマの聖母は地獄のビジョンを見せられたときに、地獄にいかない薬もお示しになられた。ロザリオを祈ることだ。

・ロザリオの祈りの単純さは天主から来たことを証明している。ロザリオは単純で、普遍的。三歳の子供でさえも、老人も一緒にロザリオを唱えることができる。

・頻繁に多くロザリオを唱えることは、天国を約束されているといえる。

・現代社会に生きて仕事をしておられる皆さんにもロザリオは大変重要です。時間の隙間で三分で一連唱えれば、いちにちに一環以上のロザリオとなるでしょう。

・今日のみならず、いつもロザリオを唱えましょう。

・今日はファチマの聖母と一緒に歩きましょう。ファチマの聖母はロザリオの聖母でもあられます。

・ロザリオはフランス語で「王冠」という意味。肉体と霊魂の生命を守るために歩くように、おみこしのバラの花、物質的な冠と霊的な王冠をマリア様に差し上げるために歩きましょう。


その②
このたび初めてマーチフォーライフに参加いたしました感想としましては、

・今年はカトリックの司教様がお二人も参加されて、神父様やシスターがたもおられ、大変嬉しく心強かったです。

 カトリック教会への良い影響となり、来年は更に多くの司教様、神父様、シスターが参加されますように!

・うれしいことに、今年は前年より多い300人以上の方が参加されたそうで、築地教会の正面のお庭には人があふれているようでした。

・今後さらに参加人数が増えることを想定すると、日比谷公園などの大きな公園での集合→大きな公園までのマーチとなっていくのかな?と思いました。

・私たちは、小野田神父様のご指導どおり、ファチマのマリア様から離れずに、ロザリオで祈りの行進をすることができたと思います。
 アヴェ・マリアとグロリアの歌声があるほうが、沿道の通行人の方がたへ「祈り」をアピールできたのでは?と思いました。

小野田神父様は、シンポジウムの準備、通訳、マーチフォーライフ、来日された神父様がたのお世話や案内、日本のミッションでの細かなことまで気配りをされて、
大変お疲れになられたことと思います。充分に休養される間もなく、いつものように次のミッションに向かわれてしまいましたが、
くれぐれもご無理なさいませんように。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、このたび来日くださった神父様がた、小野田神父様をお護り、御助けください。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今年も、小野田神父様のロザリオの先導で、百合や薔薇で飾られたファチマのマリア様とマーチフォーライフを歩けましたことありがとうございました。
サマース神父様、ビルコック神父様、トマス神父様と、4人の神父様達もご一緒でした。
北から南から遠くからおいでになった友人たちも、今回マーチフォーライフに初めて参加したけれど、とても素晴らしい体験だったと話してくださいました。

私たちはマーチフォーライフに参加する前、フランスからおいでくださったパリのサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会で働いておられる司祭であるビルコック神父様から、いのちをテーマにした霊的講話を拝聴し、カトリックの祈りをこのような形で公式に表明することもとても大切なことですというお話を伺って、カトリックの精神に従って、築地カトリック教会から日比谷公園まで祈りの行進をいたしました。

私自身が周りのカトリック信者さんにマーチフォーライフのことをお伝えして、一緒に参加できるとよいですねと申し上げると、「中絶反対とか堕胎はダメというのは現実の世の中の厳しさ悲惨さを知らないからで、生まれてこないほうが親のためにお腹の子のためにも良い場合があるのよ、それに第一私たちの行っているカトリック教会では神父様がマーチフォーライフで訴える内容を話しているのを聞いたことがない」という答えが返ってくるのが多く、悲しい思いをしてしまいました。

“今回は司教様達も参加してくださるんです”と言っても参加の反応がよくなくて、インターネット上にも中傷の記事が見られるなど、まことにカトリック信徒としてあまりに情けない様子が見られました。

このまま日本の東京近辺のカトリック教会が、中絶も堕胎も場合によっては仕方ないことという態度を表立っていわないとしても、このようなマーチフォーライフという活動を敢えて無視する態度を取るということは、一体どういうことなのだろうかと、考えこんでしまいました。どんな活動でも、その過度期というのは、いつでもこんな具合なのでしょうか。

でも実際のマーチフォーライフでは、いくつものカトリック教会から来られたかたや、プロテスタント教会の方や一般の市民の方々大勢のかたと警察の方に助けていただきながら、東京のど真ん中を歩けたことを感謝申し上げます。

私自身、カトリック教会がいのちのことをどのように教えているのかをよくわかっていないものですから、これからもっと学ぶ機会が与えられますようにと思っています。同じ気持ちの方が手を取り合って連絡しあって、もっとこの東京・千葉・神奈川・埼玉のカトリック信者のなかにおいてもカトリック教会が教えているいのちの尊厳のことを、神父様たちや専門の博士(リガヤ博士)から学んでいくことが大切かなと感じられました。

教皇様も教皇大使も枢機卿様も司教様も、マーチフォーライフを応援してくださるメッセージをくださいました。そして、海の日のマーチフォーライフでは、命を尊ばなければならないというカトリック精神を、一緒にアピールできましたこと、ありがとうございました。

来年こそは、カトリック教会全体の中で、このマーチフォーライフの盛り上がりが興りますように、心からお祈り申し上げます。

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日(2019年7月21日)の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 25人(内、子供5人)
女: 26人(内、子供4人)
計: 51人(内、子供9人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第六主日のミサをありがとうございました。

今月は3回も主日ミサが東京で捧げられて、全部で21回のミサが捧げられました。
そのうちの一回は、初めて与る素晴らしい荘厳ミサでした。デオ・グラチアス!
たくさんのミサに与ることができましたこと、感謝申し上げます。

7月は、なかには500キロメートルとかあるいは700キロメートルも遠い所にお住まい方々も、久々の御ミサに与られたご様子に、とてもうれしくマリア様に感謝いたしました。

昨日はこのミサで、「ミサはいつも聖週間の縮小版が行われているが、来年の復活節には日本で初めて典礼の頂点となる聖週間のミサが行われる予定となっています」ということをお話しいただきました。修道院設立のために本当にたくさんの祈りが必要だとお話しくださいました。

そして2000年の間、カトリック教会では、この伝統的な聖伝のミサを通して、たくさんの聖人や教会博士・神学者たちが輩出されてきたことを、お話しくださいました。

現在、それでは、プロテスタント化されたかのような全く替えられてしまったミサを通しては、どうなっているのでしょう。

友人が今日、最近お友達が亡くなったのだけれど、彼女こそは人知れぬ大聖人だと思うと話してくださいました。

そのお話にもっと耳を傾けてみると、その理由は、そのお友達の方が、地方の教会にお住まいだったこと、跪きの廃止や手でのご聖体拝領のみ許可というここ数年に一気に強まりを佩びている“伝統的なカトリック信仰を守り通したいという信者”を迫害するような上層部からの指導に、断固として抵抗した方だから、というのです。

その方は、亡くなるまで最後まで、御自分がかつて神父様から教えていただいたままのカトリック信仰を貫き通して、けっして立ったまま手でご聖体拝領をしなかったのだそうです、ごく最近亡くなったのだそうですが。

ご自分は何時間もかかるけれど聖ピオ十世会のミサに通えるところに住んでいるから今は安心して御ミサに与れるけれど、そのお友達は最後まで大変な辛い思いをしなければご聖体拝領をすることができない状況で苦しまれていた様子を、お話しくださいました。

でもそのご老人だったというカトリック信者さんは、伝統的なカトリック信仰を伝統的な司祭から教えていただいたからその信仰を保とうとすることができたのだと思います。聖変化の意味・ご聖体を礼拝しなければならない理由などを教えていただいていて、しっかりとした信仰が身についていたのだと思います。 そもそも、伝統的なカトリック信仰を教えられる機会がないままに洗礼を受けている信者の運命は、いったいどうなるのでしょうか。

現代の第二バチカン公会議後のミサ典礼のあり方に反対して、アンケートなどの集計結果を拝見したこともあります。いま昨今は、聖人は、自分の信仰を守るために、周囲からの嫌がらせや迫害に耐えることを、求められているとしたら、何とも皮肉な!という以上にもっと深刻な、恐ろしい事態にあることを、考えさせられました。

そして、そのお話を伺いながら、ミサが内側から変えられようとしていることの深い理由と実情を、神父様から教えていただくことができました。

私たちにできることはカトリック教会のためにお祈りをすることしかできませんね、ということになり、今は少ない人数ですが励ましあってお祈りを続けていきましょうということになりました。

このイベントを機会に、毎回ミサに与るようになられた方も増えていらっしゃるご様子に心強く思いながら。

東京に修道院が設立できることのために一生懸命お祈りいたします。

小野田神父様、いつも私たちのために、聖伝のミサをお捧げくださいまして本当にありがとうございます。

聖ピオ十世会 聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ) SSPX Japan Traditional Latin Mass

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪では7月19日(金)と20日(土)に聖伝のミサを捧げました。
 土曜日には、聖体降福式を行い、その後東京のシンポジウムに参加することの出来なかった方々のために、その時の講話の一つであったマリオン・シゴ(Marion Sigaut)女史のお話しをさせていただきました。特にリヨンでの虐殺の史実を今回始めて知り、是非このことをお伝えしたいと思ったからです。

 マリオン・シゴ女史のお話の内容は、次の動画でも見れます。



 報告を感謝して頂きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
先週からシンポジウム、マーチフォーライフ、などお忙しくしておられましたので、さぞかしお疲れになったのではないでしょうか?
どうぞご自愛くださいませ。

ミサの報告をお送り致します。

7月19日(金) 聖ヴィンセンシオ・パウロのミサには15人、
7月20日(土) 聖ヒエロニモ・エミリアニのミサには18人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

19日は聖ヴィンセンシオの、20日は聖ヒエロニモの生涯を黙想しました。
お説教の中で神父様は、聖ヴィンセンシオが天主の庭園でその枝を世界中に広げる大きな棕櫚のようだと仰った事がとても印象に残りました。
私も必ず天主の庭園に入って精一杯の花や木や、草になる事を信じてヴィンセンシオのお取次ぎによってこの世に勝利しなければと思います。

20日には御ミサの後に世界中から、特に日本から多くの聖なる召命を願って御聖体降福式がありました。
聖ヒエロニモのようにマリア様のおん助によって日本の多くの霊魂も罪の鎖から解き放たれ、そしてその鎖と一緒に自分をマリア様に捧げることができるようにと祈りました。

フランス革命の真実についての講話は大変興味深く、多くの今まで知らなかった真実に驚きました。

一部の革命家が天主の元にあった美しい国家を嘘と、殺戮と不正によって手にいれた結果、フランスは大きな不幸に見舞われました。

イエズス様も不正な裁判によって裁かれて十字架につけられましたが、復活された事を思い、今後のフランスの逆転勝利を祈りたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ

19日(金)20日(土)の非常な御恵みの聖なる至福の御ミサ、20日(土)の嬉しい嬉しい、御聖体降福式、本当に有難うございました。

フランス革命の本当の実態、とても怖いと思いました、リヨン、可哀相を超えていました。カトリックの長女であるフランスを・・・。
フランス革命で殺された信者は、殉教でしょうね。

【参考資料】


Marion SIGAUT au Parlement Européen sur les massacres de Lyon

「カトリックの信仰」というのは「それが現実、本当、真理だから」それを「正しい、真理だ」と、同意すること。イエズス様の聖心の信仰もまさにこれだ。天主の人類への愛が真理だから

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2019年7月5日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「そして、これを見た者がその証言をする。そしてこの証言は真実である。」


Photo credit

愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき聖心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月5日、7月の初金曜日のミサを捧げています。

今日この御ミサの後に、初金曜日の聖時間を設けて、御聖体の前でイエズス様の聖心を礼拝致しましょう。

今日初金曜日ですので、イエズス様の聖心の黙想を致しましょう。聖ヨハネ・ユードの黙想を皆さんにご紹介したいと思っています。

カトリックの信仰というのは、「自分の思う、自分が思うから、自分がこうあると都合が良いから、だからそうだ」というのではありません。

「自分がこうであるに違いないと思っている、だからそれが正しい」のではありません。

「カトリックの信仰」というのは、「それが現実だから、それが本当だから、それが真理だから、それが実際、現実の事なので、本当なので」それを「正しい、真理だ」と、私たちはそれに同意しています。

イエズス様の聖心の信仰もまさにこれです。私たちが、イエズス様の聖心が、想像で、私たちの思い、勝手な作り話で、それを思うと確かに自分の気持ちが、気持ち良くなるから信じている、のではありません。これを信心しているのではありません。

全宇宙を創ったこの創造主が、「御自分がどれほど人類を愛しているか」という事を、本当に歴史の事実として私たちに教えて下さったので、それを「確かに、本当だ」として受け止めています。

ではこの全宇宙を創って、この私たちを今在らしめて下さっている唯一の創造主、天主が一体、何を私たちに啓示して下さったのでしょうか?

聖ヨハネ・ユードはこう言います、「イエズス様の聖心は一つだけれども、しかし三つの事を考える事ができる。天主としてのイエズス様。人間としてのイエズス様。そしてそれが二つが、天主との本性と人間の本性が合体して、肉となって、私たちの為に鼓動している、イエズスの聖心。」

現実の、私たちが、この「前に壁がある」というのを、どうしても「本当だ」と言わなければならない、私たちがこう肉を以て、ご飯を食べて、「それが本物だ」というのと同じ程度の、その同じ現実に、今ここに蚊がいれば、「蚊が!嫌だ!」、車が来たら、「車だ!危ない!そうしなければ轢かれてしまう!」

それと同じ現実で、私たちを今生かして下さる天主が、その永遠の昔から聖子を愛していた、天主聖父は聖子を愛して、「この、これこそ我が子である。これに私は喜びを置く」と啓示された、その天主聖父。

そしてその聖子も、「私の喜びは、」旧約聖書の啓示によると、「私の喜びは、人の子らと共にある事である。」

その天主の愛を以て、人間をこの世を、聖子を与えるまで愛されたその聖父。そしてその同じ愛を以て、聖子は私たちを愛しておられる。その天主の永遠の愛。

「私の考えは、代々永遠に、その愛を以て私たちを愛して下さる」というその愛の事を、ヨハネ・ユードは「まず考えよ」と言います。


第2に、人間として天主イエズス・キリストは、天主聖父の命令を、その御旨を果たそうとします。

「聖父よ、もしもできる事ならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の願いではなく、御旨が果たされますように。」

なぜかというと、イエズス様は私たちの救いを求めていたので、私たちの永遠の救いの為に、「自分の苦しみを捧げたい」と言うよりは、「聖父天主の御旨を果たしたい」と、私たちの救霊を望みました。

イエズス様が私たちの永遠の喜びの為に、自分の事を全く捨てようと、苦しみを喜んで受けようと思ったその愛、人間としての愛を、聖ヨハネ・ユードは「考えよう」と「黙想しよう」と。

どれほど私たちは、イエズス様の為に自分の苦しみを喜んで受けようとした事でしょうか?

あぁ、それともどれほど多く、自分のちょっとした楽しみの為に、都合の為に、イエズス様を悲しめてしまったり、あるいは聖心に背いたり、あるいはその御旨に逆らって来てしまった事でしょうか。


第3に、聖ヨハネ・ユードは、「この二つの、『天主の愛』と、この『人間としてのイエズス様の愛』が、この聖心において合体している」と。

イエズス様は私たちに言います、「恐れるな、小さな群れよ。お前たちに天の御国を与える事は、聖父の御旨だ。おまえたちの髪の毛一本さえも、ちゃんと数えられている。」

そして聖父に願ったのは、「御身が私に与えて下さったこの彼らが、常に永遠に、私と共にいますように。永遠の命とは、御身と、御身の遣わし給うたイエズス・キリストを知る事にあります。彼らが共にありますように。」

私たちの救いと、永遠の事だけを思っておられました。

愛に燃え、そして遂に、この聖心で鼓動をしていた御血は、流れ尽くしました。兵士によって、槍によって貫かされた時に、その聖心は開いて私たちを、あたかも新しい救いの箱舟であるかのようにその脇が開いて、残っていた、聖心に残っていた御血は、水と共に流れ出てしまいました。「もうこれ以上、お前たちに流すべき血は無い」と言わんばかりに。

この私たちは、イエズス様の愛、現実の愛、私たちの勝手な想像ではなく、「本当に、天主が、私たちをその永遠の愛で、天主として、人間として、そしてこの二つが合体した聖心として、愛しておられる」という事を黙想致しましょう。

今日ミサの後に御聖体降福式があります。イエズス様の聖心は、この御聖体の中にも在し給い、私たちを愛して、報いて下さろうと、恵んで下さろうと、私たちの祈りと、愛を、待っておられます。

「人類を、かくも愛した聖心」

私たちはそれに対して、何もせずにいる事ができるでしょうか?

この聖心は、私たちを愛したにも関わらず、私たちに恵みを与えようとしているにも関わらず、それが本物であるにも関わらず、人々は却ってこれを拒否しようとします。それを、「都合が悪いから」あるいは「理解できない」「何の事か分からない」聞こうともしません。そして自分の主張だけを、あたかも自分が全てを決定しなければならないかのように、天主の座に立とうとしています。

イエズス様の聖心は愛されていません。認められていません。軽蔑と、冷淡と、侮辱と、無関心を以て、無理解を以て、答えられています。

今日ミサに与った愛する兄弟の皆さん、私たちは少なくともイエズス様をお愛し申し上げましょう。私たちの愛を以て、無関心を償う事に致しましょう。

マリア様に、その事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以前、巡礼者の小道さんは、

信仰に反すること・信仰が禁止することを信じてはならない・行ってはならないと客観的に訴えている自分の良心の声を否定して、信仰に反すること・信仰が禁止することを「良いことだ」と教会の権威に従属させることが、天主の主権に従順であることなのか?

従順のために「黒」を「白」だと言う時、「個」としての私は、天主の御前で無罪なのか?責任は問われないのか?

ということを問うていました。

====引用開始====

仮に「黒」が「黒」であった場合、上への恭順心からそれを「白」であると捉えようとした私の過ちの咎及び責任は、自分個人に帰されるのであろうか。それとも、それは組織の中の権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか。

====引用終了====

私はそれについて兄弟的矯正について記事を書きました。

では、今回は、もしも従順から「黒」を「白」だと言う時、私の責任は問われないのか?全ては権威側の責任とされ、私は一切の倫理責任から解放されるのだろうか?という問いに答えたいと思います。

教皇様が「黒」を「白」と間違っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

否です。天主よりも人間に従った場合、私にはその責任があります。

確かに教皇はカトリック教会において重要な権威です。

しかし、

例えば、教皇様が「黒」を「白」と間違って言っても、盲目的にそれに従うべきで、従う限り私には責任はないのでしょうか?

いえ、私たちには責任があります。

では、「教皇に反して正しいよりも、教皇と共に間違うことを選ぶ」
「もしも教皇様が間違うなら、私は教皇様と一緒に間違いたい」
「教皇に反対して真理のうちにいるよりも、教皇と一緒に間違う方が良い」
などと言うことはできるのでしょうか?

いえ、出来ません。

何故なら、これはつまり、
「教皇と共に私たちの主イエズス・キリストに反している方が、教皇に反して私たちの主イエズス・キリストと共にいるよりも良い」
と言っていることだからです。

教皇は、イエズス・キリストではありません、イエズス・キリストの代理者です。

教皇の権力は絶対ではありません。この意味は、教皇はこの地上で最高の権威ですが、その権力と権威は、天主に服従していなければならないという条件があるので、絶対ではない、ということです。

天主の教えと権威と力は、聖伝と聖書と過去の不可謬の教導権による定義とのうちに表明されています。教皇といえども、不可謬の教えを変えることは出来ません。教皇は天主からの啓示に奉仕するために存在しています。

最後の使徒の死を持って、啓示は閉じられました。その死を持って、もはや預言者はいなくなりました。予言の時代は終了しました。その死から、ドグマの時代に入りました。今、私たちはドグマの時代に生きています。

私たちの主イエズス・キリストが最後の最大の預言者で、啓示を私たちに与え、それを使徒たちが私たちに伝えました。最後の使徒の死で、この啓示は閉じられたのです。この死を持って、新しい聖書もありません。

ドグマの時代において、歴代の教皇や歴代の公会議の役割は、何が啓示に含まれるのかを定義することです。

教皇や公会議の役割は、いきなり「現代は、現代人の考え方に合わせなければならない」などと言うことではありません。そんなことは、過去の歴代教皇らが啓示について定義したことに反しています。

教皇がカトリック教会を新しい道に引き入れようとするとき、啓示に基礎をおかない道に教会を導こうとするとき、教皇は教皇としての役割を果たしていないことになります。

課長の命令が部長の命令と矛盾するとき、私たちは部長の命令を行わなければなりません。

課長と部長の命令が社長の命令と矛盾するとき、私たちは社長の命令を行わなければなりません。

教皇様のお言葉も、もしも歴代の教皇や歴代の公会議の不可謬の教え(つまり天主の教え)と矛盾しているのなら、私たちは天主に従わなければなりません。

これについて、巡礼者の小道さんが、シュナイダー司教の論文を紹介しつつ次の話を引用しています。

ある日、一人のカトリック教徒が、年老いた聖者であり賢人に助言をもらうべく修道院を訪れました。教会の不穏な状況に不安を覚えていたのです。

彼は隠遁士に訊ねました。「自分の教区の司祭が異端者である場合、私はどうすればいいのでしょうか?」

「司教の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「はい。ですが、、その司教もまた異端者であった場合、どうすればいいのでしょうか?」

「教皇の元に行きなさい。」隠遁士は答えました。

「そして、、その教皇も異端者であった場合は?」とりすがるように男は訊ねました。

「その時には、カトリック教徒がこれまで常に行なってきたことを知り、それを行ないなさい。」

カトリック教会が常に信じ行い続けてきたこと、これを私たちは忠実に行い信じ続けなければなりません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

来年の復活のロウソクを準備中です

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
来年の復活祭のために、復活のロウソクを準備中です。





天主様の祝福が豊かにありますように!

人類を裁くべき最高の裁判官イエズス・キリストの聖心には赦しと憐れみと愛のみで満たされていた。私たちの考えとどれほど離れている事か。

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苦しみの玄義 第2玄義黙想 2019年7月6日(初土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

『苦しみの玄義 第2玄義:この一連を捧げて、主が鞭打たれ給いたるを黙想し、聖母の御取次ぎによりて、罪を償う恵みを乞い願わん。』

初土の信心として、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。今日は7月は御血の、イエズスのいと尊き御血の聖なる月ですので、苦しみの玄義の第2玄義、イエズス様が鞭打たれ給う、そして全身で御血を流され給う、その玄義を黙想する事を提案します。



イエズス様の聖心の、燃えるような私たちへの愛、この愛は、何をもイエズス様をひるませませんでした。どのような苦しみも、辛い事も、残酷な拷問も、喜んで受けて立つ、その愛で燃えていました。

私たちがその受けるべき、肉の罪によって受けるべき苦しみを、罰を、イエズス様が全て、御自分の身に引き受け給い給うたのです。刑吏の残酷な鞭の前に、清らかな肌を晒し給うて、マリア様からお受けになったその繊細な御体、頑丈な肉体、それが鞭によって砕かれ、傷付き、血潮でまみれ、御筋肉も、肌を通して骨が見えるかのように、鞭はイエズス様の御肉体をえぐり、傷付け、痛めつけました。

イエズス様は、不平を漏らさず、この侮辱を、私たちの為に御捧げになっておられます。

「私は彼に、何の罪も見出さなかった。だから、鞭打ちの罰を凝らして、解放しよう。」

罪が無かったにも関わらず、残酷な鞭打ちを受けたイエズス・キリスト。イエズス様のこの御痛みと、私たちに対する愛を黙想致しましょう。

鞭打たれ給うイエズス様の聖心の御考えは、何だったのでしょうか。

受けた不正義への不平、文句、あるいは皆の前で受ける屈辱、辱め、それへの抗議、あるいはその痛みと苦痛の、それに対する反感、あるいは復讐の思いだったのでしょうか?

いえ、イエズス様の聖心は、ただ「聖父への愛」と、「哀れな私たちに対する愛」だけで満たされていました。

「私たちを赦そう。」聖父に赦しを乞う、その祈り。「苦しみを捧げよう」というその望み。「人類を赦したい」というその愛。それしかありませんでした。

人類を裁くべき最高の裁判官、イエズス・キリスト。イエズス様のその聖心には、赦しと、憐れみと、私たちに対する愛のみで満たされていました。私たちの考えとどれほど離れている事でしょうか。

不正な裁判を受け、人民によって裁かれた、不当な宣告を受けた天主。辱めに飽かされ、全身傷だらけになりながら、私たちの罪を償う事のみ望む、イエズスの聖心。

その聖心を遠くにご覧になったマリア様の心は、どれほど感動と、祈りに満ちておられた事でしょうか。

イエズス様を馬鹿にする、冒瀆する人々の声を聞き、イエズス様に対して為される暴力を見て、その鞭の音を聞き、飛び散る血潮をご覧になり、悪の、罪の重さを目前にして、マリア様の汚れなき聖心は、イエズス様と共に、私たちへの愛と赦しを求める心でますます満たされます。

「マリア様、イエズス様のこのような御苦難を見て、鞭打ちを見て、私の心はあまりにも冷淡で、無関心で、冷たい心をいつも取っていました。マリア様の汚れなき御心にあやからせて下さい。」

イエズス様を打つ鞭の音が聞こえます。イエズス様を罵る人々の呪いの声が、冒瀆の声が聞こえます。

「私はあまりにも無関心でした。非常にしばしば、冒瀆の声に一緒になってイエズス様を鞭打っていました。マリア様の心にあやからせて下さい。聖母と共に、イエズス様をお慰めする恵みをお祈り下さい。イエズス様を冒瀆する声は、テレビで、インターネットで、映画で、ラジオで、新聞で、雑誌で、ますます声が大きくなっています。マリア様の心に、御心に近付くを得させて下さい。」

聖霊によりて童貞マリアから生まれたイエズス・キリストを信じ奉る。聖霊は永遠の昔から御托身の道具としてマリア様を使う事を望み聖母を準備された。「無原罪の御孕り」だ。

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2019年7月6日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年7月6日、聖母の初土のミサをしています。

今日このミサを、御聖体拝領を、マリア様の汚れなき御心への償いとして、このミサの後には、初土の信心、御聖体降福式を行ない、そして15分間の黙想も致しましょう。「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向で捧げて下さい。

とても良いニュースがあります。

それは、5月の第3の主日に、私たちは聖母行列をして、大阪の私たちの御聖堂をマリア様の汚れなき御心に奉献し、その奉献を更新しました。聖母行列をした後にそうしました。

先月は6月には、大阪の大司教区、前田枢機卿様のご指導の元で、大阪の大司教区がマリア様の汚れなき御心に奉献されました。

私たちはいつも、日本の全ての司教様たちが、日本の回心の為に、日本の本当の幸せの為に、日本の平和の為に、日本が本当に世界をリードする国になる為にも、マリア様の汚れなき御心に全ての司教様が日本を奉献するという事をして下さるように、いつも願っていましたけれども、大阪の大司教区は、その一歩を踏み出されました。

そこで非常にこの嬉しいニュースで、私たちももう一度、私たちの御聖堂を、大阪の大司教区を、そして日本を捧げて、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。この御聖体降福式の時にそれを行ないたいと思っています。

その意向は、大阪大司教区のみならず、日本の全ての司教様たちが、日本を全てマリア様の汚れなき御心に捧げて下さいますように、です。

特に11月には、その23日から4日間の予定で、教皇様が日本に来られるというニュースがあります。是非教皇様が一緒に、日本の司教様と、マリア様の汚れなき御心に日本を奉献して下さいますように。

日本の方々にとって、これが「教皇様の来日」という事が、単なるどこかの外国の大統領や王様が来た、というのではなく、日本の回心の為の良いきっかけになりますように、日本の方々がイエズス様と福音とカトリック教会、そしてまた本当の救い主がどこにあるか、という事を知る、あるいはその興味を持つきっかけになりますように、日本の方が光を受ける、その御恵みのきっかけとなりますように!

是非それらを願って、御聖体降福式の時に、聖母マリア様の汚れなき御心に対する奉献を更新したいと思います。どうぞ皆さん、心を合わせて参加して下されば嬉しく思います。


「そして、弟子たちに向かって言った、『汝の母を見よ。』」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、昨日夕食の時、とても興味深い話をしました。それは、マリア様、「聖霊によりて、童貞マリアから生まれたイエズス様」の事です。一体、イエズス様が人となられた、天主の御言葉が私たちの救いの為に人となられたその玄義に、マリア様は一体どう関わっていたのか?「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」という事はどのような玄義であって、私たちにどのように関わっているのか?私たちにどんな意味があるのか?私たちに何をするように提案しているのか?という事を一緒に黙想したいと思っています。

この世で、被造物を激震させた2大事件がありました。「激震した」というのは、「被造物の存在それ自体が、根本から大変化した」という事です。

2回あったその1つは、「創造」の時です。それは、私たちが無で、全く無かった、存在していなかった、何も無かった、それが有るようになった、という事です。これは私たちにとって、存在の根底を変える大変化の時でした。創造の時です。天主には変化がありませんでしたが、私たちは無から有に大変化しました。

第2の時は、この創造よりも更に素晴らしい大変化が起きました。それは有限の、無に等しいような私たちの、無きに等しいような小さな存在が、特に「人間が、天主と一致した」という事です。つまり、「イエズス・キリストが、永遠の御言葉、天主の聖子、無限の知恵が、私たちの人間性を取って、そして人となられた」という事です。

その時、天主にとっては全く変わりがなかったのですけれども、変化がなかったのですけれども、被造物である、特に人間の本性は、今後「天主と一致する事ができる」という、特別の高みに上げられました。無に等しいような存在が、無限の天主と一致する可能性を受けたのです。

天主が人となられた。この天主の聖子が、天主の永遠の御言葉が人間となる事を、託身、「御託身」と言います。これは最高の、聖霊の為した業でした。聖霊はこの時に、天主の本性と人間の本性を、イエズス様の天主の三位一体の第二のペルソナにおいて、一つにしました。分離できないほど一つにしました。

聖霊はしかし、この究極の無限の存在である天主と、有限のちっぽけな存在である人間の本性を一つにする時に、そうする必要性は全くなかったのですけれども、しかし聖霊は永遠の昔から、その事が起こる為の道具として、マリア様を使う事を御望みになりました。

マリア様、その最高の傑作を作る為の、いわばそこに於いて、マリア様に於いて、マリア様と共に、マリア様から、マリア様を使って、それを起こす事を御望みになりました。自由にそれを御計画されました。

そしてその為に聖霊は、マリア様を準備されました。どうやって準備したかというと、それが「無原罪の御孕り」でした。

マリア様は、ご自分のお母様聖アンナのその胎内に孕るその瞬間から、聖霊の特別な働きによって、原罪の汚れを全く無しに、聖霊の天主の聖寵の充満を、充ち満てる御恵みを受けて、最初から存在しました。つまり天主に反するものは全く無い状態で、無原罪の状態で御孕りになりました。無原罪の御孕りです。

ルルドでマリア様はこの事を仰いました。
「あなたのお名前は何ですか?」
「私は、無原罪の御孕りである。」

この事は、マリア様が無原罪の御孕りであるという事は、旧約の時代から既に預言されていました。

例えば、ゲデオンと言う旧約の太祖は、天にしるしを求めました、「もしもあなたの言う事が本当ならば、この毛皮の羊毛の羊のマントだけがぐしょぐしょに濡れていて、他の草はカラリと、露が一つも落ちないようにして下さい。」それを見たら、『確かに天主からのものだ』と信じましょう。戦いに出ましょう。たとえ少数でも。」

すると、その通りになりました。

これはマリア様が、聖寵の充満を受けて、聖寵に充ち満てる御方、「主、御身と共に在す」という事を、「常に在す」という事を前兆していました。

ゲデオンはその次に更に言います、「これでは、もっとしるしが欲しい。今度は、この私の持っている毛皮の、羊の羊毛のマントだけが乾いて、他が皆露で湿っても、これだけはカラリと乾くようにして下さい。

その次の日には、そうなりました。これは、マリア様が無原罪の御孕りであり、マリア様だけが、天主の子羊を産むべきマリア様だけが、原罪の汚れを受けずに、カラリと綺麗である、という事の前兆であった」と教父たちは言います。

これを以てゲデオンは、「確かにそうだ。」戦いに出ます。

マリア様はまさに、この羊の衣でした。

マリア様のこの無原罪の御孕りを通して、汚れない聖母を通して、聖霊は、天主の聖子のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性が一つになるように働かせました。最高の傑作を作りました。無原罪の御孕りの為に。

そこで聖グリニョン・ド・モンフォールはこう言います、「聖霊は、マリア様と共に、マリア様に於いて、マリア様から、御自分の、『人となった天主』という御自分の最高傑作を作った。その為に聖霊は、マリア様と婚姻をした。マリア様と愛によって一つになった。あたかも聖霊とマリア様は全く一体となったかのようであって、もう切り離す事ができないほど一つになっているかのようであって、あたかも聖霊がマリア様の身に写ったかのようになって、」教父たちによると、「聖霊のイコンとなって、聖霊の見える御姿となって、マリア様が行動された。そこで、天主聖子を御胎内に孕す事にした。」

もちろん聖霊は天主であって、マリア様は肉体を持った人間ですから、婚姻などという事は全くありません、ふざけています。

「しかし、あまりにもマリア様が聖霊と一つだったので、人間の言葉で表現するには、『婚姻』という言葉を使うしかなかった」と教父は言います。聖グリニョン・ド・モンフォールも、どうしてもその愛による一致を言う為に、全くそうではないのですけれども、そうしか表現しようがなかったのです。

こうして聖霊は、マリア様と完璧に全く一致していました。マリア様はあたかも聖霊の生き写しであるかのように、この地上で存在していました。

ちょうど、聖霊によりて童貞マリアからイエズス様が生まれたように、「キリストの神秘体の頭」が生まれたように、聖霊によりてマリア様から、その「神秘体の肢体」である私たちも、キリストの一部として生まれなければなりません。これがこの神秘の論理的な結論です。

愛による一致によって、マリア様は天主の婢女、奴隷として行動しました。そしてこの愛によるこの御謙遜と、その奴隷として、婢女として、主の御旨を果たそうとしたその望みは、御自分をはるかに超える業を、「天主の本性と人間の本性を一つに結ぶ」という業を成し遂げる事ができるようにしました。

マリア様の愛は、聖母の天主に対する愛は、「天主の本性と人間の本性を一つに結ぶという天主の最高の業を生み出した愛」です。「これに比べるものが全く無いほどのとてつもない巨大な愛であった」と言わなければなりません。

もしもマリア様が聖霊の生ける似姿であって、イコンであったとしたら、御影(ごえい)であるとしたら、マリア様の下で30年間従順に従っていたイエズス様は、マリア様に於いて聖霊を見ていたに違いありません。天主の愛である聖霊の生き写しをイエズス様は常に見て、そしてマリア様に従っていました。

これは私たちにも「どれほど聖母に対する奉献が必要であるか」という事を示しています。

なぜかというと、もしも私たちが天主の御旨に従って、聖霊の息吹に従って生活しようとするならば、マリア様に奉献されるのが一番の近道であるからです。もしも私たちがこの地上で、霊的にも、あるいは肉体的にも、奇跡が必要なほど必要に迫られている時に、マリア様に行かなければなりません。

最初の奇跡で、7月2日に私たちが記念した、マリア様の御訪問による洗者聖ヨハネの聖化。これはマリア様の介入によって、お言葉によってなされました。あるいはカナでの、水がぶどう酒になる奇跡も、マリア様によってなされました。

今でも、もしも必要であれば、マリア様によってのみそれがなされます。私たちの身も心も、マリア様によって奇跡が起こります。聖化の奇跡です。必要な全ての恵みが与えられます。

ある日イエズス様は言われました、「私の母とはどこにいるのか?聖父の御旨を果たした者、それこそが私の兄弟、姉妹だ。」

聖父の御旨を果たした、完璧に果たした、そして聖霊の生ける御姿であるマリア様。これこそ、聖父の御旨を完璧に果たした最高の方ではないでしょうか?

イエズス様は、そしてその御言葉に続けてこう言われます、「聖父の御旨を果たす者こそ、私の兄弟、姉妹、そして私の母だ。」

愛する兄弟の皆さん、マリア様のその聖霊との一致の神秘の中に、ますます入って下さい。そして今日その黙想をなさる事によって、私たちがマリア様の聖霊の御孕りとしてしつらえられた、マリア様の汚れなき心がどれほど大切であるか、黙想致しましょう。そしてこの御心に奉献される事がどれほど必要であるか、黙想致しましょう。

そして私たちがそのマリア様の御心の中にますます入る事ができますように、そしてイエズス様に倣って、マリア様の汚れなき御心に奉献されて従って生活する事ができますように、つまりそれこそが聖霊の息吹に従う事になる、という事を理解できますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

キリストの花嫁たち 聖ピオ十世会の修道女会終生誓願式 アメリカ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
今年2019年4月28日、白衣の主日 Quasimodo Sunday、アメリカのミネソタ州のイエズスの聖心修練院で、二名のアメリカ人女性が着衣式を受け、二名のフィリピン人修道女らが終生誓願を立てました!





日本からも多くの聖伝に従うキリストの花嫁たちが生まれますように!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父




日本での聖伝のミサのご案内【2019】

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

2019年の御ミサのスケジュールをお知らせいたします。

スケジュールについては、やむを得ず予定の変更がある場合があるかもしれません。

いつものように、左のカレンダをクリックして、最新のミサ日程で、ご確認できますが、

修正がある場合は、この『日本での聖伝のミサのご案内【2019】』の記事も更新いたしますので、随時どうぞご確認ください。

この記事はスマートフォンでも、【カテゴリ】聖伝のミサの予定 でいつでもご確認できます。

聖ピオ十世会 年間の予定はこちら


【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」
大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002
(アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

【東京】「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

**** 8月の予定  ****
 【大阪】
 8月2日(初金)
 教会博士証聖者司教聖アルフォンソ・デ・リグオリ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 8月3日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 8月16日(金) ←キャンセルされました
 8月17日(土) ←キャンセルされました

 8月11日(主) 
 聖霊降臨後第9主日(2級)緑
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 8月12日(月)
 童貞聖クララ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭     ←時間が変更されました

 8月18日(主) ←追加されました
 聖霊降臨後第10主日(2級)緑
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 8月19日(月) ←追加されました
 証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白
 午前6時半 ミサ聖祭


 【東京】
 8月4日(主) 
 聖霊降臨後第8主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 8月5日(月) 
 雪の聖母の大聖堂の奉献(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 8月18日(主) 
 聖霊降臨後第10主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 8月19日(月)   ←キャンセルされました


**** 9月の予定  ****
 【大阪】
 9月6日(初金)
 聖霊降臨後の平日(4級)緑
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 9月7日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 9月20日(金)
 9月の四季の斎日 金曜日(2級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 9月21日(土)
 使徒福音史家聖マテオ(2級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 9月8日(主) 
 聖霊降臨後第13主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 9月9日(月) 
 日本205福殉教者(3級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭

 9月22日(主) 
 聖霊降臨後第15主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 9月23日(月) 
 殉教者教皇聖リノ(3級祝日)赤
 午前7時 ミサ聖祭



**** 10月の予定  ****
 【大阪】
 10月4日(初金)
 証聖者聖フランシスコ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 10月5日(初土)
 聖母の土曜日(4級)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 10月18日(金)
 福音史家聖ルカ(2級祝日)赤
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 10月19日(土)
 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 10月6日(主) 
 聖霊降臨後第17主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 10月7日(月) 
 ロザリオの聖母(2級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 10月20日(主) 
 聖霊降臨後第19主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 10月21日(月) 
 聖霊降臨後の平日(4級)緑
 午前7時 ミサ聖祭



**** 11月の予定  ****
 【大阪】
 11月1日(初金)
 諸聖人の祝日(1級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月2日(初土)
 全ての死せる信徒の記念(1級)黒
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月15日(金)
 教会博士証聖者司教大聖アルベルト(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 11月16日(土)
 童貞聖ジェルトルード(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 11月3日(主) 
 聖霊降臨後第21主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月4日(月) 
 証聖者司教聖カルロ(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭

 11月17日(主) 
 聖霊降臨後第23主日(2級)緑
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 11月18日(月) 
 聖ペトロ大聖堂と聖パウロ大聖堂の奉献(3級祝日)白
 午前7時 ミサ聖祭




**** 12月の予定  ****
 【大阪】
 12月6日(初金)
 証聖者司教聖ニコラオ(3級祝日)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月7日(初土)
 教会博士証聖者司教聖アンブロジオ(3級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月20日(金)
 待降節の四季の斎日 金曜日(2級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月21日(土)
 使徒聖トマス(2級祝日)赤
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月24日(火)
 平日の主の御降誕の前日(1級)紫
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午前0時 ミサ聖祭
 午前10時半 ミサ聖祭


 【東京】
 12月8日(主) 
 聖母マリアの無原罪の御宿り(1級祝日)白
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月9日(月) 
 待降節の平日(3級)紫
 午前7時 ミサ聖祭

 12月22日(主) 
 待降節第4主日(1級)紫
 午前10時  ロザリオ及び告解
 午前10時半 ミサ聖祭

 12月23日(月) 
 待降節の平日(2級)紫(12月17日から12月23日)
 午前7時 ミサ聖祭

 12月25日(水)
 主の御降誕(1級祝日、八日間付き)白
 午後5時半 ロザリオ及び告解
 午後6時 ミサ聖祭

【質問】 新しいミサ(Novus Ordo Missae パウロ六世のミサ)は有効か、無効か?ルフェーブル大司教の答え

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ご質問をいただきましたので、ルフェーブル大司教のお答えをご紹介します。

【質問】
新しいミサ(Novus Ordo Missae パウロ六世のミサ)は、有効でしょうか、それとも無効でしょうか?

【お返事】
結論を先に言います。結論は「新しいミサが無効であることは証明されていない」です。これがルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の考察の結果です。

(ここでは「有効」とは「聖変化が起こる」、「無効」とは「聖変化が起こらない」という意味です。)

これについては、What Archbishop Lefebvre said about the New Massをご覧ください。

1975年には、ルフェーブル大司教は新しいミサについてこう指摘しています。

「新しいミサは、曖昧で多様な意味を持ちうる。何故なら、ある司祭は、ミサが犠牲であるという全くカトリック的な信仰で新しいミサを捧げることも出来る。・・・別の司祭は、(カトリック的ではない)別の意向で新しいミサを捧げることもできるからだ。何故なら、新しいミサで司祭が言う祈りの言葉やしぐさは(カトリック的ではない別の意向に)矛盾しないからだ。」

エキュメニカルな典礼様式をもつ新しいミサは、極めて曖昧であり、カトリック信仰にとって危険である。「主日の義務を果たすためでも、これに与ることが強制され得ない」と評価しました。

「新しいミサを司式する司祭たちの精神に少しずつ起こる変化に同調することを避けるために、私たちは新しいミサに与ることを --- 完全にと私はほぼ言うことができます --- 避けるべきだ。」

1979年11月8日には、ルフェーブル大司教は自分と聖ピオ十世会の、新しいミサと教皇に関する立場を明確にしました。

これはApologia pro Marcel Lefebvre Volume 2, Chapter XL "The New Mass and the Pope"をみると明らかなとおりです。

聖伝のカトリック信徒たちの中には、新しいミサは教皇が認可したラテン語の規範版でさえもそれ自体で無効である、と主張する人々や、あるいは、聖座は空位だと主張する人々が多数出てきたので、この二つの点について明確にする必要があったからです。

新しいミサについては、それ自体では、有効だという立場を保持しました。

ただし、時が経つにつれて典礼の状態は悪化するばかりであり、新しいミサの捧げ方は多くの小教区教会で、容認することが出来ないほど悪くなり、1980年にはヨハネ・パウロ二世教皇が、新しいミサが頻繁に捧げられているやり方が信者たちにとってスキャンダルであり躓きとなっていることを謝罪した[Dominicae Cenae, 1980: "I would like to ask forgiveness ... for everything which ... may have caused scandal and disturbance concerning the interpretation of the doctrine and the veneration due to this great sacrament."]ほどでした。

ルフェーブル大司教は、現代では、ほとんどの新しいミサが「カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっている」と警告しました。

ルフェーブル大司教の文章を引用します。

新しいミサと教皇

過去10年の間、どれほど頻繁に私は新しいミサと教皇の重い問題についての問いに答える機会があったことだろうか。これらに答えつつ、私は常に教会の精神を汲むように最善の注意を払ってきた。カトリック教会が神学の原理において表明された信仰と、倫理神学と教会史の長い経験において表明された司牧的賢明さとに自分自身を合わせるように努めた。

私は、数年の間の自分の見解が変わらなかったと言うことが出来ると思う。そしてこの見解は、幸福なことにも、カトリック教会の破壊され得ない聖伝に密着している司祭と信徒たちの大多数の見解でもある。

次の数行は、これらの問題に関する徹底的な研究ではないことは明らかである。この目的は、聖ピオ十世会の公式な立場に関して誰も間違わないようにするために私たちの結論を明確にするためのものである。

私たちは次のような不合理な考え、つまり「新しいミサが有効であるなら、私たちはそれに自由に与ることが出来る」とは考えないとすぐに理解されなければならない。

教会はたとえそれらが有効であっても異端者や離教者のミサに与ることを常に禁止してきた。私たちの信仰を危険にさらすミサや冒涜的なミサにだれも与ることが出来ないのは明らかである。

公式に権威を授けられた公会議典礼委員会によって説明されたとおり、ブニーニ師の説明を伴って考察されると、新しいミサは、プロテスタントの神学と典礼に説明の出来ない親和性がある。次のミサ聖祭の犠牲に関するカトリックの基礎的なドグマは、新しいミサでは明らかに表明されておらず、矛盾さえしている。

●司祭が典礼様式の本質的奉仕者であること
●ミサ聖祭が本当の犠牲であり、犠牲を捧げる行為であること
●パンとぶどう酒の外見のもとに、御体と御血と霊魂と神性をもって現存するいけにえ(ホスチア)が私たちの主イエズス・キリスト御自身であること
●この犠牲は罪の償いのためのものであること
●犠牲と秘蹟が、聖別の言葉だけによって生じること、その前や後に続く言葉によるのではないこと

新しいミサにおけるいくつかの革新的な要素を指摘するだけで、プロテスタントとの親和性があることを確信するには十分である。

●祭壇は、聖遺物のない食卓に変えられた
●ミサは、会衆に向かって捧げられ、共同司式が行われ、大きな声で唱えられ、俗語でなされる
●ミサは、御言葉の典礼と聖体の典礼という二つの区別される部分に分けられた
●カリスやパテナが貴金属から安物に変わり、酵母の入ったパンが使われ、平信徒によって、しかも女性によって手に聖体拝領が配られる
●御聖体は、教会の中心から脇に隠される
●書簡は女性によって読まれる
●平信徒が聖体拝領を病者に運ぶ

上記の全ての新しいことは、許可された。これらのほとんどの新しいミサは、カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっていると、誇張することなく公平に言うことが出来る。

非神聖化はあまりにもなされ、これらの新しいミサはその超自然的特徴、その信仰の神秘を失う危険を持ち、新しいミサが自然宗教の行為以外の何ものでも無くなっているほどである。

これらの新しいミサは、私たちの主日の義務を果たす能力がないのみならず、正教会やプロテスタントのセクトとのcommunicatio in sacrisに適応する教会の通常の教会法的規則を新しいミサに適応すべきほどである。
[注:教会法 1917: 1258条§1. 信者が非カトリック者の聖式に能動的にあずかること、すなわち宗教的行為を行うことは許されない、とある。しかし新教会法 1983: 844条は、エキュメニズムのためにこの規定に例外をもうけてしまった。]

では、これらの新しいミサは無効だと結論しなければならないだろうか?有効性のために必要な本質的な条件(質料、形相、意向、有効に叙階された司祭)がそろっている限り、どうやってこれを断言することが出来るのか私には分からない。
[つまり、質料、形相、意向、有効に叙階された司祭など、秘蹟の有効性のために必要な本質的な条件がそろっている限り、無効であるとは言えない。]

聖変化の言葉を取り囲む、奉献文(Offertorium)や典文や司祭の聖体拝領の時の祈りは必要であるが、秘蹟の有効性のために必要ではなく、むしろミサの完全性のために必要である。

しかしながら、今日では、司祭らの信仰が破壊されるにつけ、また司祭らが教会が行っていることをするという意向 -- 教会が変えることが出来ない意向 -- をもはや持たなくなっていくにつけ、有効なミサがますます少なくなっている。

今日、神学生と呼ばれている人々が受けている養成は、ミサを有効に捧げるように彼らを準備していない。ミサ聖祭の贖罪のいけにえを捧げることが、司祭の本質的な仕事であるとはもはや考えられていない。公会議後の司教たちが、召命に関する説教、あるいは司祭叙階の時にする説教や教えを読むことほど、ますます悲しくなり、残念に思うことは他にない。司教たちは、司祭が何であるかもはや知っていない。

(…)私たちはローマとペトロの後継者につながっていることを望むと同時に、教皇の前任者たちの歴代教皇たちへの忠実さにより、教皇の自由主義を受け入れない。ちょうど聖パウロが聖ペトロにしたように、私たちは、尊敬を込めてしかししっかりと教皇に話すことを恐れない。

さらに、教皇のために祈ることを拒否するなどということから遙か遠く、私たちは聖霊が、教皇が信仰を断言し擁護するために教皇に光と力とを与えてくださるように、私たちの祈りと懇願を倍増している。

従って、聖ピオ十世会とその司祭、修道者、修道女、奉献修道女らは、教皇のために祈ることを拒否するような人々、或いは、新しいミサがそれ自体で無効であると断言する人々を、その会員として容認することは出来ない。

結論として、私たちは教会の真の精神である宣教精神を持たなければならない。
私たちは、私たちの聖なる守護者である聖ピオ十世の言葉に従って私たちの主イエズス・キリストの統治をもたらすために全てをしなければならない:キリストにおいて全てを回復させる。Instaurare omnia in Christo.

私たちは、キリストにおいて全てを回復させなければならない、そして、私たちの主が霊魂の救いのために、また真理の凱旋のために、御受難においてそうしたように、私たちも全てをそのために従わせなければならない。私たちの主はピラトに言われた。"In hoc natus sum, ut testimonium perhibeam veritati." 真理を証明するために、このために私は生まれた、と。


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教皇聖下の日本訪問が霊的なものとなるために、まず私ども日本の信徒らが霊的に祈りでもって準備をして教皇聖下をお迎えする

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 報道によるとフランシスコ教皇聖下は今年の11月下旬に日本を訪問されます。

 教皇様は、キリストの地上における代理者ですから、地上における最高の権威者が日本に来られるということは、私どもカトリック信徒にとって大きな喜びです。

 あたかも、1549年の聖母被昇天の祝日に、イエズス会の聖フランシスコ・ザベリオが教皇の公使として来日し、カトリック教会の発展のための計り知れない成果を上げたように、今回の教皇聖下の来日が、より霊的なものとして、より実り豊かなものとなることを望みます。

 教皇聖下のご訪問が、ますます霊的なものとなるために、まず私ども日本の信徒らが霊的に祈りでもって十分に準備をなし、教皇聖下をお迎えすべきだと考えます。

 そこで私ども聖ピオ十世会日本では、教皇聖下のご来日を準備するために、信徒の方々に、ロザリオや聖体降福式などによる教皇様のためへの霊的花束を提案いたします。

 教皇聖下のご来日が霊的な意味を持つという意味で、今回のご来日が他の政治家の訪問とは、その意義がまったく違っていることを一般の国民にはっきりと印象づけられることが大切であると考えます。

 そのようになりますよう私ども日本中のカトリック信徒が、はっきりとした自覚を持って霊的な祈りをお捧げして準備をすべきだと考えます。来日する教皇聖下が、天主のみ旨のために働かれるよう願い、真面目に祈るのは、私たちカトリック信徒の義務であります。

 フランシスコ教皇聖下が、470年の時を経て、日本にとって現代の「聖フランシスコ・ザベリオ」となられることができるために、多くのロザリオの祈りを、教皇聖下のために、カトリック教会のために、祈るように呼びかけます。

 教皇様が、イエズス・キリストの教えに忠実なその代理者として訪日され、聖フランシスコ・ザベリオが日本に伝えたのと同じイエズス・キリストの教えをそのまま変えずに教えてくださるように、祈りを持ってお支えいたしましょう。このことを今、心ある日本中のカトリック信徒の方々に呼びかけます。

 私どもが教皇聖下のために多くのロザリオをその意向でお捧げすること、日本のカトリック信徒としてこれに勝る最高のプレゼントはありません。

 私たちは教皇座空位論を受け入れません。現代の私たちが見ている教会の危機は、第二バチカン公会議の中に含まれていた毒の種が大きくなって実りを付けている結果にすぎません。

 この危機において私たちは、天主の御恵みに助けられ、傷ついたキリストの花嫁であるカトリック教会と、教皇聖下への最大の奉仕をすることを望みます。それは、私たちが聖伝の信仰を守り、教会と教皇聖下のために祈ることによってです。

 2019年4月に離教の英国教会カンタベリー大主教ジャスティン・ウェルビ(Justin Welby)による黙想会がバチカンで行われ、その最終日である4月11日、フランシスコ教皇様は、戦争の火を今後全て消すことを三人のスーダンのイスラム教指導者らに求めて、彼らの足に接吻をしました。(これをあざ笑うかのように、この直後4月15日、パリのノートルダムでは大火災が起きました。)

 フランシスコ教皇様は、その個人としての行動や考えがどうであれ、依然としてこの地上に置けるイエズス・キリストの代理者としての権威を持って、来日されます。

 フランシスコ教皇様は、王の王であるイエズス・キリストの地上における代理者なのですから、イエズス・キリストの御名の故に、全地の全ての人々が例外なく敬意を表するべき人です。しかし、敬意を表すのみだけでは足りません。私たちは、教会とキリストの代理者に対する愛の火に燃えて、教皇聖下の訪日に向けて多くの祈りを呼びかけます。

 いまカトリック信者として真摯な祈りでお迎えする準備をすることが、教皇が日本で聖なるキリストの代理者としてご活躍をなさるために大きな力となるはずだからです。

 フランシスコ教皇のお姿と祈りと言動に触れることで日本の多くの方が本当のカトリック信仰に近づくきっかけとなることができるようになることを祈り求めて、フランシスコ教皇がそうしてくださいますよう 天主様に祈らなければならないからです。ロザリオの祈りをもって、祈りましょう。

 キリストの代理者の日本訪問により、日本に住む多くの愛する兄弟姉妹がイエズス・キリストを知る機会となりますように!

 フランシスコ・ザベリオが教えた時と全く同じカトリックの教えが、フランシスコ教皇様来日を機に、もう一度日本で教えられるようになりますように!

 そして470年前のその時と同じミサが、これを機に、今後、日本各地でも捧げられるようになりますように!

多くの善意の方々がこの呼びかけに答えてくださることを祈ります。

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
秋田の聖母よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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私たちには教皇様の来日を準備するため以外にも、教皇様のために多く祈る理由が多くありる

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 フランシスコ教皇様のために私たちの祈りを倍増しましょう。私たちには、教皇様の来日を準備するため以外にも、教皇様のために多く祈る理由が多くあります。


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 第二バチカン公会議後、教会の大混乱を見たルフェーブル大司教はこう言います。

「教皇のために祈ることを拒否するなどということから遙か遠く、私たちは聖霊が、教皇が信仰を断言し擁護するために教皇に光と力とを与えてくださるように、私たちの祈りと懇願を倍増している。」

 来たる10月にローマで開催される "アマゾン・シノドス"が計画されています。その準備資料(Instrumentum Laboris)を分析して、元教理聖省長官であったミュラー枢機卿は「教皇といえども、公会議といえども、女性が司教、司祭、助祭に叙階ことを可能にすることは出来ない」と批判しました。

 ミューラー枢機卿は、ベネディクト十六世の元で教理聖省長官でしたが、2017年フランシスコ教皇が退任させました。

 ミューラーはこのシノドスは「解体用の鉄の玉」で、「普遍教会を再建築する」ことを目的としている、と警告しています。



 エレガンティ司教は、この準備資料にある考えが採用されるなら、「カトリック教会という全神秘体を汚染し、重大な結果を及ぼすだろう」と語ります。

 ニコラ・ブックス(Bux)師は、アマゾン・シノドスを、内部から真の教会を「破壊し」て、「別の教会を作る」試みである、と呼んでいます。

 シュナイダー司教は、教皇フランシスコには司祭独身制という使徒継承の遺産をまもる厳格な義務があると発言しています。

 フランシスコ教皇は、教皇として、イエズス・キリストの代理者です。イエズス・キリストの教えをそのまま変えずに教えてくださるように、祈りを持ってお支えいたしましょう。

 このことを今、心ある日本中のカトリック信徒の方々に呼びかけます。私どもが教皇聖下のために多くの祈りやロザリオや犠牲をその意向でお捧げすることです。

 もちろん、私どもは報道によって、フランシスコ教皇様の過去の発言、特に問題発言を存じ上げています。

*「祈りを数えるのはペラジウスの異端だ
*同性愛の人々や離婚して別のパートナーと同棲している人々に、御聖体拝領を認める道を開こうとしていること(アモーリス・レティチア)、
*「無神論者らは天国に行く
*「自然に反する罪に強迫観念を持つべきではない
*「改宗させるのは荘厳なナンセンスだ。」Proselytism is solemn nonsense
*「聖母は御自分の聖子の御受難のあいだ、騙されたと感じたかもしれない。」Our Lady may have felt deceived during Her Son’s Passion.
*「地獄に落ちた霊魂たちは、無となり無くなってしまう。」The souls of the damned are annihilated.
*「カトリック信徒らは "ウサギのように" 子供を産むべきではない。Catholics shouldn’t breed “like rabbits”
*「教会を襲う最大の悪は、若者の失業と年寄りの孤独である。」The greatest evils afflicting the Church are youth unemployment and the loneliness of the aged.

最近では、ますます多くの枢機卿、司教、神学者のグループ、司祭、平信徒たちが、ドグマと道徳の重要な点について、教皇様の発言に異議を唱えています。

アモーリス・レティチアに関する「疑惑 Dubia」が2016年9月19日、ブランミュラー枢機卿、バーク枢機卿、カファラ枢機卿、マイスナー枢機卿らによって教皇に提出されました。

*2017年7月16日付けで異端を広めたことについての忠孝からの矯正」は、2017年8月11日に教皇に提出されました。

*アモーリス・レティチアに反対して、2017年12月31日、アスタナの聖マリア大司教区のトマシュ・ペタ(Tomash HREF="https://reginamag.com/profession-of-the-immutable-truths-about-sacramental-marriage/">「婚姻の秘蹟に関する不変の真理の宣言」を発表しました。後にはこれにリガ大司教区のヤニス・プジャツ枢機卿(Cardinal HREF="https://blog.goo.ne.jp/thomasonoda/e/7bd52096b5deef952b99339b737998b9">ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿とレイモンド・バーク枢機卿)がローマでのカンファレンスで信仰宣言「Declaratio」を発表し、教皇にも同じ信仰宣言を求めました。

*在ワシントンの元教皇大使であったヴィガノの大司教は、2018年8月22日付けで告発の手紙を書いて発表しました。さらに2018年9月29日付けで第二の手紙も発表します。

フランシスコ教皇聖下とグランド・イマームとの「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」(2019年2月4日)に関連して、聖ピオ十世会総長はコミュニケ「まことの兄弟愛」を発表しました。

2019年2月8日、ミュラー枢機卿は「信仰の宣言」マニフェストDas Manifest des Glaubens を発表しました。これはアブダビの宣言「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」に反対するものです。

アメリカ人のカプチン会司祭ワイナンディ神父(Fr. Thomas G. Weinandy)は、カトリック・ワールド・リポート紙にアブダビの宣言「世界平和と共存のための人類の兄弟愛に関する文書」について批判を寄せています。

ロベール・サラ枢機卿は自書『夕暮れが近づいた、日は既に暮れかけている』(Le soir approche et déjà le jour baisse, 2019) で、「現在の危機は教会の最高のレベルに位置しているというのは本当だ。もしももはや私たちが教義や道徳を教えることが出来なくなり、模範を示すことが出来ないのなら、危機は極めて重大となっている。」と発言しています。

*2019年1月に出版された『私の祖国の人々への愛のために私は黙っていない For Love of My People I Will Not Remain Silent』、香港の陳日君枢機卿は、バチカンと中国との協定を「間違った戦略」であり「妥協と降参でしかない」と批判しています。

*「教皇フランシスコを異端の罪で告発するカトリック教会の全司教たちへの公開書簡」が、20名の大学教授や神学者たちによって署名され、2019年4月30日に発表されました。これは全世界の司教たちが介入して、教皇にその異端を捨てるようにさせることを懇願するものです。もしも教皇がこれを受け入れず異端を捨てない場合、公式の異端者となるので、司教たちがフランシスコ教皇を「教皇の地位を失った」と宣言することが出来るようになる、と説明されています。

 このような流れで、今回、アマゾン・シノドスが準備されています。

 ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)は、10月に開催予定の準備中のアマゾン・シノドが女性の助祭と司祭の結婚を求めていることについて、2019年7月にその動きを批判して「カトリック教会を根本的に再構造する」作戦にすぎない、司祭独身制は使徒からの聖伝の正真正銘な一部である」と断言し、アマゾン・シノドスの準備資料のことを「異端的」であり、天主の啓示からの「背教」であると言います。

 こういった一連の教皇様の発言や行動に躓いて、教皇座空位論に陥ってしまう不幸な人々がいることも事実です。

 しかし、私たちは教皇座空位論を受け入れません。現代の私たちがみている教会の危機は、第二バチカン公会議の中に含まれていた毒の種が大きくなって実りを付けている結果にすぎません。

 ここにおいて私たちは、天主の御恵みに助けられ、傷ついたキリストの花嫁であるカトリック教会と、教皇聖下への最大の奉仕をすることを望みます。それは、私たちが聖伝の信仰を守り、教会と教皇聖下のために祈ることによってです。

 シスター・ルチアは、わたしたちが教皇のためにたくさん祈らなければならないこと、教皇のためにどれほど祈らなければならないかを訴えています。

 秋田のマリア様も仰っています。「教皇、司教、司祭に為にたくさん祈って下さい」「悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。」「ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。」

 元后憐れみ深き御母マリア様からの奇跡を、乞い願いましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

キリストの神秘体であるキリストの教会とは、カトリック教会である。カトリック教会こそ、乗らなければ私たちが救われない舟。「沖に出よ。魚を救え。多くの魚をこの舟に乗せよ。」

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2019年7月7日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2019年7月7日、聖霊降臨後第4主日のミサをしております。

今日お知らせがあります。

1つは、良いニュースです。5月の第3の主日に、大阪で私たちは聖母行列をしました。ファチマの聖母マリア様と一緒に。

御聖堂からロザリオを唱えながら聖母行列をして、御聖堂の近くにある公園で、マリア様の前で、大阪の御聖堂と私たちを聖母の汚れなき御心に奉献する式の更新をしました。

すると6月には、大阪の大司教様である前田枢機卿様の指導の下に、大阪教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献する式が行なわれました。

私たちはファチマのマリア様の事をよく黙想した時に、「マリア様の汚れなき御心こそが、天が望んだ、世界の平和の為の確実な唯一の手段である」という事を知っていたので、日本がもう一度汚れなき御心に奉献されますように、という事をいつも望んでいました。

秋田のマリア様も、天使を通して、聖母の汚れなき御心への信心の事を仰っていました。ですから、大阪大司教区が聖母の汚れなき御心に奉献された、という事を知って、とても嬉しく思いました。

そこで今日は、月の最初の主日なので、皆さんに提案します。私たちのいつもやっている御聖体降福式の時に、聖母の連祷の後で、日本を聖母の汚れなき御心に奉献します。

その意向は、「日本の大司教様たちが、この教皇様がいらっしゃる11月に、教皇様と一緒に揃って、日本を聖母の汚れなき御心に奉献して下さる」という事を祈って、その為の御恵みを求めてです。

日本の平和の為にも、世界の平和の為にも、この奉献がなされるように、緊迫している時代ですから、ますます必要です。

「ヨハネ・パウロ2世とレーガン大統領の時代に鉄のカーテンが落ちたように、フランシスコ教皇様とトランプ大統領の時代に竹のカーテンが落ちますように、北朝鮮と中国が共産主義をやめますように、ベトナムが共産主義を捨てますように、是非その為に日本の聖母の汚れなき御心への信心が世界の模範となりますように」との願いを込めて、日本を、私たちの出来る限り、マリア様の汚れなき御心に奉献したいと思っています。皆さんもそれに、一緒に心を合わせて下さい。

今日はその御聖体降福式の後に、2人の子供たちの洗礼式があります。皆さんどうぞお時間があったら参加なさって下さい。

それから洗礼式の後に簡単なお祝いがあります。
そのお祝いの後に、侍者の方の来週のミサの練習があります。

次のミサは来週の主日です。ここで10時半から荘厳ミサがあります。3人の司祭で、荘厳ミサがあります。

来たる土曜日と主日の午後には、国際シンポジウムが、「フランス革命を見直そう」という国際シンポジウムがあります。

7月15日の海(産み)の日にはここでミサがあり、また午後にはマーチ・フォー・ライフもあります。皆さんいらして下さい。

再来週の主日にもここでミサがあります。3週ミサが続けてあります。どうぞいらして下さい


「沖に乗り出せ。」


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聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音では、聖ペトロの舟にイエズス様がお乗りになって、そして御説教をされた、群衆に説教をされた、そしてその後にイエズス様がペトロに、「さぁ、沖に乗り出せ。網を下ろせ」と言います。するとペトロが、「夜中じゅう一生懸命働いても、一匹も、雑魚一匹も取れませんでした。しかし、お言葉ですから行きましょう」と言うと、網がはち切れて、魚がどこに行ってるか分からないほど、もう舟が沈んでしまうほどの大漁の魚が捕れた、という史実が読まれました。

今日は、この史実が霊的に、今現在2019年に意味している事を黙想して、そして私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。


この逸話がここにあるのは、「ペトロの舟」というのは、「カトリック教会」の事です。聖ペトロの舟、イエズス・キリスト様がそこに乗って、私たちに説教されて、そして多くの魚たちをそのペトロの舟に乗せようとする、その舟の事です。

典礼歴によれば、待降節とそして御降誕節において、「イエズス・キリストこそが、旧約時代によって預言された、この全宇宙を創った創造主からの送られたその聖子、真の救い主、預言の成就、それが全て正確に成就されて、そして生まれた本当のメシア、救い主、唯一の救い主である」という事を私たちは確認して、黙想しました。

四旬節とそして復活された時には、「このメシアが、預言の通り全てを成就させて、私たちの罪の償いの為に、御自分がその尊い天主の御血を流されて、私たちの為に苦しみを受けて、死を受けて、そして罪の赦しとなって、私たちの為に亡くなられた、十字架によって亡くなられた事。そして予言の通り、御自分が真の天主であり、救い主であるという事を示す為に、復活された事。その歴史的な事実は、誰も否定する事ができない事」を黙想しました。

そして復活祭を祝った後に、私たちは主の昇天、そして聖霊降臨も黙想しました、「真に私たちの為に生まれたイエズス様は、肉体と霊魂を以て天に、御自分の力で上がった事」を、「そして私たちを天で待っている事。私たちの目的は、人生の目的は、この地上ではなくて、永遠の命である事。その為に聖霊を私たちの贈り物として無償で頂いた事。御聖体を頂いた事。イエズスの聖心の愛」を黙想しました。

その論理的な続きが、「カトリック教会」です。イエズス様が創った、天主が創った唯一の救いの方舟カトリック教会について、教会は私たちに黙想するように招いています。

旧約の時代には、この前兆がありました。
「ノアの方舟」でした。

ノアの方舟では、古い時代では、水によってきれいに洗い流されてしまいました。全く残らないように。洪水によって。これは「洗礼の水」を表しています。

「洗礼によって、私たちがどれほど醜い、恐ろしい罪を犯したとしても、きれいさっぱりに洗わされる、全く流されてしまう、天主が綺麗にして下さる」事を意味しています。

しかし人類は、そして動物たちは、昆虫も、その他どのような獣たちも、ノアの方舟にさえ入りさえすれば、助かりました。しかし入らない者は、滅ぼされてしまいました。

これも、来たるべき唯一の救いの方舟、イエズス・キリストの立てた教会、ローマ・カトリック教会、聖なる、使徒継承の教会についての前兆でした。イエズス様が選んだのは、「聖ペトロ」です。「聖ペトロの舟」です。


そこで第2のポイントとして、私たちはこのカトリック教会の特徴を1つ、教皇様の声を聞きながら黙想致しましょう。

「カトリック教会こそが、天主が創った唯一の救いの箱舟である」という事は、これは私たちが勝手に思い付いた事ではないのです。

初代から、聖ペトロとパウロの時代から、そして聖アウグスチヌスも、教皇様たちが、歴代の教皇様たちが、口を酸っぱくして、何度も何度も言い続けてきた事で、公会議でも何度も同じ事が定義されてきた事で、これほど同じ事が定義された決議が、決定がないほどの事です。

それは、「カトリック教会が、イエズス・キリストの唯一の宗教で、教会で、イエズス・キリストの教会とカトリック教会は全く同じものだ。この他には救いがない」という教えです。

例えば1208年12月18日、イノチェント3世教皇様は信仰宣言の中で、「『唯一の聖なるローマ・カトリック、使徒教会の教会にこそ、救いがあって、その他においては誰も救われる事ができない、と私たちは信じている』と信仰宣言をするように」と命じました。

あるいは、ボニファチオ8世がその100年後に、有名な『ウナム・サンクタム“Unam sanctam”』という勅令を出しています、「イエズス・キリストがその頭である神秘体とは、唯一の、聖なる、そしてカトリックの使徒継承の、教会である。」

あるいはピオ十二世教皇様も、『ミスティチ・コルポリス“Mystici Corporis”』という回勅の中で仰っています、「キリストの神秘体であるキリストの教会、この地上におけるその神秘体というのは、つまりカトリック教会の事である」と。

そして同じくピオ十二世教皇様は、ミスティチ・コルポリスの数年後、『フマニ・ジェネリス“Humani generis”』という回勅の中で、1950年、「ある人々は、私がミスティチ・コルポリスの中に書いた事を『信じなくても良い』と誤解としている人がいるけれども、しかし私がその中で言った教えというのは、啓示によって、啓示を源泉として基礎を持っている信仰の教えである。だから誰も、信じなくて良いというわけではない。必ず信じなければならない。その教えというのは、啓示された教えというのは、『ローマ・カトリック教会とキリストの神秘体というのは、全く同じの、唯一の同じ現実である』という事だ」と教えています。

私が今引用したのはほんの少しですけれども、教会の教導権は2000年間の間、同じ事を、同じ言い方で、言い続けてきました。
「天主が、私たちを救う為に使うその道具は、人間たちに御自分の教えとそして聖寵を伝えようとするその道具は、それはローマ・カトリック教会である。そして例え異端者、あるいは離教者、あるいは偽りの宗教たちが教会の中の一部の要素を使ったとしても、それは全く残骸であって、役に立たない。救いの為には役に立たない。」

更に同じピオ十二世教皇様は言います。
「たとえ例外的に、天主が救いの御恵みを、目に見える教会の範囲の外に於いても与えたとしても、それはグループとしてではなく、個人個人、一人の為に特別に与えたものであって、それ以外のものでは何でもない。天主の立てた救いの方舟は、カトリック教会だ。だから私たちはその事を知らなければならない。」

これは私たちに一体、2019年に何を教えているのでしょうか?

まず第1に私たちは、「その真理を知っている」という事を深く感謝致しましょう。これは、この舟に誰が乗っているか、乗っている人が偉いか、乗っていない人がどうのこうの、という話ではありません。

「舟」の問題なのです。どの舟が沈むか、沈まないか。どの舟が最後まで大洪水に耐え切れるか、耐え切れないか。どの舟に乗れば、救いの港まで安全に辿り着くか、辿り着かないか。その「舟」の問題なのです。

その舟に乗るのが、獣でも、動物でも、何でも良いのです、救われる為には。

そして、「あぁ、もしもそのような事を言うと、他の舟に乗っている人がかわいそうじゃないか。傷付く」という問題ではないのです。
「本当のことを言わない」事こそが、「愛と真理に反する」のです。

「その舟に乗ったら危ない!沈んでしまう!港に辿り着かない!危ない!早く早く!命を助けなければならない!今雨が降っている!命の問題だ!永遠の命の問題だ!」愛徳の問題です。

その為にこそ、聖フランシスコ・ザヴェリオは、全てを置いて、東洋の日本まで来ました。その為にこそ、多くの方々が殉教の血を流しました。その為にこそ、チマッチ神父様は日本にまでやって来ました。

この「救いの箱舟に」ついて、「ペトロの舟」について、「カトリック教会」について、「私たちがそうしなければ救われない舟」について、「天主の創った救命ボート」について、教えたいと思ったからです。

そして今日福音の中で、教会はこの事を私たちに教えようとして、「たとえそのような事を言う事が、他の人たちを傷付けるんじゃないか」とか、あるいは「そんな事を言っては、独善的だ」と言われるかもしれません。一生懸命今まで働いても、何も捕れなかったかもしれません。

しかしイエズス様は、その事は関係ありません。なぜかというと、これが真理だからです。これこそが方舟、これに乗らないと、救いの港まで到達しないからです。「さぁ、これに乗って下さい。」

だからペトロに言います、「沖に出よ。魚を救え。多くの魚をこの舟に乗せよ。」

網が割れて、逃げてしまう異端者が出るかもしれません。しかしイエズス様の御恵みによって、大漁となる事でしょう、ペトロの舟が沈むほどになるかもしれません。

私たちはそれを祈りましょう、多くの霊魂たちが救われますように、ペトロの舟に救われてきますように、それをお祈り致しましょう。

マリア様にお祈りします。多くの方が、その真理を、客観的な真理を認める事ができますように。

「沖に乗り出せ。Duc in altum!」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ポルトガルの聖エリザベト女王、寡婦。女王、家庭の母、国民の模範的な母: 生まれた時に「平和の為の仕事が始まった」

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2019年7月8日(月)寡婦聖エリザベト女王のミサ ミサの前のお話
聖ピオ十世会司祭 小野田神父

今日は、聖エリザベト女王、寡婦のミサです。
1271年に生まれたポルトガルの女王、家庭の母、国民の模範的な母です。

ポルトガルの聖エリザベトに、集祷文では、「平和を与えて下さるように」天主に祈ります。聖エリザベトが生まれた時から、ポルトガルの王たちの間の、あるいは国民たちの間の平和を得たからです。

生まれた時に「平和の為の仕事が始まった」と言われています。
なぜかというと、生まれたその時に、仲の悪かったいがみ合っていた、自分の父親とおじいさんが、その喜んだあまり仲良くなったからです。

若くして、ポルトガルのディオニジウス王と結婚します。人民の為に、そして王の為に、天主の為に、非常に敬虔に尽くしました。子供を天主の畏れの内に教育しようと、一生懸命しました。

王が亡くなると、自分は天主への祈りに専念しました。そして一年のほとんど半分は、パンと水で断食していたそうです。

聖エリザベト、その当時王女であれば、女王であれば、面白おかしく暮らす事ができたにもかかわらず、祈りと、苦業と、愛徳に敬虔に暮らしたこの態度を、私たちも真似る事ができるように、お祈り致しましょう。


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革命とは何なのか?革命とは、憎しみ、そこにおいて人間が同時に王と神ではない秩序に対する憎しみ、天主の権利を無視する人権宣言、天主の上ではなく人間の上に成り立つ社会の土台、天主の玉座についた人間である。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2019年7月13日から14日の二日にわたって開催された国際シンポジウム「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」で、開会言葉をさせていただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




尊敬すべき神父様がた、お集まりの皆様、
おはようございます。

本日は、フランス革命に関する特別に造詣の深い講師の方々に来ていただき、私どものもとにお話しくださる機会を得たことは大変な名誉であります。

私たちが今生きている現代世界において、天主が確立した自然の秩序を破壊しようとする試みがますます多くなっているのを目の当たりにしております。すなわち家族や婚姻とったものが、天主の掟を考慮することなく、崩壊しつつあります。さらに客観的で生物学的な秩序から切り離されたジェンダー論に世論はますます流されているように思われます。

これらの動きにおいて、私たちは1789年の革命の論理的帰結を見ています。何故なら、革命の本質とは、政治のシステムや、君主制や、貴族制度に関するものではないからです。

ジャン・ジョセフ・ゴーム師 (1802 – 1879) は、1856年に『革命その起源およびヨーロッパにおける悪の伝播に関する、ルネッサンスから現代までの歴史的探求』という書を出版し、フランス革命が何であるかを次のように説明しています。

「もしも革命の仮面を取り剥がして、革命に「おまえは誰だ?」と尋ねるなら、革命はこう言うでしょう。
『私は、人々がそうであると信じているものではない。多くの人が私のことを話しているが、私のことを知る者はほとんどいない。私は、カルボナリ(秘密結社)主義でもなければ、暴動でもない。君主制から共和制への変更でもなければ、ある王朝から別の王朝への置き換えでも、公共秩序の一時的混乱でもない。ジャコバン派の叫び声でもなければ、山岳派の怒りでもなく、バリケードでの戦いでもなければ、略奪でもなく、放火でもなく、農地改革法でもなく、ギロチンでもなく、水責めの拷問でもない。私は、マラMaratでもなく、ロビスピエールRobespierreでも、バブーフBabeufでも、マツッーニMazziniでも、コシュートKossuthでもない。これらは、私の子供らであり、私ではない。これらは私の作品であり、私ではない。これらの人とこれらのことは、一時的な出来事であるが、私は永続する状態である。』

『私は憎しみである。人間が確立しなかった全ての秩序、そこにおいて人間が同時に王と神ではない秩序に対する憎しみである。
私は、天主の権利を考慮しない人権宣言である。
私は、天主の御旨の代わりに、人間の意志の上に立つ宗教的かつ社会的状態の基礎である。
私は、その王座から引きずり下ろされた天主であり、その代わりに天主の玉座についた人間である。これが私が革命、すなわち転覆と呼ばれる理由だ』と。」

同じ時期に、ロシアではネチャーエフが1869年に所謂「革命家のカテキズム」を書きました。その中で彼は革命とは何かを次の言葉で描写しています。

「われわれの組織は人民革命を、西欧流の古典的な型に規定された運動、つまり、つねに財産とか、いわゆる文明とか道徳とかいう社会秩序の伝統の前で立ち止まり、現在までいたるところで、いわゆる革命国家をつくりだそうとしながらも、一つの政治形態を打倒し他のそれにおきかえることにとどまってきた運動であるとは考えない。人民を救いうる唯一の革命は、あらゆる国家組織を根こそぎにし、...すべての国家的伝統、制度および諸階級をなくすような革命である。.... われわれの仕事は、すべてをまきこみ、いたるところで容赦なくおこなわれるべきおそろしい破壊なのである。... この世界を一つの、無敵の、一切を破壊してしまうような勢力に統合すること。これが、われの組織、陰謀、任務のすべてなのである。」

革命とは、いにしえの蛇が太祖アダムとエワにした誘惑の繰り返しです。「おまえたちは、神々のようになるだろう」と。

革命とは、天主が確立した現実と真の秩序に対する「すべてをまきこみ、いたるところで、容赦なくおこなわれるべき、おそろしい破壊」です。

革命とは、私たちの真の創造主に反対する戦い、つまり、人間となった天主イエズス・キリストとその聖なる宗教、人類のための真の救いの秩序に対する戦争です。
革命とは、天主の代わりに、人間が神となり、人間の主張する主権において、人間の世界を創造する試みです。

革命とは、従って、堕落した天使の「私は天主に仕えない」という雄叫びのこだまです。
現代世界にある悪の本当の原因を知るために、私たちは今こそ革命をもう一度見直す時に来ています。

私たちの特別講師の方々が、革命とは一体何なのかをはっきりと理解することが出来るように私たちにうまく説明してくださることを、私たちはここであらかじめ感謝いたします。ご来席の皆様におかれては、この国際シンポジウムを心ゆくまでお楽しみ頂くようにお祈り申し上げます。

ご静聴ありがとうございます。


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* * * * *

Ave Maria!

Reverend Fathers, Ladies, and Gentlemen,

We have the great honor to have among us these most distinguished guest speakers, specialists on the French Revolution. In the world in which we live, we see a tremendous increase in the attempt to destroy the natural order established by God, such as families and marriage, without any consideration given to God's law. We have the impression of more public opinion on the theory of gender, separated from the biological order.

We see in these movements, the logical consequences of the Revolution of 1789 because the Revolution is not about the political system, not about being against monarchy, not about being against the nobility.

Mgr Jean-Joseph Gaume (1802 – 1879) published his book "Révolution, historical researches on the origin and the propagation of the evil in Europe, from Renaissance until our time” in 1856, explaining what the French Revolution is:

"If, snatching away the mask of the Revolution, you asked her, "Who are you?", she would say to you: "I am not what they believe I am. Many speak of me, and very few know me. I am not Carbonarism conspiring in secret, nor riots roaring in the streets, nor the change from the monarchy to a republic, nor the substitution of one royal dynasty for another, nor a temporary disturbance in public order. I am not the howls of the Jacobins nor the furies of the Mountain, nor the fighting on the barricades, nor the pillaging, nor the arson, nor the agrarian law, nor the guillotine, nor the drownings. I am not Marat, nor Robespierre, nor Babeuf, nor Mazzini, nor Kossuth. These men are my sons - they are not me. These things are my works - they are not me. These men and these things are transitory things, and I am a permanent condition.

"I am the hatred of every religious and social order which Man has not established and in which he is not king and God together; I am the proclamation of the rights of man against the rights of God; I am the philosophy of rebellion, the politics of rebellion, the religion of rebellion; I am armed nihilism; I am the founding of the religious and social state on the will of Man in place of the will of God! In a word, I am anarchy, for I am God dethroned and Man put in his place. This is why I am called Revolution: it means reversal, because I put on high that which should be low according to the eternal laws, and I put low what should be on high."

Around the same time, Sergey Nechayev wrote his so-called "The Revolutionary Catechism", in 1869. In it, he describes what Revolution is with these words:

"By a revolution, the Society does not mean an orderly revolt according to the classic western model – a revolt which always stops short of attacking the rights of property and the traditional social systems of so-called civilization and morality. Until now, such a revolution has always limited itself to the overthrow of one political form in order to replace it by another, thereby attempting to bring about a so-called revolutionary state. The only form of revolution beneficial to the people is one which destroys the entire State to the roots and exterminated all the state traditions, institutions, and classes (...) Our task is terrible, total, universal, and merciless destruction. (...) To weld the people into one single unconquerable and all-destructive force – this is our aim, our conspiracy, and our task."

The Revolution is the continuation of the serpent's insinuation to our first parents: "You shall be like gods." The Revolution is about the "terrible, total, universal, and merciless destruction" of God's established reality and true order. Revolution is about war against our true Creator, God who became man, Jesus Christ, His Holy Religion, and the true salvific order for mankind. Instead, man wants to be god and to create his world in his pretended sovereignty.

The Revolution is an echo of the fallen angel: Non serviam. I shall not serve God.

It is high time for us to revisit the Revolution in view of knowing the real cause of the present evil in the world. We want here to thank, in anticipation and in advance, our special guest speakers for their kind efforts to help us see clearly what the Revolution is. We wish all of you here present to enjoy this International Symposium.

Thank you very much.

* * * * *

Ave Maria!

Révérends Pères, Mesdames et Messieurs,

Nous avons le grand honneur d'avoir avec nous des conférenciers parmi les plus distingués, spécialistes de la Révolution française. Dans le monde où nous vivons, nous assistons à un immense progrès des attaques opérées pour détruire l’ordre naturel établi par Dieu, tels que la famille et le mariage, dans le mépris absolu de la loi de Dieu. Nous ne pouvons que tristement constater une plus opinion publique empoisonnée chaque jour plus par la théorie du gendre, totalement déconnectée de l'ordre biologique.

Nous voyons dans ces mouvements les conséquences logiques de la révolution de 1789, car celle-ci ne concerne pas simplement un système politique, ni le renversement de la monarchie, ni l’abolition de la noblesse.

Mgr Jean-Joseph Gaume (1802 - 1879), dans son livre "Révolution, recherches historiques sur l'origine et la propagation du mal en Europe, de la Renaissance à nos jours" 1856, l’explication suivante sur ce qu'est la Révolution française:

« Si, arrachant son masque, vous lui demandez (à la Révolution) : qui es-tu ? elle vous dira : « Je ne suis pas ce que l'on croit. Beaucoup parlent de moi et bien peu me connaissent. Je ne suis ni le carbonarisme... ni l'émeute... ni le changement de la monarchie en république, ni la substitution d'une dynastie à une autre, ni le trouble momentané de l'ordre public. Je ne suis ni les hurlements des Jacobins, ni les fureurs de la Montagne, ni le combat des barricades, ni le pillage, ni l'incendie, ni la loi agraire, ni la guillotine, ni les noyades. Je ne suis ni Marat, ni Robespierre, ni Babeuf, ni Mazzini, ni Kossuth. Ces hommes sont mes fils, ils ne sont pas moi. Ces choses sont mes œuvres, elles ne sont pas moi. Ces hommes et ces choses sont des faits passagers et moi je suis un état permanent. Je suis la haine de tout ordre que l'homme n'a pas établi et dans lequel il n 'est pas roi et Dieu tout ensemble. Je suis la proclamation des droits de l'homme sans souci des droits de Dieu. Je suis la fondation de l'état religieux et social sur la volonté de l'homme au lieu de la volonté de Dieu. Je suis Dieu détrôné et l'homme à sa place. Voilà pourquoi je m'appelle Révolution, c'est-à-dire renversement... »

À peu près à la même époque, Sergey Nechayev écrivit en 1869 "Le catéchisme du révolutionnaire -- Règles dont doit s'inspirer le révolutionnaire". Il y décrit ce qu'est la révolution :

"La Confrérie n'entend pas sous "révolution populaire" un mouvement réglé selon les idées de l'Occident, et qui s'arrêterait respectueusement devant la propriété et les traditions de l'ordre social, et devant ce qu'on appelle la civilisation et la moralité. Ce genre de mouvement s'est borné jusqu'ici à renverser une forme politique, afin de la remplacer par une autre et de créer l'État dit révolutionnaire. Seule peut être salutaire au peuple une révolution qui détruira jusqu'aux racines de l'État, et supprimera toutes les traditions, les classes et l'ordre même existant (...) Notre oeuvre à nous est une destruction terrible, entière, générale et implacable. (...) Fondre ces bandes en une force invincible qui détruira tout sur son passage - telle sera l'oeuvre de notre organisation, de notre conspiration, tel sera notre but."

La Révolution est la suite de l'insinuation du serpent à nos premiers parents : "Tu seras comme des dieux." La Révolution concerne "la destruction terrible, totale, universelle et sans merci" de la réalité établie et du véritable ordre de Dieu. La révolution concerne la guerre contre notre vrai Créateur, Dieu qui est devenu homme, Jésus-Christ, sa sainte religion et le véritable ordre salvifique de l’humanité. Au lieu de cela, l'homme veut être dieu et créer son monde dans sa prétendue souveraineté.

La Révolution est un écho de l'ange déchu : Non serviam. Je ne servirai pas Dieu.

Il est grand temps que nous revenions sur la Révolution afin de connaître la véritable cause de ce mal qui continue de faire souffrir notre monde. Nous tenons à remercier, par avance, nos conférenciers pour leur aimable participation à cette entreprise de clarification sur la révolution. Nous vous souhaitons à tous ici présents de bien profiter de ce symposium international qui, nous l’espérons, sera fructueux.

Merci beaucoup.

2019年8月7日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。

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アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様、


2019年8月7日(初水)「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想しましょう。



聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。





2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。


御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。





3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。





4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。





5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。


この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。





6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。


御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。





7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。


御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。





交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



2019年7月10日(水)聖なる七兄弟殉教者及び、童貞殉教者聖ルフィナと聖セコンダのミサ 

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2019年7月10日(水)聖なる七兄弟殉教者及び、童貞殉教者聖ルフィナと聖セコンダのミサ 
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教

親愛なる神父様、そして愛する兄弟の皆さん、聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は七人の兄弟の殉教者のミサを一緒に黙想致しましょう。

この殉教者では、婦人の、聖なる婦人のミサの書簡が読まれています。そして福音も少し殉教者とは違ったような読み上げがされています。

なぜかというと、この七人の殉教者は兄弟で、聖フェリチタスというローマのお母さんの子供たちが殉教したその記念日なのです。162年、ローマ皇帝マルコ・アウレリアノ皇帝の下で迫害を受けて殉教しました。ローマでは非常に古代から、この殉教者たちを祝ってきました。

ですから子供たちの殉教の為に、そのような子供たちを育て上げたお母さんの事が、既にミサで祝われているかのようです。


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「女性の美しさというのは全く虚しい。天主を愛する、天主を畏れる女性こそ、賞賛されるべきだ。子供たちや家族を、天主を畏れて教育して養なってきたその女性こそが素晴らしい」と、むしろお母さんを謳っています。

七人の子供たちは、長男ヤヌアリオは、鉛を付けられた鞭で打たれ、次男のフェリックスと三男のフィリップスは棒で打たれ、四男のシルヴァヌスは高いところから落とされ、そして最後の子供たちアレクサンデル、ヴィタル、マルチアリスらは、首を切られて殉教していきました。4ヶ月後、彼らの母も殉教します。


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また二人の姉妹であるルフィナとセクンダはローマの童貞女でした。両親によって許嫁をされた男性がいました。アルメンタリウスとヴェニルスでした。しかし彼女たちは天主に捧げられた童貞であることを望み、婚姻を拒否しました。そのために彼女たちは捕らえられます。長官のユニウスは、色々な約束や処罰で彼女たちの決心を揺るがせようとしますが、無駄でした。まずルフィナが鞭打たれます。

その妹のセコンダは、裁判官に「お姉さんはその殉教の栄光を受けたのに、私には下さらないのですか?」と言います。

「私たちは同じくキリストの神性を告白してるのだから、私たちを同時にむち打つように命じなさい。同じ殉教を望みます。」
こうして二人とも殉教していきました。


ですから典礼ではこう言います、「天に在す私の聖父の御旨を果たす者こそが、私の兄弟であり、姉妹であり、母である。」

この殉教者たちは、天主の御旨を果たして、イエズス様の信仰を証して、天国に行き、イエズス様の兄妹、姉妹、母ともなりました。

マリア様に、私たちもそのような殉教の心を下さいますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

御聖体こそが、私たちの霊的生活の中心であり、私たちの霊的な糧である : ガブリエル・ビルコック神父様御説教

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2019年7月11日(木)教皇殉教者聖ピオ一世のミサ 
聖ピオ十世会司祭  ガブリエル・ビルコック神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、今日、私が皆さんの為にミサをする事ができるというのは大きな喜びです。そして私は皆さんの、司祭職に対する信心とその奉仕の心に、また御聖体に対する信心とその奉仕の熱情に、本当に感動して感嘆しています。

この御聖体に対する大きな信心を是非、皆さんにしっかりするようにと、そのまま続けるようにと励ましたいと思っています。なぜかというと、この御聖体こそが、私たちの霊的生活の中心であり、私たちの霊的な糧であるからです。

御聖体はまず、私たちを色々な面で養ってくれますが、まず「信仰」を養って下さいます。

なぜかというと、御聖体の秘跡において、私たちの主イエズス・キリストの全ての玄義が含まれているからです。

まず私たちは御聖体を信じる事によって、イエズス様の「御託身の玄義」を信じます。なぜかというと、イエズス様の本当の人間の御体である、という事を信じているからです。御体・御血、そして御霊魂を御持ちの御聖体です。そして同時に御神性も、天主であるイエズス様も信じます。

御聖体は、「贖いの玄義」も私たちに深く信じるようにさせます。なぜかというと、御聖体というのは、私たちの主の御受難と御死去の実りであるからです。もしも御聖体が私たちの前に現存するとしたら、それはイエズス様の御受難を再現してのみ、初めてこれが実現するからです。

第2に、御聖体は、私たちに徳の、「望徳」の聖徳を高めて養って下さいます。
なぜかというと、御聖体というのは、私たちの永遠の命への約束であるからです。これは聖トマス・アクィナスも、そして私たちの主イエズス・キリスト御自身も仰っている事です、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、彼の中に永遠の命がある」と。そしてその時に、命を持つ「だろう」とは仰らずに、命が「ある」と仰ったからです。

第3に、御聖体が私たちに、「愛徳」を養って下さいます。
なぜかというと、御聖体というのは、愛の秘蹟であるからです。なぜかというと、イエズス様は御聖体において、御自身を全く最も寛大なやり方で、私たちに御与え下さるからです。イエズス様は私たちの為に御亡くなりになる事によって、御自分を与え尽くしたからです。これこそ愛の証拠です。

ですから私は皆さんに、御聖体に対する大きな信心をぜひ続けてほしいと願うばかりです。なぜかというと、この御聖体の信心というのは、それのみならず、究極的に「使徒的」であるからです。

使徒的であるという事はどういう事かというと、使徒たちのように、御聖体は霊魂を引き寄せるからです。私たちが御聖体に対する信心を行う為に、ミサをする為に、イエズス様の約束を実現する事になります、「私が高く上げられた時に、全てを私の元に引き寄せよう」とイエズス様は仰いました。イエズス様は御聖体の信心をすればするほど、多くの霊魂たちをイエズス様の方に引き寄せて下さいます。

そして早かれ遅かれ、この多くの霊魂たちは御聖体にやって来る、そしてこの事がこのチャペルに、この聖堂において実現する事を私は祈っています。

特にマリア様にお祈り致します。マリア様が皆さんのこの共同体を祝福して、そして増加させて、そして成長させて下さいますように、お祈り致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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大修院長聖ヨハネ・グアルベルトのミサ: 私たちが相手を赦せば赦すほど愛徳に生きる事ができる : ビルコック神父様御説教

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2019年7月12日(金)大修院長聖ヨハネ・グアルベルトのミサ
聖ピオ十世会司祭 ビルコック神父様御説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


親愛なる兄弟の皆さん、今日は私たちは聖ヨハネ・グアルベルトの祝日を祝っています。この聖人は、10世紀から11世紀の間に生きた方です。

聖ヨハネ・グアルベルトは、この出来事で非常に知られています。

ある日、家族の一員が暗殺されたのです。そして聖ヨハネはこの事を非常に心に深く傷付けられて、そしてこの事を、この犯人に対してとても怒りと憤りを覚えていました。

ところである聖金曜日に、フィレンツェを旅している時に、この家族を殺した暗殺者に出会ったのです。ヨハネ・グアルベルトはお供の者たちと一緒に武器も持っていました。しかし暗殺者はたった一人で武器もありません。復讐の絶好の機会だと、剣を抜いて躍りかかりっます。

その道はとても狭くて、右にも逃げる事ができずに、左にも行く事ができず、後ろにも逃げる事ができませんでした。犯人は聖金曜日である事に気が付き、十字架に架かった者のようにサッと両手を広げ、跪いて、頭を差し出して「私たちの為に本日数々の苦しみを受け、十字架の上に生命を捨て給うた主イエズスの聖名によってお願い致します。どうぞ命ばかりはお助け下さい」と言う事でした。

ヨハネ・グアルベルトは非常にこの行為に胸を打たれて、乗っていた馬から降りて、この暗殺者を復讐して殺す代わりに、彼を抱き締めて赦したのです。

そしてこの時に聖ヨハネは、私たちが毎日唱えているこの祈りを唱えたのです、「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。」

これこそが私たちのカトリックの態度であって、愛徳の態度です。私たちがもしも相手を赦せば赦すほど、愛徳に生きる事ができます。「相手を赦す」という事は、非常にキリスト教的な徳です。これは聖ステファノがやった事であり、私たちの主イエズス・キリストも十字架の上で模範を見せた事です、「聖父よ、彼らを赦し給え。彼らはその為すところを知らざるが故なり」と。

そしてこの「人を赦す、敵を赦す」という事は、非常に使徒職的な、使徒的な行為です。なぜかというと私たちの主も、「聖父よ、赦し給え」と私たちを赦す事によって、私たちを回心させました。また聖ステファノも、自分を殺すその相手たちを、敵を赦す事によって、聖パウロの回心も引き起こしました。

特に私たちは、マリア様にお祈りしましょう。特に秋田のマリア様に、この同じ態度を私たちが持つ事ができますように、お祈りしましょう。

秋田のマリア様は、私たちの罪を赦す為に涙を流されました。そしてそれと同時に手を開いて、私たちが回心するように招いておられるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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飛行機からの富士山

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アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今週は、赤ちゃんの洗礼式に岩国まで行って来ました。その時見えた富士山の写真をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!トマス小野田神父

帰りの富士山

岩国の眺め 岩国城から


錦帯橋





行きに見た富士山





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