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レネー神父様の聖母の御名の祝日の説教(2014年9月12日)大阪にて

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 東京からは次のようなご報告を戴きました。最初の9時からのミサ聖祭には3人の子供を連れたご夫婦が与り、次のミサには与ることが出来ず帰宅されたので、この家族を含めると、9月14日の主日には51名の方々がミサ聖祭に与るという新記録を作りました。(それ以前には、2005年10月23日にフェレー司教様が来日されて東京でミサを捧げられたときの50名が記録でした。)

 今回は、主日に大阪でレネー神父様がミサを捧げられたので、同時に3名の聖ピオ十世会司祭が来日したことになります。天主様に感謝!

 月曜日の朝ミサには、16名がミサ聖祭に与りました!天主様に感謝!

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Fr Stehlinのミサ(10時半)の参列者数
男: 18人(内、子供3人)
女: 28人(内、子供3人)
計: 46人(内、子供6人)

Fr Stehlinの霊的講話の参加者数
男: 9人(内、子供1人)
女: 18人(内、子供1人)
計: 27人(内、子供2人)

晩課の参加者数
男: 3人(内、子供0人)
女: 6人(内、子供0人)
計: 9人(内、子供0人)


【お便り】
+ アヴェマリア
トマス小野田圭志神父様
 素晴らしい聖伝のごミサに与らせていただきまして、ありがとうございました!
 私は無事に帰ってまいりました。
 神父様方は、次のお務めのためにごミサの後すぐ出発なさり、霊魂たちのために休む暇がありませんね。本当にお疲れさまです。
 私は多くの熱心な信者の方にも驚きました。聖ピオ十世会が日本においてここまで発展して、信者たちもしっかりとラテン語で受け答えしている姿を見て、感服しています。(後略)

【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
小野田神父様、今月のミッションお疲れさまでした。

シュテーリン神父様の力強いお声を聞いて、勇気づけられた思いです。
また、長崎では聖母やコルベ神父様、二十六聖人の御取り次ぎが得られるようお祈りなさったことと思います。日本に聖堂が与えられますように。

【報告】
 大阪では、御ミサの後、マリア様に関してのお話を、聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。

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9月12日(金曜)聖母の御名の祝日の説教

今日のマリアの尊き御名の祝日は聖母マリアの祝日の一つですが、沢山ある聖母マリアの祝日というのは私たち全ての信者が天主の聖母に対する深い信心を育めるよう、教会が私たちのために定めているものです。聖人達全体に対する信心は必要ですが、個別の聖人に対する信心は義務ではありません。私の生まれた町の近くに聖オーストルベルトという聖人がいますが、皆さんはこの聖人のことをお聞きになったことはないでしょうし、天国に行くためにこの聖人への信心が必要な訳ではありません。それでも、私たちとつながりのある聖人達、例えば私たちの守護の聖人、私たちの国や町や教会などの守護の聖人達への信心を持つことは良いことであって、私たちのためになることです。これらの聖人達のなかでも、とりわけ、聖母マリアに対する信心は必要です。私たちの主イエズス・キリストが抱いておられた聖母への深い愛を私たち自身も持っていないならば、主イエズス・キリストを本当に愛することはできないのです!

これこそ、私たちが聖母に対する信心を持たねばならない第一の理由です。即ちイエズスご自身が聖母に対する愛を持っておられましたし、聖パウロは、「イエズス・キリストの心を心とせよ。」(フィリッピ人への手紙2章5節)と言っています。私たちの主イエズス・キリストは真の天主として、他のいかなる者に与えたお恵みや特権をもはるかに超える至高のお恵みや特権をご自身の母にお与えになりました。私たちの主イエズス・キリストはまた人として、子が母に対して持つ優しい愛をお持ちでした。福音の中で、例えばカナにおいて、私たちはこの愛を見ます。それは、聖母がイエズスに「あの人たちにぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2章3節)とだけおっしゃったとき、イエズスのお答えはこれを拒むような「婦人よ、それが私とあなたとになんのかかわりがありましょう、私の時はまだ来ていません!」(ヨハネ2章4節)というものでした。しかし、その後すぐ何が起こったでしょうか。聖母は下男達に対してなんでも主の言うとおりにするように命じられ、イエズスは聖母が彼に対して今示された信頼を裏切らぬよう、ご自分の母を喜ばせるために、最初の奇蹟を行なわれたのです!同じように、私たちの主が十字架の上で亡くなられる時にも、子としての母への愛を見ます。主はご自分の母が最期まで十字架の下におられることをご覧になります。未亡人となり、ご自分の一人息子があらゆる種類の苦しみの中で死につつあることを見ておられる母です。これをご覧になった主は、ご自身のことよりも母のためを思い、愛する弟子聖ヨハネにご自分の母を託されたのです。「母に『婦人よ、これがあなたの子です』とおおせられ、また、弟子には『これがあなたの母です』とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。」(ヨハネ19章26-27節)

聖母は聖なる婦人達の集団と一緒に主とその弟子達を物質的に助け(ルカ8章3節)ながら確かに私たちのイエズス・キリストに付き従っておられ、十字架の下ではその集団の頭として行動されました。このように使徒達は私たちの主が第四戒を守り、ご自分の母を敬っていらっしゃったのを目の当たりにすることができました。私たちの主イエズス・キリストが聖母を敬い、また聖母に献身的な愛をお持ちであり、一方私たちがイエズス・キリストの心を心とすべきであるのなら、当然私たちも聖母を敬い、聖母に献身的な愛を持たねばならないことになります。

使徒達や初期の教会はこのことを実践し、聖母の名を唱える度、大いなる敬意、尊敬、名誉をもってしていました。聖母について書かれた最初の文献のいくつか、たとえば聖ユスチヌスや聖イレネウスの著作では、聖母の信仰がエワの不信仰と対比され、聖母は最初のエワの不信仰を正す信仰をもった新しいエワとして、新しいアダムである私たちの主イエズス・キリストと結ばれた新しいエワとして、示されています。これら初期の著作で、既に聖母は『代願者』の称号で呼ばれておられました。初期の教会は聖母が私たち全てのために取り成してくださることを認めていたのです。

私たちが私たちの聖母に敬意を示すべき第二の理由は、キリストの神秘体の教理に基づいています。聖パウロは、洗礼によって私たちは私たちの主イエズス・キリストの体である、と大変明確に述べています。母は体なしの頭だけの子を産みはしません!ですから、聖母は頭と体を含んだキリストの母、つまり『キリストの体』全ての母であるのです。聖母はキリストの体である教会の最も崇高な一員であると同時に、私たちの主イエズス・キリストの母であるという特殊な立場のため、教会の母でもあるのです!

この第二の理由と関連したこととして、救いのため絶対必要な徳、即ち謙遜の徳があります。「神は高ぶる者にさからい、へりくだる者に恵みをお与えになる。」(ペトロの前の手紙5章5節)天主がさからわれれば、誰が天国に行けましょうか?私たちが天国に行くためには、必ず天主のお恵みが必要であり、お恵みを受けるのに必要な条件は謙遜です。福音では、私たちの主イエズス・キリストはこの謙遜の必要性を色々な形で教えてくださいますが、特に、「まことに、私はいう。あなたたちが、子どもの状態に立ちかえらないなら、天の国には、はいれないだろう。」(マテオ18章3節)とおっしゃいました。主がこのように大変重要な事実をおっしゃる時は、「まことに、私はいう」という聖なる誓いの言葉で御言葉をお始めになります。ところで、子どもの状態に立ちかえり、改心するためには母が必要です!ですから私たちの主イエズス・キリストは母の中で最も素晴らしい母、主ご自身の母を私たちに下さいました。主は、「最愛の弟子」に対して、「これがあなたの母です」(ヨハネ19章26節参照)とおっしゃったのです。つまり、イエズスは聖ヨハネだけにこれをおっしゃったのではなく、イエズスに愛されたいと願う全ての弟子に対して「これがあなたの母です」とおっしゃったのです!私たちが聖母を真に私たちの母とすれば、私たちがイエズスに愛されることがこれによって保証されているのです。謙遜の必要性について言えば、聖母はまったく素晴らしい立場におられます:「主が、いやしいはしためにおん目をとめてくださったから」で、「これからのち、代々の人々は、私を、さいわいな女と呼ぶ」(ルカ1章48節)こととなったからです。

高慢な異端者達は、自分たちには聖母は必要なく、「イエズスに直接行ける」と主張して、聖霊によって祝福され、聖霊のかげがおおった(ルカ1章35節)その聖母に敬意を表することを拒むのです。この高慢な異端者達は「子どもの状態にたちかえ」ってはおらず、天国に行くためにはまさにそのような改心が必要です。

私たちが聖母を必要としているもう一つの理由は、私たちが今、「権勢と能力、この世の闇の支配者、天にある悪霊」(エフェゾ6章12節)との恐ろしい霊的な戦いのただ中にあるからです。この戦いでは、私たちは「暁のように広がり、月のように美しく、太陽のように輝き、軍勢のように恐るべきもの」(雅歌6章9節)を必要としています。教会は、この雅歌の賢人の言葉が聖母のことを指していることを認めました。それ以外にあり得るでしょうか?

善と悪との戦いには、純潔の戦いも含まれます。現代社会では、以前にも増して悪魔が不純の洪水とあらゆる種類の倒錯をもって、すべてを腐敗させようとしています。私たちの主イエズス・キリストのお恵みで、私たちはこれを拒み、純潔でいることができます。この戦いでは、私たちには、聖マキシミリアノ・コルベが「インマクラータ」と呼ぶことを好んだ、無原罪の聖母の美しい見本があるのです。無原罪の聖母の見本は私たちを鼓舞し、力づけるものです。私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、本当に純潔でいることができるのです!主がご自身の母に与えられた美しさをご覧ください!天主は純潔を愛され、私たちの主イエズス・キリストは子どものよう な無邪気さを愛されます。私たちの主イエズス・キリストのお恵みをもってすれば、子どものような無邪気さを失わないことができるのです。また純潔の徳を取り戻し、童貞を奉献して完全なる貞潔を守るというより高次元の実践も可能です。天主のお恵みの力によって聖母が完全に無原罪であることが可能となったのであれば、私たちの地位に応じた貞潔を実行することは可能なだけでなく、喜ばしいことであることを信じなくてはなりません。即ち、婚姻の前に純潔であること、結婚にかんして貞潔であること、また天主が修道生活にお呼びになったのであれば、更に貞潔であることです。

純潔の戦いよりも更に深刻な戦いは、信仰のための戦いです。特にこの五十年、私たちは「信仰の守護者、真実なる童貞、あらゆる異端を打ち負かす御方」を必要としています。教会が聖母の交唱で唱えるように、「御身のみが全世界のあらゆる異端に打ち勝たれた!」。

しかし、この戦いにおいて私たちはこの二つの真実を忘れてはなりません。すなわち、私たちの主の助けをもってすれば戦いに勝つことが出来るが、私たち自身のみでは戦いに勝つことが出来ない、ということを。この天主の助けの必要性、私たちの主イエズス・キリストのお恵みの必要性、いや絶対的な必要性こそが祈りの根源なのです。私たちは祈らなくてはなりません。祈りは霊魂にとって最も根源的に必要なものです。私たちが祈るときには、聖人達に祈ること、そして誰よりも天の母、聖なる童貞マリアに祈ることが必要です。聖母が、特に被昇天によって力強い者とされたのは、私たちの必要のため、私たちの助け手となってくださるため、いつも私たちを守って くださる代願者となってくださるため、私たちを助けるため、私たちを救ってくださるためなのです。

今日の祝日もこの真実を実証するもののひとつです。マリアの尊き御名の祝日は、オーストリアのウィーンでのイスラム教徒に対する勝利に際して、聖母の御保護への感謝のしるしとして、福者インノケンチウス11世教皇が定められたものです。今日イスラム教徒は教会に対して更に残忍で暴力的になっており、私たちは聖母を必要としています!私たちが聖母を必要とするのはこの世での戦いのためばかりではなく、もっと重要なイスラム教徒の改心のためです。これは更に難しいことですが、聖母の助けがあれば極めて可能なことなのです!

親愛なる兄弟のみなさん、ですから子どもが最も素晴らしい母を愛するよう、私たちも聖母をやさしく愛しましょう!毎日聖母に信心をもって祈り、聖母の例にならい、聖母がイエズスを心から愛されたように私たちも心からイエズスを愛すように努めましょう。特に純潔という美しい徳を守り、永遠の信仰を汚れもなく一点の妥協もなく守るようにしましょう。そして聖母の助けによって数多くの霊魂が私たちの主イエズス・キリストの下に戻って救われることを信じて、聖母への信心、とりわけ聖母の御心に対する信心を広めましょう。アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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2014年9月13日 聖母の土曜日 シュテーリン神父様御説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区の新管区長であるシュテーリン神父様は、じつは12年前に日本を訪問されたことがあります。しかし、今回は、管区長として始めて日本に来られ、大阪で最初のお説教をしてくださいました。

 新管区長様を迎えて歓迎会もとても良いものでした。準備をしてくださった方々には、信徒の皆様と共に、感謝でいっぱいです。ドイツ語のサプライズの聖歌もありました。

 さて、土曜日のシュテーリン新管区長様の御説教をチーム・パラマイの方が録音に成功し、書き起こしてくださいましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。【「チーム・パラマイ」は、今年の秋田巡礼で、高山右近の人生に倣って「パライソに参ろう!」という合い言葉を愛する人々のことです。】

 シュテーリン神父様のお説教が良いな、と思った方は、どうぞお友達の方々にも教えてあげてくださいね。

 これを書き起こす労を執ってくださった方に感謝します。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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2014年9月13日 聖母の土曜日 シュテーリン神父様御説教

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

親愛なる信徒の皆さん、天主様の御摂理によって、私はこの管区長としての職務を、ファチマのマリア様の祝日に任命を知らされました。
9月の13日は、マリア様が最後に現れたファチマの御出現の、その一ヶ月前の事です。この9月の13日には、マリア様は、たくさんは話されませんでしたが、一言だけ言われました。これは、私達が覚えていなければならない事です。それは、天主をもう傷付けないように、天主に罪を犯さないように、何故ならば、天主は既に、あまりにも多く犯され続けているからである、ということです。
特に、福者フランシスコが、この言葉を非常に深く心に刻みつけていて、そして、いつもこうやって繰り返して言っていました。「天主様はもう、非常に悲しまれておられる。何故ならば、天主様は人間の犯す無数の罪によって傷付けられているから。だから私達は、もう決して天主様を犯してはならない。罪を犯してはならない」と。

この祭壇の前の、きれいなマリア様の汚れなき御影(ごえい)、そしてこのマリア様の汚れなき御心の祭服、そしてこれを見ると、皆さんはこの汚れなき御心に対して、非常に深い信心を抱いているというのが分かります。この信心こそ、マリア様がファチマで私達に与えて下さいました。
シスタールチアはこう言っていました。「マリア様は、天主様が私達に、最後の二つの救霊の手段を与えて下さっている」と。最後の手段ということは、もうこの後にはないということです。それは何かというと、ロザリオに対する信心と、もう一つは聖母の汚れなき御心に対する信心、これです。
 マリア様はここで「信心」と言って、それを私達が「実践する事」とは言ってはいません。もちろん、実践ということは大切ですが、しかし、信心と実践とはこんな違いがあります。
実践というのは私達が、外に外見的に外的に行う事ですけれども、しかし信心は、その心の中から、内から滲み出るものである、という違いです。
そして、実践というものは例えば、マリア様に対する奉献があります。この奉献は、私達はこの今日この御ミサの直後に、司祭退場の前に、更新する予定です。そして、初土の信心の実践などという、色々な外的な実践があります。そしてマリア様は、このような事を実践すれば、それだけで、物凄い約束を私達に与えて下さっています。
しかし最も大切な事は、その実践の深みに深く入って、そしてその心を掴む事です。つまり真の信心であって、私達がこの御絵を掲げて飾るのみならず、その御心の中に深く入る、それが、信心です。

では、マリア様の御心の中に入る、そこに行く、というのはどういう意味でしょうか?では、一体何故天主様はこのような奇妙なことを、マリア様を通して仰ったのでしょうか?つまり、天主様は私達に最後の手段を与えて、今この現在これを使わなければ、救霊はできない、という何故そのような事を仰ったのでしょうか?
何故かというと、現代は、全世界の歴史において、一番悪い時代であるからです。私達のこの時代は、イエズス・キリストによって救われた時代ですけれども、しかしその最後の時代には、最も恐るべき最後の戦いが待っていると、黙示録には書かれています。
そして、天主様は最後の時代に、悪魔達に全ての力を尽くす事を許して、そして、それにも関わらず、天主が最後にそれらに打ち勝って、御自分の力の強さを示す、その時であるからです。
一体天主様はどうやってその勝利を収めようとするのでしょうか。それは、女性を使って、女を使ってです。それは黙示録の女であって、そしてそれは太陽を纏い、そして月を足に踏み、星の冠をかむる、黙示録の女性を使って勝利します。
このことは、人類の歴史の最初に、天主はそれを予言していました。彼女はお前の頭を、蛇の頭を、サタンの頭を砕くだろう。もし天主様が、サタンに悪魔達に全力を尽くしてこの世界を征服する事を許そうとしていて、そして、今悪魔が、猛総攻撃をかけてこの世を支配し征服して、人類を亡ぼそう、霊魂を亡ぼそうとしているのでしたら、私達には勝算は一つしかありません。手段は一つしかありません。黙示録のこの女性、インマクラータです。
マリア様は全ての最高の母親としての、最もすぐれた、最高の、最善の母として私達に与えられました。マリア様は、私達を救おうと望んでおり、私達の救いのみを考えておられます。この母であるマリア様は大きな任務が与えられています。それはまず、御自分の方に霊魂達を引き寄せ、そして全て御自分の方に来た霊魂を、イエズス様の方に与えるという事です。つまり、マリア様を通してイエズス様に、という事です。

ちょっと考えてみて下さい。小さな幼い子供がいて、ニコニコしているんですけれども、その周りには、非常に悪い人達が、ヤクザのような人達が沢山回っていて、その周りに汚らしい動物や恐ろしい獣たちが周りに取り囲んでいて、もうこの子供を食い殺してしまおう、殺してしまおう、悪をしてやろう、と淡々とこう見張って、そしてその攻撃を仕掛けようとしているその様子を想像してみて下さい。
そしてこの子供は、向こうの丘にきれいな天主様の王国があって、その素晴らしい喜びと、幸せの花園の王国があそこにあって、そこに行きたいと思っているのですけれども、子供の周りにはその子供を行かせまいとする敵が、動物が、獣たちや悪人達が、ワーッと渦巻いていて、決して行かせないとしている。これを考えて下さい。
教会の歴史も全くその通りです。私達を、霊魂達を天国に行かせまいとする、教会の敵が一生懸命働いていました。しかし、教会のこの人類の歴史の最後においては、この私達を天国に行かせない、天主の王国に行かせないという敵達が総攻撃をかけてきて、私達がそこに決して辿り着かない様に、そして聖ヨハネの黙示録によれば、悪魔たちは諸国を騙して、誰もその天国の事を、王国の事を忘れてしまうように、誰も思い出さないように、そして皆がそれに騙されてしまうほど、総攻撃をかけると書かれています。
そこで天主様は、憐れみの心で、御自分のお母様を、母を私達の元に送られて、そしてこの残された、この迷っている、この力のない、この敵に囲まれているこの子供達を天国に引き寄せて、守って、そして導こうとされているのです。そして天主様から送られたマリア様は、私達の所に、敵の中をかき分けて私達のところにやって来て、さあ、私の所に来なさい。さあ、早く私の母の心に来なさい。さあ、私が天国に連れて行ってあげるから。と、寄って来て下さったのです。そして、マリア様は、私のこの御心は、あなたの避難所である。だから私のここの避難所に来れば、誰もあなた達に害を及ぼすものは、何も悪さをすることができない。この避難所に、さあ早く来なさい、と招いているのです。
そして、この御心こそが、あなた達を天国に導く道ですよ。来なさい。
そこで、この子供はマリア様と共に、一緒に、敵のこの攻撃の中をくぐり抜けて、そして丘の上の、永遠の幸せの、天主の御国まで行くのです。
そして悪魔は、さあ子供を、ワーッと攻撃をするのですけれども、マリア様はサッと一つの仕草をぱっとすると、悪魔達は何もできずに、この子供を連れて、何千、何万という敵の攻撃の中をくぐり抜けて、天国へと導いて下さいます。
これこそが、ファチマのマリア様が私達に教えて下さった事です。そしてこれこそが、マリア様が聖マキシミリアノ・コルベに息吹いて、そしてこれを考えさせて、そして聖マキシミリアノ・コルベを通して、私達に教えている秘密です。

それでは、このマリア様の汚れなき御心に対する信心とは一体何でしょうか。それはとっても簡単な事です。もしも、誰かを愛するとしたら、私達はその方に、ああ、私はあなたに私の心をあげます。あなたは私の心の中にいます。と、言います。私達の心、或いは心臓というのは、私達の愛のシンボル、象徴だけのみならず、私達の人格のその全て、ペルソナ、そして私達のもっている全てのシンボルでもあります。皆さんは、皆さんの心を開いてこの一番奥まで、誰も知らない他の人をこの心の中に入れることはしません。
私達は、良く愛する心から愛する人のみを、私達の心の奥に入れて、そしてこの心を開きます。
ところで、マリア様は、皆さんを非常に愛しているので、皆さんを自分の心の最も中に来なさい、と開いて、さあ私の心の中に入って下さい。私の心の深くにあなた達は居るのですよ、と仰っているのです。どれほどマリア様は、私達を愛して居られる事でしょうか。

ですから、マリア様の良い子となって下さい。もしもこの人生、或いはこの生活でこの世の生活で、苦しみや、困難な事があったら、マリア様の心に行って下さい。皆さんの持っているもの全てをマリア様に与えて下さい。そしてマリア様に何も隠さないで下さい、マリア様は皆さんのお母さんです。そしてマリア様は、私達を憐れんで下さるお母さんですから、私達の弱点や弱さや罪も、或いは私達のもしかしたら犯してしまうその汚いものも、マリア様に差し出して下さい。そしてマリア様に皆さんの心配事や、悩み事や、苦しみや、或いは個人的な事や、或いはお仕事の事や、或いは皆さんの気心や、皆全てをマリア様に差し出して、捧げて下さい。
そして、もしも皆さんがマリア様に捧げて、差し出してしまうならば、マリア様が約束した通りの事が起こります。それは、最後に私の汚れなき御心は凱旋するでしょう。
マリア様の御心と、皆さんの心において勝利、凱旋を収めるのです。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

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2014年9月13日 シュテーリン神父様の霊的講話(大阪)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

「罪こそ、聖母が地上で見いだす唯一の悪です。聖母は天主がお支えにならなければ苦しみの余り死んでしまわれるでしょう。」(メラニー・カルヴァ


愛する兄弟姉妹の皆様、

 アジア管区の新管区長であるシュテーリン神父様は、管区本部のシンガポールに到着して後、すぐに、インドと日本を訪問されました。

 アジア管区で最も信徒の多いのはフィリピンですが、フィリピンに来られたのはラ・サレットの聖母の祝日(9月19日)でした。

 その前に、御摂理によって、シュテーリン神父様がインド、それから日本を訪問されたのを見て、聖フランシスコ・ザベリオを思い浮かべました。

 シュテーリン神父様の歓迎会がミサの後であり、その時、神父様が霊的講話をしてくださいました。そのお話をチーム・パラマイの方が録音して、書き起こしてくださいましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。これを書き起こす労を執ってくださった方に感謝します。

 シュテーリン神父様のお話が良いな、と思った方は、どうぞお友達の方々にも教えてあげてくださいね。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




2014年9月13日(土) シュテーリン神父様講話(大阪にて)

聖マキシミリマノ・マリア・コルベ神父様は二つの事が好きでした。一つはですね、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」汚れなきマリア様を通して、キリストにおいて全てを復興させる、の「キリストにおいて全てを復興させる」です。もう一つは、「インマクラータを通して」です。

ちょうど、マキシミリアノ・コルベが神学生だった時に、ローマに到着したその時に、聖ピオ十世教皇様がお亡くなりになりました。そして、コルベ神父様は神学生の時から、聖ピオ十世教皇様に非常に深い尊敬の念を持っていて、そしてそのモットーを、全てをキリストにおいて復興させる、という聖ピオ十世教皇様のモットーを愛していました。
ですから、私もこの偉大な教皇様と同じ事をしたい、私もしたい。私も同じようにイエズス・キリストにおいて全てのものを新しくしたい、復興させたい。と思いました。これが一つ目です。

でも、これは私の力ではできないので、私はマリア様に一致しているに従って、それができる。そこで、インマクラータを通して、ということでこれが二つ目です。そこでマキシミリアノ・コルベ神父様の人生は、この二つに集中していました。

一つ目について詳しくお話ししますと、イエズス・キリストの御国、そしてその為にマリア様の御国、そのマリア様の御国を通して、キリストの御国に、統治に至るように、という事でした。そしてこのキリストの御国と支配と統治を破壊しようと、それに敵対する天敵がいる。その絶対の敵は誰か、というのをコルベ神父様は見出して、それがフリーメイソンだという事が分かりました。
そして、そのフリーメイソンは何をするかというと、世界中の政府を支配しようとしている。そしてその支配を、ローマの聖ペトロ大聖堂まで及ぼそうとしていました。そしてそのマキシミリアノ・コルベ神父様は、そのフリーメイソン達の目標を聞きました。それは、「ローマは私達のものになるだろう、そして私達のものにする、そして教皇は私達の僕となる。」というものでした。
そして、もしもそのような絶対的なこの世の力、権力を目前にして、そしてそれにも関わらず、全てをキリストにおいて復興させるということをしようとしたら、私達はたった一つしかチャンスがない。そのチャンスは、無原罪の汚れなきマリア様です。
そして、この聖ピオ十世教皇様のモットーに非常に深い感銘を受けて、それに共感して、それと同じ事をしようと思ったもう一人別の方がいます。それは、聖ピオ十世会を創立したルフェーブル大司教様です。
ルフェーブル大司教様は、既に教会の敵がペトロ大聖堂の門の中に入って、その自分達のプログラムを押し付けようとしたのを見ました。そして、ルフェーブル大司教様もコルベ神父様と同じように、聖ピオ十世教皇様のモットーを続けて、実現させようと思っていました。そしてルフェーブル大司教様は、その聖ピオ十世のモットーをどのように実現したらいいかということを、その具体的なその手段を与えました。それは、カトリックの司祭を通してだ、と。そして、ルフェーブル大司教様の考えでは、司祭と、その司祭の為に働く、司祭の為に祈る、司祭の為に苦しむ、そういう司祭職を中心とした修道会を通して、そのカトリックの司祭職を通して、イエズス・キリストにおいて全てを復興させる事ができる、としました。
そこでルフェーブル大司教様は、司祭を、聖なる司祭を養成しなければならない、つまり本当のイエズス・キリストの僕、イエズス・キリストの兵士、イエズス・キリストの騎士、イエズス・キリストの事業を続ける、本物の司祭を養成するという事に、最大の目標と関心が向けられています。

コルベ神父様は、フリーメイソンによってこの世が腐敗して、堕落して影響を受けているのを見ましたが、ルフェーブル大司教様は、フリーメイソンのイデオロギーが、教会の内に浸透した事によって、その司祭達が腐敗して、そして退廃しつつあるのを見ました。
何故かというと、信教の自由とか、或いはエキュメニズムというのは、これは元々は、元を正せばフリーメイソンのイデオロギーから始まっています。
そして、この非常に極めて敵の勢力が強い現代において、聖なる司祭を養成する、それに敵の勢力にもひるまず、それに恐れず、イエズス・キリストにおいて全てを立て直す司祭を養成するためには、私達にはたった一つのチャンスしかありません。それは、マリア様です。
そして聖ピオ十世会の会則の、第一章の一番大切な所に、ルフェーブル大司教様は、この司祭の養成の為に、私達は必ずマリア様、つまり最高司祭の母親であるマリア様の所に委ねなければならない。と、規定しています。
そしてルフェーブル大司教様は、聖グリニョン・ド・モンフォールの「聖母マリアに対する真の信心」について非常に深い信頼と信心を持っていました。ですからルフェーブル大司教様は、全ての神学生達に司祭になる前に、そして神学生の間に、全て必ずマリア様に、聖グリニョン・ド・モンフォールの精神に従って、マリア様に全てを奉献するようにと命令しています。そしてルフェーブル大司教様が、全ての聖ピオ十世会の司祭たちが、マリア様の司祭、マリア様のものである、マリア様の司祭である事を求める為に、実は聖ピオ十世会の本当の修道名にそれが表れています。実は、聖ピオ十世会の本質的な名前は、「イエズスとマリアの使徒の会」です。そして、実はこの修道会の名前自体が、聖グリニョン・ド・モンフォールの真の信心から来ているのです。その真の信心においては、「終末におけるイエズスとマリアの使徒達」という章があります。
ここで私が言いたい事は、コルベ神父様がなさったことを、正確にそのままルフェーブル大司教様がなさったという事です。私達はルフェーブル大司教様の子供達です。そして、コルベ神父様の霊的な子供達でもあります。

そしてこのビジョン、この世界観と観点から、私達は全てを汚れなきマリア様を通して、キリストにおいて全てを復興させるという事を、私達が実現しなければならなくて、そしてこのモットーは、私達に非常に大切であって、私達一人一人がこれを実現しなければなりません。
そしてこのビジョンを実現させるために、私達の中には燃えるような、熱い情熱がなければなりません。それは、霊魂達を真理へともたらす、つまりイエズス・キリストへともたらす、この霊魂達をイエズス・キリストの御国へと導く、それへと招くという熱情です。これが、これこそがコルベ神父様がミッションに行きたい、と願ったその理由だったのです。マキシミリアノ・コルベ神父様は、暗闇に住んでいる、イエズス・キリストという真理を何も知らない霊魂達に真理を、明かりを照らす事を望んだのです。
このコルベ神父様が、手紙をたくさんたくさん書いているんですけれども、その多くの手紙の中で、「そんなに多くの人達が、天に私達の優しい父親がいて、そして私達の幸せだけを望んでいる天の母がいらっしゃるという事を知らない人があまりのも多いので、それで心がもう砕けている。」という事を書き綴っているのが分かります。
例えばこの国に来た、宣教師達が確かにたくさんいます。もちろんコルベ神父様がこの国に来た時に、多くの司祭たちがキリストにおいて全てを復興させよう、と働いていた神父様達がたくさんいたに違いありません。しかし、コルベ神父様がなさった事が成功したその秘訣は、汚れなきマリアを通して、という事があったからです。もちろん、世界中の司祭達は、キリストにおいて全てを復興させる事を望んで働いて、そしてマリア様にも信心をもっていてロザリオも唱えていた事は間違いありません。
その違いというのは、コルベ神父様の場合には、マリア様だけが、マリア様が霊魂を光に、真理へと導くその力とその道だ、という事を深く確信していて、マリア様だけにその信頼をおいていたという事です。
日本でコルベ神父様が、そしてその子供達がその弟子達が、どれほど素晴らしい仕事をしたか御存知と思います。無原罪の園を通して、どれほど多くの日本の方が、カトリックの信仰を受け入れるようになったのか。ルフェーブル大司教様が世界中に御自分の司祭達を送る時もやはり同じです。ルフェーブル大司教様の場合には、コルベ神父様よりももっと酷いものを見ていました。コルベ神父様は、御自分の周りに異教主義、異教の習慣やそれらを見ていましたが、現代では新・異教主義というかそれを見ています。

コルベ神父様は、深い闇を日本に見ました。しかし現代では、その暗さはその当時の十倍以上、もっと深い暗闇の中におかれているのを見ます。何故かというと、今の世界の状況は、百年前よりも更に深い暗闇の中にあるからです。百年前は、それでもカトリック教会は、イエズス・キリストの戦士としての権利を守る為に戦って、その位階制度はその為にイエズス・キリストの為に、戦っていましたけれども、しかし、それさえも今はなし崩しになっています。そして聖コルベ神父様は、日本で働いている聖なる司祭達を、この人が聖なる方だ、と数える事ができました。しかし、私達がここに来た時に、助けをどこに求めたら、あらゆるどこにも、どんな助けも私達は受ける事ができません。但し、一つだけ例外があります。そして、皆さんが今ここで聖伝のミサに与っている事、そしてこの昔の非常に美しい聖歌をきれいに歌っておられる事は、インマクラータ、無原罪の汚れなきマリア様のなさっている奇跡です。

ですから、もしもコルベ神父様にとって、この全てをマリア様を通してキリストにおいて復興させるというのが重要であれば、私達にとってこれは、十倍以上重要なモットーとなります。これは私達自身を守る為に、そして使徒職の為にも、十倍以上必要です。もしも、助けがそうでなければ、外からの異教の影響、或いは近代主義の影響、或いは唯物主義の影響、或いはその他色々なイエズス・キリストを無きものとする様な影響を私達は受けているので、もしも助けがなければ、そのまま私達は抵抗もできずに終わってしまうでしょう。

今の危険というのは、ポルノとか不潔なものとか、或いはお金を求める拝金主義とか、そのようなもの、それが最悪のものではありません。フリーメイソンは、私達の意志と、私達の知性を壊そうとしています。もしもマリア様の助けがなければ、私達は皆、リベラル主義、自由主義の罠に陥ってしまうことでしょう。このリベラリズムの為に、最も強いという人達でさえも倒れる事ができます。
もしも、皆さんの誰かが屈辱された、或いは私達の気に入らない様な事が降り起こってきた時に、もしも私達がリベラリズムに、自由主義に感染をしていたら、それに対して反抗を起こして、「何だ!?」となってしまいます。
例えば、私達を屈辱に落とそうとした私達の長上、或いは私達の権威のある方に対して、それに自己を正当化する議論をたくさん見つける事ができます。するとリベラリズムに感染された人は、「おぉ、上の人も間違いを犯すじゃないか。だから私は従わない。私は自分のやりたい事をやる。」と、リベラリズムの罠にかかります。
そう、そしてその様なリベラリズムに感染した人達は、「あぁ、この上の人はイエズス・キリストを裏切った、ルフェーブル大司教様を裏切った。あぁ、この人達はもう自分の義務を果たしてしていない。」と、攻撃をするでしょう。

ですから私達は、もしもこのマリア様を通して、汚れなきマリア様を通してということがなければ、私達は皆、自由主義の罠にかかって、皆倒れてしまうでしょう。

そして、もしも本当にマリア様に忠実であれば、聖ピオ十世会の会則とそして会憲と、そして長上に忠実であり従順であり、そしてマリア様に忠実であり、ルフェーブル大司教様の望んでいた様なその仕事をする事ができます。

そして、もしも皆さんで辛い事があったり、或いは困難があったり、或いは罪を犯してしまった、或いは何か道徳的に問題がある、などという時には、どうぞそのままもう匙を投げないで、マリア様の方に行って下さい。マリア様は必ずそれに対して手段があります、解決があります。

そして、このキリストにおいて私達だけを復興させるのみならず、その他の全てを復興させなければなりません。



コルベ神父様は長崎に来た時に、「私には夢がある。」と、言いました。「私はここに、汚れなきマリア様の無原罪の街をつくりたい。そして、少なくても百名の方が、ここに来て司祭となり、修道者となり、マリア様の下で日本の回心の為に働く人達がある事を望む。」これが、その夢が実現するのに、六年かかりました。この自分の夢を長上に話した時に、「コルベはちょっと頭が廻っている。」と言いました。

皆さん、私には夢があります。私達には夢があります。私達はこの日本に、修道会が欲しいです。そして、聖伝に基づいた、インマクラータの、無原罪の街をつくりたいと思っています。そして、多くの霊魂達が、天主様の光と多くの御恵みを受ける事ができる、その霊的なセンターをつくりたいと思います。



では、コルベ神父様はどうやってこれを実現させたでしょうか。最初に来た人達を集めてですね、そしてその人達に、「あなた達は、汚れなきマリア様の騎士である。あなた達は、汚れなきマリア様の使徒たちである。あなた達は、霊魂をマリア様の所に導かなければならない。」その当時、日本では自由にカトリックの教えを広めることはできませんでした。例えば、マリア様の本とかそのようなことをあげる事さえも、何かそういう招待がなければ、それさえもできませんでした。では、この最初に来た日本人達はコルベ神父様に、「では神父様、誰が私達にその本を送って下さいとかいう様な、マリア様について話して下さい、というその招待の手紙を私達にくれるでしょうか。」コルベ神父様は答えて、「まず、お祈りしなさい。次に、犠牲を払いなさい。そして第三に、朝から晩まで、マリア様の御望みの事を実践しなさい。マリア様の御望みであって、自分の意志ではない、自分のやりたい事ではない、マリア様の望む事をしなさい。そして、非常にこの目立たないような感じで、不思議のメダイを配りなさい。もしもこれをするならば、何か実りがあるでしょう。」そして、本当にそうなりました。

私達は皆さんの祖国である、日本の回心を心から願わなければなりません。マリア様はこの国を愛しているという事を、皆さん確信を持たなければなりません。そして、マリア様はこの日本の元后になりたいと思っています。もしも私が、長崎にマリア様の至聖地をつくるならば、マリア様のこの御像の両御手を開いて、霊魂達を集めている御像を作りたい、建てたい。

では、何でそんなに回心の数が少ないのでしょうか。「あぁ、マリア様、お母様、何故あなたの日本にいる子供達を世話しないのですか。御眠りになっているのですか?」



マリア様は、一九一七年八月十九日にその答えを与えました。「祈って犠牲を捧げなさい。何故ならば、多くの霊魂達が地獄に行っているからです。何故ならば彼らの為に祈る霊魂、祈る人達があまりにもないからです。」
聖マキシミリアノ・コルベ神父様も同じ事を教えています。私達はこれからすぐに、東京へと新幹線で行きます。皆さんもまた、電車に乗ってどこかに行くかもしれません。

聖ヨハネ・ボスコに起こった重要な出来事をお話します。ドン・ボスコは、電車を待って駅に行くんです。そしてその電車のホームで、向こうの方に男がいて、天主様を、イエズス様を非常に冒涜して、口汚く罵っています。そしてドン・ボスコは、その人の為に射祷を唱えて、「マリア様、イエズス様、この彼を回心させて下さい、彼の為に彼をお許し下さい。彼が地獄に行かないようにして下さい、霊魂を救って下さい。」と、お祈りしました。そして、ドン・ボスコは電車に乗って別の所に行って、この男の事をすっかり忘れていました。
その数カ月後、ドン・ボスコはビジョンを見て、「ドン・ボスコ、私の事を覚えてますか。」「覚えていない。」「ドン・ボスコ、三ヶ月前ボローニャの駅で、あなたは天主様を侮辱して冒涜を吐いている男を見ました。それが私です。そして、私はその後大きな事故があって、天主の御前に裁かれました。そして、その死の直前に、その数秒の間、私は完全なる痛悔の、罪を痛悔する恵みを得ました。それは、あなたがボローニャの駅で、私の為に三、四回程の射祷を唱えてくれたおかげです。ドン・ボスコありがとう。あなたのおかげで今、私は天国に行く事ができます。永遠の幸せを受けます。もしあなたが三ヶ月前にいなかったら、射祷を唱えてくれなかったら、私は今頃、永遠の地獄の火に巻き込まれて、燃えていた事です。」
何故私達の祈りはそんなに弱いのでしょうか。何故かというと、祈りにどれ程力があるか、私達は信じていないからです。
聖モニカを考えて下さい。聖モニカは十八年間、息子を聖アウグスチヌスを、回心させる為にずっと祈っていました。その聖モニカの祈りは、私達の祈りよりも良かったのでしょうか?聖モニカが十八年間、聖アウグスチヌスの為にずっと祈っていた間、その祈りを天主様は使って、他の多くの人達を回心させました。そして、私達は一生かかっても、ずっとたくさんの射祷、射祷、射祷、射祷をたくさん使って、罪人の回心の為にたくさん祈って、多くの霊魂達を救う事ができます。
残念ながら私達はそんな事も考えずに、牛のように「あぁ〜、」「電車がぁ〜」と来るのを見て、「誰が来てるのかな〜」というだけです。
ですからコルベ神父様は、「さあ!起きて!今から仕事があるんだ!」と。
そして、そのような射祷がたくさんある、そのような私達を使ってマリア様は、私達を手段として道具として、多くの人の霊魂の回心の為にマリア様が働きます。

もう時間が来てしましました。実はこのper Mariamというラテン語の部分を今から説明しようかな、と思っていたんですけれども、時間が来てしまったので、次にお話します。
(日本語で)ありがとう。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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カール・シュテーリン神父の神父様たちへの手紙(2014年9月)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

 この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の第一の目的は、司祭職です。聖ピオ十世会会憲の第二章「会の目的について」(II - DE SODALITII FINE)は、こう言います。当会の目的は、司祭職であり、司祭職に属する全て且つそれに関わること以外の何物でも無い。すなわち、私たちの主イエズス・キリストが「これを私の記念として行え」と言ったとき、主がお望みになったままの司祭職である、と。
1. Le but de la Fraternité est le sacerdoce et tout ce qui s'y rapporte et rien que ce qui le concerne, c'est-à-dire tel que Notre Seigneur Jésus-Christ l'a voulu lorsqu'il a dit: « Faites ceci en mémoire de moi »

 アジア管区長のシュテーリン神父様は、そこで、今まで聖ピオ十世会アジア管区という広い地域で、今までに出会ったことのあるカトリック司祭、或いは、これから出会うであろう司祭の方々にも、友人として、同じカトリック司祭として、お手紙を書きました。何故なら、すべてのカトリック司祭は、本質的に主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているからです。カトリック司祭として、互いに秘跡的刻印において結ばれているからです。私たちの主イエズス・キリストの司祭職に参与しているからです。カトリック司祭としての霊的一致を望むからです。

 そこで、願わくは、アジアにいるカトリック司祭たちが、永遠の大司祭なるキリストにおいて一致しますように、キリストにおいて一致するために互いに励まし合うことができますように、カトリック司祭職の美しさと偉大さを保ち再発見することができるように私たちの心をイエズス・キリストに向け続けるためです。私たちは司祭として生き残るために、永遠の真理へと私たち司祭の心を引き挙げるためです。司祭の聖徳を乞い求めるためです。多くの霊魂たちを永遠の救いへと導くためです。

 親愛なる神父様、どうぞ、この手紙をお読みください。そして、もしもお気に召したなら、同僚の司祭たちにも教えてあげてください。

 親愛なる神父様、もしかしたら、信徒の方からこの手紙のことを知らされたかもしれません。どうぞ、目を通してください。私たち司祭が、ますます高い聖徳への望みに燃え立ちますように!

 このお手紙を読む全ての方々に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

*****

聖ピオ十世会・アジア管区の司祭たちへの手紙

FIRST LETTER FROM FATHER KARL STEHLIN


カール・シュテーリン神父よりの最初の手紙

親愛なる神父様!

 この手紙は、第一に、聖ピオ十世会と接触したことのあるすべての司祭の方々に向けて書かれています。長年に渡って私たちのことをご存知の方々もいれば、私たちの発行している出版物を受け取っているだけの方々、あるいは私たちの宣教旅行の一つでお会いしたことのある方々もいます。おそらく複雑な二次的原因を通して、神父様にこの手紙が伝わり、私の言葉をお伝えする光栄を与えてくださった天主のみ摂理に感謝しています。

私たちの一致
 あなたに思い切って手紙を書く理由は、次に述べるこの偉大な真理の故です。すなわち、本質的にすべての司祭たちは、主イエズス・キリストの同じ司祭職を分かち合っているということ、それゆえに、本質的に私たちの源泉に、秘跡的刻印において結ばれており、それは私とあなたを「alter Christus 第二のキリスト」たらしめ──主の永遠の司祭職に参与せしめるのです。しかしながら、私たちが主において一致しているなら、私たち自身の間においても一致があるべきだという論理にならざるを得ません。聖主は「あなたが私の中(うち)においでになり、私があなたの中(うち)にあるように、みなが一つになるように!」(ヨハネ17:21)と永遠のおん父に願った時、彼はどれほどこの霊的一致を、司祭的祈りの中で、熱烈に望んでいたことでしょうか?

私たちの孤立
 しかしながら今日、多くの司祭たちは、肉体的にというより霊的に、ばらばらになっているかのように見えます。司祭たちの間にあるまことの一致は、永遠の大司祭なるキリストへの一致にかかっているのです。そしてキリストに一致しようと互いに励まし合えば合うほど、私たちはこの危険に満ちた世界において互いに助け合えるのです。

 聖なる司祭職に加えられた攻撃を、あなたは私よりもよくご存知のはずです。あらゆる立場から(特に現代の世俗メディア上で)、司祭職が嘲笑され、司祭職が進歩、女性たち、人権、人間の尊厳、自由とは真逆のものであることを非難され、最も卑劣な性的倒錯行為の逃げ込み場所になっているのを、私たちは耳にしています。世俗は私たちをもはや理解しないかのようです。私たちはよそ者で、容疑者の集まりになってしまっています。なぜなら私たちは世俗が理想とするひな形に、どうやら適合しないからです。「Vae soli, 一人きりでいるのは不幸なことだ」と、コヘレットの書[伝道の書](4:10)は言います。なぜなら、このような圧力にいつでもどこでも抵抗することは、ほとんど難題といっていいからです。従って、互いに手を組み、助け合うこと、私たちの司祭職の美しさと偉大さを保ち、再発見すること、アシジの聖フランシスコの「Deus meus et omnia! 我が天主、我がすべてよ!」というモットーに則って、私たちのまなざしを絶えずイエズス・キリスト、私たちの「唯一の、そしてすべてであるお方」にしっかりと向けておくことが必要なのです。

私たちには信仰が必要です
 私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二つの手段があります。聖ヨハネは、素晴らしい明瞭さで最初の手段を教えてくれています。「世に勝つ勝利は、すなわち私たちの信仰である」!(ヨハネ1 5:4) 
 残念なことに、現代世界では、信仰は凋落の一途を辿っています。名誉教皇ベネディクト十六世は、信仰の危機について何度も語りました。過去五十年間、私たちは教会内での完全な方向転換を経験し続けてきたということを理解するのは簡単です。聖職者層からのメッセージは、現在では世俗の方へ、この世界での人間の生活や悲しみ、喜びの方へと向いています。黙想し、教えられるべきテーマの一覧表のトップに、永遠の真理はもう存在せず、この真理の数々は時代遅れだと考えられているのです。多くの事例の中でも、ちょうど二つの例を挙げましょう。過去五十年以上に渡って、教皇様(ベネディクト十六世)は、たった一度だけしか「戦闘の教会」という言葉を使いませんでした。同様に、「四終(novissima)」の教義は、完全に覆い隠されてしまいました──徹底的な沈黙が、審判、地獄、煉獄、大罪の結果、私たちの内に残る原罪の永久的な傷痕などを包み込んでしまっています。
 永遠の真理へと私たちの心を引き挙げようとしないなら、私たちは司祭として生き残ることはできません。真理は私たちを占領し、私たちを惹きつけなければなりません。信仰の炎を輝かせ続けないなら、私たちはもはや自分たちの司祭職を、信仰のひときわ優れた神秘である司祭職を理解しないでしょう。ですからその結果として「この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである」(ヨハネ1 3:1)となるのです。

 私たちは信仰のうちに強められなければならない、と私が申し上げるなら、これは向こう見ずなことではありません。あなたは司祭職の深刻な危機を間違いなくご存知です。すなわち、非常に大勢の司祭たちが司祭職を放棄し、非常に大勢の司祭たちが、キリスト者の生活が失望させるほどに破綻しているのを目の前にして、絶望と幻滅の状態で生きているのです。

 私たちの信仰が危機にさらされているもう一つの理由は、自然的レベルにおいてさえも、さまざまな物事を目にする危機のただ中にあるからです。「あの人たちは安楽な生活をしていて、そしてキリスト者でいられる。では、なぜ私は孤独なままで軽蔑されていなければならないのだ? あの人たちは正当な楽しみを得て、努力に対する報酬を得ている。では、なぜそれらのことが私には禁じられているのだ?」こうして、一部の司祭たちは、以前は禁じられていた自然的慰めが許可されるよう要求しています。別の司祭たちは、はっきりと禁じられているわけではないさまざまな事柄を使って、不摂生なまでに楽しみに溺れています。アルコール依存症に陥り、インターネットや映画に依存し、金銭や休暇、くつろいだ生活を常に期待しているあまりに多くの同胞たちを見るのは非常な悲しみです……。この結果はたいてい破滅的です。すなわち、二重生活、司祭職の放棄、背教へと至ります。

 聖主によって与えられた永遠の光と真理の高みへと入り込むために、私たちの信仰を堅固なものとすることは非常に重要です! 信仰の、この超自然の「現実」は、私たちの目を開かせ、信仰を蝕み、人々を悪魔の奴隷とさせる、錯覚と偽りのイデオロギーに気づかせる光を与えてくれるでしょう。

私たちには聖性が必要です
 私たちの司祭職を霊魂のうちに生き生きと保ち、世俗の攻撃を打ち負かす二番目の手段は、聖徳です。ヨハネによる聖福音の中で、聖主はおん父に「Sanctifica eos! 彼らを聖別してください!」と乞い願いました。司祭とは奉献された存在です。司祭はその手に、その心に「至聖なるおん者」を抱き、宿すのです。特に司祭に対して、聖主はこのように言っています。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」(マテオ5:48)

 私たちを天使たちよりも上に置き、人間も天使もなし得ない奇跡を勝ち取らせる司祭職の途方もない偉大さに気づいているなら、では、私たちは「取り扱うものを模倣する」(Imitamini quod tractatis)【叙階式の時に司式司教が叙階される司祭たちに言う言葉】という果てしない望みを持たなければなりません。至聖なるおん者に触れる手は、聖なる人の手であるべきです。ですから、なによりもまず、私たちは天主との一致という深い熱烈な望みを持たなければならず、祈りの生活を辿って行き、そうして「主の慈しみを見つめ味わう」(詩編33:9)のです。私たちは賛美とともに、聖なる生活を送った司祭なる先人たちに思いを馳せます。かつて、このような司祭たちは一国を回心させ、何百という霊魂たちを永遠の救いへと連れて行きました。彼らから学ぶべき多くのことがあり、私たちが彼らの歩みに続くなら、同様のことを私たちが勝ち得るだろうと聖主は約束して下さっています。

信仰と聖性の源──ミサ聖祭
 さて、信仰と聖徳の二つの最も完全な表現であり、理解に至る手段は、ミサ聖祭です。聖主が聖木曜日に私たちに明かされたように、これこそが、自分たちの司祭職の核となる場所であり、これこそが、私たちの存在理由なのです。聖木曜日に、聖主は私たちに教えて下さったこと「Hoc facite in meam commemorationem 私の記念としてこれをおこなえ」(ルカ22:19)を、正しく完成させるよう、私たちにお命じになったのです。

教会には忠実で聖なる司祭が必要です
 大聖グレゴリオは「教会にとって最大の損害は不忠実な司祭であり、最大の利益は熱烈で聖なる司祭である」と書きました。聖主はご自分の王国に聖職者位階があることを望まれ、主として司祭たちを通して、つまり、聖ペトロによって「forma gregis ex animo 群れの模範」(ペトロ1 5:3) と呼ばれた司祭たちを通して天主の光と恩寵を与えることが、天主の聖なるご意志なのです。すなわち、私たちの群れの霊魂たちは、私たちが与える模範に依存しているのです。

 あなたは聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネの言葉を聞いたことがあるはずです。「聖なる司祭は良い小教区を生み出し、良い司祭は平均的な小教区を生み出し、平均的な司祭は悪い小教区を生み出し、悪い司祭は小教区を無くしてしまう」と。

 教会は、恐らく今まで以上に、堅い信仰を持った聖なる司祭たちを必要としています。教会を慰め、(内部や外部から)教会に負わせられた傷を癒やすために私たち司祭を必要としています。不忠実な司祭たちによって裏切られ続けた自分の子らに勝利を取り戻すために、私たちを必要としています。教会を復興させ、拡大させるために働く私たちを必要としています。

忠実で聖なる司祭たちのおん母
 人々の心を高め、成功を収める使徒職を持つ忠実で聖なる司祭たちを目にする時はいつでも、彼ら一人一人は司祭職のおん母なる聖母、インマクラータ(無原罪の聖母)のおん助けを当てにしているというのは、もう明白でわかりきったことです! 私は、公にそのことを宣言しているたくさんの司祭たちを個人的に知っていますし、聖母なしでは、彼らはすべてを放棄していたかも知れません。ロザリオなどのおかげで恐るべき危機を克服できたと言っている司祭たちもいます。

この手紙を広めて下さい
 あなたの司祭生活の気高さ、美しさ、必要性と基礎を理解して実現させるように司祭たちを助けることによって、私たちの間の絆を強めるため、これこそが、親愛なる同僚である神父様、私があなたに思い切ってこの手紙を送る理由です。この手紙があなたを喜ばせ、あなたの同僚の司祭たちにとって霊的に役に立つと思われるなら、この手紙を読んでいただけるよう回覧し、あるいは、直接コンタクトをとれるよう私に連絡先を送って下さい。できれば、最も簡単で、すぐに、確実に連絡を取れる手段であるEメールを使って、あなたとコンタクトを取りたいと考えています。

 あなたが私のために祈ってくださるよう心からお願いします。私もまたあなたのために祈ると約束します。すべての試練において、聖主があなたを強めて強固にしてくださり、悲しみのうちにあるあなたを慰めてくださるよう、聖主おん自らが恩寵と堅固さを与えてくださるように願います。そして、すべての母たちの中でももっとも優れたお方なる聖母が、救霊のすべての敵どもから、あなたを絶えずお守りくださいますように。

 感謝を込めてあなたの
 カール・シュテーリン神父

韓国語訳もあります。
아시아 신임 관구장, 칼 슈텔린 신부님께서 모든 신부님들께 보내신 서한

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聖ピオ十世会本部からの報道発表(2014年9月23日)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会本部からの報道発表をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


Communiqué from the General House of the Society of Saint Pius X

23-09-2014

On Tuesday September 23, 2014 his Excellency Bishop Bernard Fellay, Superior General of the Society of Saint Pius X, met with Cardinal Gerhard Ludwig Müller, Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith. With Bishop Fellay were Frs. Niklaus Pfluger and Alain-Marc Nély, First and Second Assistants General of the Society. Cardinal Müller was accompanied by Monsignor Luis Ladaria Ferrer s.j., Secretary of the Congregation for the Doctrine of the Faith; Monsignor Joseph Augustin Di Noia o.p., Assistant Secretary; and Monsignor Guido Pozzo, Secretary of the Pontifical Commission Ecclesia Dei.

The meeting took place in the offices of the Congregation for the Docrine of the Faith from 11:00 a.m. until 1 p.m. The goal of the audience was to allow Cardinal Müller and Bishop Fellay to meet for the first time and to discuss together the status of the relations between the Holy See and the Society of Saint Pius X. This was their first encounter since the resignation of Pope Benedict XVI and the end of Cardinal William Joseph Levada’s term as Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith.

During this cordial meeting, doctrinal and canonical difficulties were discussed, and the current situation of the Church was mentioned. It was decided to continue the discussions in order to clarify the points of contention that remain.

Menzingen, September 23, 2014

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聖ピオ十世会イタリア管区が主催した、アシジへの巡礼(2014年9月6−7日)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会イタリア管区が主催した、アシジへの巡礼(2014年9月6−7日)の動画をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)






Le immagini del 26° Pellegrinaggio della Tradizione Cattolica
da Bevagna ad Assisi, del 6-7 settembre 2014

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聖ピオ十世会本部よりの公式声明(2014年9月23日)日本語訳

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、「聖ピオ十世会本部よりの公式声明」の日本語訳をご紹介します。天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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聖ピオ十世会本部よりの公式声明

二〇一四年九月二十三日

 二〇一四年九月二十三日火曜日、聖ピオ十世会総長、ベルナール・フェレー司教は、教理聖省長官、ゲルハルト・ルートヴィヒ・ミューラー枢機卿と会見した。フェレー司教には、本部総長第一補佐ニクラス・フルーガー神父、及び総長第二補佐アラン・マルク・ネリー神父が同行した。ミューラー枢機卿には、教理聖省秘書官でありイエズス会士の Luis Ladaria Ferrer大司教、秘書補佐でありドミニコ会士のジョセフ・アウグスティン・ディノイア大司教、エクレジア・デイ委員会秘書官であるグイド・ポッゾ大司教が同伴した。

 会見は、午前十一時から午後一時まで、教理聖省執務室で行われた。この引見の目的は、ミューラー枢機卿とフェレー司教の初顔合わせを実現すること、及びローマ聖座と聖ピオ十世会の関係状態をともに議論することである。今回をもって、教皇ベネディクト十六世の退任、及びウィリアム・ジョセフ・レヴァダ枢機卿の教理聖省長官の任期終了以来、両者の初の接触となった。

 今回の誠意ある会見の間、教義的及び教会法的問題が話し合われ、教会の現状についても言及された。今なお残っている論争の論点を明確にするため、議論の続行が決定された。

二〇一四年九月二十三日、メンツィンゲンにて



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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2014年9月14日 聖十字架称賛の祝日、シュテーリン神父様の御説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2014年9月14日 聖十字架称賛の祝日に、東京での聖伝のミサの時に、シュテーリン神父様がなさった御説教をご紹介します。

 このお説教を書き起こしてくださった方に感謝します。

 このお説教をお読みになる方々全てに、天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2014年9月14日 聖十字架称賛の祝日、シュテーリン神父様の御説教

【写真は大阪でのミサ聖祭のものです】


【写真は大阪でのミサ聖祭のものです】


親愛なる友人の皆さん、今日私達は、私達を愛し天主が愛したその偉大なる手段である十字架を礼拝しています。
十字架は、私達がこの地上で持っている最も深い神秘の一つであって、この神秘をこの一人の方以外、これ以上深く理解した方はいません。
その方は、私達の聖母マリア様であって、そしてこのマリア様は、十字架の御下に佇み、そして十字架の深い神秘を、愛を、黙想しておられます。
ですからカトリック教会は、この二つの祝日を一緒に祝っています。今日まず十字架の称賛、そして明日は七つのマリア様の御悲しみの祝日です。
ですから、もしも私達の救いの原理の中に入って、それを理解しようとするのならば、同時にマリア様の悲しみに満ちた御心の中にも入らなければなりません。

ファチマでマリア様はこう仰いました、「私の汚れなき御心は、あなた達の避難所であって、天主様へと導く道である。」と。

このマリア様の御心は、天国へと導く道であるのみならず、私達が十字架の神秘を深く理解する為の道でもあります。その神秘を深く理解する事ができる為に、では皆さん一緒に、マリア様が十字架の下で一体何をお感じになったのか、そして何を黙想しておられたのかを考えてみる事にしましょう。

私は特に、ここにいらっしゃるお母様方に伺いたいと思います。もしもお母様方の中で、心を深く痛める、或いは辛い、悲しい、或いは苦しい思いがおありになったことがあると思います。しかしこの自分の苦しみよりも、皆さんが、お母様達が、この愛する可愛い子供がいて、その子供が自分の前で、悪い人達によって殴られたり、傷付けられたり、悪さをされたり、そしてその子供が痛がって、苦しんでいるのを見ると、自分の事よりももっと、その母の心は苦しむのではないでしょうか。
聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールによると、「この地上にいる全てのお母さん、最高の善き母、親達の心を全て集めて、その自分の子供達を愛する全ての愛を、全ての総計をしたとしたら、マリア様が私達一人一人を愛する、その一人一人に対するマリア様の愛と比べても、まだ足りない。」と、いいます。
ところで、そのような巨大な私達に対するマリア様の愛を、全て、全人類に対する愛を全て合わせたその総計は、イエズス様に対する御自分の愛に比べると、ほんの一滴に、大海の一滴にしかすぎません。
そして、その大きなはかりも知れないような愛をもって、マリア様は十字架の下に佇んで、その御自分の御子の死を目前にしています。
マリア様はイエズス・キリストがどなたか良く知っています。この天と地よりも遥かに超えた偉大な方であって、皆さんと私よりも遥かに偉大な方である、と。
そして私達は、このマリア様の愛する御子イエズス・キリスト様から、たくさんの御恵みと、たくさんの愛と、物凄い祝福を受けて、受けて、きました。そしてこの私達が、イエズス・キリストを傷付けて、暴力を払って、そして殴り付けて、そして殺そうとしています。罪を犯す事によって、イエズス・キリストを侮辱し続けています。
そして、それを知りつつマリア様は、十字架の下に佇んで、三時間、イエズス様の御傷をずっと眺めて、そしてそれを見て、その足元から頭までその全ての傷が、どれ程イエズス様を傷付けて、傷めて、その死に至らせるかを、御覧になりながら、そして黙想しています。

もしも、皆さんが十字架の神秘を理解しようと思われるのでしたらば、同じ事をなさって下さい。
皆さんも、ご自宅に十字架の御像があると思います。そして、ご自宅にある十字架像のイエズス様をご覧になって下さい。しかも、表面的にただ眺めるだけではなく、マリア様の目を以ってご覧になって下さい。
そして、きっと皆さんはこう仰るでしょう、「あなたのこの手の御傷、そしてあなたのこの胸の御傷、足の御傷、そしてこの茨の頭の傷、そして全身の傷、全てあなたは、私の為になさった事、私達の為に苦しんで下さったのですね。」と。

そしてマリア様は、この傷から御血が滴り出て流れ出るのを見ています。
お母さんが、もしも子供が、「お母さん、傷が血が出てる。」と、やって来るのを見れば、「あぁ!さあ、大変!」と言って、これに包帯を巻いて、出血を止めるように一生懸命します。もしも、この血を止める事ができなければ、そのお母さんは本当に心配します。何故かというと、もう血が出て、流れ出ていたら、もう死が近いという事ですから。
そして、マリア様も十字架の下で、イエズス様の御傷を見て、その血が滴り出るのを見て、何とかしてこの血を止めて、そして何とかお慰めして、それをそして自分が苦しむ事を望むのですけれども、しかしそれさえもできませんでした。
そして、これは親にとって起こり得る最悪の出来事です。子供達が、自分の目の前で血を流して、今からもう出血して出血してそして今死につつある、そしてそれについて何もできない。それを見て親の心は砕かれて、もう悲しみに打ちひしがれるしかありません。

イエズス様にとって、マリア様がその同じ、イエズス様と同じ苦しみを感じておられる、そしてイエズス様と心を合わせて同情されている、というのを見るというのは非常に大きな慰めでした。
そして同じようなやり方で、私達は十字架を見て、そして黙想し感嘆しなければなりません。そして私達の心こそ、これも、イエズス様の物凄い苦しみを見て同じ苦しみを持ち、同じ心で同情の心を持たなければなりません。そして、何とかしてこのイエズス様をお慰めしよう、と願わなければなりません。
何故かというと、誰かが十字架の上で亡くなりつつある、というのは、この地上で起こり得る死の、最も残酷な、最悪の死に方であるからです。

イエズス様、この十字架を見て、私達はイエズス様にこう言うしかありません、「イエズス様、あなたはこれら全ての苦しみを、私の為になさって下さったのですね。しかし、私こそが、あなたがこうなるように挑発したし、私こそが、あなたに十字架に釘を打った者ですし、私こそが、あなたの茨の冠を押しかむらせた者でした。」

ですから、教会が何故十字架をこのように称賛する事を望んでいるか、よくご理解できた筈です。何故かというと、この十字架こそが私達を助けて、私達の救いの理由であるからです。

この十字架を見て、私達がそれに目を上げる時、私達の心の中に感嘆と、あぁ素晴らしい、という心と、そしてその興奮さえも、私達の心に満ちみちていなければなりません。この、これこそが私達を救った愛、天主様の愛だ、と。
そして十字架を見て、「これは、私がこのような事をするようにしたのだ。」と、することが理解できれば、私達には自分の犯した罪に対する、深い悔悛と、深い痛悔の念が湧き起こってきます。そして、深い深い痛悔の念が起これば起こるほど、私達は赦しを、罪の赦しを受けるに準備ができている、ということになります。

そして多くの聖人達が、「私にとってこの十字架こそ、この十字架像こそが、黙想の本だ。何故なら、十字架のイエズス様の死を見ると、私達に全ての罪への誘惑に打ち勝つ力を与えてくれるからだ。」と、言います。
そして、その黙想の本であるもう一つの理由は、この十字架像を見ると、天主様の私達に対する、はかり知れない大きな愛を知る事ができるからです、何故かというと、愛する友人の為に自分の命を与えるほど、偉大な、より大きな愛はないからです。
その愛が理解できると、私達は、もっとイエズス様をお慰めしよう、イエズス様をお愛ししよう、と、望みが湧き起ってきます。そしてそれに感動して、イエズス様が私を愛する為にこれほど大きな犠牲を捧げたのなら、私も小さな犠牲を捧げる事ができる準備ができます。

十字架は、天国へ行く為の唯一の道です。十字架によってだけ、サタンは敗北しました。十字架のイエズスに一致する事によってだけ、天主御父を喜ばせる事ができます。
この事を、十字架の下に佇んでいるマリア様は、御自分の愛する子供である私達に教えようとしています。
マリア様に、ですからマリア様の愛する子供達である私達に、十字架にいつも忠実である事ができるように教えて下さい、とお願いしましょう。

そして具体的に申し上げますと、皆さんの家には必ず、一番重要な部屋には少なくとも一つ、美しい十字架像がなければなりません。そしてそれを、私達がそれを見る事ができるのがなければなりません。
そして第二にお願いです。十字架の印をよくして下さい。これは愛と確信をもって十字架の印をなさって下さい。
そして第三にどうぞお願いです。十字架のイエズス様の苦しみを黙想して下さい。これこそが罪に打ち勝つ最も偉大な動機であって、そして聖人になるという望みの動機であるからです。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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フェレー司教とのインタビュー(ミュラー枢機卿との面会を終えて)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは!「フェレー司教とのインタビュー(ミュラー枢機卿との面会を終えて)」の記事の英語版をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Interview with Bishop Fellay after his meeting with Cardinal Müller

You were received by Cardinal Müller on September 23rd. The communiqué from the Vatican Press Office repeats the language of the 2005 communiqué issued after your meeting with Benedict XVI, which already said that the parties would “proceed gradually and over a reasonable period of time… with a view to the envisioned full communion.” The 2014 communiqué, on the other hand, speaks about “full reconciliation.” Does this mean that you are starting over at the beginning?

Yes and no, depending on the perspective that you take. There is nothing new, in the sense that both our interlocutors and ourselves, we realize that doctrinal differences still exist―which had been made quite clear during the theological discussions in 2009-2011―and that because of this we were unable to sign the Doctrinal Preamble that the Congregation for the Doctrine of the Faith has proposed to us since 2011.

But what is new?

There is a new pope and a new prefect heading the Congregation for the Doctrine of the Faith. And this recent interview shows that neither they nor we want a break in our relations: both parties insist that it is necessary to clarify the doctrinal questions before there is any canonical recognition. This is why, for their part, the Roman authorities are demanding the endorsement of the Doctrinal Preamble which, for our part, we cannot sign because of its ambiguities.

Another new fact is the current aggravation of the crisis in the Church. On the eve of the Synod on the Family, serious, well-founded criticisms made by several cardinals against Cardinal Kasper’s proposals about communion for the divorced-and-remarried are coming to light. This has not been seen in Rome since the criticisms by Cardinal Ottaviani and Bacci in their Short Critical Study on the New Order of Mass (the “Ottaviani Intervention” of 1969). But what has not changed is the fact that the Roman authorities still do not take our criticisms of the Council into account, because to them they seem secondary or even illusory, given the severe problems in the Church today. These authorities do recognize the crisis that is convulsing the Church at the highest level―now among cardinals―but they do not consider that the Council itself could be the main cause of this unprecedented crisis. It is like a dialogue of deaf people.

Can you give a specific example?

Cardinal Kasper’s proposals in favor of communion for divorced-and-remarried persons are an illustration of what we blame on the Council. In the talk that he gave to the cardinals during the Consistory on February 20th of this year, he proposed doing again what was done at the Council, namely: reaffirming Catholic doctrine while offering pastoral overtures. In his various interviews with journalists he harps on this distinction between doctrine and pastoral practice. He says that theoretically doctrine cannot change, but he introduces the notion that concretely, in reality, there are some situations in which the doctrine cannot be applied. Then, in his opinion, only a pastoral approach is capable of finding solutions… at the expense of doctrine.

For our part, we blame the Council for making this artificial distinction between doctrine and pastoral practice, because pastoral practice must follow from doctrine. Through multiple pastoral concessions, substantial changes have been introduced in the Church, and its doctrine has been affected. This is what happened during and after the Council, and we denounce the same strategy that is being used today against the morality of marriage.

But was it only pastoral changes in the Council that indirectly affected doctrine?

No, we are in fact obliged to note that serious changes were made in doctrine itself: religious liberty, collegiality, ecumenism…. But it is true that these changes appear more clearly and more evidently in their concrete pastoral applications, because in the conciliar documents they are presented as simple overtures, just hinted at, with much left unsaid….which makes them, in the words of my predecessor, Fr. Schmidberger, “time bombs.”

In the proposals of Cardinal Kasper, where do you see a pastoral application that makes more evident a doctrinal change introduced during the Council? Where do you see a “time bomb?”

In the interview that he granted to the Vaticanist Andrea Tornielli on September 18th, the Cardinal says: “Church doctrine is not a closed system: the Second Vatican Council teaches us that there is a development, meaning that it is possible to look into this further. I wonder if a deeper understanding similar to what we saw in ecclesiology, is possible in this case (i.e. that of divorced Catholics who have remarried civilly). Although the Catholic Church is Christ’s true Church, there are elements of ecclesiality beyond the institutional boundaries of the Church too. Couldn’t some elements of sacramental marriage also be recognized in civil marriages in certain cases? For example, the lifelong commitment, mutual love and care, Christian life and a public declaration of commitment that does not exist in common-law marriages.”

Cardinal Kasper is quite logical and perfectly consistent: he proposes applying pastorally to marriage the new principles concerning the Church that were spelled out at the Council in the name of ecumenism: there are elements of ecclesiality outside the Church. He moves logically from ecclesial ecumenism to matrimonial ecumenism. Thus, in his opinion, there are elements of Christian marriage outside of the sacrament. To look at things concretely, just ask spouses what they would think of “ecumenical” marital fidelity or fidelity in diversity! Similarly, what are we supposed to think about a so-called “ecumenical” doctrinal unity that is united in diversity? This sort of result is what we denounce, but the Congregation for the Doctrine of the Faith either does not see it or else does not accept it.

How are we to understand the expression from the Vatican communiqué: “proceed gradually?”

The mutual desire of Rome and in the Society of Saint Pius X to continue doctrinal discussions in a broader, less formal framework than in the previous discussions.

But if the doctrinal discussions in 2009-2011 accomplished nothing, what good is it to resume them, even in a broader fashion?

Because, following the example of Archbishop Lefebvre, who never refused to go to Rome at the invitation of the Roman authorities, we always respond to those who ask us about the reasons for our fidelity to Tradition. We could not shirk this responsibility, and we will fulfill it in the spirit and with the obligations that were defined by the last General Chapter.

But since you just mentioned the audience that Benedict XVI granted me in 2005, I remember saying then that we wanted to show that the Church would be stronger in today’s world if it upheld Tradition; I would also add: if it proudly recalled its bi-millennial Tradition. I say it again today, we wish to contribute our witness: if the Church wants to end the tragic crisis that it is going through, Tradition is the response to this crisis. This is how we manifest our filial piety toward eternal Rome, to the Church, the mother and teacher of truth, to whom we are deeply devoted.

You say that this is about giving witness; it is not rather a profession of faith?

One does not exclude the other. Our Founder liked to say that the theological arguments with which we profess the faith are not always understood by our Roman interlocutors, but that does not relieve us of the duty to recall them. Moreover, with his characteristic supernatural realism, Archbishop Lefebvre added that the concrete accomplishments of Tradition: the seminaries, schools, priories, the number of priests, brothers and sisters, of seminarians and lay faithful, also had a great value as proof. Against these tangible facts no specious argument can hold up: contra factum non fit argumentum. In the present case, we could translate this Latin adage by the saying of Jesus Christ, “A tree is judged by its fruits.” And in this sense, while professing the faith, we must give witness to the vitality of Tradition.

(Source: FSSPX/MG – DICI Dated October 03, 2014)

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2014年9月14日 シュテーリン神父様霊的講話(東京)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、初土曜日で、アシジの聖フランシスコの祝日です。

 先月、東京で行われたシュテーリン神父様の講話の内容を書き起こしてくださった方がおられますので、感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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2014年9月14日 シュテーリン神父様霊的講話(東京)

ご招待と、そして【歓迎の横断幕を見て】ここに来た歓迎のこの言葉、歓迎の皆さんの温かい心をありがとうございます。
【横断幕のご自分の写真を見て】非常に私達は若く見えます。そして、この皆さんの歓迎の言葉を感謝します。(日本語で)アリガトウ。



そして、ここには、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」という、聖マキシミリアノ・コルベ神父様のモットーを掲げられています。これは私の、コルベ神父様は私の人生の、一番の理想のモットーです。
今日のこの講話では、「Omnia instaurare in Christo per Immaculatam」という、このマキシミリアノ・コルベ神父様のモットーの意味を説明したいと思います。



この最初の部分は、「聖パウロのエフェゾ人への手紙」の中から取られています。これはキリストにおいて全てのものを新しくさせる、刷新させるという意味です。キリストを私達の中心に置く、という事です。全てをキリストに向けて、キリストが私達の頭であって、その命令をする指導者だ、という事を意味します。このモットーこそ、私達の深い信仰の確信を表しているもの、と知らなければなりません。何故かというと、私達はキリスト者であって、カトリック信者であって、特別の恵みを受けた者です。

この地上にいる全ての善意をもっている人達は、そして知恵が、頭を使う事ができれば、天主が在す事は知っています。そして、天と地を創った創造主がいて、私達自身をも創ったということを知っています。しかし、この創造主がどなたか、というのを知っている人はそんなに多くありません。異教徒の人々や、イスラム教の人々、或いはその他の宗教の人々は、自分の礼拝するべき天主は三位一体である、という事を知りません。
そしてところが私達は、創造主である天主が私達に啓示を垂れて、そしてこの天地の創造主が実は、イエズス・キリストであって、誰も囲いきれない様な、計り知れない大海の水が、もう小さな私達の方にやって来た、という事を知っている者です。

私達は全てのものをイエズス様から受けました。そしてイエズス様のおかげで又私達は、永遠の喜びと、永遠の幸せと、永遠の若さと、死を知らない命を受ける事ができます。

私達は、イエズス・キリストが一体どなたかを知らなければなりませんし、もう一度学ばなければなりません。
イエズス・キリストは、私達にとって全てでなければなりません。皆さんが今こう在るのも、今持ってお持ちになっている物も、みんなイエズス様からのものです。
そして昔私達は、罪を犯した暗闇にいた者ですけれども、しかし今、真理を知って光の中にいて、罪から赦されて罪から解放されて今いるのは、イエズス・キリストのおかげです。



この今地上では、二つのグループ・陣営があります。二つのグループは、互いに戦い合って挑み合って、敵対しています。

一方で、原罪以来この地上を支配しているグループがあります。それは、悪魔です。直接この悪魔は、人間を今支配しています。何故かというと、人間は罪を犯す事によって自分を、悪魔の奴隷、と与えているからです。そして悪魔は人間に、間違った人生についての考えを与えます。そして、頭の良い人達を使って、偽の宗教を作り上げました。そして悪魔は、イデオロギーを作り上げさせて、そしてイデオロギーの持ち主達に、悪魔達が考える事と同じような事を考えさせます。
そして、この悪魔が作り上げたイデオロギーの最も悪いものは二つあって、それはフリーメイソンと、もう一つは共産主義です。そしてこの二つの組織は、悪魔が全人類の歴史の最初に、人間をそそのかしたその二つの単語を、現実のものとさせています。
そしてこの悪魔はまず、まだ光の天使であった時に、天主にこう言いました、「私は、仕えない。Non, serviam」と。

そして第二の言葉は、人祖アダムとエバに言った言葉で、「お前達は、神のようになるだろう、天主のようになるだろう。」

そしてこのイデオロギーが、私達にそそのかしてこれをへつらって、私達を信じさせようとしているのは、人間を高めて、そして人間を礼拝させる事、そして天主への礼拝をそっちのけにする、という事です。
そして今この現在の世界は、このイデオロギーに支配されています。
全ては、お金を追及して、この地上に楽園を作ろうとしています。そしてこの短い人生の間で、この地上で、私の快楽と、そして私の自由と、私の幸福を求める。今ここで、自分の小さな楽園を作ろうとさせています。
そして今の現代の人達は、映画や、そして食べる物や、飲んだり、快楽を追及して、今この地上で、今ここで楽園を楽しもうとしています。そして、それをする事ができるお金を十分持っていない人達は、そのようなお金を持っている人達を恨みます。
そして人間は、本当に本質的に一番大切なものを忘れてしまいます。

この人生は非常に短いものです。こんなものです。その後では、終わりのない命が待っています。
もしも、フリーメイソンとかこの世のイデオロギーに従って、来世の事など考えるな、そんなのない、と信じさせられたとしたら、そうすると私達は、この小さな無に、全てを集中させなければなりません。これが、悪魔のイデオロギーです。これは色んな名前がついています。「あなたは、ちょっとだけ神のようになるだろう、天主のようになるだろう。」「で、その後は何になりますか?」と、聞くと、「その後は、知りません。」
そしてその罠にかかってしまうと、本来行くべき道から外れて、別のレールに行って、そしてそこの行きつく先は、地獄なのです。

近代主義とは一体何でしょうか?近代主義が言うのは、「天主様にお祈りしなさい。そうすると、今、この地上で、幸せになりますよ。」そして近代主義によれば、最も私達に大切なのは、今、ここで、地上で、互いに相互に理解し合う事こそが大切だ、と。
全ての宗教が互いに理解し合って一つになって、互いに抱擁し合えば、そしてそれでOKだ。
では一体、悪魔との戦いとか、或いは地獄に堕ちる危険とか、そういう事は今最早、沈黙されています。
そしてこの快楽を追及して、ロックンロールでその楽しい、今、ここで楽しいフィーリングを楽しむ、というのが、それが今宗教となってしまっています。

そして、イエズス様が今ここで、そのようなイデオロギーに戦いを挑みます。
今からちょうど百年前、偉大な教皇様が、聖ピオ十世教皇様が教皇様となりました。
そしてキリストの代理者として、この全世界にこう宣言しました、「全てを、キリストにおいて新しくさせる。」そして、聖ピオ十世教皇様はその敵達に、「全てこの世の地上での快楽に集中させるのではなくて、全てを、キリストにおいて新しくする。」と。しかも、本当のキリストであって、キリストが、御自分はこのようなものである、と啓示されたそのままのキリストであって、教会が二千年間教え続けた本当のキリストにおいて、復興させる。

キリストだけが、私達に永遠の命を与える事ができます。もしも私達が、キリストに忠実であるなら、必ずそうする、と約束しました。


私達は、キリストに一致させなければなりません。どうやったら良いでしょうか?
私達から、イエズス・キリストを傷付け、イエズス・キリストを悲しませる全てを取り除かなければなりません。
この十字架から流れる貴き御血を、滴る御血潮を見て下さい。この血潮のみが、私達を罪から解放して、罪を赦すことができます。その他の一切できません。そして、これは悔悛の秘跡を通して私達に与えます。
しかし、でもこれが全てではありません。どうやったらキリストと一つになる事ができるでしょうか?
イエズス・キリストの御旨を果たす事です。イエズス様が望む事をすることです。キリストはこう言います、「私は、あなた達に掟を与える。私は道であり、命であり、真理である。私だけが。」
そして、私達がもしもイエズス・キリストを知らないで、どうやって一致する事ができるでしょうか。イエズス様が教えた事や、その御生涯を知らずに、どうやってイエズス様を知る事ができるでしょうか。
では、全てをキリストにおいて新しくする、復興させるとはどういう事か、皆さんお分かりの筈です。これは、私達がこういう確信と信仰を持つ事です、つまり私達の持ってる全ての苦しみや、困難や、悩みや、或いは汚い罪を、全てイエズス様によって赦され、解放されて、そしてその為にイエズス様のもとに行く、という事です。
今日、私達はこの事をここでも見ますし、ご自分の所でもご覧になるはずです。
その一方で、私達の良心は、「あぁ、御身こそが私達を罪から解放させる、唯一の救い主である。」と、言いますけれども、他方で別の声が、「あぁ、今日はあそこで何か催し物がある、あそこで楽しい事がある、あそこで何か遊びがある。」と、言って、闘いがあります。

カトリック教会の教えによれば、教会は、この地上にある教会は、戦闘の教会といわれている事をご存知ですか。
ここに、私達がこのモットーとしてただ字だけ書いて、あぁ、キリストにおいて全てを復興させる、或いは、イエズス様を愛しています、というのを口だけで言うのは簡単です。

しかし実際これは、死の時まで続く闘いなのです。この悪との闘いをする為には、力が必要です。その力は、無原罪のマリア様が、汚れなきマリア様が私達に下さいます。その全てをキリストにおいて復興させる、という事は、キリストのアイディアで満たされる、という事です。ここにも、また同じ闘いがあります。

皆さんには二つの可能性があります。良い本を読む事もできますし、たくさんある訳ではないんですけれども、良い映画を見る事もできます。或いは、イエズス様の御教えの御言葉の書かれた聖福音から、或いは、諸聖人の教えの書いた本を読む事もできます。そして、このキリスト教の深い真理を発見する為に、勉強する事もできます。
そして、或いはその代わりに、テレビの前やコンピューターのスクリーンや或いは携帯の前に行って、ハリウッドかホリウッドかの映画を見る事もできます。

私は、一九八六年に司祭としてガボンに最初に飛行機に乗った時に、一つの映画を見ました。二日前、シンガポールから大阪まで飛行機に乗った時には、その自分のイスの前には本があって、四百本の映画の中からどの映画を見ますか、という選択の余地がありました。
そしてこの今現代、私達はもう多くの誘惑と選択によって誘惑を受けていますが、そして、私達の感覚をこう楽しませる事はできるけれども、霊的な糧とは全くならないものです。

聖ピオ十世は、現代のカトリックに対して最も悲惨な状態は何だと言うと思いますか?
それは、信徒がキリスト教に対して、信じられないほど無知である事だ、と言います。
今私達はこの周りに行くと、色んな所で色んなレベルで、大学教育を高等教育を受けた色んな専門家たちが沢山いますけれども、キリスト教のいろはも知りません。
ですから、キリストにおいて全てを復興させるというのは、まずキリストの事を知って、キリストについて黙想して、キリストの事に時間を費やす、という事です。
そして、全てをキリストにおいて復興させるというのは、ただ単にイエズス様にお祈りするだけでなく、そしてイエズス様に告解するというのみならず、そしてイエズス様の事を深く知るのみならず、私達がイエズス様の御旨を果たす為に、私達の生活を変えるという事です。
これはどういう事でしょうか?例えばどういうことかというと、私の家族においては、イエズス様が家族の王であるように生きる。或いは、子供に良い環境と良い教育を与える為に力を尽くす、その為には犠牲を払う。或いは私の職場で、イエズス・キリストの弟子として、御説教をするのではなくて良い模範を示して、高貴なカトリック信者としてのその生き方によって、模範を示す。

聖ピオ十世教皇様は、そのご自分の全生涯をとおして、このOmnia、全て、をキリストにおいて復興させるというものを、本当に実現できるものとして、生きて模範を見せました。
まず教皇様は、司祭生活、神学校を聖なるものとする事によって、司祭達が司祭の養成において、益々キリストの御旨にかなう司祭を養成させました。
典例においても、益々光り輝く力として、イエズス様を賛美する典礼にしました。
御聖体の教皇様として、小さな子供達さえも御聖体を拝領する事ができるように配慮して、そして多くのカトリック信者を招いて、頻繁に御聖体拝領するようにと招きました。そして、毎日のように御聖体拝領しなさい、とさえされました。

ちょうどマキシミリマノ・コルベ神父様が、神学生としてローマに到着したその頃、聖ピオ十世教皇様がお亡くなりになります。若き神学生としてコルベ神学生は、この教皇ピオ十世に非常に感銘を受けていました。私も同じ事をしたい。
マキシミリマノ・コルベというのは、火のついた霊魂でした。強い性格をもっていました。闘う人でした。
子供の頃はよく、毎日のようにこうズボンに穴をあけて帰ってきました。何故かというと、友達と喧嘩をして帰って来たからです。そして母親のマリアンは、その子供に起こっている事について本当に心配しました。「レイモンド、(これは洗礼名ですけれども)お前がこんなにこんな事をしている、大きくなると、小さな悪魔になりますよ。」と。マキシミリマノ・コルベは、非常にこの言葉に驚いて、びっくりして、何故かというと、イエズス様の事を深く愛して、イエズス様に仕えたいと思っていたんですけれども、それができなかったから。
そこで、マリア様の所に行って助けを求めました。そして沢山のお祈りをした後に、マキシミリマノ・コルベは、マリア様の御出現を受けます。そしてマリア様は、マキシミリマノ・コルベに二つの冠を見せます。純潔の貞潔の白い王冠と、もう一つは殉教の赤い王冠でした。そしてマリア様が、「どちらを選ぶか。」と言うと、マキシミリマノ・コルベは、「二つとも下さい。」
そしてその時から、彼の人生は全く変化をしました。マキシミリマノ・コルベは、イエズス・キリストに従う事ができるようになったんですけれども、しかも、マリア様を通して、それができるようになりました。

ローマに着いたマキシミリマノ・コルベは、聖ピオ十世教皇様のその模範に非常に感銘を受けました。その当時聖ピオ十世会は、ちょっと夢を見ているちょっと夢想から、そんなキリストにおいて全てを復興させるなんてもう時代遅れだ、今現代ではできない、不可能だ、と思っていました。でもマキシミリマノ・コルベは、それを信じていました。できる。しかしマキシミリマノ・コルベは、これはマリア様を通してでなければできない。
何故ここで、汚れなきマリアを通して、全てをキリストにおいて復興させる、というコルベ神父様のその書いた理由が皆さんお分かりになったと思います。そしてこれこそが、コルベ神父様の全生涯でした。
一九一七年に、汚れなき聖母の騎士会をつくります。一九一七年十月十三日に、ファチマで太陽の奇跡が起こりますが、その三日後、ちょうど三日後、コルベ神父様が汚れなき聖母の騎士会をつくります。
では、この騎士会とは一体何を意味するのでしょうか?
キリストの敵が、キリストに立ち戻るように、祈って働く事です。キリストの最悪の敵であるフリーメイソンでさえも、イエズス・キリストのもとに立ち戻るように、祈り働く事である。しかも、マリア様の取り次ぎと助けを以って、働く事である。これがこのスローガンの意味です。コルベ神父様の全生涯は、この怪物のような敵に対して闘う事でした。

コルベ神父様は、司祭叙階を受けたのが一九一八年でした。そしてポーランドに戻って、火の様な望みをもって、ポーランドがもう一度、マリア様を通してイエズス・キリストに戻るように。
そしてポーランドに戻るやいなや、病気にかかりました。そしてお医者さんによれば、三か月の命だ。そしてコルベ神父様はそこで、自分の苦しみを全て捧げる事を決心します。そしてその病床にいるコルベ神父様が友達に、「あぁ!マリア様を通して全ての霊魂達を、イエズス様の所に戻そう!さあ!」と言うと、友達はそれを、「はっはっは。」と、せせら笑いました。ですから皆から、馬鹿のマクス、夢を見てるマクス、と馬鹿にされました。頭のネジがちょっと弛んでいる、という意味です。
そして後に、コルベ神父様は自分の事を、「汚れなきマリア様の馬鹿」と呼んでいます。

この後で何が起こったか知っていますか?三か月の後に死にませんでした。そして、このコルベ神父様が捧げた祈りをマリア様がそれを受け取って、それを使って、聖母の騎士の会の会員の数が物凄く増えました。一九一七年には最初は七名でした。第二次世界大戦が終わった時には、四百万名いました。ほんの二十数年の間に、四百万人になったという事です。
そしてこのインマクラータの、無原罪の聖母の騎士のアイディアは、理想は、まさにここにありました。

そして天主様の御摂理によって、私は最初にポーランドに、コルベ神父様の働いた所にいて任命を受けた事を感謝しています。何故かというと、ポーランド語でだけ神父様の書いた、或いは、なさった事が読む事ができるからです。
そして、コルベ神父様が行った所は全て訪問しました。ワルシャワの修道院から三キロ離れた所には、結核のサナトリウムがあります。そしてポーランドの日本大使が、河合大使がそこに行った時に、コルベ神父様はそこを訪問しました。この河合大使は、そこのサナトリウムでもう死にかけていました。しかしコルベ神父様の訪問によって、この大使の一家は全てカトリックになりました。

そしてこの私(シュテーリン神父)は、このコルベ神父様に、この大きな巨人である大聖人であるコルベ神父様に、私もあなたの小さな模範者、真似る事ができるようにして下さい、とお祈りしました。
そしたら私は、全く予想もしなかった、アジアへの任命を受けました。私はその任命を受けた時に、こう椅子に座って机に座って、「考えた事もない、アジア、あぁ。」と独り言を言っていました。そして自分の机の上には、コルベ神父様のこのこれと同じ写真が飾ってあります。ちょうどコルベ神父様が私に、「お前、俺の真似をしたかっただろう。」と言って、「その通りになったよ。」と。その時にそれが、「あぁ!」と分かったので、アジアに来て、「あぁ、そうだったのか!」と、喜びました。

何でコルベ神父様というのは、そんなに魅力的なんでしょうか?何故かというと、聖ピオ十世会の創立者であるルフェーブル大司教が、聖ピオ十世会のスローガンとしてモットーとして、聖ピオ十世教皇様のこの、まさにこのスローガンを会に与えたからです。聖ピオ十世もコルベ神父様も、物凄い巨大な巨人の様なフリーメイソンの軍隊と戦った人々です。それは皆さんに説明したように、真理をこの地上に確立させる為に、戦った人々です。

これは二十世紀の初頭の話しです。しかし二十世紀の終わりには、もっと酷い事が起こりました。何故かというと、二十世紀の初頭には、このモットーの背後には聖なる教皇様や多くの聖人達が、それを実現する為に一生懸命働いていました。そしてコルベ神父様が日本にやって来た時には、日本にいた聖なる神父様達や司教様達の協力がありました。
しかし、その後何が起こったでしょうか?ちょうど聖書にイエズス様が予言されていた通りの事が起こったのです。黙示録によれば、「別の獣が来る。」と。その別の獣は、宗教の形をとった獣で、第一の獣と龍に仕える為に、奉仕の為に出てきた獣です。その黙示録によれば第二の獣は、見るからに子羊のようだけれども、しかし言ってる内容は、狼の様だ。
つまり、外見はキリスト教的な外見を持っているけれども、その教える内容は、イデオロギー、そのキリストに反対するイデオロギーを教えている。

そして第二バチカン公会議の後に、大きな困難が教会にやって来ました。そして現在残念ながら、全ての教皇様やそして聖人達が実現させようとした、この現実の為に働こうとする人がいなくなってしまった事です。
そして現代では誰もが、「あなたの言ってる事は間違っていますよ。」とは言わないし、そして誰もが、「イエズス・キリストの真理に回心しなさい。」とも言わなくなってしまいました。
そして、この間違ったイデオロギーは、エキュメニズムという名前をもっています。そして今日現在では、地獄に堕ちるかもしれない、その危険があるという事や、或いは悪魔とその使い、僕達とかそれの一部になってしまう、という事を話そうともしません。

一九六二年に至るまで、教皇様、どの聖人達も、戦闘の教会という話をしました。しかし、その後、一回しか語られていません。その一九六二年から今に至るまで一度だけ、ベネディクト十六世がこの言葉を使いました。その為にカトリック世界では、イエズス・キリストの為に闘う、という事が何を意味するか分からなくなっています。ですから信仰を失ってしまうだけです。ですからもう、もうキリスト教信者という事と異教徒という事の区別も、分からなくなってしまっています。
ですからこのスローガンが、コルベ神父様というよりも私達にとって、もっとこれが大切だという事がお分かりになった事だと思います。

このモットーは、私達をして全て、イエズス・キリストへと引き寄せて、そしてイエズス・キリストを悲しませたり、イエズス・キリストを傷付けるような事は全て、避けさせようとします。

現代、ところで、昔と天主様は今では違っていると思いますか?天主様は同じ天主様です。
聖書によれば、「終末の時代には、天主に忠実な霊魂の数は少なくなるだろう。」と、言っています。イエズス様が十字架で亡くなった時に、イエズス様の事を信じていたのは、その十字架の下に佇んだ本当に少数の人々だけでした。そして終末もやはり、この世の終わりも同じ事です。イエズス様もそう仰っています。そしてこの少数の人達が忠実に、自分とそしてその家族において、全てをキリストにおいて復興させようと努力します。
そして十字架にいるイエズス様は、その傍に一人、マリア様がいました。終末においても同じ事が予言されています。この世の終わりにおいては、イエズス・キリストの下に佇む事ができるのは、ただ、マリア様に属している者だけだ。つまり、マリア様の使徒であり、マリア様の騎士であり、マリア様の子供だけが、そこに留まる事ができる。そして、グリニョン・ド・モンフォールによれば、「この終末の騎士、マリア様の使徒達は、非常に力強いものであるけれども、その力は自分の力ではなくて、マリア様に信頼するから、マリア様を信じているから、そこから来る力だ。」と、言っています。

ファチマを見て下さい。ファチマには小さな女の子がいます。ヤシンタちゃんで、七歳です。この七歳の女の子は、自分の使命を理解していました。この七歳の女の子は、霊魂が地獄に堕ちるのを見て、そしてその地獄を理解したので、人々の霊魂が地獄に落ちないように全てをしました。何故かというと、その友達のルチアからこう聞いたからです、「多くの霊魂は地獄に堕ちている。何故かというと、誰もこの霊魂達の為に祈りをしないからだ。祈って、犠牲を捧げなさい。
そこでヤシンタは、お祈りをして多くの犠牲を捧げました。
リスボンの大司教の話によれば、「おそらくこの七歳の女の子は、全世界にいた宣教師たちよりも、多くの霊魂を地獄の火から救っただろう」とのことです。

だからこそ私達は、同じ闘いを今もしなければなりません。私達は、私達の数を、ではなくて、私達の使命が何か理解しなければなりません。

皆さん一人ひとりが試練をもっています。そして皆さん一人ひとりが、犠牲を払わなければならない犠牲があります。健康の問題も、お金の問題も、家族の問題も、色んな問題があります。それらを使って、私達は物凄い事業ができます。
まず、マリア様の所に行って下さい。マリア様は、あなた達をイエズス様の方に運んで下さいます。何故なら、これこそがカトリックの教えだからです。マリア様を通して、イエズスに。マリア様を通して、イエズスにお願して下さい。マリア様は苦しんでいます。辛い事がたくさんあります。この苦しみをどうぞ取って下さい、受け取って下さい。私はお捧げ致します。しかし霊魂を救って下さい。日本を救って下さい。私の祖国を救って下さい。私の家族を救って下さい。私の夫と子供達を救って下さい。もしも皆さんがこれをするならば、必ずマリア様は聞いてくれます。もちろん、マリア様が御望みの時に、御望みのやり方によって、御望みの方法によって。それは、マリア様のことです。しかし、マリア様に完璧に信頼して下さい。

聖モニカは十八年、祈り続けました。その子供の回心の為に。聖モニカがお祈りをして、十一年か十二年目には、アウグスチヌスは更にひどくなっていました。モニカは恐れていました。そして、聖モニカは聖アンブロジオに行って話を、質問をします。「天主様は、私の事を忘れちゃったんじゃないでしょうか。」聖アンブロジオはそれに答えて、「心配するな。そのような、お前のような祈りの母の子は、必ず滅びる事はない。」
そしてその六年後に、アウグスチヌスは回心して、教会の最も偉大な聖人の一人になりました。しかし、その十八年の祈りの生活において聖モニカは、知らない多くの何千、何万という霊魂達を救っていました。
私達のほんの小さな祈りでさえ、そして小さな犠牲でも物凄い価値がある、という事を信じなければなりません。どのような問題であってもどんな事があっても、マリア様のもとに行って、マリア様に話しかけて下さい。子供がお母さんに話しかけるように、全て言って下さい。お金の話や快楽や、この世の話だけではなくて、霊魂の回心や救いについても話して下さい。

今、私達の生きているこの人生の今、この時に、回心の為の大きな動機づけが必要です。全ては、もうマリア様によって準備されています。おそらく、マリア様のその僕として、道具としてここに送られてきました。このマジックは、この書く為の道具です。私は、マリア様のちょっとほうきとなって、ちょっとここをきれいにしたいと思っています。というこの表現は、コルベ神父様が言った言葉です。

ですから、今日家に帰った時に、「あぁ、私はこの人生において何かをしなければならない。」ということに、気が付いて欲しいのです。ただ、この寝て、起きて、仕事に行って、寝て、起きて、仕事に行って、寝て、起きて、仕事に行って、というのだけが人生ではありません。苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しんでだけ、というのも人生ではありません。
しかし苦しみも、「あぁ、マリア様の為です。」寝るのも、「あぁ、マリア様の為です。」食べるのも、「あぁ、マリア様の為です。」仕事に行くのも「マリア様の為です。」とすると、人生が全く変わります。

私はポーランドに任命されました。遠に、二十年前に任命を受けました。何にもありません。私はポーランド語の一言も知りませんし、誰一人も知っている人もいませんし、何にも、聖ピオ十世会の何にもかけらもありませんし、私は本当に馬鹿で何にもできません。ですから人を寄せて下さい。私の口を通して話して下さい。あなたがしなければなりません。ですからほうきとして使って下さい。
一年後、アレックスさんと会いました。そしてアレックスと会って、アレックスはそれと神父様と知ってから洗礼を受けて、結婚もして、カトリックの家族として子供も沢山きて、日本で働いて、「私の人生は全く変わりました。神父様のおかげです。」私は言いました、「アレックス、私じゃないよ、マリア様です。私は、ただのマリア様のほうきですから。」

画家は、どんな筆でも書くことができます。マリア様は、素晴らしい画家なので、ホウキでも描く事ができます。そういう訳で、使い物にならないホウキが皆さんの為にやって来ました。

皆さん、私はマキシミリマノ・コルベ神父様の事を知った、そしてファチマのマリア様について深く知る事ができた、と、どれほど深い感謝をしているか、想像もできないと思います。
そしてその二十一年の間に、二十六のチャペルを建てて、そして教会もいくつか建設しました。そして二万五千名以上いる人達の為の、ビザンチン典礼の修道会をつくる事もできました。そして、多くの若い青年達や若い家族と会って、彼らに、一体何の為に生きているのか、それを、その人生の目的とその意味と、そしてマリア様の為に生きる事の素晴らしさについて伝える事ができました。
しかし、というのも、マリア様の騎士として、マリア様の兵士として、マリア様の子供として、マリア様の望みを実現する理想に燃える、素晴らしい美しい霊魂達と出会わなかったら何もできなかったと思います。

コルベ神父様が最初にこれを始めた時に、皆夢をもっていると思って、皆はコルベ神父様の事を夢想家だと言っていました。
コルベ神父様は、長崎で聖母の騎士を始めました。皆このコルベ神父様のフランシスコ会の会員は皆、コルベ神父様の事をちょっと、と。
しかし、コルベ神父様の生涯の短い間、数年いた後に、日本で戦後、最高の救霊の事業となりました。

私にも夢があります。私はその夢は、日本に聖ピオ十世会の修道会を建てる、美しい修道会を建てる、という夢です。そしてもう一つの夢は、日本に二つか三つの綺麗な教会を建てたい、という事です。その教会には沢山の人々が集まって来て、そして真の信仰がこれで育っていって。

私は本当に頭がおかしいと思っています、本当におかしいならいいと思っています。ただ違いがあって、コルベ神父様は聖人でしたが、私は罪人だという違いです。ですから、皆さんの協力が必要です。私は言います、「私達は力を合わせなければなりません。これは私の仕事ではなくて、マリア様の事業ですから。マリア様がこれを望んでいる事は知っています。このマリア様の中には、このような理想が燃えているのを知っています。私はこのコルベ神父様の理想に、この模範に従いたいと思っています。」

コルベ神父様が殉教して亡くなった時に、その時日本に、非常に寛大な霊魂がいました。北原怜子。そしてこの女性は、非常にポーランドでは有名で、その彼女の人生の模範的な生き方と、その寛大さによって多くの霊魂がカトリック信仰をもった、という事でポーランドで非常に有名です。

ですから、どの様な夢想家が皆さんの前に立っているか、皆さん今お分かりになりました。そして天主様の御恵みによって、この夢を決して放棄しません。
ですから、皆さんに是非お願したいのは、このマリア様への愛という動機づけを是非持って下さい。
皆さんから私達にこう言うのを聞きます、「神父様、マリア様についてもっと知りたいのです。マリア様について何か本はありませんか?どんな本を読んだら良いですか?さあ、教えて下さい。」

そして、マリア様について深く知れば知るほど、私達の人生が大転換して、物凄い変化が起こる事が分かるはすです。そして、誘惑に対して立ち向かうのに、どれほど強い力を得るか分かるはずです。そして大きな混乱の中においても、心は平和と静安を保つ事ができるのを感じるはずです。そして多くの霊魂にとって、暗闇を照らす灯台の様に。

これが皆さんへの歓迎の言葉です。
(日本語で)ありがとう。【拍手】



小野田神父【ほほえみながら】「私にも、全く同じ夢があります。」

小野田神父「何か神父様に聞いてみたい事がある方はいらっしゃいますか?」

質問者「何故、北原怜子がポーランドでそんなに有名なのですか?」

シュテーリン神父様「何故かというと、コルベ神父様がなさった事はポーランドでは非常に有名で、おそらくこの北原さんは、ゼノ修道士と一緒に働いていたので。ポーランドの人は、日本について大きな尊敬の眼差しがある。何故かというと、無原罪の聖母の騎士は、ポーランドで、日本では今何が起こっているかという事を何年の間も報告の記事にしていたからです。コルベ神父様は日本に六年いました。そしてコルベ神父様と一緒にいたブラザー達や、或いは、また後に派遣されたブラザー達が、ポーランドからたくさん長年ここにいたので、そして特にこのゼノ修道士が有名で、その話が、ポーランドではこの女性がゼノ修道士と知り合って一緒に働いていた、と。」



聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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사랑하올 형제 자매 여러분,
한국성비오10세회(SSPX)
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カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

フランツ・シュミットバーガー神父による「カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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原文はこちら


カスパー枢機卿の「離婚したのち『再婚』したカトリック信者たち」への新しい司牧的アプローチ

二〇一四年四月十二日

 今秋、ローマにおいて、家庭というテーマに関するシノドス(世界代表司教会議)の臨時総会が開かれる予定です。そこでは、世俗主義、すなわち、婚姻を伴わない同棲、離婚、避妊など、世俗性という特徴をもった世界におけるキリスト者の家庭の問題についての議論が重点的に行なわれます。この会議の準備のために、バチカンから司教たちにあてて特別アンケートが送付されました。このアンケートには結婚生活の倫理に関する個別の質問が含まれており、霊的指導者たちはこれに回答するものとされていました。ところが、一部の国、特にドイツ語圏諸国の司教たちは、このアンケートを一部の信者グループが回答するように転送してしまいました。そして彼らの回答は予想通りのものとなりました。

 これらの回答は、かつてはキリスト教国であった国々のキリスト教信者の結婚倫理の腐敗がすでにどれほど進んでいるかを示しています。「いわゆる禁じられた受胎調節の方法を使用したとき、罪の意識がありましたか?」という質問への回答は、「いいえ」が八十六パーセント、「はい」が十四パーセントでした。次の質問、「聖体拝領を控えたことがありますか?」に対しては、九〇パーセントが「いいえ」と答え、十パーセントが「はい」と答えました。アーヘン教区の回答からは、「教会の結婚と性の倫理は……多くの人々にとって信仰に対する妨げとなっている」ことがあきらかになっています。バンベルク教区の回答は、「倫理に関する教義に対して批判的な態度を表明」しています。エッセン教区では、聞き取り調査に回答した人々は「同性愛のカップルを祝福する儀式ができるようにする」ことに賛成でした。フライブルク教区の回答では、「教会で結婚式を挙げる前に同居することは、珍しいことではなく普通のこと」であるとしています。ケルン教区の回答は、「教会の教えは異世界のものであり、この世とずれている」となっています。マグデブルク教区の回答は、「結婚と家庭の領域において、教会はその権威を大部分失ってしまった」としています。マインツ教区の回答では、「人工受胎調節の禁止はほとんどの人々から拒絶されているか、関係のないものと思われている」と書かれています。オズナブリュック教区の回答は、「人々はますます教会に背を向けている」とし、ロッテンブルク教区の回答には、「コンドームの禁止は犯罪的だと考える」と書かれています。 トリーア教区でのアンケートの回答者たちは、「結婚、その失敗、新たなスタート、性関係の問題については、慈悲を」期待しているとしています。[1]

カスパー枢機卿の破壊的役割

 二月十七日から二十二日の一週間、教皇は枢機卿会議を招集され、新しい枢機卿の任命で締めくくられました。枢機卿会議の議題は特にシノドスの準備に当てられました。カスパー枢機卿は教皇から唯一の発言者に指名され、二月二十日木曜日の朝に枢機卿たちに長い講演を行いました。カスパー枢機卿の述べた内容を詳細に見る前に、私たちは彼の神学的立場に少しばかり光を当ててみたいと思います。

 カスパー枢機卿は一九三三年に生まれ、一九五七年に司祭に叙階されました。それから学問に専念し、ハンス・キュンクの神学助教授に任命されました。一九八九年にはロッテンブルク=シュツットガルト教区の司教に任命されました。司教としての十年間のうち、とりわけ一九九三年には、現在のレーマン枢機卿とフリブールのザイエル大司教(故人)とともに、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの聖体拝領を支持する計画を立案していました。この計画は、当時の教理聖省長官ラッツィンガー枢機卿に断固として退けられました。一九九九年、カスパー司教はローマに呼ばれてキリスト教一致推進評議会の秘書官となり、その後すぐ同評議会の議長となりました。彼は一九九九年のカトリックとプロテスタントとの間のアウグスブルク共同宣言の起草と署名に深く関わりました。二〇一〇年には、高齢を理由にその職務から引退しましたが、昨年の教皇選挙ではホルヘ・ベルゴリオ枢機卿を教皇座に上げることを強く支持しました。

 では、カスパー枢機卿の著作をいくつかよく調べてみることで、彼の学術的研究を簡単に見てみることにしましょう。一九六七年、カスパー枢機卿はある記事の中でこのように述べました。「この世界と歴史の上に、不変の存在として王座に就かれる天主というものは、人間に対する侮辱である。人間は自らのためにこのような天主を否定しなければならない。なぜなら、そのような天主は、当然の権利によって人間に属する威厳と名誉を、自分のものであると主張するからである……。私たちはこのような天主に抵抗しなければならないが、それは人間のためだけでなく、天主のためにもなるのである。このような天主はまことの天主ではまったくなく、哀れな偶像なのである。というのは、歴史の傍らに、歴史を越えてのみ存在する天主──すなわち天主自身が歴史ではなければ──それは有限の天主だからである。このような存在を天主と呼ぶなら、では絶対者のため、私たちは絶対的な無神論者にならなければならないのだ。このような天主は融通の利かない世界観から生まれる。この天主は現状維持の保証人であり、新しさの敵である。」[2]

 枢機卿の著作「信仰への入門」の中では、諸々のドグマは「全面的に偏っていて、表面的で、頭が固く、常識のない軽率なもの」だという可能性があるという見解を述べています。[3]

 彼の研究「キリストのイエズス」の中では、新約聖書に書かれている数々の奇跡の報告に関して、このように書いています。「私たちは、文芸批評の観点から、奇跡の重要性を高め、奇跡を誇張し、奇跡を繰り返し書いている傾向があるとみることができる……。従って、奇跡の報告の内容は大幅に縮小される。」[4]さらに、枢機卿の意見によると、奇跡の報告は「イエズスの偉大さと力を強調するために、非キリスト教的モチーフをイエズスに引き写したものである……。形式歴史批判の観点からみれば、奇跡の報告の多くは、復活の経験をイエズスの地上での生活へと写し戻したものであったり、あるいは、栄光のキリストを先行して表象しているものなのである。」[5]これは、特にヤイロの娘、ナインのやもめ、ラザロの死からのよみがえりのことを指しています。「従って、自然を超える力を示している奇跡の数々は、元々の聖伝に派生的に付け加えられていったものにすぎないのである。」[6]

 キリストの復活に関する最古の福音の記述(マルコ16章1節~8節)について、枢機卿はこう述べています。「これらは歴史的な出来事ではなく、むしろ注意を引き、サスペンスを生み出す文体的仕掛けである。」[7] カスパー枢機卿の手にかかると、主の復活に対する信仰のみならず、キリスト教的教理全体が崩されてしまうのです。彼はこう書いています。「共観福音書によれば、イエズスは一度も自分を天主のおん子だと名乗ったことはなかった。であるから、彼が天主のおん子自身であるということは、あきらかに、教会による信仰告白であるにすぎない。」[8]別の箇所ではこうも述べています。「というわけで、イエズスは自分をメシアであるとも、あるいは天主のしもべ、天主のおん子であるとも呼ばず、おそらく人の子とも呼ばなかった。」[9]イエズスが「まことの人間にしてまことの天主である」という教理は、「見直すことが可能な事柄」である。[10]これは厳密な意味での近代主義、純粋な形の近代主義ではないでしょうか?そしてこの人物が、家庭と、現代の家庭が直面している緊急課題についての枢機卿会議で講話をするよう、教皇により指名されているのです!しかし、このような近代主義的信仰がキリスト教道徳の基礎としてなおも役に立つのでしょうか?すべての知恵の始まりである主への畏れのしるしはいったいどこにあるのでしょうか?(詩編110節10章参照)

二〇一四年二月二十日の枢機卿会議でのカスパー枢機卿の講話

 しかし、ドイツの司教全体会議にちょうど間に合うように三月十日にヘルダー社から単行本の形で出版された講義に戻りましょう。これが付け足しの見解であろうと思われるなら、とんでもない思い違いです。

 第一部では、枢機卿は創造の秩序、そしてキリストのあがないの秩序における家庭について考察しており、家庭生活における罪の構造と家庭内教会としての家庭について語っています。この中には、確かに正確で巧みに表現された考えが出てきます。例えば42ページには次の記述があります。「新たな心を持つためには、繰り返し新たな心をつくり、心の文化をもつことが必要である。家庭生活とは、『お願い、ありがとう、許して』という教皇の三つのキーワードに沿って営まれるものである。私たちは互いのための時間を持ち、安息日や主日をともに祝わなければならない。また自制、許し、忍耐を繰り返し実行しなければならない。仁愛の心、感謝の気持ち、優しさ、恩に報いる心、そして愛のしるしが繰り返し必要とされる。共に祈り、赦しの秘跡を受け、ミサを挙げることは、天主が夫婦の周りに置かれた結婚の絆を繰り返し強める助けとなる。年齢を重ねた夫婦、高齢になってもなお成熟したやり方で愛しあう夫婦に出会うのは、常に美しいことだ。これもまた、人類があがなわれたしるしである。」しかし、枢機卿が第4章の最後で主張しているように、家庭は本当に「教会の道」なのでしょうか?そうではなく、教会が家庭の道なのではないでしょうか?

 しかしながら、講話全体の主眼は、間違いなく第5章の離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの問題についてです。枢機卿は崩壊した家庭が増えていることは教会の未来にとっての悲劇であることに着目しており、それはまったく正しいことです。ただ残念なことに、この家庭崩壊の増加のもっと深い理由、つまり信仰の指導が骨抜きにされ、短縮され、改竄されたこと、また、キリストとその花嫁なる教会との間にある絆の写しとしての結婚の聖性について、そしてそのゆえの結婚の絆の非解消性についての指導が何年どころか何十年にもわたってまったく行なわれていなかったことについては、ここでは全く触れられていません。ここでは教区における信仰と道徳の教師としてのみずからの義務を放棄した犯罪を犯した司教たちが明確に告発されなければなりません。例えば、カスパー枢機卿はロッテンブルク司教として、季節を問わず、説教でも要理教育でも講話でも、結婚の聖性と非解消性を擁護してはいませんでした。

 枢機卿が、「私たちは、置き去りにされ、孤独のうちに人生を進む、捨てられた配偶者たちの勇敢さを讃え、支援することができる。」(55ページ)と述べるところでは、間違っていません。しかし、キリスト者はこのような勇敢さを実際必要とすることがありますが、それは人間の力によって作り得るものではなく、天主の恩寵の助けによって可能となるのです。これは現代でも、信仰に忠実にまもっている大勢の捨てられた配偶者たちの行動によって立証されています。聖パウロは、自分を強めてくださるお方において、すべてを成し遂げることができると言ったのではないでしょうか?

 これに続くカスパー枢機卿の文章はぞっとするような内容です。「だが、大勢の捨てられた配偶者たちは、子どもたちのために、新しい絆と新しい民事的結婚に頼り、責任を問われることなしにそれらをふたたび放棄することができない。以前の苦い経験ののち、そのような絆において、彼らはしばしば実に真に天からの贈り物である人間的な幸福を享受している。」(55ページ、下線は筆者)単刀直入に言いましょう。このような新しい絆は、結婚の非解消性に対する攻撃であり、重大な罪でありつづけるのです。このような罪深い絆から生まれる子どもたちのために、その絆を単に放棄する訳にはゆかないことは、私たちは躊躇なく認めますが、二人は兄と妹のように暮らさなければなりません。その結果、次のバラグラフで述べられていることはあまり役に立ちません。「秘跡による結婚の非解消性、そして相手の配偶者が生きている間の二度目の秘跡による婚姻の不可能性は、教会の信仰の聖伝の拘束力ある一部分です。」(55ページ)

 このさらに先の文で、枢機卿や彼と同じ思いを持つ友人たちの考えが本当に明らかになります。そこにはこう書かれています。「私たちは現在、自分たちが先の公会議と似たような状況にいると気づいている。当時、聖職者たちはエキュメニズムや信教の自由の問題について話し合った。その時、前進する道を妨げるような教皇の回勅や聖省の決定が存在した。それにも関わらず、強制力のある教理の聖伝に疑問を問いかけることなく、公会議はドアを開いたのだ。」(57ページ)これこそ聖ピオ十世会が長年非難し続けていることです。すなわち、公会議は誤謬へとドアを開け放ち、その結果、実質的に公会議後の危機の原因となったのです。枢機卿閣下はこの「さらなる発展」を「法的かつ司牧的な解釈で」正当化しました。(60ページ)

 教皇ベネディクト十六世は、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが秘跡としての聖体拝領をすることを許しませんでしたが、カスパー枢機卿によれば、霊的聖体拝領はできると認めていたとのことです。枢機卿は、なぜこのようなカトリック信者たちが聖体拝領できないのか、と問います。答えは簡単です。霊的聖体拝領においては、現在の罪深い生活を悔いて、その罪の現状から抜け出す方法を見つけてくださるよう天主に乞い願うだけです。しかし、秘跡による聖体拝領を許可すれば、罪深い状態を認めてしまうことになり、離婚と同棲を祝福し、罪人がこの世においても永遠においても滅びへの道へ歩むのを承認することになってしまいます。ちなみに、枢機卿が提案した、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが聖体拝領をすることができるまでのつぐのいの期間についても同じです。悲しみと同様、償いには生活を改めるという真剣な目的が伴わなければなりません。そうでないなら意味がないからです。聖霊は、聖パウロの説教や手紙を通して、主のおん体をわきまえずに飲食する者、つまり秘跡による聖体拝領をする者は、自分自身への裁きを飲食することだと宣言したのではないでしょうか?(コリント前書11章29節)では、教会の教えは、これほど無慈悲であり、霊魂たちに対してこれほど残酷で、これほどの不正があるのでしょうか?カトリック教会のカテキズム全書は、全聖伝とともに、罪人への叱責は霊的なあわれみのわざであるとしています。ここでは、公会議後の聖職者たちが、どれほど霊魂の救いという超自然的な見方をほぼ完全に失ってしまったかがわかります。カスパー枢機卿は、罪を憎むことと、罪人にあわれみを示すこととの区別ができていないのは明らかです。枢機卿団の兄弟たちの異議に対する答えにおいて、カスパー枢機卿は、あわれみとは「真理を解釈するための解釈学的原則」だと強調して (79ページ)──この議論をもってすれば、すべての教理は空洞化され得ることになります──エピケイアを持ち出すのです(82ページ)。この法的専門用語が意味するところは、立法者がいない場合、具体的なケースについては、それが明らかに法律の文言に当てはまる場合であっても、立法者がそのような難しいケースにそれを強制する意図がなかったと推定する理由がある、とすることです。しかし、天主は創造主として全ての被造物に自然法を刻まれ、すべての状況を予測され、また現存されるのですから、自然法に関してはエピケイアは当てはまらないのです。

教皇の見解

 木曜日の朝の講話の後、午後の枢機卿会議ではカスパー枢機卿の講話に反対があり、一部の枢機卿は強い反対意見を表明しました。しかし、金曜日の朝、教皇フランシスはこのカスパー枢機卿を高らかに賞賛する言葉を口にしました。「私は教会に対する愛を見いだしました……。もう一つ言っておきたいのは、昨日、カスパー枢機卿の書いた文書を就寝前に──眠り薬としてではありませんが!──何度も何度も読みました」と、教皇は枢機卿会議の二日目の最初に話したのです。フランシス教皇が言っていたのは、カスパー枢機卿の講話のことです。「また、私は枢機卿に感謝したい。これが深遠な神学的研究であり、静謐な神学的省察であると思ったからです。静謐な神学を読むことは喜びです。そして、聖イグナチオがsensus Ecclesiae(教会感)と呼んだ、聖にして母なる教会に対する愛を見いだしました……。それは私にとって善いものであり、私には一つの思いが浮かびました──枢機卿、あなたを当惑させるならどうかご容赦を──私の思いとは『跪いて実行する神学』と私たちが呼ぶものです。ありがとう、ありがとう。」[11]

さらなる数々の結果

 カスパー枢機卿の講話の後、枢機卿会議の席で受けた反対の他に、言うまでもなく、賛成する者もいました。ミュンヘン大司教であるマルクス枢機卿はカスパー枢機卿の講話に熱狂的反応を見せました。マルクス枢機卿は、この講話はその後すぐには終わることのない議論の「序章」であった、と述べました。教理聖省長官であるミュラー枢機卿が、カトリックの教え、特に結婚の非解消性と、その結果として、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちが聖体拝領をすることが不可能なことを喚起した時、マークス枢機卿は、ミュラー枢機卿を、公に、辛辣に叱りつけました。ウィーン大司教であるシェーンボルン枢機卿も、この講話に感動したと述べました。シェーンボルン枢機卿はウィーンの大司教区新聞の最新号で、カスパー枢機卿の講話を「素晴らしくよく練られた」ものであり「傑出している」と書きました。シェーンボルン枢機卿は、これは「家族の問題がどこにあるかを探ること」であるとしています。[12]

 カスパー枢機卿の講話によって開かれた傷口は、長い時間をかけて化膿していくでしょうし、枢機卿が教皇に支援されていることもあり、キリストの肢体を酷く傷つけ続けることでしょう。ミュンスターでのドイツ司教全体会議の席では、特に新しい議長を選んだ時、たちまち明白な分裂が見られました。

 今巻き起こり始めた議論は、堤防にできた新しい亀裂です。これは、パウロ六世の回勅フマネ・ヴィテが出た後の「ケーニッヒシュタイン宣言」によって起きた議論に似ています。この宣言文書の中でドイツの司教たちは結婚した夫婦が個人の良心に従うことができると決定しました。フライブルク大司教区の大司教区司牧的ケア・オフィスによって二〇一三年九月に発行された「司牧的ケアに対する援助」という文書を読むと、結婚の倫理に対する今後の結果を予測することができます。そこには、次のようなことも書かれています。

「二度目の結婚の絆は、結婚という秩序ある形をとり永久に同居するという断固たる、公に目に見える形の意志を示した道徳的現実として、相当長い期間にわたって続いたものでなくてはならない……」「二人が共同して実現する人間的価値に基づき、とりわけ互いへの責任を負う意志を公的な、法的拘束力を持つ形で示しているため」、このような伴侶たちは、「道徳的な認定を受けるに値する……。この二人は、自分たちの生活の中で天主から配慮を受け、守られているとみずから確信できることを望んでいる。二人は新たな人生計画の大胆な門出のための力づけと信頼を与える司牧的ケアを受けることを望んでいる……。このしるしとしての祝福とろうそくの儀式を行なう……」

 これに従って、このような二人を祝福する典礼儀式が行われます。「復活の大ろうそくから一本のろうそくを灯し、二人はそのろうそくを一緒に持つ。」そして次のような祈りをすることが勧められています。「祈りましょう。永遠の天主よ、私たちはあなたのうちに許し、愛、新しい命を見いだします。あなたはすべての命を輝かせてくださいます。このろうそくを祝福してください。ちょうどこのろうそくの光が闇を照らし出すように、あなたはすべての人間の人生の道のりに光を照らしてくださいます。○○と△△のために光となってください。彼らが幸福な日々にあなたを賛美し、逆境においてはあなたの助けを通して回復し、彼らが行うすべてのことにおいてあなたの支えがあると実感できますように。私たちの主イエズス・キリストによって。アーメン。状況や場所によっては、(新しい)全家庭のための祈り(祝福の本、239ページ)を唱え、家庭の祝福(祝福の本、270ページ)を行なうのがよい。」

 これは、同棲を祝福し、従って罪を祝福することにならないはずがないではありませんか?

 カスパー枢機卿は、その提案において、秘跡による聖体拝領は、同棲状態で暮らしているカトリック信者たちのうちの一握りの少数のためだけになるであろうとしています。しかし、この選別をする責任者は誰なのでしょうか?そうすると、それ以外の人たちはすべて愚かな人に見えるのではないのでしょうか?「ケーニッヒシュタイン宣言」の時と同様に、ダムは既に決壊しており、問題とされている人々による汚聖的な聖体拝領は、たちまちあらゆるところで例外ではなく原則になってしまうことでしょう。

 新近代主義者たちは、公会議において、また公会議後に、信仰と教会の聖伝を著しく傷つけましたが、少なくとも公けには、教会の道徳的教えをある程度まで擁護していました。カスパー枢機卿は今や、これをも攻撃するためのトランペットを吹き鳴らしているのです。

結婚に関する教会の教え

 キリスト者の結婚は、天主がその民と交わした契約、いやむしろ、イエズス・キリストと彼の教会との間の婚姻的一致を霊的に写したものです。一旦婚姻がなされれば解消はできず、また婚姻は主ご自身によって、まことの、正当な秘跡として制定されたものです。婚姻の第一の目的は命を伝え、天主によって与えられた子どもたちをまことのキリスト者にするよう養育することです。第二の目的は配偶者相互の扶助と聖化です。加えて、無秩序な肉の欲望に対する薬でもあります。

 男女の絆としての婚姻の尊厳と聖性と非解消性を擁護するため、キリストのみことばを引用しましょう。「人は神がお合わせになったものを離してはならない」(マテオ19章6節)、また「自分の妻を出してほかの女と結婚する人は姦通をおかし、夫から出された女と結婚する人も姦通をおかすのである。」(ルカ16章18節)ですから、キリスト者が自分の配偶者が生きている間に新しい民事的結婚を行なうなら、それは姦淫であり、秘跡にあずかるのを妨げる重大な罪です。「思い誤るな、姦通するものは……神の国を嗣がない。」(コリント前書6章9節参照)これこそが教会の永遠の教えであり、一五六三年十一月十一日、トリエント公会議が第24総会の第7カノンにおいて最高の明確さをもって、改めて定めたものです。婚姻の秘跡についてのカノン7にはこう書かれています。

「婚姻の絆は、配偶者の一方が姦淫を犯したという理由で解消することができず、姦淫の機会を与えることのなかった無辜の配偶者も含め、配偶者の双方が、相手方の配偶者の生存中に別の婚姻をすることができず、姦淫を犯した女を去らせた後に他の女と結婚する男は姦淫の罪を犯すこと、また姦淫を犯した男を去らせた後に他の男と結婚する女も同様に姦淫の罪を犯すこと、これらのことを聖書と使徒たちの教理[マテオ5章32節、19章9節、マルコ10章11節以下、ルカ16章18節、コリント前書7章11節参照]に基づいて、教会が過去にも現在でも教えていることについて、教会が誤っていると言う者は排斥される。」[13]

 最近では、教理聖省が一九九四年九月十四日付の手紙の中で、離婚したのち『再婚』したカトリック信者たちの聖体拝領について、これを否定しました。これに対して強硬な反対があったため、ラッツィンガー枢機卿は、抗議と非難とに答えて結婚の非解消性についての教会の教えを再度確認しました。

 十五世紀には、イギリスのヘンリー八世が女官のアン・ブーリンと新しい結婚をしようと試みたとき、ローマ聖座は、結果として一つの国全体がローマ教会から離れてしまうという高い代価を払っても、婚姻の聖性を守りました。さらにさかのぼれば、すでに洗者ヨハネが不義を犯したヘロデを咎めています。「兄弟の妻をめとるのはよろしくない。」(マルコ6章18節)この証言をしたために、洗者ヨハネは自分の命を捨て、血を流しました。教会の聖職者たち、誰よりもまず、司教たちとローマ聖座の代表者たちが、真理と揺るぎなさに対する愛を示すことによってのみ、キリスト教世界を回復させることができるのです。


二〇一四年三月二十五日、ツァイツコーフェンにて
聖母へのお告げの祝日
フランツ・シュミットバーガー神父
イエズスの聖心神学校校長
聖ピオ十世会前総長

†††

[1] 引用は雑誌「Der Spiegel」vol. 2014, no. 5.より。
[2] ノルベルト・クチュキ編「Gott heute: 15 Beiträge zur Gottesfrage」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 1967)中のエッセイ、ヴァルター・カスパー「“Gott in der Geschichte”」、強調点は筆者。
[3] ヴァルター・カスパー「Einführung in den Glauben」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 1974, 19837)、9.4章、148ページ。
[4] ヴァルター・カスパー「Jesus der Christus」(Mainz: Matthias-Grünewald-Verlag, 19787)、パートII: Geschichte und Geschick Jesu Christi, III章, 105-106ページ。
[5] 上掲書、106ページ。
[6] 上掲書、106ページ。
[7] 上掲書、149-150ページ。
[8] 上掲書、129ページ。
[9] Theologische Meditationenシリーズ(Zürich, Einsiedeln, Köln, 1973)第32巻、ヴァルター・カスパー、ユルゲン・モルトマン「Jesus ja―Kirche nein?」中のヴァルター・カスパー「“Jesus und der Glaube”」、20ページ。
[10] ヴァルター・カスパー「Einführung in den Glauben」、55ページ。
[11] 「“Pope Francis greets Ukrainian Cardinals and praises Cardinal Kasper’s ‘kneeling theology’”」、Vatican Information Service、2014年2月21日。
[12] ジウゼッペ・ナルディ、Katholisches.info、2014年2月27日。
[13] デンツィンガー、「The Sources of Catholic Dogma」、Roy J. Deferrari翻訳[1955]、原書はHeinrich Denzingerの「Enchiridion Symbolorum」第30版(Fitzwilliam, NH: Loreto Publications, no date)、297ページ。

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聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎

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愛する兄弟姉妹の皆様、

「聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎

原文はこちら

聖ピオ十世会は五十一名の新神学生を歓迎

二〇一四年十月六日

 今年、二〇一四年から二〇一五年にかけて、聖ピオ十世司祭兄弟会は各地の神学校での霊性の第一年目に、総勢五十一名の青年たちを歓迎した。

 北半球では、フラヴィニー(フランス)の「アルスの聖司祭神学校」は、新神学生二十名(フランス人十二名、イタリア人三名、イギリス人一名、カナダ人一名、スペイン人一名、ポーランド人一名、スイス人一名)と、四名のブラザー志願者(フランス人三名とイタリア人一名)を迎えた。

 ツァイツコーフェン(ドイツ)の「イエズスの聖心神学校」は、新神学生九名(ドイツ人三名、オーストリア人二名、ハンガリー人一名、ポーランド人一名、スイス人一名、チェコ人一名)、そして二名の予備神学生を迎えた。

 ウィノナ(アメリカ)の「聖トマス・アクィナス神学校」は、新神学生十四名(アメリカ人十二名、アイルランド人一名、オランダ人一名)、五名のブラザー志願者を迎えた。アメリカ人全員と十八名の予備神学生は、本格的な司祭準備の勉強(哲学・神学)を始める前に、人文学の授業を受ける予定である。

 南半球では、二〇一四年三月に始まった学年度に、新神学生四名(アルゼンチン人三名とメキシコ人一名)、そして三名のブラザー志願者(メキシコ人二名、チリ人一名)が、ラ・レハ(アルゼンチン)の「共贖者なる聖母神学校」に入学した。

 ゴールバーン(オーストラリア)の「聖十字架神学校」には、新神学生四名(オーストラリア人一名、アメリカ人一名、カナダ人一名とナイジェリア人一名)が入学した。

 総勢として、神学校第一年目の神学生は五十一名、二〇一四年のブラザー志願者は十六名となる。新神学生たちは二〇一三年には四十三名、二〇一二年には五十名、二〇一一年には五十七名、二〇一〇年には四十八名だった。

(Source : SSPX/MG – DICI dated October 06, 2014)

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アメリカ──黒ミサを償うために、 オクラホマ市で開催された素晴らしい儀式

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 聖ピオ十世会アメリカ管区の記事「アメリカ──黒ミサを償うために、オクラホマ市で開催された素晴らしい儀式」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

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United States: Great ceremony in reparation for the black mass of Oklahoma City
アメリカ──黒ミサを償うために、
オクラホマ市で開催された素晴らしい儀式


二〇一四年九月二十六日

九月二十一日、オクラホマ市の文化センターで開かれる黒ミサ(DICI 300参照)の抗議者の数は、黒ミサの参加人数をはるかに上回った。九月二十二日にFOXニュースのウェブサイトに引用された地元新聞オクラホマ・ニュースペーパーによれば、参加するだろうと期待されたうち八十八人の観客のうち、約四十人から五十人ほどの人々だけが悪魔的儀式を支援した。

法律の範囲内にとどまるため、サタニストのグループは、黒ミサの通常の儀式をいくつか変更しなければならなかった。参加者たちは尿の代わりに酢を使用した。祭壇上で裸になるはずの女性は下着を着用し、参加者たちは聖別されていないホスチアに唾を吐きかけた。

この間、約一二〇〇名のカトリック信者たちが、Paul S. Coakely大司教の要請に答えて、オクラホマ市の教会の一つに結集した。建物は満杯になり、四百名の人々は屋外で祈らなければならず、さらに多くの人々は体育館や閉店中のカフェテリアに集まった。

FOXニュースのウェブサイトで引用された説教の中で、Coakley大司教は、オクラホマ市は「曖昧模糊とした勢力」のターゲットにされ続けていたと宣言した。だが、大司教はキリスト者としてこのように指摘している。「私たちはキリストがサタンを打ち破ったことを知っている。戦いにはすでに勝利している。キリストが打ち破ったのだ。だが、キリストがふたたび来たり給うて、永遠に君臨されるまで攻撃は続くだろう」

聖ピオ十世会アメリカ管区も、オクラホマ市の大きなホテルの一つで償いのミサを捧げ、続いて文化センターまでロザリオの聖母を称える行列を組織した。九月十二日にアメリカ管区のサイト上にアップされた記事の中で、管区長ヴェグナー(Jürgen Wegner)神父は、九月二十一日の主日に償いの聖体拝領のためミサに来れない人々に、この冒瀆の償いとして犠牲を実行するよう励ました。

(sources: apic/foxnews/sspx – DICI no.301, dated Sept. 26, 2014)


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オクラホマ市の黒ミサへの反応(聖ピオ十世会アメリカ)

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アメリカ管区の記事「オクラホマ市の黒ミサへの反応」の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
 新しい管区長のもとで、公の罪を公に償う聖ピオ十世会アメリカの行動に賞賛を送ります!

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

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オクラホマ市の黒ミサへの反応

原文はこちら A response to the Oklahoma City Black Mass

オクラホマ市の黒ミサへの反応

二〇一四年九月二十一日
アメリカ管区

九月二十一日の主日、オクラホマ市での悪魔的行為に反対する聖ピオ十世会の償いの行動に参加するため、アメリカ中からやってきたほぼ一〇〇〇名の信者たちの映像をビデオでご覧下さい。

Watch the video:
A response to the Oklahoma City Black Mass [YouTube]




市民センターでの戦い

聖伝カトリック信者たちは、オクラホマ市での悪魔的黒ミサに反対する償いの十字軍の呼びかけに、並外れた寛大さで応えた。わずか九日間の間に告知と計画が立てられ、六名の司祭、七名の神学生、フランシスコ会修道女たちのグループ、そしてほぼ一〇〇〇名の平信者たちがアメリカ各地から、九月二十一日、オクラホマ市を目指して集まった。

ダニエル・シマン(Daniel Themann)神父によって荘厳ミサがダンス会場で立てられた。会場は全員が入りきれず、数百名の信者たちはホテルのロビーへとなだれこみ、そこでミサの中継映像をライブビデオで見た。シマン(Themann)神父は説教の中で、良い兵士は彼の前にある憎悪によってではなく、彼が背負っている愛によって突き動かされる、ということを信者に思い起こさせた。市民センターにおいて市当局者たちによって許可された悪魔的冒瀆行為を糾弾しつつ、シマン(Themann)神父は、私たち一人一人もまたどのようなやり方であれ天主を攻撃したことがある、ということをも思い起こさせた。

人々はホテルを出て移動し、市民センターの入り口まで深い沈黙のうちに行進した。集中豪雨の予報が八〇パーセントの確率で出ていたにも関わらず、行列がロザリオ三環を唱え、町中にクリストゥス・ヴィンチトの歌声を響き渡らせ、市内を通り過ぎて市民センターへと向かうにつれて、焼け付くような太陽が行列の上に照りつけた。カンザスのセントメリーから来たThe Knights and Honor Guardが隊列を導き、イリノイ州オリヴェト(Olivet)のラ・サレット・ボーイズ・アカデミーの聖歌隊がミサの聖歌を歌い、親切な案内係を務めた。

ヴェグナー(Wegner)神父からの霊的武装の呼びかけがこのような結果をもたらすことは、人間的に言えば非常な短期間では不可能だっただろう。いくつかの教会が旅行のためにバスをチャーターすることを計画し、信者たちは、カンザス、オクラホマ、テキサス、イリノイ、ケンタッキー、ニューヨーク、そしてペンシルベニアから償いの精神でやって来た。

ミサと償いのロザリオ行列の後、アメリカ管区長は歌ミサを捧げたシェラトン・ホテルで参加者たちに昼食を提供し、ホテルに入りきれなかった人々は地元のレストランで食事した。聖伝信者たちの反応は、最も卑劣で不快な悪魔的行為でさえ、天主はご自分の偉大さを示すためにどのように利用できるかを実際に証明してみせている。アメリカ管区の聖職者と平信者は、天主の全能を公言することで、その道具として喜んで仕えた。天主の全能はそのおん力を嘲ろうと哀れにも試みているちっぽけな悪の勢力を超えるものである。



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アンジェルス・プレス 2014年講演会:ミサ聖祭 教会の中心

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、聖ピオ十世会アメリカ管区で行われた「アンジェルス・プレス 2014年講演会:ミサ聖祭 教会の中心」Angelus Press Conference 2014 - The Mass - Heart of the Church のビデオ・クリップをご紹介します。(ティシエ・ド・マルレ司教様、クチュール神父様やジョン・ヴェナリさんなどが映っていて、嬉しく思いました。John S. Burke Catholic High School で長い間校長として働いていた Monsignor James Byrnes 神父様の姿も見えました。)

 天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)





聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

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ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー」の記事の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

10月は、東京でのミサは、19日(主)聖霊降臨後第19主日です。
さらに、今月は、26日の主日にも東京でボーナスミサがある予定です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ミュラー枢機卿との会見を終えて──フェレー司教へのインタビュー

フェレー司教



二〇一四年十月三日

司牧は当然、教義に従わなければならない

司教は九月二十三日にミュラー枢機卿と謁見されました。二〇〇五年にベネディクト十六世と謁見された後に出された公式発表では既に、両者は「完全な交わりを目指し……段階的に、適当な期間にわたって話し合いを進める」とされていましたが、今回のバチカン報道局よりの公式発表はこの文言を繰り返したものとなっています。一方、二〇一四年の公式発表では「完全な和解」という言葉が使われています。これは、新規蒔き直しを計るという意味なのでしょうか?

フェレー司教 : その人の立場によっては、答えはイエスでもありノーでもあります。新しいことは何もありません、それは、教義についていまだに意見の相違があり──それは二〇〇九年から二〇一一年の間の神学的対話の際にきわめて明確になったのですが──そのため、二〇一一年以来教理聖省が私たちに提案している教義前提書に私たちが署名できない、ということを私たちの対話の相手も私たち自身も認識している、という意味においてです。

では、新しいこととは何でしょうか?

フェレー司教 : 新たな教皇と新たな教理聖省長官がおられることです。今回の面談が示していることは、先方も私たちも互いの関係を壊すことを望んでいないということです。すなわち、教会法的承認がなされる前に教義的問題を明確にする必要性があると、双方とも主張しているのです。これこそが、ローマ当局者の側からすると、私たちに教義前提書の承認を要求している理由であり、私たちの側からすると、その文書の曖昧さの故に署名できない理由なのです。

さらに新たな事実としては、教会内の危機が現在悪化していることがあります。家庭に関するシノドスを目前にして、離婚したのち再婚したカトリック信者による聖体拝領に関するカスパー枢機卿の提案に対して、枢機卿数名が行なった厳粛かつ理にかなった批判が明るみに出て来ています。かつてオッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿による「新しいミサ形式の短い批判的研究」(1969年のいわゆる「オッタヴィアーニ介入」)による批判が出て以来、ローマではこのようなことはありませんでした。しかし、いまだ変わっていないのは、ローマの当局者が私たちの公会議批判を考慮に入れていないことです。その理由は、今、教会内での深刻な問題があっても、ローマの当局者は私たちの公会議批判を二次的なもの、さらには現実離れしたものであるかのように思っているからです。教会の当局者たちは、今教会を頂点から──現在では枢機卿たちの間でも──揺るがしている危機を理解してはいますが、この前代未聞の危機の主な原因が公会議自体かも知れないとは考えません。これは「耳の聞こえない者同士の対話」のようです。

具体例を挙げていただけますか?

フェレー司教 : カスパー枢機卿の、離婚したのち再婚した人々による聖体拝領に好意的な提案は、私たちがまさに公会議のせいであるとしていることの実例です。今年の二月二十日、カスパー枢機卿が枢機卿会議の席上で他の枢機卿たちに行なった講話の中で提案したことは、公会議で行なわれたことをもう一度行なうことでした。すなわちそれは、カトリック教義を再確認しながら司牧的提案を提示することです。ジャーナリストとの数多くのインタビューで、枢機卿は教義と司牧的実践の区別を執拗に主張しています。枢機卿は、理論上教義は変えられないと言いながら、具体的には、現実的には、教義を適用できない状況が存在するという考え方を持ち出します。そうすると、彼の意見によれば、司牧的アプローチによってのみ解決策が見いだせるというのです……教義を犠牲にすることによってです。

一方私たちは、教義と司牧的実践との間に不自然な区別をしているという点において、 公会議に問題があると考えています。司牧的実践は教義に従わなければならないからです。数多くの司牧的な譲歩を通して実質的な変更が教会内に導入され続けており、教会の教義にも影響が及んでいます。これこそが、公会議の間に、そして公会議の後に起こったことです。今、結婚の倫理に対して用いられようとしている同じ策略も、私たちは非難するのです。

しかし間接的に教義に影響を及ぼした公会議での変更は司牧的な変更だけだったのでしょうか?

フェレー司教 : いいえ、実際には教義そのものについて重大な変更が導入されたことを認めざるをえません。つまり信教の自由、司教団体主義、エキュメニズム等においてです。ですが、これらの変更は具体的な司牧的適用の中に、より明白に、より明らかに現れているのは事実です。なぜなら公会議の文書の中ではこれらの変更は簡単な提案であったり、ほのめかされたりしているだけで、その多くが明確にされてはいないからです……ですからこれらの変更は、前総長であるシュミットバーガー神父の言葉によれば、「時限爆弾」となっているのです。

カスパー枢機卿の提案の中で、公会議中に導入された教義的変更がより明らかになるような司牧的な適用はどこにあるとお考えですか?「時限爆弾」はどこにあるとお考えですか?

フェレー司教 : 枢機卿は、九月十八日のバチカン付記者アンドレア・トルニエッリとのインタビューでこう述べています。「教会の教義というものは閉鎖された制度ではない。第二バチカン公会議が教えることは、教義には発展があり、すなわち教義を更に検討することができるということだ。私たちが教会学で成した、より深い理解と同じようなことをこのケース(すなわち、離婚した後に民事的再婚をしたカトリック信者のケース)に当てはめられるのではないだろうか。カトリック教会はキリストの真の教会であるがカトリック教会の組織的境界を超えたところにも教会的な要素が存在する。秘跡による結婚の要素の一部もまた、民事的結婚の一部のケースにおいて認めることはできないだろうか?例えば、 生涯にわたる献身、互いへの愛と配慮、キリスト教的生活と、内縁関係には存在しないような公的な誓約の宣言である。」

カスパー枢機卿の説はきわめて論理的であり、一切の矛盾がありません。エキュメニズムの名のもとに公会議で詳しく定めされた教会の新原則、すなわち、カトリック教会の外にも教会的な要素があるという新原則を、結婚に対して司牧的に適用することを提案しているのです。枢機卿は教会のエキュメニズムを婚姻のエキュメニズムに論理的に導いています。従って、彼の説によれば、秘跡による結婚の外にもキリスト教的結婚の要素がある、ということになります。これを具体的に考えるには、結婚生活の「エキュメニカルな」忠実、あるいは多様性の中の忠実についてどう思うかと夫婦に対して尋ねるだけで充分でしょう!また同じように、多様性の中で一致した「エキュメニカルな」教義的一致といわれるものを、私たちはいったいどのように考えればよいというのでしょうか?このような結果こそが私たちが非難していることなのですが、教理聖省はこれを理解していないか、あるいは理解したとしてもそれを認めません。

バチカンの公式声明にある「段階的に進める」という表現を、私たちはどう理解すれはよいでしょうか?

フェレー司教 : 教義についての話し合いを、これまでよりもっと幅広い、非公式な枠組みで続けることを、ローマと聖ピオ十世会が相互に望んでいるということです。

ですが二〇〇九年から二〇一一年の教義についての話し合いでは何も達成されませんでした。より幅広いやり方とはいえ、話し合いを再開することに何の意味があるのでしょうか?

フェレー司教 : その理由は、ローマ当局からの招きに応じて必ずローマに赴いたルフェーブル大司教 の例にならって、聖伝に対する私たちの忠実の理由を尋ねる人々に、いつも答えるようにしているからです。私たちはこの責任から逃れるようなことはできませんし、前回の総会で定義された精神と義務に基づいて、これをまっとうしてゆきます。

二〇〇五年にベネディクト十六世が私に接見してくださったことに先ほどちょうど触れてくださったので、そのとき私が「もしも教会が聖伝を守るなら現代世界における教会は、より強固なものとなるということを私たちは示したかった」と言ったことを思い出します。今日も私はこのことを繰り返して言いたいと思います。私たちの証言を教会に捧げたいのです。つまり、教会が現在陥っている悲劇的な危機を終わりにしたいなら、聖伝こそがこの危機への答えです。これこそが、私たちが深く愛している永遠のローマ、真理の母であり教師である教会に対する、子としての私たちの忠誠を示す方法なのです。

これは証言を与えることだとおっしゃいますが、むしろ信仰を告白することではないのでしょうか?

フェレー司教 : どちらか一方だけということではありません。私たちの創立者ルフェーブル大司教は、私たちが信仰を告白するのに用いる神学的議論というのはローマの当局者には必ずしも理解されないが、そうだからといって私たちがそのような神学的議論をする義務から免れるわけではない、とよくおっしゃっていました。加えてルフェーブル大司教は持ち前の超自然的な現実主義から、聖伝の具体的な実り、すなわち、神学校、学校、修道院や、司祭、修道士、修道女の数、また神学生、平信者の数もまた証拠として大きな価値を持っているとおっしゃっていました。これらの目に見える事実に対してうわべだけの議論は通用しません。ラテン語では contra factum non fit argumentum.(事実に反して議論はできない。)といわれます。この場合、このラテン語のことわざを翻訳するとすれば、イエズス・キリストのみことば「木はその実によってわかる」になるでしょう。この意味で、私たちは信仰を告白すると同時に、聖伝の生命力をも証言してゆかなければならないのです。



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ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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Communiqué from the General House of the Society of Saint Pius X

Entretien avec Mgr Fellay après sa rencontre avec le cardinal Müller
Intervista con Mons. Fellay dopo il suo incontro con il Cardinal Müller
Gespräch mit Msgr. Fellay nach seinem Treffen mit Kardinal Müller
Entrevista a Mons. Fellay luego de su encuentro con el Cardenal Müller
Entrevista de Dom Fellay após o seu encontro com o Cardeal Müller

 

今年の10月に、フランスのフラヴィニーの神学校に入学した神学生たち

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年の10月に、フランスのフラヴィニーの神学校に入学した神学生たちの写真をご紹介します。

聖ピオ十世会

聖ピオ十世会


20名の新しい神学生たちの国籍は、次の通りです。
- 12名 フランス
- 3名 イタリア
- 1名 イギリス
- 1名 カナダ
- 1名 スペイン
- 1名 ポーランド
- 1名 スイス

愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い申し上げます。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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聖ピオ十世会本部からのパウロ六世の列福についての報道発表

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会本部からのパウロ六世の列福についての報道発表がありましたので、英語で愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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Communiqué of the General House of the Society of Saint Pius X on the Beatification of Pope Paul VI

On October 19, 2014, at the close of the Extraordinary Synod on the family, Pope Francis will go forward with the beatification of Pope Paul VI. The Society of Saint Pius X wishes to express serious reservations concerning beatifications and canonizations of recent popes, whose rushed proceedings dispense with the wisdom of the Church’s centuries-old rules.

It is true that Paul VI was responsible for the encyclical Humanae Vitae[1], which letter instructed and consoled the Catholic family at a time when the most basic principles of marriage were under bitter attack. So they are again, and in a scandalous fashion, by certain members of the present Synod.

But Paul VI is also the Pope who saw Vatican II to its conclusion, thereby introducing in the Church a doctrinal liberalism manifested especially in errors such as religious liberty, collegiality, and ecumenism. The result was an upheaval which he himself admitted on December 7, 1968, in the following words: “The Church is now confronted with uncertainty, self-criticism, one might almost say self-destruction. As if the Church were doing violence to Herself.” The following year he conceded: “In many areas the Council has not yet put us at peace; it has rather stirred up trouble and difficulties which are useless for reinforcing the Kingdom of God in the Church and in souls.” He went so far as to give this dire warning on July 29, 1972: “The smoke of Satan has entered the temple of God through some crack: doubt, incertitude, dissension, worry, discontent, and conflict are plain to see…” But he was merely stating a fact, while failing to take those measures capable of stopping the self-destruction.

Paul VI is the Pope who imposed a liturgical reform of the rites of Mass the other sacraments for reasons inspired by ecumenism. Cardinals Ottaviani and Bacci denounced this new Mass because it departed “significantly, on the whole and in its details, from Catholic theology of the holy Mass as formulated during the 22nd session of the Council of Trent.”[2] Along the same lines Archbishop Lefebvre said that the new Mass was “infused with a protestant spirit” which is a “poison inimical to the Faith.”[3]

Under his pontificate many priests and religious were persecuted, and even condemned, for their fidelity to the Tridentine Mass. The Priestly Society of Saint Pius X remembers with great sorrow the condemnation of 1976 whereby Archbishop Marcel Lefebvre found himself suspens a divinis because of his attachment to that Mass and his categorical refusal of the reforms. Only in 2007, with the issuance of Pope Benedict XVI’s motu proprio, was it finally admitted that the Tridentine Mass had never been abrogated.

Following in the footsteps of its founder, the Society of Saint Pius X declares yet again its attachment to the Church’s two thousand-year-old Tradition, convinced that such fidelity, far from vain nostalgia, in fact provides an apt remedy to the Church’s self-destruction.

Given at Menzingen October 17, 2014

[1] July 25, 1968.
[2] In Brief Critical Study of the New Mass, preface of Cardinals Ottaviani and Bacci, September 3, 1969, sec. 1.
[3] Open Letter to Confused Catholics, Angelus Press September 2010.


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パウロ六世の列福に関する聖ピオ十世会総本部の公式声明の日本語訳

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愛する兄弟姉妹の皆様、
 パウロ六世の列福に関する聖ピオ十世会総本部の公式声明の日本語訳をご紹介します。
 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

パウロ六世の列福に関する聖ピオ十世会総本部の公式声明

二〇一四年十月十七日

 二〇一四年十月十九日、家庭というテーマに関するシノドス(世界代表司教会議)の臨時総会の閉幕に際し、教皇フランシスコはパウロ六世の列福を進める予定とのことである。聖ピオ十世会は、何世紀にもわたる教会の掟の知恵を省くことを押し進めた近年の教皇たちの列福と列聖に関して、真剣に保留するよう表明することを望んでいる。

 回勅フマネ・ヴィテ [1] はパウロ六世の責任によるものであることは確かである。同回勅は、婚姻の基本的原則が厳しい攻撃にさらされていた当時、カトリック信者の家庭を導き、慰める手紙であった。その攻撃が、恥ずべき風潮の中で、今回のシノドスの一部メンバーたちによって、ふたたび起きている。

 だが、パウロ六世は第二バチカン公会議の閉幕に立ち会った教皇である。それによって、特に信教の自由、司教団体主義、エキュメニズムといった誤謬のうちに宣言された教義的リベラル主義を教会内に持ち込むこととなった。この結果は、一九六八年十二月七日にパウロ六世自身が次に述べる言葉で認めた大混乱をもたらした。「教会は今や、不確実性、自己批判に直面している。自己破壊であるという意見もあるかも知れない。あたかも教会はみずからに暴力をふるっているかのようだ」翌年、彼はこういって敗北を認めた。「多くの地域で、公会議は私たちに平和を与えてはいない。それどころか、教会内と霊魂のうちに天主のみ国を強めるために、まるで役に立たない問題と困難を巻き起こしている」一九七二年七月二十九日には、次のような恐ろしい警告を与えさえした。「サタンの煙が亀裂を通して天主の聖堂へと入り込んでいる。疑い、不安、不和、憂慮、不満、衝突が存在するのは目に見えて明らかだ……」だが、彼はただ事実を述べただけで、その一方で、教会の自己破壊を食い止められる手段を取り損なった。

 パウロ六世は,エキュメニズムを理由としてミサ典礼やその他の秘跡の典礼改革を強要した教皇である。オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿は、この新ミサを「全体的にも細部においても、トリエント公会議の第22総会で公式化されたミサ聖祭のカトリック神学から、著しく逸脱している」[2] ために非難した。 ルフェーブル大司教は「新しいミサは信仰に反する毒であるプロテスタントの精神が染み込んでいる」[3] と同じ路線に従って述べた。

 パウロ六世の治世下において、多くの司祭、修道者たちが、トリエント・ミサに忠実であるという理由で迫害され、排斥されすらした。聖ピオ十世司祭兄弟会は、一九七六年の排斥を深い悲しみのうちに記憶している。トリエント・ミサに愛着し、改革を断固として拒絶したために、自分は聖職停止の状態に置かれたのだとルフェーブル大司教は悟った。二〇〇七年になってようやく、ベネディクト十六世が自発教令を発布し、トリエント・ミサは決して廃止されたことはなかったとついに認められたのだった。

 聖ピオ十世会は創立者の足跡に従い、教会の二千年の聖伝に愛着すると再度宣言し、このような忠実さこそは、決して虚しいノスタルジアなどではなく、教会の自己破壊への実際的なふさわしい治療薬であると確信している。

二〇一四年十月十七日 メンツィンゲンにて

[1] July 25, 1968.
[2] 新しいミサに関する批判的研究
[3] 教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ ルフェーブル大司教の公開書簡


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参考資料:「マリア・ディヴァイン・マーシー」のヴィジョンと言われるものについて

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 「マリア・ディヴァイン・マーシー」のヴィジョンと言われるものについてダブリン大司教区からの公式発表をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


STATEMENT OF ARCHDIOCESE OF DUBLIN
ON THE ALLEGED VISIONARY “MARIA DIVINE MERCY”

Requests for clarification have been coming to the Archdiocese of Dublin concerning the authenticity of alleged visions and messages received by a person who calls herself “Maria Divine Mercy” and who may live in the Archdiocese of Dublin.

Archbishop Diarmuid Martin wishes to state that these messages and alleged visions have no ecclesiastical approval and many of the texts are in contradiction with Catholic theology.

These messages should not be promoted or made use of within Catholic Church associations.

「マリア・ディヴァイン・マーシー」という幻視者に対するダブリン大司教区の公式声明。

「マリア・ディヴァイン・マーシー」と自称し、ダブリン大司教区内にいるかもしれない女性が受け取る幻視とメッセージの真正性について、当大司教区に調査の要請が来ていた。
ダーマッド・マーティン大司教は、これらのメッセージ、及びいわゆる幻視は、教会の認可を得ておらず、そのテキストの多くはカトリック教理と照らして、相反するということを声明したい。
これらのメッセージが、カトリック教会内で広められたり、使われたりしてはいけない。

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