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聖母の共同受難の祝日のためのルフェーブル大司教の説教

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 日本の守護者である聖母の汚れなき御心の祝日、おめでとうございます。8月22日は、聖母の被昇天の八日間の最後の祝日でもあり、(イエズス・キリストの昇天の後で、イエズス・キリストの聖心を祝うというリズムが尊重されています。) 
 今から480年前の、1534年8月15日、聖イグナチオ・デ・ロヨラは、別の六名の同志たちと、パリのモンマルトルの丘のふもとの、小さな聖堂で「清貧」「貞潔」「聖地巡礼」の誓願をたてました。これが、イエズス会の実質的な始まりでした。この聖イグナチオの同志六名の内の一人が、それから十五年後(1549年8月15日)に日本に上陸する聖フランシスコ・ザベリオでした。

 イエズス会の実質的な創立480年と、イエズス会の復興200周年を、天主様に感謝しつつ、聖母の被昇天と、聖母の汚れなき御心の祝日を過ごしました。

 願わくは、聖母の汚れなき御心が私たちを導き、聖ピオ十世会の会員である私たちが聖母の汚れなき御心の従順な道具であり続けますように!

 聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!
 聖イグナチオ、我らのために祈り給え!

 今日は、ルフェーブル大司教様のなさった「聖母の共同受難の祝日」のためのの説教を日本語でお届けいたします。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖母の共同受難の祝日のためのルフェーブル大司教の説教

原文はこちら


聖母の共同受難の祝日のためのルフェーブル大司教の説教
一九八一年四月十日、スイス、エコンにて

【Compassionは、ラテン語の語源を尊重して、Cum 共に passio 苦しむから「共同受難」と訳しました。バルバロ神父様の毎日のミサ典書の、七つのおん悲しみの祝日の説明の中では「同感受難」とも訳されています。】

父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。

十字架のみ足元に立つ聖母

 一本の剣が聖母の御心を刺し貫くでしょう、と福音書には書かれています。この剣で刺し貫かれた御心は、言うまでもなく彼女の天主なるおん子のご受難と結びついている、ということに他なりません。福音書はまたこうも言っています。主イエズス・キリストのご受難の間、そしてご死去の瞬間、聖母はおん子のかたわらに佇んでいた、と。"Stabat Mater iuxta Crucem. おん母は十字架の下に佇み給えり"

 ですから、天主のみ摂理は、聖母がおん子の誕生、おん子が地上にお下りになられたこと、おん子の幼少時代、おん子の隠れた生活と公生活に結びつくのを望まれただけでなく、なによりもまず、おん子のご受難に結びつくことを望まれたのだということを、私たちは否定してはなりません。事実、最も重要な瞬間──聖主イエズス・キリストの "時"──は、彼の十字架上での死、ご受難の時であったなら、聖母のそれは、彼女の共同受難(Compassion)、主イエズス・キリストのご受難との親密な一致でした。

聖母の七つのおん悲しみへの信心

 この信心は教会内に大変古くからあるものです。聖母の七つのおん悲しみと童貞女の共同受難の祝日がいつ始まったのか、正確にはわかっていません。しかしながら、教会内では、聖母のおん悲しみ、とりわけ共同受難を黙想するために、童貞マリアご自身の直接のご介入を通して、いくつかの修道会が創立されました。童貞マリアのご要求により、七人の創立者たちによって設立されたマリアの下僕会(The Servites of Mary)が良い例です。会員たちは、特別に聖母のおん悲しみを黙想するために、悲しみに満ちた童貞女に一致するために捧げられています。

 この観想へと捧げられたもう一つの修道会は、十字架の聖パウロの御受難会です。御受難会には、この会出身のたくさんの聖人たちがおります。その中の一人、おん悲しみの聖母の聖ガブリエルは、修道名に「おん悲しみ "Addolorata"」を取りました。まさしく彼は童貞マリアのおん苦しみを黙想しつつ生涯を送ったからです。

ご苦難のイエズスに自らを結びつけること

 なぜ,これについて黙想するのでしょうか? なぜ聖母がご自身の共同受難のうちに、ご自身の苦しみのうちに、ご自身の釘付けのうちに聖主のご受難に一致しておられたことを黙想するのでしょうか? 聖主イエズス・キリストのご受難に、さらに親密に私たち自身を結びつけるためです!

 かつて、十字架上で刺し貫かれたイエズスの聖心とともに苦しみ、十字架上の聖主イエズス・キリストのお考えに一致した魂が存在したとするなら、それは童貞マリアの御心でした! 彼女は決して罪を犯したことがなく、聖主のように、自分自身のために償いをする必要はありませんでした。しかしながら、このお二人は苦しむこと、恐ろしく苦しむこと、深く苦しむこと、お二人の肉体において苦しむことを望まれました。

愛に燃える二つのみこころ

 では、この二つのみこころ、イエズスとマリアのみこころがお感じになられたことに、私たちは入り込もうとしてみましょう。聖主イエズス・キリストのご受難と童貞マリアの共同受難は、二つとも、愛徳によって深く突き動かされていたことは間違いありません。

 お二人のみこころは愛徳に食い尽くされ、聖霊の愛とともに燃えておられました。天主のみことば、聖霊とともに一つの本性なる聖主は、聖霊の愛、ご自分の存在そのものが火となって燃え上がるこの霊によって食い尽くされました。天主のみことばのペルソナは、聖主の霊魂、肉体、肉の心臓のみならず、聖霊によって燃え上がりました。童貞マリアはご自分の天主のおん子を模倣され、彼女もまた天主なるおん子のそれについてのご自分の感情を合わせようとされました。彼女もまた聖霊に満たされておられました。

おん父の光栄を回復するために

この聖霊によって燃え上がった二つのみこころの最初の、そして中心となる目的は、おん父への愛であったと、私たちは決して忘れてはなりません。

 事実、聖霊の愛、この「焼き尽くす炎」はおん父へと導きます。天主の愛とは「天主は愛にてまします」と、これに他なりません。ですから、聖霊は私たちを天主へと導くこと、おん父へと導くこと以外のことをなさいません。従ってイエズスはまず最初に、おん父なる天主の光栄を回復するために苦しまれました。童貞マリアもまた、おん父の光栄の回復のため、天主なるおん子の苦しみに一致されました。

 おん父は無限の、間違いなく無限の栄光を、ご自分の天主なるおん子よりお受け取りになられました。おん父はまた、特別の栄誉をいただいた被造物より生み出された、最大の栄光をお受け取りになられました。この被造物とは、天主なるおん子に一致した童貞マリアのことです。聖母はまことに贖われた最初の者となりました。聖母は罪をまったく知らなかったという意味で完全に贖われたのです。それは、聖主のご託身を考えに入れたために、聖母は無原罪でお宿りになられ、そうして罪を決して知ることはなかったのです。

 十字架の足元にて、聖母は苦しみのうちにおん父の栄光を歌いました。悲しみのうちに天主の栄光を歌いました。聖母は地上における天主の光栄、そして栄光の回復を望んでいたのです。

あわれみに満ちた愛

 お二人を食い尽くしたこの愛は、お二人をあわれみで満たしてくださいました。事実、すぐれた愛、すぐれた慈悲の直接の結果は、あわれみです。なぜなら、二つのみこころに取り付いたこの愛が広められることを望み、この愛を持たない人々、この愛が欠けているすべての人々に伝えられることを望んでいるからです。

 聖主イエズス・キリストは、アダムとエワ以来のすべての罪深い人類、この世界に生まれたすべての人間たちをごらんになって──ご自分が人類の造り主で贖い主であるがゆえに、ご自分の神性によって、このことについてはっきりと見ておられ、完全な知識を持っておられました──このすべての惨めさ、おん父について、造り主にして贖い主について考えない、天主から遠く離れてしまったすべての人間たちをご存知でした。聖主はすべてをごらんになって、その聖心はあわれみで満たされました。このあわれみは犠牲へと導きます。あわれみは犠牲の源です。あわれみは、愛徳が人類の心に打ち立てられるよう、完全に犠牲にする覚悟ができているがゆえに、犠牲へのすべての道なのです。

 こうして聖主は苦しまれました。聖主は肉体において苦しまれました──ゲッセマニでの激しい悶えの中、おん血のしずくが聖主のおん額から滴り落ちました。聖主はあわれみに満ちておられました。そして童貞女は、まったく同じ理由のために、聖主のおん苦しみを共有することを望まれました。彼女も、このすべての霊魂たちについて考えておられました。お二人は死に至るまで、殉教に至るまでともに苦しまれ、苦しむことを望まれたのです。

 聖主イエズス・キリストは、聖霊が至聖三位一体の愛ですべての心とすべての霊魂を燃え上がらせることができるよう、おん父と霊魂の贖いのために、ご自分の最期をまことに与えたのならば、童貞マリアはその瞬間に死ななかったにせよ、ご自分の命を捧げ、殉教を苦しまれたのです。聖母はまことに殉教者の元后と呼ばれます。聖母もまたご自身を、ご自分のおん血を、ご自分の命を、ご自分のすべての所有物、とりわけ、ご自分の天主なるおん子をお与えになりました。聖母は霊魂たちの贖いのため、善き主にすべてをお与えになりました。Mater Misericordiae あわれみのおん母よ。これこそが、童貞マリアのおん悲しみの原点なのです。


平和と喜びとともに苦しむこと

 ご受難において、悲しみは絶望へと導き、この悲しみが絶望のたぐいをイエズスとマリアの霊魂に置いたかも知れないと、私たちは決して考えてはなりません。いいえ、決してそうではありません! この苦しみの原点であったまさしく愛徳の故に、愛徳はお二人のみこころに平和と喜びをもたらしました。受難と苦しみとあわれみが、深い喜びとともに一つになることは信じ難いことかも知れません。ですが、聖主イエズス・キリストの聖心は真実に喜びに満たされていました。そして、聖主と一つに結ばれた童貞マリアの御心もそうでした。

 お二人は至聖なる三位一体の喜び、偉大な愛徳によって与えられた喜びに満たされていました。愛徳が霊魂にもたらす平和は、言葉では言い表せない平和です。イエズスとマリアは、肉体において苦しみ、深い悲しみや絶望の感情の中にある多くの霊魂たちのように、拷問を受けていたのではありませんでした。いいえ、イエズスとマリアはそのようなやり方で苦しんだのはありませんでした。お二人は苦しまれました。でもお二人のみこころは、間違いなく安らぎのうちに、平和のうちにあり、そのために聖母は十字架のみ足元に佇んでいることができたのです。もし聖母がこの平和を、この愛徳を、ご自分のおん子の苦しみに結びつく親密さと深い喜びを、おん子の愛徳に結びつく喜びを、聖霊とともに満たされている喜びを持っていなかったら、聖母は十字架のみ足元に佇んでいることはできず、福音書は「Stabat Mater おん母は佇めり」とは言わなかったでしょう。聖母を取り囲む三つのペルソナは、お二人の外見上の苦しみ以上のもの──おん涙と外見に表れた感情を通して──をほぼ確実に教えてくださいました。聖母は平穏なまま、平和のうちにとどまられました。

聖ピオ十世会の奉献女(オブレート)の保護者

 親愛なるシスターたちよ、ここにあなた方の保護者がおられます。あなた方は自分たちを私たちに結びつけるためにここに来ることを選び、とりわけ、ほぼすべての奉献女たちの場所である、ここエコンの修道院、少なくともすべての奉献女たちが結びついてるところへとやって来ました。あなた方は自分自身を司祭たちに結びつけるために来ました。司祭はもう一人のキリストだからです。司祭はみずからを聖主イエズス・キリストのご受難に、特に彼が捧げるミサ聖祭の犠牲を通して結びつけなければなりません。従って司祭はイエズスの聖心の思い、そしてまたマリアの思いと一体とならねばなりません。司祭は童貞女に、我をしてこのお二人の思いを理解せしめ給えと懇願しなければなりません。お二人の思いをさらに感じ取り、より一体となるためにです。

 ですから、司祭たちの助け手となりなさい。あなたたちの両手で助けるだけではなく、霊魂と精神をもって、聖主の統治、聖主の愛を広げるために、司祭職における、聖主イエズス・キリストの犠牲の精神における、十字架における助け手となりなさい。

 このようにして、あなた方は自分たちを特別なやり方で童貞マリアに一致させるでしょう。聖母が天主なるおん子にご自身を一致させたようにです。そしてあなた方は聖主の苦しみを共有するでしょう。あなた方は霊魂の贖いにとても力強いやり方で貢献するでしょう、あなた方ができる手段に従って、天主のみ摂理がお与えになった手段に従って。あなた方は、あなたがたが仕える司祭たちのために、神学生たちのために、彼らがまことの司祭になりますように、まことのもう一人のキリストになりますように、彼らが自分たちをさらにもっと深遠な、もっと完全なやり方で聖主イエズス・キリストのご受難に結びつけますようにと祈ることで、みずからをさらに深遠な方法で司祭職へと結びつけるのです。

 あなた方は童貞マリアにこの恩寵を乞い求めるでしょう。そうして、聖主イエズス・キリストの統治が広がるように、あなた方の苦しみ、あなた方の犠牲を、この意向のためにお捧げしなさい。

父と子と聖霊のみ名によりて。アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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聖ピオ十世会ドイツ管区の「カトリック青年会」を紹介します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会ドイツ管区の「カトリック青年会」Katholische Jugendbewegung (KJB) を紹介します。

 天主様の祝福が豊かにありますように!





聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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一九九六〜二〇一四 アジア管区長クチュール神父より、最後の手紙

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2014年8月15日付けで、聖ピオ十世会アジア管区長は、クチュール神父様からシュテーリン神父様に交代しました。

 聖ピオ十世会アジア管区のApostles誌 第38号に「クチュール神父の別れの言葉」が掲載されています。今日は、愛する兄弟姉妹の皆様にその日本語訳をご紹介します。クチュール神父様、長い間、ありがとうございました。深く感謝します。クチュール神父様の新しい任地において、天主様が祝福し給いますように!
 クチュール神父様と共に、アジア管区の管区長となられたシュテーリン神父様のためにも、たくさんのお祈りをいたしましょう!

 愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!


「クチュール神父の別れの言葉」の原文はこちらです。


クチュール神父の別れの言葉

一九九六〜二〇一四 アジア管区長クチュール神父より、最後の手紙

私とともに主をたたえ、ともにそのみ名をあがめよう(詩編33:4)

 親愛なる友人と恩人の皆さん、

 世界の片隅から、皆さん全員と、すべての読者の皆さんに別れの挨拶を述べる時が来ました。私たちが十八年間に渡って、植え、水を注ぎ続けた場所に、代わりのさらに勇敢な司祭に収穫を刈り取らせるよう、そして水を注ぐ別の場所に、私たちのすなどりの網をもたらすようにと命令が下ったからです。聖主が「それと同じことで、あなたたちも、命ぜられたことをみななし終えたら、"私たちはとるに足らぬしもべである、すべきことをしたにすぎない" といえ」(ルカ17:10)と仰せられたみことばは、天主としてふさわしいものです。私たちは実際、役に立たないしもべです。超自然の恩寵は私たちから来るのではなく、ただ私たちを通り過ぎていくだけです。私たちは「キリストのしもべ、天主の恩寵の管理者」(コリント1 4:1)に過ぎません。

 この十八年、世界中からの、特にアジア管区のために捧げられた霊魂たちからの祈りのおかげで、すべての私たちの司祭たちの両手を通して絶えざる恩寵が流れ出ていくのを私は見続けており、このことを確かに証言できます。庭師にできるのは、庭の雑草を抜き、刈り取り、水を注ぐことだけですが、庭師はその後、創造主のおん力を通して成長する花々の美しさを心から喜ぶのです。

 私たちはすべての栄光を、あらゆる聖寵の仲介者である方に帰し、そのけがれなき御心は過去の偉大な英雄たちが足跡を残した東洋において、天主のみ国を広げるために私たちをお使いになるよう計画されました。A Domino factum est istud! これをなされたのは主です! 「これは主のみ業で、われらの目には不思議なことである」(詩編117:23)私たちが切に乞い願うただ一つのことは天主のあわれみです。というのは、私たち自身の「数えきれない罪、無礼、怠慢」は、多かれ少なかれ、まことに「収穫の用意ができている」この国に恩寵が降り注がれるのを台無しにし、 衰えさせるからです。

 次に述べる出来事の数々は、アジアの国々の庭より咲いた生ける霊魂たちからなる霊的花束として、女王である聖母の足元に置かれています。Non nobis, Domine, non nobis, sed nomini tuo da gloriam. 「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、われらにではなく、あなたのみ名に」(詩編113:9)「あなたたちが見たことを見る目は、しあわせである」(ルカ10:26)事実、私たちは、奇跡を起こされる天主の恩寵の選びの証人、カトリック聖伝の隠された宝、その尊敬すべき古いラテン・ローマ典礼で征服の領土を広げていく選びの証人であり続けています。

 アジア管区は、インド(一九八六年)とフィリピン(一九九二年)の自治修道院の統合によって、一九九六年八月十五日に設置されました。まさにその日の朝、私は、一八五八年に聖ベルナデッタに十七回に渡って無原罪のおん宿りがお現れになった有名なグロトー(洞窟)の足元にひざまずく栄誉に浴していました。そして、聖母が私に世話するよう命じておられるこの巨大な領土を彼女に奉献し、委ねました。

 信じ難い任務……世界の人口の半分です。一人当たりの所得が豊かな国々(シンガボール、日本)から貧しい国々(インド、スリランカ)に至るまで、現在も八十二パーセントのカトリック信者を擁する国(フィリピン)からカトリック信仰がごくごくわずかしか存在していない国々(日本とタイにはそれぞれ0.4パーセントしかいません)に至るまで、人口のほぼ百パーセントがイスラム教徒の国々(インドネシア)、八〇パーセントがヒンズー教徒の別の国(インド)、大多数が仏教徒の他の国々(スリランカ、中国、韓国、日本)。この任務は、人間の能力を超えるものでしたし、今なおそうです。ですが、無原罪のおん宿り、インマクラータにとってはそうではありません。Monstra te esse Matrem! 幸いなるおん母よ、願わくは御身の母たるを我らに示し給え!

 アジア! アフリカとともに、宣教師たちの大地、とりわけ、百年以上に渡る宣教の歴史を紐解いて知る、殉教者たちの大地なるアジア。私は「聖母の乗客」そして伝達者として、運転席の聖母にお任せしていましたから、聖母のおん力、祈りのおん力、諸聖人の通功のおん力を証言できますし、至るところに示された恩寵をこの眼で見ました。その中でも最大の喜びは、霊魂のうちに働く天主の恩寵を勘定に入れなければなりません。私たちの管轄下にあるすべての国々で同じ聖性の実りを生みだす同じ聖霊のみわざです。「すべての国と、民族と民と、ことばとの、数えきれない、おびただしい大群衆が、玉座のみ前と子羊のみ前とに立っていた」(黙示録7:9)

 同じ質問を問いかけ、同じ聖伝の秘跡を熱望し、同じ説教と公教要理に感動する人々。私たちを自由にし、心を清める真理を聞くことで、いくつもの顔が生き生きと輝き、恩寵を受け取ったために喜びの涙が頬をつたりました。かつて中央ベトナムの辺鄙な片田舎でミサを捧げた後、人々は私が現実に存在するのかどうかを見ようと、私に触るためにやって来ました! 彼らは黒のスータンを来ている司祭を四十年間見たことがなかったのです。

 一九九六年にマニラに到着すると、新たに聖伝へと回心したサルバドール・L・ラゾ司教様がいらっしゃいました。私たちの三名の信者から渡された本を二年間読み続けた後、二十六年間に渡って新しいミサを唱え続けた誤りを悟る謙遜をお持ちであった、第二バチカン公会議以来の唯一の司教様です。司教様は現在、マニラにある私たちの勝利の聖母教会に埋葬されています。フィリピンでの最初の数年間に、神学校と男女の修道生活への召命(三十名以上)の素晴らしい実りがありました。彼らは現在、ニュージランドからイギリス、アルゼンチン、メキシコ、ジンバブエからヨーロッパに至る聖主のぶどう畑のさまざまな場所で働いています。インドでの私たちの最高の喜びの一つは、天主のご意志に全面的に明け渡した謙遜な霊魂のうちに働く、聖母の恩寵を証言することです。天主のみ摂理への信頼に満ちたこのような委託の結果は、今や私たちのインドの使徒職の真珠です。五名のシスターからなる共同体、児童養護施設、ゆうに百名は収容可能な老人施設があり、現在、四〇パーセントが埋まっています。

 一九九六年九月十一日、私はフィリピンの土を踏み、四名の司祭たちがいる小さな修道院を一つと、約五百名の信者たちを持つ巡回教会を作りました。二〇一四年八月十五日現在、九名の司祭たちを持つ三つの修道院があり、そこにはブラザーのための修練院と、五名の奉献女(オブレート)と召命を探し求める若い女性たちのためのベタニアの家と、小学校と中学校(二〇一四年六月で六十三名の生徒を持つ勝利の聖母学校)と、二十七の定期巡回教会に散らばっている二五〇〇名の信者達が付属しています。

 その後、スリランカにも二名の司祭と五十名の信者たちを持つ修道院を作りました。この修道院は、シンガポールで修道院が開かれたのち、二〇〇〇年に閉鎖されました。スリランカには今も、月に一回、シンガポールの司祭たちが訪問するチャベルがあり、約四十名の信者たちがいます。

 一九九六年にできた三つめの修道院はインドにあり、三名の司祭たちがおり、八つの巡回教会と約三百名の信者たちがいました。現在も三名の司祭たちがおりますが、ブラザーが一人とシスターたちの二つの共同体があり(慰め手なる修道女会と償いの修道女会、総勢十名のシスターたち)、三十五名の男の子の孤児たちと寄宿生たちがいる修道院、四十九名の女の子たちと十名の老女たちがいる児童養護施設と老人ホーム、学校が一つ(今のところ六十九名の生徒たちがいるヴェリタス・アカデミー)、そして約八二〇名の信者たちのための十七の巡回教会があります。

 一九九六年には、東京(二十五名の信者)と韓国(四十名)へ行き、同じく香港(十五名)、マレーシアのクアラルンプール(二十名)、そしてシンガポール(三十名)へも行きました。現在では、東京(四十名)、ソウル(五十名)、クアラルンプール(五十名)は少しずつ大きくなっており、修道院のあるシンガポールは一五〇名にまで数を増やしました。日本の大阪(二十五名)、韓国の全州(二十名)、ジャカルタ、インドネシア(十五名)、マレーシアのコタキナバル(三十五名)、ドバイ(八名)、そしてアラブ首長国連邦のアブダビ(二十五名)、最後に大事なことを言い忘れていました、中国(七十名)も加わっています。

 つい先日、中国へ三日間の旅行で、私たちの司祭は十五人の通常の告解を含む、七時間に及ぶ告解を聞く大いなる喜びを得ました。そのほとんどは通訳を通してでした! 謙遜とはまさにこのことです! ほとんどが若者であるこの霊魂たちが、この偉大な価値を持つ真珠を得るために払おうとしている代価がどれほどのものかを皆さんが見るなら、告解のこのような偉大な秘跡対して、ごくわずかな不愉快しか感じないでしょう。

 二〇〇五年から二〇一二までの七年間、ニュージランドとその近海の太平洋の宣教地(ニュー・カレドニア、バヌアツ、一時的にサモア)もまた、アジア管区の管轄下にあったことを忘れてはなりません。しかしながら、いくつかの国々では、さまざまな理由により、私たちが望んだように種が育つことはありませんでした。タイ、ベトナム、台湾です。天主のみが知る神秘です。

 また、ローマを通して、ローマ的信仰、ローマ的道徳、ローマ的典礼、言語、典礼暦と聖歌を通して、真実に普遍的な、霊魂たちを主イエズス・キリストへと結びつける、唯一のローマ・カトリック教会のための宣教師の職務の喜びをも、私は付け加えねばなりません。このすべての真ん中で、インカルチュレーション、エキュメニズム、司教団体主義を武器とする、まごうことなきローマ的伝統の破壊を押し進めている人々によって、私たちは離教者と呼ばれる皮肉に直面しています。

 例を挙げましょう。一九九八年、ローマで開かれたアジア・シノドの日本人司教たちは、教皇ヨハネ・パウロ二世に「私たちは東洋人だから、聖トマス・アクィナスの西洋哲学と神学を望まない」と公に言ったことを思い出します。また、数年後にタイの唯一の大神学校の校長神父が、神学生たちがタイ語以外の言語を知らないので、一九六〇年以前の聖トマスの著作物、トリエント公会議の公教要理や回勅に触れる術がないと私に言ったことも。私は彼に尋ねずにはいられませんでした。若者たちにとってカトリック教会は一九六〇年に始まったに過ぎないのだから、あなたは彼らをまことの離教的精神のうちに育てているのだとわかっているのですか、と。答えはありませんでした。

 A Domina factum est istud! これをなされたのは聖母です! 「これは聖母のみ業で、われらの目には不思議なことである」(詩編117:23参照) Fecit mihi magna qui potens est 「全能のお方が私に偉大なことをなさいました」(ルカ1:49)この数年間の間に、私たちは実際に sicut sagittae in manu potentis──「つわものの手にある矢のような」あちらこちらに飛び回る諸天使の元后を感じていました。

 涙のうちに種を蒔き、いつの日か喜びのうちに刈り取るでしょう。なすべきことは今なおたくさんあり、「おぼしめしのままにおのおのに分け与えられる」(コリント1 12:10)善き主は、この広大な東洋の国々に「赤々と火を燃え上がらせる」ために、間違いなくふさわしい人物を私の後継者としてお選びになりました。ドイツ人のカール・シュテーリン神父様です。神父様は二十年間ポーランドと東欧諸国におられました。神父様は十四名の司祭、七名のブラザー、十五名のシスター、力強い「レジオ・マリエ」と多くのカテキスタたち(フィリピン南部のミンダナオのみに六十九名)からなる素晴らしいチームの支援を受けるでしょう。ですが、とりわけ、シュテーリン神父様もご存知なことは、無原罪のおん宿り、インマクラータは戦闘隊形における一軍団のようなお方であり、地獄の全勢力を合わせたよりも力強いお方であり、イエズスの聖心の勝利以外のものをお求めにならない、ご自分のけがれなき御心の凱旋をもたらすため、あらゆる手段をお使いになることに熱心なお方だということです。「目をあげて国々を見よ、もう刈り入れを控えて白んで来ている」(ヨハネ4:35)

 刈り入れは多けれども働く者は少ないがゆえに、皆さんすべての祈りと支援によって神父様を支え続けて下さい。同時に、我が親愛なるカナダ、新たな使徒職の畑における私を、どうぞ忘れないで下さいと懇願します。

 そうです、私とともにマグニフィカトを唱えて下さい。そして主のみ名をともにあがめましょう。聖母はまことに私たちの母であることを示して下さいました!

 「それは、イエズス・キリストによってすべてについて神に光栄を帰するためである。光栄と力とは世々にかれの上にあれ。アメン」(ペトロ1 4:11)
 
 天主が祝福し給わんことを!

 管区長 ダニエル・クチュール神父

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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聖ピオ十世会のシスター会の修道院での誓願式のミサ(2012年10月7日)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のドイツ管区にある、聖ピオ十世会のシスター会の修道院で2012年10月7日に行われた誓願式のミサをご紹介します。





Youtube チャンネルPIUSFILMの動画より

Schwestern der Bruderschaft St. Pius X.
Noviziat St. Pius X.
Biberacher Str. 2/1
88527 Göffingen
Tel: 07371 - 13736

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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キリストの教会は使徒継承的である

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 この項は、これから洗礼を受けようとされている方のために書いています。

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒継承的で、聖であるという、ことです。

【ポイント】キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

 それでは、キリストによって創設された教会が、使徒継承的であるということを見てみましょう。

キリストの教会は使徒継承的である

キリストの教会が使徒継承的であるという意味は、いつの時代でも、キリストの教会の統治者たちが、キリストによって使徒たちに与えられたそのおなじ権威を受け継いでいなければならないという意味です。

キリストは、自分の名において話す権能を使徒たちに与えている。「あなたたちに平安!父が私をお送りになったように、私もあなたたちをおくる」と。

また、「あなたたちのいうことを聞く人は私のいうことを聞く人であり、あなたたちをこばむ人は、私をこばむ人である。そして、私をこばむ人は、私をお送りになったお方をこばむのである」と。

キリストは、世界に終末がくるまでは、必要なご自分の聖なる事業を使徒たちに委託して、彼らをつかわしたのです。使徒たち自身はみな死んでいきましたが、キリストの決定的なことばから考えると、彼ら使徒たちは、なんらかのかたちで、世のおわりまで生きていかなければならないことになる。

彼らは、天主の教導によって、自分たちがえらんで任命した、後継者による以外には、この世にとどまることができなかった。

従って、彼らの後継者たちに、その権がわたされ、代々の教会の司牧統治者たちが、《私たちの権は、キリスト自身から受けついだ、生きた権であり、私たちの権は使徒たちからの権です。なぜなら、私たちは合法的な継承によって、使徒と同一人物である》と言うことができるように、使徒たちはあらかじめこの問題を解決しておかなければならなかったのです。

キリストのことばによれば、使徒たちが、天主の意志によって人類に遣わされた、最後の特使になったことは明瞭です。キリストが、使徒たちと、使徒たちの後継者たちに与えた権は、ほかのだれにも与えられていません。

使徒たちの派遣は、最後の、そして、いつまでもつづく派遣でした。使徒たちが、彼らの任務をはたすために、ほかの人たちを補助者にえらんだということは、新約聖書を見れば、あきらかに記されています。

そのうえ、後世のために、彼らの後継者をたてる、たしかな規定をあらかじめ用意したということも、おおくの権威ある記録によって、立証されています。
たとえば、およそ一〇〇年頃に死んだ聖クレメンスは、《キリストは、天主からつかわされ、使徒たちはキリストによってつかわされた。彼らは司教と助祭とを任命した。・・・そして、彼ら(司教、助祭)が死ぬと、しつかりした、他の有徳の人びとが、彼らの聖務につく規定をつくった》と言っています。
I Clem, xlii, xliv I Clem, xlii, xliv


聖イレネウスは、第二世紀の後半、《司教と彼らの後継者たちは、今日においても、使徒たちによって任命された人びとである》と書きのこしています。
Adv. Haer. Liber III, cap. iii
It is within the power of all, therefore, in every Church, who may wish to see the truth, to contemplate clearly the tradition of the apostles manifested throughout the whole world; and we are in a position to reckon up those who were by the apostles instituted bishops in the Churches, and [to demonstrate] the succession of these men to our own times;

だからといって、キリストはご自分の教会をおさめる司牧統治権を使徒たちに与えることによって、彼らをひとりひとり相互に独立させたというのではありません。キリストは、聖ペトロをかしらにたてて、一つの使徒団をつくりました。

(1) キリストは、この団体をささえる岩に、聖ペトロを任命し、聖ペトロのうえに教会を建てました。したがって、他の使徒たちは、聖ペトロから、彼らの権力の力をもらったわけです。彼らは、聖ペトロにしたがっていたからこそ、教会の使徒たちであったのです。

(2) キリストは、天の王国の鍵を聖ペトロに与えました。これは要するに、聖ペトロが、天の王国の門をまもる主人で、他の使徒たちも、聖ペトロにうけいれられなければ、天の王国にはいることができないことを意味するものです。

(3) キリストは「善き牧者」というかれの任務を、聖ペトロにゆずりました。キリストは、「私の小羊を牧せ」「私の羊を牧せ」と聖ペトロに命じ、この命令によって、キリストがただひとりの牧者であったように、聖ペトロが、キリストの地位にたつ、ただひとりの牧者になります。聖ペトロは、かれの兄弟たちである、他の使徒たちをもふくめた、すべての人びとにおよぶ権力をもつ、最高牧者にたてられたのです。したがって、すべての人は、例外なく、聖ペトロのいうことをきき、かれにしたがわなければならなかったのです。従って、聖ペトロとかれの後継者とにたいする恭順が、キリストによってたてられた教会の明瞭な特徴になります。

以上が、シーアン司教による『護教』の説明による、キリストの教会が持つ「使徒継承性」です。ここでは、特に、キリストから使徒ら(特に使徒のかしらである聖ペトロ)に与えられた権威に注目が与えられています。


最近似通った別の本も見つけました。それは『私たちの信仰の証拠 Evidence for Our Faith』(by Joseph H. Cavanaugh, C.S.C., 1959, University of Notre Dame Press)です。ここでは、更に、教えと秘蹟(聖化の手段)についての使徒継承性にも言及しています。


 次回には、キリストが建てた教会が、聖なるものであることを見てみます。
 その後に、キリストが創立した教会の特徴を持っている教会が、今現在どこにあるかを、考察しましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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キリストの教会は聖である

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アヴェ・マリア・インマクラータ!


「私たちは、主イエズス・キリストの力と来臨とを知らせたとき、巧みな作話をしなかった。私たちはそのみいつの目撃者であったからである。おごそかな光栄の中から「これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする」と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた。こうして私たちは預言のことばに深く信頼をおいた。夜明けがはじまり、あけの明星があなたたちの心にのぼるまで、暗闇にかがやくともし火として、預言のことばにたえずより頼むのは、よいことである。」(ペトロの後の手紙)


愛する兄弟姉妹の皆様、

 キリストは、人間の社会組織として教会を創立しました。イエズス・キリストが創立した教会は、四つの特性をもっています。それは、唯一で、普遍的で、使徒継承的で、聖であるという、ことです。

【ポイント】キリストによって創設された教会は、唯一、公、使徒的で、聖なる教会

 それでは、キリストによって創設された教会が、聖であるということを見てみましょう。

キリストの教会は聖である

●キリストが建てた教会は、教会の創設者において聖である
その意味は「天主ご自身が教会の創設者であるから、教会の機構と仕事との主宰者が天主であり、したがって、教会における司牧の機構も、教えも、典礼も、また、目的も聖である」ということです。


●キリストが建てた教会は、教えにおいても聖である
信仰のない人でも、キリストが教える道徳的なおきてが、すぐれて高いことを、みな認めている。しかし、キリストは、単なる自然法にもとづく倫理道徳の水準をはるかにこえた、ご託身の奥義によって、かがやく、うるおいのある教義をおしえました。キリストは天主を知らない人たちでも実行できる、真実とか正直とかいうような、一般的な道徳で満足したのではなく、キリストは、ご自分に従う人びとに、もっと高い霊的な生活を要求したのです。

キリストは、彼らに、英雄的な徳の理想に到達する努力をすすめています。おさない子供たちの信頼に見られるような、天主にたいするあたたかい従順が、兄弟愛にあらわされ、柔和とか、謙遜、そのほか、色々なかたちであらわされることを要求している。たとえば、自発的な清貧、迫害をよろこんでうける精神、信仰を証明するためには死をもよろこんで受けるほどの犠牲心、あるいは、また、苦しんでいる人や、他人の救霊のために、命をすてることまでも実行せよ、という。以上のような、その他のすべての理想をまとめて、キリストは、「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになれ」と言っています。

キリストは、これら人間聖化の教えを、その他の教えとともに、教会に委託して、「私があなたたちに命じたことを、すべて守るように教えよ」と命じたのでした。
使徒聖ヨハネは、こう書いています。「私たちは天主の子である。」「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは天主に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。」(ヨハネ一3:2)


●キリストによって創設された教会は、教会のメンバーにおいても聖である
キリストは、自分の教会の信者が「貧富、上下の別なく、最小限の意味においてさえ、すべてのメンバーが聖人だ」などとは、一度も言ったことはありません。
人間はだれでも、天主から与えられた自由意志を乱用することによって、善にかえて、悪を選ぶことができるからです。天主ご自身と親密な交際をつづけて生活していた筈の使徒たちのなかにさえ、ひとりのうらぎり者(ユダ・イスカリオト)がいたということを、私たちはよく承知しています。私たちはまたキリストが、かれの王国(教会)を、よい魚もよくない魚もいっしょにあつめる網にたとえていることや、あるいは、毒麦もともにそだっていく麦畑にたとえていることも知っています。

しかしながら、キリストの教会は、キリストの天主からの援助をうけているのですから、全体として見る場合、いつの時代にも、聖性においてきわだっていなくてはならないのは当然です。キリストの教会は、いかなることがあっても、その存在目的について、全体として失敗することがあろうはずがないからです。そしてまた、高い理想実現のために、たくさんの例証を示していかなければならないからです。

従って、教会は、教会の子らのうちに各時代にわたって、英雄的な徳をあらわしていかなければならないのです。キリストの教会は、《よい木》で、《よい実を結ぶ》べきなのです。教会は、善徳の実をむすばせなければならない。なぜなら、教会の創設者であって、天主ご自身であるキリストが、いつも教会といっしょにいるからです。

教会の聖性は、奇跡によって証明される
キリストは、奇跡をもって、教会の聖性を証明することをやめるはずがありません。なぜなら、「信ずる人には、私の名によって、悪魔をおいだし、あたらしい言葉を話し、蛇を握り、毒を飲んでも害をうけず、病人に手をおいて癒すなどのしるしを見せるだろう」と。また、「私を信ずる人は、私のするようなことをおこなうであろう。そればかりか、もっと偉大なことをおこなうだろう」といっているからです。


キリストの教会は不可謬である
キリストが創立した教会の特徴を持っている教会が、今現在どこにあるかを、考察する前に、キリストの教会が持っているはずの別の特徴「不可謬性」について触れておきましょう。

キリストによって創設された教会が不謬であるというのは、キリストが教会に委託した信仰と真理とについて、教会がこれを教える場合にも、説明する場合にも、決してまちがいを犯すことができないという意味です。

間接的な証明
(1)もしも、キリストの教会が、教会の教えに関する信仰を強要していながら、まちがうことがありうるということを認めるとすれば、つぎのようなことが実現することになります。
(a)天主は、永遠の苦罰を用意してまで、まちがいを信じさせるために、人びとを束縛しているということになるから。なぜなら、「信じない人は、亡ぼされる」のだからです。
(b)そのうえ、ある教えが、天主の教えであるか、どうかについて、なんら確信がえられないことになるから。

(2)もしも、地上に、不謬の教権をもっている機構が存在しないとすれば、教師としてのキリストの聖務は、キリストがこの世を去った時に終りをつげたことになるだろう。さて、これが、どういう結果になるかを考えてみよう。旧約時代というはかり知れない長い間、天主はご自分のおん子をつかわすために、天啓につぐ天啓という特別な恵みをくだし、くわしい祭式の体系を制定して、人びとの心を準備した。時みちて、救い主がきた。ところが、かれは、三年たらずのあいだ、不謬の権をもって教えたにすぎない。世界のちょっとした片隅の、しかも、一握りほどの人びとに教えただけです。常識からいっても、このような不合理な前後の比率を認めるわけにはいかない。天主が、キリストの時代に、ユダヤ人たちに与えたことを、世界の終末にいたるまで、すべての人びとに与えるということを、私たちが、期待することは、当然なことです。私たちが、今日もなお、天主のおん子の不謬の声を聞くことができるために、私たちのうちに、天主が不謬の権を用意したということは、けだし当然の主張と思われる。

直接の証明
不朽性による証明
キリストの教会はけっしてなくなりません。教会はいつも、天主の権をもって、人びとを教えます。なぜなら、キリストは、常に教会とともにいると約束しているからです。したがって、教会は、教会の教えについて、誤ることができません。

信仰の唯一性による証明
キリストの教会は、いつの時代にも天主の与えた同一の真理体系をおしえ、これを信じていかなければなりません。教会は信仰の唯一性をもっているのであるから、当然、この唯一性をたもち、まもっていく方法手段をもっていなくてはならないわけです。
歴史が証明するように、また、聖パウロ自身の手記によってもわかるように、キリスト教のもっともあきらかな教えまでが、人間の気まぐれと、あるいは、よからぬ傾向とのゆえに、いつもまちがった解釈の危険にさらされてきました。したがって、キリストの教会は、常に誤謬におちいる危険にさらされているのです。誤謬は一致にとって、致命的なものです。それで、ある教義が啓示された教えであるか、またはそうでないかを宣言し、教会の決定をすてるすべての人に、破門宣告を与えて、教会のふところからおいだすことができる不謬の権を、キリストはかれの教会に賦与しておかなければならなかったのです。
キリストによって創設された教会は、不朽であるから、今日もなお、賦与された一切の権力をもって、地上に存在しなければならなりません。この教会は、見える、唯一の、全世界におよぶ、聖なる、使徒的な、そして不謬の教会です。

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シュテーリン神父様のための霊的花束(中間報告です)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

「私はまもなく、それぞれのおこないにしたがって払う報いをもってくる。私はアルファとオメガであり、最初のものと最後のものであり、はじめとおわりである。自分の服をあらう者は幸いである。かれらは命の木について権利をもち、門をとおって町にはいる権利をもつであろう。犬、魔術をつかう者、淫行者、殺害者、偶像礼拝者、いつわりを好んでおこなう者は、みな外にいる。私イエズスは、諸教会のために以上のことをあなたたちに宣言させようとして、私の使いをおくった。私はダヴィドの子孫、そのひこばえ、暁のかがやく星である。霊と花よめとは「おいでください」という。聞く者も「おいでください」というように。渇く者は近づき、のぞむ者は命の水を無償でうけるように。」(黙示録22章)


愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様のための霊的花束の中間報告を申し上げます。

ミサでの聖体拝領 4
御聖体拝領     4
霊的御聖体拝領    328
十字架の道行     26
聖なるロザリオ    502
小さき犠牲    137
その他 聖ヨゼフの連祷など 95

 愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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天主様に感謝!2014年8月31日聖霊降臨後第12主日のミサ聖祭の報告です

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アヴェ・マリア・インマクラータ!


「従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだしたかのキリストである。」(聖伝による EXSULTET「復活の賛歌」より


愛する兄弟姉妹の皆様、

 8月31日には、レネー神父様が大阪で主日のミサを捧げてくださいました!天主様に感謝!信仰と愛徳の燃える火のようなレネー神父様に感謝します。
次のようなご報告を戴きました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
御ミサの報告をさせていただきます。
大阪では
8月31日(主日)には21人の方々が「聖霊降臨後第12主日」の御ミサに、
9月1日 (月) には11人の方々が「聖ピオ十世(9月3日)」の随意ミサに与るお恵みを頂きました。

デオグラチアス!

主日の御ミサの後、病気の激しい痛みに耐えながらも御ミサに来られた信徒の方に、レネー神父様が病者の祝福を与えて下さいました。Sさんの病気の回復をお祈りいたします。

また、歌ミサの歌い方について指導をして下さいました。
普通のクラシック音楽の譜面を読むように音の長さを均一にとるのではなく、詩篇(言葉)に合わせて話すように進めていくと良いこと、アクセントの位置などを教えて頂きました。

この日の歌ミサは馴染みの無いメロディーで、聖歌隊は音を探り探り歌っていたのでいつもにも増してテンポがダラダラとしてしまっていました。
今後、もっと詩篇の一言一言を理解して、祈るように歌うことが出来るようもっと練習したいと思います。

御ミサの後はいつものようにレネー神父様と夕食を頂きました。ボローニャの聖カタリナについての大変興味深いお話を伺いながら、とても楽しいひと時を過ごすことが出来て幸福でした。

いつも多くの犠牲を払って日本の為に、霊魂の救霊の為に来日してくださるレネー神父様に心から感謝申し上げます。


8月31日(主日)のお説教は聖ピオ十世教皇様についてでした。以下のとおりです。


======大阪の説教 8月31日======

先週の8月20日、聖ピオ十世の帰天百周年をお祝いしました。ですから、聖ピオ十世の生涯を黙想するよい機会です。その生涯は、困難に直面している私たちの時代に非常に適した教訓に満ちているからです。


聖ピオ十世は、貧困のうちに生まれ、貧困のうちに生き、貧困のうちに亡くなりました。洗礼名はヨゼフで、イタリア語ではジュゼッペ・サルトと呼ばれました。父親は、小さな村の郵便局員でした。大変収入の少ない仕事でした。学校へ通うとき、若きジョゼッペ・サルトは靴が早く傷むことがないように靴を脱いで道を歩きました。両親が新しい靴を買う余裕がないのを知っていたからです。司祭だったとき、いつも貧しい人々に対して物惜しみしない人でした。司教になったときも同じで、ある貧しい家族に与える物をユダヤ人から借りるのに、保証として司教指輪を出すことまでしました。サルト司教を大変尊敬していたこのユダヤ人は、司教の寛大さに心を打たれ、翌日、指輪を贈り物として自分の手で 司教に返し、負債を免除しました。その後、教皇になってさえも、自分の部屋はまさに質素そのものでした。さらには、自分を墓に埋葬するときは、清貧の精神から、教皇には普通なされる防腐処理を一切しないよう指示を出しました。

しかし、聖ピオ十世は司祭として祭壇にいるときは、司祭にふさわしい祭服を身に着け、司教、枢機卿、そして教皇であったときはいつも、自分が受けた聖務の尊厳にふさわしい振る舞い、自分が代表しているキリストにふさわしい振る舞いをしていました。これは、私たちの時代に照らせば非常に重要なことです。現教皇と比べると大きな違いがあります。現教皇は貧しい人々に関心を寄せているように見えますが、約束をキャンセルすることでお金を浪費し、自分の地位に当然である典礼のための正当な装飾品や礼儀を嫌っているのです。

聖ピオ十世の困窮する人々に対する配慮が特に明らかになったのは、南イタリアに地震があったときでした。国の官僚機構を通さずに、必要な援助を与えるよう命じたのです。この迅速な援助は大変効率的でした。しかし、貧しい人々に効率的に支援する一方で、聖ピオ十世は自分のなすべき任務がもっと高いレベルにあることを知っていました。貧しい人々が、物質的食べ物よりさらに高いレベルの食べ物をも必要としていることも知っていました。それは霊魂の食べ物です。ですから、聖ピオ十世は、教皇になったごく初期のころ、驚くべき目標を明らかにしました。キリストにおいてすべてを復興させることです。人々は、地上の物事以上に、私たちの主イエズス・キリストを必要としています。社会活動は 良いことです。しかし、それは教会の第一の目的ではありませんし、主要な目的でもありません。永遠の救いが教会の目的であり、教会の主要な良き務めなのです。実際、私たちの主イエズス・キリストは、「民を罪から救うために」(マテオ1章21節)来られたのです。教会の第一の目標として、社会活動を挙げたように見える今日の教皇ともう一度比べてみれば、大きな違いがあります。

就任して最初の回勅で、聖ピオ十世はキリストにおいてすべてを復興させるという目標を置きましたが、次の回勅は典礼に関するものでした。私たちの生活において、天主は第一の場所を占めるのにふさわしい方です。聖ピオ十世は、その教皇在位中、天主に第一の場所を与えました。天主への礼拝が天主にふさわしくあることを求め、天主への礼拝が人々を上げて天主の方へ向けさせることを求めました。人々が美しい典礼、特にグレゴリオ聖歌で祈ることを求めました。のちの1912年、聖ピオ十世は聖務日課祈祷書(Breviary)に大変重要な改訂を施し、150の詩編を毎週唱えることを復興させるため、典礼法規(rubrics)を修正しました。実際、これは聖職者の古い習慣であったもので、聖務日課の中心であり、修道士、修道女、司祭、そして敬虔な信者たちによって唱えられているのです。現在は第二ヴァチカン公会議によって形をとどめておらず、150の詩編を唱えるのは一カ月に一回と減らされました。そのうえ、完全な形ではなく、詩編のいくつかの節が取り去られてしまっているのです。つまり、(詩編の本当の作者である)聖霊が弾劾(非難)されているのです。

聖ピオ十世のもう一つの大変重要な業績は、頻繁な聖体拝領を復興させたことです。二世紀以上にわたり、ジャンセニズム(ヤンセン主義)が、頻繁にご聖体を受けることから人々を遠ざけていました。これは修道会においてさえも同じでした。聖ピオ十世は、正しい心構えがある限り、頻繁に聖体拝領することに励ましを与え(1905年)、幼い子どもたちの聖体拝領にさえも励ましを与えました(1910年)。聖ピオ十世は、ご聖体を熱意をもって頻繁に受けることであふれ出る数えきれないほどの聖寵があるという強い信仰を持っていました。私たちの主イエズス・キリストが聖体拝領で霊魂に来られるとき、主は霊魂を聖寵で満たし、天主に対する知識、愛、忠実において成長することをまことに助け てくださいます。しかし今日、反対の習慣があります。多くの人々が頻繁にご聖体を受けますが、正しい心構えはなく、特に成聖の恩寵の状態ではありません。つまり、やましく思うような大罪を持ったままなのです。多くの人々が毎回のミサでご聖体を受けますが、告解することはほとんどありません。毎回の聖体拝領の前に必ず告解する必要はないとはいえ、成聖の恩寵の状態であることが必要ですから、頻繁に告解することは非常に有益です。(最低、年に一回の告解が必要ですが、少なくとも毎月一回告解することが強く勧められています。)さて、大罪の状態で聖体拝領することは本当に悪いことであり、汚聖なのです。聖パウロは言います。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身へのさばき [=断罪]を飲食することである」(コリント前11章29節)。この節は、聖伝のミサにおいては、ご聖体の祝日のミサではいつでも読み上げられます。しかし今日では、新ミサにおいては決して読み上げられることはありません。これは、近代主義者たちによって「弾劾(非難)された」聖書の節のうちの一つです。

その後、聖ピオ十世は、ペトロの後継者の本質的な義務の一つに取り組みました。信仰の擁護者となること、「ペトロの信仰」を守ることです。実際、首位権はペトロに与えられました。それは、ペトロが「あなたはキリスト、生ける天主の子です」(マテオ16章16節)と告白した直後でした。主はペトロに答えて言われました。「あなたはペトロである。この岩の上に私の教会を建てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。私はあなたに天の国のかぎを与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」(マテオ16で章19―20節)。また、最後の晩餐の後、私たちの主イエズス・キリストはペトロに言われました。「私はあなたのために信仰がなくならぬよう にと祈った。あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)。

聖ピオ十世は、新手の思想、近代主義者の思想を前から知っていました。ペトロの座に着いたとき、最初に、こういう思想を広めてきたロワジー、タイレルといった言うことを聞かない司祭たちを正そうとしました。しかし、彼らの根気強さと強情さを見て、聖ピオ十世は教皇としての最高の権威を使って、近代主義を荘厳に断罪しました。そうすることで、そういう信仰のない司祭たちの博学さ(ロワジーは学者である司祭でした)に影響されやすい素朴な霊魂の持ち主たちの信仰を守ろうとしたのです。そんな素朴な霊魂の持ち主たちの多くは自分で正しい方向に戻りましたが、中には「潜伏して」、聖ピオ十世の死去から20年後に再び自分たちの思想を広め始めた者たちがいました。最初は隠された方法で 、秘密裏に神学校において行い、その後はどんどん広めていったのです。教皇ピオ十二世は大変鋭い方でしたから、これら新近代主義者たちと戦うため聖ピオ十世を列聖しました。しかしピオ十二世の死後、新近代主義者たちは第二ヴァチカン公会議において「一押し」し、今日ではあらゆるところに彼らの誤謬を広めてきています。時には教皇自身によってさえ、誤謬が促進されてきました。私たちは、聖ピオ十世の教えに注意を払う必要があります。全時代の不変の信仰を保持する必要があります。

実際、信仰は霊的生活全般の土台です。近代主義者たちがこれまで行い、今も行っているように、信仰を弱めてしまうと、霊的生活にたちどころに(悪い)結果が出ます。霊的生活もまた弱められ、多くの人々が罪の生活に導かれるのです。多くの人々が自分はカトリック信者だと言いながら、避妊やほかの不道徳なことを実践しているのが今日の状況ですが、これは今述べたことを非常に明確にしています。全時代の信仰、聖人たちの信仰を完全に告白することに立ち返ることが必要です。これは特に、全時代の典礼、聖人たちの典礼に立ち返ることです。そうするならば、聖人たちの道徳が再び栄えることでしょう。この三つは分離できないものです。聖人たちの信仰、聖人たちの典礼、聖人たちの道徳です。

聖ピオ十世は、キリストにおいてすべてを復興させるために活動する最上の方法は、聖なる聖職者たちを通してなされることだと知っていました。ですから、叙階50周年に、聖職者の聖化に関する美しい回勅「エレント・アニモ」を書きました。司教のときすでに、主な関心は自分の神学校に向いていました。教皇のときは、ローマ神学校とカトリック大学、そしてローマのすべての聖職者に気を配りました。ローマの聖職者の中に見られた問題行動を正し、自分のローマ教区をモデル教区としました。

教会法制定の準備をしたという偉大なる業績について触れないとしたら、聖ピオ十世に対して正当な扱いをしたとはいえないでしょう。聖ピオ十世は、本当の意味で指導者でした。信仰の光に照らされて、効率的な方法ですべてを組織化しました。1917年に後継者によって公布されたこの教会法は、主に聖ピオ十世の在位の間に準備され、聖人たちの知恵が豊富にありました。各章の原則はすべて、聖伝に従って美しく表現されました。

聖ピオ十世は、対処すべきすべての問題を抱えている真っただ中において、祈りの人であり続けました。私たちもまた祈る必要があります。教会のため、国家のため、家族のため、自分自身のために祈る必要があります。人間を尊重するのでなく、信仰を保ち信仰を告白するために祈る必要があります。多くの霊魂が信仰に心を向けるよう祈る必要があります。そして、これらすべての祈りを、童貞聖マリアの汚れなき御手によって天主なる御子に捧げなければなりません。「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え」。聖ピオ十世は、無原罪の御宿りの教義制定から50周年のために、美しい回勅を書きました。

聖ピオ十世が教会を守り、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世の特別な保護の下に置いた聖ピオ十世会を特に守ってくださいますように。そうして、聖ピオ十世が私たちの模範となり、天において私たちのために力強い仲介者となってくださいますように。聖ピオ十世が、司祭のためだけでなく修道生活のための多くの召命を獲得してくださいますように。聖ピオ十世が、マラキの予言において「ignis ardens=燃えさかる火」と呼ばれたのにふさわしいその燃えさかる愛徳、その愛徳に私たちが満たされて、信仰の人、祈りの人になるよう助けてくださいますように。

アーメン。





聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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新管区長カール・シュテーリン神父より 信徒の皆様への手紙2014年9月3日

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、聖伝の典礼暦による聖ピオ十世の祝日です。

 今日の聖ピオ十世の祝日付けでシュテーリン神父様から信徒の皆様へのお手紙がありますのでご紹介いたします。

 聖母の汚れなき御心、我らのために祈り給え!
 聖ピオ十世、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



新管区長カール・シュテーリン神父より
アジアのすべての聖伝カトリック信者、
及び聖ピオ十世会アジア管区の使徒職の恩人の皆さんへの手紙




二〇一四年九月


 親愛なる友人、親愛なる信者の皆さん!

 天主のみ摂理は、私の長上方の言葉を通して、無原罪のおん宿り、インマクラータの不肖の道具として、皆さんの霊魂に仕えるため、アジアの広大な領土に私を遣わすことをお定めになりました!

 聖マキシミリアノ・コルベが、日本に無原罪聖母の町を作るためアジアにやって来た時、彼の心は悲しみと熱烈な望みに満たされていました。なぜなら、この最も広大な大陸の大多数の人々は、天国の愛すべきおん父のみ名を、天国に永遠の命を得ることを望んでおられる造り主のみ名を、天主のおん子ご自身が私たちを永遠の滅びから救うためにやって来られたということを、この目的のために、おん子が私たちの無数の罪をご自身の血で洗い流そうと十字架上に自らをお捧げになったということを、すべての人々は地上のもっとも優れた母親が自分のひとり子を愛するよりも、もっと私たちを愛してくださる一人の母を天国に持っているということを、そしてこの事実を知らず受け入れないならば、人間は永遠の幸福に入れないということを、知らずにいたからです。


 従って、聖フランシスコ・ザベリオ以来のすべての宣教師たちに一致して、聖コルベには一つの熱烈な望み、一つの決意がありました。すなわち、唯一の真理、唯一の道、唯一の命なるイエズス・キリスト、天主にして人間、聖三位一体の第二のペルソナ、おん父のおん子にしておん母マリアのおん子を人々にもたらすために、自分たちの時間、才能、精神力、肉体と霊魂、全生命を与えることです。かつて、どれほど多くの人々が、宣教師たちを通してやって来た永遠の真理を心の底から歓迎したことか! どれほど多くの人々が、この真理を擁護し手放さないために、みずからの命を捧げたことか──数えきれないほどの殉教者たちの栄光は、最初は日本、それから韓国、インドシナ、中国などにおいてでした! どれほど多くの人々がカトリック信仰を掲げるため、偽りの宗教の破壊から祖国を救うため、信じ難い犠牲を捧げてきたことか! そうです、私たちのカトリック信仰の先祖(みおや)たちは、聖パウロのモットー、のちに私たちの保護者なる教皇聖ピオ十世が採ったモットーを理解していました。OMNIA INSTAURARE IN CHRISTO──主イエズス・キリストにおいて、万事を新たにし、回復し、修復する。すべての殉教者たちは、マリアを通してのみ回心と聖化の恩寵をいただいたため、聖母の重要性と偉大さをも理解していました。

 次のことを理解するのは信じ難いことですが、十六世紀以降、全アジア諸国のすべての宣教師たちのこの宣教の熱意は、突如として沈黙させられ、数百万の霊魂たちの損失となりました。事実、教会が現在までに経験してきた最悪の霊的荒廃を、現在も、何年にも渡ってくぐり抜けてきています。七十年に渡ってアジアは、いわゆる「インカルチュレーション」の破壊的実行を経験してきました。そして教会の指導者たちは五十年に渡って、キリストの最悪の敵からの、そして信教の自由やエキュメニズムといった、教会に何度も排斥されたイデオロギーを採択し続けています。これほど多くの殉教者たちの血、そしてこれほど多くの司教、司祭、信者たちの汗は、現代では不毛で役立たずになってしまうのでしょうか? 無知の暗闇と罪に染まった中に生きるこの多くの霊魂たちを、聖主はお見捨てになるのでしょうか?


 これほど多くの証聖者たち、そして殉教者たちの功徳が決して無益にはならないだろうことを聖主と聖母に感謝することは、私たちにとって特に不可欠なことであります。彼らがいかに働き続けてくださっているかを、私たちは天国においてのみ理解するでしょうが、確実に理解できることは、キリストの真理の光は、少しずつ闇を深くしていく世紀を越えて、アジアを照らし続けるのです。あちらこちらで、多くの司祭たちが「永遠のミサ」、完全な信仰を表現し、聖主の犠牲を一切の曖昧さなく完成させている尊ぶべきローマ典礼を捧げることへと戻ってきています。彼らは「生け贄というカトリック教義を覆い隠し」(オッタヴィアーニ枢機卿)、前述した破壊的イデオロギーを押し進め、典礼を多かれ少なかれ「人間の礼拝」(マイケル・デイヴィス)にさせてしまった新しい典礼の陳腐さ、不毛さ、そして事実上の損傷を理解するようになったがために戻ってきました。

 あちらこちらで、家庭の父親たち、母親たちが、この危険に満ちた時代に、カトリック信者としての、聖主の兵士、そして聖母の騎士の自覚を持たせるため、子どもたちを教育するべき教会の聖伝の規律の真価を認めるために戻ってきています。あちらこちらで、若者たちが物質至上主義の偽予言者たち、地上の楽園の不潔と妄想にうんざりしています。人間の知性は永久的矛盾と相対主義の中に生き続けることはできません。ですから彼らは真理を探し求めます。現実についての論理的説明と、人間の心が自然と熱望するまことの幸福を探し求めるのです。


 聖ピオ十世会の全事業は、救われる可能性のある霊魂たちに奉仕し続け、奉仕し、これからも奉仕するということです。この霊魂たちへの奉仕は、私たちが受け取ったものを他の人々に手渡すこと(tradidi quod et accepi!)で成り立っています。すなわち、非常に古くからの、そして常に色褪せない、永遠に変わることのない、いかなる変更も、縮小も欠陥もない、心を引きつけるカトリック信仰。そして聖主のこの遺産、一にして聖なる普遍の使徒伝承の教会に与えられたこの遺産を、私たちは救霊のすべての敵、とりわけ、恐るべきガンの腫瘍のような、聖にして母なる教会を内部から攻撃し、傷つけ、破壊しようとする人々に対抗して、防御し擁護しなければなりません。

 ルフェーブル大司教様は、カトリック聖伝の宝のためにほぼお一人で戦い、現代の聖会のために偉大な奉仕をなさいました。大司教様の霊的息子である私たちは「キリストにおいて万事を回復する」という彼の事業を続行することを望みます。そして、私たちは無数の障害と悪意には太刀打ちできませんので、不変のカトリック信仰と生命をアジアにもう一度もたらすための勝算は、ただ一つしかありません。この勝算とはインマクラータです。

OMNIA INSTAURARE IN CHRISTO PER IMMACULATAM. マリアを通して、キリストにおいて、万事を回復させる。

 私たちの聖なる創立者によれば、私たちの第一の関心事は司祭職への召命、兄弟なる司祭たちと修道生活へと奉献された霊魂たちの召命です。天主のご意志を探し求める人々に対し、私たちはあえて彼らの心のドアを叩き、二千年からなるカトリック教義、すべての聖人たちと二六〇人の教皇たちの霊性を見つけ出すよう強く招きます。彼らすべてを救霊のために働くよう、異端、罪、悪魔に対して戦い、至高の大司祭なる聖主ご自身に完全に倣いつつ、まことの司祭職や修道生活を通して聖にして母なる教会に仕えるよう、励ましたいと思います。従って、聖母が私たちをもう一人のキリスト(alter Christus)、あるいは主のはしためとしてくださるために母としての権利と力を用いてくださるよう、私たちは彼らを聖職者とすべての奉献された霊魂たちのおん母に捧げます。

 さらに、私たちはアジアのすべての善意の人々に、永遠の真理と生命の素晴らしさをお伝えしたいと思います。聖マキシミリアノ・コルベは、この世界の最も離れた場所にいる霊魂にさえも届けるための、もっとも現代的な連絡手段を使うよう勧めています。願わくは、寛大な霊魂たちの心を、そしてアジアのすべての国々に、アジアのすべての言語で、変わることのないカトリック教義のメッセージを送るための手段を見つけ出すことを、インマクラータ、無原罪聖母が私たちにお許しくださいますように。願わくは、聖母がすべての善意の霊魂たちに、唯一のまことの信仰の神秘、回心と聖化と聖性の神秘に触れることをもたらすという奇跡を成し遂げ続けてくださいますように、


 私たちの信仰の神秘を知らせたのちに、人々が効果的に天主に近づくために天主のみ摂理によって与えられた手段を用いたいと思います。教皇たちによれば、この手段とは特に、聖母が聖イグナチオに与えた「霊操」、み摂理が聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールに与えた「聖母へのまことの信心」、(聖マルガリタ・マリアに与えられた)至聖なるイエズスの聖心と(具体的にファチマで与えられた)マリアのけがれなき御心の二つの霊性、などです。このようにして、霊魂たちが信仰を保ち、天国の門に至るために涙の谷を通って「狭き門」より入れるように、彼らの霊的生活を養うことを希望します。

 私たちの霊的プログラムの最後のポイントは「キリストが愛したように隣人を愛せ」という偉大な掟を霊魂たちに気づかせることです。教皇ピオ十二世によると(回勅ミスティチ・コルポリス)、これは天主のご意志であり、天主はキリストの神秘体の成員たちの努力によって多くの人々を救うことをお望みなのです。聖母みずから、別の言い方でこのようにおっしゃっています。「祈り、犠牲を捧げなさい。多くの霊魂たちが地獄に行くからです。誰も彼らのために祈らず、犠牲を捧げないからです」(一九一七年八月十九日、ファチマ)。二十世紀の偉大な聖母信心運動の数々は、この真理を経験しました。すなわち、レジオ・マリエ、ファチマの聖母のブルー・アーミー、聖マキシミリアノ・コルベの聖母の騎士です。彼らは、後に続く人々が、祈り、犠牲、善い模範とさまざまな使徒的活動を通してマリアのおそばにもっと近づけるよう、何百という子どもたち、使徒たち、そして「無原罪聖母の騎士たち」を呼び集めました。願わくは、無原罪聖母が、今一度、このような使徒たちと騎士たちが立ち上がり、異教的物質主義の捕らわれから、永遠の救いの喜びへと多くの霊魂たちを連れていくこの奇跡を、私たちに得させてくださいますように。

二〇一四年九月三日、聖ピオ十世の祝日、パラヤンコッタイ(Palayamkottai)にて
カール・シュテーリン神父





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ミューラー枢機卿は、フェレー司教を面会に招待

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会本部からの報道発表をお知らせいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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Cardinal Müller invites Bishop Fellay to meet with him



Having been invited by Rome, Bishop Bernard Fellay will meet with Cardinal Gerhard Ludwig Müller, Prefect of the Congregation for the Doctrine of the Faith, during the second half of September 2014. This interview was presented to the Superior General of the Society of Saint Pius X as an informal meeting to review the relations between the SSPX and Rome, which were discontinued at the departure of Cardinal William Levada, Cardinal Müller’s predecessor, and the resignation of Benedict XVI. This will in fact be the first meeting between Cardinal Müller and Bishop Fellay.

On September 3, 2014, on his website the Vatican Insider, the Italian journalist Andrea Tornielli announces this meeting and noted that the new District Superior of France, Father Christian Bouchacourt had the opportunity when he was superior of the District of south America, to meet Cardinal Jorge Mario Bergoglio, then Archbishop of Buenos Aires. Since then they have had contact on purely administrative matters concerning the District of South America.

The Superior General of the Society of Saint Pius X will go to Rome, following the example of Archbishop Marcel Lefebvre, who always accepted invitations of the Roman authorities. What will be said at this meeting is obviously unknown, yet Bishop Fellay will not have forgotten what Cardinal Müller said about the SSPX, as reported in the Corriere della Sera on December 22, 2013 : « The canonical excommunication of the bishops for their illegal ordinations was revoked, but a de facto sacramental excommunication remains for their schism; they put themselves out of communion with the Church. After that we are not closing the door and never will, but we are inviting them to be reconciled. But they too must change their attitude, accept the conditions of the Catholic Church, and the Supreme Pontiff as the definitive criterion for membership. »

And surely the Superior General will have in mind the declaration made with the Society’s other two bishops on June 27, 2013, on the occasion of the twenty-fifth anniversary of their episcopal consecration : « It was love of the Church which guided Archbishop Lefebvre and which guides his sons. It is the same desire to “pass on the Catholic priesthood in all its doctrinal purity and its missionary charity” (Archbishop Lefebvre, Spiritual Journey) which animates the Society of Saint Pius X at the service of the Church, when it asks with insistence for the Roman authorities to regain the treasure of doctrinal, moral and liturgical Tradition. »

(Sources : FSSPX/MG/vaticaninsider – DICI du 05/09/14)

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レネー神父様の霊的講話の概要

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 遅くなりましたが、大阪で、8月のミサ聖祭の後でレネー神父様が霊的講話をしてくださり、それは以下のようなものでした。ご紹介します。

【報告】
●土曜日のミサの後、この日の聖福音にあったマテオ福音章のキリストと家系図と、ルカが残したキリストの家系図には少し差があり、どうしてこういう事が生じたのかという説明でした。マテオは、genuit=生んだ という言葉を用いて、肉体的な系図を示した。これに対してルカは、begatという言葉を使い、〜の子という律法的な意味においてユダヤの習慣に従って、子供が出来なかった長男に代わってその兄弟に子ができると、長男の子とされる事から律法的な系図を作ったためこの差が生じたという事でした。なるほど〜( ゚Д゚)と理解いたしました。

●次に、安楽死を自然法において考える勉強では、
人は自分自身を自ら作ることは出来ず、親でさえ子を設計して、自身の力で作ることは出来ず、人は天主から作られるという結論に至ります。
従って、者は作った人の所有であるのだから、人の生命は自分のものではなく天主のものである。天主のものである生命を人が自分たちの勝手になくして(殺して)しまう事はゆるされない。

現代社会においては唯物論者などの思想がはびこり、物がすべてであるかのように思われていることが多い。
しかし人間は霊魂と体を有す超自然的複合体で、この超自然部分が霊魂である。我々が物事を考えるとき、イメージとアイデアを使っている。目から物質的な情報を感覚(senses)を通してイメージとして得、知識によってアイデア、考えを作る。この知識は目に見えない超自然のもので、霊魂にある。
"自分の命だから自分で自由に出来る"とか、"自由には制限がない(No limit to freedom)","物だから何をしても許される" という考えは全く間違いである。


●この後、延命治療についての質問があり、以下のような内容でした。
"It is permitted to diminish suffering but not permitted to shorten life(to kill in order not to suffer)"
苦痛を軽減すること(緩和治療)はゆるされているが、苦しみをなくすために命をなくすことはゆるされない。

It is permitted to let the sickness "do it work"
病気を受け入れるという意味で病気の進行にゆだねることはゆるされる。

"It is permitted ,bat not obligatory to use extra-ordinary means to exted life"
延命させるため非日常的な方法を使う事は、ゆるされてはいるが、義務ではない。

"It is not permitted to reject ORDINARY means (food....) to extend life.
延命の通常の手段(飲食など)を拒否することはゆるされない

●また、実定法法と自然法の違いについての質問もありました。
実定法は自然法に基づいて決められるものである。例えば、結婚ついて言えば、自然法では婚姻は一人の男性と一人の女性で成されるものであるという決まりがあり、実定法のなかで(国によって)18歳以上であるとか、20歳以上と決められているという事でした。
実定法という聞きなれない言葉をきいて(^^;)質問された方は本当によく勉強されている方なんだなあと感心してしまいました。
なにを質問してもキッチリ、スッキリ、お答え下さる神父様に感謝と脱帽でした!!

小野田 神父様に質問ですが、
"When we think, we have image (particular) + idea (general)" イメージとparticular、アイデアとgeneral の関係がよくわかりませんでした。
この場合のparticular, general はどういう意味でしょうか?

【お返事】
こんにちは!ご報告と質問をありがとうございます。
"When we think, we have image (particular) + idea (general)"
「私たちが考えるとき、イメージ(個別)と概念(一般)を持つ」とのことですが、私の思うには、時計、と言った場合、時計の一つ一つのイメージを腕時計、置き時計、壁時計、鳩時計、日時計、腹時計など、個別のものをイメージします。
しかし、「時計」という概念は、「時間を知る装置」として、一般化されています。そのようなことをおっしゃろうとされたのではないでしょうか。

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ミュラー枢機卿、フェレー司教を会見に招聘(日本語訳)

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愛する兄弟姉妹の皆様、「ミュラー枢機卿、フェレー司教を会見に招聘」の日本語訳をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら

Cardinal Müller invites Bishop Fellay to meet with him

ミュラー枢機卿、フェレー司教を会見に招聘

二〇一四年九月五日

 ローマから招聘され続けていることを受け、フェレー司教は、二〇一四年九月中旬、教理聖省長官ルートヴィヒ・ミュラー枢機卿に会見する予定である。この会見は聖ピオ十世会とローマの関係を再検討するために、非公式なものとして聖ピオ十世会総長に提案されていた。この話し合いはミュラー枢機卿の前任、ウィリアム・レヴァダ枢機卿、そしてベネディクト十六世の辞任により中断していた。今回の会見は事実上、ミューラー枢機卿とフェレー司教の最初のものとなる。

 二〇一四年九月三日、イタリア人ジャーナリスト、Andrea Tornielliが、バチカン・インサイダーの自身のウェブサイト上でこの会見を告知し、(聖ピオ十世会)新フランス管区長・クリスチャン・ブシャクール神父が南アメリカ管区長を務めていた際、当時のブエノス・アイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿と会見する機会があったことに注目している。そのとき以来、両者は南アメリカ管区に関する管理事項についてのみ接触を持ち続けていた。

 聖ピオ十世会総長は、ローマ当局者の招待を常に受諾していたマルセル・ルフェーブル大司教の例に従って、ローマに赴く予定である。この会見で何が話されるのかは不明であるが、フェレー司教は二〇一三年十二月二十二日にCorriere della Seraに載せられた、聖ピオ十世会に関するミューラー枢機卿の発言を忘れてはいない。「(聖ピオ十世会の)違法叙階に対する司教たちの教会法上の破門は取り消されたが、事実上は、彼らの離教に対する秘跡的破門が残ったままである。彼らは教会との交わりから自らを閉め出した。その後、私たちはドアを閉めず、今後もそうするつもりはないし、それどころか和解のために彼らを招いている。だが彼らも自分たちの態度を変えなければならないし、カトリック教会と、その成員たちの決定的基準である教皇の出す条件を受け入れなければならない」

 また、総長は二〇一三年六月二十七日、司教聖別二十五周年の際に、他の二名の司教とともに出した宣言を心に留め置いていることだろう。「ルフェーブル大司教を導いたのは、そしてその後継者らを導いているのは、教会への愛であった。『カトリック司祭職をそのすべての教義の純粋性と宣教者の愛徳のうちにおいて伝える』(ルフェーブル大司教著『霊魂の旅路』)という同じ渇望であり、この渇望は、聖ピオ十世会が、ローマ当局に対し、教義と道徳と典礼とに関する聖伝の宝をふたたび取り戻すことを断固として要求する時、教会への奉仕において聖ピオ十世会を動かしているものである」

(Sources : FSSPX/MG/vaticaninsider – DICI du 05/09/14)

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貧しさのうちに生まれ、貧しさのうちに生き、貧しさのうちに死んだ──聖ピオ十世

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は聖母の聖誕の祝日です! 9月3日の聖ピオ十世の祝日にちなんで、聖ピオ十世会アメリカ管区のウェブ・サイト記事「貧しさのうちに生まれ、貧しさのうちに生き、貧しさのうちに死んだ──聖ピオ十世」の日本語訳をご紹介します。この日本語に訳してくださった方に、心から感謝します。

原文はこちら

Born poor, lived poor and died poor: St. Pius X
貧しさのうちに生まれ、貧しさのうちに生き、貧しさのうちに死んだ──聖ピオ十世

二〇一四年九月二日
アメリカ管区

 聖ピオ十世の死の原因となった苦悩と、同時代の人々が彼に捧げた敬意についての報告。

 DICIに掲載された、私たちの聖なる保護者、聖ピオ十世教皇への短い賛辞の記事。

聖ピオ十世帰天百周年

 一九一四年八月二十日、聖ピオ十世教皇は死去された。ヨーロッパと世界に燃え上がろうとしていた恐るべき最初の大戦が火蓋を切ろうとしていた時、聖ピオ十世は深い衝撃を受け、彼の気力は急速に衰えていった。

 危機が膨れ上がるにつれ、彼は祈りに没頭し、自らを生け贄として捧げた。伝記作家は彼の側近たちの証言を引用して、こう語る。

 昼も夜も、彼は天主を祈りで責め立て、天主と格闘した。昼も夜も、彼はこう繰り返した。「我が子らの虐殺を止めるため、私のあわれな生命を燔祭の生け贄として捧げ奉る」聖なる老人は苦悩に消耗し、そのまなざしは銃器と戦火を見つめる。彼はこう呟くのが常だった。「戦場に倒れる人々のために私は苦しむ……おお、この戦争!……この戦争は私の命を奪うだろう」彼は激しく涙にむせぶが、天主のご意志への英雄的かつ完全な委託とともに、聖人の気力がまだ彼のうちに残っていた。

 聖母被昇天の祝日後、彼は病床につかざるを得なくなり、数日後、極度の疲労のために世を去ることとなる。八月十九日、「私自身を天主の御手のうちに置く」と呟きながら臨終の秘跡を受けた。穏やかな臨終の夜ののち、八月二十日、聖ベルナルドの祝日の朝、十字架を握りしめつつ数時間眠り込んだ。一時十五分の未明のことであり、ヴェネチアの方言で最期の言葉を発した。「Gesu, Giuseppe e Maria, vi dono il cuore de l’anima mia! イエズス、マリア、ヨゼフ、我が霊魂を御身らに捧げ奉る!」

 聖ピオ十世の遺言は次のように公開された。「私は貧しさのうちに生まれ、貧しさのうちに生き、非常に貧しく死ぬと決めている」この教皇の非凡な人格に対し、教会から絶縁している集団からすら絶大な敬意が払われた。ジャン・ジョレスの発行する雑誌──リュマニテ──は、最も正確に聖ピオ十世の死を書き表した。

 教皇が死んだ。彼は偉大な教皇であったと我々は言わねばならない。彼の政治的意図はいとも単純であった。それは、使徒的堅固さで信仰の価値を回復させること、で成り立っていた。これらの政治的意図を、誰もが疑い得ないその霊魂の単純さと徳の忠実さの結果、権威をもって彼は実行し得た。いかに彼を裁こうとも、ピオ十世は偉大な教皇であったと我々は言わねばなるまい。

 四十年後、教会が祭壇上に挙げるであろう偉大な教皇。聖なる教皇の教皇職は、Omnia instaurare in Christo. イエズス・キリストのうちに万事を回復させることにあますことなく捧げられた。

Footnotes
1 Jerome Dal-Gal, Pie X, Editions St-Paul, Pari, 1953, p. 472.
2 Yves Chiron, St. Pius X: Restorer of the Church (Angelus Press), p. 340.
3 Quoted by Dal-Gal, op. cit., p. 477.

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なぜ聖ピオ十世が、本会(聖ピオ十世会)の保護者なのか?

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アメリカ管区のウェブ・サイトに掲載された「なぜ本会の保護者は聖ピオ十世なのか?」の日本語訳をご紹介します。日本語訳を作ってくださった方に心から感謝します。

聖ピオ十世、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら

Why is St. Pius X the Society's patron?
なぜ本会の保護者は聖ピオ十世なのか?


二〇一四年八月二十五日
アメリカ管区

 マルセル・ルフェーブル大司教が司祭養成のために本会を創立したとき、なぜ聖ピオ十世を保護者に選んだのか?


 聖ピオ十世の帰天(dies natalis)──天国への生誕の日──百周年に際し、世界中の大勢の聖伝カトリック信者たちは、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会の保護聖人として彼を選んだ動機を知りたがるかも知れない。

 一九七〇年代初頭、聖ピオ十世会の揺籃期には、世界中の聖伝カトリック信者たちが、いわゆる「聖ピオ五世のミサ」を捧げるために、建物や納屋を聖伝信者たちの砦へと改造していたために、皆がその名を口にしていた。「永遠のミサにくくりつけられたエコンとローマとの格闘全体」が、ほどなくして明確になるにつれ、聖ピオ五世の名は広く行き渡っていった。

 しかしながら、新修道会の創立者は、会則の中ではっきりと聖ピオ十世について述べており、その理由を書面で表明していた。大司教はその書面上で聖ピオ十世会の活動目的を「司祭養成とそれに付随する諸々に不可欠な全職務」であると説明している。神学生たちは養成の「最重要目的、すなわち、充分な知識を伴う司祭の聖性を維持する」ことに注意を払わなければならない。これこそ、本会が聖ピオ十世の保護下に置かれた理由である。この聖なる教皇の根本的関心は、司祭職の完全性とそこから導き出される高潔さであった。[1]

 このこと【つまり司祭の聖性の養成と聖ピオ十世との関係】に関して、私たちの創立者は、古くからの司祭たちがすでに得ているので、繰り返す必要がないと考えたのではない限り、とりわけ強調しなかった。創立者は、新近代主義者の異端が存在する教会内の現在の危機について、確かに頻繁に言及しており、当時の近代主義に対して、見たところ壊滅的打撃を与えた「パッシェンディ」における聖ピオ十世の教えを展開させていた。この教会史上最後に列聖された教皇が、何度も再発しては現れる近代主義者の異端に対して精力的に戦い、特に他ならぬピオ十二世によって列聖された時、大司教の霊魂に深く響くこだまとなってよみがえったのは自然なことだった。

 主要な共産主義者たちでさえも、個人的なというより教皇としての聖ピオ十世の偉大さを認めざるを得なかった。共産主義新聞「リュマニテ」L’Humanité のジャン・ジョレスは、彼についてこう述べなければならなかった。

 彼の政治的意図は至極単純であった。すなわち、使徒的堅固さを武器に信仰に関するあらゆる価値を回復させること。彼はみずからの霊魂の単純さと諸徳の誠実さ──それは疑う余地はない──を与えつつ、権威をもってこの意図を全うした。どの方向から目を向けても、彼が偉大な教皇であったことに同意せざるを得ない。

 これこそ、教会が現在までに耐え忍んできた致命的異端に王手をかけることのできた、使徒的教皇の姿であった。

 この側面こそが、おそらくそれ以外の面にも増して、ルフェーブル大司教がジュゼッペ・サルトを自分の司祭修道会の保護聖人として選んだ理由を説明している。

Footnote
[1] マルセル・ルフェーブル、伝記、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教、436ページ

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聖ピオ十世のモットーと聖ピオ十世会

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「ラテン語ミサこそ本当のインターナショナルミサ」という記事を読みました。「英語という選択肢もあったでしょうが、日本語にしたのは賢明でした。なぜなら、英語と違って日本語はどの国の人にとっても分からないので平等だからです。」という観点に、思わず笑ってしまいました。本当に、「これがラテン語ミサだったら、本当の意味でインターナショナル・カトリックとなるのに!」と思います。ラテン語であれば、時間と空間を超えて、ご托身の偉大な神秘と事業を持続させ、世界中に展開させることができるのに!

 さて、世界中からの霊魂の呼びかけに答えてラテン語の聖伝のミサを捧げている聖ピオ十世会とその守護者である聖ピオ十世との関係についての記事をご紹介します。
愛する兄弟姉妹の皆様のうえに天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

原文はこちら
St. Pius X's motto and the SSPX


聖ピオ十世のモットーと聖ピオ十世会


二〇一四年八月二十六日
アメリカ管区

 聖ピオ十世がそのモットー「万事をキリストにおいて復興させる」で意図したものは何か? またそのモットーが聖ピオ十世会の使命にどのように関係しているか? あなたは聖ピオ十世会の二つ目の呼び名をご存知だったろうか?

 新たに選出された教皇にとって、最初の書簡とともに回勅の綱領を書くことは当然のことである。一九〇三年、ピオ十世も例外なく、その最初の回勅「エ・スプレミ・アポストラートゥス」の中で、平易かつ荘厳に、使徒的かつ率直に、みずからの意向をすべての人々に知らせた。

「天主からの物事を人間的基準で計りつつ、私たちの秘めた目的を見つけ出そうとする人々、それらを地上的領域やゲリラ的計画にまで歪めている人々が確実に見いだされるだろう。そのような無意味な妄想を取り除くために、私たちは彼らに以下のことを重点をおいて告げる。私たちはそうあることは望まず、人間社会ではなく天主の、その権威の代理人の前では決して無ではない天主のおん助けとともに、私たちは預かり人である、と。天主の利益は私たちの利益であるはずであり、この理由のために、私たちはみずからの全精神力と命そのものを費やすために変化させられる。従って、すべての人々は、私たちの意志を表現する一つのシンボルを要求するべきであり、私たちは「万事をキリストにおいて新たにする」、これ以外のものを与えないであろう。」

 ちょうど二、三ヶ月後、教皇は、無原罪のおん宿りのドグマ制定五十周年記念に際し、さらに別の書簡「アド・ディエム・イッルム」を書いた。
 
「だが、尊敬すべき兄弟たちよ、キリスト者の霊魂に非凡な情熱を燃え上がらせるはずの無原罪のおん宿りのドグマ宣言五十周年を祝う理由、何よりも根本的目的は、私たちにとって万事をキリストのうちに復興させるという目的があるからであり、それはすでに最初の回勅の中で表明したことである……礎として、至聖なるキリストのおん母、キリストの次に気高いお方の上に、全世紀にわたって受け継がれた信仰の聖堂を立てるのである。」

 明らかに聖ピオ十世は二つの回勅と、キリストの統治と一体化したそのおん母の統治を結びつけており、また、この回勅[アド・ディエム・イッルム]の中で、明確に、あるいは暗黙のうちに、聖ルイ・ド・モンフォールと共通する精神を間違いなく著していた。

 ルフェーブル大司教が、新しく生まれた聖ピオ十世会の会則を作った時、会にもう一つの呼び名「イエズスとマリアの使徒修道会」の名を与えたのは驚くにはあたらないだろう。大司教はこのように書いた。



「この修道会は、特に大司祭たるイエズスの保護下に置かれます。なぜなら、聖主の全存在は司祭であったからであり、今なお依然としてそうであり、十字架の犠牲こそが聖主のご託身の理由であったからです。」

 さらに、大司教はこのようにしてマリアの保護の効用を説明した。

「この修道会はまた、とりわけ司祭なるキリストのおん母たるマリアの、そして彼を通して、全司祭のおん母のマントの保護のもとに、おん子を養われているお方のうちに存在しているのです。」

 教会の精神とまことの聖職者の精神は、時間と空間のうちにご托身の偉大なみわざを持ちこたえさせることだというのは疑う余地はない。この目的に達する最良の方法は、初代教会の時代に使われたのと同じ手段を使うことである。すなわち、幸いなるおん母こそは、霊魂のうちにキリストを生み出し、キリストにおいて万事を「繰り返しよみがえらせる」手段である。

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Sancte Pie Decime 聖ピオ十世よ!──我らが保護聖人への聖歌

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愛する兄弟姉妹の皆様、「Sancte Pie Decime 聖ピオ十世よ!我らのために祈り給え!」という聖ピオ十世会の守護の聖人への聖歌があります。それにかんする記事を日本語でご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世──我らが保護聖人への聖歌
原文はこちら

Sancte Pie Decime 聖ピオ十世よ!──我らが保護聖人への聖歌

二〇一四年九月二日
アメリカ管区

 あなたは聖ピオ十世会関連の行事で頻繁に耳にする、聖ピオ十世への心を沸き立たせる聖歌のことを、詳しくご存知だろうか?

 聖ピオ十世会の保護者への賛美歌、サンクテ・ピエ・デチメ(Sancte Pie Decime)──は、叙階式や金祝(叙階五十周年)、あるいは他の祝祭行事といった重要な公式の場で捧げられるミサの退堂の時に、意気揚々と歌われるのを耳にしない時はない。






 この心を沸き立たせる聖歌は素朴でありながら荘厳さをまとい、「Sancte Pie Decime, Gloriose Patrone, Ora, ora pro nobis! 聖ピオ十世、[聖ピオ十世会の]栄光ある保護者よ、祈り給え、我らのために祈り給え!」という三度繰り返されるコーラスでのみ構成されている。

 聖ピオ十世「祈り給え、我らのために祈り給え」という慎ましい嘆願に満ち満ちた祈りは、聖ピオ十世の祝日の聖務日課(及びミサ)の集禱文を熟考するとき、よりいっそう、その正しさがわかるだろう。





 カトリックの信仰を守り、すべてのことをキリストにおいて改め正すために、聖なるピオ教皇を、天の上智と使徒的剛毅とにみたし給うた神よ、彼の定めと模範とにならうわれらに、永遠のむくいを与え給うよう、御慈悲に願い奉る。その同じわれらの主イエズス・キリストによりて。

 私たちは、聖ピオ十世のこの祝日に、著名なアメリカ人司祭、子どもたちのための公教要理の本の作者である、Lawrence Lovasik神父(神言会)作の、聖なる教皇へのこのノベナの祈りを読者の皆さんが信心深く唱えてくれるよう提案する。

聖ピオ十世への祈り

 聖主の敬虔なしもべにしてマリアの愛し子なる聖ピオ十世、栄えある教皇よ、天国の聖人である御身に祈り奉る。聖性と救霊への道において、御身が我が父、我が庇護者、そして導き手となり給うよう、御身に我が身を捧げ奉る。

 我が身分上の義務を忠実に果たすことのできるよう、助けの手を伸べ給え。御身ご自身が示し給うた模範に続き、すぐれた心の清らかさと、内的生活の熱烈な愛を我がために勝ち得給え。

 聖体の教皇よ、すべての恩寵と聖性の泉なる聖なるミサと聖体を愛することを教え、能う限り頻繁に聖体拝領できるよう導き給え。

 貧しい者の慈愛に満ちた父よ、我らの同胞たちに対し、御身の愛徳を言葉と行いにおいてならうよう助け給え。

 苦しむ者の慰め手よ、我が日々の十字架を、忍耐強く、天主の御旨に完全に委ねて担えるよう助け給え。キリストの群れの愛すべき牧者よ、聖にして母なる教会のまことの子となる恩寵を、我がために勝ち得て給え。

 いとも愛すべき聖なる父、聖ピオ十世よ、我が霊的、現世的幸福に必要なすべての恩寵を、イエズスの天主なる聖心より勝ち得給うがために、御身の力強い取り次ぎを切に懇願し奉る。

 聖にして母なる教会が、祭壇上にその栄光を挙げ、聖人なる御身に祈り、ならうよう強く勧める聖なる教皇よ、我は御身の祈りにひたすら信頼し奉る。天主の御旨ならば、我が嘆願が天主の玉座で御身の取り次ぎによって叶えられんことを、心から信頼し奉る。

 聖ピオ十世、我がために、そして我が愛する人々のため、祈り給え。我らが必要なものを欠く時、見捨てることなからんよう、御身のイエズスとマリアへの愛によって伏して乞い願い奉る。御身の聖なる死の平和と喜びを、我らも味わんことを。アーメン。

Imprimatur: John M. Gannon, Archbishop of Erie, Pennsylvania
教会認可/ペンシルベニア州、エリー大司教、John M. Gannon

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聖ペトロ大聖堂で2013年3月30日に行われた復活の賛歌の動画を紹介します

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ご参考までに、バチカンの聖ペトロ大聖堂で2013年3月30日に行われた復活の賛歌(復活の徹夜際の動画から)をご紹介します。





 ここで、助祭をつとめた聖職者は、Exsultet と呼び習わされている「復活の賛歌(Praeconium Paschale)」の1975年版を歌っています。

 聖伝の1962年版の Exsultet と1975年版とは、ほとんど同じですが、違いが最後にあります。(聖伝の復活の賛歌は全文をご紹介したことがあります。

●ご参考までに、聖伝の1962年版の Exsultet は次のように終わります。
O vere beata nox, quae exspoliavit Aegyptos, ditavit Hebraeos nox, in qua terrenis caelestia, humanis divina iunguntur!
Oramus ergo te, Domine, ut cereus iste in honorem tui nominis consecratus, ad noctis huius caliginem destruendam, indeficiens perseveret. Et in odorem suavitatis acceptus, supernis luminaribus misceatur. Flammas eius lucifer matutinus inveniat: Ille, inquam, lucifer, qui nescit occasum: Ille qui regressus ab inferis, humano generi serenus illuxit.
Precamur ergo te, Domine, ut nos famulos tuos, omnemque clerum, et devotissimum populum, una cum beatissimo Papa nostro N. et Antistite nostro N. quiete temporum concessa, in his paschalibus gaudiis, assidua protectione regere, gubernare, et conservare digneris. Per eundem Dominum nostrum Iesum Christum Filium tuum, qui tecum vivit et regnat in unitate Spiritus Sancti, Deus, per omnia saecula saeculorum.
R. Amen.

【日本語訳】
おお、実に幸せな夜よ、エジプト人たちから奪い取り、ヘブライ人たちを豊かにした夜!この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく!
従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだしたかのキリストである。
従って、主よ、私たちは御身に祈願する。私たち御身のしもべたちと全ての聖職者、いとも敬虔な民を、至福な私たちの教皇 N. および私たちの司教 N. と一つに、平和な時が与えられて、この復活祭の喜びにおいて、御身が堅い守りにおいてかたじけなくも君臨し、統治し、保存し給わんことを。
さらに、私たちを権力をもって統治する人々をご覧になり、御身のえもいわれぬ優しさと憐れみとの賜で、彼らの考えを正義と平和へと導き給え。それは地上の業から天上の祖国へと御身の民と共に彼らが到達することが出来るためである。
御身と共に聖霊との一致において代々に至るまで生きかつしろしめし給う御身の御子、私たちの同じ主イエズス・キリストによりて。
R/ アメン





●1975年版の復活の賛歌は、次のようになっています。
O vere beata nox, in qua terrenis caelestia, humanis divina iunguntur!
Oramus ergo te, Domine, ut cereus iste in honorem tui nominis consecratus, ad noctis huius caliginem destruendam, indeficiens perseveret. Et in odorem suavitatis acceptus, supernis luminaribus misceatur. Flammas eius lucifer matutinus inveniat: Ille, inquam, lucifer, qui nescit occasum: Christus Filius tuus, qui regressus ab inferis, humano generi serenus illuxit, et vivit et regnat in saecula saeculorum.
R. Amen.

おお、実に幸せな夜よ、この夜において地上のものは天上のものに、人間的ものは天主的ものに結びつく!
従って、主よ、私たちは御身に祈る。御身の御名の名誉のために聖別されたこの蝋が、この夜の邪悪を破壊するために、壊されずに守られるように。そして甘美な香りを受け入れ給い、天上の光に混ざり合わされるように。明けの明星がその炎を見いだすように。私は言う、つまり、かの沈むことを知らない明けの明星、キリストのことである。地獄から再び戻ってきた、平和の内に人類を照らしだした、そして代々に至るまで生きかつしろしめし給う御身の御子キリストである。
R/ アメン


●黙示録によれば、最初に復活した私たちの主イエズス・キリストは、ご自分のことを「明けの明星」「暁の明星」とお呼びになっています。
「私はダヴィドの子孫、そのひこばえ、暁のかがやく星である。」(バルバロ訳)

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シュテーリン神父様のための霊的花束のご報告

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 昨日は、マリア様の聖名の祝日でした。昨年、次のような記事を書きました。

330年前、1683年9月12日ウィーンでの勝利
アヴェ・マリア!愛する兄弟姉妹の皆様、 今から330年前の1683年9月には、第二次ウィーン包囲戦がありました。神聖ローマ帝国の首都であるウィーン、またオスマン帝国に対峙...>続きを読む

 ところで、シュテーリン神父様のための霊的花束として次のようなご報告を戴きましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご報告します。
 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
+ Ave Maria
トマス小野田圭志神父様
 いつもお祈りをありがとうございます。
 シュテーリン神父様への霊的花束の数をお知らせいたします。

  ロザリオの祈り100環
  小さき犠牲15回

 聖ピオ十世教皇様が帰天されて100周年という記念の年にちなんでこの数を目指しました。
 私はロザリオだけは決して離さず、常に持ち歩いていました。ロザリオの年であり、聖ピオ十世教皇様の帰天100周年でもある今年に、奇しくも聖ピオ十世会と巡り合いましたことは、天主様の御摂理であるように思いました。(...) お会いできますことを楽しみにしています。私のためにお祈りください。

【お返事】
100環というたくさんのロザリオをありがとうございます!お目に掛かるのをたのしみにしております!天主様の祝福が豊かにありますように!

 大阪と東京とでの霊的花束の集計ができ次第、総計を改めて、お知らせいたします。

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シュテーリン神父様のための霊的花束の最終報告(東京と大阪からの総計)

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愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様のための霊的花束の最終報告(東京と大阪からの総計)を申し上げます。

 これらのご報告をまとめて霊的花束のカードに私が手書きしてシュテーリン神父様に9月14日の夕方にお渡しいたしました。神父様は大変喜んでくださいました。

 愛する兄弟姉妹の皆様には、多くのお祈りを深く感謝します。

ミサ聖祭      160
御聖体拝領      89
霊的御聖体拝領   1504
十字架の道行    261
聖なるロザリオ   4326
小さき犠牲     1056
その他 連祷など  784

 愛する兄弟姉妹の皆様に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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2014年9月14日主日のレネー神父様のお説教(大阪にて)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! 9月の聖伝のミサには皆様とお目にかかれて大変幸福でした!大阪から次のようなご報告を戴きましたので、ご紹介いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に、天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
日本でのミッションありがとうございました!!!

新管区長様シュテーリン神父様をお迎えして、今までより一層インマクラータへの愛と信頼と希望が増したように感じます。
シュテーリン神父様、レネー神父様、小野田神父様を見習って、インマクラータの完全な道具になることを目指して、日本に頂いた大きなお恵みに感謝しつつ精進したいと強く思います。いつもながら、大きな犠牲と愛をもって来日下さる神父様方に心から感謝申し上げます。

大阪での御ミサですが、

9月12日(金曜)聖マリアの至聖なる御名の祝日、小野田神父様司式のミサには15人の方が、
9月13日(土曜)聖母の土曜日小野田神父様による読誦ミサ、シュテーリン神父様司式の歌ミサには22人が、
9月14日(主日)聖十字架の称賛 レネー神父様司式 歌ミサには21人の方々が、御ミサに与るお恵みを頂きました。
デオグラチアス!

14日主日のレネー神父様のお説教は以下のとおりです。また、御ミサの後、マリア様に関してのお話をこの週にあった聖母の御名の祝日のお説教を用いながらして頂きました。


2014年9月14日の主日 大阪の説教

聖なる十字架称讃の祝日は、次に述べる十字架の奇蹟を思い起こさせてくれます。戦いの後、ローマ皇帝ヘラクリオが聖なる十字架を取り戻したとき、皇帝は自分の肩にのせて十字架を担い、カルワリオの山に戻そうとしました。しかし山のふもとで、どういうわけか、まったく動かすことができなくなりました。そのとき、エルザレムの司教ザカリアが皇帝に言いました。「皇帝陛下、陛下のお召し物は宝石や金がついているため、私たちの主イエズス・キリストがお示しになった清貧やへりくだりとはかけ離れているのでございます」。そこで、皇帝は美しく高価な衣服を脱ぎ、貧しい人の服をまといました。すると、今度は何の問題もなく、十字架をカルワリオの山、山というよりも丘のようなものですが、 その丘の頂上まで運ぶことができました。

十字架の神秘はまさに「信仰の神秘」であり、一(いつ)にして真の信仰の中心です。天主の御子が人間を救うために天から下って来られたということは、そのことだけで驚くべき真理ですが、御子はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか。十字架上の犠牲としてご自分をお捧げになり、その結果、御父のほまれを回復させ、私たちの罪という負い目を返すことによってです。これは、私たちの自然の理解力を超えています。そのため、多くの霊魂にとって躓きの石となってきました。イスラム教徒は、全能の天主が十字架上で弱い姿を見せたということを受け入れるのを拒否しています。(彼らは、主が十字架上で勝ち取られた罪に対する勝利を見ません。)高慢な人々は、天主の御子のへりくだ りを受け入れることができません。実際、聖パウロは言います。「互いにイエズス・キリストの心を心とせよ。キリストは本性として天主であった[=天主の本性を持つ=真の天主である]が、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の形をとり、人間に似たものになって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見えた」。ご托身は、すでに驚くべきへりくだりの行いですが、聖パウロは続けます。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章5―8節)

罪は高慢によって世に入りました。仕えるのを拒否し、「Non serviam―私は仕えない」と言った悪魔の高慢です。次に、天主に似た者になること、「目が開け、善と悪を知る天人のようになる」(創世記3章5節)ことを望んだアダムとエワの高慢です。これは、自分にとって良いこと、悪いことは自分自身で決めるということであり、上からの法を受け入れず、自分たちの上に天主の支配があることを理解しないことです。もし高慢というものの重大さを私たちが理解したならば! ちっぽけな被造物が創造主に対して反乱を起こすとは! あらゆる罪の根っこには高慢があります。「高慢のもとは罪で、罪にふける人は憎悪をまく。(そこで主は奇妙な罰を下し、)彼を滅ぼし尽くされる」(集会書10章13節)

ですから、人間を救うため、人間を癒やすため、罪によって乱された秩序を回復させるために来られた天主の御子は、へりくだりについて説教なさっただけでなく、最初から最も素晴らしい方法でそれを実践なさいました。天主の御子のご托身そのものが、へりくだりの行いなのです。「主は天から下り給うた」(「天から下った人のほか、天に昇った者はない、それは人の子である」ヨハネ3章13節)。

主の生涯の絶頂期もまた、偉大なるへりくだりの行いでした。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ2章8節)。これは、主がほまれを回復なさった御父のための愛の行いであり、主が救いのために働かれた私たちのための愛の行いですが、本質的にはへりくだりの行いでもありました。ご自分の御体と御血の犠牲を捧げることは、宗教の徳の行いであり、その徳によって、私たちは天主の素晴らしさをたたえるのです。私たちの主イエズス・キリストは天主として、この犠牲を受け入れられました。しかし、私たちの主イエズス・キリストは人間として、聖三位一体のほまれのためにご自分をいけにえとしてお捧げになりました。

私たちの救いという崇高なみ業から利益を得るために、私たちは主の犠牲の行いにおいて、私たちの主イエズス・キリストと一致する必要があります。ですから、私たちは主と共にへりくだらなければなりません。私たちは主と共に自分を捨てなければなりません。しかし人は言います。「そんなことは難しすぎて、私たちにはできません」。私たちが自然の状態だったら、その通りです。実際に難しすぎるでしょう。しかし、私たちの主イエズス・キリストの恩寵による助けがあれば、十字架上のイエズスと一致することは喜びになります。聖人たちの中には、そのような喜びは、十字架がないままでいるよりも、むしろ死ぬ方がいいというところまで行き着いた人もいます(アヴィラの聖テレジア) 。この喜びは、十字架がすべての恩寵の源、特に愛徳の源であるという事実から来るのです。木がなければ火はつきません。愛徳の火は、十字架の木によって燃え上がります。いったん、そんな隠された宝を見つけたならば、人は行って、それを得るためにすべての持ち物を売り払うでしょう(マテオ13章44節)。皆さんはおっしゃるでしょう。その宝をどうやって見つけることができますか。(その答えは、)「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章7―8節)

十字架の最も喜ばしい実りは、ご聖体です。私たちの主イエズス・キリストが十字架上でお捧げになった御体と御血、これがご聖体として私たちを養ってくださるのです。ご聖体は、十字架の最も喜ばしい実りであると当時に、私たちが十字架を担い、天主の火を私たちの周りに広げることができるよう、私たちを強めてくれます。

十字架は、受け入れる受け入れないの自由はありません。「私のあとに従おうと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従え」(ルカ9章23節)。私たちの主イエズス・キリストは、主が天主であることを告白したペトロに首位権を約束なさったあとで、弟子たちにこのことを仰せられました。「このとき以来イエズスは、自分がエルザレムに行って長老、司祭長、律法学士たちから多くの苦しみを受け、そして殺され、三日目によみがえることを教え始められた。するとペトロはイエズスを引き止めて、『主よ、そんなことは起こりませんように。いやいや、そんなことが身の上に起こるはずがありません』と言った。イエズスは振り向き、ペトロに向かって言われた。『サタン、引きさがれ。私 の邪魔をするな。あなたが思っているのは天主の考えではなく人間の考えだ』」(マテオ16章21―23節)。十字架を拒むことはこの世の精神であり、十字架を愛することはキリストの精神です。聖人たちは皆、十字架を愛しました。

私たちの弱さを知っておられる主は、私たちを助け、十字架の下に私たちを導くため、御母を私たちにお与えになりました。最も力強かった使徒たちが逃げてしまったのに、数人の女性たちが聖ヨハネと共に十字架の下にいました。どのようにしてそんなことが起きたのでしょうか。その理由は、逃げなかった人々は聖母に従っていたからなのです。

私たちの人生において十字架は、第一に、過去の罪から私たちを清めてくれます。喜んで十字架を受け入れることは、私たちの罪や多くの他の人々の罪の償いになります。現代人は、天主に負い目があることを忘れてしまっています。現代人は、自分の権利には大変関心がありますが、自分が負い目のある他の人々には関心がなく、とりわけ負い目のある天主に対しては関心がありません。しかし、私たちの主イエズス・キリストの真の弟子たちは、天主に対するこの負い目を大変意識しており、いろいろな犠牲、個人的な犠牲、そして何よりミサの聖なる犠牲を通して償いをしようと望んでいます。

第二に、十字架は私たちの罪による傷を癒やしてくれます。十字架は、罪の正反対のものであるからです。高慢という罪に対して、十字架はへりくだりを暗示します。不従順に対して、十字架は従順を教えます。肉欲に対して、十字架は楽しみから完全に離れ去り、可能な限りのあらゆる侮辱と苦しみを受け入れることを教えます。酒に酔うことに対して、私たちは渇きによって苦しむ私たちの主イエズス・キリストを見るのです。ほかにもあるでしょう。

最後に、十字架は私たちの闇を癒やし、私たちの主イエズス・キリストという光をもたらします。十字架は、世のすべての人を照らす光であるキリストが置かれた燭台なのです。

私たちは簡単な償いの業を実行に移すべきです。まず教会が私たちに求めているもの、特に金曜日の小斎をすべきです。

以上述べたように、十字架が輝かしく凱旋し、「十字架の友人たち」と共に永遠に君臨する天国へ向かって、私たちは十字架の道という王道を歩んでいきましょう。アーメン。

聖伝のミサ(いわゆる「トリエント・ミサ」と呼ばれているローマ式典礼様式のミサ)にようこそ!

ローマ・カトリックの聖伝のミサ vs エキュメニカルな新しいミサ(第二バチカン公会議のミサ)




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