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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一 その六、反対論に答える(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか(後半)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか(後半) をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

六、反対論に答える(つづき)(B)内的生活は利己主義(エゴイズム)ではないのか の後半

 北京の故ファヴィエ司教(Mgr Favier)が、口ぐせのようにいっておられた言葉が、ここにある。

 「わたしは、自分の教区に、トラピスト修道士たちが、ぜひほしい。さらに欲をいえば、かれらには、外面的な布教事業はなにもやってもらいたくない。そんなものから、かれらの修道生活をじゃまされないために、いっさいこれをやめて、ただ祈りと苦業と聖学の研究に、専念してもらいたい。霊的に貧しいシナの民衆を司牧する上において、熱心な観想的修道院の存在が、宣教師たちに、どれほど力づよい助けをあたえるか、わたしは知りすぎるほど知っているつもりだ……」
« Je veux des Trappistes dans ce vicariat apostolique, disait Mgr Favier, évêque de Péking, Je désire même qu’ils s’abstiennent de tout ministère extérieur, afin que rien ne les distraie du travail de la prière, de la pénitence et des saintes études. Car je sais quel secours apportera aux missionnaires l’existence d’un monastère fervent de contemplatifs au milieu de nos pauvres Chinois. »
 さらにあとほど、こんなこともいわれた。
 「こんにちまで、だれもかつて足をふみいれたこともない辺地にまで、とうとうわれわれは進出することができた。この布教の成功はほかでもない、われわれの愛すべきトラピスト修道士たちのおかげなのだ……」
« Nous avons enfin réussi à pénétrer dans une région jusqu’à ce jour inabordable. J'attribue ce fait à nos chers Trappistes. »

 コシンシナの一司教も、サイゴンの仏印総督に、こんなことをいったことがある。
 「修道院の奥にひきこもって、祈りに生涯をおくる十人のカルメル会修道女は、説教をしながら国中をかけまわる二十人の宣教師よりも、わたしにとっては、ずっと大きな助けになります。」
« Dix Carmélites priant me seront d’un plus grand secours que vingt missionnaires prêchant. »

 「修道院の奥にひきこもって」――と司教はいっているが、それはあながち、閑居の誓願を立てた修道者に限ったものではない。活動生活に身をゆだねている在俗の司祭でも、修道者でも、修道女でも、もしかれらが同時に内的生活をいとなんでいるなら、天主のみ心にたいしては、前者と同様のちからをもっている。シュブリエ師、聖ドン・ボスコ、聖アントニオ・マリア・ザカリア師のごときが、その適例である。

 アンナ・タイジは、貧しい女工さんでありながら、りっぱな使徒だった。聖ヨゼフ・ラーブル(saint Benoît-Joseph Labre)は、繁華な街道をさけて乞食をしながら、りっぱな使徒だった。ツールの聖なる人デュポン氏、パケロン大佐、その他、天主の愛にもえる人びと、――かれらはみな、偉大な使徒的事業家だった。内的生活の人だったからである。

 アルスの聖司祭ビヤンネー師の内的生活は利己主義で、不毛だったのだろうか。
 答えるほうが、ヤボである。良識のある人はみな、いっているではないか。――ビヤンネー師の、人びとの救霊への奮発心とその成功は、とりもなおさず、かれの天主との深い一致と聖徳のおかげである。なるほど、かれは生まれつき、ほとんど才能に恵まれていなかったが、それでも、シャルトルーズ会の修道士のように深い観想家であったからこそ、内的生活に進歩するにつれて、人びとの霊魂を救いたいとの渇きは烈しく、いやしがたいまでにつのり、聖主からその全能の力にまであずからせていただき、その結果、あのようにたくさんの人を改心させることができたのである、と。
 ビヤンネー師の内的生活は、不毛だった、とあなたはおっしゃるのか。
 だが、よく考えてみるといい。
 わが国の各教区に、一人のビヤンネー師がいたと仮定してみよ。とっくの昔に、わが国は、キリスト教国家になっていないだろうか。数しれぬ布教者たちは、そのありあまる才能と活動を総動員して、福音伝道のため、信仰の宣伝普及のため、いくたの事業をいとなんでいる。いろんな会を組織している。莫大なカネを使っている。それだのに、これはたいへん言いにくいことだが、かれらの内的生活が貧弱なため、それは徒らに局部的な成功にしか過ぎず、国民は依然、あれほど期待されていたキリスト教への潮流を、いつまでたっても示さない現状ではないか。

 およそ一国民が、国をあげてキリスト教に回心するためには、ただ熱心な聖職者の布教者たちばかりでなく、信徒の中にも、イエズスの聖心と一致して生きたい、イエズスのみ国をひろめたい、そのためにはまず自分で内的生活をいとなみ、次に周囲の人の心にもまた、これを芽ばえさせたいと、はげしく渇望している篤志家の信者が、いくらかいてもらわねばならぬ。この種の精鋭の信者は、数はすくなくてもいい。肝心なのは、量よりも質だ。フランスの事例でもわかるとおり、大革命の直後、教会がじきに復興することができたのは、選良の司祭たちが、迫害のあらしにもまれもまれて、内的生活の土台が岩のように堅固だったからである。大革命のあいだ、人びとは宗教を捨てる。宗教に無関心である。かくて、教会は死にひんし、いかなる人間的努力をもってしても、どうにも挽回できない絶望の世紀だった。それを彼らは、天主的生命の太陽をもってあたため、いきいきとした新しい生命によみがえらせたのである。

 わが国において、とくに戦後は、カトリック系の学校が続々現われた。政府も昔とはちがって、全然圧迫をくわえないのみか、好意をさえ示してくれる。今や青少年は、われわれのものだ。学校の成績といい、評判といい、大したものである。
 それなのに、カトリック教育の目的は、はたして全面的に達成されているだろうか。はたして、悪魔の共謀者らの勢力を破砕するのに十分な実力をそなえた、深い宗教的教養を身につけた、優秀な卒業生を、社会に送りだしているだろうか。

 カトリック教育者無能の声を、よくちまたできく。なにが、この無能の原因なのか。――内的生活を、祈りの生活を、まじめにしていないからである。内にもえる天主的生命の炎が、じつはあるかないかの蛍火で、それが自然に外部に放射して、周囲の人の心を照射するほど強烈でないからである。

 われわれに内的生活は、内容が貧弱で、うるおいがない。うわッつらで、見てくれ式である。感情的で、しっかりした土台がない。内的生活を放棄するから、宗教の奥義はいっこうに、霊魂の深部まで浸透しないのではないか。霊魂を超自然の世界まで、ひきあげないのではないか。したがって、殉教者をつくりだすキリスト教的剛毅の精神が、内心から自然に湧きあがってこないのではない。

 われわれが深い内的生活をもたないからこそ、このようなうわッつらで、高遠な理想もなく、強固な信念もない、ひょろひょろな青少年しか作りだせないのではないか。
 司祭として、修道者として、教壇に立ちながら、われわれが夢見ているものは、いったいなんだろう。――学生たちに、りっぱな宗教教育を授けてやるよりも、むしろどうしたらかれらを、資格試験に合格させることができるだろうか、どうしたら学校の評判を、もっとあげることができるだろうか、こんなことにいっそう烈しい熱情を、かたむけてはいないだろうか。学生の霊魂に、イエズス・キリストのお姿をきざみつけてやる、そのためにはとりわけ、意志の鍛錬に重点をおかねばならないのだが、はたしてわれわれは、この大切な一事をねらっているだろうか。

 カトリック教育者の無能の原因は、われわれの内的生活の平凡さにあることが、しばしばである。

 こんなことわざがある。
 「神父が聖人なら、信者は熱心
  神父が熱心なら、信者は敬けん
  神父が敬けんなら、信者はまじめ
  神父がまじめなら、信者は悪人」

A prêtre saint, correspond peuple fervent; à prêtre fervent, peuple pieux; à prêtre pieux, peuple honnête ; à prêtre honnête, peuple impie.

 通則として、弟子は、師にまさらない。親は、自分のもたないものを、子どもにあたえることはできぬ。産みだされる生命は、これを産みだす生命より一段劣るのが、超自然界の常則だ。

 それにはいくらか、例外もあるだろうが、しかし聖アルフォンソの次の言葉は、たしかに右の断定をうらがきしてはいないだろうか。そして同時に、われわれカトリック教育者および司牧者の無能を、明るみにだしてもいないだろうか。聖人は、いっている。

 「信者の熱心と救霊は、善き司牧者の司祭たちの聖性に依存しています。もし小教区のかしらに、りっぱな主任司祭をいただきますなら、じきに信心の花は咲きみだれ、秘跡はしばしば受けられ、黙想はたいへん重んじられるようになります。こういう事実から、集会の書にある『統治者がそうあるとおり、部下もそうなる。町のかしらがそうあるとおり、町もそうなる』(集会の書10・2)という格言どおり、われわれの間にも、『司牧者のように、教会もそうなる』ということわざが生まれてくるのです」(『使徒的人物』7章十六節)
« Les bonnes moeurs et le salut des peuples dépendent des bons pasteurs. Si à la tête d’une paroisse il y a un bon curé, on y verra bientôt la dévotion fleurir, les sacrements fréquentés, l’oraison mentale en honneur. D’où le proverbe: Qualis pastor talis parochia, suivant ce mot de l’Ecclésiastique (s, 2) : Qualis est rector civitatis, tales et inhabitantes in ea. »


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