アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その七、反対論に答える(つづき)(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
七、反対論に答える(つづき)
(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
うわッつらな霊生しかもたない福音伝道者が、ここにいる。活動の重圧のもとにあえいでいる。内的生活を回避するための口実として、かれは次のような、もっともらしいことをいう。
――どうして、わたしは、人びとの救霊という神聖な事実に、制限をくわえていいものか。事ひとたび、人びとの霊魂を救うという、聖業ちゅうの聖業にかんするかぎり、これに没頭しすぎる、これがために精力を消耗しすぎる、ということがあるものか。わたしの活動は、とりもなおさず、兄弟愛の先端をゆくものだ。そのためには、いっさいを――信心も、内的生活とかやらも――犠牲にしたって、さしつかえないではないか。働く人は、祈る人なり。犠牲は黙想にまさる。『救霊の事業に、熱心に働くことは、人間が天主にささげることのできる最高の犠牲である。天主のみ心をよろこばせる最良の犠牲である』『Nullum sacrificium magis acceptum quam zelus animarum』――げんに大聖グレゴリオ教皇も、そう言っているではないか、と。
なるほど、そう言っているのは事実だ。しかし、天使的博士聖トマスの解説が、ここにある。それに照らして、右の言葉の真意をさぐらねばならぬ。聖トマスは、こう書いている。
「天主に、霊的犠牲をささげるとは、天主に栄光を帰せる何ものかをささげることである。さて、すべてのささげもののなかで、人間が天主にささげることのできる、いちばんりっぱなささげものは、人びとの霊魂を救う、ということである。これには、だれも異存がない。
だが、各自は、なによりもまず自分自身の霊魂を、天主におささげしなければならないのではないか。聖書にも、『もしあなたが、天主のみ心にかないたいのでしたら、あなた自身を大切にしなさい』といっている。これが、人間が天主におささげすることのできる、また、ぜひおささげしなければならない第一の、そして最高のささげものである。この本質的な、わが霊魂の奉献が終わってのちはじめて、他人の霊魂の救済に着手すべきではないか。自分自身の永遠の幸福を確保してのちにこそ、はじめて、他人にも同じ幸福をあたえようと、奮発すべきではないか。
人が、まず自分自身の霊魂を、つぎに他人の霊魂を、天主と密接に一致させて、天主と親しくなればなるほど、そのささげものも、その犠牲も、いっそう天主によろこばれるものとなる。だが、天主と霊魂をたがいに結合させるこの一致は、祈りによらなければ、黙想によらなければ、一言でいうなら、内的生活によらなければ、どうしても招来することができない。ゆえに、祈りの生活、観想の生活を、自分自身でいとなむように精をだし、また他人にもいとなませるように努力することは、活動の生活に、救霊の事業にみずから没頭し、また他人にも没頭させることにもまして、いっそう天主のみ心をおよろこばせするのだ。
そんなわけで、わたしは次のように結論する。
大聖グレゴリオ教皇が、『救霊の事業に、熱心に働くことは、天主のみ心をよろこばせる最高の犠牲である』と断定しているからといって、それはけっして、活動生活が、観想生活にまさっている、という意味ではないのだ。ただ、かれがいいたいのは、タッタひとりの霊魂でもいい、これを天主におささげすることは、世界がそのふところにもっているいちばん貴重なものもすべて、天主におささげすることよりも、天主にはいっそう大きな栄光をあたえ、われわれ自身には、いっそう大きな功徳となる、ということである」(『神学大全』2 a 2 ae, q. 182, a. 2, ad 3 )
内的生活は、きわめて大切だ。しかし大切だからだといって、人びとに救霊のために熱心に働いている人たちを、そのたずさわっている聖なる事実から遠ざけてしまうことは、たいへんまちがっている。――天主のあきらかなみ旨により、外的事業にたずさわることが、自分にとっては厳粛な義務となっている。だが、わたしは、もっと自分自身の霊魂のことを心配したい。もっと完全な、天主との一致に達したい。そのためには、さわがしい活動生活からのがれねばならぬ。それがかなわぬなら、ままよ、やる仕事はごくお粗末に、お役目式にしか果たせない……。こういって、布教の第一線から、逃げだしてしまう。
これは、とんでもない錯覚である。場合によっては、自分自身の霊魂のためにも、また他人の霊魂のためにも、大きな危険のもとにさえなる。「もし福音を述べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(コリント前9・16)と、聖パウロもいっているではないか。
これは、たしかにまちがった考えだが、筆者は急いで、いまひとつ、前のよりいっそうまちがった考えを、読者に警告しなければならぬ。
それは、他人の回心に熱心なあまり、自分自身の救霊をスッカリなおざりにする、ということだ。
天主は、われわれに、「隣人を、おのれのごとく愛せよ」とお命じになった。しかし、「おのれ以上に、隣人を愛せよ」とは、お命じにならなかった。別の言葉でいうなら、他人の霊魂を救うためには、おのれ自身の霊魂を傷つけてもいい、うしなってもいい、さらに別の言い方をするなら、自分の霊魂よりむしろ、他人の霊魂のことを余計に心配せよ、とはお命じにならなかった。なぜなら、われわれの救霊にたいする奮発心は“愛”のおきてによって、正しく秩序づけられなければならぬからであり、しかも、「愛は、おのれから始まる」とは、いつまでたっても真理たることを失わない、神学の定理だからである。聖アルフォンソは言っていた。
「わたしは、イエズス・キリストをお愛ししています。そのためにこそ、わたしは人びとの霊魂を、聖主にお与えしたいのです。まず“わたし”の霊魂を。次に、かぞえきれないほどの他人の霊魂を!」
«J'aime Jésus-Christ, disait saint Alphonse de Liguori, et c’est pourquoi je brûle du désir de lui donner des âmes, d'abord la mienne, puis un nombre incalculable d'autres.»
これは、聖ベルナルドがいった、「あなたは、どこにいても、あなた自身でおありなさい(Tuus esto ubique)」(『反省録』)との教えを、地でゆくものである。聖ベルナルドはさらに、「まず自分自身のことを心配しない人は、ほんとうの賢者ではない」ともいっている。
«Il n’est pas sage celui qui n’est pas à lui-même. »
使徒的奮発心の化身ともいうべき聖ベルナルドは、右の信条で、自分の行動を律していた。かれの秘書であったゴッドフロア(Godefroi)は、聖人を評して、「かれはまず、自分自身のことに、全力をそそいでいたからこそ、すべての人にたいして、すべてとなることができたのだ (Totus primum sïbi et sic totus omnibus)」といっている。
言葉は簡潔だが、この短い一句のなかに、聖人の面目が躍如としている。
聖ベルナルドは、かつて愛弟子の一人であって、のちに教皇となったエウゼニオ三世に、次のように書きおくっている。
「聖下よ、わたしは聖下に、あらゆる世俗的事業から、完全に身をお引きなさい、とは申しません。ただそれに、全身全霊をお打ち込みにならないように、とおすすめしているだけでございます。
もし聖下が、すべての人のための人間でございますなら、とうぜん聖下は、聖下ご自身のための人間でもいらっしゃるはずです。そうでないと、たとえ聖下が、全世界のすべての人をお救いになったとしても、もし聖下ご自身の霊魂をお失いになりましたら、なんの役にたちましょうか。ですから、いつも、どこでも、聖下ご自身を確保されますように。すべての人が、聖下の泉に飲みにまいりますなら、聖下もまた、ご自身の泉からお飲みになることを、お忘れになりませんように。人はみな、聖下の泉から飲んで、渇きをいやされていますのに、聖下ただひとり、いつも渇きに苦しめられどおしでいらっしゃるということは、まことにおかしな話ではありませんか。どんなに他人のためにお尽くしになっても、もし聖下が、ご自身をなおざりにされますなら、とどのつまりは、無益なお骨折りとこそ申すべきでございましょう。
それゆえ、聖下のすべてのご配慮は、まず聖下ご自身のことに始まり、聖下ご自身のことに終わるべきです。
C’est en vain que vous vous donneriez A d'AUTRES SOINS, SI VOUS VENIEZ a VOUS NEGLIGER. Que toutes vos réflexions commencent donc PAR VOUS et FINISSENT DE MEME.
まず最初に、聖下ご自身のことを、また最後にも、聖下ご自身のことを、ご考慮・ご反省なさいますように。
そして、聖下の救霊に関しましては、お母様の独り子でいらっしゃる聖下ご自身こそ、聖下に最も近い者でございますから、だれよりもまずご自分を救わねばならないのです。このことを、ゆめゆめお忘れになりませんように……」(聖ベルナルド『反省録』二の三)
この点にかんし、デュパンルー司教の『黙想の手記』ほど、示唆に富むものはあるまい。かれは、こうしるしている。
「わたしが、いまやっている使徒職の仕事は、まことに破壊的だ。おかげで、健康はそこなわれる。信心はみだれる。そのくせ、ちっとも自分の勉強にはならない。ぜひ、なんとかしなければならぬ。幸い、天主の恩寵のおかげで、自分はいまさとりを開いた。――平和な、そしてみのり多い内的生活を、自分のうちに確立するのに、じゃまをしているものがある。それは、わたしの活動が、あまりに自然的で、動物的であるということ、また、わたしの心が、いろんな雑務に引きずられ、流されていく、ということだ。
さらにまた、わたしはさとったのだ。――この内的生活の欠如こそ、自分がこれまでおちいっていたすべての欠点、精神的悩み、信心業における無味乾燥、厭気、からだの不健康の原因である。ということを。
それでわたしは、自分の努力のすべてを、自分に欠けているこの内的生活の獲得という一点に、集中しようと決心した。そのために、自分は天主の恩寵の助けをかりて、次のような規則を作る。
(一)――何をするにも、必要以上の時間を、これにあてがうこと。こうすれば、セカセカしないですむ。そのことに、心が引きずられないですむ。
(二)――自分は、いつも、する仕事ばかり多くて、それをやってのけるために、時間があまりに少ない。こう思ったばかりでも、うんざりする。頭は心配でいっぱいになり、心はずるずる流される。だから、これからはもう、どんな仕事をしようか、などと考えないで、ただ時間をどんなに使ったらいいか、それだけを考えよう。
で、いちばん大切な仕事から、片づけていく。どうしてもできなかった仕事にかんしては、あとから思いかえして、くよくよいわない。この要領でいったら、きっと一秒もムダには費やさないと思う……」
宝石商は、千百のガラス玉よりも、一個のダイヤモンドを珍重するものだ。
天主と親密に一致するとき、われわれの霊魂は、高価な一個のダイヤモンドである。それはどんなに大きな光栄を、天主に帰せることか。おのれの霊的進歩をぎせいにしてまでも、他の多くの人に善業をしてやる人たちは、他人にほどこしたその善業のために、たしかに天主の光栄を発揚するではあろう。が、この人たちよりも、前者は、はるかに大きな光栄を、天主に帰せるのである。これが、天主によってうちたてられた、秩序なのだ。
われわれは、いっさいの事物を、天主の眼で、評価しなければならない。われわれの霊魂は、天主の玉座である。天主は、ここにおつきになって、霊魂を統治される。
「天主は宇宙全体を、自然的に支配するよりも、あるいはまた、すべての国のすべての民を、精神的に支配するよりも、一つの霊魂に、超自然的に君臨することを、いっそうみ心におかけになるのである。」(ラルマン師(P. LALLEMANT)『霊的生活指針』)
Notre Père céleste s'applique davantage au gouvernement d'un coeur où il règne, qu'au gouvernement naturel de tout l'univers et au gouvernement civil de tous les empires
天主の支配に、秩序の段階があるように、救霊事業へのわれわれの奮発心にも、同様の秩序がなければならぬ。
なによりも、内的生活の結実たる“天主への愛”が第一である。
ある霊魂が、救霊事業に、たずさわっている。だがこの神聖な事業が、本人のゆだんから、かえって、天主への愛のさまたげになっている。このとき、天主はどんな措置を、おとりになるだろうか。――事業の全面的壊滅を、お望みになるのである。
Il préfère quelquefois laisser disparaître une oeuvre s'il la voit devenir un obstacle au développement de la charité de l'âme qui s'en occupe.
悪魔はこれと、正反対のことをする。
ある霊魂が、事業にたずさわっている。はなやかな成功(――じつは、うわッつらな成功!)の夢を逐わせる。成功すれば、それを機会に、内的生活への進歩をじゃまする。悪魔の眼は鋭い。イエズス・キリストの御眼に、なにが一番高貴な宝だか、悪魔はちゃんと知っている。それは、さきに書いたとおり、内的生活によって、天主と親密に一致した霊魂なのである。
悪魔がほしがっているのは、高価な一個のダイヤモンドなのだ。それを手に入れてぶちこわすためにこそ、悪魔はよろこんで千百のガラス玉を、ニセの成功を、使徒的事業家にあたえるのである。
(第一部 終了)
使徒職の秘訣」Dom Jean Baptiste Chautard 著 山下房三郎 訳
目次
序説
第一部 天主は、外的活動も、内的生活も、お望みになる
1. 使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる
2. イエズスこそは、使徒的活動の生命―これが天主のお望みである )
3. 内的生活とは何か?
3. 内的生活とは何か?(後半)
4. 内的生活の価値は、おどろくほど誤解されている
5. 反対論に答える (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか
5. 反対論に答える (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか (後半)
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか(後半)
7. 反対論に答える(つづき) (C) 人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
1. 天主の御眼からみれば、内的生活は、活動的生活にまさっている
2. 使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に、生まれでるものでなければならぬ
3. 使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
4. 内的生活と活動的生活は共存する
5. 観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
1. 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
(B) 内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
2. 内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
3. 福音の働き手の聖性―その土台は内的生活である
(A) 内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
(B) 内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる
(C) 内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる
(E) 内的生活は、純潔な意向をさらに純化する
(F) 内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業がゆたかに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかな実を結ぶための条件―それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
(b) 内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化する者となす
(c) 内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか
(d) 内的生活は、使徒に、まことの雄弁をあたえる
(e) 内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする
(f) 聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包含されている
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
1. 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。―かれらに与える若干の意見
2. 黙想は、内的生活の、したがって使徒職の、必要欠くべからざる要素である
(I) 朝の黙想に忠実であること―これは、わたしにとって義務なのか
(II) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
(III) どのように黙想しなければならないか
3.典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(I) 典礼とは何か?
(II) 典礼生活とは何か?
(III) 典礼の精神―三つの原理
(IV) 典礼生活の利益
(V) 典礼生活の実行
4. “心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
(I) 心の取り締まりの必要
(II) 天主の現存の意識―これこそは、心の取り締まりの土台である
(III) 聖母マリアに対する信心は、心の取り締まりを容易にする
(IV) 心の取り締まりの修業
(V) 心の取り締まりに必要な条件
5. 使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心を持っていなければならぬ
結びのことば
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その七、反対論に答える(つづき)(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
七、反対論に答える(つづき)
(C)人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
うわッつらな霊生しかもたない福音伝道者が、ここにいる。活動の重圧のもとにあえいでいる。内的生活を回避するための口実として、かれは次のような、もっともらしいことをいう。
――どうして、わたしは、人びとの救霊という神聖な事実に、制限をくわえていいものか。事ひとたび、人びとの霊魂を救うという、聖業ちゅうの聖業にかんするかぎり、これに没頭しすぎる、これがために精力を消耗しすぎる、ということがあるものか。わたしの活動は、とりもなおさず、兄弟愛の先端をゆくものだ。そのためには、いっさいを――信心も、内的生活とかやらも――犠牲にしたって、さしつかえないではないか。働く人は、祈る人なり。犠牲は黙想にまさる。『救霊の事業に、熱心に働くことは、人間が天主にささげることのできる最高の犠牲である。天主のみ心をよろこばせる最良の犠牲である』『Nullum sacrificium magis acceptum quam zelus animarum』――げんに大聖グレゴリオ教皇も、そう言っているではないか、と。
なるほど、そう言っているのは事実だ。しかし、天使的博士聖トマスの解説が、ここにある。それに照らして、右の言葉の真意をさぐらねばならぬ。聖トマスは、こう書いている。
「天主に、霊的犠牲をささげるとは、天主に栄光を帰せる何ものかをささげることである。さて、すべてのささげもののなかで、人間が天主にささげることのできる、いちばんりっぱなささげものは、人びとの霊魂を救う、ということである。これには、だれも異存がない。
だが、各自は、なによりもまず自分自身の霊魂を、天主におささげしなければならないのではないか。聖書にも、『もしあなたが、天主のみ心にかないたいのでしたら、あなた自身を大切にしなさい』といっている。これが、人間が天主におささげすることのできる、また、ぜひおささげしなければならない第一の、そして最高のささげものである。この本質的な、わが霊魂の奉献が終わってのちはじめて、他人の霊魂の救済に着手すべきではないか。自分自身の永遠の幸福を確保してのちにこそ、はじめて、他人にも同じ幸福をあたえようと、奮発すべきではないか。
人が、まず自分自身の霊魂を、つぎに他人の霊魂を、天主と密接に一致させて、天主と親しくなればなるほど、そのささげものも、その犠牲も、いっそう天主によろこばれるものとなる。だが、天主と霊魂をたがいに結合させるこの一致は、祈りによらなければ、黙想によらなければ、一言でいうなら、内的生活によらなければ、どうしても招来することができない。ゆえに、祈りの生活、観想の生活を、自分自身でいとなむように精をだし、また他人にもいとなませるように努力することは、活動の生活に、救霊の事業にみずから没頭し、また他人にも没頭させることにもまして、いっそう天主のみ心をおよろこばせするのだ。
そんなわけで、わたしは次のように結論する。
大聖グレゴリオ教皇が、『救霊の事業に、熱心に働くことは、天主のみ心をよろこばせる最高の犠牲である』と断定しているからといって、それはけっして、活動生活が、観想生活にまさっている、という意味ではないのだ。ただ、かれがいいたいのは、タッタひとりの霊魂でもいい、これを天主におささげすることは、世界がそのふところにもっているいちばん貴重なものもすべて、天主におささげすることよりも、天主にはいっそう大きな栄光をあたえ、われわれ自身には、いっそう大きな功徳となる、ということである」(『神学大全』2 a 2 ae, q. 182, a. 2, ad 3 )
内的生活は、きわめて大切だ。しかし大切だからだといって、人びとに救霊のために熱心に働いている人たちを、そのたずさわっている聖なる事実から遠ざけてしまうことは、たいへんまちがっている。――天主のあきらかなみ旨により、外的事業にたずさわることが、自分にとっては厳粛な義務となっている。だが、わたしは、もっと自分自身の霊魂のことを心配したい。もっと完全な、天主との一致に達したい。そのためには、さわがしい活動生活からのがれねばならぬ。それがかなわぬなら、ままよ、やる仕事はごくお粗末に、お役目式にしか果たせない……。こういって、布教の第一線から、逃げだしてしまう。
これは、とんでもない錯覚である。場合によっては、自分自身の霊魂のためにも、また他人の霊魂のためにも、大きな危険のもとにさえなる。「もし福音を述べ伝えないなら、わたしはわざわいである」(コリント前9・16)と、聖パウロもいっているではないか。
これは、たしかにまちがった考えだが、筆者は急いで、いまひとつ、前のよりいっそうまちがった考えを、読者に警告しなければならぬ。
それは、他人の回心に熱心なあまり、自分自身の救霊をスッカリなおざりにする、ということだ。
天主は、われわれに、「隣人を、おのれのごとく愛せよ」とお命じになった。しかし、「おのれ以上に、隣人を愛せよ」とは、お命じにならなかった。別の言葉でいうなら、他人の霊魂を救うためには、おのれ自身の霊魂を傷つけてもいい、うしなってもいい、さらに別の言い方をするなら、自分の霊魂よりむしろ、他人の霊魂のことを余計に心配せよ、とはお命じにならなかった。なぜなら、われわれの救霊にたいする奮発心は“愛”のおきてによって、正しく秩序づけられなければならぬからであり、しかも、「愛は、おのれから始まる」とは、いつまでたっても真理たることを失わない、神学の定理だからである。聖アルフォンソは言っていた。
「わたしは、イエズス・キリストをお愛ししています。そのためにこそ、わたしは人びとの霊魂を、聖主にお与えしたいのです。まず“わたし”の霊魂を。次に、かぞえきれないほどの他人の霊魂を!」
«J'aime Jésus-Christ, disait saint Alphonse de Liguori, et c’est pourquoi je brûle du désir de lui donner des âmes, d'abord la mienne, puis un nombre incalculable d'autres.»
これは、聖ベルナルドがいった、「あなたは、どこにいても、あなた自身でおありなさい(Tuus esto ubique)」(『反省録』)との教えを、地でゆくものである。聖ベルナルドはさらに、「まず自分自身のことを心配しない人は、ほんとうの賢者ではない」ともいっている。
«Il n’est pas sage celui qui n’est pas à lui-même. »
使徒的奮発心の化身ともいうべき聖ベルナルドは、右の信条で、自分の行動を律していた。かれの秘書であったゴッドフロア(Godefroi)は、聖人を評して、「かれはまず、自分自身のことに、全力をそそいでいたからこそ、すべての人にたいして、すべてとなることができたのだ (Totus primum sïbi et sic totus omnibus)」といっている。
言葉は簡潔だが、この短い一句のなかに、聖人の面目が躍如としている。
聖ベルナルドは、かつて愛弟子の一人であって、のちに教皇となったエウゼニオ三世に、次のように書きおくっている。
「聖下よ、わたしは聖下に、あらゆる世俗的事業から、完全に身をお引きなさい、とは申しません。ただそれに、全身全霊をお打ち込みにならないように、とおすすめしているだけでございます。
もし聖下が、すべての人のための人間でございますなら、とうぜん聖下は、聖下ご自身のための人間でもいらっしゃるはずです。そうでないと、たとえ聖下が、全世界のすべての人をお救いになったとしても、もし聖下ご自身の霊魂をお失いになりましたら、なんの役にたちましょうか。ですから、いつも、どこでも、聖下ご自身を確保されますように。すべての人が、聖下の泉に飲みにまいりますなら、聖下もまた、ご自身の泉からお飲みになることを、お忘れになりませんように。人はみな、聖下の泉から飲んで、渇きをいやされていますのに、聖下ただひとり、いつも渇きに苦しめられどおしでいらっしゃるということは、まことにおかしな話ではありませんか。どんなに他人のためにお尽くしになっても、もし聖下が、ご自身をなおざりにされますなら、とどのつまりは、無益なお骨折りとこそ申すべきでございましょう。
それゆえ、聖下のすべてのご配慮は、まず聖下ご自身のことに始まり、聖下ご自身のことに終わるべきです。
C’est en vain que vous vous donneriez A d'AUTRES SOINS, SI VOUS VENIEZ a VOUS NEGLIGER. Que toutes vos réflexions commencent donc PAR VOUS et FINISSENT DE MEME.
まず最初に、聖下ご自身のことを、また最後にも、聖下ご自身のことを、ご考慮・ご反省なさいますように。
そして、聖下の救霊に関しましては、お母様の独り子でいらっしゃる聖下ご自身こそ、聖下に最も近い者でございますから、だれよりもまずご自分を救わねばならないのです。このことを、ゆめゆめお忘れになりませんように……」(聖ベルナルド『反省録』二の三)
この点にかんし、デュパンルー司教の『黙想の手記』ほど、示唆に富むものはあるまい。かれは、こうしるしている。
「わたしが、いまやっている使徒職の仕事は、まことに破壊的だ。おかげで、健康はそこなわれる。信心はみだれる。そのくせ、ちっとも自分の勉強にはならない。ぜひ、なんとかしなければならぬ。幸い、天主の恩寵のおかげで、自分はいまさとりを開いた。――平和な、そしてみのり多い内的生活を、自分のうちに確立するのに、じゃまをしているものがある。それは、わたしの活動が、あまりに自然的で、動物的であるということ、また、わたしの心が、いろんな雑務に引きずられ、流されていく、ということだ。
さらにまた、わたしはさとったのだ。――この内的生活の欠如こそ、自分がこれまでおちいっていたすべての欠点、精神的悩み、信心業における無味乾燥、厭気、からだの不健康の原因である。ということを。
それでわたしは、自分の努力のすべてを、自分に欠けているこの内的生活の獲得という一点に、集中しようと決心した。そのために、自分は天主の恩寵の助けをかりて、次のような規則を作る。
(一)――何をするにも、必要以上の時間を、これにあてがうこと。こうすれば、セカセカしないですむ。そのことに、心が引きずられないですむ。
(二)――自分は、いつも、する仕事ばかり多くて、それをやってのけるために、時間があまりに少ない。こう思ったばかりでも、うんざりする。頭は心配でいっぱいになり、心はずるずる流される。だから、これからはもう、どんな仕事をしようか、などと考えないで、ただ時間をどんなに使ったらいいか、それだけを考えよう。
で、いちばん大切な仕事から、片づけていく。どうしてもできなかった仕事にかんしては、あとから思いかえして、くよくよいわない。この要領でいったら、きっと一秒もムダには費やさないと思う……」
宝石商は、千百のガラス玉よりも、一個のダイヤモンドを珍重するものだ。
天主と親密に一致するとき、われわれの霊魂は、高価な一個のダイヤモンドである。それはどんなに大きな光栄を、天主に帰せることか。おのれの霊的進歩をぎせいにしてまでも、他の多くの人に善業をしてやる人たちは、他人にほどこしたその善業のために、たしかに天主の光栄を発揚するではあろう。が、この人たちよりも、前者は、はるかに大きな光栄を、天主に帰せるのである。これが、天主によってうちたてられた、秩序なのだ。
われわれは、いっさいの事物を、天主の眼で、評価しなければならない。われわれの霊魂は、天主の玉座である。天主は、ここにおつきになって、霊魂を統治される。
「天主は宇宙全体を、自然的に支配するよりも、あるいはまた、すべての国のすべての民を、精神的に支配するよりも、一つの霊魂に、超自然的に君臨することを、いっそうみ心におかけになるのである。」(ラルマン師(P. LALLEMANT)『霊的生活指針』)
Notre Père céleste s'applique davantage au gouvernement d'un coeur où il règne, qu'au gouvernement naturel de tout l'univers et au gouvernement civil de tous les empires
天主の支配に、秩序の段階があるように、救霊事業へのわれわれの奮発心にも、同様の秩序がなければならぬ。
なによりも、内的生活の結実たる“天主への愛”が第一である。
ある霊魂が、救霊事業に、たずさわっている。だがこの神聖な事業が、本人のゆだんから、かえって、天主への愛のさまたげになっている。このとき、天主はどんな措置を、おとりになるだろうか。――事業の全面的壊滅を、お望みになるのである。
Il préfère quelquefois laisser disparaître une oeuvre s'il la voit devenir un obstacle au développement de la charité de l'âme qui s'en occupe.
悪魔はこれと、正反対のことをする。
ある霊魂が、事業にたずさわっている。はなやかな成功(――じつは、うわッつらな成功!)の夢を逐わせる。成功すれば、それを機会に、内的生活への進歩をじゃまする。悪魔の眼は鋭い。イエズス・キリストの御眼に、なにが一番高貴な宝だか、悪魔はちゃんと知っている。それは、さきに書いたとおり、内的生活によって、天主と親密に一致した霊魂なのである。
悪魔がほしがっているのは、高価な一個のダイヤモンドなのだ。それを手に入れてぶちこわすためにこそ、悪魔はよろこんで千百のガラス玉を、ニセの成功を、使徒的事業家にあたえるのである。
(第一部 終了)
使徒職の秘訣」Dom Jean Baptiste Chautard 著 山下房三郎 訳
目次
序説
第一部 天主は、外的活動も、内的生活も、お望みになる
1. 使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる
2. イエズスこそは、使徒的活動の生命―これが天主のお望みである )
3. 内的生活とは何か?
3. 内的生活とは何か?(後半)
4. 内的生活の価値は、おどろくほど誤解されている
5. 反対論に答える (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか
5. 反対論に答える (A) 内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか (後半)
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか
6. 反対論に答える(つづき) (B) 内的生活は利己主義ではないのか(後半)
7. 反対論に答える(つづき) (C) 人びとの救霊は何より大切なわざである。ゆえに、内的生活はあとまわしにしてもいいのではないか
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
1. 天主の御眼からみれば、内的生活は、活動的生活にまさっている
2. 使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に、生まれでるものでなければならぬ
3. 使徒的事業は、その土台も目的も手段もみな、内的生活に深く浸透していなければならぬ
4. 内的生活と活動的生活は共存する
5. 観想と活動の一致結合は、きわめてすぐれている
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
1. 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への手段であるが、そうでない霊魂にとっては、おのれの救霊に危険である
(A) 使徒的事業は、内的生活をいとなむ霊魂にとっては、聖性達成への有力な手段である
(B) 内的生活を放棄するとき、活動的生活は当人にとって、救霊の敵となる
2. 内的生活をいとなまない使徒的事業家の落ちていく運命
3. 福音の働き手の聖性―その土台は内的生活である
(A) 内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
(B) 内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる
(C) 内的生活こそは、使徒的活動のエネルギーと功徳を増進する
(D) 内的生活は、使徒職にたずさわる人に、喜びと慰めをあたえる
(E) 内的生活は、純潔な意向をさらに純化する
(F) 内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業がゆたかに実を結ぶ
使徒的事業が、ゆたかな実を結ぶための条件―それは内的生活である
(a) 内的生活は、事業のうえに、天主の祝福をよびくだす
(b) 内的生活は、使徒をして、その良い模範によって、人びとを聖化する者となす
(c) 内的生活は、使徒に、超自然的照射能力をあたえる。この超自然的照射能力はどれほど効果に富むか
(d) 内的生活は、使徒に、まことの雄弁をあたえる
(e) 内的生活はまた、同じ内的生活を他に生むのであるから、その霊魂たちに及ぼす影響は深く、そして長続きがする
(f) 聖体による内的生活の中にこそ、使徒職のいっさいの結実性は包含されている
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
1. 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。―かれらに与える若干の意見
2. 黙想は、内的生活の、したがって使徒職の、必要欠くべからざる要素である
(I) 朝の黙想に忠実であること―これは、わたしにとって義務なのか
(II) わたしの黙想は、どんなものでなければならないか
(III) どのように黙想しなければならないか
3.典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である
(I) 典礼とは何か?
(II) 典礼生活とは何か?
(III) 典礼の精神―三つの原理
(IV) 典礼生活の利益
(V) 典礼生活の実行
4. “心の取り締まり”は、内的生活の鍵である。ゆえに、使徒職には本質的な修業である
(I) 心の取り締まりの必要
(II) 天主の現存の意識―これこそは、心の取り締まりの土台である
(III) 聖母マリアに対する信心は、心の取り締まりを容易にする
(IV) 心の取り締まりの修業
(V) 心の取り締まりに必要な条件
5. 使徒は、無原罪の聖母に対して、熱烈な信心を持っていなければならぬ
結びのことば