アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている
天主においては、いっさいが“生命”である。
天主は、“生命”そのものである。
さて、無限の天主が、この生命を、最も鮮烈に、最も濃厚に、最も花やかにおあらわしになるのは、けっして、たとえば天地創造のような、その外的事業においてではない。それは、神学者たちが、「Operatio ad intra」「天主の内奥においていとなまれる業」と呼んでいる、その形容しがたい内的活動においてであり、この天主的活動の究局の成果は、御父が、永遠から永遠にわたって御子を生む、ということ、さらに御父と御子から、聖霊が、永遠から永遠にわたって発出する、ということ、この二つである。
御子の出生と、聖霊の発出――ここにこそ、天主の本質的な、永遠的な事業があるのだ。
いましばらく、われらの主イエズス・キリストの地上生涯に、目をそそいでみよう。
イエズスこそは、天主のご計画の、完全な実現でいらっしゃるからである。
イエズスは、まず三十年間を、沈黙と隠棲のうちに、お過ごしになった。次に、四十日間の黙想と苦業が、その短い三か年間の公生活の序曲だった。しかも、その短い公生活の間ですら、イエズスは祈るために、どれほどしばしば、あるいは山に、あるいは砂漠に、おしりぞきになったことだろう。Recedebat in desertum et orabat(ルカ5・16)あるいはまた、夜を徹して、天主に祈られたことだろう。Pernoctans in oratione Dei(ルカ6・12)
さらに、意味深長なエピソードが、ここにある。マルタとマリアの争いがそれだ。
イエズスを接待したさい、マルタは、マリアが何もしないで遊んでいる、といって、さかんにマリアを非難する。イエズスに、マリアをしかっていただきたいのである。活動的生活が、「主の足もとにすわって、み言葉にきき入る」(ルカ10・39)観想的生活にまさっているゆえんを、力説していただきたいのである。
だが、イエズスのお答えは、意外だ。
「なくてはならぬものは、一つだけである。マリアは、最良の部分を選んだのだ」(ルカ10・42)とおっしゃったイエズスは、あきらかに、内的生活の優越性を、ご宣言なさったのである。祈りの生活、念禱の生活が、活動の生活にはるかにまさっていることを、ふかくわれわれに納得させたいおぼし召しがあったればこそ、イエズスはそう仰せられたのである。
聖霊降臨のあと、伝道事業が多忙をきわめたとき、使徒たちはあくまでも、師の教訓を忠実に守って、まず祈りの務めに専心するのだった。そして、天主のみ言葉の宣伝に専念することができるようにと、俗務はすべてこれを助祭に一任するのだった。
「わたしたちが、天主のみ言葉をさしおいて、食卓のことにたずさわるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から……七人をさがしだしてほしい。その人たちに、この仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈りとみ言葉のご用に当たることにしよう」(使徒行録6・3~4)
師たるイエズスに源を発する、この伝統的考え方は、世紀の坂をくだっても、すこしも衰えをみせず、いつも歴代の教皇、教会博士、神学者たちの脳裏を支配してきた。かれらはみな一様に、内的生活は、それ自体、活動生活にまさるのだ、と断言してきた。
かれこれ五六十年前のことだが、フランスはアベロン市(Aveyron)に、女子教育専門の修道会の総長がいた。彼女は信仰の人であり、人格者であり、偉大な性格のもちぬしだった。教区の上長たちは、彼女に、配下の修道女らの世俗化(la sécularisation)を極力勧めた。
(時の革命政府の宗教圧迫の結果、フランスでは修道会は禁止された。宗教教育を主旨とする自分の学校経営をつづけていくためには、どうしても修道生活を捨て、修道服をぬがなければならぬ。――彼女はジレンマにおちいった。―訳者)
修道生活のために、学校経営という事業を犠牲にすべきか、或いは修道生活を捨てて学校経営という事業を守るべきか?どうして良いか分からず、
天主のみ旨をどうやって知るかが分からなかったので、彼女はひそかにローマに行き、時の教皇レオ十三世に、謁見をもとめ、自分の疑いを打ち明け、また、修道生活を続けて事業を続けるようにとの圧力を受けていることを話した。
(「学校事業を続けてほしいと、人びとがしきりにわたしにすすめ、わたしの同意を強要しているのでございます。学校を続けますと、わたしどもは修道生活に、お別れしなければなりません。どちらにしてよろしいのか、わたしには判断ができませんので……」―訳者)
いとも尊敬すべき老教皇は、耳をかたむけて、彼女の言葉にきき入り、しばし沈思熟考の様子だったが、やがて頭を上げて、次のような、まことに断固たるお答えをなさったのである。
「あなたの娘たちの中で、ほんとうに修道精神を持っているひとが、ほんとうに念禱生活を愛好しているひとがおありでしょう。それなら、何より先に、またどんな事業を犠牲にしても、まずこれらの修道女に、修道生活をりっぱに確保してやることです。もしあなたが、修道生活も確保できない、学校経営も確保できない、というのでしたら、天主さまはきっとフランスに、他の事業をいくつも起こしてくださるでしょう。もしそれが必要だと、おぼし召されるのなら。
あなたがたが、ほんとうにりっぱに修道生活をおやりでしたら、たとえそのためにフランス政府から、外国へ追放されるようなことがありましても、あなたがたは、あなたがたのお祈りと犠牲の功徳によって、以前にもまして、祖国フランスのためにお役に立ちましょう。せっかく天主様に一生をおささげした結果、手に入れた霊のたからなる修道生活を奪われたまま、国内にとどまって、教育事業にたずさわっているよりも、そのほうがもっともっと、フランスのためにはなるでしょう。」
« Avant toutes choses, avant toutes oeuvres, gardez la vie religieuse à celles de vos filles qui ont vraiment l'esprit de leur saint état et l'amour de la vie d'oraison. Et si vous ne pouvez conserver et cela et les oeuvres, Dieu saura susciter en France d'autres ouvrières, s'il le faut. Pour vous, par votre vie intérieure, surtout par vos prières, par vos sacrifices, vous serez plus utiles à la France, en Testant vraiment religieuses, même loin d'elle, qu'en demeurant sur le sol de votre patrie, privées des trésors de votre consécration à Dieu. »
これと同じ所信を、聖ピオ十世教皇は、ある教育専門の大修道会にあてた書簡のなかで、表明していられる。
「わたしのきいたところによれば、こういう意見が、世間に流行している、と。しかもこの意見に追従して、あなたがたは、青少年の教育事業を、第一位におき、あなたがたの修道生活を、その次においている、そして、現代の精神と必要が、それを要請している、と。
だが、わたしは、このようなまちがった意見が、あなたがたの修道会において、また、あなたがたと同じように、教育を主旨とする他の修道会において、たとえごくわずかにもせよ、修道者たちから信用をかちえることを、絶対に許さない者である。物には序列がある。順位がある。この序列、この順位を、あなたがたの生活にハッキリさせてほしい。すなわち、修道生活は、普通一般の生活よりも、はるかに優越する地位を占めるべきである。
また、あなたがたは、自分たちの教育の義務によって、隣人にたいして重大な負債がある、とおっしゃっておられる。ごもっともである。だが、あなたがたは、それよりさき、天主に宣立した修道誓願のゆえに、天主にたいしては、いっそう重大な負債があることを、了承しなければならぬ。」
Nous apprenons qu’une opinion est en train de se répandre, d’après laquelle vous devriez mettre au premier rang l’éducation des enfants, et la profession religieuse seulement au second : ainsi l'exigeraient l'esprit et les besoins du temps, Nous ne voulons absolument pas que cette opinion trouve tant soit peu de crédit auprès de vous et des autres Instituts religieux, qui, comme le vôtre, ont pour but d'édurcation. Qu’il soit donc bien établi, en ce qui vous concerne, que la vie religieuse l’emporte de beaucoup sur la vie commune et que si vous êtes gravement obligés à l’égard du prochain par le devoir d’enseigner, bien plus graves encore sont les obligations qui vous lient envers Dieu.
さて、修道生活の存在理由、その主要目的は、内的生活を身につけることである。
これ以外のなにものでもないはずだ。
天使的博士・聖トマスは、次のようにいっている。
「観想的生活は、それ自体、活動的生活よりも、いっそうすぐれている。いっそう好ましいものである。」
さらに、聖ボナヴェントゥラは、内的生活が、活動的生活にまさっていることを示すために、多くの比較形容詞を使って、次のようにいっている。
「内的生活は、活動生活にくらべて、いっそう高貴である。いっそう安全である。いっそう効果に富んでいる。いっそう甘美である。いっそう恒久的である。Vita sublimior, securior, opulentior, suavior, siabilior」
(一)Vita sublimior ――内的生活は、いっそう高貴である。
活動的生活は、人間あいての生活である。
観想的生活は、天主あいての生活である。
観想的生活は、われわれを、いっそう高尚な真理の境地に、ひき入れる。それでも、真理の観照によって、現実の生活を忘れさせない。人間生活の第一原因なる天主から、常にまなざしを離させないからである。
観想的生活は、活動的生活よりも、いっそう高尚である。高尚だからこそ、活動的生活に比べて、いっそう広範な分野をもっている。
「マルタは、からだで、タッタ一つの場所にしかいなかった。そして、ただわずかなことについてだけ思いわずらい、わずかなことのためにだけ、せわしく立ち働いていた。これに反して、マリアは、心に燃えさかっている愛によって、多くの場所におり、多くの仕事をしている。マリアは、天主を観想し、天主を愛することによって、あらゆる事物を見ている。そのために、心が広くなって、あらゆる事物に達し、あらゆる事物をとらえ、あらゆる事物をわが身に抱容する。
マリアにくらべると、マルタはごくわずかなことについてしか、思いわずらわなかった、といえるだろう」(『雅歌について』八)
これは、サン・ビクトールのリシャール師の言葉だが、まことに真理をうがっている。
(二)Vita securior ――内的生活は、いっそう安全である。
内的生活には、危険は、ほとんどないといってよい。
活動にばかり没頭している生活には、危険はつきものだ。
霊魂は、いらだつ。熱に浮かされたように、興奮する。エネルギーは消耗する。
それで、霊魂のちからは、よわっていく。
活動的生活には、三つの危険がある。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことについて、思いわずらい、心を騒がしている」(ルカ10・41)
第一の危険「思いわずらう」――これは頭のなかに起きる心配ごとである。
第二の危険「心を騒がす」――これは、心のなかに起きる感情のあらしである。
第三の危険「多くのことについて」――たくさんの用務にたずさわっているから、そこから自然、努力にも、行動にも、分裂が生じてくる。
これに反して、内的生活を心に確保するためには、いっさいの事がらを、タッタひとつのこと――すなわち天主との一致に、集中してしまう必要がある。げに、なくてはならぬものはタダ一つ!他のことはみな、第二次的の価値しかない。天主との一致を達成するための、また、天主との一致をいっそう深めていくための、手段でしかないのだ。
(三)Vita opulentior ――内的生活は、いっそう効果に富む。
内的生活は、観想的生活とともに、「よいものがすべて、同時に、わたしにくる」(知恵の書7・11)
内的生活は、人間のあらゆる生活様式のなかで、「最良の部分」(ルカ10・42)なのである。
内的生活は、活動的生活よりも、功徳が多い。なぜか。
内的生活をすれば、意志は天主にむかって、ますます高く飛翔するからである。
成聖の恩寵は、霊魂に、ますますみなぎりあふれるからである。
霊魂は、天主を“愛する”という唯一の動機から、いっさいの行動を起こすようになるからである。
(四)Vita suavior ――内的生活は、いっそう甘美である。
ほんとうに内的な霊魂は、天主のおぼし召しに、おのれをゆだねる。
天主をおよろこばせすることだけを考える。
楽しいことも、苦しいことも、同じ心をもって、忍耐づよい心をもって、甘んじ受ける。
艱難にあっても、よろこばしい顔つきをしている。
十字架をになうのを、幸福のきわみとさえ思っている。
世の中に、これほど幸福な人がいるだろうか。
(五)Vita stabilior ――内的生活は、いっそう恒久的である。
活動的生活が、どんなに激烈であっても、それはしょせん、この世かぎりのものである。
説教も、教育も、その他あらゆる事業も、死の関門にたてば、たちまちおきざりにされて、永遠の世界にまでついていくことはできない。
内的生活だけは、永遠に絶えることがない。
だれも、これを奪い去ることはできない。(ルカ10・42)
内的生活によって、この世の旅路は、永遠の光照にむかっての、内心の絶えまない向上となるのだ。内心の向上の果てる処、そこには死の関門が、ひかえてはいるだろう。だが、この死の想定さえも、内心の向上を、たぐいなくいっそう強烈に、いっそう迅速にするのみである。
内的生活の優越性についての本章を総括する、聖ベルナルドの有名な言葉がここにある。
「内的生活によって、人はいっそう純潔になる。
あやまちに落ちいることは、いっそう少なくなる。
あやまちに落ちいっても、いっそう早くたちなおる。
救霊の道を、いっそう安全にたどる。
いっそう多くの恩寵をいただく。
いっそう安らかにいこう。
いっそう安らかに死ぬ。
煉獄では、いっそう早くきよめられる。
天国では、いっそう大きなむくいをいただくのである」(聖ベルナルド『福音書注解』)
« En elle l’homme vit plus purement, tombe plus rarement, se relève plus promptement, marche plus sûrement, reçoit plus de grâces, repose plus tranquille, meurt plus rassuré, est plus vite purifié et obtient une plus grande récompense.»
[Haec (vita) sancta, pura et immaculata, in quo homo vivit purius, cadit rarius, surgit velocius, incedit cautius, irrogatur frequentius, quiescit securius, moritur fiducius, purgatur citius, praemiatur copiosius (S. BERNARD, Hom. Simile est.).
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
一、 天主の御眼からみれば、内的生活は活動的生活にまさっている
天主においては、いっさいが“生命”である。
天主は、“生命”そのものである。
さて、無限の天主が、この生命を、最も鮮烈に、最も濃厚に、最も花やかにおあらわしになるのは、けっして、たとえば天地創造のような、その外的事業においてではない。それは、神学者たちが、「Operatio ad intra」「天主の内奥においていとなまれる業」と呼んでいる、その形容しがたい内的活動においてであり、この天主的活動の究局の成果は、御父が、永遠から永遠にわたって御子を生む、ということ、さらに御父と御子から、聖霊が、永遠から永遠にわたって発出する、ということ、この二つである。
御子の出生と、聖霊の発出――ここにこそ、天主の本質的な、永遠的な事業があるのだ。
いましばらく、われらの主イエズス・キリストの地上生涯に、目をそそいでみよう。
イエズスこそは、天主のご計画の、完全な実現でいらっしゃるからである。
イエズスは、まず三十年間を、沈黙と隠棲のうちに、お過ごしになった。次に、四十日間の黙想と苦業が、その短い三か年間の公生活の序曲だった。しかも、その短い公生活の間ですら、イエズスは祈るために、どれほどしばしば、あるいは山に、あるいは砂漠に、おしりぞきになったことだろう。Recedebat in desertum et orabat(ルカ5・16)あるいはまた、夜を徹して、天主に祈られたことだろう。Pernoctans in oratione Dei(ルカ6・12)
さらに、意味深長なエピソードが、ここにある。マルタとマリアの争いがそれだ。
イエズスを接待したさい、マルタは、マリアが何もしないで遊んでいる、といって、さかんにマリアを非難する。イエズスに、マリアをしかっていただきたいのである。活動的生活が、「主の足もとにすわって、み言葉にきき入る」(ルカ10・39)観想的生活にまさっているゆえんを、力説していただきたいのである。
だが、イエズスのお答えは、意外だ。
「なくてはならぬものは、一つだけである。マリアは、最良の部分を選んだのだ」(ルカ10・42)とおっしゃったイエズスは、あきらかに、内的生活の優越性を、ご宣言なさったのである。祈りの生活、念禱の生活が、活動の生活にはるかにまさっていることを、ふかくわれわれに納得させたいおぼし召しがあったればこそ、イエズスはそう仰せられたのである。
聖霊降臨のあと、伝道事業が多忙をきわめたとき、使徒たちはあくまでも、師の教訓を忠実に守って、まず祈りの務めに専心するのだった。そして、天主のみ言葉の宣伝に専念することができるようにと、俗務はすべてこれを助祭に一任するのだった。
「わたしたちが、天主のみ言葉をさしおいて、食卓のことにたずさわるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から……七人をさがしだしてほしい。その人たちに、この仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈りとみ言葉のご用に当たることにしよう」(使徒行録6・3~4)
師たるイエズスに源を発する、この伝統的考え方は、世紀の坂をくだっても、すこしも衰えをみせず、いつも歴代の教皇、教会博士、神学者たちの脳裏を支配してきた。かれらはみな一様に、内的生活は、それ自体、活動生活にまさるのだ、と断言してきた。
かれこれ五六十年前のことだが、フランスはアベロン市(Aveyron)に、女子教育専門の修道会の総長がいた。彼女は信仰の人であり、人格者であり、偉大な性格のもちぬしだった。教区の上長たちは、彼女に、配下の修道女らの世俗化(la sécularisation)を極力勧めた。
(時の革命政府の宗教圧迫の結果、フランスでは修道会は禁止された。宗教教育を主旨とする自分の学校経営をつづけていくためには、どうしても修道生活を捨て、修道服をぬがなければならぬ。――彼女はジレンマにおちいった。―訳者)
修道生活のために、学校経営という事業を犠牲にすべきか、或いは修道生活を捨てて学校経営という事業を守るべきか?どうして良いか分からず、
天主のみ旨をどうやって知るかが分からなかったので、彼女はひそかにローマに行き、時の教皇レオ十三世に、謁見をもとめ、自分の疑いを打ち明け、また、修道生活を続けて事業を続けるようにとの圧力を受けていることを話した。
(「学校事業を続けてほしいと、人びとがしきりにわたしにすすめ、わたしの同意を強要しているのでございます。学校を続けますと、わたしどもは修道生活に、お別れしなければなりません。どちらにしてよろしいのか、わたしには判断ができませんので……」―訳者)
いとも尊敬すべき老教皇は、耳をかたむけて、彼女の言葉にきき入り、しばし沈思熟考の様子だったが、やがて頭を上げて、次のような、まことに断固たるお答えをなさったのである。
「あなたの娘たちの中で、ほんとうに修道精神を持っているひとが、ほんとうに念禱生活を愛好しているひとがおありでしょう。それなら、何より先に、またどんな事業を犠牲にしても、まずこれらの修道女に、修道生活をりっぱに確保してやることです。もしあなたが、修道生活も確保できない、学校経営も確保できない、というのでしたら、天主さまはきっとフランスに、他の事業をいくつも起こしてくださるでしょう。もしそれが必要だと、おぼし召されるのなら。
あなたがたが、ほんとうにりっぱに修道生活をおやりでしたら、たとえそのためにフランス政府から、外国へ追放されるようなことがありましても、あなたがたは、あなたがたのお祈りと犠牲の功徳によって、以前にもまして、祖国フランスのためにお役に立ちましょう。せっかく天主様に一生をおささげした結果、手に入れた霊のたからなる修道生活を奪われたまま、国内にとどまって、教育事業にたずさわっているよりも、そのほうがもっともっと、フランスのためにはなるでしょう。」
« Avant toutes choses, avant toutes oeuvres, gardez la vie religieuse à celles de vos filles qui ont vraiment l'esprit de leur saint état et l'amour de la vie d'oraison. Et si vous ne pouvez conserver et cela et les oeuvres, Dieu saura susciter en France d'autres ouvrières, s'il le faut. Pour vous, par votre vie intérieure, surtout par vos prières, par vos sacrifices, vous serez plus utiles à la France, en Testant vraiment religieuses, même loin d'elle, qu'en demeurant sur le sol de votre patrie, privées des trésors de votre consécration à Dieu. »
これと同じ所信を、聖ピオ十世教皇は、ある教育専門の大修道会にあてた書簡のなかで、表明していられる。
「わたしのきいたところによれば、こういう意見が、世間に流行している、と。しかもこの意見に追従して、あなたがたは、青少年の教育事業を、第一位におき、あなたがたの修道生活を、その次においている、そして、現代の精神と必要が、それを要請している、と。
だが、わたしは、このようなまちがった意見が、あなたがたの修道会において、また、あなたがたと同じように、教育を主旨とする他の修道会において、たとえごくわずかにもせよ、修道者たちから信用をかちえることを、絶対に許さない者である。物には序列がある。順位がある。この序列、この順位を、あなたがたの生活にハッキリさせてほしい。すなわち、修道生活は、普通一般の生活よりも、はるかに優越する地位を占めるべきである。
また、あなたがたは、自分たちの教育の義務によって、隣人にたいして重大な負債がある、とおっしゃっておられる。ごもっともである。だが、あなたがたは、それよりさき、天主に宣立した修道誓願のゆえに、天主にたいしては、いっそう重大な負債があることを、了承しなければならぬ。」
Nous apprenons qu’une opinion est en train de se répandre, d’après laquelle vous devriez mettre au premier rang l’éducation des enfants, et la profession religieuse seulement au second : ainsi l'exigeraient l'esprit et les besoins du temps, Nous ne voulons absolument pas que cette opinion trouve tant soit peu de crédit auprès de vous et des autres Instituts religieux, qui, comme le vôtre, ont pour but d'édurcation. Qu’il soit donc bien établi, en ce qui vous concerne, que la vie religieuse l’emporte de beaucoup sur la vie commune et que si vous êtes gravement obligés à l’égard du prochain par le devoir d’enseigner, bien plus graves encore sont les obligations qui vous lient envers Dieu.
さて、修道生活の存在理由、その主要目的は、内的生活を身につけることである。
これ以外のなにものでもないはずだ。
天使的博士・聖トマスは、次のようにいっている。
「観想的生活は、それ自体、活動的生活よりも、いっそうすぐれている。いっそう好ましいものである。」
さらに、聖ボナヴェントゥラは、内的生活が、活動的生活にまさっていることを示すために、多くの比較形容詞を使って、次のようにいっている。
「内的生活は、活動生活にくらべて、いっそう高貴である。いっそう安全である。いっそう効果に富んでいる。いっそう甘美である。いっそう恒久的である。Vita sublimior, securior, opulentior, suavior, siabilior」
(一)Vita sublimior ――内的生活は、いっそう高貴である。
活動的生活は、人間あいての生活である。
観想的生活は、天主あいての生活である。
観想的生活は、われわれを、いっそう高尚な真理の境地に、ひき入れる。それでも、真理の観照によって、現実の生活を忘れさせない。人間生活の第一原因なる天主から、常にまなざしを離させないからである。
観想的生活は、活動的生活よりも、いっそう高尚である。高尚だからこそ、活動的生活に比べて、いっそう広範な分野をもっている。
「マルタは、からだで、タッタ一つの場所にしかいなかった。そして、ただわずかなことについてだけ思いわずらい、わずかなことのためにだけ、せわしく立ち働いていた。これに反して、マリアは、心に燃えさかっている愛によって、多くの場所におり、多くの仕事をしている。マリアは、天主を観想し、天主を愛することによって、あらゆる事物を見ている。そのために、心が広くなって、あらゆる事物に達し、あらゆる事物をとらえ、あらゆる事物をわが身に抱容する。
マリアにくらべると、マルタはごくわずかなことについてしか、思いわずらわなかった、といえるだろう」(『雅歌について』八)
これは、サン・ビクトールのリシャール師の言葉だが、まことに真理をうがっている。
(二)Vita securior ――内的生活は、いっそう安全である。
内的生活には、危険は、ほとんどないといってよい。
活動にばかり没頭している生活には、危険はつきものだ。
霊魂は、いらだつ。熱に浮かされたように、興奮する。エネルギーは消耗する。
それで、霊魂のちからは、よわっていく。
活動的生活には、三つの危険がある。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことについて、思いわずらい、心を騒がしている」(ルカ10・41)
第一の危険「思いわずらう」――これは頭のなかに起きる心配ごとである。
第二の危険「心を騒がす」――これは、心のなかに起きる感情のあらしである。
第三の危険「多くのことについて」――たくさんの用務にたずさわっているから、そこから自然、努力にも、行動にも、分裂が生じてくる。
これに反して、内的生活を心に確保するためには、いっさいの事がらを、タッタひとつのこと――すなわち天主との一致に、集中してしまう必要がある。げに、なくてはならぬものはタダ一つ!他のことはみな、第二次的の価値しかない。天主との一致を達成するための、また、天主との一致をいっそう深めていくための、手段でしかないのだ。
(三)Vita opulentior ――内的生活は、いっそう効果に富む。
内的生活は、観想的生活とともに、「よいものがすべて、同時に、わたしにくる」(知恵の書7・11)
内的生活は、人間のあらゆる生活様式のなかで、「最良の部分」(ルカ10・42)なのである。
内的生活は、活動的生活よりも、功徳が多い。なぜか。
内的生活をすれば、意志は天主にむかって、ますます高く飛翔するからである。
成聖の恩寵は、霊魂に、ますますみなぎりあふれるからである。
霊魂は、天主を“愛する”という唯一の動機から、いっさいの行動を起こすようになるからである。
(四)Vita suavior ――内的生活は、いっそう甘美である。
ほんとうに内的な霊魂は、天主のおぼし召しに、おのれをゆだねる。
天主をおよろこばせすることだけを考える。
楽しいことも、苦しいことも、同じ心をもって、忍耐づよい心をもって、甘んじ受ける。
艱難にあっても、よろこばしい顔つきをしている。
十字架をになうのを、幸福のきわみとさえ思っている。
世の中に、これほど幸福な人がいるだろうか。
(五)Vita stabilior ――内的生活は、いっそう恒久的である。
活動的生活が、どんなに激烈であっても、それはしょせん、この世かぎりのものである。
説教も、教育も、その他あらゆる事業も、死の関門にたてば、たちまちおきざりにされて、永遠の世界にまでついていくことはできない。
内的生活だけは、永遠に絶えることがない。
だれも、これを奪い去ることはできない。(ルカ10・42)
内的生活によって、この世の旅路は、永遠の光照にむかっての、内心の絶えまない向上となるのだ。内心の向上の果てる処、そこには死の関門が、ひかえてはいるだろう。だが、この死の想定さえも、内心の向上を、たぐいなくいっそう強烈に、いっそう迅速にするのみである。
内的生活の優越性についての本章を総括する、聖ベルナルドの有名な言葉がここにある。
「内的生活によって、人はいっそう純潔になる。
あやまちに落ちいることは、いっそう少なくなる。
あやまちに落ちいっても、いっそう早くたちなおる。
救霊の道を、いっそう安全にたどる。
いっそう多くの恩寵をいただく。
いっそう安らかにいこう。
いっそう安らかに死ぬ。
煉獄では、いっそう早くきよめられる。
天国では、いっそう大きなむくいをいただくのである」(聖ベルナルド『福音書注解』)
« En elle l’homme vit plus purement, tombe plus rarement, se relève plus promptement, marche plus sûrement, reçoit plus de grâces, repose plus tranquille, meurt plus rassuré, est plus vite purifié et obtient une plus grande récompense.»
[Haec (vita) sancta, pura et immaculata, in quo homo vivit purius, cadit rarius, surgit velocius, incedit cautius, irrogatur frequentius, quiescit securius, moritur fiducius, purgatur citius, praemiatur copiosius (S. BERNARD, Hom. Simile est.).