2017年11月19日(主日)聖霊降臨後第24主日のミサ
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年11月19日、聖霊降臨後第24主日です。今日のミサの書簡と福音書は、御公現の後の第6主日のところから取られています。少し内容がイレギュラーなのでご注意下さい。
今日はこのミサの後に、いつもの通り公教要理を14時から開始、そして晩課を16時から捧げたいと思っています。14時からの公教要理は、ぜひ来たる12月2日の初土曜日をよく黙想する為に、御告げの神秘を黙想する事をテーマを提案したいと思っています。
今回は御訪問の玄義を提案したいと思います。そして先週提案した御告げの玄義と、御訪問の玄義をフラ・アンジェリコが黙想の結果を絵で描いています。この絵はフィレンツェにあるのですけれども、視覚教材を準備しましたのでそれを見ながら、今度の初土の黙想の為に良い準備をする事を提案します。
明日は7時からここでミサがあります。
12月のミサですが、とても嬉しいニュースがあります。それはレネー神父様が日本で休暇を取られるからです。去年お母様が亡くなられたのでもうフランスに帰る必要はない、日本で休暇を取ることになられ、日本では御ミサがたくさん捧げられる事ができるようになりました。感謝します。
東京では12月3日・最初の主日と、第2主日はとぶのですが、第3・17日、第4・24日、クリスマスとミサがあります。どうぞミサに与るようになさって下さい。特にレネー神父様は、聖ピオ十世会の頭脳であり、アメリカの管区長をなさり、オーストラリアの管区長もなさり、本部のメンツィンゲンでは財務長をされて、非常に優秀な方がこうやって私たちの所に来られるというのは、その敬愛する神父様が来られて、ミサを捧げて下さるというのは本当に嬉しい事です。本当にめったにない機会ですので、ぜひいらして下さる事を、どうぞお友達もたくさん呼んでミサに与るようになさって下さい。するとレネー神父様は、「あぁ、東京ではこんなにもミサに与る人があるのならば、もっと東京でミサをするように管区長に言わなければならない」と仰るかもしれません。
“Simile est regnum coelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種と例えられる。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様は今日、典礼歴の最後において、あたかも私たちの良心の究明をするかのように、あるいはカトリック教会の歴史の全体を眺めて、私たちの役割は何か、という事を確認するかのように、「天の国は芥子種のようだ。」そして、「また天の国はパン種のようだ。パンを全体を膨らませるちょっとした要素のようだ」と言っています。
そこで今日私たちはこのその2つの要素について黙想して、一体どんな特徴があるのか?
そして私たちは、このイエズス様は今日、聖霊降臨後最後の主日となろうとしている今、もうすぐ新しい典礼暦の新年を迎えようとする今、一体私たちに何を求めておられるのか?
そして最後に、では私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いか、という事を黙想したいと思います。
まず「芥子種」というのは、皆さんもよくご存知のように、目に見える事ができないようなゴマよりも非常に小さい、もうホコリのような小さな種なのです。ところで、「この小さな、もうフッと飛べば無くなって見えないようなこんな種でも、それは大きな大木となって、空の鳥をも宿す事ができて、嵐が吹いてもびくともしないような巨木になる事ができる、その力を秘めている。その為にこの種がある」という事を教えています。
そして今日聖パウロの書簡では、「すでにその『福音』という、この小さな芥子種のような、目に見えないようなものが多くの人々に知られている、こんなに早く成長している」という事を喜んで、感謝しています。
「パン種」というのも同じです。パン種というのも、最初はイースト菌の本当にもうほんのちょっとしたものをパンの生地に入れると、それが全体に行っておいしいパンになって、ふかふかとしたパンになる。そのちょっとしたものが全体に効果を及ぼして、全体を変えてしまう、良くする、という事です。
そしてこの2つの要素を見ると、共通したところが、最初は弱々しい、か弱い、力の無いようなスタートだけれども、実は大きな力を秘めていて、ものすごいパワーを持っていて、大きなもの、とてつもなく大きなものを持っていて、多くの善を施す事ができるようになって、その天界の王者のようなものでさえも、そのそこに保護を求めるようにさえなる。この「最初は小さいけれども、とてつもない力を秘めている。大きなものとなる」という事です。
第2の点は、ただ弱々しいだけでなく、隠れている目に見えないほどのもので、しかも最初は土の中に入ったり、あるいはこのパンの生地の中に入って、内部に入るのだけれども、それを浸透させて全体に影響を、良い影響を及ぼすという事です。
まさに天主の御国、キリスト教もこれと同じ働きをしてきました。私たち個人も変えて、あるいは家庭も変えて、あるいは国家も、民族も、キリストの教えによって大変化をさせました。「この地の表は、本当に全く新たにならん」と言った、それが実現しました。
「例えばどんなものがありますか?」
例えば、残酷で人を人とも思わないであった古代の奴隷制度というのは、カトリック教会の力によって廃止されました。残念ながら近代になって、プロテスタントの発生と共に、この奴隷制度がまた別の形で作られつつありますけれども、しかしカトリック教会はこれを絶滅しようと力を尽くしました。
女性の大切さ、子供の大切さというのも、カトリック教会が非常に注意を払ってきたものです。子供への教育、「子供たちをイエズス様の方に行くのを決して妨げてはいけない。」「女性はとても男性と等しく救いの為に価値があるものであって、そしてマリア様を見よ。」古代の不潔や、あるいは女性を蔑視した、あるいは弱い者を蔑視した時代を教会は多く変えました。
あるいは残酷に弱い者いじめをしていた古代の異教の世界は、かえって弱い者を助け、福祉をし、養老院を作り、孤児院を作り、病院を作り、そして学校を作り、教育を施し、しかもできるだけそれを無償で、しかも全世界にそれを広げたいと思っていました。
これらを見ると、イエズス様は私たちに同じ事をこれを続けるようにと求めている事が分かります。私たちはイエズス様からこの天の御国を、最初は見えないような小さな始まりだったのが、ますます全世界に、21世紀のこの世界にもますます浸透するように、私たちに呼びかけをしています。
では、どんな呼びかけなのでしょうか?
第2のポイントは、これは私たちがパンの生地の中に入る、パン種となる、つまりこの世を良い、イエズス・キリストの御国の到来の為にこの世を良くさせる、この世を聖化させるカトリックである、という事です。私たちがもちろん、主日はミサに来る事によって。そして主日以外にも、私たちの日常の生活によって、いつもどのようなところでも、どんな場所でも、どのような時間でも、カトリック精神と信仰に生きる事によって、この世を聖化するという事です。
私たちが働く時も、私たちが休む時にも、あるいは私たちが苦しむ時にも、あるいは私たちが何か考える時にも、私たちが何か言葉を言う時にも、いつもカトリック信者として、イエズス・キリストの御旨を実行する為に話すという事です。つまりリベラルではないという事です。
リベラルな人は、「あぁ、教会の時は教会用の話。でももしもカトリックが政治家になったら、政治家としては別の話をする」のではなく、「私は教会に行けばカトリックだけれども、仕事に行く時にはビジネスマンとして、別の倫理と道徳によって生きる」のではなく、「常にカトリックとして生活する」という事です。
すると私たちの今年の生活は一体どうだったのでしょうか?私たちはいつも、イエズス様が私たちに御望みのように生活したでしょうか?特に私たちはイエズス様の御聖体を御体を頂いて、あたかもそれが私たちの中のパン種のようになっているのですから、そのイエズス様の力が私たちの中にますます染み通って、そして私たちの行動や考えや雰囲気や言葉から、このイエズス様のそのパン種の力が周りの人々に伝わなければならないのですけれども、ちゃんとそのイエズス様の力を周りの人に伝わるように、妨害を置かなかっただろうか?と。
もう1つの点は、イエズス様の御国はますます大きな木となって、大木となって広がらなければならない。確かに最初はカタコンベで隠れていた教会も、聖フランシスコ・ザヴェリオによって日本に伝えられて、インドに伝えられて、そしてイエズス会の司祭によって中国の皇帝のもとにまで行って、あるいはアメリカ大陸にまで行って、多くの方が洗礼の恵みを受けて、キリスト教の生活に従った生活を送っていった、霊魂を救っていった、その歴史があります。
天主の敵はこれを壊そうと、命を破壊しようと、キリスト教文明を破壊しようと、色々な手を下してきました。例えばフランス革命、あるいはロシアのボリシェヴィキ革命など。主の望むような世界を壊そうとします。
しかし私たちは、革命家の方ではなくて、むしろイエズス様の御国を拡張しよう、霊魂を救おう、霊魂を救う事によって主の栄光をますますいや増やそう、とする側に立たなければなりません、そこに立っています。そしてその為に私たちは特別の義務を負っています。愛徳と、憐れみと、そして許しと、イエズス・キリストの精神を私たちが他の人々に及ぼすという義務です。そしてイエズス様は神秘体の頭として、私たちを手足として使いたいと思っておられます、多くの霊魂を救う為に。
ピオ十二世教皇様によると、「天主の御摂理は非常に神秘的であって、私たちの隣人の永遠の命が滅びるか、あるいは救われるかは、私たちの活動と祈りと犠牲にかかるようにされた。私たちが熱烈にイエズス様の救いの業に協力すればするほど、多くの霊魂は救われるし、しかし怠ければ、あるいは冷淡であれば、救われない、永遠に滅びてしまう。私たちの手にかかっている」と。
もしも40年間、地上の地獄の監獄の国家であるような閉じ込められた国、刑務所の国であるような北朝鮮に拉致された日本の若い女の子が、40年間も拉致されて、もしも私の力によってそれを助ける事ができるとしたならば、どうしてその力を使わずに助けてあげようと思わない事でしょうか。もしもそうしたら、その子も、お父さんもお母さんも、どれほどその助けて下さったという事に感謝する事でしょうか。
しかしイエズス様は私たちの手に、永遠の、地獄からの救いの力を、私たちの祈りと犠牲とこの手に委ねてくれました。それはイエズス様の力が不足しているから弱いからではなくて、私たちに、「よくやった!」その栄光の冠を与えたい、その褒美を与えたい、と思ったからです。悪魔の力によって拉致されたこの霊魂たちを私たちは救った、と永遠の報奨を私たちに与えたいと思うからです。
「何千何万という霊魂の救いが、私たちの手にかかっている」という事をピオ十二世教皇様が教えています、「これは神父様とか修道女の仕事だけでなく、すべての人々の祈りと犠牲に委ねられている」と教えています。
そこで、聖フランシスコ・ザヴェリオ、幼きイエズスの聖テレジア、あるいはアシジの聖フランシスコ、あるいは聖ドミニコ、聖イグナチオなどが求めたと同じような熱烈な情熱をもって、「ぜひ私たちも霊魂の救いに協力したい、何とかイエズス様を知り、愛し、そしてイエズス様に仕えて、そして永遠の命を与えるように、何とかして手伝いたい」と私たちは思わざるを得ません。
「神父様、私はいつもそう思っていますよ。でも難しいんです。どうしたら良いでしょうか。」
そこで今日の最後の提案は、やはり私たちの救いを与えて下さったのは、私たちの救いの、この教会の天の国の最初のパン種、最初の芥子種の、最初は何だったかというと、マリア様が「我になれかし」と言った事から始まった、という事を思い出さざるを得ません。
もしもマリア様が「はい。私は苦しい事が起こるのを分かっています。はい。私には苦しみが待っています。しかし私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」この「はい」と言ったこの言葉から、このパンが膨らみ出しましたし、木が大きくなり出しました。私たちの救いの為には、贖罪主を贖い主を頂く為には、マリア様という共贖者が必要でした。悲しみの人イエズス・キリストを得る為には、悲しみの御母Mater Dolorosaが必要でした。そしてマリア様はそれを、「はい。我になれかし」と受けて下さったのでした。
3月25日は私たちにとって、非常に歴史を変えた、人類の歴史の新しいスタートとなった決定的な日でした。この時にマリア様が「はい」と仰ったからこそ、私たちの今があるからです。
そしてこのマリア様はそれと同時に、私たちに招いています、「さぁ、どうぞ私の真似をして、マリア様の汚れなき御心を慰める為にも、マリア様の汚れなき御心に合わせて、あなたたちの祈りと犠牲を捧げなさい。多くの霊魂たちが地獄に落ちている。悪魔に拉致されて、永遠に帰って来る事ができない。イエズス様の所に来る事ができない。なぜかというと、誰も彼らの為に祈り、犠牲をする人がいないからだ」と。この世が贖われる為に、共贖者が必要です。私たちもその小さな共贖者となってほしい、とファチマでマリア様は訴えています。マリア様の真似をして下さい、と訴えています。
マリア様はその「はい」と言って、天主の御母となったその瞬間何をしたかというと、「あぁ、私は母となった、救い主の母となった。だからその黙想の為にこう家でじっとしている」というのではありませんでした。マリア様はいきなり立ち上がって、聖書によると、急いで山の方に行って、エリザベトを訪問しました。別に天使は「行きなさい」と言ったのではなく、ただ「エリザベトはこうですよ。さぁ天主の言葉に不可能な事はありませんよ」という信仰を固める為に言ったと思うのですけれども、マリア様にとって信仰を固める必要はなかったようです。それよりも、「あぁ、」天使の言葉を、あたかも救霊の為の招きとして理解されていました。
ですからすぐに行って、4日の道のりを行って、そしてエリザベトの家に入って挨拶をします。マリア様がそこにいらっしゃるだけで、マリア様が「こんにちは。平和がありますように。“シャローム”」と仰っただけで、エリザベトはその声を耳に聞いただけで、「あ!」胎内にいた6ヶ月の子供、洗者聖ヨハネは踊り、聖化されて、そして聖エリザベトは聖霊に満たされて、「あぁ、主の御母が私の所に来られるとは、何という事でしょうか!」と、マリア様が一体どなたであるか、マリア様に起こった事を言うようにさえなりました。マリア様は洗者聖ヨハネの聖化の、罪を赦す事さえもされたのです。そればかりでなくザカリアも、マリア様が3ヶ月居ただけで、聖霊に満たされて歌を歌うほどにもなりました。
私たちはもうマリア様の事を話すと、これで止まらなくなってしまいますから、ここでやめます。ですから私たちは今日、良きパン種として、良き天主の国が始まる芥子種の成長をますます助けるものとして、マリア様にますます一致をする事に致しましょう。マリア様にいつもお祈りなさって下さい、祈りと犠牲を捧げて下さい。マリア様の良き子供として、日々の生活を送りましょう。
そしてもしもできるならば時々、マリア様の話を、あるいはイエズス様の話を、お友達にしてあげて下さい。でもお話しをする前に必ずマリア様に、「マリア様、この方に話をするので、ぜひ良い知恵と力を下さい。良いお話をする事ができるように助けて下さい」と仰って下さい、お祈りされてから話して下さい。マリア様が一番好きな十字架のいけにえのもとに、どうぞお友達を知り合いの方を招いて来て下さい。そしてますます主の御国が発展するように、マリア様と共に、マリア様の良き道具となりますように、お祈り致しましょう。
“Simile est regnum coelorum grano sinapis.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年11月19日、聖霊降臨後第24主日です。今日のミサの書簡と福音書は、御公現の後の第6主日のところから取られています。少し内容がイレギュラーなのでご注意下さい。
今日はこのミサの後に、いつもの通り公教要理を14時から開始、そして晩課を16時から捧げたいと思っています。14時からの公教要理は、ぜひ来たる12月2日の初土曜日をよく黙想する為に、御告げの神秘を黙想する事をテーマを提案したいと思っています。
今回は御訪問の玄義を提案したいと思います。そして先週提案した御告げの玄義と、御訪問の玄義をフラ・アンジェリコが黙想の結果を絵で描いています。この絵はフィレンツェにあるのですけれども、視覚教材を準備しましたのでそれを見ながら、今度の初土の黙想の為に良い準備をする事を提案します。
明日は7時からここでミサがあります。
12月のミサですが、とても嬉しいニュースがあります。それはレネー神父様が日本で休暇を取られるからです。去年お母様が亡くなられたのでもうフランスに帰る必要はない、日本で休暇を取ることになられ、日本では御ミサがたくさん捧げられる事ができるようになりました。感謝します。
東京では12月3日・最初の主日と、第2主日はとぶのですが、第3・17日、第4・24日、クリスマスとミサがあります。どうぞミサに与るようになさって下さい。特にレネー神父様は、聖ピオ十世会の頭脳であり、アメリカの管区長をなさり、オーストラリアの管区長もなさり、本部のメンツィンゲンでは財務長をされて、非常に優秀な方がこうやって私たちの所に来られるというのは、その敬愛する神父様が来られて、ミサを捧げて下さるというのは本当に嬉しい事です。本当にめったにない機会ですので、ぜひいらして下さる事を、どうぞお友達もたくさん呼んでミサに与るようになさって下さい。するとレネー神父様は、「あぁ、東京ではこんなにもミサに与る人があるのならば、もっと東京でミサをするように管区長に言わなければならない」と仰るかもしれません。
“Simile est regnum coelorum grano sinapis.”
「天の国は、芥子種と例えられる。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様は今日、典礼歴の最後において、あたかも私たちの良心の究明をするかのように、あるいはカトリック教会の歴史の全体を眺めて、私たちの役割は何か、という事を確認するかのように、「天の国は芥子種のようだ。」そして、「また天の国はパン種のようだ。パンを全体を膨らませるちょっとした要素のようだ」と言っています。
そこで今日私たちはこのその2つの要素について黙想して、一体どんな特徴があるのか?
そして私たちは、このイエズス様は今日、聖霊降臨後最後の主日となろうとしている今、もうすぐ新しい典礼暦の新年を迎えようとする今、一体私たちに何を求めておられるのか?
そして最後に、では私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いか、という事を黙想したいと思います。
まず「芥子種」というのは、皆さんもよくご存知のように、目に見える事ができないようなゴマよりも非常に小さい、もうホコリのような小さな種なのです。ところで、「この小さな、もうフッと飛べば無くなって見えないようなこんな種でも、それは大きな大木となって、空の鳥をも宿す事ができて、嵐が吹いてもびくともしないような巨木になる事ができる、その力を秘めている。その為にこの種がある」という事を教えています。
そして今日聖パウロの書簡では、「すでにその『福音』という、この小さな芥子種のような、目に見えないようなものが多くの人々に知られている、こんなに早く成長している」という事を喜んで、感謝しています。
「パン種」というのも同じです。パン種というのも、最初はイースト菌の本当にもうほんのちょっとしたものをパンの生地に入れると、それが全体に行っておいしいパンになって、ふかふかとしたパンになる。そのちょっとしたものが全体に効果を及ぼして、全体を変えてしまう、良くする、という事です。
そしてこの2つの要素を見ると、共通したところが、最初は弱々しい、か弱い、力の無いようなスタートだけれども、実は大きな力を秘めていて、ものすごいパワーを持っていて、大きなもの、とてつもなく大きなものを持っていて、多くの善を施す事ができるようになって、その天界の王者のようなものでさえも、そのそこに保護を求めるようにさえなる。この「最初は小さいけれども、とてつもない力を秘めている。大きなものとなる」という事です。
第2の点は、ただ弱々しいだけでなく、隠れている目に見えないほどのもので、しかも最初は土の中に入ったり、あるいはこのパンの生地の中に入って、内部に入るのだけれども、それを浸透させて全体に影響を、良い影響を及ぼすという事です。
まさに天主の御国、キリスト教もこれと同じ働きをしてきました。私たち個人も変えて、あるいは家庭も変えて、あるいは国家も、民族も、キリストの教えによって大変化をさせました。「この地の表は、本当に全く新たにならん」と言った、それが実現しました。
「例えばどんなものがありますか?」
例えば、残酷で人を人とも思わないであった古代の奴隷制度というのは、カトリック教会の力によって廃止されました。残念ながら近代になって、プロテスタントの発生と共に、この奴隷制度がまた別の形で作られつつありますけれども、しかしカトリック教会はこれを絶滅しようと力を尽くしました。
女性の大切さ、子供の大切さというのも、カトリック教会が非常に注意を払ってきたものです。子供への教育、「子供たちをイエズス様の方に行くのを決して妨げてはいけない。」「女性はとても男性と等しく救いの為に価値があるものであって、そしてマリア様を見よ。」古代の不潔や、あるいは女性を蔑視した、あるいは弱い者を蔑視した時代を教会は多く変えました。
あるいは残酷に弱い者いじめをしていた古代の異教の世界は、かえって弱い者を助け、福祉をし、養老院を作り、孤児院を作り、病院を作り、そして学校を作り、教育を施し、しかもできるだけそれを無償で、しかも全世界にそれを広げたいと思っていました。
これらを見ると、イエズス様は私たちに同じ事をこれを続けるようにと求めている事が分かります。私たちはイエズス様からこの天の御国を、最初は見えないような小さな始まりだったのが、ますます全世界に、21世紀のこの世界にもますます浸透するように、私たちに呼びかけをしています。
では、どんな呼びかけなのでしょうか?
第2のポイントは、これは私たちがパンの生地の中に入る、パン種となる、つまりこの世を良い、イエズス・キリストの御国の到来の為にこの世を良くさせる、この世を聖化させるカトリックである、という事です。私たちがもちろん、主日はミサに来る事によって。そして主日以外にも、私たちの日常の生活によって、いつもどのようなところでも、どんな場所でも、どのような時間でも、カトリック精神と信仰に生きる事によって、この世を聖化するという事です。
私たちが働く時も、私たちが休む時にも、あるいは私たちが苦しむ時にも、あるいは私たちが何か考える時にも、私たちが何か言葉を言う時にも、いつもカトリック信者として、イエズス・キリストの御旨を実行する為に話すという事です。つまりリベラルではないという事です。
リベラルな人は、「あぁ、教会の時は教会用の話。でももしもカトリックが政治家になったら、政治家としては別の話をする」のではなく、「私は教会に行けばカトリックだけれども、仕事に行く時にはビジネスマンとして、別の倫理と道徳によって生きる」のではなく、「常にカトリックとして生活する」という事です。
すると私たちの今年の生活は一体どうだったのでしょうか?私たちはいつも、イエズス様が私たちに御望みのように生活したでしょうか?特に私たちはイエズス様の御聖体を御体を頂いて、あたかもそれが私たちの中のパン種のようになっているのですから、そのイエズス様の力が私たちの中にますます染み通って、そして私たちの行動や考えや雰囲気や言葉から、このイエズス様のそのパン種の力が周りの人々に伝わなければならないのですけれども、ちゃんとそのイエズス様の力を周りの人に伝わるように、妨害を置かなかっただろうか?と。
もう1つの点は、イエズス様の御国はますます大きな木となって、大木となって広がらなければならない。確かに最初はカタコンベで隠れていた教会も、聖フランシスコ・ザヴェリオによって日本に伝えられて、インドに伝えられて、そしてイエズス会の司祭によって中国の皇帝のもとにまで行って、あるいはアメリカ大陸にまで行って、多くの方が洗礼の恵みを受けて、キリスト教の生活に従った生活を送っていった、霊魂を救っていった、その歴史があります。
天主の敵はこれを壊そうと、命を破壊しようと、キリスト教文明を破壊しようと、色々な手を下してきました。例えばフランス革命、あるいはロシアのボリシェヴィキ革命など。主の望むような世界を壊そうとします。
しかし私たちは、革命家の方ではなくて、むしろイエズス様の御国を拡張しよう、霊魂を救おう、霊魂を救う事によって主の栄光をますますいや増やそう、とする側に立たなければなりません、そこに立っています。そしてその為に私たちは特別の義務を負っています。愛徳と、憐れみと、そして許しと、イエズス・キリストの精神を私たちが他の人々に及ぼすという義務です。そしてイエズス様は神秘体の頭として、私たちを手足として使いたいと思っておられます、多くの霊魂を救う為に。
ピオ十二世教皇様によると、「天主の御摂理は非常に神秘的であって、私たちの隣人の永遠の命が滅びるか、あるいは救われるかは、私たちの活動と祈りと犠牲にかかるようにされた。私たちが熱烈にイエズス様の救いの業に協力すればするほど、多くの霊魂は救われるし、しかし怠ければ、あるいは冷淡であれば、救われない、永遠に滅びてしまう。私たちの手にかかっている」と。
もしも40年間、地上の地獄の監獄の国家であるような閉じ込められた国、刑務所の国であるような北朝鮮に拉致された日本の若い女の子が、40年間も拉致されて、もしも私の力によってそれを助ける事ができるとしたならば、どうしてその力を使わずに助けてあげようと思わない事でしょうか。もしもそうしたら、その子も、お父さんもお母さんも、どれほどその助けて下さったという事に感謝する事でしょうか。
しかしイエズス様は私たちの手に、永遠の、地獄からの救いの力を、私たちの祈りと犠牲とこの手に委ねてくれました。それはイエズス様の力が不足しているから弱いからではなくて、私たちに、「よくやった!」その栄光の冠を与えたい、その褒美を与えたい、と思ったからです。悪魔の力によって拉致されたこの霊魂たちを私たちは救った、と永遠の報奨を私たちに与えたいと思うからです。
「何千何万という霊魂の救いが、私たちの手にかかっている」という事をピオ十二世教皇様が教えています、「これは神父様とか修道女の仕事だけでなく、すべての人々の祈りと犠牲に委ねられている」と教えています。
そこで、聖フランシスコ・ザヴェリオ、幼きイエズスの聖テレジア、あるいはアシジの聖フランシスコ、あるいは聖ドミニコ、聖イグナチオなどが求めたと同じような熱烈な情熱をもって、「ぜひ私たちも霊魂の救いに協力したい、何とかイエズス様を知り、愛し、そしてイエズス様に仕えて、そして永遠の命を与えるように、何とかして手伝いたい」と私たちは思わざるを得ません。
「神父様、私はいつもそう思っていますよ。でも難しいんです。どうしたら良いでしょうか。」
そこで今日の最後の提案は、やはり私たちの救いを与えて下さったのは、私たちの救いの、この教会の天の国の最初のパン種、最初の芥子種の、最初は何だったかというと、マリア様が「我になれかし」と言った事から始まった、という事を思い出さざるを得ません。
もしもマリア様が「はい。私は苦しい事が起こるのを分かっています。はい。私には苦しみが待っています。しかし私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」この「はい」と言ったこの言葉から、このパンが膨らみ出しましたし、木が大きくなり出しました。私たちの救いの為には、贖罪主を贖い主を頂く為には、マリア様という共贖者が必要でした。悲しみの人イエズス・キリストを得る為には、悲しみの御母Mater Dolorosaが必要でした。そしてマリア様はそれを、「はい。我になれかし」と受けて下さったのでした。
3月25日は私たちにとって、非常に歴史を変えた、人類の歴史の新しいスタートとなった決定的な日でした。この時にマリア様が「はい」と仰ったからこそ、私たちの今があるからです。
そしてこのマリア様はそれと同時に、私たちに招いています、「さぁ、どうぞ私の真似をして、マリア様の汚れなき御心を慰める為にも、マリア様の汚れなき御心に合わせて、あなたたちの祈りと犠牲を捧げなさい。多くの霊魂たちが地獄に落ちている。悪魔に拉致されて、永遠に帰って来る事ができない。イエズス様の所に来る事ができない。なぜかというと、誰も彼らの為に祈り、犠牲をする人がいないからだ」と。この世が贖われる為に、共贖者が必要です。私たちもその小さな共贖者となってほしい、とファチマでマリア様は訴えています。マリア様の真似をして下さい、と訴えています。
マリア様はその「はい」と言って、天主の御母となったその瞬間何をしたかというと、「あぁ、私は母となった、救い主の母となった。だからその黙想の為にこう家でじっとしている」というのではありませんでした。マリア様はいきなり立ち上がって、聖書によると、急いで山の方に行って、エリザベトを訪問しました。別に天使は「行きなさい」と言ったのではなく、ただ「エリザベトはこうですよ。さぁ天主の言葉に不可能な事はありませんよ」という信仰を固める為に言ったと思うのですけれども、マリア様にとって信仰を固める必要はなかったようです。それよりも、「あぁ、」天使の言葉を、あたかも救霊の為の招きとして理解されていました。
ですからすぐに行って、4日の道のりを行って、そしてエリザベトの家に入って挨拶をします。マリア様がそこにいらっしゃるだけで、マリア様が「こんにちは。平和がありますように。“シャローム”」と仰っただけで、エリザベトはその声を耳に聞いただけで、「あ!」胎内にいた6ヶ月の子供、洗者聖ヨハネは踊り、聖化されて、そして聖エリザベトは聖霊に満たされて、「あぁ、主の御母が私の所に来られるとは、何という事でしょうか!」と、マリア様が一体どなたであるか、マリア様に起こった事を言うようにさえなりました。マリア様は洗者聖ヨハネの聖化の、罪を赦す事さえもされたのです。そればかりでなくザカリアも、マリア様が3ヶ月居ただけで、聖霊に満たされて歌を歌うほどにもなりました。
私たちはもうマリア様の事を話すと、これで止まらなくなってしまいますから、ここでやめます。ですから私たちは今日、良きパン種として、良き天主の国が始まる芥子種の成長をますます助けるものとして、マリア様にますます一致をする事に致しましょう。マリア様にいつもお祈りなさって下さい、祈りと犠牲を捧げて下さい。マリア様の良き子供として、日々の生活を送りましょう。
そしてもしもできるならば時々、マリア様の話を、あるいはイエズス様の話を、お友達にしてあげて下さい。でもお話しをする前に必ずマリア様に、「マリア様、この方に話をするので、ぜひ良い知恵と力を下さい。良いお話をする事ができるように助けて下さい」と仰って下さい、お祈りされてから話して下さい。マリア様が一番好きな十字架のいけにえのもとに、どうぞお友達を知り合いの方を招いて来て下さい。そしてますます主の御国が発展するように、マリア様と共に、マリア様の良き道具となりますように、お祈り致しましょう。
“Simile est regnum coelorum grano sinapis.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。